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2012年6月戦国時代61: 真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5 (348)
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真田幸隆・昌幸・幸村・信幸を語るスレ 5
- 1 :12/05/18 〜 最終レス :12/06/20
- 前スレ
真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 4
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1318053977/
- 2 :
- さて信綱について語ろうか
- 3 :
- 信濃国松代藩主真田伊豆守幸貫は、閣老に起用され、従四位下侍従、信濃守に官位を改め、松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、海防掛を兼務した
- 4 :
- 幸村は信玄と会った事があるの?
- 5 :
- 祖父の幸綱が「これが孫です」と信玄に会わせた可能性が無きにも非ずだ。
- 6 :
- スマホ向け地図で上田の魅力PR 真田歴史・ロケ地探訪など
(2012年5月17日)(提供:信濃毎日新聞)
http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_216755
- 7 :
- 「物事柔和忍辱にして、強しからず(忍耐強い)。ことば少なにして怒り腹立つ事なかりし」(「幸村君伝記」)
一度くらいはこういう幸村をドラマで見たいものだ
大河・徳川家康、真田太平記、大河・葵徳川三代等みんな猛将設定だったけど
- 8 :
- >>4
甲斐に人質に出されていた時期もあっただろうから信玄が弁丸(幸村)を
見た可能性はあったと思うよ
- 9 :
- でバックバージンを奪われたと?
- 10 :
- 真田太平記では幸村が人質として、いきなり春日山城に行ったことになっているが
『矢沢文書』では、幸村は、まず海津城へ。
↓
上杉が真田に五千の援軍(『景勝一代略記』)(援軍五千は真田太平記でも採用)
↓
幸村は海津城から春日山城へ。
- 11 :
- 第一次上田合戦で特筆すべきは沼田城の矢沢頼綱。
北条は三万8千もの大軍で沼田城を攻めたが落城せず撤退。
その2か月後、石川数正の出奔により徳川勢上田から撤退。
なお、石川数正出奔の後に
・木曾義昌 徳川から寝返り豊臣傘下へ。
・小笠原貞慶 同上
- 12 :
- 小田原征伐の北陸支隊
前田(1万8千)、上杉(1万)、真田(3千)、松平康国(4千)
※兵数は諸説あり
北条の大道寺軍との碓氷峠の合戦が幸村の初陣のようである。
「(前略)時ニ源次郎信繁、自身ニ働キ、手ヲ砕キテ高名アリ、敵ヲ追ヒ崩サル。」
真田太平記では虚空蔵山での小戦(vs上杉)が幸村の初陣となっていたが、史料なし
- 13 :
- 馬場彦四郎 (@真田太平記)のモデルとなった馬場主水
http://ameblo.jp/rekisi-shiro/entry-11005487369.html
http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page077.html
http://tikugo.com/osaka/busho/sanada/b-baba-mondo.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=1238
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/jiten/kashi.html
- 14 :
- 慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/090502.html
上方の趣、大方御使者見聞候。先づ以っておのおの御内儀方大刑少(大谷吉継)馳走申され候の条、御心安かるべく候。
- 15 :
- [【史料】][真田幸村の手紙と名言]真田幸村の手紙と名言
http://d.hatena.ne.jp/yukitoki/20090904
- 16 :
- 天正10年に勝頼まだ存命中の真田昌幸と北條氏邦(武蔵鉢形城主)の書状を探しているのだが
やはり無かった。
武田家や勝頼のことを頼む書状だったのか?
自身(昌幸)のことを頼んだ(相談した)書状だったのか?
・・・と何年か前に過去スレでも話題になっていたけど真相は闇の中か・・・
- 17 :
- 関ヶ原の戦いの少し前、犬伏で父や弟と別れた真田信幸は小山に駆けつけ、
舅・本多忠勝と同宿した。
夜になって、同じ信濃出身の保科正光が密かに訪ねて来て、信幸に耳打ちした。
「お主、なぜここに来られた?徳川は譜代が多い、外様がこの先どう扱われるか、
良くお考えあれ。かく言うわしも、真田より先に徳川についた身ながら、この戦に勝っても
遠い磐城へ移封されるらしい。
わしの今の失意、お主ならお分かりだろう?もう一度考え直されよ!」
信幸は答えた。
「私は既に決めたのです。もう言わないで下され。」
説得を断念した保科が去ると、入れ違いに忠勝がやって来た。
「今、黒い鎧の武者が出て行ったようだが、誰が来ておられたのかな?」
信幸が動揺を隠して黙っていると、忠勝が言った。
「フン、あの鎧は保科であろう。おおかた、「所領に帰れ」とでも説きに来たか。」
驚く信幸に、忠勝は続けた。
「なァに、あの帰り方では、あやつは逆にムコ殿の腹でも探りに来たのだろう。
何も心配する事はない。」
忠勝の言葉通り、戦後に信幸改め信之は父・昌幸追放後の上田領を相続できたし、
保科は本領・高遠を安堵された。
「このように、舅どのは戦の機微に練達するばかりでなく、洞察力も神の如しであった。」
後々まで信之は語ったという。
- 18 :
- 真田家は宇和島伊達家の血統になってしまった真田本家(公認子孫)の他に
自称子孫も含めると
・越前真田家 昌幸の兄で長篠で戦死した昌輝の子・信正の子孫。福井藩士。
・旗本真田家 昌幸の弟で大阪の陣で幸村を東軍へ誘った信尹の子孫。
・仙台真田家 幸村の子・大八の子孫。仙台藩士。
・真田勘解由家 2代藩主信政の嫡男信就の子・勘解由の子孫。松代藩士?。現在も松代に在住している。
があって、いずれも現在まで続いていて、仙台真田家は幸村の男系を主張しているが、一仙台藩士の家系なんてアテにならないと思う。
あと9代幸教の子・幸世が別家した真田男爵家もあるが、こちらは血統で言えば紀州系。ここも女系になってしまっている。
真田本家から他家へ養子に出たのは、いずれも4代信弘の子で、柳生家へ行った柳生俊峯と、本多家へ行った本多忠盈がいるが
俊峯は自身限り、忠盈は子の忠典で男系は絶えている。(女系が残っているかは知らない)
- 19 :
- 5代真田信安の娘が島原藩深溝松平家の松平忠恕の正室に入り、2人の子が松平忠馮で、
以後島原藩は、忠馮−忠候−忠誠−忠精と真田の女系が続くがここまで。
忠恕、忠馮は男子が何人かいるから、ひょっとしたらこちらに女系で残っているかもしれない。
真田は男系最後の6代幸弘のあと、7代幸専、8代幸貫と女系で繋ぎ、
幸貫も、松平忠馮の子を真田幸忠として養子にとるが、残念ながら亡くなってしまい、自分の孫の幸教に継がせた。
幸貫もなんとか真田の血統を残そうと努力したがダメだった。
- 20 :
- 天正8年5月23日、真田昌幸は沼田・吾妻に法度を発する。 長篠後、武田の勢力は日々に縮まりつつあったことから、これは真田昌幸の力によるもので、真田昌幸が自立の方向に歩み始めていることを物語っている。
- 21 :
- 天正9年(1581年)越後上杉氏v.s.真田氏
7月10日、真田昌幸は内応した須田新左衛門に南雲20貫文を与え、また屋敷地などを安堵。
岩櫃城代をつとめる羽尾幸光と羽尾輝幸の兄弟が、相模北條家重臣の猪俣邦憲の誘いに
応じて 真田昌幸に反旗を翻す。 矢沢頼綱や吾妻衆の活躍により事なきを得たが、真田
昌幸の沼田領掌握が不安定なものであったことをしめしている。 真田昌幸は沼田城に
矢沢頼綱を城代として入れ、岩櫃城は池田氏、鎌原氏、湯本氏の3名に預けて守りの体
制を強化した。
- 22 :
- 天正10年(1582年)
3月4日、真田昌幸は2500騎を率いて岩櫃城を立ち、戸石城へ入る。祢津氏、室賀
氏により高遠城の陥落と織田勢が今にも攻めてくるとの報せを受ける。真田家は一族と
ともに守りを固める。
3月11日、武田勝頼一族が天目山で自刃。
4月8日、真田昌幸は織田信長に馬を贈って臣従の意を表明した。
7月、北條氏直は東信濃に侵入、北信濃に侵入した上杉景勝と対陣したが、この時は真
田昌幸は蘆田氏、高坂氏、小笠原氏ら信濃国衆と談合して北條氏に属している。
9月、真田昌幸は弟加津野信尹らの勧めで、徳川家康に属す。
9月19日、徳川家康が屋代秀正に真田昌幸が徳川方に身を投じたことを報じる。10
月14日、真田昌幸は羽尾城に湯本三郎右衛門を城代に任命し、普請を命じる。10月
22日、真田昌幸は正式に相模北條家から離脱。報復の為に北條氏直が信濃佐久と上野吾妻へ兵を進める。
10月、徳川・北條の和議が成立し、真田昌幸は独立の地位を確保した。
- 23 :
- >>17-22
コピペか自作かどっちか知らんが、ネタならもっと興味が持てて
鬱陶しがられないような内容にした方がいいと思うよ
- 24 :
- 地元外の博物館に親しもう 上田市6館巡るスタンプラリー
(2012年5月22日)
http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_217114
- 25 :
- 真田幸村を討ち取った越前松平藩士・西尾仁左衛門宗次。
彼が自分の菩提寺に造立した地蔵菩薩像は「真田菩薩」と呼ばれ、幸村の鎧袖を埋めて供養したものと伝えられた。
(なお、幸村の首の方は真田一族に奪い返されることを恐れて福井城下の某所に埋葬し、その場所は西尾家一子相伝の秘密としたという。)
やがて年月を経て地蔵菩薩は摩耗し、いつのころからか首が破損し落ちるようになった。
これを元通り載せようとするとその者は必ず熱病に悩まされたという。
ちなみにこの西尾宗次は幸村所用の兜・薙刀・采配等も戦利品として持ち帰ったとされ、現在でも一部が越葵文庫に収蔵されている。
(平成23年9月6日〜10月30日福井市郷土歴史博物館で展示)
- 26 :
- 2009年、朝日新聞
記事掲載時点では准教授、現在は教授
1987年4月。慶応大学理工学部で数学を教えている教授の前島信は、新入生の名簿を見ていて、ヤバイと感じた。
「真田幸俊」という名前の学生がいたからだ。
前島は東京育ちだが、先祖は「六文銭」の旗印で有名な信州の真田家に戦国時代から仕えた名門の家柄だ。
授業の後、「君、真田家と関係があるの?」と尋ねた。「14代当主です」と言われ、思わず「すいません」と口走ってしまった。
「もうハハーッて感じで。すぐに思ったのは、まさか悪い成績を『殿』につけるわけにはいかないんで、この子、本当に出来てくれるといいな、と」
幸いなことに成績は優秀で、現在、同じ学部の電子工学科で教える准教授になっている。
その真田幸俊が旧松代藩10万石、真田家の家督を継いだのは、父が亡くなった14歳の時だった。
翌年が善光寺の、数えで7年に1度の御開帳の年。回向柱の奉納は藩政時代から松代藩が行う伝統の儀式で、裃姿で出席し、挨拶状を読み上げた。
完璧にやらなければ、との思いから、緊張で声が震えた。
後日、菩提寺の住職から言われた。「失敗しても、お殿様はいいんです。その代わり、堂々としていて下さい」
なるほど、と合点がいき、以来、気が楽になった。
幸俊は大学生の頃から、毎年、秋の「松代真田まつり」に駆けつけ、有名な幸村の兄で藩祖の信之(信幸)役の騎馬姿で練り歩く。カナダに留学中も、このために帰国したほどだ。
長男が生まれた時、地元に報告すると、大喜びだった。次男の時は「これで真田家は安泰だ」と言われた。
恋愛結婚した妻の綾子は肩の荷がおりたとホッとしたが、幸俊が頭を悩ませたのは息子たちの名前だ。
「『幸』の下の字が、もう大変。先祖の名前になく、姓名判断でいい画数の漢字となると、残り僅か。息子の代では付ける漢字が殆どないはず」
- 27 :
- コピペしている間は過疎スレになるのが判らんかな
まぁこのままコピペだけで最後まで逝くんだろw
- 28 :
- >>27 こっちは嵐専用幸村スレってことで放置でいいんじゃね?
- 29 :
- >>26
真田家家臣に前島氏は確かにいる。前島姓の家臣が複数いるので、数学科の前島さんが、どの前島氏かまでは分からない。
>息子の代では付ける漢字が殆どないはず
旧大名家はそこまで名前にこだわるものなのか
「幸○」でいい名前がないならば、「○幸」で名前を考えればいい。案外「昌幸」のようなイイ名前が見つかるかもしれない。
- 30 :
- 今後、真田視点で大坂の陣を描くドラマがあるならば、
・大谷吉継の息子・大谷吉治(名前が諸説あるが・・・)
・細川忠興の息子・細川興秋
・毛利勝永
この3人にもスポットをあててドラマを作って欲しいものだ
大坂夏の陣で大谷吉治と細川興秋は共に真田信繁(幸村)勢(兵数3千5百)の一員。
戦後、細川忠興の命で細川興秋が切腹に追いやられたなどドラマに使えるネタがある。
幸村と義兄弟の大谷吉治と幸村の会話は脚本家の腕の見せ所。
大坂夏の陣での毛利勝永隊(兵数4千)の活躍は凄まじい。
本多忠朝や小笠原秀政を討ち取る等、見事な活躍。
『真田太平記』では
草刈真田幸村「毛利殿は何故待てぬのか」と言われてしまい、損な役割を演じさせられていた。
- 31 :
- 松代藩 真田十万石祭り 平成23(2011)年10月 [松代テレビ局]
http://www.youtube.com/watch?v=BNuFXEp0uj4
- 32 :
- 大河ドラマ『武田信玄』では真田幸隆が重臣会議になぜか常に出席しているが、現実は先方衆。
勝頼期になっても真田(信綱、昌輝、昌幸ら)は先方衆のままだった。。。
- 33 :
- サマーウォーズの話は出た?
真田家をモデルにした上田の旧家を舞台にしたアニメ映画。
「大変じゃない、ごはん食べてる場合なの?」
「遺言だからな」
「でも敵は圧倒的なんでしょ、勝てるの?」
「慶長20年の大阪夏の陣では徳川15万の大軍にご先祖は討って出た」
「でも負けたんじゃ」
「こういうのは勝ちそうだから戦うとか、
負けそうだから戦わないとか、そういうんじゃないんだよ。
うちは負けそうでも戦うの、それも毎回」
「バカな家族!でも私もそのバカの一人だわ。」
- 34 :
- もう一つの削除対象スレより、こっちの方が断然盛り上がってるな
- 35 :
- >>33
サマーウォーズの話題は過去スレで出たことがなく初出
私は見ていないのだが、上田観光コンベンション協会か何かが宣伝に熱心だったことが印象的です
- 36 :
- 真田昌幸は天正7年(1580年)に従五位下・安房守に叙任
主君勝頼は信長の妨害により無位無官
安房守は勝頼が昌幸に与えたのだろうか
- 37 :
- >>35
劇中で第一次・第二次上田合戦の話やらが出て来るし、
屋敷は建物が上田城、地形が砥石城跡をモデルにしてて、
旧武田家家臣のアイデンティティー持ってたりとか、
なかなか楽しめる。
アニメ・映画としてもいい出来で面白い。
こんど上田に行ってみようと思ってる。
- 38 :
- BS-TBS
THEナンバー2
http://tv.yahoo.co.jp/program/56349492/
http://w3.bs-tbs.co.jp/no2/
- 39 :
- 信玄の両眼と言われた真田昌幸と曽根昌世
第一次上田合戦に曽根昌世は徳川軍の一員として参加
真田の勝利が確定し徳川軍が敗走したとき真田昌幸は「曽根昌世(内匠)の退却はお前たちの追撃よりも見事
(内匠が逃ふりハ、おぬしらが追よりハ増して見えし。)と褒めたという。
武田家滅亡後の曽根昌世の生涯はよく分かっていない。会津若松城の築城で名前を残したが。
- 40 :
- >>38 見たけど完全に腐女子仕様でしたなwww
- 41 :
- >>40
しかも役者の演技が下手で俳優養成所のレッスンを見ているかのようだったw
- 42 :
- 子孫ネタで未出のをひとつ
真田信之→(中略)→真田信安→娘(建部政賢正室)→建部政醇→娘・道子(小栗忠順室)
- 43 :
- 真田家激動の天正10年
・3月3日、新府城で昌幸が勝頼に岩櫃城行きを勧めた
・3月11日、天目山にて武田勝頼自刃、武田家滅亡
・翌3月12日、真田昌幸のもとに鉢形城城主北条氏邦から1通の書状(真田家からの申し出への返事)が届く。
・3月15日に昌幸は織田信忠に服従を申し出ている
- 44 :
- その辺最近のセンゴクでもやってたな
- 45 :
- 勝頼がもう少し持ちこたえていたら、北条氏邦からの返書は昌幸の黒歴史になっていたかもしれない
- 46 :
- 幸村(信繁)の側室(隆精院)は秀次事件を上手く乗り切った(逃げ切った?)
その結果、豊臣秀次の血を残すという貴重な役割を担った(豊臣秀次の娘が生んだのが三男・幸信、五女・お田の方)
大坂冬の陣のとき隆精院は娘のお田と共に大坂入城。
夏の陣で幸村(信繁)が討ち死にした二か月後に京都の町屋で左馬之佐(幸信)を生んだ
- 47 :
- >>13
信之家臣のうち馬場主水は最悪(裏切り者か?どこかの間諜か?)
馬場主水と信之の家老とで、今でいう裁判のようなものが行われた
↓
信之の無罪確定
↓
馬場主水は真田家家臣により暗殺
- 48 :
- 徳川家光「伊豆守は天下の飾りである」→信之の隠居願いは許されなかった
- 49 :
- 真田幸村ゆかりの品
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/yukimura.pdf
- 50 :
- >>46
自己解決
父・豊臣秀次の処刑の際は「既婚である」という理由で蓮座を免れた、とのこと。
- 51 :
- 難波2見たけど幸村役がアンガールズっぽくひょろい奴だったな
冬の陣の和睦後、不意打ちで家康秀忠を打ち取るチャンスあったのってマジカ?
- 52 :
- >>51
>冬の陣の和睦後、不意打ちで家康秀忠を打ち取るチャンスあったのってマジカ?
実現性の是非はともかく“古くから”色々な雑誌・小説で取り上げられています(たぶん逸話)
『真田太平記』第39回あたりにも出ていたような
- 53 :
- 真田太平記のは(和議の直後に)「家康、秀忠を生け捕りに出来れば(今後の交渉が有利に)」って感じだったかも?
実現性は極めて低いけど、話半分として面白いかなと
- 54 :
- >>51
よく聞く話だから講談が元ネタか?
『真田太平記』第38回の27分辺り
大坂城内の大野修理の陣屋を幸村が単身訪れる。
(略)
幸村「そのような和議、何故お受けになりました・・・」
(略)
大野修理「他に何か・・・」
幸村「茶臼山の家康の陣と秀忠の陣に夜討ちかけたく存ずる」
大野修理「左衛門佐殿!」
幸村「今宵が豊家の運命を決するぎりぎりの日じゃ!」
結局、幸村の案は大野修理によって却下された。
- 55 :
- 1712年に徳川家継が将軍となり、官位の昇任や名誉回復、また罪人を許す御赦免が実施された。
これにより(仙台真田家の)辰信は「真田」姓に復帰し、真田辰信と名乗ることが出来た。
- 56 :
- 1712年の「既に将軍家を憚るに及ばざる」は復姓直後のあとづけ、と推測。
- 57 :
- 慶長20年(1615年)5月6日の夜(大坂夏の陣最後の夜)
真田信繁(幸村)は真田源八郎を呼び、形見の自筆の一巻を持たせ、強いて上田へ帰らせた。
この真田源八郎は播州姫路城主池田備後守利隆に仕えて80歳まで長命し、信繁(幸村)の物語をした。
- 58 :
- 滝川一益
子・滝川一忠
孫・滝川一積
関東時代に縁を得た真田家とは非常に親しくなった様で、廃嫡された一忠は真田
家に身を寄せ、孫の一積は未亡人であった真田昌幸の娘(お菊、於菊)を娶っ
た。なお、一積は真田信繁(幸村)の娘達にも良縁を持ち込んでいる。
小説やドラマの影響でお菊は滝川一積に普通に嫁いだと、ついつい勘違いしてし
まうのだが、正確には、お菊は「宇多頼次室のち滝川一積室」なんだな。
- 59 :
- 滝川一益は神流川の戦いで北条に敗北した際、関東諸将から預かっていた人質を無条件で解放して
関東を退去。このことから、諸将は滝川との別れを惜しんだという。
諸将からの滝川一益の人気ぶりは、敗走する滝川を、上田の真田氏が木曽まで警固したという逸話からなんとなく読み取れる。
このことが孫の滝川一積の代にまで影響したのであろう。
- 60 :
- 戦線を維持出来なくなった滝川一益は敗残の兵を率いて領国伊勢へ帰国の途についた
帰国途上の滝川軍は手負いであり士気も低かった
今後、空白地となり混乱するであろう信濃勢にとっては北条や上杉への格好の手土産となり得る羊の群となり果てていた
しかし…
真田以下大半の信濃勢は何もしなかった、真田は護衛すら請け負った
真田には真田の考えはあっただろう、しかし一益はただただ感激に涙したという
- 61 :
- 慶長二十年(1615)三月十日付け、真田信繁から真田信之家臣・小山田茂誠・之知宛の書状
http://jhnet.maxs.ne.jp/petit/cb/note/syojyou_nobusige.html
徳川方の圧倒的有利にもかかわらず戦いに挑む不安と、死を覚悟している様子があらわれている書状
−小山田茂誠宛書状−
慶長?年2月8日
真田信繁(幸村)書状
http://sanadasandai.gozaru.jp/shojou/shojou-05.htm
- 62 :
- まあ、なんにせよ
仙台や松代とかの真田さんが直系じゃないにしても、血は絶えずに傍系とかで日本のどっかにいるよね。
まあ俺かもしれんが
- 63 :
- >>62
松代真田氏は血の繋がりこそないものの由緒正しい伊達の男系
仙台真田氏は途中で養子、女系が入って
誰の男系かも誰の女系かも分からない状態
他の色々な家に真田の女系が相当いるので真田昌幸の血筋は真田以外の名前の人たちに相当いるらしい
- 64 :
- 安房守(安房)、伊豆守(伊豆、豆州)、左衛門佐、薩摩守、主計頭、清州侍従、弾正少弼、但馬、
長門守、治部少輔(治部)、刑部少輔(刑部)、大和守、三河守、武蔵守、美濃守、佐渡守、右府、
修理、木工頭、左京大夫、越前守、左近将監etc.
NHK真田太平記では官職名がふんだんに使われていたのがいいよね
- 65 :
- 真田十万石の城下町・信州長野市松代
http://www.shinshu-tabi.com/matusiro.html
http://www.webkohbo.com/info3/shinsyu/matsushiro.html
重臣矢沢氏の家の門が立派
信之亡き後の沼田藩、松代藩
沼田改易と松代近代化
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/sanada14.html
- 66 :
-
仙台真田家 系図
片倉守信⇒真田辰信(真田姓に復姓)⇒信成⇒信経⇒養子・信親(田村顕道三男)⇒また養子・信珍(大條頼始三男)⇒(以下略
- 67 :
- 大條氏が入ってるって事はサンドウィッチマンと親戚って事ですな
- 68 :
- 岩櫃城に勝頼を迎えた後の昌幸
1・勝頼とともに徹底抗戦
10万の織田軍を相手にしても昌幸なら数日は粘れるかもしれない
けど真田軍は元々総動員してもせいぜい数千
織田に走る配下も多数出るだろうから、2〜3千ほど集まればいい方なのでは?
野戦で勝負するわけには行かないので、もちろん籠城
となると時間切れで織田軍が撤退することを望むしかない 、
2・勝頼の首を餌に信長に降伏
表裏比興の者と呼ばれたほどの昌幸なら、こっちの方が現実的
むしろ既に裏では信長か誰かと密約を交わしていたかもしれない
3・勝頼をどこかに逃がして降伏
上杉は御館の乱や織田軍の北陸攻勢の前に弱体化しているので、
勝頼を匿える余裕はなさそう
北条は織田の同盟軍なので匿うはずがないし、勝頼もそんなところに逃げないだろう
つーか織田と敵対してでも勝頼の身柄を確保したい大名など、当時日本にいるのか?
- 69 :
- 真田幸隆
本家海野氏ともども滅亡
上野にて浪人中に武田氏からの招請を受けて信濃返り咲き
村上氏討伐の功にて父祖の地+加増
絶家となっていた本家海野氏は武田からの養子によって再興
- 70 :
- 昭和時代になって「真田勘解由家文書」が分析された結果、小野お通のこれまでの伝承は誤りが多いことが判明しました。
- 71 :
- 小野お通については、真田淑子さんが書かれた『小野お通』という本が非常に詳しくて、正確な記述。小野お通はこれまであまり正体が分からない女性だったが、お通は「おづう」と濁る。
お通の『四季女文章』にも、題簽の下の方に「小野のおづう」とあり,
奥書にも「づう」と書いてある。そのほか小野お通の直筆本などにも明らかに「づう」と書いたものがある。
- 72 :
- 昔のNHK大河ドラマの武田信玄で真田幸隆ファンになった。
あそこから歴史が面白くなったと思う。
今見てもあのドラマは面白い。橋爪さんが演じる幸隆と馬場、鬼美濃のやり取りが絶妙。
まあ、あくまでドラマだけど、面白かったなあ。演技も皆うまかったし。
今の大河ドラマは見る気もしない。
スレチごめんね。
- 73 :
- 大河ドラマ『武田信玄』の幸隆は最高だった。コントか漫才のような調略で村上氏を攻略。
幸隆にピッタリ寄り添う大男の家臣矢島六郎太には実在のモデルがいたらしい。
- 74 :
- 石田三成書状 真田昌幸宛
石田三成書状 真田信之宛
http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info114/s5.html
- 75 :
- 加増移封は栄転ではなかった
>失意の心情を書き送った手紙
ttp://www.geocities.jp/kgjhaat/page/page_113.html
信之が松代に移った当時の松代がたまたま信之の手で記されている。それは転封
の当時の失意の心情を書き送った手紙で、京都の小野お通に宛てたものである。
小野お通は京でも最高の教養人の一人でとくに女筆家として有名であった。信之
は武将にして,文に造詣が深く、上洛の折には小野お通を心の友としていたらしい。
お通の娘お伏(二代目お通)と、信之の二男信政は結婚して信就をもうけてい
る。信就は信之とお通の孫になる。 信政は信之の引退後二代目藩主 を継ぐが半
年後父より早く死ぬことになる。初代信之が死んだのはさらにその半年後である。
- 76 :
- 昭和期に『真田勘解由家文書』が分析された結果、小野お通の
実在が確認され、従来喧伝されていた説に誤りが多かった点が
判明した。美濃北方の小野氏の出身で、森蘭丸長定の同僚で本
能寺の変で討死した塩川伯耆守に嫁いでいたというのが実際の
前半生のようである。その後、渡瀬羽林家に再婚。この間一女
を産んでいる。のちの小野宗鑑尼である。上田藩主であった真
田信之と親交を結ぶが、一説には豊臣秀吉や真田信之の側室と
据える説もある。元和8年(1622年)松代転封を命じられた
真田信之がお通に送った書状が残る。晩年は真田信政の側室と
なった長女を頼り、松代へ住んで寛永8年10月にこの地で没
したという。享年64歳。お通が永禄2年(1559年)に出生
し、元和2年(1616年)3月5日に没したとする説もある。
- 77 :
- 大坂の陣、大坂入城家臣
高梨内記(?〜?) 、横谷重氏(?〜1615)、飯島市之丞(?〜1615)
真田勘解由 (?〜?)、真田権太夫 (?〜?)、大塚清兵衛 (?〜?)、
高梨主膳 (?〜?)、海野小平太 (?〜?)、望月善太夫 (?〜?)、
称津小六 (?〜?)、柏田玄仲 (?〜?)、山岡軍平 (?〜?)、
角輪佐吉 (?〜?)、利光久兵衛 (?〜?)、沼田清次郎 (?〜?)
森川隼人 (?〜?)、滝川平太夫 (?〜?)、丹生弥二郎 (?〜?)
星田勘平 (?〜?)、馬淵六郎太夫 (?〜?) 、横谷庄八郎 (?〜?)
真田与左衛門 (1580〜1615)、真田源八郎 (1585〜1640)
- 78 :
- >>72
今川義元、今川氏真、北条氏康、北条氏政が頻繁に登場する貴重なドラマ。真田幸隆は山本勘助と共にスター扱いだった。
武田四名臣のうち内藤昌豊がなぜか登場せず。勝頼が登場するためか、小山田信茂、穴山信君は未登場だった
- 79 :
- 風林火山の時も幸隆スター扱いだったような
- 80 :
- 街に活気を 上田
2012年05月29日
http://mytown.asahi.com/nagano/news.php?k_id=21000001205290001
- 81 :
- 真田左馬助信勝
弥十郎、左馬介、左馬之助ともいう。真田昌幸の三男として生れる。妻は牧野康成の娘。関ヶ原敗戦後、真田昌
幸、信繁(幸村)父子に伴い紀州へ従った。兄二人とは母も異なり、年齢も相当離れている。幕臣となっている
点からみて、九度山から戻ってからは長兄真田信之の引き立てがあったものと思われる。後に旗本となり、慶長
10年2月、将軍徳川秀忠上洛のとき大御番組として供奉した。慶長14年9月、江戸において戸田半之丞氏勝
(戸田興勝)と喧嘩して殺された。また一説には徳川秀忠に従って大番組として京都滞在中6月19日に戸田氏勝
と論争し斬殺されたともいう。
- 82 :
- 元和元年(1615年)大阪の陣では、真田河内守信吉は父真田信之の名代として真田藩士を率いて参陣した。和
睦成立後のある夜、叔父真田信繁(幸村)は真田信吉の陣を訪れた。23歳の若年であったが真田信吉は真田家
の総領、信繁は長らしく浪人していたことだから、どんな容儀だろうかと家臣たちが見守っていると、いかにも
真田信吉の叔父という貫禄で座上になおり「御辺4歳の時、対面してのち、今夜初めての対面であるが、思いの
外の成人、器量・骨柄、人に優れて立派なものだ。伊豆守どのが年寄られても心配なかろう」と言ったという。
信吉は「城から離れた出丸を御構えになり、御苦労なさったのでしょう。御扱いにならなかったら危ないところ
でした。」と言うと、信繁は、「おっしゃるとおり、天下の大軍で攻められれば、どうして敵おう。しかし、そ
う簡単にはやられません。」と答えたという。やがて盃が出ると、老臣の矢沢但馬守、木村土佐守、半田筑後
守、大熊伯耆守の4人を呼び出し、「久しぶりだなあ」と懐かしがり、一緒に酒を飲んで城中へ帰ったという。
- 83 :
- 真田は幸隆(幸綱)・信綱・昌幸と武田家の為に働いても他国衆・先方衆扱い
滝川一益与力の外様・新参ではよほどのことがない限り領土拡大は望めない
武田家滅亡・・・と本能寺の変は真田家にとって開運
- 84 :
-
上杉謙信と最前線で互角に戦いぬいたのは真田幸隆だけである
真田幸隆こそ戦国史上最強の鬼謀
- 85 :
- 長尾景虎(上杉謙信)をして「我、弓を取らば真田(幸隆)に劣らぬが、知謀は7日後れあり。真田(幸隆)いる限り信濃をとること安からぬ」といわしめた。
- 86 :
- 真田幸隆がスーパーチートである3つの理由。
・織田信長でさえ負けた上杉謙信と川中島の最前線で互角以上に勝負する。
・武田信玄が勝てなかった村上義清を1日で葬り去る。
・落とせなかった城が1つもない。
- 87 :
- 1543年頃、 真田幸隆は武田晴信に仕え佐久郡岩尾城代となり、信州先方衆として活躍を始める。
全てはここから始まった
- 88 :
- 浮浪者だった幸隆の鬼謀を一瞬で見抜いて採用した武田信玄も天才
- 89 :
- 上の方で幸村の側室「隆精院」について書いてあったけど
秀次事件の時点で既婚だったという事だが、関白の娘が何故
幸村の側室になっんだろう?
幸村は全然無名だよねこの頃。事件の後に側室になったという
のなら理解出来なくはないが。
それとも秀次事件の時の隆精院の相手は別の人なのか?
- 90 :
- 妄想してみる
隆精院は秀次事件のとき誰かと婚姻状態
↓
秀次事件
↓
既婚であるという理由で隆精院は連座を免れた
↓
死別か?離別か?
↓
真田信繁(幸村)側室
もしも、このストーリーなら、幸村の側室になったことが、ギリギリ説明可能。
大坂城での人質生活が長かった幸村は大坂城内では、そこそこ知名度あっただろうし。
以上、全部妄想で書いてみた
- 91 :
- 隆清院の父は豊臣秀次で、母は秀次の正室である一ノ台です。
豊臣秀次は1595(文禄4)年、秀吉によって自害させられました。
豊臣内部での家督争いを防ぐために、8月2日に秀吉は秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首しました。
この処刑から逃れることができたのは、隆清院と、同じく一ノ台が母である隆清院の姉の2人だけだったと言われています。
隆清院には秀吉からの追っ手があったはずですが、この危機を潜り抜けて育ったものと考えられます。
真田信繁(幸村)の側室になり、大坂の役が始まる前に信繁(幸村)と共に大坂城に入城しました。
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanada-db/index.html
- 92 :
- 隆清院が既婚だったのか?それとも初婚の状態で幸村(信繁)の側室になったのか?よく分からない。
>"後に"真田信繁の側室になる隆清院
>咎人の娘を正室にすることはありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
正室は大谷吉継の娘・竹林院で1594年に嫁いでいます。
1595年に豊臣秀次は謀反の罪で切腹させられています。
その際に遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女39名が処刑されています。
難を逃れたのが何名かいますが後に真田信繁の側室になる隆清院もその一人です。
このように主君の一族ですが咎人の娘ですから妻にするのも容易ではなく咎人の娘を正室にすることはありません。
- 93 :
- >>90
リアルな妄想だわ。
まあ時が時なら関白の娘としてどこぞの大名の正室に納まっただろうに。
咎人の娘となると流人の側室位にしかなれないのか。
- 94 :
- >>79
>風林火山の時も幸隆スター扱いだったような
「風林火山」は最初の数回を見て脱落してしまったのだが、幸隆(幸綱)が「武田信玄」同様スター扱いなら今度見てみる
(古い映画「風林火山」は子供の頃テレビで見ました。勘助の由布姫への恋心?が未だに印象的)
大河ドラマ「風林火山」のwikiを見てみると「武田本隊と共に上杉勢を挟撃すべく妻女山を下りて来た際、幸隆の隊であることを示す六連銭の旗を見た勘助は、自軍の勝利を確信した。」
・・・と幸隆の扱いがかなり期待できそうな感じ。
ちなみに私が好きな大河ドラマは
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164129195/496
- 95 :
- 真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。
真田男爵家 9代幸教の子・幸世が本家から別家した系統。8代幸貫の系統であり徳川家康・吉宗の男系だったが、現在は女系。
真田解勘由家 2代信政の長男・信就の系統。旗本から後に松代藩士となり明治維新まで存続。
http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/234501/
仙台真田家 信之の弟・信繁(幸村)の二男・片倉守信(真田大八)の系統。仙台藩士として明治維新まで存続。
越前真田家 信之の叔父・昌輝の系統。福井藩士として明治維新まで存続。
旗本真田家 信之の叔父・信尹の系統。旗本として明治維新まで継続。
- 96 :
- 幸村は豊臣の姓を与えられたそうだが、そういうのは珍しくないの?
人質でもよくあること?
- 97 :
- 信繁(幸村)は実質出仕みたいな形だし
また、秀吉は豊臣姓や羽柴姓を乱発してたので
さほど驚くことではないかと
- 98 :
- 豊臣姓下賜一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F#.E8.B1.8A.E8.87.A3.E5.A7.93.E4.B8.8B.E8.B3.9C.E4.B8.80.E8.A6.A7.E8.A1.A8
- 99 :
- 直臣だろうが大名だろうが陪臣だろうが節操無さ過ぎ!
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