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2013年17心と宗教57: ○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○ (593)
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【お経】仏典の言葉をひたすら書き込むスレ【語録】 (273)
○●Я親鸞仏教質問箱R(その7)●○
- 1 :2010/02/10 〜 最終レス :2013/09/23
- 前スレ
○●Я親鸞仏教質問箱R(その6)●○
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1254879446/
が500kを超えて書き込み不能になったので、新スレを立てます。
親鸞の考え方は、仏教全体の考え方でかなり特異です。
親鸞仏教の考え方に対する質問を書き込んで下さい。回答できそうなものからできるだけ分か
りやすく、試行的に答えてみたいと思います。
渡海難は、一介のアマチュアです。時間の許す範囲で、自己の独自の仮説的立場から答えさ
せていただきたいと思います。2ちゃんねるには、本派、大谷派の坊さんも常駐しています。教派的
な回答は、おそらくそういう方々から、積極的に寄せて頂けると思います。
なお、渡海難のカキコは、かなり不連続、不定期になるかもしれません。それでも、私宛の質問
は、遅くなってもできるだけ答えさせて頂きたいと思います。
宗派が決めた儀式、慣習関係の質問はご遠慮下さい。ここは、あくまで教義に関する質問に限
定したいと思います。
地球は丸いのに、極楽浄土はどうして西にあるのか。阿弥陀仏は天の神様か。極楽浄土には、
どうして菩提樹があるの?。極楽浄土には門があるが、塀が無いというのは、本当か。死んだら
極楽浄土に行って仏になるって、本当か。念仏だけでどうして仏になるのか。お釈迦様の悟りって
何。お釈迦様は2回悟っている?。念仏はどうしたら称えられるようになるのか。「南無阿弥陀仏」
は嫌だから、「いろはにほへと」と念仏しら地獄に墜ちるか。親鸞は本当に極楽浄土に行ったのか。
極楽って何?。地獄って何?。阿修羅って何?。死んで地獄に行きたいとは思わないが、極楽浄
土に行きたいとも思わないんだが、それじゃいかんのかね?。
今更聞けない真面目な質問、簡単な質問に可能な範囲で回答していきたいと思います。本派、
大谷派のお坊さんも、回答者として積極的にご参加ください。
- 2 :
- 原始仏教と浄土真宗の関係について考えています。
これまでをまとめました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/image/sinran_2.jtd 一太郎ソフトで書いています。
一太郎ビューワで読むことができます。http://www3.justsystem.co.jp/download/viewer/ichitaro/
続き
お釈迦様はどのような方だったか。お釈迦様にはたくさんのお弟子さんがいた。お釈迦様は、
努力の途上でふさぎ込み、考え込んでしまっていた人には解決の知恵を与えた。これによってお
弟子さんは目の前が明るくなって道が開け、再び行動の命を回復して歩んでいくことができた。
お釈迦様は、限りない光を与えて下さる方と呼ばれた。継続のための限りない命を与えて下さる
方、そのように呼ばれた。お釈迦様は、光も命もご自身から発しられた。だから悟った方と言わ
れた。無碍光仏・無量寿仏というのは、もともとは釈尊に対する称号だったと僕は思う。
無明とは何か。知恵があれば前進できるんだが、知恵がなければ前途が見えなくて前進ができ
ない状態を言うんだろう。その中には、本人は前進しているつもりでも、空回りしているときも
あるだろう。とまらずに逃げ出すと言うこともある。
大無量寿経は言う。
世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって
自ら給済す(貪欲 むさぼり)。
世間の人民、父子・兄弟・夫婦・室家・中外の親属、当に相敬愛して相憎嫉することなかるべ
し。(瞋恚 いかり)
善を作して善を得、道を為して道を得ることを信ぜず。人、死して更りて生まれ、恵施して福
を得ることを信ぜず。(愚痴 おろかさ)
人は、貪りが無ければ迷うことも少ないだろう。怒りがなければ穏やかに進むことも多いだろ
う。愚かでなければ、必要なことが成就することも多いだろう。
先人はどうやらこんな問題を大きく包含して無明という言葉でくくったんだろう。
- 3 :
- こうした問題は、個人的なことか、普遍的な問題か。現代の我々における生老病死は、過去無
数の人々が繰り返し繰り返し経験してきた生老病死といささかも違わない。将来無数の人々が繰
り返し繰り返し経験していくであろう生老病死といささかも違わない。先人達はそのように考え
たようだ。石田三成と闘った徳川家康の生老病死と、現代の私の生老病死とは同一であろうか。
徳川家康と闘った石田三成の生老病死と、現代の私の生老病死とは同一であろうか。具体的な問
題では全て異なる。しかし、抽象化の次元が高くなれば高くなるほど同一に近づくだろう。
あらゆる人々の生老病死は一体となる次元があったようだ。そのことに気がついた時、人々は、
釈迦の悟りの真の意味を見い出したんだろうと思う。中村元さんの記述の中から考えてみたい。
- 4 :
- 世界は一つになったぞ。一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してある
事が出て来たぞ。臣民にはまだ分かるまいなれど今に分かりて来るぞ。くどう
気つけて置いた事が愈々来たぞ。覚悟はよいか。臣民一人一人の心も同じにな
りておろうがな。学と神の力との大戦ぞ。神国の神の力表す時が近うなりたぞ。
今表すと、助かる臣民殆どないから、神は待てるだけ待ちているのぞ。臣民も
可愛いが元を潰す事ならんから、愈々となりたら、どんな事ありてもここまで
知らしてあるのざから、神に手落ちあるまいがな。愈々となれば、分っている
事なれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、今では何馬鹿なと申して取り上げぬ事
よく分っているのぞ。因縁の身魂にはよく分るぞ。この神示読めば身魂の因縁
よく分るのぞ。神の御用をする身魂は選りぬいて引っ張りておるぞ。北に気を
つけよ、東も西も南もどうする積りか。神だけの力では臣民気の毒出来るぞ。
神と人との和の働きこそ神喜ぶのぞ。早う身魂磨けと申す事も分るであろう。
メイソンの世界統一。米国とロシアはグルで、日本はロシア等に侵略され、
米国は裏切って日本を攻撃する。その時になって日米同盟のイカサマが暴露さ
れる。悪の仕組は日本魂を根こそぎ抜いて、日本を一呑みにする計画であるぞ
。日本の臣民悪の計画通りに尻の毛まで抜かれて、詐欺で身包み剥されている
事に気づかんか。
祓いせよと申してある事は何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはメグ
リなくする事ぞ。昔からの借銭は誰にもあるのざぞ。それ払ってしまうまでは
誰によらず苦しむのぞ。人許りでないぞ。家許りでないぞ。国には国の借銭あ
るのぞ。今度の世界中の戦いは世界の借銭なしぞ。世界の大祓いぞ。神主お祓
いの祝詞あげても何にもならんぞ。お祓い祝詞は宣るのぞ。今の神主宣ってな
いぞ、口先許りぞ。祝詞は読む物でないぞ。宣るのざぞ、祈るのざぞ、融けき
るのざぞ。祝詞も頻蒔きや国津罪皆抜けて読んでいるでないか。これでは世界
は清まらんぞ。悪や学に騙されて肝腎の祝詞まで骨抜きにしているでないか。
皆心得ておけよ。神の事は神主に、仏は坊主に、医療は医者に、学問は学者に
と申している事、根本の大間違いぞ。
- 5 :
- ブログ親鸞仏教 止観について議論を進めています。
www.しんらん.jp
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/
- 6 :
- 最近、他力本願でググるとこのライブ動画がひっかかるのが気になる
行った事は無いが親鸞聖人の懐の深さ故か現代の本願寺の僧はのびのびしてますな
http://www.youtube.com/watch?v=s3rIBRcSrKo
- 7 :
- 釈迦の悟りは、病(又は老病)の原因は無明である。無明が解決すれば病(又は老病)は無くなる。おそらく
そのようなものだったと思うが、面白いことに、人々に一番最初に説いた内容はそれではなかったと経典は
言う。
釈迦は最初、旧友である五人の出家に向かって法を説く。そのときの内容を仏教最古の経典であるパーリ
語の中部経典から中村が紹介している。
『みずから老いるもの・病むもの・死ぬもの・憂きるもの・汚れたものであるのに、老いるもの・病むもの・死
ぬもの・憂うるもの・汚れたものに患いを見出して、不老・不病・不死・不憂・不汚である無上の安穏・安らぎを
求めて、不老・不病・不死・不変・不汚である無上の安穏・安らぎを得た。そうしてかれらにはこの知と見とが
生じた、―「われらの解脱は不動である。これは最後の生である。もはや再び生存することはない。」と。』
この経典は中道を説いている。この経典に漢訳経典がある。中村はそれを紹介している。
『まさに知るべし、二辺の行あり、諸の道をなす者の当に学ぶべからざるところなり。一にいはく、欲楽・下
賤の業・凡人の所行に著す。二にいはく、自ら煩ひ、賢聖が法を求むるに非ず。義と相応すること無し。五
(人)の比丘よ。この二辺を捨てて中道を取ることあらば、明を成じ、定を成じ、定を成就して自在を得。智に
趣き、覚に趣き、涅槃に赴くは、すなはち八正道なり。正見乃至正定なり。これすなはち八となす。』
経典には様々な伝搬ルートがあり、ルートが異なると内容が少しずつ異なる。漢訳経典の方が具体性を
もって伝えている場合がある。漢訳経典では中道と八正道という言葉が出てくる。四諦という言葉が出てこ
ないが、四諦を排除して考える必要はないだろう。つまり因縁の法則とは、それが単独で存在するのではな
く、中道・八正道・四諦と一体となった思想だったと言うべきだ。つまり、因縁の法則・中道・八正道・四諦は、
一つの思想であり、釈迦の悟りのそれぞれの断面を提示していると言うべきだろう。
八正道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定と、八つの単語が並ぶ。当初からこのよ
うに整理されていたかどうかは分からないが、その原形が意識されていたと思う。
- 8 :
- パーリ文の『中部』経典は言う。
『わたくしは五人の修行者の群れにくっきりと理解させることができた。二人の修行者を教化するとき、三人
の修行者は托鉢に行った。三人の修行者が托鉢に行って得た食をもって、われら六人の群れが生活した。
また三人の修行者を教化するとき、二人の修行者は鉢に行った。二人の修行者が托鉢に行って得た食をもっ
て、われら六人が生活した。』
『さて五人の修行者の群れはわたくしにこのように教化せられ、このように教えられて、みずから生まれるも
のであるのに生まれるものにおいて患いを見出して、不生なる無上の安穏・安らぎ(ニルヴアーナ)を求めて、
不生なる無上の安穏・安らぎを得た。』
釈迦の認識は、これまで同じような修行をしてきていた仲間にはすぐに受け入れられたようだ。直ちに彼
らの理解を得た。
- 9 :
- 浄土について
ブログ親鸞仏教
書きました
www.しんらん.jp
- 10 :
- 信心とは何か。議論を始めました。
ブログ親鸞仏教
www.しんらん.jp
↓
「掲示板 百家争鳴」
- 11 :
- 大般涅槃經要文・親鸞真筆
専修寺 蔵
全文公開完了 2010年3月2日
http://photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/lst?.dir=/6545&.src=ph&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/vwp%3f.dir=/6545%26.dnm=f68e.jpg%26.src=ph&.view=t
- 12 :
- u 大般涅槃經要文・親鸞真筆
5 デジタルテキストを希望者に提供します。
3
8 一太郎 2008以上 (ジャストシステム社)
m 漢文快くん
i http://homepage1.nifty.com/hongming/
9
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b
@ ← 電子メール
y 渡海難
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p
- 13 :
- 釈迦が三十五歳の時に悟った内容は、因縁の法則だけではない。中道・八正道・四諦を含む。むしろその総体で
あり、人々に説明するために言葉になったとき、因縁の法則、中道、八正道、あるいは四諦という形になったのだろ
う。
浄土真宗を考えた場合、間接的には関係があるが、因縁の法則、中道、八正道、四諦とは直接的なつながりは
やや遠いように思う。浄土真宗の直接の根源、僕はそれは三学だろうと思う。浄土真宗は三学を原点とする。そう
考えている。
三学とは、戒律と禅定と智慧である。仏教はいつから三学を説き始めたか。中村博士の本を読む限り、どうもはっ
きりしない。しかし、因縁の法則・中道・八正道・四諦から三学論が出てくるのは、ごく自然だろうと思う。恐らく、釈
迦在世中に三学という概念は確立していただろうと思う。三学は釈迦の悟りを実現する上で、必然的に出てくるも
のであり、その意味では三学も釈迦の悟りの中に内在していた概念であると考える
中村博士は律蔵を紹介している。
『世尊が成道してより五年間、比丘の僧伽はことごとく清浄であったが、これよりのち漸々に非を為した。そこで世
尊は事に随って制戒をつくり、戒律の箇条を立てて説いた。』
戒律は非常に早い時期にできたが、釈迦が人々に仏道を説き始めた当初からあったものではない。三学はその
戒律が発生してから意識されてきたものだ。
『如来は最初に阿若?陳如等の五人を度した。彼らは善来出家であり、善く具足戒を受けていて、共に戒を一に
し、竟を一にし、住を一にし、食を一にし、学を一にし、説を一にした』。
- 14 :
- 釈迦が定めたルールを守ることを誓うと、お弟子さんたちは釈迦から一定のルールを渡される。こうして人々は正
真正銘の釈迦の弟子になる。戒律を守るということは、釈迦の弟子であることのアイデンティティーに関係する。慶
応大学の学生が慶応大学の校則を守らないということは、慶応大学を退学すると言うことだ。早稲田大学の学生
が早稲田大学の校則を守らないということは、早稲田大学を退学すると言うことだ。仏教者が戒律を守らないとい
うことは、釈迦の弟子であることを放棄することを意味する。
釈迦は、自分に戒律を守ることを誓った者に真理を説いた。真理には有形の真理と無形の真理がある。有形の
真理は、文字(言葉)、図形、音楽、建築物、振る舞いなど、一定の形状をもって伝達できる。仏教ではこれを智慧
という。真理は有形のものばかりではない。無形の真理もある。無形の真理は、形状で示すことはできない。そこ
で釈迦は無形の真理を人々が容易に手に入れることができるところに置いた。それが禅定である。禅定を行えば、
人々はその無形の真理も取得することができる。
釈迦は、御弟子さん達の学習について三つの柱を立てたのだ。それが戒・定・慧と言われる三学である。三学を
学ぶと言うことは、釈迦の悟りを学ぶことである。釈迦の悟りを学ぶと言うことは、三学を学ぶことである。因縁の
法則、中道、八正道、四諦を学ぶと言うことは、三学を学ぶことであり、釈迦は三学の中に因縁の法則、中道、八
正道、四諦の全てを包み込んでいる。これが仏教の基礎であり、原点である。
- 15 :
- ブログ親鸞仏教
「神と阿弥陀仏の違い」を再開しました。
www.しんらん.jp
- 16 :
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TuhqXzA/Bv9qL8xcYqVLkZTeC+5e6B8QV6aiINtYWoYNCmUyuiQ
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- 17 :
- 三学は中道であり、中道は三学にある。三学の実践こそ、そのまま八正道の実践であり、八正道の
ない三学は三学でない。三学にこそ四諦が備わり、四諦は三学に備わっている。三学の実践は、因
縁の法則に基づき、その無明を破り、輪廻を断つ唯一の手法である。輪廻を断つ手法こそ三学にあ
る。その意味で、僕は、三学と中道と八正道と四諦と因縁の法則は一体であると考えている。
三学は、戒律と智慧と禅定を要素とする。戒律は善悪の価値観をその本質とする。安易に変更す
れば際限が無くなる。しかし価値観は時代と社会で変動する。ヒマラヤ山脈の南側、雪はない比較
的高温の半乾燥地域で二千数百年前に妥当した善悪の価値観が、雪降る温帯の多湿地域で二千
数百年後にそのまま妥当するとは思えない。
釈迦の時代から二千数百年を経過した現代においては、釈迦の戒律の価値は、一般庶民の規範
としては後退していると考える(無価値というわけでは決してない)。国には憲法がある。法律がある。
企業には社則があり、学校には学則がある。市町村には条例があり、町内会には町内会規則があ
る。商いには商いの慣習もある。人々は、身の回りのそのようなルールをしっかり守っていけばいい。
それらのルールを破れば、破ったルールの中で裁かれる。ルールを破ってそのルールで裁かれた
人を、仏教が重ねて仏教の名で弾劾する必要はないだろう。
何が正しいのか、何が間違っているのか、仏教に聞かなければ分からないという時代ではない。
善悪は坊さんに決めて貰いましょうなどという時代ではない。他の善も要にあらず。悪をもおそるべ
からず(歎異抄)。人々は身の回りのルールをしっかり守っていけばいい。身の回りの当たり前の
倫理・道徳・規則を当たり前に守っていくことが、現代における持戒というべきではないだろうか。
価値観ほどではないが、智慧も変動する。コンピュータもインターネットも存在しなかった二千数
百年昔には世界の最先端とされていた文化の中に、現代のラーメン屋さん、クリーニング屋さん、
警備員さん、お巡りさんなどが真っ先に学ばなければならないものがあるとは思えない。
- 18 :
- 法華経・華厳経・維摩経など、仏教には著名な経典は数多い。しかし、ラーメン屋さんがそれを知
らないと困るというようなことはない。クリーニング屋さんが知らないと困るということもない。仏教の
経典には、複式簿記の話題も、マーケティングの話も載っていない。庶民には、仏教の智慧を学ぶ
ことより先に学ぶこと、やるべきことがあるだろう。僕はそう思う。警備員さんは警備のことを学べば
いい。ラーメン屋さんは、ラーメンの作り方、販売方法、顧客サービス方法など、仏教より先に学ぶ
べきことが数多い。
三学の内で残るは禅定である。現代において、仏教が社会に提示するもの、それは禅定である。
親鸞は教行信証で、「念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり」という。覚如は教行信証のこの言
葉を指し、「流布の本に 『深妙』の下、『問答』の上に禅の一字あり」。という。親鸞は、真筆の五会
法事讃略抄で「念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり」と説く。
浄土真宗は現代に向かって禅定を提案する。釈迦は三学をもって迷い(輪廻)を断つ方法を説い
ている。親鸞は、そこに時代というファクターを加えた。世のルールを守り、世の常識、専門知識を
学び、その上で禅定の実践を提案する。それが浄土真宗である。
禅定は手法である。技術である。手法は改良を重ねられて進歩する。浄土真宗は多念念仏と一
念念仏とを行う。親鸞は初心者(凡夫)に奢摩他・毘婆舎那という言葉を使わない。多念念仏・一念
念仏という言葉を使う。多念念仏は五会念仏を実践する。一念念仏は、南無阿弥陀仏と一度称え
ると姿勢を正してその声を止め、座禅の形で瞑想に入る。奢摩他・毘婆舎那は上級者が行う。多念
念仏・一念念仏に慣れてくると、それらの行為は自ずから奢摩他・毘婆舎那につながってくる。親
鸞はそのことを知っている。
浄土真宗は、原始仏教の核心部分に時間(時代)というファクターを加えただけの教えであり、そ
の行体は唐の時代、中国で完成した洗練された手法を採る。浄土真宗は、現代における釈迦の直
説教であると言うべきだろう。
- 19 :
- 「三途の川」「賽の河原」というのはどういう世界ですか?
- 20 :
- 「三途の川」は、『金光明経』あるいは『地蔵菩薩発心因縁十王経』などの記載があり、それ
に通常社会の渡河方法が混濁した俗信だそうです(ウィキペディア)。僕は、民間新宗教を勉強
したことはなく、それ以上のことはわかりません。
「賽の河原」は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来するという説があ
るそうですね(ウィキペディア)。これはおもしろいと思います。
地蔵菩薩和讃に、十歳足らずで死んだ子供が賽の河原で石を積み、父親・母親のために菩提を
回向して祈るという話が出てきます。
地蔵菩薩和讃は空也上人が作ったという説があります。空也上人説が正しいかどうか、僕には
判断する資料がありませんが、地蔵菩薩和讃は中世の日本人の精神が透けて見える貴重な資料だ
と思っています。
空也上人の時代は、慢性的な飢饉と疫病の時代です。多くの庶民が行き倒れ、京都は町中で腐
乱した死臭が漂っていた。そんな中で、空也上人は死体を集めてきてそれをゴミとして焼却する
ことを人々に教えた。日本火葬の始まりです。
鴨川と桂川の合流する佐比の河原などは、格好の場所だったのでしょう。空也上人は、腐乱し
た死体を見るのも嫌がる人々を率先して死体を運んだ。そのとき、人々に教えたのが、称名念仏
だったろうと思います。『南無阿弥陀仏』だけを称え続け、何も考えず、手と足だけ動かして死
体を不動明王の御座所に運べ。不動明王の御座所とは河原の焚き火の場所だ。空也は阿弥陀像を
背負いながら、人々を作業に誘った。以前、公立の火葬場に行ったとき、マリヤ像や十字架像は
なくても、不動明王の札が貼ってあったのに驚きました。
死体に近づくと祟りがある。病魔に冒される。不幸になる。当時、民衆にはそんな迷信があっ
たはずです。たたりを恐れる民衆の心を安心させるため、空也上人は佐比の河原の焼き場に火炎
の不動明王の札を立てた。魔除けのパフォーマンスとして不動明王に護摩行を執行し、南無阿弥
陀仏を称えた。不動明王と阿弥陀仏の一体説の始まりでしょう。
- 21 :
- 数時間焼いて黒こげになって小さくなった炭はそのまま河に流した(三途の川)。焼却作業が
終わると、人々は歓喜し、酒を飲んで人々は踊った。盆踊りの始まりです。魔除けと汚れ落とし
のためという説明があったと思います。このとき空也は一緒になって鉦を叩いた。以後、彼は鉦
を叩いて町を練り歩き、死体焼却の人手を集めるようになる。
死体を焼いた佐比の河原にはその後、故人の関係者が時々集まってきて故人をしのび、石を積
み上げて墓標とした。空也を真似て手を合わせ、繰り返し繰り返し南無阿弥陀仏を称えた。石墓
の始まりです。歎異抄には、父母の孝養のために念仏申すという話が出てきます。親鸞の時代に
は、父母の孝養のために念仏申すという民間信仰ができあがっていたようです。起源はおそらく
空也でしょう。死んだ両親を河原で焼いた子供達に、両親を偲びながら悲しみから立ち上がる方
法を空也は説いた。彼の優しい心が伝わってきます。
河原で石が積んであると邪魔になります。平安時代の検非違使(警察官)達は、積んである石
を蹴飛ばして河原を整理するのが仕事だった。空也はこれを、鬼と言う。
親が子を弔うとき、一歳で死んだ子に石を一つ積み、五歳で死んだ子は石を五個積む。あれか
ら何年たったかなと、歳を数える「さいの河原」だったかも知れません。
佐比の河原に行けば、死に別れた人、生き別れた人と出会えることがある。祈っている人とと
の出会いがある。法事の始まりです。賽の河原はそういう場所になっていたかも知れません。
西暦963年、空也は鴨川で大規模な供養会を開いたそうです。法然・親鸞の大衆浄土教の根
元は、空也上人と賽の河原で始まった。今から1047年前の話です。ぼくはそう思っています。
- 22 :
- 自分から主体的に念仏を称えよう。そう決心したら(正定聚)、どの
ように念仏を称えたらいいのか。
親鸞が比叡山で教わっていた念仏方法はどのようなものだったか。
ブログで議論を始めました。
ブログ親鸞仏教
しんらん.jp
- 23 :
- 親鸞が説いている浄土真宗には二つある。一つは、浄土の教えである。もう一つは、聖道の教
えである。ラーメン屋さんは法華経も涅槃経も勉強する必要はない。パン屋さんは、パン屋さん
のルールを守ればいいんであって、仏教の戒律はいらない。そう教えているのは、親鸞の浄土の
教えである。しかし、親鸞の聖道の教えではそうはいかない。
浄土真宗から聖道の教えが消えて四百年。浄土真宗は長い長い眠りの中にある。浄土真宗の中
に聖道の教えが回復しなければ、仏教に明日はない。
宗祖親鸞聖人は大般涅槃経要文で言う。
もし善業を遠ざからば、すなわち惡果を得む。もし一切の業で定んで果を得んとすれば、すな
わち聖道を求めて修習すべからず。もし道を修せずば、すなわち解脱なし。一切の聖人が道を修
するゆえんは、定業を壊して輕報を得るがゆえなり。不定の業は果報が無きゆえなり。もし一切
の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。もし、聖道を修習する
ことを遠離して解脱を得れば、この處(こと)はりあることなけん。解脱を得、涅槃を得ずば、
またこの處(こと)はりあること無けん。善男子よ、もし、一切の業で定んで果をえれば、一世
の所作、純善の業は、まさにながくすでに常に安樂を受くべし。一世所作、慇重の惡業は、また
ながくすでに大苦悩の業果を受けるべし。若し爾らばすなわち修道し解脱する涅槃の人はなから
ん。乃至
正しいことを行わなければ、きっと悪い結果を生むだろう。しかし、正しいことをする以上は
必ず正しい結果を得なければならないと、そのように思うなら、聖道の教えなど学んではいけな
い。しかしだからといって、仏道を正しく修行しなければ解脱を得ることはできない。これまで、
仏教は多くの哲人賢人を輩出してきた。そうした人々が仏道を修行した理由は何だったか。それ
は、大きなまずいことを行っても、結果の報いが軽かったからである。まずいことを行っても、
その報いがなかったからである。正しいことをする以上、それに見合う結果は出さなければなら
ない。そのように思うなら、聖道の教えを求めて修行してはならない。
- 24 :
- しかし、聖道を離れ、それでも迷いから解放されるとすれば、見合う結果が出るという理屈は破綻
する。迷いを離れても、真理を多くの人と共感するという結果が得られなければ、見合う結果が出
るという理屈は、この場合も破綻する。求道者たちよ、正しいことをする以上は必ず正しい結果が
得られるとするなら、現下に純粋な善を行えば、常に永遠の幸せが得られるだろう。当然のことな
がら、現下に重大な過ちを起こせば、永遠の苦しみを得るだろう。もしそうであれば、世の中には
修行を行って迷いから解放されるという人はいなくなる。
正しいことを行っても必ず正しい結果がでるとは限らない。正しい行為に見合う結果が出ると
は限らない。しかし、どうかそのような結果を恐れず勇気を持って聖道の道を進んでほしい。
極楽浄土は大きく二つに分かれる。蓮華蔵世界と功徳大宝海である。功徳大宝海とは自主的、
自律的に念仏を称える人々の世界である。そこは化土界と異なる。化土界とは、誘われれば念仏
を称えるが、誘いがなければ念仏を称えない人々、自分からは進んで念仏を称えない人々の世界
である。功徳大宝海は正定聚、化土界は不定聚の世界である。蓮華蔵世界は功徳大宝海の先にあ
る。蓮華蔵世界が極楽浄土の要である。蓮華蔵世界は熟練者、功徳大宝海は初心者の世界である。
念仏は自主的、自律的に称えるようになればそれで十分というものではない。正定聚になれば
もういいということではない。親鸞が提唱する極楽浄土つまり親鸞が理想として提唱する念仏道
場では、多念念仏と一念念仏を実践する。多念念仏は五会念仏という称え方をする。これを通じ
て、親鸞は奢摩他・毘婆舎那に誘導しようとしている。多念念仏と一念念仏とを実践すれば、た
だちに奢摩他・毘婆舎那ができるようになるということではない。奢摩他・毘婆舎那は禅定がで
きるようになることが必要である。禅定ができるようになると、そこで初めて自己の煩悩と対決
できるようになる。
- 25 :
- 大般涅槃経要文で親鸞はいう。
もし智慧よく煩悩を破すと言うは、到るためのゆえなり。破は、到らざるがゆえに破す。もし
破するに到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。
智慧は毘婆舎那によって開発されてくる。この智慧が煩悩を効果的に破壊する。智慧は煩悩に
到達するからである。智慧は、それまで何者も到達するものがなかったから、智慧が起きて初め
て煩悩を破壊する。智慧があっても煩悩を破壊するに至ることができないとすれば、それは凡夫
つまり未熟だからである。通常の人であれば、つまり普通に訓練すれば破壊できるようになる。
正定聚になっても、つまり信心ができても、未熟な内は煩悩の解決がない。しかし、念仏に熟達
してくれば、衆生であればだれでも煩悩が破壊できるようになる。
蓮華蔵世界とは、多念念仏と一念念仏で奢摩他・毘婆舎那ができるようになった人々の世界で
ある。在家の仏教はここで終わる。つまり、在家は多念念仏と一念念仏で奢摩他・毘婆舎那がで
きるようになると卒業する。出家仏教はここから始まる。親鸞仏教では、化土界・功徳大宝海に
出家はいない。出家つまり僧とはこの蓮華蔵世界から始まる。
功徳大宝海から蓮華蔵世界に入ると親鸞仏教は一変する。親鸞は決して甘い言葉をかけない。
聖道の道を歩めと説く。蓮華蔵世界から本格的なプロの道が開始する。
- 26 :
- 大般涅槃経要文の根拠を明示しておきます。
http://photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/vwp?.dir=/6545&.dnm=8f53.jpg&.src=ph&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/vwp%3f.dir=/6545%26.dnm=c272.jpg%26.src=ph
http://photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/vwp?.dir=/6545&.src=ph&.dnm=d6a4.jpg&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/lst%3f%26.dir=/6545%26.src=ph%26.view=t
- 27 :
- 神は万物をどのようにして創造したか。
天地創造神話について、書きました。
ぶろぐ親鸞仏教
しんらん.jp
- 28 :
- 親鸞という人は、まれに見る法華経の行者だった。親鸞は、日蓮のように法華経の題目を称えることは人
々に勧めなかった。法華経を読むことを勧めている文書もきわめて少ない。無いわけではない。しかし、そ
の主張の全体を見ると、親鸞という人は、日蓮とは味わいを異にした法華経の実践者だった。
信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土の
さとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろ
う。(歎異抄)
信心のない人はまず、極楽浄土の辺地に招き、疑惑が晴れたら報土の悟りが開けるとそのように聞いて
きています。信心の行者は数少ないからこそ、まず化土に入ることを勧めていらっしゃる。
光明寺の和尚の御釈(散善義)には、「念仏の人をば、上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人」と、ほめた
まえり。(一念多念文意)
自主的に念仏を称える人はすばらしい人だ。善導大師はそのようなひとを上上人・好人・妙好人・希有人・
最勝人と、ほめてくださる。
功徳大宝海に帰入すれば、 必ず大会衆の数に入ることを獲。 蓮華蔵世界に至ることを得れば、 す
なわち真如法性の身を証せしむと。(行の巻)
功徳大宝海に入れば、極楽浄土の仲間になる。将来必ず仏になるというそういう立場になる。
しかし、功徳大宝海の先にある蓮華蔵世界に至れば、必ず真如法性の身を証る。
念仏を知らない者には、疑ったままでいいから化土にいらっしゃいという。
いつまでも化土ではいけない。念仏を称えだした人には、信心の心で報土に入りなさいと教える。
報土に入った人は功徳大宝海である。それよりも確実に蓮華蔵世界に入りなさいと教える。
- 29 :
- こうしたガイドのしかたは法華経の手法そのものではないか。
方便力を以て、険道の中に於て三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に告げて言わく、汝等怖るること
なかれ、退き還ること得ることなかれ。今此の大城、中に於て止って意の所作に随うべし。若し是の城に入
りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に至らば亦去ることを得べし。
是の時に疲極の衆、心大に歓喜して未曾有なりと歎ず。
我等今者斯の悪道を免れて、快く安穏なることを得つ。是に衆人前んで化城に入って、已度の想を生じ安
穏の想を生ず。
爾の時に導師、此の人衆の既に止息することを得て復疲倦無きを知って、即ち化城を滅して、衆人に語っ
て、汝等去来宝処は近きに在り。向の大城は我が化作する所なり、止息せんが為のみと言わんが如し。(法
華経 化城喩品)
導師は、長い険しい道の途中に一つの城を建て、人々に言う。もと来た道を戻るのはやめよう。せっかくこ
こまできたのだから、ここで大いに休んでいこう。ここで宝物を得ていこう。このように言う。
疲れ切っていた人々はここで大いによろこぶ。自分たちは悪い道を避け、すばらしい世界に入った。人々は
進んで化城に入り、既に目的を達したと思う。
このとき、導師は人々が安らぎを得、疲れが取れたのを見極めると、化城を消す。人々に言う。宝物の場所
は近い。これまでの城は私が仮に作ったものだ。あれは一時の休憩所だったのである。
若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、
獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。(大涅槃経要文)
もし毘婆舎那(一念念仏)が有効に煩悩を破壊するなら、どうして 奢摩他(多念念仏)も併用するのです
か。一念念仏は煩悩を破壊するが、それは多念念仏と共同して煩悩を破壊するのである。
親鸞は、人々が煩悩を破壊できるよう、多念念仏と一念念仏とを勧める。煩悩の破壊には、禅定ができるよ
うになることが必要である。煩悩が破壊できるようになまで人々を導くため、化土、報土、功徳大宝海・蓮華蔵
世界という化城を設定する。
在家の人は、禅定ができるようになることが目標となる。出家を目指す人は、そこを出家の出発点としてほ
しい。
- 30 :
- 禅定ができるようになると、出家は本格的に智慧の学習を勧める。やがて念仏道場を開き、人々に念仏を勧
める社会教育者になっていく。親鸞は、このようにして自らは天台僧として法華経を実践しているのである。
- 31 :
- 親鸞の魂はまさに法華経の魂そのものではないか。ぼくはそのように考えている。僧籍は奪われても、
親鸞は生涯天台僧としての自覚を、個人的には決して失うことはなかった。天台僧は、法華経を自らの
行動原理とし、法華経を実践するところにアイデンティティを実現する。
真実の信心を給わりて喜ぶ心の定まるとき、摂取してすてられまいらせざるゆえに、金剛心になると
きを、正定聚の位に住すとも申す。弥勒菩薩と同じ位になるとも説かれて候めり。弥勒と一つ位になるゆ
えに、信心真なる人をば、仏と等しとも申す。また諸仏の、真実信心を得て喜ぶをば、真に喜びて、我と
等しきものなりと説かせ給いて候なり。 (末燈鈔)
「お!、念仏っていいじゃん。面白いじゃん。これからはこれに決めた。どんどんやっていこう。忘れ
ずに必ずやろう」。こういう思いが出てきた人、つまり、真実の信心が得られ、念仏を喜ぶ心ができたなら、
日々、一人でも、二人でも、三人でも一緒に念仏を称えるようになるでしょう。そうすれば、思いがけず、不
可抗力、正当防衛、緊急避難、詐欺、錯誤、自暴自棄などに翻弄されるということが少なくなる。迷いから、
迷いに流れる輪廻の悪循環が切れる。なぜなら、念仏を通じ、先人の大きな智慧に包まれるからです。
念仏に腹が固まり、自主的、自律的、確定的に念仏を称えていく人、正しい智慧が確定的に得られるよう
になった人、こういう人を正定聚という区分に入った人といいます。大無量寿経では、こういう人のことを、
釈迦の次に仏になる弥勒菩薩と同じ立場になったと、教えてくれています。弥勒菩薩と同じ立場に立ちま
すから、真実の信心を得た人は、仏に等しいともいいます。真実の信心を得て喜んでいる人について、無
数の賢人・哲人たちは、自分たちと同等であると説いてくれています。
真実の信心を得た人は弥勒に等しい。仏になったも同然である。親鸞はそう言う。親鸞の周りには、真実
の信心を得た人はたくさんいただろうと思う。真実の信心を得たというのは、奢摩他・毘婆舎那が実践できる
ようになったということではない。自主的、自律的に念仏を称えるようになった人である。称名念仏に腹が固
まった人である。こういう人について、その人の潜在的な可能性に着目して弥勒に等しいと賞賛している。
- 32 :
- 法華経には重要な記述が少なくないが、常不軽菩薩品はその中でも特に重要な一つだろうと思う。
爾の時に一(ひと)りの菩薩比丘あり、常不軽と名く。得大勢、何の因縁を以てか常不軽と名くる。是の比
丘凡そ見る所ある若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を皆悉く礼拝讃歎して、是の言を作さく、
『我深く汝等を敬う、敢て軽(かろし)め慢(あなどら)ず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作
仏することを得べければなり』。
而も是の比丘、専らに経典を読誦せずして、但礼拝を行ず。乃至遠く四衆を見ても、亦復故(ことさ)ら
に往いて礼拝讃歎して、是の言を作さく、
『我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべきが故なり』。
四衆の中に瞋恚(いんに)を生じて心不浄なるあり、悪口罵詈して言く、
是の無知の比丘、何れの所より来って、自ら我汝を軽しめずと言って、我等が与に「当に作仏すること
を得べし」と授記する。我等是の如き虚妄の授記を用いず』と。
此の如く多年を経歴して、常に罵詈せらるれども瞋恚を生ぜずして、常に是の言を作す、『汝当に作仏
すべし』と。
是の語を説く時、衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲(うちたた)けば、避け走り遠く住(とどま)りて、猶
(なお)高声に唱えて言わく、
『我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし』と。其の常に是の語を作すを以ての故に、増上慢の
比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、之を号して常不軽と為せるなり。
常不軽菩薩は、さまざまな人々に向かい、常に礼拝して言う。あなた方は、菩薩の行を実践なさってきっ
と仏になる方ですよと。時には、人々から罵られたり、木や石でたたかれることがあったが、なお、そのよう
に礼拝して回った。『あなたはきっと仏になるでしょう』。いつもその言葉を忘れなかった。人々は彼を常不
軽と呼んでいた。
『次如弥勒』。このキーワードを経典の中から見つけると、大きくクローズアップし、意味を拡大し、親鸞は
盛んに主張する。正定聚は弥勒に等しい。
親鸞は、法華経に書かれている常不軽菩薩行を自らの行動原理としている。かれの主張の背景で親鸞を
動かしているのは、法華経の思想である。僕はそう思っている。
- 33 :
- >>31
× 翻弄されるということが少なくなる。迷いから、迷いに流れる輪廻の悪循環が切れる。なぜなら、念仏を通じ、先人の大きな
智慧に包まれるからです。
○ 翻弄されるということが少なくなる。親鸞聖人の勧める念仏、つまり多念念仏、一念念仏を実践すると、智慧が透明に見え
てくる。智とは、あれかこれかと考えること。慧は、あれかこれかが止まることです。念仏道場では、フリートーキングもあっ
て、透明化がさらに促進する。これを気づきという。道理が見えてくるから痴が消える。瞋(いかり)がうすまる。貪(むさぼり)が
和らぐ。興奮していた三毒が静まる。見えなかったものが見えてくる。迷いに流されなくなる。輪廻の悪循環が切れる。先人の
深い智慧につつまれる。
- 34 :
- 弥勒菩薩と同じ位になるとも説かれて候めり。(末灯抄)
大無量寿経は言う「一一菩薩、已曾供養、無数諸仏。次如弥勒者也」。一人一人の菩薩は、
既にかつて無数の仏たちを支えてきた。弥勒のような存在に次ぐ人々である。
大無量寿経は、弥勒菩薩と同じ位になるとは説いていない。弥勒のような存在に次ぐと言っ
ている。親鸞はこれを「仏を次ぐこと弥勒の如し」。つまり「仏」という意味を加えている。正確に
は、「次仏如弥勒」と読み替えている。
これは親鸞のオリジナルの主張である。親鸞の考えの本籍地は法華経であるというべきだ
ろうと僕は思う。
- 35 :
- 五会法事讃略抄 宗祖真筆
原文 伊勢専修寺蔵
書き下し 公開します。
http://photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/lst?.dir=/ac47&.src=ph&.order=&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/tkatasi/vwp%3f.dir=/ac47%26.dnm=4a9d.jpg%26.src=ph
- 36 :
- 親鸞聖人を敬愛する者にとって、法華経は極めて重要な経典と言うべきだろう。
法華経こそ、正確に言うと、法華経と涅槃経こそが親鸞精神の本籍だと考える。法華経から現代の浄土真宗を概観する。
常不軽菩薩品はいう。
我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道(多念念仏・一念念仏)を行じて、当に作仏することを得
べしと。而も是の(親鸞)比丘、 〜 故らに往いて(南無阿弥陀仏と)礼拝讃歎して、是の言を作さく、
我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に(称名念仏すれば弥勒に等しく)作仏すべきが故にと。
四衆の中に瞋恚(驕り)を生じて心不浄なる(真宗門徒)あり、悪口罵詈して言く、 〜 我等是の如き虚妄の授記を用いず
と。(我々は念仏を称えなくても阿弥陀仏の願力〔他力〕によって極楽浄土に往生して作仏することを得と主張する。我らの法話
を聞けば〔称名念仏が無くても他力によって〕仏になると主張する。ただ称えても助からず。ありがたい、ありがたいと思えば、信
心正因・聞即心・聴聞第一で仏になると主張する)
(親鸞比丘は)此の如く多年を経歴して、(称名念仏を嫌う外道の真宗門徒に)常に罵詈せらるれども瞋恚を生ぜずして、常に是
の言を作す、汝当に(本願を信じ念仏すれば)作仏すべしと。
是の語を説く時、衆人(本願寺門徒・哲学者・真宗学者)或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高声
に唱えて言わく、我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に(本願を信じ念仏すれば)作仏すべしと。其の常に是の語を作すを以ての故
に、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、之を号して常不軽(親鸞聖人)と為く。
歎異抄は言う。
信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
ある著に曰く。
一度念仏すれば既にそれで往生することができるのである。さらに言えば念仏をしようとする心が起こったときに既に阿弥陀によ
って極楽往生が保証されているのである。〜それを信ぜよ。それが最高の善である。
私(親鸞)は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉
を、ばか正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。
- 37 :
- 「ばか正直に信じている。」これは誰の言葉か。
「おれは親鸞のような馬鹿ではないぞ」。このように親鸞聖人を馬鹿にし、念仏を馬鹿にし、蓮如賞選考委員という大変
ご立派な肩書きを持つ自称哲学者大先生、梅原猛大先生の御名著、ノータリンのための「歎異抄入門」の一節である。
梅原猛大先生は、歎異抄が心の恋人だそうである。
衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲す
得大勢、彼の時の四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は、瞋恚の意を以て我を軽賎せしが故に、二百億劫常に仏に値わず、法を
聞かず、僧を見て、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く。
常不軽菩薩を杖木・瓦石を以て之を打擲し、千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受ける人々こそ、歎異抄を心の恋人とうそぶく蓮如賞選
考委員梅原猛大先生と、そのようなノータリンを選考委員に委嘱している蓮如賞主催者ではないか。親鸞聖人、蓮如上人の複雑そ
うな悲しみの声が聞こえてくる感じがする。
- 38 :
- そう言えばファイズはクリーニング屋だったな。
- 39 :
- 観音菩薩というのは、いろいろ変化する菩薩である。自分の身をいろいろに変えて苦しめる人
間を救う仏であるが、ここで性欲に苦しんでいる親鸞に観音菩薩は、自ら女体に身を変えておま
えに犯されてやろう、と言ったのである。これはいったいどういうことなのであろう。
私は、これを救世観音が親鸞に生身の女体を持った女を娶る許可を与えたのであると思う。
これは誰の言葉か。大哲学者のお言葉であるとは到底思えない。蓮如賞審査員様であられるあ
の梅原猛大先生のお言葉である。自称哲学者なら、何を言ってもいいと言うことではないだろう。
仏教音痴、真宗音痴も極まれりという感じがする。草葉の陰で親鸞は大泣きしているだろう。
覚如が書いた御伝抄には、親鸞が救世観音の夢告を受けたというエピソードが載っている。僕
は、初めてその御伝抄に触れたときから、一貫して、これは嘘だと思ってきた。覚如は信じるに
足りない人物であるということは、僕はこの救世観音の夢告の記事を根拠として主張してきた。
覚如はこんな記事を書くやつだから信じるに値しないと言ってきた。しかし、逆に、この馬鹿話
を鵜呑みにする学者がいるということに驚き、それが自称哲学者であるというから僕は驚天動地
する。なんという宗教音痴、真宗音痴かとあきれ返るのだ。
幸い、ごく最近、救世観音の夢告の馬鹿話が根も葉もない馬鹿話であることを立証可能な根拠
が見つかった。これによって、流罪前の親鸞結婚説は消滅したと思っている。
覚如による救世観音夢告伝説は種本がある。覚如自身も、これについて、「彼の記に曰く」と
言っている。種本は『親鸞夢記伝』と言う。親鸞の弟子である真仏が書いた文書である。専修寺
にあるその文書は、筆跡鑑定の結果、真仏が書いたものであることがわかる。覚如は、『親鸞夢
記伝』の一部をそのままコピーしている。
『親鸞夢記伝』には種本は無いのか。長い間、僕はそれを気にかけていた。必ずどっかにある
はずだと信じて疑わなかった。やはりあった。『覚禅鈔』という書物だった。ここに親鸞が救世
観音から受けたという夢告と瓜二つの記事がある。発見者は名畑崇氏(大谷大学名誉教授)であ
る。『親鸞の六角夢想の偈について』という興味深い研究を発表されている。
- 40 :
- 覚禅鈔の一節を名畑崇氏の(真宗研究1963-10-15)論文から孫引きする。
本尊変玉女事
又云 発邪見心 淫欲熾盛 可堕落於世 如意輪 我成王玉女 為其人親妻妾 共生愛 一期
生間 荘厳以福貴 令造無辺善事 西方極楽浄土 令成仏道 莫生疑云
よこしまな心がおこって、色欲がさかんになり、道心を失ってしまうようなことになれば、如
意輪観音がみずから変じて王の玉女となり、その人の妻妾となって愛しあい、一生をけだかく幸
せにするであろう。そして数がぎりなく善事を造らしめ、命終の後に西方極楽浄土に仏道を成ぜ
しめるであろう。
救世観音とは如意輪観音のことである。名畑崇氏も言うように、御伝抄の記事とここまで酷似
していると両者の間に何らかのつながりがあったことは疑いがない。
覚禅鈔とはどういう書物か。真言宗では有名な書物らしい。kotobank.jp
(http://kotobank.jp/word/%E8%A6%9A%E7%A6%85)に面白い記事が載っている。
覚禅 かくぜん(1143−?)
平安後期〜鎌倉時代の僧。
康治(こうじ)二年生まれ。勧修(かじゅう)寺の興然、醍醐(だいご)寺の勝賢に師事。興然の影
響をうけ、図像資料を収集。建暦三年(1213)のころまで醍醐寺、勧修寺、高野山などの資料
を調査し、「覚禅鈔」をあらわした。字(あざな)は金胎房。通称は少納言阿闍梨。
「覚禅鈔」は、建暦三年(1213)ころにできあがったと言うことである。この年は、親鸞は
四一歳、流罪後のことである。京都に入ることは許されず、都払いの刑は続いていた。前年、法
然が死んでその葬儀にも参列できず、都入りを断念している。少なくとも、この時点で、親鸞と
夢告伝説とは、全く無関係であるということが言えそうである。
醍醐(だいご)寺の勝賢とはどういう人物か知りたくなる。
勝賢(1183〜1196年)は、平安時代中期の真言宗の僧。東大寺87世、醍醐寺18・
20・22世座主である。
- 41 :
- 当時の醍醐寺とはどういうところか。その環境を調べてみた。少しさかのぼると勝覚・仁寛という人がいた。
仁寛(生年不詳 〜1114年)
勝覚の弟子。密教立川流の始祖。 真言宗の僧の最高位である阿闍梨。輔仁親王(後三条天皇
の第三皇子)の護持僧。配流され、名を蓮念と改め、真言宗の教えの伝道に努めた。武蔵国立川出身
の陰陽師、見蓮らに醍醐寺三宝院流の奥義を伝授した。
勝覚(1058〜1129年)
仁寛の兄、真言宗系修験道 真言宗醍醐寺派、三宝院流の開基。一説には、こちらが真言密教立
川流の始祖と言われることもある。
真言密教立川流
男女交合の境地を即身成仏の境地と見なす。
平安後期、武蔵国立川の陰陽師見蓮が仁寛から教わった教えをもとに提唱し、文観が広めて大
流行した。
文観(1278〜1357年11月21日) 醍醐寺座主。
真言宗立川流の僧
後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。
1213年頃、醍醐寺は真言宗立川流の中心地だった。覚禅は真言宗立川流醍醐寺の僧であり、
立川流の書物として覚禅鈔を著した。立川流は男女の交合を賞賛し、そのエロティシズムにより、
その後弾圧を受け、現在では消滅している。
親鸞の夢告伝説は、エロティシズム仏教最盛期、浄土真宗に移入された思想である。親鸞とは
全く関係がない。関係があるわけもない。
金沢の専光寺にある親鸞の真筆文書を紹介しよう。
我身救世観世音 定慧契女大勢至 生育我身大悲母 西方教主弥陀尊 〜
漢文に返り点などを加点して訓読みする習慣は奈良時代に始まり、親鸞の時代にほぼ完成した。
親鸞は多くの文書に返り点、ふりがななどを振って読みやすくしてくれている。この文章にも返
り点とふりがながついている。
- 42 :
- 我が身は世を救(たす)くる観世音なり。定慧を契る女は大勢至なり。我が身を生育せる大悲
の母は、西方教主弥陀尊なり。 〜
救世観音は親鸞にとって、自分の妻ではない。まさに観音とは自分が実現する対象である。出
第五門の菩薩は示応化身、『法華経』の普門示現の類となれ(証の巻)。普門示現の類となると
は、観音菩薩の行を実践するということだ。親鸞の思想の本籍地は法華経にある。親鸞は、生涯、
観音菩薩の行を実践していたのだ。女は大勢至である。浄土宗・浄土真宗は、男性優位の仏教界
で、唯一女性のための仏教を説いた。男性のための仏教は既にある。女性の中に定と慧とを結実
させる仏教を実現しよう。法然、親鸞はそのように考えていたようだ。定と慧とを結実させた女性、
それが大勢至菩薩である。
親鸞の思想の中に、観音菩薩と交合しようなどという思想など出てくるはずがない。男が男と交合
すれば、ニューハーフではないか。親鸞はニューハーフか?観音が自分で自分と交合すれば変態
ではないか。
念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち佛になる
といはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)。
浄土真宗は、念仏と座禅・持戒を勧める。念仏だけで仏になるんだったら、座禅・持戒はいら
ないんじゃないかという主張が出てくる。それは間違いである。座禅・持戒は念仏に実質的効果
を実現するために必要なのである。空腹の人が、風下に立ち、吹いてくる風を腹の中にため込も
うとしても、腹の足しにはならない。座禅・持戒はいらないというのは、間違った考えである。
親鸞が、流罪前に結婚していたという主張の最大の根拠は、このように荒唐無稽の珍説であると
いうべきである。
ちなみに、真仏は、親鸞が京都に戻った後、勧進僧として全国を歩き回っていた。当時、真言宗立
川流はおおいに盛んだった。隆盛を誇っていた京都の大寺院である醍醐寺に行き、そこで覚禅鈔を
見たのだろう。不思議な話ではない。
真仏は親鸞在世中に死んでいる。言い換えれば、親鸞が在世中に真仏は夢告伝説をでっちあげ
たということだ。どのような理由があったか知らないが、もし親鸞がそれを知っていれば、大変
悲しんだことだろう。
- 43 :
- >>39
『親鸞夢記伝』には種本は無いのか。長い間、僕はそれを気にかけていた。必ずどっかにある
はずだと信じて疑わなかった。やはりあった。『覚禅鈔』という書物だった。
『親鸞夢記伝』にはさらなる別の種本は無いのか。長い間、僕はそれを気にかけていた。必ずど
っかにあるはずだと思ってきた。僕はおおざっぱに、中国か朝鮮だろうと思っていた。やはりあった。
日本にあった。『覚禅鈔』という書物だった。
- 44 :
- >>43
第一文が誤り、 第二文が正しいという意味です。
- 45 :
- 真言宗立川流について、我々はこれを、そのあまりのエロティシズムによって弾劾され、過
去の宗教、消滅させられた宗教であると信じてきた。そう教わってきた。しかし実態はそうでは
ない。
現代日本の最大の既成宗教、浄土真宗こそ、真言宗立川流の思想の一部を継承している
後継宗派である言っていいだろう。
真言宗立川流浄土真宗派は、親鸞の知らないところで親鸞の弟子である真仏を起源とし、
さらに本願寺の覚如によって確立された。御伝抄は、浄土真宗では不磨の大典、極めて神
聖な書物である。
明治になり、日本の僧侶は浄土真宗に限らず、他の宗派でも妻帯が可能になった。倒幕
で果たした浄土真宗に対する論功行賞で、浄土真宗は多くの利益を得、さらに僧を明治政
府に送り込んだ。伊藤博文らが創建した明治憲法の創案者の中には、真宗僧侶が加わっ
ていると聞いたことがある。
明治維新における宗教政策は、様々な点で浄土真宗の思想の影響が見られる。靖国神
社の創設などは、キリスト教と浄土真宗の合体のようなものだ。伝統的神道にはあり得な
い。
僧の妻帯は、植民地になった朝鮮半島に渡る。現代では、韓国の仏教僧の半分は妻帯し
ているそうだ。日本仏教の影響によるもので、端的に浄土真宗の影響だろう。真言宗立川流
が、浄土真宗という名で外国にまで影響を及ぼしている例である。
真言宗立川流は消滅していない。それは、浄土真宗という名前で現在に生きている。事の
是非ではない。浄土真宗の坊さんはその現実に気づくべきだろうと僕は思う。
- 46 :
- 阿弥陀仏
- 47 :
- 「女犯の夢告」の元となった文が1213年以前に流布していたのではないでしょうか。
覚禅抄の成立以前に「本尊変玉女事」が知られていても何の不思議もないと思うのですが・・・
- 48 :
- >>47
1213年以前に流布していてそれを読んだというなら、「夢想の告げ」というのは、うそだという
ことになりますね。少なくともこの点は、真仏・覚如の作り話ということですね。
親鸞は、天台の僧として比叡山にいました。
僧にセックスを奨励し、観音菩薩を冒涜するような立川流の文書が、女人禁制の比叡山の親鸞
の周囲にあったとは思えない。そのような文書を親鸞が目にしていたとは考えられません。
親鸞の周囲にあったというなら、その資料的根拠を出してほしい。夢にまで見るような強烈な印
象が残っていたなら、その思想は親鸞思想の中に残っているはずです。
観音菩薩の慈悲を実践する(証の巻)。これが親鸞思想の本籍であると考えます。普門示現の
類となれ。こう主張する親鸞が、観音菩薩と交合するなどという話を弟子に持ち出すはずがない。
座禅と持戒を推奨する五会法事讃略抄を弟子に託すような親鸞思想と、エロティシズムを全面
に出す立川流の思想とを混同することは、決してあってはならない。
- 49 :
- >>47
1213年以前に流布していてそれを読んだというなら、「夢想の告げ」というのは、うそだという
ことになりますね。少なくともこの点は、真仏・覚如の作り話ということですね。
親鸞は、天台の僧として比叡山にいました。
僧にセックスを奨励し、観音菩薩を冒涜するような立川流の文書が、女人禁制の比叡山の親鸞
の周囲にあったとは思えない。そのような文書を親鸞が目にしていたとは考えられません。
親鸞の周囲にあったというなら、その資料的根拠を出してほしい。夢にまで見るような強烈な印
象が残っていたなら、その思想は親鸞思想の中に残っているはずです。
観音菩薩の慈悲を実践する(証の巻)。これが親鸞思想の本籍であると考えます。普門示現の
類となれ。こう主張する親鸞が、観音菩薩と交合するなどという話を弟子に持ち出すはずがない。
座禅と持戒を推奨する五会法事讃略抄を弟子に託すような親鸞思想と、エロティシズムを全面
に出す立川流の思想とを混同することは、決してあってはならない。
- 50 :
- 如意輪観音にまつわる示現の元になるような言い伝えが広まっていたんでしょう。
だいたい立川流と決め付けるのも早計ですよ。
- 51 :
- 平安末期は僧侶の妻帯が普及してきます。
聖覚法印の実父も僧侶ですね。
- 52 :
- あ、資料的根拠ですか。親鸞が元となった言い伝えを見聞きしていた、
という直接の資料があるわけではないです。
でも夢告が立川流と関係があるという根拠も無いですよね。
むしろ、真仏がつくり話を書かなくてはならないのか、そっちのほうが疑問です。
なぜつくり話を書く必要があるのでしょうか?必然性がないですよ。
- 53 :
- >>50
>如意輪観音にまつわる示現の元になるような言い伝えが広まっていたんでしょう。
比叡山は、確か戦前まで女人禁制だった。非常に最近まで女性は入れなかった。そのような環
境の中で、平安時代、夢記のような文章が広まり、親鸞がその影響を受けていたとは、僕には思え
ない。
夢記の本文は漢文だから、一般庶民が読む内容ではない。漢文を読める貴族か僧侶しか触れる
ことはない。まして、夢記を読みましたということと、夢想しましたということはとんでもなく
違う。読んだと言うことを夢想しましたといえば、これは嘘を言ったことになる。親鸞は嘘つき
だったのか?
「親鸞は嘘つきだった。親鸞は言い伝えに触れていてそれを見ていた」。こういうなら、あな
たがその主張の根拠となるものを提示してください。あなたの悲壮な希望的想像で主張されても、
僕は対応できない。
>だいたい立川流と決め付けるのも早計ですよ。
僕は自分で可能な範囲で根拠を示しているつもりです。後は、根拠の評価の問題だ。評価はそ
れぞれ人によって主観が相違する。
>>51
>平安末期は僧侶の妻帯が普及してきます。
真言宗立川流(醍醐寺派)は、当時、高野山派をしのぐ勢いだったようです。立川流が主流に
なった。
立川流は、南北朝の争いで事実上南朝が敗北し、南朝と運命を共にした。その間、立川流には
非常に多くの僧がいた。彼らは妻帯していたかもしれない。しかし、それ以外はほとんど妻帯し
ていなかったろう。
平安末期は僧侶の妻帯が普及していたというなら、幕末期、真宗以外で妻帯僧はどのくらいい
たのか。その数字くらいは提示して主張したらどうですか?
日本が朝鮮半島を植民地化する前、朝鮮の寺には妻帯僧はほとんどいなかった。まして、平安
末期、妻帯僧がたくさんいたというなら、その資料的根拠を出してほしい。
- 54 :
- >聖覚法印の実父も僧侶ですね。
これは遺伝学的に親子だったということでしょうか?。僧には淫戒というのがある(梵網経三
重戒等)。
僧が子供を持ってはいけないという戒律はない。僧の回りには子供がたくさんいる。子供には
四種類ある。弟子と養子と猶子と実子だ。淫戒を守れば、遺伝学上の実子は生まれない。しかし、
弟子・養子・猶子というのはいる。親の無い子、親が育てられない子を預かり、養育・教育する
ことは僧の重要な社会的使命だ。親鸞は、九歳の時、青蓮院という寺に、弟子として預けられた。
猶子は養子と実子の間で、実子との境目は、外部からはほとんどわからない。僧に子供がいた
と言えば、遺伝学上の実子であると考えるのではなく、猶子か養子と考えるのが常識だろう。
僧を見たら破戒僧だと思うというのは、浄土真宗の悪い癖だ。人を見たら泥棒だと思うといえ
ば常識がない。人がなにか物をもっていれば、盗品と考えろといえば、むちゃくちゃな話しだ。
人が何かを持っていれば、正当な所有権、支配権がその人にあるという推定のもとで社会は動く。
推定を覆して、盗品だと判断するには、それなりの証拠がなければならない。
僧を見たら、いきなり破戒僧であるという先入観で判断するのは常識に反する。 だから浄土
真宗は常識がない。平成時代には泥棒がたくさんいました。みんな泥棒をしていました。だから
ID:34pCP+7cも泥棒で、その持ち物はすべて盗品です。こういえば、ID:34pCP+7cさん、あなたは怒
るだろう。
ID:34pCP+7cさんが物を持ち歩いていれば、それは盗品ではないという推定をたてる。敢えて盗
品であるというなら、そのための証拠が必要になる。僧に子供がいましたといえば、遺伝学的な
実子ではないという推定を先に立て、弟子か養子か猶子と考えるのが常識だ。僧は破戒僧であり、
子は遺伝学的な実子だったというには、ID:34pCP+7cさんが泥棒で、持ち物は盗品であると主張で
きるくらいの、相当な根拠が必要だ。
>>52
>直接の資料があるわけではないです。
資料を見つけ、見つかってから言ってください。
あなたの個人的希望的妄想におつきあいするつもりはありません。
- 55 :
- >でも夢告が立川流と関係があるという根拠も無いですよね。
こんなところで同意を求められても迷惑です。
立川流の思想の一部を継承している後継宗教であるという主張を、僕はしています。そのため
の証拠も出している。
僕が証拠を出しても、それは立川流との関係を根拠づけないというなら、それはあなたの証拠
評価です。あなたの証拠評価はあなたの自由です。僕とは主観が相違するということに過ぎない。
僕にはあなたの脳みそを改造できる技能も資格も意志もない。あなたから、主観の相違する相手
に同意は求めないでほしい。
>なぜつくり話を書く必要があるのでしょうか?必然性がないですよ。
僕は以前、覚如の作り話だろうと思い、覚如が作り話をする必要性について、一、二度書いたこと
がある。作り話をする必要性があるという主張を真仏にシフトする必要はあるが、それは無理な話で
はない。
ただ、立川流との関係を示す証拠を出しても、それを無視して「立川流とは関係がない」というあな
たには、作り話をする必要性についても説明をしても、あなたの耳には入らないでしょう。
五根者、心為其主(眼・耳・鼻・舌・身の五根は、心をその主体とする〔天台小止観〕)。「立川流とは
関係がないんだ」という心が主体になっていれば、つくり話を書かなくてはならない理由を耳や眼から
入れようとしても、あなたは拒絶するでしょう。聞く耳のない人に話をするつもりはありません。
- 56 :
- 平安・鎌倉時代、破戒僧はたくさんいた。だから親鸞も破戒僧で妻帯していた。これは、
むちゃくちゃな議論だ。
平成時代、社会には泥棒がたくさんいた。だからID:cDNt5svJも泥棒で生活していた。
こういうなら、平成時代、社会にどのくらい泥棒がいたか、その数字くらいは最低限出す
べきだろう。
念佛は聲聲に佛種を下す。坐禪持戒は眞功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわ
ち佛になるといはば、喩へば飢えたる人のひろく風を掩ふがごとし(五会法事讃略抄)。
親鸞は戒律を守れと説く。親鸞は流罪で無戒になった。しかし流罪前に破戒僧だった
いうには、ID:cDNt5svJを泥棒であると立証できるくらいの証拠を示してほしい。
- 57 :
- 死んでいる浄土真宗学ではなく、親鸞聖人の生きている念仏を実践したいものだ。
- 58 :
- >>57 誤爆
- 59 :
- こんにちわ渡海 難さん
あなたが「死んだら鬼籍に入る」と言っているのは、
どこかの経典、聖教に典拠がありますか?
- 60 :
- >>59
他の板での継続的議論です。飛び火にはノーコメントとします。
○ ● ○ ● ○ ● ○
>>45
一切の業で定んで果を得んとすれば、すなわち聖道を求めて修習すべからず。
(大般涅槃経要文 親鸞真筆)
正しい修行を積めば、ことごとくその結果を出さなければならないなどと、そのように思って
はならない。結果が出ないこともある。結果が出ないこともあることは覚悟の上で、どうか聖道
を求めてほしい。親鸞は、大般涅槃経要文を介し、釈迦の言葉を引用して弟子達にそのように訴
える。
善男子、菩薩摩訶薩、大乗大涅槃經を修習し、佛性を見んとおもう。このゆえに少欲知足を修
習す。 〜 出家の人に四種の病あり。この故に、四沙門果を得ず。何等を四病とす。謂く、四
の惡欲なり。一には衣のための欲、二には食のための欲、三には臥具のための欲、四には有のた
めの欲なり。これを四惡欲と名づく。これ出家の病なり。四の良薬ありて能く是病を療す。いは
く。糞掃衣は、比丘の衣惡欲をなすを能く治す。乞食は、食惡欲をなすをよく破す。樹下は、臥
具惡欲をなすをよく破す。身心寂静なるは有惡欲をなすをよく破す。この四薬をもって四病を除
く。これを聖の行と名づく。かくのごときの聖の行は、則ち少欲知足と名づくことを得るなり。乃至
親鸞は無欲になれとは言わない。親鸞は僧に言う。少欲知足を学べと。
善男子よ。正しい修行者は大乗大涅槃経を修習する。佛性を得ようとして少欲知足を学ぶ。き
れいな服を着たい。うまいものを食いたい。快適な夜具で寝たい。いいものを欲しい。これを坊
さんの四つの病という。ぼろを着ろ。托鉢をせよ。樹下で寝ろ。心身寂静となれ。このようにす
れば、四病は直る。
もし、如來の所有の身業を見たてまつらん、まさに知るべし。これすなわち、如來とするなり。
これ眼見と名づく。もし、如來所有の口業を觀ぜば、まさに知るべし。これすなわち如來とする
なり。これを聞見と名づく。 〜 もし、如來所作の神通を見むに、衆生のためとやなせん、利
養のためとやせん。若し、衆生の爲にして、利養の爲ならずば、まさに知るべし。これすなわち
如來とするなり。これを眼見と名づく。
- 61 :
- もし、如來を觀ずるに、他心智をもって衆生を觀ずる時、利養のために説き、衆生のために説か
ん。もし衆生のためにして、利養の爲にせず。まさに知るべし。これすなわち如來とするなり。
これを聞見となづく。
如来が行うようなことを行っている人がいれば、その人は如来であると思いなさい。如来が語
るようなことを語っている人がいれば、その人は如来であると思いなさい。自分のためではなく、
多くの人のために行動している人については、その人を如来と思いなさい。人の心を見抜く力の
ある人が、その力を自分の利益のためではなく、他人の為に努めている人がいれば、それは如来
であると思いなさい。
親鸞は僧に言う。如来が行うようなことを行っている者がいれば、その人に学べ。如来が語る
ようなことを語っている人がいれば、その人に学べ。自分の利益を忘れ、他人のために行動して
いる者がいれば、その人に学べ。人の心を見抜く力のある人が、自分の利益を忘れ、他人のため
にその力を発揮していれば、、その人に学べ。
若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 もし破する
に到らざれば凡夫なり。衆生はすなわちよく破すべし。 〜 毘婆舎那煩悩を破せば、獨りよく
破すとやせん。伴にことさらに破すとや。
一念念仏と多念念仏とをなぜ実践するのか。一念念仏は毘婆舎那となって効果的に人々の煩悩
を破壊するからである。もし、煩悩を破壊できなければ、それは、未熟だからである。普通の人
は、早晩、よく破壊できるようになる。一念念仏は煩悩を破壊するなら、何故多念念仏を実践す
るのか。毘婆舎那は奢摩他となる多念念仏が付随することで煩悩を破壊するのである。
親鸞は、称名念仏が煩悩の破壊に効果があるからこそ人々に勧めている。未熟なうち、つまり
初心の内はなかなかうまくいかないが、慣れてくればそれが可能になる。だからこそ、念仏道場
を開き、初心者もベテランも一緒に念仏を称え、ベテランが初心者を指導できる環境を作ろうと
した。
称名念仏ができるようになりなさい。煩悩をできるだけ破壊できるようになりなさい。奢摩他
・毘婆舎那ができるようになりなさい。親鸞は人々にそう勧める。
- 62 :
- 禅定ができるようになり、奢摩他・毘婆舎那ができるようになって煩悩を破壊できるようになると、
在家の仏教は事実上卒業となる。僧はそこからスタートする。
私は凡夫です。煩悩の固まりです。念仏を称えられません。そのようなことを言っている人は、
浄土真宗には坊さんとしては一人もいないはずなのである。
僧は四病を直せ。きれいなものを着たいと思うな。うまいものを食べたいと思うな。安らかに
寝られる夜具を求めるな。無いものを欲しいと思うな。自らの利益を捨て、他人の為に尽くせ。
そのためには、自らの利益を捨て、他人の為に尽くしている人に学べ。これが浄土真宗の底流の
教えである。
世に曲事の起こり候いしかば、それにつけても、念仏を深く頼みて、世の祈りに心を入れて、
申し合わせ給うべしとぞおぼえそうろう。(消息集)
世の中で困ったことが起これば、それを縁として、互いに打ち合わせあい、集まりあい、念仏
を深く信頼し、世の中がどうか幸せになりますようにと祈りあってみてください。念仏を称え合
ってください。親鸞は手紙でそのように訴える。
親鸞が提起した質問に、存覚上人は一つの回答を提示する。
されば念佛の行者、うちに信心を蓄えて心を淨土の如來に掛くといふとも、道場を構えて功を
安置の本尊に積むべし。自行化他の利益これにあるべきなり。 〜 穢土なれども淨刹に准じて
道場といふなり。されば自作・教他ともに最上の善根なれば、誠心をぬきんでて道場をかまへ、
同行を會して念佛を行ずべきなり。念佛は无上の功徳超絶の勝行なるがゆへに、諸佛も哀納し諸
天も歓喜したまふ。諸佛の照覧に叶ひ諸天の守護にあづからば、恩所の得脱も疑なく、自身の往
生も決定し、二世の所願一々におもひの如くして、自利々他の願行圓滿し、自他平等の利益を獲
得すべきなり。
- 63 :
- 念仏道場を作ろう。多くの人々と共に五会念仏を称え、互いに様々に語り合えるそのような場
を作ろう。存覚上人は、これこそが僧の最大の仕事であると考えた。存覚上人は全国に多くの念
仏道場を作る。浄土真宗は、多くの人々と一緒になって座禅して五会念仏を称え、互いに様々に
語り合うそんな場を作る念仏運動である。その中核になるのが僧である。これこそ、親鸞が六角
堂で後世を憂い、悩んだ問題に対する回答であり、観音菩薩の行、法華経の一つの実践の姿だろ
うと考える。親鸞は日蓮聖人とほぼ同じ時代に出現し、日蓮聖人とは全く異なった法華経の実質
的な実践のありかたを提起する。
- 64 :
- インターネットアーカイブが公開している一切経(カナダトロント大学収蔵)の
索引を作りました。
しんらん.jp
- 65 :
- 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、
荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを聖者であると知る。(中村元 スッタニパータ)
戒律と禅定と智慧を学ぼう。三学を学ぼう。この主張は、紛れもなく釈迦その人の主張だろうと思う。十二因縁の学習は
四諦の学習であり、四諦の学習は八正道の学習であり、八正道の学習は中道の学習であり、中道の学習は三学の学習
である。これらは、釈迦の中では別々の思想ではなく一つの思想だったろうと僕は考える。浄土真宗は、三学の学習を思
想の基盤とする。
親鸞は持戒と座禅を勧める。教行信証の行巻で、法照の言葉を引用する。
「王いま座禅してただ当に念仏すべし」と。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。
正法よく世間を超出す。 持戒・座禅を正法と名づく。 念仏成仏はこれ真宗なり。 仏言を取らざるをば、外道と名づく。
因果を撥無する見を、空とす。 正法よく世間を超出す。 禅律いかんぞこれ正法ならん。 これ真宗なり。 性を見、心
を了るは、すなわちこれ仏なり。いかんが道理、相応せざらん。
親鸞は、五会法事讃略抄で法照禅師の教えを紹介し、念仏三昧の位置を提示する。
念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。
念仏三昧は禅門である。念仏三昧というのは、親鸞が勧める念仏方法である。法然が勧めていた善導流の正定の業で
は浄土の要に至らない。親鸞はそう考える(化身土)。親鸞は、道綽の安楽集を引用し、在家である厳父に対し釈迦が念仏
三昧を勧めている言葉を紹介する。親鸞は、不定聚に対し念仏三昧を勧めている。当今の凡夫は、〜「不定聚」と名づく
(化身土)。親鸞の考えの重要な柱である。浄土真宗は、現代の凡夫に、念仏三昧という無上深妙の禅門を開いた。
正法と真宗、浄土真宗はこの二つの思想を根本思想とする。念仏をもって成仏を開く。それが真宗である。持戒・座禅が
正法である。なにゆえ正法を必要とするのか。親鸞は法照の教えを紹介する。
念仏は声声に仏種を下す。座禅持戒は真功を用いてなり。汝若し修せずしてすなわち仏になるといはば、喩へば飢えた
る人のひろく風を掩ふがごとし
- 66 :
- 念仏は一声と一声に仏になる因をもたらしてくる。しかしそれだけでは中身がない。座禅持戒
なく仏になるといえば、空腹の人が風下に立ち、吹いてくる風を腹の中に押し込めようとするよ
うなものだ。実に空虚である。座禅と持戒とは、実体的な効果をもたらすために必要なのだ。座
禅と持戒は、親鸞の教えの重要部分である。
親鸞は大涅槃経要門を引用して言う。
巻第三十一の師子吼菩薩品、第十一の五に言はく。「師子吼言ふさく。世尊よ、經の中に説く
がごとし。若し毘婆舎那がよく煩悩を破すなら、なにがゆえぞまた奢摩他を修するや。 〜 毘
婆舎那煩悩を破せば、獨りよく破すとやせん。伴にことさらに破すとや。
親鸞は一念念仏と多念念仏とを勧める。一念念仏すなわち毘婆舎那で煩悩を破すなら、どうし
て多念念仏すなわち奢摩他を修行する必要があるのだろうか。毘婆舎那は奢摩他を伴って煩悩を
破すのである。親鸞はそのようにいう。
親鸞は涅槃経によって釈迦の言葉を紹介する。禅定と智慧とは、それぞれ学ぶべき時があると
いう。その上で親鸞は忘れることの大切さを説く。
善男子よ。もし菩薩摩訶薩ありて善く定時・慧時を知れり。これを菩薩摩訶薩の菩提道を行ず
るとなずく。師子吼言ふさく。世尊よ、いかんが菩薩は時と非時とを知ると。善男子よ、菩薩摩
訶薩は樂を受くるによりて大僑慢を生ず。あるいは法を説くによりて驕慢を生ず。あるいは精進
するによりて驕慢を生ず。 〜 まさに知るべし。その時、よろしく智を修せずして、よろしく
定を修すべし。これを菩薩は時と非時とを知ると名づく。もし精進を勤修すれども、菩薩はいま
だ涅槃の樂の利益を得ず。得ざるをもっての故に、悔心を生ず。 〜 自から戒律を疑い、羸損
あるが故なり。 〜 まさに知るべし。そのとき、よろしく定を修せずして、智を修すべし。こ
- 67 :
- れを菩薩は時と非時とを知ると名づく。善男子よ、若し菩薩の定慧二法が平等ならざれば、まさ
に知るべし。そのときよろしく捨を修すべからず。二法もし等しくば、すなわちよろしくこれを
修べし。これを菩薩は、時と非時とを知ると名づく。善男子よ。もし、菩薩ありて定慧を修習せ
んに、煩悩をおこすことあらば、まさに知るべし。そのときはよろしく捨を修すべからず。まさ
に十二部經を讀誦し、書寫し、解説し、念佛し、念法し、念?し、戒を念じ、天を念じ、捨を念
ずべし。これを捨を修すると名づく。乃至
驕慢が生じたときは智慧ではなく、禅定を学べ。禅定の努力をしても悟りという結果が生じな
いときには智慧を学べ。悟りという結果が生じないことで戒律の重要性を疑いだしたら、大きな
間違いを冒すだろう。現代の浄土真宗の坊さんのように、戒律の重要性を忘れたなら、大きな間
違いを犯すだろう。
戒律の重要性を忘れないためにも、禅定と智慧とはバランスよく学べ。バランスが悪い場合に
は、欠けている方に努力を傾けよ。学習を放棄してはならない。禅定と智慧とをバランスよく学
べたなら、それを忘れることを学べ。忘れることが大事である。しかし、煩悩が起きてきたなら、
禅定と智慧の学習を忘れてはならない。経典類を読み、それを書写し、意味を理解し、念仏し、
念法し、念僧し、戒を念じ、天を念じ、その上で全て忘れよ。全てを学んで全てを忘れよ。親鸞
はそのように言う。
浄土真宗は、釈迦以来の仏教の本道を説いている。しかし、その三学の説き方に若干の相違が
ある。それを考えてみよう。
- 68 :
- 実に興味深いです。
- 69 :
- 南無阿弥陀仏
- 70 :
- さて質問です。
例えば…、
末法五濁の衆生は
聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ
教主世尊はときたまえ 『高僧和讃』
末法五濁の有情の
行証かなわぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく
龍宮にいりたまいにき 『正像末和讃』
よく似た和讃、とくに一句目が似ていますよね。とりわけ「衆生」と「有情」という違いが見てよくわかります。
色々な辞書で調べましたが、どれも「衆生」=「有情」という扱いのようです。
しかし、『三帖和讃』の中でも『正像末和讃』だけは、他と比べても「衆生」ではなく「有情」という語にこだわりがあるようです。
ここには当然、親鸞さんの何かしらの意図があるのでしょうが、今のところ皆目見当がつきません。
どうお考えになりますか?
- 71 :
- >>70
ブログ親鸞仏教の百家争鳴の中にも書き込まれていましたので、そちらの方に
コメントを書きました。
ぶろぐ親鸞仏教
http://www.しんらん.jp
- 72 :
- お知らせ
期限未定で休筆します。
いずれ再開すると思いますが、1か月、半年、1年以上先か
全く分かりません。
- 73 :
- 親鸞の著書『教行信証』とは、浄土三部経を自己流に翻訳したものだと聞いたことがありますが、
これで正解ですか?
しかし、本願寺の現代語版には、『観経疏』とか『如来会』からの引用もあるのですが???
これらは、浄土三部経のなかの何処かの章のタイトルなのでしょうか?
- 74 :
- age
- 75 :
- >>73
もう少し時間をください。
- 76 :
- 娘がちょっと難しい病気になり、その世話で物理的にも精神的にも2ちゃんねるに気を向ける余
裕がありません。それでも長い間ご無沙汰しているのも気になるので、少し書いてみます。
浄土真宗は、釈迦以来の仏教の本道を説いている。しかし、その三学の説き方に若干の相違があ
る。それを考えてみよう(>>67)
釈迦仏教では、入門するとまず戒律を授かる。戒律を守りながら、直ちに智慧と禅定とを学ぶ。
親鸞はこの教育プログラムに疑問を持った。三学を同時にスタートする必要があるのだろか。これ
は現代にそぐわない。
三学を学べ。親鸞がそう言っているのは、おそらく大般涅槃経要文だけだろうと思う。未発見あ
るいは歴史の中で消失した文書の中に書いてあった、あるいは書いてある可能性は否定できないけ
ど、現時点では大般涅槃経要文だけであるという仮説を前提にして考えたい。また、出家の守るべ
き道を記載してあるのも、この大般涅槃経要文だけだろうと思う。
大般涅槃経要文は、禅定ができるようになった人を読者にしている。つまり親鸞にとって、出家
とは禅定ができるようになってから始まる。三学の学習も、禅定ができるようになてから始まるの
だ。禅定ができるようになるまでは、出家を考えるな。智慧も戒律も入らない。親鸞仏教とは、出
家という学校に上がる前、いわばプレスクールの教育プログラムを社会教育として社会に提示して
いるのである。
歎異抄は言う。
「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつ
べし」。
この言葉に親鸞の教育プログラムの信念が含まれていると思う。経典を読んだり、論釈を読んだ
りしないならば、本当に仏教を学んでいることにならない。仏教を学ぶと言うことは、戒律と禅定
と智慧とを平行して学ぶ必要がある。そういう考えが伝統的価値観の中にある。親鸞はこの考えに
反対する。親鸞は禅定先行論を主張する。
- 77 :
- 戒律や智慧の学習も大事だけど、最初は禅定を先行させようではないか。戒律や智慧の学習は、
禅定の実践ができるようになってからで遅くはない。親鸞はそう考えている。
戒律や智慧の学習は後回しでいい。事務員さんも、警備員さんも、ラーメン屋さんも、まず禅定
の学習だけやってみてください。その場合でも、いきなり奢摩他・毘婆舎那をしなさいとは言わな
い。念仏道場などで一念念仏・多念念仏を実践してみて、そこで禅定ができるという経験を積んで
欲しい。事務員さんや警備員さんやラーメン屋さんに、親鸞が坊さんとして教えることのできるの
はこの禅定だけです。親鸞はそういう。
ラーメン屋さんや警備員さんが、法華経を読んでも、唯摩経を読んでも、たいした参考にはなら
んだろう。ラーメン屋さんはそれより、簿記の勉強や、仕入れ、販売の勉強をした方がいい。勉強
することもなく、経営も安定すれば、少年野球チームの監督でも引き受けたらどうですか。法華経
もいいけど、他にも読む本はたくさんあるだろう。警備員さんも事務員さんも同じだ。村上春樹の
『1Q84 BOOK』がいいか、法華経の方がいいか、好き好きもあるだろうが、『1Q84 BOOK』を読まず
に法華経を読みなさいとは言えないだろう。そんな事務員さんも、警備員さんも、ラーメン屋さん
も、一念念仏・多念念仏を実践してみて禅定ができるようになってほしい。できるようになったら
どうするか。そしたらそれで仏教の学習は卒業でいい。仏教の戒律を学ぶより、警備員さんには警
備員さんの世界のルールがある。国法を守り、地域の決まりを守り、業界のルールを守る。それが
大事だ。ラーメン屋さんも同じだ。
出世の法において五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて、
内心には他力の不思議をたもつべきよし師資相承したてまつるところなり。(改邪鈔)もし諸仏菩
薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁・義・礼・智・信ある
ことを知らんや。(教行信証)
仏教では五戒を守れと言うが、実際には仁・義・礼・智・信を守れ。世の通常の道徳、常識を守
れ。親鸞はそういっていた。諸仏菩薩は、人々に仁・義・礼・智・信、つまり世の通常の道徳、常
識を守れと教える。
- 78 :
- 親鸞は、仏教初心者には、智慧と戒律の教育を後退させた。しかし、自分は仏教の専門家になる。
人々がそういう志を抱くことは大変大事なことだ。親鸞は、禅定ができるようになった人には出家
を許した。出家になると、今までの態度は一変する。浄土の教えを終わらせ、聖の行を実践せよ、
聖道門を守れと説く(大般涅槃経要文)。
出家は戒律と禅定と智慧と捨を学ぶ。禅定と智慧と捨を学び、念仏道場を作って人々を教化する。
これが親鸞仏教の大乗プログラムである。
まさに親鸞仏教とは、現代の実情にかなった釈迦仏教、大乗仏教の中核に位置する。僕はそう思
う。
- 79 :
- 念佛三昧は、これ眞の無上深妙の禪門なり(五会法事讃略抄)。王いま座禅してただ当に念仏
すべし(行の巻)。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひ
とのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり(歎異抄)。かの土に生じ已りて、奢摩
他・毘婆舎那・方便力成就することを得(証の巻)
念佛三昧は禅門である。座禅して多念念仏、一念念仏を練習し、奢摩他・毘婆舎那ができるよ
うになりなさい。きっとすばらしい人生が開かれてくるだろう。戒律と智慧の学習を後退させ、
親鸞は禅定の学習を提唱した。三学を一律でなく、優劣をつけるという考え方は親鸞が最初では
ない。古くは鑑真の時代からある。鑑真は、日本に来ると一般民衆にまで授戒を行った。鑑真は、
大衆には智慧と禅定を後退させて戒律を説いた。現代の学校教育はどうか。座禅を教えている学
校は極めて少ない。いわば智慧の学習がほとんである。学校で生徒に禅定を教えれば、学校教育
におそらく革命が起きるだろう。
智慧や戒律を後退させ、禅定を学ぼう。こういう提案は、通常の釈迦の教えからは出てこない。
その場合、曹洞宗や臨済宗であれば、教外別伝・不立文字という主張が可能になる。しかし天台
宗にはそのような考えはない。親鸞は、経典群の中から阿弥陀仏という名の架空の仏の教義とし
てその主張を体系化した。
親鸞の考えは、たしかに釈迦には思いも寄らない考えだったかも知れない。しかし、釈迦の教
えに時間というファクターを加えれば、自然に出てくる考えだろうと思う。その意味で、親鸞仏
教は釈迦仏教の本懐を説いていると僕は思う。
以上を持って、昨年の八月から続けた釈迦仏教と浄土真宗との関係に関する議論を終わります。
以前に「大無量寿経がなぜ真実教か」という問いがありました。それと、ある人から八苦の内
の五蘊盛苦の意味を教えて欲しいという質問をインターネット外で受けたことがあります。その
とき直ちに答えられなかった。
五蘊盛苦とは何かを先に考え、その後、「大無量寿経がなぜ真実教か」ということを考えてみ
たい。
- 80 :
- 五蘊盛苦の問題に入る前に、触れておきたい問題を思い出した。「仏教では五戒を守れと言う
が、実際には仁・義・礼・智・信(五常)を守れ」。親鸞はそう教えていた(改邪鈔)。この問
題の解説が舌足らずだ。これが意味するテーマは、日本仏教の中で割合と深い問題を孕んでいる
ように思うので触れておきたい。
法照禅師は、坐禅の実践と戒律の維持の重要性を説いている。親鸞仏教では、禅定ができるよ
うになるまでは出家になれない。親鸞聖人が教化の中心に置いた人々は、禅定が不十分な不定聚
と正定聚であって、全て在家である。仏教の原則では、在家が守る戒律は五戒という五項目であ
る。つまり、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒である。つまり、親鸞は、仏
教の原則で言えば、人々に不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒を説く立場にあ
った。
しかし親鸞は「五戒つまり五常を守れと説いていた。覚如上人はそう教えてくれている。もし
そうであれば、親鸞の主張の伝統教学上の正当性と社会的客観的妥当性が問題になる。
伝統教学上で親鸞の主張は正当か。親鸞は曇鸞に基づいていたのだろうと思う。親鸞は教行信
証で、「もし諸仏菩薩、世間・出世間の善道を説きて、衆生を教化する者ましまさずは、あに仁
・義・礼・智・信あることを知らんや」。という浄土論註の言葉を引用している。諸仏菩薩が説
く世間・出世間の善道とは、仁・義・礼・智・信である。親鸞はこの言葉から、五戒に代えて仁
・義・礼・智・信を説く正当性を導いていたに相違ない。
社会的客観的妥当性の問題は、評価する人の主観にもよるが、在家が守るべき基本的な道は五
戒に置くよりも仁・義・礼・智・信に置いた方が現実的であり、ベターであるという判断が働い
ている。
明治以降、特に戦後になって法句経・阿含経、スッタニパータなどが広く一般の人々の手に届
くようになってきた。江戸時代までは、仏教の専門家である坊さん達以外、庶民にはほとんど知
られていなかった。法句経・阿含経、スッタニパータなどにはあまり触れない。これが伝統的日
本仏教の特徴である。社会規範としては法句経・阿含経、スッタニパータにまさるものがある。
それは儒教である。日本仏教の先人達はそう考えていた。
- 81 :
- 日本仏教の先人達は仏教に固執しなかった。儒教と天秤に掛け、より良いと思う方を庶民に提
示したらしい。仏教の戒律は解釈が難しい。出家と在家ではダブルスタンダードを適用しなけれ
ば妥当性が導けない。それに比べ、儒教倫理の方が庶民、在家の倫理規範としては合理的でわか
りやすい。日本仏教の先人達はそのように考え、親鸞は仁・義・礼・智・信を守れと説いていた。
そのように考えるべきだろう。
- 82 :
- それでは、親鸞は仁義礼智信を説き、仏教の戒律の維持は説かなかったのか。そん
なことはない。例えば、親鸞肉筆の文書の中に「浄肉不浄肉の文」というのがある。
ここで肉食の限界を教えている。
鎌倉時代、関東は土地がやせ、肉食は生きるための最低条件だったろうと思う。その
ような中で、親鸞は肉食の限界を教えていると考えたい。「浄肉不浄肉の文」は、出家
者に向けての持戒の教えだ。
親鸞は、在家には五常を説くが、出家には持戒持律の生活を要求していたと考える。
浄土真宗の僧は仏教の戒律を守れ。
もし精進を勤修すれども、菩薩はいまだ涅槃の樂の利益を得ず。 〜 自から戒律
を疑い、羸損あるが故なり。まさに知るべし。そのとき、よろしく定を修せずして、
智を修すべし。
戒律は重要である。努力を重ねているがなかなか悟りの利益が得られなければ、結
局は戒律を疑い、戒律を破って自らを損ねることもある。戒律に疑いを持つようにな
れば三学の内の智慧を学び直して戒律の重要性を再認識せよ。(大般涅槃經要文)
親鸞聖人は、禅定ができるようになり、蓮華蔵世界で出家した僧に向かってはこの
ように説いている。これが浄土真宗親鸞聖人の教えである。
- 83 :
- 五蘊盛苦とは何か。最近、僕は、秋葉原歩行者天国での通り魔殺人事件が思い浮かぶ。犯人の
加藤智大さんは、自動車工場の派遣社員だったという。彼の世代の多くが、現代では非常に困窮
している。1980年代、日本中が土地バブルに踊った。その後、日本経済は長い不況トンネル
の中に入った。
一方、中国はGNPで日本を追い抜き、中国経済は世界を動かそうとしている。G5(日、独、
英、米、仏)又はG7(日本、独、英、米、仏、伊、加)に代わってBRISC(ブラジル、露、
印、中)が勢いを増し、VISTA(ベトナム、インドネシア等)、NEXT11(イラン、イ
ンドネシア等)がそれを追っている。そんな中、G5の先頭にいる米・日、特に日本は疲弊が激しい。
土地バブルの後遺症を脱していない。職のない若者達が塗炭の苦しみを受けている原点は、土
地バブルによるものだろう。
土地バブルの狂乱経済と秋葉原での殺人事件とは関係がないというかもしれない。しかし、当
時の人々が国の舵取りを間違えなければあのような狂乱時代はなかったろう。土地バブル狂乱経
済は人が起こしたが人災であり、あれがなければ、秋葉原の殺人事件もなかったろうと思う。
現代の我々が今経験している再起・挫折・再起・挫折は、過去無数の人々が経験してきた再起
・挫折・再起・挫折と本質的にはいささかの相違もない。今後、無数の人々が経験していく再起
・挫折・再起・挫折と本質的にいささかの相違もない。土地バブルを起こした愚かさと、無差別
殺人を起こす愚かさとは同一であると言えば言い過ぎか。本当のことが見えていない闇の中では、
全てが真っ黒に見る。愚かさは暗黒をその本質とする。
人が、再起・挫折・再起・挫折を繰り返すその根本には、実態が見えず、本当のことが分から
ない無知(無明)が横たわっている。始め無き始めから終わり無き終わりに向かってそれは限り
なく連続している。
土地バブル開始の頃、加藤智大さんなどは、まだ生まれていなかったに違いない。最近、秋葉
原殺人事件を模倣した同様の殺人事件が広島マツダ工場で起きた。愚かさは、常に人々の精神の
奥底でマグマのように沸騰しており、弱いところがあるとそこを突き破って地表に吹き出てくる。
- 84 :
- 吹き出た爆発の様相は各所で表面的な相違があっても、地下では時代を超え、地域を越えてつな
がっている。
人々に智慧がない。正しい智慧がなければ悲劇は二度、三度と繰り返す。無明を破る力は、倹
約ではない。我慢の精神力でもない。智慧以外のなにものでもない。我々一人一人に智慧がない
こと、それがマグマの本質であり、無明の実体であると言うべきではないか。
智慧は深い思索すなわち禅定から気づけてくる。釈迦が二千年以上前に我々に提唱してくれた
仮説だ。深い思索を忘れた上辺だけでの認識、浅い思考、分別無き行動は全て迷いである。ネッ
トで相手をされなくなれば殺人に走る。実に愚かで悲しいことではないか。
肉体は眼・耳・鼻・舌・身・意を持つ。眼はものを見、耳は音を聞く。深い心がなく、上辺で
物事ごとを見れば、本当のことは見えないだろう。本当の音は聞こえないだろう。眼は節穴であ
り、耳は壁になる。鼻は塞がれ、舌は抜かれた状態になる。眼に眼はなく、耳に耳はなくなる。
鼻に鼻が無く、舌に舌がない。智慧を忘れた一切が空である。
むかついた。腹が立った。頭に来た。殺してやりたい。こうした感情も、深い思索があれば変
わることも多いはずだ。受けた感情、抱いた考えは、根も葉もない妄想だったということは少な
くないだろう。
深い思索すなわち悟りのない色・受・想・行・識のどこに、確実なものがあると言えるだろう
か。確実なものはどこにもない。
念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。念仏三昧これ真宗なり。念仏成仏これ真宗なり。
王今坐禅してただ当に念仏すべし。(五会法事讃略抄)
五蘊盛苦とは、親鸞が提唱するこの仮説と表裏の概念だろうと僕は思う。
- 85 :
- 口の利けない人、言葉の発せられない人は極楽浄土にいけないのか。百家争鳴で回答しました。
ブログ親鸞仏教
www.しんらん.jp
百家争鳴 掲示板
- 86 :
- 神学1
日本人の後ろ盾には、この宇宙を創造された神がおわします。悪神(メーソン)
はこの神に成り代わろうとして、日本人を人質にとって言いなりにさせようと
している。メーソンが日本に原爆を落としたのもこの理由からである。最近、
日本人が海外で死亡しているのはメーソンの陰謀である。日本人の血統は一番
神に近い。そのことは竹内文書にうたってある。日本人はキリストのように人
類の罪を贖わなければならない運命に置かれている。
西洋人の面貌は昔の人が言っているように、紅毛青眼の醜夷である。ほりが
深く、青眼なのは吸血鬼ドラキュラと一緒で、青眼だから太陽の光が眩しいの
で彫りを深くして眩しさを防いでいる。つまり、悪魔の類である。韓国人の面
貌、特に目の形がつり目やたれ目でいびつなのは、これも同様に目蓋で眩しさ
を防いでいるのであり、悪魔の類である。日本人の目は均整が取れて美しい。
昔の日本人の大和魂も美しい。
メーソンは日本人を卑しめる為に、洗脳して来たのである。日本には固有の
文字がなかったとか、中国文化を習ったとか、西洋文化で文明開化したとか、
太平洋戦争でアジアを侵略した(この戦争は自衛戦争、その前の中華事変で挑発
された。米英は中立を守らず、蒋介石に軍事援助した)とか。そのお陰で日本古
来の伝統の神道が絶たれた。神国日本に神風が吹かなかったのは、戦争と言う武
力で物事を解決しようとしたからである。その罰が原爆被害として表れた。
神が表に現れて善と悪を立て分ける。ヨハネの黙示録に言う悪魔の刻印を押
された者とは、肉食を行なう事によって内なる神の分け御霊を穢して、まるで、
太陽が黒雲で覆い隠された様なものである。この悪魔に取り憑かれた者は、慈
悲の心と羞恥心が欠如し、自己の欲望を満たす為に正義から外れた行動をとる。
五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、贅沢)の罪を犯す。この者は神を信じないか、
悪魔の宗教に魂を売っている。神を否定した科学を妄信して、科学によって生
ずる害毒が自然を破壊する事に手を貸している。この者達は神の最後の審判に
よって草木等に替えられる。内なる神の御霊が発揮出来る様に直ちに菜食に移
行しなければならない。
- 87 :
- 587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見
赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。
日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即
位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大
兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極
天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。なぜ、蘇我氏が専横してい
るのに、皇位が蘇我氏の血を受けていない本流に戻ったのか。どうしてそれが
専横となるのか、矛盾している。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなか
った。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から
聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太
子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。つまり、犯人
は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興す
る為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。中大兄皇子はイスラエ
ル12支族のユダ族である。天皇家の紋章がイスラエルのシンボルの麒麟(一角
獣)である事からも分かる。
この偽の天皇の為に、楠正成、2.26事件の将校、神風特攻隊員等が犠牲となっ
た。未だに日本は朝鮮人に支配されている。真理を悟る事が出来るのは聖者だ
けである。本来世界は天皇が治めるべきものであり、その国の王が委託を受け
ていた。メーソンが世界制覇の為に各国の王政を破り、天皇に成り替わらんと
している。悪魔が統治しても悪の世は潰れる。神の信任を受けた聖者が統治し
なければならない。民主主義などと言う衆愚の多数決ではものごとは解決しな
い。悪魔は世を潰し、神の裁きを受けて退治される。
- 88 :
- 大無量寿経はなぜ真実経か。この問題について考えて行きたい。
この問題を考える場合、大事なことがある。予め一切のフィルターを外し、生の形の大無量寿経を認識
することだ。
親鸞が真実経であると言ったから真実経である。そういう考え方をやめよう。四十八の誓いの中で、十
八願を法然が王本願と言ったからそれが中心である。こういう考え方をやめようではないか。善導大師は
大無量寿経から念仏の教えを開いてきた。だから大無量寿経は念仏の経典である。そういう考え方を一切
やめようではないか。
大無量寿経には筆者がいる。筆者は誰か。筆者の主張は何か。筆者の主張に焦点を当てて、筆者の思い
を考え、大無量寿経が語ろうとしてことを一つ一つ掘り起こして行きたい。そうすると、親鸞や法然の主
張とは全く違う大無量寿経が現れるだろう。そこから、大無量寿経が真実経であると言っている意味を掘
り起こして行きたい。
大無量寿経には筆者が二人いる。それは、梵文大無量寿経の筆者と、漢文大無量寿経の筆者である。梵
文と漢文とは内容が大きく違う。漢文大無量寿経は、独自の創作がされたと考えるべきだろう。両者のず
れから、大無量寿経の本質、浄土教の本質を考えたい。
- 89 :
- 神学3
暴走族は神風特攻隊の霊が憑依して、暴走を行わせているのである。日本の
為に、子孫の為に命を捧げたのに感謝される処か、侵略者の汚名を着せて狂信
者扱いで侮辱している。それに怒って、鬱憤を晴らそうと爆音を響かせて、我
々の安眠を妨げて嫌がらせをしているのである。それが証拠に、暴走族は特攻
服を着て、命知らずの爆走をしている。
秋葉原で起きた無差別殺傷事件等も神風特攻隊の霊障である。本人は死ぬ気
になって、たとえ死刑になってもいいから、人を道づれにして殺そうとする。
神風特攻隊の霊が発狂してしまうほど、日本人の精神が堕落して、性根の腐っ
た人非人(ひとでなし)になっている。
金と学に支配されて、正義も人情も捨てて、我さえよけりゃ後は知ったことじ
ゃない。
こうして私が神意を伝えようとしても、誰も真剣に耳を貸そうとはしない。
情けないことではあるが、人間としての価値を失い、その資格を失っているの
である。
元神は三千世界(神、幽、現界)を大改革するべく、建て替えを断行する。こ
の世の鬼(ひとでなし)を退治して草木に替える。もう今までの様に敗者復活は
ないのである。1日でも早く、神の御旨に沿うよう(不殺生、不偸盗、不姦淫、
不妄語、不贅沢)改心して、神の大恩に報いる生活に改めなくては人間として生
きる価値がないのである。
- 90 :
- 物語には主題と筋書きとがある。大無量寿経にも主題と筋書きとがある。大無量寿経の概要について、親
鸞は如来の本願を説くことをもって宗致つまり主題としている。仏の名号をもって経の体としているという。
つまり、著者がアピールしたい内容は如来の本願であるということである。筋書きは、南無阿弥陀仏・南無
阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と展開しているということを言っている。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と展開しているとはどういう
ことか。簡単に言えば、礼拝・賛嘆・作願・観察・回向という順序になっている、つまり宝蔵菩薩が阿弥陀
仏になる道筋がそのストーリーであるというのだ。
親鸞の主張は横に置いておいて、あらすじを見てみる。漢文大無量寿経は、前半と後半に分かれている。
後半は、ほとんどが漢訳で加わっている部分である。梵文には無い部分がある。序説部分も漢訳で始めて加
わっている。
梵文で書かれていた部分は漢訳文ほど長くない。釈迦が登場し、阿弥陀仏の存在を教える。法蔵菩薩とい
う修行者が登場し、世自在王如来を訪問する。さまざまな仏国土を教わり、やがて法蔵菩薩は数十箇条に及
ぶ誓いを世自在王如来に立てる。法蔵菩薩はその誓いを実現し、極楽浄土を完成する。大無量寿経はその極
楽浄土の内容を詳細に説明している。
大無量寿経とはどういう経典か。大無量寿経とは大乗仏教の経典である。梵文大無量寿経は言う。大無量
寿経の聴衆について、「いずれもみな博識なることによってよく知られ、長老であり仏の偉大な弟子であっ
た」という。漢訳では「かくのごときらの上首たるものなりき」という。大乗仏教の同じような経典では、
漢訳法華経はいう「衆に知識せられたる大阿羅漢等なり」。梵文法華経は「これらの長老達と、その他の偉
大な弟子達もいた」という。
大乗仏教は、基本的には小乗仏教の学習を終了した大阿羅漢達に説かれる教えなのだ。
- 91 :
- 質問です。
阿弥陀仏はキリスト教の主にあたるのでしょうか?
- 92 :
- いつのまにか難さん復活してるな。
親鸞聖人の竜樹理解(十住毘婆沙論)について何か意見があればお願いします。
- 93 :
- >>91
>阿弥陀仏はキリスト教の主にあたるのでしょうか?
無関係です。
神ノアおよび彼と皆(とも)にある其の子等に告げて言たまひけるは(創世記9−8) 見よ我汝等と
汝等の後の子孫 および汝等とともなる諸の生物即ち汝等とともなる鳥家畜および地の諸の獣と契約を立
(たて)ん都(すべ)て方舟(はこぶね)より出たる者より地の諸の獣にまで至らん 我汝等と契約を立
てん総て肉なる者は再び洪水に絶ることあらじ又地を滅ぼす洪水再びあらざるべし
唯聴察を垂れたまえ。我が所願のごとく当に具にこれを説くべし。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし
生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(大無量寿経)
この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束ある(歎異抄)
キリスト教の主にも約束がある。阿弥陀仏にも約束がある。同じではないか。こういう人がいますが、
僕はそういう主張をする人の気が知れません。
キリスト教の神は、紀元前3761年10月7日(ユダヤ暦元年 史学的な根拠は薄弱)、チグリスユーフ
ラテス川を周辺で誕生した実在のアダムという子供の両親であると言うべきでしょう。
阿弥陀仏は、釈迦の人格の一つを独立させた架空の仏陀です。釈迦には、教師・医師・生産者・休息所
という四つの性格を持っていました。その内の教師像を独立させた概念です。
アダムは実在の人物でしょう。阿弥陀は架空です。全く無関係です。
http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/cat29/
>>92
面白いテーマで言いたいことはたくさんありそうだけど、自分の中でまとまっていません。いずれ考え
をまとめてみたいですね。
- 94 :
- 世尊、我無上正覚の心を発せり。願わくは、仏、我がために広く経法を宣べたまえ。我当に修行して仏
国を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。我世において速やかに正覚を成らしめて、もろもろの生死
・勤苦の本を抜かしめん。」
世饒王仏つまり世自在王仏先生。私法蔵比丘は無上正覚の心つまり大乗仏教の悟りを得ようと心に決め
ました。先生、どうか、私により深い、より広い教えを説いてください。私は、努力を重ねて仏国土を開
き、汚れのない素晴らしい世界を実現しようと思います。私は遅滞なく大乗の悟りを得、人々の様々な迷
い、苦しみを除去しようと思います。
時に世饒王仏、法蔵比丘に告げたまわく、修行せんところのごとく、荘厳の仏土、汝自ら当に知るべし。
このとき、世自在王仏先生は教えを求めに来た法蔵比丘に言う。「貴方は既に学ぶべきことは全て学ん
でいらっしゃいます。素晴らしい仏土とはどういうところかは、人に聞かなくても、自分で考えたらいか
がでしょうか。
この義弘深にして我が境界にあらず。唯願わくは世尊、広くために諸仏・如来の浄土の行を敷衍したま
え。我これを聞き已りて当に説のごとく修行して所願を成満すべし。
素晴らしい仏土とはどういう世界か、これはあまりに難しく、私には分かりません。世自在王仏先生、
どうか様々な諸仏の様々な浄土をお教えください。私はそれを伺い、諸先輩の行っていらっしゃるように
努力を重ね、自らの決意を達成したいと思います。
世自在王仏、すなわちために広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説きて、その心願
に応じてことごとく現じてこれを与えたまう。
世自在王仏は、二一〇億に及ぶ様々な諸仏の国々、そこに住む人々、国土のあり方を、法蔵比丘の願い
に叶うように説いた。
小乗仏教の学習を終了した人々は何をすべきなのか。基礎的な学習を終了した人はそれだけで大阿羅漢
と呼ばれて尊敬される。そうした人々は、思い思いの場所に行って、思い思いの自由な生活をしていけば
いいのだ。ある者は商人として商売を行い、ある者は製造者となって社会に役立つものを生産する人にな
る。ある者は政治家になって人々を導くのもいいだろう。
- 95 :
- しかし、大乗仏教はそうした大阿羅漢達にある提案をする。もっと勉強して、自分でも仏国土つまり学
校を開いてみないか。小乗仏教の学習で自分が救われただけではなく、自分以外の人々に自分が知り得た
知識を伝え、人々の様々な迷い、苦しみを除去しようとしてみよう。大乗仏教はそのように大阿羅漢達に
そのような提案をする。
無上正覚の心とは、自分が真実を認識しただけで満足することなく、自らの認識を多くの人々と共感的
に享受、利用できるように多くの人々との共有の財産化しようという心である。つまり、人々を育てる教
育者になろうという心である。
これから学校を作りたいと思うのだが、どのようにして作ったらいいだろうか。法蔵比丘は、世自在王
仏先生に相談に行く。学ぶべきことは全部学んでいるのだから、自分で考えて自由におやりなさいと、世
自在王仏先生は法蔵比丘に言う。それが分からないから相談に来たのですと法蔵比丘は世自在王仏先生に
打ち明ける。世自在王仏先生は法蔵比丘に世界中の様々な学校のあり方を教えた。
大無量寿経はそのように書いてある。この部分は梵文とほとんど共通である。
- 96 :
- 浄土真宗が言う後生の問題について解説しています。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1284601930/443 等
- 97 :
-
真言・念仏・禅の邪宗が広まった理由
まず、邪義「真言」が、なぜ広まったのか。
それは、像法の末に伝教(最澄)が「法華経最第一」を確立した「後」に、空海(弘法)によって伝来したからである。
つまり、天台・伝教の破折を「まぬかれている」のだ。
伝教(最澄)が南都六宗の邪義を破った後に、空海(弘法)によって伝来した真言が、
後に天台宗の人々が真言に「籠絡されていく落とし穴」となってしまった。
真言は、天台の一念三千の法を「盗み入れて」自宗の極理となし、
「真言宗は天台宗と法理の次元では同じだが、天台宗にない印と真言という事相があるから勝れている」
との邪義を立てた。
その策略にかかり、天台宗を真言へとおとしめてしまったのが比叡山第3代座主の「慈覚(円仁)」である。
伝教が一生の闘争で確立した「法華経最第一」の原則を崩し、「理同事勝」の邪義を唱え、
天台宗の真言密教化に踏み切ってしまった慈覚が、謗法の端緒を開く元凶となった。
さらに、慈覚の弟子「安然」は、禅宗を促し、「恵心」は、念仏を広める役割をした。
高徳・碩学と仰がれた慈覚が、後世の安然や恵心の邪義を引き出す呼び水になったのだ。
法をより深くむしばむ害虫は、他宗ではなく正法を護るべき天台宗の中にいた。
(よって現在の天台宗は、慈覚・安然・恵心の謗法を引継ぐ邪宗・謗法宗である)
そして、謗法に毒された人々を救うため、末法悪世の変革のために、次々と起こる
大難・迫害に命がけで戦い勝ち越えてきた、末法における妙法流布の法華経の行者が
日蓮である。
謗法の人々も今は法華経を誹謗しているが、亡国・亡身の危機に直面した
とき、一切の仏寺・一切の神寺を捨てて、「南無妙法蓮華経」と唱えるようになるだろう。
- 98 :
- 河口慧海『在家仏教』(世界文庫刊行会, 1926, p.184)
然るに世には因果撥無の外道があって、罪悪のその身そのまゝ
御助け下さるなどと唱へ、恰も罪悪あることが仏に救はれる資格で
あるかの如くに、悪人正機などど主張する真の邪法がある。これを
世に真宗と云ふ。真に邪宗の意義であらう。
- 99 :
- 河口慧海『在家仏教』(世界文庫刊行会, 1926, pp.207-208)
然るに真宗教徒は宗義として三宝に帰依せず、五戒を持たず、
帰依処は阿弥陀仏の一宝に於てするも、毫もその意義をなさず、
行法は仏陀真説の戒法によらずして、王法を本としてそれに
よるのである。されは真実仏教徒たるウパーサカ等の資格はない
のである。故に親鸞は自ら非僧と云ってゐる。勿論彼自らは
具足戒を持たなかったからさう言ふのである。鳥でもない、
鼠でもない、蝙蝠とも云ふべき一種不可解の団体である。天、龍、
夜叉、乾闥婆、阿修羅、伽楼羅、緊那羅、摩喉羅迦、人非人等の
八部衆でもない。全く仏陀不説の一集団である。この集団は比丘
僧衆の規定によつても律せられず、またウパーサカ衆の法則にも
縛られないものであるから、これ等の集団は仏語を使用する外には、
何ら仏教とは縁のないものである。
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