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仏教 議論スレッド 71


1 :2013/09/09 〜 最終レス :2013/09/24
仏教の総合的な議論スレッドです。
仏教に関すること全て扱います。
仏教 質問箱スレッドで議論になったら、
または、議論に発展すると感じたら、
或いは、話題・論点を拡げたい時は、
ここに誘導し、質問箱の機能の確保に御協力ください。
前スレ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
Wikipedia ― Category:仏教
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99
論文検索
ttp://ci.nii.ac.jp/
ttp://sc.chat-shuffle.net/
ttp://www.jstage.jst.go.jp/AF13S010Init/-char/ja/
ttp://www.inbuds.net/jpn/index.html
ttp://www.totetu.org/index.php?id=523
パーリ三蔵
ttp://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html
ttp://www.tipitaka.org/romn/
大正蔵経検索
ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php

2 :
前世スレ(70)では、しばらくスレを解脱しておりましたハンドルが次々に再生しました。
再生:セブン氏、ご隠居氏、承狂氏、カラス氏、一在家、他(ハンドル不明で済みません)
未再生:オイラ氏、宝珠氏
現世スレ(71)では、どうなるのか楽しみです。
多分、新しい方の参入が縁となって新しい議論、対話が起こることを予想しております。

3 :
>ちなみに業報輪廻転生にしろ、天界にしろ、ゴータマさんは形而上のことは
>全て無記を通したどころかけっこう話していたりする。
長部経典の34経の中で形而上のこと(輪廻、神、梵天、神通、地獄等)を7割近い
経典で釈尊は説かれております。
また形而上のことを無記だった経典は1割位でしょうか。
前者を後世の追加・改竄と言うならば、後者もまたその可能性はございます。
本スレでも輪廻する度に、後者の「無記」のみを釈尊の説法だったとクローズアップ
される方々に対しまして、幾度も紹介しております。
尚、同様にスッタニパータの各章(最古層含む)にも形而上のことが説かれております
ことは紹介済みです。

4 :
前スレ>>904 カラス氏 補足
>ちなみに業報輪廻転生にしろ、天界にしろ、ゴータマさんは形而上のことは
>全て無記を通したどころかけっこう話していたりする。
長部経典の34経の中で形而上のこと(輪廻、神、梵天、神通、地獄等)を7割近い
経典で釈尊は説かれております。
また形而上のことを無記だった経典は1割位でしょうか。
前者を後世の追加・改竄と言うならば、後者もまたその可能性はございます。
本スレでも輪廻する度に、後者の「無記」のみを釈尊の説法だったとクローズアップ
される方々に対しまして、幾度も紹介しております。
尚、同様にスッタニパータの各章(最古層含む)にも形而上のことが説かれております
ことは紹介済みです。

5 :
崇教真光(文明教団の分派)の教え・・・・
キリスト教では偽預言者を信じるなと聖書にも書いてあるし
魔女狩りとか異端には厳しいのは学校でも習ったはずなんだよな
にも関わらず真光はキリスト教の神父も入信OKとか
頭悪いこと言って利他愛とか言いながら
他宗教にも理解を示さないのが真光だからな
宗教じゃない崇教とか日本語も通じない

6 :
前スレの最後に一切外とか書いてるが、
たしか、一切とは五蘊十二処十八界で、
その外は兎の角とかの有り得ない事だったと記憶しているが、……
しかし、転生肯定派って必死だな。(笑)
(^。^)ひょっとしてアレか?宗教詐欺を生業にしてんのか?(笑)

7 :
>>5
>にも関わらず真光はキリスト教の神父も入信OKとか
>頭悪いこと言って利他愛とか言いながら
>他宗教にも理解を示さないのが真光だからな
>宗教じゃない崇教とか日本語も通じない
おっしゃる通り、僧侶も神父も改宗はせずに、研修を受けて手をかざしておられます。
人は皆神の子、仏の子であり、手をかざせば癒し、霊動現象が起きるのも法の一つでしょう。
この法は古神道には昔から奥義としてあり、イエスもこの法を聖霊のバプテスマと説き、
釈尊は父王が臨終の時に額に手を置いて癒したと「浄飯王涅槃経」?に記載されております。
貴兄もここは仏教議論板ですのでマナーを守って荒らさないで下さい。

8 :
>>6
>前スレの最後に一切外とか書いてるが、
>たしか、一切とは五蘊十二処十八界で、
「一切皆苦」という場合、「一切」には仏は含まれません。
苦を滅した涅槃にいる仏も「皆苦」に含むのは論理矛盾だからです。
また「色界」は「一切」に含まれるかも知れませんが、輪廻することのない存在が
住するという「無色界」も「一切」に含むのは論理矛盾かも知れませんね。
また「一切智」という場合は、仏、涅槃、色界、無色界も含むかと思料します。
兎に角、「一切」という言葉は空にして、意味も変化しますので、あまりこだわると
混乱しますし、使用する場合はある程度定義しておく必要もあるかと存じます。
「一切」については、過去世で散々議論しましたので、本スレの阿頼耶識ともいう
べきセブン氏の訂正、補足を待つことに致したく。

9 :
真光は、EU3カ国にカルトと名指しされているから信用できないよ。
君こそ、仏教スレを荒らさないで、巣に帰りなさい。
真光道場で馬鹿になって手かざししてなざい。            >一在家殿

10 :
仏教でも釈迦は今後に間違った教えを広める者が現れるから
それらの言うことは聞かないようにと預言してたと思うぞ
キリスト教も仏教も真光とは相容れないよ

11 :
「個人主体の本質としての魂が代々生まれ変わって転生し続ける」という意味での
現在の日本のカルトが語る「輪廻転生」と
仏教で言われる「輪廻」は、
意味が違う。
仏教の教えが「輪廻転生」を前提にしているという連中は、
カルトやテロリストの片棒を担ぐ傍法外道だと知れ。
(^。^)お?何だ、やんのか?潰すぞコラ。(笑)

12 :
>>1
本スレの過去世(ログ)では、常見派のかきこが縁で断見派の反論が起こり、
両者の言い争いが縁で中観派の調停が起こるという輪廻を繰り返しておりました。
輪廻を繰り返す度に常見派も智恵をつけて次第に中観派寄りのかきこになりつつあるように感じますが、
断見派の中で中観派寄りのかきこになりつつある方はどなたでしょうか。

13 :
一在家 さん
2ちゃんでの布教活動がんばってるね
あなたの前世はなんですか
私は武士でした
yahoo占いより
「元FBI捜査官“奇跡のヒーラー”ニキ あなたの魂を救う未来透視」
は有料コンテンツです。
あほらし  そんなもんだれにもわからんわ

14 :
仏教 議論スレッド 69
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1368776230/938
938 神も仏も名無しさん 2013/06/16(日) 10:24:18.34 ID:PQ63UgQ9
お釈迦様の本心(想像)
「魂だの輪廻転生だの無いとは思うが俺は死んだことないから無いとは言えない」
「だけど身体も朽ち果てて変わらない何か(魂?)が残るとは思えないだろ?」
「これを言いたいから何度も諸行無常と言ってるにわからない奴はわからないのな」
「死んだらそれまでなんだから,その悟りを抱いて今生きているこの一瞬を生きよ。そしてそのうえで悪いことをせず,良いことをせよ」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1368776230/947
947 神も仏も名無しさん sage 2013/06/16(日) 11:06:00.52 ID:ZysGAnU0
>> 938
同じく想像
「だけど身体も朽ち果てて変わらない何か(魂?)が残るとは思えないだろ?」
は、あくまで「諸行無常を理解してる人」向けの言い方じゃねえかな
悟りの境地にある無を知れば、
形而上を語っても仕方ないことを実感として理解するしかなくなるけど、
逆にいえば、修行により悟らなきゃここは実感できない
さらに逆に言えば、修行以外でも、最悪騙してでも、それを実感さえさせれば同じ理解に至る
>> 944
仏教では、それは扱わないのでは?
言葉「だけ」で扱えないとというのは一面正しいけれど、
それはもう言葉で説明できる能力が足りない人と、言葉を読み取る能力が足りない人がいるだけであって

15 :
仏教 議論スレッド 69
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1368776230/950
950 神も仏も名無しさん 2013/06/16(日) 11:17:35.62 ID:PRkmze8a
>> 947
いやいや明らかに扱ってる
上でも示したように果として宿命通というあらゆる過去世の記憶が蘇る知を扱ってるし、
なによりアナタのような常識でしか見ないものに「凡夫が如来を賞賛して語るとき、わずかなことのみを、 卑近なことのみを、戒のみを語るにすぎない」と嘆息されている
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html
たしかにオカルトやニューエイジは仏教ではない
しかし常識も仏教ではない
現代日本の仏教書は常識に阿ったものが多すぎる


http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1368776230/939
939 神も仏も名無しさん 2013/06/16(日) 10:44:01.75 ID:PRkmze8a
なんかどうしようもなくなってるな
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1368776230/941
941 神も仏も名無しさん 2013/06/16(日) 10:48:48.43 ID:PRkmze8a
>> 940
言っても通じないと思うは

16 :
しかしまた、在家並に慇懃無礼な奴がやってきたな・・。(スレ的には面白いけどw)
が、醜悪なレスだ・・。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/898
けど、>>14-15からすると、少し前から居たのか・・・.

17 :
一在家殿の真光を調査させてもらったが、こんな幽霊話信じろという方がおかしい。
其れも、カルトの手かざし宗教なのでしょう?
崇教真光!初級研修の講談。
「やたら事故の多いところってには自縛霊がいて事故を引き起こさせている。
真光は霊界お清めをして事故が起きなくなったので警察から感謝状をもらった」
前半は確認のしようがないのでともかく、後半の警察のくだりは明らかに嘘だろう。
警察という公的機関の信頼性まで利用して嘘をつき、真光の業がさも本物かである
ように見せかけている。つまりこのようなつまらない嘘をつかなければ信頼させら
れないような代物でしかない。全く情け無い、真光が本物ならば嘘は必要ない。
「この話をした人も人から聞いたのを真に受けただけで嘘をつくつもりはなかったか
もしれない」と思うだろうか。警察から感謝状などという、ちょっと考えたらわかる。
ありえないことを真に受けてしまうような常識のないバカしか真光信者にはいないと
いうことになる。

18 :
>>13
>あなたの前世はなんですか
私自身と母の2つの霊動現象からは前世は「武家の娘」だったそうです。
・母は前世は武家(旗本)の親方様で私はその娘
・親方様に戦で殺された者たちは数百年後に再生した者(母)に憑依
・その娘を争った武士の一人は死んで数百年後に再生した娘(私)に憑依
・憎しみと執着の憑依霊達も数年で何体か離脱して成仏(まだ残っておられますが)
そう言われてみれば、母は男心女体で、私はその逆の性格にも思えます。
前世を見る法は神通以外にもあるということです。

19 :
>>16
>しかしまた、在家並に慇懃無礼な奴がやってきたな・・。(スレ的には面白いけどw)
彼は「仏教徒ではない」と最初に自己紹介しておりましたので、仏教を勉強している異教だと思います。
同じことを言っても自称「仏教徒」と自称「異教」では対応は違っても宜しいのではないでしょうか。
釈尊は四悉壇でしたし、異教徒には「無記」も多用されたようですし。。

20 :
手かざしだけで医師なんかにならなくても
事故で飛び出した脳みそがもとどおりとか真光では
教えてるからな
何の取り柄もない会社でも学校でも相手にされない奴が
人格を手かざしだけで肯定されるから
ここの末端信者の頭の悪さは半端じゃない
正面から話せとか言ってる奴は会ったことないのか?
ここの末端信者はガチでアトランティスとか真顔で話すからな

21 :
、個人情報を小出しにして
『真光隊員カードをチラつかせ、あなたの身元知ってますよと脅し
批判を封Rるセコイ作戦』。
嗚呼、なんちゃって神道のカルト教団のストーキングは恐ろしいですね。
http://kura2.photozou.jp/pub/17/1915017/photo/186009645_org.v1377736133.jpg

22 :
13ですが
一在家さんは自分の信じる道を邁進してくださいな
それが宗教かなと思います
アフリカの土人の信じる宗教を批判できないと同じように
進む道は違いますが
健闘を祈る
反社会的なことはしないでね

23 :
>>8
>「一切皆苦」という場合、「一切」には仏は含まれません。
アホ

24 :
さて・・。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/877
> >> http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/874
> だから・・・・  仏教学で言うところの、「輪廻の主体となる我は無い」  ってのは、
> 無我説から導き出したんだろ?  現・代・人 が。
それは、言い回しの形式がそうであるだけで、
内容は、現存仏典から導かれてるのさ。
 (http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/869
  >「輪廻前と輪廻後の存在との間に、継続性や連続性、或いは共通性が無い」
  >ということが、事例(エピソード)として描写され )
そして重要なことは、この言い回しが誤っていて否定すべきであるというなら、
それは対として輪廻には主体がある、ということしかないということだ。
極の中観派の如く、或いは貴方のように輪廻自体を問題視しない立場なれば、
主体の有無自体が徒労なわけだろ?
主体を想定した方が良い枠組みならそれでいけばいい。
(キ教やイ教には、輪廻に限らず絶対的に必要だろうし。つか、それらには輪廻思想自体が無いか・・w)
主体無しの方が良い枠組みなら、それでいけばいい。(それこそ、現代常識での信教の自由だろ?)
社会的に有害なことに繋がらなければ、どちらを採っても構わない。
> 「縁起を踏まえろ」 ってのは、輪廻の主体となる我を想定すれば、それは常住の我を認めることになる・・・・
> 常住のものがあるかどうか、縁起を踏まえて考えろ・・・ってことだろ?
 >輪廻の主体となる我を想定すれば  なんて新たな条件つけるなw
輪廻の主体となる我を想定するもなにも、
輪廻に限らず、縁起ベースで「あらゆる場面での主体不要論」となってるのが仏教なわけで。
輪廻に固執して主体の有無に躍起になってるわけではないのよw
> 死後に人の我を認める  =  常住の我を認める  っていう、浅はかな発想なんだよ。
死後だろうが存命中だろうが、「我」は見出せないってのが軸だから。

25 :
>>3
>前者を後世の追加・改竄と言うならば、後者もまたその可能性はございます。
アホ

26 :
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/877
> たとえ死後に我があったとして、なんでそれがいきなり常住と決め付けるんだよ?
「死」という五蘊の切れ目を経ながら(しかも「我」が)継続するなんてことを認め得ないだろ。
唯一、「識」(或いは心)のみがその役目を担ってゆき、阿頼耶識として鎮座してゆくことになるが、
それでも、諸法無我は変わらない。また、阿頼耶識もまた所縁のものであり、悟り及び入滅の際には、そこで切れるわけさ。
 *(唯識はテリトリー外なので、眉唾で読むようにw)
> こういう勘違いをしながら、勝手に仏教を、自分達の手で作り上げてるわけ。
現代的解釈こそが勘違いであるという可能性は考慮しないのなw
いや、勿論、蓋然性基準で順位付けすることを妨げはしないけれども。
けれども、すぐに忘れてしまってもいいから、
 >>15
 >たしかにオカルトやニューエイジは仏教ではない
 >しかし常識も仏教ではない
 >現代日本の仏教書は常識に阿ったものが多すぎる
この台詞の重さだけは、感じ取っておいてほしい。
> 「輪廻に主体があったら・・・  いや待てよ、お釈迦様は無常って言ってたな、常住である我があってはおかしい、
> そうだ!  輪廻に主体である我は無いんだ!」
> この部分はあきらかに「創作」だろ。
そういう論理構造、導出順序じゃないの・・・w (^^;
ドリフのもしもシリーズじゃないがw
>輪廻に主体があったら  じゃなくて、
諸法の在り様から、《輪廻に「主体」として「我」はない》という結論へ至るのさ。
先に結論を仮定して導出するのでなく、検証の積み重ねから、結果として無我が言われるのだよ。

27 :
>>3 一在家
>長部経典の34経の中で形而上のこと(輪廻、神、梵天、神通、地獄等)を7割近い
>経典で釈尊は説かれております。
>また形而上のことを無記だった経典は1割位でしょうか。
>>19 一在家
>釈尊は四悉壇でしたし、異教徒には「無記」も多用されたようですし。。
少なくとも長部経典では「無記」だった対話相手には共通点がございました。
6経「マハーリ経」一部族の主マハーリ
7経「ジャーリヤ経」遍歴行者ジャーリヤ
9経「ポッタパーダ経」異教の修行者ポッタパーダ
24経「パーティカ経」遊行者バッガヴァ
皆、「無記」の時点では釈尊の弟子ではなかったですね。
読み返しまして気付いたことですが、6経「マハーリ経」、7経「ジャーリヤ経」
では「霊魂と肉体とは同じか?」という形而上の問いには無記だった釈尊が、
読心通や前世を見る神通という形而上のことは具体的に説いているという点です。
「霊魂と肉体とは同じか?」という問いの答えは「正しく修行すれば分かりますよ」
ということだったのかと思料します。
前スレで、「無記を誤解している人が多い」と発言された方がおられましたね。
>>380 :神も仏も名無しさん:2013/09/01(日) 23:00:00.59 ID:4e1UsLKs
>横レスだが
> どうも無記について誤解が大きいようだ
> あの世のことや形而上のことについて無記の理由は
>瞑想によって実相を直接体験しろという意味だと思うが

28 :
>>8
>苦を滅した涅槃にいる仏も「皆苦」に含むのは論理矛盾だからです。
アホ

29 :
>>27
前スレで、「無記を誤解している人が多い」と発言された方がおられましたね。
>>380 :神も仏も名無しさん:2013/09/01(日) 23:00:00.59 ID:4e1UsLKs
>横レスだが
> どうも無記について誤解が大きいようだ
> あの世のことや形而上のことについて無記の理由は
>瞑想によって実相を直接体験しろという意味だと思うが
アホ

30 :
先生
アホ アホだけじゃ
説得できませぬ

31 :
>>8 一在家
>「一切皆苦」という場合、「一切」には仏は含まれません。
> 苦を滅した涅槃にいる仏も「皆苦」に含むのは論理矛盾だからです。
釈尊「不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。
作られざるもの(無為)を観じるならば、作られたもの(有為)から解脱する。」
「感興のことば」26.21
龍樹「諸々の行は識とともに作られたものであるから無常である。
涅槃は作られたものではないので恒常である。」
「方便心論」2.2.1
以上、「一切皆苦」の一切には仏は含まれず、「諸行無常」の諸行に涅槃は含まれない
との根拠としました。

32 :
>>30
>先生
>アホ アホだけじゃ
>説得できませぬ
もし「アホ」以外のかきこをすれば、本スレを解脱した筈の彼もまた再生してしまうので
無記の代わりに「アホ」でも宜しいかと存じます。

33 :
>>24
>輪廻前と輪廻後の存在との間に、継続性や連続性、或いは共通性が無い」
これがどういうことか、そのエピソードとやらを検証する必要があるね。
一般的に言われるリインカーネーション でも、全く同じ容姿で生まれ変わってくる、ってことはない。
記憶も、継承されてるわけではない。
「継続性や連続性、或いは共通性が無い」  ってのが、どこまでの共通性、継続性のことを言っているのか、
ここが重要なんだよ。
一般的なリインカーネーションって、肉体が衣で、その中に本体・・・・(霊や魂)が入ってるって考え方だよね。
そしてその本体が、輪廻して、また新たな肉体に宿る・・・  つまり、輪廻の主体である 霊・魂 というのを
想定しているわけ。
「主体」の使い方が違うかもしれないけど、これまでの意見を聞いてると、
「我」 は、「自性」 って意味で使ってるよね?
>死後だろうが存命中だろうが、「我」は見出せないってのが軸だから
>縁起ベースで「あらゆる場面での主体不要論」となってる
とすると・・・  「主体」 というのも 「自性」 として扱ってるフシがあるね。
とすると、話が難しくなってくるな・・・

34 :
>>24
>輪廻前と輪廻後の存在との間に、継続性や連続性、或いは共通性が無い
長部経典19経の「典尊経」では釈尊は前世マハーゴーヴィンダという名のバラモンで
弟子達に梵天界に生まれる道を教えたとのことです。
今世では涅槃に入る道を教えられたので、少なくとも釈尊の場合は継続性や共通性が
ありました。

35 :
>>33
やっとそこまで来てくれたか・・・(^^;
そ。
「主体」という言い方の多義性は問題視していい。
現に私も、多義のまま、識別票w付けずに使用している。
(もっとも、日本語としての言い方の上では致し方ない面もあるが・・。)
そここそが、(これまでも)本来ツッコまれて然るべき部分だったのさ。
主体と言ったり我と言ったり、いったい、何の有無が言われているのか?と。
 *(尤も、それは貴方も同じですがねw 貴方も、「我」と言ったり「主体」と言ったりしてたようですから。)
日常生活上の、世俗的(≒言表上の)「主体」は認めねばならない。
これないところに善悪の倫理道徳も、修道向上も功徳もない。
が、勝義に於いて(=仏の視座として)は、
日常生活上の主体もまた、解体され、縁起のドミノの中に沈んでゆく。
仏教で「無我(非我)」と言われる時、それは、伝統的アートマンの排斥であると同時に、
自己中な、我儘な、或いは甘え、或いは欲望の源泉としての、或いは利害対立の因としての「自我(意識)」と
固く結びついた日常主体もまた排斥対象となる。
だからこそ、(捨身飼虎や常不軽菩薩等を極として)全てを擲って慈悲に徹する大乗の精神が成立する。
今の時代、毛嫌いどころか全方向からフルボッコされそうなw「滅私奉公」という考え方は、実に大乗的だよ。
そして、そうした通仏教的な骨子が、縁起ベースの諸法無我(非我)なわけなのです。

36 :
>>26
wikiの輪廻に書いてあるけど・・・
「自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[5]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。」
この部分。   この部分が問題なわけ。
「輪廻の主体」 という言い方を避け、「霊・魂」 という言い方を避けると、
リインカーネーションで言われる輪廻転生するものとは、「自我」 ってことになると思う。
それで・・・
>「死」という五蘊の切れ目を経ながら(しかも「我」が)継続するなんてことを認め得ないだろ。を経ながら(しかも「我」が)継続するなんてことを認め得ないだろ。を経ながら(しかも「我」が)継続するなんてことを認め得ないだろ。
ここにも誤った早とちりがあると思う。
「死」 がなぜ 「五蘊の切れ目」 といえるのか・・・? ってこと。
これって、五蘊が肉体の産物・・・・脳機能の産物だと思ってるってことだよね?
もしくわ、肉体の生命が終わると同時に、五蘊を発生させている何かが、終焉すると思ってる。
つまり、肉体の生命以外の生を、頭から否定しているってこと。
肉体が終わっても、五蘊が継続するということを認めていない。
ここが最大の問題点なわけ。

37 :
>>36
いや・・・あのさ・・・ (^^;
五蘊を列挙してみ?

38 :
>>35
この、 「世俗的(≒言表上の)「主体」」 というのは、「自我」 ということでもいいんですかね?
ちょっと話を反れるかもしれませんが、前のつづきを書いてるので、
それを投稿してみます。

39 :
>>37
五蘊・・・・ 色 受 想 行 識
う〜ん、「色」が 「肉体」だと言いたいわけですね?

40 :
>>26
前の続き
wikiの、
「自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[5]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。」
ここが早とちりになってる。
自我は錯覚である・・・・(常住ではない)   ここまではいい。
その次、   「単立常住の主体(霊魂)」   ← これ。
なぜ 「霊魂」 を、 「単立常住の主体」 と決め付けるのか、ってこと。
「肉体が死んでも生き続けるものは、 『常住』 である・・・ 」   という、 先走った先入観がそこにはあるわけ。
これは無理もない。    肉体が死んだ後、 残るものは、 永遠と感じられるから。
この世の物質、寿命の影響を受けないもの・・・ =  永遠不滅     これは先入観そのものだよね。
ここには、「この世の物質世界の影響を受けないもの」  と、 「永遠不滅の存在」 という中間に、
「この世の物質世界の影響を受けないが、 常住ではないもの」 という観念が抜けている。
ちょっと話が反れたかな・・・
>>37についてはこの後で

41 :
>>37
ちょっと難しいんだけど、ようは、この世的な肉体の死後に、五蘊を認めるかどうか、ってこと。
あるいは、その可能性を想定するかどうか、ってこと。
今の仏教学者っていうか、wikiの説明者もそうだけど、この世的な肉体の死後に、
五蘊の継続を認めてないよね・・・?
「色」 というのを、この世の物質的な肉体と、限定してしまっている。
あの世の存在や、スピリチュアルな意味での(常住でない)霊の存在を認めてないわけ。
言葉を変えると、死後、別の世界の現象世界に移行することを、認めてないわけ。
で、ここで言いたいのは、今の仏教学が、そういう可能性を閉ざしてる、ってこと。
つまり、「色」とは 「この世的な物質」 である、と、限定してしまってるわけ。
「色」 っていうのは、言い方を変えれば、現象世界・・・・ そのすべてのもの、ってなるのかな。
肉体も含めて。
人間は肉体の死後、別の現象世界へ移行するとすれば、そこにもまた 「色」 があるわけで、
「五蘊が途切れた」 とは言えなくなる。
で、これを信じるか信じないか・・・、という話じゃなくて、こういう可能性を頭ごなしに否定しているってこと。
もし肉体の死によって五蘊が断絶するなら、それこそ解脱は必要ないってこと。
輪廻とは、「輪」 のように 「回る」 ってことかな・・・、
輪が途切れれば、回る必要はない。
死による五蘊の断絶っていうのは、仏教学最大のミスだと思うよ。

42 :
「五蘊は肉体の死後、離散する」 とか、「五蘊は肉体の死後、断絶する」 という経典があれば別だけど、
おそらくそのような経典は無いでしょ。

43 :
五蘊とは、自身が如何なるものかを観ずる為に説かれた法であり、
色蘊とは自身の肉体としての在り様を示す。
受想行識とセットで記述される意義を知るべし。
為に般若心経は五蘊皆空の後に無眼耳鼻舌身意と続く。
また、五蘊を踏まえた上でこその四念と。

44 :
>>36
>肉体が終わっても、五蘊が継続するということを認めていない。
>ここが最大の問題点なわけ。
そんなこというから、釈迦仏教がカルト、釈迦がカルトの元凶と断定されるのだよ。
五蘊がどこから発するのか考えてみるだけで、小学生にも自明。

45 :
>>44
>五蘊がどこから発するのか
縁起だから不生不滅、仮設&仮説として即生即滅。

46 :
>>45
基地外だなw。
即生・即滅なら、修行など無意味なはず。
火葬場で拾う骨には、五蘊は有るや無しや?

47 :
>>46
>基地外だなw。
・【第一義空経】『眼生時無有來處。滅時無有去處。
         如是眼不實而生。*←不生不滅
         生已盡滅。   *←即生即滅』
・【龍樹 中論24-18】
 『眾因緣生法  ・我說即是無(空) *←<(如)不生不滅>:空観(直接現実)
         ・亦為是假名    *←<生 ⇔ 滅>:仮観(間接現実)
         ・亦是中道義』    *←<即生即滅> :中観(還滅(間接)現実)
>即生・即滅なら、修行など無意味なはず。

修証一等
>火葬場で拾う骨には、五蘊は有るや無しや?
 『亦為是假名』  *←<生 ⇔ 滅>:<有⇔無>:仮観(間接現実)

48 :
>>47
すべては貴殿の「生きた肉体」による思考と書き込み。君がRば、一瞬にして止む。
中論の言ってることは、「もろもろの存在は関係性の産物であり、生・滅とは、その
関係性の変化に過ぎないから、生滅はない」ということ。
修証一等とは、「一切の観念を廃した肉体の行為」。
五感で知覚できる現実以外の「直接現実」を認めることは、忌むべき観念論である。

49 :
隠居神の思考から創造される説をしんじなさああああああいっ!!!!
信じない奴は宗教にマインドコントロールされているのであーーーーーる!

50 :
>>49
>信じない奴は宗教にマインドコントロールされているのであーーーーーる!
前世(過去ログ)ではご隠居神への信仰を「生命教」と呼んでおりました。

51 :
一在家氏は、真光関係スレで昼間からカキコは、引きこもりかニートだと
断言していましたね。
貴君も、過去スレッドで平日の昼間から書き込んでいましたけど、どうなんですか?

52 :
>五感で知覚できる現実以外の「直接現実」を認めることは、忌むべき観念論である。

(^。^)ホント、バカというか無知というか、生命教は相変わらずだな。

53 :
>>52
開祖の精神病の感染というこにも気付かないで、その初歩的論理矛盾、勘違い
にありがたがって従う宗教者が馬鹿。

54 :
>>38
> この、 「世俗的(≒言表上の)「主体」」 というのは、「自我」 ということでもいいんですかね?
まあ、概ね妥当かな。
勿論、パーリ、サンスクリット等原典では、アートマンも日常自己も「Skt:Atman、P:attan」だけど。
だから、
 「私・自分」(日常会話主体)
 「自己」(日常及び社会的主体)
 「自我」(哲学的・実存的主体)
 「我」(アートマン。超常的、本質的、根源的主体)
という使い分け程度なら、日本語語彙の中で可能かとは思っている。
ただ、(特にいきなりの会話中では)コンセンサスが取りにくいので、
流れの中で、互いにすり合わせていくことになるのが殆ど。
互いに、それなりの理解度があれば、(相撲の立会いの如くw)上手い具合に定まってきたり、
すぐに、どこを指してるか察することもできるけど、
そうでなければずれたママ進むことも多いし、平行線のまま物別れだなw
>>39
> う〜ん、「色」が 「肉体」だと言いたいわけですね?
その通りですよ。
辞書的語義で言えば「肉体及び(今で言う)物質的もの」ですが、
rUpa単体でなく、特に「五蘊」との絡みで言われる色なれば、
それは、まず《(『自身の』)肉体》でなければなりません。
なんとなれば、自身が所縁の存在(諸法)であることに気付くことが、縁起を見ることだからです。
死体の腐っていく様が視認されるだけでは意味がないからです。
自身(の色)もまた同様である、と見られねばなりません。

55 :
>>44
五蘊はどこから発生する?      たとえば十二縁起では、
「識」 の次に、 「名色」 になってるでしょ?
「識」 って、精神作用だよね・・・?
その 「識」 の後に、 「名色」 が来てる。
「精神作用」 が先で、「物質、肉体」 の形成が、後とも読み取れる。
ものごとは心にもとづき・・・・

56 :
>>54
「我」 = アートマン(常住不滅) ということですね。
で、輪廻の「主体」・・・ というのは、「常住の存在」 ということにしている。
それで仏教学では、輪廻の主体なるアートマンを認めないと・・・・
霊魂 = アートマン として捉えている。
では例えば、 仏教では 「四十九日」 というのあがあって、その間は中有にとどまるらしいですが、
それを仏教学では、どう捉えているのでしょう?
中有にとどまる存在・・・・ 輪廻の(世俗的な意味での)主体 = 自我(仮我) という風にしているのか、
それとも、そもそも仏教学では四十九日に中有にとどまる存在など、「無い」 としているのか・・・

57 :
>>56
ん?
霊魂=アートマン ではない筈だが?
霊魂、或いは霊、或いは鬼霊、(たとえばビルマで言う「ナッ」だとか「ピー」だとか)は、衆生の筈だけど?
で、霊魂の原語「jIva」は、命、生命、生命力、といった要素を含むもの、或いは生命、生命力そのもの
のことだから、そもそもアートマンと同一ではないし、同一ではない、と仏典中にも言われてたような気がするけど。
で、
なぜ「霊魂否定」の方向を取らねばならないかといえば、初期仏典等を無視して(或いは知らずに)、
新興宗教とかスピリチュアル系が「霊魂の継続」で教義を構築し、
よき来世の爲に喜捨させる(搾取する)基盤に用いているから。
だから、近代仏教、及び仏教学は、それらを否定しなければならなかった。
だから、『彼等は、「霊魂を」「アートマン的に扱い」、「来世へ繋がる自己」を作り上げている』という意味で、
貴方が指摘するような言い回しへ帰着しているのが現状なのさ。

58 :
>>54
五蘊仮和合というのがありますけど、これはそもそも、肉体と精神作用は不二の関係で、
切っても切り離すことが出来ない・・・  肉体が滅びれば、「受 想 行 識 」 も滅ぶと。
こういう認識でいいんですかね?
つまり、十二縁起の 「名色」 というのを 「肉体」 とすると、この肉体が滅ぶと、
それ以下の 「老死」 = 「苦」 も滅びるということに、なりますよね・・・?
もしこういう言い方が可能ならば、「死によって苦から解脱することが出来る」  ということになってしまう。
こういう考え方は間違ってますかね?   あんまり専門用語を知らないもので、「色」 = 「肉体」 でいいのか
自信がありませんが・・。
ようは、仏教は生きてる人間の苦を越えることを対象にした教えなのか(この世の生存苦を越える、ということを対象にした教えなのか)、
それとも、 輪廻によって、死後に関係なくつづく苦を越えることを対象にした教えなのか・・・ ってことなんですよね。
もし生きてる人間の苦・・ということであれば、輪廻という概念があるのは、おかしいですよね。
もし輪廻の苦・・・ということであれば、「死によって苦が断絶する」、というのは、おかしいですよね。

59 :
山川草木国土悉有仏性(さんせんそうもくこくどしつうぶっしょう)
問う、門前の痩せ狗にも仏性はございますか。 答える、無。
教え : 居ぬが赤狗なら、(胸倉をつかんで)さあ!喰え!喰え!喰え!。
理念、 : さとりとは揀.擇(けんじゃく、好き嫌い)しない、一如である。
仮きゅらむ : なすべき事をただちになせ。
1、門前のやせ狗を見たら、射殺(いころ)せ。(悟る為に必修)
2、その狗が赤犬なら、煮て喰え、焼いて喰え。(食中毒注意、サルモネラ菌、腸炎ビブリオ)
3、学ぶ事が無く、ひたすら太った犬は、撲殺(ぼくさつ)せよ。(僕さあボクサー)
4、主流派、多数派の権力に擦り寄る狗は、蹴殺(けころ)せ。(サッカーは物書きか)
5、狗も歩けば30俸を喰らわせ!聞き回り、訪ね周り、食い物にありつく者の舌を塩タンで喰う。(舌即是喰う)
6、物乞いの狗には薬石効無(やくせきこうな)く傷口に塩を塗り込み一夜漬けで喰え。(ふつかと置くな腐る)
時間(とき)を問わず、汝(なんじ・何時)妄想(もうぞう)する莫(なか)れ
妄想(もうぞう)のさとりのすがた申そう10ケ条リストアップ一覧表
1.あれれ、わたしが いない。輪になって肩を組み、歌い、踊ってるよ。
2.さとりとは、諸法無我(しょほうむが)。
3.悟前(ごぜん)の人はさとりを求めるのでさとりあり、悟後(ごご)の人にさとりなし。
4.さとれば、自他が無い。一味(いちみ)一色(いっしき、ひといろ)の世界である。
5.本来ひとはさとっている。如何(どう)して、修行するのか。
6.本来ほとけ、無駄な読経、座禅はしない。
7.さとりとは分別(ふんべつ)しない、一如である。
8.生まれたから死に、生まれなければ死はない、の真理さとり。
9.日常生活、行住坐臥、そこがほとけんの立処皆真(りっしょかいしん)。
10.悟前は自己のため、悟後は他人(ひと)のための修行30年。

60 :
>>57
あっ、 霊魂 = アートマン という記述があったように見えたけど、
今調べたんですけど、ありませんでしたね。
wikiの、
「輪廻に主体(我、アートマン)を想定しない」 っていうのと、
「単立常住の主体(霊魂)は否定される」 っていう文章から、勝手に錯覚してました。
>言い回しへ帰着しているのが現状なのさ。
この言い回しによって、仏教の真の教えが歪むとすれば、それは一大事だと思うんですよね・・・。
「解脱」 というのがこの世一生のものであれば、仏教修行者が一生をささげて修行を成し遂げようとしても、
今世で成功しないと意味が無い、ってことになる。
>なぜ「霊魂否定」の方向を取らねばならないかといえば、初期仏典等を無視して・・・・
「この世からあの世へと繰り返し繰り返し、生まれ死ぬ輪廻を受ける人々は、無
明こそによって行くのである。この無明とは大いなる愚痴であり、それによってこ
そ長い輪廻があるのである。しかし明知に達した生けるものたちは、再び迷いの生
存に赴かない。」(スッタ・ニパータ729,730)
これはどうなんですかね?
スッタ・ニパーダというのは、初期仏典になるんでしょうか。
ここでは 「あの世」 という言葉が使われていますが、あの世に行く 世俗的な意味での主体(霊魂か、それに類似するもの)を、
想定しないといけなくなります。
ここらへんを、霊魂否定の姿勢をとってる仏教学者は、どのように捉えてるんでしょうかね。

61 :
>>51
>一在家氏は、真光関係スレで昼間からカキコは、引きこもりかニートだと断言していましたね。
それは私の追っ掛けの誰かさんのかきこでしょう。 トリップ◆2o6x38TRbE は付いてましたか?
>貴君も、過去スレッドで平日の昼間から書き込んでいましたけど、どうなんですか?
モバイル端末でお昼休みや休憩時間にしばしば書いたことはありましたけど。

62 :
>>60
>あっ、 霊魂 = アートマン という記述があったように見えたけど、
> 今調べたんですけど、ありませんでしたね。
多分、本スレの前世(過去ログ)で度々紹介した中村元先生の解説かと思いますので再掲します。
「仏教のこころ」中村元、P78
客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない(非我)ということを主張したのです。
アートマンが実在するか否かということについては、まったく沈黙を守っていました。
このことから仏教を無霊魂説と解するのは誤りです。仏教はむしろ人間の行為の拠りどころ
としてのアートマンを承認していました。
釈尊の臨終の説法の一つは「自己(アートマン)に頼れ。法に頼れ。自己を燈明とせよ。
法を燈明とせよ。」でした。

63 :
>>58
色々返答してもいいが、
まずは、基礎知識からしっかり押さえてからにしような。
>つまり、十二縁起の 「名色」 というのを 「肉体」 とすると
「名色:nAma-rUpa」ってのは、一番流布してる中村解釈でいけば「名称と形態」ってことだから。
特に十二縁起に於いてはね。 だから、五蘊の色と十二縁起の色は、完全一致はしないのさ。
 *(強いて別解釈を提示するなら「抽象概念と具体的事物」―
   ―「言語上・概念上のモノと五感に作用するモノ」といったところだろうか・・。)
これは、「行:saNkhAra」についても同じ。
五蘊に於ける「行」と十二縁起に於ける「行」及び三法印に於ける「行」とは、その指示対象範囲が違う。
そして、「我:Atman、attan」もまた、常住不変の根源的存在から、日常語義での自己までを一括して含む語だ。
日本語のように「自分、自我、自己、己、自身、等等」のようなバリエーションは無い。
逐一、語義説明から入ってもいいけど、文字数&レス数を消費し過ぎるw

「仏教要語の基礎知識」(水野弘元/春秋社)
「釈尊の生涯」(水野弘元/春秋社)
「ゴータマ・ブッダ」(中村元選集第11巻(決定版第11・12巻)/春秋社)
せめて、この辺は読んでから来て・・・(^^;

ノシ

64 :
>>60
>スッタ・ニパーダというのは、初期仏典になるんでしょうか。
>ここでは 「あの世」 という言葉が使われていますが、あの世に行く 世俗的な意味での主体(霊魂か、それに類似するもの)を、
> 想定しないといけなくなります。
Sn.1051 Sn.=スッタ・ニパーダ、原始仏典の中でも最古層、古層を含む。
苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因を作ってはならない。
Sn.1053
伝承によるのではなく、いま眼のあたり体得されるこの理法を、私はそなたに説き明かすであろう。
つまり、釈尊には再生(輪廻)の法が眼のあたりに体得されていたということです。
次に釈尊はそんなこと(Sn.1051)は言ってはいないと主張すれば、どうやってSn.1053,1066を
説いたことを担保するのでしょうか?
同じく五章「彼岸に至る道の章」
Sn.1017,1030 釈尊の読心通
Sn.1048 輪廻からの解脱

65 :
>>64 続き
>>34 一在家
>長部経典19経の「典尊経」では釈尊は前世マハーゴーヴィンダという名のバラモンで
>弟子達に梵天界に生まれる道を教えたとのことです。
> 今世では涅槃に入る道を教えられたので、少なくとも釈尊の場合は継続性や共通性が
> ありました。
原始仏典では「霊魂」という言葉は登場しませんが「意識」という言葉は出てきます。
肉体の死後も「意識」は残り、5つの趣く先(道)があり、4つの誕生の仕方があると
「等誦経」でも明記されてます。
釈尊は「自分(菩薩)は意識を持ったまま誕生したが、皆さんは意識を失って誕生した。」
という主旨の説法「4つの入胎の法」をされたとサーリプッタは解説し、釈尊から正しいと
保証されました。
現代でもすごいショックを受けた人は記憶喪失になりますが、同様に胎児は誕生する際の
ショックで記憶を失うのもあり得るかと思料します。

66 :
ああ、余分なレスが入ったんで、一応レス入れとく。
>>60
Snのそれは、全く、輪廻の主体を指し示していないだろ?
そこには、「何が」「輪廻し」「存続していく」のか触れられていないぞ?
どの文言がそうなんだ?
仏教に於いては、(初期から現代に至るまで、世界各地に伝播し需要発展する中で)、
そこが明言されたことはないのさ。
(「(貴方の)○○が存続し、継続し、次の生活を歩む」と言われたことは、
少なくとも現存仏典にはない。
だから、今ある種々の要素(意識・価値観・記憶)を残したまま、次の生を迎える輪廻は、
インド的でもないし、仏教では、縁起&無我(非我)故に却下されるのです。

>あの世に行く 世俗的な意味での主体(霊魂か、それに類似するもの)を想定しないと
それが、西洋的(或いはデカルト的?)主体ありき思想なわけです。
この言い方も何度となくしましたが、西洋的思考は、
文法で言えば、主語なき文章はありえないのです。
しかし、仏教に於いては、述部(動詞形容詞)のみで事足りるのです。
仏教内部では、よく燈火の喩えが用いられますが、
蝋燭の炎が別の芯に移るとき、前のろうそくの芯や臘やその他諸々の何一つ「継承」されはしません。
しかし、炎は「継続」しています。
そういう形の継続だから、一旦(五蘊の)断絶ある連続なわけです。

67 :
>>65
>現代でもすごいショックを受けた人は記憶喪失になりますが、同様に胎児は誕生する際の
> ショックで記憶を失うのもあり得るかと思料します。
そして現代でも記憶喪失した人がなにかのきっかけで記憶を取り戻すことがあります。
正しい修行と禅定を実践すると前世記憶を取り戻せることが長部経典(長阿含)の至るところで
説かれております。
面白いですね、同じ経典で「霊魂と肉体とは同じか否か?」には無記ですのに。

68 :
>>65>>34
んとに、馬鹿なのに姑息だな・・。
>少なくとも釈尊の場合は継続性や共通性がありました。
ハァ?(゚д゚)??????
何が継続してるんだ? 何が共通してるんだ?
「何かを教えた」ことか?
だったら、世界中の教師が皆釈尊の生まれ変わりになるぞ?w

お前は、ほんっっっっっとに、したたかだよな・・・。 ┐(´ー`;)┌

69 :
>>55
>「精神作用」 が先で、「物質、肉体」 の形成が、後とも読み取れる。
12縁起の最初は「無明」。これは「生活作用を生じるもの」だから、「生命
現象を表わす肉体(即ち、生命)」以外にはない。
「生命」を「無明」としたのは、釈迦の鬱病の症状としての無力感、苦悩感の
結果である。彼は、その心の病故に、生命こそ、無明どころか「全知・全能」
であることに思い至れなかったのである。

70 :
>>66
>仏教に於いては、(初期から現代に至るまで、世界各地に伝播し需要発展する中で)、
>そこが明言されたことはないのさ。
> (「(貴方の)○○が存続し、継続し、次の生活を歩む」と言われたことは、
> 少なくとも現存仏典にはない。
>だから、今ある種々の要素(意識・価値観・記憶)を残したまま、次の生を迎える輪廻は、
>インド的でもないし、仏教では、縁起&無我(非我)故に却下されるのです。
余分な横レスで恐縮ですが、菩薩は要素(意識・価値観・記憶)を残したまま、次の生を迎えると
「自歓喜経」、「等誦経」で明記されておりますし、その証拠を「大善見王経」、「典尊経」でも
具体的に説かれております。
少なくとも現存仏典の中の「長部経典にはある」、ということでしょう。
また法華経の方便品「人は仏子にて仏になり得る」を鑑みますと、人は仏の前の菩薩になり得るので
皆さんもいつか要素(意識・価値観・記憶)を残したまま、次の生を迎える可能性があるということ
でしょう。

71 :
>>70
>少なくとも現存仏典の中の「長部経典にはある」、ということでしょう。
前世のセブン氏は長部経典に詳しい方でしたので、もう一度ご確認願います。
>んとに、馬鹿なのに姑息だな・・。
因みに前世のセブン氏には頭が良くて姑息だな・・と言われた記憶がございます。ノシ

72 :
>>63
WikiDharmaによると・・・、
>「名」は心的・精神的なものであり
>「色」は物質的なものであるから、
>「名色」はそれらの集まり、もしくは複合体のことである    ・・・とありますね。
また、もともとこの言葉は 「ウパニシャッド哲学」 から来ていて、
「現象世界の名称(naaman)と形態(ruupa」 と、なってます。
つまり、中村元は 「ウパニシャッド哲学」 の意味の方をとってるってことですかね・・・?
調べたところによると、  「仏教のごく初期に、「nama-rupa」という術語の意味の転換がされた」  とありました。
この言葉は  「個人存在」 と、全く別の意味を与えられた、 とあります。
ちなみに、この意味の転換を中村元は 「教義学者のこじつけ」 と言っているそうです。
私は、 「個人存在」(精神的側面 + 肉体的側面) と思いたいです。
なぜこの 「色」 を中村元が 「形態」 という風にしたか・・・ 個人的な意見ですが、
霊魂のときと同様、「先入観による、解釈の辻褄あわせ」  があったからじゃないかな〜  と、そんな気がしないでもありません。
おっしゃるとおり、もし十二縁起の 「色」 が 「肉体」 ということであれば、
肉体より先に精神作用が生まれたことになります。
これだと、この世だけの、五蘊仮和合の仕組みが壊れる。
仏教学者の推測による辻褄あわせが、本来の教えを崩しているような感じを受けますが、
言語学的に証明されてれば、それはその通りなのかもしれません。

73 :
>んとに、馬鹿なのに姑息だな・・。
奇妙な日本語だ。。

74 :
>>72
12縁起は、無明(即ち生活作用を現すもの、肉体)から始まるのだから、順序として、
「名色」とは、生活作用の一つである「識別」の対象ではないの?

75 :
(一休さん)言葉は空
馬鹿なのに姑息だ。 馬鹿なのにしたたかだ。
利口なのに姑息だ。 利口なのでしたたかだ。

76 :
>>66
>Snのそれは、全く、輪廻の主体を指し示していないだろ?
>そこには、「何が」「輪廻し」「存続していく」のか触れられていないぞ?
「輪廻を受ける人々は」  「人々」 と、ありますよね・・・?
「人々」 の何が輪廻するかは、書いてありませんが、少なくとも、「人々の存続性をもったもの」 が、
輪廻するってことでしょう。
また、「人々」 という時には、もうすでにそこに 「人々がこの世からあの世に存続する・・・」 という意味をもっているので、
人々の主もなるもの・・・・  体とか、形骸化したものではなく、より人々の主体性のあるものが、
輪廻する・・・  という風に受け取れるんじゃないですかね・・・?
つまり、ろうそくの本体を 「人間の体」 とするならば、ろうそくの炎は、「人間の主たるもの」 と、とることが出来ます。
ですから、形骸化したもの(死体)は継承しなくても、その人の本質(常住という意味ではなくて、世俗的な意味での本質) を、継承する、ということも
あながち言えないとは言えないと思います。

77 :
>>62
ここのところの 「アートマン」 とは、「霊魂」 というニュアンスみたいですね・・。
あらゆるものは、「非我」 であるが、輪廻の(世俗でいうところの)主体、アートマン(霊魂)は否定していないと・・・
ん?  こういうことになるんですかね・・・  それとも、「永遠常住の真のアートマン」 ということでしょうか・・・

78 :
>>74
>12縁起は、無明(即ち生活作用を現すもの、肉体)から始まるのだから、
私見ですが、12縁起の11番目が「生」なので1番目の「無明」は入胎するまえの「無明智」のことかも知れません。
前世で肉体を去った後の存在が「無明」の場合ならば、ロジック的にもすっきりしているかと存じます。
もし前世で肉体を去った後の存在が「無明」で無いならば、再び「生」を受けることもないので「老死」もございません。

79 :
>>62
>釈尊の臨終の説法の一つは「自己(アートマン)に頼れ。法に頼れ。自己を燈明とせよ
勝鬘経にこういう言葉があります。
「如来の法身こそは、 究極完全なアートマン、 究極完全な常住性、 
究極完全な安楽性、 究極完全な清浄性でございます。」

80 :
>>77
>ん?  こういうことになるんですかね・・・  それとも、「永遠常住の真のアートマン」 ということでしょうか・・・
貴兄は前世スレ(過去ログ)をご存じでないようなので再度コメントします。
前世スレで常見派と揶揄された宝珠氏と私も、「常住不変のアートマン」という説は既に担いでおりませんでした。
その代わりに水野先生の仏教要語P164を参考にして「カルマと経験を蓄積しながら変化する有為法=アートマン、世俗の霊魂」
という私見を述べておりました。
法相宗、唯識派がいう「阿頼耶識」のようなものです。

81 :
>>65
>釈尊は「自分(菩薩)は意識を持ったまま誕生したが、皆さんは意識を失って誕生した。」
>という主旨の説法「4つの入胎の法」をされたとサーリプッタは解説し、釈尊から正しいと
>保証されました。
この部分は興味深いですね・・・
意識をもったまま誕生した・・ ということであれば、あの世からこの世への、自己の継続性が
あったということになります。
「意識を失って」 というのも、同様ですね。

82 :
>>79
>勝鬘経にこういう言葉があります。
> 「如来の法身こそは、 究極完全なアートマン、 究極完全な常住性、 
> 究極完全な安楽性、 究極完全な清浄性でございます。」
如来の元の「仏性」故に人は仏になり得るのであれば、「仏性=アートマン」という議論も
前世スレで結構展開した記憶がございます。
ご紹介いただきました「勝鬘経」も阿頼耶識に蓄積しておきましょうぞ。

83 :
こうして、無我(非我)だった仏教が有我(是我)になってゆくんだな・・・。

プドガラ導入の経緯は、こんな感じだったのかもしれないなwwwww

ノシ

84 :
>>80
ああ、じゃあ、>>79で言う 「アートマン」 じゃなくて、
「霊・魂」 としての 「アートマン」 ってことですね。
それは 「常住のアートマン」 とは区別をつけて、世俗でいうところの 「霊魂」 と言ったほうがいいでしょうね。
そしてそれは、世俗で言うところの 「輪廻の主体」 という風に思いますね。 

85 :
>>57  (>>83)
>貴方が指摘するような言い回しへ帰着しているのが現状なのさ。
仏教を学問的に研究するっていうのは、各宗派の思想を越えて、公平に仏教の真髄に迫る・・・っていう可能性があるのに、
残念ですね。
たとえ宗教の教えを金儲けに利用している輩がいても、それによってある特定の可能性を避けるようなことをしては、
本当の教えに迫れない。    スピリチュアル的な要素にも踏み込まないと、仏教の教えは解明できないと思いますね。
これはスピリチュアルに染まるってことじゃなくて、あくまでスピリチュアルを客観的に見ながら・・・ あらゆる可能性を公平にみながら・・ってことで。
もし、あの世でもこの世でも苦はつづき、人が霊的な存在になっても、それもまた五蘊であり、無自性空の現象界であり、
そういう心の執着で起きたすべのものを、越えていかなければならないんだ、っていう結論に帰着したとしたら、
カルトやスピリチュアルを利用した金儲けなど、一蹴できるような気がするんですけどね。
単にこの世の捉われからの解脱だけじゃなくて、オカルト的な、スピリチュアル的な霊魂も、現象世界として肯定すれば、
無自性空として一蹴できますからね。

86 :
>>78
出生とは、生活作用の一つとしての生殖作用による子の出生のこと。自分の
出生前のことなど、釈迦に分るわけがない。

87 :
>>85
とりあえず、(和訳でいいんで(英語や独語が得意ならそれでもよいから))
仏典を直に読んでくれよ・・・ orz
君がやってるのは、全て、≪他者の意訳を基にした≫考察でしかない。
だから、Aという解説者とBという解説者の相違が相違として見えてこない。
自分が参照したA基準で全てを量る。
が、所詮Aも数多ある解釈のひとつに過ぎない。
それを参考に自ら読んでみて、「ああ、確かにその通りだ」と思えたときに初めて自分の意見となる。
貴方はあまりにも知らなさ過ぎる。
100冊の解説書よりも一巻の経だよ。

88 :
>>69
>これは「生活作用を生じるもの」だから、「生命
> 現象を表わす肉体(即ち、生命)」以外にはない。
無明というのは、「明るくない」  「無知」 という風になってますね。
「生活作用を生じるもの」 というのは、どういう意味でしょうか?
縁起の11番目に 「生」 というのがありますが、もしこれが、「生命の誕生」 を
意味するなら、十二縁起の中で二度、生命が誕生することになります。
あっ、ということは・・・  名色の色を「(体が作られる前の)形態(概念・モデル)」 という風に受け取って、
9番目くらいまでは、肉体以外の、精神性のもの・・・ 物質的なものではないもの・・・ としてみることが出来ますね。
で、9番目か10番目に始めて物質的なものが出てくる・・・・   こういう解釈は違いますかね・・?
もし一番目に肉体が出てくるとしたら、肉体には種々の感覚器官がすでに備わってるから、9番目くらいまでは、すでにあるってことじゃないですかね?
それとも、なんの感覚器官もない肉体(生命)が、一番最初に生まれるってことですかね・・・?
そういうのって、生命って言うんですかね?  

89 :
>>88
感覚器官も、思考器官も、運動器官も、呼吸器官も、消化器官も、すべて
「受精卵(生命の始まり)」から発生する。宗教やる前に、産科学を勉強
されたし。

90 :
>>74
肉体が一番最初に出てくるとは思えないんですよね・・・
感覚器官とか、触覚が後から生まれるってことになると、
なんの感覚器官もない、肉体が、最初にあるってことになる。
それは生命とは言えないでしょ?

91 :
>>89
なるほど・・・  母体の中で・・・ ということですね。
これはやっかいですね・・・。

92 :
>>87
>この世からあの世へと繰り返し繰り返し、生まれ死ぬ輪廻を受ける人々は、無
>明こそによって行くのである
これをどうとれって言うんですかね?
「人々が輪廻する」 と書いてある。
これを 「主語」 が書いてないとか、そういう理由で 「継続が分断する」 というのは、
理屈がおかしいでしょ。
「人々が輪廻」 するわけです。   長い輪廻 = 迷いの生存   と書いてある。
「輪廻する人々の生存」  ってことでしょ?
どうみても、継続性があると、読み取れるでしょ。
それを、  「何が輪廻するか具体的に書いてないから・・・〜だ、」 っていうのは、それこそ決め付け以外の
何者でもないんじゃないんですかね?
具体的も何も、「人々が」 って書いてある。
「人々の 〜が」 という具体的なものが書いてないからといって、 「継続性がない」  と決め付けるのは、
教えの言いたいことを見抜こうとするより、 言質をとってるような感じですよね。
教えの言いたいことより、言質が優先してる。
でも、あきらかに人々って書いてあるのに、それ以上の言質を求めるってのは、仏教の「無我説」と、
どうしても辻褄を合わせるような、力が入ってるようにしか、見えませんね。
「無我説」 により、「輪廻する主体があってはならない」 という結論を導き出し(ここまではいい)、
「輪廻する(常住ではない)人(仮我)」 を考察することもなく、 いきなり 「輪廻は無我ゆえに継続しない」 という
誤った結論を導き出す(ここが大問題)・・・・・
これではいくら経典を読もうと、ABCを比べてみようと、過程でするべき考察が抜けていたら、
なんにもなりませんよ。

93 :
>>89
スッタ・ニパーダに、「無明こそによって行く」 と、書いてありますよ
体(生命)があったら、 「この世からあの世へと繰り返し繰り返し」  輪廻するってのは、
矛盾してますよね。

94 :
>>88
>縁起の11番目に 「生」 というのがありますが、もしこれが、「生命の誕生」 を
>意味するなら、十二縁起の中で二度、生命が誕生することになります。
私も同じような疑問を持ち、下記の解釈の可能性を考察しました。
>>78
>私見ですが、12縁起の11番目が「生」なので1番目の「無明」は入胎するまえの「無明智」のことかも知れません。
> 前世で肉体を去った後の存在が「無明」の場合ならば、ロジック的にもすっきりしているかと存じます。
12縁起のスタート時点「無明」を輪廻の中のどこに設定すれば一番論理矛盾が起きないかということです。
大体、菩薩や阿羅漢でなければ、輪廻のどの時点でも「無明」であり、出発点に設定できるかと思料します。

95 :
たいへんな不幸に襲われたときでさえ、「すべて自分の過去のカルマによる」
ということを理解できるかどうかは、修行の大きなポイントでもある。
「カルマの法則」を完全に理解しきらない限り、苦からの解放、すなわち
解脱はあり得ない。 
                  オウム心理教 麻原彰晃 滅亡の日

96 :
>>83
>こうして、無我(非我)だった仏教が有我(是我)になってゆくんだな・・・。
私も前世で「如来蔵」に縁が深かったのかも知れません。
でも、長部経典の同じ経典内で同じ相手に、「霊魂と肉体」には無記で、前世や輪廻には
具体的に説かれた釈尊にとっては自己矛盾は無かったはずです。 一切智者ですから。
>>27
>読み返しまして気付いたことですが、6経「マハーリ経」、7経「ジャーリヤ経」
>では「霊魂と肉体とは同じか?」という形而上の問いには無記だった釈尊が、
> 読心通や前世を見る神通という形而上のことは具体的に説いているという点です。
この視点、ネタは前世スレには無かった筈なので、今世では如何でしょうか?>セブン氏
また、片山訳ではどうだったのでしょうか。
本日はこれから出掛けます。

97 :
>>48
>君がRば、一瞬にして止む。
>生・滅とは、その関係性の変化に過ぎないから、生滅はない」ということ。

『生滅はない」』ならば、『君がRば』は成立しない。矛盾する。
『五感で知覚できる現実』(間接現実)のみでは、『生滅はない」』は四句第二の意(有⇔無の相対)を脱しえず、
「生滅は(如)非有非無=不生不滅(四句第四形式の比喩)≒空」に到達できない。
到達できぬ者にニルヴァーナはない。
>修証一等とは、「一切の観念を廃した肉体の行為」
「修証一等」(道元)は中論24-18や25-19で闡明にされた二相の相即的実践=仏道(八正道)を意味する。
仏道は菩提心自己の凡夫のためにある。
菩提心なき凡夫には「修」も「証」も、龍樹も道元も、縁なき衆生である。
>五感で知覚できる現実以外の「直接現実」を認めることは、忌むべき観念論である。
五感で知覚できる現実(縁起の間接現実)のみでは、たとえば
@数学上の「点」や「直線」は把握できない。
 無限遠点(ポイント・オブ・インフィニティ)は間接現実が仮設&仮説=縁起だからこそ観念できるのである。
A『若是微塵衆実有者 佛則不説是微塵衆 所以者何 佛説微塵衆則非微塵衆』(金剛般若経30)
 微塵衆=素粒子×素粒子×αが実有=自性実在であるか否かも@と同様である。
 五感知覚は実在の証明にはならない。
B二項相対言語思考のままでは、たとえばゼノンのパラドックスや中論の言語批判への反批判は解決できない。
ゆえに五感で知覚できる現実(縁起の間接現実)は、実は常に、
【『亦為是假名』(中論24-18)*←<生 ⇔ 滅>:<有⇔無>:仮観>】であることが(隠れた)前提になっているのである。
                                                                 以上

98 :
>>97
中論は、「世間の一切の慣習」を無条件の前提とし、それにに反することを、
何度も戒めている。また、「世俗的なことにもとずかなければ、第一義は説示
され得ない」と説く。従って「世俗諦=第一義」となる。この自覚が涅槃で
ある。
仏教者は、この戒めに反していないか、常に自省が必要である。

99 :
釈迦はこの世の無我を説いただけであって、
死んだら別の我が存在してそれが輪廻すると考えたほうが自然。
むしろ、そうでないと仏教の説く輪廻からの解脱は成り立たない。
輪廻の主体って何だ?って話になるから。
おそらく釈迦は「この肉体に根差した我」を否定したのであり、
輪廻の主体という意味での我を否定してはいない。
ただ、これを確認するためにはやはり瞑想修行が必要だろう。
だが、瞑想で見た物は証明不可能なため、結局、輪廻は存在するのかという
問いの答えにはならないだろう。

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