【徳川家】御三家/御三卿/御連枝/御家門 (264)
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【徳川家】御三家/御三卿/御連枝/御家門
- 1 :2013/09/25 〜 最終レス :2013/10/22
- 以下、俗に言う徳川一門の話題を扱うスレッドです
■御三家■
尾張徳川家/徳川義直(1代家康9男)
紀州徳川家/徳川頼宣(1代家康10男)
水戸徳川家/徳川頼房(1代家康11男)
■御三卿■
田安徳川家/徳川宗武(8代吉宗2男)
一橋徳川家/徳川宗尹(8代吉宗3男)
清水徳川家/徳川重好(9代家重2男)
■御家門■
越前松平家/結城秀康(1代家康2男)
会津松平家/保科正之(2代秀忠4男)
越智松平家/松平清武(3代家光2男の徳川綱重2男)
奥平松平家/松平忠明(1代家康娘の亀姫1男)
久松松平家/康元系・勝俊系・定勝系(1代家康異父弟)
■御家門(断絶)■
駿河徳川家/徳川忠長(2代秀忠3男)
甲府徳川家/徳川綱重(3代家光3男)
館林徳川家/綱吉綱吉(3代家光4男)
- 2 :
- ■御連枝■
尾張徳川家連枝
梁川松平家 - 第2代藩主徳川光友の三男(庶長子)松平義昌を分封(陸奥梁川藩)
高須松平家 - 第2代藩主徳川光友の次男松平義行を分封(美濃高須藩)
川田久保松平家 - 第2代藩主徳川光友の十一男松平友著を内分分知
紀州徳川家連枝
西条松平家 - 初代藩主徳川頼宣の次男松平頼純を分封(伊予西条藩)
丹生松平家 - 第2代藩主徳川光貞の三男松平頼職を分封(越前丹生藩)
葛野松平家 - 第2代藩主徳川光貞の四男松平頼方を分封(越前葛野藩)
水戸徳川家連枝
高松松平家 - 初代藩主徳川頼房の長男松平頼重を分封(讃岐高松藩)
守山松平家 - 初代藩主徳川頼房の四男松平頼元を分封(陸奥守山藩)
府中松平家 - 初代藩主徳川頼房の五男松平頼隆を分封(常陸府中藩)
宍戸松平家 - 初代藩主徳川頼房の七男松平頼雄を分封(常陸宍戸藩)
※尚、スレッド更新の際には、新スレを立てるスレ主は
スレの代数ごとに沿ってスレ主名をつけてください
たとえば次スレを立てる人は「徳川秀忠(二代スレ主)」でお願いします
- 3 :
- 御三家の当主あるいは世子は、近衛権中将から参議補任の際、
中将は参議兼任とするが、
御三卿や他の大名(例えば加賀金沢前田家)で中将から参議への
転任では、中将の兼任は行わない。
- 4 :
- 歴代の徳川将軍を天皇家風の「幹」、つまり「世」で数えると
「世」の数え方を受けられるのは、
最後の慶喜の「13世(15代)」ただひとつだけであり
秀忠から家茂までの13人は慶喜と血が繋がっていないので
正式な将軍の血統とはみなされない
最後の将軍である慶喜が水戸家から入ったことにより
将軍家の幹(正式な血統)は
将軍に就任しなかった11人の水戸藩主たちに移行したからである
つまり初代将軍・家康を1世とし、水戸初代・頼房が2世となり
そこから水戸2代〜11代・斉昭までが3世〜12世となり
斉昭の子の慶喜が13世で将軍となる
もちろん、慶喜が将軍にならなければ
水戸家に将軍家としての「世」は生じない
これは神皇正統記に出てくる天皇家の「世」の数え方を
徳川将軍家にあてはめた場合の数え方である
- 5 :
- すでに似たようなスレあるぞ
【一門】御連枝【分家】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1349539044/
- 6 :
- スレッド名で検索した際、「御三家」で引っかからなかったから
類似スレ、なかったと早とちりしてしまった
数年前だが、徳川一門スレが3代続いたので
需要はあると思ったのだが…
- 7 :
- 徳川で絞られていて分かりやすいと思いますが?
水戸の御連枝守山藩、藩主が領地に行ったことはあるのだろうか?
- 8 :
- 終了
- 9 :
- 御三家筆頭水戸斉昭
- 10 :
- 溜詰 帝鑑間は家来筋になるから連枝ではないだろう
- 11 :
- 田安宗武の第7子であった松平定信が
白河藩(久松松平)に養子に出された経緯がイマイチ不明
Wikiには「田沼意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって」
と書かれているが、一橋治済は田安定信のいとこでしょ?
どうして田安家の定信が
一橋家の治済の命をきかねばならない立場にいたの?
- 12 :
- 賄賂を贈って田沼を動かした
- 13 :
- 田安家に権力はなく、将軍家・三卿というひとつの一家のなかでは治済の力が強かった
- 14 :
- 高須も西条も守山も徳川連枝だよ。御三家支藩から御三家家督を継ぐケースがあるし。
- 15 :
- >>13
どうして治済の力が強かったの?
田沼家と姻戚を結んだから?
- 16 :
- >>11 徳川家基早世後、子の豊千代を世子にと望んだ治済の一番の障害が英明の誉れ高くかつ血筋が豊千代より将軍に近い田安家の定信だったのさ
- 17 :
- いや、だからどうやって
その田安定信を追い出したのか、という疑問なのだが…
一橋家は、当時全盛だった田沼家の関係者を家老に据え
田沼家との関係強化を図り、その田沼の権力で
定信を養子に出すよう命じた、ということでいいのかい?
そこを答えられ人、いないの?
- 18 :
- かな
- 19 :
- あれ、定信を養子に出した後に、家基死んでる?
ああ、R予定だったのね。
- 20 :
- 田安家2代がもともと病弱で、定信が養子に行ったから当主不在になったんだもんな
一橋家の倅は越前家に養子に行ったのに、定信は久松なんてかわいそうだ。
- 21 :
- 徳川頼房の息子、大名となった5人以外の成人男子はどうなったの?
- 22 :
- >>21
とっくに死んだよ
- 23 :
- >>21
水戸藩の家臣に落ちついてるな
- 24 :
- 水戸斉昭は息子を養子に出しまくりしたが、
できの良い慶喜は水戸家のスペアにしキープ。
しかし一橋は別格だったんですね。事情が変わった。
焦って御連枝等に出さなくて良かったね。
- 25 :
- >>24
キープも何もないだろ。
弟たちのほうが先に養子に出て行き
慶喜はいつまでたっても部屋住みだったわけじゃなし。
- 26 :
- 一橋家は家斉が生まれた家だから
幕末には三家三卿の筆頭格
- 27 :
- ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0039/DB00390R151.pdf
- 28 :
- 慶喜は生母が正室で女王だから別格
その生母は将軍家慶の正室の妹
- 29 :
- >>28
慶喜の同母兄が水戸藩主なのに慶喜は一橋家養子から将軍と
同じ母親からの兄弟なのに弟のほうが出世してしまったんだよな
- 30 :
- >>28
そうだったのか。。。
でも、家慶の正室にとって慶喜は甥に当たるのでしょ?
知的障害だった家定の跡目として
家茂ではなく、慶喜を推してもよさそうなものだけど。。。
- 31 :
- >>30
将軍徳川家慶の正室・喬子女王は慶喜が数え4歳の時に死んでいるよ。
家慶の跡を継いだ将軍家定は喬子女王の子ではない。
慶喜の父である斉昭はかなり血の気が早い武闘派で大規模軍事訓練をしたり
僧侶が政治に介入しすぎるとして水戸藩内の寺弾圧を行ったために
将軍家慶の怒りを買い、家督を譲って蟄居を命じられた。あまり家慶とは仲良くなかった。
- 32 :
- 昔夢会筆記によれば慶喜自身の話として
当初阿部正弘から慶喜を一橋家にと言われた時に
斉昭は慶喜は水戸の控えに残しておきたいと拒否したが
正弘から家慶の『深い思し召し』があって慶喜でなければいけないと言われて
慶喜を一橋家に出したという。
家慶は慶喜を早世した次男に似ていると言って気に入っており、
朝比奈昌寿が残した史料によれば狩りで世子が務める役割を慶喜にやらせようとしたが
阿部正弘から反対されて「まだ早いか」と言ったとか。
- 33 :
- 下手をしたら、一生部屋住みで終わったかもしれないね
- 34 :
- 下に〜は彼等だけが言える
- 35 :
- >慶喜の父である斉昭はかなり血の気が早い武闘派で大規模軍事訓練をしたり
>僧侶が政治に介入しすぎるとして水戸藩内の寺弾圧を行ったために
>将軍家慶の怒りを買い、家督を譲って蟄居を命じられた。あまり家慶とは仲良くなかった。
その前には斉昭の藩政改革を賞賛・激励して大量の褒美を下賜して
斉昭は感動して一層の改革に取り組んで寺院破却や軍事訓練に励んだという
- 36 :
- >>31と>>35はどちらが本当なの?
- 37 :
- >>32
慶喜が生まれた当時、一橋家は田安家からの養子である徳川慶壽が当主を勤めていた。
徳川慶壽は25歳で、子がないまま死亡。
尾張藩から徳川昌丸が末期養子に迎えられて一橋家を相続した。
この昌丸は慶喜より9歳年下(1歳で家督相続)。
しかし昌丸はわずか2歳で夭折、やむなく水戸藩から慶喜を迎えた。
特別の思し召しも何も、慶喜より若い昌丸の夭折がなければ慶喜は一橋家を継げなかった。
一橋家が尾張藩の昌丸を養子に迎えたのは勿論、将軍家慶の世の事である。
- 38 :
- >>36
水野忠邦の時には改革を進めていた藩を表彰していた。
水戸藩が先駆けて改革を行い水野はそれに影響されたのだが
水野は幕府改革に水戸藩が倣ったという形にしたのだが。
>>36
当時は清水家も空いていたので斉昭は家慶もまだ健在で家定も若いのだから
清水家のように開けておけばいいと言ったが正弘は特別の思し召しがあると言った。
おそらくこの時点ですでに家定に生殖能力がないことがわかっていたので
一橋家に後継候補を置いておきたいというのが『思し召し』だろう。
しかし家定は自分よりイケメンの慶喜を嫌っており茂承(家茂)のほうを自分の子供のように思うと言っていた。
- 39 :
- 慶喜が宗家を継いだ後、一橋家には前尾張藩主の茂徳が入ったのはどうして?
しかも改名するときに前将軍の偏諱を残して茂栄と名乗る。
慶喜への宣戦布告みたい。
実弟の昭武を格下の清水家に入れるくらいなら、一橋家に入れれば良かったと思うんだ。
- 40 :
- 尾張義直の血筋は養子先の下総高岡藩井上家で続いているようですが、
相続の際、「藩祖の血筋」と言う事で井上家からの養子相続を目論むような
動きは尾張藩内には無かったのでしょうか?碩学の方、どうかご教示を。
8代宗勝
├────┐
井上正国 竹腰勝起
|| |
井上正紀←井上正紀
|
井上正瀧
├────┐
井上正域 井上正和
||
井上正和
|
井上正順
|
井上正言
- 41 :
- 他姓の者は継げない
- 42 :
- 尾張の支藩美野高須を水戸の某が乗っ取る
会津松平を水戸の某が乗っ取る
- 43 :
- Wikiを調べてみましたが、
門葉以外の家来筋の家で
数世代も過ごしてしまったのが痛かったですね
高岡藩というのは2代・秀忠のときまでは旗本で
3代・家光の時代にようやく大名(1万石ギリ)に
してもらったような家ですね
そんな家に計 6世/7代もの長い間おり
正直、尾張藩に戻るには貫禄が不足してしまっていたのでしょう
おそらく完全に井上氏だと見られていたでしょうし
そんな小名から養子を入れるくらいなら
他の格式ある門葉から取ったほうがよほどマシと思えたのでは
- 44 :
- >>32>>38
慶喜の一橋家養子の件が将軍家慶の命令だったとしても(大名の養子縁組は幕府の認可が必要)
家慶がその時点で慶喜を家定の次の将軍にすることを決めていたというのは早計だよね
慶喜が一橋家養子になったとき世子の家定は24歳
家定と正室・鷹司任子との間に子はなかったが
家慶がこの時点ですでに家定の種無しを認識していたのかは分からない
この翌年、任子が亡くなると
更に二度目の正室である一条秀子が家定のもとへ嫁いでいる
ちなみに秀子も死んだあとの三度目の正室が篤姫なわけだが
篤姫と結婚したとき家定は32歳だ
- 45 :
- >>44
なるほど…
江戸時代の人の発想は、現代人が考えてる以上に
かなり場当たり的に決まるから、現代人的な計画的発想でなど
動いてない、ということに留意が必要だよね
とくに篤姫が薩摩から招かれた理由は
11代家斉の正室が同郷の薩摩出身で、
このとき家斉の室らが多産だったから、というもので
ようするに、この時期までは子作りが期待されていた形跡がある
家定に子種がない、というのは後世の人がそれを知ってるからで
リアルタイムの人は、もしかしたら生まれるからも、と
思っていた可能性は十分あるのに
- 46 :
- >>40
井上正順の正室は水戸斉昭の娘なんだな
意外なところで、義直と頼房の血が結合した
- 47 :
- 家慶は斉昭を疎んじているのに息子は好きって矛盾している。
まして将軍継承の可能性がある一橋へ引っ張る。
水戸から一度出しても良いと斉昭と密約でもしたか?
斉昭の引退は自民党みたく親子で総理と大臣やるのを避ける意味とか?
- 48 :
- だから将軍家慶本人の強い思し召しで慶喜は将軍後継として一橋家に養子に行った
というのが慶喜の思い込み(過大評価?)なんだよ
一橋養子の件は斉昭と老中・阿部正弘の作戦だろ
阿部正弘は水戸の徳川斉昭や薩摩の徳川斉彬から厚い支持を受けており
自分に有利な大名から将軍を出そうとして
老中の立場を利用し将軍家慶を上手く丸め込んだ
しかし家慶は幕政に口出ししすぎる斉昭や斉彬に対して態度を硬化させ
後に両者と対立して蟄居を命じ、老中阿部も失脚させた
- 49 :
- 薩摩の徳川斉彬→薩摩の島津斉彬
- 50 :
- 斉彬も阿部老中も、地位を保ったまま死んじゃったわけだが、
書いてることが適当すぎないか?
- 51 :
- たしかにもう少し
言葉を厳密に使っても
いいかもしれんな
- 52 :
- 吉宗将軍後継決定の際、
初代の母親が同じである紀伊と水戸が組んだことが勝因との説も。
とすると、紀伊は水戸に借りがある。
でも幕末は紀伊と一橋で後継闘争になってしまったけど。
すんなり14代の慶喜が見たかった。もう少し柔らかい明治政府が出来たような?
- 53 :
- >>52
紀伊家は家斉の血筋、水戸家は家斉の血縁ではないが、慶喜は家斉生家の一橋家を相続していた
家斉がポイントということ
- 54 :
- >>52
吉宗が将軍に擁立されるとき、最大のライバルが尾張藩継友だったのは事実だが、
別に水戸は吉宗を押してないよ
吉宗の将軍擁立は天英院によるものだし
一橋家は慶喜が養子になる前に尾張藩から昌丸が入っている
昌丸が夭折しなければ尾張の昌丸が将軍だよ
- 55 :
- >>初代の母親が同じである紀伊と水戸が組んだ
こんな100年も前の血縁が
将軍職を前提とした高度な政治で
果たして機能するものなのだろうか?
- 56 :
- 水戸家
頼房 正三位権中納言
光圀 従三位参議
綱條 従三位権中納言
- 57 :
- >>55
たぶん関係ない
>>56
光圀も隠居の翌日に中納言任官してるけど
- 58 :
- 当時水戸藩主綱條、神君のひ孫の長老。発言権は大きい。
260年経っても神君家康公の国ですもの。
- 59 :
- 水戸家が御三家としての地位を確定できたのは、家宣が将軍になる少し前
尾張、紀伊、駿河
尾張、紀伊、 水戸、甲府、館林がほぼ横並び
尾張、紀伊、甲府 綱吉が将軍のときに甲府は35万石となる、このとき水戸はまだ28万石
尾張、紀伊、水戸 綱豊が将軍世子となり甲府は絶家、水戸がくり上がる
- 60 :
- >>59
駿河は家光の弟、甲府と館林は家綱の弟の家で
将軍後継としては御三家に優先してただろ
- 61 :
- 変な人がいるな。。。
御三家の成立は、家光が水戸初代の頼房を贔屓して
引き立てたことに起因するのであって
後の時代になる御両典の断絶などとはなんの関係もないはず
- 62 :
- まあ御三家というのも初めから確立した形式じゃなかったしね
越前家落や信吉・忠吉・忠輝の脱落に駿河・両典の廃絶と
結果的に有力な分家で残ったのが家康の末の三子だったってだけのこと
- 63 :
- 頼房が徳川を名乗るのは忠長の死後?
- 64 :
- >>63
そう
封地は既に水戸で落ち着いていたし極位極官も既に達していた
やはり忠長死後にスペアとしての重きを加えられたということかな
水戸は紀伊の同母弟ということで紀伊の分家扱いみたいな感じだったのが
少しずつ独り立ちさせてもらったといったところかね
- 65 :
- 豊臣家の背面をつく和歌山、豊臣消滅後存在意義がないのでは?
大坂に入るか西国を睨む姫路とかへ何故、国替えしなかったのだろう?
交通の要所名古屋、東北を睨む水戸。これはわかる。
紀伊は直轄御料地でよかったと思うが。
- 66 :
- >>65
大坂は重要すぎて与えられないべ
姫路は良かった気もする
尾張は木曽の山があったけど
紀伊も自領は山だらけ
会津にしろ甲府にしろ親藩には山が要るんだよ
- 67 :
- >>66
播磨は姫路に本多、明石に小笠原、赤穂他に池田という徳川の血縁が既にいた
福島を改易した後の広島の方が現実味がある
和歌山は伊勢神宮、高野山、熊野という宗教地域を控えてるから、畿内への抑えも考えると重要度は高い
- 68 :
- 広島まで行くと会津みたいに捨て駒タイプ。
まあ江戸時代的経済では豊かな紀伊半島に落ち着いちゃったってとこか。
- 69 :
- 最初の親藩は家康の次男・結城秀康が封ぜられた福井藩だけどな
秀康当時は52万石で親藩最大だった
嫡子には将軍徳川秀忠の娘が嫁いでいる(親藩に将軍の娘が嫁いだ最初)
その後だんだん親藩の中でも地位が低下したが…
でもなんども将軍の息子が養子に来ている
- 70 :
- 越前家は伺候席といい、位階といい、敬して遠ざけられる外様みたい
むしろ前田、池田の方が親藩扱い
毛利と縁戚という点に利用価値があったのか
光長は秀忠の孫で別格扱い
- 71 :
- 前田は秀忠の外孫、池田は家康の外孫だから扱いが違うのだろうね
- 72 :
- >>69
福井藩に養子に入ったのは田安家の公子(重富、重昌、慶永)が多く、
将軍の公子は家斉の子斉善だけ。
- 73 :
- >>44
将軍継嗣問題というものを根本的によくわかっていないような。
家定の子供が期待されたなかったのは種無しかどうかという以前に
家定が明らかに障害者だったからで、逆に家定生母をはじめとする
大奥は家定に生殖能力がないと認めず継嗣問題自体否認した。
こういったギャップは島津斉彬によく表れている。
天璋院が嫁いだのは大奥が公家の娘ではダメ、広大院の例がある島津がいいと言っていたからだったが
当の島津斉彬は天璋院と家定との子供に期待せずむしろ天璋院を
慶喜擁立工作の鍵としようとしていた。
しかし家定の生母は慶喜を養子にするなら自Rるという有様で大奥工作は失敗した。
家定の二番目の正室の一条のお姫さんは身長が異常に低い上に足が曲がっていて
家定同様に健康体ではなかった。もし家慶が家定の子供に期待していたなら
こういう相手を選ばないだろう。
この例があったから大奥は京ではダメ、薩摩だとなったんだろうが
結局天璋院が嫁ぐのは一条のお姫さんが亡くなって六年後、家慶が亡くなってからだ。
基本的に正室は子供を産まないんだけどそれでも子供は正室が養育するんだから
これも家慶が家定の子供に期待していなかったということ。
- 74 :
- 家定障害者説には、あまり同意したくないな。
明治になってから、家定の小姓だった旗本が歴史家のインタビューに答えた内容では、
ごく普通の若者だったとか、もし家定公が暗愚ならほとんどの大名は暗愚だとか、
いまだに愚か者呼ばわりされているのが悔しいみたいな意味の発言をしている。
政敵の松平慶永が家定をして「凡庸中の最下等」みたいな表現をしているのも、
一応「凡庸」=並み、普通の人物と評価しているからではないのか?
慶喜とか慶永みたいな人物に比べれば、政治家としては相当劣ることはまちがいないが、
一個人としては可もなく不可もない、そこらへんにいくらでもいる平凡人だったのでは?
- 75 :
- ルイ16世みたいなものか。
- 76 :
- >>73
将軍継嗣問題が分かってないのはそっちw
徳川吉宗の長男で9代将軍の徳川家重は明らかな障害者だったのに子を儲け、
その子は10代将軍徳川家治として将軍位を継承している。
ちなみに徳川家治に障害はない(ただし後継は育たず家斉を養子にしている)。
家定はハリスと対面した際、きちんとした対応を取っており、障害者ではない説は強い。
正室が将軍を産んだ例は家光の母江一人だけで他の将軍はすべて側室腹で
何も将軍を産むのは正室でなくともよい。
家定が障害者なので子供ができないようにあえて障害者の正室を迎えたというのは無理。
(最初の正室鷹司任子や、3度目の正室篤姫、また家定の側室・お静が健常者だった言い訳ができない)
一条秀子障害者説もあまり信憑性がない。
立った時に頭が襖の取っ手のところにあるくらいの低身長だったというのだが、
これは公家の姫はけして立ち上がらず、常に膝行していたためとも言われる。
- 77 :
- >>74
朝比奈閑水だね。むしろ家定が障害があったという話は
ほとんどこの人のものをソースにしているよ。
そういう風に家定を擁護している人だからこそ信頼がおける証言なわけ。
ちなみに家慶が将軍世子がやる役割を慶喜にやらせようとしたが阿部正弘に反対され
まだはやいかと言ったという話はこの人の父親がソース。
>>76
そん時は他に後継候補がいくらでもいたので家慶、家定の場合と話が違うよね。
天璋院が嫁いだのは家慶の死後であることや正室の役割は書いた通り。
- 78 :
- 比較的有名なエピソードばかりだな
もっと隠れたすごいのないの?
- 79 :
- >>76
対応はこなしてるけど奇矯な振る舞いもあったのでは?
まあ障碍者扱いして貶めたいわけではないが十全たる健常者というわけでもなかったと思う
- 80 :
- 病弱で強いコンプレックスの持ち主ではあったが、
よく言われるような障害者とか池沼ではなかったろう。
いまなら、心療内科にかかるようなタイプでは?
- 81 :
- いずれも憶測の域を出ないな
当時のルポタージュは自身の立場に
あまりにも身贔屓に書かれてるから
家定に仕えた者が健常者であったと書いたからといって
ほんとうに健常者であったかどうかは、疑わしい
封建時代の感覚として、自分の主だった者を
不具者であったと正直には書けないはず
- 82 :
- 家定に知的障害があったかどうかの話は、もうやめよう
あまり意味のあることではない
家定が知的障害者だったから、二人目の正室を出した一条家も
同じように障害者を送りつけてきた、という話も
そんな失礼なことを徳川将軍家に対してやれたかどうかをを考えれば
常識的に答えは出せるはず
つまりガセだってこと
- 83 :
- リアルタイムの人々は、家定の生殖能力にまだ期待を持っていたと思う
薩摩からの篤姫の輿入れを、慶喜擁立のためのものだという見解もあるが
たぶんに結果論的な見方だと感じる
当時の日本人がどれだけ縁起を重んじ、
現実に有効な処方だと信じていたかを考えれば
篤姫は嘉例から求められたのだとするのがいちばん現実的
- 84 :
- スレタイ、読もうねw
- 85 :
- いや、8代吉宗以降の宗家は14大まで
紀州系とみなしても差し支えないはずだし
まして一橋系統の家定のことを語るのはなんら問題ない
もし、宗家を継いだことを理由に分家スレで語れなくなるなら
他姓に養子に出た連枝のことを語ることもできなくなるではないか
高岡藩井上家へ養子に出た連枝のことを語るのが許されるのは
養子先よりも、出生元が優先されるからに他ならない
それなら、養子先の宗家よりも、出生元の
一橋や紀州を優先して、分家スレで語る資格がある、というのが筋
- 86 :
- バカなの?
- 87 :
- バカなんだろうね
- 88 :
- いろんな「感性」を許容するのが2chだよ
- 89 :
- 屁理屈を 感性という このセンス
- 90 :
- 清水家って御三卿の中で一番影が薄いな。
家斉の時代なんて、家斉の公子が紀州家に養子に行くまでの待機先みたいな印象。
- 91 :
- そりゃ家系が続かず当主が居たり居なかったりで存在感出るわけない
明治以降すら爵位返上したり影が薄い
- 92 :
- 久松松平家って家門なのか譜代なのか、よくわからんな。
松平定信は老中、幕末の定敬は京都所司代になってるけど、
普通、これは譜代大名が就任する役職だ。
そもそも家門(親藩)は、役職につかないのが原則だし。
- 93 :
- 家系は譜代、当主は親藩、そゆこと。
- 94 :
- 久松家は、三男の定勝系から大名家を複数出したけど、
旗本に落ちた長男の康元系を、一応の宗家と見なしていたのかね?
- 95 :
- 大久保や渡辺を見ると旗本だろうが、陪臣だろうが、宗家は宗家
- 96 :
- 血統的には兄の家系でも
宗家扱いまでしてくれるかどうかは
その家次第でしょ
徳川将軍家だって越前に飛んだ兄の家系を
宗家などとは見ていない
ただ血筋上の兄の家、というだけ
やはり相続した家の大きさ、格式がものをいうようです
- 97 :
- 水戸徳川家も、光圀の同母兄である頼重が外へ出されて、
高松藩主となったしね
- 98 :
- みんなが大名だったら、将軍家の子供
養子に入れる?
- 99 :
- >>97
綱條以降は頼重系になってるけどね
光圀系の血筋は残らなかったのかな、頼常も頼重系から養子取ってるし
- 100 :
- >>99 頼常の二人の男児は共に早世で、光圀の血は断絶したはず
- 101 :
- >>1
>>6
前身となるスレがあることを知ってて立てたくせに自分は初代を称するとか痛いな
- 102 :
- 光國に娘がいたんじゃない?程度の噂はある。
どこかでDNAが残っているといいな、北斎と同じに。
- 103 :
- 義直は浅野幸長の娘、頼宣は加藤清正の娘、どちらも大大名の娘を正室にしたけど、
頼房が正室を持たなかったのはなんで?縁談も無かったのかね?
- 104 :
- 頼宣より一等扱いが低いからじゃね。
- 105 :
- にしたって家康の実子で家光と昵懇だった大名なんだし縁談くらいなかったのかね
- 106 :
- 血縁や関係性の遠近だけで兄二人を超えるわけにいかなかったんだろ。
頼重光圀を里子に出すくらい身辺に気を遣っているくらいなのだから。
- 107 :
- 兄より位の高い家から貰わなければ済むことだろ
身辺に気を遣ってると言うけどやることはやってるんだな
- 108 :
- 50才過ぎまで生きて、生涯正室がいなかった大名は徳川頼房くらいなものだろう。
普通に不思議だよ。
根拠不明ながら変人だったとの噂がある。
- 109 :
- 頼房は若い頃素行が悪くて
お兄ちゃんの秀忠に、「そんなんじゃ嫁さんも来てくれないぞ」と叱責されて
「嫁なんてイラネ」て答えたらしい
- 110 :
- 本人がどう思おうが
政略結婚させられてもなんら不思議はないよな
- 111 :
- 頼房は家光に子供がいないから正室を娶らずにいたところ、手を付けた女中に子供が出来たから里子に出した。
同じ女中が妊娠したから家臣に与え、生まれた子供は殺せと命じた。
後に、子供の存在が発覚して、実子の認知し、紀伊家傍流という点からも、正室を娶る必要性がなかったので、生涯正室は不在だった。
だっけ?
- 112 :
- >>109の話だけれど、水戸家に伝わる話では、秀忠の側に
詰めていた幼時の事、秀忠が頼房を前にしてお江の方に
「阿鶴をだれぞの婿にしたいものだ」と語ったところ、
「あのようないたずら者に、だれが娘をやるものですか」と
言われて、「一生正室を迎えるものか」と悔しがったという
事だとか。(林董一「将軍の座」)
- 113 :
- もしそういう動機で妻帯しなかったのなら
まずはとびきりの変人といって
差し支えなかろう
- 114 :
- >>111
前半はその通りだと思うけど
後半はどうなの?
普通、傍流だからといって妻帯しない理由にはなるまい
やはり家光との人間関係が関係あるような気がする
というか、他にあるまいw
- 115 :
- >紀伊家傍流
この表現は初めて見た。傍流が権中納言、あほ臭い。
頼房は、英勝院の養子になっている。
家光と頼房は仲良し。
家光は、弟忠長が役に立たないから、頼房を頼りにするとお手紙まで書いた。
- 116 :
- >>108
初代家康は正室2人といずれも不和で長らく正室を持たなかった人だし
家光も正室とは不和で正室を大奥から追い出して別居していた
養母の永勝院も家康の側室であって正室を取ることにうるさくなかったから
もう娶らずにいただけでは?
>>111
頼房は子供を持つことを嫌ったとウィキには書かれてあるけれども
その割に側室との子供多すぎだよね。
- 117 :
- >>傍流が権中納言、あほ臭い。
そういう意味じゃないだろ。
恐らく、「血統が分家筋」と言いたかったのだろう。
水戸頼房が紀伊頼宣の同母弟だったことを指してるだけだろう。
- 118 :
- 同母弟を傍流というなら、
徳川光圀も傍流だな
徳川慶喜も傍流だな
- 119 :
- 頼房は忠長の死後に徳川賜姓
それまでは頼宣の支流扱い
因みに英勝院の養子としては松平忠昌が下妻藩を継承している
- 120 :
- >>111的な発想からすれば
立派な傍流だろw
彼は同母弟を傍流と表現するのだから
- 121 :
- 松平清武は、なぜ兄綱豊(家宣)の後を継いで甲府藩主になれなかったの?
なぜ甥家継の後を継いで8代将軍になれなかったの?
清水重好は、なぜ兄家治の後を継いで11代将軍になれなかったの?
松平確堂(斉民)は、なぜ甥家定の後継者候補になれなかったの?
血筋や年齢や識見のいずれにおいても、慶福や慶喜よりふさわしかったのに。
- 122 :
- 越智清武は高齢で本人もその気がなく、また清水重好は母親の身分が低い上、ホモで子がいなかった。津山斉民は、推す勢力が結集出来なかった。
- 123 :
- >>121
清武も重好も斉民も、年取り過ぎだろう。
前将軍の親世代が将軍位継承するというのは考え難い。
- 124 :
- 清水重好や尾張斉朝のように、子がいないだけでホモ認定されてるがソースはあるの?
- 125 :
- 家宣って名君とか人格者のように言われているけど、
実弟の清武への扱いを見てると、なんか冷たい人だよね。
将軍の実弟なのに、家光が保科正之に行ったような大封を与えることもせず、
しかも将軍になってからしばらくしてから、やっと小大名取り立てている。
その後もチビチビ加増した程度。
ケチというより、弟が嫌いだったのかと思わせるくらい冷淡すぎる。
- 126 :
- 清武も子供がいなかったので、大封を与えてもすぐに養子を迎えるのでは無用な加増だ
家宣は自分の後継者にも困ったから、どこか他所から清武の養子を探さなければならない。
無用な加増だ。
- 127 :
- >>125
家光にとって保科正之は将軍継承の恐れがない劣り腹&他姓の弟で
何の警戒心もなかったからだろ
家光が将軍継承の可能性が非常に高かった同母弟・忠長にした仕打ちにくらべれば
殺されなかっただけマシ
- 128 :
- さにあらずさにあらず。家宣公は傍系から家督を相続したばかりで
血縁者をいきなり大禄を与えるのは幕臣の手前、憚られたからに御座候はずや?
- 129 :
- 綱重があと1年長生きしておれば
- 130 :
- 連枝の一角である清水家に関し、将軍のスペアの役割を終えたにもかかわらず
一橋系からどんどん養子を送り込み、養子がいなくなったからとうとうあきらめて
清水家は徳川宗家に吸収合併するのかとおもったら、空き屋形のまま
「清水卿御支配」というポストを新設して跡部能登守を管理人にしていた
- 131 :
- 家斉を出した一橋が一番大事
- 132 :
- 一橋治済はモンスターだと思う
- 133 :
- 家斉がペリー来航以降の幕末期に存命だったら、
幕府が滅亡することもなかっただろうに
家斉は1773年生まれなので、ペリー来航時に存命なら80歳。
大政奉還の慶応3年=1867年には94歳。
大御所家斉存命なら、幕府の滅亡はなかっただろう。
- 134 :
- せめて家慶が存命でも、かなり状況はちがったろうな。
家慶はペリー来航時に60歳で亡くなってるから、
大政奉還の時点でも74歳。
- 135 :
- >家斉は1773年生まれなので、ペリー来航時に存命なら80歳。
>大政奉還の慶応3年=1867年には94歳。
>大御所家斉存命なら、幕府の滅亡はなかっただろう。
さっさとRよ老害
- 136 :
- 家斉も家慶もこれといった政見がないし、家慶に至っては大事な所で重臣を見棄てるから生きていても余り意味がなさそう
- 137 :
- >>125
綱吉が嫌々、養子にしたのもあったし、将軍の子でもない家宣が
将軍就任そうそう、身内を優遇できるわけないだろ。
生まれながらの将軍の家光と同じ将軍とは言え、権力がまだ使えなかった。
せめて将軍在任5年ぐらい過ぎて、老中が自分が任命した者が大半で
自分の周りを固めないと、身内を優遇なんてできない。
それに家宣は遺命で清武の加増しろっと言っている。
吉宗も、しばらくは大奥に口出しできなかったし、長福丸を正式に
将軍継嗣にできなかった。
- 138 :
- あの家斉さえ将軍就任の頃は、老中たちに遠慮していたんだから。
- 139 :
- 最悪、吉宗一代限りってこともあり得たのかな?
- 140 :
- >>130
清水家を当主不在の空き屋形にしたのは、田安家が取りつぶしに反対したからだよ
そういう前例をつくると、先々田安家も危ないから
田安家は、治察のあと当主不在の前例もあった
- 141 :
- >>139
流石にそれは無いだろう混乱の元
鎌倉期の執権は一族持ち回りとは言え得宗家はちゃんと存続していたし
- 142 :
- 清水家が当主斉疆の紀州家転出で当主不在になったときは、
他家を相続している者を除いたら、家斉の男系子孫がほぼ死に絶えてて、
もう補充要員がいなかった。
家斉の実家である一橋家ですら、補充要員がいなくて水戸の慶喜を迎えたくらい。
家斉や家慶は大量の子どもを生産したが、その大半は夭折、早世しており、
精力の壮大な無駄遣いだったといえる。
- 143 :
- で、幕末、将軍継嗣問題がおこったとき、井伊大老は南紀派の補強のために、
当時津山藩の隠居だった松平斉民に清水家相続を打診している。
斉民自身が辞退したため、実現はしなかったが。
家斉の男子で幕末に生存していたのは津山の斉民と蜂須賀斉裕のみで、
この二人は大奥にも自由に出入りできて、将軍家茂から頼られていたらしい。
- 144 :
- 戊辰戦争では尾張も福井も寝返ったのに
津山と会津は忠義を尽くした
- 145 :
- >>143
こういう例にあらわれているように、御三家・御三卿という建前上の家格とは別に、
家斉時代に事実上の家格の再編成が行われて、その実系男子が優遇されていた。
- 146 :
- >>145
嘘くせえなw
そんな少しの例だけで家格の再編成などとw
- 147 :
- 「徳川実紀」で家斉や家慶が亡くなったときの形見分けのメンバー表を見たことがあるが、
確かに家斉の実子やその養子先、嫁ぎ先を重視する序列になっていた。
- 148 :
- 尾張家の五代五郎太、一橋家の昌丸など、
幼児が当主になれたのは、御三家御三卿だから別格扱い?
- 149 :
- >>144
誰に忠義を?
- 150 :
- 家斉の孫越前の慶永が慶喜擁立に動いた時に
真っ先に賛同して連名で建言書を出したのが家斉の子蜂須賀斉裕で
逆に慶喜をよく知らないと言って断ったのが水戸系の尾張の慶恕だった。
- 151 :
- >>145
家格の再編成なんて大げさなもんじゃなくて単に近親者を優遇していただけだろ
家格として固定化されたとは断定できない
- 152 :
- >>147
形見分けなんだから子女が優先されるのはあたりまえだろアホ
- 153 :
- >家斉の孫越前の慶永
なんだ、これw
- 154 :
- 慶永は家斉の弟の田安斉匡の孫。
- 155 :
- 孫じゃない。息子だ。
- 156 :
- すまん。治斉の孫の間違いな。
一橋系の養子戦略は治斉からだ。
- 157 :
- 治済だしw
まともな知識がないやつは、その都度確認してから書き込め
- 158 :
- 家慶は、亡くなる前年に末子長吉郎が生まれてるんだが、
その長吉郎は父家慶の死の直後に夭折している。
どうも、家定サイドによる謀略の匂いがプンプンするんだが。
- 159 :
- 耳鼻科に行けばいいと思うの
- 160 :
- でも、長吉郎の死んだタイミングが絶妙すぎて不自然だよなあ。
ペリー来航→家慶死去→長吉郎死去→家定即位
- 161 :
- >>160
>>1と>>2を読め、100回音読しろ
- 162 :
- 日本史板って一スレに一人はおかしなのが棲息してるよねw
- 163 :
- 即位かよw
- 164 :
- 松平長吉郎江戸日記
- 165 :
- 長吉郎が成長してたら、家定の実弟だから明き屋形の清水家あたりを相続して、
普通に14代将軍になってただろうな。
そうなってれば、将軍継嗣問題も発生せず、慶福は紀州藩主として平穏な生涯を送り、
江戸幕府もまだ存続していただろう。
- 166 :
- 御三卿はリーチ、御三家はダマテン。だよね?将軍継承。
- 167 :
- 三卿がイーシャンテンで三家がリャンシャンテンくらいだろう
- 168 :
- 水戸黄門の影響で御三家筆頭のように見えてしまう
- 169 :
- 維新後は事実上の宗家なんじゃね?
- 170 :
- >>167
吉宗は大三元?四暗刻かな?
慶喜は斉昭が後ろから振り込めと脅していた感じ。
- 171 :
- ほとんど早世しまくっているのは、解せぬ。
明石、川越、浜田、因幡
養家は加増や持参金貰えて、養子の用が済んだから暗殺されたんじゃないのか
- 172 :
- 幕府にそれがバレたら、ただじゃすまないから、さすがにそれはないだろ。
- 173 :
- 家門でも越智松平だけ微妙に格下扱いだな。
普通、家門は役職につかないのに、譜代大名同様に老中とか寺社奉行になってる。
やっぱり清武の家系は、養子の時代になっても親藩として低い扱いをされてるな。
- 174 :
- >>173
それ親藩扱いされてないよ
- 175 :
- 水戸家の連枝でも、宍戸、府中辺りは親藩ではなく譜代扱いではなかったっけ?
- 176 :
- そもそも親藩・譜代・外様という括りなんてちゃんとしてなく伺候席での区別の方が実質だったのではないか
- 177 :
- 幕府の役職についてた連中は
家来筋と考えてよい
そこが分水嶺
- 178 :
- >>177
松平容保とか春嶽、一橋慶喜も?
- 179 :
- 朝廷の介入で幕府の役職に就いたので幕臣というより朝臣
- 180 :
- 溜詰の高松、会津も家来筋?
- 181 :
- ボーダーラインの存在だな
- 182 :
- 大広間詰の越前、柳間詰の大和守、明石は敬して遠ざけられてほとんど外様扱い
- 183 :
- 大廊下>大広間>溜>柳って感じかな?
譜代だと大広間と溜が逆転する感じで
- 184 :
- >>175
宍戸・府中は旗本に毛がはえた程度だが参勤交代免除や特権も。
幕府のスタッフにとっても面倒な存在。
城も持たぬ殿様、譜代並みに扱えないし。
国会議員より面倒な県会議員みたいに。
- 185 :
- 親藩、譜代、外様よりも伺候席の方が重要
表大名
大廊下 親戚大名
大広間 大大名
帝鑑 譜代名家
柳間 並大名
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
御役の大名
溜間 幕政諮問
雁間 幕府役職者を出す城主大名
菊間縁頬 幕府役職者を出す城主格・無城大名
- 186 :
- 大和守、明石
五位柳間→四品大広間
越智
五位帝鑑→四品大広間
- 187 :
- 御三卿は将軍の家族扱いだから詰間なし。
では、城中ではどこにいたのか?
- 188 :
- >>185
気になったので補足
親藩、譜代、外様よりも伺候席の方が重要
表大名
大廊下 親戚認定された大名
大広間 大大名
帝鑑 譜代名家の家柄の大名
柳間 並大名
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
御役の大名
溜間 幕政諮問
雁間 幕府役職者を出す家柄の城主大名
菊間縁頬 幕府役職者を出す家柄の城主格・無城大名
- 189 :
- >>187
それは吉宗・家重時代だけで、
以降は大廊下上にいたって
- 190 :
- 親戚なのに廊下に控えてたのか・・・
- 191 :
- 鷹司松平家は肩身狭そう
- 192 :
- もともと松平でもなんでもねえ
赤の他人だしなw
- 193 :
- 松平信任までは、御台所の兄弟と紀州徳川家の血筋なので、そこまで肩身狭くも無いのでは?
松平信発になって、秀康系の血筋になってやや微妙。
その後の松平信謹は、上杉系だからかなり微妙だったかも。それで?吉井姓に…
- 194 :
- 御家人斬九郎がいたとすれば、ドラマの中であったように、そこら辺の小大名より格は上だったのかな
- 195 :
- >>193
上杉から養子とかいってる段階で
あんまし松平というギミックに執着ない様子だよなw
上杉氏というのは鎌倉時代、6代将軍宗尊親王にしたがって
鎌倉に下向してきた藤原氏(勧修寺氏)の家系だから
同じく藤原家系の鷹司松平としては、本音では
同姓に継がせる、みたいな発想だったのかもな
- 196 :
- 戦国時代、藤原姓の上杉氏が源姓の佐竹氏に対し
関東管領職の譲渡をもちかけたことがあったが
付帯条件として上杉姓の相続をあげていたため
佐竹氏は「姓(祖先の血統)が異なるから相続できない」と断っている
鷹司(藤原)松平氏の上杉(藤原)からの養子受け入れは
上記的な発想を連想させる
- 197 :
- その上杉家も吉良氏からの養子系統だから
現在の鷹司松平家は男系だと清和源氏になるんだよね
- 198 :
- 江戸時代って女系の血統が、かなり機能してるよね
嫁が御三家から来たからといって、松平姓/一門扱いというのがスゴい
しかし諸氏に松平姓をおしつける、というのは
前政権で豊臣氏のやった政策の模倣継承でしかないのだが
豊臣姓はかなり強引に送りつけられたらしい
踏み絵的な意味で使われてたのかもしれないが
- 199 :
- 前から気になっていたのだが
徳川氏/松平氏一門が勤皇傾向なのは
家康が将軍就任の際、家系図を南朝方の
新田義貞に結び付けたから、という理解でよろしいのかな?
また、なかでも水戸家がズバ抜けて大陸的な哲学的勤皇へ向かったのは
朱舜水の招聘に起因している、という理解でよろしいのかな?
- 200 :
- また変なのが湧いてる
しかも連投
- 201 :
- どこが変なのかw
- 202 :
- 勤王は尾張と水戸
尾張義直の勤王思想の影響を受けた水戸光圀が始まり
- 203 :
- 尾張藩は義直以来の勤皇砂漠の大藩
- 204 :
- あなたがいれば
- 205 :
- 光圀、贈正一位。
義直、放置。
- 206 :
- >>198
女系を理由に松平姓になったのは、家康異父弟の久松系と家康外孫の奥平系くらいだろう。
あとは女系云々より、大名の序列化における外様大藩の格付けのため。
- 207 :
- 尾張は勤王を水戸のように士民に勤皇思想の浸透を図ったり
専門の史局を設けて学者を雇うほどにはのめり込んでいなかった。
朝廷側の覚えも水戸は勤王の家として認知されるようになった一方で
尾張は目立たなかった。
- 208 :
- >>199
>徳川氏/松平氏一門が勤皇傾向なのは
尾張、水戸以外の事例は?
- 209 :
- >>208
勤皇を邪魔しなかった、という程度の一般論でしかない
元彦が著書のなかで江戸時代に南朝優位の価値観が成立したのは
家康が家系図を南朝方に結び付けたからだ、と書いて
一般にも流布するようになった説
- 210 :
- 元彦って井沢さん?
おそろしや、おそろしや
- 211 :
- 誰がそんなこと言ってるのかと思ったら井沢かよ
あはは
- 212 :
- 義直個人はどうして勤皇化する必要あったの?
- 213 :
- 御三家の勤皇は 宗家への嫉妬なんだろうね
「自分は分家で 宗家の家来じゃない 朝廷の臣として対等だ」
- 214 :
- 義直や頼宣がなぜ家光や幕府に反骨的だったかのか分からん
神君の子と言っても晩年の庶子の子で、家康死去時とうぜん相続権もなく
それでも大大名として遇されてる方なのに
- 215 :
- >>212
義直の母親は石清水八幡宮の祠官の娘だったからじゃないのか
石清水八幡宮は昔から朝廷との縁が深いし
- 216 :
- 慶勝をNHK名古屋や黒鉄ヒロシが持ち上げている。
黒鉄は坂本龍馬も持ち上げて気持ちが悪い。
実態を知らない訳がなく、捏造を楽しんでいるのか?
- 217 :
- >>216
漫画家として
どっちも知名度あがれば
作品かきやすいっていう思惑なんじゃない?
- 218 :
- 神君家康に
「(秀忠を)兄と思うな、主君と思え」
と言われたはず。
関係がややこしくなるのは、家光の代になってからだろう。
- 219 :
- しかし秀忠が弟を親族として扱ったために
弟たちはその気になってしまった
ところで、水戸勤皇化における
朱舜水の役割って、どの程度なの?
- 220 :
- 幕末に誇張したかもしれないし、本当に良識ある最後の中国人かもしれない。
朝鮮に亡命した中国人は潰れた明には用は無い、なんて冷遇されたかもね?
光圀が真摯に外国文化を受け入れた姿勢は感動モノだったと想像したい。
- 221 :
- 朱舜水って南京奪回作戦に参加した
バリバリの勤皇だからね
ただ、この人が水戸学に具体的に
どんな影響を与えたのか、漠然としている
司馬遼の小説に、朱舜水の影響を強調した表現があったと思うが
奴の場合、恣意的な書き方をするので当てにならん
- 222 :
- 斉昭が海防参与や慶喜が将軍後見職など幕府の役職に就いているのだから
この場合は間違いなく将軍家に仕えている家臣だろう。
- 223 :
- 文久の改革以降は別
- 224 :
- 朱舜水は日本の田畑や道路の整地が行き届いていることに驚いていたという。
- 225 :
- >>222
斉昭の海防参与ってのは、御三家の長老にお知恵を拝借というかご意見をいただくって感じだし、
慶喜の将軍後見職とか慶永の政事総裁職、容保の京都守護職は、文久の改革による新規の職制で、
朝廷というか薩摩の久光のゴリ押し人事だから、従来の幕府の慣例とは関係ない。
幼君の将軍後見職自体は、井伊大老のときから田安慶頼の先例がある。
- 226 :
- 水戸藩内ではペリーの20年前にイギリス捕鯨船が来てるからね。
死を覚悟し現場に向かったら、船員と地元漁師が洋酒で酔っぱらっていて拍子抜け。
スコッチを日本人で最初に飲んだかも?漁師。
- 227 :
- ふと思ったが、家定のあとは津山の斉民が無理でも田安慶頼という選択肢もあったのではないか?
慶福や慶喜より年齢の点でふさわしいし、御三卿で治済の血筋だから家格・血筋でも問題はない。
まあ、家斉の実子の斉民が本当は一番ベストなんだけどね。
- 228 :
- 家定在位中の近親者
尾張慶勝→水戸系の養子で血筋が遠すぎる
紀伊慶福→家斉の孫、家定のいとこ
水戸慶篤→血筋が遠すぎる、ただし家慶夫人の甥
田安慶頼→家斉の甥
一橋慶喜→水戸系の養子で血筋が遠すぎる、家慶夫人の甥、英明との評価
清水家→明き屋形で当主不在
松平斉民→家斉の実子
蜂須賀斉裕→家斉の実子
松平慶永→家斉の甥、田安慶頼の兄弟
- 229 :
- 田安慶頼は慶喜の次でもいい年齢だったのに、
なぜか幼稚園児並みの年齢の亀之助が宗家の家督を継いだ。
人物に問題ありだったのか。
- 230 :
- 田安亀之助は家茂の後継候補でもあった
- 231 :
- 斉昭は海防参与として石川島造船所の造営を命じられ将軍家の家臣として職務を果たしている。
将軍後見職として慶喜は諸大名による参与会議を老中達の望みどおりに潰して幕府の統制を維持しようとした。
- 232 :
- >>226
その漁師さんは好奇心旺盛な人なのか、コミュ力あったひとなのかすげーきになる。
みとことない色のでかいひとあらわれたのに一緒に楽しめるってグローバル化にもほどがある(笑)
- 233 :
- 人にもよるけど、庶民の方が偏見やイデオロギーに凝り固まってない分、
知識人とか武士よりも柔軟に対応できるよね。
- 234 :
- >>231
波止場に船をつなぐ綱を髪の毛で作ったらパラパラとすぐに千切れてしまいましたがね
- 235 :
- >>238
この面々を見てると、斉民、斉裕、慶永の3人を三家、三卿以外の養子に出したのが、
つくづく悔やまれるな。
この3人が徳川姓のまま残っていれば、幼少の慶福や軽薄な慶喜の出る幕はなかった。
- 236 :
- >>235
最終的には慶永は宗家を裏切る
- 237 :
- 慶永は京都守護職を会津に押し付け
自分はさっさと政事総裁職を投げ出したから、
慶喜より軽薄だ
- 238 :
- イギリス捕鯨船に会沢 正志斎が乗り込み事情調査。
大砲も搭載していたようでかなりショックを受けた。
正志斎は翌年、新論を書き尊皇攘夷のきっかけになった。
水戸藩の尊皇攘夷は捕鯨船ではじまった。
長崎の役人は知ってはいたんでしょうが、
彼らは憂国の思いは湧かなかったのかな?
- 239 :
- でも、そのあとの会津藩の惨状を考えると、さっさと投げ出したのは賢明だと言える。
会津藩でも引き受けるべきではないって声を馬鹿殿が押し切って引き受けたんだし。
藩主ってのは、今で言えば経営者だから従業員のことを考えたら、無謀なことはできない。
- 240 :
- >>239
徳川の藩屏としての立場を投げ出すのは本末転倒
- 241 :
- >>235
だれにパス投げてんだよw
- 242 :
- 春嶽は幕府統制には寧ろ否定的で大名会議を望んでいたように見える。
- 243 :
- 家斉以降は家斉の血筋かどうかが決めて
慶永は家斉からは遠くなる
- 244 :
- 御三家は、どこも綱○の影が薄いね
ものすごい子沢山なのにほとんど早世とか、綱吉の娘婿とか、実は兄の実子とか
それぞれどういう人生を送ったのやら
- 245 :
- 尾張綱誠は苺、大福の食いすぎで中毒で頓死し、吉通、五郎太、継友、宗春ら係累が◯◯したため、タカスから宗勝が◯◯しました
- 246 :
- 饅頭だなんだというのは吉通の話じゃなかったかな。
- 247 :
- 吉宗が宗家を相続したとき、なんで紀州藩を宗家に吸収しなかったんだろう?
御両典の館林と甲府は、綱吉や家宣のときに、どっちも宗家に吸収されたのに。
- 248 :
- 紀州の場合、新将軍の吉宗自身が残す、と決めたからでしょ
それに継がすべき親族もいたし
だいたい、天領にするには大きすぎる
御両典も次男以下がいれば、それらに相続させた可能性は
多分にあったんじゃないかな?
- 249 :
- これは結果論だけど、家斉や家慶の子どもがあんなに生存率低いのなら、
下手に養子に出さずに、宗家で温存しておけばよかったのに。
斉民とか斉裕が徳川家に残っていれば、幕末の将軍継嗣問題も起こらず、
スムーズに宗家の相続も行われたと思う。
- 250 :
- 徳松は一応館林を継ぐという話になっていなかったかな。
- 251 :
- 徳松は形式上は館林を継承した
- 252 :
- 武田信吉が早世しなければ水戸はずーとっ武田藩?
それとも雄藩のくさびに移動か。
家康はブランド好きで結城とか思い入れがあったのかな?
家康には御三家プランは無かったんでしょうね。
- 253 :
- 家斉の子も、1800年の段階では、6男まで生まれていたのに5人死んで男子は家慶1人だった。
その頃に、スペアは養子に出さない決断をしてれば良かったんだけど、
1823年に25男が生まれた頃には、12人死んでるものの13人の男子が生存。
翌年1人死ぬけど、また1825年には1人生まれて13人状態が復活。
そんなこんなで、すっかり安心したんだろうな。
あと、その1825年時点の生存男子13名は全員元服したにも関わらず、男子が
生まれたのは6名だけ(家慶、斉順、斉荘、斉民、斉彊、斉裕)で、元服した
男子を残せたのは4名だけ(家慶、斉順、斉民、斉裕)ってのが痛すぎる。
それで更に子孫を残せたのが斉民と斉裕だけ…。せめて斉荘と斉彊の男子が長
命だったらまた評価は違ったんだろうけどな。
- 254 :
- >>252
武田信吉の別名が松平信義だから、二代目から松平姓かもね
佐竹に対して武田を配置したのだから、ずっと武田藩だったと想像できる
- 255 :
- >>253
生き残って子孫を残せたのが、徳川姓以外のところに養子に出た2人ってのが痛すぎるな。
- 256 :
- >>二代目から松平姓
結城や保科の例からみて、武田もそうでしょ
松平姓より格上の苗字には、ことごとく松平が贈られている
- 257 :
- 平岩仙千代も忘れないでください
- 258 :
- >>248
幼少とはいえ、後の宗武を紀伊家に残す方法もあったと思う。
従兄弟よりも息子の方がかわいいし、コントロールしやすい。
- 259 :
- 長男がアレだからな
- 260 :
- キチ藩主重倫はマズイので、大蔵卿治察を紀州藩主と為すべきで有った。
- 261 :
- 家康が信吉を武田家の跡取りにしたのは理解できるが、
その他の息子を長沢松平とか平岩とか家臣の養子に出したのは理解できない。
信吉が早世しなければ、甲斐武田家の正嫡は信吉の子孫ということになり、
竜芳の系統が武田宗家として復活する見込みはなかっただろうな。
- 262 :
- 長澤松平には松平廣忠の娘が嫁いでいた。
東條は軍功の家で松井、小笠原という有力陪臣がいた。それらの陪臣は忠吉家臣から尾張藩臣へ。
安祥譜代の名家である平岩は人質以来の家来。信康傅役だった罪滅ぼし。平岩陪臣はそのまま尾張藩直臣になおされる。
忠吉、仙千代が長命だったら御三家の歴史も変わってた。
- 263 :
- >>262
忠吉が生きてたら、頼宣の同母弟だった頼房は
絶対、松平止まりだったよねw
そうしたら水戸による史局の設置もなく
明治維新も違ったものになったかも(´-ω-`)
- 264 :2013/10/22
- >>263
頼房は忠長が生きてる間は松平姓
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