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【KAREN】カレン・ホーナイの精神分析【HORNEY】


1 :2013/05/18 〜 最終レス :2013/09/24
カレン・ホーナイ(1885〜1952)は、フロイトの研究を基に修正を加えて、非常に優れた
人間心理、神経症などの理論へと発展させました。
彼女の優れた研究成果からは、現代においてもメンタルヘルス他の改良のための
多数の優れた示唆を得ることができます。
主要著書
・New Ways in Psychoanalysis, Norton, 1939.
・Self-analysis, Norton, 1942.
・Our Inner Conflicts, Norton, 1945.
・Are You Considering Psychoanalysis Norton, 1946.
・Neurosis and Human Growth, Norton, New York, 1950.

2 :
>>1
そもそも何を語るスレなのかわからない・・

3 :
 
/// 序文 1 ///////////////
カレン・ホーナイ著、対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳
 『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』
 アカデミア出版会1986年10月発行 より
序文
 自己実現の道徳
 神経症的発達過程は、人間の発達の一つの特殊な形であって、そこでは建設的なエネルギーが
浪費されてしまうことから、人間にとってとりわけ不幸なものとなる。この過程は、健全な
人間の発達と比べて、質的に違うだけでなく、ふつう考えられているよりもはるかに、多くの
意味で正反対の性質をもっている。
///// アカデミア出版会 ///

4 :
 
/// 序文 2 ///////////
人は、恵まれた条件の下で育つ場合、そのエネルギーを自分の可能性を実現することに注ぐ
ものである。このような発達は決して画一的なものではなく、各人はその気質、能力、傾向、
幼年期およびそれ以後の成長条件に応じて、より柔軟にも頑固にも、疑い深くも信じやすくも、
自信が強くも弱くも、思索的にも行動的にもなり、また、自分の特殊な才能を伸ばしていく
こともできる。だが、どのような方向に進んで行くにしても、この場合に彼が伸ばしていくのは、
その人自身のもっている可能性であろう。
///// 1986年10月発行 ///

5 :
 
/// 序文 3 ///////////
 ところが、心に緊張をもって育つ場合、人は自分の真の自己から疎外されるようになる。
その場合には、心のなかの厳しい命令体系によって、自分を完全無欠なものにつくり上げる
ことにエネルギーの大部分を注いでしまう。というのも、もし自分が神のような完全さに
少しでも欠けるようなら、それは自分が思い描いている自分自身の理想像と食い違うことに
なるし、また、自分が優れた徳性を現にもっており、もつことができ、もつべきであると
思っている自分の誇りが満たされないことになるからである。
///////// 対馬忠監修 ///

6 :
 
/// 序文 4 ///////////
 このような神経症的発達の傾向は(本書に詳しく述べられているが)、精神病理現象に
対する臨床的、理論的な関心以上にわれわれの注意をひく。それは道徳の根本問題、すなわち、
完全性に達したいという人間の欲望や欲動や宗教的義務の問題を含んでいるからである。
人間の発達を真剣に考える研究者なら誰でも、誇りや傲慢が望ましくないこと、また、完全性
への欲望も、誇りが原動力となっている場合には望ましいものでないことを疑わないであろう。
しかし、道徳的な行為を確実なものにするためには、規律的な心の統制体系をもつことが望ましく、
また、必要であるかどうかという点については、意見は様々に分かれる。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

7 :
 
/// 序文 5 ///////////
たとえこのような内的命令が自発性を束縛するとしても、(「汝、完全な者であれ」という)
キリストの教えに従って、完全さを求めて努力すべきではなかろうか。心のなかにこのような
命令を持たない場合には、人間の道徳生活や社会生活は危険な状熊に陥り、破滅に向かう
のではなかろうか。
 この問題は歴史を通じて様々な仕方で問われ、答えられてきたが、ここはそれについて
論じる場所ではないし、私にその用意もない。ただ私かここで指摘したいのは、この問題に
どう答えるかは、われわれが人間性についてどのような信念をもっているかによって決まる
ということである。
///// 神経症と人間的成長 ///

8 :
カレン・ホーナイって元祖フェミでしょ

9 :
 
/// 序文 6 ///////////
 大きく分けて、道徳の目標に関しては三つの主な考え方があり、それらは人間性の本質に
ついての次のようなそれぞれ違った解釈の上に立っている。まず、どんな言葉で表現するに
しても、ともかく、人間は生まれながらに罪深く、原始的な本能によって支配されている
とする考え方がある(フロイト)。この考えをもつ人は、上からの制限や統制を必要なものと
信じる。その場合、道徳の目標は、自然状態を伸ばすことではなく、それを宥め、抑える
ことでなければならない。
///// 自己実現の闘い ///

10 :
 
/// 序文 7 ///////////
 次に、人間には生まれつき、本質的に「善い」性質と、本質的に「悪い」、罪深く、破壊的な
性質との両方が具わっているとする考えがある。このような考えを信じる人では、道徳の目標は
もっと違ったものになる。この場合には、生まれつき具わっている善を、各人がそれぞれの
宗教上あるいは倫理上の支配的な考えに応じて、例えば、信仰、理性、意思、恩寵などによって、
いっそう純化、教導、強化して、最後に必ず善が勝つようにすることが目標になる。ここでは、
ただ悪を叩いて、抑えることだけが強調されるのではなく、もっと積極的なプログラムも考慮
されている。しかし、この積極的なプログラムも何らかの超自然的な力の助けに頼るか、理性や
意思のような克己的な理念に頼っている。このことはつまり、禁止し、抑制する内的命令がやはり
必要であることを示している。
///// 原著1950年発行 ///

11 :
 
/// 序文 8 ///////////
 最後に、人間には生まれつき、自分のなかにある可能性を実現するように駆り立てる発展的な
建設力が具わっていると信じる場合、道徳の問題は再び違ったものになる。この信念は、人間は
本質的に善である――これは、善悪についてのある既成の知識を前提として言われることだが――
ということを意味するものではない。この信念の意味するところは、人間は生来、自己実現に
向かって努力する性質を具えており、このような努力を通じて自分の価値観を発達させていくもの
であるということである。
///// Neurosis and Human Growth ///

12 :
 
/// 序文 9 ///////////
それゆえ、もし人が自分に忠実でなく、積極的でも生産的でもなく、また、人と交わるのに
相互協調の精神を持たないなら、自分のもっている可能性を十分に発揮することができない
ことは明らかである。また、もし人が「自己への暗き偶像崇拝」(シェリー)に酔い、
自分の欠点をすべて他人の落度のせいにするなら、成長できないことも明らかである。
自分自身に対して責任をとる時、初めて人はほんとうの意味で成長することができるのである。
///// 神経症と人間的成長 ///

13 :
 
/// 序文 10 ///////////
 このように考えていくと、われわれは今自己実現の道徳にたどり着く。この道徳では、
自分のなかに何をはぐくみ、何を捨てるかを決める規準は、ある態度や欲動が、その人の
人間的成長を積極的にもたらすものか、それとも、妨害するものかの問いにかかっている。
どんな種類の圧力も、それがしばしば神経症を引き起こすことからも分るように、建設的な
エネルギーを非建設的、破壊的な方向にそらしやすい。しかし、前にも述べたように、
人間には自己実現に向かって自発的に努力する性質が具わっているという信念をもてば、
窮屈な鎧で自発性を束縛したり、内的命令の鞭をふるって自分を完全な者へと駆り立てたり
する必要はなくなる。
///// Karen Horney ///

14 :
 
/// 序文 11 ///////////
確かに、このような規律を課する方法は、望ましくない要因を抑制することはできるが、
われわれの成長にとって有害であることもまた確かである。われわれがこうした規律的
方法を必要としないのは、われわれ自身のなかに、破壊的な力にもっとうまく対処できる
可能性が見られるからである。それは破壊的な力を超えて成長していく可能性である。
この目標に向かう道は、自分自身についての認識と理解を絶えず深めることである。
それゆえ、自己を知るということは、それ自体が目的ではなく、自発的な成長力を
解放するための手段なのである。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

15 :
 
/// 序文 12 ///////////////
 この意味において、われわれが自分自身について研究するということは、最も重要な
道徳的義務であるだけでなく、同時に、真の意味で、最も重要な道徳的特権でもある。
というのも、われわれが自分の人間的成長を真剣に考える限り、自分自身を研究することは、
われわれが願っていることだからである。そして、神経症的自己執着から逃れ、自由に
成長できるようになるにつれて、他の人々を愛し、気遣う心の自由を得ることができる
ようになる。
///// アカデミア出版会 ///

16 :
 
/// 序文 13 ///////////
そうなった時、われわれは、幼い者たちにはすくすくと成長できるような状況を与えて
やりたいと願い、また、既に成長が妨げられている人々には、できる限りの方法で、
彼らが自分自身を見出し、それを実現できるように力になりたいと思うであろう。
いずれにしても、自分自身のためにせよ、他人のためにせよ、自己実現に向かう力を
解放し、はぐくむことが理想である。
 私は、本書が、自己実現を阻む諸要因をいっそう明らかに示すことにより、それなりの
仕方で、自発的な成長力の解放に役立つことを願うものである。
K・H
・・・・
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

17 :
 
*** KAREN HORNEY **********
カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版
Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/
Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/
邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/
**** NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ***

18 :
 
/// 栄光の追求 1 ///////////
カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著1950年発行:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より
・・・・
第1章
 栄光の追求
 子どもは、どのような条件の下で育っても、精神的に欠陥さえなければ、何らかの仕方で、
他人に対処することを学び、いくつかの技能も習得していくだろう。しかし、彼のなかには
学習によっては獲得できない、また、発達させることさえできない力も潜んでいる。例えば、
どんぐりに、樫の木になることを教える必要はないし、また、実際、教えることはできないが、
時がくれば、どんぐりのうちに潜んでいる力が発達していくであろう。
///// アカデミア出版会 ///

19 :
 
/// 栄光の追求 2 ///////////
人間の場合もこれと同じで、時期がくれば、その人独自の潜在力が発達していく傾向を
もっている。その時、彼は真の自己のもつ独自の活力を発達させるであろう。すなわち、
自分自身の感情や思考や願望や興味をはっきりさせ、深め、自分の資質を開発する力や
強い意志力を育て、自分に具わる特殊な才能や天分を伸ばし、自分の意見を述べ、自然な
感情で良い対人関係をつくっていく能力を発達させる。すべて、こうしたことを通じて、
彼はやがて自分の価値観や人生における目的を見出すことができるようになる。要するに、
彼は本質的に脇道にそれることなく、自己実現に向かって成長していく。そこで、私が
本書を通じて、真の自己と言う時、それは、すべての人間に共通な、しかも、各個人に
独自な、成長の深い源泉である、あの中心的な内部の力を指しているのである。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

20 :
 
/// 栄光の追求 3 ///////////
 もちろん、その人に生来具わる可能性を伸ばすことができるのは、その人自身にほかならない。
しかし、他の生物の場合と同じように、人間の場合も、「どんぐりから樫の木に」成長する
ためには、それに適した条件が必要である。自分自身の感情や考えをもち、思っていることを
表現できるような、心に安定感と自由との両方を与えてくれる温かい雰囲気が必要である。
また、困っている時に助けてくれるだけでなく、彼が成熟し、完成した人間になるように導き、
激励してくれる他人の善意が必要である。そのうえ、他の人の願望や意志との健全な摩擦も
必要である。もし彼が愛情や摩擦を経験して、他人との人間関係のなかで成長することができれば、
それはまた真の自己に即して成長することにもなろう。
///////// 対馬忠監修 ///

21 :
 
/// 栄光の追求 4 ///////////
 しかし、種々の恵まれない条件の下で育つ場合には、子どもは自分自身の欲求や可能性に
即して成長することができないであろう。このような悪条件はあまりも多く、ここで、いちいち
枚挙することはできないが、要約して言えば、結局、周囲の人々が自分の神経症に心を奪われる
あまり、子どもを愛することも、子どもをその子どもなりの一人の人間として考えることも
できなくなっている、ということである。このような人々が子どもに対してどのような態度を
とるかは、彼ら自身の神経症的欲求や反応の仕方によって決まる。簡単に言えば、彼らの態度は、
支配的、過保護的、威嚇的、いらいら、厳しすぎ、甘やかしすぎ、気分的、偏愛的、偽善的、
無関心、などである。子どもの成長に悪い影響を与えるものは、ただ一つの要因ではなく、
常に要因群全体の構造である。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

22 :
 
/// 栄光の追求 5 ///////////
 その一つの結果として、このような環境に育った子どもは、所属感、つまり、「われわれ」
という感情を発達させることができずに、深い不安定感と漠然とした不安感を抱くようになる。
これが、私が基本的不安という言葉で表わすところのものである。それは、自分に対して
敵意を秘めていると思われる世界のなかで、自分は孤立し、無力であると思う感情である。
こうした基本的不安の重圧の下に、子どもは自分の真の感情から自発的に人と良い関係をつくる
ことができなくなり、そこで、他人に対処していくために、何らかの方法を見つけなければ
ならなくなる。
///// 神経症と人間的成長 ///

23 :
 
/// 栄光の追求 6 ///////////
彼は(無意識のうちに)、自分の基本的不安を引き起こしたり、高めたりしないで、むしろ、
それを和らげるような方法で人に対処しなければならなくなる。このようにして、無意識の
うちに方策をとらなければならないことから個々人が身につける態度は、その子どもの
生まれつきの気質と環境との両方によって決まる。要約すれば、彼は自分の周囲の最も有力な
人にしがみつこうとするか、他人に反抗し闘争しようとするか、他人を自分の内面生活から
締め出し、感情の面でも彼らを避けようとするかのいずれかであろう。原理的には、彼は
他人に対して、接近、対抗、逃避の三つの方法をとることができるということである。
///// 自己実現の闘い ///

24 :
 
/// 栄光の追求 7 ///////////
 健全な人間関係においては、他人に対する接近、対抗、逃避の動きは互いに排斥し合うもの
ではない。愛情を求めたり、与えたりする、つまり、人に順応する能力と、人と闘う能力と、
人から孤立する能力と、この三つの能力は良い人間関係を保つために必要な、互いに相補う
能力である。しかし、基本的不安をもち、そのために不安定な基盤に立っていると感じている
子どもの場合には、このような動きは極端で融通のかかないものとなる。例えば、愛情は執着
となり、服従は事なかれ主義となる。同様に、反抗や逃避についても、自分の真の感情によらずに、
また、自分の態度がその場にふさわしくないことも考えずに、ただむやみと反抗や逃避に
駆り立てられる。そして、その態度がどの程度盲目的でかたくなになるかは、彼の内部に潜む
基本的不安の強さに比例している。
///// 原著 1950年発行 ///

25 :
 
/// 栄光の追求 8 ///////////
 このような状況の下では、子どもはこれら三つの方向のうちの一つに向かうだけでなく、
そのすべての方向に駆り立てられるので、他人に対して根本的に矛盾した態度を発達させる。
そのため、他人に対する接近、対抗、逃避の三方向への動きが、一つの葛藤、すなわち、
他人との関係における基本的葛藤を構成する。やがて彼はこの三方向のうちの一つをいつも
優越させることによって葛藤を解決しようとする。すなわち、服従、攻撃、孤立のうちの
いずれか一つを自分の支配的な態度にしようとするのである。
///// Neurosis and Human Growth ///

26 :
 
/// 栄光の追求 9 ///////////
 神経症的葛藤を解決しようとするこの第一の試みは、決して表面的なものでなく、反対に、
子どもがそれ以後どのような神経症的発達の過程をたどるかに決定的な影響を与える。
それは他人に対する態度だけに限らず、彼の人格全体にある変化をもたらすことは避けられない。
子どもは自分が主としてどの方向に進むかによって、それに応じた欲求、感受性、禁止、
道徳的な価値観の萌芽を発達させる。例えば、服従的であることを支配的態度としている
子どもは、人に従属し、寄りかかろうとするだけでなく、利己的でない、善良な人になろうとする。
同様に、攻撃的な子どもは、強さや、忍耐力や闘う力に価値を置き始める。
///// Karen Horney ///

27 :
 
/// 栄光の追求 10 ///////////
 しかしながら、この第一の解決法のもつ人格統合の効果は、後に述べる神経症的解決法の
場合ほど確実でも包括的でもない。ある少女の場合を例に挙げると、彼女は一般には服従的
傾向が支配的であったが、その傾向は、権威をもつ人物に対する盲目的な崇拝、人を喜ばせ、
なだめようとする傾向、自分の希望を表わすのに臆病なこと、時々思い立ったように犠牲的な
行為をしようとすること、などに現われた。彼女は八歳の時、自分のおもちゃをこっそりと
路傍に置き、誰か貧しい子どもが拾ってくれることを願った。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

28 :
 
/// 栄光の追求 11 ///////////
十一歳の時、大好きな先生に罰せられると空想して、子どもらしい仕方でひそかに神に
祈って許しを請おうとした。ところが十九歳になると、ある先生に仕返しをするために
友達が仕組んだ壮画にやすやすと迎合するようになっていた。たいていの場合は、子羊の
ように従順であったが、時たま学校で先頭に立って反抗的な行動をとることもあった。
そして、教会の牧師に失望した時には、それまでのうわべの敬虔な献身的態度を捨てて、
一時的な皮肉屋になり変わった。
///// Neurosis and Human Growth ///

29 :
 
/// 栄光の追求 12 ///////////
 この引用例が典型的に示すように、ここで達せられる人格統合は弱いものである。その理由は、
一つには、成長過程にある個人が未熟なためであり、二つには、この初期の解決法が主として、
他人との関係を単一化することを目指しているためである。それゆえ、ここにはもっと確実な
統合の行なわれる余地があり、確かにその必要がある。
 今まで述べてきたこの発達は決して一定した形をとらない。不利な環境条件の特徴はそれぞれの
場合によって違い、したがって、発達のたどる過程やその結果の特徴も異なっている。しかし、
この発達は必ずその人の内面的な強さや一貫性を損ねるので、そのために生じる欠陥を癒そうとして
いくつかの切実な欲求が生じる。これらの欲求は密接に絡み合っているが、次のような側面を
区別することができる。
///// アカデミア出版会 ///

30 :
 
/// 栄光の追求 13 ///////////
 彼は、他人との葛藤を解決するために初期の試みをしたにもかかわらず、なおも分裂して
いるので、もっと確実で、もっと包括的な統合を行なう必要がある。
 多くの理由のために、彼はこれまで真の自信を発達させる機会をもたなかった。彼の内部の力は、
例えば、自己を防衛しなければならなかったこと、分裂していること、初期の「解決法」は
一面的な発達しか生み出さず、そのため、彼の人格の大部分が建設的に利用されていないこと、
などの理由で弱められてきた。そこで彼は今や必死になって自信あるいは自信の代わりとなる
ものを求める。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

31 :
 
/// 栄光の追求 14 ///////////
 彼は真空状態のなかで無力を感じるのではなく、具体的に、他の人々と比べて実在感が乏しく、
人生に処する準備ができていないと感じるのである。もし所属感さえもっていれば、他人より
劣っているという感じも、それほど重大な障害にはならないであろう。しかし、競争社会に住み、
現に彼のように心の底に孤立感や敵意をもっている場合には、他人に抜きん出たいという
切実な欲求をつのらせるばかりである。
///////// 対馬忠監修 ///

32 :
 
/// 栄光の追求 15 ///////////
 これらの要因よりさらに基本的な事柄は、彼の自己疎外が始まることである。彼は、真の
自己の順調な成長を妨げられるだけでなく、それに加えて、他人に対して技巧的、策略的な
処し方をしなければならないために、自分の真の感情や願望や考えを踏みにじらなければ
ならなかった。安全であることが大切になればなるほど、内奥の感情や思想は重要性を失ってきて
――事実、それらは沈黙させられ、不明瞭になっている(安全でありさえすれば、自分が実際に
どう感じているかは問題ではない)。このようにして、彼の感情や願望は決定的な要因では
なくなり、彼は言わば、もはや馭者ではなく、馭せられる者となる。また、内部における分裂は、
彼を弱めるだけでなく、混乱という要因が加わるので、いっそう疎外を強めることになる。
彼はもはや自分がどこにおり、「誰」であるかも分らなくなる。
///// 神経症と人間的成長 ///

33 :
 
/// 栄光の追求 16 ///////////
 自己疎外が始まることが、他の要因と比べていっそう重要な要因となる理由は、自己疎外が
他の障害をさらにひどくする点である。このことをもっとはっきり理解するためには、
自分自身の活力の中心からのこのような疎外がなくて、他の障害の過程が起こる場合を仮定して、
その時どうなるかを想像してみるとよい。自己疎外のない場合には、たとえその人は葛藤を
もっていても、その葛藤によって振り回されてしまうことはないだろうし、自信(まさに
この語が示すように、これには信頼を置くべき自己が必要である)を損ねても、それをすっかり
失ってしまうことはないだろう。
///// 自己実現の闘い ///

34 :
 
/// 栄光の追求 17 ///////////
また、対人関係に支障をきたすことはあっても、心のなかまで他人と無関係になってしまう
ことはないだろう。そのようなわけで、自己疎外に陥っている人は、たいていの場合、一つの
支えを与えてくれるもの――それを真の自己の「代用品」と呼ぶのはおかしいだろう。そんな
ものはないのだから――すなわち、自己同一感のようなものを求める。この自己同一感を
もつことによって、彼は自分自身にとって意味あるものとなり、その人格構造があらゆる
弱さをもっているにもかかわらず、自分は力をもち、意義あるものだと思うことができる
のである。
///// 原著 1950年発行 ///

35 :
 
/// 栄光の追求 18 ///////////
 (生活環境が良くなって)彼の内的状態が変わり、もし、今挙げたような欲求が必要で
なくなるといった事態が起こらない限り、このような欲求を允たす方法、それも、欲求の
全部を一挙に充たしてくれるような方法は一つしかない。それは空想によるものである。
徐々に、無意識のうちに空想は働き始め、彼の心の中に自分自身の理想像を創造していく。
この過程で、彼は自分自身に無限の力と崇高な能力を与える。こうして、彼は英雄となり、
天才となり、最高の恋人となり、聖者となり、神となる。
///// Neurosis and Human Growth ///

36 :
 
/// 栄光の追求 19 ///////////
 自己理想化は常に全般的な自己賛美をともなうので、自分は意義あるものであり、他人より
優れているという、彼にとって非常に大切な感情をもつことができる。しかし、それは決して
盲目的な自己拡大ではない。各人がそれぞれに特有な経験や幼年期の空想、彼独特の欲求や
生まれつきの能力などを材料として、彼という人間の理想像をつくり上げるのである。
もしそのイメージに個性がないなら、彼は自己同一感も自己統一感ももつことができない
であろう。彼はまず最初に、基本的葛藤に対してとった彼独自の「解決法」を理想化する。
すなわち、服従は善良さ、愛、高徳となり、攻撃性は強さ、指導力、ヒロイズム、全能となり、
孤立は知恵、自己充足、独立性となる。彼独自の解決法で短所や欠点のように見えたものは、
常にぼやかされ、修正される。
///// Karen Horney ///

37 :
 
/// 栄光の追求 20 ///////////
 彼は自分の矛盾する傾向を次の三つの異なった方法のいずれかで処理する。第一の方法では、
矛盾する傾向もまた賛美されているが、表面には現れていない。そして、分析していくうちに、
例えば、恋愛を許しがたい軟弱なものと思っている攻撃的な人も、自分の理想像では、絢爛たる
鎧を着た騎士であるだけでなく、偉大な恋人であることが初めて分ってくるだろう。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

38 :
 
/// 栄光の追求 21 ///////////
 第二の方法では、矛盾する傾向は賛美されるだけでなく、心のなかで別々に分けられているので、
もはや心を乱す葛藤とはならない。ある患者は、自分の理想像では、人類の恩人であり、自らを
よく抑えて平静の境地に達した賢者であると共に、なんら良心の呵責もなく敵をRことのできる
人であった。この二つの側面は――いずれも意識されているが――矛盾しないばかりか、葛藤を
起こすこともない。矛盾する傾向を互いに切り離すことによって葛藤を除去するこの方法は、
文学ではスティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』のなかに示されている。
///// アカデミア出版会 ///

39 :
 
/// 栄光の追求 22 ///////////
 第三の方法では、矛盾する傾向は積極的な能力や仕事へと高められ、豊かな人格のなかで
共存できる側面となる。私が他の著書で引用した例では、天性豊かなある人は、服従的な
傾向をキリスト的な美徳へ、攻撃的な傾向を卓越した政治的指導力へ、また、孤立性を
哲学的な知恵へと振り向けた。こうして、彼の基本的葛藤の三つの面は同時に美化され、
互いに調和させられた。彼は自分の心のなかでは、ちょうど昔のルネサンスの全能人に
匹敵する者となったのである。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

40 :
なにきどってんだよ
この物知りがっっ

41 :
 
/// 栄光の追求 23 ///////////
 やがて、人は自分の理想化され、統合されたイメージと自分自身とを同一視するようになる。
この時、理想像はもはや彼がひそかに抱く空想的なイメージにとどまらず、知らず知らずの
うちに、彼自身がこのイメージそのものとなり、その理想像は理想化された自己となる。
そして、この理想化された自己は彼にとって真の自己よりもいっそう現実性をもってくるが、
それは主として、理想化された自己の方がいっそう強く彼の心に訴えるからではなくて、
それが彼の切実な欲求のすべてに答えてくれるからである。
///////// 対馬忠監修 ///

42 :
何このスレ

43 :
 
/// 栄光の追求 24 ///////////
このようにして、真の自己から理想化された自己へと心の重心が移っていく過程は、完全に
彼の心の内部で行なわれ、外から見て分るような目立った変化は何もない。変化は彼の
存在の中心部の、自分自身に関する感情のなかに起こっている。これは人間にだけ起こる
不思議な過程であり、例えば、コッカ・スパニエル犬が、自分は「ほんとうは」アイリッシュ・
セッターなのだと思うことはおそらくないであろう。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

44 :
この人は加藤諦三氏の本によくでてくるよね。

45 :
自分も最近、加藤諦三の本を読んだからこの人の名前に覚えがある

46 :
 
/// 栄光の追求 25 ///////////
この中心転換が起こるのは、ただその人の真の自己がかねてから不明瞭になっているため
である。健康な過程を進めば、発達のこの段階では――また、どの段階でも――人は真の
自己に向かうであろうが、この場合には、彼は今や決然と真の自己を捨てて、理想化された
自己に向かい始める。理想化された自己は、彼が「ほんとうは」何であるか、つまり、
潜在的には何であるか――彼は何であることができ、何であるべきか――を彼に示し始める。
それは彼が自分自身を眺める観点となり、自分を測る物差しとなる。
///// 神経症と人間的成長 ///

47 :
 
/// 栄光の追求 26 ///////////
 自己理想化とは、いろいろな面から見て、私が包括的な神経症的解決法と呼ぶことを提案する
ところのものである。つまり、それは、ある特定の葛藤を解決するだけでなく、人がある時に
もっている内的欲求のすべてを充たしてくれることを暗に約束する解決である。さらに、それは
苦しく耐えがたい感情(自己喪失感、不安感、劣等感、分裂感)から逃れさせてくれることを
約束するだけでなく、彼自身と彼の人生を最も神秘的な仕方で完成することを約束してくれる
ものである。そこで、彼がこのような解決法を見つけたと思えば必死になってそれにしがみつこう
とするのは、なんら不思議なことではない。精神病理学の専門用語で言えば、それが強迫的に
なるのは当然である。神経症で自己理想化が必ず起こるのは、神経症を引き起こしやすい環境では、
必ず強迫的欲求がはぐくまれるからである。
///// 自己実現の闘い ///

48 :
/// 栄光の追求 27 ///////////
 われわれは二つの主要な観点から自己理想化を眺めることができる。すなわち、自己理想化は
初期の発達の論理的帰結であるが、それはまた、新しい発達の出発点でもある。自己理想化を
行えば、真の自己を放棄する以外にとるべき道がなくなるので、それは当然その後の発達に
きわめて重大な影響を与えることになる。しかし、これが革命的な影響を及ぼすのは、主として、
それがもう一つの意味を持っているからである。自己理想化では、自己実現に向かって注がれつつ
あるエネルギーが、理想化された自己を現実化する目標へと方向転換させられていく。
この転換こそはまさに、その人の生活全体と発達の過程を変更するという意味にほかならない。
///// 原著 1950年発行 ///

49 :
 
/// 栄光の追求 28 ///////////
 われわれは本書を通じて、この方向転換が人格全体の形成にどのような様々な影響を与えるかを
見るだろう。この転換のより直接的な効果は、自己理想化を純粋に内的な過程にとどめず、
その人の生活の全領域にそれを強要する点である。例えば、彼は自己を表現することを欲する、
というより、そうしなければならないように駆り立てられる。そして、今やそれは、彼が
理想化された自己を表現し、それを行動で証明したいと思うという意味である。
///// Neurosis and Human Growth ///

50 :
 
/// 栄光の追求 29 ///////////
彼の野心、目標、日常の行動、対人関係にまでも、それは浸透していく。このため、自己理想化が
いっそう包括的な大きな欲動に成長するのは避けられない。そこで、私はこの欲動に、その性質と
次元にふさわしい名を与えて、栄光の追求と呼ぶことを提案する。栄光の追求の中核部分には、
自己理想化があり、その他の部分として、完全性を求める欲求、神経症的野心、報復的勝利を
求める欲求があり、それらは個々の場合によってその強さやそれを意識する程度に違いはあるが、
常に存在しているのである。
///// Karen Horney ///

51 :
 
/// 栄光の追求 30 ///////////
 理想化された自己を現実化しようとする欲動のうちで、完全性を求める欲求が最も根本的な
ものである。その目的とするところは、まさに人格全体を理想化された自己につくり上げる
ことにある。バーナード・ショーの描いたピグマリオンのように、神経症者は、自分自身を
単に修正するだけでなく、心に描く理想像の特徴を具えた完全な姿に自分をつくり変えよう
とする。彼はいろいろな<べき>やタブーの複雑な体系によってこの目的を達成しようとする。
この過程は重要であると共に複雑なので、後に別の章で論じることにしたい。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

52 :
 
*** KAREN HORNEY **********
カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版
Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/
Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/
邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/
**** NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ***

53 :
 
/// 栄光の追求 31 ///////////
 栄光の追求を構成する要素のなかで、外から見て最も分りやすく、外向的なものは、神経症的野心
と呼ばれる、外的な成功を求める欲動である。現実の世界のなかで人に優越したいと思うこの欲動は、
生活全般に広がり、どんなことにも優越しようとするが、ふつうは、その時々に、その人が最も
優越しやすそうな事柄に強く向けられる。だから、一生のうちで野心の内容が何度も変わるのは
当然のことと言えよう。学校時代にクラスで最高点がとれないことを耐えがたい不名誉に思った人が、
長じると、やはり同じように、今度はいちばん好ましい女の子たちと最も数多くデートするように
駆り立てられる。また、もっと後になると、いちばんの金持ちや最も著名な政界人にならなければ
ならないという強迫観念をもつようになる。
///// アカデミア出版会 ///

54 :
 
/// 栄光の追求 32 ///////////
このように、その時々に野心を変更することは、ある種の自己欺瞞を生みやすい。ある時期に、
最も偉大なスポーツ選手や戦争の英雄になろうと固く心に決めていた人が、他の時期には、
やはり前と同じ熱心さで、今度は最も偉大な聖者になろうと決心する。この時、彼は自分が
野心を「失って」しまったのだと思い込んだり、自分は「ほんとうは」スポーツや戦争で
優越したいと思っていなかったのだというように考えるであろう。このようにして、彼は
自分が今でも野心というボートに乗って航海しており、ただコースを変更したにすぎない
ということに気づかない。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

55 :
 
/// 栄光の追求 33 ///////////
もちろん、その特定の時期に何が彼のコースを変更させたかについても、詳しく分析しなければ
ならないが、ここで特に野心の変更について強調するのは、野心がこのようにたびたび変わる
のを見れば、野心に取り憑かれている人と、その人がその時々に求めている野心の内容との
間にはほとんど関係がないことが分るからである。その人にとって重要なのは、優越すること
それ自体なのである。この二つのものの間に関係がないことを認めない限り、こうした
たび重なる野心の変更は理解できないものとなろう。
///////// 対馬忠監修 ///

56 :
 
/// 栄光の追求 34 ///////////
 この論述の目的からすれば、実際の野心がどんな活動領域に向かうかということはほとんど
興味がない。例えば、その向かう対象が地域の指導者になることであれ、最も素晴らしい弁論家に
なることであれ、音楽家や探検家として偉大な名声を博することであれ、「社交界」の花形に
なることであれ、最も優れた本を書くことであれ、ベスト・ドレッサーになることであれ、その
特質はすべて同じことである。ただ、どのような性質の成功を求めるかに応じて、その形は多くの
面で異なってくる。大別すると、どちらかと言えば、権力のカテゴリー(直接の権力、王座の陰の
権力、影響力、操縦力)に入るものと、威信のカテゴリー(名声、喝采、人気、賞賛、特別の注目)
に入るものとに分けられる。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

57 :
 
/// 栄光の追求 35 ///////////
 このような野心的欲動は、他と比較して言えば、自己拡張的欲動のうちで最も現実的なものである。
少なくとも、野心に取り憑かれている人々が、人より優越するために実際に努力するという意味では、
このことは正しい。また、この欲動をもつ人々が運良くその熱望する魅力や名声や影響力を実際に
獲得することもできるのであるから、それはなおいっそう現実的なものに思える。しかし、実際に
今までより多くの富や名声や権力を手に入れた時、この人々は自分の追求の空しさに完全に打ちのめ
される。彼らの心は以前と比べて安らぎも安定感も生きる喜びも少しも増していない。彼らは心の
悩みを癒すために栄光の幻を求めて出かけたのに、その悩みは以前と少しも変わらず、なおも深い
ものである。これがある特定の人にたまたま起こる偶然的な事柄ではなくて、必ず起こる避けがたい
ことであるから、成功の追求全体は本質的には非現実的なものであると言ってよかろう。
///// 神経症と人間的成長 ///

58 :
 
/// 栄光の追求 36 ///////////
 われわれは競争的な文化のなかに住んでいるので、このようなことを取り立てて言うことは、
奇妙に、また、何か浮世離れしているように聞こえるかもしれない。人は誰でも隣人より
抜きん出、優れたいと望むものであるという考えは、われわれ皆の心の奥深くにまで染み込んで
いるので、それは「当たり前」のことのように思われている。しかし、成功を求める強迫的欲動は、
競争的な文化のなかだけで起こるものであるからと言って、この欲動のもつ神経症的性格は
少しも変わるものではない。競争的な文化においても、競争して他人に抜きん出ることよりも、
それ以外の価値、とりわけ、人間として成長することの方が重要であると考えている人々も
多いのである。
///// 自己実現の闘い ///

59 :
 
/// 栄光の追求 37 ///////////
 栄光の追求のなかで最後に挙げる要素は、報復的勝利に向かう欲動で、他の要素よりも
いっそう破壊的な性質をもつ。この欲動はおそらく現実的な業績や成功を求める欲動と密接に
結びついているが、その主な目的は、自分が成功することによって、他人に恥をかかせたり、
他人を打ち負かしたりすること、あるいは、出世をすることによって権力を得て、他人に
苦しみを、しかも、たいていは屈辱的な苦しみを与えることである。他方、他人に優越したい
という欲動の方は空想のなかに追いやられ、この時報復的勝利を求める欲求が、主として
個人的な関係で他人の欲求を阻止し、人を出し抜き、打ち負かしたいという、しばしば抗しがたい、
ほとんど無意識的な衝動となって現われてくる。
///// 原著 1950年発行 ///

60 :
 
/// 栄光の追求 38 ///////////
私がこの欲動を「報復的」と呼ぶのは、この欲動を動機づけている力が、幼年期に受けた屈辱に
対して復讐したいという衝動から発しているからであり、この衝動はそれ以後の神経症的発達の
なかで強化されていくのである。おそらく、以後のこの強化によって、報復的勝利を求める欲求が、
やがてどのような仕方で栄光の追求の恒常的な構成要素となっていくかが決まるだろう。報復的
勝利を求める欲求の強さや、本人かそれをどの程度自覚しているかは、人によって非常に異なって
いる。たいていの人はこうした欲求を全然自覚していないか、ほんの瞬間的に気づくだけである。
しかし、時にはその欲求がはっきり現われ、ほとんど紛れもない人生の主要動機となる場合もある。
///// Neurosis and Human Growth ///

61 :
 
/// 栄光の追求 39 ///////////
最近の歴史上の人物のなかでも、ヒトラーは屈辱的な体験をして育ったため、ますます多くの
大衆を支配したいという狂気じみた欲望に全生涯を捧げた人の好い例であろう。彼の場合、
そこに悪循環が働き、この欲求をますますつのらせていったことがはっきりと分るのである。
悪循環を引き起こした理由の一つは、彼が勝利と敗北というカテゴリーでしか物事を考える
ことができなかったということである。そのため、彼は敗北するのではないかという恐怖から
逃れるために、常に、よりいっそうの勝利を求めなければならなかった。さらに、勝利を収める
たびごとに、彼の尊大の感情はますますつのり、どんな人、どんな国家といえども、自分の
偉大さを認めないようなことがあれば、それに我慢ができなくなっていったのである。
///// Karen Horney ///

62 :
 
/// 栄光の追求 40 ///////////
 規模は小さいが、これと同じようなことが多くの事例に見られる。最近の文学からのほんの
一例として、『汽車が通るのを見ていた男』という本の登場人物を挙げよう。彼は家庭生活でも、
事務所でも、従順で、もっぱら自分の義務を果たすことしか考えないような良心的な事務員
であった。ところが、自分の上役の不正行為がばれて、そのため会社が倒産した特、彼の
価値尺度は崩れてしまった。何をしても許されている上役と、正しい行為という狭い道しか
許されない自分のような下役との間にあった人為的な区別は崩れる。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

63 :
 
/// 栄光の追求 41 ///////////
彼は自分もまた「偉大」であり、「自由」であることができるのだ、自分も愛人を、上役の
あの非常に魅力的な愛人さえも、自分の女としてもつことができるのだと気づく。いまや
彼の自尊心は非常に高くなり、実際に彼女に近づき、拒絶されると、彼女を締め殺してしまう。
警察に追われた時、怖がる気持も時にはあったが、彼の心を占めるいちばんの動機は、
警察を打ち負かして、自分が勝ち誇ることであった。彼が自殺を試みたのも、それが最も
重要な動機となっていたのである。
///// アカデミア出版会 ///

64 :
 
/// 神経症的要求 42 ///////////
 私がここで問題にしたいのは、報復性は神経症的要求に必ずともなう要因ではないにしても、
よく起こる要因なのかどうかということである。もちろん、この報復性を自覚する程度は人に
より違うだろう。シャイロックの場合には意識されており、私に対して怒った患者の場合は、
ちょうど自覚されかかったところであったが、たいていは意識されていないことが多い。
私の経験では、神経症的要求には報復性が必ずともなうとは思わないが、それに出くわすことが
非常に多いので、私はいつもそれに気をつけることにしている。報復的勝利を求める欲求について
述べた箇所で既に触れたように、ほとんどの神経症に見られる報復性は、大部分が隠されては
いるがその量はかなり多い。例えば、要求が過去の欲求不満や苦しみと関連してなされる場合や、
好戦的な仕方でなされる場合や、要求が通れば勝利、阻止されれば敗北、という受け取り方を
している場合に、そこには確かに報復的要素が働いている。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

65 :
 
/// 栄光の追求 42 ///////////
 報復的勝利を求める欲動は表面に出ず、隠されている場合の方がはるかに多い。確かに
それは破壊的なので、栄光の追求のなかでは最も心の奥深くに隠された要素であり、おそらく
外面的には、かなり狂気じみた野心だけが見えるだろう。精神分析をして初めて、その野心の
背後に、他人の上位に立つことによって、彼らを打ち負かし、屈辱を与えたいという欲求が
その原動力として存在していることが分る。言ってみれば、人に優越したいという有害度の
少ない欲求が、報復という破壊性のより強い衝動を吸収するのである。このために、人は
自分の欲求を行動に表し、しかも、それを当然のことのように思うことができるのである。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

66 :
 
/// 栄光の追求 43 ///////////
 われわれは常に栄光の追求の具体的な構造を分析しなければならないのであるから、
そこに含まれている個々の傾向の特徴を知ることは、もちろん大切なことである。しかし、
このような個々の傾向を一つの統一性をもった全体の部分として見るのでなければ、
その性質も、他人への影響も十分に理解することはできない。アルフレッド・アドラーは、
栄光の追求を一つの包括的な現象とみなして、これが神経症において決定的な重要性を
もつことを指摘した最初の人である。
///////// 対馬忠監修 ///

67 :
 
/// 栄光の追求 44 ///////////
 栄光の追求が一つの包括的な、統一性のある存在であるという確かな証拠はいろいろある。
第一に、先に述べた個々の傾向の全部が、決まって一人の人に同時に現われることである。
もちろん、そのうちのどれか一つが特に目立っている場合、その人を野心的な人だとか、
夢想家だとか、大雑把に呼んでいる。しかし、ある要素が目立っているということは、
他の要素が存在していないということにはならない。野心的な人でも、自分自身について
壮大なイメージを描いて空想するだろうし、夢想家でも、現実的に覇権を握ることを望むだろう。
しかし、夢想家の場合には、こうした欲求は、ただ他人の成功によって、自分の誇りが
傷つくという形でしか現われなであろう。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

68 :
 
/// 栄光の追求 45 ///////////
 第二に、栄光の追求に含まれているそれぞれの傾向は相互に非常に密接に関連しているので、
その支配的傾向が一人の生涯の間に変わることがある。例えば、魅惑的な女性について
白昼夢にふける傾向から、完全な父親や雇い主になることへ、さらに、無類の素晴らしい
恋人になることへと、支配的傾向は変わるだろう。
 最後に、これらすべての傾向には共通して、二つの一般的特徴があり、二つ共、この現象
全体の起源と機能から見て理解できるものである。それは強迫的性格と空想的性格である。
これらについては既に言及したが、その意味について、さらに完全で簡潔な姿でとらえる
ことが望ましい。
///// 神経症と人間的成長 ///

69 :
 
/// 栄光の追求 46 ///////////
 これらの傾向の強迫的性格は、自己理想化(および、その結果発達する栄光の追求全体)が
一つの神経症的解決法であることから生じている。ある欲動が強迫的であるという時、それは
自発的な願望や努力と対立したものという意味である。自発的な願望や努力は真の自己の現われ
であり、強迫的欲動は神経症的構造の内的要請によって生じたものである。人は、不安を感じたり、
葛藤で心を引き裂かにれたり、罪の意識に打ちのめされたり、他人から拒絶されたと感じたり
しないために、自分の真の願望や感情や興味を無視して、この内的要請に従わなければならない。
///// 自己実現の闘い ///

70 :
 
/// 栄光の追求 47 ///////////
言い換えれば、自発的と強迫的との違いは、「私は……したい」と「私はある危険を避ける
ために……しなければならない」との違いである。彼は意識では、自分はただそうしたいから、
野心や完全さを求めるのだと思っているかもしれないが、実は、それを求めなければならない
ように、駆り立てられているのである。彼は栄光を求める欲求の虜となっている。彼自身が
自ら欲することと、駆り立てられることとの違いに気づかないのであれば、われわれがこの
二つのものを区別する規準を立てなければならない。強迫性の最も決定的な規準は、彼が
自分自身も自分の最上の利益も完全に無視して、栄光への道に駆り立てられるということ
である。(ここで私は十歳の野心的な少女が、クラスで一番になれないなら、盲目になった
方がましだと思った例を想い出す。)
///// 原著 1950年発行 ///

71 :
 
/// 栄光の追求 48 ///////////
栄光という祭壇に捧げられる人間の命は、文字通りにも比喩的にも、他のどんなことに捧げられる
よりも多いのではないかと思われるのももっともである。ジョン・ガブリエル・ボルクマンは、
自分が崇高と思う使命を実現することがはたして妥当であり、可能であるかに疑いをもち始めた
時に、死んでしまったが、ここには真に悲劇的な要素が入っている。もし、たいていの健康な
人々が、人類にとって価値があるので真に建設的だと認めることのできるような一つの主義主張の
ために身を捧げるならば、それは確かに悲劇的ではあるが、同時に意義のあることである。しかし、
もしわれわれが栄光の幻想に取り憑かれて、自分にも分らぬ理由のために自分の生を無駄にするなら、
それは救いがたいほどの悲劇的な浪費であり、その生が価値あるものを秘めていればいるほど、
なおいっそう悲劇的に思われる。
///// Neurosis and Human Growth ///

72 :
 
/// 栄光の追求 49 ///////////
 栄光を求める欲動の強迫的性格のもう一つの規準は、他の強迫的欲動の場合と同じく、それが
見境がないという点である。ある仕事に対して自分が真に興味をもっているかどうかは重要では
なくなり、その状況にふさわしいかどうか、また、自分に具わっている性質から見て第一人者に
なることができるかどうかを考えずに、ともかく自分は注目の中心になり、最も魅力的で、最も
知的で、最も独創的でなければならないのである。彼は真埋がどこにあるかを無視して、どんな
議論においても、何としても勝利を収めなければならない。この種の考え方は、ソクラテスの
「われわれは今、私の意見か君の意見かそのどちらかが勝つために議論しているのではない。
われわれの二人共が、真理のために争っているのでなければならないと思う」という考え方と
正反対のものである。神経症者は、何の見境もなく、ただ最上のものでありたいという欲求の
この強迫的性格のために、それが自分自身、他人、事実、のいずれに関するものであっても、
およそ真理に対して無関心になるのである。
///// Karen Horney ///

73 :
 
/// 栄光の追求 50 ///////////
 さらに、栄光の追求は、他の強迫的欲動と同じく、飽くことを知らないという性質をもつ。
自分にも分らない力によって駆り立てられている限り、この性質がどうしても働く。彼は
自分の仕事が好評を得たり、勝利を収めたり、人から何らかの承認や賞賛を受けたりすると、
得意になって喜ぶが、その喜びは長続きしない。成功しても、それを成功と思わなかったり、
たとえ成功と思っても、すぐその後に失望や恐怖が必ず起こってきたりする。いずれにしても、
彼はさらに多くの威信や富や女性や勝利や征服を追い求めて、飽くことを知らない。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

74 :
 
/// 栄光の追求 51 ///////////
 最後に、ある欲動の強迫的性格は、その欲動が阻止された特に起こる反応に現われる。その
欲動が主観的に重要であればあるほど、目指すものを手に入れたいという欲求はいっそう強制力を
もち、そのため、欲求が阻止された時の反応はいっそう激しいものとなる。だから、この反応は、
逆に、欲動の強さを測る一つの物差しになる。栄光の追求はいつも外からはっきり見えるわけでは
ないが、きわめて強い欲動である。それは、悪魔的な強迫観念に似て、人間によって創造されながら、
人間を飲み込む怪物のようなものである。そのため、この欲求が阻止された時の反応はきわめて
激しいものとならざるをえない。
///// アカデミア出版会 ///

75 :
 
/// 栄光の追求 52 ///////////
この反応は、多くの人々が失敗したと思う時に感じる破滅や不名誉に対する恐怖の形をとって
現われる。すなわち、「失敗」したと思う時には恐慌状態、抑うつ状態、失望、自分や他人に
対する怒りなどの反応がしばしば生じる。そして、これらの反応は、原因となった出来事の実際の
重要さからみて、まったく釣り合いのとれないほど激しいものとなる。高所から落ちるという
恐怖は、彼が幻想する尊大の高みから落ちはしまいかという恐怖の現われとしてよく起こる。
ある高所恐怖症患者の見た夢について考えてみよう。この恐怖が起こったのは、彼がそれまで
一度も疑ったことのなかった自己の優越性に対する確信が揺らぎ始めた時であった。彼は夢の
なかで、山頂におり、危うく落ちそうになって尾根に必死にしがみついていた。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

76 :
 
/// 栄光の追求 53 ///////////
そして、「これ以上高く上ることはできない。私がしなければならないことは、一生の間、
ただここにしがみついていることだ」と言った。これは、意識的には、自分の社会的地位の
ことを言っているのであるが、もっと深い意味では、「私はもうこれ以上高く上ることはで
きない」というのは、自分について描いている彼の幻想のことを言っているのである。
幻想のなかの彼は、神のような全能と全宇宙的な重要性をもっている(と思っている)ので、
もうそれ以上の高みに上ることはできなかったのだろう。
///////// 対馬忠監修 ///

77 :
 
/// 栄光の追求 54 ///////////
 栄光の追求の要素のすべてに具わる第二の特徴は、空想が果たしている非常に大きな、特別な
役割である。空想は自己理想化過程では道具的なものである。しかし、これは非常に決定的な
要因なので、栄光の追求全体が幻想的な要素によって浸透されざるをえない。人は自分が現実的
であることをどんなに誇り、また、成功や勝利や完全性に向かってどんなに現実的に進んでいても、
空想は常に彼につきまとい、幻想を現実と取り違えさせる。人は自分自身については非現実的
でありながら、自分以外のことで完全に現実的であるということは絶対にありえない。疲れと
渇きの苦しみにさいなまれながら砂漠をさすらう人が蜃気楼を見る時、彼はそれにたどり着く
ために現実的な努力をするだろう。しかし、彼の苦しみを終わらせてくれるはずのその蜃気楼
――栄光――は、それ自体が空想の産物なのである。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

78 :
 
/// 栄光の追求 55 ///////////
 実は、空想は健康な人のあらゆる心理的、精神的機能のなかにも行き渡っている。われわれが
友達の悲しみや喜びに共感をもつことができるのも、空想によってであり、われわれが欲し、
望み、恐れ、信じ、計画することができるのも、空想がわれわれに様々な可能性を示してくれる
からである。しかし、空想は生産的にも、非生産的にもなることができる。つまり、それは、
夢のなかでよく起こるように、われわれを自分の真の姿に近づけることも、それから引き離す
こともできるし、また、われわれの現実の経験を豊かにも、貧しくもすることができる。そして、
こうした相反する二つの結果の違いが、神経症的な人の空想と健康な人の空想とを大まかに
区別するものである。
///// 神経症と人間的成長 ///

79 :
 
/// 栄光の追求 56 ///////////
 多くの神経症者が繰り広げる壮大な計画や、彼らの自己賛美や要求のもつ幻想的な性質を
考えると、この人々には他の人より空想という素晴らしい才能が豊かに具わっており、まさに
そのために、この人々のなかで空想があちこちにさ迷いやすいのだと信じたくなるかもしれない。
しかし、この考えは私の経験では証明されない。生まれつきの空想の豊かさについては、健康な
人の間でも差があるように、神経症者の間でも差がある。しかし、神経症者それ自体がそうでない
人々と比べて、生まれつき空想力がより豊かであるという証拠は何も見出されない。
///// 自己実現の闘い ///

80 :
 
/// 栄光の追求 57 ///////////
 神経症者が生来、空想力が豊かであるとするこの考え方は、正確な観察に基づいているが、
そこから誤った結論を引き出したものと言えよう。空想は神経症では、健康な人の場合よりも
ずっと重要な役割を果たしていることは事実である。しかし、それは構成要素としてではなく、
その働きの点で重要なのである。空想は神経症者においても、健康な人においても等しく働いて
いるが、神経症者の場合、空想は、そのうえに、ふつうしないような働きまで引き受けている。
つまり、神経症的欲求に奉仕しているのである。このことは、われわれも知っているように、
栄光の追求という強い欲求の影響力によって突き動かされている場合には、特にはっきりと
見られる。
///// 原著 1950年発行 ///

81 :
 
/// 栄光の追求 58 ///////////
精神医学の文献では、空想による現実歪曲は、「希望的思考」として知られている。この用語は
今では十分確立されてはいるが、それにもかかわらず、正確でないように思われる。この語の
含意するところがあまりに狭すぎるからである。正確な用語は、思考だけでなく、「希望的な」
観察も、信念も、そして特に感情も含むものでなければならないだろう。さらに、ここで思考
――あるいは感情――を規定するものは、希望ではなく、欲求である。そして、まさにこの
欲求の影響によって、空想は神経症において示すようなあの固執性と力を与えられ、また、
いろいろな結果を生み出し、そして非建設的なものになるのである。
///// Neurosis and Human Growth ///

82 :
 
/// 栄光の追求 59 ///////////
 空想が栄光の追求のなかで果たす役割は、白昼夢において、紛れもなく、しかも直接的な
形で示される。十代の人の白昼夢はあからさまに壮大な性格をもっている。例えば、臆病で
引っ込み思案な性格の大学生でも、最も偉大なスポーツマンや天才やドン・ファンになることを
夢見る。もっと年長者の場合には、ボヴァリー夫人のように、ほとんどいつもロマンチックな
経験や神秘的な完全さや不可思議な神聖さについて白昼夢にふける。これらの夢は時には
空想的な会話の形をとり、そこで他の人々を感動させたり、恥をかかせたりする。もっと複雑な
構造をもった白昼夢になると、残虐と堕落に身をさらすことで、屈辱的な、あるいは、崇高な
苦悩を味わうといったものがある。白昼夢は精巧な筋道をもった物語ではなく、むしろ、
日常生活に合わせて奏でる幻想的な伴奏のような場合が多い。
///// Karen Horney ///

83 :
 
/// 栄光の追求 60 ///////////
女性の場合は、自分の子どもたちの世話をしたり、ピアノを弾いたり、髪をくしけずったり
しながら、同時に、自分が映画のなかのやさしい母親やうっとりしながら演奏するピアニストや
魅惑的な美人になったような気分になるだろう。いくつかの事例では、このような白昼夢は、
例えばウォルター・ミッティのように、一人の人が絶えず二つの世界に住むことができることを
はっきりと示している。また、同じく栄光の追求にふける他の人々の例では、白昼夢は非常に
稀で、途中で消えてしまうために、自分たちはどんな幻想的な生活ももっていないと、主観的には
まったく正直にそう言うことがある。言うまでもなく、それは間違っている。たとえ人々が
自分に降りかかるかもしれない不幸を心配しているだけにしても、そうした心配事を心に思い
浮かべることができるのは、結局、空想力によるわけである。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

84 :
 
/// 神経症的要求 61 ///////////
 要求を正当化し、主張するために、全エネルギーが注がれることを思えば、要求が阻止された
時の激しい反応は当然予期されなければならない。その反応の底流には恐怖があるのだが、
一般に支配している反応は怒りであり、激怒の場合さえある。この怒りは特別な性質のもの
である。というのも、要求は主観的には公正なものと思われているので、それを阻止することは
不当であり、不正であるというように受け取られているからである。そのために、そこから
生じる怒りは義憤という性格をもっている。言い換えると、人は怒りを感じるだけでなく、
怒る権利があると思っている。そして、この感情は精神分析の時に非常に強く擁護される。
///// アカデミア出版会 ///

85 :
 
/// 栄光の追求 61 ///////////
 しかし、白昼夢は、それが起こる時は重要で啓示的であるが、空想の働きのうちで最も有害な
ものというわけではない。なぜなら、人はたいてい自分が今白昼夢を見ていることを知っている
からである。つまり、今自分が空想していることは、その通りに実際に起こったことがなく、
またこれからも起こらないであろうということを知っているのである。少なくとも、自分が今
白昼夢を見ているということや、白昼夢の非現実的な性質に気づくことは、本人にはそれほど
むずかしいことではない。空想がもっと有害に作用するのは、本人が意識せずに現実を巧妙に広く
歪曲している場合である。理想化された自己はただ一度の創造の行為で完成されるものではない。
///// アカデミア出版会 ///

86 :
 
/// 栄光の追求 62 ///////////
それは一度つくられると、絶えず注意を払わなければならないものである。人は理想化された
自己を現実化するためには、現実の歪曲を絶えず続けなければならない。自分の欲求は、美徳
または、その欲求から当然期待されるものより以上のものに変えられなければならない。
正直であろう、思慮深くなろうという意図は、正直であり、思慮深いという事実に置き換えられ
なければならない。論文のために気のきいた考えを思いつくだけで、彼は大学者ということになり、
彼が潜在能力をもっていることは、実際に業績を上げたことを意味する。「正しい」道徳的価値
について知識をもっていることで、彼は有徳の士に――しばしば一種の道徳的な天才になる。
そして、もちろんそれを妨害するあらゆる反証を退けるために、彼の空想は絶えず働かねば
ならない。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

87 :
 
/// 栄光の追求 63 ///////////
 空想はまた、神経症者の信念を変える働きをもっている。例えば、彼が他の人々を素晴らしい
人とか、悪い人とか信じる必要が生じる。すると、その人々はちゃんと慈悲深い人々、あるいは
危険な人々として彼の目に映ってくる。空想はまた彼の感情を変える。例えば、彼は自分が
不死身であると感じる必要がある。すると現に彼の空想は痛みや苦しみをぬぐい去るだけの
力をもってくる。また、深い感情――信頼、同情、愛、苦しみ――をもつ必要が生じると、
彼の同情や苦しみやその他の感情は大きく膨れ上がってくる。
 空想が栄光の追求のために用いられる際に行なう、心の内外の世界の現実歪曲を見る時、
われわれには気がかりな疑問が生じる。神経症の空想はいったいどこまで飛翔していくので
あろうか? 
///////// 対馬忠監修 ///

88 :
 
/// 栄光の追求 64 ///////////
結局、彼は現実感覚を完全に失ってしまうことはない。それでは、神経症者を精神病者から
区別する境界線はとこに引かれるのか? 空想力の働きという点て両者の間に何らかの境界線が
あるにしても、それははっきりしたものではない。ただ言えることは、精神病者がもっぱら
心のなかの過程だけを唯一の大切な現実とみなす傾向が強いのに対して、神経症者はどんな
理由のためにせよ、外界や外界のなかでの自分の占める位置にかなりの関心をもっていて、
そのために、外界に対してだいたいの適応ができるということである。しかし、一方では、
ちゃんと地上にとどまり、あまり混乱のないような生活をしていても、他方では、彼の空想は
どこまでも飛翔し、とどまるところを知らない。事実、空想が幻想となり、無限の可能性の
世界へと入っていくのが、栄光の追求の最も顕著な特徴である。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

89 :
 
/// 栄光の追求 65 ///////////
 栄光を求める欲動のすべてに共通していることは、人間に与えられている以上の知識、知恵、
徳、力を得ようとするところにある。これらの欲動はすべて絶対的なもの、無限のもの、無窮の
ものを得ることを目指している。絶対的な豪胆さ、支配力、高潔さを少しでも欠いているものは、
栄光を求める欲動に取り憑かれている神経症者には何の魅力もない。それゆえ、神経症者は
真に宗教的な人とは正反対の人である。つまり、宗教的な人は、あらゆることが可能なのは
神だけであると考えるのに対して、神経症者は、私には不可能なことはないと考える。彼の
意志力は魔術的な強さをもち、推理は絶対に誤謬がなく、洞察力は完全無欠で、知識はすべてを
包摂するものでなければならない。ここで、悪魔の契約という、本書に一貫したテーマが現われ
始める。神経症者は多くを知るだけでは満足せず、すべてを知り尽くさなければならない
ファウストなのである。
///// 神経症と人間的成長 ///

90 :
 
/// 栄光の追求 66 ///////////
 このように、神経症者が無限のなかに飛翔していくのは、栄光を求める欲動の背後にある
欲求の力によるものである。絶対的なもの、終局的なものを得ようとする欲求は非常に強く、
そのために、ふつうわれわれの空想を現実から遊離しないようにつなぎ止めている歯止めを
無視してしまう。人がうまく適応していくためには、可能性を予見し、無限性を見通すことと、
自分の限界や不可避なものや具体的なものについてよく認識することと、その両方が必要である。
もし人の思考や感情が主として無限性や可能性を空想する方にだけ向けられるなら、彼は
具体的なものや、今、ここ、といった時空に関する感覚を失ってしまう。つまり、彼は現在に
生きる能力を失うのである。彼はもはや自分のなかの必然性、すなわち、「人間の限界と
呼ばれるもの」に従うことができなくなる。何かを成し遂げるためには、現実に何が必要なのかが
彼には見えなくなる。
///// 自己実現の闘い ///

91 :
 
/// 栄光の追求 67 ///////////
「どのような些細な可能性でも、現実のものになるためには、いくらかの時間がかかるであろうに。」
彼の思考はあまりにも抽象的にすぎ、彼の知識は「一種の超人間的なものとなって、それをつくり
出すためには、ピラミッドの建設に人力が費やされたと同じくらいに彼の自己が浪費されることに
なろう」し、彼の対人感情は蒸発して、「人間性に対する抽象的な感傷」になってしまうであろう。
他方、もし具体的なもの、必然的なもの、限りあるものという狭い地平にとどまり、それを超えた
彼方を見ない場合には、人は「狭量で低俗な精神の持ち主」となる。それゆえ、もし人が成長を
望むなら、問題なのは、この二つの道のいずれを選ぶかではなく、この二つを両立させることである。
限界や掟や必然性を十分認識することは、無限性のなかに連れ去られたり、単に「可能性のなかで
もがいたり」しないようにするための一つの歯止めとして役立つのである。
///// 原著 1950年発行 ///

92 :
 
/// 栄光の追求 68 ///////////
 栄光を追求している人においては、空想に対する抑制が正しく働かない。それは、この人々が
必然性を認め、それに従うことが一般にできないという意味ではない。神経症的傾向がさらに
ある特殊な方向に発達すれば、多くの人は、自分の生活を制限する方が安全であると感じ、
幻想の世界に連れ去られそうになると、それを危険で、避けなければならないものと考えるだろう。
彼らは自分にとって幻想的に見えるものには心を閉ざし、抽象的な思考を嫌い、不安のあまり、
目に見えるもの、手で触れることができるもの、具体的なもの、すぐに役立つものだけにしがみつく。
しかし、これらの事柄に対する意識的な態度は様々であっても、どの神経症者も心の底では、
自分に期待できることや自分が獲得できると信じているものに限界があることを認めたがらない
のである。自分の理想像を現実化したいという欲求は非常に切実なものなので、それを抑制する
ものを不当なもの、存在しないものとして押しのけなければならなくなる。
///// Neurosis and Human Growth ///

93 :
 
/// 栄光の追求 69 ///////////
 非合理な空想がいっそう優勢になっていくにつれ、彼はますます、現実的なもの、限りあるもの、
具体的なもの、終わりのあるものを積極的に恐れるようになる。彼は時間を嫌うようになる。
時間は限りのあるものだから。金銭を嫌う。それは具体的なものだから。死を嫌う。それは
終局的なものだから。しかし、彼はまたはっきりした希望や意見をもつことを嫌い、そのため、
明確な約束や決定をすることを避ける。例えば、月光のなかで鬼火が踊っているという妄想を
抱いていた患者は、鏡を見ることを恐れるようになった。それは、鏡のなかに自分の欠点を
見出すかもしれないと恐れたからではなく、自分が一定の輪郭をもち、実体があり、「具体的な
肉体の形に縛られている」ことを鏡で知ったからである。彼女は、自分の姿が羽根を板に釘付けに
された一羽の鳥のように思えた。そして、こうした感情が意識に上った時、鏡を壊したい衝動に
駆られた。
///// Karen Horney ///

94 :
 
/// 栄光の追求 70 ///////////
 もちろん、神経症の発達はいつもこのような極端な形をとるわけではない。しかし、どの
神経症者も、たとえ表面的には健康な人として通っていても、自分自身について抱いている
独特の幻想に関しては、現実の証拠と照らし合わせることを嫌がる。というのも、もし証拠と
付き合わせれば、その幻想が壊れてしまうからである。外部の法律や規則に対する態度は
様々であるが、彼は自分自身の内部に働く法則を常に否定しようとし、心理的な事象の因果関係の
不可避性を、つまり、ある要因は必ず他の要因の結果として起こり、あるいは、他の要因を
強化するという事実を認めることを拒む。
///// The Struggle Toward Self-Realization ///

95 :
 
/// 栄光の追求 71 ///////////
 自分の見たくない証拠は無視するというやり方は無数にある。彼は忘れてしまったり、
次のように自分に言い聞かせたりする。――それは大したことではない、それは偶然だったのだ、
それは環境のせいだ、他の人々が扇動したのだ、それは「当然のこと」で、そうせざるを
えなかったのだ、というようにである。彼は不正直な帳簿係のように、ついには二重帳簿を
もつようになる。しかし、不正直な帳簿係と違って、彼は都合の好い方だけを自分自身の
ものだと言い、都合の悪い方は知らないことにする。『ハーヴェイ』のなかで「二十年間、
私は現実と闘い、ついにそれに打ち勝った」と述べられているような、現実への明らかな
抵抗を感じなかった患者を私は知らない。再び、ある患者の古典的な表現を引用すれば、
「もし現実さえなければ、私はまったく何ともないのに」。
///// アカデミア出版会 ///

96 :
 
/// 栄光の追求 72 ///////////
 ここで栄光の追求と健康な人の努力との違いをさらに明確にする仕事が残っている。両者は
表面上は見間違えるほどよく似ているので、その違いはただ程度の差だけのように見える。
神経症者は、健康な人と比べていっそう野心的で、権力や威信や成功に対する関心がいっそう
強いだけのように見える。また、ふつうの人と比べて彼の道徳水準が高く、厳格で、また、
自惚れや自分自身を偉いと思う程度がより強いだけのように見える。確かに、誰もこの両者の
間にはっきりと一線を引いて、「ここまでが健康な人で、ここからが神経症の人だ」と言う
ことはできないであろう。
 健康な人の努力と神経症的欲動との間に似たところがあるのは、それらが共に人間にだけ
具わる能力から生じているためである。人間は精神の力によって自分自身を超えたところに
到達する能力をもっている。他の動物と違って、人は空想し、計画することができる。
///// 邦訳 1986年10月発行 ///

97 :
 
/// 栄光の追求 73 ///////////
また、多くの仕方で自分の能力をしだいに拡大することができ、また、歴史に見られるように、
事実、拡大してきた。同じことが個人の人生についても言えるのであって、彼が自分の人生を
どうつくり上げるか、どんな性質や能力を発達させるか、どんなものを創造することができるか
については、一定の動かせない限界というものはない。こうした事実を考えれば、人が自分の
限界について不確かであり、そのために、自分の目標をあまりに高く、あるいは、あまりに低く
置きやすいことは避けられないように思われる。このように、限界が不確かであることこそ、
栄光の追求が発達する基礎となるものであって、そのことがなければ、おそらく栄光の追求は
発達することができなかったであろう。
///////// 対馬忠監修 ///

98 :
 
/// 栄光の追求 74 ///////////
 健康な人の努力と神経症的欲動との間の根本的な違いは、それぞれを推進する力の違いにある。
健康な人の努力は、自分に与えられた可能性を発達させるという、人間に生まれつき具わっている
傾向から生じる。成長したいという生来の衝動に信頼を置くことは、われわれの理論的、治療的
研究が常にとってきた基本的立場であった。そして、この信念は、それ以後次々に新しいことを
経験すると共に、ますます深まってきている。これからすることと言えば、もっと精密な公式化の
方向に変えるだけである。今ここで私が言いたいのは(本書の最初のところで述べたように)、
人を自己実現に向かって駆り立てるのは、真の自己のもつ活力であるということである。
///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///

99 :
/// 栄光の追求 75 ///////////
 他方、栄光の追求は理想化された自己を現実化しようとする欲求から生じる。これこそ、
健康な人の努力との間の根本的な違いである。というのも、この違いから、他のすべての
相違が生じているからである。自己理想化はそれ自体神経症的な一つの解決法であり、
だからこそ強迫的性格をもつので、自己理想化から起こるすべての欲動も当然強迫的なものと
なる。神経症者は、自分自身について描く幻想に執着しなければならない以上、限界を認める
ことができないから、栄光の追求は無限の世界へと進んでいく。彼の主な目的は栄光を得ること
であるから、彼は一歩一歩学習し、行動し、獲得していく過程には興味を失い、実際にその
過程を軽蔑するようになる。彼は山に登ることを欲しないで、頂上に立つことを望む。
///// 神経症と人間的成長 ///

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