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【豊臣家の】あたくしは北政所【女王様】


1 :2010/10/17 〜 最終レス :2013/09/22
あたくしは北政所、豊臣家の女王様よ。
あなた方、あたくしに質問があるんですって?

2 :
関連スレ
 姫さま総合スレ  in  戦国時代板
 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150038398/
あたくしの可愛い子どもたち
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ec/Kato_Kiyomasa.jpg
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Masanori_Fukushima.JPG

3 :
クソスレ乙

4 :
やっぱり秀吉さんは種なしだったんですか?それとも、ねね様がウマズメでいらっしゃったのですか?

5 :
家康に加担して豊臣家の滅亡に一役買った糞アマ

6 :
家康と寝て高台寺建てて貰ったんだよね

7 :
北條政子、日野富子、桂昌院とならび、従一位女摂政の官位を受けた貴婦人である。
柴の貴婦人

8 :
>>7
見事に強烈な悪女揃いだなw

9 :
中丸本理院孝子よりも官位は高いです

10 :
隠居の癖に大名並の何万石という化粧料を持ってた強欲やり手ババア

11 :
王女は豪姫?

12 :
石田三成の娘も養女らしいよ

13 :
ところで>>1->>11にかけてなんでみんな上げてんの?
age進行でやるなら、ちゃんとテンプレに書いた方がいいんじゃね
とりあえず言えるのは
昔は秀吉の奥さんと言えば淀殿のことを言う場合が殆どだったけど
NHKの大河ドラマ「おんな太閤記」以来
本来そうであるべき正妻がクローズアップされたことは良いことだったと思う
あとTVとかの設定では
秀吉がいわゆる醜男だったという理由でなぜか藤吉郎が一方的に言い寄って
ようやっと嫁にしたような展開である場合が殆どだけど
正直あれはちょっとどうかなと思う
おそらく実際には双方の合意に基づく恋愛感情から結ばれたんじゃないかな
木下家の記録からも、そういった事が伺えるような気がする

14 :
>>13
ドラマや小説は所詮フィクション
ただ、北政所の知名度うpに貢献したという点ではスガコばあさんは偉大

15 :
>>1
二度目の豊国社の破却を止めなかったのは、なぜですか?

16 :
>>15
いや止めてる
政所が直接家康のところへ行って「やめてくれ」って言いに行ってるよ
家康はその場では「承知した」みたいな返事をしたみたいだが
例によって狸オヤジだから、なし崩し的に強引に破壊してしまったらしい

17 :
>>16
家康没後の話。
高台院が亡くなる数年前に更に豊国社の破壊が行われたんだけど、その時に
幕府に抗議した形跡がないんだってさ。小和田哲男が本に書いてた。

18 :
豊臣正子

19 :
誰やねん

20 :
76 :羽柴秀長:04/08/22 06:50
まったくあの猿兄ぃ、すぐ調子に乗るんだから。
77 :北政所:04/08/22 09:09
あんたが早死にしなけりゃ、もちっとマシだったかもね。
もう誰にも止められないわよー、あの禿鼠は。

21 :
橋田のババアが居なくても秀吉の女房がねねなのは常識
大河でも何度も取り上げられ、昼ドラでも取り上げられてる。

22 :
なぜかNHKが必死に広めようとやっきになっているのに
未だに「おね」より「ねね」の方が一般的な呼称として定着している件
やっぱその方が
イメージ的に可愛い感じがするし言いやすいからかな

23 :
>>22
おねっていう名前が著しく不自然だからじゃね?
「お」は接頭語のおで名前は「ね」一文字ですって・・・んな名前ある筈ねーよっていう。

24 :
大河の『秀吉』は、沢口靖子がニンでない上に「おね」呼びがキモくて見るのをやめた

25 :
大河といえば「利家とまつ」の酒井法子のおねは
だんだん秀吉に影響を受けて腹黒くなっていったりもしてて
かなり脱線していた部分もあったけど
史実通りまつとの親交も描かれていたし中々よかった

26 :
>>25
夫に影響受けて狂っていくあたり、まんま酒井法子本人だねぇ。

27 :
法子がおねなら、松嶋はおまつだろ。
整合性的におかしい。

28 :
>>27
ナンの話?

29 :
>>13
>昔は秀吉の奥さんと言えば淀殿のことを言う場合が殆どだったけど
んなわけねーw
テレビドラマの影響で北政所が正妻として認識されたなんて初めて聞いたわw
淀殿なんて昔から愛人だ妾呼ばわりされてた、っていうか今でも言ってる人が
(日本史板にすら)いて呆れるけどさ。

30 :
>>29
なに言ってんのw
現に橋田さんの「おんな太閤記」のガイドブックで
タクシーの運転手に、今度ドラマで秀吉の奥さんの話するとかいったら
「あぁ淀君かぁ」とかって普通に言われちゃってるよ
あと、もうずっとかなり昔(30年以上前?)だったか
たしか秀吉と一緒に気球に乗り込んでる淀君のCMがあったよ
淀君「家康様からの贈り物よ?」
秀吉「ん?お茶は誰が飲んでも美味しいからのぉ」
とかいうセリフがあったのを今でも覚えてる
たしかナレーションは確かあのねのねだったかな分からないけど
誰か他にも覚えてる人いないかな?
それに≪正妻≫だなんて一言も言ってないw
秀吉の奥さん = つまり秀吉のパートナーっていうと
世間一般的にまず誰を思い浮かべますか?っていう意味
いわば世間的な「認知度」とでも言うべきか
大河以前に、なぜ秀吉の奥さんとして
淀君じゃなく北政所がクローズアップされないんだろうって
子供心に百科事典開きながらずっと思ってた

31 :
そのCMは、お茶々とお茶のシャレ。
昔、「大阪城の女たち」と言う昼ドラがあった。

32 :
最近、秀吉の正妻はねねだけじゃなくてお茶々も正室だったなんていう不思議な主張している人がいるよね。

33 :
>>31
そのドラマは自分もCSで観たことあるよ
あと今思い出したけど
たしか昔は北政所って豊臣家を裏切って滅亡させるのに加担した
いわゆる「悪女」みたいなイメージも少しあったと思う
それもあって、あまり表に出てこなかったんじゃないのかな
何にせよ秀吉の妻「ねね」を大いに世に喧伝し広めてくれたのは
橋田さんの功績が大きかったことは間違いないと思う

34 :
ここまでスガコ婆さんの自演でお送りいたしました。

35 :
なべおさみ主演の「いまにみておれ」と言う木下藤吉郎のドラマがあって、
それでも嫁さんはねね。

36 :
>>30
・・・。
ここまでくるとネタか本気か判断に迷うけど、一応マジレスすると
 「テレビばかり見てないでまともな良書で知識を養ってください」
としか言いようがないなw
具体例に個人の一体験談(しかもソースは番宣本・・・)を持ち出すなんてどんだけゆとり脳のお子様かと
思えば30過ぎてんのかよ。
>>32
当時の史料に淀を側室(またはそれに相応する呼称)で記述していない、
さらに「簾中」「北政所」「裏方」(いづれも貴人の正室の意)と記述している史料まである、
摂関家の権力者は伝統的に複数の正室をもっていた、
実際に秀次の正室もそれぞれ「一の台」と「若御台」と呼ばれる二人の女性だった、等々の
福田千鶴の指摘を考えれば別に不思議な説でもないと思うが。
淀や京極竜子、前田まあらが正室として扱われていたとしても
おねが第一の正室だったのはまず間違いないだろうけどね。
言っちゃなんだが「おねをメジャーにしたのは橋田せんせー」の方がよっぽど珍説だよw

37 :
おね殿って茶人としてはどうだったのか知りたい

38 :
>>36
>「テレビばかり見てないでまともな良書で知識を養ってください」
当時小中学生だった自分にそんなこと言われましてもw
大河の番宣本を引き合いに出したのは
あくまで当時の世間一般的な認識として示したかったからですが?
それがなぜゆとり呼ばわりされるのか訳わからんw
ちなみに>>30でも書いたけど
当時から歴史のこと知りたくて子供向けの本じゃなく
わざわざ百貨辞典とか開いたりしてる珍しい子供てしたね

39 :
豊臣家滅んでいいですか?by利政

40 :
>>30 >>33
わざとそう書いてるのかもしれないけど、「淀君」と書く点で
思考が何十年前で止まっていらっしゃるような。
あと歴史好きなら、小説やドラマの影響で
人物の是非や好悪を論じることはないはずなんだけど。
どうしてそんなに「悪女」だのの意味づけにこだわるか不思議だ。


41 :
>>40
当時の北政所に対する世間の一般的な感覚を言ってるだけ
君と殿の部分も、そういうことです
もちろん歴史好きな人は「君」というのが蔑称でどうも徳川幕府が
後になってから悪意ある喧伝をしたらしいという事を知っている
けど一般の人はそういうこと知らないから
「殿」じゃなく「淀君」とTV(とくに民放系列)も含めそう言ってしまっている
そういう意味でわざと「君」と書いたんですけどね
あと「悪女」云々のくだりは昔読んだ書物とかで
とくに一般向けのやつなんかは
そういう感じの評価の本が多かった気がするんでそう書きました
もちろん私自身は昔から北政所のことが好きですし
ましてや悪女だなんて思ってるわけじゃ決してありませんよ
ちなみに正しい言い方じゃないとは分かっていますが
私自身は「おね」や「ね」よりも「ねね」という呼び方の方が好きですね

42 :
子→お子さま→お子様ランチ
寧→お寧さま→お寧様高台寺

43 :
>>42
姉→お姉さん→隣のお姉さん

44 :
あげ

45 :
お寧さまランチ

46 :
>>45
そ、それは、ありがちだけど食べてみたいw
ところでメール覧に「age」と書いてるのはワザとか?
アゲるにはメール覧無記入、なにか書いたらsageたのと同じこと
とくに理由でもない限り個人特定されたくないなら
通常は他の人たちと同様「sage」と書き込んでおくのが無難かと
専ブラなどでは見えてしまうからね>メール覧
・・・とか、ついつい言ってみたくなったりもしてw

47 :
ねねさんは、家康さんとやっちゃたんですか?

48 :
やってません。        ね

49 :
女の人は、やってないと言って、やってる時おおいからな〜。

50 :
「淀君」の「君」が蔑称っていうのがよくわかんないんだけど。
江戸時代の公家の幼名で男女ともに「○○君」って普通だし。

51 :
>>50
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/969364.html
http://okwave.jp/qa/q2741736.html

52 :
それは知っているんだけど「君」は蔑称というわりには、身分が高いはずの摂関家の子供の名は「○○君」
だし、将軍家の娘も「姫様」とはよばず「姫君」でしょ。たしかに辻君、立君が娼婦の別称だとは知ってるけど
一概に「君」が蔑称というのはおかしくね?

53 :

「ね(い)」を「ねね」というのは、加藤茶を加藤茶々というのと同じ。
加藤茶々の「ひぃっくしょん!」

54 :
>>52
たしかに一概にそう言い切れない面があることは事実
けれども状況から見て、
たとえば「太閤記」を禁制扱いしつづけた例や豊国神社を破却したことをみても
状況的に徳川が豊臣側の淀の方を良く言うはずがない事もまた事実
他に例として石田三成なども
ある事ない事でっちあげて盛んに悪く喧伝され続けたし
そういう事も考慮して「蔑称説」が採用されたという経緯もあるんでない?

55 :
神君家康、淀君を喰らう!

56 :
秀吉が茶々に夢中になっている間(寂しさをもてあました)おねは家康と浮気してしまったとか?
家康にしてみれば(嫌々仕えている)秀吉への密かな復讐と、おね子飼いの武将たち(賤ヶ岳七本槍)が目当て…とか?

57 :
>>56
?????
・・・さすがは2ch

58 :
>>38
小学生でなく現在30代後半の貴方に言ってるんですよ。当然でしょ。
今だに「昔はねねは秀吉の妻として淀より知名度が劣っていた」とか思い込んでんしょ?
一個人の一体験という限られたケースを「世間一般的な認識」と思い込める視野の狭さ、見識のなさを
ゆとりと言ったんだよ。
たしかに淀への嫉妬から関が原で家康に味方し、最終的に豊臣家を見捨てた
という解釈をする作家もいるけど
それは司馬や永井の北政所像に代表されるような「戦国を見きわめた賢妻」へのアンチテーゼじゃないの。
こういう見方もあるよっていう、どちらかと言えば少数派な解釈。
(もっともそれすらも秀頼を心配するおねの直筆書状が近年発見された事に関連してか
いまでは下火の傾向にあると思うが・・)
>>53
秀吉が北政所宛の書状に文中で「おね」と書いてんだから
やっぱ「ね」「おね(おねい)」が近いんじゃないかな。
まあ当時の名前って特に女性はおおざっぱ(とうかいいかげん)なとこあるから
「ねね」も併用していたかもしれんけど。
ちなみに淀の署名は「ちゃちゃ」、秀吉の淀あての書状も「おちゃちゃ」

59 :
神君、淀君を誅す。

60 :
>>58
>司馬や永井の北政所像に代表されるような「戦国を見きわめた賢妻」
漏れもその意見。
足利将軍の体たらく、かつての上司・信長のあっけない最期、夫・秀吉の情けない最期を見てきて、
やはり実力ある者が天下を治めるべきだと思っていたと思われ。
北政所として豊臣家を大事に思っていたのは確かだが、秀吉亡き後すでに近江派「淀」に乗っ取られて、尾張派の「ね」の手を離れており、
一刻も早く悲惨な戦国の世を終わらせるために、秀吉や七本槍同様、大器の予感(徳川家康)を育ててみたいとも思ったんじゃまいか?
それは同時に(お嬢様育ちの世間知らず)淀君に世を治めることの厳しさを教えることにもなっただらう。
西の丸を家康に譲って、高台院として出家したのもその現れで、「まつ」の前田家同様、家康の天下における大々名としての豊臣家を模索していたと思われ。

61 :
>>60
その関が原の対立構図
 
 北政所+家康+尾張出身の大名 VS 淀+三成+近江出身の大名
というのからして今はもう否定されてるんじゃないかな。
三成の娘が北政所の養女になっていたり、三成と淀はどちらかというと疎遠だったらしいし
何より関が原の前哨戦である大津城攻防戦で北政所と淀は協力して仲介に入っている。
ま、詳しくは小和田哲男の『北政所と淀殿/豊臣家を守ろうとした妻たち』でも読んで。

62 :
>>60
そこへいくと「まつ」は、うまくやったよな…前田は残り、主家・豊臣は滅びた。
まぁ豊臣を潰すには、豊臣内部の対立を上手く利用した家康が一枚上手だったというこつやね。

63 :
秀吉には完敗だったけどね

64 :
安土城では、秀吉の屋敷と利家の屋敷が向かい合って建っていた。
寧と松は互いの屋敷を行き来し、料理や味噌汁を交換して互いの味付けを切磋琢磨していたらしいyo!

65 :
日本には1800年前から天皇家に伝わるスサノオの金塊があった。
鎌倉(元のフビライ)時代、マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と呼んだのはその金塊量が当時世界一だったから。
室町(大航海時代)時代にイエズス会や東インド会社が日本にやってきたのはそのため。
ヴィクトリア女王は三浦按針ことウィリアム・アダムスを通じて、日本を植民地化しスサノオの金塊を手に入れるべく、
傀儡に選んだ家康にあれだけ最新式の武器を提供し(関ヶ原合戦&大坂の陣で圧勝)天下を取らせてやったのにもかかわらず、
家康がヴィクトリアの野望に気付いため、鎖国されて天皇家に代々伝わるスサノオの金塊の強奪に失敗!
この時の恨みがやがて明治維新を起こすことになる。
KWSKはこちら↓
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/tomokop/sakuryaku.html

66 :
司馬も永井路子も小説家として素晴らしいけど、
歴史家でも学者でもないんだから、
彼らが書いた人物解釈や人物造形から歴史を語るのは不毛だ。

67 :
司馬遷は、小説家に近い気がする。

68 :


69 :
>>61
北政所と三成が親しかったというのは最初から否定だが。
三成の娘が北政所の養女になったのは、人質と同じ論理。
三成が北政所への忠誠の証として娘を差し出す、
北政所は三成からの忠誠の証としてこれを受け取る。
この時代の養子、養女関係が親しさのあまり行われたのではなく
敵対する者同士の緩和剤として使われていることは日を見るより明らかなこと。
三成の息のかかった大名はことごとく改易されたが
北政所は徳川家の庇護を受けてますます栄えている。

70 :
あたくしは高台院、化粧料10万石超を誇る日本一のおセレブ未亡人よ。
あなた方、あたくしに質問があるんですって?

71 :
まんかか様ぁぁぁ!

72 :
うるせーよデブ

73 :

たぶんリアルねね様も秀頼に対してはこの程度の感覚だったんじゃないかしらん。アテクシのリッチで安楽な老後を邪魔すんじゃねーヨ!的な

74 :
なさぬ仲の義母と息子ってそういうもんなのかな

75 :
北のまん○どころ様

76 :
なんと卑猥な。
すぐに太閤殿下に言い付けちゃるほどに。首を洗うて待って居るがよいぞゑ。

77 :
秀吉とは政略結婚が普通であった当時としては珍しい恋愛結婚だったと言われている。
資料によると2人は「野合で結ばれた」と書かれており
これは縁談などが全くない恋愛だったことを意味している。
ウィキより抜粋

78 :
ウィキを丸呑みするのもお馬鹿さん

79 :
>>78
ウィキだけでなく
自分もこの野合云々の話は他書物でも読んだことがあるよ
ネタ元は木下家の書物らしいから
その信憑性はかなり高いのではないかと思う

80 :
ねねの実家は杉原家?

81 :
>>69
>この時代の養子、養女関係が親しさのあまり行われたのではなく
>敵対する者同士の緩和剤として使われていることは日を見るより明らかなこと。
断定するなら具体的な例を示さないと説得力ないよ。
信長の五女は人質として蒲生氏郷の養女になったの?
常高院お初の養女、氏家行広の娘の場合は?
淀の末妹のお江は秀吉の養女として秀忠に嫁いだけどそれはどうなの?
女性が主筋の養女(または猶子)になる場合はたいてい嫁入りの際の伯付けが多いように見えるけどね。
家康や秀忠も親藩や譜代の娘を養女にして諸大名と婚姻させてるよね。
つか、そもそもなんで三成は主君の正室と敵対しなきゃなんないのやら。
>北政所は徳川家の庇護を受けてますます栄えている。
>>69、ついでに>>60も。
栄えてません。
関が原後、北政所の甥に当たる木下兄弟のうち西軍についたものは改易処分くらっているし
また北政所が勝俊に兄の遺領を譲った所、家康が激怒して領地を没収している。
「俺に無断で勝手なまねしてんじゃねーよ!」てことだ。
とてもじゃないが北政所が「育ててみたい」なんて上から目線で見られるような関係じゃない。
「寛永元年(1624)9月6日、おねは波乱の生涯を閉じた。この時『大猷院殿御実紀』には、
『故太閤の政所従一位高台院尼薨ず。大坂亡びし後も京東山にのがれすまれしかば、神祖河州にて
一萬六千石を養老料によひ給ひ、<長いので略>』とある。徳川家から見れば、夏の陣後のおねは、
実家の木下家に保護されてはいるが、京に『逃れ住む』寂しい老尼でしかなかったのである。」
―――田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房)p243より
>>70
化粧料10万石は千姫だよ。
北政所は上記にあるように一万六千石。

82 :
一万六千石あれば大名並だよなっ

83 :
高台寺の説明見ると「京に逃れた寂しい老尼」ってカンジ全然しないけどなw自分で建てた寺だし立派な茶室もあるし

84 :
ねねって次女?

85 :
>>84
長女じゃね?次女は妹の方(浅野長政室)な気がする。

86 :
>>83
徳川実記にそう書いてあるって言うんだからそれが幕府の公式見解なんでしょ。

87 :
>>83
観光客相手に「ここの主の晩年は実は寂しいものでした」なんて言うわけないでしょw
どうでもいいけどあそこの係りのお姉さんたち「ねねさま」って呼んでんのな。

88 :
大阪城に比べたら寂しいって意味かもしれんよ。案外本人は楽しんでたりしてな

89 :
「案外本人は〜」って言ったらなんでもいえるがな。

90 :
高台寺の調度品とか、まさに華麗なる桃山文化の粋とでも言うべき、贅を尽くした超ゴージャスだもんね。

91 :
天下人の正室なんだから調度品が豪華なのは当たり前では。
寂しい晩年って言ったって別に没落して貧乏生活おくってたわけじゃないんだし。

92 :
高台院は金銭的にはリッチな晩年だったろうけど、結婚前とか秀吉の出世前にはどんな程度の生活レベルだったんだろうね。

93 :
高台寺蒔絵のことだね。

94 :
家康に墓すら建ててもらえず、てか忘れられてるような築山に比べたら幸せだったかもな、ねね

95 :
どブスだったけど、賢明な女性だった。
どうでも良いけど、秀吉・ねね夫妻って、明の洪武帝・馬皇后とかなりキャラ被ってるわ。

96 :
ねね「あたくしはちょっとゴツいだけよっ」

97 :
肖像画だと、ねねも若い頃はパッチリ目の可愛い娘って感じがしないでもない。お市みたいなふっくら瓜実が美人の基準だったのがマズかったか

98 :
お市って現代の感覚で見ればお世辞にも美人とは言えない。

99 :
お市の肖像画はかなり形式ばった型にはまった描き方だからねぇ。
でも実際はたぶん現代でも通用する美人だと思うよ。色白な肌で鼻筋が通って、涼しげな眼元をしてるでしょ。
信長やお犬など、織田家の美男美女に共通する特徴。

100 :
お市の肖像画は凄いほどの美人だとおもうがな。
ふっくらは淀の肖像画と間違ってない?
あるいは顔の3分の1が目の美少女キャラに慣れてるとかw

101 :
ガラシャの目は大きめに描かれてるけどな。お市の顔はわざと能面に似せたみたいな描き方

102 :
淀の肖像画と言えば、可笑しいほどパパンの浅井長政の肖像画とそっくりだおね。ママンには似なかったのか…。

103 :
茶にしてみれば父母の仇である家来筋のハゲ鼠に妾にされたのは
耐え難い屈辱だったろうとはよく言われる。
でも俺に言わせれば秀吉は三姉妹全員に手をつけてもよかったんじゃまいか。
中途半端だ。
天下様と言えどやっぱり北政所の感情を無視できなかった?

104 :
史実は4Pやってたんだよ。
ソースは俺の脳内。

105 :
>>101
ガラシャも美人だけど、夫の忠興もなかなかのイケメンだった。

106 :
細川ガラシャの当時の肖像画ってあったっけ?
後世の肖像しか見たことないな・・・
>>102
淀の肖像画というと多分奈良県立美術館所蔵のものを言ってるんだろうけど
あれ「伝」淀殿像で、しかも江戸中期作成のものらしいからあんまりあてにならんよ。

107 :
淀の肖像画は父親の肖像画の特徴を拾いつつ後世に描かれたものと聞いたことがある。
似てるのも道理かもしれない。

108 :
あたくしの美貌に触れもしないとは随分な無礼者ね。
イライラするわ。

109 :
>>103
もし、三姉妹全員に手をつければ、秀吉はお市の死霊に呪い殺される

110 :
織田家の血筋は、なぜツンデレばっかりなのだろうか…

111 :
はあ?くたばれやDQN

112 :
>>108
全員一致でブス認定

113 :
信長が手紙で「前に会った時より美しくなった。美人の妻を持ちながら藤吉郎はナンタラカンタラ…」とかとか書いてたよな。お世辞にしたってブスってほどじゃないかもよ?

114 :
信長の書状は、ようするに
「あんた城持ちの女房なんだからつまらん焼きもち焼かないでしっかり家を切り盛りしなさいよ」
という叱咤激励型の訓戒状だから、まあ、100パーセントお世辞でしょうな。
あ、でも秀吉清正記念館所蔵の高台院肖像画は可愛いと思う。色白で若々しくて。

115 :
気配りの信長さん。どこでそんなお世辞を覚えたのだろう?w

116 :
ヤリチンの信長の事だから、女の機嫌取りは朝飯前だったのかもしれない。

117 :
信長はどっちかっつーと女より男が好き。信玄と同じで。

118 :
謙信も女に生涯触れなかったし、ひょっとして男に興味ない秀吉の方が異常者?

119 :
男色が一つの確固たる文化だった・・・
なかなか興味深い事実ではある。

120 :
>>117
子供が20人近くもいて男好きってすごいな。

121 :
>>118
細川忠興は大の男色嫌いで家臣にも男色を禁じていた。たしかそういう逸話もあったはず。
秀吉は単に無関心なだけで禁じるまではしてなかったような。

122 :
>>120
「女は産む機械」って思ってそう>信長

123 :
信長に限らず、昔はだいたいどこもそんなもんじゃないの?

124 :
>>118
秀吉は実は三成と男色関係にあったカモ?

125 :
>>124
そりゃ江戸時代の創作だ。大野バージョンもある。

126 :
江戸時代想像力豊かすぎw

127 :
現代の腐女子もすぐにそういう想像を膨らませるぞ。

128 :
男色が嫌いな歴女なんかいません!

129 :
>>121
細川忠興は妻がガラシャだし、キリシタン大名の高山右近とも親しかったから、彼自身もキリスト教的な考えを多少は持ってたんじゃね?

130 :
ねね様にも一時期クリスチャン説あり

131 :
どっちかと言うと逆なんじゃない。
男色が全く受け付けられないから同性愛タブーのキリスト教にある程度理解を示した、とか。
もしキリスト教に影響を受けてたんならもうちょっと女色の方も控えててもよさそうだし。
まあこればっかりは本人に聞いてみないとわからんね。
当時は綺麗な小姓を取り合って刃傷沙汰になった事件とか、
元小姓の家臣に心変わりを恨まれてぶち殺された大名とかいたから、
男色禁止にしたのは忠興的に風紀を取り締まりだったのかもしれない。

132 :
>>130
キリスト教に好意的だったのはルイス・フロイスの本にもあるけど
キリシタン説は初めて聞いたな・・・。
秀次もキリシタン説があって、豊臣家って意外とキリスト教に好意的な人が多いんだよね。

133 :
同じ豊臣家の女でも淀殿は大のキリシタン嫌い

134 :
>>133
神仏への信仰はあつかったけど、キリシタン嫌いとまで言えるかどうか。
伯母の京極マリアは熱心なキリシタンだったし、
その影響か、仲のよい次妹のお初も一時期夫(とその兄弟)とともにキリシタンだったけど、
別にそれに抗議した形跡もないし・・・。従兄弟の子の織田秀信兄弟もそうだな。
他者の信仰はそれなりに尊重できた人じゃないだろうか。推測だけど。

135 :
>>94
自分の嫁(築山殿)はまともに供養もしてやらずにうっちゃっておくのに、
他所の隠居ババア(ねね)には大金をつぎ込み礼を尽くす家康公。

136 :
>>131
>もしキリスト教に影響を受けてたんならもうちょっと女色の方も控えててもよさそうだし。
キリシタン大名なのに女好きだった大友宗麟ってどうかなぁ〜。
宗麟は奥方がキリシタン嫌いの為に夫婦不仲だったから、仕方が無いって言えばそれまでだが・・・・・・。

137 :
>>135
家康は実はねねに憧れていたのかも?!

138 :
>>137
きっと、こんなことがあったんだよ!!
〜〜慶長12年8月某日、京・高台寺にて〜〜

  ∧∧ ∧∧
  (家 ´)ね`Д) )) < ハァハァ こんな所でダメェ
  /   つ つ  < 大丈夫だって,こんな糞寺誰も来ねえよ
(( (_(_   ノ ノ
  し∪ ∪

     女の子にしてやんよ・・・
      <⌒ )ヽ-、 ___ ウン・・・
     <⌒/``ニ  丶/
   /<_/____/ギシギシ
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

139 :
>>134
甥の徳川家光がキリシタン弾圧したことをどう思ってたんだろう?>お初

140 :
 
関ヶ原の戦いに日本の歴史が集約される。
http://s1.shard.jp/deer/0203/39/266_1.html
それは徳川一族の特性だと思っていたが、
実は、大和民族の特性だった。

141 :
>>134
つまり、浅井三姉妹の中で反キリスト教は徳川家に嫁いだ三女お江だけってことでOK?

142 :
江にキリシタン嫌いの言動があればそうだろうけど、なんかあったっけ?
別に江自ら徳川家を選んで嫁入りしたわけじゃないし、婚姻は秀吉の命によるもの。
それにキリスト教弾圧が本格的になったのは家光の代からでしょ。

143 :
>>136
都合の悪い指摘はスルーの>>131

144 :
石女ねね

145 :
忠臣蔵やってるなー。ねねの結婚前の養女先、浅野家の子孫だよね

146 :
>>144
秀吉の側室たちも淀殿と南殿以外はみんな石女

147 :
なんで石女ばっかりだったの?
秀吉が種なしだった、って以外に考えられる理由は?

148 :
秀吉は色白で病弱な美女が好みだった
ブスでも健康な女性を好んだ家康とは対照的。

149 :
>>139-142
家光の実母は本当は江ではないかも?!
江が忠長ばかり可愛がり、家光を疎んじたのも考えてみれば不自然。

150 :
そもそもお江が家光を疎んじていたっていうのは本当なのか?

151 :
異母弟(保科正之)との交流はあったのに、異父姉(完子・九条幸家室)との交流は皆無な家光w

152 :
>>148
つまり子供が産めないようなひ弱な女ばかりだったってことか。
お姫様育ちで体が弱くなるってのもあるのかな?

153 :
>>148
本人かよw

154 :
>>149
なんかいかにもネットの聞きかじりを書き込みましたって感じw

155 :
>>152
温室育ちのお姫様は体の弱い人が多かった

156 :
>>155
イメージで言ってね?

157 :
どうしても秀吉を種無しにしたい輩がいるようだな。
そんなに淀殿を不倫女にしたいの?

158 :
>>155
政宗の嫁なんて鉄砲隊を率いて戦ったぞ

159 :
>>152-156
公家の姫は心身共にひ弱ばかりで役立たずw
徳川将軍家の正室は殆どが公家出身だから、世継ぎの生母は庶民出身の健康な側室ばかり。

160 :
>>159
その割には長生きした人多いが。

161 :
戦国時代のお姫様の生活様式がよく分からない
まともに運動もせず、御殿の奥にヒッキーだから虚弱体質になるんだろうか

162 :
>>159、161
テレビドラマの大奥とかと混同してるだろw

163 :
>>157
秀吉を種なしだと貶める奴は特亜の工作員
チョンは秀吉の朝鮮出兵が気に入らないんだろw
300年近く前のことを恨むって蛇より執念深いな、朝鮮人wwwww

164 :
>>160>>162
4代家綱の正室も、8代吉宗の正室も、9代家重の正室も、10代家治の正室もみんな夫である将軍より早死にしてますが何か?
13代家定なんて最初の正室と2人目の正室はいずれも若くして亡くなってるしw
よく調べてからモノを言えよw

165 :
>159.164
徳川将軍家にかぎってだとそうかもしれないけど、御三家御三卿には生母が宮家・公家の娘が何人もいるし
大名家にだってそこそこいる。天皇の生母は公家の娘。
公家の姫が心身ともに貧弱で役立たずってのはおかしい。

166 :
>>164
若死にした人もいるけど、長生きした人もいるだろ

167 :
家定の兄弟はみんな早死に、家定も病弱だったし。公家の娘が弱いっていうより、みんな白粉で鉛中毒だったんじゃね?

168 :
戦国時代の女性は、戦乱等で非業の死を遂げた人以外は、割と長生きした人が多いような。
やっぱり江戸時代に、生活様式が不健康なものになっていった事が関係してる気がする。

169 :
>>136
キリシタンと言えば、弾圧されても信仰に生きたと美化されているけれど、
社寺を破壊、金を教会につぎ込むなどやってることは・・・
宣教師らは日本人の奴隷貿易をやってたしね

170 :
>>169
>宣教師らは日本人の奴隷貿易をやってたしね
それソースはなに?

171 :
>>164-167
篤姫は健康だったのに子供が出来なかった。病弱な家定の方が悪かったってことだね。

172 :
>>171
マテ。病弱=種なしとは限らないし、健康=妊娠可能とも限らない。

173 :
秀頼スレと同じ内容を語ってもしゃーねえ。

174 :
>>167
それでFA。
いくら子供の夭逝が多いといったって
家康〜家光までは
普通に成人を迎える子供の方が多かった。
家綱以降になるとまともに育つ子供がほとんどいなくなる。
春日局からお万の方に実権が移って
大奥の習俗が朝廷風をさらにエスカレートさせる方向へ進んだせいだ。

175 :
大奥って言うと江戸城の大奥のイメージだけど、大阪城にもそれと似たものがあったらしいね。
御殿女中たちの組織形態も似たようなものだったそうな。

176 :
>>174
でも家斉の子は成人した子が多いね。
吉宗も男子3人も成人している。
多少、両親の丈夫さも影響あるのでは?

177 :
吉宗の長男と次男は吉宗が将軍になる前の生まれだし、家斉の子供も半分は成人しなかったらしいで

178 :
>>117-120
男好きでも子沢山だった信玄や信長はエライ!!
それに比べ、女好きなくせにキモヲタ童貞のお前等ときたらry

179 :
>>25
演じた女優が麻薬に手を染めた時点で賢妻・おねが汚れた

180 :
>>178
妻妾たちとの間に子供をもうけるのは嫌でもやらなきゃならない義務で、
男と愛し合うのは、自分の好きでやるんだよね。

181 :
男色家でも妻を娶って子供作ろうと思えば出来ないことは無い
現代のゲイがそれをしないのは、単に哺乳類としての義務から逃れようとしているだけだ。

182 :
>>181
馬鹿だね。そんな義務はない。
かつてそれが半ば義務だったのは家の継承が大事だったから。

183 :
イスラム教の国じゃ同性愛者は死刑
いいね、日本という国は。昔からいろんな意味で寛容で。

184 :
>>176
後水尾天皇は公式に認定されている子供33人のうち25人は成人している。
徳川家康は認定されている子供16人のうちで夭逝したのは松千代・仙千代・松姫・市姫の4人。
お江が産んだ子供とされる9人のうちで夭逝したのは長丸だけ。
(長丸が妾腹の子で、お江にお灸で焼き殺されたという説があるのも1人だけ夭逝したのが怪しいから)
一方、家斉の認知されている子供53人のうち成人したのは28人。
家慶の子供27人のうち成人したのは家定1人。
江戸城大奥の子供の死亡率は異常。
徳川の血筋を維持するための組織としてはまったく役に立ってない。

185 :
>>172
病弱だった家重だって長男と次男がいるしね。

186 :
>>183
それはあくまでも建前で、実際はイスラーム圏にも同性愛の文化はありますよ〜ん。
オスマン朝の王様に、小姓と愛し合ってるとこ絵に描かれちゃった人とかもいるしね。

187 :
吉宗と家重の子がわりと元気に育ったのは
極端の倹約政治で
大奥が白粉の使用を控えるようになったからとか

188 :
ほんまかいなw

189 :
>>186
いずれにしても、男色に最も寛容な宗教が仏教だということは確か。
衆道の元祖は空海だとも言われてるしw

190 :
>>163
朝鮮人は秀吉が嫌いで家康が好き。これ常識な

191 :
>>101
ガラシャもお市も現代に生きてても普通に美人だろ
お市なんて背が高かったんだから、現代にいたら、ファッションモデルになれるかも知れない。

192 :
>>191
>普通に美人だろ
よく言われている「織田家は美男美女の家系だったので」という説、
高名な研究家等も平気でこのような文章を用いるけど
いつもその根拠と具体的な説明史料をあげて欲しいものだと思っている。
その際には、当時の肖像画のもつ「故人顕彰」の意味合いや、
当時の大和絵等の画風や人物肖像の様式も含めて、
ちゃんと検証して欲しいと思ってるんだけど
そういう金にならない検証をするセンセイは居ないらしい・・・
ただ、当時に勢いのあった武門の家で
大事に育てられた姫なので、日にやけることもなく
肌や体のお手入れもおこたりなく、化粧も入念に、
侍女にかしづかれて育って所作もたおやかで美しい。
・・・そういう理由で綺麗に見えることは充分にありうるけど。

193 :
子孫の織田信成はあんなブサイクだしな
「織田家は美男美女の家系だった」説は疑わしい。

194 :
そもそも織田信成の話の信憑性が疑わしいという話だけど・・・

195 :
確かに織田信成は本当は信長の子孫ではないと週刊誌に載ってたこともあったっけ

196 :
>>148
加賀殿は病弱だったけど、茶々の容姿は伝わってない。てか大柄?
甲斐姫なんて名刀「浪切」で敵をバッタバッタと切り倒した逸話の持ち主だぜwまあ美女だったらしいけど

197 :
>>152
秀吉の側室は淀殿以外秀吉の子は産まなくとも
秀吉以外の夫の子を産んでいる女性はいるんだよ。
京極龍子=秀吉の側室になる前、元夫との間に男子2人あり
加賀殿(摩阿姫)=醍醐の花見の後、公家と再婚、男子1人を産む
父母が同じ姉妹であっても
・茶々=男子2人
・初=子供なし0人
・江=二男六女の8人
で、女性の見た目や血統でその女性が産む子供の数など推測できないよ。
「運」もあるし。
ちなみに家康の側室の中にも子供のいない女性はいる。

198 :
>>196
甲斐姫の逸話なんてほとんどが江戸時代の地元民の作った創り話だってばw

199 :
宇喜多秀家の母の福も側室だった説あり。
羽柴於次秀勝の時みたいに宇喜多家を取り込むためにふくと秀家を利用したんだろうけど。
秀吉は、足利、山名、京極、織田から側室を迎えてるけど、公家の娘は側室にしてないよね。
不思議な気はする。気が強くて芯の強い武家の女が好きだったのか…

200 :
>>184
江が焼き殺したというのはないと思うよ
江が長丸を殺したければ
生まれてすぐに関ヶ原の戦後処理で秀忠が不在の時に殺せばいいじゃん
秀忠が帰って来たあとに生後九ヶ月で死んでるから
江が殺したとは思えん
(慶長五年生まれの場合)
慶長六年生まれの場合だと秀忠が戦後処理で上方にいる時に懐妊させたことになるので
江が逸話通りヤバい奥さんなら生母を伏見城に放置してこればよいだけの話
わざわざ江戸に連れてきて出産させて九ヶ月生存してるんだから
こちらの場合もありえないと思う
長丸が江の子って可能性も消えたわけじゃないし

201 :
【徳川家の】あたくしは御台所【女王様】

202 :
>>199
秀吉は女好きだったけれども
その側室たちの多くは「庇護」という側面も強かった気がする。
秀吉の側室たちの多くは父や夫を戦でなくしたり、
実家が没落して献上されたりした姫。
秀吉が武家の姫ばかりを漁っていたというよりも
父や夫を亡くし庇護を求めてきた武家の姫を
秀吉が庇護と言う名の側室にした・・・という側面がある。
まあ、秀吉に限らない。
織田信長も、武田信玄も、側室にはそういう人が含まれている。
女は父や夫を殺されたら自分が生き抜くために
その殺した相手に庇護を求めるということが日常茶飯事にあった時代。

203 :
>>202
あんたもしかして、前に「戦国のあしながおじさん」っていうデムパ飛ばしまくってた人じゃないの?

204 :
そう、秀吉を好色ヒヒジジイのように言う輩が多いけど、
天下人になってからの秀吉は、当時としては既に老境であり、
多忙な政務もこなしつつ、大量の若い女性を賞味するのは、
体力的にいささか無理だろう。
秀吉の側室の多くは、やはり庇護とか扶助のためのものであり、
天下人の側室としての身分や収入を保障することが目的だったのでは?
言ってみれば、秀吉は「戦国のあしながおじさん」だったと思う。

205 :
デムパ(・∀・)!

206 :
一般人が彼女や愛人つくるのとは違うからね。
個人的な好き嫌いはあまり関係ない。

207 :
秀吉は血筋の良い女性を側室にすることによって自分自身に箔付けしたかったんだろうな。

208 :
>>184
江戸時代(特に後半)の上流階級は将軍家に限らず、他の大名家や公家、天皇家でも生母の出自に関係なく子供の夭折率が高いよね。
あと、時代が下るにつれて身分の高い女性が子供を産まなくなってる。
鎌倉室町の将軍は大半が正室の子だし、信長秀吉家康あたりまでは正室腹が多いけど、その子供世代から一気に側室の子が当主になるケースが増えている。
この辺がなかなか興味深い。

209 :
時代が下ると、身分の高い人の生活様式が不健全になっていくのかも

210 :
平安貴族なんて超不健康なイメージあるけどな

211 :
おー 珍しくまとめな回答wwwはやく嫁に行けwwwwwwww

212 :
>>203>>207
秀吉がただ単に血筋の良い女性という基準で側室を求めたのならば
なぜ最も良い血筋=天皇家や公家から側室を迎えなかったのかという話になる。
天皇家はともかく公家ならば養子の秀次の側室にも公家の姫がいたわけだし
秀吉が望めば公家の姫を側室に迎えることは十分可能だった。
しかし、あしながおじさんなど関係なしに、秀吉の側室たちは没落武将の娘たちだ。
・淀殿=父、義父が討ち死に
・京極龍子=夫が討ち死に
・三の丸殿=父、異母兄が討ち死に
浅井も京極も織田も、公家なんかに比べたら大した血筋ではないよ。

213 :
滅ぼしたり支配下に置いた家の親族や関係者を雇い入れるのはよくあること。

214 :
ちょっとはあたくしの話もしたらどうなの?あなた達。
イライラするわね!

215 :
>>214
ダンナに「あたし便秘なの〜」って言ったの本当なの?
普通は恥ずかしくて自分のダンナや彼氏にそんなこと言えないと思うわ。

216 :
>>212
そういう状況が、まさに「戦国のあしながおじさん」なんだろ。

217 :
らくらくホンのコマーシャルに出ていた中年の女性がねねを演じている

218 :
>>215
「下剤を使って少しでも出るようにしたいよねー。目出たい知らせを待ってるよー」
って手紙が秀吉からねねにw

219 :
この時代の身分の高い女性ってトイレの後、お尻を自分で拭かないで侍女に拭いてもらうんだよね。
秀吉が天下統一した頃のねねはこれが嫌で便秘になってしまったのかな?w

220 :
[[ノート:九州の役]]
なかなか投票が始まらないね。

221 :
>>218
「そっちに帰ったら肛門性交で治してあげる。早く逢いたいなぁ〜」
とは流石に書けないよな、いくらエロネタ好きの秀吉でもw


222 :
>>220
ていうか、所詮、後世の人間の便宜的な名称だからな。
歴史の教科書に出てくる用語の大半は、近代以降に学者が便宜的に名づけたものだろ。

223 :
三成の娘の辰子を養女にしていたということを良く見かけるけど
実際のハナシ、何歳頃から何歳頃まで、手元に置いて養育したのか、
はたまた名義的なだけの養女なのか?
詳細までは知りえないので、詳しい人が居たらご教示願いたいです。
大阪陣の際でも、京都の寺院で出家の身の高台院が保護していれば
女子でもあり捕縛とかは逃れてたんじゃ?と思えるし
その時点ではすでに高台院とは手切れになってたのか?とも考える。
三成の子女として(人質的な意味もあり)大坂城内に留め置かれたのか?
いやしかし、高台院との関係があったから東北へ逃避行できたとも
考えられたりするし、本当によくわからないので。

224 :
>>223
辰子は秀吉死後だから8歳ぐらいでねねの養女になった。
しかし、名目上の養女だったと思われ、
関ヶ原の戦いのときには実兄の石田重成と一緒に
陸奥へ逃れ、兄とともに津軽氏の庇護を受けている。
辰子は大坂の陣のはるか前に津軽信牧と結婚。
しかし、夫は後に家康の養女を正室に迎えたために
辰子は側室に落とされた(すでにねねの手が及ばなかったのか)。
ちなみに辰子は上野国に移され、大阪の役の後も生きている。

225 :
>>224
早速にありがとうございます。
自分は満天姫(この人も、またややこしい履歴の人だけど)に興味があり
なので自然に辰子の軌跡にも興味が出たのですが、
高台院の養女であればその庇護のもと生き延びる道もあったろうに
なぜ東北へ逃避行するはめになったのか疑問だったんですよね。
幼い姫が敗残の兄ともに東北へ向かうのは困難だったでしょうから。
でも「名目上の養女」のような身だったら納得もできます。
-辰子は津軽信牧に寵されて男児を産んでも遠い上野国ですごし
満天姫は家康の姪で養女身分として再々婚し正室になっても
津軽家のために自分の連れ子を犠牲にしたり
信牧をめぐる女二人はそれぞれ苦難の人生を生きたのでしょうね。

226 :
北のR所

227 :
北政所って結婚したとき12・3歳だっけ。

228 :
>>227
14歳。

229 :
ねね4さい「お母さ〜ん、道端で猿を拾ったよ。飼ってもいい?」
ねね14さい「お母さ〜ん、道端で猿を拾ったよ。結婚してもいい?」

230 :
ねねは実家の杉原家に父母ともそろっていたが、
子のない叔母夫妻浅野家の養女となり、浅野家で育った。
浅野家が織田信長に仕えるようになったことから
秀吉と知り合う。
秀吉と結婚するとき、養父母の浅野家は賛成したが、
実家の杉原家は猛反対したらしい。
その後、秀吉が大出世を遂げると
養家の浅野家は21万石の大名にとりたてられたが、
実家の杉原家は1万石の小大名にしかなれなかったらしい。

231 :
ねねの実兄の木下家定の息子たちは、家督争いしたり関ヶ原て東西に分かれたりとかしたよな
あっちもこっちも大変な高台院…

232 :
でも生家も養家も生き残って良かったジャンねえ。>ねね
まあ肝心の豊臣家が滅びちゃったのだけども・・・


233 :
>>142
>それにキリスト教弾圧が本格的になったのは家光の代からでしょ。
家康までは禁教令が比較的緩かったけど、秀忠の代になってから途端に厳しくなったが、何か?
自分が持ってる本にも秀忠のキリシタン嫌いは有名だったと書いてあるし。
秀忠が弟の松平忠輝と不仲だったのも、忠輝がキリシタンに寛容な人物だったからだとも言われている

234 :
【源氏物語】光源氏とのベットシーンの描写より紫式部処女説を展開。女子大生の卒論が話題に ★2
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1281096529/

235 :
>>233
>何か?
って、なに高飛車になってるんだろ。
亀レスなんだし、普通に答えりゃいいのに

236 :
>>235
別に高飛車でも何でもないと思うけど?
歴史板でそういう小さな事をどうのこうの言うの、やめなよ

237 :
(´ー`)y-~~

238 :
家康、秀忠時代のキリスト教弾圧はもっぱらキリスト教宣教師と外国人を締め出して
幕府が認めた以外の貿易港をすべて封鎖し、幕府以外の大名が諸外国と交易して
巨利を築くことがないよう制限したものがほとんどだったと思うがな。
日本人のキリスト教信仰まで完全に規制し始めたのは家光の時代からだ。
ちなみに秀忠が忠輝を疎んじたのは忠輝が東北の雄、伊達政宗の娘婿だったからだろ。
忠輝やその室五郎八姫(伊達政宗長女)はキリスト教に入信したがそのこと自体を
幕府から咎められていないし、秀忠自身、四女の勝姫を当時キリスト教大名だった
京極高次&初夫妻のもとに養女に出しているのだから
秀忠の時代にそれほど禁令が強かったとも思わんが。

239 :
>>237
ゴメソ。ねねの話も少しはしてあげようよ。
このところスレタイと関係ない話が続いてカワイソス(悲)。。

240 :
>>238
>秀忠自身、四女の勝姫を当時キリスト教大名だった京極高次&初夫妻のもとに養女に出しているのだから
あれ?、京極家に行った秀忠四女の名前って「勝姫」だったっけ?
父方の従兄の松平忠直に嫁いだ秀忠三女の勝姫なら知ってるがw
それに、五郎八姫はともかく、忠輝がキリスト教に入信したなんて話、聞いたことないんですけど?

241 :
>>237で思い出したけど、淀は喫煙者だったらしいゾ。
ねねがどうだったのかはシラネ。

242 :
ねね「天守閣って日当たりがいいわね。大根を干そうかしら」

243 :
>>241
淀殿はヘビースモーカーだった。
あんなヤニ臭い女をよく抱けたものだな、秀吉は。

244 :
この時代の女性は皆喫煙したらしいよ。
上流階級の女性の嗜みだった。
侍女たちも、姫君たちの退屈凌ぎにむしろ喫煙を勧めていたらしい。
京都には天皇の皇女たちが入った尼門跡寺院が多くあるが、
実際に使われていた豪華な煙管のセットを所有している。
高貴な皇女たちすら喫煙していたわけで、
女性が喫煙がすることが悪いという認識もなかった。

245 :
http://chachahime.hanagasumi.net/once/text01.htm

246 :
>>244
>この時代
戦国時代なのか江戸時代なのか、
幅が広すぎるよ「この時代」って言葉が
上野芸大美術館での「尼門跡展」にも行ったし
和宮の喫煙が過ぎたって逸話も知ってるけどね

247 :
いつから日本人に喫煙が広まったかだよね
まあそれ次第だ
秀吉の時代に上流階級に広まり皆吸ってたなら
淀だけじゃなくてねねも龍子も皆吸っただろうし
淀の時代にまだ入ってきてなければ淀も吸ってない
一次史料で淀が喫煙者、それもヘビースモーカーだったという
記述はないのだからそういう定義はできないというだけの話

248 :
>>198
そもそも、甲斐姫が秀吉の側室の一人だったかどうかさえ疑わしいんだが・・・・・

249 :
秀吉は側室が16人いたと公称されているけど、
きちんと史料で確認されるのって少ないんだよな。
とりあえず、醍醐の花見に輿に載って参加し、
本人が詠んだ歌の現物も残っている、
・二の丸殿(茶々=淀殿)
・松の丸殿(京極達子)
・三の丸殿(織田信長五女)
・加賀殿(前田利家四女摩阿姫)
の4名は確実なんだが。

250 :
京極達子→京極龍子
変換ミス

251 :
三条殿は確実でないの?
妹と養女を秀吉に差し出すとは、すげーな蒲生氏郷と思ってたけど、三の丸殿だけかもしれないのか。

252 :
三の丸殿(織田信長五女)
「サルめ、俺の娘にまで手を出しおって!」って信長があの世で怒ってそうw

253 :
まつは何で醍醐の花見に来たんだろう?
娘の加賀殿がもうすぐ側室を辞めるとか聞いてたのかな

254 :
>>252
秀吉も、あの世の信長にそう言われそうな気がして、蒲生氏郷に頼んだのかな。
秀吉「あの女、お前の娘ということにしてくれ。お前の嫁の妹だから、お前が養父になっても不自然じゃないだろ」
それでも、あの世の信長が秀吉と氏郷を怒ってそうだがw

255 :
>>253
まつが醍醐の花見に呼ばれるのはおかしくも何ともない。
前田利家の妻であり、北政所の知己であり、摩阿姫の母なんだから

256 :
>>252-254
主君の娘を側室にするとは、秀吉も大した度胸じゃないか!
案外、あの世の信長も許したかもよ?
それよりも、茶々の両親の気持ちの方が気になるんだが・・・。

257 :
織田信長は生前に自分の娘を自分の家臣である
前田や丹羽に嫁がせているから
これに匹敵する大名になっていた秀吉が
信長の娘を拝領してもおかしくはなんだよな。
ただし、側室というところにはかなり問題があるだろうが。
正室ということでならば、娘に甘かった(らしい)信長は
「絶対に自分の娘を主筋の嫁として大事にする」ことが確実な
自分の家臣に好んで娘を嫁がせていた。

258 :
そりゃ死んでるんだから無問題。

259 :
秀吉に息子がいれば、嫡男の正室として信長の娘が嫁いでくる可能性は高いだろうけどね。
秀吉本人には絶対に無理だろう。

260 :
もし、石松丸秀勝が生きていたら、彼は信長の娘と結婚させられたかもってこと?

261 :
石松丸秀勝自体、存在が曖昧。

262 :
存在が曖昧と言えば、秀忠の庶長子・長丸もそう。

263 :
信忠の兄?も信忠の長男も、秀頼の長男も曖昧と言えば曖昧かも
正室を迎える前とか正室がまだ若いと曖昧になるのかね、庶長子

264 :
>>262
徳川秀忠の子、長丸は実在したことは分かっている。
(母は家女で、素性が明らかでないが)
しかし、秀吉庶子石松丸秀勝は存在したかどうかが不明。
厳密にいえば、「石松丸」という幼児は存在した、しかし、秀吉との関係が不明。
つまり、一次史料に秀吉の子として名前が全く上がっていないということ。

265 :
>>263
>正室を迎える前とか正室がまだ若いと曖昧になるのかね、庶長子
正妻を娶る前に子供がいたら外聞が悪いだろ、流石に。
まぁ〜、あの時代「貞操観念」なんてものがあったかどうか・・・・・

266 :
>>263
庶長子は「正室を娶る前に作った子」。
信忠の長男三法師はこれに該当するが、
秀頼の長男や秀忠の長男はこれに該当しない。
秀頼の長男国松丸が産まれたときにはすでに秀頼の正室千姫はいたし、
秀忠の長男長丸が産まれたときにもすでに正室江がいた。
>>265
正室は相応の大名の息女であることが多いから、
正室の実家が嫌がるというのはあるわな。
これから大事な箱入り娘を嫁がせようという相手の男が
すでに子持ち妾ありだったら、娘が可哀想だと。
だから、正室を娶る前に庶子を作ってしまったら、女を追放して
子供を寺に入れてしまうことはよく行われていた。

267 :
北(条)政(子)所

268 :
>>263-266
信忠の場合は婚約が破談になってしまったから無問題じゃね?




269 :
>>266
蒲生氏郷の息子もそれだな

270 :
>>268
武田信玄の娘と婚約が破談になったなら、
なぜ信長が他の正室を娶らせなかったかが謎なんだよな。
徳川秀忠も最初信長の娘と婚約したが破談になり
他の正室を迎えているし。
まさか、敵対する武田の息女を信忠がそれでも思い続け、
我が正室とするべきは松姫をおいて他になしと(会ったこともないのだが)
武田の滅亡後に松姫を迎えに行った(松姫輿入れ途上に信忠死亡)
というのは作り話だろうし。

271 :
織田家の正室は影が薄い

272 :
>>270
会った事もないから妄想したり?まあ若いっていろいろあるかもw
松姫の代わりに、信長は誰を薦めたのかな

273 :
会ったこともない相手に対して恋心を抱くなんて信忠スゲーなw
松姫の方も生涯独身だったし、ひょっとして「両思い」かも???

274 :
>>266
娘の旦那が種なしじゃないってことが分かるのはいいかもしれんぞ
掌中の珠をくれてやったのに種なしで家督は縁もゆかりもない傍系に移行されて
縁戚関係が薄くなったら政略結婚の意味ないし

275 :
娘の旦那が種なしじゃなくても、肝心の娘が不妊体質だったら哀れ

276 :
政略結婚とはいえ、夫婦仲が良ければ幸せかもよ。日野富子の夫婦仲の険悪さは恐いものがあるw

277 :
>>274
夫婦仲が良ければそれでいい気が。
この時代はすでに父系社会で、娘を他の大名家にやって生まれた男子が家督を継げば、
母方の外祖父が自由にその大名家を操れるってこともないし。
平安時代の摂関政治みたいに子供は母方で養育され
母方の外祖父の力が父方以上に非常に強くて
好き勝手できる時代でもないので子供の代のことはあまり重要ではないと思う。
実際に自分の母親の実家を攻めたり、母親の実家に攻め滅ぼされたりしている例は多い。
戦国時代の政略結婚は、あくまでも現状手を結ぶかどうかで成り立っている。
手を結ぼうと思って娘を嫁がせたはいいが、すぐに仲が悪くなって
娘が返されるということも普通にあった時代。

278 :
>>276
長政とお市は夫婦仲が良かっただけでも幸せな方じゃね?
忠興とガラシャは微妙だが・・・・・。

279 :
>>270
そう。
武田家瓦解後に信忠の使いが八王子の松姫を訪ね
ともに京に上ったが、その時遅く本能寺の変が・・・は、作り話だよ。
>>273
二人の悲恋とかは後世の想像によるものだよ。
ロマンチックであるから、様々な創作のネタになった。
また、そういうのを信じたい人も居るようだけどね

280 :
>>271
信長の母親も影が薄いかな?
嫡男である信長を疎んじ、弟の方を偏愛した悪女のイメージがある

281 :
>>280
兄を疎んじ弟を偏愛・・・って伊達政宗母や徳川家光母もそうだけど、
こちらは大分評価が変わってきているような。
江なんかはだいぶ悪女のイメージはなくなってきてるよね。
土田御前がそんなに影が薄いという印象はない。
信長・信行兄弟の仲裁に入ったり、信長死後は信雄や信包のもとに
身を寄せたりと動向は比較的はっきりしている。
織田の正室は影が薄いというのは美濃の斎藤氏滅亡後
信長の正室濃姫の消息が記録されていないことによるものだろうけど。
逆に、信長の妹や娘たちの実名がこの時代にしては珍しく割とはっきりしていたり
信長が家臣の妻にすぎないねねにあまり嫉妬をするなと諌める手紙を書いたりと
織田家中での女性の扱いは高かった(良かった)とする意見もある。

282 :
>>281
昔は秀忠との関係も冷めているのになぜか恐ろしいほど嫉妬深いという
散々な設定で描かれることが多かった気がするが
最近は夫婦仲が良くて嫉妬も薄味に描かれることが多くなった気がするな 江は

283 :
江、大河ドラマで知名度うp。
あんな破綻した糞ドラマで歴史を知った気になったら困りそうだけど。

284 :
むしろ、茶々の方が悪女のイメージ払拭できていないな
「秀頼は秀吉の子供ではない。大野治長か誰かとの不倫の子」とか言う輩が未だにいるし
もっと愛情に満ちた描き方がされても良さそうなもんだけど・・・・>秀吉と茶々の関係

285 :
今年の大河はまだまだ家光登場しないんだが。
江はそれ以前から大河に取り上げられていたし。
以前の「春日局」辺りでは江は悪女っぽく描かれてたが
(保科正之母が江に追放されて春日に助けられたり)
「葵三代」辺りでは秀忠と夫婦仲が良く描かれてた。
最上の義姫なんかも昔は烈女の代表格だったのだが
「独眼竜政宗」では子供思いの母親に描かれてる。

286 :
>>281
「どた」か「つちだ」か?
どっちだと思う?

287 :
地震といえば長浜の地震で山内一豊の娘のよね姫が死んだんだよな
琵琶湖には天正の地震の他にも、地盤沈下で沈んだ村がいくつか有るとか無いとか…

288 :
>>282
昔の身分の高い女性の悪女設定は全部ワンパターンなんだよね。

289 :
>>282
その弊害?で秀忠が人が良いだけの凡庸な男にされることも多いけどな
ほのぼの夫婦にした挙げ句、夫の政治手腕までなくされてしまっているのはどうかと思う

290 :
秀忠は、家光の裏で手腕を発揮した。
親父の家康を見習って、大御所政治をやった人。
惜しむらくは、家康ほど長寿ではなかった。

291 :
徳川秀忠の功績
1616年 大御所徳川家康死亡により秀忠の将軍新政開始。
    福島正則など豊臣恩顧の大名に対する改易などの徹底的な粛清
    弟の忠輝や甥の忠直など血族であっても不手際者には徹底した粛清
1620年 末娘の徳川和子、後水尾天皇に入内。武家出身中宮は平安時代末期の平徳子以来。
1623年 次男家光に将軍を譲る。江戸城西の丸において実権を握り、大御所政治を展開。
1629年 紫衣事件。朝廷を粛清。
1632年 大御所秀忠死亡。
秀忠は徳川幕府を長期政権とするべく将軍の地位向上のための相当な粛清を行っており、
ほのぼのとした良い人というよりは、当時の人にとってはかなり恐ろしい存在だったんじゃないかな。

292 :
家康自身が、大御所時代になって、豊臣家滅亡のために、
かなりえぐいことをやっている。
表の将軍、裏の大御所、で汚れ仕事を大御所が引き受けている印象。

293 :
>>132
ねねが可愛がった加藤清正のキリシタン嫌いは有名
清正は熱心な日蓮宗の信者だよ。
豊臣系の武将が皆、親キリシタンだと思ったら大間違い

294 :
>>290
あの時代、享年54は長寿な方じゃね?
家康が、異常に長生きしすぎなだけ

295 :
54じゃ大して長生きとはいえないんじゃないかな。
当時でも、戦死や死刑などで死んだ人を除けば、割と長生きの人多いよ。
秀吉の一族は割と皆早死にだけど、秀吉の姉ちゃんだけは異常な長寿なんだよな。

296 :
>秀吉の姉ちゃん
お江の「元」姑
この人、何で長生きしたんだろう?結構不幸に見舞われてるのに・・・・・

297 :
>>291
華は家光に持たせてるし
かなり優秀な将軍だったね
それこそ吉宗より優秀だと思う

298 :
>>288
正室=嫉妬深い、側室いじめ
側室=淫乱、権力目当て
とかそんな感じ?

299 :
>>297
>吉宗より優秀だと思う
いや、いくら何でもそれはナイ!

300 :
家康は全部自分で決めた
秀忠は半分自分で決めた
家光は全部人に任せた

301 :
>>300
海音寺さんか

302 :
家光も綱吉よりはマシ

303 :
>>281
お市やお犬の母は土田御前で良いんだよね?

304 :
>>303
信長の妹達についてほとんどその生母は一次史料で明らかになっていない
市は小谷城脱出後兄信包のもとで暮らしていることから、
市と信包は共に育った同母兄妹と推測されている。
信包は晩年土田御前を引き取り土田御前は信包のもとで没していることから
信包は土田御前腹で、市と信包は信長と同母だという説が有力になった。
犬については犬の子佐治一成と市の子江が結婚していることから
市と犬の同母姉妹説は昔からある。
信長と同母説のある弟妹たちはいずれも美貌の誉れ高く、
犬は市と並び大変な美女だったらしい。
市と同年生まれの信長の異母弟織田有楽斎などは
信長や市とは異なる丸い顔立ちで、あまり似ていない。
結局決定的な史料は見つかっていないから確定というわけではない。
そういう説が有力視されているというだけ。

305 :
お犬の方の画像
ttp://blog-imgs-43.fc2.com/o/w/a/owarioono/oinufull.jpg
確かに美人だ

306 :
>>304
>信長と同母説のある弟妹たちはいずれも美貌の誉れたかく
このことから考えると、信長の父・信秀が美男だったというより、母親の土田御前が美人だったんじゃね?

307 :
>>306
市も犬も土田御前腹で間違いないならばその可能性はある
ただし、信長の従妹で信長が養女とした龍勝寺殿(武田勝頼室・大変寵愛されたらしい)、
信長の叔母つや(遠山景任室・その後夫を殺した秋山信友に所望され室となる)といった
土田御前と明らかに血縁関係にない織田家血縁の女性たちも美女だったと言われている。
信長、市、犬らの美貌が父方ゆずりか母方ゆずりか両方とも美男美女だったのかは分からないが、
結局のところ言い伝え通り「織田家は美女揃い」というのは間違いとも言い切れない。

308 :
「織田家は美男美女の家系」ったって
子孫の織田信成はブサイクすぎる。信長とは似ても似つかんが・・・・・。彼、本当に信長の子孫なのかな?

309 :
>>308
その人はパチモンじゃぞよ。

310 :
>>308
そら子供は父方だけに似るわけではない
何百年もの間全く別系統の血が母方から入ってくれば顔はどんどん変わる
江戸時代の徳川慶喜ですら直接の先祖初代徳川家康とはまるで別人だ
こっちは初代家康がタヌキ顔だったのに対して慶喜は美形化している

311 :
>>310
>こっちは初代家康がタヌキ顔だったのに対して慶喜は美形化している
慶喜のあの肖像写真、どう見てもイケメンとは思えない
14代家茂は鼻筋の通った美男子だったと言われているが、慶喜については特に容姿が良かったなんて聞いたこと無いんだけど・・・・・


312 :
>>311
徳川慶喜
どうみても家康より美形だろう
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tokugawa_yoshinobu.jpg
家茂は発掘された骨から顔が復元されているが出っ歯でおでこだったらしいよ
家茂が美男子だというのは初めて聞いた

313 :
家康も若い頃は痩せてたし、三方ヶ原の時の肖像画は負けた後だから変な顔をしてるのは許してあげてw

314 :
>>307
武田勝頼室の龍勝寺殿は「信長の姪」だろ。
>信長の叔母つや
あの、彼女は実名不詳なんだけど・・・
つやとかお直って名はみな裏付けのとれない「伝承」だよ。

315 :
>>313
家康もサル顔の秀吉に比べれば、遥かにマシ

316 :
>>315
サル顔だろうが秀吉はねねにかなり愛されたんだよな
ねねは生前、高台寺の自分の廟に秀吉とねね2人だけの木像を作らせて安置し
死後こそは自分が秀吉を一人占めにしたいと願うほどに秀吉を愛していた
家康って正室とも仲悪かったみたいだし
祖父と孫ほどに年の離れた側室たちから愛されたんだろうか?
秀吉の女癖の悪さばっかり有名だが
ロリコンという点では家康のほうが相当タチが悪いよな

317 :
>>314
それを言い出したら市も犬も皆伝承
どちらも本人が署名した直筆の署名などは残ってないよ
江は「五(ご)」だしねねは「祢(ね)」だし

318 :
お市の方ってこんなに名前通ってるのに、自筆の消息とか何も残ってないのかしら?

319 :
家康はロリコンとばかりもいえない。確かにお六とか若いのもいたけど、阿茶とか茶阿とか亀とか古い後家も好んでる。
(まあその割に後家の朝日は愛せなかったけど。猿に似てたのかw)

320 :
>>316
秀吉は正室のねねからはもちろん、側室たちからも敬愛されてたよ
秀吉は顔はともかく、親しみやすい人柄だったんだろうなぁ
それに、秀吉エライ筆まめだな。甘〜いラブレターで女性の心を掴むのが得意だったのな(笑)

321 :
>>317
実際には「実態のほとんど見えない」女城主の名と
お市やお犬とはちと比較にならんな。

322 :
>>319
非処女も相手できる家康スゲェな
大半の男は処女好みだろ、普通はw

323 :
当時に処女信仰は無いよ

324 :
>>317
細川ガラシャなんか「た」だしねw

325 :
>>321
市や犬の方が無名だろ。
戦国時代に城主にまでなった岩村殿と比べて。
自筆の署名もないのに何を持って市や犬は確実な名で
つやは間違いだと言っているのか。

326 :
犬は市の姉だっけ?妹だっけ?

327 :
戌年生まれって説があって、それだと1550年生まれで市の妹?
しかし市の生年も分からんしなー

328 :
市は1547年生まれじゃなかったの?

329 :
>>327
戌年生まれだから犬姫、なるほど〜、わかりやすい

330 :
>>319
朝日姫って彼女の方が家康の所から逃げ出しただけだったんじゃ?
家康と再婚して1年半ぐらいで大政所の病気を理由に京の聚楽第に逃げ戻って
そのまま家康のもとへ戻らず。
朝日姫は秀吉の異父妹と言われていて、朝日姫の肖像画も、
朝日姫と同父と言われる秀吉の弟秀長の肖像画も、猿顔じゃないんだよね。

331 :
>>330
ヤエモンさんが猿顔だったのかな?

332 :
>>326-327
市は信秀の五女で、犬は八女。
だから、犬の方が妹で間違いないよ。

333 :
>>332
出典は?
信長の姉妹は10人程度いたらしいけど、順番なんて分かるの?
市に至っては親戚の子説まであり・・・

334 :
>>333
>市に至っては親戚の子説まであり
「市は信長の妹ではなく従妹だった」って説か?
この説はかなり前から言われているが、信憑性は極めて薄いんじゃ・・・

335 :
>>334
市は「以貴小伝」で信長のいとこ、
「織田系図」では信長のいとこの子になってたはず

336 :
市が信長の妹ではなく、いとこorいとこの子だったら・・・
信長と恋愛関係に陥ってもおかしくなかったってことになる

337 :
それなら小谷落城の後、何で信包の所に?

338 :
夫と息子(側室の子かも知れんが)を殺した男と同居できるかっつの!

339 :
それもそうだ

340 :
ていうか、織田系図だと信包は従兄弟の子と孫の面倒みて、さらに従兄弟の曾孫に仕えてたの?
親戚の子を引き取るのもあれだが、年齢的にどうなのよーとか思ったが

341 :
小谷城落城から柴田勝家との再婚まで信包に預けられていたという
市と娘の三姉妹って何してたか全く記録が残らないんだよな
信包は秀吉についたのに市は柴田勝家に嫁いでいたり。
市はその頃信包のもとを離れていたのかどうか。
市と三姉妹が信包のもとにいたのならば養父勝家に死なれた後三姉妹は
信包を頼ってもよさそうなのにその形跡もない。
三姉妹が親戚でもない秀吉に引き取られた経緯もよくわからんしな。

342 :
柴田勝家は市と結婚する前、前妻はいたのかな?
まさか、六十過ぎてからの市との結婚が初婚じゃないよな??
あの時代、男が六十近くなるまで独り身って考えられん

343 :
>>340
昔は最初の子と最後の子で20歳〜30歳年が離れているのはザラだったから
年齢的には問題ないはず
徳川家康の場合、最初の子と最後の子で年齢差が48歳ある


344 :
>>343
そうなんだけど、その系図の市の祖父織田信康って織田信秀の弟だよね?
それでそんなに差がつくもんなのかなーと
信長と信包が9歳差だから、信康と広良が早くに子供つくればセーフかな?

345 :
>>338
「万福丸は市の子ではなく、側室の子」
最近、この説が有力になってるのは何で?
市が長政に嫁いだのが永禄四年なら、永禄七年生まれと言われている万福丸が市の実子でも不自然ではないだけど?

346 :
>>345
織田と浅井が同盟したのが永禄11年頃と言われているためでは?
信長が美濃の斎藤氏を滅ぼしたのが永禄10年で、
これ以降、市は美濃から隣接する北近江浅井に輿入れしたと考えられている。
斎藤氏滅亡以前には、市が尾張から北近江に輿入れするルートは
確保されていなかったとみられている。

347 :
市よ、琵琶湖の魚はおいちーか?

348 :
((^^;)

349 :
>>293
清正と仲良かった福島正則はキリスト教に好意的なのにね

350 :
>>346
でも、永禄10年以降の輿入れだと天文16年生まれの市は20歳をとうに過ぎている
当時の初婚年齢としては遅すぎじゃね?
それとも、長政以前に嫁いだ相手がいたとでも?

351 :
>>350
この時代、20歳を過ぎてからの初婚は普通にある
お犬も初婚は20歳ぐらいだよ
茶々も秀吉の側室になったのはそのくらい

352 :
>>351
お犬は生年不明の筈では?
何で20歳ぐらいで結婚(初婚)したとわかるの?


353 :
>>352
犬は1950年の戌年生まれ説で初婚が20歳ぐらい
市の姉だったのならばさらに結婚が遅いはず
父親の織田信秀が死んだのが1551年だから
犬がたとえ末子だったところで(多分末子ではないけど)
あまり生年は下げられないよ

354 :
お犬の方61歳 

355 :
お犬の夫、佐治信方は1553年頃の生まれだから犬は1550年でいいのかも
で、犬と信方の長男で江の最初の夫の一成は1569年頃の生まれ。これだと犬が19歳頃に生んだ事になる
信方と一成は親子じゃなくて兄弟って説もあるけどどうなんだろ?
大河だと江と一成は従兄妹設定?

356 :
>>355
>信方と一成は親子じゃなくて兄弟って説もあるけどどうなんだろ?
同母兄弟だと年齢が離れすぎで何だか不自然。
もし、兄弟なら絶対に異腹だよ>信方&一成

357 :


358 :
>>343
>徳川家康の場合、最初の子と最後の子で年齢差が48歳ある
慶長十二年に家康の末子・市姫が生まれた時、長男・信康は生きていれば48歳だったってことだよね
男48歳といえば働き盛り。二代将軍として力を発揮してたかも知れないのに、何だか可哀相

359 :
信康と家康は対立であーなったんだから、生きてても将軍は無理ぽい

360 :
>>359
たとえ信康が生きてたとしても、結局は秀忠が将軍ってこと??

361 :
>>353
>市の姉だったのならばさらに結婚が遅いはず
いずれにしても、犬は信長の「妹」であることは間違いないんだよね?
市や犬を「信長の妹ではなく姉だった」って説は流石に聞かない。
市が信長の姉だったとしたら長政よりかなり年上になってしまうから不自然だし

362 :
>>359
長男+正室腹=正真正銘の嫡男
だから、生きてたら彼が間違いなく二代将軍だよ

363 :
>>362
信康が家康の命で切腹させられたのならばそうはならない
武田信玄が長男で正室腹の嫡男、武田義信を死に追いやったように
今川の血を引く築山殿とその子で家康嫡男の信康は
もともと今川から織田に寝返った家康にとって邪魔だった
しかも隣国武田で息子の謀反が起こって家康は信康の裏切りが怖くて仕方がない
武田に内通したことにして死を命じたのは本来家康の命だったのに
江戸時代中期に信長のせいということになったとも

364 :
>>363
>武田信玄が長男で正室腹の嫡男、武田義信を死に追いやったように
結局、信玄の後を継いだのは側室腹の四男坊・勝頼だしね
本当に正室と長男を愛していたのなら、わざわざ失脚させるようなことはしないだろう
家康の場合も同じことが言えるかも知れない

365 :
大友宗麟は生室の母親が早くに亡くなったせいか、側室腹の弟が後継者になりかけて騒動になったし。
伊達政宗の庶長子は正室腹の次男が後継になってブチギレて騒動に
各家庭色々あるわな〜

366 :
北条時宗の庶兄・時輔も嫡弟に後継とられて謀反起こしたしねw

367 :
>>364
武田信玄は正室三条夫人までは殺さず、三条夫人はその後も信玄と添い遂げ
信玄と同じ武田家菩提寺に眠っている。
だけど、家康の築山殿に対する処遇は異常だね。
築山殿を殺害した家臣を一切咎めず、
江戸時代成立の家康本では軒並み築山殿を性悪女だったと書かせている。
信長の命などではなく家康の私怨を感じるよ。

368 :
三条夫人の菩提寺は-その法号と同じ「円光院」なのだが・・・。
363、364、367のレス、
今さらそんな初歩的なことwwってレベルだなー

369 :
>>367
家康は何故、築山殿にそこまで嫌悪感を覚える必要があったのか???
やっぱアレかね、「今川に押し付けられた年上妻」って意識が強かったのかな
もっとも、築山殿は生年不明の為、本当に家康より年上だったのかは謎だが・・・。

370 :
でも、築山殿が産んだ亀姫は家康からかなり優遇されていたよね
亀姫の息子三人は家康の養子になって松平姓を与えられて領国を貰っているし

371 :
>>363-370
信玄は長男の他には次男・三男・長女・次女が正室腹なのに対し、家康は長男と長女以外は全て妾腹だもんなぁ
子供の数と夫婦仲の良し悪しはイコールではないかも知れんが、家康夫妻が仲睦まじかったとは思えん

372 :
>>323
当時は童貞信仰も無かっただろ

373 :
>>370
亀姫の3人の息子が家康の養子になったのはいずれも秀忠元服前の幼かった時期のことで
晩年に大勢男子が産まれる以前、徳川家断絶を恐れた家康の一時的な処置だったんじゃないのか
松平姓は許しても徳川姓も後三家の一家にも数えてないしね

374 :
>>369
政略結婚でも妻の方が年上でも仲の良い夫婦はあるので
押しつけられた云々は関係ないと思うけどね
ただ家康と築山殿が仲の良い夫婦だったという形跡はないよね

375 :
>>374
>政略結婚でも妻の方が年上でも仲の良い夫婦はあるので
秀忠&お江、直江兼続&お船・・・
戦国武将で他に誰かいたっけ?
>>371
子沢山でも不仲な夫婦はいる。信玄夫妻はどうだったか知らないけど

376 :
築山は名門今川義元の姪。家康に押し付けなくても貰い手ならいくらでも、な気が
家康は今川家から好遇されてたんだよな

377 :
>>376
家康は今川家血縁の姫を正室に迎えることで今川の姻戚となり
今川家内での地位は上昇したんだよな
ただし今川を裏切り織田に寝返ったので何の価値もなくなったが

378 :
>>375
それだけいれば十分だと思うが
(戦国時代の女性は年齢不詳な場合も多い)
年下妻でも仲の悪い夫婦は悪いのだし

379 :
>>371
正妻の子しか嫡子と認められず愛人の子には相続権がない欧州では
不仲だろうが子作りしないとお家断絶になってしまうから正妻との子作りは必須
なわけで不仲な夫婦でも子沢山というのはわりとあるんだが
側室腹だろうが愛人腹だろうが相続権を認められている日本では
正妻の子に拘る必要がないから正妻が子沢山である必要はない
産ませる必要のない正妻との間に子が多いのは夫婦仲が良い証拠だろ
ま、婿養子とか嫁が上司の娘とかなら話は別かも知れないけど

380 :
>>376
本当に家康が今川家から好遇されていたのなら
義元の娘を貰っても良さそうな筈なんだが・・・・
何故、義元の姪だったんだろう???
しかも家臣の関口氏の娘だしなw
ということは、家康は今川家から一段低く見られていたんだろうな

381 :
家康は氏真の事は色々便宜を図ってるよな。築山殿が死んだ頃も
てか、氏真が変なのか?w

382 :
>>379
日本では側室の子にも相続権が認められていたのは事実だが、
正室の子が優先することは一目瞭然で、正室の実家との付き合いもあり、
正室を差し置いて(寝所に呼ばずに)側室とだけ子作りすればよかったというのは違うが。
子供の数と寵愛が一致するとは限らないのは
100回やっても妊娠しないこともあれば、1回で妊娠することもあるから。
側室の子が家督を継ぐ場合でも、正室の養子にされることはよくある。

383 :
>>380
今川義元の本当の娘って武田義信室の嶺松院以外にいたっけ?
当時、今川は同盟のために隣国武田と何代にもわたって姻戚関係を結んでおり、
今川義元の正室(信玄の姉)が没したので代わりに娘を武田にやる必要があった。
当時、徳川は今川に従属していたから、今川にしてみれば隣国の同盟者武田より
徳川の方が扱いが低かったというだけだろう。
それでも姪をやったのだから厚遇した方だと思うが。

384 :
>>382
>正室の実家との付き合いもあり、正室を差し置いて(寝所に呼ばずに)側室とだけ子作りすればよかったというのは違うが。
政略で貰った正室を蔑ろにしていることが相手方(正室の父や兄)に知られたらそりゃマズイわな
むしろ、良好な同盟関係を保つ為には嫌いでも正室を大事にせねばならなかったんじゃなかろうか?
それがこの時代の大名の宿命だったんじゃ・・・

385 :
まぁ嫡男産ませてスペアも作っとけばそれで良さそうな気もするが
出産で命落とす女性も少なくなかった時代だし、あんまり産ませすぎて死なれても困る
正妻の子以外NGな欧州ほどは跡継ぎ問題で切羽詰まってないのは確かだな
あっちは石女の正妻は離縁出来なきゃ最悪殺しちまえだから・・・

386 :
宗教の違いだな。フロイスが日本人は簡単に離婚するって驚いてた

387 :
離婚するためにカトリックと決別して英国国教会を作ったヘンリーから見たら遥かに簡単だな。

388 :
あちらさん、離婚はなかなか出来なくても婚姻の無効はよくやるがな
日本人から見りゃどっちも同じにしか思えんが

389 :
>>385
ヨーロッパの王室でも妃を殺害するなんてまずないよw
ヘンリー8世は妃を殺害する極悪王だったが
新しい妃と結婚するために子のいる妃を殺害しているので
石女であることを理由に殺害された妃はいない。
一夫多妻の日本でも大名や公家はほとんど養子で継いでいるし
医学的には女性の不妊と男性の不妊はほぼ同数。
(日本では歴史上の人物に男性不妊が少ないということは、
実際には父子の血縁が繋がっていない密通が多かったということだろう)
それほど致命的なことではない。

390 :
つカスティリア王ペドロ1世
確証はないし、俗説だが不仲で幽閉していた王妃を殺した説有り
実際に王妃と前後して死んだ愛人の子供達が王位継承者となっている
つロシアのイワン雷帝ことイワン4世
妃の何人かは殺された説有り
マイナーな小国だと石妻の正妻が死んだ直後に
愛人が正妻に格上げ、それなりに育った愛人の子が嫡子にってのある

391 :
>>388
婚姻の無効と離婚ってどう違うの?
結婚歴が残るか残らないかとかそんな感じ?

392 :
>>390
いや、違うよ。カスティリア王ペドロ1世は、父と正式な王妃との間に生まれた正統な嫡男であったが、
母が愛されなかったために父に冷遇され、父の愛人腹の異母兄と王位継承争いが起こった。
ペドロ1世自身も愛人を持ち、国との付き合いで迎えた王妃を幽閉(殺害説あり)、他にも子を産ませた愛人を殺害。

393 :
>>390
雷帝イワン4世は生涯に7人も正妃を持った異端児。
どちらの王も気に入らなければ妃も家臣もRというだけで
「嫡子がいないから正妃を殺した」わけではない。

394 :
>>390
ペドロ1世もイワン4世も子供のいる妻妾を殺しているよ

395 :
北政所との間に嫡男がいたらどうなっていたんだろーね。

396 :
寧々が嫡男を生んでいれば、豊臣家の滅亡&徳川幕府は無かった気ガス

397 :
猿めは房事の過ぎたるが祟り、不能となってしもうたのじゃ。

398 :
ねねとの嫡男がいてもどうだろう
家康を上回る秀吉並みの鬼才だったら分からんが
すでに秀吉時代豊臣家に匹敵する関東200万石の大大名だった家康にやられてたんじゃないの
もっとも豊臣家に成人した跡取りがいれば秀吉も家康を厚遇して後事を託したりせず
朝鮮出兵の労力を持って全力で家康を殺していた可能性もあるが

399 :
ねねに嫡男がいたら、少なくとも「関ヶ原の戦い」はなかったんじゃね?

400 :
秀吉の成り上がり振りを内心面白く思ってない人が多そうだし。嫡男がいても大変そうだ。政宗とか関ヶ原の後、「秀頼には2、3国与えとけばいいんじゃね?」とか言ってたし

401 :
秀頼は父方こそアレだが、母方は浅井だから彼の体の中には高貴な血が流れている、一応は・・・・。

402 :
浅井だって大名としては成り上がり者の部類だべ

403 :
>>399
関ヶ原の戦いは秀吉没後の大名同士の主導権争い
具体的には前田利家と徳川家康の争いだから起こるべくして起こった可能性も
結局秀吉の死から1年たたないうちに前田利家までが死に徳川家康の独裁状態になった
徳川家康が利家死後前田家から人質を取って臣従させ
石田三成ら前田利家方の武将を追放、幽閉したのが戦いの発端

404 :
ねねに嫡男いたら少なくとも秀次・秀勝は存命している可能性高い
関白のねね嫡男、その側近の秀次・秀勝で固めて、秀頼はいたとしても年の離れた末っ子で
豊臣政権が盤石だから、関ヶ原の戦いそのものが起こらないような気がする
朝鮮出兵もそもそも存在しないだろうし

405 :
朝鮮出兵は公共事業みたいなもんだしなぁ。政権が盤石だろうとやったんじゃないかな

406 :
>>404
秀次の弟の秀勝なら、病死だから朝鮮出兵がなくてもどっちみち死んでるよ
織田信長の子で秀吉養子の秀勝も病死だしどっちの秀勝も秀吉より先に病死で無理
嫡男がいれば秀次を養子にすることもなくそれほど重用もしなかったと思うしね
秀次の父は吉房という百姓で秀次はその長男だから豊臣とは本来違うんだよね

407 :
考えてみれば秀次も可哀相だね、秀吉の養子になったばっかりに

408 :
>>404
ねねが産んだ嫡男がいれば秀頼は生まれても浅井家を継いでいたかも

409 :
勝頼ルート?

410 :
茶々たちには弟が何人かいたらしいし、浅井家再興するんだったらそっちにやらせたんじゃないかなぁ?
お初の遺言にあった浅井作庵ってのも弟?らしいし。親戚かもしれないけど

411 :
大坂の役まで浅井賢政(作庵と同一人物説有力)という人物が豊臣家に仕えていたらしいし
浅井家滅亡後も浅井家の男系が生き残り、茶々や初周辺にいたらしいことは確かみたいだね
浅井家の家系図でも殺された万福丸のほかに三姉妹の異母兄弟に当たる男子が1人、2人確認できており、
難を逃れた異母弟が茶々や初の保護を受けていたと言うのはありえなくもない


412 :
>>408
ねねに嫡男がいたら秀頼なんて嫡男に家臣として仕える身だよ

413 :
うはーやられたかも
なんか見に覚えのない本を何冊も買ってるらしい・・・orz

414 :
娘は既に殺しているよ

415 :
誰の話?

416 :
>>397
では、やはり秀頼公は・・・

417 :
ねねに嫡男がいなかったからこそ、於次秀勝が羽柴を継ぐ、
という前提が秀吉の出世や清洲会議後の天下取りに相当に働いたんだろ。
嫡男いた場合どうなった?
信長に粛清されてたんちゃう?

418 :
嫡男がいたら、秀吉の事だから息子の嫁に信長の娘を迎えたいとか思って奔走したりするかもw

419 :
信長の娘を嫡子の正室にしたところでたいして知行はもらえないからなあ
秀吉の破格の待遇と信長からの寵愛はやはり秀吉にやったものは全部自分の息子が相続すると言う
信長の利己的な考え方にあった気も

420 :
>>412
このころはまだ長子相続は決まっていなかったかと

421 :
>>420
家督を継ぐのは原則として正室の子のはず

422 :
正室にうまい具合に男子ができれば、
それが第一子でなくても、後継にするんだろうな。
正室は側室が産んだ男児を嫡母という形で後見することもできるけど

423 :
正室に子が出来ればそれが嫡子。側室の子は所詮、庶子。
生まれた順番以前の問題。

424 :
池田利隆と池田忠継で揉めてたな

425 :
>>417
おまえ本物の馬鹿だろ?
言ってる意味がまったく理解できないんだが?

426 :
>>424
利隆は先妻中川糸姫の息子で忠継は後妻徳川督姫
てか督姫、高齢出産繰り返しすぎ・・・

427 :
>>425
秀吉が子がないのをいいことに主君織田信長の実子を養子に貰った、
それが秀吉の大出世に有利に働いたってことだろ。
養子秀勝の存在が織田政権下で秀吉の出世を有利にしたこと自体は事実で
それを否定する奴はいないと思うが?

428 :
そもそも信長はなぜ息子を秀吉にやったのだろう?もっと違う、たとえば伊勢の北畠なんかみたいな立場に
養子にやってもいいわけだし、徳姫が出戻った以上、強引に家康にやってもよかったんじゃないか?

429 :
>>428
北畠には信雄やったろう。

430 :
だから、「みたいな」よ。
似たような立場の有力者とかいそうじゃん。

431 :
>>428
男子がいる戦国大名にはいくら信長といえど息子を跡取りとして送り込むことはできなかっただろう
北畠具房にはたまたま子がなかったので具房妹と信雄を結婚させることで
信雄を北畠家養子として送り込むことに成功しただけで
家康が嫡男信康を切腹させたとき、すでに家康には次男秀康、三男秀忠が誕生しており、
家康はわが子を差し置いて信長の男子を養子に迎え信長息子に徳川家家督を譲る気はなかったはず

432 :
↓どこまで本当なの?
499:日曜8時の名無しさん :2011/08/05(金) 13:48:53.15 ID:xDmewkb0 [sage]
>>488
実家と婚家がことを構えた時には、離縁して実家へ送り返すのが戦国の習いだからねぇ。
話を持って行くもなにも、徳川は当然千姫の身柄を要求しただろうけど。

505:日曜8時の名無しさん :2011/08/05(金) 14:26:20.04 ID:yf9Il/Xw [sage]
>>501
妻は外交官みたいなものだから殺したら大問題
婚家(赴任先)と一蓮托生などではなく関係が破綻したら実家(本国)に戻るだけ



433 :
豪姫について詳しく知りたいんだけど、
関連のスレってありますかね?

434 :
甲相駿三国同盟

435 :
>>432
「新本朝通鑑」や「新撰豊臣実録」に市が柴田勝家に死出の供をするという場面で、
先夫浅井長政自刃の際に自分が里の織田家に帰ったことについて
「小谷では恥を忍んで城を落ちた」「此度も落ちれば命を惜しんだと貶められるでしょう」
と言っているから、妻は夫の家とは無関係の人間で
何かあれば実家に帰るのが当然とされていたわけではなさそうだよ。

436 :
>>435
根拠が一次史料じゃないのかよ
第2次甲相同盟破綻時の北条夫人の例でいいじゃん
>>432の元ネタは、両家の関係が悪化したら嫁は人質だから殺せばいいとか
(千姫について)夫と運命を共にするべきというようなレスに対しての答え
儒教で戦国を語るとかもうね…

437 :
>両家の関係が悪化したら嫁は人質だから殺せばいいとか
>(千姫について)夫と運命を共にするべきというようなレスに対しての答え
後者は儒教だけど、前者は…
もうちょっとスッキリできるレスをお願い

438 :
>>435
436とかぶるけど、それらって史料といえない代物だと思うが・・・。
いちおうは日本史板で語ろうというのだから、
出典がいつ頃にどういう成り立ちで書かれたものかくらい
認識しといたほうがいいんじゃないの?
だいたい勝家とお市の最後の場面の「会話」を、
一体誰が見聞してたんだ?
台詞があまりに台詞臭さ丸出しという妖しさにも気づこうよ・・・

439 :
>>432
「三河記」にある徳川家康が豊臣秀吉の妹朝日姫と結婚するときに
秀吉に「戦になれば朝日を返せ。妻を殺した男は末代まで悪行をそしられる」
と言ってるのが同時代に近いか。
正室は一般的に夫の家より上位の家から来ることが多かったから、
何かあれば娘や姉妹を返せと約束させられるんだろうな。
ただし、夫に情が移った場合、妻が実家に帰らず夫と一緒に死ぬこともあったと。

440 :
>>438
>柴田勝家と市の会話
落城した時かなりの兵士が秀吉に投降している。
勝家の家老クラスも落城間際に逃げて助命され秀吉に仕えているから
それ自体は不思議ではないが。

441 :
>>440
435が書いたような込み入った夫婦間の心情吐露の会話が
家臣の前で、しかも聞き取れるような声の大きさでなされていたのだろうか?

442 :
>>441
勝家が賤ヶ岳から城へ戻り落城するまでには2日ほどしかなく
家族や重臣たちを本丸に集めていただろう(天守で宴を催したという記録もある)
落城に備えて市や娘、侍女たちが侍っていただろうし
落城間際でも勝家と市は家臣団から離れた完全個室で睦みあう時間があり
そこで交わされた会話だったというなら別だが
そういうシュチュエーションではなさそうだよ

443 :
そういうドラマチックな会話があったと信じてる人に、
何を言っても無駄だと思うw

444 :
>>443
無かったと言い切る理由がない説明をしてるんだろ
小説などを題材に話しているのとはわけが違う

445 :
最近お市の方が出したらしい手紙が発見されたみたいだね
で、「い」と頭一文字の署名があった
北政所の名前は手紙の署名から‘ねね’じゃなく‘ね’もしくは‘おね’が正しいなんて言われて久
しいけど、頭一文字を取って署名する慣習があったなら、やっぱり‘ねね’が正しいんじゃないの?

446 :
>>445
「お」は単なる接頭語であって、名前と不可分のものではないからね。
「ね」一文字の名前なんてものが非現実的であることと当時「ねね」がものすごくありふれた名前だったことを
併せて考えると、やっぱり「ねね」で正しかったんじゃないかなと個人的には思ってる。

447 :
江も自分で「五」と自著してるんじゃなかったか

448 :
>>445
あれ、お市の方の手紙じゃないような気がするのは自分だけ?
彼女のものとするには根拠があまりにも薄い

449 :
現存唯一?「お市の方の手紙」発見、競売に
 戦国時代の武将、織田信長の妹でNHK大河ドラマ「江(ごう)」のヒロイン江の母、
お市(いち)の方(かた)が書いたとみられる手紙が初めて見つかったとして、
東京古典会が10日、東京都千代田区の東京古書会館で報道陣に公開した。
鑑定した愛知文教大の増田孝学長(書跡史)は「おそらく日本に残っている唯一のもの。
大変な史料的価値がある」と説明している。
手紙は、一般に女性が使うかな書き。「い」と署名する女性が「さきやう」という人物にあてた礼状で、
信長の長女の徳姫とみられる「おとく」の記述があった。
増田学長によると、手紙の筆者が「おとく」と呼び捨てにしたり、近況を報告している点などから
「い」をお市の方と判断したという。手紙は縦約20センチ、横約104センチ。1枚の折った紙の表裏に書かれ、
表装するため切って継ぎ合わせたとみられる。発見の経緯などは公表されていない。
http://ceron.jp/url/sankei.jp.msn.com/life/news/111110/art11111019550004-n1.htm


450 :
「い」なら市の妹にも「犬」がいるよね
他にも名前のわからない女性は多いしな

451 :
お市の方の消息かどうか、もっと他の研究者の検証も必要なんだけどね。
こういう風に公けに報道されてしまうと、
疑問点もまだまだあろうかというのに検証不足のまま
「お市の方の消息」ということが独り歩きを始めてしまう。
で、そのうちに検証しようという学者もいなくなってしまう。

452 :
競売にかけられたならば更に鑑定される可能性はないの?
高く売りつけるために著名人の著という鑑定を
つけただけかもしれないよね。
そのうちに落札者からまわりまわって「なんでも鑑定団」に出される悪寒。

453 :
北の政所は、関が原で秀吉子飼いの武将を家康に味方に付けて豊臣家を没落させた稀代の
悪女。その後、豊臣家は滅亡。豊国神社は取り壊されている。

454 :
お黙り!無礼者!

455 :
何十年前の俗説だよw

456 :
>>142>>238
「お江〜浅井三姉妹の戦国時代(武光誠著・平凡社新書)」を読むことをお勧めする。
これを読む限り、秀忠がキリシタンに甘かったとは思えんがね。
アンタはクリスチャン、尚且つ秀忠ヲタで秀忠を悪者にしたくないだけなのかね?

457 :
手元に昭和五十六年の新年号の「歴史読本」があるんだけど
この号は大河ドラマの「おんな太閤記」にちなんで「太閤記の女たち」という特集が組まれてて、なかなか面白い。
スガコばあさんの歴史認識も読んでて興味深いものが。

458 :
>>453
淀殿&秀頼ヲタ乙

459 :
>>456
自分の反対意見を見つけるとヲタや信者認定する
アンチ秀忠、きもいw

460 :
あたくしは北条政子、鎌倉幕府のお母さんよ。
あなた方、あたくしに質問があるんですって?

461 :
北政所の実父の事跡ってどんなのがあるの?

462 :
豊臣吉子は子なし。
日野富子は金貸し。
北条政子は人でなし。

463 :
>>403 利家と三成は関係ないよ。

464 :
>>459
秀忠と崇源院を少しでも批評すると、勝手にアンチ認定する秀忠夫妻ヲタ
お前の嫌いな歴史上の人物は春日局と保科正之だろ、わかりやすっw

465 :
>>464
うわっw
無知馬鹿が出た!
浅井長政の中納言贈位すら知らない無知を指摘されると
他人を「崇源院ヲタ」認定の馬鹿
で、徳川家光は家康だけが大好きで
外祖父浅井長政や母の崇源院は大嫌いだったという
脳内妄想を補完する史料は出せた?

466 :
>>464
春日局や保科正之の話題が出てないのに妄想が激しい奴だな
お前は秀忠夫婦アンチの春日&保科ヲタということで決定だな

467 :
久々にスレが伸びてると思って来てみたら…

何で北政所と縁もゆかりもない保科のヲタが来襲してるんだw

468 :
秀忠夫妻が好きな奴=春日局と家光が嫌いに違いない!
て歴史好きの発想じゃないな

469 :
流れをぶちぎって
教えてクンでごめん。
Wikipediaの「高台院」の記事に
>甥の秀秋を可愛がっていないことをたしなめる
>秀吉からの手紙が現存している。
とあるんだけれども
この手紙を詳しく紹介している
サイトなり、出版物なりを誰か知らない?
ぐぐってみても分かんなかったもので・・・

470 :
一般向けだと、山陽新聞社の「ねねと木下家文書」には入ってたかも

471 :
何とか秀頼の養育に関われなかったものか

472 :
>>471
秀頼の元服に付き添ったり、秀頼と千姫の婚礼に同席したり
秀頼と徳川家康の二条城対面で秀頼の保護者として同伴したり
嫡母としての役割は果たしてたけどね

473 :
大河本?の利家とまつのページにのりぴーの名前が載っていなくて吹いた(唐沢寿明や松嶋菜々子はもちろん香川照之や天海祐希たちも当然載っている)

474 :
まんかかさま

475 :
秀吉が寵愛していた側室は淀殿と松の丸殿
おねさんは世の中がよく見えている知識人というイメージ
豊臣時代が過ぎても彼女を慕って
大名 公家 茶人らが高台寺を訪れたという秘話は感動するな

476 :
高台院は朝廷から「従一位・北政所」の位を貰ってるんだから。そこいらの側室とは雲泥の差がある。実際に政治にも関わってたし。黒印状もあるぞ。寄ってくる人達も一概に高台院の人柄に寄ってくるってわけでもないだろうし。もち豊家滅亡後の話

477 :
>>473
そんなことないだろ。
今でもNHKは大河50作の公式ホームページ「利家とまつ」で
酒井法子の名前を載せている。
//www9.nhk.or.jp/taiga/catalog/
>>475
松の丸殿は本能寺以降、淀殿は賤ヶ岳の戦い以降の側室で
いずれも秀吉が40代後半以降で迎えた側室
若い頃の秀吉はねねと一夫一妻だったし
恋愛結婚だったと言われているし

478 :
バカテスの木下秀吉について語りましょう。

479 :2013/09/22
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
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