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2013年17戦国時代88: 関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法2 (612)
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関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法2
- 1 :2013/07/21 〜 最終レス :2013/09/16
- 前スレ
関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224680714/
- 2 :
- 乙
- 3 :
- しかし前スレで秀頼と千姫の婚姻は豊臣徳川融合とかおいおいって感じだな
普通に両家の絆を深めるよくある政略結婚だろう 「種は男 女は畑にすぎない」これが当時の価値観なのだが
- 4 :
- 婚姻は当然無意味じゃないけど、それだけをもって「融合」と言い張るのは凄いわなw
- 5 :
- 最大へいりょくを持つ家康内通させる
- 6 :
- >>4
家康は融合どころか吸収合併したくて婚姻を実行したわけだしな
淀や秀頼が馬鹿だから理解できなかったのは誤算だったが
- 7 :
- 最初に東軍を上杉と挟み撃ちにする作戦だったのに
東軍と上杉軍が交戦状態になるのを待ってから挙兵できなかったのかな
挟み撃ちにする作戦なら東軍が上杉軍を放置して東海道を進んでくる事も考えるべきだったのでは
- 8 :
- あと、東軍が大垣城を無視して大阪城の方に進軍するのなら
させればよかったのにな
大阪城には毛利の総大将が2万の軍勢を率いているんだから
そう簡単には落ちはしないし、なによりも東軍の半分近くは秀吉子飼いの武将だから
秀頼がいるところには攻め込めないだろうし、再度の裏切りもでるんじゃない?
東軍に大阪城を攻めさせて交戦状態になってから進軍して東軍の後ろを突いて挟み撃ちにするとか
総人数的に大阪城の2万も加わって西軍圧倒的有利になるのでは?
目の前に毛利の総大将がいるし、吉川&小早川も裏切りにくいだろうしさ
戦の初期と決戦時に二回も東軍を挟み撃ちにするチャンスがあったのに
なぜ、単独の決戦にこだわったのかな 確実に勝たなきゃ意味が無いのに
- 9 :
- それは前田家が確実に西軍に味方する前提ならな。
近江を取られたら北陸道全域が東軍化するどころか
丹後も危なくなる。
そうなると真田や上杉とも連絡取れなくなるしな。
- 10 :
- >>7
「上杉との挟み撃ち」は後世の創作らしいぞ
- 11 :
- 上杉との開戦なんて待ってたら史実より遥かに貧相な陣容にしからならんぞ西軍
- 12 :
- たしかにw
西軍の多数は家康に合流しちゃうよね。
あと二、三日待てばってなら話しも違うかもしれんが、それでも東北〜大坂間の距離あるし非常に微妙なタイミングだよね。今みたく電話とかあるわけじゃねえから三成の挙兵タイミングでもかなり絶妙とは言えるンジャマイカ。
- 13 :
- >>8 それに関しては前スレ>>731~にレスあるね 三成が佐和山城襲撃を恐れたのと
小早川が関ヶ原で準備して有利な布陣で戦が出来るから
- 14 :
- 開戦待ちとか挟み撃ちは無理でも東軍が帰って来れないとは考えていたと思う
- 15 :
- いやだから、総出で岐阜に進出してから
岐阜で攻防を繰り返す策で行けばいいんだよ。
輝元も岐阜にいれば、東軍は大阪を目指す事も無い。
岐阜で時間を稼いで上杉が北国の敵を駆逐するの待てばいい。
しかも西国に領地を持つ黒田らは兵糧すら切れる。
- 16 :
- やっぱり積極策で三成が大垣で包囲される前に(包囲報告を得て家康が急いで江戸から出撃)
毛利全軍を挙げて出撃し武断派を美濃〜尾張で撃破すりゃあ良かった。
これで東海道や中仙道の大名はことごとく西軍に従属するだろ。
もしくは神速策で毛利全軍でできる限り速く尾張へ突入し占拠し武断派主力の福島を根無し草にする。
その後、岡崎を策源地に額田郡〜蒲郡市で家康を待ちつつ陣地構築し決戦準備する一方で
信濃へ援軍を派兵し真田・上杉との連結を図り、下野国での挟撃決戦に持ち込む。
- 17 :
- 家康が濃尾にのこのこと出張ってきた隙に必殺の無敵水軍で江戸を強襲すればよかった
- 18 :
- 敵の本拠地をいきなり突くって作戦は
史上殆ど成功した試しが無い。
- 19 :
- >>15
その策なら輝元は秀頼抱えて大坂に残る方がいいと思う
岐阜で膠着するなら、大坂で逆クーデターが起これば西軍には致命的だから
- 20 :
- 誰がクーデター起こすの?ほぼ全員出撃するって話しなんだが・・・
増田なんか6000の兵があるんだし、置いてける訳ないじゃん。
前田玄以や長束は残っててもいいケド。
- 21 :
- えっ?総出って大坂城を本当に空っぽにするってこと?
- 22 :
- 空っぽっつーか、諸大名が出て行っても
別に豊臣の兵まで0になる訳でもないし。
- 23 :
- 当時の淀殿はむしろ親徳川だという現実
- 24 :
- そんな史料あるか?
- 25 :
- 淀に近い大野は東軍に居るし関ヶ原の時
- 26 :
- それは淀の命令や意思じゃないだろう。
暗殺疑惑で流罪になってて、更に家康の方が断然有利だから
家康に付いただけだろ。
- 27 :
- そもそも、淀が徳川に近い立場にいるなら
淀に近い大野が暗殺疑惑で遠ざけられるって矛盾しすぎだろw
- 28 :
- 西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。
もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
- 29 :
- 内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。
しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。
- 30 :
- >>12
>西軍の多数は家康に合流しちゃうよね。
させないようにどんどん既成事実つくっていけばいいじゃない?
裏切りそうな武将に東海道を進撃させて東軍側城を攻めさせていけばいいし
家康がやった東軍の先鋒をしばらく放置して様子見てたみたいに
戦場でいきなり裏切られるより確実に腹の内が読めるよ
- 31 :
- >>11
どうして?時間が経過すれば大阪城の毛利の軍勢が出陣してくる可能性が高まるし
各地に分散した西軍の軍勢が集結してくるのに
- 32 :
- >>16
そう、家康が到着する前になぜ島津の言うように夜襲でもかけなかったのかな
兵力分断で各個撃破する戦術に出ればよかったのに・・・
- 33 :
- >>19
クーデター起こせないように戦力残していけばいいよ
- 34 :
- >>30
裏切りそうな武将を東海道に行かせたらそのまま東軍に合流するだけだ
そもそも西軍の大半は江戸に向かっていたのを関所止めして無理矢理編入したのだから解き放ったら元々の家康側に付いてしまうんだよ
腹の内を読む前に雪崩のように転向して戦どころじゃなくなる
- 35 :
- いっそ上杉が壊滅してから挙兵したらどうだろうか
東軍連中は気が緩んでいるだろうし、戦後処理で家康の足止めができるかもしれない
一発勝負なら勝ち目が出てくるかも
- 36 :
- 戦後処置は凱旋してからになるで
- 37 :
- >>34
なんでそのまま合流するの?
ゲームじゃないんだからそう簡単に脱走兵みたいにいかないよ
下にも兵がついてるのに
- 38 :
- >>34
あと、誰が「元々」家康側なの?
家康と仲がいい大名なんかいないだろ?
- 39 :
- 島津、小早川、長曽我部、大谷等の上杉征伐参加予定組は行っちまうに決まってんだろ?家康と仲が良いとか関係無く元々その為に兵を出してんだから
下手すりゃ大谷が気をきかせて石田の息子と石田軍の一部も連れてくかもなあ
何せ公儀(豊臣政権)による上杉征伐だからな
- 40 :
- >>39
その豊臣家が家康討伐を指令してるのにさ
大坂城に毛利輝元引き入れて
もう上杉討伐じゃないよ、徳川家康を討伐だし
- 41 :
- 秀頼名義で徳川家康を討伐せよって豊臣恩顧の武将に手紙送れば良かったのにな
そうすれば逆らえば逆賊だしさ
- 42 :
- >>41
どうやって会津まで届けるんだよw
- 43 :
- 秀頼名義の通行許可証持った飛脚が届ける
- 44 :
- 首謀者の輝元が三成を捕縛して武断派に引き渡してから、
忘恩の奸臣家康の討伐を宣言して
武断派を西軍側に引き込めが勝てた。
大津城を落とし瀬田大橋を確保し、佐和山城まで交通路を確保した際に
輝元が家康側にいた三成をむりやり西軍に引き込んでだから負けた。
- 45 :
- 家康に味方した連中は、単に家康の実力が怖かっただけで
本気で三成が憎いからって家康に味方した訳じゃないんだがw
- 46 :
- >>45
家康は会津征伐に行くにあたり、蜂須賀や生駒など必ずしも家康のやり口に賛同しなかった諸将の幼い嫡子を
戦習いと称して半ば拉致って連れていくことで嫡子を人質にしたりして無理やり引き連れていったんだから
人質の身を案じて家康に味方したんであって、家康の実力に恐れてではないわ。
- 47 :
- 会津征伐が内府たがいの条により消滅すると
安東氏なども家康に許可されていた蔵入地からの流用を止めて領国に引きこもり
奥羽の豊臣公儀となった上杉を家康のために攻めなくなり
最上も伊達も上杉との和睦交渉へシフトしている。
家康に従ってるのは森忠政や忠興のように家康から新知拝領してるような者か遺令に背いての婚姻関係。
そして一番の目的は朝鮮以来の三成憎しなのは明白で
内府たがいの条以来、家康が江戸で味方まで裏切るのではないかと疑心暗鬼になってる中で
西軍の主力が北伊勢に迫る中で三成憎しで、理解不能にも伊勢救援への援軍すら出さずに
三成のいる美濃大垣を目指して北上する福島ら武断派の行動を見ればわかる。
家康が江戸から動かないと断定した広家は楽観論の元に黒田の書状をシカトしまくり
ついには家康は駿河まで来てると大ウソまで付いてるが広家はそれも無視して返事も書かない。
家康の書状には自分への忠誠を喜び私的な徒党作り書状ばかりであり、武断派の思惑とかけ離れているのがわかる。
8/24の福島→秀忠と中山道を進む浅野長政宛でも福島は美濃攻略の報告で秀頼様に良きようにと言ってるし
正則は関が原前には織田秀信の助命を、後には家康に伊奈昭綱の切腹を要求するなど必ずしも家康に従ってないし
10/2の清正→浅野幸長書状でも関が原で悪逆人を討ったのはお手柄と言ってるなどすべて三成が悪いで決着しようとしている。
三成は敗れたものの結果的に大老奉行制形骸化による事実上の家康指導体制の打破に成功した。
それは三成を討った武断派は豊臣家を滅ぼすことを望んでないからだ。
そして勝てば官軍で三成が全て悪いで解決を図ることで家康に隙を与えず牽制し
関が原後の没収高の80%は豊臣系大名に配分されたと笠谷和比古が言っているように
家康には豊臣系大名と敵対することの不利を悟っていたので二重公儀制と言う方向で妥協する。
武断派は豊臣公儀を擁護し守り立てていく方向を示した。それは秀頼への参賀でも証明される。
そして老人家康の死を待ち秀忠の娘千姫を人質として大坂に入れさせるなどしたが
武断派の方が次々に死去し軍事バランスが大きく変化してしまった。
- 48 :
- そもそも数千人討ち取られ大垣城に逃げ込んだ三成・小西・秀家・義弘を包囲して
道も完全封鎖したって報告で騙された家康が俺がいないところで三成に勝って勝負終わっちまうヤベエ!って話で
家康が大垣は水攻めするからお前ら行動停止。俺ら父子を待ってから動けよ!って急いで西上しただけの話で、
関が原でも武断派が先鋒やって、そのまま長政の調略もあり大勝利しただけの話で
実質的に家康はほとんど何もやってないに等しい以上は戦後状況で武断派が重きをなし発言力が高まるのは必定。
9/16に如水が藤堂高虎へ宛てた書状には
5日に会った使者が今こちらに着いたわ。その後のこっちの状況だけど
豊後で大友義統を破ったわ。それで論功行賞の話なんだけどさぁー
小倉表に出馬し隙が出来しだい清正と相談し関門海峡を越えて広島を取ろうと思ってて
井伊が言っていたように長政には秀家の領地をもらえるように取り成ししてくれ。
清正と私の所領については切り取った領地分を家康の取り成しで
秀頼様から拝領して貰えるように井伊に言うのが肝要に存じてる。
とにかく息子長政は上方で知行を貰い、私とは別家扱いにしてもらうように頼む。
領地の過大要求しまくりで、のちに輝元降伏を受けて島津攻めまでやろうとするのが如水と清正。
あくまで秀頼様を全面に掲げての独自行動に脅威を抱いた家康が島津攻めストップをかけるわけだ。
秀頼ではなく家康への忠義による徒党化こそ家康は欲しいのであるが公然とそれを否定し
明らかに勝利後において徒党化解消と秀頼公儀の秩序の中に家康を押さえ込もうとする意図がすでに書状に現れてる。
これが二重公儀の成立への背景であり、奉行への反発が原動力であり家康への盲目的忠誠心など武断派にはない。
遺令破りの七将クーデターでは三成を含め奉行衆全員の追放を願ったし、これは利害が一致し家康との徒党化があった。
(三成の次に憎まれていたのは増田だが毛利・上杉の抵抗もあり三成だけの責として妥協した家康にも彼らは不満だった)
彼らは三成を討ち日ごろの不満を解消し大坂西の丸へ入ることで
豊臣恩顧譜代としての立場も用いて名誉回復し秀頼公儀を推戴していこうとの意思があるだけ。
清正は関ヶ原の結果を知った後に書いた10/2の浅野書状で始めて行動がハッキリするんだよなー。
宇土城の二の丸まで取り詰めたから程なく落城するだろうから
そしたら大坂から妻子を盗み出した宗茂が柳川城にいるからこれを討つって。
だから如水と談じているのは事実だけど
関ヶ原前には東西どっちに着いたのかハッキリさせてない。
宇土城も関ヶ原後に攻めてるとしか思えない。
内府たがいの条によって会津征伐が違法化されて家康が江戸に帰るに及んで
以降の九州や奥羽や北陸の在地滞在中の諸大名って
もはや家康の為に動いていなくて
現地での独自判断に終始して清正は如水と並んで武断派ですら無いんだよなー。
清正は9/22から宇土城攻めをやってるのが9/23付け如水書状でわかるよ。
指摘の通り、すでに柳川表に宗茂が戻ってきているようで如水と一緒に攻めるようで
鍋島が加勢してこようが働くのは苦しからず覚悟だと言ってる。
また清正は東よりの御左右はこれ無く候哉、承度候。
と書いており家康の指図によらずに行動してるのがわかる。
続く9/24の清正→鍋島書状で輝元が大坂下城するわけだがと言って鍋島へ降伏勧告と柳川攻めを要求してる。
だから鍋島直茂が家康の勝利を予言して西軍として伊勢へ進出していた勝茂を関が原前に離脱させた話も怪しい。
- 49 :
- >>42
東海道 中山道 北陸道 海路
どんどん送ればいいよ
- 50 :
- 家康が怖くないなら人質なんか出さなきゃいいのに
- 51 :
- 婚姻や大名の子の小姓勤めも人質と同種だから、ふつうに人脈作りの一環で一般的な慣習みたいなもんだから。
- 52 :
- >>40
39は西軍の決起が遅れたら家康討伐なんて発令されないんだから、みんな会津に行ってしまうってことだろ
- 53 :
- >>52
なんで「みんな」なの?
もうすでに討伐隊は全部出陣してるのに
追加で誰か行けと命令されてるのか?
- 54 :
- だから岐阜に全軍で出撃して、一戦してみて不利なら篭城して
東軍を釘付けにしてればいいよ。それで大勢は変わるって。
元々、西軍所属のが多いんだから。
- 55 :
- >>53
追加も何も会津征伐は全国の大名に出された指令だから
宇喜多も小早川も島津も全て会津征伐に向かう途中だった
君は会津征伐が東国の大名にだけ出されて西軍大名は三成が蜂起してから大坂に向かって集まったと考えているのだろうが
それは間違いであり西軍の本質を見誤る重大な勘違いだよ
- 56 :
- 景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
- 57 :
- 首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
- 58 :
- 白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
- 59 :
- 美濃は最初から西軍だし尾張侵攻も毛利主力の伊勢攻略軍による北上。
しかも伊勢を毛利が占領する意思を輝元は表しており、
増田が何を言おうが関係ないとまで言って野心を露わにしてる。
首謀者輝元は幼君秀頼を利用して軍事も主導して専制独裁をしていて
前線指揮官の1人でしかない三成はそれを黙認する機関でしかないのが実態で奉行に復帰してるかどうかすら疑問。
しかも輝元へ三成は直接意見を言えずに、増田を経由している始末。
秀頼に会ってないどころか大坂城にも一度も行ってない三成が首謀者だっていう一次史料が無いどころか
首謀者と思われるような傍証も感情の吐露も三成にはまったくない。
しかも蟄居ではなく、隠居で減封も改易もなく、家督譲渡された息子は秀頼に仕えることが許され、
秀次事件に連座した前野長康や浅野長政(幸長は能登国津向配流)
前田と家康暗殺を企てたとして甲斐の領地と家督を息子に譲り
武蔵府中に出て監視され謹慎させられた浅野長政よりも
三成はかなり罪が軽かった。別段、政治に執着してるわけでもなく、不満を抱いてるわけでもない。
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
- 60 :
- それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、
武断派が三成憎しで大垣へ北進)
あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや
待ちかねていたように急ぎ即日出発。
明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は
三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で
輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。
そもそも三成は直接、輝元へ意見が言えず増田経由であるのに
三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、
三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。
一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても
三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請
決起を打ち明けられ同意を求められた家政が
16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで
家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ
瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。
三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり
物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして
三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて
輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。
- 61 :
- 蜂須賀の書状って、
最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、
なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、
石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら、
安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて、
三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて、
毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。
などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、
実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に、
蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。
三成らが悪いだけで
輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、
蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは、
追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も、
実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。
関が原から半年前の慶長4年末の三成→相良宛書状は
退隠してた三成が漆の桶を貰ったことへの感謝の書状だが
そこには京洛の静謐を喜び、九州での庄内の乱も平定されたことに
安堵している三成の姿があり、家康の統治を評価しているのがわかる。
三成が首謀者というのはまったく考えられない。
事実、細川の記録にある細川ガラシャが自決した際のガラシャの側女の報告でも、
三成らが捕らえにくる風聞が原因なんだよね。
だから大坂城から実際に誰の命でとらえにきたか不明で、
あくまで風聞レベルであり、 三成が挙兵した証拠は一切出てこない。
水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。
- 62 :
- それなら家康が三成の嫡男を秀頼奉公として許している理由もわかる。
実際、家康が抗争していた相手は毛利・上杉であり、三成にはそれほど他意がなかったし
三成にも家康への敵対心はなく、七将と対立しているに過ぎない。
つまり挙兵ってのも上杉が滅亡したら、次ぎは自分の番だと自覚した輝元が
七将を手なずけて会津攻めを開始した家康への敵対を表明したのであり、
三成自身の意思はまったく関係なく、毛利が家康を油断させるために
三成の挙兵だと宣伝して、家康が叛乱を過小評価する誤算を呼び込んで
その隙に伏見城を奪い、勢多の大橋の無傷奪取に成功し大津城も影響下に置くことに成功した。
三成はどちらかと言うと、泥縄的に巻き込まれたと言っていい。
だから三成にはまったくと言って動きを顕わす一次史料が存在しない。
そして反応の鈍い家康と違い反感を持つ七将は三成の挙兵と聞いて反応して上洛していった。
朝鮮出兵は、叛意ゆたかな諸将を疲弊させる目的もあって、行われたもので
秀吉存命時には、朝鮮出兵反対だったが、秀吉死後に国内で支配を確立させたら
毛利や秀家らを朝鮮に派遣して疲弊させるつもりだった。
秀吉は朝鮮に中国・九州のものどもを転封させ、関東のものを西国へ転封させるつもりだった。
朝鮮人を日本で労働させ、日本人は兵隊として朝鮮へ行かせる計画だった。
秀家の先祖は百済人。配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
庄内の乱で義弘の兵が疲弊したのを家康は喜んでいた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
看羊録は一次史料だし、清正との対立から三成は家康の為に働いてたと書いてるし、
家康に命令されての弱体化政策の朝鮮出兵を毛利が回避する為に
家康を排除するしか無いって話でしょ。しかも中立的視点で、
関が原後の国内における変な捏造史観に影響を受けていない点で優れているでしょ。
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。
極刑の輝元の罪を問わない&家督強制譲渡すれば改易免れる条件が、
島津征伐で輝元が先陣をやるってことだったからな。
しかも毛利の山陽道側の城は後陣の徳川諸将が接収予定だった。
清正や官兵衛が独力で島津を圧倒したから
島津が家康に泣き入れた結果、
輝元は先陣やらずにすんだけどな。
- 63 :
- >>55
>会津征伐に向かう途中
なんで全軍集結してから出陣しないの?
積み残してさっさと討伐に向こうなんかありえないでしょ
- 64 :
- >>57
毛利が首謀者ならなんで肝心の総大将が大坂城に籠もりっきりで
前線に出てこないのか
関ヶ原に毛利輝元が出陣してきたら小早川と吉川の裏切りもなかったのにな
- 65 :
- 首謀総大将はもっとも情報が集まる大坂城で、伊予や丹後や豊後での戦線も統御指揮するからだろ。
- 66 :
- >>63
道が混むから
- 67 :
- >>64
単純に毛利が馬鹿だからでしょ
○毛利輝元が家康打倒を考えておらず自領域の拡大のみを見据えていたというのは根拠がない
輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事
○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する
- 68 :
- >>63
軍隊が敵地の手前の程よい地点で集結なんてごく普通のことだよ
- 69 :
- wikiだけの知識で必死に対抗しようとするバカ毛利厨乙w
伊予を毛利が平定するチャンスがあったとかバカも休み休み言えよwww
ぜんぜん知識もないアホ丸出しで毛利史観を盲信してんじゃねーよ。
阿波や讃岐が毛利の管理下に置かれてるから毛利の功績?もうデタラメすぎて腹が痛いよwww
伊予国松前城主加藤氏の場合
毛利軍の侵攻に対して弟や正木城を預かる佃らは
宇和島城主藤堂氏の援軍の申し出を「独力で守るわ!」と断り
5/18に決戦し村上・能島・曽根の三将を打ち取るも加藤側の被害はわずか味方手勢十余人の戦死。
これにより正木付近で毛利軍は壊滅させ敗走、さらに追撃し毛利と戦闘を重ね、
毛利軍は久米郡如来寺に籠城し一揆軍の決起を促す。
19日加藤軍の先頭の黒田九郎兵衛は山門を打ち破り寺内に乱入し
毛利兵を討ちまくるうちに鉄砲に当り討ち死。
あとに続いた飛松兵介も討死するも佃は兵を二手に分け前後より攻めて毛利軍を打ち破る。
この戦いで荏原村一揆と毛利を打ち破り、さらに和気郡山越村でも一揆と毛利軍撃破
毛利軍の最後は還熊八幡社を本陣にしたところ
佃は八幡山を襲撃し毛利の防衛線は破られ風早浦から逃げ帰った。
浮穴郡荏原城、和気郡山越付近と佃率いる加藤軍は連戦連勝し
一方、藤堂領宇和郡松葉村でも力石良連らに三瀬六兵衛が打ち取られ伊予の毛利壊滅。
阿波国徳島城蜂須賀氏の場合
家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して
小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。
やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。
三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく
北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。
大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。
これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。
家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。
その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」
と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。
そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令。
9/12に1万で兵庫上陸するや蜂須賀隊を率いる稲田示植が病として進軍を3日の間ストップをかけ
15日枚方で関ヶ原の東軍勝報を聞き近江草津で至鎮に合流。
生駒一正は未だに部屋住みなりしも20騎を率いて家康に従う←ここら辺は至鎮と同じパターンだろ。
生駒親正は西軍として丹波田辺城を攻め向かうも関ヶ原を聞き家康を恐れて高野山へ行く←家政と違い大坂でうまく言い訳ができんかったw
西軍化した生駒も蜂須賀もまったく士気がなくやる気ゼロの軍
どこに毛利の功績があって、毛利が四国の大半を支配下に置けそうだったんだ?
毛利はいつもどうりに激弱かったので、西軍の足を引っ張って大坂方が苦労してただけだぜ。
- 70 :
- アンタいつも長文杉
- 71 :
- だがきもちわるい
- 72 :
- 福島君が裏切ればお仕舞いかと。
- 73 :
- 三成は戦力不足の美濃方面指揮官の閑職だしな。
あんまり三成、小西、義弘らは西軍全体から歓迎されてないよな。
まあ小西と義弘は朝鮮出兵の同僚で、
朝鮮出兵では武断派軍団や毛利小早川軍団とも仲があまり良くないから、
朝鮮からの撤兵では置き去りにされそうになったりしてるし、
小西と親しかった三成は意に反して後から巻き込まれただけにすぎんだろうね。
- 74 :
- じゃ反省会はここまでとしてマジで勝てる方法考えようぜ
- 75 :
- 小西と清正の対立が発火点
そこに家康による毛利弱体化政策による輝元の家康への憎悪
家康による小西への臣従要求に対して、小西が秀頼様へ忠義を尽くすという返答で拒否。
だから利害の関係で
輝元と小西が対家康で共同戦線するのは自然。
しかし、家康への臣従を受け入れた三成には動機がないんだよな。
- 76 :
- どうして西軍無視して大坂城の方に東軍が行こうとしたのを慌てて止めようとしたの?
そのまま大坂の方に行かせればいいじゃない?
そっちいけば豊臣恩顧の武将が大坂城を攻めることになって機能しなくなるのに
後ろから東軍突けばいいじゃない?大坂城に攻めかからせて動けなくしてからさ
- 77 :
- 佐和山を抜かれたら
琵琶湖の湖上交通路や北陸戦線や山陰戦線に影響がでるからだろ。
- 78 :
- >>77
一時的に与えてもその後に勝てばいいよ
東軍が佐和山のあたりでずっといるわけじゃないし
西軍は自分たちのテリトリーなんだから
勝負を長引かせれば有利、向こうは兵糧補給が困難になるから
- 79 :
- 自分が三成なら大坂城の毛利本隊をどうやって出陣させるか考えるけどね
出てこないなら東軍と挟み撃ちの状態にしてしまえばいいよ
- 80 :
- 岐阜落とされたばかりなのに、佐和山まで落とされたら西軍に動揺がはいって内部統制が効かなくなる恐れがある。分かりやすくいえば裏切り続出。
俺は関ヶ原自体が西軍から見て決戦を挑めるぎりぎりの状況だったと思っている。実際はすでに手遅れだったのだが
- 81 :
- 「佐和山を落とされるんじゃなく、佐和山城を攻められるだけでも三成の政治的地位は消失する」って主張してる人もいたな
- 82 :
- >>80
佐和山なんか小さい城だし、くれてやればいいじゃない?
そんなもんにこだわって肝心の決戦に負けたら全部失うんだから
俺が三成なら家族とか逃がして空き城にするけどな、出陣前に
で、場内の食料は当然運び出して自分たちで使うよw
- 83 :
- >>81
政治的地位って何?
西軍の総大将は毛利輝元だろ
会議の時に自分が三成なら途中の城はすべて放棄して
東軍を大坂城を攻めさせて後ろから挟み撃ちにするって提案するけどね
目の前に秀頼と毛利家の当主がいるのに
裏切りできるのか?
- 84 :
- >>83
名目的には西軍総大将として毛利元就が上がってるだけで、
実際は石田三成が首謀者だって話なんじゃね?
大阪に徳川の軍勢が表れたら、朝敵に認定された上に、秀頼から輝元に石田三成追討の依頼が出ると思ったんじゃないの
- 85 :
- >>82
そもそも決戦できなくなる可能性が出てくるといっているんだか
佐和山城の規模はどうあれ西軍の有力大名の本拠地で、それが落とされるのを傍観すれば他の大名が西軍について来なくなる
例えば大谷の敦賀とか長束の水口とかは直接の脅威にさらされるので、東軍に鞍替えしてもおかしくはない
- 86 :
- >>85
>それが落とされるのを傍観すれば他の大名が西軍について来なくなる
傍観?守る必要も無いし
作戦上、さっさと空けて大坂に行かせればいいだけ
- 87 :
- >>85
あと、大谷や長束が裏切るわけ無いでしょ?
むしろ大坂攻めになったら豊臣恩顧の武将が次々に無力化するだけ
三成憎しだけで動いてるんだから
- 88 :
- 東軍の利点ばかりで西軍のそれ以上の利点についてはなんで目をつむるのか不思議
東軍は豊臣恩顧の武将が半分以上を占めてて大坂城に向かえば半分以上の戦力が事実上無力化してしまうのに
西軍はじぶんたちのテリトリーなんだから時間を稼げば東軍の士気や兵糧も尽きて有利になるのに
- 89 :
- 大坂なんか攻める必要ないからな
- 90 :
- >>89
そのまま大垣城から西軍がでてこなかったらどうしてるんだろうね
戻って来て攻城戦かな
- 91 :
- 大坂を戦場にってのは流石に豊臣家が認めないんじゃないか?
この時期って徳川との完全な対決を望んでいた様でも無いし
- 92 :
- >>91
そもそも、この時期は
豊臣家康だな。羽柴姓を賜ったかは知らんが。
- 93 :
- >>91
許可得る必要ないよ、西軍本隊が大垣城に籠城し続ければ
城攻めするか、あきらめて大坂の方に向かうか
東軍本隊にはどちらかしか選択肢ないし
三成もむかついてるのでは?豊臣家の為に戦ってるのに
秀頼はでてこないわ、総大将は2万も兵力あるのに援軍もよこさないし
自分が三成ならそうやって強制的に参加させるけどなw
- 94 :
- 一戦もやらずに大坂包囲されたらヘタレて講話交渉が始まり、
攻め登られた西軍の実質上の負けでしょ。
そもそも家康が京に入り朝廷を押さえた時点でルール変更すら可能になるし。
関ヶ原で一戦して破れてから、大坂籠城なら腰を座り講話交渉が難航するから話が変わってくるが。
- 95 :
- >>94
破れたらそこで終了でしょ
朝廷はそのころは何の権限も無いし
幕末の頃と全然違うよ
まさにお飾り
- 96 :
- 敗れても良いから一度は出陣して戦えと信長は言ってるし
三方が原の家康も国人の離反を避けるために
出陣して大敗後に篭城してるしな。
求心力って配下を不安にさせないに足る闘争心が重要なんだと思う。
- 97 :
- 権限はないが権威はあるかなら、家康が裏書した朝廷の手形は
結構な威力あるで
- 98 :
- まず大垣で篭城続行する。立花・鍋島らと合流。
秀忠の3万8000を待って、徳川の後詰を断つ。
ほら、勝てそうじゃないかw
- 99 :
- 関ヶ原より西を完全に西軍の支配下だと思っているようだけど、
実際は家康と豊臣政権の主力部隊が不在の間に畿内を制圧しただけで、
東軍が戻ってきたら情勢変わると思うけどな
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