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2013年05月戦国時代26: 戦国ちょっと悪い話36 (572)
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織田家のマイナーな武将を語るスレ (450)
【早雲】後北条家総合スレッド 其の四【氏直】 (956)
織田信長の一日〜八日目〜 (699)
* 織田信忠 その2 * (978)
* 織田信忠 その2 * (978)
■■戦国最強十傑■■ (337)
戦国ちょっと悪い話36
- 1 :2013/03/21 〜 最終レス :2013/05/07
- 戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話35
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356968224/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
- 2 :
- >>1乙
前スレの話、「急行すれば泊まらずに伊達領に戻れるのに泊まっていくとかおかしくね?」という意見が出たから襲撃取りやめたって話もあったな。
翌日政宗が伊達領に入ると国境で伏せてた兵が引き上げていったと。
- 3 :
- >>2
これかな
伊達と相馬、累代の敵国
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5237.html
>>1 乙
- 4 :
- >>1乙
共に狩りにまいりましょうぞ。
狩りの後はスレ立てをねぎらう酒席も用意してございます
- 5 :
- うっきー主催なら14ヘ進む、弾正なら42th面に進む、三歳さまなら奥方と遭遇する
- 6 :
- 藤原惺窩は関白秀次の召しに応じて、五山の僧侶と同じく詩を相国寺に賦した。
そして惺窩は他日にまた召されたが、病気を理由にこれを辞した。
惺窩が弟子に言うには「君子には君子のなかま、小人には小人のなかまがある。
なかまでもないのに交われば最後まで相容れない。
余が秀次に交われば、ただ最後まで心が合わないのみならず、後に必ずや
悔やんでも手遅れなことになるだろう。余は再び見えることを欲しない」
ということだった。
秀次はこれを聞いて心中に恨みを抱いた。惺窩は免れざることを懼れて、
避けて肥前名護屋へと赴いた。
――『先哲叢談』
- 7 :
- どいつもこいつも秀次がいったい何したってんだよ(´;ω;`)
- 8 :
- 前スレ>>996
あえてうまみ「系」と書いたところで勘案してくれよ
現代の「うまみ調味料」、つまり化学調味料があるわけないだろ
戦国時代のポピュラ−な調味料は味噌、酢、塩ぐらいで、
塩味以外のうまみ(アミノ酸)を加えよと思えば味噌しかなかった。
- 9 :
- 福島正則が酒に酔って家臣に切腹を申しつけるんだが
酔いがさめたらそんなことすっかり忘れててその家臣を呼びつけるって逸話あるじゃん
まとめにもないし俺が探しても見つからないんだけどもしかして司馬の創作だったりする?
- 10 :
- なんとなく星野又右衛門の話がよぎったが、酒ではないな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-448.html
wikiには結局切腹させてしまった的な逸話があったが、ソースはなしか
司馬遼太郎だとすると、「俺は権現」かなにか?
しかし、前の「くらわんか舟」やメッケルの関ヶ原ではないけど、
ソースが見当たらないからって、なんでもかんでも司馬遼太郎の創作扱いするのは
- 11 :
- >9、元ネタは孫権かと。>8味噌あるなら醤油もありそうだけどな。あと鰹節とか昆布か、にぼしとか
- 12 :
- 醤油が大量生産されるのは江戸時代に入ってからなんだな。
- 13 :
- 信長のシェフで言ってたもんな
- 14 :
- 前スレ>>922の続き
秀次からの借金を返納し、閉門を解かれた細川忠興は伏見城へ登城した。
奥へ通られよと言われ、列座の中を通って行ったが、
皆、忠興はこれから大丈夫だろうかと心配している様子であった。
秀吉は奥の間で寝ていたが、
忠興が来ると三成が訴えの証拠とした連判状を取り出し、
秀吉「ここにあるのはその方の判に相違ないか?」
忠興「いかにもよく似てはおりますが、筆格が違います」
秀吉「そうか・・・近う寄れ」
と言って忠興の懐に手を入れ探ったが、懐剣も持っていなかったので
秀吉「なるほどそうであろう。大倒れ者に一味し、このような連判状があると言っても、
総じて十人中五人や三人は謀判(※偽の判)ということはあるものだ。
忠興は先年明智の謀反にさえ与しなかったのだから、この判は偽りだろう。
例え一味であったとしても以前の忠義に対して許す。
さぞこの度は気詰りであったろう、茶の湯をして気を晴らすがよい」
と『有明』という茶入を与え、忠興は畏まりお礼を申し上げた。
その時、御側衆の者らが全く結構な物を拝領されたものよと言うと、
秀吉「いや、それよりもっと大事な物をやったぞ」
忠興「・・・? ・・・そういえば、前にも時雨の茶壺を頂きましたな」
秀吉「いやそれではない。最も大事な命をやったのだ」
忠興が退出すると、御次の間の人々は命さえ危うかったのに名物を御拝領とは、
冥加に叶ったことだと申したものだ。
後に有明の茶入は普請の時に金が足りないので
黄金50枚(30枚とも)の質に入れてしまい、その当時は麦飯ばかり食っていたという。
(綿考輯録)
>>9
「武功雑記」に載ってる話。
- 15 :
- 有明の茶入って取り戻そうとした例のブツだなw
- 16 :
- ある意味オヤクソクの細川貧乏話でオチ
- 17 :
- 大名が麦飯なら家臣とか領民はどうなってるんだよ((;゜Д゜)ガクガクブルブル
- 18 :
- >>17
殿がまた手打ちにしたぞー!
ありがてえありがてえ、これで鍋が出来るだ
- 19 :
- >>17
そりゃ普通に上の立場が我慢する時もあるだろ…
- 20 :
- >>8
味噌、醤油はうまみ系ですら無いぞ。
- 21 :
- お米がなければお餅を食べればいいじゃない
- 22 :
- >>14
この時代に黄金って言った場合、慶長小判かな慶長大判かな?
50枚だと小判の方なら1千万くらい、大判なら1億くらいの価値かな
- 23 :
- >>22
小判なら両で表記されるし枚なら大判でしょ。
現代の金銭価値への換算は意味が薄いかな。物品へ換算するか、
労働力換算するかなどで桁違いの値になっちゃうし
- 24 :
- >>20
「グルタミン酸 味噌」でググれ
- 25 :
- >>8
酒は?
- 26 :
- 戦国時代は味噌はまだ食料であって調味料的な扱いではなかったのでは?
武田の陣中食と言われてるほうとうは味噌煮込みの鍋だけど実際は江戸時代になってから成立したものらしいし
- 27 :
- うまみ調味料つながりでなんか面白いの見つけたw
縁起かつぎとしての利用として「勝男武士」の字を当てはめて、北条氏綱氏が戦勝の報償品として常にかつお節を用いたそうです。
http://www.yamaki.co.jp/laboratory/labo01.html
- 28 :
- 天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置は完了し、蒲生氏郷は会津に、木村伊勢守(吉清)、
並びにその息子弥一右衛門(清久)は大崎に下り下折壁という場所にあった。
ところがこの年の10月中旬の頃、不意に一揆が蜂起して大混乱となった。
この一揆の根源は、秀吉によって定められた新しい領主やその家臣たちが、下は姦R法に越え、
どうかすれば現地の者の妻であっても犯すというような事件が多く発生し、また上も政道
正しからず、民間の租税を著しく引き上げ民を虐げた。このため人々は旧主を懐かしみ、現在の
領主達に遺恨をいだき、かつての地頭などを語らい友や同士を集めて、反逆をなしたのである。
その発端はこのようなものであった。
木村伊勢守が秀吉の命によって大崎に下った後、岩出山の城は萩田三右衛門尉と言う者に、数多の
武士を付けて警護させていた。
時にこの萩田三右衛門尉には未だ妻がなく、奥州仕置以前の岩出山城主・氏家吉継の旧臣で今も
岩出山に有る者に娘が有り、これを内々に求めたのだが、この者はなかなか同心しようとしなかった。
が、彼に弟が有り、これが強く意見したため、かの娘は萩田に嫁ぐこととなった。
ところがこの萩田三右衛門尉と言う男は酒乱であり、そう言う時にこの妻を打擲した。
この噂をかの父が伝え聞き、大変な怒りを覚えたが、彼女が嫁ぐことを進めた弟が一旦それを宥め、
娘の側近くに仕える女を呼び出し、「重ねてあの男が酔って暴力に及ぶことがあれば、包み隠さず
報告するように」と言い含め、内々に調べた所、その後も萩田は何度も妻に暴力を振るったことが解った。
ここにこの岩出山の兄弟は許せぬと思い、「この上は、あの萩田三右衛門尉と刺し違えて、
この鬱憤を晴らしてくれよう!」と決意した。その上で氏家氏の旧家臣らと密かに連絡を取り、
これこれの計画に同意してくれるよう頼んだ所、皆仔細も聞かず了解した。
さて、その頃岩出山城中では屋作のため、茅を大量に地毛より運び入れていた。
氏家の旧臣達はその中に具足・太刀・刀などを結び入れて、密かに城中に運んだ。
この事を警護の武士たちは全く気が付かず、叛徒たちは思うままに支度をしたのである。
ある日、岩出山の兄弟は一味のものを引き連れて不意に城中に乱入。かの憎き萩田三右衛門尉を
たちまちに刺殺した。
城中の者達は慌て騒ぎ、訳も解らず叛徒たちに斬って懸ったが、叛徒たちは大勢であり、
逆に取り籠めて散々に斬り捨て、その後、それまで用意しておいた兵具を茅の中から取り出し
旗を上げて城門を固めここに立て籠った。
この反乱の報告は、登米城にあった木村親子の元に方方から告げられた。彼らが対処方針を
協議していると、今度は登米と間近の古川でも一揆が勃発したとの知らせが入り、
「では先ず古川を先に平定し、それから他に対処しよう」と決定し、軍勢を発進させた。
ところがこの進軍の最中、飛脚により急報が入る
「殿が出立された後、登米でも一揆が蜂起し、登米城は攻め落とされました!!」
「古川の城も一気によって攻め落とされました!!」
瞬く間に孤軍となった木村親子は、未だ健在な成合平左衛門尉の居城・佐治城に立て籠るより他
無かったのである。
(会津四家合考)
葛西大崎一揆蜂起についての経緯である
- 29 :
- >>26
味噌汁はすでにあるよ
- 30 :
- 初期の味噌汁は味噌の食べ方の一形態であって、今みたいに味噌は味付けのための調味料と言う捉え方じゃないんじゃないかな
でも料理物語ではもう味噌を調味料的に扱った料理を紹介してたと思うから
調味料化は江戸初期から広まっていってたんだろうな
- 31 :
- 焼味噌という食べ方もあるけど、
味噌田楽も室町時代からあるといわれている
そんなにこだわるポイントか?
- 32 :
- >>27
まとめにあるよ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7024.html
- 33 :
- >>31
味噌は戦国大名にとって大事な資源だからな
戦が絶えてから調味料化が進んだという点でも重要なポイントだよ
- 34 :
- 鰹節がないとねこまんま作れないじゃん、ねこまんまは北条さんの燃料だよ
- 35 :
- 島津久信の最期
かつて島津忠恒と家督を争った事もあった垂水島津家当主島津久信(忠仍とも、母は島津義久の次女)という人物がいたが、
家督争いから脱落し、義久死後は再び家督簒奪を狙ったなど疑われ起請文まで書かされた久信の末路は悲惨であった。
寛永14年(1637年)のこと、ある時風邪をひいて体調を崩した久信は松井玄性をいう医師の処方を受けていたが、
ある日、玄性の薬からいつもと違う毒見を感じた久信はすぐに服用をやめ、毒消しの砂金を煎用した。
その日の内に久信は改めて玄性を呼び寄せ、「誰の謀計で毒を盛った?」と尋ねたが、
玄性は「決して毒などは盛っておりません。今朝はいつもの調合に少し加味しただけです」と返事をした。
久信は玄性の弁明が本当ならばという事で残った薬を全て玄性に飲むように命じ、玄性はこれを飲み干して退出したが、
その後に玄性は自宅の門の所で昏倒してそのまま二度を目覚めることはなかった。
久信が玄性に飲まされていたのは疑ったとおり紛れもなく毒薬だったのである。
これが祟ってか久信も年内の内に死亡。そして翌寛永15年(1638年)、後を追うかのように島津忠恒もこの世を去った。
- 36 :
- 犯人が全く分からない・・・一体誰の差し金だったんだ(棒)
- 37 :
- 悪久さんか祟る人多すぎてわからないぞ!
- 38 :
- ああ(察し)
- 39 :
- 味噌の便利さは現代人でもよくわかるな
冷蔵庫いれなくても持つし
合戦の場でも湯沸かして溶かして飲めるし
焼き味噌にして食べることも出来る
肉や野菜につけて食べることも出来る
- 40 :
- 砂金が毒消しになると思われてたのか
- 41 :
- 銀の箸で毒か判定
- 42 :
- 戦国時代は色々迷信があるんだよね
砂金ならまだいい方で合戦で大怪我したときはう○こを煮たものを飲むとか
とんでもないものもあったらしい
- 43 :
- >>42
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
その話ならここに
大河の「風林火山」でも出てくるな
利尿作用があるとかビタミンで凝血作用があるとかいう話もあるがどうだろ
- 44 :
- 味噌はすごいよ ないとこまるよ むしろお味噌が主食だよ
- 45 :
- どこかに権現味噌とかありそう
- 46 :
- さて
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/816
の後のこと
文禄元年、秀吉が朝鮮征伐のため肥前名護屋へと向かう途中、安芸に立ち寄り
厳島への参詣を行った。領主の毛利輝元は同行の諸大名衆も含めてこれを接待した。
その日は雨天であったが、秀吉は先ず弁財天に参詣して祈念を行い、その後経堂へと入る。
諸大名もこれに伺候したが、ここで秀吉が言い出した
「そうだ芸州(輝元)、いつぞやは聚楽において大蔵之丞と徳猪之丞の相撲を見れずに
残念であった。彼らを召して、腕押し(腕相撲)をさせて、この雨中の徒然の慰みとしよう。」
輝元は「然るべく候わん」と、しばらくして両人を召し出し、彼らは座の中央で
腕押しを始めた。
何れも夜叉鬼王の如き男が、憤怒の表情で腕を押し合う姿に、御前の人々我知らず
手を握りしめ汗をかき、両人が獅子の歯噛みをする様子に、これはこれはと誉めそやした。
彼らは半時(約1時間)ばかり押し合ったが、右にも行かず左にも押されず、まるで固まったかのように
見えた所、徳猪之丞の手首の骨「はしっ」と言って折れた。
ここで腕押しは終わった。
座中一統、まるで牛のような力であると、感じ入った。
秀吉は徳猪之丞に、「骨の折れたのを治療せよ」と外科の名人を集めて手当を尽くしたのであるが、
手首が大きく腫れ上がり、脈所に腐り入って、56日後に亡くなってしまった。
これを惜しまぬ人は居なかったという。
(義殘後覺)
徳猪之丞、腕相撲に死す。という逸話である
- 47 :
- こんな感じか…
ttp://pds.exblog.jp/pds/1/200603/05/96/b0020896_2328970.jpg
- 48 :
- 悪久さんの周囲は謀殺と戦と蹴鞠に満ち満ちている
- 49 :
- よかった、DQNに満ち溢れてはいないんですね
- 50 :
- >>42-43の直後に>>44はわざとかwww
- 51 :
- 天正二年正月二十八日、富田長繁と袂を分かった越前の一揆勢は加賀より七里頼周を大将として招き、本願寺の戦力であることを明確にした。
しかし、一揆勢の制御は七里達にも取れていなかった。
武士も含めた反信長勢力の糾合を目指す本願寺の意思に反して、一揆勢は各所の武士達を攻撃し始めたのである。
丹生郡三留の朝倉孫六が討たれ、河北の黒坂与七も攻め滅ぼされた。
七里頼周は黒坂一族の首を持参した者を「命令無しに勝手に武士をRのは言語道断」として成敗したという。
この頃、丹生郡末野村(現越前町陶の谷付近)は立神(立髪)氏が治めていた。
この立神氏も蜂起した村人達によって討ち取られ、屋敷は略奪の対象となり火を掛けられた。
立神氏は前年十月の時点で本願寺と結び顕如からお墨付きを受けていたにもかかわらず、である。
この年の二月に作成され、一揆の指揮官である坊官に提出されたと思われる『某申状』はこの件を「理不尽」とし、
村人を召喚して糾明するよう求めている。
その後も一揆勢の丹生郡での暴走は収まらず、朝倉景綱が逃亡すると暴徒化した一揆勢によって剣神社が大きな被害を受けることとなる。
- 52 :
- 政宗「密書」、被災土蔵で発見…裏切り促す
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130325-OYT1T00225.htm?from=ylist
佐竹配下にあった小野崎氏に起請文を出してアプローチしてたとの事。
なお小野崎照通さんは、翌年の小田原征伐の時に異心ありとして佐竹に攻め落されたそうな。
- 53 :
- >>51
なんだ、一揆もヒャッハーか
ヒャッハーが持ちたる国越前
- 54 :
- 味方にする方が厄介だなw
- 55 :
- 剣神社といえば織田一族にとって大事な場所だよな
釜茹でもやむなしか
- 56 :
- >>46
前の逸話で助かった筈の命がこうも儚く消えるとは・・・
そういや、前の逸話で毛利中納言とか言ってたけど
文禄元年より前だと宰相じゃね?
- 57 :
- 鳴かぬなら まとめてヒャッハー 不如帰
- 58 :
- 越前の民は本願寺に長年の支配・指導を受けた加賀の民衆達とは違って
本願寺坊官や大坊主達からの直接支配を嫌い、宗主顕如と宗主の説く「仏法」にのみ帰依していたようだね
- 59 :
- 越前はキチガイしかいないのか
- 60 :
- 殺しあわせて皆殺しにするしか無かったんだな…
ノブの判断は正しかった
- 61 :
- >>55
後に支配することになる勝家や3人衆も信長に疎かにしやがっておめえらただじゃ済まさねえからなと怒られてたな
- 62 :
- 七里三河守頼周って顕如直筆の書状なんかには七三ってニックネームで呼ばれてたりするんだね
- 63 :
- 禿なのに七三とな
- 64 :
- >>58
仏法に帰依してるのに殺人は無いわ
- 65 :
- 念仏で全て許される
- 66 :
- アッラーアクバル的な何かか?
- 67 :
- >>62
ああいう略称って自分自身でも使ってるよね。
花押を据えるような書状の署名にまで使われてることもあるし
書札礼的にはどういう意味があるんだろう
- 68 :
- >>66
あっちは色々やらなくちゃいけないことがあるだろ
こちらは念仏唱えれば即救われる
それどころか宗派によっては何もしない・そもそも信じてなくても強制的に救われるからなw
- 69 :
- 武士が南無八幡大菩薩と唱えるのも浄土思想から来てるのか?
平家物語読んでると源氏平家問わず八幡大菩薩を大事にしているが
- 70 :
- >>58
その坊官や大坊主送り込んだのは顕如だし朝倉どころか織田もびっくりな酷な支配に民衆が怒っても
顕如は民衆の側に立とうとはしてくれなかったのが悲しいよね・・・
もう本願寺はそこまで追い込まれてたということなんだろうけど
- 71 :
- >>69
それは別かな。八幡神は平安末のころには応神天皇と同一視された日本の武神
ちなみに、奈良時代末には菩薩号がつくようになった
まあ本地垂迹説によって阿弥陀如来とは結びついてるけど
- 72 :
- 平家というと厳島神社を思い出すけど弁才天だから戦の時に祈る対象としてはどうかと思うし
そもそも厳島神社が平家の氏神になったのは平家の長い歴史の中で最後の短い期間でしかないしなあ
- 73 :
- 八幡神て源氏の氏神じゃなかったっけ?
- 74 :
- 平将門だって利用しているし、清和源氏の氏神であるのと同時に武家全般の崇敬の対象だったんだろう
- 75 :
- 大内義隆の家臣に、宮部久馬介、浅茅鹿馬介という、二人の小姓があった。
義隆はこの二人を別して大切にしていたのだが、ある時、とある女中からの支え口(中傷)により、
この鹿馬介を討つようにと、義隆より宮部久馬介に命ぜられた。
宮部は承って自分の宿舎に帰り考えた
「それにしても、なんと黙し難い仰せを被るものだろうか。私は鹿馬介と一緒に奉公仕り、
片時も放れたことはなかった。本当に入魂浅からぬ関係であるのに、彼にこんな事を一言も
知らせずして空しく討ち果ててしまえば、草葉の陰で、自分たちの契りはこんなものではなかったはずだと
どれほど恨むだろうか。
彼に知らせるなら、我も諸共に死ななくては面白くない。どうせここで死ぬのも主のため
なのだから、悪いことではない。」
そう思い定めると、浅茅の部屋へ行き、彼に言った
「私は大変情けなき仰せを被ってここに来た。義隆公より、それがしにあなたを討って来い、との仰せを
受けたのだ。しかし日頃から、親しくしていること他に異なる程の仲であるのに、一言も
あなたに知らせず、空しく討ち果たしては、冥土にて私は必ず恨まれるでしょう。
その上、あなたを討った私のことを、朋輩たちがどのように思うか、如何とも辨え難い。
こうなればあなたと刺し違えて、死出の旅路に赴こうと思う。」
浅茅はこれを聞くと
「さてもさても、日頃から互いをなおざりにしない関係であったのが、今ここに現れたのであろう。
あなたの心底は長く後の世までも忘れてはならない。
そして、かの女中の中傷に対して、真実を主君に申し開きをして死のう、と思ったが、
女を相手に論じても意味があるだろうか。
私は自害をしようと思う。なのであなたには、介錯を頼む。」
宮部はそのように言われて、笑い出して言った
「私の胸中を定めないまま、どうしてこの事をあなたに知らせるでしょうか?
仏神三宝も御照覧あれ!私はあなたとともに、相果てなければならない!」
浅茅、このように言われ「それならば仕方がない。であれば…」と、二人共に思い思いに
その意趣を細々と書き置きし、川の中瀬に行き、二人はしっかりと体を組んで、川の中に飛び込み
立つ白波と消えた。彼らの死を人々はみな、なんと殊勝な義死を遂げたものかと、褒めぬ者は
居なかった。
義隆は彼らの書き置きを見て千悔したが、もはや取り返しのつくことではなかった。
彼は中傷をしていた女を召し出すと、「あの者たちの追善にせよ」と、彼らが入水した中瀬にて
柴漬け(ふしつけ:簀巻きにして水中に投げ入れること)にして水の中に投げ捨てた、
と言われている。
(義殘後覺)
- 76 :
- >>67
花押がメインで署名はおまけなんじゃね〜の〜
つか、自分の名前でも結構いい加減に書いてるしね〜
- 77 :
- 義隆絡みだとどうしても女中が言い寄っても衆道一筋で目もくれなかったので逆恨みとかそういう痴情のもつれとかの想像をしてしまう
- 78 :
- 平家落人伝説のある祖谷に八幡大菩薩と書かれた旗が残ってるし、
平家物語の『一門の都落ち』では落ちる平家が、
男山八幡に、再び都に帰れるようにと参拝している話もある。
武家全般に信仰される神仏とみてよいだろう
- 79 :
- >>75
こういう名を重んじる潔さはいいね。
- 80 :
- 義隆さんは調べもしないで気分でお裁き
- 81 :
- >>75
:::::::::::::::男 は こ {::::::{
:::::::::::::::坂 て の _ ,−v 、::::::、
::::::::::::::::を し _/rァ  ̄ヽn ヽ::::::ヽ
::::::::::::::::よ な -こヽ__)ヽ へフ -‐':::::::::::}
:::::::::::::::::: く /::::::://, 7′:::::::::::::::::::::/
::::_n_ 遠 、:::::::::ー' //-‐ ば の よ オ
:::`ニl lニ い ヽ::::://\ か ぼ う レ
::::`フ \:::::::::ヽ __ ノ:::ー':::::::::::::ヽ り り や 達
/'´|_|`ニ_::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l だ は く は
:::::::ノ'r三7/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::} か じ
::::::::`フ, 匸/l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ ら め
:::::: ̄´::: ̄´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ な た
- 82 :
- 越前一向一揆の戦果
朝倉景鏡…討ち死
朝倉孫六(三富景盛?景茂?)…討ち死
佐々布光林坊…平吹落城後敦賀へ逃走を図るも捕捉されて自刃(本人あるいは息子が生き延びて商人になったとも)
溝江長逸…一揆に攻められ自刃(杉浦玄任の斡旋で和平を結ぶが、和平の儀式に乱入した一揆勢に討ち取られたとも)
立神清右衛門…蜂起した村人に討ち取られる
富田長繁…味方に撃ち殺される
朝倉景綱…逃亡(羽柴秀吉の救援有り)
鞍谷・千福・瓜生・北村・氏家・千秋・真柄…攻撃される。翌年織田軍の道案内として瓜生内記が登場することから逃亡に成功した?
普通に在来の統治組織そのものが吹っ飛んでないか、コレ。
- 83 :
- >>73
戦争の神様で、ジングウコウゴウを祀ってたはず。
氏素性が若干怪しい平氏よりは、宇多を除く各源氏の方が近しいとはいえる。
但し、八幡太郎が有名なだけで
弟は八幡次郎じゃなく加茂、新羅(佐竹さんはこちらの子孫だと断言してる)、と名乗ってるから
八幡神宮にこだわってるわけでも無いんじゃね
- 84 :
- 八幡宮の祭神て応神天皇だけどその母親の神功皇后も一緒に祀られてるんだよ
- 85 :
- >>83
もともとは海の神様(鍛冶の神様説もあり)だった。
平氏も八幡信仰していたのは事実。
元寇、元軍返り討ちの北条執権家は平氏の系統だし、
後北条の北条綱成も八幡大菩薩の旗を掲げ戦っていた
- 86 :
- 武家と宗教の話だと信長と本願寺かせいぜい謙信くらいしか有名じゃないけど
源平も含めてそういうのって面白いね
何か手軽でいい本はないだろうか
- 87 :
- 宗麟が泣いてるぜ
- 88 :
- 有馬晴信は島原の山岳信仰をぶち壊したと聞いている
- 89 :
- 明治の廃仏毀釈政策で日本仏教どころか、
神社神道も本来どういうものかわかりづらくなっている。
古事記、日本書紀に神様たくさん出てくるが、
江戸期まではあれだけ多様な種類の神社があったはず。
明治期に地方神やマイナーな神様を奉る神社が、
メジャーな神様に変えられた経緯もあり今じゃわからない。
八幡大菩薩の神号も禁止されたけど、
根付いていた信仰だから、旧日本軍は前線では政府無視して八幡大菩薩の旗を掲げていた
- 90 :
- ある時織田信長は庚申待(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする祭事)を行った。
ご相伴は柴田勝家、滝川一益、佐久間信盛、明智光秀を始めとした、諸士20人ばかりであった。
夜もふけ、酒宴乱舞で皆が遊んでいる中、明智光秀は小用のため座を立ち、そして庭先で暫く
佇んでいた。
ここで織田信長は、一体どのように思われたのか、広間にかけてあった槍を手に取り
鞘を引き剥がすと駈け出し、庭で俯いていた光秀の首に槍を突き出し刃先を当てた。
「どうしたきんか頭!何故座敷から立ち出たのか!?その懈怠の罰として、
お前の細首をこれで落としてくれようぞ!」
(いかにきんか頭、何とて座敷を立ちやふるぞ、其科怠に細首落とすとの給へば)
光秀は大いに驚き
「私は全くお座敷を逃げたのではありません!ただ今そちらに戻りまする!」
しかし信長
「どうしてお前が許される事があるだろうか!」
と、光秀の喉の脇に槍先を押し付けた。
光秀は恐怖したかのように小声になって
「ああ殿、御槍先が当たっております。どうかお許しくださいませ。」
と申し上げると、
(日向守、あゝ殿様御鑓先が当たりて奉る、真っ平御免あれと小声になって申されければ)
「そういう事ならば許してやろう。さあ、早く座にもどれ!」
そう言って槍を引いた。光秀はこの幸運に、五体よりどっと汗をかき、
そしてこう考えた。
『そもそも信長公は座興を好まれる人であり、その上今日の酒宴に乗じて、あのように
お戯れになったのであろう。
だが、”思い内にあれば色外に現れる”という。信長公は常に私を亡き者にしようと
思っているからこそ、この酒宴の時に、その本心が現れたのではないか?』
そう察し、それより以後は信長の動向を常に伺うようになったとのことである。
(義殘後覺)
- 91 :
- 『酒酔い本性違わず』とも言うからな
- 92 :
- 大河ドラマで今後出て来るね、この場面。
- 93 :
- >いかにきんか頭、何とて座敷を立ちやふるぞ、其科怠に細首落とすとの給へば
当時の日本語は難しいね。多分当時の人達の会話何言ってるのかわからないかも
- 94 :
- きんかん頭は司馬遼太郎の創作と聞いた覚えがあってググったら
他の軍記物では触れられてないのに、司馬遼太郎が国盗り物語で「義残後覚」の話を使ったせいで
一挙に広まった、ということだったか
- 95 :
- 信長でも庚申待するんだなー
- 96 :
- 村重「信長様もちついて下さい。」
- 97 :
- 徹夜の酒宴とか酒の飲めない俺には地獄のように聞こえる
- 98 :
- >>95
ラスボスが来るの待っててイラついてたんだな、きっと
- 99 :
- この宗論の話はもう出てますが、少し趣が違うので
天正3年の事である。
阿波の三好長治は、阿波に生まれたものは全て子に至るまで、法華経を抱かせて
日蓮宗に成るよう命じた。
これにより阿波の禅宗や真言宗の寺は檀家を取られ、経済的にも大変な苦境に立たされた。
これに真言宗の大滝山持明院は訴訟を起こした。その内容は
『これは仏法の事である以上、阿波一国を日蓮宗にしようとするのなら、その優劣を見るためにも
我等と日蓮宗との宗論を仰せ付けられるよう申し上げる!』
この訴訟は受け入れられ、三好長治は宗論を申し付けた。
この時、持明院には阿波国の真言坊主3千人が集まり、根来のえんじょうという僧を呼び、
彼は日蓮宗に対して質問状を書き、これを日蓮宗本行寺へ遣わした。
本行寺には堺妙国寺、経王寺などが下っていた。
堯伝坊が使いに参り、書状への返答を求めたが、彼らはそれに返答することが出来なかった。
これにより「宗論は負けた方を討ち潰す法度である!」と3千人の真言山臥達、事の他に騒いだ。
阿波三好家の重心、篠原実長(自遁)は真言宗をなだめ、堺妙国寺、経王寺を堺まで逃した。
こうして暫くは、真言宗の勝利のように受け取られたが、しかし三好長治は日蓮宗を後援することを
止めようとしなかった。
そのような中、三好長治の周りに様々な恐ろしいことが起こるようになった。
三好実休は既に亡くなっていたが、彼の屋敷や数寄屋はそのまま残っており、数寄屋には二人の
練達の武人が、番人として詰めていた。
ある夜、山伏が現れ戸を押し倒し中にあった二人の番衆を押さえつけた。
また長治の屋敷の中にも日が暮れると山伏が走り回り、さらに屋敷の上に、
身の丈5間(約9メートル)もあろうかという人形で様々な姿をした物が出現した。
この様な恐ろしい現象が起こったことについて、岡本卜也は
『長治の親も家も禅宗であったのに、阿波国を皆日蓮宗にしてしまえば、
親も家も皆破れて無くなる。これほど報いのかかる事は無いであろう。
これこそ、三好の家が滅びようとする前兆である。』
と、仰ったそうである。
(三好記)
天正三年の宗論と、その後の怪異についての逸話である
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