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オスマン朝・オスマン帝国(05)


1 :2012/05/04 〜 最終レス :2013/09/08
オスマン朝・オスマン帝国(04)
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1293719080/
■オスマン・トルコの歴史■
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1293690693/
オスマン朝・オスマン帝国(03)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1234609506/
オスマン朝・オスマン帝国(02)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1160847288/
オスマン朝
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008047030/


2 :
・永田雄三編『西アジア史U―イラン・トルコ』(新版世界各国史9) 山川出版社、2002年
・佐藤次高編『西アジア史T―アラブ』(新版世界各国史8) 山川出版社、2002年
・柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史18) 山川出版社、1998年
・鈴木董『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社、1992年
・鈴木董『オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家』 筑摩書房、2000年
・鈴木董『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会、1993年
・鈴木董『オスマン帝国とイスラム世界』 東京大学出版会、1997年
・鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ―オスマン帝国における諸民族の統合と共存』 リブロポート、1993年
・新井政美『トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房、2001年
・新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』(講談社選書メチエ) 講談社、2002年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』 青土社、2009年
・永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15) 中央公論社、1998年
・永田雄三・加藤博『西アジア』(地域からの世界史8) 朝日新聞社、1993年
・林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット19) 山川出版社、1997年
・林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10) 講談社、2008年
・『イスラーム・環インド洋世界 16-18世紀』(岩波講座世界歴史14) 岩波書店、2000年
・『イスラーム世界とアフリカ 18世紀末―20世紀初』(岩波講座世界歴史21) 岩波書店、1998年
・歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ : 18世紀まで』 岩波書店、2009年
・歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗T』 岩波書店、2009年

3 :
・大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』 岩波書店、2002年
・日本イスラム協会編『新イスラム事典』 平凡社、2002年
・伊東孝之他監修『新訂増補 東欧を知る事典』 平凡社、2001年
・三浦徹・東長靖・黒木英充編
 『イスラーム研究ハンドブック』(講座イスラーム世界別巻) 栄光教育文化研究所、1995年
・小杉泰・林佳世子・東長靖編
 『イスラーム世界研究マニュアル』 名古屋大学出版会、2008年
・羽田正・三浦徹編『イスラム都市研究―歴史と展望』 東京大学出版会、1991年

4 :
【マグリブ】アラビア語圏の歴史【マルタ語】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1336044467/l50

5 :
トルコ人・トルコ文化圏・テュルク諸語圏の歴史
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1331529490/l50

6 :
オスマン帝国の版図拡大を30年刻みぐらいで地図に表したgifってないですか

7 :
ボスニアのイスラム教徒が
デヴシルメの対象とされた理由を教えてください。

8 :
イスラム教徒からの強い要望があったから。
当初はキリスト教の子弟のみが対象だったが、子供たちが完全に出身地と縁
が切れたわけではなく出世後も利益を地元に還元したりしてた。貧困層のイス
ラム教徒にとってはデウシルメはキリスト教徒の社会的上昇を可能にする特
権であり羨望の的だった。ただしイスラム教徒少年のデウシルメは制度の末
期に限る。

9 :
>>7-8
オスマン帝国も後期になるとムスリムの上昇志向が強くなってるね。
後期にはアナトリアのムスリム農民が軍隊に多く入ってきたらしいし。
確かに、デヴシルメで徴用されたオスマン帝国の支配層の中には、
出身地とのつながりを保ってた人が多くいたね。有名な例では、
ボスニア出身の宰相ソコルル・メフメト・パシャなんかが挙げられるかな。

10 :
十字軍の頃は話のわかるイスラム圏とマジ基地キリスト教十字軍という感じだったのが
現代はすっかりプロテスタントのせいか悪者にされてるイスラム教
オスマン帝国のあいだは何してたんだ

11 :
>>10
>現代はすっかりプロテスタントのせいか悪者にされてるイスラム教
宗教改革の頃、プロテスタントとオスマン帝国はわりと良好な関係だったんだけどね。
お互いに反ハプスブルクということで、敵の敵は味方の論理で近しい関係を築いてた。
神聖ローマ帝国の中にはオスマン帝国のほうが宗教に寛容で楽園だという噂があり、
オスマン帝国に移住しようと考えた人もいたらしい。オランダにも似たような話が存在し、
海乞食の間では教皇の下よりもトルコのほうが住みやすいというスローガンがあった。
オスマン帝国側もハプスブルクの力を弱めるためにプロテスタントを支援してたそうだし。
現在、イスラームが悪者扱いになってるのはまた別の理由かな。
9.11などのイスラーム原理主義の台頭なんかがしばしば欧米で非難されてる点だし。
オスマン帝国に関して言えば、当然スペインやオーストリアのハプスブルク家なんかの間では、
最盛期の頃から敵国だし悪者だった。一方で同時代でもフランスなどとは関係も良好だったけど。
18世紀頃からはロシアなんかも敵国に加わり、19世紀にナショナリズムが強まってくると、
ギリシャ独立戦争などでオスマン帝国が悪者だという考えも見られるようになってきたね。
イギリスなんかはスエズ運河の利権などもあって、第1次世界大戦まではわりとオスマン帝国寄りだったけど、
それでもバタク虐殺などではイギリス国内でも反オスマン帝国的な世論が強まってたそうだし。

12 :
世界最凶のカルト
プロテスタント

13 :
>>9
近代においても、将校の多くは貧しい階層の出身者だ。
ムスタファ・ケマルやエンヴェルも貧しい家庭に生まれている。
陸軍幼年学校、陸軍予科学校には財政援助が多くなされ、
貧しい階層の子弟も入学できた。
Michael Provence,
「Ottoman Modernity, Colonialism, and Insurgency in the Interwar Arab East」
『International Journal of Middle East Studies』43(2011) pp205-225

14 :
>>13
エンヴェルなんて出生すらはっきりしてないからね。確かに良いところの生まれではないね。
エンヴェルたちとともにオスマン帝国末期の政治を率いたタラートも貧しい郵便局員だったし。
ある意味、当時のオスマン帝国軍は貧しくても成り上がることが可能だったと言える訳か。
新井政美氏は、アブデュルハミト2世の時代に教育制度が整えられたことが青年トルコ人の、
台頭につながったと言ってるけど、それは士官学校においても同じだったのかも知れないね。

15 :
ある意味幕末みたいなものだべ

16 :
>>15
確かに幕末の日本で今まであまり良いところの生まれでもなかった人々が台頭したのと似てるね。
国が大きく変わる時期には下克上が起きやすいということなのかも。

17 :
>>9
ムスリムの上昇志向について言えば、
ボスニア出身で、アッカーの総督にして大型アーヤーンとなったジェッザール・アフメト・パシャ
(アフマド・パシャ・アル=ジャッザール)も該当するかな。
ジェッザール・アフメト・パシャは大型アーヤーンで、
ナポレオンのシリア侵攻時には、イギリスと連携してフランス軍を撃退している。

18 :
イスラムは名誉の殺人はヒンズー教徒でも行われているが、カシミール過激派とISI、エジプト、アルジェリア、
イラン、アフガン、サウジ、イエメン、パタニの原理主義者のテロのせいでイメージが悪くなった。

19 :
プロテスタントという宗派はない。創価、あるいはオウム、幸福の科学を語るのに「仏教は」と言っても意味がない。
実態に迫るにはルーテル派、カルビン派、英国国教会、クエーカー、バプテスト派、ペンテコステ派という風に分けるべき。

20 :
オスマンってホモみたいな名前だね

21 :
オスメイトって便所大変だよな

22 :
>>17
時代的に考えて、彼はムハンマド・アリーと同じタイプの人と見ても良いのかな。
どちらもナポレオンとの戦いを経験してるし、地方で成り上がった権力者だ。
後期になるとオスマン帝国でも上昇志向の強いムスリムが増えるようになったね。
ジャッザール・パシャはそのような中で台頭したアーヤーンの一人だと思う。

23 :
何を以って「上昇志向」というのか混乱してない?
>>9は生まれながらのムスリムの出世についてだけど、>>17は改宗したキリスト教徒で、
それまでと同様の普通の出世パターンなんだが。どちらも「可」とするならスルタン以外の
要人の人名を羅列するだけでいいような。

24 :
>>23
あれ、ジャッザール・パシャって途中からムスリムに改宗したのか。勘違いしてたよ。
僕が上で言ったのは生まれついてのムスリムが出世したパターンだからね。
ムハンマド・アリーは当てはまるだろうけど、ジャッザール・パシャは当てはまらないか。

25 :
>>17>>22
18世紀のアーヤーンの台頭について扱った研究って何がありますかね?

26 :
>>25
西アナトリアのアーヤーン、カラオスマンオール家については、
永田雄三『前近代トルコの地方名士―カラオスマンオウル家の研究』(刀水書房、2009年)を参照。
バルカンについては、
佐原徹哉『近代バルカン都市社会史』(刀水書房、2003年)を参照。
東アナトリアやアラブ地域のアーヤーンについては、
日本語で読める研究がないのが残念である。

27 :
>>25
すでに>>26が挙げてるけど、永田雄三氏の本がアーヤーンについては一番詳しい日本語文献になるかな。
17世紀から18世紀のオスマン帝国史は最近になって研究が進んだばかりの分野でまだまだ発展途上だから、
今後の研究次第ではもっと色んな本や論文が出ることになると思う。

28 :
バヤジット雷帝の皇子たちの命名って
スレイマン(ソロモン)、イーサー(イエス)、メフメト(ムハンマド)、ムーサー(モーゼ)
とかある意味凄いセンスだな

29 :
別に。イスラム圏じゃそこら辺の名前は結構定番だったりするし。

30 :
壮麗なる世紀ではヴァリデとイブラヒムはまだ生きてんの?
日本のドラマの基準で判断すると
そろそろリュステムやララ・ムスタファ・パシャが登場してもいいころだよね。

31 :
ヴァリデ、前回の最後でお亡くなりになりました。
止めを刺したのはヒュッレム。最後病床のヴァリデに一体何を言っていたのか、
誰かトルコ語わかる人で見た人教えて欲しい。とにかくヒュッレムのセリフに
ヴァリデが眼を向いて、そのままお亡くなりになりました。

32 :
ち〜ん(笑)こ

33 :
清々しさすら感じるほどュッレム悪役設定されてますね
近年ではオスマン帝国を傾けた悪女扱いは薄れて
スレイマン大帝を魅了した伝説の女性扱いされていても
ネガティブなイメージは完全払拭されていないようですな

34 :
>>33
> 近年ではオスマン帝国を傾けた悪女扱いは薄れて
> スレイマン大帝を魅了した伝説の女性扱いされていても
それって日本だけじゃないの?寵妃ロクセラーナとかいう本とか。

35 :
ヒュッレムがオスマン帝国を傾けた傾国の美女だとすると、
そのうち、世界三大美人 になるかも知れない。

36 :
http://www.batoto.net/read/_/97290/minamoto-kun-monogatari_ch29_by_mundomanga-kun/3


37 :
>>30-35
『壮麗なる世紀』を見るのは別に構わないが、
スレの話が宮廷や君主の身辺ばかりに偏るのはよくないだろ。
近世史は、他の時代と較べて同時代史料、とりわけ一般民衆に関する史料が豊富に残されており、
こうした史料を用いた社会史研究ができる点に魅力がある。
他の地域と比較すると同時代史料は少ないとはいえ、
近年、オスマン史においても社会史研究はすすんできており、
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社、2008年)にも社会史に関する記述は多くある。
一般庶民の生活がある程度分かるようになっているにもかかわらず、
話が君主や宮廷ばかりに偏る点は是正されるべきだ。

38 :
>>37
言いたいことは分かるし、社会史が面白いと思うのは同じなんだけど、『壮麗なる世紀』の
話題が出てくるのはネタがなくスレが止まっているときだけだから。話題振ってくれるのを
みんな待っているんだよ。

39 :
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/2107/1/ioc11805.pdf#search='ムカータ 税'
じゃ御題をふってみる
林佳世子の論文見つけたよ

40 :
オスマン帝国ではペルシャの宗教のシーア派は弾圧されていたの?

41 :
>>37-39
>>40
オスマン領でも、東アナトリア、レバノン山岳地域、イラク、イエメンなどには
シーア派住民が暮らしていたが、
こうした人々は、帝国中央の「正統」スンナ派を任じる人々からは
「異端」と見なされてはいたものの、別に弾圧されていたわけではない。
レバノン山岳地域、イエメンにもシーア派住民がいるように、
シーア派は決してイランだけの宗教ではない。
社会史との関連で言えば、
19世紀、ガージャール朝イランからオスマン領イラクのシーア派聖地への巡礼を扱った研究として、
守川知子『シーア派聖地参詣の研究』(京都大学学術出版会、2007年)がある。

42 :
これのことかな
116 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:26:16.76 0
イラン人にとって、イラクのシーア派聖地は外国って感じがしないのかな?
117 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2012/02/28(火) 23:17:35.19 0
>>116
聖地巡礼は、過酷な外国旅行って感じだったらしいよ。
山賊の襲撃から身を守るために集団になったり、山賊一味を護衛として雇ったりしたり、
慣れない土地でのスンナ派住民とのトラブルなどが絶えなかったようだし、オスマン朝当局も歓迎してなかったし。
旅で死んだ仲間の棺を引きずりながら、旅を続けたりもしたようだ。(ドラクエじゃないけど)
過酷な旅+試練+聖地+感動+大勢の参詣仲間たち=「熱狂的なシーア派イラン人」になって帰って来る。


43 :
オスマン帝国領にイラン人が入国できたの?

44 :
>>37
ご指摘の件はもっともだと思うけど、もう少し言葉を選んでくれないだろうか。
>「壮麗なる世紀」を見るのは構わないが」
というのは、あなたに視聴に関する権限があるような印象を与えるので不適切な表現だと思う。
>「壮麗なる世紀」を語るのは構わないが」
という表現の方が適切に思う。
>一般庶民の生活がある程度わかるようになってきているにも関わらず話が君主や宮廷にばかり偏る点は是正されるべきだ
という文言は、ふた昔くらい前の
>特権階級や資本家ではなく、人民について語るべきだ。
と観点の違う人に強制したマルクス史観を想起させる。
ドラマは確かに、世界史版にもドラマや漫画スレ、未公開映画スレがあるので、
そちらで語る方がふさわしいというのはあると思うが、宮廷や君主については
語っても構わないと思う。話題が偏るというのであれば、そう考えた人が率先して
提供すればいい話だと思う。

45 :
ちょっと興味深いニュース
http://maash.jp/archives/14322
800年前ということは第二次ブルガリア帝国の頃だろうけど
1900年代初頭までということはオスマン朝下でも継続されてたってことだよな
オスマン朝は概して宗教に寛容だったにしてもこういう土着の風習も
そのまま続けられてたんだな
こういう民俗学的視点の資料ってのは何かあるのかな

46 :
>>43
19世紀のことになるが、
オスマン朝はイラン国籍の男性とオスマン国籍の女性の結婚を法律で厳しく制限し、
結婚した場合でも、妻や生まれる子供はオスマン国籍にとどまることと定めた。
イスラーム法では、子供は父親の系譜になるので、母親の国籍に入るのは異常である。
こうした法律・通達の背景には、
オスマン領へのイラン人男性の流入やオスマン女性の流出問題があったと考えられるそうだ。
大河原知樹「歴史人口学で見たシリアの都市社会―ダマスカスの結婚性向の計量分析」『東洋史研究』第65巻第4号 2007年。
52頁の注(47)を参照。

47 :
その時代の女性しかもイスラム教徒が
身内の男性の承認なしに異国、異宗派の男性と結婚できるわけないよね
社会問題になるほど異宗派婚があった背景が知りたい

48 :
>オスマン領へのイラン人男性の流入
彼らは、トルコ人と似た言語であるアゼルバイジャン人が殆どだったのでは?

49 :
>イラン人
とされるのは、シーア派の人間を指していたのでは?

50 :
このスレも完全に死んだな。
キチガイ荒らしと質問を連発するくせに回答をもらっても礼すら言わないクレクレ厨が原因。

51 :
やった byビザンツ厨

52 :
>>47
ウラマアにおカネつんで建前だけ守ってりゃOK.
現在でもムスリム女性と結婚するだけのために形だけ改宗して、ムスリム男よりもエグイDVする日本人男が陰では嫌がられている。

53 :
>>47-49
ロシア進出で苦境に陥ったアゼルバイジャン人シーア派の男がトルコ側に出稼ぎ。
一部のイイカゲンな人間は当然、旅の恥もするわいな。

54 :
オスマン語にはペルシャ語も多く混ざってるから、ペルシャ人(アゼルバイジャン人シーア派も含む)自体を排除したわけではない。
革命の扇動になるシーア派の折伏が許せなかっただけ。

55 :
妻帯を認められる前のイェニチェリの一部も似たようなトラブルを起こしそうだな
彼らはトルコの言葉や習俗を身につけるために一定期間農村に労働力として送り込まれたから
そこで女性を妊娠させてもおかしくはない
セリム2世が即位すると速攻でイェニチェリは妻帯を認めさせたから
内縁の妻や表沙汰にできない実子がいる隊員がたくさんいたとしか思えない

56 :
イスラムに独身思想は無いから。スーフィーは別だろうけど。

57 :
美形のイェニチェリは、スルタンの衆道相手させられていたのか?

58 :
決死隊旗本にR禁止するとか、皇帝が骨肉の弟を殺害・幽閉するとか、オスマン・エリートは日本の江戸時代武士よりもイビツで好きになれない。

59 :
イスラムの教えの健全な部分にも違背するのに、どこからそういったイビツな風習が?しかも中央アジア出の民族なのに・・・

60 :
いや、他のテュルク系王朝って王位争いで内戦とかやり過ぎだし。
一部の王族だけ犠牲になって国が安定するなら致し方ないという考え方もありえる。

61 :
>>59-60
ここは「オスマン帝国スレ」なのだから、「オスマン帝国」に即して議論をしてくれないか?
>>55-59
イェニチェリ関連の話になると、なぜRだの何だのという議論になるのかが理解に苦しむ。
>>41-42>>47-49
オスマン帝国崩壊後のイラク国家成立時に、イラク国籍を取得する者は、
国家成立時にオスマン国籍をもつ者の子孫と規定されたが、
建国以前、オスマン帝国に住民登録されることで発生する徴税、兵役義務を嫌って、
多くのシーア派住民がその宗派的類似性からイラン国籍を取得した。
その結果、規定上イラン国籍となったイラク在住のシーア派アラブ人が多く発生した。
1920年代、イラクの教育行政に携わったサーティウ・フスリーは、
シーア派詩人ムハンマド・ジャワーヒリーのバグダードでの小学校アラビア語教師任命にあたり、
面接でジャワーヒリーに対して、「イラン人なので任命できない」と言ったという。
酒井啓子「イラク・アラブ民族主義思想における宗派主義とそれへの批判」
 酒井啓子編『民族主義とイスラーム―宗教とナショナリズムの相克と調和』 アジア経済研究所 2001年
 147頁を参照。

62 :
>>56
イェニチェリは妻帯禁止だよ

63 :
イェニチェリはヒゲを伸ばすことも禁止されていた。ムスリム男性自由人であることも否定された特殊階層?

64 :
イェニチェリは引退するまで結婚できなかった。退役が認められた者は結婚できたようだ。
給料高かったのだから女奴隷はもっていたはず。「結婚」禁止と言うのは。世襲禁止と言う意味合い。

65 :
18世紀半ば当初禁止されていた軍務以外の職業にも関わるようになって、
結婚して軍団に彼らの子供を登録する権利を獲得。子どもの多くは、役人やウラマーになる。
退職または除籍されたイェニチェリは年金を受け取って、子どもたちを育てた。
世襲特権化身分になって制度は崩壊する。

66 :
こいつらがセルビアでスルタンの指令以上の略奪搾取を極めて、スルタンもそれをとめることができなくなったので、セルビア独立、オスマン滅亡の元になった。

67 :
独身=禁欲と言う意味ではない。気の毒なのはよぶんに購入されハーレムに生涯閉じ込めらてスルタンに相手もされなかった女奴隷たち。西洋人のR蕩な想像とは異なり女子修道院のような世界だった。
忠勤を尽くした臣下に一部はご褒美に「下賜」されたものの。

68 :
大半の女奴隷は払い下げられたんじゃないの?
年をとってもハーレムにいるのは特別な役職に就いた女性か
母后や夫人、側室の側近くらいでしょ
子供を産むのが難しくなる年齢の女性をハーレムで養うのは経費の無駄だよ
毎年、若い女奴隷を仕入れていればハーレムを維持できるし

69 :
スルタンが替わったら、前スルタンの子を身ごもってるかもしれないので側室、女奴隷は金角湾に沈められ。怖い。

70 :
>>61
> >>55-59
> イェニチェリ関連の話になると、なぜRだの何だのという議論になるのかが理解に苦しむ。
そいつら荒らし目的のキチガイだから。


71 :
アゼルバイジャン人云々言ってる奴等馬鹿じゃないの?
帝政ロシア下のアゼルバイジャンは石油産業が大発展してむしろ労働者を吸収する側だったんだが。

72 :
イラン領のアゼルバイジャン人 おそらくイラン人口の5−4分の1

73 :
宮廷料理とかどんなだったんだろう
男も女も殺しまくってる印象なんだが、技術や知識は継承難しかったのかな

74 :
ググればけっこう出てこない?帝国末期のものがほとんどだろうけど。
バヤジット1世のころは、まだ素朴な中央アジア風だったのかもしれない。

75 :
宮廷料理人までR必要ないだろ

76 :
>>73の祖国では現在でもそういった習慣があるからだろう

77 :
メシがまずかったら料理人をRか
バイオレスだな

78 :
イェニチェリが宿営中に鍋で煮る中身とかは記録に残ってないのか
質素なレシピだろうけど

79 :
>>77みたいな小学生並みの知能しかもってない奴がまだのさばってるのか。

80 :
まともな人間が>>77の様な印象を抱くのなら必ず根拠となるものがあるのだろう。
なので是非>>77には料理人をRと書いてあるソースを提示してもらいたい。内
容的に間違った資料というのならその間違いをここで議論すれば良い。あくまで
>>77がまともであり、精神病やR中毒患者とかでないなら、という条件下だが。

81 :
トルコ共和国がオスマン帝国最大領土をいま取り戻したら
アラブの油田、スエズ運河、チグリス・ユーフラテス川の水源
黒海と東地中海の制海権にウクライナの穀倉地帯に
エジプトとバルカン半島の観光資源をゲットできるな
もしかしてロシアを凌ぐ大国w

82 :
お菓子は結構凝ってるな。材料もいいのがあるし
スイカ彫刻はオスマン由来だったのか・・・

83 :
>>81
>トルコ共和国がオスマン帝国最大領土をいま取り戻したら
それはトルコ共和国だけに当てはまらないだろ。
バルカン諸国、アラブ諸国についても当てはまるはずだ。
現在の諸「国民国家」を前提にして、多民族・多宗教国家オスマン帝国をとらえてはならない。
「トルコ共和国がオスマン帝国最大領土をいま取り戻したら」なんて言い方は、
「『あの偉大な帝国』を自分たちだけの遺産と思っていたい現代トルコ人の確信犯的心性」
(新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』 青土社 2009年 25頁)
に迎合するものだ。
近年では、非トルコ人に着目したオスマン帝国史研究の成果が出ている。
一例として、
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』
(名古屋大学出版会、2011年)を挙げておく。

84 :
バルカン半島や中近東の国々はオスマン帝国の被害者ポジションで
国民をまとめようとしているし庶民もそれを受け入れているじゃないの

85 :
それもまた逆の意味での国民国家の幻想の結果といえる。
アラブとクルド「アルメニア人虐殺や非イスラム教徒差別はトルコ人のせい」
ギリシャ「バルカンの経済的後進性と識字率の低さはトルコ人のせい」
アラブもクルドもギリシャもオスマン帝国を支えた支配階級だったのに、オスマン帝国=トルコと決め付け
自分たちも貢献した「負の遺産」からの責任回避をしている。


86 :
アラブ系クルド系で出世した者って居たのか?

87 :
アブドラ・ジェブデトとか

88 :
前にも誰かが言っていたが、基本バルカンとアナトリア中部以西以外は現地の支配機構をそのまま
保持していたから、伝統的身分制が維持され社会的上昇はありえないか難しい。クルド人とか元々
土豪とかの支配層だったわけで19世紀までは「出世」とは別問題なのでは。

89 :
>>86
近代には、活躍したアラブ系オスマン人は多くいるぞ。
軍人、大宰相となったマフムート・シェヴケト・パシャや、
イスタンブルの師範学校長となったサートゥ・ベイ(サーティウ・フスリー)、
オスマン帝国議会議員となったアブデュルハミト・ゼフラーヴィーなどたくさんいる。
オスマン帝国末期に官僚、軍人、議員となったアラブ人には、
帝国崩壊後に成立した諸「国民国家」の政治エリートになった者も多くいる。
一例としては、
トランスヨルダン首相を2度務めたアリー・リダー・リカービー、
イラク王国首相となったヌーリー・サイード、ジャアファル・アスカリーなど。

90 :
なんかブルガリアスレが2つも立ってるんだけど、ブームでもあったの?
ということで・・・
>>45
 「資料」とはどの様な意味で使っているのか良く分からないが、キリスト教受容以前から続いていると思わ
れる風習はバルカン各地に残っており、バルカンの各民族がその様な風習に着目し記録を積極的に残すよう
になったのは19世紀から。これには民族主義の高揚による各民族の「固有性」を強調することが目的であるの
と都市化に伴う識字率の向上も関係していると思われる。大体にして教会側は非奨励との立場を明確にしてい
るが、時と場合によっては黙認している。
 代表例として太古には人身御供を伴ったであろう雨乞いの儀式や春の到来とともに2色の糸飾りを木の枝に
結ぶ風習などがあるが、最も高インパクトなのがトランス状態に入り霊媒、心霊治療、火渡りをする儀式。ギリ
シャ語でアナステナリア、ブルガリア語でネスティナールストヴォと呼ばれているが、元来は東トラキア地方の
キリスト教徒(ブルガリア語話者、ギリシャ語話者双方)が居住していた20カ村で伝わっていて、一部の家系が
霊能力を駆使して上記儀式を行うというものだった。トラキア人のディオニュソス信仰起源と考えられているが、
霊媒師が聖コンスタンティン・聖へレナのイコンを掲げて儀式を行うのは恐らくは教会側からの批判をかわすた
めに始められたのだと思う(それでもギリシャ正教会は多神教時代の名残として「異端」扱いしているが)。
 儀式の現状だが、第二次バルカン戦争でギリシャ人・ブルガリア人相互の虐殺行為が開始するとともに住民
は民族意識に応じてギリシャもしくはブルガリアに亡命するようになり、その後も同地に残った数少ないギリシャ
人は第一次世界大戦後の住民交換で一人もいなくなった。彼らの末裔はギリシャにもブルガリアにもいるが、
ブルガリアでは火渡りだけのショー化しているのに対し、ギリシャでは簡素化したものの(8日間の祭日が3日に
短縮等)それなりに「霊能力」は温存され伝統は継続している。
(続く)

91 :
(続き)
 ただ、現地民による民俗学的記録の場合だと、地元の人間にとっては「当たり前」のこと、あるいは触れること
がタブーであることなど記録されない場合も多い。当該民族の識字率が著しく低い場合も記録から漏れる要因
でもある。アルバニアなんかがその典型例だが、その意味で20世紀初頭にアルバニア人居住地域を旅し、同
地の風習を記録したダーハムのHigh Albania(1909年刊)は三日月は実は現地キリスト教徒に愛用されていた
モチーフだったことや男装の風習について言及しており、貴重な資料である。
>>31
 今更だけど、その部分「だけ」探して見て見たけどこんな感じ。
ヒュ:ヴァリデに対する美辞麗句。本当はヴァリデのことを慕っていたけど理解してもらえなかったと泣き言
ヴァ:露骨に無関心の表情
ヒュ:スレイマンを如何に愛していたか
(シーンが変わって宝石いじり)
ヒュ:実はイブラヒムは裏切り者ということを知っている。ニギャルと浮気していたので関係者にばらす
ヴァ:表情一変
ヒュ:これで万事安泰になるから安心して下さいと言って去る
>>71
 特に19世紀末になると一方でオスマン領内の経済難が悪化する一方バクーの好景気はアゼルバイジャンを越
えてカフカース全体にまで波及したので、オスマンのキリスト教徒のみならずイスラム教徒もカフカース方面に
移住する様になる。ヘムシン人は工業化の進展激しいグルジアに移住し手に職を付けていた。パン屋が有名だ
が、それはこの時代に習得した技能。本来は定住が目的だったが、赤化と共にほとんどがアナトリアに帰還し
ている(一部はアブハジアに残留したとのこと)。旧マクレヴィス村はそういった出稼ぎヘムシン人が邸宅を建て
る様になったのでコナクラルと改名された(現在はジャムルヘムシン市の区)。
 

92 :
訂正
誤 ジャムルヘムシン
正 チャムルヘムシン

93 :
>>90
「元来は」ということはその東トラキアの特定地域から
ブルガリアやギリシャへ伝搬したということ?
その手の文化で伝搬経路がはっきりしてるのって中々凄い。

94 :
バルカンのイスラム教徒コミュニティには、おどろおどろな異教風習は残っていなかったのでしょうか?

95 :
ヘムシン人=グルジアにWWUのときまで住んでいたメスヘティ・トルコ人 ?
中央アジアに追放されて、今も排外主義のグルジアには帰還できない。

96 :
中央アジアは、第一公用語とバイリンガルであれば、多様性を認めるからね。
高麗人も残留している。
でも、タジキスタンは周囲の国から厳重包囲されて、国境は薬物汚染チェック検問。
自己が排外主義ではないのに、周囲から排除されちゃっている。

97 :
タジキスタンはイスラム原理主義に乗っ取られたの?

98 :
アフガンのケシ栽培マフィアに乗っ取られたの ( -_-)

99 :
>>93
 ブルガリアの場合は伝播というより一旦途絶えた地方行事を再生させた感じ。上記エスニッククレンジング後
ブルガリアに流入した東トラキア難民はネスティナールストヴォを継続せず。もちろん2次大戦後の共産党政
権が復活を阻止したという事情もあっただろうし、一旦は「消滅」している。それが民主化後には伝統の復活
として一部の研究者により再現の試みが図られた。この運動が実は必要以上に功を奏したのか、東トラキア
難民系以外の各地方の民族舞踊団体も「火渡り」をレパートリーに入れるようになった。現在では例えば夏に
黒海沿岸のリゾートに行けば、おおよそ東トラキア系とは関係なさそうな人たちが観光客へのアトラクションと
して「火渡り」をやっていることもあるし、私個人は冬のソフィアのとあるレストランの民族舞踊ショーで火渡りを
見たこともある。
>>94
 多神教の名残はキリスト教徒だけに見られるわけでなく当然イスラム教徒にもあり、上記「火渡り」みたいな
例外もあるものの大体キリスト教徒に伝わっているものはイスラム教徒にもあると考えていいでしょう。ただ、
「おどろおどろ」となると・・・w真っ先に思い浮かぶのはアルバニアのルガト。ルガトもまたアンデッド系で、生前
悪人だった者の死体が夜に動き出す、もしくは霊となってイスラム教徒に憑依するという話。退治する方法はた
だ一つで、ファトワーによりルガトになったと思われる死者の墓を掘り起こす許可をもらい、その後に白馬が問
題の墓を飛び越えるか試してみる。もし白馬が動かなかった場合はその墓にはルガトが埋められているのであ
り、遺体を焼却することによって退治完了となる。他にも月食はルガトの魔力によるものだとかの言い伝えもあ
るそうな。こういった伝承が20世紀初頭まで信じられていたそうです。
>>95
違う。

100 :
「メスヘティ・トルコ人」にヘムシン人(アルメニア語方言を話していたムスリム)も含まれていたのでは?

101 :
確かに日本語版ウィキにはそう書いてあるが、ヘムシン人にトルコ人としての民族意識があったとしてもメスヘ
ティ出身意識がなければ「メスヘティ・トルコ人」とは言えない。そもそもメスヘティに地元意識があれば始めか
ら出身地を表すhemşinliは名乗らない。
逆に、例えば当局がメスヘティ・トルコ人を捕まえて強制移住させたと思ったら実はヘムシン人がどさくさに紛
れて何人か入っていた、とかいうことならそういう可能性は全くなかったとは言い切れないと思うが。

102 :
あのドラキュラを晒し首にした恐怖の帝国

103 :
メスヘティ・トルコ人の正体とは?グルジア領のトルコ国境地帯に居住していたムスリムが、トルコに内通するとのスターリンの猜疑心によって民族浄化された集団をそうよんだだけなのでは?本来そういう民族はなかったけれど。

104 :
>出身地を表すhemşinli
ということは、アルメニア語を話すムスリムは、ヘムシン人のほかにもいる(いた)ということですか?

105 :
>>103
この時代のソ連にはすでに詳細な民族統計があったからそれだけはない。
公式には存在しなかったのは宗教統計の方。

106 :
トルコから奪われたロシア領内にトルコ人の居住が許されていたの?
冷戦になるまでトルコとソ連の関係は悪くなかったのでは?

107 :
>>106
君の知りたいことはウィキペディアに全部書いてあるよw

108 :
>>104
 そういうこと。実際にリアルでも「ヘムシン人=(元)アルメニア語話者イスラム教徒」としている人もいるけど、
それは実は誤用。
 アルメニア系の改宗はウマイヤ朝時代から存在していて、決して特定の時代や地域に限定されたものでは
なかった。現在のヘムシン地方は8世紀にイスラムの支配を嫌って同地に逃れてきたアマトゥニ家の興したハ
ムシェン公国が語源。特徴としては一応西アルメニア方言に分類されるけどかなり異質なアルメニア語を話し
ている、もしくは話していた。現在でもヘムシン人にとってはhemşinliとはあくまで地方呼称であり、その大
部分は「トルコ人」との民族意識を有している。
 他方、アナトリア東部から現在のアルメニア共和国あたりまでに居住していたアルメニア人の大多数は農民
もしくは移牧民だった為、富裕層である商人層よりも改宗する(させられる)可能性が高かった。20世紀に入り
アルメニア人虐殺前後になると、アナトリアのアルメニア系の間では生命を保つことを目的とした改宗が見られ
るようになる。現在のトルコでもかなり自由化が進んだとは言え少数民族問題はいまだ危険なテーマであるた
めアナトリアの改宗アルメニア系が具体的にどの地方に何人いるのか調査は不可能。そう言った人達のことは
ヘムシン人とは言わない。
 共同体単位以外でもアルメニア系による個人レベルの改宗もあり、ミマール・シナン(ただし異説あり)やファー
ティマ朝のバドル・アル=ジャマーリーが挙げられるが、同様の理由で彼らをヘムシン人とは言わない。
 これは実は逆もまた真なりで、ヘムシン地方出身のアルメニア語話者であるならキリスト教徒であっても「ヘム
シン人」と呼ぶこともあるということ。ただ、そう言ったキリスト教徒はトルコ国内では全滅していて旧ソ連内にしか
残っていない。また、彼ら自身が「ヘムシン人」と呼ばれることを嫌っているらしいので彼らを「ヘムシン人」と呼ぶ
ことはどちらかというと「例外」用法だと思う。

109 :
メスヘティ・トルコ人もヘムシン人も「ーー地方人」という意味合い

110 :
トルコ版隠れキリシタンもいるだろう。

111 :
>>109

じゃあメスヘティ・トルコ語と標準トルコ語の文法上の違いとか語彙の違い教えて。

112 :
アジャル、ナヒチェバン両地方が「自治共和国」となったのは、レーニンがアタチュルクと野合していてアルメニア人虐殺を黙認したという背景がある。

113 :
アルメニア独立後、アルメニア共和国に居たトルコ系少数民族はアゼリ人といっしょに追放されたのだろうか?

114 :
グルジアやアルメニアよりも
アゼルバイジャンやトルクメニスタンのほうが
合弁事業で研修・訓練のために
日本によく来ているから、親近感があるなー

115 :
オツガイ早く帰って来てくれ

116 :
>>114
ふーん。そんなにトルクメニスタンのこと話したければとっととこのスレから出て行けば?
ここはオスマンスレで旧ソ連スレじゃないし。
あと、スレ違いの旧ソ連ネタを延々引っ張ってるツイッター並短文で妄想語ってる常時age
キチガイ共もまとめて消えてね。


117 :
オスマンは文明の敵、最後の恐怖

118 :
レリン 早く帰って来てくれ

119 :
>>115
雑談スレかどっかでdion規制に巻き込まれたんじゃないかって話があったね(現在1ヶ月以上
規制中)。そうでなくとも高校2年で東大志望ということだから、そろそろ受験勉強に本腰入れな
きゃいけない時期になるんじゃない?もう帰ってこないか戻ってきても今後は書き込みが激減
するってことも覚悟しとかなきゃならないね。

120 :
他の地域スレもオツガイが消えてから衰退してるし板全体で結構なダメージなんだけど。
Dion軍で時限解除してないならあと2ヶ月は解除がないこともありえるね。

121 :
メスヘティ・トルコ人の多くは結局アゼルバイジャン人に逝ったらしい。

122 :
オスマンは歴史的グルジアの領土のおよそ半分を奪取して、グルジア人を強制改宗・民族浄化したので、スターリンから憎まれた。>>121
トルコ領に残る親戚筋のラズ人がその名残。よく探せば廃墟になったかつてのグルジア教会が残る。

123 :
>>122
> グルジア人を強制改宗・民族浄化したので、スターリンから憎まれた。

ソースは?

124 :
スターリンがそんなロマンチックな感情で憎んだりするかよw

125 :
カージャール朝による虐殺の方が規模も大きく記憶に新しいのにな。
恐らく>>122はスターリンが熱烈なグルジア愛国者であると同時にカージャール朝のことを
すっかり忘れてしまっていたとの証拠を得ていたのだろう。ここまで断定するからには>>122
には是非スターリンが16世紀の事件であるオスマン朝の虐殺に対する報復を一生の悲願と
していたのに対し、ロシア革命から僅か100年ちょっと前のカージャール朝による虐殺をすっ
かり忘れていたとロシア語やグルジア語文献を駆使して証明して欲しい。
天才的な歴史感覚を有している>>122なら必ず出来るであろう。

126 :
>>122
> オスマンは歴史的グルジアの領土のおよそ半分を奪取して、
頭大丈夫?イメレティがいつカルトリやカヘティと同規模になったんだ?
> グルジア人を強制改宗・民族浄化したので、スターリンから憎まれた。
つまり他の半分(笑)はペルシャに支配されなかったってことか?ソース出せ。
> トルコ領に残る親戚筋のラズ人がその名残
ラジスタンはトレビゾンドから獲得したはずだが。
つまり「トレビゾンドのグルジア占領は綺麗な占領、オスマンの占領は汚い占領」と言いたいんだな。
でなければラジスタンがトレビゾンド支配下でなかったとするソース出せ。
それと、そんなにラズとグルジアに詳しいならラズ語とグルジア語の差異(統語、音韻)について説明よろ。

127 :
イスラムに改宗させられたグルジア人=アジャールですか?トルコ領には残っていないのですか?

128 :
>>127
「改宗した」でなく「改宗させられた」と主張する根拠は?

129 :
>>122人気だなw
書き込んでる時間が午前4時だからただの社会不適合者による妄想にしか見えないんだけど。

130 :
オスマンは歴史的グルジアの領土のおよそ半分を奪取して、グルジア人を強制改宗・民族浄化したので、スターリンから憎まれた
  ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   / ̄ ̄ ̄ ̄ \  =ャ=ャ =ャ=ャ
   |  (゚)   (。) |    =ャ=ャ
   |┌  ⊂⊃ ┐|   =ャ =ャ=ャ=ャ
   |  \___/ |  =ャ=ャ =ャ =ャ
   \  \|/ / ∧_∧
    /  >>122 \ (    ) そうきたかwww 
.__| |      .| |/      ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  / .|   | |
||\..∧_∧    (⌒\|__./ ./
||.  (    )     ~\_____ノ|   ∧_∧
  /   ヽ ワロス      \|  (    )  お前が言うと
  |     ヽ           \/     ヽ.  説得力あるなぁwww

131 :
グルジアの人がそういうのだから間違いない。
トルコ東部の土地を書いた歴史的グルジアの地図もコピーをもらって持っている。

132 :
>トレビゾンドのグルジア占領は綺麗な占領、オスマンの占領は汚い占領
当然。トレビゾンドはグルジアと同じキリスト教国。

133 :
イランの王女はスターリンに美しい体を差し出して、ソ連から安全保障を得たのです。常識です。

134 :
遂にこのスレも真性に占領されちゃったか。いちいち突っ込む
のも馬鹿らしい。
気狂いばかりになった以上はもうこのスレ見る価値ないや。
辞めた。

135 :
と、反論不可能になったリストラ文学部くずれが申しておる。

136 :
本を棄ててフィールドに池

137 :
レリン 早く帰って来てくれ

138 :
オツガイ 早く帰って来てくれ 

139 :
オツガイさんレリンさんはトルコ民族?

140 :
219 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 15:17:14.17 0
コテは世界史板の調味料みたいなもの。素材(名無し)の魅力を引き出すもので、素材があって初めて
価値があるもの。それなのに素材を無視して調味料だけを主としようとする奴等は本末転倒。どっかの
ブログに行くかRばいいのに。

141 :
>130 キルギスじゃないの? 日本に住んでいても目立たないから

142 :
??
>>141

143 :
http://www.george-natalie.us/images/Georgia_map/georgia_XII_century.gif
奪われたグルジアの領土

144 :
レリン 早く帰って来てくれ


145 :
>>144
早くRよカス

146 :
145はアルメニア人「虐殺に復讐」テロリスト

147 :
アルメニア人テロ集団がロシアの支援を受けて無辜のムスリムを虐殺していたことが原因なのに・・・

148 :
219 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 15:17:14.17 0
コテは世界史板の調味料みたいなもの。素材(名無し)の魅力を引き出すもので、素材があって初めて
価値があるもの。それなのに素材を無視して調味料だけを主としようとする奴等は本末転倒。どっかの
ブログに行くかRばいいのに。

149 :
アンチの工作活動乙。
レリン自身アルメニア人虐殺を認めてるんだがな。

150 :
キリスト教徒の宣伝する「正義」など信じてるの?

151 :
すくなくとも短文常時ageキチガイの書き込みは誰も信じないけどねw

152 :
>>150
半年前にアルバニアスレ荒らしたのお前だろう

153 :
ほたら、喪前がまとまった反論文書けばぁ?www
書けないくせにww(呆)

154 :
俺は否定でも肯定でもないけど?なんで論文なんて書かなきゃいけないの?
論文書かなきゃいけないのは必死になって否定してるお前の方だろ?
あ、そもそも日本語がかけないから無理かw

155 :
>>150
じゃあお約束だな。
これはお前が書いたレスだ。
204 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2011/09/24(土) 17:06:49.34 0
ロードス島のトルコ系は立ち退いた。最近行ったら、なんとモスクのあった場所が更地になっていた!

205 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2011/09/24(土) 17:07:56.99 0
トルコ領でギリシャ形が居住を認められていた島も、立ち退いてしまった。
206 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2011/09/24(土) 17:09:31.45 0
土地を売って立ち退くようギリシャ政府が圧力かけてきたのに屈服したと。

こんな大事件があったんなら当然ギリシャとトルコの新聞に載ってるんだがな。
事実だったって証明しろよ。ギリシャとトルコの新聞記事をソースとしてな。

156 :
トルコの小学校はもう夏休みに入ってます

157 :
泉州弁はキチガイの方言としても有名。

158 :
なんでここまでもが雑談スレと同じパターンになってんだよ・・・


159 :
ロードス島は1912年(〜WWUでイタリア敗戦まで)トルコ領からイタリア領になっていたので、住んでいたムスリムは(クレタ島などとは違って)ローザンヌ条約による民族浄化を免れていたんだよ〜ん。

160 :
オツガイ 早く帰って来てくれ 


161 :
>>148
奇妙な美学ですねw

162 :
ちょっとオツガイが来ないだけで、すぐにもり下がってしまうなぁ


163 :
>>160
そうやってコテの名前を連日の様に連呼してグダグダに巻き込もうとするのはコテにとっていい迷惑だと思うけど。

164 :
ttp://romeartlover.tripod.com/Navarin4.jpg
ナヴァリノという所の城壁にあるトルコ語、ギリシャ語、イタリア語のグラフィティだが
トルコ語の端にあるアラビア数字みたいのは「1449」なのか?
でもイスラム教徒ならヒジュラ歴で書くだろうし・・・

165 :
>>164
それルーミー暦じゃないの?

166 :
>>164
暦については良く知らないんだけど、ルーミー暦でもヒジュラ元年を元年として用いるから、
どっちみち西暦より約600年遅れることになるんじゃないかな。太陽暦か太陰暦かの違いでしょ。
まぁ、この写真だけじゃこのグラフィティがどういうものか分からないから何とも言えないけど。

167 :
アンカミスしました。
×>>164
>>165

168 :
ヒジュラ(ムハンマドの聖遷)とインドの両性具有者「ヒジュラ」とは、語源的に関係あるのかどうかぐぐってもわからん。
蝶初ww

169 :
ジャヒリヤの時代には、「暦調整人」といって年毎に生ずる暦日のズレを調整する祭司のようなものがイエメンあたりにいた。
預言者ムハンマド―彼の上に平安あれかし―は邪教と結びついていた彼らを憎み、「暦調整人」を禁止し純粋な太陰暦、イスラーム暦にしたということのようだ。

170 :
ttp://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20120708-OYT8T00397.htm
独学38年、トルコ語解説本製作…和歌山・清野さん
和歌山県串本町職員だった清野信夫さん(80)(新宮市木ノ川)が、
独学で習得したトルコ語の読み書きを学ぶ本を2年かけて製作し、町内の小・中学校などに寄贈した。
トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難事件をきっかけに始まった両国の絆を、
言葉の壁を越えてさらに深めてもらおうとの願いを込めた。
清野さんは「『メルハバ』(こんにちは)と声をかけるだけで、相手は親近感を感じてくれる。
若い人たちのトルコ語普及の手助けになれば」と話している。

171 :
操船はギリシア系が中心だったろうな・・・・

172 :
>>133>>168-169
まともな典拠、ソースを示さずにでたらめなこと書き込むんじゃねえ。
ここは「学問板」だ。信頼できる典拠を用意して、まともな書き込みをしろ。
>>117>>144>>158>>160>>162
ツイッター並の短文ごときに行を多く使うな。容量の無駄だ。
>>89
近代には、オスマン帝国の教育制度、官職を利用して出世したアラブ人は多い。
近代には、世代間での職種の切り換えも見られ、
伝統的にウラマーを輩出してきた家系が、地位の保全、家系の存続のために、
子弟を行政学院や陸軍士官学校に進学させて、一般文官や軍人の道を歩ませることがあった。
Ruth Roded,「Social Patterns Among the Urban Elite of Syria During the Late Ottoman Period(1876-1918)」
 David Kushner(ed.)『Palestine in the Late Ottoman Period: Political, Social and Economic Transformation』,
 Jerusalem, 1986, pp146-171.

173 :
>>168にソースを要求してもしょうがないだろ

174 :
部族連合国家を脱却した時期と要因を2000の字程度で論ぜよ。
「オスマン」の語は5回以上使用してはいけない。

175 :
2chでなにいってんの?

176 :
つ某大学院入学のお題

177 :
ごめん、>>172

178 :
>>168
ヒジュラは「両性具有」者ではないだろ
男だが中身は男でも女でもない存在(まあ平たく言えばオカマ)
で、芸能や興行的な仕事に従事する人々だろ
両性具有ってのはアンドロギュノスだから、
生まれつきチンポもRもR(これは努力目標?)も無ければならん

179 :
>>172
近代のオスマン帝国はバルカン半島の領土を失っていったことで、
アラビア半島のほうにも目を向けるようになったからね。
近代に出世したアラブ人が出てくるのにはそのような背景も一因としてあるのかな。
前近代のオスマン帝国ではアナトリアとバルカン半島が本国といえるような場所であり、
アラブ人よりも、これらの地域の出身者のほうが政府の中枢で目立ってたように思えるから。
まぁ、前近代に中央で出世したアラブ人もいただろうけどね。あまり思い浮かばないなぁ。

180 :
でもイスタンブールの高官で有名なアラブ系の名は知りませんが。

181 :
オツガイのちんこ舐めたい

182 :
スレイマン1世の生母が、キプチャク・ハン国最後の王女だって何かで読んだんだが、
ソース忘れたorz
知ってる人いる?

183 :
>>182
キプチャク・ハン国じゃなくてクリミア・ハン国じゃないかな。
まぁクリミア・ハン国自体、キプチャク・ハン国から分かれた国の一つではあるんだけど。
ともかく、ハフサ・ハトゥンがクリミア・ハン国の王女という話なら結構色んな所で聞くね。
でもこれに関しては異論も少なからずあるようで、彼女は単に異民族の奴隷だったとも言われてる。
要は、ハフサ・ハトゥンの出自についてはっきりとしたことは分かってないみたいなんだよね。
ただ、今は奴隷出身説のほうが有力らしく、クリミア・ハン国の王女は同名の別人だった可能性が高いようだ。

184 :
                    , ---    ,   _ ノ)
  ┏┓  ┏━━┓      γ ==== ヽγ∞γ~  \          ┏┓┏┓
┏┛┗┓┃┏┓┃      i l_|||_||_||_l | | |  / 从从) )         ┃┃┃┃
┗┓┏┛┃┗┛┃┏━━━ | |ー. ー |) |ヽ | | l  l |〃. ━━━━┓.┃┃┃┃
┏┛┗┓┃┏┓┃┗━━━.ノ人 ワ ~∩| ! `从∩ ワノ)━━━━━┛.┗┛┗┛
┗┓┏┛┗┛┃┃      ( (つ  丿ノ   (   ⊂)            ┏┓┏┓
  ┗┛      ┗┛        ( ヽノ      ヽ/  )            ┗┛┗┛
                   し(_)      (_)J


185 :
信者Rよ

186 :
信者じゃなくアンチの嫌がらせだろ。

187 :
>>172>>179
官職には就いていないが、前近代でイスタンブルで活動したアラブ人には、
ダマスクス生まれの神秘思想家ナーブルスィー(1641-1731年)がいる。
近代では、出世したアラブ人には、>>89でも挙げられている
陸軍大臣、大宰相となったマフムート・シェヴケト・パシャ、
イスタンブルの師範学校長サートゥ・ベイ(サーティウ・フスリー)、
オスマン帝国議会議員アブデュルハミト・ゼフラーヴィーに加えて、
アブデュルハミト2世の秘書で、
「ヒジャーズ鉄道委員会」委員長などの要職を務めたイッゼト・パシャ、
ムスタファ・ケマルと共にガリポリ防衛戦や東アナトリアでの対ロシア戦に参加し、
後にイラク王国首相となったヤースィーン・ハーシミーなどがいる。
オスマン帝国議会議員アブデュルハミト・ゼフラーヴィーについては、
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』
(名古屋大学出版会、2011年)で触れられている。

188 :
>>187
>ダマスクス生まれの神秘思想家ナーブルスィー(1641-1731年)がいる。
なるほど、そういう文化人系なら一応アラブ人もいるのね。
でも、官僚や軍人などになって政治の分野で出世したアラブ人の名はあまり聞かないから、
やはり前近代のオスマン帝国ではアナトリアやバルカン半島のほうが政治的には中心だったんだろうね。
まぁ、文化や学問面ではアラブの影響もそれなりにあるんだろうけど。
あくまでオスマン帝国ではアナトリアとバルカン半島のほうが本国で、アラブ地域は周縁地域だったね。
>近代では、出世したアラブ人
近代になると、アラブ人でも出世する人がそれなりに出てくるようになるけど、
やはりこれは、近代以降バルカン半島の離反が目立つようになったことで、
オスマン帝国がアラブ側に少し偏ってきたことが関係してるのかな。
19世紀後半にはアブデュルハミト2世が汎イスラーム主義を唱えたりしてたし、
近代に入りアラブ地域の支配を強化しようという動きがいくつか見られるからね。
それらが、近代に入りアラブ人がそれなりに登場するようになった一因のような気がする。

189 :
>>178,181
アッー!!

190 :
以前『トルコ狂乱』を読んでオスマン朝末期をもっともっと知りたいと思ったんだけど
オスマン朝が生き延びられる道ってなかったのかなあ。
「メフメト6世は腐っていたがスルタン制は必要だ。
われわれはずっとスルタンの塩を頂いてきたのだ」ってある軍人の言葉で
帝政の存続も決して無理ではなかったんじゃないか、と思った。
600年も続いた王朝ってそれ自体が貴重な文化だよ。
自分は作品中でぼろくそに言われている帝政派知識人アリ・ケマルが好き。

191 :
>>190
トルコ狂乱はトルコにおけるケマリズムがかなり全面に押し出されてる作品だからね。
読み物としてはかなり面白い作品だけど、思想的にはわりと偏ってると思うよ。
歴史にIFは禁物だけど、オスマン帝国が生き残る道も場合によっちゃなくはなかったと思う。
オスマン帝国末期になってもまだ多民族国家としてのオスマン帝国を維持しようとしてた人はいたみたいだし、
トルコ共和国になった後も、トルコ人による完全な国民国家がすぐに完成したとは言い難い。
とは言え、史実ではケマル・アタテュルクがオスマン帝国を滅ぼしちゃった訳なんだけどね。
でも、新たな改革を行なううえで旧体制を完全に否定することは必要なことだからね。
ケマルがオスマン帝国滅亡の道を選んだのも仕方のないことだとは言える。
まぁ、革命からしばらく経つとトルコでもオスマン帝国の再評価が行われるようになり、
オスマン帝国を自分たちの偉大な祖先として認識するようになったんだけど。

192 :
でも、ヨーロッパ風の立憲君主制ってなぜかイスラームとは食い合わせが悪いんだよな。
エジプトやイラン、アフガンみたいに王政が倒れるか、はたまたサウジみたいに独特な国ができるか…
ケマルが仮に(メフメト6世廃位、代わりのスルタンを連れてきて)オスマン朝をトルコ統合の象徴として維持したとして、果たして現状と比べ政情は安定しただろうか?
無理に国民国家の体裁をとらなくて良い分、クルドやアルメニア人の問題が史実ほど血生臭くならずにすんでたかもしれない期待はあるが、
結局戦後のどこかのタイミングで他のイスラーム諸国と同様革命が起こっていたのではないだろうか。

193 :
>>190-191
オスマン帝国の立憲政については、>>187でも挙げられている
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』
(名古屋大学出版会、2011年)を参照するといい。
>>192
>でも、ヨーロッパ風の立憲君主制ってなぜかイスラームとは食い合わせが悪いんだよな。
オスマン知識人も含めて、近代のイスラーム地域の知識人の間には、
初期イスラームのカリフが選挙によって選出された例などを引き合いに出して
イスラームと立憲政、議会制の親和性を説明する論調がなかったか?
「イスラームと立憲政は両立しない」などという言い方は、
「東洋=専制」とみなすオリエンタリズムにまみれている。
中東地域における立憲政の不安定さについては、
中東地域の多民族・多宗教性、今なおつづく欧米列強の干渉、
植民地支配の後遺症など、様々な要因について考慮する必要がある。

194 :
>>192
一応、現在でもヨルダンやモロッコみたいに立憲君主制でそれなりに上手くいってる国もあるから、
一概にイスラーム圏と立憲君主制は合わないとは決めつけられないと思うけどね。
とは言え、イランやエジプトみたいに君主制が続かなかった国も普通にあるから、
オスマン帝国が第1次世界大戦後になっても存続できる可能性があったかどうかは断言できないね。
まぁ、所詮は単なるIF論だから何とも言えるし。ただ、当時のオスマン帝国の知識人の間では、
オスマン帝国を多民族国家として存続させるという選択肢もなくはなかったよ。
>>193
「オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体」は面白そうだから今度読んでみようかな。
最近はオスマン帝国の近代化政策に対する再評価が進んできてるので、この手の本も増えてきてるようだしね。
あなたの言うように近代オスマン帝国の知識人の中には、イスラーム的価値観と近代的価値観の折衷を図った人もっ結構いるね。
当時のオスマン帝国では様々な近代化の道が模索されてた訳で、立憲制もそうした近代化の成果の一つだ。
そして、そうした近代化政策はオスマン帝国が滅んだ後もトルコ共和国で引き継がれてきた訳で両者を完全な断絶として見るべきではないね。

195 :
>>192
イスラム教は基本的にシャーリアが不可侵な法だからな
憲法で信教の自由をうたっても無意味

196 :
イスラム教を掲げた多民族国家は結局波状的に他宗教を虐殺、弾圧する事になるから。
ジズヤを徴収しないというのが無理があるんだから。

197 :
>>195
まぁ、だからこそケマル・アタテュルクは政教分離を推し進め、シャリーアの影響力を削いだんだしね。
とは言え、近代オスマン帝国も信教の自由や多宗教の平等を認めなかった訳ではないよ。
ギュルハネ勅令やミドハト憲法にはムスリムと非ムスリムの平等が掲げられてるからね。
そして、シェイヒュルイスラームに代表される当時のイスラームの権威も、この改革路線を認めてはいる。
つまり、必ずしもイスラーム勢力が帝国の近代化路線を妨げてたとは限らないんだよね。
まぁ妨げになることもありはしたけど、イスラーム的価値観が近代化思想と結びついたこともなくはなかったよ。
>>196
>ジズヤを徴収しないというのが無理があるんだから。
オスマン帝国ではないけど、ムガル帝国のアクバルが一応ジズヤを廃止してるよ。
まぁ、インドはヒンドゥー教徒が多かったし、彼自身イスラームを掲げてたとは言いにくいからね。
これは少し特殊な例ではあるか。とは言え、上でも述べたようにオスマン帝国でも、
近代以降は非ムスリムとの平等を認める姿勢を一応打ち出してはいるんだよね。
ナショナリズムが高揚する中、バルカン半島の離反はとうとう防げなかったけど、
それでもオスマン帝国が最後まで多民族国家としての体裁を保とうとしてた点はもうちょっと注目されるべきかな。

198 :
土(耳古)流は流行らせられないだろうか?

199 :
ケバブとか食いものなら流行るかもしれんな。
だがテレビドラマとかその手のものとなると別かと思われる。
かんりゅうドラマがはやっているのは役者の顔が日本人と同じだから親近感があるって面があるだろ。
その点トルコドラマは不利だな。

200 :
スイーツ甘杉!トルコは虫歯、歯抜け数本じゃないヤツなんかいないほど!

201 :
ちょっと前にトルコアイスって有ったね
あの粘るやつ好きだったな

202 :
>>198-199
このスレで何度か話題になってる「壮麗なる世紀」とか、日本でも放送されないのかなぁ。
海外へ売り込むことも視野に入れたドラマらしいので、日本に売り込まれても良さそうなものだけど。
やはり日本でトルコドラマが流行るのは厳しいのかな。
その一方でトルコ料理は最近少しずつ流行ってきてはいるね。
ケバブの屋台なんかは日本でも最近はあちこちで見かけるようになった。
まぁ、あれって実際にトルコで食べられてるケバブとは結構違ってたりするんだけど。
>>201も言ってるようにちょっと前はトルコアイス(ドンドゥルマ)も流行ってたね。
>>200
確かにトルコの菓子はどれも半端なく甘いね。
蜂蜜や砂糖をたくさん使ってて尋常じゃない甘さだ。
ドンドゥルマやアシュレなんかはまだそれなりに食べることのできる甘さなんだけど、
バクラヴァやカダイフとかは甘すぎて、初めて食べた時は最初の一口か二口で食べるのやめてしまった。

203 :
トルコのスイーツは、一部茶菓子のようにごく少量をかじるようにして
無糖チャイを飲むのに合わせて食べ進めると、そんなに悪くない感じ。

204 :
トルコ人は大昔から砂糖を安価に買えたのかな?エジプトが生産地?禁酒戒律から砂糖・コーヒーが大量消費というのが俗説だけど。

205 :
>ケバブの屋台なんかは日本でも最近はあちこちで見かけるようになった。
ハンバーガーと本質上は同じようなドネルケバブ。
http://www.kebab.co.jp/kodawari.html

206 :
日本のカレーが英国風カレーからの流れを汲むように、ドイツとかの欧州スタイルで普及してきてるのかな?
ちゃんとしたトルコ料理店のは、皿に盛られた焼肉状で出てくるよな。ヨーグルトたっぷりかかったのが好き。

207 :
>>203
確かにトルコの菓子はそれ単体で食べるより、チャイと合わせて食べるほうが合ってるかもね。
まぁ、トルコではチャイにも砂糖を大量に入れる人が結構多いんだけどね。
>>204
アナトリアは甜菜の栽培に適してるのか、現在トルコでの甜菜の生産量は結構多い。
今のトルコで使われてる砂糖のほとんどはこの国内の甜菜から作ったものだろうね。
とは言え、甜菜から砂糖を作れるようになったのは18世紀以降のことらしいから、
それ以前はエジプトやペルシャ辺りで生産されたサトウキビを輸入してたんだと思う。
後、バクラヴァとかには蜂蜜なんかも甘味のために使われてるね。
蜂蜜のほうは結構昔からアナトリアでも生産されてるから、こっちも甘味料として昔から使われてたんじゃないかな。
>>206
トルコの屋台で売ってるケバブが日本と決定的に違うのはソースの有無かな。
日本では色々なソースをかけて食べるけど、トルコの屋台で売ってるのにはソースはなく塩味で食べる場合が多い。
屋台ではなく普通のレストランとかでケバブを頼むと、あなたも言ってるように皿に盛られて出てくるね。
トルコ人移民の影響なのか、ドイツではケバブ屋が結構多いらしいので、
日本で売られてるのはドイツなどでアレンジされたタイプのケバブなのかも知れないね。
ヨーグルトがかかってるのはイスケンデルケバブというやつでトルコでは結構ポピュラーだね。僕もあれは好きだ。
ブルサのイスケンデルという人が19世紀に考え出した料理らしく、今でもブルサにはその元祖のお店が存在する。

208 :
>>183
納得した。ありがとう

209 :
>>198
最近、明石書店の「エリアスタディーズ」シリーズでトルコが出たぞ。
大村幸弘、永田雄三、内藤正典編『トルコを知るための53章』 明石書店 2012年。
明石書店の「エリアスタディーズ」シリーズには、
旧オスマン帝国領の国々としては、
アルジェリア、リビア、チュニジア、サウジアラビア、カフカース、アルメニア、
バルカン、ルーマニアなどもあるので、そちらも是非見ていただきたい。

210 :
>>209
それ、この前買ったばかりでちょうど今読んでるところなんだよね。
オスマン帝国に関する記述も結構多いのでここのスレの住人にはおすすめだと思う。

211 :
オスマン帝国はアッシリア人も大虐殺してるんだな。
彼らが虐殺した異教徒は数百万人以上に上る。
虐殺につぐ虐殺を列強の干渉で妨害されてた姿は中国とかぶるな。

212 :
アラブ系オスマン帝国って
どういう意味?

213 :
>>211
第1次世界大戦中にオスマン帝国はアルメニア人以外にアッシリア人も虐殺してたらしいね。
でも、同時期に起きたアルメニア人虐殺と違いこっちのほうはあまり知られてない気がする。
どちらも、第1次世界大戦中の混乱とその後のケマル・アタテュルクの活躍の中でしばらくの間忘れ去られてた事件だ。
まぁ、後にアルメニア人虐殺は国際問題になるけどね。アッシリア人のほうはどうなんだろう。
抗議などは今でも各地で行われてるんだろうけど、アルメニア人に比べるとどうもあまり目立ってない印象だ。

214 :
>>212
アラブ系オスマン帝国って聞いたことないなぁ。
オスマン帝国には当然アラブ人もたくさんいたけど、アラブ人だけが中心だった訳ではないし。
アラブ系オスマン人という言い方なら、まだ何となく言わんとしてることも分からなくはないけど。

215 :
>>213
アルメニア人と比べると、母集団も虐殺数も規模が2〜3割くらいだからかもね。
あと、アッシリア人というのが分かりにくいのかな。
アラム語話者で、かつ東方教会(ネストリウス派)またはシリア正教を信仰する集団っていうのがどうもね。

216 :
>>211
> オスマン帝国はアッシリア人も大虐殺してるんだな。
> 彼らが虐殺した異教徒は数百万人以上に上る。
でも大量虐殺なら日本、アメリカ、イギリス、ロシアなんかと比べると全然少ないから無問題。
> 虐殺につぐ虐殺を列強の干渉で妨害されてた姿は中国とかぶるな。
列強の干渉が虐殺を妨害したというソースは?

217 :
訂正↑
×列強の干渉が虐殺を妨害したというソースは?
○列強の干渉が中国による虐殺を妨害したというソースは?
もし共産党のことを言ってるんなら時代的に「列強」なんて概念はないからな。
さっさと中国歴代王朝の虐殺は列強の干渉で妨害されてたとするソースを出してもらえるかな、ネトウヨ君w

218 :
「アッシリア」人=僭称w

219 :
>>215
一般的にアッシリア人というと古代メソポタミアにあった国のほうを思い浮かべる人のほうが多いだろうからね。
概念的に分かりにくいというのは確かにあるかも知れない。その上、アルメニア人に比べて数も少なかったそうだし。
そのせいで、アルメニア人虐殺に比べると知名度がいまいちなのかな。
>>216
>でも大量虐殺なら日本、アメリカ、イギリス、ロシアなんかと比べると全然少ないから無問題。
人数が少なければ虐殺しても問題にならないって訳でもないと思うけど。
実際、トルコでもアルメニア人虐殺なんかは国際問題になってるから、問題がない訳ではない。

220 :
アッシリア人もキリスト教徒だから欧州の手先とみなされて虐殺される。ウルミエのアッシリア人はWWTのとき居なくなった。とうとうイラク戦争後、イラクからも居なくなった。

221 :
>>220
皮肉にもアメリカ軍の居るイラクでは原理主義者のテロに遭うからシリアへ逃げてるんだよな
フセイン時代は大臣になる人もいた位普通に暮らしてたのに

222 :
トルコのアルメニア虐殺は野蛮な虐殺
アメリカの先住民虐殺は聖なる正義の絶滅

223 :
>>222
ここはオスマンスレだ。
アルメニア人虐殺を出汁にして、アメリカの先住民虐殺を正当化するなどの
関係のない書き込みをするんじゃねえ。
>>211
オツガイよ、荒らし臭が少しでも感じられる書き込みには反応せん方がいいぞ。
近代になると、ムスリムと非ムスリムの関係がギクシャクするようになるが、
それでもオスマン領の非ムスリムには、ムスリムとの良好な関係を維持しようとする者もいたし、
オスマン社会で重要な役割を果たし続けただろう。
オスマン社会の非ムスリムについて知るのに良い文献は何かありますか?

224 :
>>223
> ここはオスマンスレだ。
> アルメニア人虐殺を出汁にして、アメリカの先住民虐殺を正当化するなどの
> 関係のない書き込みをするんじゃねえ。
>>222>>211に対する皮肉だろw


225 :
オスマン帝国が悪いのではなく進歩統一一派がDQN.

226 :
>>223
>オツガイよ、荒らし臭が少しでも感じられる書き込みには反応せん方がいいぞ。
まぁ、確かに少し荒らしっぽいレスだったかな。
それでも、アッシリア人虐殺の話はアルメニア人に比べあまり有名じゃないため、
多少の話題提供にはなるかなと思ってレスしたんだけど。
>それでもオスマン領の非ムスリムには、ムスリムとの良好な関係を維持しようとする者
ギリシャ独立戦争の時のコンスタンティノープル総主教グリゴリオス5世は正教の指導者として、
独立運動を起こしたギリシャ人たちを非難してたね。彼はあくまでオスマン帝国の支配下に留まることを選んだ。
このようにオスマン帝国の維持に努める非ムスリムもオスマン帝国の中には確かに存在したね。
まぁ、そのグリゴリオス5世は当時疑心暗鬼になってたオスマン帝国によって処刑されてるんだけど。
>オスマン社会の非ムスリムについて知るのに良い文献は何かありますか?
オスマン帝国史の文献やバルカン半島史の本を当たれば、
大抵、オスマン帝国支配下の非ムスリムの様子もそれなりに言及されてるよ。
バルカン半島諸国の歴史に関する文献を当たれば、結構詳しく書いてあるかな。

227 :
>>223
>オスマン社会の非ムスリムについて知るのに良い文献は何かありますか?
バルカンの非ムスリムについては、
佐原徹哉『近代バルカン都市社会史―多元主義空間における宗教とエスニシティ』 刀水書房 2003年。
アラブ地域の非ムスリムについては、単行本はあまりないが、
黒木英充の論文を参照するとよい。
歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗T』(岩波書店、2009年)には、
アラブ地域の非ムスリムに関する史料も紹介されている。
非ムスリム商人については、
樺山紘一他編『商人と市場―ネットワークの中の国家』(岩波講座世界歴史15) 岩波書店 1999年。

228 :
すみません「なんでも板」にも書いたのですがこちらのほうが良いかなと思って質問します。
オスマン帝国のバルカン支配の後半、ルーマニア(モルダビア・ワラキア)の事実上の長官である「公」に、代々ギリシャ人が就任してるのはなぜですか?

229 :
18世紀初頭に両公国の公がロシア・オーストリアと内通していたから。
伏線として17世紀末の対ハプスブルク戦の大敗北がある。この時も両公国はハプスブルク側に立った。
これ以降両公国は選挙制から任命制に変わる。

230 :
>>229ありがとうございます。
ということはギリシャ人がオスマントルコ上層部から信頼されていたからというわけではないんですね?

231 :
いや、どちらかというと信頼されてたということ。
その任命されたギリシャ人もイスタンブール在住者の特権階級出身。少なくとも公の候補の
プロフィールや人間関係は把握していた。現地の選出だと直接監視下にあった訳ではない。


232 :
>>231丁寧にありがとうございます!

233 :
http://sankei.jp.msn.com/london2012/news/120801/fen12080108420001-n1.htm
ラダマンでなかったらエジプトの選手が優勝していたかもな
精神的・肉体的にベストコンディションで参加できないのは気の毒だ
21世紀でさえこのありさまなんだから
19世紀に西洋の制度を導入して国政を改革しようとしたスルタンの苦労がしのばれる

234 :
イスラム国でラマダン中にオリンピックやるときは参加選手に断食義務付けようぜ
そうすれば平等だろ


235 :
>>233-234
あまりにも現代的・今日的な話題はこっちでやった方がいいんじゃないか?
中東・北アフリカ近現代史
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1297336647/
★☆★イスラーム史総合スレ  その4★☆★
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1303004948/
>>226-227
オスマン帝国議会の非ムスリム議員については、>>187>>193でも挙げられている
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』
(名古屋大学出版会、2011年)を参照するといい。
鈴木董編『オスマン帝国史の諸相』(山川出版社、2012年)にも
オスマン帝国の非ムスリムに関する論文がいくつかある。

236 :
オスマン帝国末期は汚職がひどかったらしいが政治や経済は信用が無くなったら破綻してしまう
やっぱりオスマン帝国が仮に幸運にめぐまれても現在まで生き残ることはなかったのでは?

237 :

オスマン統治下のギリシャ人って独特だよね。キリスト教徒の特権階級の人もいれば、小作農民もいれば、ユダヤ人のようにバルカン全域の都市にコロニー作ってネットワークを張り巡らす商人もいる。
リガス・ヴァレスティンリスは「パン・ヘレニスモ」をどの程度本気で考えていたんだろう。

238 :
オスマン統治下のトルコ人、ムスリムの大商人は居なかったの?

239 :
>>237
ギリシャ人はオスマン帝国のキリスト教徒の中では最も目立った存在だったね。
そういう意味では確かに独特な存在だったと言えるね。
その多くはいわゆるレアヤーとして小作農民なんかをやってたんだろうけど、
中にはファナリオティスと呼ばれる特権階級も存在したし、商業世界で活躍した人も多い。
ギリシャ商人の中には国内外に様々なディアスポラを築いた例も多く見られたそうだし。
このようにして作られたギリシャ商人によるコロニーの中から、
後のギリシャ独立に繋がるナショナリズムが形成されていく訳だ。
>>238
そりゃ、いたでしょ。イスタンブールを始めとする主要な都市のバザールにはムスリムも多かっただろうし。
後、オスマン帝国時代のムスリムによる経済活動としては、しばしばワクフを利用した投資のことが挙げられるね。
これは女性の間でも行われた経済活動だったようで、ワクフの名目で不動産とかに良く投資してたらしい。

240 :
>>239ありがとう!

241 :
師匠に問います。
オスマンはいつからセルジューク部族国家から帝国になったのでしょうか?また、どうして部族国家が帝国になれたのでしょうか?

242 :
>>234
イスラーム法において戦争中の兵士はラマダン免除。おそらく一国を代表する選手もそれに準じて免除なのではないかと思います。

243 :
241
強力な王権は、異民族を征服・支配する辺境で生まれるものだと思いますが、違いますでしょうか?

244 :
>>241
諸侯国のなかで一番西にあったのでビザンツ帝国への聖戦を名目に
各地から食い詰め者を集めることができた。
初期は布教や領土拡大より略奪のほうに熱心だったようだが。

245 :
やはりそうですか。ありがとうございました。

246 :
分裂しなかった遊牧国家の事例は?

247 :
つ 清

248 :
東北アジア領土紛争の‘見えざる手’は米国
ハンギョレ・サランバン
原文入力:2012/08/20 21:02
http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/1656586.html

249 :
>>237>>239
>リガス・ヴァレスティンリスは「パン・ヘレニスモ」をどの程度本気で考えていたんだろう。
銀行家や大商人を核とした正教徒の環地中海商業網にとって、
資源も市場も小さいギリシア王国が持つ意義は一般に小さく、
ギリシア王国経済は寧ろイスタンブルの銀行家たちから財政支援を受ける立場にあった。
そして正教徒の環地中海商業網の一環としてイスタンブル、サロニカ、
イズミル等の港湾都市が発展すると、その後背地を含む労働市場拡大の結果、
多くの雇用機会を提供した各都市には、多くのギリシア国籍者が引き寄せられていく。
多くの人々が両国を股にかけて活動する中、人口移動の面では、
ほぼ一貫してギリシア王国からオスマン帝国に向かう流れの方が盛んだった。
このため、ギリシア王国もしばしばメガリ・イデアを事実上棚上げにして、
オスマン領内の正教徒商人の地位保全を対オスマン関係の基調に
置かざるを得なくなったそうだ。
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』
(名古屋大学出版会、2011年)を参照。

250 :
ロシアのサッカーチームのサポーターが対戦するトルコのチーム挑発するのに
アタチュルクの肖像焼いたらしい。
こりゃ結構な騒ぎになるな

251 :
対抗してプーチンの肖像を…だめか

252 :
ケマル崇拝って今はもうないでしょ?あるの?

253 :
ケマル崇敬が本気であったら、本来同じ世俗愛国共和主義であるバアス党シリア国家に対して、欧米イスラエルが行ないつつある破壊工作の手先など勤めていない。

254 :
アタチュルク主義は衰退中だが、ケマル人気はむしろ高まっているという不思議

255 :
アナトリアだけの方が良かったンと違うか?
オスマン朝(トルコ)はもちろん、バルカンやアラブにとっても。

256 :
バルカンだけの方が良かったンと違うか?

257 :
>>249
確かにギリシャ独立後もしばらくの間はオスマン帝国のほうが商業的には重要だったね。
オスマン帝国内ではギリシャ人などのキリスト教徒商人も多く活躍してて、
だからこそ、ギリシャを始めとするバルカン諸国や西欧列強はオスマン帝国のキリスト教徒保護を求めた。
タンズィマート以降のオスマン帝国の近代化政策の中で見られる対キリスト教徒政策は、
基本的には、そのような国外からの要望に応じる形で進められてたし。
>>252
2年前にトルコに行ったけど、レストランやショップのみならず一般家庭にもケマルの写真が飾ってあった。
今のトルコは昔に比べると、極端なケマリズム信奉は薄まってるらしいけど、
それでも、ケマル・アタテュルクへの崇拝自体は未だに残ってるんだと思うよ。
>>253
別に似たようなイデオロギーだからって支援するのが当然とは限らないでしょ。
確かにシリアのバアス党は愛国的なアラブナショナリズム的要素もあるけど、
そもそもトルコはオスマン帝国時代の末期にあったアラブ反乱なんかもあるせいで、
アラブナショナリズムには懐疑的な面もあるからね。もともとトルコに限らず、
ナショナリズム同士が対立するなんて例は世界的にも珍しくないし。
それに、最近になって収まってたとは言え、トルコとシリアってハタイ県の領有を巡ってもともと仲悪かったし。
>>254
もう、トルコ革命から90年経ってるからね。ケマリズム自体は少し時代遅れになってるのかも知れない。
その一方で、時間が経過し歴史上の出来事として書かれてく中で、ケマル・アタテュルクの英雄化のほうは強まったのかな。

258 :
トルコ革命をトルキスタンに輸出

259 :
オスマントルコ以前からトルコ系西アジア遊牧民がヨーロッパを席巻している

260 :
>>259
?
フン?クマン?

261 :
>>259
他のトルコ系遊牧民はともかく、オスマン帝国をオスマントルコと呼んで、
トルコ系遊牧国家だとする見方は最近じゃ古い見方となってるけどね。
オスマン帝国はトルコ人以外の民族も大いに抱えてた多民族国家だったし、
ごく初期を除いて、遊牧国家的要素は極めて薄いからね。

262 :
フィン、フン、マジャール、スキタイ=イラントルコ系遊牧民
中国のシルクロードの桃欄のミイラ、タジク族も欧州を席巻した西アジア系遊牧民

263 :
オスマンはバルカン国家。
今もアナトリアのトルコ人達はオスマンからの解放を望んでいる。

264 :
>>262
>フィン、フン、マジャール、スキタイ=イラントルコ系遊牧民
フン族が何系かは諸説あってはっきりしてないはずだけど。
それに、フィン人とマジャール人は、イラン系でもトルコ系でもないよ。
>>263
今のアナトリアのトルコ人がオスマンからの解放を望んでるかどうかはともかく、
確かにオスマン帝国においては必ずしもアナトリアだけが中心地だった訳ではないね。
オスマン帝国の御前会議においてはアナトリア代表よりもルメリア代表のほうが上だったらしい。
つまり、オスマン帝国ではバルカン半島のほうが重要視されてたということになる。
まぁ、中期になると軍隊内でアナトリア出身のムスリムが目立ち始めたりもするから、
アナトリアが別に重要じゃなかったという訳でもないんだけど。

265 :
忘れられがちなアヴァールとブルガール

266 :
電波だらけの糞スレ

267 :
アナトリア=田舎者という感覚だけでしょ?

268 :
>>267
別にオスマン帝国においてアナトリアが田舎だと思われてた訳でもないでしょ。
アナトリアにだって大きな都市はいくつかあるし。オスマン帝国の中では本国扱いだった。

269 :
http://blogs.yahoo.co.jp/benim_minik_kusum/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=2
トルコの日本語ガイドは悪質
土産物屋とつるんでぼったくり価格で絨毯を売りつけている

270 :
イスラムの発展はオスマン・トルコが成立した瞬間止まった
名だたる栄光は全て中世のもの

271 :
>>269
向こうは結構商魂たくましい人が多いから、確かにそれをうっとうしく感じる人はいるだろうね。
とは言え、そういうものだと割り切って無視してしまえば、意外と平気だったりするんだけど。
>>270
いや、その主張は流石におかしいでしょ。オスマン帝国だってかなりの大国だったし。

272 :
ああ、いや
領土の広さとかいう意味で発展と言ったんじゃないから
文明としての発展
特に学問的な発展ね

273 :
>>272
確かに、オスマン帝国時代は学問面ではあまり発展が見られなかったと良く言われるね。
建築や文学など文化面では、それなりに発展してるんだけど。
とは言え、文明の発展って別に学問だけで決まるものでもないから、
学問の発展が止まったというなら分かるけど、文明として発展が止まったというのは言いすぎな気もするなぁ。

274 :
中国でいうと明や清

275 :
>>230>>259>>261>>270
いい加減「オスマン・トルコ」などという誤った表現を用いるのはやめろ。
林佳世子「研究キーワード100 オスマン・トルコ」小杉泰、林佳世子、東長靖編
『イスラーム世界研究マニュアル』(名古屋大学出版会、2008年) 430-431頁では、
「オスマン帝国では、トルコ人が支配民族を構成したわけではなく、むしろ、
 支配層は多民族構成であったことが理解されるにつれ、オスマン・トルコの
 呼称をさける傾向が現れた。1980年代以後の国内の著作物でオスマン・トルコ
 が用いられることはむしろ少ない。」とある。
また、高等学校の世界史教育においても、世界史の教科書
佐藤次高、岸本美緒、木村靖二他『詳説世界史B』(山川出版社、2003年)でも
「オスマン帝国」「オスマン朝」とある。
「オスマン・トルコ」などという誤った表現を使うことは、
世界史をまともに勉強してこなかったことを示すことにもなるからやめろ。
文献からの引用の場合を除いて、
「オスマン・トルコ」という表現は極力避けるようにしようぜ。

276 :
>>275
別に、僕は基本的にオスマン帝国って呼んでるんだけどなぁ。>>261でも、
「オスマン帝国オスマン・トルコと呼んで、トルコ系遊牧国家とする見方は最近じゃ古い」と指摘してるし。
実際、オスマン帝国っていう呼称のほうが実態には合ってるからね。

277 :
妥当であるかは別として
誤用ではない呼称について正しいとか間違ってるとか断定しちゃう奴って歴史に向いてるの?

278 :
>>277
まぁ、言いたいことは分かるけど、オスマン・トルコっていう呼称は明らかに実態に即してないから、
進んで使うべきではないでしょ。オスマン帝国やオスマン朝って呼ぶのが最近の傾向だからそれに従うべきだよ。

279 :
むしろ現代に至るまで基本的にトルコとして認識されてきたこと自体をぼかしそうだけどな
実態も何も「トルコ」という呼称に込められる意味を勝手に決めつけて「それは違う」とストローマン論法やってるだけだろ
あと最近の傾向だから従うべきとか頭わっるいことを堂々と言うなよ

280 :
>>279
>むしろ現代に至るまで基本的にトルコとして認識されてきたこと自体をぼかしそうだけどな
だから、その従来の「オスマン帝国はトルコ国家」という認識が実態に合ってないと言ってるんでしょ。
ストローマン論法も何も、オスマン帝国を「オスマン・トルコ」とわざわざ呼ぶ必要性がないのに、
そう呼ぶのはおかしいからね。国名に「トルコ」という固有名詞がついてる時点で、
オスマン帝国におけるトルコ的要素が必要以上に強調されちゃう訳で、それが好ましくないと言ってる。
「最近の傾向だから従うべき」というのは確かにあまり学問的な発言ではなかったけど、
トルコ的要素が過度に強調されるという弊害のある「オスマン・トルコ」という呼称を使う無理に必要性があるの?
まぁ、そのことをふまえたうえで、かつての西欧や現代トルコ及びその周辺国がオスマン帝国をトルコ国家と見なすようになった背景を、
論じたいというのならまだ分かるけど。もしくは>>275も言ってるように、どこかからの引用とかならその呼称を使うのもうなずけるかな。
でも、>>275がレスしてる>>230>>259>>270は明らかにそのような事例とは違うからね。不適切だと言っても過言ではないよ。

281 :
はあ・・・同時代に生きる人間がトルコとして認識していただけで十分必要性があるんだけど
トルコが歴史的に共有されてきた呼称であり概念でありイメージであるのに対して
オスマン帝国なんてものは新解釈を押し付けるための造語でしかないっしょ
それを「一般の用法においてはトルコと呼ぶな、なぜならそれはトルコ的要素を強調しているに違いなく過度の弊害があるからだ」
ってか
頭おかしいだろ?
一般人に対してオスマン帝国という呼称が何を説明するの?
逆に専門家はオスマン・トルコって呼ばれるだけで錯誤しちゃうの?
背景を論じたいも何もそういう歴史的背景が実在してるのを君が無視してるだけだよ
オスマン・トルコについて論じる人はその歴史的背景をいちいち無視しなくちゃいけないのかね?

282 :
割と発展の例として挙げられる建築すら、1000年も前のアヤソフィアにコンプ持って張り合ってるレベルだからなあ
建築学で見れば多少の違いはあれど、ビザンツ征服後のジャーミィが悉くアヤソフィアを意識しまくりのパクリにしか見えないし

283 :
>>281
>同時代に生きる人間がトルコとして認識していた
そういう認識をしてたのは西欧諸国だけなんだけど。当時の西欧諸国がオスマン帝国の実態を良く知らずに、
勝手にオスマン帝国をトルコ系国家と決めつけ、そう呼んだにすぎない。
オスマン帝国自身は末期になるまでそのような認識は持ってなく、オスマン朝やオスマン帝国という認識だった。
つまり当時の西欧の勝手な偏見に過ぎない訳で、その呼称に現代の歴史家が従う必要はないでしょ。
むしろ、わざわざ実態に即してない西欧の偏見に基づく呼称を使いたがるほうが不思議なんだけど。
>一般人に対してオスマン帝国という呼称が何を説明するの?
少なくとも「オスマン・トルコ」という呼称を使うよりはましでしょ。
世界史の教科書などでその呼称を使うと、「オスマン帝国=トルコ系国家」という誤った認識を持ちやすい。
それを避けるために最近は世界史の教科書でも「オスマン朝」や「オスマン帝国」と呼ぶ。

284 :
>>282
オスマン建築はアヤ・ソフィアの影響強いからね。まぁ違いも結構あるんだけど、
似てる部分も大いにある。パクリと言うと少し言いすぎな気もしなくはないけど。
それでも、オスマン建築なりの独特な点もあるらしい。僕はあまり詳しくは知らないんだけどね。

285 :
”トルコ系”と認識してたかどうかは別じゃ?
ユーゴスラビアではスラブ人のムスリム・ムスリマが「トルコ人」と呼ばれてたというし。(現在、モスレム人と呼ばれてる人たち)
トルコ=オスマンあたりののイスラム教徒程度の概念だったんじゃね?
あと、帝国って概念はどうなの?
オスマン国でいいだろ。

286 :
コンスタンチノーブル→京
ビザンチン→旧朝廷
オスマン→武士団
政権取った時点で旧勢力も他宗派も取り込む。
西ローマ皇帝はゲルマン族が引き継いだが
東ローマ皇帝はオスマンやモスクワが自称した。
オスマンはプロテスタントを援助していたので
シロクマ人よりは支持されていたと思われる。
キリスト・イスラムといっても全て同じ神。日本でいう西国人と東国人くらいの違いです。
皇帝継承権はオスマン自身が興味を無くして立ち消えた。

287 :
WASPはオスマンが作った

288 :
>>285
>トルコ=オスマンあたりののイスラム教徒
だから、その認識が誤解の元になってるからやめようという話でしょ。
スラヴ人だろうとなんだろうとオスマン帝国のイスラム教徒なら「トルコ人」と認識されてた訳で、
これは当時の人たちが「オスマン帝国のムスリム=トルコ人」という誤った認識を持ってたことに他ならない。
あなたも言うように、その中には必ずしもトルコ人じゃない人も存在した訳だからね。
キリスト教徒たちは、「オスマン帝国はトルコ人中心のイスラム国家」という誤解を長い間持っており、
だからオスマン帝国のムスリムは無条件でトルコ人だと認識してた。
しかし、オスマン帝国のムスリムたちは末期まではそのような認識を持ってなく、
彼らにとって「トルコ人」とは田舎者というニュアンスをもった言葉だったんだよね。
そのような理由で、「オスマントルコ」と言うよりは「オスマン帝国」と言ったほうがより実態に近いんでしょ。
トルコという呼称は当時のキリスト教徒たちの誤解に基づく呼称な訳だからね。
>あと、帝国って概念はどうなの?
>オスマン国でいいだろ。
そうだね。だから、実際「オスマン朝」って呼ぶ場合もあるよ。
でも、オスマン朝の国力や領土の広さなどを考えると「帝国」と呼ぶにふさわしい国だったから、
大国だったという意味を込めて「オスマン帝国」と呼ぶ場合も多いんだろうね。
そこら辺は「イギリス帝国(大英帝国)」とかと同じような感じでしょ。

289 :
>>286
最盛期のオスマン帝国ではルーム・カイセリ(ローマ皇帝)を名乗ったスルタンもいたからね。
オスマン帝国では文化や政治などいたるところでビザンツ帝国の影響が見られる。
その一方で神聖ローマ帝国のハプスブルク家とは長い間対立してたから、
オスマン帝国は、敵の敵は味方の論理でプロテスタントを支援してたね。

290 :
鎌倉幕府が八百年続いて、
近代に生き残りのため相模人だけの国に戻った。

291 :
大陸の皇帝権威は数種類
欧州:カエサル
中東:カリフ
西亜:パーディシャー
中華:皇帝
ユーラシア全土:ハーン
オスマンは非ハーン系。東カエサル→最終的にはカリフと名乗る。
ロシアはコンスタンチノーブル陥落とともに、
東カエサルとハーンを同時に名乗り宗主国モンゴルに対し下克上を起こす。
清のヌルハチは中華皇帝とモンゴル・ハーンを継承。

292 :
東方正教会は現在も各国単位で分裂。総本山はイスタンブール。
ルター派はカトリックの偶像崇拝を否定。聖典原理主義に基づき
イスラムのような宗教を目指した異端者一揆でスレイマンの同盟諸候。
今も異端なのでプロテスタントに総本山は存在しない。
・キリスト教(西方)→カトリック
・キリスト教(東方)→東方正教会(イスタンブール)・・・オスマン国内
・異端者一揆→プロテスタント(キリスト教?)  ・・・オスマン同盟
オスマンがないとヨーロッパ社会は何も説明が付かない。

293 :
>>291
オスマンはシャーを名乗ってたよ
パーディシャーでしょ

294 :
いろいろあるけどいろいろあるんだよ
そこはカリフでいいの

295 :
>>293
オスマン帝国の君主号は一般的にスルタンのほうが良く知られてるけど、
パーディシャーの称号も使われてたからね。今のトルコ共和国では、
オスマン帝国の君主はスルタンよりパーディシャーと呼ぶほうが多いみたい。

296 :
スルタン=カリフ制は嘘も百回つけば本当になるの見本だね
落ち目になったオスマン帝国のプロパガンダが1980年代まで事実扱いされていたんだから

297 :
>>296
アブデュルハミト2世なんかはスルタン=カリフ制を利用して、
汎イスラーム主義を唱えたりしてたからね。
こういうイスラーム圏でのナショナリズム勃興なんかも背景にあったから、
当時はスルタン=カリフ制というプロパガンダも受け入れられやすかったんだろうね。

298 :
東方教会でもギリシャ正教とアルメニア正教は対立しているが、
アルメニア正教会はイスタンブールを総本山と認めているのか?
正教徒はイスタンブールを今でもコンスタンチノープルと呼んでいると思うが。

299 :
そもそもアルメニアは「正教」じゃないし
非カルケドン派だから東西教会の区分以前から存在

300 :
>>299 アルメニア、シリア、コプト、エチオピアは私が過去に見た様々な歴史関係本やニュースにも
正教と書かれていた。「エルサレムはユダヤ・カトリック・アルメニア正教・イスラム四つの聖地」とか、
「イスラエルでギリシャ正教とアルメニア正教の聖職者が乱闘」とかが、よく目にした記事であったが、
非カルゲドン派正教会に分類される別系統だそうだ。
ロシア、ルーマニア、ブルガリア、セルビアの正教はギリシャ正教(コンスタンティノープル総主教)の組織。
参考サイト:ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%A9%9F%E6%A7%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A#.E9.9D.9E.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.82.B1.E3.83.89.E3.83.B3.E6.B4.
BE.E6.AD.A3.E6.95.99.E4.BC.9A

301 :
メフメト6世皇帝は「廃位」の直後に
礼拝に出御して、モスクでの呼びかけが
「スルタンにしてカリフたる・・・の御為に」から
「カリフの御為に」となっているのを聞いて
亡命を決意したらしいな。

302 :
>>298-300
アルメニア正教もギリシャ正教もどっちも「正教」と呼ばれてるけど、
アルメニアのほうは非カルケドン派に属するからギリシャ正教とは別の宗派になるんだよね。
「正教」という言葉には狭義と広義の両方があって、
狭義ではいわゆる「ギリシャ正教(東方正教)」だけを指していて、
広義ではそれに加えアルメニアなどの非カルケドン派も含めてる。
コンスタンティノープル総主教の権威というのは基本的にギリシャ正教においてのことだから、
アルメニア正教会はコンスタンティノープル総主教の権威を特に認めてないよ。
>>301
スルタン制の廃止がはっきり決まったのを聞いたことで、亡命を決意したのか。それにしても、
ケマル・アタテュルクへの崇拝のせいで、現在のトルコにおけるメフメト6世の評価は少し低すぎる気がする。

303 :
>>301-302
「国民主権」理念や「国民議会」の発想は第二次立憲政期から見られ、
オスマン帝国議会「代議院(下院)」は新聞論説を中心にしばしば
「国民議会millet meclisi/meclis-i milli」と呼ばれている。
大国民議会最初の憲法典となる1921年憲法の審議過程では、
国民主権を謳う条文はほとんど異論なく直ちに承認された。
藤波伸嘉「国民主権と人民主義―トルコ「1921年憲法」審議過程における職能代表制論議」
『日本中東学会年報』25-1号 2009年。

304 :
トルコに行って見よるむ

305 :
>>303
末期のオスマン帝国ではすでに国民主権の理念が定着してたということか。
まぁ、19世紀半ばにはオスマン帝国でも自由主義思想がすでにもう芽生えてたからね。
末期オスマン帝国において国民主権の思想が定着しててもおかしくはないね。

306 :
イスラム教創生の外道行為はここにまとめられている。
これを読んで入信は思いとどまろう。
A SURVEY OF HOW MUHAMMAD SPREAD ISLAM
By Samuel Green
http://religionofconquest.wordpress.com/2010/11/05/a-survey-of-how-muhammad-spread-islam-by-samuel-green/

307 :
nationと書いて国民・民族だからな。
日本人のイメージする民主化とはそれなりに違うとは思うが。

308 :
>>307
新井政美氏の「オスマン帝国はなぜ崩壊したのか」などを読むと、
オスマン帝国では自由主義思想と民族主義思想がセットで流行ってたことがうかがえる。
青年トルコ人の場合もその例にもれず、自由主義を標榜する一方でナショナリズも唱えてた。
だから、「国民主権」というのがこの場合はどっちを意味するのか少し分かりにくいね。
まぁ、どっちの意味も含んでるのかも知れないけど。

309 :
完全に尊皇攘夷と自由民権運動だな。
その場合の「尊皇」はスルタンではなく汎トルコなのだろうか。

310 :
>>302
>アルメニア
 これに加えてアルメニア使徒教会の場合は最高位の名称が「カトリコス」だから尚更ややこしいw
>礼拝
 礼拝で誰の名を出すかというのは社会によってはなんらかの政変開始を告げる重要なメッセージだからメフ
メト6世が何かを直感したのは不思議でないというか当然というか。オスマン領土内なら、類似例としてブルガリ
ア正教の独立運動が挙げられる。1860年にイスタンブールの聖ステファン教会で行われた所謂「イースター礼
拝」でイラリオン・マカリオポルスキ主教が教会法に反して礼拝をキリロス7世・コンスタンティノープル総主教の
名の下に行わなかった、更にギリシャ語で福音経を読まなかったことにより事実上の「独立宣言」をした事例。
 当然総主教座はイラリオンを断罪しようとするものの実はこれにはカラクリがあってことはそう簡単に進まな
い。礼拝時にイラリオンがキリロスの名を唱える段階でキリロスの代わりに「全正教会の頂点(=神)」とスルタ
ンの名を出したから。これで総主教座がイラリオンを罰するとなると総主教座の方にクーデター疑惑が向けら
れることになる。これは無論ブルガリア民族主義者と事前合意の上での行為で、その後同じ形式の礼拝がブル
ガリア人居住区で継続して行われるようになる。イラリオン本人は結局はアトス山に「流刑」で済み、10年後には
ブルガリア正教がフェルマンにより正式に承認されることになる。
>メフメト6世
 今世紀に入ったあたりからトルコでやたらメフメト6世関連の書籍が出ている(バックカバーに「裏切り者か愛国
者か」とか言った様な説明文つきで)。興味ないからどれも読んでないしどんな内容なのか憶測すらできないが、
こういった書籍が発売されること自体が従来の歴史観に対する「見直し論」が始まっているということだとは思うが。

311 :
現在も金曜礼拝で最高権力者の名をとなえるの?

312 :
http://www.haremmanga.com/manga/minamoto-kun-monogatari

313 :
象徴スルタン制の可能性はなかったのでせうか?

314 :
>>310
>アルメニア
ギリシャ正教(東方正教)の主教もカトリコスと言うからね。
確かに、混乱しそうではあるね。
>礼拝
支配者の名前を礼拝で読み上げるのは結構よくあることだからね。
オスマン帝国に限らず、イスラーム圏では支配者が交替するごとに、
モスクでの礼拝の際に呼ばれる名前が変わってたそうだし。
まぁ、レリンの言ったブルガリアの例なんかを見るに、
礼拝と支配者の関係は何もイスラームに限った話でもないんだけど。
バルカン半島では正教が民族主義運動に直結することがしばしばあったからね。
ギリシャ独立戦争の時も正教会が煽動した例が見られるし(総主教はやらなかったけど)、
ブルガリアの民族運動も最初は正教会の独立運動として始まった。
ブルガリア正教を巡る1860年のこの騒動も、そういった例の1つとして見ることができるかな。
>メフメト6世
へ〜、最近じゃメフメト6世に対する見方も変わってはいるのか。どうも「トルコ狂乱」とかのせいで、
未だにトルコ共和国ではメフメト6世を売国奴として見る見方が強いように思えたんだけど、
そういう捉え方に対して見直しを図ろうとする動きもなくはないのね。
トルコ共和国ではビザンツ帝国に対する評価も最近変わってるきてるみたいだし、
まだまだケマリズム的な歴史観が根強いとは言え、それに対抗する歴史観も芽生えてきてはいるのかな。

315 :
>>313
ケマル・アタテュルクが最初にスルタン制だけを廃止してカリフの位を残したのは、
まさに象徴君主制のような考えから来てると思うんだけど。スルタンと言う世俗的権威をなくし、
象徴的な宗教権威であるカリフの称号だけを残すことにしたんでしょ。
まぁ、結局はカリフのほうもなくすことにしたんだけどね。
世俗主義を柱とした近代化政策を行なう上で、カリフ制は邪魔だったし。

316 :
ただのトルコ人の王様ならどうとでもなっただろうけど、名目上イスラーム全体の指導者だったからなあ

317 :
>>316
だからこそ、オスマン家のカリフがいなくなった瞬間、ハーシム家のフサインがカリフを名乗った訳だしね。
まぁ結局ハーシム家はカリフになれなかったけど。政教分離を進め国民国家建設を目指すケマルにとって、
イスラーム圏全体の代表を意味するカリフは好ましい存在ではなかったんだろうね。

318 :
誰かが別のトルコ国王を名乗るとか

319 :
>>318
そこまでして君主制を続ける意味もないでしょ。少なくともケマル・アタテュルクはそう思ってた。
オスマン家がいなくなった今、ケマル以外に権威のある存在を置いておく必要もないし。

320 :
>>314
> ギリシャ正教(東方正教)の主教もカトリコスと言うからね。
アルメニアの場合はカトリコスが「パトリアルク」の上位。しかもカトリコスもパトリアルクもそれぞれ2人いるし。

> ギリシャ独立戦争の時も正教会が煽動した例が見られるし(総主教はやらなかったけど)、
グリゴリオス5世は元々セリム3世側の人間と見られて一回アトス山に追放されたし、恐らくはマフムト2世も何
か機会があれば処刑しようと思っていたのかもしれない。更に運が悪いことに反乱側のイェルマノス)の友人
だったことも影響しているだろう。
> ブルガリア正教を巡る1860年のこの騒動も、そういった例の1つとして見ることができるかな。
この時代の聖職者はインテリ層を成していたから農民層よりは遥かに民族主義運動に共感する訳で。
> まだまだケマリズム的な歴史観が根強いとは言え、それに対抗する歴史観も芽生えてきてはいるのかな。
個人的にケマルものはお腹一杯だし、「トルコ狂乱」はプロパガンダ臭がしそうなので読んだことがない(いや、
プロパガンダならプロパガンダで重要なのだが)。ただAKPが与党である間は伝統的な歴史解釈への挑戦
は続くんじゃない。少数民族名使用の禁止も解禁されているし。


321 :
>>320
訂正
> グリゴリオス5世は元々セリム3世側の人間と見られて一回アトス山に追放されたし、恐らくはマフムト2世も何
> か機会があれば処刑しようと思っていたのかもしれない。
これ取り消し。ムスタファ4世と勘違い。しかもグリゴリオスとは別人の話。グリゴリオスはマフムド2世の部下
と対立してたとのこと。

322 :
>>320
>アルメニアの場合はカトリコスが「パトリアルク」の上位。しかもカトリコスもパトリアルクもそれぞれ2人いるし。
ふ〜ん、そうなんだ。ギリシャ正教と色々名前がかぶってる割りに細かいところで相違点があってややこしいなぁ。
正直、恥ずかしながら僕はアルメニア教会ってあまり良く知らないんだよね。
>グリゴリオス5世
なるほど。もともとマフムト2世はグリゴリオス5世を処刑したがってたのか。
ギリシャ側のパトラ府主教イェルマノスの友人だったことも処刑の口実になったのね。
まぁ結果的に、マフムト2世によるコンスタンティノープル総主教の処刑は、
ギリシャ人のみならず、ロシアなど他の正教徒たちの反トルコ感情まで高揚させてしまった訳で、
政策としては失敗だったのかなという気がする。
>ブルガリア正教
セルビアと違いブルガリは正教会が近代まで独立してなかったんだよね。
ブルガリアにおける民族運動が正教会の独立運動から始まったのにはそういう背景もあるのかも知れない。
まぁもちろん、そもそもブルガリアでは知識人の多くが聖職者だったからというのも理由としてあるだろうけど。
>「トルコ狂乱」はプロパガンダ臭がしそう
「トルコ狂乱」は確かにプロパガンダ臭が強かったね。典型的なケマリズム満載の小説という感じだった。
>ただAKPが与党である間は伝統的な歴史解釈への挑戦は続くんじゃない。
確かにAKP政権になってからはクルド人政策なんかもだいぶ進んだしね。
歴史学の世界でも、従来のケマリズムに対する挑戦が活発になってきてるのかも知れない。

323 :
>>321
あれ?グリゴリオスとマフムト2世の対立は間違いだったのか。
マフムト2世の部下とは対立してたらしいけど、マフムト2世自身とは対立してなかったのかな。
だとすると、彼がグリゴリオスを処刑したのは、良く言われるように単に疑心暗鬼に陥ったからなのだろうか。

324 :
別に逆らう気なんか毛頭なかった総主教さんを処刑しなかったらギリシャ人の半分くらいはオスマン側に留まっていたのにな。

325 :
>>322,323
色々手元の書籍を見てみたけどグリゴリオスが直接的にマフムトと対立していたり反乱軍と内通していたとす
る説は見当たらなかった。やはり疑心暗鬼の要素が強かったのかと。
> ブルガリアにおける民族運動が正教会の独立運動から始まったのにはそういう背景もあるのかも知れない。
むしろ大いにある。セルビアは早くから自治教会を認められていたから「セルビア人」呼称も残り、セルビア語
での礼拝も可能だったが、ブルガリアの場合は独立教会でなかったため「ブルガリア人」は蔑称に、ブルガリ
ア語は教区ごとあるいはその時々の総主教座の方針により寛容だったり弾圧対象だったりする。その意味で
ブルガリア語礼拝を安定的に行える環境にするには教会の独立が必要。


326 :
>>324
マフムト2世って内政面ではオスマン帝国の近代化を進めたりしてて結構優秀なんだけど、
ギリシャ独立戦争やエジプト・トルコ戦争なんかでは失策もわりと目立ってるんだよね。
エジプト・トルコ戦争では外交政策を何とか駆使してムハンマド・アリーに対抗できたけど実際の戦闘では勝てなかったし、
ギリシャ独立戦争では総主教の処刑という失策を行なってる。それ以外の点では普通に名君なんだけどね。

327 :
>>325
やはり、マフムト2世が総主教を処刑したのは疑心暗鬼の陥ったからなんだろうね。
この点は普通にマフムト2世の失策だなぁ。
>ブルガリア
セルビアと違いブルガリアでは正教会が独立してなかったために、
ブルガリア語の地位も安定せず、ブルガリア人も蔑称となってたのか。
やはりその点がブルガリアの民族運動に大いに関係してたんだろうね。
ブルガリア正教の独立運動がやがてブルガリア人としての民族運動に発展していった訳だ。

328 :
>>324
ギリシア独立後も、新政府の失政が目立ちギリシア人のオスマン領への移住は続いて言う。
貿易で栄えていたスミルナのギリシア人は増えた。

329 :
>>328
まぁ、独立直後のギリシャも結構政情不安なところがあったからね。
イズミルは近代オスマン帝国において国際的な商業都市だったね。
イズミルには、ギリシャ人を始めとするキリスト教徒の商人が多くいた。
だからこそ、第1次世界大戦後にギリシャとトルコの間で争奪戦の対象となったのだし。

330 :
関係ないけどPCゲームのcivilization5でオスマン帝国が弱く設定されるのが泣ける。

331 :
イズミルだけで満足しておけばよかったのに、欲かいて(キリスト教徒住民のほとんど居ない)内陸部奥深くまで攻め込んで元も子も亡くした。
日中戦争の日本もそうだったが。

332 :
ギリシアはアホ

333 :
>>331
まぁ当時のギリシャはメガリ・イデアの思想が強かったからね。
しかも当時オスマン帝国は第1次世界大戦で敗れたばかりだったから、
ギリシャにとっては領土拡大のチャンスだったろうし。

334 :
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/MYBLOG/yblog.html?m=l&p=88


335 :
興味のある人がいるかどうか判らないけど、以前紹介したFetih1453のDVDがトルコで発売。新聞報道による
と字幕は土、英、仏、独、蘭とクルド語とのこと。ドイツでは10月2日に発売予定で、字幕は英、独、蘭。

>>330
群島マップ専用ということで・・・。

336 :
オスマン帝国の公用語はアラブ地域以外ではオスマン語だけだったのですか?
アラブ人はトルコ語を一切受け入れそうになさそう。

337 :
鈴木董の「オスマン帝国」には「時には、支配地域の中枢から出る勅令や
勅許状も、ギリシャ語などで書かれることもあった。アラブ地域では、アラ
ビア語が公用語的に用いられた」と書いてあるよ。
つまり、厳密な意味での公用語=オスマン語、地方あるいは二次的公用
語=その他ってこと。

338 :
>>335
へ〜。前スレで言われてたメフメト2世の映画のDVDが発売されたんだ。
僕は英語字幕しか読めないので、もし観るとしたらそれを観ることになるかな。
日本で入手するにはアマゾンとかで輸入するしかないんだろうか。
別にまだ買うと決めた訳ではないんだけど、少し気になる。
それにしても、結局あの映画って興業収入的には成功したのかな?
>>336
市民向けの文書や日常会話なんかは普通にアラビア語のほうが多く話されてただろうけど、
公用語はアラブ地域でも基本的にオスマン語だったよ。そもそもオスマン帝国領アラビアでも、
基本的には、中央から派遣された人(大抵はオスマン語話せる)が各州の総督を担当してたしね。
まぁ、マグリブみたいに中央からあまりにも離れてて中央の影響が弱かった地域は例外だけど。
とは言え、アラビアではトップはともかくその下で働く官僚たちのほとんどはアラブ人だったろうから、
行政の場面でも、正式な文書じゃない限り日常的にはアラビア語のほうが使われてたと思うよ。

339 :
>>337
中央で出される勅令なども、地方に向けて出されるときは、
その地方の言語で出される場合があったからね。
政府で使われる正式な文書などは基本的にオスマン語だったけど、
それ以外ではしばしばその地域ごとの言語が使われてたね。

340 :
昔のアラブ人が外国語を話したのだろうか?

341 :
一番えらいアラビア語を話しているという意識があったので、アラビア語には(近代まで)外来語が極めて少ない。

342 :
ブルガリア語やルーマニア語は文語も未確立だったので、平民が話すぶんには
黙認というだけで公用語じゃなかったでしょう。

343 :
>>340
中央で働く場合はほぼ確実にオスマン語を話せなければいけないから、
アラブ人だろうとオスマン語を話そうとするんじゃないの。まぁ、近代はともかく、
前近代のオスマン帝国で、中央で活躍したアラブ人の例ってあまり思いつかないんだけど。

344 :
>>338
 注文するんだったら、今の段階ではトルコとドイツの通販サイトを通じてしか入手できない。アマゾンと言って
も独アマゾンのみだから日本のアマゾンで販売される可能性はほぼゼロ。英語圏でDVDが販売されれば日本
のアマゾンにも入荷するかもしれない。
 収入のほうはどうだったか分からないが、5月初頭の段階で観客動員がのべ650万人だとかで、映画を拡張し
たテレビドラマの作成が予定されているっていうから充分すぎるほど儲かったんじゃないの?
>>342
 それは時代にもよるが、実際にギリシャ語が公用語の地位にあった。中央政府は地方自治体レベルの法令
とかにはよほど勅令やシャリーアと矛盾でもしない限り干渉しない場合が多く、それらのレベルでは独自の慣
習法や「憲法」が有効な場合がある。成文法で見た場合、例えばメルニック(ブルガリア)の「基本法」なんかが
挙げられる。メルニックの住民の母語は主としてブルガリア語だが、市議会や市民の権利を定めた基本法は
全てギリシャ語(民族意識上ではバラバラ)。当地のアンシモス府主教に承認された上での1813年制定だから
ギリシャ語が地方公用語として正式に使用された例と言える。
 ただ、「黙認」というのはニュアンス的に「見逃す」と通じるからちょっと違うような。
(ttp://thesaurus.weblio.jp/content/見逃す)
>>343
 むしろ前近代だと医療関係者は医学の進んだアラブ地域から採用される例が比較的多かったのでは。セリム
1世の代より宮廷医として仕えたカイロ出身の所謂カイスーニーザーデ家が例として挙げられるが、同家のスレ
イマンに仕えたムハンマド・バドル・アル=ディーンもトルコ語は殆どできなかったとか。同様に、当時主流だった
ガレノス理論を批判したアレッポのイブン=サッルームはメフメト4世に仕えている。
 逆の例だが、エヴリヤ・チェレビの記録によるとチェレビがベドウィンの軍事指導者にあった際にチェレビが社
交辞令を(恐らくアラビア語で)述べると流暢なトルコ語で返礼されるというシーンがある。チェレビは全作を通じ
てところどころに誇張、伝聞、出鱈目も交えているからこの話の信憑性については何も言えないが、実際に行政
用語としてオスマン語が使用されている以上、類似の例は多かっただろう。
 

345 :
欧米の人間は物書きでも「オスマントルコはギリシア語を弾圧したが、ギリシア人は話し続けた」という人間が多い。
何か根拠でもあるのか?独自の神学校が抑圧された事もあったのを言ってるのだろうか?

346 :
>>344
>fetih 1453
今のところトルコとドイツでしか発売されてないのか。
それだと手に入れるのはほぼ不可能だなぁ。諦めるしかないか。
それにしても、観客動員数650万人ってことはかなりの大ヒットだよね。
TVドラマまで放送するぐらいだし、トルコじゃかなり人気あったのかな。
観てみたいなぁ。
>ギリシャ語
オスマン帝国支配下のバルカン半島では、正教会やファナリオティスなど、
あらゆる場面でギリシャ語やギリシャ人が中心になってたからね。
ワラキアやモルドヴァではファナリオティスが公になってたぐらいだし、
19世紀に起きたルーマニアやブルガリアの民族運動は、
トルコ人ムスリムだけでなくギリシャ人に対する抵抗運動でもあった訳だしね。
>アラブ人
前近代オスマン帝国の医療関係者ってアラブ人が多かったのか。知らなかったなぁ。
もともと医学はアラビアのほうが進んでたからということなのかな。
エヴリヤ・チェレビーの旅行記の話はなかなか参考になるなぁ。
アラビア地域でもオスマン語がある程度通じることはあったということか。
近代でも、ムハンマド・アリー朝では政府上層部にトルコ人が多かったそうだし、
政府関係者や、社会的地位がある程度高い人は、アラブ人でもオスマン語話せたんだろうね。

347 :
欧州人が持つトルコに対する敵対心はコンスタンティノープルを陥落させたことが遠因なんかな

348 :
歴史物って流行らないっていうイメージがあるけど外国では違うのね。
しかもビザンツ帝国滅亡っていう政治色が特に出る部分だし。

349 :
ウィーン包囲でやべえよやべえよってなったときが始まりでないかと。


350 :
コンスタンティノープルの時はある種の諦観が大きかったと思うね。
さすがにウィーンまで包囲されたら、どえらい恐怖でしょう。

351 :
強かったにも関わらず、トルコ・ムスリム側からは、よほど弱体化するまでは、
ヨーロッパを侮っていたせいか、穢れたい教徒の地とみなしていたせいか、
自ら旅したり、知識を吸収したり、外交官を置こうとしなかったことが衰退の原因だ。

352 :
>>336-344
オスマン帝国憲法のアラビア語訳のうち、公式訳
「Ta‘rib al-khatt al-munif al-Sultani, Tarjama Rasmiya」、
「al-Qanun al-Asasi Tarjama Rasmiya」は、憲法公布後12日から19日遅れで、
当時、帝国でもっとも普及していたアラビア語新聞『ジャワーイブ』に掲載されたそうだ。
大河原知樹は、
オスマン帝国憲法のアラビア語公式訳は、主にトルコ語テクストから翻訳されたと考えている。
その理由として、アラビア語とトルコ語に共通の語彙が多くあること、それによって、
トルコ語をそのまま、あるいは少し変えるだけで比較的簡単に訳を作成することが可能なことを指摘している。
大河原知樹「オスマン帝国憲法の成立とその特色」
 粕谷元編『トルコにおける議会制の展開―オスマン帝国からトルコ共和国へ』 東洋文庫 2007年。

353 :
>>347
でも、西欧では長い間ビザンツ帝国に対するイメージも悪かったんだよなぁ。
コンスタンティノープル陥落が当時のキリスト教徒に与えたショックは今更語るまでもないけど、
その一方で西欧ではビザンツ帝国に対するマイナスイメージも長い間根強かったんだよね。
>>350
コンスタンティノープルは確かにもはやいつ陥落してもおかしくない状態だったからね。
ウィーン包囲のほうが西欧諸国に与えた恐怖は大きいだろうね。
当時のウィーンはビザンツ帝国と違って衰退期でもなかったし。
>>351
実際、オスマン帝国では完全に衰退期に入るまで、
西欧に本格的に学ぼうとはしなかったからね。
しかも、衰退期も最初は軍事的な改革のみ西欧に学んで、思想や制度はそのままだった。
全面的に西欧に学ぼうとし始めたのは19世紀に入ってからだ。
それまではオスマン帝国もまだまだ大国としての自負心が強かったのかな。
>>352
なるほど。オスマン帝国憲法のアラビア語訳はトルコ語から翻訳された可能性が高いのか。
この憲法ではトルコ語が公用語だとはっきり明記されてるね。
トルコ語(オスマン語)はアラビア語からの借用語も多く含んでたらしいから、
アラビア語に翻訳するのも楽だったんだろうね。それに、もともと憲法は、
オスマン語で書かれてただろうから、そのまま翻訳するほうが手間もかからないし。

354 :
オスマン帝国末期からトルコ語を非トルコ語に押し付けていたのですか?

355 :
>>354
確かに末期オスマン帝国では国内でトルコ語教育が押し進められたりもしたらしいね。
基本的に中央で出世したいのならば、末期じゃなくてもトルコ語は必要だったろうけど。

356 :
クルド人はスルタン制を復活させ共和制をつぶそうとしたのであぼーんされて当然と、トルコ史の本に書いてあった。

357 :
クルド人の何割がトルコに同化したんだろう
かなりの数のクルド人がトルコにはいるらしいが、アイデンティティ保ててるのか疑問

358 :
>>356
スルタン制というよりは、カリフ制のほうじゃないの?
ケマル・アタテュルクの時代に、カリフ制廃止に抗議するクルド人の宗教反乱が起きてるからね。
多分、あなたの読んだトルコ史の本はそのことを言ってるんだと思う。
>>357
クルド人の中には、トルコ人の社会に交じって同化してる人も結構いるらしいからね。
イスタンブルなどの都市部では、クルド人がごく普通に生活してるそうだ。
そういう人は、パッと見ではトルコ人と区別つかないし、実生活でも他のトルコ人と同じように暮らしてる。
もちろん、東部の田舎などではクルド人としてのアイデンティティを守って生活してる人もいるんだけど。

359 :
http://www.george-natalie.us/images/Georgia_map/georgia_XII_century.gif
極悪なトルコに奪われたグルジアの領土

360 :
グルジア王国時代の版図にあたる部分は現代のグルジアの領土であるべき!という主張がどこまで妥当かというのが問題だ。
個人的には時代が遡るほど無理があると思う。
清朝はチベットに影響力およぼしてたからチベットを中(華人民or華民)国が取るのは当然!というのは
自分はありだと思うが、グルジア王国となるとな。

361 :
グルジア国の少数民族であるより
ロシア連邦の一員になりたがっている民族集団があるからな

362 :
そんなん、昔の版図を言い出したらドイツが一番気の毒な気が
プロイセン領ほとんど失ってるし

363 :
そんなん、それほど昔でない領土を言い出したらフィンランドが一番気の毒な気が
カレリア領ほとんど失ってるし
ソ連にいじめられて仕方なくドイツに助けを求めたのにナチスの仲間にされてしまったし


364 :
そもそもトルコ人は、ビサンツの治安維持能力喪失に漬け込みギリシア語人アルメニア語人のキリスト教徒、クルド人?宗教の住んでいたアナトリア半島に、
遊牧人として北斗の拳のバイク盗賊団のような感じで侵入してきて取って代わったのでしょう。

365 :
グルジア語および他のコーカサス諸語人キリスト教徒も、かってはもっと居たでしょう。

366 :
乗り込んで来たと言ったって室町時代の話だしな。
鎌倉時代にモンゴルが来てその前は奴隷武士が連れて来られていた。
そんな平安時代の話を言われても
そもそもはそちらの方が連れて来たんでしょ。

367 :
ビサンツ時代から合法的に移住してきたチュルクもいたということですか?

368 :
俺の脳内知識ではトルコ系はマムルークなんだけど

369 :
マムルークにはコーカサス系も居たよ。
アフリカ系が兵士になれなかったのは何でなのかな?黒人差別のため?

370 :
>>367
傭兵みたいな感じでビザンツ帝国に雇われたトルコ人も一応少しはいたと思うよ。
どれぐらいの数だったかまでは分からないけど。
>>369
黒人差別も一因としてあったと思うけど、
マムルークが騎兵中心だったからってのもあるんじゃないかな。
馬の扱いに慣れてそうなトルコ人なんかを選びたかったんだと思う。

371 :
マムルークのリクルートって、やっぱり奴隷市場みたいなところで、
半裸で鎖につながれてるのを、買い手の主人がいろいろ物色して買っていくんだろうか?
競り市みたいな感じなのかな?
で、奴隷商人にムチでピシピシひっぱたかれたりしてるのかな?

372 :
>>371
まぁ、初期はそんな感じだったかも知れないけど、
マムルーク朝なんかではマムルークの供給源である奴隷商人が優遇されたらしいので、
奴隷商人もマムルークとして売る予定の奴隷には最初からそれなりに丁寧な扱いをして売ってた。
そうすれば、後で彼らがマムルーク朝で権力を握った時に優遇してもらえる可能性が高くなるからね。
実際、バルクークなんかは自分を売った奴隷商人のことをかなり気に入ってたそうだし。

373 :
中央アジアで村のヤンキーを厄介払いのため奴隷商人に売り飛ばした。

374 :
>>368-370
オスマン帝国治下のエジプト、イラクでは、17世紀から18世紀にかけて、
グルジア人、チェルケス人などのカフカース系のマムルークが半独立の政権を築いている。
エジプトに攻め込んだナポレオンと戦ったイブラヒム・ベイは、
本名アブラマ・シンジカシュヴィリというグルジア系のマムルークだ。
オスマン帝国以前のマムルークはスレの趣旨から外れるので、こっちでやろう。
★☆★イスラーム史総合スレ  その4★☆★
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1303004948/

375 :
>>374
そうだね。オスマン帝国以前のマムルークの話はスレチだったね。すまない。
マムルーク朝以降もオスマン帝国領のエジプトではマムルークたちが勢力を保ってたね。
彼らの中にはカフカース系の人物も多いんだよね。彼らはしばしば事実上のエジプト支配者にもなってた。
こういうマムルークたちは、19世紀初頭にムハンマド・アリーが完全に消滅させるまで、
エジプトで権力を握ってたんだよね。彼らは余所者ということでエジプトの民衆から嫌われることもあったらしい。

376 :
ムハンマド・アリーが卑怯にも騙まし討ちで全員あぼーん虐Rるまで、マムルークの新規購入リクルートは続けられていたらしい。

377 :
オスマン帝国では二束三文の雑兵だったムハンマド・アリーらアルバニア人が居たのでマムルークは不要だったのかも。

378 :
ムハンマド・アリーは、煙草屋やってた、ただのおっさんだったのが徴兵されて引っ張っていかれ副隊長にされたところを隊長がトンズラしたことから成り上がる。

379 :
>>376-378
ムハンマド・アリーはマムルークがエジプト近代化の障害になると思ってたようだね。
マフムト2世がイェニチェリを消滅させたのと似たようなものかな。
彼の成り上がりっぷりはなかなか面白いね。
しばしば「アレクサンドロス3世と生まれた時や場所が同じこと」を誇ってた辺り、
愛嬌があると言えるかも知れない。

380 :
マムルークって集団就職か養子縁組みたいなもんだよな。
海外留学した移民とか少年工科学校に入った奴を奴隷と呼ぶようなもんだろ。
"奴隷"の意訳に悪意を感じるよ。

381 :
マムルークってお稚児さんみたいなもんだよな。

382 :
親が自発的に寄宿舎学校みたいな養成所に預ける → 十分訓練されたら他国に売られ、権力者兵舎に入って出世競争。
・・・・たしかに、奴隷って訳はどうかと思う。どの段階でも、そんな待遇は受けてないよな。
たぶん「売られる」ってとこからそうなったんだと思うが。でもこれは現代の若手サッカー選手の道とほぼ同じなんだよなぁ。

383 :
ためになるわ

384 :
ローマの剣闘士のようなものか?

385 :
マムルークの平均寿命で比べるべきなんでないの。
マムルークは兵士なわけで、戦死の危険がある。
そのへんの農民か、王族かよりかなり早く死ぬなら
他人より早く死ぬことを強制されている不幸な存在といえるだろう。

386 :
東大卒の自殺者とか多いぞ。
英才教育の不幸を不幸と呼ぶのなら不幸な存在なのだろう。

387 :
オスマン帝国に滅ぼされたアナトリアの君侯国でなんか面白い話ない?

388 :
トレビゾンドの最後落城は悲惨な皆殺し

389 :
トレビゾンド皇帝ヨハネス4世→トレビゾンド皇女→白羊朝王女→サファヴィー朝初代イスマイル
ビザンティン帝国(コムネノス王朝)の血がオスマン帝国の仇敵サファヴィー朝に流れ込んでいる

390 :
>>389
へ〜、そういう見方は面白いね。確かに、サファヴィー教団は白羊朝との関係から、
トレビゾンド帝国と婚姻関係を結んでるからね。まぁ、イスマーイール1世自身が、
そのことを意識したうえでオスマン帝国と敵対したのかどうかは知らないけど。

391 :
オスマン人としてのアイデンティティを作るのは無理だったのかな
例として、ユーゴスラビア人の概念を作れなかったところからみると無理だと思えるけど
キリスト教徒のギリシャ人やアルメニア人は別として、クルド人には適用出来なかったのか

392 :
クルド人ってペルシャ系だからねえ。
バルカンより可能性低いと思うよ。

393 :
>>391-392
青年トルコ人のメンバーにはクルド人なんかもいたし彼らはオスマンナショナリズムにも結構好意的だった。
だから、オスマン人としてのアイデンティティにクルド人が加わるのも全く無理ではなかったと思う。
ただ、実際の歴史ではセーヴル条約でのクルド人独立をケマル・アタテュルクがつぶしてしまい、
それ以降は、トルコ人による同化政策と、それに反発するクルド人との間で、衝突が増えるようになってしまったね。
まぁ、トルコからの分離独立を支持しないクルド人自体は今でも結構いるらしいんだけどね。

394 :
アタテュルクはヨーロッパ人だからね。
トルコというアイデンティティの存在は西洋人との決別だから。
クルド人がイスラムグループというのはその他世界の勝手な見方で
印欧族のクルドがトルコ人に成れるわきゃ無い。
民族主義とは同化政策のことだからギリシャ人やアルメニア人で
同化をした者は全てトルコ人として生きてるわけで。
連邦国家を単州国家に作り直したわけだから簡単には原則は崩せないよ。

395 :
>>394
何だかんだ言っても、多民族国家であることを前提とするオスマン帝国と、
トルコ人としてのアイデンティティを基盤にしてるトルコ共和国じゃ、大きく違うところがあるからね。
ケマルは前者を否定して後者に作りかえた訳で、クルド人もその枠組みの中に無理に収めようとした。
その同化政策が上手くいってなかったからこそ、トルコにおけるクルド人独立運動というものが、
現在、ここまで大きく注目されてるんだろうね。それにも関わらず、やはりケマル時代から続く原則は根強く残ってる。
今でもケマル崇拝は健在だしね。まぁでも、最近はクルド人も収まってきてはいるようだけど。

396 :
×まぁでも、最近はクルド人も収まってきてはいるようだけど。
○まぁでも、最近はクルド人問題も収まってきてはいるようだけど。

397 :
『トルコ人』を創り出さなければ今頃アナトリアはギリシャだろ。
オスマンの後継国がギリシャだというならそれでも良いんだろうけど、
それでは許せない人達がたくさん居てギリシャ自身もそんな存在じゃない。
中東の植民地化の四分五裂ぶりを見た当時であれば緩めることはできないだろ。
現在のクルド問題だって多大に欧米ネガティブキャンペーンが含まれている。
クルドの隣はすぐにアゼルバイジャンやナゴルノ・カラバフのコーカサスに
なるわけだが、元々民族主義なんて可能な地域ではない。
民族主義が世界から駆逐されたときにまた戻れば良い。

398 :
クルド語の公用語の認定と自治権は欲しいだろ
イラクでは、その方法で進んでいるわけだし。

399 :
それじゃ民族自決じゃねえよ。
イラクは最初から民族自決出来てない国。
そもそも民族自決が正しいわけじゃないのが全てなのだが、
杓子定規に実施したものをさらに曲げるのは簡単には行かない。
日本を今から関東と関西で別民族とします、と言って簡単にうなずける奴はいない。
関西弁を標準語と出来るか?
少なくともそれより遥かに大きい出来事。
海外の事情は別次元過ぎるから逆になんとかするのが当然だと言うのは甘い。

400 :
>>397
>今頃アナトリアはギリシャだろ。
実際、もしケマルがセーヴル条約を破棄させなかったら、
アナトリアのエーゲ海沿岸部分はギリシャ領になってたからね。
当時ケマルはトルコ人としてのナショナリズムに訴えかけて、
アナトリアからギリシャ人を追い出すことに成功した。そもそも、ケマルの台頭自体が、
ギリシャ人とトルコ人のナショナリズム的対立から始まったと言っても過言じゃないね。
>元々民族主義なんて可能な地域ではない。
この部分が大きい気がするね。もともと、アナトリア周辺は民族混在地域な訳で、
そこで厳密な民族主義を適用するのはかなり難しいと言わざるを得ない。
だからこそ、ナショナリズム全盛期であるオスマン帝国末期になっても、
「オスマン人」としてのアイデンティティ創設を諦められない人たちが結構な数存在した。
それでも、結局はナショナリズの時代的な波に逆らうことは出来ずにオスマン帝国は崩壊し、
ケマルの作る新たな国家では「トルコ人」としてのナショナリズムを基盤にすることにした。
別にそれはケマルが悪い訳ではなく、単に当時はそのようなナショナリズム中心の動きが普通だっただけのことだ。
あちこちでナショナリズムが衝突しあう中、トルコ人のナショナリズムがクルド人のそれに勝ったに過ぎないね。
まぁそのツケが(西欧諸国が煽ってることもあって)、現在にまで回ってきてしまっているのは皮肉ではあるけど。

401 :
ユーゴもソビエトも全てを包括する民族の策定は失敗してる
中国も成功してない
やっぱり難しいんじゃないのか

402 :
是非は置いとくとトルコ人としてのアイデンティティ確立は間違いなく成功はしてると思う
下手したらバルカン半島みたいな民族紛争が起きかねなかったわけで(現在でもクルド人の民族問題はあるが)

403 :
>>401
やはり、ナショナリズムが吹き荒れてた時代において、
オスマン人という包括的なアイデンティティを新たに作るのは難しかったんだろうね。
アメリカのような多民族国家であることを認めたうえでの国民意識確立はなかなか実現しにくい。
それでも、オスマン帝国の知識人の中には多民族国家としてのオスマン帝国を維持するために、
「オスマン人」としてのアイデンティティを何とか維持しようとする人たちも結構いたんだけどね。
>>402
確かに今のトルコではクルド人問題などはあるけど、基本的に「トルコ人」という意識で、
国をまとめられてるので、トルコ人としてのアイデンティティ確立は成功と言えるだろうね。
そこら辺は、やはりケマル・アタテュルクの優秀さによるところが大きいかな。

404 :
トルコ人を確立したのは結構画期的なのでは。
それ以前の概念がわからんから印象でしか言えんけど。
言語学的にはアーリア印欧の研究が進む中でもうひとつのグループのアルタイが生まれた。
初期研究はフィンランド人でウラル系なのが面白い。
一般に個々の民族は自分を「善」とするところから始まるのだが、
トルコ系民族史は”今の世界史の潮流では悪玉側となるが”と達観視から始まる。
これにはむしろ自信が感じられる。

405 :
>>404
いわゆる汎トルコ主義と呼ばれてるナショナリズム思想は、
オスマン帝国ではなくロシア帝国内のトルコ系ムスリムの間から始まったんだよね。
それが、ユースフ・アクチュラなどを経由してオスマン帝国にも広がった。
汎トルコ主義者は、西欧中心史観の中では悪役として扱われがちな遊牧民を、
自分たちトルコ人の原型だとしたうえで、そこにナショナリズムの基盤を求めた。
ある意味、西欧に対するアンチテーゼとして確立されたアイデンティティなのかもね。
だからこそ、ロシア帝国内のトルコ人の間で最初に広まったのかな。
ロシア帝国の支配に対抗するための道具として、汎トルコ主義が掲げられた訳だ。
そして、そのような汎トルコ主義が伝わってきたオスマン帝国及びトルコ共和国でも、
従来否定的に考えられてきた「トルコ人」という概念を肯定的に捉え直す動きが出てきた。
その過程でトルコは、世界史の中で悪役として描かれがちなトルコ人を良いイメージで語ろうとしてきてるんだよね。
実際、トルコの歴史教科書では世界史上におけるトルコ人の活躍をかなり大きく取り上げてる。
以前ディズニーが映画「ムーラン」を公開した時、フン族が悪役として描かれてるとして、
トルコ人の間で抗議の声が上がったらしいけど、こういうところにもトルコ人の歴史観がうかがえるね。

406 :
そういえば日本人の研究者がトルコの言語状況を調べにフィールドワークに行ってみたら、予想をはるかに超えた少数独立言語があって、驚きつつ調査していたら、公安当局に身柄を拘束されて、それに関して論文を発表しないよう迫られたそうです。
これほんとの話。

407 :
イスラム教徒を世界史的にはただギリシア文化を保存した
ルネサンスのつなぎ役として見る奴が多いがそれは違う
彼らはギリシア文化も多少研究したがまず第一にヘブライの一神教徒
だったことを忘れてはならない
お前らも旧約聖書ぐらいは読んでおけよ
イスラム勉強するんだったらな

408 :
>>407旧約聖書読むとアトピーが痒くなる。あと悪夢を見る。
マジで。

409 :
>>408
じゃあお前は悪魔


410 :
>>409いやマジで、以前、寝ながらヨシュア記のジェリコの戦いを読んでたら、そのまま眠って悪夢を見たよ。
あれってなんか怖いよ。

411 :
聖書は神が虫けらのように人間をぶちRからなあ
そのくせ人間に妙に依存してるし

412 :
神はアダムにいわれた
「お前が裸なのを、誰が教えたのか。禁断の実を何故食べたか」
アダムはいった
「エバが取ってくれたからです」
神はエバに
「なんということしたのか」
エバは
「蛇が食べろと言ったからです」
人間の原罪は、責任逃れはこのときから始まっている
神を生む以前に人間は人間を虫けらのように殺していたではないか
なんと言うことも無い文章に恐れおののくのはお前が罪深きあかし

413 :
聖書は歴史主義者共の人間中心史観を打破するのには良い薬になろう
それでいてこれまでの歴史書の中で最も美文である
そしてこれからもであろう

414 :
宗教板へどうぞ

415 :

では「なんでも質問スレ」でスルーされた質問をしますが、バルバロッサ・ハイルッディンとオスマン帝国は相互の関係についてどのような取り決めをしていたのですか?

416 :
>>410
そのような傲岸極悪なユダヤ妄想に歪曲された神の教えを、慈悲深いアブラハムの純粋な形に戻したのが平安あるべしその名も正義の預言者ムハンマドであります。

417 :
中央アジアと連帯するトルコ

418 :
旧約聖書ぐらいにびびっててよく世界史に耐えられるな

419 :
>>418いや具体的内容じゃなくて、旧約聖書にはなんというか心を不安定にする独特のオーラがあるんですよ。
感じない人には感じないと思いますが。

420 :
チュルク語諸国連合のような国際機構はありませんか?

421 :
数年前、アゼルバイジャンでトルコ共和国トルコ語での番組を禁止する騒ぎがあったよね。
アゼルバイジャン・トルコ語をトルコ共和国トルコ語から守る動きがあるみたい。

422 :
ツラン同盟というのがあるけど。日本も参加しとるよ

423 :
アゼルバイジャンとトルコが合併すれば面白いな。

424 :
>>415
具体的な取り決め内容は僕も良く知らないんだけど、
バルバロス・ハイレッディンってようは私掠船みたいなものだからね。
オスマン帝国の敵対国(スペインなど)の船を襲って、
その利益のいくらかをオスマン帝国に献上することで地位を保証されたんでしょ。
そうしてオスマン帝国政府内での地位(海軍提督など)を得るようになったハイレッディンは、
オスマン帝国の手先としてプレヴェザ海戦などでも活躍するようになった訳だ。

425 :
そういう海賊に委任する方式ってさ、自分の好きな時に水軍使えるわけじゃないじゃん?
加えて海賊が勝手に動いて友好国の船襲って外交関係悪化するってこともありうるわけじゃん?
それでも自前で金出して水軍作るわってならなかったのはやっぱ面倒だから?

426 :
敵になるより手なづけといた方がいいんだろ。
あとバルバロスは民間人というよりオスマン兵の息子かなんかだと思うけど。
生まれつき傭兵みたいなもんで。

427 :
>>421 何故だろう?生産的とは思えないのだが。方言みたいなもんじゃないか。
一つの国になって不思議じゃないのに。やろうと思えばウイグルまで言語統一できるはず。
中国やロシアは嫌かも知れないが絶対便利だろ。

428 :
お兄さん。
トルコ諸語の諸国にもそれぞれ自己認識があるんだよ。
旧ソ連のそれに至ってはクレムリンに創設されたアイデンティティだが、
トルコ人にそのつもりが無くても、上から目線のトルコに
不快に思う人達だっていてもおかしくないと思うよ。
アゼルバイジャンはシーア派だから宗教が違う。
半数はイラン領内でペルシャ宗教であることに疑問を持ってはいない。

429 :
>>425
まぁ、>>426も言ってるように海賊を取り締まるのに労力を使うよりは、
彼らを味方にして使ったほうが楽という考えがあっても不思議じゃないと思うよ。
確かに、あなたの言うようなデメリットも充分に考えられるけど、
そのためにわざわざ自国の海軍を整備することでかかるだろう労力や費用と、
海賊を手なずけて味方にすることの利益及びリスクの2つを天秤にかけた結果、
後者のほうが良いというふうに当時のオスマン帝国が判断したということじゃないかな。
まぁ、その判断が正しいかどうかまでは知らないけどね。
オスマン帝国は、海軍も決して弱くなかったとは言えそもそもが陸軍主体の国だったし、
バルバロス・ハイレッディンが活躍してた北アフリカはオスマン帝国の周縁地域にあたるから、
そんな周縁地域にオスマン帝国の苦手な(少なくとも中心的な戦力ではない)海軍を送るよりは、
現地ですでに活躍してる海賊に任せたほうが良いという考えに至ってもおかしくはないでしょ。
>>426
ウィキペディアで調べたら、どうも彼の父親はスィパーヒーだったらしいね。
ウィキペディアなので信憑性は微妙かも知れないけど、もしそれが本当だとしたら、
彼がオスマン帝国の手先として海賊行為を行なってたのも何かうなずけるね。
あなたも言ってるように、傭兵みたいな感覚でやってたのかな。
>>427
まぁ、>>428も言ってるようにトルコ諸国だって一枚岩じゃないからね。
トルコ諸国の統一と言えば聞こえは良いけど、アゼルバイジャン人の中には、
そのような動きを、単なるトルコ共和国の拡大主義と捉える人がいても不思議ではない。
いくら似てるからとは言え言語やアイデンティティまでトルコ共和国に奪われたくはないと思う人はいるでしょ。

430 :
宗教や言語系統が近くてもヨーロッパとかアラブ諸国とかラテンアメリカとか
まとめるのは大変な苦労のようだからなあ
まとまるべきという考えはあっても皆がそう思うわけではない

431 :
近代オスマン帝国が取れた3つの道
@パン=トルコ主義
Aパン=イスラーム主義
Bオスマン主義
@はロシアと最終戦争して、勝つ必要があったから、無理。現代でも無理。
Aは大英帝国とフランスとオランダに勝つ必要があったから、無理。現代ではスルタン=カリフ(幻想だけど)がいないから、@より無理。
B一見行けそうで、オスマン政府も推進したが、挫折。
ブルガリアやギリシャを失って、国民のムスリム比率が高まると、Aへ移行する。
個人的には@を取って欲しかったw
トルコが超大国になったのになぁ

432 :
オスマン主義というとビザンチンの後継ということになるのか。
それともさらに超越したものになるのか。
俺はウィーンとローマを取った姿が見たかった。
今日の世界は激変していた。
世界の警察とか名乗って疎まれてたりして。

433 :
>>431
この3つの道の話って、もともとはユースフ・アクチュラが20世紀初頭に初めて言い出したことで、
彼はこの3つのうち汎トルコ主義の道をオスマン帝国はとるべきだと主張してるんだよね。
彼の言い分では、オスマン主義はすでにバルカン半島を中心にナショナリズムが高まってる現状では無理だし、
汎イスラーム主義はフランスやイギリスも含めた主要な列強の多くを敵に回してしまうのでこれも成功は難しい。
一方で、汎トルコ主義ならば敵に回すのはロシアだけで済むので他の列強の支持も得やすく、
自分たちのようにロシアに住むトルコ人(彼はオスマン帝国ではなくロシア出身のタタール人)も、
オスマン帝国による汎トルコ主義を歓迎するだろうと言ってる。
実際、このような汎トルコ主義思想に影響されたエンヴェル・パシャは、
第1次世界大戦ではカフカス戦線に力を入れたし、戦後は中央アジアでソ連と戦った。
それでも結局は汎トルコ主義さえも実現しなかったのが史実なんだよね。
最終的に、ユースフ・アクチュラの言ってた3つの道は全て消えてしまいオスマン帝国は滅亡した訳だ。
汎トルコ主義にロマンを求める気持ちは分からなくないけど、実際はそう簡単には成功しないものなんだよね。

434 :
>>432
当時オスマン主義を支持してた人を見てみても、ビザンツ帝国云々までは考えてなかったと思う。
単に、多民族がオスマン帝国という1つの国の下でまとまってる状態を望んでただけでしょ。

435 :
ロシアは革命が起こったからね。
帝政のままなら汎トルコは成ったかも。
変化を望んだトルキスタンは結局はさらなる弾圧にさらされてしまったが。
まあ南スラブ民族統一の夢を叶えたユーゴが地獄となった事例もあるから、
オスマンは比率でみれば勝者の歴史なので同じにはならないとは思うが、
歴史のifは良いことばかりとも限らない。
一国主義でよかった部分もあるだろ。

436 :
むしろ旧ユーゴスラビア地域のバラバラさは異常なレベルなような
クロアチアとセルビアは言語通じるみたいだし
セルビアとモンテネグロは同一民族としか
オスマンとは違うが、なんであそこまで国家分裂で地獄と化したんだろ

437 :
>>435
>一国主義でよかった部分もあるだろ。
実際、今のようにアナトリアを中心とした領土で落ち着いてるほうが、
国としてもまとまりやすいと言うメリットはあるからね。
クルド人問題なんかも一応ありはするけど、トルコ共和国になってからは、
オスマン帝国時代に比べれば民族運動で極端に領土が減ったりすることもなくなったし。

438 :
過去において、クロアチア王国とセルビア王国があったから。
その歴史を下にアイデンティティ形成が図れるんだよね。
北フランスと南フランスの言語が違うからといって国家分裂が起きないのは、フランスはずーーーとフランスだったという、歴史があるから。もし南フランスにある程度歴史ある国があったら、分裂騒動になっただろう。
スコットランドの様に、、、、、
民族アイデンティティ形成には、過去の歴史は非常に大事。言語が通じるという現実よりも、過去の歴史という、ある種の神話が重要視される。

439 :
>>437
クルドとの融和とAKPの伸張って関係あるのかな?
伝統的なイスラームは、ムスリムならば平等、という民族を気にしない体制じゃん?
近代以前のオスマン帝国がそうだったように。
イスラーム色の強いAKPは民族問題をイスラームの旗で統合しようとしてる気がする。

440 :
民族紛争がなぜ起こるかについてはロシアのシベリアとカフカス比べてみると面白いかも
前者は独立問題は聞いたことないが、後者は完全なロシアの闇になってる

441 :
南スラブを他人事のように話すのは、
オスマン視点としては心苦しい限りなのだが。
クロアチアとセルビアはそのままハプスブルグとオスマンの境界だし、
セルビアとモンテネグロはスラブ侵入の参入系と先住系の違い?とかのような。
複雑なのは以前からだがオスマン支配が輪をかけた。

442 :
コーカサスも思い切り関係がある。
ソ連崩壊の引き金となったのはトルコ系アゼルバイジャンと
アンチテーゼ筆頭のアルメニアとの飛び地問題。
北側コーカサスはマムルークの供給元チェルケス人・バルカル人がいて、
近接してゲリラで名だたるコーカサス系ムスリムのチェチェンイングーシ。
それらに囲まれて先年学校爆破事件のあったペルシャ系正教徒のオセチアがある。
全て紙一重のところ。

443 :
>>439
なるほど。確かにそういう見方もできるかも知れないね。
イスラーム色の強い政党だからこそ、従来の世俗的なケマリズムと違って、
トルコ人ナショナリズムに拘らない政策を行なえてるということかな。
だから、AKP政権になってからはわりとクルド人にも寛容な政策がとられてるのか。
だとしたら、AKPが行なってた全方位的な外交政策も、
かつての汎イスラーム主義に通じるところがあるのかも知れない。
>>441
まぁ、確かにユーゴスラビアを含むバルカン半島の混乱の歴史的背景に、
オスマン帝国が関わってるのは否めないね。別にオスマン帝国が全て悪いとか言うつもりはないけど、
バルカン半島における複雑な民族構成はオスマン帝国支配下で形成された場合も多いからね。
例えば、現在まで問題になってるコソボの独立問題も、その一因はオスマン帝国時代に起きた民族移動だし。
そもそも、近代になってオスマン帝国が衰退する一因となったのはそのようなバルカン半島の民族運動なんだよね。
バルカン半島での民族紛争に、ある程度オスマン帝国が関係してるのは当然だと言えるね。

444 :
旧ユーゴ諸国ってチトーはどういうあつかいになってるの?
しょせん無理なのに民族を強引にまとめようとしたバカみたいな評価になってるの?
それともチトーさんすげーっす。え、南スラブ人の連合?いやあそれは別っすよへへへ みたいな?

445 :
現地でどうかは知らないが俺は英雄だと思っているな。
チトーはクロアチア優位のスタンスを取ってまとめたので
セルビア側は多少不利だった。だが最大勢力で過激徒なので、
冷静な者なら理に適うと考えたはず。
最終局面では高圧的汎南スラブ主義のセルビアを諸外国総出で叩きのめした構図。
でも南スラブの勢力同士の大小を語ったところで、
他勢力のそれとは比較にならない小さい規模なんだけどな。
チトーは悪い評価ではないと思うよ。

446 :
>>443
ほとんど全ての国の元宗主国だからね。
でもトルコに矛先が向かないのはなんでだろうか。
直面するギリシャは別として、南スラブで民族分断の責を
トルコに問うような話はあまり聞いたことがない。
信頼関係なのだろうか。
こっちの認識とは単純比較できない何かがあるのかな。

447 :
ユーゴ、シリア、イラク、エジプト、、、、
紛争に揺れる国々のほとんどはオスマンが、関わってる笑

448 :
>>446
う〜ん、確かにそういう話はあまり聞かないね。
セルビアななんかではオスマン帝国の支配に対する反発感情も依然として残ってるだろうから、
ユーゴスラビア紛争の責任に関する矛先がトルコに向かってもおかしくはなさそうなのにね。
まぁ、ユーゴスラビア紛争に直接トルコが関わってる訳ではないから(あくまで過去の一因にすぎない)、
そこまで文句言うほどのことでもないのかな。そんなこと言ったって解決する訳でもないし。
それとも、単に僕が知らないだけで、トルコのせいにしてる意見も旧ユーゴスラビア内にはあるのかな。

449 :
ユーゴの動乱の一因が、モスレム人だもんな、、、、
モスレム人はどう考えてもオスマン帝国の影響だもんな。
モスレム人のアイデンティティはどうなんだろう?
トルコ人意識はあるのかな?

450 :
シリアの首都で爆弾攻撃、国防相ら死亡 アサド政権に打撃
2012年07月19日 07:37 発信地:ダマスカス/シリア
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2890360/9264449
>政府の反体制蜂起対策部門の責任者ハッサン・トルクマニ(Hassan Turkmani)元国防相。

トルコ系?

451 :
http://shareraws.blogspot.jp/2012/09/magazine-minamoto-kun-monogatari.html

452 :
オスマン直系のトルコ人とトルコ共和国以外のチュルク系民族は仲間意識はあるのかなと

453 :
>>450
交通の要衝にあたるシリアには、アラブ系以外にもトルコ系、クルド系の住民もいる。
トルコマン系の名望家アズマ家は、オスマン帝国末期から委任統治期にかけて
軍人、政治家を多く輩出している。
そのうちの一人ユースフ・アズマはオスマン軍人となり、第一次世界大戦では、
カフカース方面で活動し、その後、ファイサル政権の軍事大臣となった。

454 :
トルコマンとよばれる存在の実体が不明。
トルクメニスタン主流民族と同一とは限らないのでは?
何語を話す?

455 :
>>454 トルコマン・チャーイ条約のトルコマンとか明らかにトルクメンの事指してるのでは?
単数形と複数形の違いだけでしょ。
>>452 全てのトルコ系民族とは言わないが、ウイグルとの連帯意識はトルコ国内にもある。
>>450 トルコ系の軍人は当然いるだろうし、しかしまさか元国防相がトルコの尖兵に、
トルコが欧米の尖兵になるとは思わなかった。トルコ△ エルドアン△

456 :
トルコマンってウルトラマンみたいね

457 :
ルームセルジューク朝(首都:コンヤ)にしろオスマン帝国にしろ
何故ギリシャ化しなかったのか気になるんだよね
トルコ民族の故郷とされる中央アジアとアナトリアはかなりの距離があるし
中国の鮮卑は中国文化に惹かれて自ら同化しようとしたし
ローマ帝国はゲルマン人をローマ化できなかったと言われる事が多いけど
オドアケルが建国した東ゴート王国の統治機構は西ローマそのままだし
ゲルマン人傭兵たちはローマ人として振舞って至って指摘もある
また旧ローマ帝国でゲルマン化する事に成功した地域も
オーストリア、ライン川西岸、イングランド等、大半がゲルマニア地方の隣接地域で
ゲルマン化できなかった地域が大多数
その内、ライン川西岸はローマ帝国統治時代も多数のゲルマン人が住んでいた
オスマン帝国はギリシャ文化に惹かれなかったのかな?

458 :
当時のギリシャって、キリスト教のビザンチン文明だからな

459 :
オスマン帝国の初期には既にペルシャ文化を十分吸収した段階だったから。

460 :
スレイマン1世ってインポだったらしいよw

461 :
当時のアナトリアってやっぱりみんなギリシア語?
それとも東部はアルメニア語とかの別の言語?

462 :
そりゃアルメニアとかクルドとか色々おったでしょう、ていうか東や東南は
どこまでがアナトリアなんだか
とりあえず今のトルコ国境をアナトリアの境界と考えるとしても歴史的には
今のような国境であったことがほぼ無いですし

463 :
まあギリシャ化したというより、
ギリシャにおける異民族王朝がオスマンだな。

464 :
せるジューク朝がアナトリアをトルコ化したから。

465 :
>>460
塩野七生たん読んだせいで、ショタチンポ愛好家だったイメージがあるんだけど、
実際には、そんなことなかったん?

466 :
>>465
スレイマンに限らずオスマンのおっさんはほぼショタちんこ好き
戦になればほんとに女も男も犯す

467 :
コンスタンチノープル陥落のときの戦利品に美女は多く居たの?

468 :
15世紀のコンスタンティノープルはもう人口激減して空地の方が多かったらしい

469 :
http://seiji.yahoo.co.jp/vote/result/201211270001/

470 :
>>466
仮に、インポだとしたらスレイマンはショタと交わるときに、
どうやって交わったのだろうか…

471 :
イタリア  ローマ帝国が地中海の覇者となった
スペイン、ポルトガル  大航海時代の幕を開き、世界を二分した
トルコ  アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国を建設
朝鮮  中国の千年属国
半島の歴史もそれぞれだな

472 :
イベリア半島はイスラム化しなかったのに
アナトリア半島はイスラム化(トルコ化)した
違いは何だろう

473 :
イスラム圏からみてイベリアが端っぽのほうだったからかな?
オスマン帝国の国境はアナトリアよりはるかに向こう側まで広がったが
イベリアはピレネーに達しないぐらいだったし

474 :
Lowryって人に言わせるとオスマン朝がちゃんとしたイスラム王朝になったのは
エジプトやイラク、パレスチナを征服してそっち方面のウラマー等が流入してきてからだと。

475 :
まあそうだと思うけど。
オスマン王は宗教的権威が欲しかっただけで、
イスラムである必要は無い。
こう書くと非常に俗っぽく見えるが、
要は信心を持とうとした王様。
もしかすると遊牧民末裔の潜在的な憧憬心かもしれない。

476 :
Yeni yiliniz ktul orsun

477 :
さっき放送大学をチラ見、
19世紀でも遊牧民がいたらしいですね、
徐々に工場労働などで定住に移行したらしい。
都市の職業分布、以外と農業が少ないのにびっくりした。20%くらい(うろ覚えだけど)
さすが大帝国、江戸より進んでいる。

478 :
19世紀はバリバリ遊牧中では。

479 :
オスマン系のおすすめ映画DVDを教えて下さい

480 :
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-028416
イスラーム原典叢書 諸国征服史  第2巻
バラーズリー
花田 宇秋 訳
熊谷 哲也 編集協力
■体裁=A5判・上製
■定価 9,660円(本体 9,200円 + 税5%)(未刊)
■2013年1月30日
■ISBN978-4-00-028416-5 C3314
7世紀の創始以来,イスラームは東西世界に急激に拡大した.
バラーズリー(892年頃没)が著した本書は,その過程を詳述する代表的な歴史書.
本巻では,西は北アフリカ・地中海域への進出,東はササン朝ペルシアの征服が語られる.
〈平安の都〉バグダードの建設など,貴重な歴史的証言も収録.(全3巻)

481 :
>>406
インドの山奥でチベット・ビルマ系の未発見の言語があったり
アナトリアからカフカス、アフガン、カシミール、チベットは
まだ隠れた少数民族や言語がありそう

482 :
イスラーム原典叢書!

483 :
中欧東欧の2大スーパーパワーであったオスマン・トルコとポーランド=リトアニア共和国が衰退してプロイセンとオーストリアとロシアが勃興したのが17世紀終盤から18世紀にかけて

484 :
>>1-3の参考文献の整理(2000年代以降のものを中心に挙げる)
<概説、通史>
新井政美『トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ』みすず書房 2001年。
新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』(講談社選書メチエ)講談社 2002年。
鈴木董『オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家』筑摩書房 2000年。
永田雄三編『西アジア史U―イラン・トルコ』(新版世界各国史9)山川出版社 2002年。
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10)講談社 2008年。
<史料>
歴史学研究会編『南アジア・イスラーム世界・アフリカ : 18世紀まで』(世界史史料2)岩波書店 2009年。
歴史学研究会編『帝国主義と各地の抵抗T―南アジア・中東・アフリカ』(世界史史料8)岩波書店、2009年。
<論文集>
『東洋文化』第91号(特集:オスマン帝国史の諸問題) 東京大学東洋文化研究所 2011年。
鈴木董編『オスマン帝国史の諸相』山川出版社 2012年。
樺山紘一他編『イスラーム・環インド洋世界―16-18世紀』(岩波講座世界歴史14)岩波書店 2000年。
樺山紘一他編『イスラーム世界とアフリカ―18世紀末‐20世紀初』(岩波講座世界歴史21)岩波書店 1998年。
<事典>
大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店 2002年。
日本イスラム協会編『新イスラム事典』平凡社 2002年。
伊東孝之他監修『新訂増補東欧を知る事典』平凡社 2001年。
<研究案内>
小杉泰・林佳世子・東長靖編『イスラーム世界研究マニュアル』名古屋大学出版会 2008年。
三浦徹・東長靖・黒木英充編『イスラーム研究ハンドブック』(講座イスラーム世界別巻)栄光教育文化研究所 1995年。
羽田正・三浦徹編『イスラム都市研究―歴史と展望』東京大学出版会 1991年。

485 :
<思想史、立憲政史>
新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社 2009年。
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開―オスマン帝国からトルコ共和国へ』東洋文庫 2007年。
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』名古屋大学出版会 2011年。
<外交史>
尾高晋己『オスマン外交のヨーロッパ化―片務主義外交から双務主義外交への転換』渓水社 2010年。
藤由順子『ハプスブルク・オスマン両帝国の外交交渉:1908-1914』南窓社 2003年。
<地域史(アナトリア)>
永田雄三『前近代トルコの地方名士―カラオスマンオウル家の研究』刀水書房 2009年。
<地域史(バルカン)>
佐原徹哉『近代バルカン都市社会史―多元主義空間における宗教とエスニシティ』刀水書房 2003年。
柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史18)山川出版社 1998年。
<地域史(アラブ地域)>
佐藤次高編『西アジア史T―アラブ』(新版世界各国史8)山川出版社 2002年。
木村喜博『東アラブ国家形成の研究』アジア経済研究所 1987年。
<地域間交流史(イラン‐オスマン間)>
守川知子『シーア派聖地参詣の研究』京都大学学術出版会 2007年。

486 :
http://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?fn=1&id=D112111151&ln_jor=0

487 :
Victoria2というゲームで近代オスマン帝国の復活プレイしたりしてる。
識字率上げて、工業化して、トルコ人へ同化して、
エジプトとかアラビア半島を再征服して、
などなど。
近代オスマン帝国がぽしゃっちゃったのは、軍事費に金を取られて
教育費が出なかったからだよなぁ、と再認識。
ゲームだとロシアもオーストリアも怖くないのだ。

488 :
一時とはいえよくもまぁあれだけの問題のある宗教と人種をたくさん抱えて広大な領土を安定して統治したもんだ
アメリカみたいな国だな

489 :
アメリカは移民国家だから違うでしょ
オスマンは他の民族を征服したことによって雑多な集団を抱えた古代からある伝統的な帝国

490 :
欧州やまわりの迫害された人種や宗教の人々が大量に流入してただろ
当時としては移民が多かったのは間違いない

491 :
そんなの他の帝国でも似たようなもんだし移民の数が全然違う、移民で成り立った国でもない
諸国家、諸民族をの上の帝国という意味ならソ連や大英帝国のがまだ似てる
アメリカの場合、移民は故郷の土地や民族と切り離されてるから
かつての帝国みたいにそれぞれの土地に根差した民族が割拠する状況にはならない
そもそも政治制度が全然似てない
ていうかさ国が大きくて民族が多いからなんでもかんでもアメリカに似てるって風潮やめてほしいわ
普通に他の帝国の方が似てる

492 :
他の帝国でオスマンみたいなのってあったっけ

493 :
後の世に、クルド民族を「山岳トルコ人」と呼び、クルド語を禁止した国・地域となるのであった。

494 :
アンカラでどうしたらオスマンは勝てたのか

495 :
近代のオスマン帝国って自前の軍需工場とか持ってたのかな?
弾薬ぐらいは国産してそうだけど。

496 :
あったけど全く足りてなかった
W1ではバルカンをオーストリアやドイツが制圧してトルコへ補給ルート作ってくれて助かった

497 :
>>492
17世紀ごろまでオスマンの強敵(とも)だった、
ハプスブルクは?
オーストリアハンガリーも特定の民族が多数を占めていないはず。

498 :
第一次バルカン戦争ってギリシャとの海戦に勝ててたら結果は違ってたかね?
イタリアとの戦争で戦力集中してたリビアから軍を海上輸送出来そうじゃん?

499 :
内紛がすさまじいことになってたあの状態じゃあどっちにしろ…

500 :
第一次世界大戦にドイツが勝っていたら、オスマンはどうなったか?
アメリカがからまなきゃ、ドイツ勝利の可能性はあった。
だらだらとした近代化が続いて、生き残ったか、イランみたいな宗教革命が起こったか。
それにしても、ハプスブルグ、ホーエンツォレルン、オスマン家が消えたのはもったいない。

501 :
全部ウッドロー・ウィルソンが悪い
今の世の混乱は大体あいつのせい
ウソです
三分の一ぐらいあいつのせい

502 :
Ottoman Empire Documentary
http://www.youtube.com/watch?v=ZfX-w-EN8sA

503 :
アルメニア大虐殺ってまだ解決してないの?

504 :
バルサ!

505 :
エディルネ!

506 :
http://www.bbc.co.uk/news/magazine-23884892
The search for Suleiman the Magnificent's heart
By Nick Thorpe
BBC News, Szigetvar

507 :2013/09/08
せめてイスタンブールが首都のままなら
五輪開催も可能だったのかな・・・
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