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2013年02月日本史122: 江戸時代庶民に苗字〜それは明治8年2月13日遡る (842)
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江戸時代庶民に苗字〜それは明治8年2月13日遡る
- 1 :2012/06/20 〜 最終レス :2013/01/26
- 江戸時代に百姓、町人に名字がなかったというのは間違いです。
名字は存在していましたが、江戸幕府の政策で庄屋、名主や旧家、大商人など許された人しか名字を公に名乗れなかっただけです。
いわゆる名字・帯刀を許されたという表現です。多くは名字のみ許されたケースが殆どで、名字・帯刀を許される場合は稀でありました。許されても一代限りということもありました。
また藩内では名乗れても、藩の外では公に名乗れないなどの制約もありました。
お金や養子縁組によって武士の身分や郷士、下士の株を買って、名字・帯刀を手中にした場合も多々あります。
お寺の寄進帳(寄付者の名簿)や過去帳(檀家が代々記してある)には名字を名乗っている場合も多く、ここを調べることは大変重要なことです。
http://roots-origin.jugem.jp/?eid=9
- 2 :
- さて前置きはこのあたりにしまして、日本国中の誰もが名字を名乗るようになったのは、明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」からです。
(明治3年の平民苗字許可令がありますが、課税されることを恐れて届け出は少なかった)
ここで名字を公に名乗ったり、つけたりしました。
必ず、名字にはそれ相当の理由があって名字をつけます。
ルーツを知る上で、大変重要なポイントです。
江戸時代に武家で名字を公に名乗っていたは場合以外で、「平民苗字必称義務令」で明治8年に名字を届け出た場合の解説です。
- 3 :
- @江戸時代以前に武士であったが帰農した。江戸時代以前の名字を名乗る
A江戸時代から公ではないものの名字を名乗っていた
B江戸時代以前の先祖が名乗っていた名字を復活させた
C江戸時代から名字を名乗ることを許されていた
D庄屋、名主、お寺の住職などの方につけてもらった
E地域や集落で連帯感を表すためにみんなで名乗った
F自分で考えて名字をつけた
この7つのケースにほぼ集約されます。
まずどのケースかご先祖を調べてください。
- 4 :
- >>1
江戸時代は学校も義務教育もなく漢字の読み書きができない民衆に苗字はないよ
漢字を知らない民衆がどう名乗るんですか?
名乗れなかったではなく根本的に漢語文字を知りません
- 5 :
- >>4
読み書きできなくても苗字は名乗れる
読み書きできない民衆が権左衛門とか又吉とか
どうやって名前を名乗れたと思うの?
- 6 :
- 漢字を知らなくても会話はできる
- 7 :
- 会話=読み書き必要無し
苗字=漢字は必須
漢字を習得してない平民は当然苗字無し
- 8 :
- いまは戦後日本人
(戦後になって帰化、または帰化せず日本的な俗名を名乗る)
がけっこう多いから
明治、江戸までさかのぼれる
名字の人は真性日本人として貴重。
- 9 :
- 真の日本人は、元を遡れば源氏か平氏に行き着くんですよね?
- 10 :
- 具体的な話はどう
例えば、我が家の名前「山本」
お隣の家名「藤田」さん
いつごろからある氏名かしらね。明治8年以降?
- 11 :
- 長野県松本平の南安曇郡の33ヵ村の講中2345人のうちわずか16人を除いて「苗字」を
持っている。
- 12 :
- >9
結局は
東京大手町に住んでいる人の所につながっています。
- 13 :
- 明治になって急激に苗字が出てきたのも
言い伝えで名前が伝わっていたからと言える。
忘れ去られた場合も多かったが
思った以上に苗字は存在していた
- 14 :
- 日教祖は嘘を教えるな
武士以外は苗字はない
- 15 :
- 伊能忠敬とか商人だけど苗字あるな。
- 16 :
- 江戸時代に百姓一揆を主導した涌井藤四郎なんていうのも
庶民(町人)なのに苗字があるよ
同じく幕末の百姓一揆主導者、夏目原村は百姓だ
こちらも苗字持ち
- 17 :
- 佐原の名主であった伊能忠敬は領内においては代々「伊能」姓を許されていたが
領外でこれを名乗ることが出来ず、57歳の時に蝦夷地測量の功績によって江戸幕府から
改めて苗字帯刀の許可を得て佐原以外でも「伊能」姓を名乗ることが許されている。
また苗字と帯刀の特権は必ずしも一体ではなく、苗字は認められても帯刀は認められない例や
苗字は子孫への伝承を許すが帯刀は授与された当人一代に限った例もある。
江戸時代も身分制度は、とにかく細かい
- 18 :
- そんな僅かな著名人はどうでもいい
全ての庶民に苗字があったことにはならない
- 19 :
- >>18
江戸時代は寺請制度によってすべての庶民はいずれかの寺に登録され
寺が墓の管理を行った
苗字がなければ寺はどうやって先祖代々の墓を管理したのか?
誰がどこの墓に入ればいいのかわからなくなってしまう
- 20 :
- 寺は戒名
苗字不要
- 21 :
- >>14
>日教祖は嘘を教えるな
>武士以外は苗字はない
貴重なサンプルだw
日本人の多くが苗字を持ってた事実すら知らないド低脳が日教組叩きしてたのか
それ以前にお前日本人じゃないだろ?
こういうところで墓穴を掘って、化けの皮が剥がれてくんだよね
- 22 :
- >>18
>そんな僅かな著名人はどうでもいい
>全ての庶民に苗字があったことにはならない
いやあ、日教組批判してる奴が外国人だという証拠が見つかるとは思わなかったよw
日本人であれば、武家以外の大多数の庶民が苗字を持ってた事なんて、こういう板に来る人なら普通に知ってる
山間部行ってみ
落ち武者の家系で、鎧兜に本物の刀まで残ってる家とか普通にあるからw
江戸時代は当然農家だったが、ちゃんと先祖伝来の苗字とかも伝わってる
庶民が苗字を持ってた事を知らない=あんたに日本人の知り合いが殆どいない証拠になるんだよ
- 23 :
- 普通、逆だよなw
「学校では殆どが農民で苗字なんてなかったと習ったぞ!ネトウヨは捏造すんな!」
って騒ぐところだろうにw
- 24 :
- >>33
鎌倉時代まで、武家は相続を長子単独でなく、分割相続にしてたんだよな
しかも上級武士は除けば、武士は普段は百姓仕事をしていて、農民と見分けがつかなかった
貰う土地が少ない末の末の家系なんて、ほとんど農家と変わりゃしなかったんじゃないかな
この分割相続によって田舎の土地を貰った武家が土地の村名を名乗ったりして、苗字も増えて行った
江戸時代の農家の中には、そうした武家をご先祖さんに持つ家系が普通にあったし
もちろんその種の家系からの分家だって腐るほどいた
農家にはこの他、戦国期に武家や地侍(郷士)だった家系というのもかなりある
戦国期の兵農分離というのも、農民と武家が分離してたら必要ないものだしね
日本史板に来てて、それでこういう話を知らないっていうのはかなり変だわ
- 25 :
- 「田中」は漢字が書けない農民でも書ける定番苗字
これ本当だよ
- 26 :
- >>20
字が読めないのに寺は戒名つけたんだなw
で、当の農民たちは自分の親の戒名が分からないとかw
- 27 :
- たしかに学校では
江戸時代は八っつあん、熊さんとしか名前がなくて
明治時代に名字を創ったと教育してたな。
- 28 :
- 我が地域の大半は、伊や井の字は使わず
代わりに居を使う 井伊の殿様にはばかってのことであろう
- 29 :
- >>27
それが事実に反するわけだよね
既出と思うけど、「公称」が禁じられていただけだし
土地の神社への奉納とかだと、普通に苗字が記されてる
確かに苗字のない人達もいたとは言われているけど
本当にごく少数派だったという話も聞いた事がある
祖父母が戦前の生まれなら、試しに苗字の由来について聞いてみ
大抵の家では江戸時代には○○と名乗っていたって話が残ってるから
- 30 :
- ひとつの町に同じ名字ばかり!?
http://www.tvkanazawa.co.jp/article/program/apg_detail.php?apg_id=273
- 31 :
- まあ苗字のない人間って犬以下のようなもんだから
屈辱的だわな
公称ではないけども勝手に名乗ってたのがほとんど
- 32 :
- おれの母方の先祖が残した文書によれば、維新前でも、多くの農民は名字を持ってたらしいな。
土着の豪族が戦国時代まで支配していた土地で、最末期に豊臣秀吉側に滅ぼされ、
その家臣群はほとんどが帰農した。
新しい領主から見ると、農民たちが勝手に旧支配者統治時代の苗字を名乗ってるに過ぎない
状態だったろうが、明治になると多くは戦国時代まで名乗ってた苗字に復帰したらしい。
- 33 :
- 江戸時代になると「苗字」を名乗るのは武士階級と特別に貢献した
医者・学者・商人など一部の人間に限られるようになりました。
そして、もし僭称したら罰金や刑罰が科されたようです。
そのため、明治三年に「平民苗字許可令」が公布され国民全部に苗字
を名乗ることが許されたものの、平民は罰金や刑罰が科されるのではないか
と疑い、なかなか申告する者が現れなかったようです。
その為、明治八年に「平民名字必称義務令」を布告して苗字の創設を強制
しました。
しかし、平民はどう名乗ったら良いか分からなかったので、
多くの人は神主や僧侶に命名を依頼したようです。
これによって、ある程度「氏家制」に基づいた命名がなされた
(神社やお寺には先祖を示す資料があったから)ようです。
- 34 :
- 苗字には当たらないよ、屋号だよ〜ということにして
実際には江戸時代の庶民も苗字相当のものを名乗っていたよ。
寺請制度によって寺は壇家を把握し、通行手形を発行しなければならなかった、
だから江戸時代の寺には過去帳が残っているが苗字相当のものが書かれてある。
奈良時代、班田収授のために造られた戸籍でも「○○部」など家族ごとに共通の
苗字相当のものが名前の前につけられていた。
これらは厳密に言えば朝廷から与えられる「姓」でなければ江戸幕府が公式に認めた「苗字」でもないが
苗字相当のものであったとしかいいようがない。
- 35 :
- >>30 結論として民衆に苗字なんかないじゃん
- 36 :
- >>30
そんな特異な例を持ち出されてもw
- 37 :
- 例えば、石川五右衛門というのは、その存在(16世紀)は確実らしいが、
盗賊でありながら苗字が残ってる。
公的機関が苗字を与えたとは、到底考えられないが、
ちゃんと苗字が歴史に残ってる。
- 38 :
- 多くの人は明治になって作られた江戸暗黒史観にとらわれすぎてるな。
士農工商を身分制度と結びつけるのもその一つ。
江戸時代の実際の身分制度は遥かに複雑で、単純に士農工商では片付かない。
オレの前住んでた町は、江戸時代、将軍家の御鷹場だったが、野廻り役という役回りがあり、
これは鷹匠や将軍の現地案内役で、将軍にも口をきく必要があるため立派な士分で当然名字帯刀。
面白いのは、この野廻り役に任命されたのは地元の旧家の分家筋の家。
本家は百姓身分だが、分家の侍が本家を訪ねたら下座に座ることになる。
この席次は、本家に将軍や鷹匠が休憩に現れた時も変わらず、本家の方が上である。
ちなみに苗字は当然同じで、分家の侍は公称できて、本家は公称できない状態だが、
- 39 :
- >>34
水戸藩では、墓には名字を刻んで良かった。「誰の家の墓か解らないと困る」という領民からの陳情に、徳川斉昭が正式に許可を出してる。
- 40 :
- >>37
>公的機関が苗字を与えたとは、到底考えられないが
苗字って、公的機関が与えるものってわけでもないんだけどな
古代豪族の場合、自分達の氏をきちんと持っていたからね
源平のように、臣籍降下の際に賜るものもあるし
古代には氏姓制度に基づいて与えられた氏が沢山あったとも言うけど
現在の苗字というのは、源平と藤原氏の子孫は
全国津々浦々に領地を得たり、官職等を得て散っていき
その際に地名や職名を新たな苗字として名乗る事で成立してる
本姓なんて言葉があって、例えば家康をフルネームにすると
徳川朝臣源家康(徳川が苗字、朝臣が姓、源が氏(本姓))とかなっちゃう
従って苗字そのものは公的機関から与えられたものってわけではない
勝手に土地の名前とかを名乗ってるだけだから
もう一つの系統が、庶民が名乗ったとされる仮名(けみょう、字(あざな)呼名(よびな)ともいう)で
「住んでいる村の名前+何番目の子供かを示す言葉」とか「縁起のいい漢字+何番目の子供かを示す言葉」とか
まあそんな感じで、平安時代には、庶民が普通に苗字を名乗ってたりしたらしい
なお五右衛門については豪族や武士だった説があるので、ただの泥棒じゃないよ
- 41 :
- >>36
田舎だとどこもこんな感じじゃね?
うちも地域ごとに名字固まってるし、名字だけでどこらに住んでる人なのか大体分かる
それが方角なのは珍しいけど
- 42 :
- >>41
>うちも地域ごとに名字固まってるし、名字だけでどこらに住んでる人なのか大体分かる
その種の現象は、地域に入って土地を開拓した人の子孫が増加した為に起きた現象であって
苗字がなくて何かからつけたという事を必ずしも意味しないわけだけど
- 43 :
- じゃあ、小林一茶なんかどうかな?
彼は農民なのに、小林という姓を持ってる
でもこの謎解きって本当はさほど難しいものじゃない
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/kobayasi.html
>信濃の小林氏は伊那郡と諏訪郡から発祥した二つの流れがあり、いずれも諏訪神家にゆかりがある。
>諏訪郡の小林氏は諏訪氏と同族であり、伊那郡の小林氏は知久氏の分かれである。
>知久氏は清和源氏満快流だが、諏訪氏と姻戚関係があり諏訪氏とは同族とみなされる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/top_10.htm
>小林姓は、信濃国伊那郡小林邑発祥、諏訪神家族、清和源氏満快流知久氏族、上野国緑野郡小林邑発祥の清和源氏為義流などが主流、
>他に村上源氏、桓武平氏、藤原氏、橘姓、菅原姓、大神姓、壬生姓、小子部姓など。
>長野県の小林氏は、清和源氏満快流知久興阿の子行阿を祖とするが、源平盛衰記に見える小林神五宗行などの諏訪神家族小林氏と
>上野発祥の清和源氏系小林氏が交錯して後世清和源氏、藤原姓を称した一族も多いものと見られる。
長野県の名字ランキング 1位から100位まで
http://namaeranking.com/?search=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&tdfk=%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C&namae=%E5%90%8D%E5%AD%97
>1 小林 16,350 2 田中 6,200 3 中村 6,149
実は長野って小林姓が多い事で有名なんだよね
まあ複数の一族が小林氏を名乗った事が原因なんだろうと考えられるけど
一茶が小林氏なのも、これらのどれかにご先祖様のルーツがあって
家系図をつけてなかった為に出自が明確じゃなくなってるとか、そんなんじゃないかなと
はっきりしてる事は、庶民は家系図をつけないし、過去帳の扱いも意外とぞんざいなので
出自が武家にあっても、それがわからない家系が山のようにあるって事だよ
- 44 :
- うちの近所の墓だけど
江戸期の物にも結構苗字あった
- 45 :
- 本とドあほばっかやのーーw偏差値いくつだよおたくらw
仕方がない教えてやろう。
苗字の一考察という論文を俺が書く場合、こうなる。
苗字という概念を持って名乗っていたのか?ということだ。
庄屋クラスならもともと苗字は持っていたのは言わずもがな。
下級武士クラスのほうが江戸初期は苗字ないものが多かったと推測できる。
それはおいておいて、末端の農民も苗字に属する使い分けとしての苗字を持っていたと推測できる。
おそらく中世は固有の苗字という概念自体が上流階級にしか存在しないはず。
江戸に入り、名前だけでは税徴収の観点から不合理が目立つ。
よって、田んぼが上のほうにある上田の三郎とか、北に田んぼがある北田の次郎といった使い方。
それらは苗字として意識したものだったのかは不明。しかし、苗字とは賜姓以外はこんなのが原型。
ステータスという意識は生活苦からそういう余裕のある潜在意識は存在しなかったようにも思える。
しかし、確実にいえることは、上層農民以上に、江戸下級武士層のほうが、固有の苗字など持ってなかった。
この下級武士層ですらその後苗字をあてがわれてるんだから、一般層も、上記のような概念で苗字の原型となるようなものは持っていたと推測できる。
そもそも下級武士や足軽程度も苗字など名乗らせてもらえない藩など腐るほどあるだろが!!
- 46 :
- 少なくともうちの地域は江戸時代の検地帳や地割帳には庄屋含めて百姓には苗字無かったよ
村の中で名前がかぶっていなければ何ら支障ないから
何代にも渡って同じ名前を名乗っていてそれが転じて屋号になっている
- 47 :
- >>46
公式には苗字を名乗れなかったんだから公式記録に載っているわけがない
- 48 :
- >>46
墓調べてみ
たぶん苗字あるはず
- 49 :
- >>46
島崎藤村の『夜明け前』は参考になるかな?
http://www.asahi-net.or.jp/~dr4i-snn/yoakemae.html
>文豪島崎藤村の名作『夜明け前』にも、この永島家が「公郷村の古い家」として登場してくる。
>主人公の青山半蔵は藤村の父正樹であり、永島家三代目正義の弟正胤が幼年に出家し、のちに円城寺加賀守となり、鎌倉の合戦に参加し功をたて、
>この人が木曾に下り島崎姓を名乗ったといい、これが島崎家の先祖であり、『夜明け前』のモデル青山家であるという。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html
>遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾義昌の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。
>その後この地方の郷士として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田三成が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、
>徳川台徳院は中仙道を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立には、山村甚兵衛、馬場半左衛門、千村平右衛門などの諸士を数える。
>馬籠の青山庄三郎、またの名重長(青山二代目)もまた、徳川方に味方し、馬籠の砦にこもって、犬山勢を防いだ。
>当時犬山城の石川備前は木曾へ討手を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。
>その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。
庄屋はこういう家系って多いらしいよ
- 50 :
- 江戸時代の庶民の墓苑管理は無茶苦茶だよ。好きな場所に墓が乱立。
その為、国土開発により残存してる庶民の墓はほとんどない。
寺で管理されてる墓は名主、すなわち苗字を名乗れた人じゃないかな。
- 51 :
- 苗字は納税階級である本百章以上は持っていたのが大半。
庄屋豪農が苗字なかったといってるのは、僻み根性の下肢だろww
本百章以下はおそらく>>45のような形が多いと思われる。
それは納税云々もさることながら、土地をそれなりに持っているというのは
なんらかしかの形で在地に力や存在意義があったものたち。
苗字が中世よりあって当たり前。
下級武士以下のようなものこそ、苗字などもっていなかった。
これらの子孫はほとんどが、土地すらもてなかった、なかったものたちが、
戦国期、職業武士化していって食い扶持としたまで。
秀吉だの浅野だの前田だの蜂須賀だの武蔵だのがいい例だろ。
- 52 :
- >>46
いいか?庄屋豪農のように土地を何町も持つことが、
中世以降戦国期を通してどれほど大変なことかわかるか?
庄屋豪農クラスの土地を所有してさらに、維持していくためには、
在地の守護家もしうは、守護家直轄の直参有力土豪、国人に保障してもらってる、
そして、なんらかしかで自らも武装して戦国期を行きぬかなければ、何町もの土地など維持できないんだよ。
身一つで捏造家系図抱いて全国流浪できる中級武士程度以下と在地庄屋豪農はレベルが違う。
それらの土地を維持していく、保障してもらうには地侍等武士化していたというのが当たり前の話。
苗字などその際もってないわけない。盛ってなかったとしても土地の名前を付け、固定化していったはず。
下級武士以下のような身一つ食い扶持物語の主人公こそ苗字など持ってないからww。まじでww
勘違いスンナよ?何町もの土地を持つというのは、中世はとてつもないほどの在地権力がないとできない。
なんで土地すらない在地すらない身一つの下級武士があって、
在地も屋敷も土地も門構えも財力も飛びぬけて持ってる庄屋豪農には苗字だけねえんだよタコwww
- 53 :
- 戦国期以前より続く庄屋
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/sakanomt.htm 下にスクロールしてこの中世の城みたいな屋敷見てみろ
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Sasagawa/index.htm みたかこの土塁を
http://www.asahi-net.or.jp/~cn3h-kkc/shiro/ichinoe.htm 都内の庄屋
なあ?戦国期よりこんな屋敷や門構え、土地を持つ庄屋豪農が、苗字だけなかったとどうして思うの?w
- 54 :
-
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 大友氏 の浪人の集団に襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>また、 杵築藩 では各 手永(てなが) ごとに 大庄屋 を配置していたが、この大庄屋は士分に準ずる取り扱いをうけていた。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである。
こんなのが多い庄屋に、何で苗字が存在しないと思うの?wねえ?
- 55 :
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
>>実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、
>>一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬ
>>過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から庄屋、百章身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化
>>(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、
↓
このように島原の乱とは旧名門戦国大名家旧家臣団の庄屋が中心だったのがわかります。
それらが武装化し、幕府(近隣大名家相手)にいざ合戦したら、こうなります。
↓
>>乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した[13]。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、
>>12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた
>>態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱らの派遣を決定した。
>>焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが強引に突撃して討ち死にし、連携不足もあって攻撃は失敗した
>>島原藩主の松倉勝家は、一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。
わかる?ww幕府軍は敗走し、総督も討ち死、藩主は斬首ww
旧在地有力者層たる庄屋が武装化したら、幕府でこのざまだろ。
本気で旧在地武家庄屋軍団相手に5万石以下程度の大名が合戦したら、即日滅亡いたしますよ?wwまじで。
「結論」
島原周辺程度の在地旧武家庄屋連合相手に幕府軍13万という関が原の合戦の1.5倍の兵力で攻め上らせてる。
日本史至上最多の勢力で戦争しかけた相手はなんと、島原周辺のみの旧武家庄屋連合だったわけだが、
これだけ在地に特権勢力を持つ庄屋豪農が、なぜ苗字だけ存在しないと思うの?ww
- 56 :
- なんか苗字が使われた例からかけ離れ過ぎてる
なんで島原の乱なんだ。しかも苗字の話なんて一言も書かれてないじゃん
- 57 :
- おつむひねりなさいよww
苗字など、あらゆるステータスのひとつに過ぎないだろ。
庄屋豪農のように、在地特権、長屋門、何町もの土地、家老波の屋敷、桁外れの財力、中世以前よりし旧武家、
これ乱ステータスが満たされてて、何で苗字というステータスだけもってないとなる?
これだけのものを獲得、そして維持できるものが、これらより苗字を持つことはさらに難関なことだったのか?
だから、なぜこれだけのものをもつ中世期以前よりし豪族階級の庄屋豪農は、苗字だけは盛ってなかったと推測できる?
だから、なぜ中級武士が苗字持ってて庄屋豪農は持ってないと思う?
出自や階層で言えば、戦国期以前はこれら中級武士より庄屋豪農階層のほうが名門だらけなのに、出自がはっきりしてるのに、
なぜ、庄屋豪農が苗字だけは存在しなかったなる?
からくりはこうだ。
庄屋豪農など百章の分際が足軽以上のお武家様の足元にも及ばない分際で苗字など贅沢だったはず!!
という既成概念がハロー効果の心理条件ですべて画一的憶測になる。
だから、農民とされる階級が、武士に持ってないものをもってると、信じられないし、
信じたくないという防衛機制が適用される。
だカラ、蒸気のような例文出しても、結びつかないし結び付けようともしない。
なぜなら、現代的武士信仰がそうさせてるんだよ。武士なら全部かっこよくて全部強くて全部えらいという・・・
- 58 :
- >>51-52
>下級武士以下のようなものこそ、苗字などもっていなかった。
>これらの子孫はほとんどが、土地すらもてなかった、なかったものたちが、
>戦国期、職業武士化していって食い扶持としたまで。
>身一つで捏造家系図抱いて全国流浪できる中級武士程度以下と
>下級武士以下のような身一つ食い扶持物語の主人公こそ苗字など持ってないからww。まじでww
これはねえ、半分は正しいけど、半分は間違いでもあるんだよ
この説というのは、下剋上の観点と言うのが、完全に抜け落ちてしまっている
例えば寛政重修諸家譜とか寛永諸家系図伝等がそうだけど
あれなどは御目見以上の身分ある武家が収録されているのだけど
素直に「出自明らかにせず(出自が不明である)」と答えた武家も収録されている
結局、江戸時代の武士というのは、中級藩士、上級藩士の中にも、怪しい家系というのがかなりある
戦国期に成り上がり、武士に取り立てられ、そのまま江戸に至って武家として存続した家系も多い
戦国時代、下剋上の時代というのは、下の者が成り上がるのと同時に、上の者が成り下がる時代でもある
平安期から続く武家の系譜を引き、城主格クラスの武将だった一族が、落城によって家が潰れる
いくさによって潰れた名家なども多々ある
彼らの中には、身分の低い下級武士として武家を続け、そのまま江戸時代に至った家系もある
領地や城を失った武家というのは、そうして生きて行くしかなかった
だから「下級武士が苗字を持っていなかった」というのは、その点においては間違っている
むしろ私は、平安期から続く本物の武士の血筋は、かなりが戦国期に没落し
中級や下級の武士、あるいは帰農して百姓になって行ったと考えている
事実、鎌倉や室町時代の名門武家で、江戸期には殆ど名を聞かなくなった家系は多い
まあ、でも、このネタは正直突っ込みたくないんだ
江戸時代の武家の子孫の人達の中には、その血筋を尊んでいる方々も多い
中級藩士や上級藩士にも出自が怪しい家系が多かった事を書けば、喧嘩を売っているのと誤解される恐れが高い
- 59 :
- >>46で何か変なの召喚しちゃった
- 60 :
- うん、しばらく退散しようぜ
- 61 :
- そもそも、百姓は苗字を持ってなかったなんて言う珍説は誰が流し始めたんだ?
「苗字帯刀を許す」と言う本来の意味は苗字の公称を許すと言う意味だが、
苗字を持っていいと曲解したのが始まりだろうな。
- 62 :
- お墓の墓標の名前は基本的に戒名を書きます。
お墓に〇〇家と入れるのは近年の事です。
元々は、僧には名字がありませんでした。多くの僧が名字を名乗るのは明治からです
- 63 :
- >>61
学校教育でそう教えてる事だけは間違いないよね
いつ頃からそういう教育が始まったかはわからないけど
- 64 :
- 苗字帯刀を許すの「帯刀」の意味も、刀を2本 おおやけに差して良いと言う意味だが、
刀を持って良いと言う意味に単純に解釈しちゃったんだろうな。
普通の農家の倉の中にも、戦前は刀がごろごろあったそうだ。大戦中に国へ供出したり、兵士として戦場に持って行ったりして
あらかた無くなってしまったが、それでもボロボロのヤツを何本も死蔵しているケースは結構ある。
苗字帯刀を許すと言う意味は、苗字や刀を持って良い、と言う意味ではなく、
おおやけに使って良いと言う意味なのだが、明治時代の学者は馬鹿ばっかりだったのかな。
- 65 :
- >>62
江戸期の墓にも○○家って入ってるよ
- 66 :
- >>64
明治政府には江戸時代を農民が支配者武家に抑圧された悪しき時代としたい思惑もあったからね
革命政府(維新は実質無血革命だから)の宿命として、革命の正当性を誇示する為、旧体制を悪しざまに描く
- 67 :
- >>65
ほとんどの庶民は土葬です
墓石はないよ
- 68 :
- 明治以前は平民は基本的に苗字持ってないよ
一部の例外を見て勘違いしているのかな?
- 69 :
- >>68
スレの流れを百遍読んで出直すがよい
- 70 :
- >>69
100回読んだ感想です
- 71 :
- >>67
墓石も普通にあるよ
- 72 :
- 江戸時代の墓は一人一墓の個人墓が基本だろ
- 73 :
- >>67
墓石が無いのは江戸初期
寛永は無いのが普通で、あればかなりの旧家
墓石は寛文あたりから増えてくる
近世の墓石は家単位ではなく、夫婦か個人の戒名を刻んだものが一般的
- 74 :
- 昔の墓って、川から拾ってきたような長細い石を墓石にしてるよね
といっても本当に古い墓を見た事がない人にはわからないと思うけど
戦国時代くらいまで、石の大きさが墓に入ってる人の力を現す単純なものだったみたいだね
- 75 :
- それにしても昔の墓があるひとはうらやましい。
ほとんどが「平成」時代の墓だもんね。w
うちなんかも。。。
- 76 :
- うちはじいさんの代で墓を作り直した
昔の墓石はそのまま中に入っているらしいが、今となっては開けて見ることもできないし
写真撮っておけばよかったのになぁ
- 77 :
- 墓って開けちゃだめなの?
- 78 :
- 開ける=壊す
- 79 :
- 誰か死んだら
いちいち壊して骨入れてるの?
- 80 :
- 墓の構造知らないのかな?
骨いれる部分は当然開くよ
- 81 :
- だったら開けて中見ればいいじゃん
- 82 :
- 何か意地になってるみたいだけどさっきから見当違いなこと言ってるぞ
墓の作りくらいネットで調べてみなよ
- 83 :
- 昔の墓は土葬だから、亡骸を墓地に埋葬し、その上に墓石を置く
今気づいたんだが、墓石は、死者の復活を妨げる意図を含んだ封印の重石なのかも
あと時代劇とかでは樽状の御棺に遺体を収めて、墓地に穴を掘って埋葬しているけど
私の知ってる昔のお墓は、そういう形でなく、掘った穴に、直接、亡骸を埋葬してるっぽい
だから墓石は一人につき一基で、古い家のお墓は、墓石が何基も並んでいる
といってもこういう伝統的なお墓なんて、姿を消しつつあるけどね
私の家でも10年以上前に墓を立て直して、その際に今風の遺骨を納める型に改めた
- 84 :
- 俺の爺さんの時は桶に入れて埋めてた、穴掘ったときに前の人のお骨が出てきたので、
それを脇に避けてたりしてた。
墓域は二つに区切られていて、遺体を埋める区画と墓石を立てる区画がある。
遺体を埋めた跡に小さな盛り土を作っていた。上に潅木を植えて目印にしている。
一方、古い墓石は基本夫婦墓だったかな、摩滅もあって俗名は、確認できなかた。、
一番古いのは正徳年間だった。
因みに、その村では明治4年の人別帳から全ての家に名字が記されるようになる。
- 85 :
- 殆どの墓は昭和時代からだよ。
なんで昭和20年になくなった曽祖父の墓が
平成19年と刻まれてるのか?
わからん。
- 86 :
- 建て替えたんじゃないの?
- 87 :
- 7年以上前に行ったのが最後だから曖昧だが。先祖の墓は1つ。墓自体は改築したが、墓のすぐ横に古い石碑が建っていて年号、日時、名字、名前が掘ってあった。江戸時代から下手したら安土桃山?(年号詳しくないから曖昧)くらいまでの年号がびっしりでした。
- 88 :
- はぁぁ、眠るかな。あのね苗字の公称を禁止したのは1801年な。11代将軍家斉
の時なの。禁止されたのは明治に許されるまでのたったの70年だけなの。それだけ。
それまでは自由だったし、こんなお触れが出たところで守らない奴は守らないの。わかる?
- 89 :
- >>88
それマジかい?
- 90 :
- まず江戸時代に限った事ではない
室町時代の法令に【東寺百合文書:とうじひゃくごうもんじょ】があり、
その中に【近年地下人(庶民)たちは勝手に名字を名のることは理屈に
合わないので、以後それをかたく禁止、違反者には重い罰を与える】
と書かれてる
- 91 :
- おかしいと思ったw
- 92 :
- >>90
「勝手に名字を名乗る」って「名字を騙る」という意味ではないの?
あと流れには関係ないけど、「地下人」って殿上人の対義語だったり色んな意味があるようだね。
- 93 :
- あと武士をやめて刀を置いた人の扱いも気になる
彼らは帰農していようが血筋上は源平藤橘なわけだよね?
- 94 :
- オレの叔父が田舎で郷土史を調べていたが、
村民は庄屋も含め全員百姓身分んだったようだが、百姓身分でも、
ちゃんと系図を持ってる家は結構あるな。
多くは、江戸時代以前の滅ぼされた旧領主に何らかの関係を持っていた。
旧領主が藤原氏系だったらしく、住民も藤原氏系が多いが、村に藤原と言う苗字は
一軒もない。
ほとんどが地名由来のものだ。
- 95 :
- >93
旧字体が基本みたいだね。
免許証とか住民票を確認してみればいいよ。
- 96 :
- 江戸の昔から系図屋がいて金を取っては系図を創作してたからねえ、
滅ぼされた旧領主なんかは文句を言う奴も居ない良い素材
- 97 :
- >>96
お家取り潰しになった某藩家老の家柄の何某の家系とかか
そりゃ文句言う人いないだろうし、利用した可能性はあるよね
- 98 :
- うちの地方は古い墓は全部自然石でその横にたぶん明治になってから墓石の四角柱を買ってきた
置いた。
- 99 :
- そうなんだ!なるほど
調べてみたよ旧字体旧漢字は使えないんだ
特に外国人とか、へええだね
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