2013年17戦国時代31: 【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ6 【壬辰倭乱】 (399) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ6 【壬辰倭乱】


1 :2012/02/03 〜 最終レス :2013/09/15
秀吉の朝鮮征伐を語るスレ

前スレ
【文禄慶長】 秀吉の朝鮮征伐スレ5 【壬辰倭乱】
関連スレ
秀吉による朝鮮征伐の軍事分析
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1327666002/l50
【文禄】 秀吉の朝鮮征伐 【慶長】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1309906282/l50
世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1309526779/l50
秀吉による朝鮮征伐に関する考察
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/war/1220349972/l50
秀吉の朝鮮征伐を明の観点からの考察
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1204276024/l50

2 :
2get!

3 :
日本軍が連戦連敗w

4 :
韓流史観と媚韓史観ではそうなるな

5 :
西日本VS明・朝鮮連合
日本最強の関東武者勢力は参加せず終了した

6 :
後北条のヘタレっ振りを見るに関東武者は最強じゃ無い気がする。

7 :
日本軍が連戦連敗w

8 :
嘘も百回言えば本当になるというやつですな

9 :
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・日が暮れ、賊(日本軍)は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。
・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。
・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
 (金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。
・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。"

10 :
  ルイス・フロイス「日本史」  
  ・朝鮮人は頭上に振りかざされる日本人の太刀の威力に対抗できず、ついに征服された。  
   
  ・日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、  
  朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。  
   
  →→・(朝鮮人の)その他の武器には威力がなく、特に刀剣は短く、たいして役立たない。  

11 :
あなたの隣の集団ストーカー
駅改札や駅周辺で、人の流れを見張っているのが犯人です。
犯人はナマポで税金で食べていけるため通勤、通学者を
馬鹿にしながらターゲットを見張っています。
エア待ち合わせとエア電話が得意です。
エア荷物、エアマスクもいます。鉄道職員にも犯人がいます。

12 :
朝鮮軍、民を守る気概がない。
軍人として失格。
所詮、中華の属国に過ぎない、李氏朝鮮。

13 :
朝鮮なんてさ、賊だよ。
成形して、奴隷を売る国。
まあ、分断国家で良かったんじゃね?
日米と中ロの狭間で生きながらえる人種。
まあ、日本においてはさ、ヨーロッパのユダヤ人みたいなもんだよ。

14 :
征伐

15 :
【正論】増殖する韓国の「自尊史観」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812170302001-n3.htm
 日本の自虐史観の対照には韓国の自尊史観があるのであり、それはひずんだ鏡のように日韓の関係を歪(ゆが)めてきた。
もはやポストモダン期にある日韓では、世論は反日でも贖罪(しょくざい)でも盛りあがらない。
盛りあがっているのは、韓国の反日市場で利権をあさり、同じく日本の贖罪市場で利権の維持に汲々(きゅうきゅう)とする、一部マスコミと学者たちにすぎないのではないか。(ふるた ひろし)

16 :
南朝鮮で学校の先生やってたって人(日本人)が職場にいるんだが、向こうの歴史では加藤清正公や石田三成公は朝鮮の役で討ち取られたことになってるらしい。
そう言う史跡もあるんだって。
ま、日本が敗退した最大の原因は、基本的に現地調達を前提とした兵坦で、そもそも食糧難のうえ国内の道路なんかが未整備な半島での作戦に無理があったんだって笑ってたな。
もう占領しても占領しても、行くとこ、ことごとく荒れ地と貧乏人しかなかったとw

17 :
現地調達による兵站は日本の伝統。
第2次世界大戦でもそうだからなあ。

18 :
んで、それが分かってきて戦略を変え、さあこれからだってところで秀吉が没。
なんというか。

19 :
当時は世界的に現地調達が基本だったと思うが

20 :
>>19
別に現地調達を非難してるわけじゃないよ。
半島は現地調達が出来ないくらい貧しい土地だったと言うだけ。

21 :
朝鮮征伐の七大捷
忠州
龍仁
碧蹄館
晋州
漆川梁
蔚山
泗川

22 :
因みに>>21の内
韓流国定教科書では忠州以外はスルーパス

23 :
日本は全部スルーパスだと思うw

24 :
個々の戦闘名はまず書かないな、日本の教科書は。
その割には鼻削ぎとかは、写真入りでやたらと強調してるがなw

25 :
高校韓流国定教科書で登場する戦闘
★「壬辰倭乱の勃発」内
釜山
東莱
忠州
★「水軍の勝利」内
玉浦
泗川
唐浦
唐項浦
閑山島
★「倭乱の克服」内
平壌
幸州山
稷山
鳴梁
露梁

26 :
>>21で韓流国定教科書がスルーしてる日本軍が大勝した戦闘の内
碧蹄館以下の5戦闘が全て>>25の★「倭乱の克服」内 の期間にあることに注目
倭乱を克服したことに歴史を捏造するには、日本軍の勝利が都合悪いからスルーしてるってこと
★「倭乱の克服」内 で出てくる戦闘で朝鮮軍・明軍勝利の内容も出鱈目。
つまり、韓国で「倭乱の克服」と言ってることが大嘘で
本当のところ全然克服できてないのが現実。
そのことは朝鮮や明の史料でも明確。
資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然倶潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録』
(三路の明・朝鮮軍は共に潰え、人心は恐々となった。)
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』
(7年間の戦争で多大な犠牲を出し、明と属国の朝鮮に勝算は無くなっていたが、秀吉が死んで戦争は終わった。)

27 :
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10

28 :
test

29 :
>>13
 そいつァー違うぜ旦那、あんたユダヤ人を馬鹿にしちゃいけねーや。

30 :
30

31 :
まあ、結局は戦略的に敗れたんだけどね。明に上手くしてやられた。
壬申倭乱(文禄の役)では明は小西行長を買収、石田三成に働き掛け、
秀次事件を起こし、日本を大混乱に追いやった。戦闘不能になり、
やむを得ず講和。
丁酉倭乱(慶長の役)は日本は秀次事件の影響で戦意なく、朝鮮南部を
荒らし回るのが精一杯だった。
家康が相手の総大将毛利輝元を放置してまでも三成、行長の斬首に
拘ったのは、両者が明とつるんで日本を売ったことが公然の事実だった
ことも大きい。

32 :


【社会】 "韓国の家庭に代々伝わる伝統" 「キムチ」や李舜臣の「乱中日記」をユネスコの世界遺産に申請…韓国
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1333083691/


33 :
>>31
お前上杉謙信は女だったとか思ってそうだなw

34 :
女のほうが萌えるな

35 :
朝鮮役で石田三成が負傷したらしいが、本当かね?
日本の著者でも朝鮮妄想が入り混じってるから
どこまでが本当なのか難しくてw

36 :
転んだんじゃね

37 :
幸州山城の戦いで前線に出張って負傷してるね
文治派なのに無理しすぎ

38 :
完全に文官タイプだけど、それでも武将だぞ
前線に出なくてどうする

39 :
とはいえ敵軍の矢が届く距離まで接近するのもどうかと思う
同じように吉川広家も負傷してるけど、こっちはなんか納得してしまうな

40 :
指揮官は後方で指揮を取るってのは後世のイメージだから

41 :
>>13
おまえはユダヤ人に何か恨みでもあんのか?
>>32
つまりチョンは日本兵が寒さ対策に足にいれてた鷹の爪が溢れたのを拾い食いして
山椒キムチから今のキムチにしたっていう説も無形遺産として世界に広めるって事か
ついに他称から自称乞食国家の誕生だな

42 :
>>40
いや、だからといって実戦期の武将が常に敵兵の矢が届くほどの最前線に身を置いたというわけではないだろ
ちょっと両極端じゃないか?

43 :
別に常〜にとは言ってない。極端な取り方はしないで貰いたい。

44 :
>>35
三成は才能が武官に向いていない文官タイプなだけで
性格そのものは武断派以上にイケイケの武闘派タイプだから
三成なら敵兵の矢が届くほどの最前線に身を置いても不思議はない
むしろ秀吉の目が行き届いていない朝鮮だからこそ普段は禁止されている最前線へ行きたがるだろう
そういう人間だからこそ関ヶ原が成立してしまうわけで

45 :
在特会を許さん!絶対に潰す!(爆)シンポに特別サービスで友情出演
http://www.youtube.com/watch?v=p70eDCU6cAM
京都の同志社大学はこんな在日や過激派 弁護士を集めて
朝鮮学校擁護集会を学校内でやってるの??
校門前の在日 態度悪いWWW 


46 :
(浅野健一同志社大教授/在日朝鮮人問題) 同志社には在日が多い
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/1b/1afa77a460777c98cacff9aff6714e72.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/a9/b5656f180c6254ad248066b9d6ce714a.jpg
構内には元朝鮮人学徒を顕彰する詩碑が複数建てられている。

47 :
韓国人・朝鮮人は、人が一番嫌がることを平気でやる。
例えば、韓国の企業で ストライキなど起ると必ずと言っていいほど、
労働者側や雇用主側が嫌がらせの意味で、
工場や事務所にバキュームカーで人糞をバラ撒いたとか、
相手の口の中に人糞を無理矢理に押し込んだといった事件が
必ず話題になります。言わば、朝鮮人・韓国人は
「糞尿」のイメージなのです。
つまり朝鮮人・韓国人は極めて不潔、汚い以上に卑しい存在なのです。
<10万もの韓国人女性が国外で売春に従事、 そのうち5万人が日本で売春>
【サーチナ 2010/10/28】 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1028&f=national_1028_168.shtml
韓国ハンナラ党の議員がこのほど、韓国国外で売春を行っている韓国人女性は10万人以上に達し、
そのうち5万人が日本で売春を行っていると発表した。環球時報が伝えた。

48 :
秀吉が長生きして出兵が続き、
江戸の鎖国した250年が、
大陸を侵食し続けた250年になってたら、
面白そうだと妄想してるんだが??

49 :
そもそもあの時点でボロボロだったのに250年なんて無理だろボケ

50 :
ボロボロってなんの事だ?
明軍の士気か? 朝鮮の財政か?

51 :
>>48
秀吉がどれだけ長生きしようが秀吉が死んだらそこで出兵終了だろ
秀吉が300歳くらいまで生きるのか?

52 :
>>51
撤兵したのは秀吉の死とともに日本が無政府状態に陥ったから。
(厳密には秀次事件以降秀吉政権の末期も無政府状態に近かった。)
日本が無政府状態でなければ、後継者の政策次第で続いていた
可能性もあるよ。

53 :
まぁ秀次になったら諸将が撤退を声高に主張しだすだろうな。
あんな土地に割り当てられたら目も当てられん

54 :
【ゲーム】 李舜臣将軍モデルのロボット登場〜日本で突風「ガンダムよりすごい」「韓国がこんなロボットを作れるとは」★3[04/21]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1335065204/l50

55 :
既成事実化推進してます。
【日韓】韓国に沙也可の足跡伝える韓日友好館オープン
http://www.wara2ch.com/archives/6165045.html

56 :
沙也可「チョンって、ホントばか」

57 :
そもそも存在しないんじゃねぇか
日本人の名前じゃねぇ上に、漢字表記なら日本人名そのまま使うだろうし

58 :
>>50
補給がボロボロだったってことじゃね?

59 :
南側までは補給できてたんだから、別にボロボロというほどでもないと思うが。
むしろ勝手に前進しすぎ

60 :
というか勝手に前進しすぎた結果が数万人の犠牲じゃん

61 :
その後直ぐ戦線縮小したべ
戦略レベルでは堅実そのものの戦いじゃないか。
戦闘レベルだとジャンプで敵陣に飛び込んで無双とか脳筋のまんまだけど

62 :
でも全軍の三分の一も死んでるじゃん

63 :
6年も戦争続けりゃそんなもんだろ。
中世の戦争だから、損害扱いのかなりの部分は脱走兵だろうし

64 :
中世の遠征の死者の大半は病傷死者
その常識を覆して戦死者より病死者が少なく各国からどんな衛生術使ってるんだ!と
各国から視察団が殺到したのが日露戦争の日本陸軍
(実態は旅順攻撃がアレでソレだったんだけど)

65 :
あの大損害を取り繕った辺りから日本の末路が見えてたな

66 :
まーた「日露戦争で日本は勝ってない!」論かよ

67 :
なにそれ?

68 :
見えない敵と戦ってんじゃねーの?

69 :
秀吉が福島に宛てた書状を見ると
清正が皇子らを捕らえたことを注進してきた話の中で
向こうは寒空で上下の者どもは堪え難いので
当物成半分人数
応高頭可支配候
残半分為兵糧蔵可納置候也
などと書いてるんだよね。
頭数に応じて半分を配って支えろ
残り半分は蔵に置いておけって話なんだろうけど
まだ9/22(いまで言えば11月入ったくらいか)
なのにこの寒さとか朝鮮半島無理ゲー過ぎる凍土だろ。

70 :
秀吉が福島に宛てた書状を見ると
清正が皇子らを捕らえたことを注進してきた話の中で
向こうは寒空で上下の者どもは堪え難いので
当物成半分人数
応高頭可支配候
残半分為兵糧蔵可納置候也
などと書いてるんだよね。
頭数に応じて半分を配って支えろ
残り半分は蔵に置いておけって話なんだろうけど
まだ9/22(いまで言えば11月入ったくらいか)
なのにこの寒さとか朝鮮半島無理ゲー過ぎる凍土だろ。

71 :
ソウルですら日本で言えば宮城か岩手辺りの緯度だからなあ

72 :
実際、長期駐留には、南国九州の大名でなく、
東北、北陸の大名を割り当てた方が良かったんじゃなかろうか。
寒い気候だったろうし

73 :
名護屋在陣で兵力を温存できた家康

74 :
>>73
家康は明侵攻の主力の予定で温存されてたからね。

75 :
餓死者、凍死者が出た戦い

76 :
>>56
まあ、わかっているかもしれませんが、”雑賀”のことなのではないかと
いうのがよくある見解
(沙也可の朝鮮よみと、Saigaまたはsaikaの音の近似
沙也可は鉄砲の名手だった点
雑賀はそもそも傭兵)
まあ、いずれにしても、ある段階で日本側から明側に寝返った日本人の
集団または個人がいたのは不思議でもないでしょう。

77 :
>>69
朝鮮半島の大半は冬季少雨の冷帯に属している
ので雨(雪)が降らない分冬季の寒さは半端ではない
(確か、ソウルで1月の平均気温が-4、ピョンヤンだと-9ぐらいだと)
日本だと、札幌、旭川位の感じ

78 :
直接中国侵攻は無理としても、海岸拠点を確保して超賎半島岸づたいで山東半島
上陸・北京侵攻っていう選択肢はなかったのかな?
それとあんまり注目されてない気がするんだが、モンゴル軍と違って日本軍は歩兵
主体だったっていうのは不利な要素だったと思う

79 :
単純に補給ラインの問題だから騎馬は関係無いだろう
明はあの時点では弱体化してなかったし

80 :
騎兵主力の明先発隊は平壌で小西行長にぼこられてる

81 :
おっと読み違えた

82 :
大規模陣形を組まない上に、鉄砲の多い日本の場合、騎兵はあんまり怖くない。
崩れた時に追撃されるのが怖い位

83 :
日本側にドラグーンを!
伊達騎馬鉄砲隊って竜騎兵みたいなもんじゃ?
そういうので明軍を蹴散らして欲しい

84 :
伊達の騎馬鉄砲隊って言ってみりゃ西洋でいうカラコールだよ。
カラコールなんて帯に短し襷に流しを地でいく完全なネタキャラだよ。

85 :
重装槍騎兵に止めを刺したときはネタキャラじゃなかったんだけどな
方陣に対してはネタキャラだけど

86 :
>>45
在特会 = 在日特権を許さない市民の会
生活保護を守れ!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18123121
外国人に食いつぶされる日本
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18290594
韓国は即刻竹島から出て行け!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18300200

87 :
>>85
歩兵に重騎兵がトドメさされたからカラコラールなんて可哀想な子ができたんだと思う
それはそうと単なる騎乗鉄砲歩兵なら意味はあると思うな

88 :
そのピストル騎兵が三兵戦術に繋がるんだからそんなに
貶めるものでもないと思うが。

89 :
でも結局「サーベル突撃のがいいじゃん」っていらない子になりましたし。

90 :
考えてみると「個人の技量に裏打ちされたご恩とご奉公の武士」っていうのは、外征軍として不向きじゃないかな
とは思うね
オスマン・トルコ帝国や明軍も砲兵・騎兵・歩兵の兵科が一人の指揮官に指揮される形態で運用されてた訳で、給養
とか補給・補充も国が責任持ってたし(現地調達もあったようだが)
失敗するべくして失敗したと考えるべきかも知れんね

91 :
鎌倉武士かなんかと勘違いしてない?

92 :
鎌倉武士だって必要なら群れるべ

93 :
というか鎌倉武士は一族郎党単位で群れるのが普通で
規模が大きい場合(源平とか承久の乱とか元寇とか)は
大将の指示に従って一斉に戦うべ。
鎌倉武士が個人戦闘メインなんて俗説だべ。

94 :
一騎打ちって言っても随伴歩兵も含めて「一騎」だろうしねぇ

95 :
そもそもその一騎打ち自体が殆ど起こらなかったからね。
基本的には「一斉に矢をいかけた」「○○以下数百騎が突撃した」とかばかりだし。

96 :
史実だと奴隷兵みたいな連中が主力だったけど
モンゴル騎兵VS鎌倉武士
みたいなガチンコ勝負を見てみたかった気がする。
装甲と数の差で勝負にならん気もするが・・・

97 :
奴隷兵じゃなくてれっきとした正規軍だよ。
東路軍はモンゴル人と漢人がメインだし
江南軍の南宋兵だってれっきとした正規軍をぶつけてる。
奴隷だなんてどこの一次史料にあったんだ?

98 :
あと装甲と数の差で勝負にならないとはどっちのことを指してる?
装甲なら武士のが上だが、モンゴル軍にとって装甲があんま意味ない事はリーグニッツで証明済み。
数の差に関しては兵力数では日本のが上だぞ。
そもそも純粋なモンゴル人兵士なんてモンゴル帝国全体で10万行くか行かないか程度だし。

99 :
元寇については最近一次史料の研究が進んでるからな。
杉山あたりの本ソースに棄民だの元軍は本気じゃないだの
あんまし適当なこと言わない方がいいぞ?

100 :
敗戦国の捕虜を連れてきたのを奴隷兵見たいと表現しただけだが
連投する程興奮することか?

101 :
亡国の兵士を自軍に取り込んで正規軍として再編成し
その一部を遠征軍として送り出すのを「奴隷兵を送る」とは斬新な表現だな。
それじゃあ歴史上の大帝国の殆どは奴隷兵が作った帝国になってしまうな。

102 :
騎兵の馬ちゃんには
撒菱
馬上の人物には手裏剣ってワケにはいかないのか?

103 :
>>101
心底どうでもいい

104 :
>>102
普通に鉄砲と槍でよくね?

105 :
鉄砲前だとしても弓うちゃいいしな

106 :
>>103
心底どうでもいいはずなのにいちいちレスする矛盾ww

107 :
そんな二週間以上前のレスにレスされても・・・

108 :
顔真っ赤wwwwww
とかレスしてあげると、顔真っ赤にして煽りだしそうだな

109 :
【韓国】「豊臣秀吉の朝鮮侵略に抵抗した義兵の精神を受け継いだ」と無罪主張=ソウル日本大使館トラック襲撃の韓国男[08/22]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1345610900/l50

110 :
本日は黄石山城攻略記念日
(慶長2年8月16日)

111 :
日本VS朝鮮って扱いはおかしいと思う
日本VS明国が正当だしもっと言うと
九州中国四国大名連合VS明国精鋭&朝鮮国になる

112 :
>>111
終盤から終戦後は朝鮮国との交渉しか窓口が無かったし
当人達の認識は違うかも知れないが
歴史的に見て日本VS朝鮮で問題ない

113 :
一応国力上げて補給とかしてたり、政権トップが外交もしてるんだから日本VSと言うべきじゃないかなあ

114 :
日本vs明でしょ。
戦争終結に際しての和議もこの2国間で決められたわけだし。
朝鮮はずっと蚊帳の外。

115 :
>112は異世界史でも学んでたのかね。例えば南朝鮮国史とかさw
文禄の後の講和交渉はもちろん、終盤も朝鮮は全く蚊帳の外で、
ウリナラ救国英雄・李舜臣もギギギ<丶`田´> と歯ぎしりしてただろうに。

116 :
どっちも間違いじゃない。狭く言えばvs朝鮮だし広く言えばvs明でいい。
vs朝鮮単独、とかいうと間違いになるけどね。
強いて言えば日vs明でいいと思う。朝鮮は明の属国(柵封)だったわけだから。

117 :
本日 2012/10/17は
1597年(慶長2年9月7日)
慶長の役、稷山の戦いで黒田長政が明軍を撃退した日。

118 :
>>73
秀吉はむしろ家康を朝鮮の役に参加させたくなかったんだよな。
秀吉は西国大名や秀吉の親族を勢力拡張のための緒戦出兵だ。
秀吉は秀次に宛てた手紙の中で
・明を征服したら(後陽成)天皇を北京へお連れし周辺三十カ国を献上する
・秀次は大陸の関白となし、北京周辺百カ国を与える
・秀吉自身は寧波にあって天竺攻略の指揮を執る
・日本の天皇は八条宮(天皇弟)か良仁親王(天皇皇子・皇太子)とし豊臣秀保か宇喜多秀家を関白とする
・九州は小早川秀秋に任せる
・朝鮮は豊臣秀勝か宇喜多秀家に任せる
実際にこうなってれば家康なんて物の数ではなかった。

119 :
>>118
文禄じゃ先鋒が加藤と小西、慶長じゃ先鋒は加藤だからな
子飼いに手柄を取らそうって意図が読み取れる
ただ、明を征服できたらともかく
慶長の役は朝鮮南部(今の韓国の国土に近い)の割譲が目的なんだけど
これは秀吉があと5年長生きしてたら成功してた可能性もあるけど
これが成功しても豊臣政権が磐石とは言い難い。

120 :
>>118
旨みのない朝鮮北部を支配するのは嫌だっただろうな
現場は南部限定で支配したかっただろうな

121 :
秀吉が死んで国内政治がgdgdになったので撤退した訳だからな、慶長の役の場合
戦争自体では特に負け無しではあった

122 :
朝鮮征伐

123 :
>>121
慶長の役は、文禄の役の反省を踏まえてほぼ満点に近いデキだしね。
けど、朝鮮全土を制圧するのに何年かかるわ分からん状態でもあるな
具体的などんなプランだったんだろ。

124 :
日本軍が連戦連敗

125 :
>>124
そうでもない
朝鮮義勇軍や明軍には負けてたが
朝鮮正規軍にはある程度は勝ってた

126 :
妄想ばかりで哀れになってくるな
その連戦連敗の日本軍から一度でも城攻めで城を奪取したことや
名のある大名を何名か討ち取ったことはあるのかね?

127 :
【韓国】 国会議事堂にある李舜臣将軍銅像、「親日銅像」と批判され1億ウォンで作り直すことに[01/03]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1357281632/l50

128 :
>>127
>中国式の鎧と日本式の刀を差している、いわゆる'親日銅像'と批判されてきた国会議事堂の李舜
臣(イ・スンシン)銅像<写真>が撤去され新しく建設される。

なんだほんとに日本刀じゃないか
391 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん [sage] :2013/01/05(土) 17:11:06.82 ID:mfDgBpCd
李舜臣の愛刀とかいわれている「雙環大刀」
http://www4.kjclub.com/UploadFile/exc_board_61/2010/05/16/4(1).jpg
http://xn--eckud3f.kjidai.com/wp-content/uploads/2012/01/choson-kal.jpg
武芸図譜通誌の環刀
http://hsmuseum.suwon.ne.kr/jap/pop/photo_view_0304.jsp

129 :
和刀っぽいなぁ
本当に李舜臣の刀だとして
途中で導入した物かねぇ?

130 :
当時の明国じゃ日本刀を模した倭刀、苗刀が大流行してたからね。
勿論、宗主国様の国の流行り敏感なのは属国に常なので李瞬臣も倭刀は装備済み。
親日銅像も何も事実に忠実なんだから仕方ないでしょうに
得体の知れない刀剣でも持たせるのかね。

131 :
カタナの起源は韓国ニダ、ってーのはどうしたんだろうな。
韓国起源なら別に日本刀でも苗刀でもいいだろうw

132 :
日本刀→親日派!
中国刀→属国清大
独自の文化のない国は大変だな

133 :
偽倭寇は大して強くないが、1割程度居た純粋な倭寇
その純粋な倭寇が装備する日本刀と、日本の剣術が尋常じゃない強さで
明国副首都の南京が倭寇相手に攻められて何千人と討たれ篭城戦までする始末。
一方的にやられてたが明代後期、屈指の名将と謳われた戚継光が
1対1じゃ勝てないから、常に1対4(短刀、長刀、槍、捕縛の4人で1組)で戦うことを確立し
常に4倍以上兵力で個々の戦闘でも組織戦を行うことで、倭寇相手にやっとマトモな戦いができるようになる。
1対1じゃマトモに戦えない程の強さを誇る倭寇、その倭寇の強さの根源を日本刀に求め
日本刀を模した刀である苗刀を造る。
その日本刀に模した苗刀を装備した属国の将軍である李瞬臣。別に何も大騒ぎすることは無いと思う。
むしろ当時の最強の携帯武器を武装してたんだから褒められてもいいぐらい。

134 :
世界地図を見るたびに日本はちっこいなと、ため息が出る。
これが実力か。
朝鮮とケンカしてる程度が日本の実力。ため息。

135 :
日本の1/4しかない韓国の立場も考えてあげてください。(゚∀゚)アヒャ

136 :
毎年韓国では260万頭の犬と多くの猫が殺され食用とされている。
金属製の小さな籠に生きたままぎゅうぎゅう詰めにして運搬され、
生きたまま首を吊り、パイプやハンマーで叩き、わざと時間をかけてR。
また、生きながらに火であぶり毛皮をはがすこともある。
なぜそうするかというと、韓国では動物の苦しみが大きいほど肉が香り高く
柔らかくなり、さらに“男性の精力の源になる”と信じられているため。
その根拠は「苦しむ際に組織にたまるアドレナリンによるもの」とされているが、
当然これは犬肉業界がたくみに広めた迷信である。
猫も同様に殺され、生きたまま煮られることすらある。
ちなみに猫の場合は“リューマチや神経痛に効果がある”と宣伝している。

137 :
○チョン鮮人の性格
1 依頼心が強い
2 すべきことをせず他人に期待し裏切られると恨んだり非難する
3 相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思う
4 せっかちで待つことを知らず「今すぐ」とか「今日中」とよく言う
5 すぐ目に見える成果をあげようとし効果が出ないと我慢せず別の事をやろうとする
6 計画性がない
7 自分の主張ばかりで他人の事情を考えない
8 見栄っ張りで虚栄心が強い
9 大きなもの・派手なものを好む
1O 物事を誇張する
11 約束を守らない
12 自分の言葉に責任をもたない
13 何でも出来るという自信を誇示するが出来なくても何とも思わない
14 物事は適当で声だけ大きくウヤムヤにする
15 綿密さがなく正確性に欠ける
16 物事を徹底してやろうとしない
17 “見てくれ”に神経を使う
18 「世界最高」とか「ブランド」に弱い
19 文書よりも言葉を信じる
20 原理・原則より人情を重んじ全てを情に訴えようとする
参考資料 : 「現代朝鮮人の国民性格」 著者:李符永(ソウル大学教授)

138 :
李栄薫ソウル大教授:「従軍慰安婦は売春業」 勇気あるRで殴る・蹴るの暴行受ける!
http://bbs.jpcanada.com/detail.php?bbs=6&msgid=8872&ntopic=1&dummy=24
慰安婦を詐称する元売春婦の前で「土下座謝罪」させられる教授!
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/57/0000012857/13/img07e2ad1efwts8c.jpeg
流石は奇形民族wwwwwwwwwwww

wwwwwwww流石はウンコリアン
http://dl4.gerugugu.com/F-DATA/D-MZoGB1178780777/MZoGB1178780777.jpg
http://imgnews.naver.com/image/003/2008/02/06/NISI20080206_0006086979_web.jpg
http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/48/41/21304841/48.jpg
http://nandakorea.sakura.ne.jp/img/ktx.jpg

★韓国 盧武鉉(ノムヒョン)前大統領の言葉 (わかってんじゃんWWWW)
「私は僑胞(キョッポ)の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わない
くせに韓国人を名乗り、 日本の選挙権を求める。 馬鹿げていないか。つまりは、
いいとこどりではないか。 私たちが苦しい思いをしていた頃、僑胞(キョッポ)の
連中は私たちよりいい暮らしを日本でしていたのだ。 僑胞(キョッポ)は僑胞(キョッポ)だ。
韓国人ではない。」 (03年6月の訪日時TBSのテレビ番組より)

139 :
雑賀衆=沙也可でまちおこし
どう思う?
無理やり和歌山に沙也可碑建てたらしい。

140 :
福岡西区民としては原田信種であって欲しい

141 :
>>139
あれが史実だとしたら、沙也可はフツーに裏切り者だろ。
朝鮮人と卍派朝鮮史学会的には、ウリナラに帰順した
良心的日本人かもしらんが。

142 :
>>141
アレを日韓友好の象徴にする感覚がおかしいよね。
日米友好の黒船祭りと同じくらい脳死状態。

143 :
【韓国】海上展示用‘壬乱亀甲船’が曳航途中に高波で浸水[01/15]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1358381894/l50

144 :
沙也可自体、雑賀という発音にそっくりスミダとか根拠のない妄想だからな
何より応仁天皇の正体は王仁とかいう馬鹿学者がいる国だしなwww

145 :
信長だったら明軍に信長みずから突撃して将帥を討ち取って
一気に北京まで猛追してただろうな。
秀吉みたいに人望がまったくなく残虐ゆえに末代まで恨まれ現在に至るほどの非人間では誰もついてこないだろう。

146 :
信長だったら、一回負けて、次は明軍以上の大兵力で攻めこむ希ガス
あと秀吉の調略で反乱祭り

147 :
>>145
結局秀吉の場合農民あがりだから限度があるんだよね
どこか舐められてるところがある。
一方信長は恐帝だし。
本能寺がなければ、82〜3年には毛利や上杉が滅んで、九州は大方臣下になってたから。
遅くても85〜6年には天下統一してただろうし。家康も従順な犬状態。
5年前倒しの朝鮮出兵でも普通に40万とか渡海させそう。

148 :
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

149 :
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

150 :
底辺から成り上がったは秀吉自身が言ってる自称だな
底辺が具体的にどの層のことを言ってるかまではわからないけど

151 :
底辺に近い所からの成り上がりなのは確かじゃない?
それが貧農なのか、行商人なのか、やくざ者なのかはともかく。
権威全盛の時代に、わざわざ卑しい家柄を自称する意味は無い

152 :
秀吉が武勇伝で自慢話として語っただけだろ
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。

153 :
突然どうした?例の発作の子?

154 :
木下は親類衆でもないし
秀吉の氏素性が書いてない時点で氏素性のわからん人間だし
後世の人ほど当時の人はそれ程気にしてなかったってだけでしょ

155 :
氏素性書いてないって織田家臣団なんて皆書いてねーじゃねーか

156 :
木下雅楽助は織田の親類衆
あと秀吉の素性どうこうは完全に太閤記の講談ネタ。
つうか秀吉の逸話なんてすの俣一夜城とか金ヶ先の退き陣とかほとんど太閤記のデタラメ逸話ばっかりだから
今更一々疑う必要性すらない。一次資料にないどころか同じ軍記系列の信長記ですら初登場は
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし

157 :
秀吉自身が言ってるのだから仕方ない

158 :
そんな史料あったっけ?

159 :
話題に加わりたいなら流石にその程度は知っとけよ

160 :
秀吉のいう底辺が数千貫クラスの地方豪族レベルだったってだけの話じゃね
大名レベルからいえば底辺もいいとこだしな

161 :
数千貫だと準大名クラス。柴田や前田より上で記録に残らないわけがない。馬鹿なの?

162 :
高木とか尾張毛利とか関とか田丸とか数千貫クラスなんだが信長時代の記録には全く残ってないわけだが

163 :
つーか高い身分として登場してるのがちゃんと残ってるじゃん。
一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし

164 :
>>162
どの高木と田丸だよ。知ったか恥ずかしいぞ

165 :
だいたい数千貫と言いつつ記録がないとか、じゃあどっから持ってきた数字なんだ?
本気で馬鹿だろ

166 :
>>164
東駒野城の高木氏に伊勢の田丸氏だな
>>165
織田信雄分限帳に書いてる

167 :
織田家臣団の貫高を記録した記録なんてあったか?
特になかったような…

168 :
丹羽氏次とかも数千貫レベルの領主なんだが信長時代の記録には全く載ってないしな
石田の毛利広盛とかも同じ

169 :
その辺の有名どころなら家譜その他で記録が残ってるだろ
高木氏なんか信長からの書状とがまとまって残ってるし
公記にも載る名前のものもいる
どこが記録が無い家なのかね

170 :
信長時代に丹羽高木田丸が数千貫もらってた記録なんてない
つーか織田家家臣団の貫高を一々記載した織田家公式の記録自体が存在しない
そもそもそういうのは軍記とか由緒書とかにちょっこっと書かれるくらいが普通で
小田原所領役帳とか信雄分限帳みたいな物がない限り不明なのが実態

171 :
>>170
ちょっと黙っててくれない。ずれたレスを延々と迷惑なんだけど・

172 :
まずお前が黙るべきだと思うよ

173 :
>>157
このレベルの奴が何を言ってもねぇ

174 :
えへ、まちがえた。こっちね>>158

175 :
>>158
そんな史料ない

176 :
すごいねw
秀吉の出身を考察した箇所のある本なら大体載ってるのにw
自分の脳内だけで歴史作りたいだけかね

177 :
面倒くさいからどっちも一次資料だせよ・・・

178 :
史料無視の妄想者と大した史料じゃないのにもったいぶってからかってる奴なんてほっとけよ

179 :
>>143
古代ギリシア時代の三段櫂船なんかは復元してもちゃんと航行できるのにね

180 :
亀甲船はオーパーツ、倭乱によって製造法が失われた

181 :
韓国に歴史的建造物がそれほど残っていないのは
秀吉が全部燃やしたから

182 :
>>180
現代技術でも作れない謎の新技術とかって吹いてそうだな

183 :
朝鮮征伐

184 :
まー日本の大名が軒並みやる気ないんだからしょうがないよ
つーか、日本軍てそんなに負けたか?
資料見たり本読んでもそんなに負けていない気がする

185 :
李舜臣とかいう明国の下っ端、与太海賊は最初はたまたま物資を奪うのに成功したけど
あとは大した戦果もあげられず、あっけなく戦死しちゃったっていう事実を
ちゃんと韓国で教えてくれないかな

186 :
奪ってない奪ってない
開戦初期に豪族の乗った船団をいくつか撃破しただけ。
輸送船を攻撃とか、補給線を断ったとかどっから出てきた与太なんだろ・・・

187 :
>>186
旧日本海軍が予算獲得のために海防の必要性を説くのに李舜臣を持ち上げたのが
そもそもの始めらしいけど、それを戦後に左傾朝鮮史学者が逆手にとって制海権やら
補給線遮断やらとすっかり”定説”にしたみたいね。
でもまぁ、ネット上での輸送船やら海賊やらいうのは、たぶんnayukiが大元なんだろうなぁ、と
思う。次の下りなんかいろいろ間違ってるんだけど、これを無学なバカウヨが聞きかじりで次々
拡散している印象。
ttp://www.getemono.com/contents/nayuki/KGnayu2.htm
*日:nayuki<しかも李舜臣が日本軍相手に大勝した? 事実は、補給船団を海賊のように襲っただけです。しかも最後は、嘘の休戦協定を日本と結んで、油断して撤退中の日本を背後から襲うという卑怯な戦法。
*韓:kiljap<お前靴やタックゴ出るに靴汚かったと言って捏造専門史家が生きて呼吸する日本
*日:nayuki<翻訳が乱れ始めましたよ。落ち着きなさい(w
*韓:kiljap<李舜臣将軍はお前達を皆殺しにした! 倭人は李舜臣将軍を見れば恐ろしくて逃げ出す!
*日:nayuki<李舜臣将軍の最後を知っていますか? 卑劣にも撤退中の秀吉軍を後ろから襲ったけど、日本の島津軍に返り討ちに遭い、鉄砲で撃たれて魚の餌になったのです。韓国の英雄に相応しい惨めな最後ですね。
 つまりは韓国で教えられている李舜臣の英雄奇譚は、補給船団の襲撃を
“倭国の大艦隊を正面から撃破”、嘘の休戦協定で騙し討ちにしたのを
“慢心している敵に機知を生かした快勝”、秀吉が死んで撤退中の日本軍を
後ろから奇襲したのを“最後の大決戦で倭国軍は敗走”となっているのである。
 ただし李舜臣の戦略は称賛に値する。秀吉軍と正面から戦わず補給船団を
襲って補給ルートを断つことによって、味方の犠牲を最小限にして敵を窮地に
追いつめたのだ。東郷元帥が言ったと伝えられているように、名将であったことには
変わりない。

188 :
>>187
窮地には追い詰めていないよ
それに李舜臣は明国単なる下っ端で作戦の立案にも関係していない

189 :
朝鮮征伐なんて痛い事やった馬鹿は秀吉くらいだなwwwww
「ワシは天下の豊臣秀吉じゃー、日本は全て俺のもの
だけんね 日本は掌握したから朝鮮もワシの手のひらに
収めよ、オラオラ福島加藤朝鮮行って来い、朝鮮人の
首を持って参れ」こうして2度の侵略戦争
は日本側も朝鮮側も無駄な犠牲者を増やしただけで、
国土の拡張や日中韓の貿易での御利益もなくなって
無駄に終わりましたwwwwwwww
これほどアホやった政治家も珍しいなwwwwww

190 :
秀吉の朝鮮征伐ってこれ程アホwwww
@万単位の無駄な犠牲者ばかり生み出し
A加藤福島などの家臣の不満を煽り、裏切られるキッカケになった
Bチョンシナとの外交貿易などで両国の不満を買い、
のちに家康が鎖国をする大きな要因になった
C @Aのおかげで西軍の戦力低下につながり東軍に、
豊臣家を滅亡させられる大きな原因になった
D無駄に秀吉自身の後世の歴史上の評価を下げた(悪劣な行為、愚行と罵られ)
挙げればデメリットにキリがないな、
メリットとかあるの?

191 :
16世紀レベルの戦争で輸送船とか補給線とか言い出す奴は
近代戦の思考に毒され過ぎ

192 :
>>190
侍なんて島国の弱い連中ニダ、大国男児のウリ達の花郎に一捻りニダ
って妄言が吐けない
結局秀吉の死で撤退したけど、終始戦闘では勝ち続きだった。

193 :
>>191
近代的な補給線なんて物ができる程補給があったら
秀吉が死ぬ頃には明どころかモスクワ包囲してそうだなw

194 :
そうでなくても書状一通送るのに数百人の護衛が必要というレベルだからなぁ

195 :
家康にも圧勝した秀吉公

196 :
小牧長久手で雑魚信雄相手に7分の1の兵力で挑みかかったら1万人ぶち殺され
その後も松ノ木浜田二重堀前田蟹江東駒野戸木河波など各城郭で負け続け
寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半分すら切り取れず必死に本願寺顕如に取り成し頼んで和睦までこぎつけたのが秀吉

197 :
いまだに小牧長久手を秀吉勝利とか言ってる馬鹿堀に影響されてる馬鹿がいてワロタw

198 :
大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚輝元に敗北した秀吉w
史料総覧  毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
【管理番号】020100216456
【編/冊/頁】10編911冊179頁
【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略  昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書

199 :
だがさんのコピペなんか誰も見ないから

200 :
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

201 :
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある

202 :
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である

203 :
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

204 :
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する

205 :
NGでスッキリ

206 :
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ

207 :
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる

208 :
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される

209 :
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。

210 :
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。

211 :
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう

212 :
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように 6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた 6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ 家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。 そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ

213 :
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし

214 :
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに 放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として南伊勢五郡を与えられてる 松ヶ島城あたりは算用次第
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や 天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで
秀吉にとって圧倒的優位な状況が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ

215 :
天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww

216 :
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

217 :
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

218 :
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)  周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww

219 :
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉

220 :
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

221 :
長くて読む気がしない

222 :
無意味なコピペをわざわざ読む奴も居ないだろ

223 :
>>221>>222
要約すると>>220だから。

224 :
間違えたw
>>200だけ読めばいい。

225 :
墨俣一夜城とか農民からの出世エピソードとか中国大返しのマンセーとか城攻め名人とか捏造ばっかだもんなぁ

226 :
なぜかうまくリンクしないな。
めんどうだからレスるか。
天正12年の秀吉と家康・信雄との戦役は
秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もって
ひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように
依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
秀吉に呼応する上杉の南下と
秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
秀吉と敵対する愚を犯した家康は最低最悪の戦略的大失敗を
犯しただけじゃんよ。
アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃の必死さは買うけどよwwwwww

227 :
>>226
>>216->>219

228 :
>>1万人戦死
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから

229 :
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉

230 :
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する

231 :
< 丶`∀´> 「秀吉はカスニダ、あんな雑魚で運よく天下とれただけの雑魚は日本の英雄ではないニダ」
<=(* ´∀`)「アンチ豊臣政権のキチガイ在日の捏造歪曲コピペ爆撃必死杉www」

.   ∧__,,∧
   <`∀´∩ 常に結論は一つ。”日本が悪いニダ!”
  / つ E_)  
  し―-J

232 :
朝鮮出兵はアホな戦だったとしかいいようがない

233 :
沖縄の歴史家は、琉球征伐を『琉球侵略』と歴史修正主義に必死なようだけど
朝鮮征伐は『朝鮮侵略』にはならんの?文禄慶長の侵略

234 :
ザ・餓死
日本軍もメシがなくて餓死
でも朝鮮人征伐して良かったわ
朝鮮人の弱さを証明出来たし、任那日本府等の報復に少しはなった

235 :
>>233
一部左翼が朝鮮侵略って言ってるでしょ
>>234
秀吉の朝鮮征伐が無かったら
【世界最強】フサリアVS朝鮮花郎VS侍VSイェニチェリ【決定戦】
戦国時代李氏朝鮮に攻め込まれてたら日本って征服されてたよね(´・ω・`)
なんて一面無残なスレが立ってたと思う。
中華の四辺から精鋭を集めただけあって明兵は噂通りの強さ
一方朝鮮兵は大方の予想通り尋常じゃないほど弱いって証明出来たのは大きい。

236 :
明軍が強かったのってウン小西を敗走させた李如松の精鋭くらいだろww

237 :
ウン小西とは無礼な。
文治派扱いされることの多い人だが普通に優秀な指揮官だよ
めちゃくちゃ騙されやすいのは頂けないがw

238 :
>>237
なんか民主党の仙谷と同じ臭がするんだよな小西ってさ
国際都市に生まれて、裕福な商家に生まれて、キリスト教徒で、エリートコース爆進で
才覚で商人から武士になり、大名になった。
優秀なのは間違い無いけど、自軍や同僚よりも敵軍を信じて騙されて
自軍を壊滅寸前まで追い込んで、一度ならまだ馬鹿なボスで済むけど2度も騙されたら弁解の余地ない。
本当に左翼臭と言うか花畑臭がプンプンする、戦国大名なのにさ。
そういう意味では異色の存在だと思う。

239 :
ある意味国際舞台の最前線に居て、肌で現場を知ってる
宗や松浦は相当ゲンナリしてたと思う、小西の夢見心地の世界観にさ。
まぁ間違いなく優秀だっただろうけどさ。優秀なエリートお花畑政治家って感じ。

240 :
結局のところ武士じゃないんだよ。
武力をちらつかせて交渉の道具にすることは出来ても
本気の潰し合いをする覚悟が座ってない。
キリシタンになったのも、ただ自分で腹を切るのが嫌だっただけだと思うわ。

241 :
結局この後、日本より武力のない満州族が弱った明を滅ぼして
朝鮮も隷属させるんだから、日本は大損だったなぁ(´・ω・`)

242 :
日本は他人の事情よりも自分の事情を優先したからね
衰退し始めてたと言えども一枚岩の明に喧嘩売ったんだよね。
ヌルハチってか清国の創設者連中は日本と違って明をよく見てたと思うよ。
明が少し弱ったところで独立して、ほかの満州族を束ねて
明で内乱が起こったところで、片方に味方して急遽明国を侵略、中華世界のボスになる。
味方した明の残党も結局後で滅ぼしたし。

243 :
【韓国】救国の英雄・李舜臣の「乱中日記」、世界記録遺産に登載〜日帝時代にウェノム(倭奴)らが奪おうとしたが奪われなかった[06/19]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1371741888/l50

244 :
朝鮮総督府が見つけて管理してたのにな>乱中日記

245 :
「乱中日記」に限らず
大日本帝国の保護・管理が良かったから
李氏朝鮮時代の遺産が大量に残ってるんだよ

246 :
>501 名前: [´・ω・`] FLH1Agw121.kng.mesh.ad.jp[] 投稿日:2013/07/04(木) 19:17:28.38 ID:Rg4Kd3VP [10/10]
>>499
>ば〜か、秀吉の朝鮮出兵なんぞ、それこそ織田信長の猿真似だわ。
>秀吉には構想力や理念が無いから、大失敗しただろ。

↑朝鮮出兵って、信長の猿真似だったの?その根拠を教えてください

247 :
信長は日本を平定したら大艦隊をしたてて中国を征服する考えであった
ルイス・フロイス『日本史』

248 :
それだけで246の人は「猿真似」っていうつもりだったのかな?
じゃ天下統一ってのも猿真似だよね?徳川家康も信長のパクリじゃ・・・

249 :
そもそも信長は畿内周辺しか支配してないんだから
中国を征服なんて戯言レベルでしょ。

250 :
フロイスは誇張癖があると上司に評される人物だからな。
ただし『日本史』は日本側史料には無い話の宝庫で
他史料から否定されるものもあれば考古学的に裏づけられた話もあって
一時の嘘つきフロイスの証言は無効な風潮は見直されてきてるのと
豊臣政権は織田政権内部から発生した後継政権なので
当然ながら豊臣政策は織田政策の継続発展版が基本なのも事実

251 :
つ、つまり秀吉は信長の猿真似である、ということか?

252 :
個人的には大言の類だと思うし
発言と実行の間には大きな溝があるので、
合理的かつ世論を気にする性格の信長が唐入りを実行するとっは思わないけど
大言を真に受けた秀吉が唐入りを実行し
それを見たフロイスがあの発言は書き留めとかなきゃと思ったくらいはあるかもね程度

253 :
猿まねっつうか、物事はマネの連続だしな
信長だって三好政権を相当マネしてるし、
家康の幕藩体制の前身は秀吉の統治体制

254 :
信長は幕府に寄生虫してただけで、
内政なんて何もやってねぇだろ。
信長の根拠なしの大言壮語をフロイスが記憶してただけだわ。
信長が生きていたらキリスト教大名が蔓延して日本は植民地になってたわ。

255 :
信長がこねた餅を秀吉がこねて家康もこねたって感じだからなw
猿真似にしか見えないのなら詳しくないのだろう

256 :
信長が棚ボタ火事場ドロした天下を秀吉がさらに棚ボタ火事場ドロして家康もさらにそれを棚ボタ火事場ドロしただけ。

257 :
だがさんしつこいっすよw

258 :
結局、秀吉がやったことはすべて
信長の脳内にあったことだって言う
思考の飛躍wがないと成立しない妄想っぷりが
織田厨クオリティw

259 :
>>246
それ、こいつのことか?
ネ国愛聖のロビー★7
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/bobby/1331650401/
赤穂藩の家老だとのたまう、アホの子孫か
朝鮮人叩きに毎日精を出してるようじゃのう

260 :
>>249
日本の中枢押さえてるから天下取る目前だべ
あれだけ勢力確保すれば特に敵対してない大名は下るし

261 :
信長が天下統一まじかとかないわ
別所荒木松永明智など離反がたて続けにおきてたしどの道他の奴に殺されて終りだろ

262 :
信長は信玄にもボロ負けし滅亡寸前の所で偶然的に信玄の死で救われ
謙信にもボロ負けし滅亡寸前の所で偶然的に謙信の死で救われ
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂の北畠、対浅井の敗戦や観音寺騒動で弱体化しきった六角相手に火事場泥棒で勢力拡張しただけだもんなぁ
実力で広げた領土じゃないから結局光秀に殺されて織田家は滅亡するわけだし
信玄があと3か月くらい生きてたら武田の天下になったと思う

263 :
だがさん落ち着いて

264 :
織田も豊臣も結局滅んだしな
織田なんて火事場泥棒と騙まし討ちで勢力広げたけど
所詮実力0だから光秀に殺されて滅んだわけだし

265 :
信長は所詮天下取る器じゃなかったんだろうね
反乱続きだし光秀に殺されなくても別の奴に殺されて終わってただろうし

266 :
反乱続きなのはどこの勢力でも一緒じゃないか

267 :
沈惟敬の秀吉暗殺説はチョンの願望だろw

268 :
>>266
信長ほど大規模謀反が起きてるケースはほとんどない。
織田家を乗っ取った秀吉・丹羽・池田の家中や信長を暗殺した明智家中など
信長は有力家臣の家中の支持がなかった現われ
別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵

269 :
勢力が大きいからな大きくは見える

270 :
スレ違いばっか

271 :
「歴史通 3月号」の古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。
以下引用(38〜9頁)
日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・  ・  ・  ・  ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。

引用終了
学校では全く教わっていない、知らない話でした。

272 :
へぇ
文禄の役の時に秀吉が死んだとは知らなかったな。秀吉の死と遠征軍撤退の時系列を確認したほうがいいぜ。

273 :
にしても慶長の役って打ち切り少年漫画みたいな終わり方だよな

274 :
良くも悪くも、秀吉は替えのいない存在ということ

275 :
徳川家康の軍隊が朝鮮に攻めこんでたら慶長の役には勝てたの?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1374892033/l50

276 :
「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。
以下引用(38〜9頁)
日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・  ・  ・  ・  ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。
引用終了
学校では全く教わっていない、知らない話でした。

277 :
半年近くも前のネタをマルチコピペしまくって、ニワカなアホですか?

278 :
>>277
いや、これは知られるべき内容だと思うよ。
反日左翼と、韓国・在日朝鮮人は数百年前のことを持ち出して、
ネチネチと反日活動をおこなって金や領土を奪い取ろうとしてるしね。
とくに文禄・慶長の役は嘘が多いw

279 :
>>278
文禄の役と慶長の役を混同してるようなバカ教授の与太話が知られるべき内容だと?
文禄・慶長の役は嘘が多いというのは同感だが、このコピペも大概だぞw

280 :
>>278
教授の肩書きがある人間がこういった発言をするということ自体は
ある程度は評価できても、もう古田センセは専門外のことを自分の
無知を自覚せずにしゃべくりまくる辺りが、お粗末すぎだからなぁ。
前にも、染料と顔料の区別さえ付いてないというのがあったし。
要は、馬鹿な味方は敵より怖い、ってのを地でいきそうでさw

だから、そういうのをわきまえず、賞味期限切れのネタを
嬉々としてマルチポストしている>>276みたいのは、
阿呆にしかみえん。

281 :
つか半島と同じレベルに自ら落ちてるだけだわな

282 :
まぁ、左翼とか半島人、在日朝鮮人にとっては、
秀吉軍の占領地に朝鮮人がドンドン、逃げていたってのは
絶対に認めたくない事実だわな。
反日材料のネタも無くなるわけだし。

明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。
特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。
第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。
戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。

283 :
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html

唐武陣 文録・慶長の役の偏り5 中国(明)・朝鮮から見た日本の船
http://zaq.ne.jp/users/es1772329/article/101/

284 :
  
  
世界史板のスレで物凄いのが沸いているなw
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1309526779/924-

  

285 :
>>279 >>280
与太じゃないよ。
283の下のURL先の記事で宣祖実録や懲録の、それぞれ違う報告書で秀吉軍地域に逃げ込んだり、
日本の風俗に従って生活してる朝鮮人のことが書かれてたのを確認した。
実録の巻数をみると時期は1595年頃だから、初期の混乱期ではなく、
交渉時期という落ち着いた期間に朝鮮人が次々と秀吉側に逃げてるのは興味深いな。
つか歴史的事実に賞味期限も糞も無いだろ。
278の言じゃないが、無知だと一方的に相手の言うことに騙されることになるから
こういうことを知っておくのは詐欺られない為に絶対必要。
まぁ、そこまでムキになってる、
あんたの思想や出自はなんとなくわかるけどね。

286 :
>>285
朝鮮人認定キターw 付け焼き刃の知識でいきり立ってる夏休みの
お子さまかよ。ヤレヤレ
文禄4年なんてのは引き続く飢饉で餓死者続出、流民が夥しかった
時期なんだが、食い詰めた流民(土地を捨てた古田センセいうところの
"朝鮮農民")が、よりましな日本側支配地に流入したからと言って、
それを朝鮮民衆が日本の徳をしたって集まってきたとでもいうような
拡大解釈してどうするよw
朝鮮民衆の宣撫策はモデルパターンだった咸鏡道で破綻した時点で
終わってるというのは変わらんだろ。
あと、賞味期限切れ、ってのは古田センセのこの手のネタ話のことな。
発表されると無知無教養な連中だけはがっつり喰い付くけどさw

287 :
【ラジオ】米ローカル局の司会者が韓国蔑視?「犬肉でも料理してあげて」と発言
 韓国ネット「犬肉文化の何がおかしいのかwwwwww
ロサンジェルスのローカルラジオ放送局「KFI」(KFIAM 640ステーション)で、
米国の司会者が韓国人をバカにする発言をしたとして、韓国内で物議をかもしている。
問題発言があったと指摘されているのは、同放送局で放送された
法律番組。司会者の弁護士ビル・ヘンデルさんは、視聴者から相談を受けつける
コーナーで、フィリピン系女性から寄せられた悩みを聞いていた。
ビル・ヘンデルさんは、女性が「韓国人の家主とトラブルがある」と語ると、
「犬肉でも料理してあげればいい。韓国人はフィリピン人が好きじゃない」と発言。
さらに「韓国人の家主は、借家人の境遇なんて気にしていない」と独自の考えを述べた。
最高だなWWWW
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/d4/2e6c54a186fef4906352960c406e4b0b.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/73/2548023714e920b1da9ce5d2b2c7c03c.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/04/91116ee7c49ed067d25707afe99f0730.jpg

288 :
4月25日(木)、TBSが夕方の報道番組「Nスタ」で
新大久保デモの特集を放送した!内容はデモをほぼ一方的に批判する
内容となっており偏っていた。「日本人差別をやめろ」の横断幕や
「日本人を脅して補助金ざんまい」のプラカードなども映ってはいたが、
番組がそれらについて特段取り上げることはなかった。
http://blog-imgs-59.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20130426075242893.jpg
アナ
「私はこれは言葉による暴力だと思うんですねー
あの、ぶちころせとかみなごろしにしろっていう言葉をですねー
表現の自由として議論すること自体に疑問を感じます
国家による法規制を議論する前に、こうした行動とか発言をですね
日本国民として受け入れられるのかどうかをまず考えるべきだと私は思いますね!」
女子アナ
「はい、本当にそうですねー」
●TBSは韓国人に乗っ取られている。wwwwwwwwww
【就職】「在日は武器」 在日女子大生、面接で靖国や独島の質問答えて
TBSに内定:2007/01/10(水) 民団新聞
■TBSテレビ内定【李民和】さん
http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/200904151813039e3.jpg
↓2年後↓
http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/200912230321527fc.jpg
【金景敏】(TBSテレビ編成制作本部スポーツ局勤務)
【TBS社員が韓国代表に】 アメフトW杯、TBS社員など在日10人が韓国代表に!!!
http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/464a70c4d3aba.jpg
2010年4月12日スタート『水戸黄門』シリーズ「第41部」第三話の監督は金鐘守www
金鐘守は2009年7月27日スタート『水戸黄門』シリーズ「第40部」
第一話(初回2時間スペシャル)でも監督を務め、両替商の「高麗屋」
お吉が善人として登場した。↓wwwwww
http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/DSCN1795.jpg

289 :
●韓国人に乗っとられた劇団四季●
「ライオンキング」
主催:劇団四季/フジサンケイグループ
特別後援:JR東日本
ラフィキ=金原 美喜、鄭 雅美、茜 りな、光川 愛(韓国)
ムファサ=平山 信二(韓国)
ザズ=布施 陽由(韓国)
スカー=金森 勝(在日)
シェンジ=孫田 智恵(韓国)
バンザイ=本城 裕二(韓国)
エド=韓 盛治(在日)
ティモン=黒川 輝(韓国)
プンバァ=福島 武臣(韓国)
シンバ=三雲 肇(韓国)
ナラ=江畑 晶慧、谷原志音、愛沢 えりや(韓国)
http://blog-imgs-59.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/2013042402072005a.jpg
シナ朝鮮の犬HKwww NHK「ニュースウォッチ9」で劇団四季
(韓国劇団・民団死期)を10分間超にわたり宣伝!www

290 :
まあ日本占領地なら義兵のふりした朝鮮人の匪賊に略奪されたり殺されたりせずに済むからなw

291 :
>>286
俺も285じゃないが君に名誉朝鮮人の称号を送るよw
朝鮮側に立って奮闘しているのだから、本来なら喜ばしいことだろ。
>それを朝鮮民衆が日本の徳をしたって集まってきたとでもいうような
ああ、要するに従来のように「一致団結して倭奴の侵略軍と戦った」
という反日カードのひとつが崩れるの認めたくないといわけねw
>咸鏡道で破綻した時点で
成功してるってw そもそも下記↓の
http://zaq.ne.jp/users/es1772329/article/101/
朝鮮人が日本軍統治区に避難してるってのは慶尚道の記録だし。

徳川幕府時代の捕虜返還の交渉で、
朝鮮に帰ったのは少数の支配階層だけなんでw
下層階級の人たちは、帰りたがらなかったし、
港まで連れて行ったのはいいがみんな逃走してるし。

292 :
ワロタ ID:SOOnzrxq が恥ずかしすぎる(藁
どっちが付け焼刃なんだか。

293 :
朝鮮民衆が日本占領地に住み着かなきゃ、
安国寺とかがガキ共集めていろは歌なんか教えてられんなw

294 :
何を笑われてるのかまだわかってないのか

295 :
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)
http://zaq.ne.jp/users/es1772329/article/98/

296 :
>>294
馬鹿につける薬はないということだね

297 :
>>296
朝鮮人に期待するのが無理だろう。

李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html

298 :
李舜臣が日本水軍を壊滅させたとか、補給線を断絶したとか言った奴誰だよww
北島卍?

299 :
あー、やっと規制あけた。その間、夏休みのお子さま2号with金魚のフンが
ずいぶんと調子こいてたなw
 
>>291
で、オマエ素で馬鹿だろ。
>成功してるってw〜慶尚道の記録だし。  
とか言ってる時点で、多少の知識が有れば即座にそれと判るであろう、
当初日本側に最も協力的であった咸鏡道における加藤・鍋島勢の経略失敗の
話をしている事がまるで理解できてないのが丸判りで、自分は基礎的な
知識すらないのに伸びしてる無学なガキです、と自己紹介してるようなものw
 
さらに、ドヤ顔で何を持ち出してきたかと思えば、相変わらず飢饉と重なる
休戦期の話だし。
西生浦の話はともかくとして、解放された捕虜が食い物がないので
日本側に戻って行ったなんてのは、飢民が相殺食す、と記録にあるほどの
飢饉の傍証にしかならんし。
おまけに引用すべきURLが間違ってるしw、正しくはこれだろ。
ttp://zaq.ne.jp/users/es1772329/article/100/
そもそも、いつの時点の話で、どんな史料を根拠にしているのかも判然としない、
どう見ても都合のいいところだけをつまみ食いしてつなぎ合わせたような
古田センセも雑文を、マルチポストしまくった上にこれを知っておくのは絶対必要キリッ!とか
言い出すのは、まさしくウリナラ学者の珍説・奇説を鵜呑みにしてRー史観に
浸ってる韓国人とさして変わらないメンタリティであり知的レベルだと言うこと
くらい自覚しろよw
やりたけりゃ、291が引いてきたブログのような史料付き検証サイトを紹介する方が
遙かにマシだな。
ついでだから、上述の相殺食の史料をあげておくわ。
------------------
『芝峰類説』
癸巳(1593)春、大いに飢ゆ。各道の人民、流離巣を失し、餓ヒョウ相属し、人相殺食す。
山中の草葉、松楡の皮根、並びに尽く。
甲午(1594)夏、(中略)人相殺食し、女子稚児、敢えて任意出入せず。餓ヒョウ相続き、
飢民争いてその肉を喰らう。死骨を剥ぎて、汁を取り咽下するに至る。
            ※ヒョウはくさかんむりに俘のつくり=飢え死にすること

300 :
おっと。 ×古田センセも雑文を ○古田センセの雑文を

301 :
ちなみに、手持ちのタマに朝鮮土民宣撫に関係したちょっと面白いものがあるので、
この際だからスレ住人諸氏の参考に紹介。たぶん、ネット上ではあまり知られてない
一文だと思うので機会が有れば対韓戦闘の実弾にして下さいな。
なお、ガキンチョやフンは三跪九叩頭してから使うようにw
「城中糧粟不多、旦近郷之商人民黎驚明兵之大至、攜其妻子皆入城中、故穀粟尤乏」
         『 鹿児島県史料旧記雑録 後篇三、三四〇「義弘公御譜中」』
蔚山籠城戦の際に、明軍の到来に驚いた近在の朝鮮商人が妻子を伴って入城したため、
元々多くなかった糧食がますます欠乏した、というもの。
慶長の役においても、日本軍と商いをして利潤を得ていた商人は既に日本側を庇護者と
見なしていたという史料なんだけど、逆の見方をすれば農民はそこまでにはいたって
いなかったとも解釈できるので、まぁ、適切に利用して下さいな。
 
個人的には、当時の釜山周辺はベトナム戦争のサイゴンみたいなものだろうな、と
思っていたり。米軍撤退とともに多くの南ベトナム人が渡米したのと同じ事が
朝鮮役でもあったんでないかね。

302 :
【書籍】 壬辰倭乱から朝鮮戦争まで、外部勢力はなぜ韓半島を分割しようとするのか〜「韓半島分割の歴史」[08/18]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1376830959/l50

303 :
【中央日報】「万無近隣」…安倍内閣に尋ねたいこと=秀吉を始め朝鮮を900回侵略した日本、韓国と親しくするのはそんなに難しいのか[08/20]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1376983659/l50

304 :
【中央日報】「万無近隣」…安倍内閣に尋ねたい事=秀吉を始め朝鮮を900回侵略した日本、韓国と親しくするのはそんなに難しいのか★2[08/20]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1377008544/l50

305 :
>>299
冬季が迫っていたのですぐに南部に移動した咸鏡道と
慶尚道を比べても意味が無い。
そもそも秀吉軍地域に逃げていったという事実に過剰に
反応してるのは、君だけだしw
別に飢餓だろうがなんだろうかいいじゃん。
なにが困るのか知らんけど。
それにもともと古田博司は親韓派だぞ。
そういった味方とも言えた人物に駄目だしされてることに危機感を覚えろよ。

306 :
文禄・慶長の役で日本に連れられた7万名のうち
帰国者はたった4000人という時点でお察し。
94%近く朝鮮人が日本に永住を望んだ。
辛基秀・朝鮮通信使往来から。

307 :
国外に大勢売り飛ばされたんじゃなかったっけ?

308 :
日本軍地域では飯が食える。
倭軍の被虜となった身で釈放された朝鮮土民中には、
再び倭軍の許に立ち帰って「慶州駐屯の朝鮮軍将兵は、兵力も少なく軍糧も乏しい」との
漏らしている者があると、慶尚左兵使高彦伯が一月二十四日上啓した。
当時、朝鮮軍では釈放されて帰ってきた被虜たちを陣中に留め置いていたが、
給食にもこと欠いたので、ひもじさに堪えかねた者らは、再び倭陣営に立ち帰るため
脱走する者も少なくなかった。
朝廷では聞き捨てならず、巡撫御史徐ショウを叱責し、十分な食料補給処置を取らせる一方、
都元帥と兵使以下諸将にも密命を下して、軍紀を厳しく取り締まらせると同時に軍の機密漏洩に
対する軍律を定めて処罰するようにした。
宣祖実録巻五十九 正月丁酉

西生浦付近の百姓らは、悉く日本の占領地に立ち返って農耕に従事し、
租税を清正に収めているばかりではなく、日本の風俗に従って起居し、
遠近の商人らが互いに往来して市が賑わっていることが、
清正の副将美濃部金太夫と要時羅の書面に依って明らかになった。
朝廷では敵の交通路を断ち、より活発に敵中の百姓らを招慰する方針を
都元帥以下諸官に密命した。
宣祖実録巻六十一 三月甲戌 懲録巻四

309 :
マジで夏休みのガキンチョが大暴れしてるのか、あけたかと思えばまた規制で
8月はほとんど規制かかったまんまだったよ。ヤレヤレ

>>305
それにしてもダメ押しで無知自慢することもなかろうにw
>冬季が迫っていたのですぐに南部に移動した咸鏡道
加藤清正が陣所のあった咸鏡道・安辺を立ったのが文禄2年(1593)2月21日で
漢城到着が29日な。新暦で言えば3月末。
要は加藤・鍋島勢とも文禄の役では咸鏡道で越冬してる訳よ。
ま、ここまで自爆っぷりは、もう懐かしのエンコリ青組レベル以下だな。

310 :
>>309
まぁ、誰にでも間違いはあるからいいんじゃねーの?
貴方だって、朝鮮人が日本軍地域に逃げている
ことを必死に否定しまくってるわけだし。
俺だって、過去にぜってー間違いコメントやらかしてるだろうしなw
俺としては>301とか俺がコピペした>308とか、
今まで一般の本とか学校とかじゃ教えられない内容が次々にでてきて、
左翼とチョンの嘘がバンバン剥がれていく、この状況が嬉しくてたまらないんだがwww
今までとは違う朝鮮出兵観が作られると想うと胸熱。

311 :
>>309
ああ、ゴメン、
3行目の書き方が失礼だったと思うわ、すまん。

312 :
>>298
誰からも回答がなかったようなので少し。
似たような話が以前軍板の関連スレで上がってたのでその引用。
裏は取ってないけど、まぁこんなとこだろうと思う。
----
55 :名無し三等兵:2007/06/11(月) 11:21:18 ID:???
山本権兵衛大将の肝入りでマハンかぶれの佐藤鉄太郎中将が数度に渡って啓蒙書を発表し、その中で李舜臣による制海権の喪失を戦役敗因とする朝鮮史観丸写しで海軍の重要性を強調したのは事実。
東郷の太鼓持ちと言われた小笠原長生中将も朝鮮史観の丸写しだった江戸講談から李舜臣による敗退説を佐藤に先じて流布した。
どっちも海軍権益拡大の理解を国民に啓蒙したもので、結果ありき。
これらの俗説をさらに不研究に再利用しているのが韓国民族史家や北島万次などの自虐推進学者。
----
で、この明治海軍の見解の流れを受けて、戦後のサヨ学者以前に、徳富蘇峰が大著
『近世日本国民史』で、李舜臣を賛美すると共に日本軍制海権失墜とか書いちゃったのが
まずかった罠。
ちなみに、昭和海軍では有馬生甫大佐が著書の『朝鮮役水軍史』で
文禄・慶長の役におけるマハン的な制海権の概念はきっぱり否定しているし、
朝鮮人のよく引くところの、閑山島海戦をサラミス海戦に匹敵するとする
ムルドック日本史もきっぱり否定してるしで、朝鮮役の海戦分析としては、
現在に至るまでこれを超えるものがない良著なんだけど、いまや
稀覯書なんで影響力がどうにも乏しいのが残念なところ。

313 :
>>309
別に否定してるわけじゃないよ。文禄の役では当然あっただろうし、
休戦期でも場合によってはあっただろうとも思う。
しかし慶長の役では、終始支配下にあって宣撫が進んだ釜山近辺と
土民なで切りの空地策を当初採った全羅道とは全く別物だろうし、
いずれも史料に基づいてケースバイケースで考えるのが必須だと
思う訳よ。
要は、時期も地域も裏付け史料も不明なのに、”日本軍は強いから
どんどん城を建てて朝鮮民衆も日本軍がよくしてくれんるんでどんどん
集まってきました”、とかしれっと書いてるような雑文を鵜呑みにするなんてのは
恥ずかしいぞ、と言ってるだけなんだがな。

314 :
おと、アンカー間違えた。>313は>310宛。

315 :
>>313
返信ありがとう。
たしかに、この分野の研究って後れてるよな。
半島の人たちは、考えが違うのだろうけど、
こっちとして400年前の歴史だから、
現在と絡めないで純粋に学びたい。
学者の人たちが、いちいち相手の顔色を伺っているせいか、
向こうの主張と、あんまり変わらないのが多いのが残念だ。
語弊はあるけど、この戦いはもっと面白くて重層的な歴史の
出来事だと思うんだよね。

316 :
このところの流れは重層的な物に薄っぺらいコピペ持ってきたバカが発端だしな

317 :
>>312
明治海軍が権益拡大するために流布した説を、北島らがさらに広めてるのかw
なるほど、ありがとうございます。

318 :
食料・物資が基本的に現地調達で、しかもほぼ沿岸伝いにしか航海できない時代に
「制海権」とかおかしな話だもんな

319 :
実際に文録の役の勲一等は李如松なんだよな
奴がいなければ普通に文禄で朝鮮を制圧してて
慶長には山海関か北京でドンパチやってる。

320 :
ID:XDnpPr6Z
こいつjpn1_rok0みたいに性格が悪いな

321 :
朝鮮ってのは南部三道を除けば、毎年どこかで飢饉が起きてるような所だったからそこで現地調達なんてのは無理

322 :
>>320
脊髄反射で他人様を朝鮮人呼ばわりする輩は、倍返しされても
当然だと思う訳なんだが。
 
それにしても今となっては判る方が少ないような懐かしいコテを
あげてきたねw

323 :
>>317-318
当時の日本側が、対馬−釜山の補給線を厄する相手として認識していたのは
慶長の役緒戦での元均であったようだね。なにせ巨済島に水営を構えて
いたので。
まぁ、元均が有能かと言えば疑問はあるのだけれど、それでも李舜臣を聖将として
祀り上げるために不当に貶められている様には思うね。

324 :
>>323
李舜臣過大評価、元均過小評価は分かるけどさ。
まだゲリラ戦に徹した李舜臣の方が相当優れてると思うけどな
上官に強制されたからと言え、弱っちい朝鮮海軍で日本海軍相手に正面から戦いを挑むなんて無謀過ぎる。

325 :
>>324
その上官にかなり体罰くらってるし、へたに逆らうと、
李舜臣みたいに死刑宣告されかねないのが当時の軍規
だからしょうがないんじゃない?

326 :
ゲリラ戦も効果が無くなった後だからな。

327 :
>>324
元均もその辺は重々承知の上で、水軍単独での侵攻は不可と
上申して、>325氏の言うように杖打ちの刑罰喰らってるので、
それ以上の抗命は少なくとも罷免は間違いなしだったからね。
あと、何故か李舜臣がゲリラ戦とかいう勘違いがネット上では
広まっているようだけど、実際は全羅両水営、慶尚右水営の
三水営の戦力を集中して、常に日本側の数倍の兵力で
日本の小部隊を叩いて回るという非常に正攻法の戦法を
とってる訳で。

328 :
どっちか言うと郭再裕のほうが

329 :
ちょっと考えたら分かるけど
装備も貧弱で実戦経験に乏しい朝鮮軍は日本軍にろくに勝てないのは常識なんだよな
満蒙を武力で支配し実践経験豊富な明の重装部隊と
100年の乱世を生き抜いた、日本刀と重火器で武装したサムライとの戦争って言う、夢のタイトルマッチであって
朝鮮はあくまにオマケなのにね。今や捏造に捏造を重ねて主格扱いなんだよな。
>>325
そうなると権慄がいよいよ無能の極みだな

330 :
主格扱いになったことないだろ。韓国国内の話か?

331 :
>>330
まぁ、南朝鮮と違って実際に大学等の禄をはむ身で露骨にそれを言っちゃーお仕舞いなんだが、
差し障りがない範囲で何かにつけ義兵ガー、李舜臣ガーってのは南朝鮮御用学者中心に本邦でも
普通にあるよな。
 
その辺り、朝鮮役の収支を考える際には、当の李氏朝鮮の総括である“再造之恩”というのを
よくよく噛みしめるべきだとは思うんだが、日本の朝鮮史学者はマネートラップ(南鮮政府経費
持ち研究・調査)にはまってるのが多いみたいだし。

332 :
おっと。
×朝鮮役の収支 ○朝鮮役の終始

333 :
>>330
最近は知らんが俺がガキの頃は李舜臣って普通に学校で習う
東郷平八郎は習わなくても李舜臣と安重根は教科書に載ってる
勿論伊藤博文は明治建国の英雄としてではなく悪人として載ってる
福澤諭吉はアジア蔑視の悪人思想家として載ってる
結局教科書程度の浅さで歴史を学ぶと
神将李舜臣、英雄的朝鮮人民が野卑な日本人と戦って退けたってことになってる。
そもそも李舜臣より遥かに格と功績のあった李如松も
明国のエースの麻貴や劉テイも全く知られてないだろ。

334 :
実際に武装や兵、指揮官の能力を考えると
朝鮮軍=平均的な実業団チームレベル
秀吉軍=プロ野球優勝争いレベル
明国=プロ野球下位チームレベル
ってぐらいレベルの差は有って、その通りの展開になるんだけど
後世の史学者の自慰によって朝鮮軍が神格化されてる。
結局撤退した日本側はともかく、あれだけ活躍して、それを全く考慮されてない明軍は可哀想
考慮されてないばかりか、弱い朝鮮軍を取り繕うために汚名を着せられてるケースもある

335 :
明・朝鮮軍って本当に日本軍の相手にならないほど弱かったのですか?
じゃあどうして日本は負けたのですか?

336 :
勝っても収入以上の出費になることが分かってるので帰りました
意地になってた前オーナーは死にましたから

337 :
>>335
明軍は強い、平壌で小西軍を破る。碧蹄館で負けるも、その後日本軍の食料庫を叩く
お互い膠着状態から講和に持ち込み朝鮮南岸まで日本兵を引かせる。
(戦闘で日本側に勝てない明軍にも、食糧不足の日本側にもメリットがあった)
文録の役で強い日本軍が朝鮮を攻めきれなかったのはこの戦術、戦略上手の李如松の功績が大きい。
あと、朝鮮の土地の貧しさ荒廃ぶりを甘く見積もって、大軍で来てしまった日本軍の自滅
勿論、その反省を生かした慶長の役じゃ終始勝ちっぱなしに近い状態だったけど。
朝鮮は外敵よりも内乱を恐れて強力な軍隊を持ってなかった。
常に弱い軍隊を保有し内乱or外敵が侵入したら国王は逃げ出し明に助けてもらう
この情けない方法で何だかんだで李氏朝鮮は停滞しつつも500年続いたからね。
国、民族としてのプライドと国民の命を無視出来るのなら、これはこれで有りな考え方だと思う。

338 :
亀甲船って本当にそんなに強かったのですか?

339 :
李如松の功績とか本気で言ってんのか

340 :
龍山倉焼き討ちは李如松ではなく宋応昌の策略では?
もっともこの焼き討ち、例え行われなくとも日本軍の慢性的な兵糧不足に変わりは無く、同じ結果になっていただろうと言われてる
というか、そもそもこの出来事が事実化どうか疑問視する意見さえある(徳富蘇峰、木村紀八郎など)。

341 :
柳成竜『懲録』
「明国軍が碧蹄で敗れ、李如松が臆病風に吹かれる」
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・(李如松)提督が、自分が〔本国に送る〕奏達文の草稿をとり出して示したが、その中に、
「賊兵、都城に在る者二十余万。衆寡敵せず」とあり、また文末に、
「臣、病甚だし。他の人をもってその任に代えんことを請う」ともあった。私は驚いて、
手でその部分を指して言った。「賊兵は甚だ少ない。どうして二十万にもなりましょうか」と。
提督は、「私がどうしてそれを知り得よう。おまえの国のものが言ったのだ」と言ったが、
どうも口実のようであった。

この大敗して仮病を使うほどチキン化してしまった提督にそんなすごい功績があったなんて

342 :
確かにボハイの乱のときと違って南方の兵が減ってるんだよな

343 :
世界史版や日本版ではとっくに全滅したサムライ幻想を抱いている馬鹿
がいまだに戦国版にはいるんだね(笑)
遅れてらー(笑)

344 :
はいはい、東京オリンピック開催阻止できなくてカンシャクおこるよね。(・∀・)

345 :
日本は1592年4月以来20万の軍勢を投入しても朝鮮を征服
できず、ついには秀吉自身が家康、利家を率いて10万の軍勢で
直接朝鮮を征服しようと1593年3月に渡海する予定だった。
それが明軍4万3千人の到来と朝鮮義兵の活躍により、朝鮮全土に
展開していた軍勢を半島南岸まで撤退し、ついには秀吉の渡海も中止され、
当初の戦略目標を放棄して明軍と和平交渉をするまでに追い詰められたのに(笑)

346 :
サムライ幻想なんか抱いた事無いけど、教科書でおなじみの李何とかっていうオッサンは凄いと思ってた
そしたら活躍そのものは戦争にたいした奇与をしてなくて驚いた

347 :
>>343
お前つい最近も世界史板で大恥かいたのに、もう忘れたのかよ(笑)
日本軍の9割は武装した百姓だ!(爆笑)なんて無知を晒した上にせこい手使って話を摩り替えようとするも大失敗、
挙句には俺に何の反論もできずに逃げ出したじゃねえか(爆笑)
おい、悔しかったら恥ずかしい「主張お主眼」について何か言い訳してみろ!!(爆笑)

348 :
はいはい、史書ではこうなってますよね
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』
(7年間の戦争で多大な犠牲を出し、明と属国の朝鮮に勝算は無くなっていたが、秀吉が死んで戦争は終わった。)
>>346
そもそも江戸中期に『懲録』が日本で出版されるまで日本側には名前が知られてなかったレベルの人なんだよね

349 :
>>347
彼が大恥かいたスレってどこですかね?

350 :
>>349
世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その2
の>>965以降

351 :
>>350
サンクス!
的外れなコピペを貼った挙句その借り物の根拠のせいで主張がブレまくりなのを
バカにされるとか本気で恥ずかしいヤツだわwww
http://www.logsoku.com/r/whis/1309526779/

352 :
>>348
それってしってる(笑)
わざわざ朝鮮半島まで攻め込んでおきながら
倭城に立て籠もって明軍を撃退した臆病な侍の
話だろ(笑)
そりゃ、城に立て籠もっていれば有利だもんな。
幸州山城の戦いなどは朝鮮義兵2千人ほどのところに
3万で攻めときながら軍監の石田三成が負傷させられるなか
撤退している。

353 :
騙し討ちして調子乗ってたら、流れ弾に当たって死んだアホがどうしたって?

354 :
>>352
>わざわざ朝鮮半島まで攻め込んでおきながら
>倭城に立て籠もって明軍を撃退した臆病な侍の
>話だろ(笑)
>そりゃ、城に立て籠もっていれば有利だもんな。
逆に慶長の役で明・朝鮮軍が立て篭もった南原城や黄石山城はたちどころに陥落、
全州城に至っては城方が逃げ出して無血開城しているんだが(笑)
日本軍が全羅・忠清・慶尚の三道をほしいままに蹂躙している間、明・朝鮮軍は手も足も出せずグヌヌ状態だったのに(笑)
それを無視して、明・朝鮮軍が総力を挙げて大攻勢を仕掛けた期間だけを取り上げて何が言いたいんだ(笑)
その乾坤一擲の大攻勢にしたって、
帰朝衆が帰国して総兵力の半分以下になっていた日本軍守備隊にことごとく撃退されて一城も落とせず、
しかも将軍の李寧、廬徳功をはじめ万単位を討ち取られる大惨敗に終わっちゃうんだからざまあねえな(爆笑)

355 :
>幸州山城の戦いなどは朝鮮義兵2千人ほどのところに
>3万で攻めときながら軍監の石田三成が負傷させられるなか
>撤退している。
で、その戦いの結果権慄はビビって幸州山城を放棄しているんだが(笑)

356 :
攻城兵器が充実してるはずの大陸の城がもろくて
大砲も少なく大型攻城兵器もほとんどない日本式の城が堅牢だというのは面白いな
もちろん双方の軍の単純な戦闘能力の違いというのも大きいだろうが

357 :
>逆に慶長の役で明・朝鮮軍が立て篭もった南原城や黄石山城はたちどころに
>陥落全州城に至っては城方が逃げ出して無血開城しているんだが(笑)
南原城は明軍3,000人と朝鮮軍1,000人の合計4,000人で守備する城を、左軍と
水軍合計56,800人と14.2倍で攻めてるし(笑)、黄石山城にいたっては、
朝鮮軍350人の守る城を日本の右軍64300人と187.3倍で攻めてるんだけど(笑)
>全州城に至っては城方が逃げ出して無血開城しているんだが(笑)
しかたないよ、全州城を守る明軍ってたったの3,000人だもん日本軍との兵数差は
40倍じゃあね(笑)

358 :
>>357
なんでそれだけ兵数に差が開いたかと言えば、要は日本勢が迫ると
明軍も朝鮮軍も大半が戦わずに逃げ散ってしまったからなんだけどなw

359 :
フロイス『日本史』
・これら武装した異様な集団の中にありながら、(朝鮮の)老幼婦女子たちに対する
(日本側の)安全保障(態勢)には見るべきものがあったと言われる。(朝鮮人)は
なんの恐怖も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で
何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面喰っていた。
・一部の朝鮮人は、生計に窮して、日本人のように月代を剃り、頭髪を結んで日本人を
装い、掠奪を目的として手真似や恐喝でもって同胞を襲った。

これらの民衆が突然ゲリラに化けたりするんだからそりゃあタチは悪いよね

360 :
>朝鮮軍350人の守る城
日本側があげたという首の数より少ないようですが…

361 :
>>357
>南原城は明軍3,000人と朝鮮軍1,000人の合計4,000人で守備する城を、左軍と
>水軍合計56,800人と14.2倍で攻めてるし(笑)
兵力差を言うなら、例えば朝鮮軍は龍仁の戦いでたった1500人の脇坂勢が守る砦を
5万という33.3倍の圧倒的大軍で攻めときながら逆襲を受けて全軍総崩れとなり敗走しているんだが(笑)
そればかりか33分の1の脇坂勢に散々に追撃されて1千人が戦死し、
将軍の白光彦、利之誌まで討ち取られているんだが(爆笑)
だいたい、>>358も言っているように慶長の役緒戦では明・朝鮮軍がビビって敵前逃亡を繰り返したから
あそこまで兵力差が開いたんだろうが(笑)南原城を救援するはずだった全州城の陳愚衷も逃げ出したし、
権慄や李元翼といった最強朝鮮軍の主力軍(笑)は一戦も交えずに遁走しているんだが(爆笑)

362 :
>黄石山城にいたっては、 朝鮮軍350人の守る城を日本の右軍64300人と187.3倍で攻めてるんだけど(笑)
黄石山城の朝鮮軍が350人というのは一体何を根拠にしているんだ(笑)
「日本戦史・朝鮮役」によれば黄石山城に篭った朝鮮軍は「数千」なんだが(笑)
おおかたウィキに書いてある「350以上戦死」を見て早合点してるんだろ、遅れてらー(爆笑)
言っとくがこの350という数字は秀吉朱印状に書いてある「城内で討ち取った」首の数なんだ(笑)
朱印状ではその続きで「城外の谷まで追撃して数千人を斬り捨てた」戦果を賞賛しているから、
黄石山城を守っていた数千人の朝鮮軍はほぼ殲滅されたということだ(爆笑)

363 :
>>357
すごい知識量ですね
それらの人数が何に準拠したものなのかよかったら教えていただけますか?

364 :
>>362
サムライ幻想について反論できないからって揚げ足取りかい(笑)
黄石山城の兵数がお前の言うように350人以上だとしてなんだって
いうんだよ。
たとえば3500人いたとしても日本軍とは18.7倍もの兵数差なんだが。
その上、その兵数も城将の郭争が数合わせのために周辺の農民を徴収し
たものなんだけどな(笑)

365 :
だがみじめ

366 :
あまりにみじめすぎるよ
サムライ幻想がーとか騒いでるヤツはwikipediaの数字すら読み間違えるくらいのアホなんだぜって
満天下に示しちゃったもんなあ

367 :
>>358
>なんでそれだけ兵数に差が開いたかと言えば、要は日本勢が迫ると
>明軍も朝鮮軍も大半が戦わずに逃げ散ってしまったからなんだけどなw
朝鮮王朝も明も日本が再侵攻してこないと思って油断してただけだろ(笑)
たとえば南原城の城将明軍総兵・楊元は、城の防備強化に取り組み、城壁を
一丈ばかり増築し、城外の羊馬墻に数多くの銃眼を穿ち、城門に大砲三門ほど
を据付け、濠を一・二丈掘って深くしたけど、これなんか文禄の役が終了した
1593年8月から慶長の役が始まる1597年6月までの間にやっておくことジャン。

368 :
>朝鮮王朝も明も日本が再侵攻してこないと思って油断してただけだろ(笑)
 
それってただの馬鹿だろw まぁ、朝鮮人はいまだに己が心地よい願望だけが正しい歴史、
あるべき歴史だと思ってるようだが。

369 :
朝鮮軍350人さんの理屈は相変わらず難解だな

370 :
>>364
>サムライ幻想について反論できないからって揚げ足取りかい(笑)
お前の言うサムライ幻想って一体何のことなんだ(笑)
俺がサムライに対していつ、どんな幻想を抱いたというんだ(笑)
具体的に言ってみろよ(笑)
またもや無知を晒され、大恥をかかされたからって苦し紛れの話題逸らしかい(爆笑)
>黄石山城の兵数がお前の言うように350人以上だとしてなんだって
>いうんだよ。
で、でたーw間違いを指摘されたら開き直る奴〜(笑)

371 :
>朝鮮王朝も明も日本が再侵攻してこないと思って油断してただけだろ(笑)
ふーん、油断してたから仕方ないんだ(笑)
でも、朝鮮は漆川梁海戦から9ヶ月も前の1596年11月の時点で日本軍襲来を確実視し、明に援兵を要請しているんだけど(笑)
そればかりか公山城や金烏城など慶尚道各地の城を修築したり、97年2月には大邱に各道から兵を結集させて
慶尚道・全羅道の各方面に配置するなどの防備策をとっているんだが(笑)
お前はこれを朝鮮王朝も明も日本が再侵攻してこないと思って油断してたと言うんだ(笑)

372 :
>>371
ふーん、じゃあお前的には朝鮮も明も日本の再侵攻に備えて準備を整えてた
っていうの?
それなのに日本が再侵攻を始めたら改修した城に立て籠って戦わずに逃げ散ってしまったんだ?
そのくせ南岸に撤退して倭城に立て籠もったらわざわざ犠牲も恐れずに攻め込むんだ(笑)
お前の歴史解釈っておもしれえな(笑)

373 :
ま、こうじゃね?

<`∀´ ,,>  天兵サマ、チョッパリどもは半分以上引き上げたニダ 今がチャンスニダ!
(  `ハ´) そうアルか、では攻めるアル

     ・
     ・
     ・
  三路の戦い
     ・
     ・

 アウッ アウッ ニダアア・ 
    ∧,_∧_,∧ ピシッ 彡 
    <Д´≡`Д´>Σヽ_/⌒ヽ_
 ピシッΣ((=====))      ∧∧ .\       
     (( ⌒)⌒))__    /中 \ /) アイヤー! 
/ ̄ ̄ ̄'し ̄ ̄/\  (`ハ´ #) >  オマエのせいで大惨敗アル!
  ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄  ( ⊃   /    お仕置きアル!         
       | |       /    \          
       / \     (/ ̄ ̄ ̄し  

374 :
>>372
ふーん、城攻めって守るより攻める方がはるかにリスクが多いんだけどね。
>でも、朝鮮は漆川梁海戦から9ヶ月も前の1596年11月の時点で日本軍襲来を確実視し、明に援兵を要請しているんだけど(笑)
>そればかりか公山城や金烏城など慶尚道各地の城を修築したり、97年2月には大邱に各道から兵を結集させて
>慶尚道・全羅道の各方面に配置するなどの防備策をとっているんだが(笑)
これだけの準備を整えていながら、
>大半が戦わずに逃げ散ってしまったからなんだけどなw
そんな腰抜けな明・朝鮮軍が日本軍の立て籠もる倭城攻めを行うんだ。
相変わらずおもしれえ歴史解釈だな(笑)

375 :
350人さんまるで間違いをごまかすかのようにがんばってますねwwww

376 :
>>374
>そんな腰抜けな明・朝鮮軍が日本軍の立て籠もる倭城攻めを行うんだ。
そんな腰抜けな明・朝鮮軍でも、明から新たに数万の増援を受けて文禄の役のときを上回る
大軍に膨れ上がったから、図に乗っっちゃったんじゃねえの?(笑)
まあその結果、蔚山城に攻めかかって惨敗しちゃったけどな(笑)
で、その後明からさらなる増援を受けて11万というかつてない大軍になったから
またもや気が大きくなって攻めたけど、やっぱり惨敗しちゃったと(爆笑)

377 :
>相変わらずおもしれえ歴史解釈だな(笑)
>>371のような歴史的事実を突きつけられながら、
なおも「朝鮮王朝も明も日本が再侵攻してこないと思って油断してた」と思い込もうとする
お前の歴史解釈は一体何なんだ(笑)
狂信者意外のなにものでもないじゃねえか(爆笑)
てめえの願望どおりじゃねえと、やれサムライ幻想とか、やれ油断してたとか
碌な根拠もなく主張しているけど、お前って幾つなんだ(怒)
みたところ中二病みたいだけど実際はいい年こいたおっさんなんだろう。
あんまりガキみたいなこと言ってんな!!(怒)

378 :
>>377
>>371のような歴史的事実を突きつけられながら、
はー、歴史的事実?!
南原城の城将明軍総兵・楊元は、1597年6月18日から全羅道南原城に赴任し、
城の防備強化に努めたんだがこれなんかも日本軍の再侵攻直後のことじゃねえか
だいたい、日本の再侵攻を予想してしっかり準備するなら、白村江の戦いの敗戦後の
大和朝廷のように水城を建設したり、文永の役後の鎌倉幕府のように元寇防塁を建設
して防備を固めてないとね。
元寇の例を引くまでもなく海から侵入する敵には水際で撃退するのが最善の手なんだから。
明も朝鮮も和平交渉中は油断して準備を怠っていたため、和平決裂後に急いで準備を進めた
んで日本軍の再侵攻に間に合わなかったことが
>なんでそれだけ兵数に差が開いたかと言えば、要は日本勢が迫ると
>明軍も朝鮮軍も大半が戦わずに逃げ散ってしまったからなんだけどなw
の理由なんだな(笑)

379 :
350人さん>>362に指摘されてあんな大恥かいたのにがんばるよなあ
日本人的な価値観では考えにくいわ

380 :
>>380
>日本人的な価値観では考えにくいわ
それって俺が朝鮮人(または中国人)だって言いたいのかな(笑)

381 :
>>380
あ、wikipediaの数字すらまともに読めなかった350人さんじゃないですか!

382 :
>>378
へえ〜、当時の朝鮮を白村江の戦いや元寇のときの日本と一緒にするんだ(笑)
本土にほとんど被害がなかった日本と違って、朝鮮は全土を蹂躙されて人口も耕作地も激減し
著しく疲弊した状態なんだが、その中でどうやって水城や元寇防塁のような大規模な防備強化を行うんだ(笑)
だいたい、朝鮮は事前に全土の兵力をかき集めて慶尚道・全羅道の防備を固めたり、各地の城を修築したりしたと言ってるジャン(笑)
さらに朝鮮は事前に日本軍の進撃路になると予想される地域の民衆を、
家財食糧とともに山城に避難させる清野策まで行っているんだ(笑)
そもそも、漆川梁海戦から9ヶ月も前の1596年11月の時点で朝鮮は明に救援を要請しているんだが(笑)
9ヶ月かかっても満足な準備を整えられないのかよ(笑)
だとしたら油断がどうのとか言う以前の問題だな(爆笑)

383 :
>>382
>本土にほとんど被害がなかった日本と違って、朝鮮は全土を蹂躙されて人口も耕作地も激減し
>著しく疲弊した状態なんだが、その中でどうやって水城や元寇防塁のような大規模な防備強化を行うんだ(笑)
文禄の役で全土を蹂躙されたからこそ、日本軍の再侵攻に備えて水際で撃退する準備を整えておくべきだろ。
当時の李朝は人口700万もいたんだし、また宗主国の明国にいたっては国土を蹂躙されてないたんだから。
>1596年11月の時点で朝鮮は明に救援を要請しているんだが(笑)
結局テメエだって、和平交渉決裂後に再侵攻への準備を整えはじめたってみとめてるじゃん(笑)
>明から新たに数万の増援を受けて文禄の役のときを上回る大軍に膨れ上がったから、図に乗っっ
>ちゃったんじゃねえの?(笑)
本来ならその大軍が南部四道各地に配備されるはずが結局日本軍の再侵攻にまにあわなかったんだろ。
やっぱり明も朝鮮も文禄の役の後、日本軍の再侵攻に対する準備をおこたっていたんだろう(笑)

384 :
>>383
>文禄の役で全土を蹂躙されたからこそ、日本軍の再侵攻に備えて水際で撃退する準備を整えておくべきだろ。
そもそもお前の言っていることは根本的におかしいんだよ(笑)
慶尚道南岸一帯に倭城群が構築され日本軍が駐屯している状態で、一体どこに水城や元寇防塁のような防塁を築くというんだ(笑)
築いたとして、その防塁に一体何の意味があるんだ(笑)
築いたところで慶尚道南岸の倭城群から出撃した日本軍に後方を衝かれて全滅だろうが(爆笑)
当時の朝鮮政府は少なくともお前よりはおつむが足りていたから、海岸線の防塁みたいな無意味なものは作らずに
水際阻止を元均、李億祺らの水軍にやらせようとしてるんだよ(爆笑)
>また宗主国の明国にいたっては国土を蹂躙されてないたんだから。
明がわざわざ朝鮮にまでやってきて城を築いてくれるわけないじゃん(笑)
ただでさえ明は朝鮮援兵に加えて韃靼の侵攻対策で財政が逼迫しているんだから(笑)
明軍は兵士の兵糧まで朝鮮に負担させているんだぞ(笑)
>結局テメエだって、和平交渉決裂後に再侵攻への準備を整えはじめたってみとめてるじゃん(笑)
俺がいつそれを否定したんだ(笑)
また話の摩り替えかよ、情けねえなー(笑)
いいか、朝鮮は1596年11月の時点で日本軍襲来を確実視し、明に援兵を要請しているんだ(笑)
さらには全土からの徴兵、各地の城の強化、日本軍侵攻路の清野策などの防備を整えていたんだ(笑)
明の方も上記のように何ヶ月も前から情報を得て邢玠、麻貴らを司令官とする東征軍の編成を進めていたんだ(笑)
つまり朝鮮や明が日本の再侵攻を予測できず油断していたなどという言い訳は通用しないということだ(笑)
これが俺の「主張お主眼」なんだが(爆笑)

385 :
>>383
wikipediaの数字すらまともに読めなかった350人さんちーすwwww

386 :
馬鹿っぽい2人の馬鹿っぽい口喧嘩

387 :
>>384
じゃあお前的には慶長の役で日本軍が再上陸を果たした際、南部4道では
明・朝鮮軍による迎撃態勢が整っていたっていうのか(笑)
その状況で日本軍が来襲すると防備を固めた城に籠城した兵の
>大半が戦わずに逃げ散ってしまったからなんだけどなw
て言いたいのか。
でもそうすると同年10月以降に明軍の援軍が到着したことの説明がつかないんだが。
>1596年11月の時点で朝鮮は明に救援を要請しているんだが(笑)
明軍の本体が到着したのが10月ごろだったてことだろ。

388 :
バカテスの木下秀吉について語りましょう。

389 :
>>387
>明・朝鮮軍による迎撃態勢が整っていたっていうのか(笑)
>その状況で日本軍が来襲すると防備を固めた城に籠城した兵の
>>大半が戦わずに逃げ散ってしまったからなんだけどなw
>て言いたいのか。
だからいちいち話を摩り替えてんじゃねえよ、お前マジで頭大丈夫か(笑)
朝鮮は1596年11月の時点で日本軍襲来を確実視し、明に援兵を要請している、
朝鮮も明も事前に日本軍の侵攻に備えて防備策を行う時間は十分にあったし実際行った、
だから朝鮮や明が日本の再侵攻を予測できず油断していたなどというお前の言い訳は通用しない、
と俺は言ってるんだよ(笑)
準備が始まったのが和平交渉の決裂前だろうが決裂後だろうが、
明・朝鮮軍による迎撃態勢が完全であろうが不完全であろうが、
そんなものは関係ねえんだよ(怒)
>でもそうすると同年10月以降に明軍の援軍が到着したことの説明がつかないんだが。
>明軍の本体が到着したのが10月ごろだったてことだろ。
その理屈なら三路の戦い前に増援された最大規模の軍勢こそが「本隊」になるんじゃないのか(笑)
文禄のときだって祖承訓の軍勢に対して李如松の軍勢が「本隊」だったわけじゃないぞ(笑)

390 :
>>389
お前馬鹿すぎて相手するのも疲れるよ(笑)
>朝鮮は1596年11月の時点で日本軍襲来を確実視し、明に援兵を要請している、
>朝鮮も明も事前に日本軍の侵攻に備えて防備策を行う時間は十分にあったし
南原城の城将明軍総兵・楊元は、1597年6月18日から全羅道南原城に赴任し、城の防備強化
に努めたり、黄石山城も城将の郭争が足らない城兵の穴埋めのために周辺の農民を徴収し
てるのに迎撃態勢が完全だったって(笑)
>文禄のときだって祖承訓の軍勢に対して李如松の軍勢が「本隊」だったわけじゃないぞ(笑)
経略朝鮮軍務の楊鎬や麻貴が軍勢を率いて来朝したのも同じ6月ころだし南部4道の迎撃態勢が
完了してるわきゃねえ。

391 :
>>390
俺がいつ迎撃態勢は完全だった、もしくは完了していたなんて言ったんだ(笑)
お前こそ馬鹿すぎて話にならんわ(笑)

朝鮮は1596年11月の時点で日本軍襲来を確実視し、明に援兵を要請している、
朝鮮も明も事前に日本軍の侵攻に備えて防備策を行う時間は十分にあったし実際行った
だから朝鮮や明が日本の再侵攻を予測できず油断していたなどというお前の言い訳は通用しない
↑はい、俺の主張お主眼を声に出して3回読め(笑)

392 :
>>388
ここはバカが2人で煽り合いスレです

393 :
だがさんよかったじゃん仲間ができて

394 :
なんかおれが武士に厳しい視点をむけるとサムライ厨どもが俺のことを朝鮮人
認定してくるけど残念ながら俺は正真正銘の日本じんなんだよね(笑)
ただ、日本の歴史をたいして知りもしないアメリカ人ならいざしらず、歴史版
にくる日本人ならサムライについても客観的な視点を向けてほしいと思うから
厳しい視点を向けてるだけだ。
たとえばテレビ朝日系列で毎週日曜日に放送されているサンデースクランブルに
黒鉄ヒロシの千思万考のコーナーをもっている漫画家の黒鉄ヒロシは武士(道)
信仰がひどくて、先週などは東京オリンピックが決まったのは武士道のおかげと
主張していた(笑)

395 :
>>394
大して知りもしないってのはwikipediaですら数字を読み間違えちゃう
350人野郎のこと言ってんだよな?

396 :
>>395
ははーん、さてはお前も東京五輪が誘致できたのは武士道のおかげって
妄想抱いているくちか(笑)

397 :
アホすぎて話にならん

398 :
いよいよおかしくなったwww
wikipediaの数字すらまともに読めなかった事実に触れられると
ますます狂っちゃうみたいだなww

399 :2013/09/15
昨夜、BS3のラスト・サムライでも見て、発狂具合に
拍車がかかったのでは無かろうかw
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