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2013年08月戦国時代36: 戦国ちょっと悪い話37 (139) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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戦国ちょっと悪い話37


1 :2013/06/30 〜 最終レス :2013/08/09
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話37
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1365370828/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
即討死防止兼>>1

3 :
あるとき成富兵庫茂安が江戸に勤めていた時の事である。
将軍家の代がわりがあり、成富兵庫茂安は鍋島家を代表してお祝いの挨拶を行った。
ところが…
鍋島淡路守茂宗は、はるばる佐賀から江戸へと上ってきて愕然とした。
それもそのはず、彼は将軍家代がわりに対する祝いの使者としてやってきたのに、既に兵庫がお祝いを済ませてしまったのである。
茂宗は鍋島主水茂里の息子である。
茂里は亡くなるころに一万石の加増を申しつけられたが、それを断っていた。
そのため、息子である茂宗に改めて加増を行おうということになり、
将軍家代がわりの祝いの使者として役目を果たした時、約束の加増がつかわされることになっていたのであった。
折角の江戸上がりが無駄になった茂宗は、ショックによって身体を悪くし、
茂宗の母である天林はひどく嘆いてかきくどいたので、
茂宗の叔父である安芸守茂賢は、ある時法事の席で兵庫を掴まえてその事を責めたてたという。
兵庫は閉口して、この件についての詫びの証文を書き、この証文は茂賢から天林へと渡されたという。
成富兵庫の、ちょっと間の悪かった話

4 :
或本に、同十四日、秀吉公が江州三井寺に至りなさったところ、
里人が光秀の首を奉ったので大変お悦びになり、杖で明智の首をお打ちなさって、
後に梟首になされたと云々。
(光秀の墓は洛東三条黒谷道より三町ばかり東の人家の後ろにあり。
これすなわち光秀の首をかけた土地なりと云々)
――『新東鑑』

5 :
明智を見事、討ち取った里人の名も伝わらず・・・・か。

6 :
村で討ち取った首級だから一人だけが賞されると後々ギクシャクするんじゃないか?
農村の知恵かもしれない

7 :
石垣原合戦後の翌日、如水本陣で行われた首実検での出来事。
大友軍の捕虜が、数々の首を見て、
「この中に吉良伝右衛門の首が見当たらないのは、不審なことです。
彼は大剛の武士、昨日のような戦いに臨んでは、生きて落ちのびることなど
ないはずです。どうか、詳しく点検なさって下さい」
と訴えるので、その顔の特徴を大村六太夫(井上之房家臣(黒田家陪臣))が
よくよく尋ねてみると
「癩病者のような見苦しい顔で、武士の首とはなかなか見えませぬ」
との答えであった。
その特徴に大村は覚えがあった。
「それは、昨日私が討ち取った首であろう。
兜付の首を二つ取ったのだが、そのうちの一つの首はあまりにも汚く、
癩病のように見えたので、首実検にも出せまいと思い藪に捨てたのだが、
それを跡から家人が拾って帰ってきて、手元にある。
では、その首を持ってこよう」
大村は急ぎ自分の陣屋に戻り、首を持って戻った。
捕虜はその首を見て
「これこそ吉良伝右衛門の首です。彼を討ち取られるとは、
さぞ骨が折れたことでしょう」
と言った。
吉良伝右衛門は、大友軍先陣の中にいて、黒田軍を追って浜辺へ行き、
そこから戻るところを討ち取られたということである。
(黒田家譜)
首の扱いが悪い話

8 :
>>5
呼んだ?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1246.html

9 :
慶長十四年正月十三日、徳川家康は遠江中泉を出立し、その日浜松、
十四日に吉田、十五日には吉郎を通る。
この吉郎において家康に訴える者がいた。これは故下野主(松平忠吉)の被官である。
家康はこれを見て「一人近寄って子細を申し述べよ」と言った。
すると、かの士十人ばかりが刀を指しながら走り寄ってきたので、家康が驚いて
「彼等を成敗せよ」と言うと、すなわち退散したので歩行の士たちがこれを追った。
その中の一人は抜刀して戦って死に、残りの者の行方は分からなかった。
――『当代記』
この直後に起きた既出の「清洲城の不思議な男」とは関係あるのやらないのやら。

10 :
方広寺鐘銘事件などから豊臣家と幕府の関係は急速に悪化し、駿府での協議から
帰ってきた片桐且元は『私案』として、「豊臣秀頼自信が江戸に行く」「淀殿を江戸へ人質に出す」
「大阪城を放棄し他国への国替えを願い出る」の3つの考えを伝え、これに大阪城内では
大きな反発が起こった。
慶長19年(1614)8月22日夜、大坂では大岡雅楽頭の邸宅において、大野修理(治長)、
木村長門、渡邉内蔵介と言った人々が、徳川との対決を決める談合が行われた。
しかしこの事を、織田常真公(信雄)の家臣である、生駒長兵衛、梅心の二人が知り、
23日、織田常真は片桐且元の元へ内々の書状が一封遣わされた。これに返書はいらないとのことなので、、
且元はこの書状の使いに、家来である小島庄兵衛と申す者を添えて常真の元へ返した。
常真は小島庄兵衛が来ると、彼に直に言った
「市正(且元)の身の上に関する大事の事であるので、これから言う事を市正殿以外に
他言してはならぬ!其方、金打ちをせよ!」
金打ちとは、固い誓いの印として、金属製の物を打ち合わせる行為である。
武士は刀の刃、または鍔を打合せた。
「それは一体どういうことでしょうか?」
小島が尋ねると、常真は
「大阪城の本丸や、その他でも若き者どもが談合して、今度、市正の提言した三ヶ条の内、
一つも同意することは出来ないから、市正を騙して駿府に差し下し、その後で市正の妻子以下、
そして市正の弟である主膳正(片桐貞隆)も自殺させ、徳川への敵対の色を立てようとか、
市正を先々切腹させよう、などとの話し合いが行われている。
昨夜あった談合で決まったことは、市正に対し『御袋様(淀殿)が市正と対面して相談したいことが
あるので本丸に参るように』と伝え、本丸に入った所を、廊下で取り押さえて切腹させ、
主膳は千畳敷にて殺し、その後市正・主膳の屋敷に攻め懸かって妻子、並びに家来の者たちを踏み潰し、
屋敷に火をかけ、その上で籠城の態勢を取ろう、と言う内容らしいのだ。
私はこれに驚き、市正を殺しては成らぬと思い、今このように、内通する事にした。」
小島庄兵衛も大いに驚き
「忝い御意であります。そしてこの件に関して、市正が承服出来るように、常真様のお墨付きを
頂きたいと思います。」
「それは尤もなことである。しかし徒に時間をかけてはいけない。さあ、金打ちをするのだ。」
と、常真から誓言をした上で、金打ちをし、小島も金打ちをした。
そして小島庄兵衛は急ぎ帰ると、且元に委細を伝えた。
これにより片桐且元は『にわかに病気となった』と言い出し、その日より大阪城への出仕を取りやめた。
(片桐家秘記)
大阪冬の陣直前、織田信雄が片桐且元に内通をしたその時を描いた記録である

11 :
前田利常公の時代のこと
上村孫市という者が「百姓を打擲したら死んだ(百姓を打擲仕候得は、死申候)」との
届出をしてきたため、加賀藩は彼を公事場(裁判の場)に呼び出しその仔細を尋ねたところ、
上村孫市は以ての外に怒りだし、Rに至った状況を話そうとはせず、逆に奉行達に向かって
「私は自分相応の男道を勤めている!あなた方は自分よりも弱い奴を組み伏せ首をとっても、
自慢顔をするような人達だ!
私は自分よりも強い奴を相手にして、首も半分取られかけた!しかしそこを跳ね返して
討ち取ったのである!私は頭を十文字に割られたのだぞ!」
(手前似合に男道相勤申候、各ハ我よりよわきやつを仕伏首取候でさへ、自慢顔にて候。
手前ハ我より強きやつを相手にして首も半分取られかけ候をはね返し討取り申候。
あたまを十文字にわられ申候。)
そのようにわめき騒ぎ立て、状況を説明することはなかった。
奉行達は困り果て、この事を奥村源左衛門殿に申し上げた所、
「ここは我慢して、そのままにしておけ。
あの上村孫市が物の道理の解る人間であったら、今の私と同じ程には
取り立てられていただろうに…。」
と言い、このため上村孫市には処分が下らなかったという。
これは別所三平から聞いた話である。
(微妙公夜話)
面倒というか頭がおかしいと言うか、前田家にも困った人が居たんですね、
というお話。

12 :
強弁や強烈な屁理屈で動いてる人間って昔から迷惑な存在やったんやね

13 :
これは関わり合いたくない
「基地外はスルー」は昔からだったんですね

14 :
上村さんの理屈も、奥村さんの理屈もともにおかしいな
どちらも自分の都合ばかりで損はしなくないの丸出し

15 :
訂正
「損はしたくないの」
武士と奉行所が公事となった件で基地害スルーしたらダメだよな
気持ちはわかるが

16 :
慶長5年9月14日、筑前中納言小早川秀秋は大軍を率いて松尾山に到着した。
脇坂中務、朽木河内守、小河左馬之助も秀秋に従って同所へと来た。
秀秋はかねてからの存念の通りに、徳川家康に反忠すべしとの内意であった。
そして脇坂、朽木、小河も、藤堂佐渡守(高虎)を頼み、東軍に味方する旨を
密かに申し出ていた。
石田三成達は秀秋の動向を心もとなく思ったのであろう、各々相談して、
滝川豊前、矢田半兵衛を使いとして、秀秋に四ヶ条の書状を遣わした。その内容は

一、秀頼公が15歳になられるまで、関白職、並びに天下は秀秋公へお譲り渡す事。
一、秀秋公が上方滞在のための賄いとして、播磨国をお渡しいたす事。
一、近江において、10万石を稲葉佐渡守に、同じく10万石を平岡石見守に(何れも秀秋重臣)
  秀頼公より下される事。
一、当座の音物として、金子300枚を稲葉に、同じく300枚を平岡に下される事。

この書状の最後に誓詞があり
『九月十四日   安国寺 形部少輔 治部少輔 大蔵 小西 秀家 』
と署名されていた。
(關原始末記)
小早川秀秋を何とか繋ぎとめようとした、三成たちが差し出した書状についての話である。

17 :
上村さんは上層部の弱みでも握ってたのかな
どんなに強かろうと、こんなキチガイ処断しないと示しがつかないだろ

18 :
織田信長の勘気に触れた佐久間信盛は天王寺を出ていった。侍や小姓は皆退散し、
たった三人が高野山まで従った。しかし、そのうち二人もまもなく退散したという。
信盛は高野の南東の相江というわずかな所に居ついた。
金子もかろうじて十枚ほどを持参するだけだったという。
ある時、山岡景友は思い立って信盛を訪問し、平井安斎もこれに同道した。
信盛は対面して涙を流し、とても感悦した。
二人が信盛を訪問したことを、その頃の各々が感じ入ったという。
天正十年正月十六日、信盛は紀州熊野の奥で病死した。信長は気の毒だと言って、
信盛の子甚九郎を召し直し、織田信忠に奉公させた。
――『当代記』

19 :
>>1


20 :
天正14年(1586)正月二十一日、この頃『千人斬り』と号して、大坂の町人の内、人夫風情の者を
数多討ちRという事について様々な風聞があった。
その内容は、大谷紀之介(吉継)という関白殿(秀吉)の小姓衆の一人が、悪瘡を気に病み、
千人殺してその血を舐ればその病は平癒する、と信じているため、そのような事をやっているのだと
云々されていた。これは全く、世上の風説である。
今日二十一日、この事が関白殿のお耳に入り、
「このような風説が広まっているのに、それを報告しなかったのは曲事である!
町奉行の者たちはRべきであるが、今回は、命だけは助けてやる。」
と、大坂の町奉行の3人を、追籠(自宅に閉じ籠めて謹慎させること)とした。
関白殿はこのことを仰せ付けになって、今日御上洛された。そして、
 盗人事 人ヲ切事 博奕事 酔狂事 徒者事
の五ヶ条を禁制とし、それを高札2枚にして掲げた。
この時高札には一つにつき金10枚が打ち付けられた。2枚の高札に、金20枚である。
そのような中、先の千人斬りの容疑者と思われる者が、大量に捕らえられたと
噂された。二月の二十七、八日にはこの真犯人とされるものが顕れ、
三月四日ごろに処刑された。
この者は、宇喜多次郎九郎という人物であったという。
この宇喜多次郎九郎が処刑されるまで、あれは大谷紀之介の所業であるという風聞は
一円に語られていた。
(宇野主水記)
本願寺顕如の右筆、宇野主水の記録した、大谷吉継の千人斬りの風聞についての顛末である。

21 :
既出だけど、犯人が捕まった部分は新しいな

22 :
犯人逮捕への圧力が冤罪を産むのです

23 :
「大量に捕らえられた」と言う容疑者はどうなったのだろうか
ちょっと心配になる展開

24 :
>>21
既出のも捕まってた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5392.html

25 :
肥後国誌にこんな記述があるそうだ
城中ヨリ小場太郎左エ門ト名乗リテ出シヲ寄手モ水野六左エ門勝成ト名乗テ蒐合セ小場ヲ討テ首級ヲ上ク、之ヲ見テ城中ヨリ三人一同ニ切テ出水野ヲ中ニ韜ミケレ共勝成屑トセス三人共ニ切臥ル
肥後一揆の城村城攻めのとき
城内から小場太郎左エ門がでてきて、寄せての水野勝成と互いの名乗りをあげて、一騎討ちをした
勝成が勝利。
それをみて、仇を討とうと城内から三人がでてきて、一斉に囲んで勝成をやっつけようとしたけど
三人とも返り討ちにされてしまいました
という訳でいいのかな?
キリングマシーンに挑んではいけない

26 :
ある本によると、この日、石田・長束・大谷等が談合して、瀧川豊前・
矢田半右衛門に連判の誓書を持たせて、秀秋の陣所松尾山へと遣わし、
今日池尻口に於いて内府の先手を切り崩した経過を述べさせて、秀秋の
家老平岡石見守・稲葉佐渡守に忠義を勧めたと記されている。
その誓書に曰く
 一、秀頼公、十五歳に成られるまでは関白職を秀秋卿へ譲り渡すべき事。
 一、上方の御賄の為に播磨国一円を相渡すべく。もちろん筑前は前々の
   如くなるべき事。
 一、近江に於いて十万石宛、稲葉佐渡守、平岡石見守両人に、秀頼公から
   これを下されるべき事。
 一、当座の御音物の為に黄金三百枚づつ、稲葉・平岡にこれを下される
   べき事。
 右の条々、違変申すものに於いては(神文はこれを略す)
   九月十四日
                    安国寺 判
                    刑部少輔 判
                    治部少輔 判
                    大蔵大輔 判
                    摂津守 判
    秀秋卿
今これを吟味してみると、秀頼公十五歳までは秀秋卿に天下を譲るとある
べきなのに、関白職と書いているのは怪しい。
ただし石田・安国寺など天下を知る人は、その子孫まで関白であると心得て
このように書いたのであろうか、そうでなくては官職を知らない後世の偽書
であろう。
その上、瀧川豊前は阿野津の城番としてその頃には伊勢国に居たと聞く。
これでは矢田半右衛門とともにこの使者を勤められる筈がない。
それなのに古主である酒井讃岐守の選ばれレた始末記(關原始末記)にも、
この誓書が載せられ、矢田半右衛門が矢部善七と書かれている。
あれこれ疑わしいので本条を除いてここに記す。この書の実否を知る人が
居れば聞いてみたいものだ。
(關原軍記大成)
宮川尚古による >>16 に対する史料批判である

27 :
江戸時代の人の話まではちょっと

28 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2808.html
こちらの情報の補足をみつけた
源平の時代に三条宗近が作ったとされ、その頃から多くの者の返り血を浴びておる事から
「血吸いの槍」という名が付いておるらしい
http://aoibushoutai.com/blog/14928/
由緒正しそうで
いかにも水野勝成が持つに相応しい名前だ

29 :
DQN厨ニ的な意味では人間無骨の右に出るものは無い

30 :
>>28
三条宗近の時代に槍はねーから!

31 :
>13、????「できればな。しかしこの世には頭のよく回るキチガイもおるで」

32 :
天正12年(1584)5月、小牧長久手の戦線が膠着する中、京都において佐久間甚五郎という人物による
羽柴秀吉への謀反が発覚した。
それについて、一条車之町は内裏の近所、六丁の内にあるのだが、この謀反人はそこに家を借りていた。
また実相院の辻は同じ町同然の地域であったので、この両町の者どもが、佐久間甚五郎について
届け出なかったことは仔細があるに違いないと、45,6人が搦め捕られた。
そのうち内裏の公人、出納台人、並びに公家方の殿原も27,8人が捕らえられた。
彼らは小野木清次が城代を勤める淀城の天守に留め置かれたという。
また前田玄以よりの申し付けで、さきの両町から更に20余人が搦め捕られ、二条蛸薬師に籠を作り
そこに入れ置いたという。
この時、当門跡(本願寺顕如)より。捕えられた公家の殿原の内に門徒の者があるので、
淀城の小野木清次に彼らを解放するように頼んだが、小野木は
「私一人の心得ではどうにも出来ません。」
と答えた。
門跡からの御使として河野越中が交渉したものの、相調わず、6月15日頃に寺に帰られた。
(宇野主水記)
京都で起こった、秀吉への謀反未遂事件についての記録である。

33 :
>>32
だからどうした。落ちは?

34 :
落ちなど蛇足

35 :
具体的にどういう謀反の計画で、佐久間甚五郎はどうなったんだw

36 :
末期のラスボスならポポポポーン♪だろうな

37 :
>>32
何が何だかわからないが、謀反なら仕方ない

38 :
長篠合戦の時、武田勝頼は「よく考えて、ぜひとも一戦を遂げて討死しようと決心した」
と言った。これを馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は、
「敵軍は四万、我が軍は一万です。今回はお引き下がりになって信長が帰陣の上で来秋出張なさり、
所々を残さず放火し、その上で苅田以下を申し付けられれば、三河は亡国となるはずです。
ですから一、二年の間にご意向を行われるとよいでしょう」とたっての諫言をした。
しかし、勝頼は承諾しなかった。その上、長坂釣閑が「合戦を遂げられるのがもっともです」
と申し上げたので、いよいよ合戦に相定まったという。
この釣閑は工夫人なので武田信玄が大細を相談した者であった。とりわけ弁舌に通じており、
時に六十三歳だった。
――『当代記』

39 :
「工夫人」がなんなのか分からんw褒めてるのか皮肉ってるのか

40 :
あなたには功夫が足りないわ

41 :
結果だけで見ると最悪だからな

42 :
備前国主である宇喜多和泉守直家は近年持病が重くなり、天正9年(1581)の冬より
以ての外に下血した。
備中で宇喜多と対峙していた毛利勢には、直家の病状が悪化したとの風聞は聞こえてきたが、
その実態を正確に知ることは難しかった。
そういった所に同年極月(12月)、備前御野郡浜野村の窮人が毎朝絹に大量の血が付いたものを
拾ったと言って売り物に出していることを、毛利の目付け(スパイ)が察知し報告してきた。
これを聞いた備中の侍大将は不審に思い、それは宇喜多直家の下血が付いたものだと気がついた。
そこでその状況をさらに注視させたところ、同10年正月9日朝より、大量の血が付いた絹が
市場に出ることはなくなった。
そして備前に潜ませた目付けの者からは、宇喜多直家が正月9日に死去し、法名は涼雲星友居士、
密かに平福院において法事が行われた、との報告が届いた。
この情報は中島大炊助より、吉田へと届けられた。
(中國兵亂記)
毛利が探知していた、宇喜多直家の死去についての情報である。

43 :
せめてあと10年生きてたらな。秀吉もあそこまで伸びなかったかもしれん
絶対後ろでかき回すから

44 :
血まみれの絹がそのまま売られてたのか
ワイルドすぐる

45 :
神州纐纈城、備前版である

46 :
だって岡山言ったらぼっけーきょうてえな国だぞ

47 :
なんで絹布とはいえ下血まみれのものを売ろうと思ったのか

48 :
連日下血量と輸血量が報道され領国内は自粛ムードが広がり、領民はこぞって記帳所を訪れ…
っていう昭和の末

49 :
ある時のこと、南龍公・徳川頼宣が岩手川にて川狩りを行い、鮎を炙らせ
酒樽を開くなど大いに興じていたが、若者たちに泳がせれば一段の興があると、
「水泳せよ」と命じた。
そうでなくても泳ぎたいと思っていた若侍達は一斉に川に入り、様々に手練を尽くして
泳いでいた中に、佐渡与助というものがあった。
しかしこの佐渡与助、水泳不調法にて沈むこと度々であった。
ちょうど水野十兵衛という侍が、小舟に乗って近くに在ったが、これを見て声をかけた
「与助よ!叶わずば船に取り付け!」
この時、頼宣は河原に床机を立てていたのであるが、この十兵衛の言葉を聞いて、
大音声で怒鳴った!
「やあ、十兵衛のタワケめが!士(サムライ)に対して『叶わずば船に取り付け』などと
言う者があるか!?そんな言われ方をすれば、士たる者、死んでも船に取り付くものか!
たわけた事を言って、惜しき侍一人をRな!
同じ意味であってもそう言う時には、『与助、船に取り付いて休め』と言えば、
与助も船に取り付くことが出来るものだ。この十兵衛の大たわけめ!!」
そう、叱りつけたという。
(徳川武士銘々伝)
武士って本当にめんどくさいですね

50 :
>>49
ここに出てくる話の詳細版かな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2095.html

51 :
結局与助さんは船に取りついたのだろうか。

52 :
>>49
いや現代にも通じるものがあるよ
部下にもそういう気遣いができればいい仕事ができる
現代も人への気遣いが必要なんだよ

53 :
>>49
悪い話しって言うより良い話しに見える逸話だね

54 :
十兵衛さんが叱られてる間に沈んでいったというなら
このスレにピッタリの話なるな。

55 :
古式泳法って、甲冑着たまま水濠渡れるくらいだし、
着込んでない状態で溺れるってかなりクリティカルな
失敗な気がするけど...

56 :
マスターしてない人にとって水は凶器だろ

57 :
頼宣の頃の紀州でなら良いけど、既に高級官僚化した幕府旗本に
水練を強要する暴れん坊将軍

58 :
狐がなぜかむちむち金髪巨R化される世の中の風潮について

いや、どっかの大名のことじゃないですよ?

59 :
ききき、狐憑きちゃうわっ!

60 :
美人に化ける「金毛九尾の狐」なら金髪になるのは黒髪より自然といえる
金髪ついでに巨Rになったところでおかしくはない

61 :
しかしラスボスの前では手籠に

62 :
金毛閣に巨R美女の木像を…

63 :
人間無骨だからって触手にされるよりマシじゃね?

64 :
「卍解 人間無骨」 で触手うねうね系になるわけか。 本が薄くなるな。

65 :
夜の人間無骨

66 :
>>61
妖だってワシにかかっちゃただの女子じゃー、とか言ってルパンダイブしそうだなぁ

67 :
本多三弥正重といえば、あの本多正信の弟であり、徳川家康の配下として三方ヶ原、長篠などでも
武功が在ったが、何を思ったか三河を出奔し滝川一益の足軽大将となり、前田利家の足軽大将となり、
蒲生氏郷の軍奉行となり、慶長元年(1596年)に到って徳川家に帰参するという経歴の持ち主で、
その経歴にふさわしい武勇の人であったが、性格がきつく、ちょっとした事で拗ねるという厄介な人で、
家康の前でも散々その拗ね者っぷりを見せ、家康から「あいつもあれでは大名に成れないなあ」と
苦笑交じりの発言を引き出した人物である。
そんな本多正重であったが、二代将軍となった徳川秀忠の下に仕えるようになってからは、
少しく着実、謹厳の人となった、という評判が聞こえてきた。
これを知った徳川家康は正重を呼び出し、こう声をかけた
「三弥よ、この頃はすこし嗜みの心が生ぜたか?随分拗ねることが無くなったように聞いたが。」
こう言われて正重は、目を丸くして答えた
「将軍様(秀忠)は誠に御奉公しやすい方です!あのようなご主君に拗ねごとを申すものは、
気違いに違いありません!」
(将軍様は御奉公いたしよく候。あのごとき主君にすね申す者は、気違にこそ候へ)
これを聞くと家康、笑い出し
「又、三弥の持病が起こったぞ。」
と言われたそうである。
(徳川武士銘々伝)

68 :
>>64
狐が金髪巨Rだとか人間無骨が触手だとかいうのは多分、あるラノベの話だと思うんだが
アニメ化されたんで薄い本もいっぱいでてるけど、むしろものすごく分厚いので有名なんだな

69 :
 1596年のある夜のことである。徳川家康の家臣である青年は、諸大名の家臣同士の寄り合いで
次のような話を聞いた。前田利家に仕える侍が自分の待遇に不満を持ち、主家を去ろうと
考えていることを口にすると、その場に居合わせた幾人かの人々は、そのようなことはやめた
方がいい、と忠告した。なぜなら前田利家は息子ととも茶の湯の席で太閤秀吉の命を奪うことを
計画しており、これがうまくいったのならば前田利家父子が天下の主になるだろう。そうなれば
前田家に仕える彼も大きな領国を与えられるはずだからだ、と語った。
 これらの話はすべて冗談の作り話であったが、徳川家康の家臣である青年は本当のことと
信じ込んでしまい、思慮を失って政庁にかけこんで訴え出てしまった。
 取り次ぎの者から話を聞いた秀吉は薄笑いをして、ただちにこの青年の身柄を前田利家に
引き渡すよう命じた。前田利家は、なぜそのような嘘で太閤殿下の耳をわずらわせたのか、と
尋ねると、徳川家康に仕える青年は正直に寄り合いの席で聞いたと答えた。事情を調べた結果、
単なる作り話とわかると、青年は足枷をつけられ、ついには彼の父親とともに連行され、一緒に
磔になって処刑された。(イエズス会年報集)

70 :
まず上司に相談してれば…

71 :
先年より小競り合いを続けている松尾(城主は小笠原信嶺)は大敵で
あったが下条家は強かったので一度も遅れを取らなかった。
九兵衛(下条氏長)などが深入りして危うい目に会われた事もあったが、
大将(下条頼安)はつつがなく、一村たりとも取られず落ち着いていた。
このような所へ松尾の菩提寺である上川路の開善寺と吉岡(下条家)の
祈願寺である南原山文永寺が相談し吉岡と松尾を和睦させようとした。
幸い松尾に御息女がおられたので、御縁組あればと両寺がとりもち
首尾よく天正11年12月に御祝言が済み、入魂の場と相成った。
明くる年の正月20日、舅に対して頼安公が心を許して年頭の礼に訪ねた
ところ、松尾はこれを油断させて討ち取った。
昔から聟を討ち取る例は多いとは言うが、そうであっても残念の次第
である。
(下条由来物語)
下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる

72 :
>>67
いまさらながら似たような話があった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4431.html

73 :
豊臣秀吉が本多忠勝以外に思い当たらないとして、忠勝に佐藤忠信の兜を与えたことを、
当時の人は羨ましく思った。(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7733.html)
ところが、忠勝の嫡子平八郎忠政はこの年十六歳になったが、父に向かって、
「父御は正しく徳川殿の侍大将でございます。義経の侍の兜が何ほどのことがありましょうか!
すぐにお返しになってください!」と、怒った。
――『藩翰譜』

74 :
いかもの喰い
怒物食(いかりものくい)、俗にいかもの喰いと言われ普通の人が
食べない物を食って人に誇るものである。武勇にもならぬ無益の
戯れであるのみならず、終には毒にあたって命を失うこともある。
仙台の伊達政宗は猛将であったが勇気が余っていたのか、
いかもの喰いをしておられた。
何某というものがいかもの喰いで政宗に挑んだので、一日その人
の宅へと訪ねたところ、鼠の赤子を濃い味噌汁にして勧められた。
政宗はこれを賞美して食したが帰宅してから大食傷となり、まさ
に死に至らんとしていたが、家中の医師高屋喜庵という者が撥毒円
という家法の毒消しを飲ませたので命を全うされた。
その賞として喜庵に禄千石を賜ったと言う。
(安斎随筆)
既出だけど語りが面白かったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html

75 :
うわ〜、なんちゅうもん食べるんだよ・・・

76 :
政宗公のお話
在る時、王翼という唐人が話に
「わたしが国元に在った時、ここかしこで物心のついた年齢の子供たちは、誰が教えるでもなく、”政宗公”と聞いては
物に恐れていました。しかしそれは、物心ついた子供が恐れるのも当然なのです。
何故かといえば、未だ幼き子供の時分、母の懐に抱かれて泣いているのが、どう慰めても止まない時は、
母は怒って
「日の本の政宗公が今この国に来るぞ!泣いていると取って行かれるぞ!』
と脅かすのです。するとその子供はたちまち泣くのを止め、母に取りすがって顔を隠し恐れるのです。
こういう事は、古今にないことです。」
そう語ったそうである
(政宗公御名語集)
伊達政宗が中国人から異様に恐れられていたらしい、というお話。何やらかしたんだ政宗w

77 :
TADOQ「忠利くんへ、イカレモノグルイとかいうのやって死に掛けた奴がいるんだってさ」

78 :
名前だけで怯えて泣き止むってのは定番だけど、政宗と大陸人の組み合わせは新鮮w

79 :
王翼さんは政宗のツボを心得てんのかな
追従で失敗すると面倒そうなDQN相手にようやる

80 :
>>74
千石を上げすぎだろ

81 :
鬼島津じゃなくって正宗?

82 :
徳川家康が臣従し、諸大名聚楽に出仕、秀吉の天下が固まった頃、
毛利輝元公は小早川隆景公がお伴して上洛をした。秀吉公との御参会では
大変丁寧なご挨拶をされ、大方成らぬ饗しであった。
この事は桂美作守が詳しく記録し、その書は今でもかの家に在る。
その後御対談の時に、秀吉公は御意に
「主君の敵を討ち、私の本意が天道にかなったが故であろうか、このように
日本を従え高位も備わった。しかし私は隆景、安国寺のような臣下を所持しない。
この事に関しては私は、輝元に劣っている、」
と仰った。
(老翁物語)

83 :
既に死去していた吉川元春の名が出ないのは仕方ないな!

84 :
>82
悪い話・・・かな?

85 :
加藤家で寛永8年に不思議なことがおこった。
隈本城内の桐の木に冬瓜のような果物がたくさん生じたのだ。
諸人はこれは珍しい事だ。この先はどうなるのだろうかと、そのまま
熟するまで置いておくことにした。やや熟する頃になってこの果実を
内から鼠が食い破って出てきた。
人々はいよいよ怪しんで、この果実をことごとく切り割ってみると、
中には全て鼠がいた。
その鼠をことごとく打ち殺して捨てると果実の中に鉈が一つあった。
これを見て不思議奇怪な事だと言いあうばかりであった。
しかるに翌寛永9年6月に肥後守忠広・同嫡子豊後守光正父子ともに
配流に処され領国を除かれた。
あれはこの前兆であったのかと皆がささやきあった。
(翁草)

86 :
どうみても前兆の方が大事件

87 :
実の中から生きてるネズミが飛び出してくるのと
真っ二つに割れたネズミの死骸が出てくるのと
どっちが嫌だろう
どっちも嫌だ
ドラえもんなら地球破壊してしまう

88 :
これが事実とすると桃太郎のこともおとぎ話とは言い切れない所があるな

89 :
或る時、伊達政宗公はこう仰った
「俺が在国している時に、鷹狩や川狩にしょっちゅう出かけることを、どうぜ下々の連中は
良く言ってないだろ。そんなことは解っているんだ。
だけどな、よく分別してみろ。そういう事を言っている連中をだ、城に引き詰めにして
召し使って、その上休息のために暇を取らせて、心のままにしろ、なんて言えば、
そいつら朝や夕方のうちから寝てばかり居るだろうよ。
俺も公儀から大国を拝領して、『家の殿』って仰ぎ見られる事も多いけどさ、それでも
所詮世上の習いからは離れられず、江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら
1年間を漸く暮らして、急いで帰国したらもう、『一日も屋敷の中に引き込んでいたくない!』
ってくらい思っているんだぞ?そういうわけにも行かないんだけどな。
それからな、折々に出かける事には、ちゃんと理由もたくさん有るんだ。
国を下知するほどの者が屋敷の中に閉じこもったままでいたら、諸奉公人の高下何れにも
その奉公の善悪を知ることが出来ないだろ?そうなると結局、迷惑するものが多いわけだ。
だいたい主君が自分の領国の人々の様子を見ないのなら、何を以って人をよく知り、国を沙汰すれば
いいんだよ?
この他にも様々な理由はあるが、語り尽くせないな。まあとにかく、俺が「出かけたい!」って言えば
1年間江戸で気詰まりしていたことを思い出して、苦労なことだと思っても供をしろ!
それに、俺はもう七旬(60代)だぞ。先がないんだよ!
そういうことも全部思い合わせて俺によく奉公して、時々は慰めてくれよ。
俺も年積もってしまって、明日をも知れないんだぜ?
俺が死んだ後にいろんな事を思い出して『あの時ああすればよかった』『ああいうことはしなければよかった』
なんて言い出しても、俺の役に立たないんだよ!
いいかお前たち、心を俺の年齢に引きあわせて考えるんだ。」
(我れ年積れば明日をも知らず、なきあとにて万づ心におもひ出し、かくはあるじきものを、
かくはすまじきものをと語りだしても、用に立つまじきなり。心を我が年に引合せておもへ。)
(政宗公御名語集)
なんというか、厄介だけど可愛いおじいちゃんだなあと思わせる、晩年の伊達政宗の愚痴であるw

90 :
>江戸にいる時は本当に狭い屋敷の中で、気詰まりしながら1年間を漸く暮らして
江戸詰奉行「え?」

91 :
控えめにしててアレだったのか…。

92 :
まあ基準は人それぞれだしなw

93 :
ストレスがたまってるんだ、(江戸滞在中も)憂さ晴らしもするさ

94 :
服部正成の子正重は徳川家康の側に勤仕した。
慶長五年九月十四日に、家康は正重を呼んで「お前の父祖は数度の戦功があり、
お前もまた若年にして今度の戦場に従うことはとりわけて健気である。
かならずしも危うい働きをせずともよい」と懇ろに言葉をかけられ、御盃を賜った。
正重はこの上意をありがたく感じ「明日戦場にのぞんではきっと一番槍の高名を遂げる」
と心がけ、十五日のいまだ合戦の始まっていない時に敵陣近くへすすんで行き、
朱具足に猖々緋の胴肩衣を着た武者と槍を合わせ、ついに突き倒して首級を獲た。
ところが、その働きは抜け駆けに当たるとして家康の勘気を蒙ってしまい、
結城秀康の執り成しによって許された。
――『寛政重修諸家譜』

95 :
伊達政宗公が、ある時のお話に
「昔、太閤殿下(秀吉)が伏見におられた時に、御城の内に御学問所と名付けたお座敷を建てられてな、
その御殿は4つの隅に御数寄屋を付けられていて、そこで東西の諸大名衆に御茶を下されたことがあった。
亭主は4人、太閤様、家康公、加賀の利家、そして私であった。
その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
翌日、数寄屋の場所などを4人がクジをとって決め、担当の数寄屋の掃除など準備をし、
台所もそれぞれに設置してあったので、出す料理についても互いに隠し合うように決めた。
客は一体誰なのか一切知らされていなかったが、茶会の始まる直前に仰せ付けられたのが、
私の担当する数寄屋へは、佐竹義宣、浅野弾正(長政)、加藤肥後(清正)、上杉弾正(景勝)などという、
私が絶交した連中ばかりを客に仰せ付けられたのである。(中絶の衆ばかり客に仰付けられ候)
そういう事なので何か変わったことをしたいと思ったのだが、にわかの事なのでどうしたものかと悩んだ、
その折はつまみ菜の旬で、御汁につまみ菜を調理していた。これだ!と汁を沸かし返して熱々にし、
先に作っていた汁が暫く置いていたため冷めているので、客にも迷惑だろうと、このぐつぐつに煮えた汁と
素早く取り替えて出した。
この御汁を吸った客達は皆、一口も飲み込めず吐き出したが、又同じように御汁を出し、
間もなく盃酒を出したため、客は皆、終始迷惑した様子であった。
さて、4ヶ所の数寄屋での茶会が終わり、御学問所へ再び4人の亭主が集まり、それぞれその日の
客の有り様などを段々と語り、私の番になって
『今日の客は皆々、私にとって一段とよく知った人々でしたので(一段と知音の衆に御座候間)、
何か特別な馳走をしたいと考えましたがそうもいかず、時期ですのでつまみ菜を御汁にして
熱くして出した所、口を付けた途端に火傷をしたようで、暫くは箸にて唇をかかえ、痛みに舌打ちを
していましたよ。』
と物語した所、太閤様は
「さてもさても!したりしたり!」
と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。
その後、翌日の客の御相談をしたのだが、太閤様がお考えになったのは、天下の諸将を
様々に組み合わせ、またいろいろ手を加えられ、絶交している者達の仲をご自身でお直し
されようという御奥意があったのだと、これは後に気がついたことだ。」
(政宗公御名語集)
既に↓で出ている話ですが、おそらくこれが出典で、内容もまとまっていたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3521.html
しかしこれはいつ読んでも、客全員の唇を火傷させた時の政宗の会心のガッツポーズが
見えてくるような逸話ですねw

96 :
>>95
>その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
>と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。
修学旅行中の中学生・・・

97 :
花の慶次のオールスター温泉みたいなことやってたんか

98 :
ある時、徳川家康の近臣の中に発狂した者がいて、その者が御前で同僚に切りかかった。
同僚は素手で立ち向かい、額に傷を受けながらもその者を取り押さえた。
これに家康は「健気な振る舞いではあるが、白刃を持つ者に徒手で向かうのは危険だ。
このような者を誉めて遣わせば後にあやまって死ぬ者も多いことであろう」と言って、
賞典には及ばなかった。
徳川家光が鷹狩の折に、従士が水に飛び込んで雁をとらえたことを賞さなかったのも、
このような家康の意志を踏襲してのことであろう。
――『徳川実紀(武備睫)』

99 :
吉良「…」

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