2013年17戦国時代164: 【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】 (965)
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【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
- 1 :2006/07/14 〜 最終レス :2013/09/05
- 朝倉 義景(あさくら よしかげ ) は戦国時代の越前国の戦国大名である。
正式な名のりは日下部義景(くさかべ・の・よしかげ)。
貴族文化を重んじるなど治世であればもう少し評価も上がったと言われるところから
平和であれば大いに欲せられるが、戦乱では役に立たない意味を込めて
「戦国の金」と、マニアの間では言われたりもする。
信長包囲網の一環を担った戦国大名・朝倉氏を語りましょう!
義景以外の朝倉家、また浅井家、その他関わりのある事象・戦・人物なんでもおk!
特に姉川の戦いを語りたい人大歓迎!
優柔不断の大名・朝倉義景について語りましょう〜
- 2 :
- 戦国の金に該当するページが見つかりませんでした。
- 3 :
- >>2
ワロタwww
- 4 :
- 史板とかぶるのもアレなので、「一乘録」所収の朝倉家家臣123家を順番に羅列しまくっていいですか?
- 5 :
- >>4
何はともあれやってみ
- 6 :
- オコトバニアマエテ。。。
堀江、前波、富田、山崎、魚住、溝江、真柄、随転坊、印牧、築山、託美、河合、
高橋、加藤、鳥居、小林、堀、福岡、桜井、栂、青木、岡本、井上、臼井、森、伊藤、
中村、巖木、竹下、神、湯浅、川尻、久野、半田、新保、宇野、高屋、石黒、上坂、
野尻、黒坂、武曾、大町、深町、細呂木、疋田、津波、九岐、萩原、寺田、上田、
真木、土山、西河、寺村、竹田、菅、鷲田、巖井、山本、脇田、山田、水間、石田、
五十嵐、斎藤、池田、中島、坪内、和田、鰐淵、神波、山内、壁田、佐伯、清水、
巖崎、禾田、田尻、西島、窪田、後藤、新保、小泉、一色、藤島、諏訪、曽我、大月、
氏江(家)、北村、杉若、佐々布、千秋、八代、桑原、瓜生、平井、藤田、宮田、小河、
小崎、平田、今藤、九津見、真勝、石来、赤沢、八杉、土肥、関戸、稲毛、大窪、
八十島、長谷部、藤島(藤木)、松本、野村、山口、戸田、岸、赤座、近藤
ちなみに「一乘録」にはこれら123家の来歴、事跡、一族の個人名、通称など網羅されてます。
- 7 :
- 『急にボールが来たので』を流行語大賞にしよう!!
あなたが最近気になっている
ことばをお寄せください
http://www.jiyu.co.jp/singo/
- 8 :
- >>6
ふむ。ちょっと朝倉家で面白い話ないの?
- 9 :
- 姉川の戦いは引き分け同然で朝倉義景一番の見せ所は滋賀の陣
- 10 :
- 俺の彼女「私、朝倉氏の末裔なの」と言っています。
- 11 :
- 面白い話っすか。んじゃ、信玄が義景公に苦言を呈した書状でも。。。
以使僧承候条、得其意候、仍二俣之普請出來候間、向三州陣之砌、
家康出入数候之条、去廿二日当国於見方原逐一戦、得勝利、
三遠両国之凶徒并岐阜之加勢衆千余人討捕、達本意候間、可御心易候、
又如巷説者、御手之衆過半帰国之由驚入候、各労兵勿論候、
^^^^^^^
雖然、此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、
不可過御分別候、猶附與彼口上候、恐々謹言、
^^^^^^^^^^^^^^^
拾弐月廿八日 信玄 花押
謹上 朝倉左衛門督殿
内容は有名なものですが、それより義景公に信玄の意向を伝えにいった使者誰だったのか、
すこぶる気になります。つーか嫌な役回りだったろうねー、使者(笑
- 12 :
- >>10
南ちゃん?
- 13 :
- 現代和訳してくらちい
- 14 :
- >>6
『一乗録』っていつごろの、どういう性格の史料なんですか?
- 15 :
- 先生待ち&記憶用カキコ
- 16 :
- >>13
意訳してみます。
使いの僧より意は伺いました。さて(当方が)二俣城の普請をしている間
家康勢の出方によって、去る12日三方ヶ原にて一戦に及び勝利を得、
三河・遠江両国の軍勢と織田方の加勢1000余りを討ち取り、本意を達しましたのでご安心下さい。
噂に聞くように、貴下の兵の過半が(戦線を離れ)帰国したこと驚きました。兵をいたわるのは当然です。
しかし、信長が滅亡に瀕してる時。寛容な備えは労して功はないのではないでしょうか。
判断を誤りませんように。なお、(使者に)口上を与えました(ので聞いてください)。恐々謹言、
>>14
書名:一乗録
分類:軍記物(「始末記」とは別系統)
著者:不明
成立年月日:亨保年間以降
形式:三冊六巻、写本
2000年福井県が、富山県内の某所から購入。今のところ翻刻はありません。
- 17 :
- >>16
ありがとうございます。
怪しそうですが、面白そうな史料ですねw
- 18 :
- age
- 19 :
- 義景たんは、雪降って寒いから包囲網解いておうちに帰ったというのは本当ですか?
- 20 :
- >>19
本当です。義景が真面目にやっていれば信長も大ピンチだったよね。
- 21 :
- ぼんくら大名の筆頭だろう
- 22 :
- 駄目大名
駄目大名じゃないよ派-北条氏政 毛利輝元
元から大名に向いてないよ派-今川氏真 織田信雄
ある事件が原因でボンクラ化派-朝倉義景、大内義隆
なんか急にやる気がなくなったよ派-一条兼定
- 23 :
- なんか急にやる気なくなったよ派にコイツも入れてやってください
つ【長曽我部元親】
- 24 :
- >>19
太平記巻十七に敦賀越えの箇所がありますが、
新田勢の内、河野、土居、得能らが凍死し、千葉介が遭難しかけてます(笑
旧暦の十月でこの有様ですから、当時の状況を考えると「たかが雪」とばかに出来ない側面がありんす。
時代が下って賤ヶ岳合戦のでのこと、前哨戦である秀吉の長浜城攻略でも
権六は雪が深いことが災いして援兵を出せなかったという記述が「柴田退治記」に見えますし、
結果的に江北・嶺南での用兵が命取りとなって滅亡してますね。
さらに幕末の天狗党1000人による冬の木の芽峠越えでは、戦国期より幾分整備されていたにも関わらず
今庄〜敦賀間一里半(約5.8km)の行程に8時間近くを費やしています。
真面目にやろうが何をしようが、木嶺の雪には誰も勝てないということかと。
- 25 :
- 伸びないね、何で??
- 26 :
- 戦国板にしちゃ伸びてるだろ
- 27 :
- >>25
スレタイが糞
- 28 :
- >>24
てことはさ、義景が撤退してのはかなり正当な理由ってことじゃん。
それなのに信玄崇拝・信長マンセーのせいで悪者にされてるってのか?
納得いかんだろうなぁ。特に朝倉家の子孫の方達は。
- 29 :
- 朝倉義景の力、とくと見せようぞー!!
- 30 :
- 応仁の乱じゃ朝倉軍も大活躍だったんだがにゃ
義景の代だと負け戦のヘタレイメージしかないが実際のトコは
どうだったのか?
- 31 :
- 野望だと、おとーちゃんやじーちゃん、ソテーキがやたら好評価だけど
同世代の一門はイマイチ使えない上、本人は言うまでも無い
実際どうなん?
- 32 :
- 実際もイマイチだった
- 33 :
- 同世代がイマイチなのはいいとしても、父ちゃんの孝景や爺ちゃんの貞景がそこまで優秀だったのか?って話
- 34 :
- 義景、負け戦ばかりじゃないよ
結構敢闘してる
- 35 :
- 政治力はそこそこあったんじゃない?
一乗谷は当時小京都と呼ばれるぐらい発展していたらしいし
政争は弱そうなイメージだけど
- 36 :
- 雅じゃ
- 37 :
- なんで景鏡がナンバー2になれたのか?不可解だ
- 38 :
- 一番血縁が本宗に近いやん。
- 39 :
- 反逆者の息子でも偉くなれる・・・そんな朝倉家の懐の深さに感動
- 40 :
- まぁ、本願寺とは五分。織田には劣勢とはいえ結構もっている。
最大領土は、70万石くらいか。
別に、タコ武将呼ばわりされるほど酷くはないわな。
六角よか上と思うが。
- 41 :
- 義景は朝倉家中での求心力があまり無かったような気がする。
- 42 :
- *金ヶ崎での追撃が遅すぎて信長を逃がした
*姉川の戦いに出てこなかった
*信長包囲網を勝手に抜けて帰った
*最後の決戦で戦いもせずに後ろを見せて逃げた、当然後ろから突撃くらって壊滅
- 43 :
- m
- 44 :
- 貞景はようしらんけど孝景はたしか分国法作ってたよね
日本史習った覚えがある
せやから政治は評価されてもよし
そうてきの爺さん(爺のイメージしかない)は一向宗門徒あいてにがんばったらしいから武力は評価すべきですな
- 45 :
- 結局お前らが好きな朝倉タンはどの作品の朝倉タンよ?
俺はセンゴクにでてくる手ぬるい朝倉タン
- 46 :
- 一乗谷炎上のよしかげ
- 47 :
- 数世代続けて風流太守
- 48 :
- 数世代炎上し続けたら偉いもんだ。
- 49 :
- 朝倉家臣に荒川氏など寡聞にして知らないっすね。
朝倉氏研究者も例の系図の当該箇所だけじゃ検証しようがないんでしょう。完全にスルーしてます(笑
ってことで、稲葉ウアーの系図に期待しましょう。
- 50 :
- http://www2.harimaya.com/sengoku/html/inaba_k.html
とりあえず叩き台に持ってきますた。
- 51 :
- また誤爆してしまいますた。。。
稲葉ウアーの系図に期待って言ったのはあっちのスレで出てた光通に関することですた。
- 52 :
- 義景相談所イエーイ
- 53 :
- 「織田信長合戦全録」って本があります。
それに倣って「朝倉義景合戦全録」ってのをやろうとしたんすケド、、、
やっぱ宗滴のほうがいいね(笑
- 54 :
- 演歌シンガーの島倉千代子が子孫らしぃじゃあねぇかYO
- 55 :
- >>52
なにも決まらんぞ いいのか?
- 56 :
- ___
,;f ヽ
i: i
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| | ///;ト,
| ^ ^ ) ////゙l゙l; >>50が氏にますように
(. >ノ(、_, )ヽ、} l .i .! |
,,∧ヽ !-=ニ=- | │ | .|
/\..\\`ニニ´ !, { .ノ.ノ
- 57 :
- 何か能力あるのかないのかわからん大名だよな
- 58 :
- 良いところ探すのが大変
- 59 :
- 漢詩がうまい。
- 60 :
- 朝倉氏遺跡は神
- 61 :
- よしかげを過小評価する奴はモグリ
- 62 :
- >>60
そうか?
最近はじめて行ったけど、復元町並の家屋の中は、管理事務所の物置になってて幻滅したよ。
駐車場も舗装すらしてないし・・・観光客を受け入れる気があるのかね、全く。
一乗谷の風景はすっごく良かったけどね。
- 63 :
- >>62山は登った?あそこは行く毎に発見があります。
- 64 :
- >>63
すみません、登ってません。
平地をぐるっと周っただけです。それでも1時間半くらいかかりましたが。
また福井に行く機会があって、かつ時間が十分に取れれば、一乗谷城跡に登ってみます。
- 65 :
- 最近のセンゴクで義景がなんかかっこよくなってきたから読め
- 66 :
- 戦国武将タイプじゃないのに戦国武将として生まれてしまった人は悲しいな。
- 67 :
- 太平の世だったら名君だったでしょうに・・・。
今川氏真や大内義隆、北畠具教も・・・
- 68 :
- 大内義隆は一度大ゴケしたあと、戦国大名としては心が折れてしまった感がある。
- 69 :
- 朝倉義景の一番駄目と言われてる包囲網の撤退だけど、別にそこまでけなされることではないだろう。
雪によって退路がどうとか、そういうことを心配するのも当然大名としては大事なこと。
確かに、後から歴史を知った俺らにとって、あそこは大きな分岐点に見えるだろうが、
朝倉にとっては自分とこが大怪我するような状態にだけはならないようにと考えるのが一番大事なことなわけで。
確かに包囲網には加わっていただろうけど、だからって自分とこの被害状況など省みずただひたすら戦え、
なんてことを要求するのは無理というもの。
だから朝倉の決断は、決してけなすしかことはないと思う。
信長の背後をつけば、というが、それだってこもってばかりの義景を引っ張り出すための罠かも、とか朝倉方が考えてもおかしくないし。
むしろあれは朝倉をけなすのではなく、朝倉の撤退を読みきった信長を褒めるべき。
- 70 :
- 読みきるも糞もない
何も読んでない
朝倉が勝手に引っ込んでいったから助かっただけ
- 71 :
- 長刀を習ってたんだよね
- 72 :
- 朝倉ワッショイ!!
- 73 :
- >>69
むしろ、無理を強要した信玄や義昭や顕如をけなすべきだと思うがな。
特に信玄。自分は東海道で領土を拡げていて、その間に朝倉が囮にならないから
と言って批難するってどこまで自分勝手なんだか。
- 74 :
- 雪がどうとか信玄が勝手だとか、くだらないたわごとほざいてる場合かよ
首と胴が皮一枚でつながってる状態で
馬鹿にもほどがあるな
- 75 :
- 無理すれば領国崩壊
信玄が出てきているうちに一息つくのは当然
むしろ東西が呼応して出撃と後退を繰り返して信長を奔走させ疲弊させるべきだった
特に信玄側が囮役を一方に押し付けた時点で寄り合い所帯破綻は確定していた
- 76 :
- 浅井が包囲されて滅亡寸前のときに撤退して
そのまま追撃食らう→本国まで来られて浅井より先に滅亡
なんて情けないにも程がある。
- 77 :
- 敵の目の前で、ろくに戦もせず背中見せて逃げ出す馬鹿がどこにいるのな
氏真でも背中に切りかかるわ
- 78 :
- >>76
それはある
センゴクでもあったけど留まって戦えばまだよかったのかな?
それだと信長の旗本も動かないだろうけど
- 79 :
- >>75
破綻してない
基地害みたいな行動とってたのは義景だけ
- 80 :
- 出陣前から同名衆や軍奉行クラスの主力からすら軍役拒否られてるから、もう朝倉は限界だった
信玄が格下の家康も潰せない間、織田と長年ガチやってきた疲弊が一気に来たんだろう
今度は信玄らが織田の攻撃を受け止める盾になるべきだった。その間に再編と休養が取れれば再び信長への脅威となる
- 81 :
- 義景が本格的に見限られるのは、包囲網ほっぽりだしてのほほんと帰ってからとのこと
信玄存命中はまだ戦えていた
- 82 :
- 嘘つけ。
信玄が家康と戦う前に裏切り続出じゃねえか。
- 83 :
- 朝倉が信玄の犠牲にならなきゃならない義理はないからなぁ…
ってか朝倉が一時軍を引いただけで破綻する包囲網のほうが問題だろ
朝倉軍は長年織田と対峙し、坂井や森といった重臣を討ち取る戦果も挙げている
武田と比べてかなり苦労してたわけで
- 84 :
- つーか光秀のせいだな
朝倉家は誰とも戦いたくなかったと思う
- 85 :
- 朝倉が一国の安泰だけを願ってたのなら、足利将軍への挨拶という名目での上洛ぐらいはしたがっておけばよかったのになぁ
あの時集まった大名連中に強いて信長が何かしたわけでもないし
- 86 :
- 三国志の袁紹に似てるな
- 87 :
- >>83
当時の各勢力の石高考えてみろ
信玄に利用されたくないとか言ってる余裕はない
そりゃ朝倉が400万石ぐらいあるなら撤退してもいいだろうけどな
- 88 :
- >>85
若狭取り込みの妨害されている状況で上洛なんてできたか?
栗屋ごときに勝てないでいたことを責めろとでも?
- 89 :
- そもそも、政治・軍事を一門衆に任せて自分は遊興にふけっていたせいで、
最期につけが来て誰からも相手にされず、裏切られて包囲された中自害。
同時期に滅んだ浅井や武田と比べても過程が酷すぎる。浅井・武田は
まがりなりにも挽回しようとあがきつづけたわけだし。
- 90 :
- >>70
朝倉の撤退癖はもともとあったし、ある程度朝倉がたの性格も状況も掴んでいたし、冬前だし。
追撃してこないだろうと読むのは別に不思議じゃない。せいぜい、勝算のある賭け、ぐらいだろう。
- 91 :
- >>89
代々そうなのに義景だけなんでそう責めるん?
- 92 :
- 宗滴が生きていれば、上洛の事も話は違って来たんだろうけど
あれ以上長生きしろと言うのは酷だが
- 93 :
- >>91
パパンも弟や宗滴を名代にしてたからなぁ
ただ、パパンは遊興にふけっていたわけではない
当時の人物評なんかでも文武に秀でるみたいな称されかたをしてるし
・軍役を化しても拒否されたり(求心力が低い)
・パパンの代には織田家とも仲が良かったのに、何故かよしかげ君の代でめっちゃ仲が悪くなっていたり、
・同じ斯波家の家臣上がりでありながら、名族として信長への臣従を拒んだという矛盾があったり
・よしかげ君が生まれた後、それまで名代として活躍してきたおじちゃんとパパンが大喧嘩
よしかげ君が六角氏出身と言う説が本当なら、上の3つの疑問も解消するんだがな。
というか、よしかげ君のパパンのじーちゃんひーじーちゃんも「急死」なんだよな
朝倉家、黒い疑惑が耐えないぜ
- 94 :
- 信長は義昭を奉戴するまで
土下座で歓心が買えるなら安いもの、と言わんばかりの外交を展開していたから
自然見下すのも無理は無かろうかという気がする
- 95 :
- 太田道灌が一人で張り切ってたどこかの家と同じやね。
- 96 :
- >>94
一時期の信長が低姿勢だった相手って、今川と武田以外に考えられんが
そこらへんにヘーコラしても、「まーあれが相手ならしゃーないか」くらいにしか思われ無さそうなのに
- 97 :
- 朝倉氏は同名衆同士の争いもあったからな…
義景嫡男が毒殺されたりしてるし
>>96
信長が一番へーこらしてた相手は朝倉
「天下は朝倉殿に」とへりくだっているから、一番苦戦させられた大名は朝倉
- 98 :
- >>93
朝倉家と六角家の関係を考えるなら、浅井家との関わりも避けて通れない。
一般に浅井亮政が六角に対抗して北近江に勢力を築く為に、
朝倉を盟主と仰ぐ形に近い同盟を結び、それが長政の代まで続いたということになっているけど、
もしそうなら、宗滴が六角家の要請で近江に出陣して亮政を権勢したことや、
久政が六角家に臣従し、下風にたったことの説明がつかない。
>>97
へりくだってきた信長に対し、信玄が割と友好的だったのに対して、朝倉義景が反発する理由がわからん。
それと、信長を一番苦しめたのは一向一揆。
こっからは単なる俺様の珍説だが
1.朝倉孝景の時代から、六角家との友好関係が始まる
2.当時台頭してきた浅井亮政への権勢の為に両家が結託する
3.亮政、両家の間でうまく外交で渡りあい勢力を保つ
4.義景、六角家より孝景の養子に迎えられる
5.朝倉家中で親六角派と反六角派で対立が発生
6.反六角の急先鋒である孝景の弟景高が孝景失脚を目論み、自分が失脚する
7.浅井亮政死亡、浅井家内紛と、領内不安定により久政が六角に臣従
8.久政が臣従しながらも内政に力を注いで勢力を蓄える
9.満を持して長政が家督相続し、六角から独立
10.朝倉の支援なしで六角家の圧力を撥ね退ける、実質朝倉家からも独立
11.長政、六角、ひいては浅井家に対抗するべく信長と同盟
12.六角が織田家の上洛戦に抵抗、朝倉も関与していた可能性あり
以後義景の信長に対する悪感情増大
13.浅井長政、織田方に南近江を押さえられた状態で、自家を無視した朝倉討伐を前にして
自家発展の展望を見出すべく、信長を背後から奇襲
- 99 :
- 信玄が友好的だったのは単純な話、他が忙しかったからだろ
向こうからへりくだって来ているのに、理由もなく敵を増やす必要は無い
- 100 :
- へりくだるって丁寧に応対したらへりくだることになっちゃうのか?w
だったら礼儀知らずのほうが良かったとか
- 101 :
- 朝倉にとってはまだ「人の喧嘩」気分というか、一応やっとくか的な気分があったんだろう。
面倒くさいけど一応やっとかないとまずい、と。まがりなりにも包囲網があったんだし、一度信長から和睦受けてるし。
撤退する織田家を追いかけるような、リスクのある攻めをするより、疲弊した兵を休ませ、次の織田への攻めは武田に任す、という風な作戦を取るのは、利己主義な戦国大名としては別におかしくないんじゃないだろうか。
また、その撤退した朝倉に文句を言った武田信玄なんて、織田とは大してやりあわず徳川を攻めてる始末。
もちろん徳川は織田の同盟国だけど、これではまるで、単なる近場の領地獲得戦だ。包囲網戦ではなく。
もちろん、それでも大名としては良いのだろうが、直接岐阜から行かなかったくせになんだよ、と思ってしまう。
さらに、文句言っといて自分は家康とちょっとやっただけでさっさと帰るって・・
朝倉に文句言う資格無いよ。
- 102 :
- 美濃へは別働隊として秋山信友を攻め込ませていたぞ>信玄
- 103 :
- >>102
お前の言いたいことがよくわからんのだが・・・
てかさ、朝倉スレ多すぎないか?
- 104 :
- >>101
だからそんな余裕ある状況かっての
現にこの後あっという間に信長に滅ぼされたろうが
まあ兵力差を考えたら当時の朝倉と織田がまともにぶつかれば
こうなるのはわかりきってはいたわけだが
- 105 :
- しかし義景ファンだけあって、時流がまったく読めてない馬鹿って点がそっくりだなw
- 106 :
- どうせ信玄は病死しちゃって朝倉が頑張っても無駄、どころか却って自滅を早めるだけだったわけだが
朝倉の撤退は結果論からするとむしろ何ヶ月かの延命になった妥当な判断だったりするんだがな
- 107 :
- >>104
「現にこの後」というが、それは結果のわかった現代から見てるからだろう。
当時の織田家は四方を敵に囲まれ、息も絶え絶え(に見えただろう)。
さらにこれから武田が本格的に動くとなれば、朝倉が出張らずとも織田家は弱る(少なくとも大きくなることはなさそう)
包囲網はしばらく続くだろうし、あそこで無理して追わなくても大丈夫だろう、と判断するのは別におかしくない。
また、朝倉はそれまでに長く織田と戦ってきてるしそろそろ戦に嫌気がさす連中が出てくるのもある意味仕方ないこと。
信玄が出てきといて死ぬ、なんてことさえしなければ、まだ包囲網は続いたし、朝倉もまた軍勢を整えられた。
あと、ものすごく当たり前の話だが、織田の背後をついて野に軍を出す、ということは、本格的な戦になってしまうということだ。
散々誘われても、引きこもって損害を避けてきた朝倉にとって、それはやはり嫌だろ。
それで織田家の主力を足止めできたとして・・徳川が武田相手にぼろぼろになるまでの時間を朝倉が稼げたとしても、
当の朝倉がやられてしまっては意味が無い。
また、仮に時間を稼いだとしても信玄は死ぬわけだし、撤退はむしろ延命処置だったな。
>>102
あんな小規模なの勘定してもなあ。
- 108 :
- むしろ、信玄死後に電撃的に朝倉浅井を滅ぼしたからこそ織田の地位領土が
安定したわけで。
当時の人間で朝倉があんな簡単に滅びると考えていた方が少数だろう。
- 109 :
- だから馬鹿扱いされてるんだろ
- 110 :
- 簡単に、どころか織田と数年来ガチやってますがな
信玄が出張ってきてから戦い始めたわけじゃねーぞ
- 111 :
- >>109馬鹿にしてるのは他人の意見を鵜呑みにし、朝倉って馬鹿なんだなって信じこんでるやつだけ。
- 112 :
- 信玄死後に浅井朝倉があっけなく滅びたのは、
兵力を集中的に近江越前につぎ込めるようになったからだよ
そしてそうさせたのは義景
別に信長が特別なことをしたからこうなったわけではない
- 113 :
- >>112
信玄の病死について、義景の手は白いでしょ
だいたい信玄が西進できたこと自体が、織田軍を朝倉が抑えておいたお陰じゃん
- 114 :
- 朝倉軍は限界が来ていたんでしょうね
撤退は止むを得ないことだし、その後すぐに出陣なんて無理無理
越前の冬は辛いよ・・・
- 115 :
- >>112
別にそれ以前にも朝倉浅井に兵力の集中はできていたぞ。
信忠の初具足のときは、記録では誇張だろうが五万の兵で攻撃している。しかし
浅井側は守りきった。
- 116 :
- だから朝倉の崩壊は何年も消耗戦やった結果でしょ
志賀の陣みたいに優勢に戦を進めたり、坂井や森を破ったりと戦術的勝利を重ねたりしたが
信長が作りあげた戦略的優位を覆せなかった
大国相手の戦いっていうのはこのあたりが厄介なんだよなぁ。勝っても泥沼に嵌りかねない
- 117 :
- 北陸ってのは何なんだろうなあ。
- 118 :
- >>115
五万なんか投入してるわけがないわな
本当は二万もないだろう
- 119 :
- ところで信玄は何と言って朝倉を罵倒したんだ?
- 120 :
- 阿呆馬鹿おまけに間抜
- 121 :
- センゴク乙
- 122 :
- wikiの記述では義昭や顕如からも抗議が来たとあるな
確かなのは、撤退によって朝倉義景が生き延びる最後のチャンスを失ったと言う事か
- 123 :
- 確か、長政も呆れてるはず。
姉川の合戦のことで。
- 124 :
- 長政は「信長についときゃよかった」って後悔しただろうな
- 125 :
- 信長は桶狭間で勝負に出たわけだが
義景は出られなかった
- 126 :
- 志賀の陣のとき、講和せずに信長を締め上げて滅亡まで追い込めばよかった
それができなかったのが長期対陣能力が低かった朝倉氏の限界で、もっといえば寄り合い所帯の反信長連合の限界
- 127 :
- >>119
>>11
- 128 :
- 確か義景の陣中には信玄から派遣された使者がいた筈なんだが
- 129 :
- 雪国に住む人間にしか分からんだろうが、秋が来てこれから雪が降ると考えただけでも憂鬱だ。現代でも過酷な冬をなめちゃいかんよ。
- 130 :
- >>129
上杉謙信も伊達正宗も後世の講談物による底上げで実力は口ほどにも無かったしね。
雪国の人間は、ダメ。英雄も雪国に行くと駄目になる。
織田家の筆頭柴田勝家しかり、平家討伐の英雄源義経しかり。
- 131 :
- 越後の上杉や奥州の伊達は豪雪をものともせず領土を拡大したわけだが。
たかが越前の雪だろ?そんな小雪で身動きが取れないんだったらやはり
義景は無能と言わざるをえない
- 132 :
- 君、越前の冬を馬鹿にしたらいかんよ
- 133 :
- 福井県洒落にならんよ福井県。
- 134 :
- 雪国以外の人間が雪国に来てよく事故をおこす。ノーマルタイヤで雪道を走ろうとし、当然走れるはずもなく大渋滞を引き起こす。
雪に対する認識の違いは説くだけ無駄で、体感すれば分かると思います。
- 135 :
- その無能者が与えた打撃は、遠出してきた信長の部下に一度だけ勝ったことが自慢になるような武田や上杉の比ではないわけだが
消耗戦に引きずり込まれたらどの大名でも末路は同じでしょ。個人的な能力でどうこうできるレベルの話じゃない
- 136 :
- 元々朝倉氏が織田と対決した時の体勢も良くなかった
有力な同名衆の力を削ぐための工作を繰り返してた最中。義景嫡男の毒殺もその余波という説もある
宗滴以来の敦賀郡司家なんて当主が憤死するような事態だったし
- 137 :
- >136
初めて聞いた。詳しく教えてくれ。
- 138 :
- 嫡男って本当に毒殺だったのか?てっきり不慮の事故かと思ったんだが・・・
国吉城が何でいつまでも奪えなかったのか非常に疑問
本気になればいつでも奪えたんじゃないか?
- 139 :
- 結局内側のガタガタが尾を引いたってことでおk?
お父ちゃんの代でも弟と争ってたけど…
- 140 :
- なんか景健がへたれで一揆についたってのは昔から疑問だったんだけど
実際、朝倉家の再起を狙ってた景嘉、景忠と同調してたとかありそう?
それで信長に殺されたのならすごく納得いくんだが
- 141 :
- 実は朝倉家は内紛が多い。
祖父ちゃんの貞景→景豊の叛乱
父ちゃんの孝景→景高の叛乱
義景の代→景鏡(大野)と景紀(敦賀)の争い、義景の有力庶家抑圧、長男毒殺、ハラホロヒレハレ
- 142 :
- 実は、中世の武家としてはごく普通なんだけどな。
- 143 :
- そんななか北条だけは異常だな
- 144 :
- >>140
>朝倉家の再起を狙ってた景嘉、景忠と同調してたとかありそう?
どういうこと?
- 145 :
- 当時は血縁関係にある人間はいつ取って代わられるか分からない
敵みたいなものだったのかね。
- 146 :
- 今も一緒だろ
君島とか角川とか花田とか、醜い兄弟の争いが絶えない
遺産相続の可能性が高い相手こそ危険
- 147 :
- 今川も一緒だろ
に見えた
確かに義元君もお兄ちゃんぶっころで家督Getしてるけどさ
- 148 :
- >>144
朝倉景建や堀江景忠は朝倉滅亡時に信長に降伏し、本領安堵を受け臣従した。
が、越前で一向一揆が蜂起すると一揆に降服して同調、織田と再び敵対。
のことなんじゃないの?ちなみにこの連中は信長による越前再征服時にみな
殺されている。
- 149 :
- >>146
あと俺の親戚とかな・・・
>>148
ああ「景忠」って堀江景忠のことか。俺はてっきり鳥羽与三景忠の
ことだと。
てか>>140は越後へ下向して上杉に支援を約束された景嘉と、
鳥羽景忠を朝倉家の跡継ぎに指名して毛利に支援を要請して
いた朝倉宮増丸らと同調して景健は蜂起したんじゃね?ってことが
言いたいんじゃね?
それだとヒントは「年代」なんだがな。
朝倉景健が一揆方について信長に斬られる。これが天正二年
朝倉景嘉が越後へ下向し上杉に支援を要請。これが天正二〜三年
朝倉宮増丸らが足利・毛利に支援要請。これは天正六年
要するに>>144のレスは勘違いしてんじゃね?ってのを探りたかったレス。
- 150 :
- 朝倉景嘉は上杉と組んでるし
景忠、景健は一揆と同調
翌年一揆と上杉が公式に講和
やっぱ再起狙ってたと思われてもおかしくはないわな
- 151 :
- 祖父の仇である一向衆と上杉を結びつけた執念は見事かもしれんな
もっとも謙信って評判と違って頻繁に盟約破りしてるわけだが
- 152 :
- 富田は一揆と組んで同僚二人ぬっころしたのになんで本人も一揆にぬっころされてるの?
- 153 :
- 内ゲバってやつさ
- 154 :
- 朝倉庶流で一万七千石で大名になってた人いましたケド、
あの人が大名として存続してたら、今ごろ「大日本古文書」の朝倉家文書とかが残ってたのかな。
古河の朝倉や水戸の朝倉が仮に大名として残ったとしても、
朝倉家の文書を残したとは到底思えませんからね。
- 155 :
- 朝倉age
- 156 :
- 浅井氏救援をあれだけした朝倉の真意は何だったんだろう。信長嫌いでは片付け
られない気がする。そして幾度にもわたる救援を支える財力の源泉は何だったんだろうか。
米だけではあそこまで支えられないと私は思う。
- 157 :
- >>156
最近では浅井は朝倉の同盟国では無く、支配下だったが通説じゃなかったっけ?支那と朝鮮との関係みたいな物だったと。
朝倉の越前は米や紙、越後上杉の資金源、青ソの中継貿易で知られるように、北陸東北と京を繋ぐ重要な貿易港敦賀を持ってる。
- 158 :
- やはり敦賀か。あれは大きいか。スレ違いだけど浅井の財源はなんだろう。
米と琵琶湖北岸の水運や中山道北国街道などからの関銭かな。
- 159 :
- 朝倉と上杉
溜め息の花だけ束ねたブーケ
- 160 :
- あの地域で真冬に野営しながら戦争するのは無理があるだろ
- 161 :
- 宗滴のじっちゃんがもっと若ければ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 162 :
- >>154
朝倉宣正でないとするなら溝江氏のことですか?
- 163 :
- 溝江氏って一門扱いじゃないような印象が。
- 164 :
- 義景って良く考えると格好良いな。
- 165 :
- ,,,,.ゝ-──- 、._
ノ \:
__ /___CD_____ヾ´
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ヽェ;、 , ´ ,zッァ'' ゝ, l i
lー / 'ー ,,,,、 ヽノノ
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. ヽ '、 ィニ、 ,r‐' <中日を応援してます。
ヽィ゙==ゞ'= ノ lzz、_
ゝ, ~~ ,、 - '" ノ//:'ー--
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理由は子孫がいるから
- 166 :
- 複雑だなそれ。
- 167 :
- 信長ともゆかりのある土地だからな・・・
- 168 :
- 義景が六角家からの養子な……。
家督相続権があったと言われる教景に実子がいれば、それでも良かったろうに。
- 169 :
- >>162
そうっす。金津城主のち彦根藩士の溝江氏っす。
ところでwikipediaの伊能文書ですが、改行の仕方を見ると>>11と同じようでして、
元ネタは>>11,16からのコピペ改変なのかな?と思われたので補足訂正を。
1.当文書の翻刻は岐阜県史や戦国遺文などにありますが改行のやり方はどれも>>11と一致しません。
オレのは2chブラウザの一行の文字数に合わせてるので正しくはそれぞれの出典元を参照下さい。
2.>>11の6行目、「唯今寛宥之御備労而無功候歟、」
文意から汲むと「御備」と「労而無功」の間に句読点(慣行では読)が必要だと思います。
さて、ついでにもひとつ同時期の義景公と信玄間の書状として伝わる石川県の文書を紹介します。
当備之事、数度申述候之由、不能重説候、仍去廿於于遠州見方原遂一戦、三遠両国之凶徒并岐阜之加勢之衆、
悉討捕、如存分達本意候、可御心易候、猶替儀重而可申候、恐々謹言、
十二月廿四日 信玄 花押
謹上 朝倉左衛門督殿
- 170 :
- 義景が六角の養子なら、誰の子になるんだろ? 六角定頼?
- 171 :
- >>169
あんたに修正お任せします
- 172 :
- 丸山絞ってるなぁ
- 173 :
- cv.山田真一
- 174 :
- 渦中さんいます?
- 175 :
- >>171
んー遠慮しときます。
>>174
?
- 176 :
- >>175
印牧・青木・栂野あたり奉行ランクの支配圏を調べてるんすけど、
なんかいい史料を教えてもらえんものかと。
- 177 :
- >>176
朝倉家の奉行人についてあなたが調べてるとは殊勝なことっすね。
朝倉家当主は敦賀・大野を除く越前のほとんどの地域の政務を、
一乗谷・府中の両奉行人に執政させたと見られてます。一乗谷を
さて、朝倉家の奉行人が掌轄する圏域を示すようなまとまった史料は残念ながらありません。
ですから一乗谷・府中両奉行人が「屋形」を奉じて安堵、加役などを行なった
いわゆる奉行人奉書が、一体領内の何処に対して宛行されてたかをつぶさに見ていかなきゃなりません。
…さてどうしましょうね。
- 178 :
- >>177
ぶっちゃけ言うとこんなことのためだけにやってるんですけどね。
http://yy33.kakiko.com/test/read.cgi/kikyoya/1168701110/73
- 179 :
- (笑
なるほど…しかし朝倉孫三郎の統率はオレの中ではB+++かA−なので、
その能力値には異議を唱えます。
- 180 :
- アゴは数値でいうと70台前半なんで。
http://yy33.kakiko.com/test/read.cgi/kikyoya/1168701110/6
- 181 :
- あ、Cになってますね・・・修正してきます。
- 182 :
- 当然です。あと山崎長門守もBかC+++あたり希望ですよ。
- 183 :
- 山崎はC付けてますがな。つか詳しくないから呼び出してるんすけど。
- 184 :
- なんかゲームでも作るですか?
オレに朝倉家臣のこと聞くとバイアスかかっちゃって各人各能力プラス補正が発動しますから、
正直おすすめできないす。
- 185 :
- ゲームの企画は物凄くユルく進行中なんですよ。
バイアスはこっちで補正しますからぜひおながいします。
- 186 :
- むー。正直めんどいっすね。。。
メジャーどころはのぶやぼの武将ファイルでも見てもらうとして、、、
敦賀郡司家家臣団とかいかがでしょう?
- 187 :
- メジャーどころの否定から創めてるんですけどね。
頂けるものならなんでもお願いします。
- 188 :
- ■敦賀郡司
1、朝倉宗滴
朝倉宗陳(実子?)
2、朝倉景紀(養子)
3、朝倉景【土光】(景紀嫡男)
4、朝倉景恒(景紀次男)
■敦賀郡奉行人
上田則種・前波吉連(宗滴時代郡奉行)
岩次吉基・土山吉澄・小木吉敏(宗滴時代執行奉行)
中村宗直・富田吉清・小河吉持(景紀時代郡奉行)
中村久棟・高柴宗栄
三段崎紀存・上田紀勝(景【土光】・景恒時代郡奉行)
三段崎紀美・上田【土光良】(景【土光】・景恒時代郡奉行)
■小奉行
岩次吉久・中村房信・大西五郎右衛門・小武三郎兵衛(宗滴時代)
小木恒直・府南宗珍・小木久守(景【土光】・景恒時代郡奉行)
■奏者
萩原宗秀・笠松吉久(宗滴時代)
- 189 :
- 多謝にございます。
サービス精神に甘えて大野郡も舐めていただけると・・・
- 190 :
- 大野郡はいつかまとめようと思いつつまだやってないのでムリなんす。
- 191 :
- ありがとうございます。
調べが一段落ついたらまたここでもオレの板にでもお願いします。
渇望してますんで・・・
- 192 :
- 実子が病没?しなければ、覇気も萎えず将軍家を奉じて上洛しただろうか?
- 193 :
- 朝倉家は…
宗滴あっての朝倉家です。
…まあ、真柄兄弟の様な剛の者も居ましたが…
やっぱり宗滴でしょ?
朝倉家で大河の主役が出来そうなのはこの男しかいない。
違いますか?
- 194 :
- >>192
そもそも義景公に覇気があったのかどうか・・・
>>193
ゲームの話ならそうなんじゃね?
- 195 :
- 義景公は覇気あるだろ。
武田の内紛に介入して若狭ゲトしたり、全国から動員された一向衆ボコったり、森殺したり。
- 196 :
- 一向一揆に通じてたとされる堀江親子を追ったりとかもしてるな。
義景が指揮したかは分からないけど。
- 197 :
- >>195-196
え?そういうのは覇気とは言わなくね?
- 198 :
- >>189
結構辛口?
景健がBなら・・・と思わずにいられない
- 199 :
- 義景公には嫡男以外に息子はいなかったのかな?
つうか嫡男て名前なんだよ(´・ω・)
- 200 :
- 阿君丸→毒殺
愛王丸→織田軍に殺される
- 201 :
- 朝倉義景ってどういう人物かといえばやはり貴族な文化人か。
歴史ゲームじゃおざなりにされてるが、意外と特徴あるんだな。
- 202 :
- スマン教えてくれ
別スレで織田厨が、「刀根坂の戦いでは朝倉の内部分裂など起きてない。
ガチで戦して織田が勝ったんだ。内部分裂の証拠を出してから語れ」
とウザかったんだが、内部分裂は本当に無かったのか?
俺じゃ調べきれなかった…
- 203 :
- 強制浮上
- 204 :
- 刀根坂の時点では、少なくとも分裂までは生じていなかったかな。
その問題は内在していたが、表出したのは刀根坂の敗戦で。
軍に限定すれば、軍役拒否の連中が従軍していないというのは、ある意味
遠征軍内は統一されていたとも言える。厭戦派がいないということだからな。
- 205 :
- それは好意的すぎる解釈ジャマイカ?
義景が政務を半ば人任せにしたりで家中の信をほぼ失っていたのは間違いないだろう。
近江遠征軍に厭戦派がいないといえばいないのかもしれん。
しかし前述の理由もあって士気が高いとは言えない、というか低いだろうな。
退却したのも、兵数で劣勢なだけじゃなく士気の問題もあったからでは?
始末記にもこんな内容載ってたような…
- 206 :
- 軍記物を信用しちゃいけん
- 207 :
- 肥の昔の武将ファイルで
「戦国一ヤル気の無い男、それが朝倉義景である。」
とか書かれててちょっと同情した。いくらなんでもそりゃないわ
- 208 :
- >>207
コーエーは敗者やマイナーな奴にはとことん冷たい。
無知故だろうが。
- 209 :
- 朝倉義景とか、上杉憲正とか、ダメ君主って好きだな。
優柔不断でグズグズしているうちに殺されちゃうマヌケさに燃え。
- 210 :
- >>207
ヤル気はあった。
公家や文化人招いたり、庭園作ったりする方に。
- 211 :
- 昔読んだのでうろ覚えだが、朝倉家始末記に刀根坂合戦の際、前波ら部将達の内応が続々と発覚したのでたまらず陣を退いたところ追撃された、と書いてあったような……
あくまでうろ覚えなんだが。もしそうだとすると刀根坂の時には内部分裂が露呈してたわけだが。
- 212 :
- 刀根坂のころなんてもう滅亡寸前じゃん
そりゃみんな逃げるわ
- 213 :
- わかった、宗滴を頼ろう!! 爺さえいれば織田なんぞ・・・
- 214 :
- ちょいとばかし甘やかし過ぎたかなぁ・・・
- 215 :
- 義景が急死してたら、誰が家督を継ぐんだろ? 優先順位とか分かる人いる?
- 216 :
- あげとく
- 217 :
- なんとか丸が二人いたよな
- 218 :
- 愛王丸だな
阿君丸ってのが長男だが先に死んでた希ガス
その次は景鏡か。景鏡に子供っていたのかな?
- 219 :
- 二人いたが景鏡滅亡のとき一緒に殺された
- 220 :
- 徳川忠長の家臣に景鏡の息子がいたらしい
- 221 :
- >>211
>根坂合戦の際、前波ら部将達の内応が続々と発覚したのでたまらず陣を退いたところ追撃された、と書いてあったような……
刀根坂は合戦というより、織田軍の対激戦、朝倉の撤退戦
その前の大獄・丁野両砦を浅井家家臣浅見・阿閉・月ケ瀬の裏切りにより
失うことにより完全に孤立化したために撤退した
のが正解。
- 222 :
- 山崎吉家!
- 223 :
- あげ
- 224 :
- 同八月發向信長越前、攻亡朝倉義景。明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、其外、稲葉伊豫守、佐久間右衛門、
滝川左近将監、蜂屋兵庫、永田大炊助氏家左京、山岡父子、永原筑前、蒲生右兵衛父子、進藤山城守、前
田又左衛門、下方左近、佐々内蔵助、戸田半左衛門、福冨平左衛門、其外之諸士。圍城、没収
同十八日義景於于一乗谷自害首級稲葉彦六伊豫守討取彦六家子稲葉土佐請取献信長
同廿八日信長反兵于江州取巻虎御前山城浅井久秀下野守居之浅井長政備前守久秀子自小谷城
木造宮内出物見受信長命而出先光秀物見於昆明途中行合木造宮内両人合鑓討光秀宮内献首
級信長預御感状
- 225 :
- 送信エラーにより再送
同八月、發向信長越前、攻亡朝倉義景。明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、其外、稲葉伊豫守、佐久間右衛門、
滝川左近将監、蜂屋兵庫、永田大炊助氏家左京、山岡父子、永原筑前、蒲生右兵衛父子、進藤山城守、前
田又左衛門、下方左近、佐々内蔵助、戸田半左衛門、福冨平左衛門、其外之諸士。圍城、没収
同十八日、義景於于一乗谷自害。首級稲葉彦六伊豫守討取。彦六家子稲葉土佐請取献信長。
同廿八日、信長反兵于江州取巻虎御前山城。浅井久秀下野守居之浅井長政備前守久秀子自小谷城
木造宮内出物見。受信長命而出先光秀、物見於昆明。途中行合木造宮内、両人合鑓討。光秀宮内献首
級。信長預御感状
(句読点はテキト-)
- 226 :
- この盆休みに、越前朝倉氏発祥の地・兵庫県養父市にある朝倉城跡に行って来たのですが、
この但馬朝倉氏は、どのようにして越前に移り住んだのでしょうか?
(どの時期に移ったのかなど分かれば嬉しいですw)
↓朝倉城跡と比丘尼城跡です!!
http://p.pita.st/?m=hhvmou9p http://p.pita.st/?m=d1u9fcm1 http://p.pita.st/?m=cexvz5kh
- 227 :
- >>226
斯波の家臣だったから室町時代じゃないかな?
それとも鎌倉時代だったかも?
- 228 :
- 一乗谷炎上 信長と朝倉義景
著者:井ノ部康之。幻冬社。
この本は、世にも珍しい朝倉左衛門督義景を主人公とした小説です(笑)。
ttp://homepage3.nifty.com/~fwix7026/books/sen/ichijoda.htm
- 229 :
- >>228
いや、義景物って結構あるんだよ
- 230 :
- 領地だけなら武田、上杉と変わらない大勢力だからなあ。
非常に不遇。
- 231 :
- >>230
>>領地だけなら武田、上杉と変わらない大勢力だからなあ。
それを瞬Rる織田恐るべしって事だよね。
しかも織田は拡大した領土は完璧に統治してしまって全く反乱もおきないし。
- 232 :
- >>231
>それを瞬Rる織田恐るべしって事だよね。
しかも織田は拡大した領土は完璧に統治してしまって全く反乱もおきないし。
どこの国の誰の話してんの?
越前の朝倉の話だろ?
朝倉とは三年以上も戦って(負けまくって最後刀根坂で浅井の裏切りによりようやく勝った)
義景を討った後も一向一揆と結託した反乱なんかが起きてるんだが?
事実、織田家一番の勝家が統治したにもかかわらず、勝家は加賀を平定するのに
何年もかかるというありさま。
史実と光栄のゲーム一緒にしちゃいかんよw
- 233 :
- >>232
これほどつっこみどころがあるレスってのもなあ
>朝倉とは三年以上も戦って(負けまくって
姉川の戦いは?また71年以降何度かあった浅井の攻撃は秀吉単軍で撃退され、
信長が本軍をひきいて江北に出陣すると、朝倉は来援に来ても篭っているだけ。
>刀根坂で浅井の裏切りによりようやく勝った)
浅井が朝倉を裏切った?どこの国の誰の話してんの?
>義景を討った後も一向一揆と結託した反乱なんかが起きてるんだが?
このとき一揆と結託した富田長繁は、桂田を討った後信長に越前守護職を願って
いる。つまり、当人は織田への反乱のつもりなし。その後越前全土に広がった一揆
とは別物。
>事実、織田家一番の勝家が統治したにもかかわらず、勝家は加賀を平定するのに
>何年もかかるというありさま。
信長が朝倉と越前一国を瞬殺したことと、柴田による加賀平定戦の経過になんの
関連が?
史実と、あなたが光栄のゲームや歴史小説で脳内に作り上げた妄想を一緒にしちゃいかんよw
- 234 :
- >>233
君面白すぎる!
つーか今だに姉川の偽造信じてるくちか?
徳川坊か?
姉川はめんどくさいからググッて調べてくれw
偽造だってすぐわかるからw浅井の活躍なんてのもないからねw
榊原隊が迂回もしてないぞ。ちょーうけるw
しかも引きこもってるだけって・・・
志賀の陣もしらないのか・・・w
それと刀根坂も知らないようだけど
大獄・丁野両砦を失うのは、
暴風雨の中これを好機と見た信長の奇襲成功と言う説があるが
本当は浅井方の浅見・阿閉・月ケ瀬とかの裏切りですよ?
これにより敗退が決定したの。
>信長が朝倉と越前一国を瞬殺したことと、柴田による加賀平定戦の経過になんの
関連が?
>>230での
>しかも織田は拡大した領土は完璧に統治してしまって全く反乱もおきないし
これの完璧に統治して全く反乱もおきないし
ってのに反論したんだが何か?加賀平定戦ってw
加賀は朝倉の領土でしたが?(全てじゃないが)
完璧に統治してないじゃんw
反乱も起こされてるしw誰相手とか関係ないだろ?
お前完璧とまで言っておいてそれはないぜw
やっぱ光栄坊はおもしれーw
- 235 :
- >>234
姉川で否定されているのって、十三段中十一段の陣を破られたとか、徳川の横入れで
勝てたとかの部分であって、姉川合戦の存在自体やで織田側が勝ったことについての
否定説なんて知らないなー。
志賀の陣については、ちゃんと71年以降と書いてありますが?(志賀の陣は70年)
阿閉や月ヶ瀬の裏切りで戦況が大きく変わったのは事実だが、それだけで朝倉の敗退に
繋げるってのもねえ。そもそも朝倉が大獄・丁野に陣取るのって、両者の裏切り以降の
話だが。
- 236 :
- >>235
短い時間に結構調べたようだね
えらいえらいw
>姉川合戦の存在自体やで織田側が勝ったことについての
否定説なんて知らないなー。
存在自体までは俺否定してないけど?
つーかおまえ
>姉川で否定されているのって、十三段中十一段の陣を破られたとか、徳川の横入れで
勝てたとかの部分であって
偽造認めてるじゃんw(俺が言ってる偽造これのことね)
ちなみに現在は引き分け説が有力
織田が勝ったとかまだ言ってるヤツいるとはw
>阿閉や月ヶ瀬の裏切りで戦況が大きく変わったのは事実だが、それだけで朝倉の敗退に
繋げるってのもねえ。
戦況変わるぞ?つーかあれで変わらないわけが無い。
大獄・丁野を失うってことは朝倉軍は完全に孤立するんだぞ?
いくらなんでも両砦を失ってまで戦うような大名はその時代にはいないだろう。
>そもそも朝倉が大獄・丁野に陣取るのって、両者の裏切り以降の話だが
はぁ?何言ってんの?裏切った後にどうやって
両砦に陣取るんだよ?
お前バカか?w浅見・阿閉・月ケ瀬が砦を開いて織田軍を呼び込んでいるんだぞ?
何自分の都合の良いように解釈してんだよw
つーか無理が見えてきたねw
- 237 :
- 二人ともNGにしたぞ
- 238 :
- 二人とも面白いから続けてw
- 239 :
- 朝倉一族出の俺に免じて争いを収めてくだされ
- 240 :
- ボケーっと見てたら何か討論してたみたいなんで、分析してみた。
発端は>>231
>>232の主張
1.織田と朝倉は3年以上戦ったが負けまくっていて、最後は浅井の裏切りで勝利した。
2.朝倉義景滅亡後も一向一揆と結託した反乱が起こっている。
3.柴田勝家が統治したが、平定に数年かかった。
結論として、織田の統治は完璧ではなく、反乱も起きているので>>231の主張の末部は誤りである。
これに対する>>233の反論
A.一般的には織田の勝利として知られる姉川の戦いや朝倉勢の非積極的攻勢を指摘。
B.浅井は朝倉を裏切っていないという主張。
C.富田による一揆結託反乱は織田に対してではなく桂田に対するもので、後の一向一揆はまた別物という主張。
D.織田が朝倉を瞬殺したことと柴田による加賀平定戦の経過は無関係。
結論として、>>232の意見はゲームや小説の知識に偏った妄想に過ぎないと判断。
- 241 :
- >>234による>>233への反論
1.姉川合戦は偽造という主張。
2.朝倉方の攻勢として有名な志賀の陣の存在を指摘。
3.刀根坂の経緯について。織田軍による奇襲説を否定し、浅井方の裏切りが大勢を決したと主張。
4.加賀は一部を除き朝倉の領土と主張。
5.織田による「完璧な統治」を否定し、反乱の存在そのものを問題視。
結論として、>>234は>>233そのものではなく、彼の擁護する>>231の主張を否定している。
- 242 :
- >>235による>>234への反論
1.姉川合戦の否定は、織田の苦戦・徳川勢の勇戦の2点。織田の勝利は変わらないと主張。
2.志賀の陣は1570年であり、>>233で「1571年以降」と断り書きをしていると指摘。
3.時系列について。浅井方の阿閉・月ヶ瀬らの織田方裏切り後に朝倉が大嶽・丁野に陣取ったと主張。
結論として、>>234の主張が的外れであると指摘している。
- 243 :
- >>235に対する>>236の反論(…なんだが、やや支離滅裂になっている)
1.姉川合戦の存在を否定はしていないと主張。
2.姉川合戦は現在引き分け説が有力で、織田の勝利ではないと主張。
3.大嶽・丁野砦の喪失は朝倉勢の孤立を招くため、重要な分岐点となりうると主張。
4.浅井方の阿閉・月ヶ瀬が裏切ったから織田が両砦を入手したと主張。
結論として、姉川合戦引き分け説を採択していること、浅井勢の裏切りが朝倉勢の撤退に直結したと主張している。
- 244 :
- 分析はまた後ほどにでもしようかと思う。
- 245 :
- >>244
普通に>>232の言うことが正しいだろ?つか理にかなってると思う。
元々>>231
が始まりなら、>>232の言う通り瞬殺もされてないし
反乱もおきてるってだけの話じゃないか?
特に>>235辺りはもう妄想のレベルになってきてるし
だいたい瞬殺されたとか言っといて何年以降とか後から言い訳する理由もわからんし。
そんなことありなら誰だって瞬殺できるし。
それに浅井軍(浅見・阿閉・月ケ瀬)が裏切ったのも事実だし、
普通に>>235は浅井の裏切りで朝倉軍が撤退したことを知らなかっただけじゃないか?
>そもそも朝倉が大獄・丁野に陣取るのって、両者の裏切り以降の話だが。
これ見れば知らなかったのがわかるし。
- 246 :
- >>245
同意
姉川の偽造を姉川自体の偽造にしたり
単純に知識不足なだけだと思われ
普通姉川の偽造と言えば、11段撃破の偽造
榊原隊の迂回の偽造のことを指すのに
それすら知らなかった
- 247 :
- >>240=231=233かな?
面白いから一応つっこみ
>>240から
>結論として、織田の統治は完璧ではなく、反乱も起きているので>>231の主張の末部は誤りである。
結論として織田の統治は完璧ではないし朝倉を瞬殺もしていないので>>231は誤りである
が正解かな。
>これに対する>>233の反論
の部分の最後
>結論として、>>232の意見はゲームや小説の知識に偏った妄想に過ぎないと判断。
ゲームや小説こそ織田完璧!朝倉弱小!でありそもそも的外れな指摘である
単純に自分が光栄坊と言われて言い返しただけだろう
- 248 :
- 続き
>>241について
1,2,3,4
は全て史実であり現在最も有力とされている説である
>>242
1、それを世間では姉川の偽造と言う。
>結論として、>>234の主張が的外れであると指摘している
結論として>>233の主張は的外れである(そもそも知識がなさすぎるが・・)
>>243
これも全て>>233の知識の無さが原因である、
(姉川の偽造を姉川合戦の存在自体の否定ししたりとメチャクチャ)
結論として>>233はもう少し勉強してこいってことかな
- 249 :
- >>(負けまくって最後刀根坂で浅井の裏切りによりようやく勝った)
浅見・阿閉・月ケ瀬の裏切り≠浅井の裏切り
まるで浅井長政が朝倉を裏切ったのかとびびった
通説はやっぱり
金ヶ崎は浅井朝倉の快勝
姉川は引き分け
志賀の陣は浅井朝倉の勝ち
刀根坂は朝倉の惨敗(撤退中の襲撃
朝倉っていざとなるとすぐ撤退するよね
信玄も呆れてたらしい(軍艦
- 250 :
- 雪国の宿命だろ
日本海を見たこともない山猿にはわからないだろうが
- 251 :
- 単独スレに誘導
【織田・徳川】姉川の戦い議論スレ【朝倉・浅井】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1188559907/
- 252 :
- 頭蓋骨を酒の肴にされたのは、後世の創作でおk?
- 253 :
- さあな
- 254 :
- また軍鑑か
- 255 :
- 重複スレが立ってるので、ageときます。
- 256 :
- 宗滴って信長を大器と見抜いてたのはほんと?
- 257 :
- 家督継承→内訌を制す
を聞けばそれなりのやり手とは感じるだろうな
- 258 :
- >>256
よく聞く逸話だけど、出典が分からないね。
- 259 :
- 朝倉宗滴話記。
彼の家臣が記した発言集。
謙信や信玄やらも持ち上げている。
どう見てもアサヒってる内容。後だしジャンケン。
- 260 :
- >>259
萩原宗俊が宗滴死後に纏めたものだね。
宗滴が1555年没で、萩原が1570年に戦死してるから、
成立年代はその間ということになり、
確かに「後出しジャンケン」をするには容易ですなw
まあ宗滴が人物評をしてるのは、箔を付けるための萩原の創作と見た方が良いね。
- 261 :
- ●朝倉孝景(英林)(1428〜81)
越前守護斯波氏・守護代甲斐氏の政争を潜り抜けて勢力を伸ばし、
応仁の乱中に西軍から東軍への寝返りを敢行、見返りに守護職を掴み取り、朝倉五代の礎を築く。
公家や寺社の所領を召し上げて「天下一の極悪人、天下悪事始業の張本」と呼ばれ、
その死を「天下の慶事」とまで公家の日記に書かれた男。
成り上がりで裏切りで武断派なワイルド朝倉。義景ばかりみてるとイメージが違う。
- 262 :
- >>261
孝景ってそんな人物だったのか。
なんかすげーな。
義景もそんなに無能じゃないんじゃない?
ゲームや漫画だと「戦国一の優柔不断男」とかさんざんに言われてるけどねw
- 263 :
- >>262
まあこいつの決断次第で信長を潰せたってチャンスを、最低3回は逃しているからな。>義景
- 264 :
- >>263
その内の一つ「志賀の陣」での講和(最大のチャンスか?)
は仕方ないんじゃない?
史実では義景は1度講和を断ってるけど、その後
信長は義昭を通じて天皇からの講和の勅命なんだし
それ断ったほうがさらに、滅亡が早まっただろうし。
後で歴史を知っていれば講和せずにあのまま信長を潰したら・・・
とは思うけど、当時は誰でも無理だろう(無理と言うより不可能)。
- 265 :
- 朝倉も結局織田との体力差でやられただけというのがなぁ
攻められ続けて切り崩しもされていたら戦うことすらできんよな
そもそも歴代当主がしっかり国を纏められていたらここまで国内が不穏な状況ではなかっただろうに
- 266 :
- とりあえず義影のおかげで孝影は得してるイメージあるな
何か義影のいい逸話って聞いた事ないんだけど何かあるの?
- 267 :
- 宗滴は早くから織田信長の台頭を予言していたって本当なのだろうか。
尾張の様子をそこまで詳細に知る事なんて出来なかっただろうし、
とても信じられないんだが。
- 268 :
- 孝景の息子って義景だけなの?
一人っ子なんかね。
- 269 :
- むしろ義景も六角の子という噂もあるしな
孝景は種なしだったのだろうか…
- 270 :
- 宗滴が後2・3年長生きしてれば、戦国史は大きく変わったと思われる。
義景が後2・3年長生きしてもただ単に寿命が伸びただけ。
- 271 :
- >>267
一次資料に無ければ、江戸時代の創作じゃないか?
- 272 :
- >>271
朝倉宗滴話記に載ってたような。
他にも
「日本に国持の不器用人使下手の手本と可申仁は
土岐殿・大内殿・細川晴元・三人
日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は
今川殿・甲斐武田殿・三好修理太夫殿・長尾殿・安芸毛利
織田上総介方・関東正木大膳亮方(時茂?)・此等の事」
と、戦国武将が戦国武将を評価する興味深い文言が。
他の面子は兎も角、何で正木大膳なんか知ってるんだろう?
- 273 :
- >>272
朝倉宗滴話記については、このスレの>>259-260参照。
成立年代からして、著者の加筆の可能性大。
- 274 :
- >>272
正木大膳だけが明らかに浮いてるな。
他は納得の面子だがどういう人選だ。
- 275 :
- 槍大膳だけ変だな・・・
- 276 :
- 江戸時代に写本した編者が加筆したんじゃないか?
- 277 :
- >>272
北条氏涙目w
- 278 :
- 拾ってきた。宗滴話記の内容が書かれてる。
朝倉宗滴を語ろう
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1047532328/
- 279 :
- ここにも貼っておく…漫画板のセンゴクスレより
949: 2008/02/14 02:58:13 W8JRP5jdO [sage]>>890
亀だけど、実際それやったら今でも福井は賊軍とか叩かれまくっているだろうな(苦笑)
幕末→維新での会津とかはまだ同情されてるけど
単に織田が脅威だというだけで朝廷に逆らうとかだと擁護しようがねえよなw
952: 2008/02/14 16:42:19 u9tAXT4w0 [sage]>>949
天皇のお膝元の山城・大和の大名や国衆がさんざん朝廷に刃向かったり朝廷の荘園を
押領してたりした時代なのに何を言ってるんだw
- 280 :
- 織田上総介なんて名前が出てくる時点で信用出来ない
- 281 :
- >>280
何が?
- 282 :
- 宗摘が死んだのは、桶狭間より前で、やっと織田家を掌握したってくらいの時期だからだろ。
- 283 :
- 写本が流布する間に誰かが加筆したんだろうな
その中にたまたま正木氏の子孫もしくは地元の人も混じっていたと
- 284 :
- オカ板に前世が朝倉で今は岩倉織田家関係者という奴が
こんなことをほざいてたw
朝倉的には浅井を守りきりたかったようで・・・・・・?
442 :本当にあった怖い名無し:2008/05/10(土) 17:41:15
>432
そういうもんなんだよ。その記憶が今回のテーマだと言えよう。
しばらく忘れていたが、「大津へ」というメッセージが昨日から
入るようになりこのスレを久々に開いてHPにたどり着いたら
まさに愕然ときた。
朝倉の前世を持つ者として守りきれなかった浅井の事。
いずれ思い出すと思うが、厳しく対立した織田と朝倉。
今世の血の流れは岩倉織田家の血を引くもの一人として。
日本の歴史を作った人たちが大挙してこの時代にまた出てくると
いうことを繰り返しているだけですよ。
健くんの言うこと「よーーーくわかる」のだが、それをどう
消化するのかは本人の自覚次第。
- 285 :
- それなら色んな時代の人等が生まれてきてると思うよ
たとえば明治維新とかね
- 286 :
- 重複スレが立ってるので、ageとく。
- 287 :
- 朝倉と織田ならどちらも斯波氏の配下だから噂くらいは聴くでしょ
- 288 :
- >>283
正木大膳は確かに名将ではあるが
どうもその中に入れるのは場違いの感があるなあ。
正木家と紀州、水戸徳川家との関係による後世の粉飾かねえ?
- 289 :
- 亀レスで蒸し返して悪いが、>>231は確かにやや昔の通説を信用してる感じの無茶な主張だが、>>232もわざと朝倉を持ち上げて・・というより織田を貶めてる感がある。
いや、俺も朝倉は織田戦線において武田なんかより頑張ったと思うのだが・・わざと勘違いさせるような、煽るような作為的な文を書いてる気がする。嘘ではないが別の意味で受け取らせようとしているというか。
>朝倉とは三年以上も戦って
確かにそうだがこれではまるで織田が朝倉のみを相手にしてるかのように聞こえるぞ。
>負けまくって
姉川の戦いは後詰という理論から言えば充分勝ち。落とせなかったことを敗北、引き分けというのなら、後の朝倉との戦いは信長にとってたくさん引き分けになるのだが、それでもいいのか?まあ実際そう取ってる人間もいっぱいいるみたいだけど・・
>浅井の裏切りによりようやく勝った
この書き方は絶対わざとだろ。「浅井方に寝返る武将がいくらかいて」が正しいのに。これでは浅井全部が織田に寝返ったかのような悪いかき方。光秀の裏切りを、「信長が織田に裏切られて・・」ってぐらい変な書き方。
>義景を討った後も一向一揆と結託した反乱
むしろ一向一揆が盛んになったから織田軍、占領部隊を投入、って感じだがな。それまでは織田が全部支配というより景鏡という感じだが。
>織田家一番の勝家
一番最初に気になった突っ込みどころ。勝家が一番?とりあえず勝家は信長に直接対決で負けてるから一番ではない。配下としても一番ではない。
>勝家は加賀を平定するのに何年もかかる
一向一揆は加賀だけでなく、本願寺自体との戦いでもあるからこれが終わるまで平定とは言わない、というのはどうにもね。上杉、徳川など多くの武将が自国内で一向一揆を長い間起こされたりしたが、この間も平定できてない、と。
- 290 :
- >>289
君の言う通り多少の突っ込みどころはあるけど
特に間違ってるとは思えない。
逆に君が擁護してる>>231
は突っ込みどころ満載だと思うが?
そっちの方には何かないのかい?
それとも>>231=289なのかな?
- 291 :
- >>290
231の間違いは物凄くありきたりだから突っ込んでもつまらないから突っ込まなかっただけ。
232はあえてこまかい部分を誇張、拡大解釈した言い方で、小さな嘘を作為的にちりばめているような意識を感じたから気になった。
- 292 :
- >>289
231 人間七七四年 sage 2007/09/10(月) 16:55:24 ID:6AhB/F5/
>>230
>>領地だけなら武田、上杉と変わらない大勢力だからなあ。
それを瞬Rる織田恐るべしって事だよね。
しかも織田は拡大した領土は完璧に統治してしまって全く反乱もおきないし。
これがはじまり。
元々のカキコよく見直すべし
言いたいことは分からないでもないけど
明らかに反論がおかしい
いつ瞬殺された?
完璧に統治?全く反乱なし?w
まぁ3年以上戦っても瞬殺だと思うなら仕方ないけどねw
- 293 :
- >>292は>>291の最初の方を読め
- 294 :
- >>293
読んだが明らかにおかしい
>>231側を「間違い」「ありきたり」などの言葉を使い
>>232側を「誇張」「拡大解釈」「作為的」などと言っている
まるで
>>232側が間違ってるかもしれないと取れるような書き方。
>>291のカキコの意味が
>>231はあからさまにアホ過ぎて知識も全くなくて反論する気にもなれないが
>>232は細かいことを「多少」大げさに言っているな
という解釈なら納得できる。
- 295 :
- >>294
231は大いに間違ってるから今更指摘する気が起きない。
232は知ってるのだろうけど、説明をするが為、極端になってる。誇張や誤解させるような書き方をあえてしてる感じがした。
って意味なんだけど。
231と232を単純に比べたならそりゃ231の間違いの方がずっと大きいよ。
ただ、間違いの質が違う。231に突っ込むとしたら単なる知識の問題。でもたいていの奴が気づくそんなとこに突っ込むのもつまらなかっただけ。
けれどその231を得意げに突っ込んでる232のレスに、小学生の間違いを凄くバカにしながらも実ははっきりと分かっていない中学生のような恥ずかしさを感じたので、かかざるをえなかった。
- 296 :
- >>295
それならok
結局>>231が間違いであるが結論。
ちなみに
>>289もかなり突っ込みどころ満載なんだが
3年以上戦って〜
たしかにそうだが・・・ってwそうなんじゃん。どこに反論の余地があるの?
そこまで言うんだから
「いつ瞬殺されたのか」
これだけでいいから教えてくれ。
3年以上戦ったら瞬殺なの?
ここで反論される意味が全く分からない
姉川にしたって完全に姉川の偽造を知らなかっただけだし
ココも反論される意味がわからん?
浅井の裏切りこれぐらいじゃね?これを「浅井軍」って書けば問題なかったのかな?
ちなみに>>234で一応ちゃんと浅井方の浅見・阿閉・月ケ瀬とかの裏切りですよ?
って書いてあるけど、まぁいいや。
ってえらそうにカキコしたけど
実は勝家一番じゃないとか
加賀平定とか知ってるんなら詳しく教えてください
たしか義景は完璧に統治した記憶が・・・
その後反乱もたしか無いはずだが・・・
(本当はココ突っ込みたかったが自信がなかった)
本願寺との講和自体が義景の力じゃないということなのかな?
- 297 :
- >>296
だからまだ勘違いしてるみたいだけど、俺は231の説を支持してるわけじゃなくて、232に横レスしただけだってば。
極端な話、231はどうでもいい。232のレスを見て、俺は気になることを言ったまで。
>たしかにそうだが・・・ってwそうなんじゃん。どこに反論の余地があるの?
書いてあるとおり。232の文ではまるで浅井・朝倉とだけ戦ってるみたいに見えるってこと。
長期戦を否定するなら、そもそも確かにそうだが、なんてかかない。
>3年以上戦ったら瞬殺なの?
俺のレスのどこかに織田が瞬殺した、なんてのが一文でも入ってたらその時は謝るが、見てのとおりそんなことを俺は一言も言ってない。
俺は何回も言うけど232の気になるところを言っただけで、それが=232の全面否定&231の全面肯定になるわけではない。
まあでもあえて言うなら、戦国時代において、戦を始めて大名が滅ぶまでのスピードは速い方だとは言えるかな。平均から言えば。
どうも後半の天下統一戦のイメージがみんな強すぎてるみたいだけど、もともとそんなにいきなり攻めて滅ぶってパターンより、ちょっと戦ってやめる、みたいな戦の方が本来多い。
あと、浅井裏切りに関しては、その後の訂正とかは見てないんで、その点はすまん。
>実は勝家一番じゃないとか
何の一番か知らんが、とりあえず戦や政の実力も、家臣団内での地位も勝家が一番ではないよ。
含めるかどうか知らんが、総大将の信長には、尾張時代に直接対決で負けてる。2倍以上の兵数で(最近の説では5倍らしいけど)。
秀吉、光秀などと戦の実績を比べても一番ではないし、政に関しては完全に信長頼みで、信長の指示に従うだけ。
まあ筆頭家臣と言われた佐久間はそれすらしなかったから飛ばされたので、自分の実力はよく分かっていたのだろうし、懸命な判断だったけど。
>たしか義景は完璧に統治した記憶が・・
織田方が朝倉を滅ぼした後の統治についての話をしていたはずだが。
もし例として出しているんなら不適当だろ。信長は本願寺自体の降伏をこの頃には望んでるんだから立場が違う。
- 298 :
- 勝家が一番と言われているのは総見寺資料の武将一番目に書かれているからでしょ
付けられた与力の規模もNo1
上杉相手に総大将
政治に関しては信長の指示なのか勝家オリジナルなのかは不明だが
他で類似したものが少ないから勝家の考えだとも想像でき無い事もない
ま、どうでもいいがw
- 299 :
- >>297
勘違いしてるのはそっち
そもそもの話がわかってないw
>232の文ではまるで浅井・朝倉とだけ戦ってるみたいに見えるってこと。
別に見えないし、万が一見えたからってなに?
あくまでもこれは瞬殺されたに対するレスだよ?
俺が言ってるのはあくまでも瞬殺されてないってこと
それに反論するってことは
瞬殺されたってことを肯定してることと同じ。
もしも同じじゃないとかムチャ言ったところで意味はないよ?
俺の意見は瞬殺されていない
>>231は瞬殺されたと言っている
>俺のレスのどこかに・・・
ってそもそもそれならココをレスする意味がないじゃんw
自分で勝手にそれだと浅井朝倉だけと〜
とか勝手に解釈つけてるしw
ここは完璧に君のミスだね。
何を言っても瞬殺されていないものは瞬殺されていないとしかいえないよ?
何を反論してるの?
瞬殺したって書いてないなら一体何に反論しているの?
つまり君は>>231の元々のレスも
>>232のその後のレスも見なくて
>>232だけを見てレスしてきたって事だろ?
それじゃー全然だめじゃんw
- 300 :
- >>298
家臣団のトップ、という意味なら、すまんね、確かにある時期はそうだったかもね。それは素直に認める。
桶狭間以降の筆頭は佐久間だったけど、その後はそれぞれ有力家臣が伸びてきたのでごちゃごちゃするし、そういう時期もあったといえるかも。
ルイスフロイスによれば佐久間と柴田がツートップだった。
オリジナルってどれのこといってるのか知らんが、統治・経営に関して信長が細かく指示を出してることから、恐らく信長主導だろう。
勝家がそれまで政治をやってきたっていうならまだ勝家主導の可能性もあるんだがね。
しかもこの頃は信長が勝家に、自分に絶対服従を求めてる頃だから、あんまり勝手なことはやりにくかったろうし、やるにしても相談したと思われる。
- 301 :
- >>300
謝ってばかりじゃん・・・
>家臣団のトップ、という意味なら、すまんね
なんだそりゃ?
>一番最初に気になった突っ込みどころ
とまで言っておいて・・・
>配下としても一番ではない
とまで言ってるのに・・・
- 302 :
- >>299
>それに反論するってことは瞬殺されたってことを肯定してることと同じ。
おまえは何を言っているんだ。
AとBが討論していて、「Aに味方する気は無いけど、Bの説明に出たこの部分は間違ってるよ」
「この部分はこうだと思うよ」って言ったら、「お前はAの味方だな!」って言ってるのと同じなんだぞ、お前の言ってること。
違う方向から来たコメントを、違う方向のものであっても無理に一方向、+か-なんて風に解釈してるだけ。
敵でも味方でもないものもお前はとにかく敵か味方かに極端にわける人なんだろうなあ。
>もしも同じじゃないとかムチャ言ったところで意味はないよ?
どうやら見えない相手と戦ってるみたいだけど、話を一方向に考えすぎ。
Aの意見を否定すればその逆意見になるって事は、「嫌いじゃない」って言えば「大好き」っていうのと同義になるってことか。
「身長が高くない」と言えばそれはチビってことだと。しかし実際にはその間には平均身長の奴もいればちょっと高めの奴もいるのにそれら全てまとめてチビだと。
ラルク特別好きじゃない、といったら、ラルク大嫌い、R、って言ってるのと同義だということか。あほらし。
違うって?でもお前が言ってんのはそういうことだよ。50を無理矢理1か100にしようとしてる。素直にレスだけ読んでりゃいいのに。
>自分で勝手にそれだと浅井朝倉だけと〜とか勝手に解釈つけてるしwここは完璧に君のミスだね。
ありゃりゃ、とうとう単なる煽りまで落ちちゃったか。自分の意見をちらっとでも否定されたら全て否定されたような気になる人なのか。
>>232だけを見てレスしてきたって事だろ?それじゃー全然だめじゃんw
厳密に言うと、232の書き込みを「訂正」って言ってる書き込みは結局無かったじゃん。こっそり言い方を替えてるだけ。
その時点で間違いがありましたと認めるべきだろうに。少なくとも誤解の与える書き方してるのに、そこは見逃して下さいってか
- 303 :
- >>301
>なんだそりゃ?>配下としても一番ではない
また人のレスを落ち着いてよんでないことを証明しちゃったな。だから一番の定義を改めて問いただしてたじゃん。
まず、実力では一番じゃないだろ勝家。「この話をしている時期の」朝倉終了後の勝家もまだ一番の家臣じゃないし。
>とまで言っておいて・・・
上記のとおり。織田家臣団のいつの時期の一番でもいいってんなら、そんなの秀吉でも該当しちまう
- 304 :
- >>302
申し訳ないけど違うよ
君の例を使うならば
AとBが討論していたとして
>「Aに味方する気は無いけど、Bの説明に出たこの部分は間違ってるよ」
君はそのつもりだったのだろう
前後のレス読んでないんだから勘違いしちゃったんだね
でも事実は
Aが間違った意見を言ってた
そこでBが訂正を求めてちゃんとした答えを言っている
これが正解
そこでBの意見だけを聞いた君が入ってきたんだよAの意見への反論とか関係無しにね
そもそもの話でAが間違いであるはずなのに
さもBの話が間違いであるかのように言ってるのよ君は。
そして突っ込まれると
(ちょっと自分の失敗に気が付いたからか)
「いやいや俺はAが正しいとは言ってないよ」
「でもBはおかしいってことをいってるだけ」と言い訳してるにすぎない。
別に意見を否定したら逆意見になるとか
そんなこと言ってるんじゃない
そもそもの話を分かってないのに君が勝手に解釈つけて話に割って入ってきただけ
何度でも言ってやるよ
元々のカキコは朝倉は瞬殺された
なんだよ
それに対して瞬殺されてないってレスなんだよ
ココをどうやったら反論できるんだよ?
一体何に反論してるんだよ?
瞬殺された証明が出来るまでは君の負けだよ
- 305 :
- >>303
自分の>>289カキコ読み直せよw
まあいいや
頼むから瞬殺されたに対してのレスくれよ
他の逃げのレスはいいからさ
- 306 :
- 飯食いに行く
また明日〜
- 307 :
- >>304
>「いやいや俺はAが正しいとは言ってないよ」
>「でもBはおかしいってことをいってるだけ」と言い訳してるにすぎない。
まるで俺が後からつけたしたみたいに言ってるけど、もう何っっっ回言ったか分からないけど、ほんっとうに落ち着いて俺のレス読み直せよ。
「>>231は確かにやや昔の通説を信用してる感じの無茶な主張だが、>>232もわざと朝倉を持ち上げて・・というより織田を貶めてる感がある」
はい、これのどこにAの肯定が入ってるでしょうか?これのどこにAに比べてBのが間違ってる、という部分があるでしょうか?
Aに対しては無茶な主張、Bに対してはわざと・・・と言ってるよな?
最初の最初から、ずーーーーっと俺は一貫してるんだけど、お前が勝手に俺のレスを「こいつAの味方だ!俺のレスを全面否定してる!」っていう風に受け取ってるよな。
それどころか、俺を231呼ばわりしてるよな?反論考える前に良いからよく読め、言ってるよな?
そしてお前がそう誤解してるのを聞いて、俺は改めてわざわざ291で説明してるよな?
なのにまだお前は勘違いしてるので改めて293や295で言ったよな?言ったよな?
自分がいい加減単に見えない敵を作っただけだって認めろよ。
>何度でも言ってやるよ 元々のカキコは朝倉は瞬殺されたなんだよ それに対して瞬殺されてないってレスなんだよ
どうして自分で後から入ってきてそこだけ見たレスだと気づいてからも勝手に俺をその前の話につれてくの?
俺は232に言ったんだよ。話の勝ちとか負けとかごまかさずに聞け、いいか、俺は232のレスに言ったんだよ。
「世界最高のサッカー選手はロナウジーニョですよ」「いや、アンリですよ」って話に俺は「ロナウジーニョはないでしょう、でもアンリもちょっとなー」
って言ったら、お前は「じゃあロナウジーニョが世界一だって証明しろよ」って言ってるんだよ。いい加減気づけよ。
人のレスは反論か肯定かしか取れない奴なのか?次レスつけるとしたらまずこれ答えろ。いい加減。
- 308 :
- >>305,306
とうとう反論できなくなったて逃げちゃった、
なんて程度の低いレスをつけていくつもりはないけど、
それにしてもチンパンジー相手に必死に話してるような気がしてきた。
- 309 :
- 私のレスを煽りあいのネタにするのはやめてっ!(;;
- 310 :
- >>307
お前何言ってるんだよw
お前の>>289のカキコが最初のところだけ
>別の意味で受け取らせようとしているというか
ココまでだったならお前の言うことも分かる、つーかそれだったらそもそも反論してないし。
その後の>>291も分かる
俺の>>296のレスに対するお前の>>297からがおかしいんだよ。
大体>>289の上に対しては俺も>>296でそれならOKと言ってるはずだが?
その後の俺のレスは>>289の下に対してなんだがな。
大体レス見てないのに人のこと勘違い呼ばわりしたりそもそもおかしい。
>確かにそうだがこれではまるで織田が朝倉のみを相手にしてるかのように聞こえるぞ。
このレスなんだよ?全く意味が分からんぞ?
何度でも言うけどこれは瞬殺されたことに対するレスなんだけどな
ここで反論したきたからおかしいくなるんだよ、まったく。
例え話好きなようだけど
その例えもかなり自分の都合の良い例えだぞ
お前の例を使うとするなら
Aが「ロナウジーニョなんか世界一じゃないそれどころか雑魚だよ」と言って
Bが「んなわけねーよ、ロナウジーニョは素晴らしい選手だよ」と言ったら
そこへお前が「Bはおかしい明らかに誇張している」とか言ってるのと同じだぞ。
最初からず〜と勘違いしてるのはお前だってw
>人のレスは反論か肯定かしか取れない奴なのか
可哀想だし答えてやるかな、お前は全然答えてくれないけどw変な例出して逃げるだけw
そんなことはないが明らかにお前の>>289の反論がおかしいから反論だと思ったわけ。
分かりやすく答えてあげるよ
お前に対しては>>289がはじまり、これはいいよな?
んで俺は>>296でも言ってるけど上はOKと言っている。
問題は下だよ下。
お前は俺がOKと言ってるのにずーと上のことに対してしか言ってこないw
それじゃー話かみ合わないよ?
上はいいんだよ上に対しては>>231が間違いであるで結論。
- 311 :
- >>310
おまえは本当に何を言っているんだ。
>お前は俺がOKと言ってるのにずーと上のことに対してしか言ってこないw>それじゃー話かみ合わないよ?
okと言いつつだらだらと書いてるじゃん。「え、なになに、意味分からない」って。
だからどういう意味か説明してるのに「何言ってるの?」って言う始末。仕方なくさらに説明したら「上はいいから」って、なんだそれ。本当にどうでもいいなら最初っから書くなよ。
相手が主張してないことを「主張した」って言ってそれを証明しろとか、何いってんだ。
あの911は酷かったけどブッシュは酷いよなって言ったら、俺は911を正当化しなくちゃいけない状況になるの?ばかばかしい。お前が言ってるのはこれなんだよ。
何度も言ってるけど俺がレスしたのは232なんだよ。それ以上でもそれ以下でもないのにお前が勝手に広げてるだけなんだよ。232にレスつけられたんだから232のことだけ言えば良いんだよ。
>そこへお前が「Bはおかしい明らかに誇張している」とか言ってるのと同じだぞ。
また、文字が一部だけ読めないみたいだけど、まずは>>307の前半部分読め。よんだか?
その例を使うなら、「Aは明らかにおかしいけど、Bもちょっと違うんじゃね?」だろうが。
ほら、また俺の言ったとおり、完全否定と完全肯定使ってるじゃん。
>上はいいんだよ上に対しては>>231が間違いであるで結論。
結論って言葉大好きだな。まさに2ch脳で短絡的。
- 312 :
- なんかもうその罵倒はどうでもいいよ。
越前の経済について誰か詳しく教えてけろ。
- 313 :
- >>311
俺はずーと
「瞬殺された」これについて答えて欲しいんだが
元の始まりが「朝倉は瞬殺された」
そして>>232で「瞬殺なんてされていない」
わかるかな?
アホそうなので何度も分かりやすく書いてやってるのに
いつも違うことレスしてきやがるw
まぁ自信満々でレスしといて違ってた(勘違い)んだから
感情的になるのは仕方ないけどなw。
- 314 :
- もういいんでないの。決着つけなくても。
- 315 :
- >>314
そうかもね
俺は元々の始まり「瞬殺された」について話したいだけなのに
延々と違うことで反論してきやがるw
元々の話に絶対戻してくれないもんなぁ
つーかそんなレスだったら誰でも永遠にレスし返せるもんなぁ
こういうやつって書けば書くほど揚げ足取ってくるからなぁ・・・
- 316 :
- >>313
あらら、やっぱり読んでない。
どんな反論するにしてもさ、まず読めよ。何故相手がおんなじことずっと言ってるのか分からないの?
でも文字も読めない奴なら仕方ないな。チンパンジー相手にした俺がバカだった。
いいよ、話戻して。ま、この後もレスのどこかに罵倒コメ含ませそうだけどなこいつ。流したって言い張って。
- 317 :
- 朝倉スレで何やってんだよw
- 318 :
- 名門なのにな。
- 319 :
- >>316
お前自分が間違いだったと実は悟ってからずっとそればっかり。
そりゃぁ元の話に戻せないわなw
読んでない?勘違い?
例え話も下手くそだし
一体何したかったんだよ?
チンパンでも何でもいいがそのチンパンに負けるっておいw
結局ダメなヤツは何をやってもダメだなぁw
- 320 :
- さようなら朝倉義景スレ。お気に入り削除。
- 321 :
- >>319
マジで反応するとか。
「馬鹿は入る穴」って書いてある穴に「馬鹿だと!?」って怒りながら入るようなまね、俺にはできないわ。
2chで勝利宣言とか死ぬほど恥ずかしいまねもできねえな。さすがチンパンジー。
結局大事なところは読まずに逃げたままだし、真性なんだなあ。
- 322 :
- >>320
ごめんね。
荒しにかまった人は荒しっていうけど、
この場合も内容がどんなんであれ、とりあえず間違いないのは喧嘩両成敗だよね。謝っとくね
- 323 :
- 自作自演の論争キモイ
- 324 :
- 義景の居城修復は順調ですか?
- 325 :
- 義景の母方の祖父はたしか武田元信では?歌人としても評価の高かった若狭守護(ていうか甲斐源氏武田の
嫡流)だが。
- 326 :
- 朝倉氏遺跡での植樹祭って、おれたち歴史ファンにはなにか見所あるんですかね。
- 327 :
- そーいやウィキにも書かれている六角義景説はなんなの?
佐々木哲かなんかの回し者?
- 328 :
- 的確な反論がないし、素人の俺はあれに納得してしまう
- 329 :
- 基本が資料の超絶解釈からなんで、正直現状ではヨタとしか。
- 330 :
- 朝倉景高のひ孫の朝倉在重って、秀忠に仕えて江戸町奉行までやってるのね。
- 331 :
- ウィキペの佐々木氏関連の記事がけっこう佐々木哲の説が
まんま書かれてたりするからな。正直、典拠になる史料も
かなりアレな物だし、ほかの学者さんも相手にしてないっぽい
- 332 :
- >>329
その資料って、複数ですかな?
- 333 :
- 朝倉義景から大和田漠までの系図のせて下さい
- 334 :
- 久世大和守廣周→立花宗茂
大和田 伸也
大野治長→ワイドスクランブル
大和田 漠
- 335 :
- 一月以上もレスがなかったのですね。
前はあんなに激しくやりあっていたのに・・・。
- 336 :
- そりゃ討論できるようなネタがなけりゃそうなるわな。
キャラ萌でレスののびるようなキャラクターでもないし。
- 337 :
- ウチのアマゾネスの実家から徒歩1分のところに、朝倉義景公の御墓(義景庵)がある!
- 338 :
- http://phototosi.exblog.jp/8445682/
朝倉義景子孫???
- 339 :
- DVさんは毛唐の血が混じった神君の子孫だったのか。
- 340 :
- 朝倉宗滴話記は、甲陽軍鑑をモデルにした偽書。
武者奉行、国持ちなど、甲陽軍鑑の影響が。
軍学書、説教書とでもいうべきもので。
- 341 :
- 変なの湧いてるな
- 342 :
- 朝倉さんはサザエさんで言えばアナゴさんです
- 343 :
- 近衛稙家の娘を継室に迎えていたから、仮に家庭内別居であっても
もう少し京との繋がりを重視していたら、里に送り返すことは無かったかも?と思う反面、
継室の兄が足利義昭から疎んじられていたから、面倒が嫌で短期間で離縁したのかな?と
思ってみたりする。
残念な事に継室の兄貴と信長が懇意になったのは、義景の死後らしいけどなー。
- 344 :
- 1555年の時点で、全国の大名をほぼ網羅評価していること自体が変。
伊勢早雲、関東方正木大膳、今川、武田、長尾(上杉)、織田上総介、土岐、
細川晴元、三好長慶、大内、毛利。
ほぼ総登場。
甲斐武田は、若狭武田と区別するため?
安芸毛利は、なぜ安芸を付けるのか?毛利勝永とか後に毛利姓はいるけど。
信長の台頭を予見し、朝倉義景の暗愚を嘆く。
後世の結果を知ってる人間なら、書けるわな。
朝倉宗滴話記は、編年体の日記ではない。日時の記載がないのが特徴。
織田上総介という名乗りは、書状から、1554年かららしい。
信長絡みは、相当怪しい。
- 345 :
- 344は何について語ってるんだ? 主語がないからわからん
- 346 :
- 【テレビ】大河ドラマ『木曽義仲』実現を…富山県と長野県の両知事らがNHKに要望[01/17]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1232122341/
578 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2009/01/17(土) 11:16:32 ID:HDcI/+WV0
最近再評価されつつある朝倉義景公を大河にすべき!
魔王信長をもっとも追い詰めた男。名門朝倉家を率いる重圧に苦悩する姿。
戦国時代を生きた偉大なる敗者の姿を今こそ見直すべき。
大河ドラマ「朝倉義景 第1話『燃えよ! 一乗谷』」 お楽しみに。
592 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2009/01/17(土) 11:22:27 ID:CDHnL29pO
>>578
いきなりクライマックスwww
- 347 :
- 親子そろって酒杯になった哀れな武将
- 348 :
- >>344は「朝倉宗滴話記」は、宗滴自身が書いたものではないと言いたいのでは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AE%97%E6%BB%B4
- 349 :
- 義景については、ようやく成人になったからこれで安心だ
みたいなことしか書いてなかったような
- 350 :
- 宗滴は京都守護もしてたし
敦賀にもいた(当時の敦賀は堺港とならぶ国内貿易の中心地)
だから各地の大名の情報を知っていた(聞いていた)としても
全くおかしくは無いと思うが・・・
ただし信長については俺も怪しいと思う
- 351 :
- むむむ。
- 352 :
- 朝倉始末記で、信長公という敬称になってるんだよな。
一向一揆討伐に関わった宗滴と信長。
信長台頭予見の記述と関連していると思われる。
- 353 :
- 朝倉宗滴は、一向一揆を鎮圧した名将と朝倉始末記は言ってるが。
信長が朝倉を討伐して、越前平定後に、また一揆が蜂起していることから、
朝倉が一揆を内包して共存していたのは明白。
家康のように、一向一揆を完全解体したわけではない。
一揆の利権を公認して共存していたのが実態。
越前、加賀、越中に関しては。
- 354 :
- >>353
> 一揆の利権を公認して共存していたのが実態。
それは信長も一緒。
むしろ家康の措置が他と違いすぎてた。
- 355 :
- 信長の場合は、長島と越前で解体というより解消しているからな
- 356 :
- しかし結局は本願寺を体制内に取り込む形になっておる
- 357 :
- >>356
秀吉や家康も体制内に取り入れているけど?
- 358 :
- 朝倉始末記で、信長公という敬称になってるんだよな。
一向一揆討伐に関わった宗滴と信長。
信長台頭予見の記述と関連していると思われる。
353 :人間七七四年:2009/02/20(金) 18:52:04 ID:QKSRN6Jd
朝倉宗滴は、一向一揆を鎮圧した名将と朝倉始末記は言ってるが。
信長が朝倉を討伐して、越前平定後に、また一揆が蜂起していることから、
朝倉が一揆を内包して共存していたのは明白。
家康のように、一向一揆を完全解体したわけではない。
一揆の利権を公認して共存していたのが実態。
越前、加賀、越中に関しては。
- 359 :
- なるほど
- 360 :
- 遅レスだが織田の北陸方面軍も同様なんだが
真宗系門徒虐殺の痕跡は前田の一部にしかない
柴田佐久間は参門を寄進して友好に努めている資料があるし
佐々にいたっては加増して所領安堵した文章が残る
一向宗解体の実態は不明だが柴田が越前で国内初の刀狩りを行っている
織田の統治下で骨抜きにされていたと想像します
- 361 :
- 一族がさっさと義景を見限ったのは何でだろ?
徳がなかったからか、他家からの養子説とか色々な理由が想像出来るんだろうけど。
- 362 :
- >>361
義景どころか親父の孝景の代から、一族内での凄絶な内訌を繰り返し
敦賀(宗滴)vs大野(景鏡)の対立は取り返しのつかないところまでいったし
宗家に取って代わるチャンスが来たのだから当然の動きとも言える
- 363 :
- アゴは?
- 364 :
- 景健は義景が死んでから信長に降ったはず。
見捨てた…ことになるのかね?
- 365 :
- 島津家久が天正三年に上洛した時の日記で、里村紹巴や明智光秀等と晩飯だか食ってる時に
「朝倉の兵庫助といへる人くハ々り候」ってあったんだけど、これって朝倉景綱のことなのかな?
越前一向一揆から逃れて行方不明になって1年後くらい、この数ヶ月後に織田の越前再侵攻が
始まる頃だけど。家臣見捨てて脱出したあとは、坂本近辺か京にでもいたのかね。
- 366 :
- >>365
武士を捨てて生きていたのかな?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B6%B1
- 367 :
- 朝倉に仕えてた頃の富田長繁に暴走の前兆みたいなものは無かったんだろうか
- 368 :
- 福井県の大野に分家の末裔がいるよ
あと大阪の鶴見にも末裔がいる
- 369 :
- 兵庫にも
- 370 :
- 俺朝倉の子孫らしいよ
- 371 :
- 系図でもあんの?
- 372 :
- あるらしいけどあまり興味もなかったから見たことないんだよね
それにご先祖様が偽造していればそれまでだし
- 373 :
- 福井の教育委員会が系図の写真を撮っているはず。
不名誉である自殺者(?)のことも記されている。
- 374 :
- 親父に聞いた話だと信長との戦いに敗れた3男(←誰を指しているかわからん)
が富山の農民の地主のところに落ちのびて婿入りしたらしい
だから朝倉の名で残ってるのかわかんね
こういった話は残っているのかな、それとも嘘なんかね
- 375 :
- ちょうど聞く機会ができたから聞いて見たけど
昔の記憶と違ってたw
婿じゃなくて娘が嫁いできたそうだ
信長も関係ないし直系じゃなかったよw
- 376 :
- 朝倉宗滴話記の成立年代はいつ頃?
信長を過大評価してるから、天正年間??
- 377 :
- 朝倉義景の功績って
一乗谷に一大文化圏を築き上げたこと
若狭を支配下に置いたこと(武田元明を監禁した)
織田信治と森可成を敗死させたこと
これぐらいかな?Wiki見たかぎりではそうだけど
- 378 :
- それだけやってれば逆にすごいと思うよ
- 379 :
- >>377
加賀平定
信長包囲網の総大将を勤める
あと意外に思われるだろうが
刀根坂以外では負け戦らしい負け戦無し
- 380 :
- そこまで義景も酷くないんだな
なんか三国志の袁紹に似てる気がする
- 381 :
- >>379
加賀平定したの?一向一揆完全に押さえ込んだっけ?
- 382 :
- 全土は平定はしてないはず。宗滴が加賀のいくつかの城を取った事はあるね。
義景が湊川近くまで侵攻した事もあったかな。
- 383 :
- >>381 382
加賀全土を平定してはいないがかなりの城を落としてる。
ちなみに蓮如はあせって九州からも門徒を呼んだとか。
正式に講和してるが領土はちゃっかり広がってるので
事実上朝倉勝利、形式上引き分け?って感じか?
ちなみに加賀攻めでは宗滴が城を落とせなくて
業を煮やして義景が出陣して
あっというまにいくつもの城を落としてる。
意外と戦上手な義景。
- 384 :
- でも、義景の指揮の下に次々と城を陥落させたってゆうよりも、
当主の義景自らが出陣した事により、諸将や兵の士気が上がって
城攻略が上手くいったって感じなのかな?
義景自らが各城の弱点を見抜いて、作戦指揮したイメージが思い浮かばない。
お飾り的な役目だったのかな?
- 385 :
- 信長が、朝倉倒して、越前平定、代官設置、一向一揆蜂起!
朝倉の領内の一揆と共存していたのが明白。
ソーテキは、一揆を打倒していない。
加賀は一揆の持ち国だし、越中も富山とかほとんど一揆。
- 386 :
- 一揆という組織を解体し、その構成員だった豪族を支配化に入れることと、
組織自体をそのままに領国内に保全されることは別だと思うが。
- 387 :
- 我の強い一族、家臣、領民を束ね統治するのはかなりの苦労があったであろう。だが義景の代に大規模な
一揆は無く、謀反も堀江ぐらいしか起こらなかった。義景の統治能力はかなりのものであったと言える。
- 388 :
- まあ、俺も朝倉氏ファンなので義景には有能であって欲しいが、実際はどうなんだろうね・・・。
各郡司や優秀な一門勢が、各所に睨みを効かせて統治してたのが実際の姿なのかな。
義景自らが主導して行った政策や軍事行動で、目立ったものって何があるかな。
- 389 :
- 義景が自ら出陣した軍事行動全てが朝倉家の従来の基本姿勢とは相反するもの。
当主は出陣せず一族の誰かを軍奉行にして出陣させるのが朝倉家の基本姿勢。
それを崩して出陣したのはいろんな要因があるんだろうね。
一族の不和が主たる原因のようだけど。
- 390 :
- >>388
志賀の陣は信長が最も苦しんだ戦いでしょ。山上に陣取った相手を攻めるのは不利だし、退けば
後方から攻撃を受ける。進退窮まった信長は将軍と天皇に講和を仲介してもらって危機を脱した。
この時の憎しみが翌年の比叡山焼き討ちにつながる訳だが、志賀の陣って一般に殆ど知られてないよな…
- 391 :
- もちろん、朝倉家当主は代々基本的には前線には出陣しないとか、
志賀の陣で信長弟、坂井政尚等討ち取った事実も知ってるけど、
その働き自体は磯野とか、景健(景鏡?)の手柄だよね?
義昭の心が信長から離れていた時期とはいえ、義昭はまだ信長の庇護の元に
いたわけだから、講和を将軍家を介して持ちかけられる可能性を読めなかった、
天皇・将軍家への根回しを怠った朝倉・浅井の上層部の無能さというか、
先の読め無さが朝倉好きとしては、なんとも悔しいわけですよ。
- 392 :
- 信長が義景に土下座し天下譲りますって言ったってマジ?
- 393 :
- 三河物語だから信憑性はないけど当時の信長がそれぐらい苦しかったのは本当
- 394 :
- 左衛門督義景は性安寺宗淳居士(孝景)の一子で母は武田中務大輔の息女である。その頃天下で
有名な里瑞軒という学者をおかかえになり、学問をもっぱら勉強された。それで文書について明るく、
弓道は小笠原流をきわめられ、歌道は二条浄光院その外京都の公家がお教えになられた。それ故諸道に
明るくあられたので、禅や密教の寺院に到るまで、皆良い時代に生まれたと、その得をたたえ、
髪の結い方まで義景にまねするほど尊敬していた。 ≪朝倉始末記≫
- 395 :
- 生まれた時代がもう少し平穏な時代だったら、現代の評価もまた違ったものになっただろうに・・・。
- 396 :
- 朝倉が頑張ってたら今の福井の姿はないはず…
天下を狙える位置にいたはずなのに…
- 397 :
- 一向一揆が邪魔すぎる
- 398 :
- (大名みんなが天下を狙わなくちゃ)いかんのか?
- 399 :
- 至言だ この人を見よ
- 400 :
- 400
- 401 :
- 悔しいので、今からノブヤボで朝倉家で天下統一する
- 402 :
- 義景公をボンクラ大名として定着させた司馬遼太郎はゆるさん
- 403 :
- >>390
>志賀の陣は信長が最も苦しんだ戦いでしょ
これは事実だが、朝倉単独で苦しめたってわけではないに注意。
ちなみに志賀の対陣も後半になると、近江の一揆は蹴散らされて本国との連絡回復。
さらに六角氏と三好氏は信長と単独で講和したため、信長は後方の安全を確保、
逆に山上の朝倉浅井が孤立して包囲さらている形勢になった。そのため、朝倉ないし
浅井側から「詫言」を入れて講和を求めたが、信長が拒否した、という展開もあった。
最終的にはどちらも決め手に欠けて冬にもなったので、一時休戦のつもりで
朝廷による仲介で講和を結んだが、別に信長は講和を結ぶ前にすでに窮地は脱している。
- 404 :
- 朝倉!
- 405 :
- 志賀の陣も所詮馬鹿大名たる根拠になってしまったか
- 406 :
- >>403
朝倉側からの講和は初耳だ
ちなみに調停からの仲介の前に
信長からの講和を朝倉側が一度蹴ってるよ。
それと講和自体も朝倉陣営内で行われてるし、
先に陣を引いたのも信長の方だよ。
このことからも「一時休戦」程度ではないのは明白。
戦中に先に陣を引くなんてよっぽどのことがない限りできない。
普通の停戦と考えるのはかなり無理があると思うが・・・
- 407 :
- 講和した頃は苦しかったのは朝倉軍の方だろうね。この季節で山での陣はかなりこたえる。
多分、講和の話は義景にとっては助け舟だったに違いない
- 408 :
- >>406
先に陣を退いたから「一時休戦」ではない、という理屈がわからないな。
他の史料によれば、織田と朝倉はお互いが兵を退くまでの間の約定として、
それぞれの重臣の子を人質として預けあった、とある。
つまり、停戦条約の一環として、両者同時撤退となった。が、包囲しているのが織田側なのだから、
織田が先に兵を退いて包囲を解かなければ、朝倉も下山して撤退はできないのだから、この順番は当然。
この約束により、織田は包囲を解いたと無防備な状態て攻撃を受けることを、朝倉は下山して平地に
降りた状態で多数の織田から攻撃を受けないことを、それぞれ確約して撤退したと。
「一時停戦」の定義にもよるが、志賀の陣が解かれた翌年には両者あっさりと敵対行動を開始しているのだから、
このときに約束が終戦などではなく、手詰まりになった両者が一度国にもどって軍備を再準備再編成して
再戦するための猶予期間としか考えていなかったのが見て取れる。
例えるなら、織田と本願寺の第二回講和と同じ。両者とも万全の状態を整えてから攻勢をかける、その準備を
する為の一時停戦としか考えていなかった。
- 409 :
- >>408
ちょっと教えて欲しいんだけど
浅井朝倉軍が篭ってたの壷笠山ってのは当然知ってるよね?
当時の信長の軍勢でどうやって壷笠山に篭った浅井朝倉を包囲できたのか
ちょっと教えて欲しい。
それと浅井朝倉は包囲されながら
どうやって修学院とか一乗寺とか進出できたの?
あ、それと最大の謎は包囲されてるのに
堅田合戦で勝利しちゃったの?
包囲網かいくぐってさらに堅田進出して信長軍撃破?
- 410 :
- 志賀の陣の考察話面白いな
- 411 :
- >>409
朝倉浅井軍は別に包囲されてる状態じゃないな。朝倉浅井軍は北側、織田軍は南側に陣を構えてるだけ。
包囲されてるのに堅田がすぐに攻撃されるのは変だし、何より堅田に信長が援軍を出した時点で、その周辺が
朝倉方だったと物語っている
- 412 :
- 但馬の国造兵衛などを務めた日下部氏。大きく分けて2つ。
朝来郡日下部氏−天満、立脇、磯部
養父郡日下部氏−東河、三方、軽部、朝倉
朝倉氏から八木、小佐、土田、七美、
八木氏から奈佐、宿南、寺木、田公、越前朝倉
越前朝倉は八郎信高の流れではなく、八木氏より分家した
九郎左衛門高実の嫡子・太郎左衛門高重の弟・三郎左衛門高景が祖。
- 413 :
- 剣豪の富田流も朝倉家に仕えてたんだね。
- 414 :
- 息子の従軍実績はよく聞くけど、勢源の軍功ってあんまり聞いた事ないな。
- 415 :
- >>414
勢源は眼病を患って家督を譲ったらしいから、軍功はあまり無いのでは?
- 416 :
- 富田長繁が信長に人質に出した弟って誰か名前分からない?
- 417 :
- 英林孝景→宗滴の血を濃く受け継いだ子がいたら面白くなってただろうに
- 418 :
- 景紀は悪くなかったと思うんだが、養子だけど
- 419 :
- 城・砦総合スレが落ちてたので、ここで聞きます。
越前・今庄城について(越前一向一揆の拠点)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1435941689
越前・本荘城について(朝倉家臣・堀江氏の居城)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1035950635
些細な事でもわかりましたら、スレでも知恵袋でも構わないので教えて下さい。
- 420 :
- なんだ佐々木哲の六角からの養子説って仮説の上に仮説を重ねたもんでしかなかったのか
- 421 :
- 信玄て義景が勝手に撤退したことを非難する手紙出してるよな。
このチャンスに何やってんだ、判断誤るなとかなんとか。
その手紙出したわずか4か月後に信玄死亡してるんだよな。
持病あるくせに無理して出張ってきたせいで。
そして武田軍は勝手に撤退。
人の事言えねーだろ!!
- 422 :
- 朝倉アホすぎ
- 423 :
- お互い自力で抗う術がないのだから相手の行動非難したところで詮無き事だお( ^ω^)
劣勢な側はより綿密に連携していかねば勝機が掴めないというのに
大概は逆に足の引っ張り合いになるというオチ( ^ω^)
- 424 :
- 頼みの綱である武田軍がいなくなったらあっという間に滅亡したのが朝倉
自業自得である
- 425 :
- まあ、どこも各個撃破されたって点じゃ信長包囲網の連中なんて似たり寄ったりだけどね
- 426 :
- 滅亡間際から逆転できたのは運がいい奴だ
- 427 :
- いつ武田が頼もしい綱だったのやら
- 428 :
- >>425
各個撃破されるのは武田が引き返してから
あのまま進んでいたら後の織田はない
- 429 :
- あのまま進んでいたら武田も綻びが出ただろーな
- 430 :
- 攻められてるのは織田だからなぁ 結果ださなきゃ離反者を出して綻ぶぞ
- 431 :
- 「春になったら本気出す」
- 432 :
- 7月からずっと江北に在陣し織田軍の主力と対峙して、疲弊と積雪によって帰国した直後に
信玄から批難する書状が来たんだから義景も憤慨したことだろう。
- 433 :
- なに勝手に撤退してんだよ!!
/ ̄ ̄\ うるさいお!
/ノ( ゝ 、_,ノヽ r'´ ゙ヽ /`ヽ ____さっさと来いお!
| ⌒(( ●)(●) ヽ ヽ从从/ / \ /\
. | (__人__) /⌒l \ \/ /て (●)liil(●) ノ( \
| ` ⌒´ノ |`'''| 煤@ヽ/ / そ / (__人__) ⌒ \
/ ⌒ヽ } | | ,)/ / \ く | |!!il|!|!l| |
/ へ \ }__/ / / /\ \ \i⌒ヽェェ| /
/ / | ノ ノ / / YYY\ \ \ \ /⌒,/´
( _ ノ | \´ / / \ \ / \ \/ /l
| \_,/ / \ \_/ \__ノ |\
.| / \ |) )
ヽ / \ ,r' /
\ , '´ `' , /ー'′
\ ( ) /
\ \ / /
- 434 :
- 晴信ってセコいよね。史実では小物だし。
- 435 :
- 今日の昼のNHKで朝倉氏遺跡が放送されてたな
義景ネタは無かったけど
福井も柴田勝家ばかり持ち上げないで
朝倉で盛り上げればいいのに
- 436 :
- 基本的に義景が過分に愚君として描かれているのは
朝倉始末記に拠るところが大きいと思うのですが
これの史料価値(信憑性)ってどんなもんなんでしょ?
朝倉滅亡後に旧臣が作った記録だから
滅亡の要因を義景1人のせいに押し付けてるきらいがあるのではないでしょうか?
- 437 :
- そんなに義景を悪く書いてないよ始末記は。義景は優れた人物だったと書いてあるし、領民はその徳を大いに称えていたそうだ。
優柔不断なところこそあれ、巷で思われているような暗愚な君主じゃ決して無いね義景は
- 438 :
- 朝倉始末記は義景を文武両道だったってほめてる
- 439 :
- 軍人としては致命的欠点だな>優柔不断
- 440 :
- でも刀根の戦いは義景が拙かったわけじゃなくて、信長の追撃が凄まじかったわけだけどな。
織田の歴戦の武将たちでさえ殆どが遅れる有様だったし
- 441 :
- 六本木で朝倉遺跡の大宣伝始まったね
もう城跡は整備されてるのかな?
- 442 :
- 朝倉氏遺跡でガラス玉、工房出土 日本海交易に一石
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21099&storytopic=1
えらいもんが見つかったな、おい
- 443 :
- 朝倉家は100年続いたし凄いよ
京都の清水寺にある朝倉堂も朝倉家の寄進によるものでしょ
あの時代にそれだけの資金や権力があった証拠
上の方で朝倉始末記の信憑性うんぬん言ってる人おるけど、どの軍記も信憑性
なんてないし。
- 444 :
- 浅井長政は将軍家と天皇家の祖先として何かとマンセーされるのに比例して、朝倉義景はダメ君主の烙印を押され…
歴史は、後世の人が脚色して書くものであると感じざるをえない。
- 445 :
- 治世の名君ではあったかもね。
まあ、どこも滅びた大名は結果論でだめ君主の烙印押されちゃうのが常だから
- 446 :
- 直系であるバクさんオオワダさんバクさんがもう少しアピールすれば良いだけ
- 447 :
- >>432
敵と戦うのに人事みたいに言ってるな
そんなんだから滅ぼされるんだよ アホの朝倉は
- 448 :
- 弓の名人なんだっけ?
それに戦上手だし
意外と好戦的な人物だったのかもね。
最後も命乞いせず自ら命を絶ってるし
結構気骨のある人物だったのかねぇ。
- 449 :
- 雪が降るから帰るヘタレのどこに気骨があるのやら
- 450 :
- >>449
北陸の雪を舐めてるだろ
近江近辺から本拠に帰還するには、ほぼ1本道しかルートがないわけで
そこが雪で閉ざされたら退路・補給路を立たれたも同然じゃないか
- 451 :
- 福井ごときが雪降って動けんとか 雪国の中でも最下位の根性なしだなw
雪が溶けて出てきてみればまたもや撤退 そのまま追撃されアボーン
アホすぎる
- 452 :
- >>451
福井県
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%9C%8C
県内全域が日本海側気候で豪雪地帯(一部特別豪雪地帯)である。
特別豪雪地帯の大野市・勝山市・池田町・南越前町の旧今庄町は
全国屈指の積雪量であり、年間の降水量は多い時に3000mm以上に達する。
当時の輸送力・機動力も現在の感覚で考えるのが間違ってる
- 453 :
- >>451
ついでに前に他の人も書いてるけど
朝倉が追撃されて損害らしい被害を被ったのは
末期の末期である刀根坂の戦いのみ。
- 454 :
- 結局他人頼み 天候頼み いいわけばっかりで気骨のないヘタレだということだね
- 455 :
- >他人頼み
朝倉は誰か頼ったか?
包囲網の1人として「頼られた」のであって「頼った」のではない。
>天候頼み
天候を左右できる人物がいるなら孔明でも呼んで来てください。
- 456 :
- 連レスになるが
雪もさることながら、越前と近江という国で考えると
隣接していてさしたる距離がないように見えるが
浅井と朝倉の本拠地はかなり隔絶させた距離にある。
その中、家中の問題も抱えたまま出陣してくるだけでも気骨はあったほうだと思うが。
本当に腰抜けなら、ずっと援軍も出さず、さっさと降伏しちゃえばいいんだから
- 457 :
- 朝倉が頼られた? てめーが織田と最初から抗争中だろうがw
- 458 :
- >>457
おまえが「頼った」って書いたからだろ?
誰に何を頼ったんだよ。
浅井とかに「頼られた」事はあっても
朝倉が「頼った」事があるのかよ
天候・地理についても無知
戦歴についても無知
どこまで自分の無知を棚に上げてレスを連ねるのやら
- 459 :
- そうそう他人に頼られて一番に織田に潰されるアホウが朝倉だったんだよね
- 460 :
- 織田にも頼られて滅ぼされたのがルーピー朝倉
- 461 :
- こうやってレスみると
義影の方が他のやつより優れてるんじゃね?
少なくとも行動力は優れてるね。
なんせ義影は正面から堂々と信長と渡り合ってるからねぇ。
口だけばっかりの誰かさんよりはマシかなぁと。
- 462 :
- そんなこといってるのは基地外福井の朝倉厨だけです
- 463 :
- ID変えたのかな?
・福井(越前)が日本有数の豪雪地帯である事を知らない
柴田勝家が本能寺の後に後手後手に回ってるのも、これが影響してる。
・兵站、輸送の重要性を理解していない
んで、「雪くらいで撤退するヘタレ」とか馬鹿言ってる。
>一番に織田に滅ぼされてる
誰が?
もうちょっと勉強してからレスしろよ
本当にヘタレで気骨の欠片もないなら
浅井に援軍も出さないし、織田に抵抗しないでさっさと降伏してるよ。
まがりなりにも援軍を度々出して、包囲網の一端として活動してるだけマシ。
- 464 :
- ルーピーもしつけーな
朝倉がアホで間抜けなのは常識だっつーの
それを気骨があるだの行動力があるだの説得力の欠片もねーての
雪が降るからお家に帰るとかそんないいわけ通ると思ってんのか
- 465 :
- ルーピーって何だ?
>気骨があるだの行動力があるだの
別に他と比べて格段に決断力や気骨があるとは言っていない。
何も行動を起こさないままグズグズして改易されたような連中に比べれば
行動しただけマシだろうという話。
戦いに参加して敗者側になったってのは結果論でしかない。
>雪が降るからお家に帰る=説得力ない
だから兵站の重要性とか知らなかったり
越前が国内有数の雪国なのも知らないで「福井程度の雪国が〜」とか言っちゃたりする
自分の知能の足りなさは通ると思ってるの?w
- 466 :
- 相手するなよ、遊ばれてるだけだ
- 467 :
- 別に他と比べて格段に決断力や気骨があるとは言っていない。
やっと落ち着いてきたか そうそうその調子
- 468 :
- そもそも、そんな雪が大したこと無いなら
勝家は滝川一益や織田信孝が攻められてる時に何故兵を出せなかったのか考えないのかね。
雪の降る中えっさほいさと重い具足に身を固めて兵糧を運搬できたと思うのかね。
- 469 :
- っていうか雪が降ってるところから出るんじゃなくて
雪が降るから帰るっつってるのがルーピー朝倉厨だろ?
- 470 :
- >>469
だからルーピーって何?
>雪が降るから帰る
当たり前じゃねーの?雪が降ってからじゃ帰れないんだから
そんな事も想像できないのか?
雪国の大名は雪が降る前に戦を終えて帰るのが当たり前。
雪が降ってる間は出撃できないので休戦する。
どっちにしろ雪が降ってる中を輸送・出撃できないからの行動だろ
逆に雪が降ってる中、わざわざ隣国まで出撃した大名がいるなら教えてくれよ
(佐々くんは軍は率いてないからな)
- 471 :
- 雪が降ってる所に帰るって意味ねーだろ
雪かきしてかまくらでも作って遊んでる気か?
戦も終わってねーし わざわざ閉ざされる国許に帰る厭戦野郎に気骨も行動力もねぇよ
- 472 :
- >>471
「雪が降ってからでは帰国できないので、その前に帰る」って話をしてるんだが。
雪が降ってから帰国したってソースは?何の事を言ってるんだ?
そもそも戦が終わるか終わらないかを決めるのは誰基準で話してるんだ?
朝倉は浅井・武田らの要請によって援軍を出してるだけで
国許を御留守にしてまで全力投入する理由はこれっぽちもないんだが。
国許の情勢(反乱分子や一門との軋轢、隣国の警戒等)によって
戦の途中で軍を退くなんて事は信長だって謙信だって誰でもやってる事だろうがよ
- 473 :
- もう馬鹿らしいから相手しないけど
どうせ信長の野望でしか知識ないんだろ?
もうちょっと文献とか読んで自分の無知を補完してからレスしような。
〜今日の迷言〜
>福井ごときが雪降って動けんとか 雪国の中でも最下位の根性なしだなw
※福井県は日本有数の豪雪地帯です。
>結局他人頼み 天候頼み いいわけばっかりで気骨のないヘタレだということだね
※朝倉が誰を頼ったんでしょう??天候を理由に軍を引き上げる事なんて戦国では日常茶飯事です。
降雪の中出撃した奴がいたら、そいつはただの馬鹿です。
>朝倉が頼られた? てめーが織田と最初から抗争中だろうがw
※気骨がないのなら、織田とわざわざ敵対したり、援軍を出す必然性があったのでしょうか?矛盾してますね。
- 474 :
- 自分を守るために戦ってるのにも関わらず人から頼まれたから戦ってやってるんだって
頭いかれてるな 朝倉厨は
- 475 :
- 織田を味方とでも思ってたんじゃなかろうか?アホの朝倉は
じゃなきゃ頼まれたから嫌々出陣して滅亡しましたって最低の暗君だろう
まあどっちにしろルーピーなんだがw
- 476 :
- >>472
>朝倉は浅井・武田らの要請によって援軍を出してるだけで
浅井はともかく武田に関しては逆
朝倉と本願寺の方から武田に出兵を要請してる
信玄自身の書状に朝倉と本願寺の要請で出陣した事がはっきり書いてある
- 477 :
- 憶えたての単語を嬉々として連呼する文字通りのルーピーがいるスレ
- 478 :
- >>475 :
義景はそこそこ先見力はあったみたいですよ。
進んで島津家と、火縄銃の貿易も行っています。
戦が下手だったのは事実ですから、まあ暗君でしょうけどね
- 479 :
- >>478
戦下手の根拠を。
義景が軍を率いて大敗した戦って?
戦下手というよりも、家中の集権が前時代からうまくいってなくて
半独立の一門や重臣が多くて、完全に支配下に置けていなかった事が問題なのだと思う。
これは義景一人の責任ではない。
- 480 :
- ていうか、あの時代の武将って大半は現金だろ。有利な方につく。主君が滅びそうなら敵に寝返る。それが当たり前。
主君への忠義が強調されるのは、江戸時代になってからだし。
- 481 :
- >>478
戦は結構上手いほうだよ
加賀攻めなんかは義影自らが率いて城落としまくったし
堅田、坂本攻めももちろんのこと
基本的に負け戦らしい負けは刀根坂以外に見当たらないほど。
どうして義影が戦下手で暗君設定になってるのかが不思議なほど
- 482 :
- まあ主役は織田信長だからなぁ…。
直接滅ぼされた敵役は業績に関わらず暗君にされがちだよな。
ギリギリ例外は、徳川将軍家に血を残し、
「朝倉との盟約のため信長を裏切った」などと嘘くさい言い訳で、
同情を買った浅井家ぐらいか。
- 483 :
- 浅井長政は将軍家の外戚として、持ち上げられる傾向がいまだに強いんだよな。姉川合戦と呼ばれる戦いがいい例。
浅井軍は織田軍を次々と打ち破ったが、同盟軍の朝倉軍が敗れた為に敗走した…といった書き方がいまだにされてる。
- 484 :
- 天下人の先駆け信長に対する抵抗勢力+将軍家康の武功を嘉する為の踏み台
対陣中に家臣に寝返られたとか、重要な合戦を家臣に任せたとか、退陣が総崩れになって滅んだとか
よりクローズアップされやすいんだよな
- 485 :
- 信玄もなぜか戦国一の戦上手になってるけど
実際は有利な戦い以外はしない人だったしね(それはそれですごいんだけど)
義景は信長というよりも長政、信玄の二人から引き立て役にさせられて割くってる
そして上記3人は家康の引き立て役・・・
- 486 :
- 当時から戦上手の代名詞だから仕方ないと言えば仕方ない
- 487 :
- どっちにせよ対織田の最前線で何年も粘って見せ場を作って死んだ浅井よりも早く、
本拠地瞬殺で滅びた見せ場無しの惨めな最期がヘタレ感を高めてるよな
- 488 :
- >>487
その何年も粘った裏には朝倉の後方支援があったと何故考えないのかね。
朝倉が援軍出さないで静観決め込んでたら浅井なんてとっくに滅んでるよ
- 489 :
- 逆に言ったら、対浅井・織田戦線に軍事介入したが為に
莫大な戦費を負担し、国人衆や一門衆の不満が高まった末の自滅とも言えるからな。
- 490 :
- 戦国史を多少学べば、朝倉の軍事力で浅井長政は何とか保っていたことくらい判るだろうに。
浅井が滅んでも朝倉は終わりじゃないが、朝倉が滅んだら浅井は完全に終る
- 491 :
- 浅井が織田を裏切ってなければも朝倉はもっと粘れたんだね
- 492 :
- どう言い訳しても本国瞬殺の間抜け感は拭えない
孤立無援の小谷城攻防戦のような後世に語られる奮闘見せたのかね?
最後まで家臣団まとめて本城で果てた浅井に比べ、本拠地逃亡の上、身内に
襲われ自害ってあんた、ネタにもならない
- 493 :
- >>481
よく出てくる
どうしても朝倉がダメダメじゃないといけない君かな?
ちなみに浅井なんて合戦の最中にでさえ部下に裏切られてるぞw
坂本〜堅田あたり手筒山でのいきさつは後世に語れる奮闘どころの騒ぎじゃない。
ここまで信長を苦しめたヤツいるのか?ってくらいなんだがな。
まぁゲームの知識しかないと仕方ないわなw
- 494 :
- アンカーミス
>>492ね
- 495 :
- よくいるのは実は朝倉が名君じゃないと気が済まないバカだろ
坂本やら堅田にまで出張って戦えたのは浅井の力があってのことだろうに
もし浅井が信長についてれば、越前単独で近江にまで出兵出来る力があると
思ってんの?
それどころか金ガ崎陣で敦賀奪われ、そのまま滅亡してた可能性が大だったってことはスルーするのか?
- 496 :
- ちょwおまえw
浅井ってw
ネタだとはわかってたけど・・・
いくらなんでも浅井と比べられるのは義景もかわいそうだ。
- 497 :
- ??
何を言いたいのか意味不明だが
あっという間に敦賀まで奪われ、さあ後は滅亡を待つだけだったという
朝倉についてお前はどう考えてんの?
まさか浅井が足引っ張ったとか言い出すのか?
- 498 :
- 柴田もそうだけど、越前兵は逃亡癖があるのか、本国に
攻め込まれたら光速で滅びるよねw
- 499 :
- ???意味不明なのはそっちじゃね?
つぅかタラレバで話すすめられても訳わからんよ?
可哀想だから話し合わせると、まぁその後一気に滅ぶかもしれないし
下手に遠征しなくてよい分もっと長く抵抗できるかもしれんし
(こっちのが可能性としては高いけど義影は暗君で絶対に一瞬で滅びないといけない設定になってるんだったっけ?)
タラレバありなら手筒山で信長の首切ってたら?どうなってた?
暗君で絶対に一瞬で滅ぶ君の脳内設定は抜きにしたらw
- 500 :
- >>499
例えば何の根拠も示さずに武将としての質を
>いくらなんでも浅井と比べられるのは義景もかわいそうだ
などと言ってみたり、最重要拠点の金ヶ崎を数日で失い、浅井の援護で
奪回出来た「事実」を無視して、信長を単独で最も苦しめたかのような
物言いの方が、よっぽど可哀想な信者に見えるけどね
- 501 :
- 妄想はいいからw
一個ずつ確実に話すすめようぜ
で?手筒山のタラレバは?
- 502 :
- ちなみに
妄想って
>重要拠点の金ヶ崎を数日で失い、浅井の援護で
奪回出来た「事実」を無視して、信長を単独で最も苦しめたかのような
物言い
これのことねw
誰かこんなカキコしてるか?
そうと取れるようなカキコすらないけどw
俺は書き込んだ覚えないし一体誰と話してんの?w
それと根拠も出てるぞ
もっとよく読めよぉw
早くゲームに戻るんだw
- 503 :
- だから、まずは
>いくらなんでも浅井と比べられるのは義景もかわいそうだ
の根拠を複数上げろよ
それから、敦賀全郡を2日で失ったにも関わらず、
>下手に遠征しなくてよい分もっと長く抵抗できるかもしれん
の根拠及び、奥地にいながら浅井より早くに滅びたことに対する感想及び
>ここまで信長を苦しめたヤツいるのか?
の論拠もな、朝倉単独で苦しめたことを証明しないとダメだぞ
お前の主張は理由付け無しの感想文に過ぎない
- 504 :
- 質問ばっかりだな
ちゃんと自分も答えてから質問しましょうねw
- 505 :
- 今更言うまでもないが
長政の無能ブリを少し書いてみよう
家臣からの援軍要請を裏切りと勘違い
逆切れして家臣の家族ぶっR
合戦の最中にありながら武功一番の磯野に裏切られるw
ここまで派手に裏切られるやつ戦国時代に他にいるか?
とにかく武功も政治的にも外交的にも
ほとんど何もしていない・・・
逆に長政が優秀なら何が優秀なのか俺が教えて欲しいわw
- 506 :
- いつも定期的に現れて
言い負かされてくやつかな?
過去レス参照w
もう少し知識もそうなんだけど
設定を変えたらどうかな?
それじゃいつまでたっても論破できないよ
とにかく朝倉をダメダメにしたいなら
浅井なんかを出してきちゃダメだって
信長か信玄あたりもって来なくちゃね。
信長を出せばどっちみち信長に負けてる(滅ぼされてる)んだから
絶対に勝てるよ!
とにかく一度ダメダメの浅井の設定を忘れるべきw
- 507 :
- いつまで工作しても一向に評価が上がらない朝倉マンセー厨はもはや痛々しいなw
信長や信玄などと同じ土俵に乗れる存在ではないのは当然として、浅井と比べても
明智や義昭は利用出来ないわ、決戦には出向かないわ、本拠地は捨てるわ、従兄弟に襲われ死ぬわ、
救いようのない暗愚ていう評価は覆えられないのにw
来年の大河ドラマでも義景登場シーンは金粉ドクロ姿だけだろうなw
- 508 :
- 工作ってw
いつも一方的に朝倉は瞬殺された
そして義に厚い名君浅井!
とのたまってるのを否定されてるだけじゃんw
朝倉は長い戦いの末の最後の最後に裏切られたわけだが
戦いの最中に裏切られた長政はもっとヘタレってことだね?w
おっとそれなら戦もしてないのに裏切られた信長はどうなんだ?www
- 509 :
- 金ヶ崎の時に浅井が裏切ってなければ、朝倉が滅んでたとかアホかよ。まるで「信玄や謙信が
長生きしてれば天下を取っていた」みたいなタラレバだな。
- 510 :
- だからそう思う根拠を上げろよw
敦賀が2日で落ちて、木の芽峠進軍が始まってるのに、
どこからそんな自信が湧いてくるんだw
浅井は大人しくしとけば生き残る道はあったが、朝倉は100%不可能
- 511 :
- たとえ話で申し訳ないが
例えばサッカーって試合90分あるじゃん?
例えば1対0でもいいけどさ
シュートが決まった部分だけを持ち出して
1秒で試合決まった!!
相手弱い!って言ってるのと同じってこと気がつかないかな?
頭悪そうだからたとえ話にしてあげた
ちなみに
信長が出陣したのは4月20日
金ヶ崎が開場したのは(いかにも城を攻め落としたかのように言い張ってるがw)
4月の26日ねw
まぁ6日でも早いんだけど
その前の日に両軍乱れての攻防戦があって(両軍あわせて死者数千人といわれている)
だからそんなに簡単に落ちてるわけでもない。
それと信長軍の大半以上は反朝倉の若狭衆ね
当時若狭武田氏を幽閉していたため。
金ヶ崎の戦いは
信長&家康&若狭衆VS朝倉軍敦賀守備隊のみの戦いね。
君の言葉を使わせてもらうと
さて信長軍だけでどうやって二日間でw金ヶ崎を落としたのか根拠を教えてくれよw
それか浅井・・って浅井はどうでもいいかw
アホの君に俺が正しい歴史を教えるスレになってるがなw
- 512 :
- >>511
お前底無しのアホだな
信長は「京を」20日に出たのであって、関峠を越えて朝倉領に入って2日で
金ヶ崎は落ちてる。
死者数千なんてのもアホのたわごと。1日2日の戦闘で死者数千なんて大規模合戦、
地形や守護兵の数からしてあり得ない。
しかも総勢3万以上の信長軍の大半が石高8万石の若狭衆とは恐れいる
若狭にどれだけ動員兵がいるんだよw
さらに浅井援軍の知らせが入る前には、信長軍は越前府中からたった20kmの位置に迫ってる
付け焼き刃の知識をいくら披露してもムダだよw
- 513 :
- 単純に考えて一乗谷の防御程度じゃ織田徳川の大軍防げないと
思うけどどうするつもりだったのかな。
武生まで落ちたらもう終わりだと思う。
- 514 :
- >>512
信長軍は木の芽峠超えてたのか。こりゃ初耳だわwww
- 515 :
- >>514
既に明智や徳川などの先発隊数千は木の芽峠を登ってる
対する朝倉は鉢伏山城などに若干兵を残してるが、主力は府中に引き上げ、とても防げる状況ではない
信長公記にも、その日の内に府中に軍勢がなだれ込む勢いであったとされてる
ちなみに木の芽峠ピークからいわゆる武生入り口までは約20数km
- 516 :
- >>495
横からだけど、俺は名君とも思わないが愚君とも思わない。
それなりの人物ではあったが、歴史的に敗者となった為に
過分に低評価されてる人物だとは思うけど。(武田勝頼とかと同じ)
>出張って戦えたのは浅井のおかげ
浅井が兵糧とか全部負担してくれたんでしょうか?
わざわざ国内の物資を使い、
内紛状態で家中の統率もままならない(これは義景1人の責任ではなく親父・祖父の代からのツケ)状態で
遠征してるだけ凄いと思うが。
本当の馬鹿殿なら、遠征どうこう以前に一族に廃されて終わりだよ。
>それどころか金ガ崎陣で敦賀奪われ、そのまま滅亡してた可能性が大
根拠が薄い。
城が1つ落とされただけの金ヶ崎と、ほぼ総力戦の決戦で敗れた後の刀根坂とでは
状況がまるで違う。
信長の当時の周囲をとりまく状況からしても浅井が寝返らなくても
そう易々とそのまま本拠まで織田が攻めきれたとは思えない。朝倉の余力もまだあっただろうし
そこまで織田も全力投入できる状況ではなかった。
- 517 :
- >>507
>明智や義昭は利用出来ないわ、
これこそ歴史を後から見た現代人の「たられば」でしょう。
当時、実際に義昭を立てて上洛しようなんて考えた奴がどれだけいたか。
信長がたまたま歴史上、そういう偉業を成し遂げたってだけで
義昭が頼ったのは朝倉だけじゃない。
他にも頼った大名は山ほどいるが、当時の三好に対抗できるだけの勢力がなかっただけの話。
>決戦には出向かないわ
「決戦」の定義も後から歴史を評価する現代人の考えだよね。
当時の人にとってみれば、どの程度の規模の戦に発展するのか
また、その勝敗がどれだけの結果を招くのか、予想するのは難しいだろう。
全ての合戦に当主自ら出張る必然性はない。
それで死んだ龍造寺隆信や今川義元は義景以下という評価になるのかな?
>本拠地は捨てるわ
>従兄弟に襲われ死ぬわ
武田の最後を見てもわかるように、滅亡間近ともなれば
一番信用できないのは一族なのだよ。
何とか血筋を残そうと現当主を殺して、一門が残るってのは戦国では日常茶飯事。
- 518 :
- >>516
余力を残してると言っても朝倉側に具体的な本土防衛策があったとは思えないな
敦賀全域を奪われ、木の芽峠から義景主力が引き返して、どこで防衛するつもりだったんだ?
小田原や小谷のような長期籠城に耐える堅固さは一乗谷館には無いし、出城も小さいのばかり
家臣団は一枚岩でもなく、単独で野外決戦に及べるかも疑問
それこそ国内に攻めこまれたら、六角や武田と同じく余力を残したあっけない最期になった可能性は高いと見る
- 519 :
- あと、金ヶ崎があっけなく落ちたから本拠で迎撃できるとも思えないってのも
ちょっと無理がある。
あくまで金ヶ崎は1支城であって、そこで朝倉主力が壊滅的敗退をしたという記録はない。
>>450とか>>456とかでも書いたけど
立地的にも金ヶ崎辺りと本拠の一乗谷の辺りは
かなり離れている。
急襲された場合、とても本拠から援軍が間に合う距離じゃない。
勢力的にも一門・重臣の主力部隊は越前北部に多くが本拠を構えており
金ヶ崎の国境辺りは半独立状態の国人衆や、若狭武田氏の影響力が残っていて
そんなに守りやすい土地ではない。
- 520 :
- >>519
そもそも信長による敦賀急襲を予見するだけの情報網を持っていなかったこと、
織田に加え、徳川までもが総大将自ら出向く戦いを、自分が出ばる必要もないと
考えたこと、喉元にあたる木の芽峠に陣を張らず引き上げたこと、
どれも当時から見て到底良将ではないと思うが
現に同時代人で義景が名将と評価した人物どれだけいるの?
- 521 :
- >そもそも信長による敦賀急襲を予見するだけの情報網を持っていなかったこと
信長軍の急襲を事前に予見して対処した大名がどれだけいたの?
>織田に加え、徳川までもが総大将自ら出向く戦いを
だから、それも後者の歴史を知っている我々の結果論であって
そこまでの戦に発展するとは思っていなかったんでしょ。
信長・家康が主力を率いて進軍中!って情報が届いてれば
そら対応も変わっただろうけどさ
当時の情報伝達能力を現代視点で見るのはおかしい。
>現に同時代人で義景が名将と評価した人物どれだけいるの?
逆に暗君だと同時代人で評価した人は?信玄の文句以外で。
そもそも「当時の評価」なんて、現代の研究でいろいろわかってくる以前の評価なんだから
あてになるわけないでしょ。
信長や信玄が「名将」と当時の人に評価されたのだって
多くは「後に」天下を取った秀吉や家康に都合のいいように脚色されてる部分が多いわけで。
- 522 :
- 信玄って、本願寺と結んで上杉と朝倉の北陸出兵を悉く妨害した経緯があるんだからなぁ。
しかも、織田とも婚姻関係だった。どう見ても朝倉と武田が仲がいいとは思えない
- 523 :
- >信長軍の急襲を事前に予見して対処した大名がどれだけいたの?
上洛命令断るという宣戦布告を自らしといて、いきなり攻められた!とか
驚いてんのか?叡山の坊主並みの危機感の無さだな
>そこまでの戦に発展するとは思っていなかったんでしょ
これまた信長の強大さと行動パターン全く把握してない間抜けさ
盾となる浅井が滅べば、次は自分という意識が無い
信雄を盾とした小牧の陣に家康が出陣しないくらいあり得ない判断
>逆に暗君だと同時代人で評価した人は?
信玄や謙信はもちろん、一角の武将なら講談レベルとは言えど、武訓の一つでも残してる
義景になんか人々に語られるような話あったっけ?
- 524 :
- お前らいつまでヒマなことやってんだよw
朝倉義景は凡将でとくに語ることもないから4年間で半分しかスレ
伸びねえんだろ、それだけ
- 525 :
- 刀根坂で敵に捕らわれた印牧弥六佐衛門という武将が、信長に助命の上に本領も安堵すると言われたが義景を裏切れないと
拒んで自害して果てた話とか、同じく刀根坂で死んだ鳥居某の親が「義景は慈悲深い大将であり、我が子の死は光栄」みたいな
事を言っている。義景自刃後に信長に護送されていく義景の母と妻子を見て、領民たちは涙を流したという。
これらは全て朝倉義景に批判的な朝倉始末記に書かれている
- 526 :
- >>523の知識の浅はかさが知れる
いちいち反論するまでもない
おまえが朝倉氏に関する本を何冊読んだ事があるのか言って見ろよ
本当、コーエーの武将ファイルくらいの知識しかないだろ
- 527 :
- 反論するまでもないって書いといて
すぐさま何だよ、と思われるだろうけど
まあ、大体次の展開が読めるので一応、反論きちんとしとくわ
>上洛命令断るという宣戦布告を自らしといて、いきなり攻められた!とか
「上洛しろよ」ってのは事実上、「支配下につけよ」って信長の降伏勧告なわけで
それを断るのは当たり前。
後の時代になるけど、秀吉も「上洛しろよ」って徳川や長宗我部や島津や北条に命令してるけど
結局、誰もすぐに上洛してないよね?
それを「田舎大名が時勢を読めなかった」と評価するのは現在の歴史を知った我々の価値観であって
当時の情報伝達能力のレベルの違いもあるし
そもそも権力者から「上洛しろ」って言われてホイホイ当主が赴くようじゃ
一気に支配権力の地盤が緩んで相手に吸収合併されるのを認めるようなもんだから
みんな一戦交えてから和睦なり降伏なりしてるわけ。その方が何もしないで降伏するより
名分もたつし、結果的に地元の支配力を落さないまま降れるから。
朝倉の場合は間に挟んでた浅井が織田と友好関係にあったんだから
まさかすぐに攻めてはこないだろうって思ってたんだろ。
朝倉の予見が甘かったというより、信長が交渉の余地をほぼ与えないで
急襲したからこその金ヶ崎陥落であり、浅井の離反という結果を招いてるわけで。
>盾となる浅井が滅べば、次は自分という意識が無い
本当、ゲーム脳だな
>信雄を盾とした小牧の陣に家康が出陣しないくらいあり得ない判断
小牧・長久手は信雄VS秀吉の戦いではありません。
信雄は神輿。楯になるのは名目だけ。
実質的な動員戦力はほとんど徳川勢だけで
秀吉が事実上の交戦相手として睨んでいたのは徳川です。
つまり秀吉VS徳川の戦いであって、それに家康が出向くのは当たり前だろ。
>講談レベル
講談は講談。それ以下でもそれ以上でもない。
それを客観的史実・背景と混同してはならない。
講談などで逸話が残る人物というのは日本の戦国時代でいうなら
徳川・豊臣・織田ら一度は事実上の政権を取った勢力の人物と
それらの対抗馬として描かれる勢力だけ。
信玄も謙信も「強かったけど結局は織田に負けました」って結論ありきで
持ち上げられてる部分が大半。
講談や軍記物で描かれる権力者に対する敗者というのは
そのように持ち上げるけど、結局は勝てませんでした、という勝者の添え物的演出であったり
逆に過大に権力者を持ち上げる為に酷評されたりと、そういう描かれ方しかしない。
講談とか脚色されたものだけではなく、きちんと時代背景や歴史、地理などを学んだ上で
客観的に判断しろよ。
- 528 :
- 523じゃ無いけど、マイナー武将についての本書く人は、
大抵思い込み激しくて史料の贔屓読みや美化が激しいから、評価について丸飲み出来ないよ。
郷土史家とか地方大学研究者がわざわざ朝倉愚将論なんて主張しないでしょ。
- 529 :
- じゃあ、朝倉愚将論なんて誰が唱えてるの?
少なくともネットの有象無象よりは、地方大学の教授の方がきちんと調べて物言ってると思うけど
- 530 :
- >>527
何時間も必死で調べてその程度の知識披露か、知能レベルがわかるな
>後の時代になるけど、秀吉も「上洛しろよ」って徳川や長宗我部や島津や北条に命令してるけど
> 結局、誰もすぐに上洛してないよね
これら全て中央から遠かったり、緩衝地帯があったり、そもそも100万石クラスの大大名揃い。
50万石にも満たず、国内に不安を抱え、信長に対するカードも持たない朝倉家が同じ態度をとれば
どうなるか。断るなら断るで関ヶ原後の島津家のように、国境を全て閉ざし、臨戦態勢を取って当たり前。
それにも関わらず、国境はゆるゆる、援軍さえ一族の支城に送れず見殺し、後は国土が荒廃する本土決戦上等では、
到底良将とは言えない。
>本当、ゲーム脳だな
浅井が滅んで越前の倍の石高を誇る近江が完全に信長の手に落ちればどうなるか。常に余呉から栃の木峠への圧迫を
受けることになる。栃の木峠が抜かれれば即座に滅亡の危機に陥るのは柴田を見ても明らか。柴田も湖北を失って、
防衛線を下げざるを得なくなり、結局滅んでる。湖北の戦略上の重要さがわからないとゲームもクリア出来ないぞw
>小牧・長久手は信雄VS秀吉の戦いではありません。
こんな珍論は初耳だな。信孝殺害後、秀吉に取ってもっとも消しておきたいのは信雄。それゆえ、三井寺会談以降、周到な
工作で信雄との戦に持っていった。形式上は、家康は信雄の加勢。それ故、秀吉と信雄が講和した段階で、家康も兵を
引いてる。それに、信雄軍は伊勢、伊賀で秀吉軍と常に戦っているが?まさか、小牧周辺だけが戦場と思ってないよな?
- 531 :
- 少なくとも秀吉と戦った頃の徳川や長曽我部は『100万石クラス』ではない。
長曽我部に至っては緩衝地帯もない。
君の理論だと、島津だって長曽我部が滅べば次は自分だってわかって当然だし、
北条だって徳川が降伏したら次は自分だってわかって当然
島津も長曽我部も北条も中央に抵抗した勢力はすべて無能という事になる
- 532 :
- いや、駿遠三甲信を制していた家康は120万石はあっただろう。
長曽我部にしても、太閤検地換算で約80万石、土佐の石高は怪しいので
事実上90万石クラスか。さらに海に囲まれてるという地の利もある。
徳川やら島津は敵の足元見て外交で生き残ったが、朝倉の対信長戦略はどういう
つもりだったのか、北条氏政同様戦う敵を甘く見ていたとしか思えない
- 533 :
- 事実はどうだか怪しいが、姉川の戦いで朝倉軍が率いたとされる軍勢が約一万。
小牧・長久手で戦後に働き手がなくなって国力が疲弊しまくったくらい
無茶な徴兵した徳川軍が
約一万五千。
四国討伐の時の長曽我部勢の総兵力も一万五千〜六千。
慶長年間の駿河の国高が十五万石、三河が二十九万石、遠江が二十五万五千石。
どちらも『百万石クラス』とは言い難い。
また、浅井もそうだか、
いわゆる『信長包囲網』と呼ばれた連中たちは
それぞれが信長と敵対姿勢を示してれば、いずれ広い領地を維持できなくなるだろうという甘い目算があり
積極的に討ってでたのは武田くらい。
すべての大名が領地拡大や天下統一を目指していたわけではなく
多くが自国を維持できれば、それでよし、という考え方。
結果的に、朝廷や建前だけの和睦を繰り返し、
各個撃破された歴史を我々は知っているから
何故、もっと積極的に動かないのか、などと言えるが
当時の多くの旧勢力の大名の支配体制や在地勢力の地盤に根差した行動を知れば、
信玄や信長が異端なのであり、
そんなゲームみたいに情報を把握して連携とるみたいな事はできないという
当然の結論に至るわけだが。
- 534 :
- あと朝倉スレだから余談だけど、北条だってただグズグズしてたわけじゃない。
徳川という縁戚も隣にいたし、信長の時代から中央とは綿密に外交を重ねている。
小田原攻めは半ば秀吉の因縁ではじまったようなもの。
徳川を攻めきれずに降伏という形で勢力を残した以上、
それと親密な関係にある北条を残しておいては
いつまた手を結ばれて反旗を翻されるかわからないから
氏政が上洛しようがしまいが、取り潰す気が満々だったのは目に見えてる。
北条氏政・氏照なんかも過小評価武将のいい例だよ。
重ねていうけど
信長・秀吉・ 家康みたいな連中と比べれば
大概の連中は敗れた時点で『凡君』なわけで
それはほとんどの連中に当て嵌まる。
朝倉や北条だけが『愚将』とされる理屈にはならない。
- 535 :
- 説明補足
義景が一乗谷を捨てて北部へ逃げたのは
もともと朝倉は加賀の一向門徒を敵対者として
重臣や一門を北部に配していたわけで
当然、主力は一乗谷ではなく越前北部にあるわけだ。
君主のいるとこが必ずしも兵力が多いとは限らない。
織田と敵対したなら、すぐさま主力を近江側に移せばいいだろ、と
またゲーム脳で返されるかもしれないが
朝倉は一門集や重臣の独立性が高かった事や
長年支配した土地を離れて別へ行けというのは
同じ国内であろうとも
徳川時代の移封政策と同じように移動する側には
大きな負担になるわけで、余程の強権を振りかざさない限り在地性を奪うのは無理なんだよ。
ましてや先々代から当主の権限が弱まってた朝倉じゃあね。
- 536 :
- あの時代の武将って大半が有利なほうにつくという考えの元に行動してると思うけどな。
主君のために最後まで戦う、なんて所詮理想像にすぎない
- 537 :
- だから忠臣の話が目立つわけで
- 538 :
- 真柄さんとか頑張ったのにね(´・ω・`)
- 539 :
- ( ´゚ω゚` )
- 540 :
- 仕方なかった、やむを得ない、他も同じ、官僚みたいな言い訳ばっかだな朝倉オタは
地元民からも見捨てられてる義景なんか擁護するより、さっさと浅井の嫁と娘利用して
観光振興でもする方が生活が豊かになるぞ
- 541 :
- 夜を徹して熱く語り合っていたのか!
参加したかったネ!
- 542 :
- >>538
真柄さんは越前では金ヶ崎寄りに勢力をもった半独立勢力。
徳川の引立て役として豪勇の士しされてるけど、さほど戦歴はない。
>>540
君のいい加減な推測に細かく数字出して教えてやったのに言い訳ばかりとか…もう言う事ないね(失笑)
なんでも〜厨をつけてまとめればいいと思ってるのか
じゃあ、引用させてもらうよ
さすが『福井ごときの雪で撤退とか、ありえねえ』とか無知をひけらかしたり、『長曽我部は百万石』とか、『地方領主の在地性も知らず、兵を動かせばいいだろとかゲーム脳で考える』とか
武将ファイルの知識だけで物語るゲーム厨らしい発想ですね笑
『で、朝倉氏関連の書籍何冊読んだ事あんの?』も見事にスルーしたし(笑)
- 543 :
- あと、別に俺は得に朝倉が好きなわけでも
福井出身なわけでもない
強いて言うなら、ゲームや講談で不当にイメージを曲げさせられてる人物の事績を調べるのが好きなだけ。
北条とか今川とか六角とかね。
例え話に信長や謙信や信玄とかメジャーどこしか出さないゲーム脳には知識追いつかないんだろうけどさ(笑)
- 544 :
- 別に不当でもなんでもないお( ^ω^)
北条や朝倉が有能なら打ち勝った家なんて神の領域になってしまうお( ^ω^)
- 545 :
- >>542
底無しのアホとはお前のことだな
>無茶な徴兵した徳川軍が 約一万五千。
>慶長年間の駿河の国高が十五万石、三河が二十九万石、遠江が二十五万五千石。
> どちらも『百万石クラス』とは言い難い
この一文だけでテストなら即Fがつく。
秀吉と対峙した段階の家康が甲斐や、南信に領地を持ってないと思ってるとは。
議論を始めるならもっと基礎的なこと覚えてから来た方がいいよw
- 546 :
- >>544
北条や朝倉が有能だとは一言も言っていないのだが。
朝倉愚将論なんて誰が言ってるの?著名な研究者で?って聞いてるの。
>>545
書き忘れたから、どうせ突っ込んでくるだろうなとは思ったけども。
甲斐は武田滅亡〜北条との抗争と戦い続きで、国土が荒れ果てろくに徴兵できるような状態じゃない。
信濃は北部は上杉領、徳川の後押しがあったとは言え、武田に滅ぼされた小笠原やら諏訪などの旧勢力が再興したばかりで
徳川の直接的な戦力にはならない。
慶長年間の信濃の石高が全体で48万8000石、甲斐が22万7000石。
どちらも安定期に入ってからの総石高なので
当然、甲斐はもっと収入は少なかっただろうし(そもそもが穴山氏の遺児を立てなきゃならないくらい完全に徳川の支配地とはなっていない)
信濃も上杉・真田などの諸勢力が分割していたわけで、全て徳川領であったわけではない。
それらを鑑みても「百万石クラス」ではない。
そもそも前田の加賀百万石だってかなり誇張が入ってるのに
関東移封前の徳川や四国を完全統一できなかった長宗我部が「100万石クラス」とは認識違いも甚だしい。
前述した小牧・長久手の徳川や四国征伐時の長宗我部の動員数は
秀吉軍の襲来を受けて、「国力が疲弊する程のかなり無茶な徴兵をかけて」総兵力が、この程度なわけ。
本当、揚げ足取りばかりで底なしのアホの相手をするのは疲れるわ
自分にとって都合の悪い部分はまるっとスルーするんだから
- 547 :
- しかも、
>地方領主の在地性も知らず
こんなものはどこでも似たような事情抱えてる
北近江など寺社領やら六角系の地侍領やら、新興勢力の浅井がまとめるのに
越前よりも遥かに困難な事情があるにも抱わらず、国内をまとめ、朝倉より長持ちしてる。
さらに、波多野や山名みたいな数万石の小領主でさえ、家臣まとめて信長軍と渡り合ってる。
本願寺、雑賀衆など朝倉より遥かに武力に劣る勢力も散々信長を苦しめてる。
それで、50万石級の領土持ってた朝倉が、石高や家格に見合った奮戦を単独で見せたという立証は
いつしてくれるんだ?国内事情で動けず滅びたのは仕方ないというなら、今川氏真も名将になるぞ。
- 548 :
- 1・「おまえは朝倉氏関連の本を何冊読んだ事あるの?冊数と書籍名を答えてみな」
2・「長宗我部が100万石クラスの大名」とか何寝ぼけてた事言ってるの?根拠は?
3・越前(福井)が豪雪地帯である事も知らない、兵站の重要性も知らない、
大名はみんな天下統一を目指して外征するものだと思ってるゲーム脳、
国人領主の在地性も理解しないで簡単に主力を配置すればいいとか言っちゃうゲーム脳、
(そもそもおまえが例えに出した島津とでは立地条件も政治状況もまるで違う。
島津は後顧の憂いが無い状態で、渡海地点だけを重点的に守ればいいが
朝倉は一時的な和睦状態とはいえ、宿敵である一揆衆を内外にはらんでいたし
その関係から主力は越前北部に置かざるを得なかった事情がある。その為の緩衝地帯として浅井の存在があったわけで)
とりあえず、おまえがスルーしたとこ「一部だけ」だけどまとめといたよ
- 549 :
- >どちらも安定期に入ってからの総石高なので
>当然、甲斐はもっと収入は少なかっただろうし
>それらを鑑みても「百万石クラス」ではない。
どこの妄想からそんな空論持ってくるんだw
その理論なら駿遠三70万石に加え、甲斐と南信濃併せて20~25万石以下しか無いのか
信玄もびっくりするわなw
さらに、長曽我部の領土については研究者によって見解が分かれてるので、便宜的に
太閤検地の四国4国併せただけだが?正式な石高分かるなら早く学会発表してくれ
- 550 :
- >こんなものはどこでも似たような事情抱えてる
知ってるよ。本能寺の時に毛利が追撃しなかったのも同じ理由だしな。
後付けで秀吉に敵対しても利がないから、とかそれらしい理屈つけてるけど
実際は国人衆の動員が難しい状況だったからだし。
だから、それが「当たり前」なのであって信長のように全国へ戦線を拡大して
あっちこっちに軍を動かせる方が少なかったのに
信長基準で「主力を動かせばいいのに馬鹿じゃねえの」とか言ってる浅知恵を指摘してるわけ。
>朝倉より長持ちしてる
>波多野や山名みたいな数万石の小領主でさえ
浅井・山名・波多野は北近江を守ってればいいだけ。朝倉は近江まで「遠征」し続けなければならなかった。
この違いわかる?どっちが消耗激しいか子供でも理解できるだろ。
あと丹波代表を「波多野」にしちゃうあたりがゲーム脳だよな〜当時の実質的支配者は赤井氏で
動員兵数もこっちの方が多いんだ。だからろくに波多野の記録なんか残っちゃいない。
>本願寺、雑賀衆など朝倉より遥かに武力に劣る勢力も散々信長を苦しめてる。
基本、彼らは「国を統治する」という概念がなくゲリラ戦だけやってればいいのだからな。
一般の大名勢力と比較するのが間違ってる。これまた宗教勢力と大名を同一に見ちゃうゲーム脳の著しい症状。
>石高や家格に見合った奮戦を単独で見せたという立証
・織田にすぐさま降伏しなかった。
・浅井を長年援軍派遣させて保たせた。決定的な敗北戦は刀根坂の戦いだけ。
逆に浅井が朝倉の支援なしで信長と戦い続けられたのか立証してみろよ。
>国内事情で動けず滅びたのは仕方ないというなら、今川氏真も名将になるぞ。
俺は朝倉も氏真も「名将」だなんて一言も言っていないが。
そもそも大将や主力級の大将達がほぼ壊滅的な被害を受けて死んだ桶狭間以後
8年も徳川・武田相手にまがりなりにも国を維持しただけでも、凡君であったとしても愚将ではない。
あの敗北の後ですぐに挽回して徳川や武田潰しに遠征できる状況でないのは
桶狭間を詳しく知ればわかるはず。義元が仮に生還したとしても、率いた大将クラスが総じて戦死してるわけで
以後の難局を乗り越えられたとは思えない。
本当に浅知恵だな
- 551 :
- >>548
お前、誰を相手に戦ってるんだ?
同一人物で無い人間をひとまとめにして、自分脳内の知識が無いとか、
>大名はみんな天下統一を目指して外征するものだと思ってるゲーム脳、
書かれて無いことも自己創造したり、
>ゲーム脳
同じボキャブラリー、しかも数年前に流行った何の科学的根拠も無い用語振りまわしたり
もうちょっと知性を磨いてから来なさい
- 552 :
- >>549
じゃあ、動員兵力等から逆算して、当時の徳川が100万石クラスだったと
おまえが立証してみろよ、こっちは数字だしてんのに
空想だけで話してんのは貴様だろ
信濃は完全統一していない、旧武田領は荒廃続き、これらを完全スルーですか?
>太閤検地の四国4国併せただけだが?
便宜的にだろうが何だろうが、安定期と戦国期の石高を一緒にして
「100万石クラスの大名」とか言う馬鹿さ加減を指摘してんの。
- 553 :
- >>551
匿名掲示板で「あれは俺の書いた文章じゃねえ」とか言い出してもキリないし
自分じゃないならスルーしたら?おまえに該当してる部分だってあるから反応してんだろ?
それで結局安易な揚げ足取りとか煽りだけか?聞かれたことに1つでも具体的論拠を示して答えてみろよボケ
- 554 :
- >>550
山名と波多野、後から付け足したから文章変になってるけど
「北近江」を「自国」と変換しといてくれ。
要点は専守防衛だけに努めてればいい国と
遠征ばかりしなきゃならん国との違いくらい理解してくれって事だ。
- 555 :
- 後、気に入らなかったんなら修正するよ
「ゲーム脳」→「信長の野望視点でしか考えないゲーム知識を振りかざす馬鹿」
「おまえ」→「歴史的史実も何も無視して武将ファイル知識だけを振りかざす批判厨」
満足か?
- 556 :
- 繰り返すけど、秀吉と戦った頃の徳川や長宗我部が
かなり無茶な動員をかけて寄せ集めた兵力が1万5000〜6000。
これは諸説あるから幅が結構開くけども
1万石辺り、200〜500の兵力を動員できたとされている。
100万石クラスが御家存続の為に全力挙げて秀吉と戦わないとならない!ってなるなら
最低で2万、最高で5万以上の動員兵力を有するわけだ。
遠征じゃなく、敵を1つに絞って守るだけなら
余裕持ってもっと兵数を出せるかもしれない。
で、徳川や長宗我部がそんな大兵力動かしたって根拠は?
- 557 :
- >信長基準で「主力を動かせばいいのに馬鹿じゃねえの」
>とか言ってる浅知恵を指摘してるわけ
氏真でさえ、信玄侵攻には甲斐国境まで大軍を動かしてる
しかも、その翌月以降近江に大軍送ってる以上、主力軍を動かす能力が無いとは言えない。
それにもかかわらず、敦賀郡全域を2日で失い、決戦を避けて引き返すどこに武将としての能力が見えるんだ?
>浅井・山名・波多野は北近江を守ってればいいだけ
南近江と北近江の区別ついてる?浅井は朝倉と一緒に坂本やら叡山に出兵してるんだが。
しかも、姉川以降は、常に本拠地から数キロのところに織田の精鋭が控えてる状況で兵を
出すのが、どれだけ困難かわかってんの?用兵誤れば即滅びるのに守ってればいいだけとはw。
>織田にすぐさま降伏しなかった
こんなもん山ほどいるし、君の嫌いな浅井など最後まで降伏すれば助けると言われても拒否したが?
朝倉て誰かに惜しまれて命は助けるから降れて言われたっけw身内に殺されただけか
>浅井を長年援軍派遣させて保たせた。決定的な敗北戦は刀根坂の戦いだけ
戦国武将において、決定的な敗戦が一回だけでも致命傷。しかも、姉川合戦は義景我れ関せずで敗北に入れず、か
そもそも志賀の陣始め、義景が互角以上の相手と大合戦に及んで大勝したためしもあるまい
- 558 :
- >氏真でさえ、信玄侵攻には甲斐国境まで大軍を動かしてる
本拠地と国境の距離、支配体制、主力の支配地、全てが違う。
氏真「さえ」というのがもう無知の極まり。
>しかも、その翌月以降近江に大軍送ってる以上、主力軍を動かす能力が無いとは言えない。
だから金ヶ崎は浅井挟んで緩衝材があった頃。
上洛要請拒否したとて、すぐ開戦、とはならずに外交で何とかなると考えていたんだろ?
そこへ信長の急襲。だから簡単に城は落ちた。
浅井も信長の信義を疑い離反した。
以後は臨戦態勢なわけだから兵を度々派遣してるわけだろ?
しかし、それとて主力は越前北部から近江まで遠征してるわけで
いつまでも国許空けるわけにもいかんし、雪が降れば帰るし
長期遠征も不可ってだけだろ。
越前・加賀の国境→北近江まで遠征するのと
駿河から甲斐国境まで遠征するのじゃ距離も全然違うだろ
>南近江と北近江の区別ついてる?
そういう区分はゲームだけの話にしてね。
>坂本やら叡山に出兵してるんだが。
距離がまったく違う。琵琶湖の支配権は浅井氏にあった。OK?
>君の嫌いな浅井など
繰り返すけど、俺は浅井を嫌いといったことも、朝倉を名君といった覚えもない。
君の言葉を借りるなら「おい、お前誰と戦ってるんだ?」
>朝倉て誰かに惜しまれて命は助けるから降れて言われたっけ
浅井は直前まで織田と縁戚関係にあったんだから当然だろ。
武田も波多野も降れば助けるなんて言われたか?
>決定的な敗戦が一回だけでも致命傷。
それだけを取り上げて、後世の我々が愚将だとか安易に言うべきではない。
おまえの理屈で言うと、今川義元も龍造寺隆信も愚将となるわけだな。
で、100万石クラスの根拠はまだ?
- 559 :
- >>556
お前、つくづく救いがたいなw
家康の1583~1584年の石高が100に満たないとか
いいか、家康の関東移封の際、家康旧領は駿遠三甲南信で120~130万石とされてる
これは、84年時から変わってない。数年で数十万石増えるのか、凄い米だな
>慶長年間の信濃の石高が全体で48万8000石、甲斐が22万7000石。
> どちらも安定期に入ってからの総石高なので
> 当然、甲斐はもっと収入は少なかっただろうし
当然というなら、その根拠を出せよ。いくら少なかったか、家康の甲斐における石高が
いくらだったか具体的に主張もせずに、脳内妄想流されてもね
>遠征じゃなく、敵を1つに絞って守るだけなら
>余裕持ってもっと兵数を出せるかもしれない。
お前さんざん国内でさえ大兵力の移動は困難て吹いてたじゃねえかw
朝倉は敦賀に大軍を送れないが、徳川や長曽我部は目一杯兵を動員出来、進軍してきた。
そこから石高が推定出来る、とか笑われるぞ
そもそも徳川は甲斐や信濃にしっかり守護兵置いてるが、それらは計算外か
- 560 :
- >ewsrkrPS
典型的なレス乞食だな。やれやれ┐(゚〜゚)┌
- 561 :
- >>558
>距離がまったく違う。琵琶湖の支配権は浅井氏にあった。OK?
また、試験で即不可レベルの無知晒しかw
信長が大津に代官所を置き、堅田衆を完全に支配に置いて以降、浅井氏のどこに
琵琶湖の支配権があったんだ?それに、叡山やら堅田の位置知ってる?
小谷からは遥か湖西を回らねば行けない。それに、まさかとは思うが、浅井が
船で兵員輸送してたとか思ってないよな?
>今川義元も龍造寺隆信も
これらの武将は独力で領土を広げ、互角レベルの相手とも何度も戦ってる
決戦と言える大戦にも自ら出向いてる
信玄にも失望される義景は独力で国を切り取り、大合戦に勝利したことあったっけ?
- 562 :
- >家康の関東移封の際、家康旧領は駿遠三甲南信で120~130万石とされてる
ソースは?慶長年間より三国の石高は多かったんだ。へースゴイスゴイ。
「とされている」ってどこの話だよ。おまえの脳内データだけで話すなよ
>当然というなら、その根拠を出せよ。いくら少なかったか、家康の甲斐における石高が
>いくらだったか具体的に主張もせずに、脳内妄想流されてもね
太閤検地以前のデータは詳細出せるわけないでしょ。君の前述した妄言と一緒で。
ただ、事実問題として安定期に入った慶長期と、武田滅亡〜北条との甲斐争奪戦で荒れた頃とで
後者の方が豊かな国情であるとは普通考えないだろ。
慶長期より太閤検地前の方がどの国も豊かだったってソースをお前が出せよ。
>国内でさえ大兵力の移動は困難
それぞれの大名の支配体制、地理、周囲の状況によりけりで、という話で「朝倉の場合は」って話をしてたのね。
長宗我部は島津と同じで渡海地点周囲だけに兵を配すればいい
徳川も信雄という緩衝地帯があるから一点集中できる。
朝倉が鶴賀周辺に集中できない理由は散々述べたから繰り返すまでもない。おまえの読解力が足りないだけだ。
>そもそも徳川は甲斐や信濃にしっかり守護兵置いてるが、それらは計算外か
だからソースは?おまえが「100万石クラス」って言い出したんだから論拠を示せよ。
- 563 :
- >信長が大津に代官所を置き、堅田衆を完全に支配に置いて以降
これはかなり戦局が後期になってからね。
序盤は浅井が支配権握ってました。
>船で兵員輸送してたとか思ってないよな?
少なくとも物資は容易に輸送できたね。
そもそも近江の整備された街道を移動するのと、
雪国越前奥地から近江へ遠征するのじゃ、条件が全然違う。
兵站の確保や輸送労力だけでも段違いだろ。
>決戦と言える大戦にも自ら出向いてる
>戦国武将において、決定的な敗戦が一回だけでも致命傷。
矛盾って言葉知ってるか?
- 564 :
- >>562
しょうがねえ奴だな、ひらがな教えてるみたいなもんだ
>家康は駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国、計約150万石から
>小田原征伐の後、徳川家康は東海5カ国から関東7カ国へ移封されます。
>150万石から250万石への大幅加増とは言え
>空白地帯となった甲斐と南信濃を平定。約5ヶ国の大守に成長する(約140万石)。
著作権絡みで直接は示せないが、博物館サイトでもあたれ。wikiレベルでさえ、移封前は150万石と書いてあるだろ
どうやったら6年で最低60万石近くも増えるんだよw
>これはかなり戦局が後期になってからね。 序盤は浅井が支配権握ってました
信長が堅田衆に免状与え、沖の島に代官置いたのは朝倉攻め前の69年ですが?むしろ後期に堅田衆は信長を裏切った
さて、次は家康の関東移封前の石高が100万石に及ばないソース出せよ
- 565 :
- >決戦と言える大戦にも自ら出向いてる
>戦国武将において、決定的な敗戦が一回だけでも致命傷。
>矛盾って言葉知ってるか?
お前、大合戦に何回も望んで時には勝ち、最後に敗死した武将と
生涯たった一回出向いた大戦に敗れ、無惨な最後の武将で評価が同じと思ってんの?
最後に致命的敗戦を喫しても、それまでの実績で中和される例(明智、柴田など)はいくらでもある
で、義景の大戦の実績は?
- 566 :
- >150万石から250万石への大幅加増とは言え
こういうのを「通説」っていうの。wikiとかも資料と言えない。
ネットで検索してわかる事だけじゃなく、きちんと自分で本読んだり
足運んだりして調べて物を言おうな、恥書く前に。
太閤検地前に明確に徳川の領地が150万石あったって資料はなんなの?
著作権うんぬんとかごまかさないで「〜」に載ってるって言えばいいだけだろ?
こっちは太閤検地の明確な数字を出してるの(慶長期のだけどね)
おまえは「推論」だけで語ってるの、違いがわかる?
- 567 :
- >>565
だからさー(もう相手すんの疲れるわ)
そういう全国区の人物と朝倉を比べて同じだとか
名君だとか、俺がいつ言った?
平均的な旧大名の行動であって、凡君ではあるが
暗君とされるような失政や無謀な戦いなどはしていないだろ?って言ってるの。
おまえが出してる例えは信長・家康・謙信・信玄・明智・柴田
全部義務教育の教科書に出てくるレベルでしか話してねーじゃん。
ちょっとでも各々の地方大名の資料とか本を読んで勉強した事あるのかよ馬鹿らしい
- 568 :
- >>566
>こっちは太閤検地の明確な数字を出してるの(慶長期のだけどね)
太閤検地の数字だと、三河29万石、遠江26万石、駿河15万石、
甲斐23万石、信濃41万石(このうち南信濃15~20)
これで、家康が100万石級では無いという根拠を示せと言ってるのに、
>きちんと自分で本読んだり
> 足運んだりして調べて物を言おうな、恥書く前に。
と何の根拠も示して無い。なんならもっと人が多いスレ行って関東移封前の家康の石高
議論しようか?逃げ出すのは目に見えてるが
- 569 :
- >平均的な旧大名の行動であって、凡君ではあるが
平均的旧大名て例えば誰を指してんだ?
平均も何も朝倉氏は50万石級の大大名だぞ。当時こんな途方もない石高相続した武将が
日本に10人、いや5人もいたかどうか。何も三英傑持ち出さなくとも、
似たような石高相続した義元、氏康、島津兄弟が着実に領土広げていく中、
義景は20年間大大名として何やってたんだ?条件が苦しいのはどこも同じだぞ。
加賀の統治を万全にするわけでもなく、畿内勢力に介入するわけでもなし、あげくの果てに
強敵が来襲しても一度足りとも自ら正面決戦に及ばず、最後は戦わず逃げ帰る所を追撃され
本国陥落。これで50万石相続した大名としては、健闘した方とか言われて説得力あるか?
- 570 :
- >>567
()つけて疲れたとか書いちゃって恥ずかしいやつw
- 571 :
- いつもいつも自信満々のところ申し訳ないが
義影の代で加賀や若狭と領土広げてってるよ。
加賀平定なんかは義影自ら兵を率いて城を落としまくってるし。
>義影は20年間大大名として何やってたんだ?w
言い切っちゃって恥ずかしいねぇw
なんか勘違いしてない?
義影は刀根坂だけ出張っていってそこで負けただけと思ってる?
志賀の陣は義影が出兵してるよ
>一度たりとも自ら正面決戦に及ばすw
もう笑いすぎw
加賀平定して若狭も平定して
信長にも勝利しておいて
それでも健闘して無いと思うなら
健闘してないんじゃないか?
ゲームの中ではw
- 572 :
- >義影の代で加賀や若狭と領土広げてってるよ。
はぁ?加賀とは延々グダグダやりあった挙げ句、義昭の仲裁で和睦した
だけじゃねえか、どこが加賀を平定したんだよ。若狭にしたって、小浜に重臣でも置いて、
恒久的な支配敷いたのか?7万石程度の国に6回も攻めいって、守護を連れ去っただけだろ。
>信長にも勝利しておいて
こんなもん、信長本隊でも何でもなく、近江に残しておいた守備隊数千を大軍で囲んで、しかも
浅井や叡山の僧兵と共同でボコっただけじゃねえか。
これでしゃあしゃあと義景が信長を打ち破ったとか、どの口で言えるんだ。信長本隊が到着したら、びびって
山に籠もってたくせに。それに、何度も言うが、敦賀陥落や姉川の敗戦は義景の失敗には含まないのか?
生涯負けたのは刀禰坂だけとか(これも、戦うどころか逃げただけ)、正気で言ってんの
最後に、ゲームゲーム同じ用語使うと知能レベルが知れるから老婆心ながらもっとバリエーションある
煽りを考えることお勧めするよ
- 573 :
- ホントいつもいつも申し訳ないけど
加賀は義景の出陣により
小松城、御幸塚等
いくつもの城落としてるよw
これはどうあっても覆すの無理w
城攻めの後に和睦してるんだけどw
若狭の話は何を言ってるの?
たしかに若狭支配が完全とは言えないかも知れないが
武田元明により朝倉氏へ同心せよとはっきり言明している
完全な支配ではないというのは
このとき元明に逆らい朝倉へ反抗的なものが少なからずいたため?このことか?
後志賀の陣は全く知らないのか?
近江に残した守備隊をぼこっただけってw
信長がきたら山に篭ってただけってw
修学院は?
一乗寺は?
どうして信長から何度も義景に和睦持ちかけたかすら知らないと見えるw
孤立したのは信長だぞw
それと堅田の軍勢は信長本体(主力)じゃないんだw知らなかったわw
どんだけうそを並べても志賀の陣は明らかに織田軍の完全敗北
新しい説でも見つかったんなら別だけどw
言い訳ばっかりじゃ無理だよ。
いつものパターンになってきたなw
一切答えずに言い訳で揚げ足取るだけw
いまさらいくつもの質問にも答えられないだろうし
志賀の陣だけ答えろよ
信長に包囲されびびって山に篭ってただけの朝倉軍に
なぜ信長は敗れたのか?(敗れてないとかまた妄想は勘弁な)
どうせまた答えないで、お前が答えるよ!のいつものパターンだとは思うけどw
- 574 :
- 信長は負けてない
志賀の陣なんてしらねーw
加賀平定なんてしてない
若狭平定なんてしてない
じゃ話にならんw
いったい何のゲームやってるの?
- 575 :
- >加賀は義景の出陣により 小松城、
>御幸塚等 いくつもの城落としてるよw
それが加賀を領土にした、と言えるのか?
和睦して加賀の拠点津葉城や大聖寺城、日谷城、黒谷城を焼き払ってるくせにw
自軍の城を山ほど焼いて退却して、領土にした、大勝利したと言ってるバカいるの?
>たしかに若狭支配が完全とは言えないかも知れないが
>武田元明により朝倉氏へ同心せよとはっきり言明している
言明して、若狭を名実ともに統治したのか?
形式上は幕府領だし、「たとえ元明殿の命であっても義景に同心することは思いもよらない」
と有力土豪粟屋氏などは従わず、信長が来たら倉見峠で出迎える始末。結局1日で国ごと信長になびいてる
>修学院は? 一乗寺は?
これが信長主力との決戦なのか?そもそも信長本人の直属部隊と朝倉が単独で大規模に闘い、打ち破ったとする史料は?
浅井でさえ、史料的には疑問もあるが、信長本陣近くまで切り崩した実績あるぞ。
志賀の陣で、朝倉が、浅井、叡山、堅田衆の加勢無しに、信長本人と合戦して、打ち破った根拠を出して初めて義景が信長に
勝ったなんてたわごとぬかせるんだが。結局双方兵を引いて、領土や城を得たわけでもないのに完全勝利とかw
それはそうと、いつになったら関東移封前の家康の石高が100万石に全く及ばないソース出してくれるんだw
- 576 :
- 少しバカの妄言をまとめると、
@信長が出陣したのは4月20日 金ヶ崎が開場したのは
(いかにも城を攻め落としたかのように言い張ってるがw) 4月の26日ねw
まぁ6日でも早いんだけど
京から敦賀への行軍日程も考慮せず、信長の敦賀攻略が6日もかかったと言い張る
Aそれと信長軍の大半以上は反朝倉の若狭衆ね
無知蒙昧の極み
B琵琶湖の支配権は浅井氏にあった。OK?
浅井=琵琶湖=水軍強いよね?レベルの想像。実際支配権は既に信長
C信雄は小牧、長久手の戦いには関係ない。家康の当時の領土は100万石に
全く及ばない
ソース提示よろしく
D平均的な旧大名の行動であって、凡君ではあるが
ちょっと不利になって譲歩w君の考える平均的旧大名とは誰?
それから君が考える50万石クラスの愚将上げてくれ、俺は義景と思ってるが
- 577 :
- 相変わらずさらっとウソ書くなw
日谷城や里谷城は和睦が終わってから
仲介に入った将軍家のものによって焼き払われてる
同様に一揆方の栢野 (山中町)、松山(加賀市)の城も将軍家配下のものにより焼かれてますよw
戦に負けて焼き払われたように書くなってw
正確には和睦がなって陣を説いて
で不必要になった陣を仲介に入った将軍家のものが焼き払ったってことねw
まさかとは思うが朝倉の城が一揆勢により焼き払われた!
なんて都合よく解釈してんのか?w
当たり前だけど朝倉側が攻め落とした城(こちらは本当の城ね)
は焼き払われてもないしその後も朝倉のもので
しっかりと朝倉の領土となっている
少しバカの話をまとめると
3年近くも信長と戦い続けていた朝倉軍だが
なぜか「瞬殺」w
志賀の陣なんて知らない
朝倉は常に逃げ回ってただけw
浅井かっけぇw(ゲーム脳乙)
加賀平定なんてしていないw
若狭平定なんてしていないw一部反朝倉があっても
ほとんどが従わなかったと脳内解釈
ふぅ疲れてくるぜw
- 578 :
- >戦に負けて焼き払われたように書くなってw
和睦して加賀の拠点津葉城や大聖寺城、日谷城、黒谷城を焼き払ってるくせにw
と書いてあるのにファビョッてもう文字も読めなくなったのか?
>しっかりと朝倉の領土となっている
永禄10年3月、堀江氏の内通を得て加賀一揆側は越前に攻め込んでる。
一揆勢力の越前侵攻は永正年間以降50年間無かったんだぞw
信長ならまだしも、一揆勢に本国まで侵入されといて、加賀はしっかり統治してる、かw
朝倉氏にとっても驚愕すべき事態であったとする史料もあり、慌てて義昭に仲裁依頼してる。
勝ちまくって加賀を領土にしてるなら、なんで和睦に応じるんだよw
>若狭平定なんてしていないw一部反朝倉があっても
一部?信長侵攻に朝倉側に立って反撃した若狭衆がどれだけいた?
金が崎引き口の時、若狭の粟谷勝久は左柿城で猛然と朝倉兵と戦ってるんだぞ
>朝倉側が攻め落とした城(こちらは本当の城ね)
城に本物とニセ城があるのかw
大聖寺城など加賀でも有数の城なのに、せっかく落としたの廃棄して引き上げるなんて
随分気前が良いんだな
もう一度だけ言うけど、いつになったら、関東移封前の徳川家の石高が100万石に
全く及んでないソース出してくれるんだ?
- 579 :
- そもそも
>それと信長軍の大半以上は反朝倉の若狭衆ね
とか(これも当然ウソ)書いておきながら、
>若狭平定なんてしていないw一部反朝倉があっても
>ほとんどが従わなかったと脳内解釈
と自己矛盾したその場しのぎの稚拙な妄想。
質問には全く答えず、逃げてばかりで、撤退準備のため
>ふぅ疲れてくるぜw
とか意味の無い言葉の付加。
誰かに似てるなと思ったら、朝倉義景そっくりじゃねえのかw
そもそも、このスレの立った瞬間に
>>1
優柔不断の大名・朝倉義景について語りましょう〜
で結論出てるしなw
- 580 :
- うん?だから焼き払ったのは
一向一揆との仲介役をした義昭の手のものだぞ?
一向一揆側が朝倉の城を攻め落として焼き払ったわけじゃないってかいてあるんだが
文字読めないようだな
つぅか自信満々によっしゃ!城焼き払われてる!と思ったのに
現実がこれじゃあねw察するよwつらいよねw
堀江氏の反乱あっというまに鎮圧されてるしw
しかも義昭に和睦願いなんてしてないしw
義影の母(光徳院)の嘆願で堀江氏越前退去w
義昭関係ねーw
時系列間違えてない?
この反乱の後に義昭が一乗谷に来るわけだが・・・
そこで義昭の提案により本願寺と和睦
そして上の城焼き払いに通じていくわけだが・・・
んで一向一揆側が杉浦氏の子が人質として朝倉に出されたりと
ここから加賀が朝倉領土となるわけだが・・
加賀平定する前に一揆起きてるのみつけて
よっしゃ!朝倉一揆起こされてやがる!統治完璧じゃねぇ!と嬉しかったんだろうねぇ。
いつ起きたかとか関係ねぇ!
加賀平定した後に一揆起こされたことにしとけば良いと思った?
義昭いないのに義昭に泣いて頼んで和睦してもらったことにしとけば良いと思った??w
ホントこのバカ疲れる
んでさっきからがんばって徳川家がどうの言い張ってるけどそれ俺じゃねーし?
お前みたいなバカの相手してるの俺一人じゃないんだなぁ
みんな偉いよ関心関心。
- 581 :
- めんどくさいから1つだけ突っ込んどくね。
もう他の相手に絡んでるみたいだし
>>568
>太閤検地(慶長年間)の数字だと、
>三河29万石、遠江26万石、駿河15万石、
>甲斐23万石、信濃41万石(このうち南信濃15~20)
>これで、家康が100万石級では無いという根拠を示せと
・動員数からの推測で100石に足らないと長宗我部の例も出して結論出した。
1584年時点で100万石クラスの大名なら秀吉との全面決戦で1万5000がやっとって無理があるだろ。
あの時点で徳川は後方を突かれる恐れはないわけで、三河・尾張に兵力を集中できたわけだから。
・上の石高は1590年代の「太閤検地」によるものであって、
秀吉が各大名の徴兵率を上げる為に厳しく精査し、過去の基準よりも厳しく打ち出した結果の数字。
測量に使う尺も変わった。
(島津みたいに三成に媚売って数字ごまかした連中もいるけどね。そういう大名は後に西軍についた連中が多い)
当然、1584年→1590年の間で戦国期〜安定期となって自然に石高は増えた分もあるだろうし、
測量の基準まで変わったのだから、石高は増えるに決まってる。
要するに1590年代の最大幅でこの数字、というわけ。
1584年の時点でこれより多かったとか、同じくらいという事はありえない。
三河29万石、遠江26万石、駿河15万石=検地後の慶長期で合計70万石
信濃は41万石だが、徳川の直轄領なんて微々たるもの。上杉・真田・木曽・小笠原・諏訪などが分割してる。
これを丸々全部徳川領だとか、半分は徳川のもんだろってのは無理がある。
木曽と小笠原に至っては一時、徳川に属すも豊臣に寝返ってる。
甲斐は武田滅亡、北条との抗争が終了して、一時的に徳川のものとなるが
1587年に穴山信君の遺児が死去するまで建前とはいえ武田の名前を利用して統治してる。
これも完全統治とは言えない。
甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後。それまで後方開発までする余裕はない。
基準が変わった慶長期の総石高で大きく見繕って130万石。
当然、それ以前は荒廃してる土地もあれば
他大名が統治してる完全直轄とは言えない土地もあるわけで
もっと少ない。
もういい?面倒だから。
- 582 :
- 君の文章何書いてるか分からないよ
>ここから加賀が朝倉領土となるわけだが・・
ソースは?義昭による調停後数年後も一揆勢が加賀全土から兵糧米などを備蓄
するよう指示した文書はしっかり残ってるが。朝倉の誰が、どの城に入り、
どのように加賀全土を統治したんだ?一揆勢力との関係及び本願寺は?
>加賀平定する前に一揆起きてるのみつけて よっしゃ!朝倉一揆起こされてやがる!
>統治完璧じゃねぇ!と嬉しかったんだろうねぇ。
> いつ起きたかとか関係ねぇ!
書いてないことを自己補完して楽しい?
もはや論理も何もなしに単なる中傷文だよ
しかも徐々に反論する論点も少なくなってきてるね
>んでさっきからがんばって徳川家がどうの言い張ってるけどそれ俺じゃねーし?
ゲーム脳なんて特殊な時代遅れ用語、赤の他人が2日続けて同じ過疎スレで使う?
まず、同一人物と見るのが当たり前
>ホントこのバカ疲れる
疲れる疲れる同じこと繰り返して何か効果あるの?自分の負けを認めて退却する
言い訳にしか聞こえないよ。
嫌ならさっさとスレから去れば?
- 583 :
- 書き忘れ
>甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後。それまで後方開発までする余裕はない。
また妄想だろ、とか書かれるだろうから注釈。
甲斐のほとんどの城は小牧・長久手の後に補修・改築がはじまって
関東移封で改修途中のままで終わったものが多い。
これからしても甲斐の開発が後回しだったのがわかる。
- 584 :
- 最後に
>ゲーム脳なんて特殊な時代遅れ用語、赤の他人が2日続けて同じ過疎スレで使う?
おまえがゲームみたいな理論・知識でしか物を語ってないんだから
引用されてもおかしくないと思うよ。
俺が自演する必要性もないしなw
論点も違うし。
誰だっておまえみたいなアホ相手にしてたら、1から全て説明せにゃならんのだから
疲れるともいいたくなるだろ
- 585 :
- >当然、それ以前は荒廃してる土地もあれば
>他大名が統治してる完全直轄とは言えない土地もあるわけで
>もっと少ない。
これじゃダメなんだよ、具体的にいくら少ないか書いてもらわないと
徳川が80年代後半に行った5ヶ国総検地では、甲斐も信濃もほぼ全域
しっかり検地してるんだよ。それで130~150万相当と出してる。
小和田教授の家康記にも、5か国を統治下に置いて、検地を行った、その結果としての
石高算出て書いてあるんだよ
それが、脳内ソースで
> 甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後
とか、
> 信濃は41万石だが、徳川の直轄領なんて微々たるもの
なんて勝手な解釈されて、ああそうですか、と納得すると思う?
- 586 :
- >徳川が80年代後半に行った5ヶ国総検地では、甲斐も信濃もほぼ全域
>しっかり検地してるんだよ。それで130~150万相当と出してる。
だからソース出せよボケ。
おまえが「100石クラス」って言ったんだから
その根拠を示すのが先だろ
「そうである」と「そうでない」を立証するの、どっちが大変かわかる?
「そうである」ならその資料を提示しろよ。
>小和田教授の家康記
ちょっと失笑しちゃったw
んなもんソースにしてたのかw
小和田哲男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%93%B2%E7%94%B7
著述スタイルは通説を大事にしながら別の資料から正否を判断すると言うパターンが多く、
(中略)
またこうしたスタンスに対して専門家から「史料の検出方法や解釈に問題がある」とか
「贋書を良質史料として評価する」などの意見も出されている。
そして戦国史と現在のビジネスマンの生き方を比較するような著書や公演も多く行っており、
歴史研究者と言うよりも歴史評論家的に見られることもある。
きちんとした資料である太閤検地の数字より小和田の本の推測が正確だと?
もう本当、相手にするのが馬鹿らしいw
オラ投げたw
歴史板で小和田の本をソースに出したら笑われるぞ
- 587 :
- お前自分だけソース出せ根拠出せとかほざいてるけど
どうあがいたって
朝倉により加賀が平定されたのは事実だ
大好きなソースでも探したら?
自分は矛盾ありまくりの言い方しといて
例、敦賀落城は義影が無能であったかのようなカキコ
信長&家康&若狭衆VS敦賀守備隊のみ(本当に義影本体はいなかった)
なのに朝倉が活躍したときだけ
志賀の陣(坂本、堅田等)(信長自身もいたし、堅田に主力を集結させていた)
浅井等の協力無しで朝倉軍だけが活躍したソース出せよ!
とかもうムチャクチャじゃんw
- 588 :
- 587は
>>582にたいしてね
- 589 :
- >>586
何度も言ってるように、駿河15、三河29、遠江26、甲斐23、信濃41が太閤検地の
数字。なぜそこから
>信濃は41万石だが、徳川の直轄領なんて微々たるもの
とか、
>甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後
とソースも無しに導いて、家康が100に満たなかったのか、と言ってるんだ。
俺は少なくとも大学教授の文責のもと、ソースを出した。
君の根拠は何?脳内?
それよりもっと人の多いスレ移って家康の石高議論しようよ、決着がつくし。
- 590 :
- ちなみに小和田教授の家康記はすべて史料の翻訳だよ
本紹介にも、『駿府記』『当代記』『公家古記録』膨大な各大名家文書など信頼できる同時代史料を渉猟し
丹念に調査した戦国史研究の第一人者である著者が明らかにする、史料に基づく徳川家康伝記の決定版
としてある。
読んでもいないのにヨタ本だとか、あたかも自分が大学教授よりも知識がある、という悲しい強がりは止めようね。
よくいる自分以外はみんなバカの類の人間かな?
- 591 :
- 第一、静岡大学教授で今川やら武田周辺の研究が多い小和田氏の、東海時代の
家康の記述を、誰が書いたか分からないwikipediaの記述を根拠に失笑するとは
君はどこの研究者なんだ?
- 592 :
- どんな資料を扱おうと
それを精査する人間がいい加減じゃな。
それと、それぞれの資料を見ればわかるけど
ほとんど江戸期以降に成立した徳川寄りの資料ばっかだし、
当てにならないね
自分で原本読んだ事ある?
- 593 :
- 横から余計な事もしれんけど、
大和田が批判されてるのはどこの誰かもわからないWikipediaの編集者じゃなく
同業者からだよ。よく読んでみな
- 594 :
- >>593
キミ、メディアリテラシー無いね
>またこうしたスタンスに対して専門家から
こうしたスタンスより上の文は、書き手が勝手に書いたもの。
>「史料の検出方法や解釈に問題がある」とか 「贋書を良質史料として評価する」
これでは、何に対して言ったのかさっぱり分からない。特定の著書の一部分を批判したものか、
研究姿勢全般に関するものか文脈が一切不明。さらに、批判した人間が小和田氏より優れた
研究者かも一切不明。こういう誘導文を根拠に最初から信用出来んとか言い出すのは頭が悪い
- 595 :
- で、君は小和田氏が参照したとする資料を一つでも原本読んだ事あるの?
小和田氏は武功夜話とかを資料価値の低いものを論拠として引用したりとか、
少しでも歴史かじった人間なら、まともに相手にしない部類。
専用スレもあるから、調べてみたら?
他人の第二次資料ばかりじゃなく、自分で調べる知恵もつけた方がいいな
- 596 :
- >>595
キミ、家康の石高調べるのに一次史料の原典吟味して、さらに他の史料と比較
しながら、取捨選択して、自分なりの結論導く作業してるの?
職業何?大学生の俺でも到底そんなヒマねえわ、研究者じゃあるまいし。
>少しでも歴史かじった人間なら、まともに相手にしない部類。
ソースは2ch?小和田氏の今川やら北条やらに関する研究がどれだけ引用されてるか知ってる?
少しでも歴史かじった人間がまともに相手しないで、国立大の大学教授続けられると思ってんの?
>専用スレもあるから、調べてみたら?
結局ソースは2chかw自分の頭で本読んで考えるのはキミだろ
参考までに、駿河や甲斐周辺の戦国史で、小和田以上に評価の高い学者は誰だと思ってんの?
- 597 :
- とりあえず原典の一つも読んでいないなら
したり顔で歴史を語るなよ
君が例に上げた当代記や駿府記などの資料を、一つでも、『いつ成立し』『誰が編纂し』『どんな内容なのか』を
調べる努力をしていれば、自ずと答えはわかるはずなんだかねえ
他人の説を鵜呑みにするだけで自分で調べる事をしないなら
でかい口は叩かない方がいいよ。すぐ底が知れるから
- 598 :
- 底が知れるのは人に文句ばっかしつけてるあんただろ
あんたの文章の中に、何か具体的に小和田氏の著作に明確な誤りがあることを立証する
論拠あるの?
>他人の説を鵜呑みにするだけで自分で調べる事をしないなら
自分で何一つ具体例を書かず、学者の書く文章は、該当部分を読まず、間違っている、か。
で、あんたは何の一次史料を調べて、比較して、自分なりの歴史的結論を導いたんだ?
例えば家康の石高推移でも教えてくれよ。史料の根拠付きで。
そう言えば、IDが同じ人はいなくなったねw
- 599 :
- 小和田の本を論拠に挙げるの見たら馬鹿馬鹿しくて相手にしなくなるのは当然だと思う…
- 600 :
- なんかもう死にたい・・・。
- 601 :
- wikipediaや2chスレを参照に、東海地方の戦国研究プロパーの
学者をこき下ろし(何の職についてるか知らんけど)、
当てにならない、誰も相手にしない、じゃあ何があてになるかも
示さず、したり顔で歴史を語るな、とか論理にも何にもなってないこと分からない?
- 602 :
- >>599
? 家康の関東移封前の石高が100万石越えてたのは小和田の独自説でも
なんでもなく、教科書に地図付きで載るレベルの異論のない圧倒的通説だよ
太閤検地や五カ国総検の史料から見て明らかすぎて、論証の対象にもならない。
小和田氏の文章出したのはたまたま手元にあったから。他の学者の説(という程ではないが)
しりたければ大学図書館で見て来てもいいよ、結論は同じだけど。
一方で、
>甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後
>信濃は41万石だが、徳川の直轄領なんて微々たるもの
>徳川は100万石にはるかに及ばない
と主張する史料付きの論拠や、学者の文責つきのソースは一つも示されてない。
どっちに理があるかは分かるよな?
- 603 :
- 結局ID変えた自演だったか、アホらし
- 604 :
- 末期になると自分に異論を唱える奴は全部敵に見えるらしい。
君に異論を唱えている人物はそれぞれ論点も指摘部分も違うだろう
朝倉ダメダメ説を推してるのは君1人しかいないのは明確だがw
- 605 :
- >>564
>wikiレベルでさえ、移封前は150万石と書いてあるだろ
wikiをソース元として提示
>>601
>wikipediaや2chスレを参照に〜
他の著名な学者が否定している情報が掲載されているにも関わらず
wikiは当てにならないという
主張が支離滅裂。
また、小和田氏は今川・北条の専門家であるが、
逆に言えば>>528のような典型例みたいな人で
静岡愛溢れる御仁である。
当然、静岡の事をよく書く傾向があるし、専門外の事については疎かったりする。
一例に挙げている資料、『駿府記』『当代記』などは江戸期に成立した徳川の臣による資料。
そら徳川の事を過小評価した事は書かないよね。
そういった事も理解していないのだからしょうもないと言われるんだと思うよ
太閤検地の石高は公式文書としてきちんと残っているわけで
それ以前の石高なんてのは自己申告でしかない。
当然、天下を取って一番多くの資料を残している徳川幕府が
自分のところを悪く書くわけがないんだよ。
「あるもの」を「ある」と立証するのは容易だけど
「ないもの」を「ない」と立証するのは非常に困難。
ここで論点にされている部分で言えば「太閤検地による石高」は「あるもの」で
それ以前の推定石高は「ないもの」なわけだね。
つーか、もう朝倉スレ関係なくね?w
- 606 :
- >太閤検地の石高は公式文書としてきちんと残っているわけで
>それ以前の石高なんてのは自己申告でしかない。
で、キミは
>甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後
>信濃は41万石だが、徳川の直轄領なんて微々たるもの
>徳川は100万石にはるかに及ばない
をどのような根拠に基づいて算出したの?
これは、ないことの証明でもなんでもなく、純粋な事実の確定の問題なんだが
小和田氏以上の根拠をつけて示してね
>それ以前の推定石高は「ないもの」なわけだね。
それでは、織田氏、武田氏その他太閤検地以前の大名の石高はすべて「ないもの」を
教科書に載せていることになるのか?言ってて滑稽と思わない?
家康の石高にしたって、太閤検地とその数年前との比較から、妥当であるとみなされる
数値が研究者によって提示されているわけで、それこそが研究者の仕事なわけだ。
小和田氏が静岡愛に溢れてるから信頼出来んとか言ってて空しくならないか?
だったら信頼出来る研究を出してくれと言っても何一つ出さないよな
- 607 :
- ちなみに、なんか根本的勘違いをしてるようだけど、関東移封前の家康の石高換算に
『駿府記』『当代記』などの史料が元になってるわけがなく、あくまで1587〜8年当時
制作の家康の検地に関する史料からの算出だからね。詳細に残ってる史料の。
嬉しくて
>それ以前の石高なんてのは自己申告でしかない。
> 当然、天下を取って一番多くの資料を残している徳川幕府が
>自分のところを悪く書くわけがないんだよ。
致命的なこと書いちゃったねw幕府成立してから作った史料と思ってたんだね
一大名の徳川が自分の国土把握するための検地に、ウソ書いてもしょうがないよね?
ここらへんは、本多隆成氏の「初期徳川氏の農村支配」第二章=五カ国領有期の農村支配
に詳しいから調べてみてね
赤っ恥かいたな
- 608 :
- 太閤検地と家康の五カ国総検地の施行に関する史料を比較吟味して
多くの研究者が提示した家康の推定石高と、
>甲斐が発展したのは秀吉とのケリがついた後
>信濃は41万石だが、徳川の直轄領なんて微々たるもの
>徳川は100万石にはるかに及ばない
こんな妄想と、さて信頼に足るのはどちらかな?
- 609 :
- ×1587〜8年
○1589~90
だったか、訂正
- 610 :
- もうね、君が後だし後だしで支離滅裂な事ばっか言ってるの自分でわからない?
駿府記や当代記が資料になってるわけがなく〜なんていうなら
小和田氏の書籍では参考にしてる〜とか
何故、最初に言ったの?後から指摘され、必死に調べて、江戸期の資料かつ徳川の編纂だって気がついて
今度はまた別論を振りかざす。
Wikipediaの書き込みをソースで出したくせに
逆にWikipediaの引用を使われれば、他の学者の批評など当てにならない。
いかに君が付け焼き刃で、その場その場の思いつきで話してるかまるわかりじゃない。
偉い学者が言ってるから、教科書に載ってるから、そんな理屈ばかりで、何の客観的検証もしないで、他人の言葉を借りて話してるだけ。
だから、福井の地理だの朝倉氏の支配体制だの、兵の動員数だの知らない事突っ込まれるとアタフタしちゃうわけじゃん。
原本ひとつでも読んだ事あるの?
朝倉氏に関する本を一冊でも読んだ事あるの?
たかだか小和田の本一冊読んだだけですべてを把握したような面して話すなよ。
当然、朝倉の本は何冊も読んで愚将論とか唱えてるんだよな?
なら、君の読んだ本を教えて欲しいな。
長曽我部が100万石とか珍説のかいてある本も教えておくれ。
- 611 :
- 研究論文だって出鱈目書いていたり後で論を覆す事も多々あるお( ^ω^)
考証なしに引用するのはwikiや軍記を提示するのと同じだお( ^ω^)
- 612 :
- >>610
あのね、
>Wikipediaの書き込みをソースで出したくせに
> 逆にWikipediaの引用を使われれば
家康の石高が関東移封前に100万石を越えてたなんて歴史学会の「常識」なの
教科書に載ってて、wikiレベルに書かれてても、誰も疑わない事実の提示なの
ところが小和田教授の評価なんて、たった2人の人間による、何に対して批判したかも
文脈の知れない「人物評価」なの、違い分かる?
wikiに、関ヶ原では東軍が勝利した、という常識レベルのことが書かれてれば、それをソースとしても
何の問題も無い、常識レベルの事実提示だから。
ところが、政治家のwikiで、彼は左翼政治家だ、とある評論家が言ってる、と書いてれば、その政治家が
左翼であるソースになるのか?ってこと
意味分かる?さらに、俺はwikiだけでなく大学教授の説も出してるからな。
それで、家康の石高に関する研究いつ提示してくれるの?
- 613 :
- >小和田氏の書籍では参考にしてる〜とか
普通に考えて、石高の研究に『駿府記』『当代記』などが主に使われると思ってたの?
本全体で、家康の人生の軌跡などについてはそりゃ取捨選択して使われてるよ。
何しろ家康の人生の編年体だからね。
キミは、本全体が、例示された史料だけで書かれてると思ってたわけだ、研究者舐めてるね。
それで、
>それ以前の石高なんてのは自己申告でしかない。
> 当然、天下を取って一番多くの資料を残している徳川幕府が
>自分のところを悪く書くわけがないんだよ
何一つ分かってない失笑レベルの発言して逆ギレ
やばそうだし話題かえようw
いい加減諦めたら?
家康の石高に関する研究書の提示はまだ?
- 614 :
- >歴史学会の「常識」なの
常識なら小和田以外の説も具体的に論拠を3つ4つ出してよ。常識なら簡単だろ?
>教科書に載ってて
教科書に載ってる=正しいとは限らないんだよ。いつの教科書の話してるのか知らないけど
昔は長篠の戦いで織田信長が三段構えの鉄砲隊で武田騎馬軍団を壊滅させた、とか載ってたろ?
でも、実際、現在の研究者でそれを支持する人間はほとんどいないだろ?
教科書というのはあくまで概要をわかりやすく説明するものであって、
個別に大名や地方を扱った研究史等とは別物なのよ。
既に説明したけども、大名の区分だってだいだいでザックリ表現してるわけで
地方の小豪族とかまで記載してないだろ?
木曽や小笠原や諏訪、あるいは甲斐の穴山氏などの所領を個別に何万石〜と書いてあるか?
その辺を細かく説明すんのが面倒だから、まあ、この辺は「徳川領で」ってまとめちゃうの。わかる?
>常識レベルの事実提示だから
だから何度も何度も常識と繰り返すならさ
おまえが太閤検地前でも「100万石クラス」って言い出したんだから
その具体的根拠を出せよ。
忘れてるようだけど長宗我部のもな。
俺は説明したけど「太閤検地」の意義や目的、
それによって厳しく石高が計測された(要するにかさが増した)事を
教えてやったんだけどさ、武田や北条との戦いで疲弊した天正期の石高が
安定期に入った慶長期の石高と同等、もしくはそれ以上って
どうやって説明すんの?
>キミは、本全体が、例示された史料だけで書かれてると思ってたわけだ
じゃあ、石高の話をしているのに、その資料ではなく、何故得意気に当代記や駿府記などを〜とか
言い出しちゃったの?関係ないのわかってるなら出さなきゃいいじゃん。
江戸期以降に成立して徳川贔屓の史書だってわかってるなら引き合いに出す必然性もないわけだし。
指摘されて「ああそうなんだ」って言い訳してるのが丸わかりだろ。
- 615 :
- 2chなんかに随分必死だね
お互い落ち着いて文章読んだら?文章めちゃくちゃですよ
- 616 :
- >木曽や小笠原や諏訪、あるいは甲斐の穴山氏などの所領を個別に何万石〜と書いてあるか?
>まあ、この辺は「徳川領で」ってまとめちゃうの
徳川が検地を行い、独自に徴税を行う権能を有している以上、それは経済的に徳川の領国です
この理屈でいくなら、直轄領以外は領土に含まれなくなります。
>おまえが太閤検地前でも「100万石クラス」って言い出したんだから
>その具体的根拠を出せよ
家康の五カ国総検地は6尺5寸竿を用いて、太閤検地とほぼ同じ面積を1単位として、駿遠三甲信
ほぼ全ての領村に対して行われています。三岳村の、太閤検地、元和期の検地に関する石高は、
貫高から石高に換算すると、五カ国総検地時の貫高とほぼ比肩でき、その正確さが分かります。
また、この検地は徳川家が自立性を持って行われた検地と考えられ、現に秀吉から安堵状は出されていません。
秀吉に対する軍役等の負担になる太閤検地に比べて、わざわざ過小に見積もる必要はなく、現に多くの村で
太閤検地と同じ穫れ高が計測されています。
また、毛利氏も同時期、同様の手法で検地を行っており、これは秀吉から112万石の安堵状を得ており、
太閤検地時とほぼ同石高です。家康については、直接総石高を示して安堵状が発行されたわけではないので、
貫高計算など慎重に行うと、ほぼ太閤検地での駿遠三甲信135万石に近い石高を有していたと推測されます。
当たり前ですが論証には数百ページあっても足りません。本多隆成教授「初期徳川氏の農村支配」
第四章=五カ国総検地と七カ条定書、や池上裕子教授「検地と石高制」平野明夫氏「徳川権力の形成と発展」
などの研究書が参考となります。
- 617 :
- >徳川が検地を行い、独自に徴税を行う権能を有している以上、それは経済的に徳川の領国です
>この理屈でいくなら、直轄領以外は領土に含まれなくなります。
まずはじめに「百万石クラスの大名」と述べ、それと比較して朝倉氏の動員兵力や戦の動きがのろいと評したのであるから
徳川が「百万石クラス」の動員能力があったのか否かが問われるべき。
名目上、徳川の庇護下にあった勢力とはいえ、信濃の諸豪族のほとんどが
動かなかったり、途中で寝返ったりなど、徳川の戦力とは呼べない。
事実、1589年に家康は領内支配の統一基準として「七ヵ条定書」という指令を交付しているが
その宛先は、ほぼ駿河・遠江が中心であり、あとは僅かに三河と甲斐にあるだけで、信濃には1つも発布していない。
これだけで徳川の信濃支配が1589年の時点に置いても直接的なものでなかった事は窺い知れる。
>わざわざ過小に見積もる必要はなく
翌年に小田原攻めを控えての検地です。領内支配を強化する為にも、過分に計上する必要があったのでは?
そもそも、1589年(五カ国検地)と1591年(太閤検地)の2年差では、さほど差がないのも当然でしょう。
1584年の小牧・長久手の時点で「100万石クラス」と評するのは動員兵力から推測しても
信濃・甲斐の情勢からしても無理がある。
実質、動員できたのは三河・遠江・駿河が中心なんだから。
小牧・長久手に木曽や小笠原や穴山の信濃・甲斐衆が徳川方として参戦した記録ってあるのかい?
あと長宗我部が100万石クラスはいつまでスルーなのかな?
- 618 :
- >まずはじめに「百万石クラスの大名」と述べ、
>それと比較して朝倉氏の動員兵力や戦の動きがのろいと評したのであるから
> 徳川が「百万石クラス」の動員能力があったのか否かが問われるべき
いつまで論点をすり替えるつもりですか?100万石クラスの大名というのは、
文字通り100万石の領国を有している大名のことでしょう。
いきなり条件を変更して、さらに散々石高が100万石に及ばないと的外れな主張をして、
参考とした学術論文、研究書の一つも出さず、妄想めいたたわごとばかり。
>そもそも、1589年(五カ国検地)と1591年(太閤検地)の2年差では、さほど差がないのも当然でしょう。
本多教授は、元和期(1615)の同地域の石高とも比較して、ほぼ同視できると述べておられます。
そもそも、甲斐など元禄期でも25万石なのに、4〜5年で5万石も10万石も増えるわけがありません。
あなたの主張では、5年で40万石も取れ高が増えたことになります、どんな品種改良でしょうか?
>翌年に小田原攻めを控えての検地です。領内支配を強化する為にも、過分に計上する必要があったのでは?
何一つ根拠がありません。論理の整合性もありません。未来人の視点で、小田原攻めを控えてなどと、失笑です。
しかも、また論理矛盾です。過分に計上したとして、なぜそれが2年後の太閤検地とほぼ一致するのでしょうか?
家康が水増しして計上した領地を2年後に秀吉が計り直したら、同じ石高だった。こんな馬鹿なことありますか?
>その宛先は、ほぼ駿河・遠江が中心であり、あとは僅かに三河と甲斐にあるだけで、信濃には1つも発布していない
これこそ、小和田氏の著作に理由が詳述されています。
>長宗我部が100万石クラスはいつまでスルーなのかな?
これについては、補綴した文章を議論のベースにして下さい。しかも、今の論点ではありません。
- 619 :
- 細かい話だろーけど
関東移封直前の徳川なら100万石は越えていたろう
(小田原攻めを理由に、秀吉の影響力を傘に税率や徴兵率を上げる好機なわけだから)
ただ、1584年の時点で100石越えはねーよ
甲斐・信濃の支配体制、勢力分布を見れば
ほぼこの2国は除外、もしくは少なく見積もる必要がある。
繰り返すけど、国中の壮年男子のほとんどを駆りだして
翌年以降の収穫が激減するような徴兵を行って
1万5000程度の兵力だぞ?(1584年当時)
東海道が大幅に発展するのは家康が駿府に拠点置いて大御所政治やり始めた頃からで
それまでは海運も日本海側が中心で、想像するよりも豊かな国々ではなかった。
- 620 :
- >いつまで論点をすり替えるつもりですか?100万石クラスの大名というのは、
>文字通り100万石の領国を有している大名のことでしょう。
凄い開き直りだな〜w
論点のすり替えはどっちだよ
信濃の支配体制無視かよ
>あなたの主張では、5年で40万石も取れ高が増えたことになります、どんな品種改良でしょうか?
いつ俺が甲斐1国だけの領有権で石高が激増したと?
他の国だって毎年伸びるだろーよ、なんだこの馬鹿発言。
>過分に計上したとして、なぜそれが2年後の太閤検地とほぼ一致するのでしょうか?
>家康が水増しして計上した領地を2年後に秀吉が計り直したら、同じ石高だった。こんな馬鹿なことありますか?
家康はここで変に少なく計上したら、それを難癖つけられて後から秀吉にいちゃもん付けられる可能性があるだろ
小牧・長久手の後、和睦したとはいえ、秀吉からは要注意人物の最有力者として睨まれてんだから
そういう風に秀吉やら家康やらに実際の石高以上の報告・徴兵率を計上して
覚え目出度くしようとした大名はいくらでもいるよ。
それで追いつかなくなって財政破綻した奴とかもいるしな。
>これこそ、小和田氏の著作に理由が詳述されています。
おまえは小和田の本しか読まないの?
前も聞いたけど朝倉氏でもいいし、越前の国史でもいいけど
そういう本を何冊読んだ事があるの?タイトルあげてよ。
支配体制もしらねー、雪国なのもしらねー、主戦力がどこにあったかもしらねー
ここは朝倉スレだぜ?
>しかも、今の論点ではありません。
じゃあ、出すなよ長宗我部も100万石とかホラ吹くのは
- 621 :
- >繰り返すけど、国中の壮年男子のほとんどを駆りだして
> 翌年以降の収穫が激減するような徴兵を行って 1万5000程度の兵力だぞ?(1584年当時)
キミの頭の中には、予備兵、守備兵という概念無いのかねw
小牧・長久手の戦いは本国にこもった籠城戦ではないのだよ
まさか、ゲームと一緒で、全兵力上げて領国スッカラカンにして、他国に出陣すると思ってんの?
特に、秀吉のような手持ちの別動隊が多い敵相手にするなら、なおのこと信濃や三河固めないと話にならん
全軍上げて尾張美濃近くまで出向くなんて博打、家康がするかいなw
- 622 :
- まあ、話前後するけども
関ヶ原にしろ、小田原にしろ、でかい戦の前ってのは
地方大名にとっては中央の権威を後立てに
地元の国人衆に圧力をかけて
徴兵率や税率をあげる好機なわけだ
つまり戦時には実際の取れ高うんぬんでなく
半ば強制的に自国の支配率強化の為に石高が急増するってのは
往々にしてあることで
逆に江戸期とか戦争が無くなった頃には
そういう無茶な支配体制を敷く必要もなく
各地の国人達も大大名にほとんど吸収されてるから
大幅に石高の変動がなくなるのは当たり前だろ
- 623 :
- >>621
信濃の諸勢力は小牧・長久手で
ほとんど秀吉方に寝返ってる。
徳川の支配地はほぼ無い。
基本的に三河・尾張の国境付近にだけ展開すれば事足りる。
そもそも実働兵が1万5000で、守備兵がそれを大幅に上回るって事はないだろ
当然、国許に残った兵や守備回った兵もいるだろうが
主力は小牧へ向けてるわけで、それが3万とか5万とかになるのか?
「100万石クラス」ならその程度動員できるはずだぞ?
- 624 :
- >いつ俺が甲斐1国だけの領有権で石高が激増したと?
>他の国だって毎年伸びるだろーよ、なんだこの馬鹿発言。
5か国で40万石も増えた計算になるってことですよ、あなたの主張だと
2年でほとんど変化が無いのに、5年で40万石増える根拠は何ですか?
>家康はここで変に少なく計上したら、それを難癖つけられて
>後から秀吉にいちゃもん付けられる可能性があるだろ
何回論理矛盾を繰り返すのですか?あなたはさっき
>翌年に小田原攻めを控えての検地です。領内支配を強化する為にも、
>過分に計上する必要があったのでは?
と述べたとこじゃないですかw支離滅裂どころか、自分の書いた文章読んでます?
>前も聞いたけど朝倉氏でもいいし、越前の国史でもいいけど
> そういう本を何冊読んだ事があるの?タイトルあげてよ
私が上げた学術論文や研究書が目に入らないんですか?今は徳川の石高に絞って
議論進めてるんですよ?しかも人に要求するわりに、あなた自身、一つたりとも
研究書も論文も出さないではありませんか。俺は出さないがお前出せ、こんな
議論成立しますか?
> ここは朝倉スレだぜ?
キミが延々とウソ八百の妄想垂れ流して噛みついてるだけでしょう?
なんでいきなり論点変えるんですか。
私もヒマじゃあるまいし、キミが誤り認めて去れば去りますよ?
- 625 :
- 自分のHPでも作ってやれカス二匹
- 626 :
- カス以下のカスが颯爽と登場w
四万十川の鮎でも食ってろ
- 627 :
- もう終わったの?
- 628 :
- 愚将スレには頭のおかしい連中が集まる典型例だったな
- 629 :
- 長宗我部の兵力から見て一万五千くらいだから
100万石じゃないとかいうのが上で書かれてたが
長宗我部は四国完全平定前の阿波遠征で2万3千の兵を動員したとされてる
しかもこの遠征で勝って領域を増やしてるから
単純に兵数石高論で言うなら100万石クラスの実力を持ってた事になりそう
- 630 :
- まあ長宗我部は名高い一領具足制度で兵力を大動員出来たから
単純にはいえないけどね
- 631 :
- 資料も上げられないカスがいると聞いて
- 632 :
- >>628
でさあ、具体的に「愚将論」って誰が言ってるの?
名前挙げてよ。小説家とかじゃなく研究者・史家でね。
少なくとも治世の面じゃ評価すべきとこもあるし
今川氏真もそうだけど何にも評価すべきとこがない愚将ではなかったと思うが。
下を見れば本当に何の事績も残さないでただ家を潰した大友義統とか
例を挙げたらキリがないけど徳川期に職務怠慢とかで改易された大名なんていくらでもいるわけでさ
戦国の時代に何年かでも激戦区で勢力を保っただけでも
一角の人物だと思うんだけどね。
本当に愚将だったら、攻められるまでもなく家が潰れるから
- 633 :
- >>628みたいなのを、この場でいちいち説得しても仕方ないだろ
何せ「革新者」として持ち上げられる信長に敗れた武将だから、
偏ったイメージで語られてきたのは当然の事。
400年の壁を埋めたければ、腰を据えて淡々と擁護し続けるしかない。
- 634 :
- 浅井長政が朝倉義景の下で戦って滅んだのが、義景の後の評価を貶める要因になってるな。長政は将軍家と天皇家を
輩出している。当然ながら、長政は悪く書かない。そうなると、他が悪いと転嫁するわけで…そのターゲットが
親父であり義景であるのだ。もし、長政がお市を嫁とせず、滅んでたら荻野直正くらいの知名度で終わりでしょう
- 635 :
- まあ、大概
信長・秀吉・家康と戦って敗れた連中は
引き立て役として過大評価されるか
その逆で権力者の強さをアピールする為に愚鈍だとか悪逆だとか書かれるパターンでしか
ほとんど資料に残らないからな
滅んだ大名側からの視点でも
身内同士で責任のなすりあいとかするから
滅亡時の当主は悪く書かれがちだし。
義景は歴代朝倉当主と比べて、特段変化があるような劣った政策をとったわけではないんだが
逆に言えば戦国の世の中で、そこから変化(脱却)できなかったところに
他の滅んでった多くの大名と同じように限界があったんだろうね。
本当の愚将は無茶な戦仕掛けて国人衆の離反を招いたり
重臣をバッサバッサと粛清して内紛で討ち取られたりとか
そういう連中を指すんじゃないのかね
- 636 :
- >>634
浅井が裏切らずに朝倉が金ヶ崎での時点で滅亡したとしても
今より良い評価をされていたと言うのかな?
- 637 :
- >>636
金ヶ崎の時点で浅井が裏切らなくても
周囲に敵を複数抱えた信長が、あの時点で越前の奥深くまで攻め込んで
滅亡に至るまで時間を使えたとは思えない。
浅井が動かなきゃ、他の敵対勢力のいずれかが信長領を攻めたでしょ。
- 638 :
- というか、朝倉が浅井の助けによって滅亡を逃れる程度の力しか無いなら、浅井が朝倉方にたって参戦するのが
全く意味不明なんだが。「浅井と朝倉は長い間、同盟を結んで特別な関係にあった」とか一般に言われてるが、そこまで
親密な関係であったとうかがわせる様な資料はどこにも見当たらない。浅井(長政)と朝倉が共同で戦ったのは金ヶ崎の戦いが始め
てで、それ以前にお互いに援軍を出した形跡が全く無い。朝倉は六角と組んで浅井を攻めたこともあるし、浅井も朝倉と敵対する
織田と同盟を結んで信長に積極的に協力している。どう見ても、元亀元年以前に朝倉と浅井が強固な同盟関係であったように思えない。
おそらく、朝倉と織田が事を構える時には浅井に相談する、という取り決めなど実際には存在しなかったろう。信長は金ヶ崎の時に、
浅井が参戦したと聞くや一目散に退却した。それだけ、浅井が朝倉方に立って参戦したことに驚いたのである。信長ほどの武将が盟約を
破った上に、浅井領内を堂々と通って越前を攻め、後方からの攻撃を全く警戒していなかったというのはありえるのだろうか。とても
信じがたい。信長が浅井と朝倉の関係がそれほど親密では無いと見ていた証拠であるし、逆に織田と浅井は親密な関係であると思って
いたのであろう。結論から言うと、浅井は朝倉氏を頼りになる存在と見て参戦した。浅井は決して恩に報いるためにあえて頼りない相手
の方に参戦したわけでもないし、朝倉と共に亡びる前提で織田方に戦いを挑んだわけではない
- 639 :
- どっちにしても長政がいたおかげで義景も世間的にそこそこの知名度があるわけで、
いなけりゃ北畠一族程度の扱いで終わり。
- 640 :
- うん?長政は何もしてないだろ?
それを言うならお江のおかげだろ?
それならわかる。
義影の場合は江戸時代にお江よって歴史を塗り替えられてしまったのが
一番痛い。
徳川政権じゃなく豊臣のまま
又は織田家だったらまたずいぶんと後世の評価も変わってくるだろう。
- 641 :
- 鳩山総理と似たタイプじゃないのかな?
- 642 :
- 別に秀頼政権が続いてたとしても祖父の浅井が英雄、朝倉雑魚史観はそのままだろ
もっと言えば明智が天下掠めてようと、信長時代が続こうと、どうしたって
義景暗愚説は覆えらない
- 643 :
- 分かりやすく言うと
信長天下人→天下人の義弟の足引っ張った馬鹿
光秀天下人→天下人を活用出来なかった馬鹿
信玄天下人→天下人に書状で非難された馬鹿
義昭天下人→天下人を見捨てた馬鹿
勝家天下人→天下人と同じ領土を持ちながら滅びた馬鹿
秀頼天下人→関白の祖父の足引っ張った馬鹿
徳川史観→将軍の祖先の足引っ張った馬鹿
皇国史観→天皇家外戚の足引っ張った馬鹿
どう転んでも馬鹿以外の評価下しようが無くなる
- 644 :
- んで、暗愚説って誰が唱えてんのよ。
まだ一人も名前でてねーぞ
そもそも朝倉は浅井の足をひっぱってはいない
独力で浅井が信長に反旗を翻す事ができたとでも思うのかよ
朝倉の後方支援あってこその寝返りであり、粘り強さだったわけだろ
- 645 :
- 事実がどうこうよりも、有力者の誰が天下取っても悪い評判しか
後世に伝わらなかったってことだろう、現状みたいに
- 646 :
- ifの話ばっかで愚将論とか言われてもな
どっちにしろ歴史の負け組みには表立った
>>635で書いたように、史書や軍記なんかにおける評価は2つしか用意されていないわけで。
そういった権力者や勝者側の記述だけを鵜呑みにするのではなく
実際にどういう動きがあったのか、何をしたのか、等々を調べる地方研究者の努力を無視すべきではないと思うのだがな
- 647 :
- そういえば
義影は小笠原流弓術の達人でもあったね
これは意外と言うと失礼かな?
- 648 :
- >>647
それなりの格式のある大名の当主は一通り弓術や剣術
茶道に歌道に蹴鞠など芸事も習うもの。
そういう文化人を呼んだりするのもステータスの1つでもある。
だからやってて当たり前。
- 649 :
- >>638
こいつこれだけ長文で持論を述べてるけど
一回たりとも朝倉関係の文献見たこと無いだろ
ここまで下調べなしで堂々と間違い書き込めるのもある意味凄いな
それと朝倉スレなんだからみんなせめて最後の当主の名前ぐらい正確に書いてやれよ
- 650 :
- 反論の提示も無しで叩くですかね。じゃああんたはどれだけの史料読んだのかね。
- 651 :
- >>649
よく読んだなおまえw
俺は改行がない長文だから読む気にもならなかったぞ
携帯から書き込んだのかね
- 652 :
- 長政の初陣の野良田合戦には朝倉家が援軍に加わって共同で戦ってるね
- 653 :
- ttp://bbs8.fc2.com//bbs/img/_135900/135820/full/135820_1276915281.jpg
ttp://bbs8.fc2.com//bbs/img/_135900/135820/full/135820_1276915569.jpg
初めて一乗谷遺跡に行ってきました。当時の生活様式がわかる遺物とか復元された屋敷とかあって面白かった。
特に上城戸という所からの眺めはイイヨ!(・∀・)
- 654 :
- 一乗谷っていってみたいけどアクセス悪そうだ
- 655 :
- 福井に行ったら冷たい御蕎麦がおススメ
ソースかつ丼は知名度の割にはがっかりかも
- 656 :
- >>655
それでお腹痛くしました(´・ω・`)
- 657 :
- 一乗谷の民宿はなかなか良かった
- 658 :
- なんかちょっと前にソフトバンクの犬の故郷って設定で出てこなかったっけ?>一乗谷
- 659 :
- 復元屋敷にポスター貼ってあります。デカデカと
- 660 :
- まあ、伝承の類なんだろうけど
可児才蔵が朝倉義景の子だって説があるんだって
岐阜歴史博物館学芸員の人が言ってた
- 661 :
- >>660
岐阜城の下のかね?
東軍次郎の伝承と混同されたような感じじゃないのかな。
- 662 :
- 孝景の頃は美濃との国境で小競り合いはあったみたいだけど
義景の頃って美濃とお互い山越えて小競り合いってなかったのかな
まあ、あの時代に軍勢が奥越を行き来するのはきついだろうけど
- 663 :
- それはどうだろうな。
戦争で不通になってしまった国鉄越美線や金沢から大野⇔本巣・岐阜市までを直結する
国道があるくらいなんだから隣国意識は現代より強かったと思うよ。
- 664 :
- 敦賀とともに大野も防衛上の最重要拠点なんだよな、越前の
- 665 :
- 保守age
- 666 :
- 悪魔の数字
- 667 :
- http://stat.profile.ameba.jp/profile_images/29/diletto-5/1238491344490.jpg
- 668 :
- 義景の介錯を務めたのって高橋景業?鳥居景近?
- 669 :
- 真木かげなおは?
- 670 :
- 【戦略級SLG】戦ノ国〜もののふ絵巻〜 其の参
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1285849758/
こいつでは珍しくレート高い
- 671 :
- >>16
この「一乗録」っての、まだ翻刻とか現代語訳とかされてないの?
- 672 :
- 朝倉家が宗滴亡き後ガタガタ崩れ出したってのは
大野派閥と敦賀派閥と当主義景派閥がお互いの主導権争いで
一枚岩になりきれなかったのが大きな要因なの?
- 673 :
- 義景の生き残った子が信景とか本当かな?
- 674 :
- 今日の近江〜越前間の豪雪っぷりをみると
織田包囲網を維持するのは困難って考えてもしゃあないよなあ
ほんと北陸って昔も今も雪による様々なハンデがあり過ぎる
- 675 :
- 手取川で大勝した上杉謙信がすぐに兵を退いた事や、柴田勝家が織田信孝や滝川一益を援護できなかった事は、
雪だから仕方ないと言うくせに義景が冬に撤退するとボロクソに言うんだからねぇ
- 676 :
- 謙信は手取川の後で能登・加賀・越前半分まで支配下におさめて国の仕置きしてから
退いたんだから十分動いてるだろ
「すぐに」じゃないな
- 677 :
- >謙信は手取川の後で能登・加賀・越前半分まで支配下におさめて国の仕置きしてから
加賀衆は上杉の支配下に入って無いし、柴田軍が占領していた大聖寺城が落ちた記録も無いから
加賀南部や越前を上杉が支配してるわけが無い。上杉厨の妄想ってすごいわな〜
- 678 :
- >>677
加賀松任城まで謙信が侵攻して制圧し、
そのまま加賀湊川に進出して手取川の戦いになってて
加賀衆も上杉勢と協力して戦闘に当たり、謙信の指揮のもと協力して戦闘する体制が
できてるんだから影響下にないとはいえないと思うが
この遠征前と後の勢力図を見れば十分に動いて成果を出したうえでの帰還だったと
いえると思うぞ
- 679 :
- >>676
できるよ。
以上。
はい、次。
- 680 :
- どっかの漫画で戦国時代は関ヶ原まで小氷河期が続いたって説が出てきたくらいだから
それこそ北陸の冬なんかもヤバいってもんじゃなかったんやろうな。
ただ信長が土下座涙目になったのが本当なら
よしかげはその時に殺せなかったのかなとは思う。
- 681 :
- 信長の降伏宣言に騙されちゃったからなあ
お人よしの義景
- 682 :
- 義景の場合自分の首が薄皮一枚で繋がってる事に気付いてない時点で最強にアホだった
冬だからって越前帰ったってそのあともう完全に詰んでるだろ
- 683 :
- >>681
そこに尽きるよな。
>>682
長尾だか上杉は冬場は関東に出稼ぎにいってたっけ?
確かに朝倉武田で挟撃出来たかな?ともな…
- 684 :
- あと二年も朝倉に比叡山で耐えろってか
まっすぐ帰っても越前のあの疲弊状態なのに
まだ織田と開戦してない武田待ちとかしたら
信長倒せても朝倉も自壊するだけだろう
そもそも織田と敵対関係になったのが問題
浅井通じて親織田路線を取るべき
- 685 :
- まあ、敵対路線をとったのが最大の失策だよね
敵対後は頑張った方だよ。
当時の越前は(今もそうだけど)有数の豪雪地帯だし
本拠一乗谷から近江に遠征するのは相当な負担だったと思うよ
信玄が怒ってるから冬を理由に撤退したのはアホとかいうのは単純過ぎる
- 686 :
- 本当に信長を挟み撃ちにするつもりなら、直接美濃に攻め込む筈なんだがな
信玄の行動を見ると漁夫の利を得ようという考えが見え見え
- 687 :
- そもそも、信長「包囲網」なんていう奴もいるけども
敵対者が多かっただけで、それぞれがそれ程連携してたわけでもないしね
そう考えると浅井の援軍に何度も北陸から近畿まで遠征してる朝倉なんか頑張ってる方だよ
- 688 :
- いわゆる信長包囲網というのが、足利義昭の手によって形成された とかいまだに思われてるよね
幕府滅亡の前年までずっと信長に協力して反信長勢力と戦ってきたのに
- 689 :
- 朝倉が頑張ってようが頑張ってなかろうが信玄いなきゃどうにもならんだろうよ
頑張ったから自分の首を自分で締めていいのか
- 690 :
- からあげ
- 691 :
- 朝倉義景が反信長で頑張らなきゃいけなかった理由が発見でもされない限り
義景=馬鹿は覆らない。
朝倉の旧臣連中が暴走したっていっても、
気が付いたら親父の代からの家臣が殆どいなくなってたって粛清好きだっているんだし
多少、武術の腕前があって学が有ったところで
愚かな引きこもりと呼ばれても仕方ないだろ
- 692 :
- 義景を強制隠居させるか首をはねるかして、景鏡が跡を継いでいれば滅亡しなくてすんだかもね
- 693 :
- >>691
新領地となった若狭の国衆が信長に通じて朝倉に反抗してるし、最初に喧嘩を売ってきたのは信長だし、
頭を下げて和睦をしながらすぐに破ったのも信長。これで仲良くなれというのが無理。
もっと勉強して書き込めよ
- 694 :
- 若狭の国人衆は信長に関係なく朝倉と対立してきたし
志賀の陣の和睦なら双方が求めたことで、むしろ先に講和を求めたのは朝倉
- 695 :
- そもそも信長の時の朝倉も
秀吉の時の北条も
「上洛してこいよ」ってのは事実上「臣従しろよ」って事であり
そうなれば領地は大幅に削られるし、家臣団への求心力も急速に失われる
おいそれと「はいわかりました」と返事ができる事ではない。
それで命令を聞かない=上洛してこない=降伏しない
ならば攻めてやるわ、ってんだから敵対するにきまってるだろ
- 696 :
- >>694
志賀の陣で朝倉方から講和を求めたなんて信じてる学者なんていないぞ。信長公記鵜呑みにしてるのか?
大体、信長の支配下の京で朝倉が朝廷や将軍家に調停工作依頼できるかよ
- 697 :
- >>695
上洛しろよって言われる状態になるのがすでに負けてるわけで
信長相手に上洛しろよって言う立場になるか
上洛の際に歓迎される良好な関係になっておくか
領地を削られても何とかする統治能力を持つか
とにかく敵対しました→滅ぼされましたは最悪でしかない
- 698 :
- 結果論乙
- 699 :
- 史学ってのは結果論なんだよバカw
- 700 :
- 将軍が最初に朝倉を頼ってきてたんだから立場逆転の可能性もあったんだがな
まあ義景じゃ無理だが
- 701 :
- 義景が、というか朝倉家の立地(雪国・背後に一向宗・中央に近いようで遠い)や
家臣団や一族の不和などでいつ内部分裂が起こってもおかしくない国内情勢(これは祖父・親父の代からの問題で義景一人の問題じゃない)
などなどから中央へ打って出て三好を蹴散らすなんて無理。
他の大名のほとんどだって無理だよ。義昭が頼ったの織田・朝倉だけだと思ってるのか?
(若狭武田氏、紀伊国人衆、毛利・・・みんな上洛なんかやってない)
上洛成功した信長が異端なのであって
他の大名連中はまずそんな事できないよ
仮に義昭が武田や上杉を頼ってたとしても無理。
- 702 :
- 義景六角養子説はどうなったの?
- 703 :
- 一笑に付されてる
- 704 :
- >>703
そりゃそうですよね。養子を取るなら普通一門からとりますよね。
- 705 :
- モーニング娘。の愛ちゃん凱旋コンサートのついでに一乗谷にいくお\(・o・)/!
- 706 :
- モーニング娘。の愛ちゃん凱旋コンサートのついでに一乗谷にいくお\(・o・)/!
- 707 :
- 高橋愛、福井県民の誇れる唯一の有名人か
- 708 :
- 今日のヨーロッパ軒総本店
http://img713.imageshack.us/img713/1962/azuy5zbjbaw.jpg
- 709 :
- http://hello.uh-oh.jp/cgi-bin/aaa/img/hell76972.jpg
- 710 :
- ソースカツ家丼が・・・
- 711 :
- >>702
あれ、ウィキペディアにさも有力な一説かのように書かれてるけど
どう考えても特筆するようなレベルの話じゃないよなあ
- 712 :
- 資料館に行ったら朝倉の動員兵力が越前でもかなりあるのに近くに一向宗門徒さえいなければと思ったら残念。
- 713 :
- それでも朝倉宗滴が生きていた時は加賀に侵攻していたんだからそれほど悲観しなくてもいいと思う
それよりも朝倉家臣団の内部抗争の方がより深刻じゃないかな?
- 714 :
- まあ、その加賀侵攻で大した領土を切り取れなかったので
隣接してる国人衆が離反したり、一門衆の軋轢が深まったりとっていう遠因にもなってるような気がしないでもないけどね
- 715 :
- 大野郡司と敦賀郡司かな?切腹者まで出てるし。
- 716 :
- 宗家にたてついた景高の子の景鏡が大将というのは敦賀郡司家にはどうしても
許せなかったんだろうなあ。宗滴爺さんがそう教え込んだんだろう。
- 717 :
- 身内でもめてたら若狭や加賀に侵攻するぐらいがせいぜいのような。
- 718 :
- 若狭については三好との対立という背景もあるからなかなか面白いと思うよ
- 719 :
- で、真木景なおってだれの子孫かわかった?
- 720 :
- まあ朝倉家で不思議に思うのは何で謀反した家系の景鏡をあそこまで厚遇したんだろうね
父(景高)、弟は追放の憂き目にあってるのに景鏡は総大将に指名したり席次で優遇したり
景鏡の母である京都の公家の血が成り上がりの朝倉家にはとんでもないブランド価値があったのだろうか?
若狭も奪い取るよりも名門若狭武田家の血を受け入れる路線を選択して積極的に簒奪にいかないし・・・
朝倉家臣の名簿をみても名のある武将は敦賀・足羽郡司、府中・一乗谷奉行・三国船奉行派閥がほとんどで
あんまり大野郡司派閥で高名な武将っていないよね。平泉寺とかの僧兵隊が中心だったのかな
- 721 :
- 景鏡が義景に味方して景高を追い出したとか?
- 722 :
- >>696
信長公記でなく公家と寺社の日記にあるのだが
- 723 :
- 公家・寺社・宣教師の日記ほどあてにならんもんはないけどな
公家→大概が現地にいるわけではなく、「また聞き」の噂レベルが多いから誤報も多い
寺社・宣教師→上に加えて、敵対宗教が絡むと偏見が大分追加されるので話が大げさになったりする
- 724 :
- いまリイド社の雑誌で連載してる信長戦記ってマンガで
義景が信長や松永弾正を上回る程の策士&野心家で描かれてて斬新でおもしろいよ
今現在は金ヶ崎の撤退戦の前ぐらいの話で義景が信長軍を越前に誘い込んでみたいな話
- 725 :
- 鞍谷氏とどんな存在なんでしょうか?
朝倉氏の外戚の鞍谷嗣知が足利義昭を越前から讒言で追い出したみたいですが。
- 726 :
- >>723
当事者→直接利害が生まれるので自分に都合よく書く
編纂もの→書いたもの勝ちなので自分に都合よく書く
- 727 :
- 鞍谷氏ってほんまに足利義嗣の後裔なんかね?
- 728 :
- 仙石秀久(「センゴク」の主人公の権兵衛)さんが、幼少時に越前の豪族に養子に行ったけど、ここは朝倉の家臣?
- 729 :
- 403 :名無し曰く、:2012/01/13(金) 23:57:20.84 ID:dWO2rBeI
景鏡の抜擢は中央集権化の一環だろう
(問@朝倉宗家直轄地の大野郡を分郡支配に再度戻すという事は、中央集権化の真逆 の動きになるのでは?)
安嶋追放して古参の青木以外に高橋、鳥居らが新たに奉行衆として徴収
(問A高橋、鳥居共に生年さえも分からない新参奏者だが彼らの具体的な事跡のどのような部分が一乗谷城下の繁栄と結び付くのか?)
産業育成は山城や堺の技師招集や工房創設、座の安堵による徴税で
5000貫など多額の寄付や歓待を幾度も行い一乗谷の繁栄が記録されている
(問B文化人のみならず様々な職人集団が歴代当主の招きで一乗谷城下に流れ込んでいるのは間違いないだろうが、
どの地域のどのような職種の人々が義景の招いた実績なのか? 義景が一乗谷を窮乏に陥れたなどとはこちらも考えてはいない。
多額の献金や豪勢な宴は先代も先々代も催している事で、義景時代の資産は先代以前から引き継いだ資産が基になっているだけでは?)
軍事面は先代と評価方法の違いがあり過る
朝倉家では異例の当主出陣に覚悟がない訳ないだろう
義景が判断しないでどうやって宇佐山城を残し上洛して樫田に景鏡を派兵するんだ
(問C堅田の戦いは志賀の陣の一部でしかない局地戦ですよね?
しかも快勝した坂本・宇佐山の局地戦に至っては義景はまだ坂本に着陣さえしていないのに。
志賀の陣の講和条約も、結局は織田方の南近江利権は何一つ侵害されない織田有利の講和を飲まされてるし。
- 730 :
- 405 :名無し曰く、:2012/01/14(土) 00:16:31.84 ID:Bv+pDd/c
小松合戦では一問筆頭の景垙自害の混乱を収めた上で勝利
景垙自害の原因が景鏡、景健抜擢なのだから無策、準備をしない事はない
(問D景鏡や景隆(景健ではなくこの戦の副将は景隆)は無策、準備をしない事はないのは当然。こちらが質問しているのは自害騒動から
数日で急遽、出陣を決めた義景が準備出来ていたのかという事。あなたの職場で部下が進めていたプロジェクトを急遽、丸投げされたら
現場の事情に疎い上司のあなたはきちんと残った部下のグループを率いて自分の判断を優先してプロジェクトを円滑に継続できますか?)
何で若狭と福井県史に言及したのか知らないけど
義景の所領安堵や座の保護に若狭衆の動員は福井県史にも記されてる
(問E旧武田四老の粟屋・逸見・内藤・熊谷氏揃って反・朝倉の立場なのに、いったいいつどの武将に朝倉からの動員がかかったのか?
親朝倉筆頭の武田信方辺りにでしょうか?彼に対してでさえも1571年 の暮に所領争いの判断は足利幕府へ委ねよと朝倉は返答してるのに。
あなたの持論に対する、取りあえずの疑問点を6つ書き出しました。向こうのスレでも書いたようにこれをもって論破がどうのこうのみたいな
くだらない煽りあいは抜きにして是非、あなたの義景評を教えて欲しいのですが。
- 731 :
- いきなり何の事かと思えば・・・
ゲームでの話か
- 732 :
- >>686
最初に徳川叩いてから美濃に攻め込む手はずだっただけ
後ろつかれちゃつまらんからな
実際に徳川攻めと並行して東美濃岩村を攻略させて
美濃への通路をしっかり確保してる
>>687
随分連携してるけどな
反信長包囲網で信玄を中心にしてやりとりされた多くの書状の存在もしらんのだろ?
本当に信長厨って妄想だけで語ってて馬鹿丸出しだわ
- 733 :
- >>722
ちなみに何の記録?いってみ
ちなみに信長本人の書状で「畿内政治の事は朝倉浅井様のおっしゃる通りにいたします!」とかいう
降伏宣言丸出しのものが浅井宛に出されてるから残念でした
- 734 :
- >>733
……その記述がどの記録にあるか、いってみ?
- 735 :
- >>732
信玄主体の包囲網がある、でも勝ったのは信長ということになると
包囲網が存在しない場合に比べて評価的には信玄下げ、信長上げにならないか?
- 736 :
- >>734
俺のは信長が志賀陣で浅井宛に出した書状
で、お前のは?結局いつもどおりのあるある詐欺だろ?
>>735
どうやったらそうなるんだか
信玄が病死したから要が崩れて信長が生き残れただけ
戦略的には信玄の完勝
信長運が良かったね、ってだけ
結局400年前から変わらずの評価って事だな
ていうか、自分で包囲網云々言い出して出されたらその返しってのは
結局自分が言い出した事は適当でしたと認めてるって事でいいんだなww
本当に信長厨って姑息でワロスww
- 737 :
- >>736
信玄信長それぞれの戦略云々はおいておいて
包囲網が実際にあるなしで考えた場合
包囲網が「ある」場合は「ない」場合よりも信長が不利で信玄有利なじゃないのか
信長の評価を落としたければ、包囲網なんか無かった信玄雑魚だったほうが都合がいいわけで
信玄が強大で包囲網も万全というほど信長の評価も上がるよね
だから個人的には>>687が信長の評価が低く>>732が信長を高く評価していると思う
- 738 :
-
● ▲ ★ ● ▲
2月29日
サッカー日本フル代表
2014年ワールドカップ アジア3次予選 第6戦
日本×ウズベキスタン (愛知 豊田スタジアム)
● ★ ▲ ★ ●
- 739 :
- >>735
そもそもその考えに無理がある。信玄は石高が低く、むしろ信長から経済封鎖を食らって戦争に追いやられたに近い。
だから、信長は家康に対し浜松籠城を指示した(放っておけば信玄は無視するし、ある程度で干からびると予想)。
家康が挑発に乗っただけ。
正直、信玄なんて怖くないよ。経済封鎖されて暴れている北朝鮮みたいな存在だと思えば良い。
暴れたからと言って信長に何かあるわけでもないし。
あと、信長包囲網、作ったのは良いが烏合の衆だったね。
無能朝倉は問題外、浅井は力不足、三好三人衆も下火なうえに親信長勢力相手に押されていたしね。
将軍が手勢をもっと持っていれば可能性もあっただろうが・・・・。
- 740 :
- あげ
- 741 :
- 義景不憫だな
長政が将軍やら天皇家やらの外戚になったばかりに貶められ
天下人を三方ヶ原で大敗させた信玄が持ち上げられたばかりに、伊能文書引っ張り出されて貶められ・・・
- 742 :
- でも義景の事跡をいくら丹念に調べてもあの戦乱の世においては
戦略的にも戦術的にも褒められるような部分は少ないのは事実
時代が一時代前ならば名君と謳われた可能性は高いとは思うが
- 743 :
- 義景も将軍家に血を入れればマンセーされてたんだろうかw
- 744 :
- 義景が戦下手といわれてるけど実際に負けたのは刀禰坂の戦いだけ。しかも、その戦いも
浅井の武将の寝返りが原因の不運な敗戦。意図的に貶められてるね
- 745 :
- というか、逆に宗滴じいさんって過大評価されてないか
- 746 :
- >>739
お前は一体どこの世界の話をしてるんだ?
経済封鎖?一体どこの世界のなんていう資料に書いてあるというんだ?
またしてもお前の空想世界から出現した新資料なのか?
それともどっかの怪しい小説家のフィクションでも真に受けたのか?
実際の信長は信玄侵攻前には上杉と武田の和睦仲介とかをせっせとやっていて
信玄の軍勢が南下していくのを見て「これはきっと俺の仲介にしたがって、上杉攻めをやめてくれたんだ!ありがとう信玄様!」という感じで
お礼の手紙まで送ってるくらいだぞ
これで経済封鎖?戦争に追いやった?どこの世界の話だか
おおかた太平洋戦争の開戦にいたる流れでも流用したのか?
いい加減他所の歴史から都合よくひっぱってきて信長に都合のいい妄想歴史作るのやめろよ
現実には信長万歳の公記ですら「方々てふさがり」と嘆きまくってて
朝倉も三月には出陣してて来て
他の包囲網連中も一斉反撃に備えて動きだし、信玄も美濃侵攻に備えてる状況
実際は一年信玄の寿命があれば信長は余裕で殺されて終わりだっての
- 747 :
- >>737
お前も何をわけわからんこといってんだか
信玄が作り上げた包囲網があり、それが信長を絶体絶命にまで追い込んだが、
信玄の急死によって信長が辛くも命を拾った、これが現実
それなのに、いきなり「なかったほうが信長おとしめになるんだ!だから無かったことにすべきなんだ!」
とかそんな頓珍漢な誘導でひっかかると思うわけ?
実際には信長は信玄に翻弄されて死亡寸前だったのがまごう事なき現実
信玄急死で運がよかったね、ってのは400年前から変わらぬ評価だってわけ
お前の「個人的」は単にお前の願望が入ってるだけだろ
- 748 :
- これはどっちもどっちのレベルやね
- 749 :
- >>747
信長が信玄の攻勢で結構ピンチだったのを否定しているわけじゃ無いんだけどね
戦国大名としての評価として直接比べた場合
信長=信玄、信長<信玄、信長>信玄それぞれ個人差はあるだろうが
信玄が雑魚である、包囲網は無かったほうがそれに苦戦した信長の評価も相対的に下がるし
信玄が強大である、包囲網は完璧だったというほど信長の評価が上がるだろうってことで
- 750 :
- >>746
荷留って知ってる?港湾を持っている大名は、敵対大名の勢力圏に対し物資の
禁輸を行うことだが。20世紀、アメリカが太平洋戦争の直前に日本にやったことは、
500年前は全国至る所で行われていた。で、信長は堺、津島などに大規模な港湾を
持っており、武田信玄に対して荷留するぐらいどうってことはなかった。事実、
武田信玄は弾薬などが不足していた証拠が見つかっており、穴山梅雪に敵のふり
して鉄砲を仕入れろ、という命令をしたことが残っている。
ついでに言うと、謙信の場合、信長や柴田勝家が露骨に荷留を命じた記録が残って
いる。上杉謙信も経済封鎖されて70年前の日本みたいに出てきたと言える。手取川
というかもしれないが、あれは羽柴秀吉と柴田勝家が内紛状態だったために負けた
わけで、割り引いて評価すべき。
- 751 :
- うほほ
- 752 :
- 義景って愚将なのかな・・・
朝倉氏好きなんだけど
- 753 :
- 義景が愚将なら信長があそこまで本気にならないだろう
- 754 :
- 義景個人が暗愚だった事だけが理由で朝倉家が没落した訳ではなく
朝倉家自体が時勢を読めなかったり時代の変化に上手く対応出来てなかったのが没落の最大要因でしょう
当主が義景であれ景鏡であれ景健であれ誰であったとしても朝倉家自体に危機感が無さ過ぎる
名門ではないけれども名声も資金もここ何代かで手に入れまくった恵まれた恵まれた環境のせいで意識を大幅に変えられない家風が根付いてしまった
そんな状態の中で暗愚な人間が当主になって滅亡が少し早まっただけ
ただ暗愚ではあるけれども一部経済活動において当主としては平均点以上ではあると思う(外交政策や戦争面ではさっぱりだけれど)
- 755 :
- 朝倉家って基本平和だったんだよね
教景でさえも生涯12度しか戦出てないんだっけ?
- 756 :
- 信長公記のデタラメと違い、
実際の記録では朝倉方が勝ち続けてるだろ。
湖北を勢力圏に京へ行けるから、
単に湖南から京への進出意思が全く無いだけの話で。
そもそも朝倉は浅井への義理で見捨てるにしのびないと出兵してるだけで、
織田に遺恨無いから織田を侵略してつぶす戦意もないから士気も上がらない。
現状維持が出来ればいいな程度。
結局、撤退に失敗して滅亡。
- 757 :
- 戦術的勝利は重ねていたものの戦略的大勝を得られてないのはねー
- 758 :
- >>747
お前さ、
銀英伝の影響受け過ぎアホ過ぎワロタw
戦略とか信長こそ欠如してんじゃんよ
- 759 :
- 謙信が下野や上野の領地を手に入れても冬期間に離反されたり、再度奪われたりする現象からみても
降雪量の多い国は他国へ侵攻して領地拡大出来ても、その支配統治がちょっと難しいな
そういった点からみても、他国への応援派兵に徹していた孝景の戦略は手堅く感じる
裕福な越前の周辺を親朝倉国で固めようとする戦略的方針は幕府権力が健在の時代なら正しいのかも
他国を奪うならば冬期間は敵国の離反工作に徹して、雪解けと同時に一気に大兵力で侵攻
たとえそのまま領地拡大出来ても、地元の領民に一向宗が多くてそんな単純な話ではないんだろうけどね
朝倉も何度か短期間だけ加賀南部を支配下に置いてはいるけれども、有能な一門を配置するでもなく
小身の内衆を城代に置くだけで、本気で長期間、南加賀を維持しようと考えていたようにはみえない
こういった部分が朝倉家と織田家の強さの差のような気がする
- 760 :
- 長政が引きこもりの義景引っ張り出すために
「今信長は湖北にいる。長島で一向一揆が蜂起して信長の退路を断った。今こそ信長を討ち果たす好機!だから早く来て!」
と嘘の密書を送って、義景それにまんまと乗っちゃったってホント?
- 761 :
- 長島で一向一揆が蜂起して
織田軍を半殺しにしてるのは事実だよ。
- 762 :
- >>761
逆に、あそこまで織田一族を殺していたから、長島の一向一揆は皆殺しに
なったと言える。あそこのデルタ地帯はマジで無人地帯になった。
(すぐ入植したけどね)
- 763 :
- ちなみに、無人地帯になった証拠。証拠出せ、と言われるのは目に見えているから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%AF%8C%E5%B8%82
- 764 :
-
./ / / \ ヽ \
/l゙ / / リ リ ハ、 ヽ \ 、 `、 ヽ
/l゙ / / / / // / | l lヽ 丶 丶 ヽ ゙、 ゙i
.| / / / / / // / | || ゙、 ヽ ヽ ゙、 ヽ i、
l゙ .l / / / // // / | | ゙、 丶 ゙、 ゙、 ゙i
.| │ / // /l / // ヽ i ゙、 ゙、 ヽ |
│ | ハ /,,,////"ヽ;;;,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,_.,_ \ ヽ ゙、 |
ヽ ` ノ;;;;ヽ;ノ;;;、 "'''''''''''''''''''"""゙゙"ヾ、゙ヽ、 |
ヽ ノ ,,r''''ー、 /⌒゙゙`ー 、_ ゙ヽ、゙ヽ、 /゙ヽ i'
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ヽ、ト-'" ;';';'O) ヽヽ / ;';';';';';' ノ=ー- ミ /ヽ ゙i | /
,) ヽ ';';';'ノ, ゝ `゙―ー"' ''' ミ ノ | | /
/ ` ̄ ..,, ノ ー - 、 _ ミ彡" ヽ ! /
/ / 川 ノ ノ ,/
| / 、 川 ( / /
゙l / ` ;; 川 _/ /
゙、 ( 丿` ' , ノ リ |ヽ、__,,r''" / あーさーくーらー
ヽ '"ヽ、__,r-'''"゙ ー - ' " .l /
゙、 、._._.,,.;;-ー----、、、,,,,,______ i /
ヽ ゙ヽーー--=--ーー''""" _,,r/ ! {
゙、 ゙、゙、 _,,r''"/ ノ .|
゙、 ゙、ヽ、_,,,,,rー''" / ,ィ リ
. ヽ、 ゙、 _,,/ / ゙i リ
\ ゙、=-=''" ,/ | ! ,リ
ヽ ー-ー _/ | ハ/
`ヽ / ,_/ |ヽ、/
`ヽ _ノ,,;;r'''"" |
\ _,,,r'" |
`ー--‐'" |
- 765 :
- 義景は百年後、二百年後もボンクラ大名扱いされてるのだろうか
- 766 :
- 朝倉義影の三女の嫁ぎ先ってどこかわかりますか?
- 767 :
- >>766
ちょっと前に見た情報では吉田郡の国人越前波多野氏か
奥越の大野氏とかいう国人だったか有力家臣だったかのどちらかに嫁がせたみたいな記事を見た気がする
うろ覚えなので確実とは言えない情報だけど
ついでに義景の姉だか妹だか従妹だか叔母なのかは忘れたんだが
越後長尾氏に嫁入りした朝倉氏の女性は長尾一族の誰に嫁いだかご存知の方いますか?
うろ覚えの記憶では妹(姉)?が謙信に嫁いだという記事を見て驚いた記憶が
- 768 :
- レス書き終えてから思い出したけど
三女の嫁ぎ先は大野氏だったと思うわ
- 769 :
- 大野氏ですかありがとうございます。
おばあちゃんがご先祖様が朝倉義影の家臣で三女を嫁にもらったと言っていたので気になっていたんですがばあちゃんの勘違いみたいですね…
- 770 :
- >>769
ろくに何の資料に記載されてたかも確認せずに書き込んでしまったので間違いのようでした申し訳ない
義景には亡くなった女性も含めると歴代3人の正室がいて娘は全部で4人生まれている
そのうち上の2人の娘は早世していて三女がかの有名な本願寺教如の正室となるべく大坂へと落ち延びて行った
そして四女は現在の鯖江市西山公園近辺の寺にて尼になったようなのですが
どこかの記事で朝倉家中の大身ではない武将に義景の娘が嫁いで〜といった記事を見かけた記憶もあります
ネットで色々な朝倉氏の記事を見過ぎてちょっと記憶がはっきりしませんが該当する記事を見かけたら又書き込みます
- 771 :
- 「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」
- 772 :
- "The warrior may be called a beast or a dog, the main thing is winning."
- 773 :
- 朝倉は、鞍谷刑部なる外縁を早めに経ちきるべきであった
- 774 :
- >>770
大野三河守は義景の妹婿ね
>>773
鞍谷刑部は名目上の主君だから追放したら内乱の元になるでしょ
- 775 :
- 鞍谷を蔑ろにしたところでそれに対して異を唱える勢力なんて
越前国内では旧臣である国人の池田氏ぐらいなんじゃないかな
それを証明するかのように鞍谷の娘を義景の2番目の正室に迎えた後あっさり離縁してなかったけ?
- 776 :
- わざわざ西軍から東軍に寝返ったりして危ない橋を渡ってまで越前守護の正統性を確保したわけですから、幕府とのパイプは重要。
しかし鞍谷なにがしは幕府とのパイプにすらなっていませんな
- 777 :
- 足利一門の鞍谷氏を追放したら将軍家が黙ってるとは思えないけど
- 778 :
- 将軍家も細川氏も動乱の渦中にあったから何も出来んよ
- 779 :
- 織田信友が斯波義統を殺して、信長に大義名分を与えたように
朝倉義景が鞍谷氏を廃したら、景鏡あたりに大義名分を与えるだけ
- 780 :
- 鞍谷御所から真柄館まで現在の舗装された道路で徒歩40分ぐらいなんだね
支配地が隣り合ってるし交流もあったのかな
- 781 :
- 姉川の戦いに義景自ら出陣せず朝倉景健を派遣したことが浅井の戦意を下げたと「その時歴史が動いた」か何かで昔やってた
- 782 :
- 朝倉家では軍奉行を派遣するのはいつものこと
ていうか当主親征の方が珍しい
- 783 :
- >>781
俺が見た記述では長政が更なる後詰を義景に要請→義景が拒否→布陣を決めきれないままに開戦してしまう
みたいな感じで長政が落胆したみたいな感じだったかな
ただし先陣の景健の軍勢だけでも十分多く派兵してるし朝倉の当主は戦地に赴かないというのは
朝倉の家訓としては昔からの基本項目だし仕方が無い面もある
南加賀攻略時の義景初陣の際の義景の戦地での動向を知ったら朝倉家当主が現場に来ても来なくてもどうでもいい存在だってのが良く分るはず
- 784 :
- >>782>>783
説明サンクス
- 785 :
- 朝倉の当主は戦地に赴かないという家訓はどういう理由でできたのですか?
過去の当主に討ち死にがいたとか?
- 786 :
- >>780俺家が近所なんだけど真柄直隆が生まれた館だとだいたいその程度の距離で
直隆が実際生活してた館からだと約半分の距離にまで縮まるよ
- 787 :
- >>785
当主は出陣しないのが決まってたわけじゃなくて、宗滴という傑出した武将が一門にいたことと
朝倉氏の軍事行動の多くが他国への援軍が主で当主が出ていく必要性がないことが原因
- 788 :
- 軍事面では朝倉景冬や朝倉光玖の活躍の方が特徴的だと思うよ
- 789 :
- >>787>>788
thx
- 790 :
- 元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。
- 791 :
-
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。
嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
- 792 :
-
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押)
一色駿河守殿
真木嶋玄蕃頭殿
加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。
神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人
関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。
織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。
鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。
- 793 :
-
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
- 794 :
- 2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
- 795 :
- 今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
- 796 :
- 天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に明智城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
続いて高天神城も勝頼に落とされるなど織田は連戦連敗・・・
- 797 :
- まぁ義景自らが指揮した
刀根坂で追撃されて大敗した唯一の敗戦以外では
朝倉軍は常に織田軍を圧倒していたからね。
- 798 :
- キチガイ秀吉アンチのアホは松下文書どころか志賀の陣の翌年の元亀2年5/11付けの
徳山宛の秀吉書状すら知らずにデタラメ書いてる愚か者。
5/6に堀秀村の箕浦城を長政が派遣した5000で攻撃されるのを察知した秀吉が
横山城を出陣して箕浦城に入った後、下長沢→八幡(長浜)で戦いが続き
秀吉軍が浅井井規と湖北十ヶ寺一揆連合軍を打ち破ったのも知らん無知ぶりを晒し
箕浦合戦は捏造とか連呼する救いようの無いバカ池沼。
総見記には元亀3年に浅井井規・赤尾清冬らがまた横山城を
攻撃してきたが、横山城から竹中重虎が、
背後から秀吉が攻め懸かり挟撃される恐れから浅井軍が撤退したとも書いてる。
以前として秀吉も苦労していたようで、宮部継潤らを調略して自軍強化してる。
信忠の初陣では、無謀な山本城攻めを秀吉はさせられるなど信長がやってくると散々。
この時期、松永久秀も近江に7/7までに来ないと許さんと
追い詰められている信長に無茶を命じられキレてるほど織田軍内は険悪。
宮部継潤らが味方になったことから信長は横山城との連結が可能となった虎御前山に7/27に築城開始。
8/28暴風雨を利用して朝倉景盛が柴田の城郭を放火したら
どんどん延焼して織田軍は大混乱になるなど苦戦続きの織田(9/5長政書状)
これにこりた信長は宮部城を修復し佐久間隊を入れ、
虎御前山と宮部城に土塀と堀で囲った軍道を作ることになる。
9月に入り、ついに信玄西上開始。
- 799 :
- 圧倒どころかむしろ朝倉の兵(というか越前の民)は弱兵の部類に入ると思うよ
朝倉の兵は他国の兵と比較すると長刀で武装している比率が高すぎて乱戦・籠城戦が不得手とみられていたし
加賀一向宗相手に無双してた時期は一向宗に具足禁止令が出されていた軽装時代だし
加賀南部を取られて危機感を持った一向宗の具足禁止令が解けたのを境として一気に越前国境まで押し込まれている
手筒山・金ヶ崎・疋田の陥落時も景恒が敦賀の領民に城への籠城と防衛への協力を要請したのに
長年朝倉領の地であったにも関わらず領民から防衛協力を拒否され逆に織田軍に加担され落胆した景恒の入仏の遠因になっている
滅亡時にも一乗谷朝倉館のすぐ近くに築かれた一乗谷城への籠城志願兵も集まらず逃亡が相次いだ
- 800 :
- アスペルガーだがの自作自演工作のリスト
ID:sqRAU7+v=ID:1HdwEKIH
大友氏について語ろう2
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/790
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/792
【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/790-796
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/797-798
織田信長は過大評価されすぎ11
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/81
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/83-86
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/106-107
武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/291-293
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/304
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/307
天正10年の武田攻めを語るスレ 4
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/388-389
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/391
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/393
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/402
関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/873
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/878
武田信玄上洛成功part2
ID:sqRAU7+v
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/459
ID:1HdwEKIH
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/493
自演がバレてないとでも思っているのか?
おまえ馬鹿だろ?
- 801 :
- 9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
- 802 :
- えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸す
トイチ金融まで京で始めてるし…
天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、
上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
(天下の政治は何事につけてもこの信長に任せ、誰にも限らず、
将軍の上意も得ずに信長の分別により成敗を加えることができること)。
- 803 :
- 朝倉始末記には天正2年10月中旬に朝倉出雲守騎下が虎御前山城に放火したところ
風雨のため陣屋700余りが燃亡したとしている。
この時に浅井・朝倉軍が全力で討ってでたなら虎御前山城も落せたと皆々が申していた。
そのため皆々が過分な褒美がもらえるものと思っていたが、
しかし義景から褒美がまったくなかった。始末記は朝倉滅亡の原因として、
これに前後して有能な大将が病死したり、卒去したり酒死したりと若輩ばかりになっていた点と
信長と違い、功ある者に賞を与えなかったことを挙げている。
信長はこの時の敗戦が原因で虎御前山から宮部まで堀と高塀を築いて、
10/16その高堀の陰に隠れながら美濃へ逃げ帰ったので朝倉軍は気づかなかったとしている。
そこで朝倉軍は大嶽の城丁野の城に番兵を配置してから11/3に帰陣した。
公記が隠蔽して一切書かない山陰戦線
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。
- 804 :
- 訂正
天正2年10月中旬
じゃなく元亀。
- 805 :
- 朝倉軍が常に信長を圧倒しまくってたのに
元亀4年の撤退戦に大失敗したばかりに滅ぼされてしまった。
義景は項羽のようなもんだな。
いかに殿が難しい役目かが理解できる。
- 806 :
- てか
足利義秋を逃したのが痛すぎるな。
- 807 :
- >>799
朝倉滅亡の原因は嫡子に恵まれなかったことがよく指摘される。
義昭が非公式・公式で義景の邸を訪問した際にも
義景の後継や子の後見の立場が関わるため
席次を争う敦賀郡司の朝倉景紀・景恒親子と
大野郡司の朝倉景鏡は険悪で
宴が何日も続いたが決して同席しなかった。
ちょうど其の頃に一子阿君も毒殺されたとも言う。
信長を討つ最大のチャンスであった金ヶ崎の時も
最初期の信長の侵攻の時に景恒が守備していたが
府中まで出陣していた景鏡は彼を助けるそぶりをまったく見せず
織田追撃にも参加しないありさま。
ここで景鏡が大軍で織田を襲っていたら信長は死んでたろうが
景鏡は敦賀郡司の滅亡こそ望んでいた。
結局、景恒が金ヶ崎城で織田に開城した事実をネタに不甲斐無しと糾弾し引退に追い込まれてその年のうちに失意の死に
景紀も敦賀郡司職も廃止で失意のうちに死去。
(兄の景?も景鏡と大将の座を巡り口論の末に自決してる)
志賀の陣の時に朝廷が和睦斡旋に来た際に双方が人質交換をしたのだが
そもそも和睦など考えもしてなかった義景には出すべき人質がいなかった。
それでも朝廷に強く言われ家臣の子を出すしかなかった。
そのため織田方も家臣の質を出すと言うことで決着した。
そこで朝倉奉公人の魚住氏や府中奉行の青木氏などの子を出した。
さて信玄死後のこと、浅井を救う為に近江出陣の軍役を課したところ
子を人質に出していた魚住と強欲景鏡が疲弊を理由に出兵拒否。
それどころか朝倉軍が敗北したと知ると
越前侵攻の道案内を勤めたのが逆臣魚住景固であり
景鏡は頼ってきた義景を討った逆臣となった。
そして景鏡は信長から一字を貰い受け土橋信鏡と改名。
実質的に朝倉軍の総大将であった景鏡の大逆無道ぶりと朝倉家横領を夢見たがゆえに朝倉滅亡を呼び込んだといえる。
このように戦国最強の信玄という武威が消えた時、
内紛を抱えつつも巨星来るを支えとして
ごまかしごまかし戦っていた朝倉は
その内部矛盾を抑えることが不可能となり見事に瓦解した。
まさに蘆名家の末路のように自壊したと言えよう。
- 808 :
- 2/26の長政書状には津保や加治田の話が出てるついでに
朝倉軍ももうじき出撃するとも書かれている。
西近江高島郡の多胡宗右衛門も3/18に朝倉義景から
近江十条坊城の支援頼むわ〜うちもお前に援軍必ず出すからと言われてるし
事実、4/7には近江で普請してるからそっちへの援軍遅れるわ〜って
朝倉義景が多胡宗右衛門に書状を出してるから、
すでに朝倉先陣は4月には近江に来てるのが分かるんだな。
多胡宗右衛門は8月に義景が織田に大敗して敗走したのを見て
織田に降伏して領地を安堵されてるから、信玄西上中での織田への裏切りは
あまりに多くて信長も不問にせざる負えなかったんだろうな。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
3/19の謙信→織田家臣の長景連への書状でも
3/11には一乗谷から出陣した義景が越前府中まで到着してるのに触れている。
その文の中で謙信は信州と濃州の境を用心をして油断するなと信長へ強く警告している。
信玄が三河から美濃へ転進する情報を謙信は得ていたのだろう。
其の日は続けて2通出していたようで、別文書では3つの条文をかかげており
1.この書状は焼き捨てること。
2.比叡山再興の説得に信長は納得したので信玄が比叡山復興を掲げているのも失手となるだろう。
3.浅井の身の上も朝倉が主張することは尤もなので、その通りにすることで
信長と家康の分国は静かとなるので、
これをもって私と信長と家康で申し合わせれば〜と書かれており
信長が全面降伏モードで比叡山・朝倉・浅井を許すから謙信様助けてくださいと言っているのがわかる。
- 809 :
- なんでだがさんが朝倉スレに居ついてしまったのか知らんが
だがさんのコピペの朝倉氏に関する部分で所々間違いがあるのが気になる
まあだがさんは間違い指摘しても修正なんてするような人じゃないのでどの部分かは指摘はしないけどw
- 810 :
- 坂井政尚が討ち取られたことが
山名氏の織田からの離反と
丹波の赤井らとの呼応による
吉川軍の但馬侵攻フラグだから
朝倉軍は最大の効果を挙げているんだよね。
坂井政尚は柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成と並ぶ大将であり
そのうち2人まで討ち取る大勝ぶりだもんなぁ。
- 811 :
- 結局朝倉軍は前波を失った挙句当初の目的であった京制圧、信長軍の挟撃も果たせず、
比叡山に引きこもって判定に持ち込んだだけだけどなw
- 812 :
- それでも一矢も報い得なかった諸勢力に比べればよくやったと言えるだろ
ただ相手が悪かった
- 813 :
- なぜ義景は義昭を奉じて上洛しなかったのか?
- 814 :
- それどころじゃなかったからな
そもそも義昭が義景頼った頃は畿内は三好勢力一色で勝ち目なかった
信長ですら三好の残党にかなり手を焼いている
- 815 :
- 一向宗とガチってるときに三好にまで喧嘩仕掛けられないわ。雪降れば帰れなくなるし。
信長包囲網で本願寺と和睦できてやっと近江や若狭に侵攻できるようになった。
- 816 :
- >>811
あれは信長と織田軍団がバケモノだったからってだけの話なんだけどな
判定にすら持ち込めず逃げ帰った武田さんと比べちゃいけないぜ
- 817 :
- また無知の捏造大好きアホ織田チョンが暴れてんのか・・・
そもそも義昭が永禄10年11/21に一乗谷へ来る前から加越和睦が提案されていて
義昭が一乗谷へやってきて再度の義景への提案を受け入れ
12/12に加賀から杉浦氏の子息が人質としてやってきて
一乗谷の安浪賀に幽閉されてるし
和議成立の証として加賀一向宗方は柏野と松山の城が、
越前方では加賀での最前線だった黒谷・檜の屋・大聖寺の城が
取り壊されて緩衝地帯化されてんのも知らんとかw
これを受けて12/25に義昭は義景の館へ訪問してる。
実際、この後に越甲相の同盟成立寸前までいっていたが
本庄の乱で謙信は出羽方面になってしまう下越の阿賀北まで出兵することになり
加賀経由で越前へ行くことを断念することになったから
義昭は再度、信長を頼ることになっただけの話。
ちなみに都から遠くなると嫌がっていた義昭が
やむなく越前まで逃亡して義景を頼らざる負えなくなったのは信長のせい
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。
- 818 :
- 誰も読まない長文爆撃ご苦労
読む価値すらない捏造文だしな
- 819 :
- だがさんは朝倉の話題をダシにして単に織田ageか織田sageかの話題をしたいだけで
だがさん本人は朝倉に対して興味も知識も無いよ
資料名と日付を書き込むとそれなりに信憑性がある風に装えて
だがさん博識〜みたいな感じで羨望の眼差しを受けれるとでも思ってるんだろうね
全部後世に残った織田・徳川側の資料の朝倉氏に関する記述を抜き出して語ってるだけ
おそらく世間一般の戦国時代に興味のある人なら一度は目を通した事があるようなメジャーな資料ばっかりw
でもだがさんが朝倉に対して少しでも興味あるなら他のスレみたいに出てけとは言わないので書き込めばいいと思うよ
- 820 :
- だがさんはもう何かいても相手にされないからなぁ。不憫だ。
- 821 :
- >>814
織田厨は無知すぎ。
其の頃の三好は分裂していて
義継+久秀+雑賀衆+紀伊畠山
と三好三人衆が争って畿内は内乱により足利義栄も摂津で足止め。
しかも臆した信長が斉藤を騙し討ち奇襲ののちに大敗するまでは
大和の国衆も六角も能登畠山も義昭擁護側にいたので上洛は
比較的簡単な情勢だった。
信長が臆したことで義昭の上洛が不可能と断じられてしまい
義栄の将軍職認可につながってしまった。
- 822 :
- 観音寺騒動以降、二派に分かれた六角氏だったが
信長が臆した挙句に逆切れして斉藤攻めして敗北したことで
六角で主導権を握っていた義昭擁立派は劣勢に立たされ
六角義治が三好軍を呼び込み
義昭が若狭を経て朝倉を頼るほかなくなった。
- 823 :
- >>811
志賀の陣は織田が土下座して許しを請うただけだけどなw
- 824 :
- だがにとっては朝倉・浅井はエピロス王ピュロス並みの力量だったてことだろ。
- 825 :
- 北近江の一勢力浅井如きが朝倉と同格とは片腹痛い
- 826 :
- 浅井が朝倉の配下であったなんて説は極端な話過ぎて信じがたいけど
勢力規模、家格共に数段落ちる従属的同盟者って感じだと思うんだけどな
- 827 :
- >826
浅井と六角が争っていたころは朝倉六角の緩衝地としての浅井の支援者
朝倉が六角と直接戦う気はなかったから浅井を支配下に置くということはなかっただけ
織田と戦うようになった当初は一応対等で朝倉に支援を求める間柄
浅井がジリ貧になってから従属的になった
あと一年浅井朝倉が滅びなかったら完全に朝倉の家臣になっていた
完全に家臣になる前に滅んだから紛らわしいことにw
ようは信秀と戦っていた松平が今川の家臣になった流れと同じだ
- 828 :
- >>817
>>加賀での最前線だった黒谷・檜の屋・大聖寺の城が
取り壊されて緩衝地帯化
こういうの見ると朝倉の駆け引き交渉下手っぷりがわかるよね。
宗滴が必死に攻め取って確保した地域だしね。
まぁこれがあったからのち本願寺教如と義景の娘が婚姻するまでに発展できた端緒と言えるのかも知れんけど。
そういや大聖寺城は裏切り者の大野郡司朝倉景鏡と朝倉景隆の両大将が指揮して加賀侵攻したときに
景鏡によって宗滴の養子の敦賀郡司朝倉景紀の息子景垙が自害に追い詰められ朝倉軍が内部対立で崩壊し
やむなく素人の義景が出陣してきて(朝倉当主自らの出陣は1495年以来の70年ぶりの珍事)指揮を執って湊川まで進撃して
大聖寺城に兵を置いて帰った地だよね。
もともと朝倉家当主争いの後も席次で争っていたけど
この事件によって問題が具現化してしまい
信長の越前侵攻では敦賀軍司へ援軍を出さない大野郡司と言う構図に発展するんだよな。
敦賀軍司家を守って維持してれば大野郡司の専横の末の裏切りで朝倉軍が滅亡することもなかっただろうにね。
朝倉内でナンバー2だった景鏡を排除していれば内部対立と朝倉簒奪のために信長に義景を売ることもおきなかっただろうに。
宗滴家を潰すなど、まさにこいつは奸臣だよな。
- 829 :
- だがさん朝倉の事少し勉強してきたのか凄いじゃん
このスレではちょっとマイルドなキャラで書き込んでるし
他のスレで暴れるのは結構だけどこのスレでは仲良くやろうぜ
- 830 :
- まあ信長なんかとの志賀の陣での講和条件なんかからみると
駆け引き交渉下手なのは間違いないけどね
ただ一向宗との和睦に関しては朝倉側にもそうしたい理由があったんだよ
兎に角朝倉家としては越前国内が戦場になる事を一番嫌っていたフシがある
越前に下向した下間頼総が戦上手であった上に堀江氏の内応によって
越前国内に約60年ぶりに戦火が持ち込まれ三国にあった古くからの市が焼かれ
次に一向宗が狙ったのが朝倉が整備に力を入れていた三国の唐人街・問屋だった
なので加越国境に位置する五つの城を破却する事という条件での和睦は朝倉側にも魅力だった
その五つの城が越前侵攻の一向宗側の拠点となる可能性がかなり高かったからね
- 831 :
- それと朝倉が手に入れた南加賀(約二〇万石)での利権・収益も朝倉側はそれ程重視していない
朝倉が統治していた約三年半の間の収益のほぼ半分を本来一向宗側であった在地国人勢力に反乱しない事を条件に譲り渡している
朝倉側としては加賀の地を手に入れたかったのではなくて戦線を加賀側に押し戻す事が最優先だった
- 832 :
- それと金ヶ崎防衛の際に関してよく景鏡率いる援軍がわざと進軍を遅らせる事によって
金ヶ崎を落城させ敦賀郡司派閥を追い落とす事に利用したって語られる事が多いんだが
実際の景鏡はどうやら金ヶ崎援軍には加わっておらず大野郡からの織田勢の侵入に対する防衛の任を与えられているみたい
実際には大野郡の摩耶姫湖の湖畔を警備、その後、越美国境を越えて美濃垂水にて放火ってのが景鏡の動きのようなんだが
おそらく景鏡を朝倉滅亡に導く奸臣って事にしたいが為に後世の人に捏造されてるのではないかな
- 833 :
- >>821
斎藤が騙し討ちにしたことを「織田が騙し討ちにした」と言い張るアスペだがには恐れ入るw
10代のガキをだまし討ちにして負けた織田になぜか美濃三人衆ほか諸勢力が協力するダブスタっぷりw
しかも斎藤の言い分がまた酷く、中島文書によると
「足利将軍を軽く見るつもりはないけど織田は別、だから織田軍を攻撃するお」と
織田信長が足利義昭の和議上洛を快く受け入れていたことを知った上でのこの不意打ちと悪態っぷりはどうしようもない。
結局信長が予想外の攻撃で義昭に協力できなくなり義昭の越前朝倉入りを作った張本人なのに
「信長は雑魚、足利のことも何も考えてない悪逆非道」と言いながら「あ、でも斎藤も足利に協力できないんで」と
足利義昭の構想する織田斎藤和議による上洛作戦は斎藤龍興のわがままであっさりおじゃん。
当然こんな悪逆非道が許されるまでもなく、織田信長の美濃侵攻から上洛まで足利義昭は一貫して親信長につき
斎藤が逃げた朝倉にはあの手この手で難癖をつけて討伐させようとするくらいの徹底っぷり。
- 834 :
- >>833
はいはいデタラメ乙
義昭は閏8/26の書状の中で
織田の斉藤への不意の暴虐を聞いて
「尾州への矢止の儀について
人質の交換にも同意してくれ
喜んでいたところ、突然の信長の乱入に驚き入った」
とまで書いてるのに、なに歪曲捏造してんだw
- 835 :
- >>832
>>大野郡からの織田勢の侵入に対する防衛の任を与えられているみたい
>>大野郡の摩耶姫湖の湖畔を警備、その後、越美国境を越えて美濃垂水にて放火ってのが景鏡の動
これなんの史料に載ってんの?
景鏡って義昭が義景の邸に来た時も
朝倉一族を挙げて出席し歓待の宴が何度も催されたにも関わらず
敦賀郡司との席次を争い同席を拒否して出席しなかったほどの度量の狭さだろ。
こんだけ対立してたら織田軍の侵攻を喜んで、敦賀郡司を助けないというのも筋が通る話でしょ。
しかもこの失敗をネタに敦賀郡司家を不甲斐無しと徹底的に批判して家自体を潰してるし。
義景は信長のように略奪恐喝などで資金調達してるのではなく
貿易利潤によるもので財政を支えていたといえるね。明船も越前に入港していたようだし
島津へ琉球貿易を提案して同意をもらった返事の義景書状もあるし、結構開明な人物だよね。
- 836 :
- >>833
>>「足利将軍を軽く見るつもりはないけど織田は別、だから織田軍を攻撃するお」
こんな文章まったくないしwwwデッチあげ作ってんじゃねーよカスw
- 837 :
- ついでに言うと
中島文書の斉藤側の閏8/18の書状の中でも
「対尾州へ我らに矢留の儀に同心して忠節」と
書いてたり
織田の斉藤への不意の暴虐を書いているなど
ほど義昭書状と同内容が書いてあり
斉藤側の書状が正しいことへの裏づけにもなっているのが
名古屋市博物館所蔵の義昭書状。
また織田尾張守出勢相違故って言う9/13の上杉家文書の義昭→上杉書状でさらに裏づけが取れる。
- 838 :
- なんだよ、eBGLik6jはデタラメと嘘ばっか連呼の精神病患者だったのかよ・・・・
211 :人間七七四年[sage]:2012/07/06(金) 07:23:17.62 ID:eBGLik6j
そらおまえ、桶狭間の絶対的ピンチに余裕こいて敦盛舞ったり、
武田信玄の挙兵を受けて「謙信さん気をつけてね」と同盟者を気遣う余裕の持ち主だからな。
明智光秀の謀叛なんて実質敗北宣言みたいなもんだ、「正攻法で勝てないので不意打ちします」と即決したくらいだからな。
謀叛や離反を人一倍経験しておきながら余裕でピンシャンしている信長に「こいつ人間じゃねーな」と内心明智は恐怖を抱いていたことだろう
379 :人間七七四年[sage]:2012/07/06(金) 07:26:49.21 ID:eBGLik6j
江戸時代で5万石を越えている大名ってそういないのに微禄wwww
さすが骨の髄まで滅ぼされた挙句元家臣に寄生していた武田は違いますなあw
679 :人間七七四年[]:2012/07/06(金) 07:28:43.79 ID:eBGLik6j
自分で自分のレスに返すアスペルガーだがw
193 :人間七七四年[]:2012/07/06(金) 07:32:47.00 ID:eBGLik6j
滅亡した後の武田なんて悲惨すぎて語れないからなw
・元武田家臣の大久保長安に仕える武田本家当主の武田信道(信玄の孫、勝頼の甥)
・大久保長安事件で武田信道も一緒に配流、もちろん領土も禄もない
・武田信玄から5代か6代数えた子孫になってようやく高家旗本という血筋の後光以外の何物でもない扱いに甘んじる
・しかしその息子の代になって時の権力者柳沢吉保の一族から養子を迎え入れ血統断絶
・以降柳沢家として明治維新を迎えることになった武田家
215 :人間七七四年[sage]:2012/07/06(金) 19:11:12.15 ID:eBGLik6j
>>213
1572年11月の歴代古案書状だったはず。
9月にも出してるけどこっちのは信玄のこととは違うかな。
>>214
元々向こうが頼み込んで和議結んだりしてたのに恩を仇で返した鬼畜だからな信玄は。
しかも仇で返した割には織田はおろか徳川すら満足に攻撃かけられずに死亡する無様っぷり。
寝返らせた徳川家臣は半年待たずして徳川に出戻りするという信用のなさ
一方の信長は東美濃遠山氏に親しかった延友佐渡守に対して
「おまえは岩村城が落とされたのによくぞ織田についてくれた」と本領をきっちり安堵して以降延友は織田家に忠誠を誓っていた。
- 839 :
- よかったなだがさん、かまってくれる低脳が居て。
- 840 :
- だが理論によると織田信長は10代のガキに不意打ちしてボロ負けたにもかかわらず、
義昭が怒りを収めてなぜか協力し美濃衆もなぜかそんな信長に寝返るというダブスタ展開で
朝倉はそんな2人に一方的に言いがかりをつけられる可哀想な大名だったんだねw
- 841 :
- 織上天下之嘲弄不可過之候、如此之間、竜興奉対公儀不存疎意段も、無詮成行候事
(織田は天下悉くの嘲笑の的になった 龍興は公儀(足利)には粗略にしてないけど、しょうがないよね)
去春已来三好かたより、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重ニ存之由候き、彼等依妄言、御上洛相滞、
(この春三好方から色々と懇望を受けており、その調略が幾重にもあったから、あいつらのせいで上洛はできなくなった)
河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、
(河野島へ侵入すると、即時龍興が向かい、織田をひかせる)
中島文書
足利義昭を見限って三好の上手い話に乗りましたってのが書状からでもわかるな
- 842 :
- 彼等依妄言、御上洛相滞
×あいつらのせいで上洛はできなくなった
○彼らの妄言により、義昭様の御上洛が遅滞していた
×足利義昭を見限って三好の上手い話に乗りましたってのが書状からでもわかるな
○三好の妄言を無視して義昭を奉じていたが遅滞していた。
- 843 :
- 三好軍に対抗するのに義昭1人で対抗できるわけないだろ・・・
当然当初の計画では斎藤織田が共闘してこれに当たると言うものだし斎藤の動く動かないで決まるのは自明の理。
動かないどころか協力するはずの織田軍を攻めるという背信行為を行ったわけだ。
斎藤書状では「織上天下之嘲弄不可過之候」と織田に責任をなすりつけているが、
そもそも斎藤が織田を襲撃しなければこんなことにならなかったのは誰でもわかる話で
これ以降越前にいた足利義昭が家臣の和田惟政に織田浅井の婚姻仲介に関わっていることからも明らか。
織田が背信したというのなら、織田浅井の婚姻なんて敵増やすだけだからなw
- 844 :
- >>843
中島文書
名古屋市博物館所蔵の義昭書状
上杉家文書の義昭→上杉書状
どれを見ても織田の裏切りを指摘してます。
お前のような織田チョンのキチガイ歪曲オナニーは
チラシの裏に書いておけよカス。
- 845 :
- 織田尾張守出勢相違故と信長の美濃乱入を足利への裏切りととれるのはさすが
アスペルガーのなせる由縁だなw
そもそも織田が裏切ってようが斎藤はいくらでも兵を出せたのに
御上洛相滞と中島文書でさらっと足利に対する背信をバラしている。
「足利を裏切って斎藤にボロ負けした弱小織田を、なぜか足利義昭は
2回続けて頼った」とするおまえの妄想の方が酷いよ、いつものことだけどw
- 846 :
- 今週末でこの朝倉スレが出来て満6年
早ければ今年中にも記念すべき2スレ目に突入か
- 847 :
- >>845
>>
そもそも織田が裏切ってようが斎藤はいくらでも兵を出せたのに
そもそも義昭の上洛戦計画では
三河・伊勢・尾張の大軍勢が尾張に集結する予定だった。
信長が裏切って背後が危険な状態のまま
美濃単独で義昭の上洛戦を開始するのは不可能。
足利に対する背信をしたのは信長。
信長の美濃攻略以前の義昭は、朝倉を頼って
加賀と越前の和睦を斡旋し、
謙信の援軍が来るのを待った。
しかし本庄の乱が勃発した上杉には援軍派遣ができなかった。
この間に信長が美濃攻略に成功したのを受けて
義昭が再度、頼ったに過ぎない。
お前の言ってることは順番が間違っていて真逆。
- 848 :
- 露骨に背信した信長に頼るわけねーじゃんw
そのまま義昭の首とって信長が三好に与したらどうするの?w
おまえの理屈で言うなら「斎藤のガキに騙し討ちしてボロ負けした挙句足利寝返った雑魚織田に、三好に首を差し出される覚悟で足利が頼った」ということになるが、
自分で言ってて辻褄も史料解釈もできてないってわかって言ってるの?w
- 849 :
- そもそも織田尾張守出勢相違故、信長美濃乱入と足利背信が全く繋がってないことに気づいてないんだな。
これは両方とも織田斎藤間の問題で足利は予期せぬ事態で上洛軍が来なかった事態を驚入候と言っているだけに過ぎない。
斎藤方史料である中島文書ではご丁寧よろしく
「織田が全て悪い、天下の笑いもの」と書けるだけ書いたというまでの醜聞悪評三昧だが、
それ以降の織田信長と斎藤龍興に対する義昭の扱いを考えても全く繋がらない。
まあ朝倉スレでこんなことを言い続けるのもアレだから、これ以上はやめておくか
- 850 :
- 織田チョンのキチガイぶりが際立つ良スレw
- 851 :
- だが敗走w
- 852 :
- 織田厨って救いようがないほど脳が腐ってるんだな。。。
- 853 :
- だが涙目w
- 854 :
- 今日、1年ぶりに一乗谷遺跡行ってきたが、国や福井県の資金注入が潤沢なのか知らんが、
整備されっぷりが半端無かった。 草刈りは行き届いているから土塁の形状はハッキリ判る
し、武家屋敷も発掘途上できちんと敷石もしてあるし
朝倉義景の廟も、周りの雑木を切り倒して屋根付きの立派なのになってるし・・・
去年のソフトバンクのCMが効いたのかな?
- 855 :
- 織田基地外の捏造曲解の連呼には懲り懲り。
もう議論すら成立しないな。
- 856 :
- O
o
。 ,. -ー冖'⌒'ー-、
,ノ \
/ ,r‐へへく⌒'¬、 ヽ
{ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } ,r=-、
/プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く /,ミ=/
ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} 〃 /
/ _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ 〃 /
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人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\
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アスペルガーだが (35)以上
/ | |::::::|\、_________/' /:::::/〃
- 857 :
- 信長弱過ぎで噴いたw
- 858 :
- >>854
良く不人気武将に金を使うね、福井県は。福井で朝倉義景って惰弱者
として嫌われているよ。福井県で一番人気があるのは、言うまでもなく
柴田勝家。
- 859 :
- 福井県は真柄十郎左衛門推しが強いイメージがあるんだけど……
- 860 :
- 朝倉は一門衆の独立性が高い国人は半独立だの
じゃあ朝倉当主の直轄領は一乗谷周辺地域ぐらいかよ
- 861 :
- >>859
宗滴の爺ちゃんにはかなわない
- 862 :
- 織田に連戦連勝するも、
長篠の戦いの武田同様に
撤退中に殿を崩され大敗滅亡。
- 863 :
- 長篠は正面突破しようとして自滅、退却時に失敗して壊滅
だろ
全然違うわ
- 864 :
- だがの朝倉擦り寄り失敗の巻
- 865 :
- 退却に失敗して壊滅はあってるな
- 866 :
- 連戦連勝の朝倉がなぜか連戦連敗の織田に背中を見せるという謎行動
- 867 :
- 小谷到着前に浅井方が次々に裏切って大嶽が落ちたからな
- 868 :
- 殿を受け持った山崎隊と河合隊は刀根坂の撤退戦の直前には
美方郡の粟屋氏への牽制包囲、大飯郡の織田方へ寝返った寺社勢力の討伐、
湖西地域での織田軍との遭遇戦での小競り合い等で疲労困憊状態だったので壊滅もいたしかたない
山崎家はホントに朝倉家になくてはならない功臣
- 869 :
- >>867
前波や富田は朝倉家臣だろ
- 870 :
- 最初から軍役を拒否した朝倉一門もいた
小山田信茂は殺されて朝倉景鏡はよく殺されなかったな
- 871 :
- >>870
一応、府中から京へ宛てた手紙の中では景鏡はRリストに入っていた
実際、大野郡で織田方に包囲され落城寸前で秀吉が朝倉家が絶える事を憂いて
信長へ助命願いを出してそれが受け入れられたという説もあるし、
早い段階から稲葉一鉄経由で調略済みだったので処断対象からは外されていたとする説もある
- 872 :
- 一次史料の長篠日記には
武田軍が織田軍を圧倒しているしな。
佐久間隊も崩壊寸前の圧勝ぶり。
徳川軍が持ちこたえおかげで織田は崩壊をまぬがれ
陣城で専守防衛の持久対陣になり、
武田軍は撤退した。
- 873 :
- 武田の学者ですらNoという噴飯史料の長篠日記
信憑性のないないと言われる甫庵信長記や甲陽軍鑑の丸パクリw
- 874 :
- 講談・軍記を一次史料って言うのやめろよ
一次史料の定義を見直してこい、アホだが
- 875 :
- そうだそうだ
- 876 :
- 国人や一門衆が反独立とかどこでもそうじゃね
- 877 :
- 朝倉氏は国内の在地勢力国人に対して重い軍役を課す事もせず
国人勢力の自主性を容認する方針によって上手く国内情勢を治安維持管理していた
三代貞景…敦賀郡司、四代孝景…大野郡司、五代義景…堀江氏、それぞれの統治時期に反乱を起こした
これらの一門、内衆は反乱鎮圧後、完全に朝倉宗家に抑えられて独立性も弱まっている
朝倉氏の越前国内統治は戦国時代にしては他国よりもずっと安定している
- 878 :
- 軍役が重いか軽いか分かる史料なんてあんの?
- 879 :
- 天正6年成立の長篠日記がなぜか甫庵信長記や甲陽軍鑑のパクリと脳内妄想する池沼織田チョンwww
実際は長篠日記を参考に書かれたのが現実なのにwww
- 880 :
- 長篠日記が天正六年成立とかいつの時代の説だよwwww
太向義明氏をはじめほとんどの学者が江戸近世以降の作だって断定しているのにw
しかも長篠日記自体原本が存在しておらず現代に伝わっているのは加筆修正されまくった写本だけw
おまけに内容も酷く「勝頼の無謀な作戦に異を唱える重臣達が死を覚悟して酒盛りをする」
という、明らかに江戸時代の講談の影響を受けた内容を入れている有様w
- 881 :
- 朝倉の家臣というよりは同盟者だから
- 882 :
- 長篠日記原本が天正6年成立。
実際に徳川領に住んでいて
合戦を見ていた者の貴重な史料なので
筆写が盛んになされ、
その際に観戦していた戦詳述以外の
原著者が知らない武田の軍議の内容などの
尾ひれが付け足された為に
天正6年ではなく、
近世以降ではないかと疑問が出されているだけ。
戦闘詳述など実際に目視している部分は
甲陽軍鑑などの参考にされているために
似てる部分が出てくる(佐久間隊が最初に登場するなど)
- 883 :
- そらパクっていれば内容は似ますわなw
- 884 :
- >>878
朝倉氏の対外出兵には国人勢力等はまとまった兵数を動員しておらず
朝倉一門衆や同名衆の軍勢の一部隊程度に編成される形で従軍していた模様
ただし対一向宗との戦闘では朝倉氏と国人勢力との利害関係が一致していた為
越前のほとんどの国人勢力に対してまとまった動員がかけられている例もある
朝倉氏は家臣への知行高をハッキリ数値化・明文化しない家風の為、
各家臣に課せられた軍役を具体的に数値化した記録は少ない
- 885 :
- 信長が佐久間の領地取り上げて追放したように
朝倉が配下国人の領地取り上げて追放なんてまねはできないわけだ
- 886 :
- 分国法に宿老置くなって書いてあるのに宿老置いて滅んじゃった朝倉義景
- 887 :
- >>885
その行為があきらかに下克上トリガーになっちまって信長自滅したけどな。
- 888 :
- 信長「朝倉は必ず逃げるから追撃しろと言ったはずだ。なぜ遅れたのか」
信盛「ごもっともだが俺の考えは違った。我々ほどの家臣はそうもてないだろう」
- 889 :
- 佐久間追放が本能寺の変の遠因て誰が言ったの
- 890 :
- 足利義教が家臣に暗殺された時に
看聞日記は諸大名同心か・自業自得と書いている。
さらに建内記には義教が殺され、人々恩赦の時分と書かれ
義教暗殺が幕府の大名達にむしろ歓迎されており
義教の恐怖政治と理不尽な処分を受けた者達が恩赦される方向に変更された。
そして義勝9歳を傀儡擁立し専横を開始した。
信長もまた自業自得で家臣団から暗殺を歓迎され
幼君を擁立し家臣団が好きなように振る舞い織田主家は下克上された。
耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に放生津で宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
- 891 :
- スレチだね。
- 892 :
- >>886
え?
- 893 :
- 信長連敗したから公記で捏造勝利宣言www
野戦最強の家康と調略の天才秀吉がいなければ
信長なんて近江で討ち死にしてたのは間違いない。
- 894 :
- そんなに勝てなかったのに天下第一の勢力になれたんだ、凄いよね
いわゆる「戦争・戦役」クラスでの負けって志賀の陣ぐらいなんだけど
その意味で信長に地を付けた朝倉家は凄かったんだよねえ、痛み分けに近い感じだったみたいだけど
- 895 :
- 金ヶ崎での浅井の寝返りで助かった朝倉だが
寿命が延びただけだった
- 896 :
- 坂本
織田軍1000人VS朝倉浅井2万人
型田
織田軍1000人VS朝倉1万人
- 897 :
- age
- 898 :
- 朝倉氏庶流真木氏ってだれの後裔になるのかおしえて。
- 899 :
- マイク真木や真木蔵人がそれらの子孫だって言ってんだよな
嘘くせえ
- 900 :
- 大和田さんは?
- 901 :
- 若狭が将軍支配地であり、
信長も義景も倉見荘や安賀荘の横領の国人同士の訴えは
将軍に裁決を委ねていた。
しかし信玄死去後に義昭追放が起きると、
若狭では主不在と言う組織崩壊が起こったことで、
朝倉側だった武田信方や山県秀政らが相次いで寝返ってしまい、
朝倉方だった武藤友益や粟谷右京亮が討たれる。
義景は撤退路の崩壊と言う新たな事態に対応しなきゃならなくなり、
浅井どころではなくなり、
本国へ戻る撤退で織田に追撃され朝倉軍は崩壊。
- 902 :
- >>899
朝倉家臣に真木氏がいるから、
「朝倉家臣の末裔」が伝承の過程で
「朝倉氏の末裔」に誤伝されただけかと
- 903 :
- >>901
武藤友益は死んでないし
それらの朝倉派の代表的な旧武田家臣の領地は
若狭の中央部分や西部に集中してて
刀禰坂の撤退路確保失敗とは一切関係ないよ
- 904 :
- 討たれたとは書いてるが死んだとは書いてないぞ?
- 905 :
- 言い訳苦し過ぎw
- 906 :
- 武田信方や山県秀政や粟谷右京亮の領地はどこにあったんですか?
- 907 :
- 親義景派筆頭の信方は現在の若狭町と小浜市に跨る山城の新保山城の周辺をを領していたが
この時期は当主の元明が越前に軟禁されていた為、若狭武田家の本城、小浜の後瀬山城に在城していたかもしれん
山県秀政はその新保山城のすぐ近くに賀羅岳城を築いて若狭湾から現在のJR藤井駅周辺までを広く領していた
武藤友益は北陸自動車道の大飯高浜IC側の石山城を本城にしながら隣接する若狭国人本郷氏の領地まで侵食していた
粟屋右京亮なんだけど粟屋氏主流の右京亮家は親織田派だったと思うのでこれは反織田派の左京亮家の間違いなのではないかと思う
左京亮家の系統だとすると現在のJR若狭和田周辺が領地。もしこれが記述通り右京亮家の系統だったとすると親信長派筆頭の勝久の系統とは別の
古くから名田庄村周辺を領していた粟屋右京亮家の人物がいたのかもしれない
いずれにせよ親朝倉派の若狭武田旧臣の多くは若狭地方中西部に集中しているので刀禰坂敗退の撤退路選択には殆ど影響は無いと思う
- 908 :
- そうなんだ
- 909 :
- いやいや普通に影響あるだろ。
- 910 :
- 次々に雪崩をうって離反されてるから、
うかうかしてると完全に帰国不能になるからな。
つか越前本国も織田への内通者で始めてるからなあ。
- 911 :
- 内通者が続出したなんて後世の軍記物のから来てるだけの話
裏切り者の代表格で稲葉と通じてるはずの朝倉景鏡だって信長が謙信に出した書状だと
義景・景鏡がまだ降伏していないが、必ず滅ぼすと言ってる
- 912 :
- 目に見えて裏切りと分る行動を取った主だった武将なんていうのは
富田、前波、池田、毛屋、戸田ぐらいなもんでほんの一部の武将のみだしな
おそらく越前国内の様々な武将に対して織田家からの事前の内応工作はされていたとは思うが
裏切る気満々だった溝江なんかも朝倉家が態勢を持ち直していたら再度朝倉側に立ってただろうし
魚住なんかも朝倉家崩壊一か月前までは長期間、大嶽城の守将を務めていたわけだし
織田家の侵攻を敦賀周辺で食い止めれていれば家臣団の互解も防げていた可能性だってある
あくまでも越前国内にまで乱入された結果、内応者が続出したというだけ
- 913 :
- 魚住なんて志賀の陣での人質交換で
信長へ人質を出してる時点で
いつでも寝返る予備軍じゃねぇか。
- 914 :
- 両軍撤退の為の人質交換なので
両軍がそれぞれの国に引いた後は再度お互いの領地に帰ってるけどね
講和・同盟といった性質の類の人質交換ではない
- 915 :
- 帰ってないよ。
- 916 :
- 帰ってないなら柴田や稲葉の子も帰ってこなかったことになるな
- 917 :
- 大嶽城を守備していた魚住勢が越前に引き上げた原因は
父・景栄の葬儀参列→守備や葬儀に対する朝倉家からの資金援助が無い→再出兵拒否って流れだしな
しかも景固の子息もちゃんと祖父の葬儀に参列してるという
- 918 :
- >>912>>917
へぇ。知らないことがいろいろ書いてあるね。
ソースは何なの?
- 919 :
- 地方郡史みたいなやつを漁るとマイナー武将の事なんかがかなり詳しく載ってる
ネットでもある程度は見れるようになってきてるし
俺が見た魚住の再出兵拒否の理由として父の葬儀参列→浅井家の防衛戦に参加しても新たに領土が増える訳ではない→景鏡共々不満がつのる
みたいな感じで書かれてた資料は見た事あるな
- 920 :
- 分国法に宿老置くなって書いてあるのに宿老置いて滅んじゃった朝倉義景w
- 921 :
- >>919
なんだよ、結局一次史料の無い真偽不明のネタ話かよ…
- 922 :
- そりゃ魚住みたいな泡沫武将の事が一次資料なんかに詳しく書かれてる訳はねーだろ
そんなに知りたけりゃ今も新潟県阿賀野市に落ち延びた魚住の子孫が住んでるから訪ねて聞いてこいよw
- 923 :
- あ…、でもだがさん今、愛知県在住だから新潟はちょっと遠いか、残念
- 924 :
- 結局のところ「だが」を連呼する基地外荒らしだったのか…
- 925 :
- なんだよ、いままでまったく根拠ゼロの願望妄想を偉そうに書いてたのかよw
さすが織田チョンwww
- 926 :
- 土曜日、ドライブがてらにかねてから行きたいと思っていた一乗谷にいってきますた。
史跡の一部の復元武家屋敷の一角に、なぜか女子高生と思われる制服の
女の子がたむろしてた
聞けば福井高校の茶道部部員で、地元テレビ局の企画で
その日は観光客にお茶菓子を振舞う企画をするんだそうな(お茶菓子は有料)
そして史跡の入場受付の入り口には
「朝倉家で大河ドラマを!」・・・・ここでも誘致運動かよ
最後が悲惨な滅び方でどうやってドラマを作れと(浅井三姉妹のようにその後の展開もなく・・
- 927 :
- おっと、福井商業高校でした。>茶道部の女の子たち
- 928 :
- 朝倉再興運動物語
- 929 :
- 「朝倉宗滴」でOK
英林孝景から義景までフォローできるし
朝倉の黄金時代で終れる
- 930 :
- なんか滅亡した家とはいえ細かな部分まで資料が残ってるんだな。
始めて聞くような情報がいっぱいあったわ。
- 931 :
- >>915
魚住景固の嫡男彦三郎は織田方へ二度人質に出されている
一度目は志賀の陣の両軍撤退までの人質として
そして二度目は刀禰坂で朝倉軍を撃破した織田軍が金ヶ崎城に入城後に
魚住家から織田家への降伏の使者と共に敦賀入りしている
どちらの人質期間も即時解放されて自家に帰還している
- 932 :
- >>901
若狭国での朝倉派勢力の代表ともいえる武田信方が織田方に降ったのは義景自害後であり
更に武藤友益と粟屋右京亮に至っては武田信方が織田の軍門に降って以降もなお抵抗を続けている
越前国内の朝倉家臣の多くが織田家に投降する中、若狭戦線は依然として織田家に抵抗を続けていた
- 933 :
- >>932
西若狭(若狭高浜)の逸見昌経は?
- 934 :
- 逸見は一貫して親織田でしょ
武藤と粟屋は親朝倉というよりは反逸見の色が濃い
- 935 :
- >>932
丹羽長秀が信長から若狭を拝領した天正三年以降も・・・か?
- 936 :
- 織田家に対して抵抗していたというよりも
若狭国内の織田派の有力武将である逸見氏と小競り合い続けていたって感じなんだろうな
逸見氏と武藤、粟屋左京亮家とは領地が隣接してるから利害関係が大きかっただろうし
朝倉滅亡直後は敦賀のみ信長直轄領となったようなのであくまでも信長には臣従しながらの小競り合いかと
- 937 :
- 六角の本家から、ほとんど末期養子的につれてこられたのが義景という人がいるが…。
どうなんだろ?
- 938 :
- 場所からして、決断して動かないと厳しいからなあ
要地に居るのも考え物だな
- 939 :
- >>937
そんなことを行っているのは佐々木某のみ
- 940 :
- 義景には姉だか妹だかが複数いたらしいので父の孝景も別に種なしという訳ではないだろう
ホントに義景が六角氏の血筋の人物ならば六角家滅亡後に六角旧臣の一部も越前へと合流するだろうけど
そういった話は聞いた覚えが無いのでおそらくでっち上げのトンデモ説だろう
六角氏から養子を貰うぐらいなら孝景の正室の出である若狭武田氏から貰うのが筋のような気がする
あそこなら他家に養子を出せる位に子沢山な家系だから
- 941 :
- >>901
たまたま見つけた福井県史のネット版?
これを見るとあなたの意見って正確だったんだな。
ttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html
- 942 :
- このスレの2012年以降のレスでかなり詳しい書き込みに関しての多くは大抵、その福井県史の内容から抜き出したものか
又は奥山氏の朝倉氏サイトの記述を参考にしたものが多いね
この2つ以外で朝倉氏の事を詳しく解説してあるサイトはあまりないな
多少、織田氏関連のサイトにその2つのサイトには書かれていない内容が見つかる位か
- 943 :
- 本当に朝倉のことを調べたいなら、福井県に行くしかないわな
特に一乗谷資料館で売ってる資料集は全部買うとかなりの金額になるけど、
全国でもここでしか手に入らない貴重な史料なので金額以上の価値は十分にある
- 944 :
- 自分で自分のレスに対して正確ですねって…
朝倉スレを覗こうなんてやつなら大抵その程度の知識なら持ってるだろ
- 945 :
- >>942
後は加賀一向宗とか浅井氏とかの地元の歴史研究家のサイトなんかに
朝倉家の初見の記述をたまに見つける時がある。
- 946 :
- 真偽不明な話が多いな。
ちょっと一次史料を漁るから
>>914>>917>>915>>931>>932
このへんどこにソースあんのか教えてくれ?
>>919
で、一次史料は?
- 947 :
- 2ちゃんの数ある板の中で唯一排他的に扱われず
朝倉スレではむしろ歓迎されてた部分も少なからずあっただがさんなのに
ここでも仲良く出来ずに朝倉好き達に距離を置かれ始めてる…
まさか朝倉スレのような過疎スレで自分の知らなかった情報を知らされるとは思ってもいなかったから
だがさんのプライドが傷ついてしばらくは集中的にこのスレに荒らしに来るでしょうねw
- 948 :
- 一次史料ではなく願望妄想でした
まで読んだ。
- 949 :
- 普段はいろんなとこにWIKI丸写しのコピペを自慢げに貼りまくってるやつに一次資料なんか見せても判別もつかんだろ
講談の記述まで一次資料だって偽装までしてるくせにw
- 950 :
- >>949馬鹿を呼び込むようなレスをするな
どのスレの住人もまともに相手なんてしてないぞ
放っておけ
- 951 :
- スレ立てから約6年と7ヶ月でやっとスレの完走も見えてきました
ここまでおよそ1ヶ月間に12レス(10日で4レス)ペースで議論がなされていますが
次スレではこれを大きく上回るペースで朝倉氏について様々な事が語られると良いですね
と言う訳でみなさんで朝倉スレの次スレの[副題]タイトル[副題]、本文の内容なんかについて
スレが盛り上がるような変更、提案等はありませんでしょうか?意見をお聞かせ下さい(以下の本文は現行スレのものです)
[戦国の金] 朝倉義景総合スレ [官職]
朝倉 義景(あさくら よしかげ ) は戦国時代の越前国の戦国大名である。
正式な名のりは日下部義景(くさかべ・の・よしかげ)。
貴族文化を重んじるなど治世であればもう少し評価も上がったと言われるところから
平和であれば大いに欲せられるが、戦乱では役に立たない意味を込めて
「戦国の金」と、マニアの間では言われたりもする。
信長包囲網の一環を担った戦国大名・朝倉氏を語りましょう!
義景以外の朝倉家、また浅井家、その他関わりのある事象・戦・人物なんでもおk!
特に姉川の戦いを語りたい人大歓迎!
優柔不断の大名・朝倉義景について語りましょう〜
- 952 :
- [戦国の金]ってフレーズの浸透してなさっぷりが逆にいい感じ
- 953 :
- 義景総合スレとはなっているけれど、
一目見て朝倉氏全てに関する事を話題にするスレだと
判断出来るようなスレタイトルのほうが良い。
- 954 :
- 完走しそうでしない
- 955 :
- 朝倉氏総合スレ2にするかね
- 956 :
- 板がダブると煩わしいので朝倉氏の新スレはレスNO995以降ぐらいに建てた方が良さそう
とりあえず何か新しい朝倉ネタは無いの?
- 957 :
- 宗滴スレみたいに無駄な板を建てて話題を分散させてるバカがいるからな
あれがなければもうこのスレも埋まってたかもしれんのに
- 958 :
- 大友スレはもう3スレ目に突入寸前だというのに。
福井県民にはぜひ一層の努力を。
- 959 :
- 明日一乗谷行く。
…雨ふりそうだな
- 960 :
- 【越前】【の覇者】
- 961 :
- 一乗谷を小京都と呼ばれるほどの文化都市にした辣腕は
大内義興級と評価できる
- 962 :
- >>961
一乗谷を北陸の小京都と呼ばれるレベルに経済発展させたのは
9代貞景の壮年期と10代宗淳孝景の最晩年期のこの2大時期であるというのは
出された書状の数や越前国内の史跡の日付等の研究から明らかになっている
その先代達が築いた資産でもって贅沢三昧の京文化に傾倒した11代義景は果たして有能だったのかどうか…
価値観が変わりゆく周辺国の情勢を読み取れない文弱大名と言われても仕方がないかもしれん
- 963 :
- 公家たちと和歌やったりと文化のさらなる昇華をした義景は評価されてよい。
- 964 :
- 越前一国だった朝倉氏の領土を加賀南部、若狭一国、北近江まで拡大したのは義景である事は紛れも無い事実ではある
- 965 :2013/09/05
- 先代以前の当主が裕福な越前周囲に朝倉寄りの緩衝地帯を設ける事によって
越前国内に戦火が及ばないようにしていた高度な統治戦略を
先を読む力が失われた朝倉家が犯した愚策の代表みたいなのが若狭侵攻
>>831のレスなんかからみてもしっかりとした領国化計画がされての加賀侵攻とは言えない
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