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2013年17世界史254: ムガル帝国最強じゃね? (145)
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ムガル帝国最強じゃね?
- 1 :2010/12/12 〜 最終レス :2013/08/18
- ヨーロッパを震撼させたオスマンをなんなく破ったムガル帝国って当時最強じゃね?
- 2 :
- オスマンって弱小オーストリアや後進ロシアにボコスカにやられたイメージしかないが
イギリスじゃないだけましだったのだな
- 3 :
- ナーディルシャーにふるぼっこにされたインド歴代王朝最弱の間違いだろ
- 4 :
- >>1
バーブルのグルカーニー王朝、いわゆるムガール帝国は
オスマン帝国と直接対決したことはないんだが?
- 5 :
- イラン高原はどこへ消滅したんだ
- 6 :
- >>4-5
そうだね。ムガル帝国はオスマン帝国と直接戦った事は1度も無かったね。
両国の間のイラン高原に存在したサファヴィー朝とは、
オスマン帝国もムガル帝国も、どっちもにしばしば戦ってたけど。
- 7 :
- >>6
誤字訂正。
誤)オスマン帝国もムガル帝国も、どっちもにしばしば戦ってたけど。
オスマン帝国もムガル帝国も、どっちもしばしば戦ってたけど。
- 8 :
- 今頃>>1は顔が真っ赤になってしばらく来ないだろうなw
- 9 :
- ムガールの前身のティムール帝国のことでしょ。
バーブルはティムールの男系子孫だから[>>1]もあながち
間違ってないじゃない?
- 10 :
- >>9
なるほど、確かにティムール帝国とムガル帝国を1つの国と考えれば、
アンカラの戦いの時にオスマン帝国を破ってるから>>1の主張も間違いではないね。
- 11 :
- ムガル帝国をグルカーニー朝、つまりアミール・ティムール・
キュレゲンの子孫の王朝ということはあるが
逆にティムール朝をムガール帝国というのは聞いたことがない。
- 12 :
- >>11
まぁ、普通は後に出来たものをそれに先立つものの呼称としては使わないからね。
でも、ムガル帝国とティムール帝国を連続した1つの国家だと考える人自体は結構いるよ。
- 13 :
- ティムール帝国とムガル帝国の正式な国号って何なの?
- 14 :
- >>13
ムガル帝国はペルシャ語で「婿殿の王朝」という意味で「グルカーニー朝」と、
自称してたらしいけど、ティムール帝国の自称は何だったかは知らないや。
- 15 :
- >>9
何と、ではティムール帝国はイギリスに滅ぼされたのか
しかしオスマンは属国にして延命させたのにティムールは容赦なく滅亡とは
この差はやはりティムール帝国の方がオスマンよりずっと脅威だったからだろうな
- 16 :
- ティムール帝国もグルカーニー朝。
- 17 :
- オスマンはロシアの南下政策に対するため延命された。
- 18 :
- >>16
なるほど、正式な国号はどっちも同じなのか。ティムール帝国とムガル帝国を、
1つの連続した同じ国家として、認識する人がいるのも頷けるね。
- 19 :
- 遼と西遼との関係に近いように思う。
支配者は連続性を有するが、支配地域の実態は別の国。
上をみれば同じ国、下をみれば別の国。
- 20 :
- ウマイヤ朝と後ウマイヤ朝もそれか。
亡命先を実行支配した政権と言える。
よってムガル帝国はグルカーニ亡命政権。
- 21 :
- アウラングゼーブ帝がやばいと思った時はすでに手遅れであった・・・・。
- 22 :
- >>21
ジャハーンさんの浪費もあるけど、一番の要因は
アウラングゼーブの他教弾圧・ジズヤ復活による叛乱の続発だろ。
おとなしく兄ちゃん立てとけばよかったんだよ。
- 23 :
- >>22
それと、アウラングゼーブの場合は無理な領土拡張も衰退の一因かな。
下手に領土拡張しても、財政を圧迫する上に敵対勢力を増やす事になるから、
長期的にみれば、逆効果にしかならないという典型的な事例だからねぇ。
しかもアクバルと違って併合した地域に対して融和政策をあまりとらなかったし。
- 24 :
- アウラングゼーブの場合は南方の戦線につきっきりになってたのも良くなかったらしい。
伝統的にムガル皇帝はデリーやアーグラにすら長居せず、宮廷や官僚機構ごと
広大な領土を巡回しながら統治していた。
- 25 :
- >>24
確かにアラングゼーブは無理に南インドのほうへ拡大しようとする傾向があったね。
それほど、南インドが魅力的だったという事なのかな。主に海上貿易において。
まぁ、結局その事に無理に拘った結果が、ムガル帝国の衰退を招いたんだけどね。
- 26 :
- アウラングゼーブの時代はもうイギリスが南インドに来てるからな
本来拡張よりヨーロッパの先進文化吸収に勤めるべきだった
- 27 :
- ムガル帝国の文化を見ると、キリスト教宣教師がもたらした銅版画の
遠近法や陰影法がムガル絵画の写実性の発展に貢献したが、西洋の
活版印刷術には関心がはらわれず、豪華な写本から知識を得るのは
一握りのムガル支配層に限られていた。
他にムガル帝国の文化に与えた西洋の影響というのはある?
- 28 :
- だがちょっと待って欲しい、ムガル帝国が世界最強レベルだった時期はあるのではないだろうか。
17世紀前半あたりなら世界最強クラスに入れても良いと思います!
- 29 :
- デリー劫略を許したのと、指導力もないのにセポイの叛乱に乗ったのは痛いよなぁ。
せっかくの貴重な文化遺産が。地上の天国とまで豪語した宮廷が台無しに。
- 30 :
- >>28
17世紀前半のムガル帝国というとシャー・ジャハーンの時代か。
まぁ、確かにこの時代だったら、ムガル帝国の最盛期だし、
世界的にみてもそれなりに上位の位置にいただろうね。
>>29
もうその時代はムガル帝国は衰退しきってたしね。
デリーなんか、その前にもイランに占領されてたし。
- 31 :
- >>24
遊牧民の伝統かな。
イランのカージャール朝のシャーも、三代目までは移動生活を送っていた。
- 32 :
- >>28
スペインの艦隊に蹴散らされて終わりだろ
コンキスタドールに征服されるぞ
- 33 :
- >>31
ムガル帝国の前身であるティムール帝国も、
歴代君主は宮殿に留まらず移動を続けてたね。
>>32
そうかな?同時代のポルトガルはインドの、
沿岸部ぐらいしか支配できてないし、文明に、
開きのあった新大陸の帝国ならともかく、
結構発展してたムガル帝国を遠洋航海の、
果てに征服するのは当時のスペインには、
多分、結構きついんじゃないかな。
- 34 :
- 一気呵成に占領しようとするスペインには無理。
イギリスみたいに藩王国や帝国の争いに便乗して200年かけて
ジワジワと印度を支配していく手法が一番賢い。
- 35 :
- それと、スペインが印度に手を出さなかった理由は、トルデシリャス条約の制約があるからな。子午線にそって東側がポルドガル、西側がスペインと
パーテーション切ったから。
- 36 :
- >>35
うん、それは知ってる。だから、IFとしてその条約関係なしに、
スペインがインドに進出してたら、ムガル帝国を征服できたのか、
という事でしょ。まぁ、多分無理だったとは思うけど。
- 37 :
- スペイン人がムガルの高官の前で「故国の軍隊ではこれで騎兵を防ぎます」
とパイク兵の槍の使い方を実演したら高官は大笑いして
「あなたの国には本当は騎兵なんていないんだろう」といったそうだ。
- 38 :
- パイク兵は運用が難しく、トーシロには使いこなせない。
- 39 :
- ムガル帝国ってモンゴル帝国って意味なんだし、騎兵と言えば弓騎兵だったんじゃね?
「槍で弓矢が防げるかよwwwww」って。
- 40 :
- >>37
こりゃダメだ
ムガルは本当にトルデシリャスに感謝だな
来たのがポルトガルとイギリスだから19世紀まで長らえただけじゃんか
- 41 :
- フランスもきてるで
- 42 :
- ムガル帝国は過大評価だったんだ
あやうくへんなヤツの戯言信じそうになった
- 43 :
- ttp://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010427.html
インドでは15世紀の後半までには既に火器が使用されていたが、
火器が恒常的に使用されるようになったのは、16世紀はじめの
ムガル帝国侵入以後である。
ムガル帝国の軍隊では、大砲と銃手は前衛に配置され、荷車や土塁で
構築した陣地に拠って射撃を行う。そして騎兵は、翼から、敵側背へと
迂回攻撃をかけた。象は、背が高くて射撃の的になりやすく、轟音や
負傷によって容易に混乱、暴走するという性質があるため、火器の
使用以後はその重要性を著しく低下させた。もはや象部隊は、敵に
打撃を与えることはほとんど期待されておらず、戦闘では後方に
留め置かれた。この時代の象部隊に与えられた主な役割は、外見に
よって敵を威圧することであり、苦戦に陥った味方を救援する場合
にのみ、戦闘に参加させられた。
ところで、ムガル帝国軍は火器を活用したといっても、歩兵は、
それ以前の時代と同様、数は多いが極めて弱体で、しかも火器の操作を
トルコ人やヨーロッパ人など外国人に頼ることが多った。あくまで
主力は騎兵のままであり、ムガル帝国軍が、火器の威力を最大限に
引き出せる強力な歩兵軍へと、成長していくことはなかったのである。
- 44 :
- <近世後期;イギリスの侵略>
ムガル帝国は、支配を拡大していく中、南インドで激しい抵抗に会う
ようになり、泥沼の闘争に引き込まれて国力を消耗、18世紀に
はいって急速に衰え、インドは地方政権の割拠する無政府状態に陥る。
このような情勢下、フランスとイギリスが、盛んにインド進出を図る
ようになっていったが、火器の威力を最大限に活用するヨーロッパ式の
歩兵軍はインドの軍隊を圧倒、イギリスはインド内に強固な足場を築く
ことに成功した。
その後インドは、ヨーロッパ式の軍事技術を十分に学び取ることが
できぬまま、19世紀をむかえる。そして、近代の幕を開けたイギリス
によって、一挙に全土を征服されることになった。
- 45 :
- 末期の帝国では、皇帝の玉座が鳩の糞で汚れていたらしいな。
どこの国だったか忘れたが、外国使節が謁見の際に目撃している。
玉座を掃除しようとする人もいないほど落ちぶれていた。
- 46 :
- >>39
ていうか、インドって根本的に馬の数が少ないよね。
騎兵もなくはないけど、象のほうが使えたらしいし。
- 47 :
- ムガル朝はその出身からして遊牧民系の王朝だから、騎兵にこだわりがあったんだろう。
ただ、中央アジアならともかく、インド亜大陸では馬は使いにくかっただろうな。
- 48 :
- >>47
山崎元一先生辺りが「インドでは気候的に馬の飼育がしにくい」と、
言ってた気がする。実際、ムガル帝国も馬より象のほうを活用してたし。
- 49 :
- 1191年と1192年に、ゴール朝とラージプート諸王の連合軍との間で戦われた
タラーインの戦いでは、ゴール朝のほうが、中央アジアとの連絡があった点で、
インド側よりも多くの騎馬を供給できたらすぃ。
また、ゴール朝の故地ゴール地方は鉱山資源の豊かな所で、武器、鎖帷子の
生産で有名だった。そのためゴール朝はガズナ朝などよりもインド遠征のために
多くの武器供給が可能だったと考えられている。
- 50 :
- >>49
なるほど。インドって、イスラーム政権に限らず他所から来る、
王朝は基本的に騎馬の力で征服してる場合が多いからね。
ラージプート族だって、元は騎馬民族の可能性が高いらしいし。
- 51 :
- >>40
しかしそのエピソードを紹介している
インドの近世軍事史の専門家Gommansによると
インドにおいてヨーロッパ型の軍隊が優位になったのは
銃剣、フリントロック銃、洗練された歩兵操練などが出揃った
17世紀末ぐらいのことで、パイク&ショットぐらいでは
旧来の軍制を変えるほどのインパクトはなかったらしい。
- 52 :
- その時代だとインドにヨーロッパ兵はほとんどいなかったと思うけどね
18世紀の時点でもインドの仏英の戦いで英軍900、仏軍100ぐらいで
ほとんど現地兵雇って戦ってたし
オスマンとオーストリアやポーランドみたいにガチバトルやってたわけじゃないよ
- 53 :
- >>52
まぁ、オスマン帝国と違って、ムガル帝国とヨーロッパじゃ、
どう頑張っても距離が離れすぎてる。イギリスがインドを、
植民地化する時だって結構現地のインド人を軍に使ってたし。
- 54 :
- >>52
フレンチ・インディアン戦争でも、北米の先住民に代理戦争をさせていたな。
部族が群雄割拠している地域ではこれが最も有効なやり方。
- 55 :
- 英軍900でもムガルには十分脅威だろ。
薩英ではそれぐらいの英軍に町を焼かれて賠償金取られたし
エチオピアじゃあ700人の英軍に攻められて恐怖のあまり皇帝が自殺したし
イタリアに勝ったエチオピアと最盛期ムガル帝国にそんな差があるとは思えない
- 56 :
- >>55
いつの時代のイギリス軍かにもよるでしょ。ムガル帝国の、
最盛期である17世紀のイギリス軍の900だったらいくらなんでも、
ムガル帝国にとっても、そんなに大きな脅威にはならないんじゃないの?
- 57 :
- ムガル帝国ってそんなもんだよ実際
マハラジャの動向次第で全然変わる
ようするにコイツらを多く味方に引き付けられた方の勝利
- 58 :
- ムガル帝国では皇位継承に関する成分法が存在しなかったため、皇帝の死後、
皇位継承者たちの間で、有力な貴族や武将を巻き込んで抗争が行われた。
これもムガル帝国衰退の原因の一つ。
- 59 :
- というより皇位(王位)継承でしくじらなかった国家って、西洋以外で滅多に無いと思うんだが
- 60 :
- 成分法が必要なほどヨーロッパも昔はぐちゃぐちゃだったてことなのか
逆にその他地域は慣習法で間に合ってたってことなのか
よくわかんねーわ
ムガル時代のヒンドゥー系のマハラジャて何してたんだよ
ハーレム囲ってウハウハしてただけとかか
てか次のスレタイは「ムガル帝国中堅じゃね?」
だな。次立たねーと思うが住人頑張れw
- 61 :
- >イタリアに勝ったエチオピアと最盛期ムガル帝国にそんな差があるとは思えない
エチオピアってテュルク=モンゴル騎兵を数万単位で動員したり
攻城戦では人海戦術で象が隠れられるような塹壕まで掘ったり
その辺の農民まで火縄銃で武装して武術を磨いたりしてたの?
- 62 :
- 18世紀になると、ムガル帝国は財政問題でも悩むようになったな。
度重なる外征や反乱鎮圧のための軍事費支出が大きな負担になる
↓
政府は官位を乱発
↓
しかし、官位に見合った給与は保障されていない
↓
俸給制から土地の徴税権による収入をあてる領地制に変える
↓
領地を得た役人は短期間で多くの収入を得ようとして農民からの収奪を強化
↓
農村が荒廃
- 63 :
- どこかで聞いたような話だw
- 64 :
- ムガルVSマラーターの戦いはインドのベトナム戦争といってもいいかもしれない
1681年、アウラングゼーブはデカン地方への親征を行い、ビジャープルの
アーディル・シャーヒー朝とゴールコンダのクトゥブ・シャーヒー朝という
二つのムスリム王朝を相次いで制圧、併合する。
しかしここに至ってムガル軍は、これら二国を緩衝の傘にして勢力を張ってきた
新興のマラーター軍との直接対決を余儀なくされる。
重厚肥大化ムガル軍に対して、小規模編隊で機敏な軍事作戦を得意とする
マラーター軍は、まったく対蹠的な性格の軍隊だった。正規戦型のムガル軍と
ゲリラ戦型のマラーター軍との戦闘が、マラーターの多く住む丘陵や山がちの
デカンの地で長引けば、いずれの側が有利であるかは自明だった。ムガル軍の
駐留の長期化は兵士たちの士気の後退や財政事情の悪化、マンサブダール制の
動揺をもたらし、過度の地租聴衆に抵抗する農民一揆や逃散の発生に連動した。
- 65 :
- ムガル帝国にとって最も深刻な問題は、皇帝親征のムガル軍をもってしても、
マラーター軍に壊滅的な打撃を与えることができないことからくる皇帝権の
威信の低下だった。
アウラングゼーブが敢行したデカン遠征の大きな賭けは、彼の期待を砕き、
すっかり裏目に出た。
また彼が意気込んで再導入した人頭税のほうも、徴収の各段階でウラマーたちによって
流用され、国庫までどれだけ届いたかは甚だ疑わしいものとなって、彼の没後
まもなく廃止された。
- 66 :
- デカン戦役って 1675-77年の戦いだろ。 ベトナム戦争より期間全然みじかい。
3年で帝国揺るがすなんてマラーターやるじゃんw
- 67 :
- ゲリラ戦によって帝国の威信低下といえば、アングロ=ボーア戦争も。
ムガル帝国は1739年2月24日に、カルナールでナーディル・シャーの軍に敗れるが、
このときムガル軍は指揮系統に問題があり、火砲も準備できなかったとか。
一方戦争に熟練したナーディル軍は重小銃とラクダ軽砲を自在に操って、
ムガル軍に損害を与え、戦死者は一万人にも上った。
二日後、ムハンマド・シャーはナーディルに降伏し、ナーディルは彼とともに
デリーへ進軍し、支配者たることを宣言、市内で起こった反乱に対する報復として、
住民八千人以上を殺害、ムガル朝から大量の財宝を奪った。
ナーディルがデリーを出立する際、ムハンマド・シャーは彼によって再び帝位に
つけられたが、インダス川より西の諸州を彼に割譲することを余儀なくされた。
- 68 :
- >>61
ムガルはプラッシーで900のイギリス相手になにもできず
エチオピアは二万のイタリア相手に十万の歩兵を準備したし、武器もフランスからライフル導入した
17世紀じゃあ騎兵は歩兵大砲にかてないのはチャルデラーンで証明済み
ただイタリア二万よりイギリス兵900の方が怖いと言われればそれまでだが
- 69 :
- >>68
>17世紀じゃあ騎兵は歩兵大砲にかてないのはチャルデラーンで証明済み
でも、ムガル帝国も結構大砲を多く活用してたよね。歩兵が、
どれいくらい使われてたかは、ちょっと良く知らないけど。
- 70 :
- WIKI読むと正確には
欧州兵(たぶん英人以外もいるのだろう)900、セポイ2100、砲兵100
対する仏兵40、ベンガル太守の兵5万
どっちにしてもすごい大差だが
- 71 :
- しかし、フランス人は全くやる気無いな。
- 72 :
- プラッシーの戦いはいろいろと酷い
- 73 :
- インド側が敵に対して団結できないのはいつの時代も同じだよなw
1192年のタラーインの戦いでも、ガーハヴァーラ朝、チャンデーッラ朝、
チャウルキヤ朝といった近隣の有力王朝は援軍を送ることなく傍観し、その結果、
ゴール軍は個別の王朝ごとに戦闘を続けていけばよかった。
ゴール朝をはじめムスリム勢力に対しては、外部から侵入してきたトルコ勢力、
蛮族と見ていたのは明らかだが、だからといって「インド」が団結してこれを
追い出すということはなかった。
各々の王朝はつねに競合する他の王朝の勢力削減を狙って外交戦略をたてていたから、
外部から入ってきたゴール朝も利用すべき割拠勢力の一つとしてとらえ、チャーハマーナ朝の
弱体化を図る外交政策が優先された。
そして同じことがイギリス東インド会社に対しても繰り返されて・・・
- 74 :
- 自分の権益さえ守ってくれれば支配者は誰でもいいと思ってるんだろ
- 75 :
- ムガル軍が各種の戦闘において勝利したのは、基本的に騎兵戦力の差だった。
騎兵隊の最大の威力は、軍隊の移動と集中における迅速性にあった。
それに加えて騎射つまり乗馬したまま弓矢を連続して射る戦術が可能なことも、
大きな威力だった。
当時熟達した馬上の射手は、マスケット銃を装備した歩兵よりもいっそう遠くの
距離に、いっそう多くの矢を浴びせることができたといわれる。
17世紀の前半になってムガル朝の禁衛隊の一部に騎乗銃士が配されるようになるが、
まだ発射に際し、下馬して火縄銃を操作するという段階であった。
騎兵は迅速かつ巧妙な作戦によって大動員をかけることが容易であり、とくに
帝国内の反乱鎮圧のような速度が問題となる場合などでは、その役割は決定的であった。
- 76 :
- これに対して砲兵隊は、移動と集中における迅速性の点で最も劣る。
アクバル時代に大口径の重砲が発達する一方で、砲車に積んで運ぶことのできる
軽カノン砲も開発されたが、砲兵隊の性格は変わらなかった。
当時の大砲の飛弾距離は200〜300m、大砲一門から発射できるのは、せいぜい
30分間に一発程度であった。しかも弾薬としての火薬の製法に問題があったため。
肝心な時に用をなさないことも起こりかねなかった。このようにみてくると、
ムガル軍で騎兵隊が帝国の建設及び維持において中心的な役割を果たしていた
ことは疑いを入れない。
- 77 :
- 騎兵なんかパイクメンが来たら大敗じゃんか
トルデシリャスに感謝だな
- 78 :
- >騎兵なんかパイクメンが来たら大敗じゃんか
なんで?
- 79 :
- >>9
バーブルは父方ではティムールに至るチャガタイ・テュルクの血をひいており、
母方ではチンギス・ハーンにいたるモンゴルの血をひいていた。
中央アジアには、「ムガル」という言葉が文明や洗練の対極概念を含意するものとして
受け止める考え方が残っていたため、バーブルはムガルによって自分のアイデンティティが
示されるのを嫌い、もっぱらティムールの子孫であることを強調していた。
- 80 :
- でもムガルってモンゴルの意味だよね。
- 81 :
- >>80
ムガル帝国は自称じゃないからね。彼らは「グルカーニー朝」と、
自称してたから。「婿殿(ティムール)の王朝」って意味だよ。
- 82 :
- 中央アジアで「洗練」を連想させるのはやっぱりペルシアかな。
ティムール朝もペルシア語文語文化をもっていた。
ムガル帝国上層部では17世紀半ばまでイラン系・トゥラン系の官人が
半分以上を占めていて、ペルシア文語文化の担い手として、あるいは
保護者としてこれを支えていた。むろん、ムガル帝国の公文書や史書も
基本的にペルシア語で書かれた。
- 83 :
- ティムール朝後期のナヴァーイーのような知識人は
「ペルシア語よりチャガタイ・トルコ語で書くべきだ」
なんて言ってたけどね。
- 84 :
- >>83
で、19世紀末になって中央アジアで言語改革を目指してチャガタイ協会が設立されると。
かつてティムールの時代、チャガタイ=トルコ語がこの地域で文語として用いられていたことに由来する。
- 85 :
- ムガル帝国って、海軍にはほとんど関心を持っていなかったよな。
- 86 :
- ベンガルへの侵攻なんかの時には河船をよく利用していたらしい
- 87 :
- 誰かダーラー・シコーの子孫(いればだが)の略歴とか解説してあるところ教えてけれ…
- 88 :
- ムガル帝国は、他のインド亜大陸に成立したムスリム諸王朝に比べて、ラージプート王国との
結びつきを広範囲に強固に確立したために、軍事力を格段に強化することができた。
アクバル時代初期にラージプート王がムガル皇帝と婚姻によって結びついて以来、
多くのラージプート王はムガル皇帝の至上権を認め、高位のマンサブを与えられ、
帝国の軍事体制を支える重要な地位を与えられた。ラージプート諸王が中央の
軍司令官や州の長官などの地位に就き中央の軍事力を維持し、また地方支配を
行う上で大きな役割を果たした。
しかし、ムガル帝国支配はラージプート諸王の力だけからなっていたわけではない。
軍事指導においては、トゥーラーン系、イラン系武将の力が欠かせなかった。
官僚機構ではイラン系高官の行政手腕によるところが非常に大きかったし、
税制上はヒンドゥー高官の在地との関わりを無視できなかった。
ムガル帝国はそれぞれのマンサブダールの能力を活かし、うまく全体の調和を
とったところに安定があったのである。
- 89 :
- >>75
やっぱり、ムガールはモンゴルってことだなw
- 90 :
- >>81
娘婿は「キュレゲン」だからそれがグルカーニーになったってのは分かるけど、
モンゴル語で「大ハーン」も「グルカアン」じゃなかった?
もちろん発音もつづりも言語系統も全然違うけど、そっちとは無関係なのかな
- 91 :
- >>90
モンゴル語に詳しくないから良く分からないけど、「大ハーン」という言い方自体が、
確か歴史学者たちによる他称だったと思うんだけど。本人たちは単に「ハーン」と、
呼んでただけだろうから。「大」がモンゴル語で「グル」になるのかも知れないけど、
あまり関係ないような気がするなぁ。彼らはティムールを始祖として誇ってたらしいし。
- 92 :
- 元朝秘史でジャムカが名乗っていたという「グルカン」てのはあれ、関係ないのかね
- 93 :
- ティムール朝の始祖ティムールのときは傀儡のハーンがいたとききますが、ティムール朝における歴代のハーンって名前わかる?
そして、ムガール帝国になってからも、傀儡のハーンはいた?
- 94 :
- ソユルガトミシュってハンが1370-1388で次がスルタン・マフムード(1388-1402)
だけどそれで終わりだってさ。ティムール自身の在位は1370-1405。
- 95 :
- >>94
いや、思い出したようにちょくちょく出てきているよ
- 96 :
- 苗字ムガールだけどなんか質問ある?
- 97 :
- 階段から転んで死んだ王
ベンガルに攻め込んだら逆に首都を乗っ取られた王
- 98 :
- >>97
フマーユーンのヘタレぶりはムガル帝国の歴代皇帝の中でも群をぬいてるからね。
まぁ、彼がイランに亡命してる間にシェール・シャーがインドを発展させてくれたから、
おかげで後のムガル帝国の発展の礎になったという面もあるんだけどね。とは言え、
これは彼が弱かったからこそだね。個人的にはある意味なかなか面白い人物だと思う。
- 99 :
- >>96
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