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2013年04月日本史17: 【庄内から】古墳黎明期を語る【布留へ】 (500)
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【庄内から】古墳黎明期を語る【布留へ】 (500)
【庄内から】古墳黎明期を語る【布留へ】
- 1 :2013/03/09 〜 最終レス :2013/04/02
- 新規スレッドです。
旧纏向スレは、スレタイの所為なのか、全く系統の違う話題の投稿が多く、既に機能しない状態です。
ここは、心機一転、再スタートと言うことで行きましょう。
参考までに「旧纏向スレ」のスレ主旨を掲げておきますが、
老教授氏自身の見解は、その後、かなり方向転回されています。
>次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
>「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
>それが王権の礎になったってことです。
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
>そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
- 2 :
- だから卑弥呼を中心にして各国が連合したのでしょ。
以上、スレ終了。
- 3 :
- 考古学だけでマキムクを語ってもジリ貧で続かないから。
卑弥呼やらモモソヒメとかと絡めるから発掘の予算も出る。
ただまあ確かに、ホアカリ馬鹿みたく記紀脳内解釈を延々書かれるのは確かに閉口するな。
せめて少しくらい考古学を絡めろとw
- 4 :
- 蜂子皇子こそが崇徳を超える祟り神ではないか?
違うな?
- 5 :
- >旧纏向スレ
は古代史関連でも、
妄想、デンパ説の少ない比較的実証的なものの考え方をする人の書き込みが多かった
から、ここで再スタートならOK。
- 6 :
- 卑弥呼が葬られたのは円墳
- 7 :
- しかし径百余歩=130メートル以上の円墳は存在しない。
大きさから考えて弥生墳丘墓ではなく、
すでに古墳時代に入っていると考えた方がいい。
で、箸墓が妥当という結論。
- 8 :
- 径百余歩が目測のふかしだったとは考えないのか
- 9 :
- 前スレ
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その18
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1341536153/
- 10 :
- 倭人伝にふかしはある。距離や人口などはそうだろう。
その理屈で言えば、確かに卑弥呼の墓もふかしの可能性はあるな。
ただまあ、大いに「塚」を作るだから、大きい古墳と考える方が妥当だろうw
あとまあ状況証拠として、箸墓とかの古墳は漢尺で設計されていて。
例えば箸墓の後円部は径百二十歩。
古墳ってのはその大きさが重要で、それによる序列化が意図されている。
箸墓の縮小版の古墳が吉備にあるように。
古墳の大きさや長さってのは古代の倭人にとってはとても重要なことで、
箸墓の後円部が径120歩ってことは当時広く伝わっていた可能性がある。
ギシはそれを聞いたのだろう。
- 11 :
- >「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体で ある「ヤマト」が新設され >それが王権の礎になったってことです。
絵に描いたような、ゴッドハンドの見本ですねw
- 12 :
- >>11
え?お前ゴッドハンドの意味わかってるの?w
- 13 :
- もと〜い、ゴッドマウスだー
- 14 :
- 考古学アレルギーの人はすぐにゴッドハンドを言い出すからねw
まともな考古学者が書いた本も読まず頭ごなしに否定するw
確かに邪馬台国が大和にあったことは立証されてない。
しかし、少なくとも三世紀初めの邪馬台国の時代にはマキムクに王権が誕生していた。
奴国には畿内庄内カメのプランテーションが造られ、
西新町遺跡が新たに造られ、
更には那珂八幡というマキムク型前方後円墳が築かれている。
弥生終末期に北部九州が畿内勢力の風下に立ったことは間違いないだろう。
邪馬台国九州説が唯一生き残れるとすれば、ヒラバル王墓か。
国内産の大型銅鏡を埋葬したりとか、福永が指摘している通り、
後の吉備や畿内などの古墳祭祀とは明らかに異なる葬送儀礼を行っている。
邪馬台国九州説の対抗馬としては、
邪馬台国東海説、出雲説、吉備説、東四国説くらいかな。
ただ、これらの勢力が北部九州を押さえていた考古学的根拠が見当たらず。
畿内説が頭一つリードなのは間違いないだろう。
- 15 :
- >>14
いくつか質問させてね。
>少なくとも三世紀初めの邪馬台国の時代にはマキムクに王権が誕生していた。
それ本当のことなの?考古学的な根拠はあるの?
>奴国には畿内庄内カメのプランテーションが造られ、 @
>西新町遺跡が新たに造られ、A
>更には那珂八幡というマキムク型前方後円墳が築かれている。B
>弥生終末期に北部九州が畿内勢力の風下に立ったことは間違いないだろう。C
Cは間違いないの?
@、Aは畿内勢力が造らせたと言えるの?
Bの那珂八幡前方後円墳は畿内の影響を受けて造られたものなの?
- 16 :
- いきなり、ドカーン!と前方後円墓が出現して、これが卑弥呼の墓ですよ。
・・・なんて、胡散臭いだろ。
卑弥呼の前の王達の鏡を副葬した、数々の墓はどこにあるんだよ?
- 17 :
- 邪馬台国が大和なのか、それとも狗奴国が大和なのかって分からないよね。
- 18 :
- 確かと言えるのは魏志倭人伝しかないのに、
我田引水で考古学と結びつけようとすればするほど、
邪馬台国を語ることは妄想に似てくる。
- 19 :
- >>15
クレクレじゃなくて、ちょっとは自分で調べたら?
寺沢の本とか読めば書いてるからさ。
その上で反論や対論を書かないと。
考古学アレルギーの人はせめて寺沢くらい呼んでるのか?
- 20 :
- 神話時代に山稜の文字はあちこち出てくる
初期に現れた卑弥呼の大墓なら、どのみち自然の円形丘陵を均した程度のものとは考えないのかな
- 21 :
- >>19
寺沢先生の本を読んでも分からないから質問してるのよ。
「三世紀初めの邪馬台国の時代にはマキムクに王権が誕生していた」という証拠は何なのよ。
奴国の庄内カメは畿内勢力が作らせたものか奴国が畿内のカメ作り職人を連れて来て作らせたものか
分からないじゃないの。あなたには分かるの?
- 22 :
- 西新の「庄内型」土器は、一緒にイイダコ採りのツボやらと一緒にころがっている漁撈系庶民の集落で、
半島系の土器も混在する。特別ありがたがるような代物ではない。
しかし、関西での出土状況は興味深い。
- 23 :
- あんた漁師をばかにしとらんね?
- 24 :
- もともと煮炊き用の生活用品なんだから、
海岸部でイイダコの蛸壺と一緒に出てきても不思議はないと思うがな。
- 25 :
- 那珂八幡がマキムク型でさらには三角縁が出てるから、
当時の奴国の首長が畿内の影響を受けてるのは間違いない。
で、畿内式の土器を受け入れてる。
畿内の方形周溝墓も九州に伝播している。
- 26 :
- >>16
> いきなり、ドカーン!と前方後円墓が出現して、これが卑弥呼の墓ですよ。
> ・・・なんて、胡散臭いだろ。
> 卑弥呼の前の王達の鏡を副葬した、数々の墓はどこにあるんだよ?
箸墓のことかな?
だとしたら的はずれ。
箸墓より古い、一二世代前の石塚、勝山などが既に王墓級。
なので、箸墓はドカーン!では無い。
なので、いきなりドカーン!と来た点を議論したいなら、纏向大溝開削辺りの事情から始めないと。
選択肢としては、
@大和の既存勢力が、吉備などとの交易を通して自生的に発展した。
A東海などの東方勢力が西進してきた。
B吉備や東瀬戸内の勢力が、大和盆地に進出してきた。
Cその他の勢力(神武東征でも騎馬民族でも何でも良いけど)
こんくらいに整理して、どれが一番蓋然性が高いか、と言うことだな。
- 27 :
- 大王家で初めて前方後円墓を採用した確実なの天皇は10代祟神だね。
行燈山か西殿塚であろうか。
じゃ石塚、勝山はその前の大王(欠史八代)かといえばそう簡単にはいかない。
記紀には奈良南西部に墓があると書いてある。
じゃホケノ、石塚、勝山などは誰の墓か。
祟神は物部氏の母や祖母がいるね。
祟神は物部氏が外威となって誕生した天皇だ。
皇居を奈良東部の桜井に呼び寄せたのは物部氏だ。
じゃホケノ、石塚、勝山など纏向古墳群は物部氏の墓だろう。
祟神は物部氏の墓制を採用したのだろう。
- 28 :
- 課題は、卑弥呼・台与が奈良盆地にいたとして、
@記紀で言えば誰と誰?
A墓の編年で言えばどのあたりに位置づけられ?、
Bよって卑弥呼は○○墓(箸墓)、台与は○○墓となる?
この三つの一貫した説明なんだけど、いつも一つか、二つの説明におわるんだよな。
- 29 :
- そもそも、マキムクでマキムク型初期墳丘墓と確認されるのはホケノ山からで、
それ以前のものは、まだマキムク型丘陵として人工の山という段階のものである(埋葬のための墓の痕跡が存在しない)。
また、マキムクでは最初期のマキムク型古墳のホケノ山は、いつマキムク型丘陵の人工の山として作られたのか、いつ墓として成立したのかを明かにする必要がある。
- 30 :
- マキムクでの溝掘り、人工の山の造成など土木事業で使える人々の強制労働(活躍?)の賜物である。
あとは、関西では河内の土器づくりの巧みな人々の貢献も忘れてはならない。
- 31 :
- >>28
>卑弥呼・台与が奈良盆地にいたとして、
@記紀で言えば誰と誰?
卑弥呼=初代皇后・ヒメタタライスズ媛
台与=4代天皇である威徳の皇后・アマトヨツ媛命
「ヒメ」と「トヨ」。
>A墓の編年で言えばどのあたりに位置づけられ?、
個人的には高鴨神社の本殿奥の神山を注目してる。
アレは間違いなく古墳だ。
ただ山自体が信仰対象なので永遠に発掘されないだろう。
Bよって卑弥呼は○○墓(箸墓)、台与は○○墓となる?
箸墓ではない。
箸墓は3世紀末ごろだろう。
- 32 :
- >>25
>那珂八幡がマキムク型でさらには三角縁が出てるから、 当時の奴国の首長が畿内の影響を受けてるのは間違いない。
逆のことは考えられないの?那珂八幡の前方後円墳がマキムク型のハシリってことはないかしら。
>で、畿内式の土器を受け入れてる。 畿内の方形周溝墓も九州に伝播している。
これも逆の流れは考えられないの?
- 33 :
- >>27
> 大王家で初めて前方後円墓を採用した確実なの天皇は10代祟神だね。
つーか、2−8代が「大王」だった確証も無い。
葛城方面が、ミマキ王の御先祖の地だとして、そこには、その時代の王墓らしきものは全く無いでしょう。
2−8代は、ミマキの直系尊属だったかもしれないけど、「大王」どころか「王」でも無かったと思うよ。
ミマキの功績で、系譜に名を残しただけの「贈・大王」だったと言うこと。
やはり、ミマキ以前の「王」は、纏向の墳丘墓の主たちでしょう。
纏向の墳丘墓は、当時の大和盆地の中では、隔絶した存在で、これを置いて王墓と呼ぶべきものは無いかと。
- 34 :
- 貴い人物を葬るのに豪華な副葬品を伴うのが文明のさきがけだったのであり、
それに、未開地で労働力を動員して、巨きな丘陵を作るという和風のアレンジがなされたということである。
- 35 :
- いや、高句麗とか当時の東アジアで巨大なマウンドを造る流行があって。
それを日本で最初に採り入れたのが吉備の楯築のオウだ。
それが阿波讃岐播磨に伝わり、マキムクで花開く。
吉備の王権が続かない理由は分からない。
近藤先生の説なら吉備オウがマキムクに遷都したことになる。
- 36 :
- 記紀を馬鹿に出来ないのは、大王墓域が大和から河内に移る
という大まかな流れがきちんとトレースされている点。
細かく言えば、橿原ではなくマキムクが始祖王即位の地だとか。
桜井茶臼山・メスリ山の磐余地方の大王墓は無視とか。
- 37 :
- 吉備の楯築というのは、埋葬の副葬品という点で貧弱になり、地方での労働力を利用した大型墓というタイプである。
これは、マキムクでの人工の山の造成とも関連する要素である。
- 38 :
- >>33
>つーか、2−8代が「大王」だった確証も無い。
葛城方面が、ミマキ王の御先祖の地だとして、そこには、その時代の王墓らしきものは全く無いでしょう。
2−8代は、ミマキの直系尊属だったかもしれないけど、「大王」どころか「王」でも無かったと思うよ。
そりゃそうなんだ。
神武の猛々しいイメージなんて後から作られたもの。
当時は通い婚の時代。
これは必然的に嫁の実家が権力を得る。(後の蘇我を見よ)
そういう意味では神武より嫁の父(祖父)の大物主の方が権力者であっただろう。
さらにニギハヤヒ。
神武に屈服したみたいに書かれてるが、ナガスネヒコを倒したのは彼。
神武はニギハヤヒに大きな「借り」を作ってただろう。
つまり、神武、大物主、ニギハヤヒの3者が「権力」として共立してた。
3系統あったわけだ。
では纏向墳丘墓は何系統の墳墓群か?
あのあたりは後の物部氏の地盤だ。
したがってニギハヤヒの子孫たちの墓だろう。
- 39 :
- 箸墓は、この前の調査で纏向型とはいえなかったんじゃないの?
- 40 :
- >>26
確かに
>いきなり
とはいえないにしても、
石塚より約三倍の大きさ、しかも葺石で覆っているなどのことを考えると、
>ドカーン!
というのは間違いとは言い切れない。
>神武東征
戦後は否定論が主流だったが、
実証的な論考といえるものはなく、
いわば逆皇国史観による心情的な否定論。
関ヶ原の戦いだって壬申の乱だって、
考古学的にはいくらでも否定できるから、
この場合には考古学はほとんど意味をなさない。
高地性集落の遺跡も漠然としすぎている。
記紀を実証的に否定できないのであれば、
>神武東征
の蓋然性が高い、というしかない。
他の資料は皆無だから。
妄想論は素人専門家問わずあきれるほどあるが。
- 41 :
- >>35
>吉備の王権が続かない理由は分からない。 近藤先生の説なら吉備オウがマキムクに遷都したことになる。
神武は安芸と吉備に15年も滞在してるからね。
妄想が膨らむよw
- 42 :
- 神武東征伝承とは、記紀の編者が日向三代神話を取り込む為、
天孫降臨の地を日向に選定。
初代大王は奈良盆地で即位しないとダメだから、
神武はやむなく瀬戸内海航路、倭国世界を東に大きく横断して、
ナガスネヒコを討って大和カシハラの地で即位する。
これがカシハラでなくマキムクだったなら、もう少しは信憑性があったのだが。
カシハラになったのは恐らくは蘇我氏の影響だろう。
初代大王が即位したとされる地は当初はマキムクで、
崇神がハツクニシラスと呼ばれるのもその所為。
その次に磐余に移り(雄略の頃か?)最終的に橿原=蘇我氏の勢力圏内に。
- 43 :
- あのころの15年は7年か8年以下
三代としているがその前、忍穂耳→天照→イザナギに遡ったイザナギも日向に来ている
その時に天照、スサノオ、月読が生まれ、つまり三貴子まで日向生まれになってしまう
ここまでする必要なし
取り込むだけなら高天原からの天孫降臨だけでじゅうぶんなはずである
- 44 :
- >>42
違う、神武が即位したのは本当にカシハラだ。
ただし現在いわれてる橿原神宮の地ではない。
あれは明治政府が適当に決めたもの。
本当のカシハラの地とは御所市柏原。
神武の先妻アヒラツ媛を祀るホホマ神社があり、
ホホマ丘である本間丘もある。
ところが学者たちはこの地について言及を避ける。
「橋のない川」の舞台になった水平社運動の発祥地だからだ。
- 45 :
- 記紀神話というのも、どこにでもある王権神話のひとつで、
日本を統治するのは太陽神(女神)の子孫たる天皇家であるという、
観念にもとづいて律令時代に作られたもの。
多くの研究者が述べていることだが、
記紀神話(とくに日本書紀)を読めば、
古代においては太陽神、天照大神(大日霊の神)よりも、
万物を生成させる神、ムスビの神(男神、タカミミスビ)の方が
主導権を握っている。
持統、元明という女帝の時代に作られた神話だからだろう。
ただし、天照大神は実際は男神であったのではないか、
とも考えられ、そこから諸説紛々としてくる。
- 46 :
- 大伴金村、大伴 家持などから分かるように、
豪族としての大伴氏を「実在しなかった」と言う人は誰もいないだろう。
同じく、橿原にある久米という土地に久米御縣神社があり、
代々、大来目命を祀ってることからも、
久米氏の実在を否定するのも難しいだろう。
ならばだ。
大伴と久米が実在したなら、
彼らを引きつれ大和入りした神武の実在も否定できなくなるだろう。
神武は実在したのだ。
もちろんBC660年とかいうアホな時代ではない。
- 47 :
- >>39
纏向形前方後円墳と違って、
前方部の端がせせり上がってる讃岐型前方後円墳だね。
- 48 :
- >>46
「彼らを引き連れて」が嘘なんだよ。
伝説上の始祖王は最初の大王になるために、偉大な功績を挙げなければいけない。
そのために創作されたのがハツクニシラス伝承。
実際は畿内の首長連合が代表者を大王に推戴したというだけ。
ただこれでは権威づけにならないから、派手な東征記事が付け加えられた。
- 49 :
- >>48
よく分からないので質問させてね。
>実際は畿内の首長連合が代表者を大王に推戴したというだけ。
これはどういうことから分かるの?記紀に書いてあることからなの?それとも、
考古学的に分かることなの?
- 50 :
- >>40
とにかく、家族墓である方形周溝墓が造りつづけられていた大和に、
突然、100m級の個人墓、それも円形墓が出現したわけだから、これはただ事じゃないでしょう。
石塚を造った勢力はどんな人々だったのか。
箸墓は、初期の円形墓の延長線上にある完成型に過ぎない。
大きさだけにとらわれてはならない。
- 51 :
- 鏡を王権シンボル、或いは祭祀に使用する勢力は畿内が発祥地だと、いってる学者はいましたか
- 52 :
- >>50
日本書紀、巻第五「崇神」記参照。
>>49
ヤマト王権は首長連合体から発展したという一つの説。
その論の根拠には、ヤマト王権も邪馬台国と同じような連合体を想定している。
記紀を読む限りではそれはない。
ヤマトに建国した王権が、崇神の代になって、王権を日本(大八嶋)全土に
拡げて統一国家を成した。
連合体による統一論の根拠は薄弱。
歴史的にみても連合体というのは強い権力ではない。
織田、徳川が同盟したといっても基本的には臣従関係。
連合体というのは邪馬台国のようにあっけなく瓦解する。
それは民主主義の世の中になっても同じ。
- 53 :
- >>48
>「彼らを引き連れて」が嘘なんだよ。
嘘だと証明しなければな。
神武の先妻アヒラツヒメを祀ってる神社は、
宮崎県日南市と奈良の御所市柏原にある。
ここ以外には知らない。
これは偶然ではなかろう。
- 54 :
- 箸墓を「マキムク型」と言っていたのはもともといないよw
- 55 :
- 割と後世の天皇にしても、有力な臣下から推戴されて即位する
という形式をとってるからな。
考古学的に言えば、柳本古墳群、磐余の桜井茶臼山メスリ山、
佐紀盾列など、
同時代に複数の造墓集団が大王墓を造っている。
古市と百舌鳥古墳群は交互に大王墓を造っているし、
古代の王権は複数の持ち回りだったと推定されている。
中国史書で言うと、倭の五王は中国南朝に爵位を要求しているが、
自分だけではなく十人以上の自分の臣下の位も要求している。
大王位が他と隔絶しておれば、こんなことはしない。
交易を通じた商業連合や宗教を共通にした連合、
軍事同盟などのプロセスを通じて統一国家に至る例は西洋にもあるし、
別に珍しいことではないと思うが。
- 56 :
- >>50
>石塚を造った勢力はどんな人々だったのか。
播磨や阿波讃岐にも初期前方後円墳やその前段階の古墳がある。
3世紀代には北部九州から関東の千葉・市原にも古墳ができる。
全国に散らばり、なおかつそのような剽悍さを持つのは、
ニギハヤヒの末裔・物部だろう。
- 57 :
- >>55
>割と後世の天皇にしても、有力な臣下から推戴されて即位する
という形式をとってるからな。
よくそんな嘘を平気で言えるな。
大古墳が余ってるのは○○皇子など兄弟の墓で説明つくだろう。
- 58 :
- マキムク型は、当初の寺沢定義では、後円部径:前方部長が2:1(石塚)ないし前方部長がそれよりやや短いもの(ホケノ山)だった。
しかし、その後、勝山は前方部がすでに長いことになり、本来の「マキムク型」ではなくなったが、
これも「マキムク型」の一種と概念を拡張しておかしくなった。
また、当初は庄内式併行から布留0式併行までの非定型的な古墳で上記比率のものに限っていたはずだが、
いつのまにか、後の時期の古墳まで適用して訳がわからなくなった。
例えば那珂八幡は、その後の周囲調査から前方部が少し長い、後円部8:前方部5ということが分かったが(だから厳密には「マキムク型」とは異型式)、
寺沢はここではなぜか当初定義の2:1にこだわり、根拠不明確なまま、後円部径がもっと大きいはずだから2:1でいい、とも言っている。
このように、調査成果による墳端の認識を無視またはいちゃもんをつけて、都合がいいところに線を引いて「マキムク型」と強弁している事例が、最近の著作中の論文に他にも多くある。
さらに、当初の「マキムク型」論文では、
「くびれ部」に「連結部」がある(要するに「くびれ部」が鋭角的に形成されずに後円部から前方部への移行がダラダラしているもの)ものが多いとした。
しかし、纏向遺跡の諸古墳は、これまでの調査の結果、いずれも「くびれ部」がしっかりしていて、「連結部」はなかった。
「連結部」のある「マキムク型」とされた古墳は、果たして「マキムク型」の直接的(設計や技術をもたらして造らせる)影響があったか疑問となるが、
那珂八幡など「マキムク型」とされた北部九州の諸古墳には「連結部」があり、「くびれ部」が曖昧である。これは、北部九州以外の「マキムク型」とされた古墳にも少なくない。
- 59 :
- 那珂八幡に関しては、当初定義の比率と異なること、実はマキムクにない「連結部」があることから、「マキムク型」とするのは今は正しくない。(「マキムク型」の間接的影響、刺激は否定しない。)
埴輪の特徴から少し新しくなるはずの吉備の中山茶臼山は、
当初の前方後円墳の原型的な存在としてのマキムク型の意味合いから「マキムク型」とするのには違和感があったが、今も「マキムク型」とする。
しかし、宮内庁の新測量図により、前方部がやや長いことが分かり、またこれは「マキムク型」と言わない崇神陵(行灯山古墳)の設計企画と同じとも言われ、これも未だに「マキムク型」と強弁する意味が分からない。
- 60 :
- 考古学ではなく、遺物学の一般化というローカルなR学問だからな。
- 61 :
- 庄内式土器、布留式土器が畿内から北部九州に拡散する。
布留式にいたっては半島にまで拡散する。
拡散させた主体は誰か。
畿内にも北部九州にも強い縁のある物部だろう。
物部は後々まで半島との関わりごとに重用されたせいか、
韓国連という姓を授かる一派がいた。
ところがどこに行っても驚かれたらしい。
つまり今風に言えば「うわ!チョソみたい」ってことで、
この名が嫌で嫌で仕方なかったのか、
高原姓に変えてる。
- 62 :
- 3世紀に「物部」氏が確立していたとは思えない訳だが。
中河内の河内型庄内甕の濃厚分布域は後の物部氏の拠点に重なるが、
ニギハヤヒが降り立ったという北河内は庄内甕は希薄で「伝統式X様式」の世界だ。
奈良盆地の場合は、物部氏の大拠点の布留遺跡は大和型庄内甕が希薄で同じように「伝統的X様式」の世界、
マキムクから柳本あたりが庄内甕を伴う真正の庄内式の地域だ。ここは大王家と磯城県主の領域だ(古代史ヲタは磯城県主がニギハヤヒに関係するとか言いそうだがw)
奈良盆地でも、藤原京域下層あたりにも庄内甕主体の庄内式分布域が少しあるが、後の物部氏領域ではない。
「播磨型庄内甕」がある加古川の長越遺跡や太子町のイカルガ遺跡あたりも、物部氏とあまり関係しない。
「筑前型庄内甕」が分布する福岡平野には、物部氏関係の神社や伝承地がほとんどない。
筑紫で物部氏の伝承地がある旧鞍手郡などの筑豊地域や、旧御井郡あたりにも庄内甕がほとんど分布しない。
よく、安本美典が引用する北部九州の「庄内式分布図」は、実際は「伝統的X様式」系が在地系土器セットにわずかにあるだけだったり、
布留式古相の伝播拡大時期に古い庄内式要素が残っているものだったり、真正の庄内甕でも客体的でしかないものがほとんどであるので、要注意である。
同じ基準で「畿内」周辺の「庄内式」分布を見ると、「伝統的X様式」の広がりがイコール広義の「庄内式」になってしまう。
逆に、しっかりした一定の確立された技法で作られた薄甕の庄内甕の分布から、
「畿内でも「庄内式」の分布は限られる」という同じ基準で見ると、筑紫では福岡平野(の一部)にしか「庄内式」は分布しないことになる。
- 63 :
- >>58
”マキムク型”を定義したいなら、
やはり、纏向地域内にあって、布留0以前と認められる非定型墳丘墓のこと、くらいに留めるべきだべ。
那珂八幡とかで類縁性を表現したいなら、纏向以外の地域の墳丘墓は”マキムク型併行期の”と冠すれば良いのでは。
- 64 :
- 当の寺沢氏の定義や適用範囲が融通無碍だからねw
ただし、「定型化した前方後円墳」とか「畿内型古墳」という概念も論者や地域により違うからね。
- 65 :
- >>62
>3世紀に「物部」氏が確立していたとは思えない訳だが。
4世紀からだが、分かりやすく便宜上物部でいいだろ。
>マキムクから柳本あたりが庄内甕を伴う真正の庄内式の地域だ。ここは大王家と磯城県主の領域だ
大王家がそのあたりに宮や墳墓を作るのは祟神あたりからだろ。
3世紀ではないはずだ。
そして祟神の母も祖母も物部氏だろ。
物部が女絡みで皇位を簒奪して、祟神の時代に桜井に皇居を立てたのなら、
実質上、纏向は物部の土地であったということになる。
>「播磨型庄内甕」がある加古川の長越遺跡や太子町のイカルガ遺跡あたりも、物部氏とあまり関係しない。
のちに播磨物部とよばれる集団が古くからいるわけだが。
- 66 :
- まあ、纏向遺跡以外でも、例えば神門5号4号、矢藤治山とかいくつかは「マキムク型」でもいいでしょう。
しかし、定義や条件はある程度絞る必要があるでしょうね。
- 67 :
- >63
「布留0以前」に限定すると、土器群の編年的位置付けや鉄鏃や銅鏃から布留0に下る可能性も指摘されるホケノ山や、土器から確実に布留0期になる東田大塚は「マキムク型」でなくなる。
だから、移行期(併存期)として、布留0併行期までは認めるべきでしょうね。
- 68 :
- 物部の最大根拠地の布留遺跡(石上神宮周辺)や、ニギハヤヒ降臨地の北河内交野に庄内式甕がほとんどないことを無視ですか?w
「播磨物部」って根拠地、伝承地はどこでしょうか?
また、北部九州の庄内式甕分布は物部とは全く関係ないし。
後の藤原京域の庄内式甕の分布も物部氏とは関係ないし。
逆に、古くから物部の根拠地のところなのに庄内式甕がほとんどないところが多いですが?
庄内式の分布と特定氏族を結びつける単純な思考はやめとけw
考古学的にも古代史学的にも問題だらけだよ。
>>65
> >>62
> >3世紀に「物部」氏が確立していたとは思えない訳だが。
>
> 4世紀からだが、分かりやすく便宜上物部でいいだろ。
>
> >マキムクから柳本あたりが庄内甕を伴う真正の庄内式の地域だ。ここは大王家と磯城県主の領域だ
>
> 大王家がそのあたりに宮や墳墓を作るのは祟神あたりからだろ。
> 3世紀ではないはずだ。
> そして祟神の母も祖母も物部氏だろ。
> 物部が女絡みで皇位を簒奪して、祟神の時代に桜井に皇居を立てたのなら、
> 実質上、纏向は物部の土地であったということになる。
>
>
> >「播磨型庄内甕」がある加古川の長越遺跡や太子町のイカルガ遺跡あたりも、物部氏とあまり関係しない。
>
> のちに播磨物部とよばれる集団が古くからいるわけだが。
- 69 :
- スレ内専用定義をしておいた方が無駄レスは減りますね。
私案
・後円部2:前方部1.5以下
・後高前低
・布留0以前
・貼石無し
・段築有り
- 70 :
- >・後円部2:前方部1.5以下
>・段築有り
この条件だと、箸墓成立以後の前期前半「定型化前方後円墳」のかなりが入ってしまう。
前方部が細いバチ形で少し長い「讃岐型」まで入ってしまう。
いろいろ入ってしまうから、
>・布留0以前
なんでしょうが、今度は、確定的なのはごくわずかになる。
ホケノ山は箸墓併行という強い異論がある。
>・貼石無し
ホケノ山はなかったか?
吉備の「マキムク型」のよさそうな例の矢藤治山なんかもダメになる。
よって、却下。
>・段築有り
勝山は、少なくとも以降の前方後円墳みたいな段築がない。墳丘斜面中途で変則的平坦面があるだけ。「後円部2:前方部1.5以下」で勝山入れるつもりが、この条件で入らなくなる。
マキムク古墳群以外の各地の「マキムク型」候補にも、段築なし、あるいは不明確や変則的なものがある。
だから、この条件も却下。
最初の、
>・後円部2:前方部1.5以下
は、8:6まで認めることになるが、そうすると、当初概念の「2:1」から大幅変更な訳で、それこそ何でもありになってしまいますよ。
- 71 :
- >>68
>物部の最大根拠地の布留遺跡(石上神宮周辺)や
4世紀だろ。それこそ時代が違うだろ。
>ニギハヤヒ降臨地の北河内交野に庄内式甕がほとんどないことを無視ですか?w
ニギハヤヒ降臨が事実としても庄内式以前だ。
これも時代が違う。
>「播磨物部」って根拠地、伝承地はどこでしょうか?
播磨。
>庄内式の分布と特定氏族を結びつける単純な思考はやめとけw
九州から半島にまで運ぶ力を物部と仮定して何か悪いのか。
- 72 :
- > >物部の最大根拠地の布留遺跡(石上神宮周辺> 4世紀だろ。それこそ時代が違うだろ。
布留遺跡には3世紀の集落からありますが。そのまま4世紀の集落に発展します。前期前半の大型古墳の西山古墳もありますが、物部氏とは無関係ですか?そうですか?
>
> >ニギハヤヒ降臨地の北河内交野に庄内式甕がほとんどないことを無視ですか?w
> ニギハヤヒ降臨が事実としても庄内式以前だ。
> これも時代が違う。
ニギハヤヒ降臨はいつなんですか?庄内式以前の根拠は?
しかしいずれにしても最初のニギハヤヒと物部氏の根拠のはずですね。前期初頭からの交野古墳群もあります。物部氏=庄内式なら、ここに庄内式甕が希薄なのはおかしいですね。
> >「播磨物部」って根拠地、伝承地はどこでしょうか?
> 播磨。
ダメだこりゃw
播磨も広いですよ。
播磨の具体的にどこが古くからの物部氏根拠地で、庄内式甕がたくさんあるかが問題な訳です。
ちゃんと答えてください。
> >庄内式の分布と特定氏族を結びつける単純な思考はやめとけw
> 九州から半島にまで運ぶ力を物部と仮定して何か悪いのか。
悪いです(笑)
全く証明されていません。少なくとも証拠不十分。
むしろ、大陸との交易ルートの要である博多湾岸の庄内式甕分布は、北部九州における物部氏の分布と全く無関係なことが証明されますね。
- 73 :
- ちょっとさあ、
もし、物部氏と庄内式の分布の関係を言うなら、全国にあるはずの物部氏の古くからの伝承地を列挙して、そこに庄内式がどれくらい出ているかの割合を出してくれるかなあ?
そうでないと、いくつかたまたま古くからの物部氏根拠地に庄内式があったからといって、偶然を排除できないよ。
同じ論理なら、尾張氏とか海部氏とか大伴氏とか多氏とか和邇氏とか大三輪氏とか土師氏なんかでも、古い根拠地や伝承地の数カ所でたまたま庄内式があったら「○○氏が庄内式を作った」と言えますよ。
学問になっていないことにいい加減きづいたらどうですか?
- 74 :
- ホアカリ君は、別に庄内と物部の関係に興味は無いのだと思うよ。
単にホアカリネタを書きたいだけなのだが、それじゃスレタイの文字列と結びつかない。
だから。無理やり庄内、庄内、古墳、古墳と単語をばらまく、旧纏向スレでは、纏向、纏向、王権、王権だったし。
で、何でここのスレッドに居るかと言うと、多分、モチネタの想定年代がこのあたりなんだろうねえ。
ネタ的には終止符スレの方が向いてると思うんだけどね。
- 75 :
- >>72
>>73
あのなぁ、「物部氏が庄内式を作った」などと一言も言ってない。
もともと畿内の弥生土器だったものを、
九州から来た物部が作ったというのも変だろ。
佐々木憲一さんの研究にもあったように、
3世紀、畿内系土器が西方に拡散していくわけだろ。
広島にも多いと書いておられた。
畿内系土器を「拡散させた(担った)主体は誰か」と言ってるわけだ。
瀬戸内にネットワークを持つ物部氏と仮定して悪いのか。
人の文章を読まず、何を喚いてるんだ?
- 76 :
- >>75
拡散の担い手ではあるが、自分たちは受け入れなかった、と言うことですかね。
英国商人が清での阿片消費拡散に加担しても、自分たちは受け入れなかったのと同じか。
熱伝導の良い煮炊き甕は阿片の如しと。
- 77 :
- >>76
「受け入れなかった」とはどういうことかな。
俺は纏向古墳群を物部系だと思ってるが、
纏向石塚は庄内土器が出てたよね。
だから?
- 78 :
- >>77
ダメ。
庄内を物部氏が「受け入れた」と言う傾向が認められなければ、
纏向が庄内を受けいれたとしても、その地が物部の勢力圏とは言えない。
もう少し、論拠を増やさないと単なる「循環論法」にしか見えない。
所謂「三輪王朝」には、文献でも考古でも、物部の顕著な影響は見られない。
- 79 :
- 何が「ダメ」だよ偉そうに。
>庄内を物部氏が「受け入れた」と言う傾向が認められなければ、
>纏向が庄内を受けいれたとしても、その地が物部の勢力圏とは言えない。
畿内は3世紀から土師器の時代だろ。
ならば畿内いた氏族は庄内を「受け入れた」という事だろ。
それとも頑なに庄内を受け入れず、
畿内X様式のまま4世紀頃まで粘ってた例でもあるのか?
>所謂「三輪王朝」には、文献でも考古でも、物部の顕著な影響は見られない
祟神の母も祖母も物部だろ。
何言ってるんだ。
- 80 :
- >>46
>神武は実在したのだ。もちろんBC660年とかいうアホな時代ではない。
百歩譲って、書紀を信用して書紀にある通りの東征が史実であるとするなら…
神功紀にみえる七枝刀。石上の七支刀から得られる年代369年。
書紀を信用すれば、神武〜応神が14世代。1世代25年として350年。神武東征とやらは1世紀の出来事だな。
- 81 :
- 瀬戸内沿岸に、タタキ仕上げの典型的庄内式甕 はほとんど無いよ。
佐々木健一氏の論文で取り上げている広島の「庄内式甕」は、外面ハケメ仕上げの「布留傾向甕」で、寺沢氏なんかは「0式布留甕」とする代物だ。
これらは、青木勘時氏などは「西部瀬戸内系(型)布留式甕」として、庄内式甕に含めないどころか、大和の「布留0式」よりやや新しく考えている。
瀬戸内沿岸には、播磨の一部に庄内式甕があるが、他はわずかにしか出土せず、瀬戸内沿岸を飛び越えて福岡平野に分布する。そして、福岡平野には物部氏の伝承は希薄だ。
瀬戸内沿岸の「布留0式」甕にしても、物部氏と関係あるかというと、根拠ないだろと。
庄内式や布留0式の実態を知らない者が、「物部だ、物部だ」とわめくのは滑稽過ぎるw
考古学的には、瀬戸内沿岸の交易ルートはむしろ、真ん中の吉備があり、吉備型甕の搬入が河内と博多湾岸に集中しているから、吉備勢力(「吉備「氏」」ではないよ)が仲介しているとする次山淳氏の説がむしろ説得力がある。
- 82 :
- >79
>畿内は3世紀から土師器の時代だろ。
ならば畿内いた氏族は庄内を「受け入れた」という事だろ。
ならば、庄内式=「物部氏」に限定できないだろ?
言っていることが自己矛盾じゃないか?
- 83 :
- 東征があったとすれば4世紀ではないかと思っているよ。
自分なりの根拠とするところはいろいろあるんだが…
3世紀までの銅鐸の記憶が全く消失しているのに、
1世紀やそれ以前の紀元前の記憶がそれ以上に詳細に残っているはずがない。
- 84 :
- >>81
>福岡平野には物部氏の伝承は希薄だ。
じゃ福岡平野には何氏の伝承が濃厚なのだ?
初期ヤマト政権との関係が注目される那珂八幡古墳を布留0式として3世紀中頃〜後半としようか。
那珂八幡からは椿井大塚山との同笵鏡も出てるようだし、
3世紀に畿内から派遣された国造的氏族と仮定してよいではないか。
物部、あるいは物部の派生氏族と見てもよいし、俺はそう見てる。
俺の意見であり、キミに頑なに否定される謂れはない。
>>82
>ならば、庄内式=「物部氏」に限定できないだろ?
3世紀に畿内にいた氏族が庄内を受け入れてるなら物部も受け入れてるではないか。
矛盾してるのはおまえだろ。
- 85 :
- >>80
>書紀を信用すれば、神武〜応神が14世代。1世代25年として350年。神武東征とやらは1世紀の出来事だな。
いわゆる欠史八代が欠史でなく実在したとしても、
記紀に書かれてるように父子継承ではなく、
明らかに兄弟継承があったことは、複数の豪族の系譜から判断しても間違いない。
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/tennnou.gif
祟神から神武まで5〜6世代。
応神から神武まで10〜11世代くらいだろう。
当時の平均寿命からみて1世代間隔は20年弱だろう。
応神元年を390年とし、祟神没を古事記の318年として、
神武東征は2世紀後半だろう。
ちょうど奈良盆地の環濠集落が終わりを迎え、
銅鐸祭祀も終わり、
前方後円墳が作られ始める時代にピタリと合う。
- 86 :
- >84
だからさあ、
庄内式=物部氏だけとは言えないんだから、
庄内式の広がりが物部氏ネットワークというあなたの話は何も証明されていない、と言っているだけだ。
また、物部氏の古い伝承地に庄内式が主体的の様式をなしているところはむしろごく一部だ。
どっちにしても、物部氏だから庄内式、あるいは庄内式だから物部氏、という命題は成立しないんだよ。
論理学的におかしいことを理解してくれ。
- 87 :
- >>84
> >>81
> >福岡平野には物部氏の伝承は希薄だ。
>
> じゃ福岡平野には何氏の伝承が濃厚なのだ?
考古学から「何氏」という話はそもそもできない。
あなたの得意な(?)古代史でも、福岡平野に物部氏の伝承は少ないでしょう?
それを置いておいて、「じゃあ何氏だよ」と言うのは筋違いも甚だしいでしょう。
福岡平野も「物部氏」とするなら、少なくともまず、古伝承や古文献の根拠をまず提示するのが先だ。
なおこちらは、福岡平野の勢力が当時、何氏かというのは、根拠が少ない以上、先に追究すべき課題ではないと考えている。
> 初期ヤマト政権との関係が注目される那珂八幡古墳を布留0式として3世紀中頃〜後半
> 那珂八幡からは椿井大塚山との同笵鏡も出てるようだし、
> 3世紀に畿内から派遣された国造的氏族と仮定してよいではないか。
三角縁の同型鏡があるから派遣氏族とか、そんなことどうやって考古学的に言えるのかい?
そもそも椿井大塚山は物部氏かよ?
いつの間に、三角縁神獣鏡=物部氏になったんだ?
三角縁神獣鏡があったら物部氏なんか?
あなたの論理は論証不可能な仮定しかないですよ。
あと忠告すると「国造」は、古代史学では6世紀以降とされていますよ。
> 物部、あるいは物部の派生氏族と見てもよいし、俺はそう見てる。
> 俺の意見であり、キミに頑なに否定される謂れはない。
頑なに否定というか、根拠のない仮定、論証不可能な仮説は学問ではない。
「思う」のは勝手です。
しかし、一応、ここは学問板だ。
- 88 :
- >庄内式=物部氏だけとは言えないんだから、
キミはハゲか。
俺がいつ庄内は物部氏だけと言ったのだ?
>庄内式の広がりが物部氏ネットワークというあなたの話は何も証明されていない、と言っているだけだ
当たり前だ、俺の自説なんだから。
証明されたらこんな嬉しいことはない。
>どっちにしても、物部氏だから庄内式、あるいは庄内式だから物部氏、という命題は成立しないんだよ。
誰がそんな事を言ったんだ。
勝手に命題を作るな。
- 89 :
- >>84
>矛盾してるのはおまえだろ。
????
人の話を理解できないのは見苦しいですね。
- 90 :
- >>88
> >庄内式=物部氏だけとは言えないんだから、
>
> キミはハゲか。
> 俺がいつ庄内は物部氏だけと言ったのだ?
>
>
> >庄内式の広がりが物部氏ネットワークというあなたの話は何も証明されていない、と言っているだけだ
>
> 当たり前だ、俺の自説なんだから。
> 証明されたらこんな嬉しいことはない。
ですから、証明できません、反証されますよ、って言われていますよ。
それから、その自説、庄内式の分布をもって物部氏の活動としているようにしか読めないんだけど。
>キミはハゲか
こういう罵詈雑言しか言えない人がYahoo!掲示板によくいますね。
- 91 :
- >>87
>考古学から「何氏」という話はそもそもできない。
あなたの得意な(?)古代史でも、福岡平野に物部氏の伝承は少ないでしょう?
それを置いておいて、「じゃあ何氏だよ」と言うのは筋違いも甚だしいでしょう
ここは日本史板だ。
考古学、神話も含めての文献史を総合して考えるのが日本史。
考古学の話を専門的にしたいのなら考古学板にでもどうぞ。
>三角縁の同型鏡があるから派遣氏族とか、そんなことどうやって考古学的に言えるのかい?
そもそも椿井大塚山は物部氏かよ?
祟神が母方の墓制を採用し前方後円墳を作った可能性が高い。
ならばホケノや勝山など纏向古墳群は祟神以前の物部氏の墓だろう。
椿井大塚山も那珂八幡も物部氏族の墓だと思ってる。
>「思う」のは勝手です。
しかし、一応、ここは学問板だ。
仮説、自説を言ってはいけないのか。
繰り返すが考古学板にスレたてたらどうだ。
- 92 :
- 仮説というのは、十分な根拠と論証可能あるいは反証可能な論理が必要だ。
そうでないものは単なる思いつき。
都合が悪い事実や論理矛盾を指摘されても訂正しないのは学問ではない。
考古学か日本史かという問題ではない。
また考古学だって歴史学の一部だ。
庄内式だとか布留式だとか、三角縁神獣鏡だとか、考古学の話を「自説」の根拠にするなら、それについて、謙虚に専門的な話しに耳を傾けなきゃいけないでしょう。
例えば、椿井大塚山も「物部氏」と「思う」と言われても、根拠不明だし。
タケハニヤスヒコとか、逆にそれを破った彦国葺、あるいはヒコイマス王ではないか?という説は聴いたことがあるが、物部氏というのは初耳だな(笑)
日本史学にしても、例えば「国造」に言及するなら、その成立時期などに関する研究史も参照しないとダメですよ。
あ〜疲れる。
いきなりスレ主の意向と違った展開になってしまって、皆さんごめんなさい。
- 93 :
- >日本史学にしても、例えば「国造」に言及するなら、その成立時期などに関する研究史も参照しないとダメですよ。
忠告してくれるのは結構だが、
国造的氏族、「的」と言ってるだろ。
- 94 :
- >祟神が母方の墓制を採用し前方後円墳を作った可能性が高い。
>ならばホケノや勝山など纏向古墳群は祟神以前の物部氏の墓だろう。
>椿井大塚山も那珂八幡も物部氏族の墓だと思ってる。
これだと、前期前半までの全国の前方後円墳はほとんど全て物部氏になるな。
「そんなことは言っていない」と言いそうだけど、そういう論理だよ、それ。
自分が言っている論理に無自覚なのは反論しようがない。
もう何でもありだな。
- 95 :
- >これだと、前期前半までの全国の前方後円墳はほとんど全て物部氏になるな。
弥生時代からの鉄の供給システムの頂点にあったのが、
物部(ニギハヤヒ以前)だと思ってる。
鉄が弥生時代に北九州から全国に供給されてるようなので、
ニギハヤヒ系氏族は全国にいただろう。
千葉の神門古墳など大王家ゆかりと考える方がおかしいと思うがな。
- 96 :
- 退場!(爆)
- 97 :
- 弥生時代の鉄鏃
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/206y-1.jpg
西日本は置いておくとして、何やら千葉と石川が多い。
千葉には神門古墳、
石川には分校マエ山古墳という前期の古墳がある。
つまり鉄の供給は後の古墳の造営に繋がるのだ。
もっと言えば鉄の親方が各地の首長になり、
鉄の供給源を握ってた北九州系の氏族が全国に散らばったのだ。
それはニギハヤヒ系物部氏しかいないではないか。
- 98 :
- まだやってるよ、物部ヲタ(嘲笑)
- 99 :
- ま、今日はこれくらいにしといてやるよ。w
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