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2013年01月東北1: 【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】(732) TOP カテ一覧 スレ一覧 まちBBS元 削除依頼

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【3.11あの日】〜東日本大震災〜体験記録Vol.1【絆の足跡】
1 :2012/01/22 〜 最終レス :2013/01/01
東日本大震災の被災体験を語り繋ごうという、まちBBS東北板のプロジェクトです。
ご自身が体験した大震災を語ってください。

また、書き込む前に「これは墓場まで持っていくものか?」と自問自答し、
その後、深呼吸してから書き込みましょう。

このスレッドのMC:青鹿φ、萌きゅん89φ


下記の話題はそちらでお願いします。

今現在進行中の話題、政治的な話題は↓。
東北大震災スレッド11
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/l50

放射線の話題などの関連スレッドは↓。
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/3

写真添付可、置場としてもどうぞ↓
【MAHALO】 〜東日本大震災〜体験記録@東北別館 【ALOHA】
http://hidebbs.net/bbs/80?n=49707198&s=t&m=10

【書き込み上の注意点】
1、このスレは個人や団体を糾弾したり、恨み事を書くスレッドではありません。
 淡々と体験談を語りましょう。
2、体験は十人十色。
3、文章の上手い下手、事の重さ軽さは気にしない。
4、それとなく、体験した地名をハンドルにするか、または1行目に書き込みをお願いします。
 (@石巻とか)
5、文章が長めとなるときは、分割して書き込みしてください。


2 :
語ってください。

3 :
まあ、淡々と語るよ。

平成23年3月13日。
震災後2日目、おら、確定申告に遅ればせながらいった。
遅れても可、だったけど、、これはしなければと、、。

その帰り、車窓から空を見上げれば、飛行機雲を長く引いて北から南へ一機の旅客機が青空をバックに飛んでいたんだよねー。
あぁ、空の便は、、普通になんだなーと思っていたら・・・・。

急に西の方へ急に進路を変えたんだわ。
今まで見たこともない角度でね・・・・・。


後から、ラジオで知ったよ。
原発が水素爆発したんだ・・・・。

4 :
福島県相馬郡飯舘村。
言わずもがな計画的避難区域です。
この村におらがケン族として崇敬している神社さんがある。

昨年秋、お札を、、と行ってみた。
計画的避難区域は立ち入りは自由にできるから・・。

道筋、意外と多くの村人と出会う。
まだまだ、負けん、、という気持ちが伺えました。

神社さんに到着。
神主さんとそのお母さん(お婆さん)のお二人で立派にご奉仕されていました。
しかし、ご家族は福島市内に避難しているそうで、夕方にはお二人も福島へ・・。

帰り、田植えができなかった田んぼを見る。
ちゃんと草刈りしてあり、、人の手が入っているんだよね。
今年の春には、、なんだろうけど・・、その道は厳しい。

5 :
まあ、おらの震災体験なんて、こんなに小さく軽いものだ。

こんな感じでいいですから、語ってみてください。

6 :
仙台市若林区で震災に遭いました。霞の目自衛隊近く。

書こうと思って、色々と考えたら涙が出てきて書けそうもないです。
まだ時期じゃないのか、時期を逸してしまったか。

津波被害無しです。家も家族も無事でした。友達を亡くしました。
仕事絡みで、たくさんのご遺体とご遺族に会いました。

地震直後、空の上にあり得ないくらい多くの、色んな種類の水鳥が鳴きながら飛んでいきました。
とてもきれいでした。

と思うと同時に、水辺の方面に尋常ではない何かがあったのか?と、感じたことのない恐怖を覚えました。
地震だけだったら、そんなに遠くに逃げる必要が無いんじゃないか?と。

そこから先はまた後で整理して書きたいです。

今はまず、他県の人たちの支援応援に感謝をしたいです。
何かの機会にここに目を通してくれたら幸いです。

色んなことと場所で、助けて頂きました。
ありがとうございます。

7 :
俺は誕生日だったよ

詳細は省くが、停電の中ロウソクの灯りの下で食べたケーキの味は忘れない

8 :
岩手県奥州市在住
被害らしい被害は停電くらいのものだけど翌日の夜には復旧してた
でも普段はお互い無関心でまるで他人同士みたいな家族だが
あの時だけは皆に気をかけていてやっぱり家族なんだなと思った

9 :
3月11日午後2時半過ぎ

東北道下り線、福島飯坂インターチェンジ手前を走っていたらいきなり携帯電話が喚きだした。
あわてて携帯の画面を見ると緊急地震速報の表示『ホントかよ?』と半信半疑でラジオを付けたら
アナウンサーが『走行中の車はすぐに停止して路側帯に車を止めろ!』と叫んでいた。
急いでハザードを点灯して路側帯に車を停めた。
車を止めると同時に大きな揺れが始まり営業車内で滅茶苦茶に揺さぶられ、50m程度先に
停車していたトレーラー(大型トラック?)も転倒しかねないほど揺さぶられていた。

地震後高速道路はすぐに閉鎖され、私は信号が消えて渋滞しているR4を仙台へ北上。
深夜近く余震の続く仙台の自宅にたどり着いたが室内が滅茶苦茶で、家族が一足先へ避難していた
近所の小学校へ着替え後に移動。

遥か彼方に見える仙台港石油タンク火災を見ながら呆然としていたのを覚えている。

あまりにも非現実的な事が連続して起こった為か3月〜4月頃の記憶が薄いような気がする。

10 :
こんばんは。
オラも参加したいと思います。
今日は持ってこないので、あとで僅かながら書きますね。

11 :
東北大震災スレッド11
http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/

>>1のリンクは自治スレです。

3月11日午後2時半
仙台の病院からの帰り道、本屋に寄ったときに携帯が地震警報を鳴らした。
ここ2日のM7地震でも鳴らなかったのにな、と思いつつ立ち読みを続けていたら
縦揺れがとんでもなかった。
ヤベエと思い、本を棚に戻した瞬間激しい横揺れ。棚の本は全て吹き飛び、停電した。
仙台駅に着いたが、閉鎖すると言われて追い出された。
コンビニは停電の瞬間に店を閉め、銀行も止まって金はほとんどなし。クレカは使えない。
タクシーで帰ると5万。仕方なく避難所に向かい、そこで1週間寝泊まりする。
小学校の教員の機器対応能力はなかなかよかった。県庁、市役所職員は知的障害者としか思えなかったな。
何が「旅行者」だ。仙台市外在住で、交通機関がないために避難所にいる人を、「旅行者」と呼んでやがった。
あんな知的障害者ばかり囲ってるから、村井県知事は宮城県民はバカだと思われてるんだろ。

12 :
まいね

13 :
>>11
おぉ、わりー、まちごーたわ。
ありがとー。

んで、言葉はもちっと穏やかに頼むわ。

14 :
あれれ

15 :
#1を書き変えたらヘンな表示になって、あせった。
カキコしたら、なおったー。

16 :
まいね

17 :
たぬきが書いたら板違い?

18 :
福島県富岡町在住

3月11日 当時、トラックドライバーだった私は 早朝 新潟県柏崎市へ納品後 帰りの荷物を積み込み 浪江町にある車庫に車を走らせていた
遅めの昼食をと 猪苗代町、国道49号線沿いのラーメン店に・ ・・食券を買い ラーメンを待っていると かかっていたテレビから緊急地震速報!同時に携帯からも
長く激しい揺れの中 店のおばちゃんを連れ店の外に飛び出した
揺れは収まり 急いで浜通りに向け車を走らせる 車窓には混乱する町の光景、ラジオや車載テレビから流れる津波被害の惨状

19 :
福島県郡山市。工場で仕事中でした。
場外に避難したら程無くして強い風に雪。防寒着無しで16時半まで外だったので兎に角寒かった。
流されていたラジオでは、10mを越える津波が来ているから高台に逃げろ、と何度も告げていた。
誤報じゃないのか?と笑っていたあの時は、現実を理解出来てなかったのか、理解しようとしなかったのか。
帰路ではAMラジオを聞いていたが途中で無音に。仕方がないのでFMに切り替え。
道路とコンビニの混雑状況から真っ直ぐに帰宅。後、徒歩で食料確保に出たら近所のスーパーが営業し続けていたので、今日明日をしのげる程度の買い物。菓子類だったか?思い出せない。
その後にごった返すコンビニへ行きタバコの確保。飲食物ほぼ全滅だったがタバコは豊富に残ってた。
夜は地鳴りがする余震の中、即避難出来る格好のまま布団に潜り込んだ。ラジオを聞きながら。

20 :
福島市
3月12日福島原子力発電所1号機の水素爆発をテレビで知って、その日の午後7時
に家族4人で避難を決定。東北道、新幹線、R4号、空路は閉鎖。使える陸路は新潟
に行くR49か山形秋田方面のR13だけ。とりあえず貴重品や家財を満載して山形方面に
出発。途中開いているGSは長蛇の列。その日は南陽市内のイオン駐車場で大きな
余震の中車中泊。翌日福島市内は線量が高くないことを知り帰宅。しかし3号機が
この日爆発。翌日の3月14日R4号が通行可能であること、新幹線が那須塩原まで
運行と情報を得てとりあえず那須まで行こうと、荷物満載で午後7時に車で出発。
途中同じような人満載、荷物満載で西に向かう車が何台もいた。須賀川まで好調
だったが鏡石付近で渋滞。路面が陥没隆起していて片側通行になっていた。那須の
峠を越えて栃木県に入ったとたんコンビニやファミレス、ファストフード店が電気を
煌々とつけて営業していたのには涙が出た。ガソリンもまだあったのでそのまま
東京まで9時間かけて走行した。

21 :
まいね

22 :
俺は内陸の盛岡なんで、大きな被害はなかったけど、当日はちょうど公休日で
犬の餌買いにホーマック(ホムセン)に行く直前だった。
地震直後に真っ先に年末に買ったばかりの20万ほどした液晶テレビをかばうのに必死だったな(笑)
地震後に買い物向かったけど、最初の信号で既に交通混乱してたし、停電してたら買い物も無理だろうと悟り
すぐ引き返して、その日は家に閉じこもったよ。車の帰りのラジオで三陸沖震源の地震なら津波やばいだろうなと
思ったら、やはりその通りになったな。
家は暖房に反射ストーブを常用してたので、暖には困らなかった。電源付かないこたつに毛布でくるまって停電復旧まで過ごしました。
役に立ったのは、仏壇に供えてあったロウソクとノートパソコンのバッテリー、これで携帯やPSPのワンセグ使ってテレビ見ることができました。

23 :
>>17
東日本大震災は広範囲に被害がでた。
関東方面での被災体験も当然OKっす。

大きな直下型余震が発生した長野県北部、静岡県も忘れてはいけない。

また、西日本や北海道へ避難なされている方々も多くいらっしゃる。
避難先での経験談も、よろしければ・・・、と思います。

24 :
良いスレですね。書き込ませていただきます。

病院関連の仕事をしています。当日は仕事場で被災、その後、休みなく働き続けました。
被災地にも行くことが多くありました。ふと我にかえったのは、4月中旬位だったでしょうか。

震災で家族バラバラ、安否不明の中、働き続けるのは予想より精神的に辛かった。
悲しいけれど、仕事の仕方で批判されたりしました。
しかし、こちらも被災しながらの仕事で、1ヶ月は職場からの配給のオニギリ(ないときもあった)で
なんとかしのいでおりました。トイレも流せない日もありました。お風呂も入れませんでした。
恥ずかしいけれど、仕事を放り出して自分の事、家族のために動きたいと思う事も多々もありました。

市の配給等の方式でイライラしたことがありました。ですが、宮城に住む人全てが
被災者だと思うと、その人たちが何を抱えながら働いていたのかと考えると……

25 :
地震後 停電のため町は真っ暗 第一原発から8キロのところにある自宅に着いたのは 18:00過ぎだった
家族は 妻が仕事場の福祉施設で被災したため 施設のお年寄りと避難 小学生の娘は私の母と近くの中学校体育館に避難していた。
とりあえず避難所で無事を確認 乱雑な室内から飼い猫を救出 その晩は トラックの中で余震と原発の状況におびおながら猫と一緒に寝た
翌早朝 防災無線から 福島第一原発が危険な状態にあり 避難してとの放送
消防団の仲間から 住民のためのマイクロバスの運転をたのまれ 被災状況を確認しながら町内を巡回
ほとんどの町民の避難を確認し、富岡町を出る頃には 15時過ぎ その時 少し大きな余震とともに ドーン と 聞いたことのない衝撃音を感じた これは 原発で何かあったなと思い 郡山市方面に向け急いだ
「終わった・・・」 と思った
3時間以上かけてたどり着いた避難所 付いてすぐにもらった 塩むすびが 涙が出る程おいしかった 気づくと その日それが唯一の食事だった

26 :
>>25
消防団員でしたか。おらもです。
あーゆー時って、団員はなんかのスイッチが入るんですよね。。。
(条件反射、、と簡単には言えないスイッチが・・・・。)

今回の震災で多くの消防団員が殉職されました。
ご冥福を心よりお祈りします。

27 :
震災があったあの日僕は仙台市太白区の自宅にいた。仕事が夜からだったのでそれに備えて休もうかと布団に入り携帯をいじっていたら「緊急地震速報」を知らせるR音が鳴り、「えっ、地震が来るのか?」と思いながら隣の茶の間に移動した瞬間、今まで体験したことのない激しい揺れが自宅を襲った。激しい揺れの中でも割と冷静に天井を見ながら「あ〜、この家も終わりかなぁ…。」と思いながら揺れが収まるのを待っていた。

ようやく揺れが収まり辺りを見回すと棚やらタンスやらが倒れていたり外にでると自宅そばのお寺の石碑が真っ二つになっていたり石灯籠が倒れていたりと何か夢でも見ているかのような光景が自分の目に写った。

28 :
>>20
3号機が爆発したのは14日です。

29 :
携帯の地震速報って役に立たないなと思ってたけど、あの日ばかりはあって良かったと思ったよ
どうせ大した事無いんだろう?とは思ったけどさ、揺れに備える心構えみたいなものは持てたしね

30 :
@仙台市太白区
当時は、外出しようとする矢先だった。
揺れ始めたので、怯える犬を抱きかかえてやると、そのまま激しい縦揺れへ。
点けていたテレビが消え、調度品が次々落ちる様子を呆然と見ていた。
揺れが収まると、室内は砕けた調度品の破片などで足の踏み場も無い状況。
液晶テレビも倒れて割れ、寝室は大量の本で埋もれていた。
多分、寝ていたら死んでいた。

プロパンガスだったのでガスは使え、水道も何故か止まっていなかった(隣家は水道停止)。
電気と電話が復旧するまでは、5日ほど。
食料などの備蓄も無く、周辺でポツポツと開いた大小様々な店を回って確保。
スーパーもコンビニも行列だったが、GSの行列もスゴかった。
新道286号線がガラガラになった、あの光景は忘れられないだろう。
11日夜からラジオで津波被害の様子が伝えられたが、亡くなった方の数が多くて
世界の終末を目撃している様な気分にさせられた・・・・・・・・・・・

31 :
27の続きです。

「宮城県北部」震度7、宮城県の太平洋沿岸に大津波警報」とラジオからアナウンサーが伝えたのを聞いて、耳を疑った。地震に対しては近い将来宮城県沖の強いのが来ると何年も前から言われていたので身構えていた部分はあったが「津波」に関しては生で見た事も体験した事もなかったのでいまいちピンと来なかった。

地震から1時間以上たった午後4時頃だったと思うが、自宅近くの名取川に津波が逆流し、河川敷の畑が浸水するのをこの目で見た…。生まれて初めて見た“津波”だった。

この時はこの津波が後に何万・何千人もの死者・行方不明者を出す巨大津波であることと直線で数キロしか離れていないゆりあげが津波で大変なことになっているものだとはこの時知る由もなかった。

32 :
@福島県伊達市
商工会へ確定申告書を持って行く為に家を出ようとしてた・・
今迄感じた事のない大きな揺れ・・
一瞬「酒の飲み杉で、ついに脳溢血になったか!」と思った。

土蔵造りの店のナマコ瓦がガタガタと崩れ落ちた・・
孫達の安否を確認し、家の周りを確認した・・
別の蔵の腰巻きが落ちた・・腰巻き・・蔵って女だったのKAYO

アナログ生活をしてる我が家では、
余震が続く中、一晩中、家族と車の中で待避・・
翌日、コメリに並んで、インバーターを6300円で購入。
井戸水を汲み上げ、風呂水を満杯に・・

石油は運良く3月10日に400Lタンク満杯だった・・
石油バーナーで風呂を沸かし、明るい内に入浴・・
暗くなった茶の間に投光器を設置・
TV電源を差し込み、ニュースを見て愕然とした・・・

最新情報はTVよりネットだった・
今思えば、ネットでスピーディの情報も・(自分には理解できなかった・(^_^;)

ガソリンは何とか確保・・(カマタの某GSが1L200円で・
伊達市H町ではH町笑口貝快調が経営するGSでも1L200円で販売・・
伊達市Y町の某GS(市指定給油所)には、「災害救助」の御印。市役所の伝票で、
試薬書職員が通勤用に給油し、後から、現金持参して、ナンバー削除を頼んだとか

「ひとりはみんなのために・・・みんなはひとりのために」
今、商業者用に「東日本大震災設備等復活支援事業」を活用し、
地震で壊れた事業用試算の修繕費用の4分3を助成し、
残り4分1は無利子で融資するラスイ・・・

兎に角・・今、スベキコトをやろう


閃いた・・・これを4月号に応募して三日・・・
稀熊氏・・・応援してるからガンガレ・・

33 :
>>ALL
男女お二人に、このスレッドのMCとして「聞き役」になってくれるよう依頼しました。

お一人目はご存じ別館管理人の「青鹿φ」さん。
北東北の比較的被害が小さかった地域にお住まいです。
(小さいとはいえ被災者のお一人です。)

もう一人は東北地区外にお住まいの女性です。
イベントキャップ「萌きゅん89φ」をこのスレ限定で使うようにと貸与しました。

お二人に話しかけるように書き込みして頂ければ幸いです。
特に「萌きゅん89φ」さんのような東北以外にお住まいの方に、
あのときの被災状況を伝えましょう。

34 :
>>ALL
男女お二人に、このスレッドのMCとして「聞き役」になってくれるよう依頼しました。

お一人目はご存じ別館管理人の「青鹿φ」さん。
北東北の比較的被害が小さかった地域にお住まいです。
(小さいとはいえ被災者のお一人です。)

もう一人は東北地区外にお住まいの女性です。
イベントキャップ「萌きゅん89φ」をこのスレ限定で使うようにと貸与しました。

お二人に話しかけるように書き込みして頂ければ幸いです。
特に「萌きゅん89φ」さんのような東北以外にお住まいの方に、
あのときの被災状況を伝えましょう。

35 :
大事なことでしたので・・・・・・。..........orz..........

36 :
原町で仕事中地震にあい、子供たちを迎えに行き実家についたのが17時前。
地震が起こるたび実家から飛び出していたら、17時すぎに知人に会った。
「原発の非常用ディーゼルが津波で流され、電源喪失になった。
消防が行ったが水が入らない。電源車の手配はしたが、
道路の状態もわからず5時過ぎで本庁の動きが鈍い。
すぐに子供を連れて逃げろ。そしてこれを出来るだけ人に伝えてくれ」
頭が真っ白になった。
テレビで安全に停止したと流れてると両親にはキチ扱いされたが、
旦那に別れを告げ、毛布だけもって子供と着の身着のまま川俣に逃げた。

飯舘のセブン付近で夜8時時点で外気マイナス6度。
毛布一枚では凍死しそうになったので川俣に移動。
川俣も夜中マイナス5度まで下がり震えていた。

ポーンした後は旦那も会津で合流した。旦那は4月から通常勤務。
自分も新潟から南相馬の仕事場に週3〜4日通ってる。
12月は日帰り可能だったけど、今は雪がひどくて無理。
仕方ないので新潟に静岡の義母よんで子供の世話してもらってる。
通勤時間片道200キロ2.5〜3時間 実労5時間…
朝5時に家を出てなんとか会社にgo。そのうち過労で事故って死ぬかも。

37 :
>>28
>3号機が爆発したのは14日です。

そうだった。14日だった。テレビで爆発を見ていてこれは終わったと思った。
会見する保安院の職員の顔が狼狽しているし、避難区域もどんどん広がってきて、
被害はかなりの範囲になるだろうと思った。
そして4号機も危ない情報を14日に得てさらに遠くに避難しようと思った。

38 :
まいね

39 :
東北板の皆さん、はじめまして。
MCというものが、どのくらい務まるか分かりませんが、よろしくお願いいたします。

皆さんそれぞれ大変な経験をされていて、何とお声を掛けていいのか、なかなか言葉が見つかりません。。
ありきたりなことしか言えませんが、皆さんお疲れさまです、体にだけは気をつけて、ということをお伝えしたいです。

40 :
震災から数日後の停電中、夜聞いていたラジオから仮面ライダーの主題歌が流れてきた
3歳の息子が喜んで、嬉しそうに歌っている顔を見て絶対負けないぞと思った

41 :
青鹿です。
どなたか書かれてましたが、、、被害の大きかった所等のあの日を書くにはまだ早いのかちょうど良かったのか察することは難しいのですが、
できるだけ素直に拝見させて頂きます。
よろしくお願いします。

オラの3.11体験。

花巻市役所に行く用事があり、その運転中オラは地震に遭う。
ほとんどの車は停車したが何台かは通り過ぎて行った。
数回の大きな揺れが治まった後、ひき返すか迷ったがそのまま役所に向かった。
交差点は停電となり、消防署そばと市役所近くは手信号が見られた、けれど多くは無人状態、、、
役所では職員が大勢館外へ出ていて(あるいはヘルメット被った出動体勢の人もいて)、これでは用足し不可と判断、ひき返した。

翌日(12)奥州市の実家へ…なるべく信号のない道を行く。
帰途は国道4号線、、、信号機が動いていたのは1か所だけだった。(もっと後日だったかも?)

電気・電話不通で、ガス・水道は使えた。
地震のあった日気づかなかくて、翌日夕方に車からとるインバーターがあったと思い出す。
やっと震災の映像が見れた、、、しかし県内状況で頭が一杯、この時点は原発事故についての印象が薄い。
翌々日(13)午後に電気復旧だったはず。

42 :
@大船渡市
震災の日は市内の職場にいて、揺れがおさまってから職場の人と車で避難開始。その頃にはもう渋滞が始まってて車が全く進まなくて、目指してた高台の病院を諦めて脇道から近場の少し高い場所に避難しました。
着いて車から降りると下の方から叫び声がして見ると瓦礫と煙みたいな物が坂を登って来るのが見えて走ってもう少し高い場所にある公園に避難し、下を見ると町の中を音をたてて水や家が流れてました。
波は自分のいた場所から30m位手前で止まったので今となっては大袈裟な気もしますが、登って来る津波を見た時は恐怖だったし初めて自分の死を意識しました。
その後最初の目的地である病院に避難して一晩過ごし、翌日自宅のある高田に帰りました。
当日の夜は一睡もできず、慌ただしい病院の中でラジオから流れてくるニュースを聞いてただ絶望的な気持ちでした。

43 :
@秋田市
小さい頃は停電は結構あったけどあんなに長い停電は初めてでさすがに危機感が強かった。
ガスと水道が生きてたからまっとうなメシにありつけたけど、その後の品不足は予想以上だったな。
携帯の電池が不安ですワンセグ見ようという考えは浮かんですらなくただただラジオだけが頼りだった。
3.11が誕生日なんだけど忘れられない誕生日だな。蝋燭が立ってるんだけど吹き消せないっていうw
まるで悪魔の産まれた日のような言われようだが篠田麻里子と大隈重信とカツオと俺の誕生日だ。悼むだけでなくちょっとだけ祝ってくれよ。

44 :
43さん 私も誕生日だったよ
今年、去年の分もケーキ食おうぜ

45 :
@名古屋市
実家が気仙沼。火事や津波で大変だった地域。実家は2階も津波きたけど
なんとか残っている。身内や知り合いも大丈夫だったので良かった。
ちなみに名古屋でもあの時、仕事場が10階だったけど一分近くゆれが続いて
怖かった。震源地を調べて更に怖くなった。津波の映像みてもっと怖くなった。
それから3日間両親と連絡取れないことがもっともっと怖かった。
あの時ほど実家に戻りたいと思ったことはないです。

46 :
体験記、読み返しつつレスしたいと思っています。

先ずは

>>6
しばらく若林区は放映伏せ、、にしてるなと思っていました。

「新港の蒲生海岸」と云えば若林区なのか、、、
昔溺れてしまい、苦竹の病院まで運ばれますたった。^^;

>>7
ケーキは誰かが前もって買ってた(か作った)のかな。

>>8
オラも気になって電話、、、最初は通じて無事確認したけど2回目からはダメだった。
翌日面見に行ったよ。

>>9
揺れが大きいのでオラは歩道に寄って止めたんだが、
そばの電柱が倒れてくるんじゃないかと思ったくらいです。

47 :
669 名前:名無しさん@お腹いっぱい。(福島県)[] 投稿日:2011/05/03(火) 21:07:41.10 ID:1pmkGVVt0
郡山のモールってSCの3階駐車場に停めた車の中でひと眠り。
揺れに気が付いて起きた時は、普通の揺れだと思ってた。
「寝過ぎたかな?何時だ?」と携帯の時計を見ようとしたら徐々に大きくなり、普通に座っていられない。
ドアの内張りに肩をぶつけながら、軽の社用車が横転するんじゃないかと思う程の、横方向からの揺れに恐ろしくなってきた。
ここで、駐車場の吹き抜けから白い物が舞ってるのに気が付いた。雪。しかも前が見えない程の凄い量。

しかし当初は、寝起きで少々寝ぼけてて、安達太良山(福島県のほぼ中央に位置する山)が噴火したと思ってた。雪が火山灰に見えたw

大きな地震と突然の吹雪に、天変地異を描いた映画が重なりプチパニックに。
揺さぶられた車がピョコピョコ横に移動して、隣の車との間隔が極狭になってるのに気が付き、
車を動かそうとした頃にやや揺れが収まってきた。その隙にエンジン掛けて少し移動…した時に最大の揺れが襲ってきた。

目の前のコンクリ壁が上下からの強い入力で、壊れるというよりもバンッ!と弾け飛んで車に当たる。
駐車場の天井にあるケーブルを纏めたハシゴのような器具が隣の車に落下。思わず首を引っ込めた。照明が消えた中で、ビルの警報音が鳴り響く。

やっと揺れが収まった頃には「早くここを出ないと潰れるかも」と出口に向かうも、
先の器具やケーブルがアチコチで落下していて経路がない。何人かでケーブルの束を持ち上げて、なんとか駐車場から脱出。

直接家に向かうも大渋滞。裏道沿いの塀という塀はのきなみ崩れ、電線も垂れ下がっている。家に着いたのが一時間後。普段なら10分足らずの距離。
その頃には既に大津波が来ていたのを後で知った。

48 :
あ、↑は別スレに俺が書いたやつのコピペです。ヘッダ消すの忘っちゃ!

49 :
@南相馬 
震災当日まだ揺れが収まらないなか、
車を貸してほしいという人が来た。
その人は客で家は浜にあり、たぶん自宅付近は壊滅状態。
暗くなってきたから、今は行かないほうがいいといったけど
だめかもしれないけどどうしても家族を探したいといわれ車を貸した。

自分の命のほうが大事なんだからいざとなったら逃げろ
と満タンの車を貸してやった社長。

その後、原発事故で貸した相手は行方不明。
ガソリン不足になりあの車さえあればとうなだれていたのは
秘密っす。

50 :
@北上市 長くなるけどごめんなさい。あの日のことについて他人に断片的には話したことがあるけど、まとめたことはないから…。
自分の整理をさせるためにも書かせてください。

奥州市の職場の会議室で会議をしていた。
その時たまたま目にした広報誌に、海外でも津波はTUNAMIと表記するという記事があり「へぇ〜」と思っているところに揺れがやってきた。

長い揺れでロックをかけてあるはずの机が、かかっていないかのように動いた。部活をしている生徒のことが気になり、室外に出ようとしたが、
揺れがひどくて動くことができなかった。揺れが少しおさまったころ、会議室の外にでると壁にひびが入ったり、天井の資材がポロポロと床に
落ちていた。そして生徒の一人が過呼吸を起こしながら階段を下りてきた。ビニール袋を取りに事務室に飛び込むと、書類が散乱して足の
踏み場もない状態だった。目的のものを手に入れて過呼吸の生徒の手当て?にあたる。校舎にいた生徒達が大勢階段を下りてきたので
外に誘導し、自分たちも外に脱出した。(後で聞いた話だが、この生徒は部活中なんとなく嫌な感じがしていたらしく、移動しようとエレベーター
に乗っていたところエレベーターが止まり、携帯からは緊急地震速報の音がしてエレベーターには地震?だったか緊急?だったかのランプが
点灯したため、まずいのではと思ってエレベーターを降りた直後に地震がきてパニックになったらしい)

駐車場に集合し、人数確認をして全員避難することができたことがわかり、保護者と連絡を取らせながら帰宅させることに。私は過呼吸になった
生徒を車で家に送り届けることになった。いきなり吹雪になって「こんな時に雪まで」と思った。自分の荷物を取りに校舎に戻った時に、
壁にたくさんヒビが入っているのが目に入り、涙が出そうになった。職員室も足の踏み場がないほどものが散乱したり、書棚が倒れたりしていた。
もしあの時間にここにいたら…と今でも思うとぞっとする。会議室という机しかない部屋だったからこそ、誰もけがをしなくて済んだなぁ。

信号は消え、道路は大混雑。みんな出来る限りゆずりあって通行していた。いつもなら30分で着く距離を一時間かけて移動した。
車内で奥州FMを聞きながら運転していたが、緊急時のため、奥州FMは7分?ごとに信号を切り替えながら放送していた。
生徒を無事送り届けた帰り道、四号線のひどい渋滞にはまってしまった。その時にラジオをIBCに切り替えた。
津波が到達した後で、神山アナウンサーの悲鳴のような中継を忘れることができない(神山アナウンサーはたまたま釜石にいたらしい)。

職場に向かって来た道を戻っていると、生徒が一人歩いているのを発見した。車を停めて話を聞くと「連絡したが迎えに来れる状況ではない」とのこと。
そこから歩いても一時間はかかりそうなところだったので、送っていくことにした。途中、ブロック塀が崩れている家が目に入る。
その生徒を送り届けて職場へ。まだ生徒が帰れないでいたらどうしようと駐車場に行ってみると誰もいない。
しかし、校舎の事務室には誰かいるのが見えたので顔を出してみると、事務職員が残って処理をしていた。「生徒は全て学校からは帰りました。
様子を見て月曜日に出勤してください」と言われたので、実家に寄ってから帰ることにした。

51 :
@北上市
実家に向かったのは17時頃だったと思う。今更ながら母に安否確認のメールを送ると「無事だけど、もう少ししないと職場から家に戻れない。
一人で家にいるおばあちゃんが心配だ」ということだったので、急いで実家に戻る。
道路が陥没したりしているので迂回しながら実家に戻る途中、目の前を母の車も走っていた。

同時に家に着き、母は牛舎に向かい私は祖母のところへ!!
「大丈夫だった?!」とドアを開けると「おら怖かった〜」と言いながら近所のおばあちゃんとお茶を飲んでる祖母を発見(笑)
やっぱり、戦争時代を生き抜いている人は違うなと改めて思いました。
停電で薄暗い中、家の中の被害状況を点検。グラスが二つ割れていたのでそれを処理し、無事を確認したし仏壇も拝んだし帰ることに。
(その頃、父は千葉に旅行中でバスの中で地震に遭遇し、二・三日かけて帰ってきたらしい)
実家に泊まることも考えたが、やはり自分のアパートの様子が心配になり、戻ることにした。
母から「食料だ!持ってけ」とバナナやおにぎりをもらって実家を出発。

北上に向かう途中、火災の消火活動をおこなっているところがあった。
信号は消えているし、あたりは暗いし、本当に怖かった。
展勝地からいつもなら見える北上の灯りがなくて、悲しくて涙があふれた。

アパートに着くと花瓶が一つ割れていた。その程度であまり被害はなかった。
懐中電灯がなく、借りてくれば良かったと後悔しながら携帯の灯りを頼りにアロマローソクを探し出して火をつけた。
何度も余震がきて、一人の夜が怖かった。実家にいればよかったと思った。
母からもらった食料を食べ、妹や友達にメールして安否確認をする。
ラジオもないし、停電もすぐ直りそうもないと思ったので「寝るしかない」と思い、早々に眠りについた。
眠るものの寒さと余震で何度か目が覚めた。その度に外に出て車で暖をとりながらラジオを聞いた。

灯りがないため、星がきれいに見える。ラジオからは津波の悲惨な状況が流れてきて、
あまりの甚大な被害に悪寒が止まらなかった。同じように車で暖をとりながらカーナビでテレビを見ている人がいた。
その時ワンセグでテレビを見るということに気付いてなかったなぁ。

52 :
@北上市
「とにかく早く明るくなれ!早く夜が明けて欲しい」と思いながら眠りについた。
時々2ちゃんも見たよ。閲覧だけだったけど、誰かと繋がってる気がしてすごく心強かったよ。
朝の4時くらいに目が覚め、そとも少しずつ明るくなってきていたので早い朝食をとることにした。
幸いなことに水とガスは使えたので、「まずは温かい料理を作って気持ちを強くしよう!」と
冷蔵庫を開けてみると解凍したエビと生クリームを発見!
「地震に負けてられるか!」とエビのクリームパスタを作成。高カロリーの食事をして元気が出てきた。

食事をして元気もでたし、明るくなったので食料や備品のチェック。
家にいても何もすることがないので、また実家に行くことに。
明るくなってから運転してみると、改めてその被害の大きさに驚いた。
紳士服の店の大きなガラスが粉々に割れていたり、道路が陥没していたり…。
「ちょっとスーパーに寄って食料調達しようかな」と思って立ち寄ってみたら、
朝7時だというのにすごい行列だった。携帯の予備電池を手に入れようとドコモショップにも行ったが
(奇跡的に店員がいた)補助充電しかないと言われ、その意味がわからなかったけど

実家に帰る途中で、嫁にいった妹の家に行ってみると、妹は仕事にいったらしく不在で旦那もいない。
せっかく来たのにな〜なんて独り言を言いながら車に乗ると、妹の旦那が坂を上ってきた。
近所の見回りに行ってきたらしい。私が実家に行く旨を伝えると、一緒に行きたいということだったので
車に乗せて一緒に行くことにした。

実家に戻ると、一見いつもどおりの生活をしているように見えた。たぶん薪ストーブがあるからだと思う。
ご飯を炊くのもガス釜なので、食生活に不自由はしていなかった。農家だから自給自足だしね。
ラジオも3個以上あるし、懐中電灯も5個か6個ある。自分用に電灯付きラジオをゲットした。
母が妹の旦那に「墓の雪が地震のせいでえらいことになっているので、雪よけに行こう」と言い出し、
「こんな時に墓の雪よけしなくても!」という言葉も聞かず、妹の旦那のを連れて寺に出発した。

残された私はこのサバイバル生活を生き抜くための食料やグッズを実家で探しながら祖母の相手をし、
昼食を作った。雪よけから帰ってきた二人と合わせて4人で昼食を食べ、北上に帰った。
「一人じゃないって素敵なことなんだな」と感じた瞬間だった。

帰り道、107号線で赤十字のバス何台かとすれ違った。
その度に車の中で「来てくれてありがとう!がんばれ!がんばれ!」と泣き叫んでた。
妹は仕事帰りに電柱に登っている東北電力の人に「頑張ってください!!」と声をかけて
「はい!(電気がくるまで)待っててください!」と言われたらしい。
他にもたくさんの他県からの消防車や救急車とすれ違った。本当にありがたかった。

北上に戻るとまだ停電が続いていて、「今日もまた寒くて暗い夜か」と思いながら手に入れたラジオを
聞きながら靴下をはいて布団の中で丸くなっていると電気がついた。
テレビをつけると、津波の映像が飛び込んできて、予想以上の悲惨さに言葉がでなかった。
そこからはガソリン難民になったり、食料を手に入れるためにスーパーに並ぶ2週間を過ごしたなぁ。
そして募金活動をしたんだけど、その時外で活動している私たちにおばあさんが貴重な牛Rを差し入れて
くれたり、沿岸から来ましたと言って募金をしてくれた老夫婦にその牛Rをあげたりした。
皮肉だけれど、本当に絆というものを感じたり考えたりした体験になった。

長々とスレ汚しごめんなさい。貴重な場所をありがとうございました。

53 :
>>11
駅封鎖は泣きっ面に蜂でした。次からは避難所になりますね。(遭ってはならないのですが)

>>12
岩手では全国からの支援物資が余ったと(昨年秋)、、、どうして余るのか???

>>18
直後現地で映像を見れた数少ない人だと思います。

>>19
甚大な災害ショックなのか、思い出せない事がありますね。
オラのとこは町から離れているのでタバコには困らなかった。

>>20
日が経つにつれ品切れ増えたけど、、コンビニ・雑貨屋等お世話になりましたった。

54 :
まいね

55 :
まいね

56 :
>>ALL
えーと、サブタイトルは2つあります。

【3.11あの日】&【絆の足跡】

あの日の出来事だけではなく、「絆の足跡」に関する体験談も歓迎します。

57 :
おらのあの日も書いてみるか。@箱庭

>>9さんとそんなに離れていないところに居た。
爺さんを眼科医に連れて行って、待合の時間中に買い物を、、って時だったよ。
交差点の真ん中、これから右折しようってときだった。

きゃー、なんじゃーー、って感じだったわ。
大きな揺れの中、そろそろと交差点を抜けだし、路肩に寄せたんだけどさ。
この電柱倒れたら、一発だな、、、とか思ったわ。

で、一息ついた後、爺さんを迎えに眼科医へ直行。
爺さんは看護師さん方の誘導で無事、駐車場へ避難していた。
診断の途中だったようだが、了承を経て帰宅することにしたわ。

この辺で、おらの消防団スイッチが入った。
家族には不便をかけてしまったとは、後から気がつく。

58 :
家路、瓦が落ちた家、半壊の家、、、普段と違う風景が一瞬にして、、。
もう、このときから次の行動の準備ができてしまった。

途中、所属部のポンプ車とすれ違う。
大声で「爺さん家に連れて行ったらスグ行く。」。

築50年を越える古家はあの地震にも持ちこたえていた。
おもわず、「よし、がんばったな。」と声が出た。

散らかった部屋を簡単に片づけ、暖をとり、爺さんの居場所を作る。
ここで、ふと、、まちびを思い出し・・・。
スマホで「ナマズ板をあげろ」と書き込んでみた。

その足で屯所に向かう。。。
この時点で、子供たちや妻のことは頭にない。
後に、ちょっと自己嫌悪。

59 :
遠くに聞こえる緊急車両のサイレン、南の方にあり得ない土埃が舞い上がってる。
(後、それはR4に崩れた土砂のものと思った)
火事と思える煙も見える。

屯所には、それぞれ色々な災害情報をもって次々と団員が集まってくる。
例えば○○は液状化現象か水道管か解らないが冠水して通行できない。とか。
4月に引退を予定していた先輩方も集まる、、。
指示があるまで、この場で待機となった。

ここで、小学生の倅が屯所に来たんだわ。
ここまで子供たちのことを考えていなかったことを、、恥じた。

5000円を握らせ、簡単に家の状況を教える。
「何か買って喰え、部屋は自分でかたずけろ。」
心の中で「すまん」といった。

それから、妻や娘と連絡しようとしたが、、もうケータイは繋がりにくい状況だった。

消防団の活動が一旦解除された夕方、、食料を求めて店を回ったが、、もう何もなかった。
こういうときは、出遅れが、、なんですわな。
なぜか、焼き海苔と明太子が売れ残っていたから購入。
しばらくは、メンタイおにぎり定食となる。

娘はコンジョーで徒歩で帰宅していた。
「腹減った」とわめいていたが、、ピザなんてねーよ。
妻は仕事柄、、、帰宅したのは深夜となった。
無事であっただけ、それでいい。
食料や物資が、燃料が、、まあ、家族に迷惑をかけてしまったです。

蝋燭とラジオの夜、思い出したようにスマホでまちびを眺める。
ぁ、バッテリーが・・・・。
残りのバッテリーを使って、全国の管理人さん方に応援を要請した。

明日の消防団は午後からだから、、、午前中になんとか物資を、、
と思いながら毛布にくるまってみたが、、なんとも目が覚めて、、うん。
そんな午後でしたわ。

60 :
まいね

61 :
>>22
反射式ストーブがうちにもあって大助かり。
今シーズンは大量に売れたでしょうね。

>>24
あの日は金曜で、土日を休み月曜からも休業した会社もあったと思います。
その中葛藤しながらの労働、、、が伝わりました。

>>25>>18の続き)
猫ちゃん救出できてよかった。
15時過ぎまでの避難準備経緯がリアルです。

>>27
地震の時は外へ出ろ・机の下にもぐれ、とあってもなかなかできないものですね。

>>29
通信障害のない緊急速報であってほしい。


あと1.5ヶ月で1年になるけど皆さん克明に覚えているなあ、、、という中間感想です。

62 :
>>29
>携帯の地震速報 3.11に入りましたか?
私の(au)は来なくて 3.20 3.22 3.23 と入った
@東京だけど

63 :
仙台市宮城野区。
地震当日の夜、停電で辺りは真っ暗。
見上げた夜空は皮肉なほど星がきれいだった。

遠くの県庁市役所あたりだけ微かに明かりが。

夜が明けて、あちこちの離れた場所からまだ黒煙が上がっていて
自衛隊やマスコミの大型小型のヘリが海のほうに沢山飛んでいく。
その時やっと「本当に大変なことが起きた」と実感がわいた。

64 :
>>>62
揺れてる最中に鳴ったはず。R48で信号待ちしてて、本格的に揺れはじめたときだった。ハンドル握りしめながら聞いたの覚えてる。

65 :
>>64
それが ケータイの記録にも残っていないんですよ
揺れ始めてからずっと手に握っていて 
強くなりかけた瞬間から 子供に連絡をとろうと何度もRュし続けていたせいで
Cメールを受信できなかったのかな

66 :
29です
揺れを体感する前に着信し、一緒に作業してた人に「地震くるみたいですよ」と言いつつ談笑してました
それから、暫くして揺れ始めて「当たりましたね」と言ってる間に揺れが大きくなり、目の前のパーティションが倒れたら危ないなと作業中断して押さえてました
震度6弱の地域ですけど、職場だと作業中は震度3でも気付かない事がある位で、当時は震度5位かなと思ってました
因みにキャリアはドコモです

67 :
そういえば、横浜の友達は鳴らなかったと言ってたような?
友達のキャリアはAUですね

68 :
>>30
管損壊がない自然流下の水道は大丈夫だったようです。
風呂が使えなかったので使用量が少なく、ポンプアップでも貯水槽分はもったと思う。

>>31>>27 の続き)
沿岸の学校の頃少し強い地震あって、早下校の時がありました。
今から思うと海方面へ帰るのは危険だった。

>>32
職権を乱用?した給油の様子はこちらでも、、、。
中にはそのような行為を却下したというGSマンの話を聞きましたった。

69 :
戸棚から食器が盛大に落ちたのはあの2回だけ

窓が丸くなって柱が斜めに見えた時は、このまま押しつぶされて死ぬんだなと本気で思った

70 :
>>68
ああ、そうだったんだ・・・・うちは自然流下だったのかw
でも、地震から3日後くらいに止まった記憶があります。
その前日から、「止まってない水道も止まるらしい」という話を聞いていたので、
水を溜めておいた。

そういえば、一週間近く風呂に入ってなかったんだなぁ。
周りも同じだったので、気にならなかったが。
普段は客入りもボチボチのワゴン焼き鳥屋なんかには、行列出来てましたね。

71 :
北海道十勝地方在住の者です。陸前高田に知人がいます。

震災の11日には知人とは全く連絡がつきませんでした。陸前高田の様子もこの時点では全くの不明でした。
12日の朝になって陸前高田が壊滅状態と知りました。知人の安否が全く不明なので、陸前高田に行って見ることにしました。

水と食料と衣料と毛布などを車に積んで午前中に十勝を出発しました。
苫小牧東港が津波で浸水したので苫小牧東港は利用できないのですが、臨時で小樽から出航するとの情報があったので新日本海フェリーに電話をしたけれど話し中で全く繋がりません。
仕方が無いので函館から青森に渡って行くことにして函館へ向かいました。

函館についてガソリンを入れようとスタンドに行くと、20リットルまでしか入れられないと告げられました。
これはちょっとまずいと思い、ホームセンターでガソリン携行缶を購入しました。ガソリン携行缶は売り切れ寸前でした。
とりあえずガソリン携行缶にもガソリンを入れて、フェリーターミナルへ向かいました。

フェリーは津波警報が出ている間は出航しないとのことでした。
夜の12時頃になって津波警報が注意報に変わり、青森へ向けて出航しました。
早朝のまだ暗いうちに青森へ着いて青森市郊外のコンビニ寄ってみると、食料品等がかなり品薄になっていて通常の状態でないことが感じ取れました。

4号線で盛岡方面に向けて走っていて明るくなってくると、スタンドで車の行列ができています。ただならぬ雰囲気です。
どこのスタンドも行列ができていました。盛岡市の到着してガソリンを入れようとスタンドの行列に並びました。
3時間並んでガソリンを入れました。だけど10リットルまでの給油制限。ガソリンを入れ終わったら昼過ぎでした。
盛岡市周辺の信号機の多くは点灯していませんでした。

ラジオでは被災地域へは通行制限をしていると放送されていたので、陸前高田へ向かうの躊躇し盛岡付近の道の駅で車中泊。
道の駅は停電していました。トイレの水も断水してました。
翌14日早朝の真っ暗な時間に、道の駅の自販機の明かりがいきなり点きました。電気が回復したようです。

被災地域への通行制限は相変わらず続いているようでしたが、とりあえず陸前高田へ向かうことにしました。
花巻あたりから海の方へ向かいます。
東和で検問っぽいのが遠くに見えたので、検問を迂回するルートをナビで探して進みました。難なく検問をパス。

途中の小さなスタンドで行列に並んでガソリンを補給し大船渡経由で三陸道を通って広田半島に行きました。
広田半島に入って広田町方面に向かう途中に津波警報とかで通行止め。消防団の方々が交通整理をしていました。
通行止めの間、小高いその場所から見えた景色は見たこともないような瓦礫の景色。
待つ間、開通を待つ自衛隊の若い人と雑談。その人は半分私用のような形で広田町の実家へ行くということでした。

津波警報が解除され、広田町方面へ向かいます。瓦礫の中の応急的に片付けられてなんとか通行できるようになった道を進みます。
なんとか知人宅の付近まで行きましたが、電柱が倒れて道を塞ぎ、そこから進めません。
そのへんにいた人に知人のことを聞くと、その人は偶然にも知人の従兄弟でした。そして、先ほど会った自衛隊の若い人は、その人の息子のようです。
その人に連れられて山道を歩いて知人宅へ到着。家は無事で、そこには被害にあった親戚の方が10人近く居ました。水は井戸水を利用していました。食料も何とか足りているようでした。石油ファンヒーターしかなかったので暖房に困っていました。反射式石油ストーブを持って来なかったことを少し後悔しました。
少し知人とお話をして広田町を出発。

15日朝に秋田からフェリー乗ろうと思ったら、その日は夜に秋田発だったのでフェリーターミナルで夜まで待って乗船。16日早朝に苫小牧東港到着。午前中に十勝に到着しました。

72 :
>>71
外からの様子というか、臨場感があって興味深いです。
直後は函館すらガソリンだめだったんだ・・・。

ちなみに私は17日の山形〜新潟〜岐阜で、新潟のはずれ辺り〜新潟市内一部でやっとガソリン満タンOKだった。
そこから西日本の親戚宅へ。

また仙台にすぐ戻ったけれど、名古屋の町並みの「普通さ」と東北の惨事とのギャップでしばらく苦しんだ。

73 :
緊急地震速報はドコモもauも届いた@盛岡
携帯が大騒ぎして、5〜7秒くらい後に揺れ始めたね。
はっきり覚えてるから間違いない。

74 :
私は関東在住ですが、本震の時はドコモのエリアメール(緊急地震警報)は来なかった気がします。
色々ありすぎて忘れてしまっただけかもしれないですけど。

余震で何回もエリアメールが来たのは覚えてます。
夜中に来ることが多かった気がします。

75 :
>>74
乙っす。

#1を更新したので、業務書き込みー。

76 :
ラジオは災害時に役経つね。
携帯やネットは停電や回線パンクして使えないだろうし。
あと、テレビだとスポーツの中継など放送時間超えると
打ち切られるし。
皆してスマートフォンとかって馬鹿らしい。
通信障害が多いらしいな。
便利すぎるものもどうかなと・・。
思考力衰えているらしいとか。

77 :
地震時には車使うよなっていうのが、肌でしみた。
その当時から、車手放していたので、ガソリンネタは関係ないが、
道路は大渋滞。
あのような状況・・・・ガソリン待ちしている時間あるなら、
チャリで職場に逝った方が早いって。

78 :
あのガソリン渋滞は、アイドリングした分を給油すんのか?って感じだったなw

79 :
ラジオ福島で「どんぐりころころ」を聞いた時は泣いた。

80 :
>>36
実状と正反対な報道は困ります。
それにしても片道200kを車通勤!?、、、実害が続いてますね。

>>37
安全と強調されるたびに不安が増したあの頃から今に続いて、、、。

>>38
そうですね、1年を機に身近な方法で今を表現できればいい。

>>40
仮面ライダーを歌う子供さんがミラーとなって40さんの心意気を伺えました。


>>70
自然流下でも浄水池でろ過したり殺菌する時電源が必要なのかも、、、。

81 :
ベタだがサイモン&ガーファンクルの明日にかける橋には泣かされると同時に励まされた。

82 :
俺は「You Raise Me Up」を聴いて号泣したよ・・・


When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit a while with me

You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...to more than I can be

83 :
三日目くらいにラジオから流れてきた「震災後初めて聞いた歌詞のある曲」が「100%勇気」だった。
これかアンパンマンのマーチだろうなと思ってたから、あまりのベタさに笑ってしまいそのあと涙が出た。
まぁがんばるかーと思えた瞬間でした

84 :
こそ・・・こそ・・。


おらは・・

「フラガール〜虹を〜」だったわ。
♪大地に光をぉ〜〜、で涙が出た。

85 :
>>82
「You Raise Me Up」の日本語訳を上げときますね。

落ち込んで そして Oh 魂が とても疲れた時
トラブルが来て ハートに 重荷を背負った時
その時は じっとし そしてここで待とう 静かに
そうすればあなたが来て しばらく座ってくれる 一緒に

あなたが立ち上がらせてくれる そうすれば山の上に立つことができる
あなたが立ち上がらせてくれる 荒れた海の上を歩くために
強くなれるよ あなたの肩につかまれば
あなたが立ち上がらせてくれる... 自分で出来る以上に
:

曲を聴きたい時は http://www.youtube.com/watch?v=aJxrX42WcjQ

86 :
あの日、4才と1才の娘達を乗せて車を運転中にラジオと携帯同時に緊急地震速報が鳴った。@仙台市泉区
ハザードをつけて路肩に停めようとした瞬間、地震が来た。なぜかパーキングに入れずブレーキを力いっぱい踏んで
「大丈夫だよ〜すぐおさまるよ〜」と妙に明るい声で子達をなだめました。
揺れがおさまり、後部座席に移った瞬間、最強クラスの地震。
泣き叫ぶ4才の娘に、大丈夫だよ、お母さんがそばにいるから絶対大丈夫、と何度も叫んでいたのを覚えています。
目の前の図書館からは、泣きながら飛び出してきた学生さんや、利用客の人が沢山出てきた。

自分は震災後ラジオで流れていて初めて元気付けられた曲は、
はっぱ隊のYATTAでした。
「生きているからラッキーだ」って本当にそうだよな、と思った。涙が止まらなかった。
明日はワンダホー、に勇気を貰えた。
それを聴いてから暫くは、心が不安で押しつぶされそうになると、「水飲んだらうめ〜!」と言って家族に「YATTAー!」と返して貰ったり、自分が返したり。
ネットが繋がるようになった頃YoutubeでPV観て、笑いながら泣いてた。

87 :
私は震災からまだ日が浅い頃は、バラエティー番組が再開されても、すぐには楽しむ気持ちになれなくて、音楽番組をよく見て元気をもらっていました。

特に印象深かった歌は、フジテレビのチャリティー特番みたいなやつで森山直太朗さんがアカペラで歌った「さくら」です。ものすごく力を感じました。

88 :

ACの「あいさつの魔法」を聞くと今でも当時を思い出して悲しくなる。

89 :
停電にならなかった地域の人達は、津波が民家道路車を飲み込む映像に人々が流されるところも映り、なんという事態がおこったんだ…
と、絶句したらしい
停電で見てないあたしはそんな惨事がおころうとする危機感もなかった

90 :
鋭意、遠距離恋愛中なのでaveの曲は効きました

あのACの曲、言われるまで忘れてたけど、思い出したら原発爆発の瞬間とかヘリでの水投下とかフラッシュバックして気分悪くなった
軽くトラウマ化してるかも

91 :
当日のラジオで浜に数百人の遺体が〜ってのを聞いて想像しただけでガクブルだったな。

92 :
津波は到達しなかった方面の若林区在住です

地震の瞬間はコンビニにいて、携帯から(その後何度も聴くことになる)緊急地震速報の
音が鳴るのと、ほぼ同時にコンビニの窓が「カタカタカタ」と鳴ったのがはっきり記憶に残ってます
で、「あ、地震かな」と思って外に出た瞬間に大きいのがグラグラっと…

自分で体験した大地震では、'83年の日本海中部地震に弘前市で、'94年の三陸はるか沖地震に
八戸市で遭遇してるのですが、いずれも地震のときは屋内にいたので、一応「外」で揺れを
体験したのは初めてでした
この時は、バス待ちの時間つぶしにコンビニにいたので自宅からそんなに離れておらず、
とにかく家に戻ろうと、揺れに足を取られながら必死で歩いてました

うちの中は家具などがひっくり返って無惨な状態になってましたが、とりあえず家族に人的被害はなし
すぐ近くに住んでいた親族も無事でした

とは言え、ひっきりなしに来る余震に落ちつかず、片付けも進まない中、周囲が暗くなってきたのに
停電は回復せず…(結局、停電は4日くらい続きました)
震災当日の夜、自宅の布団で寝ることができたのだから、他の被災した方々に比べたら贅沢なんて
ものじゃなかったと思いますが、この夜はいくら布団をかぶっても体が温まらない感じで、余震も
激しいし、ほとんど眠れなかったことは覚えています

確かこの時点では、津波で大惨事が起きていることはわかりませんでした
携帯は警報や防災通知メールであっと言う間に電池切れになり、普段使っていないラジオは、この日は
とても探し出せる状態ではなかったし…

93 :
で、翌日からは、とにかく片付け三昧と食糧確保のために走り回っていました
10時開店予定のスーパーに8時ごろから並んだり(それでも買えるものは一家族様10点限定、とかでした)

うちはアパートで、ガスはプロパン方式、断水はなかったので、なんとか震災翌日から煮炊きは
できてました
近所の親族のところが都市ガスだったので1ヶ月ガスが使えず、そっちの食事も差し入れしたりして
いたので、とにかく震災からしばらくの間、食糧問題が差し迫った悩みで…あと、ガスは使えては
いるけれどボンベ内の残量がわからないのが不安で仕方がなかったです
この時期は、つくづく反射式ストーブの有り難みを実感してました(引っ越しのたびに処分を検討しては
保留して押し入れに押し込んでいたのですが、ほんとに処分しなくてよかった)

津波その他、各所の被害については、ラジオではやはり概要くらいしかわからず、停電が回復して、
テレビを見られるようになってからようやく、尋常ではないことが実感できた、という感じです
「ぽぽぽーん」を始めとするACのアレは、1日もしないうちに聴くのも目にするのも苦痛な状態に
なったので、かなり長い間、NHK以外のチャンネルは見てなかったと思います
あと、ニュースなどでは「若林区」全体が津波で壊滅した、的な報道が多かったので、県外の知人からは
かなり安否を心配するメールや電話が来ました
バイパスの内側までは津波は来なかった、という話をしてもいまひとつピンとこなかったようで…

これは心情的なものですが、最初の震災は突然のことだったので、ショックを受けつつもわりと冷静に
対応できていたような気がします
どっちかというと、4月に起きた大きな余震の方で、気持ち的に落ち込んだ感じが…
またあのクラスの余震が来るのでは、という恐怖感とか、その他もろもろ

94 :
地震当日は子供達二人を迎えに行くのが精一杯@青葉区。
下の子は15分程度で到着出来たからクラスでも一番乗りで引き渡してもらえた。
帰り道の生協が屋外販売してたので電池や水、菓子パン等を買い込んだ。
ところが上の子を迎えに行くバイパスが大渋滞で地割れもしてるし結局3時間30分もかかった。
カーラジオからは大津波が沿岸を襲うニュースが続々入り、息子の学校も宮城野区だったので
生きた心地がしなかった。20時を過ぎてやっと引き渡しが済み、幸いにも学校までは津波は
到達してなかったのでとにかく急いでその場を離れた。
帰りはバイパスの下り線はスイスイで自宅までは20分足らずで到着。家に入って散乱した食器や
本が危険なのでその夜は毛布を持ち込んで車中泊。死ぬ程寒かったし余震も頻発して絶望感が
ひしひしと感じられた。その夜の満天の星空は一生忘れないと思う。
深夜遅くダンナが帰宅して窓をゴンゴン叩かれたのには腰抜かした。

95 :
@ひたちなか市
職場にいた。
揺れが長いのでプロパンガスの元栓を閉めようと外へ出たところで地響きがして大きな揺れへと変わった。
漫画や映画で見るように地面が裂けるのでは、と恐怖でいっぱいだった。

周りの家々の瓦が崩れるのが見え、職場に目をやると砂埃が立ち上がっている。
職場は全壊。あの光景は忘れられない。復旧は無理とのことで、結局二ヶ月半無職状態に。

一番苦労したのは断水で、配給の水をもらう列に並ぶのが日課になり、
10日目にようやく通水して入った自宅の風呂の温かさに涙が出そうになったよ。

停電も長かったので、津波や原発事故の映像を見たのも震災後かなり経ってからだった。

96 :
いわき在住ですが
被害もそこまでひどくもなくて、とりあえず普通に生活できていますが
母の言った 

なんで福島ばかりこんな目に合わなければならないの

と言う言葉がずっと頭に残っています

97 :
まいね

98 :
>>42
ググってみると目標は県立病院、30m手前まで迫った公園は北小の近くでしょうか?
(違っていたらごめんなさい)

>>43-44
去年の悲しい日が誕生日、、、今年は穏やかな気持ちで迎えてくださいませ。
「2011年は平成23年、その時自分は○○才」、が焼き付いてしまいました。

>>45
オラも連絡とれない沿岸の姉家族がいて、、、
すぐに行って何か手伝いたい気持ちを抑えたのが、約2週間の交通規制(通行止め)でした。

>>47
立体駐車場からの脱出が目に浮かびます。
信号の消えた交差点渡るのが怖かったですね。

>>49
やめろと止めたけれど、、、どうせ貸すなら油の心配ない車を、、、
社長さん自分を責めないでね。

99 :
連投失礼。

>>97
その種のレスは
東北大震災スレ http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1311125296/l50
原発スレ http://tohoku.machi.to/bbs/read.cgi/touhoku/1323435271/3
がいいんじゃないか?

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