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2012年2月日本近代史44: 爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4 (460)
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爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4
- 1 :10/09/12 〜 最終レス :12/02/04
- 良スレだったので復活させました
- 2 :
- 2げと?
- 3 :
- 広島城の駐屯地に兵隊として勤務してたじいちゃんの話。
昭和20年6月下旬に山で炭を焼いてこいとの命令を受けて、
10名程の隊員と馬一頭で県北の吉田の山に行った。
着いた山の中は宿舎なんぞあるわけもなく、雨風をしのげるものもない。
まずは木を切り倒して、それを元に簡易宿舎を造ることから始めたそうな。
で8月6日の朝。ようやく炭ができて確認のため、
窯をフタをしていた土を取り除く作業中に遠くで爆発による雲が上がったそうだ。
その時は三次の飛行場の燃料タンクがやられたのだと思ったそうだ。
10時に広島城の本部と定例の無線通信を試みたが応答なし。
10時の次は15時だ。しかし応答がない。
なにかおかしいということで隊長が馬に乗って下山し、様子を見てくることになった。
2日後、隊長が戻って来た。
全員下山して本部に戻ることになった。鉄道は運行していたそうだ。
民間人は広島駅には降りられず、一駅前の矢賀で降ろされたらしい。
じいちゃんたちは軍属なので広島駅へ着いた。それが8月9日の晩のこと。
建物がなくなってるので駅から宇品の海が見える状態だったそうだ。
そこから徒歩で浅野庭園の脇を通り、本部に戻った。
その場には軍属がいたそうだ。原爆が落ちた時はたまたま出張中であり、九死に一生を得たようでした。
その日はそこに泊まることになったが建物は吹き飛んで仕舞っているので野宿したそうだ。
転がっていた便所の踏み板を枕にして寝たそうだ。
翌朝から片付け作業開始。辺りを歩いているとまだ建っている建物(鉄筋コンクリ?)があり、
中を覗くと部屋の中央に人骨の山ができていたそうだ。
それらは日光を浴びキラキラ光っていたらしい。
熱線を避けるため、窓から離れた部屋中央に人々が集まってきて亡くなったのではないかと
じいちゃんは推測している。
広島城の堀にも死体が浮かんでおり、回収して福屋の一階に運んだとのこと。
またある時は、アズキを見つけたこともあった。
上部は黒焦げになっていたが、すくってみると下の方は問題なさそうだったので
赤飯を作って食ったらしい(現在の感覚からすると考えられないことだが)。でそのおかげで下痢が治ったらしい。
そんなこんなで3週間程広島で勤務した後、命令で岡山に転勤になったとのこと。
その時に検査を受けたら白血球の数が通常の半分にまで減っていたそうだ。
じいちゃんは今も存命です。ガンにも白血病にもなったことがないです。
ただしかなりの数の同僚が体調を崩したり病気で早くに亡くなっているそうです。
直撃を避けられたこと、3週間程で転勤することができたのが大きいと言ってたおります。
- 4 :
- もうログは戻らないのか
- 5 :
- 豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ〜また食いたくなってきた〜。
明日も食うけん!!
- 6 :
- スレ違いかもしれませんが、ちくとお聞きしたいことがあるので、どなたかご存じならお教え下さい。
親戚の家で見た先祖の古写真の中に、椅子に座った人物が写っている写真があり(スタジオで撮影したもの)
その人が腹部のあたりで、床に立てた刀の柄しきものを握ってました。
明治31年に撮影したと書いてあったんですが、そのころ日本刀をこれ見よがしに持って撮影することは一般的だったんでしょうか。
もしくは、写真撮影用の椅子には、肘掛けの部分に取っ手みたいなものがついてたなんて話はないですよね。
- 7 :
- 軍人、特に将校なら軍刀を持って写真撮影するのは普通ですね。
あと退役軍人が刀を持って撮影するのも普通。それと警察官も帯刀してました。
廃刀令というのは、刀を腰に差して歩いたり、刀を戸外で抜くのを禁止したのであって
もちろん所有は禁止していません。写真撮影の時に先祖伝来の刀を持って
写っても別に違法じゃないし、ありえる事ですよ。
都会では余り一般的な習慣ではないですが、地方の士族なら十分あるでしょうね。
うちにも5振りの刀があったそうですが、戦争中の金属供出で出してしまいました
- 8 :
- >>7
ありがとうございます!
軍人や警官ではないですが、武士の次男坊が安政年間に商家に養子に入ったそうです。ただ、商人になったのに武家の長女を娶ったりと
何かしら士族に対する未練があったのかもしれません。さすがに刀は道中差しでしょうが。ちなみに群馬ですので、地方ですね。
ご回答ありがとうございました。
- 9 :
- 憲兵の文句はよく聞きました。
もう他界して15年になりますが、
私が幼い頃、おやつの時間にお菓子を食べ、残りをしまおうとすると、
「昔は憲兵に見つからないようにいろんなとこに隠したねぇ」
と話してました。
当時は何の事かよく解りませんでした。
今でもちと半信半疑な面はありますが、
それぐらい煙たい存在だったみたいです。
ちなみに風呂では軍歌を歌いまくってました(笑)
兵隊さんのおかげです〜♪
月月火水木金金〜♪
- 10 :
- 爺さんが「憲兵がいなくなっただけでも、日本は戦争に負けて良かった」と言ってたなあ。
道歩いている普通の人に、憲兵がインネン付けてボコボコにぶん殴っても
殴られた人も周囲も何も出来ない、魔王のような存在だったらしい。
戦後米軍がやって来て憲兵の悪行を訴えても、米軍は米軍の感覚で
「警察があるのに、MPがなぜそんな事するのか?」という感じでピンと来てなかったらしく、
国内の憲兵で罰せられた人はほぼ皆無だったってさ。
「戦場のメリークリスマス」みたいに国外にいた憲兵は戦犯でガンガン処刑されたのに
日本人を迫害した憲兵は無罪って、連合軍にすれば当然なんだろうけど、どうなんだろうね。
- 11 :
- 馬鹿な質問で申し訳ないですが憲兵と警察、憲兵と普通の兵隊はどう違うんですか
憲兵といわれてもピンとこないもので…
- 12 :
- 憲兵ってのは軍隊の警察だ、ミリタリーポリスだ、軍事所直轄だ。またその警察ん中にもお巡りどもを見張るやつらがいる。
閑話だが戦前の特高てのは特別高等警察とかなんとかいって国民の思想統制と規律維持に大活躍した。
とりわけ坂口安吾だの織田作之助だの無頼派などは相当怖かったろうと思う。拷問、詰問、えん罪ゴリ押しなんざヤツらの最も得意とするところだ。
ちなみに明治のそのへんの普通の巡査だって「オイコラ」だの「貴様」だのと四民に声がけするのは茶飯事、問答無用の居丈高で所謂権力の犬ってやつだ。
「止まりなさい」「左に寄せてください」なんて現代のお巡りが丁寧になったのは至極最近の話しでそういう伝統は平成の未だに根強いと思うぞ。
- 13 :
- >>12
人を呼び止める「おい」、相手を指して言う「貴様」は別に見下して高圧的に言った言葉では無く、
現代で言う「ちょっと」や「すいません」、「あなた」や「おたく」に対応する言葉。
- 14 :
- 現代のお巡りが同様ならどう思うか?
- 15 :
- 当時と同じく、日常的な男性言葉として使われてるならどうも思わないだろう。
- 16 :
- 警察傀儡さん、擁護よして。
- 17 :
- 擁護もしないし、不当に貶めもしてない。
- 18 :
- 当時の普遍的な呼称だったって?まあおどれがそう言うならそうかもな。
明治に生きて、後世に伝える何かを持ってるなら認めますつか擁護します。
警察内の言い訳言い逃れ的な言説なら容赦はしません。
どうよ、お巡りさん。
- 19 :
- 安易に○○認定するのはやめてもらえますか。
自分のレスに対して反論的なレスがあると「おどれ」とか.....
お国が知れますよ。
- 20 :
- てか昔の警官は元侍で町人に対する対応が抜けきらないのは仕方ないっちゃ仕方ないと思うけどね
- 21 :
- 「オイコラ」と同様に呼んでみた多だけだが。
- 22 :
- >>21
一般的に使われてない現代では、それは失礼というもの。
貴様と言う言葉は「おどれ(おのれの訛り)」と同じく、昔は自分と対等かそれに近いと認めた相手に使われた。
現代の感覚で当時の言葉やその使い方をみるとおかしなことになる。
- 23 :
- 放棄
- 24 :
- 自分と同等か目下に対して使う何々君の君は昔は丁寧語だったもんね。
国会でよく見られる「○○く〜ん」はその名残
- 25 :
- 昭和20年の敗戦から、昭和25年の朝鮮戦争までの食料不足の酷さはよく聞いたなあ
食料事情は戦争中より戦後の方が悪化したって。
金があっても米が買えなくて、餓死者も出ていたんだから
今の北朝鮮みたいな感じなんだろうな
- 26 :
- 餓死者が何十万〜何万人出ていたなんて二十代の自分には信じられない
戦前生まれの人から見ても戦前の日本と今の日本が同じ国とは思えないんじゃないかな
それに戦後しばらくは遊郭とかまだあったんだよなぁ
- 27 :
- 戦前もそれなりに豊かだったのにな。あの戦争のせいで高度成長期が20年は遅れた。
- 28 :
- 戦前は飢饉の時とか大変みたいだったけど貧困家庭と金持ち家庭の格差は現在と変わらんし、今より戦前の方がゆったりした部分もあったと思う。
急激な人口増加は江戸以降だが戦前は今ほど人口が増えすぎでもなく、今でいう薬中の太宰みたいなハチャメチャな作家がいたりね。
時間の流れも今よりゆったりしていそうだ。
戦前暗黒論者は人権がどうこう言うけど、障害者差別とか差別はなくならず今もあるのに
表面だけ差別用語云々の言葉狩りとか、過剰に人権人権いっている現代の方が窮屈な部分がある
- 29 :
- つい最近までレストランでもバスでも白人専用黒人専用と席が分かれてた国が
世界の盟主きどりだもんな
- 30 :
- 今回の中国人船長の釈放で、日本の外交はペリーの時代に逆戻りだな。
「恫喝されたら譲歩する」って、徳川幕府の末期じゃないか。
ペリーに恫喝されて屈した日本が、やっと外交的独立を果たすまで
日露戦争勝利まで50年以上掛かったけど、
これからの日本は堕ちていく一方だな。この国はもうダメだわ。
- 31 :
- 大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった
のかは分からない
特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても
まったく取り合わなかったとか
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん
- 32 :
- うちの爺さんの終戦時は鹿児島の基地で特攻隊としてスタンバイ中
玉音放送聞いて、飛行停止命令が出たけど、命令無視して発進して
桜島に飛び込んだり、海に突っ込んだりするのが相次いだが、
隊長は止めなかったってさ。止めなかった隊長は後に激しく批判されたけど、
あの時の状況じゃ無理もなかった、後の価値観で判断するのは無理だ、
大勢の仲間が死んでいったのに、おめおめと生き残れるか、という気持で、
俺も自決したかった、と言ってた。
爺さんがようやく前向きな気持になって生きていく覚悟がついて
大学に復学したのは昭和21年4月だから、半年以上も悶々としてた事になる
- 33 :
- >>30ダメだからどうするの君は。幕末みたいに抵抗しますか?
いや、しないね。長いものに巻かれ、何気なく過ごすだろうよ。
- 34 :
- あきれはてたやつばら、銃後のゲキ犬の孫31は特に。
特高警察の拷問はハンパネ。鉛筆、毛抜き、フフフモロモロ。
モマエのジジイはヤッテタンダヨ、ケツカル拷問アイアンMEIDEN。
32は陸軍航空隊か?
本土防衛というむだなあがきによくぞ挺身されたと思う。
陸軍省はたいへんなところなのでご苦労察します。
ちなみに支那機関銃予科の自転車屋のおじさんはあんまし好きじゃなかったが、大工のおじさんはとても好き。
- 35 :
- 婆さんが初めて爺さんの顔を生で見たのは、結婚式の当日。
爺さん京城で教師していたからね。見合いも何もなし。京城に帰るのが新婚旅行。
でも当時田舎ではそれが普通で、親が決めた人と結婚するものだと思っていた。
覚悟はしていたが、結婚生活は嫌で嫌で仕方なかった、とこぼしていた。
爺さんは真面目で優しい人だったけど、見た目が悪かったから
新妻から嫌がられるのも仕方ない。婆ちゃんはすらっとした美人だったし。
- 36 :
- うちの祖母は、祭の人混みを歩いていたら、祖父に見初められて、知らないうちに結婚が決まってたそうな。
若い頃は『○○小町』と云われたほど地元では美人で有名だったらしい。
私が生まれた時は、祖父は他所に女を囲い、家に来るのは盆と正月くらい。
二つの家庭を持ってたらしい。
小さい頃は、どの家もじいちゃんは他所に住んでるもんだと思ってた。
- 37 :
- うちの爺さんは戦争末期に呉の海軍工厰にいて、原爆のピカとキノコ雲を見て
慌てて広島に駆けつけて、原爆投下当日の地獄絵を見ている。
だけど余りの悲惨さに「とても言葉で表現出来ない」と言ってたなあ。
あれだけ凄まじい被害だと、現実問題として救援に行っても手の付けようもないしね。
関東だから、被爆手帳持っている人間は珍しくて「原爆投下直後の話を聞かせてくれ」と
各種団体から講演の誘いがあったけど「あの状況は言葉で表せない」と全部断ってた。
投下時に広島市内にいて幸運にも助かった方は、状況を話せるみたいだけど
爺さんのように近くから駆けつけて、客観的に被爆現場を見てしまった人は
その後の人生で、ずっと負い目を感じて生きていたみたいです。
本人のせいじゃないけど、感情の整理はなかなかつかないでしょうね。
- 38 :
- >>37
見たことも想像したことも無いことを客観的に見てしまったら…
現実逃避したくもなるし、表現の仕様がないんでしょうね。
後世になって知識として教えられた自分たちには、その気持ちは永遠に解らないと思います。
原爆に限らず、遠い過去の日本であった行為も、その悲惨さから正しく伝えられなかったことはあったかもしれませんね。
- 39 :
- NHKの証言番組における、大村崑の話が秀逸だった。
戦地に赴く○○さんを、駅からみんなで送り出した後で、玉音放送が始まる。
戦争が終わった事より何より、○○さん、いったい、どこに戦争しにいったんだ!?
って話題で、ご近所は持ちきり。
「あまりにも暗い話だから」って、ことで口を噤む老人たちがいるように、
楽しかったことが、不敬だし、不謹慎で話せないって老人も多いと思う。
それがもったいない。
笑える話は、もっとっもっとあってもいいと思う。
- 40 :
- >>34
うんだからね、2chでしか爺さんのことは話せない
爺さんが特高にいたのは一時期でその後は別の部署に配属されてたようだ
敗戦の頃には警視庁を辞職し東京市議会議員となっていたが
過去に特高にいたことのある人も含めみんな公職追放となったんで辞任
その後は何をやっても巧くいかず失意のうちに人生を終えた
特高の弾圧の犠牲になった人に較べれば温い挫折かもしれないけどね
これだけじゃ何なので友人から聞いた話を
東京近郊の某所で戦時中強制労働の朝鮮人を連行して働かせていたが
狭い貨車につめこめるだけつめこんで連行したせいで酸欠になり
某所に汽車がついた時には殆どの朝鮮人が死んでいたそうだ
発覚をおそれた某所の村人たちは死体を村はずれに埋めそこが小山になって
いたそうで、友人およびその学友達は爺さん世代からその話を聞いていた
で、学校の郷土史の自由研究課題でその事件を調べて取り上げようとしたら
話を聞きに行った地元の有力者の年寄りから「そんな地元の恥を広めるな」
と一喝され止めさせられたそうだよ
今でもその事件は、地元じゃ密やかに語り継がれてるけど
地域一丸となって隠匿してるため決して全国区で表には出てこないらしい
- 41 :
- 爺ちゃんも戦争が終わった時は、大日本帝国の終焉という感慨より
「今夜から空襲がなくなる」「戦地の兄が生きて帰って来る」
「家族が皆無事だった」みたいな安堵感の方が大きかったと言ってたなあ。
8月15日の晩は灯火管制がなくなって、どこの家も煌煌と明かりを点けた
久々の明るい夜で、戦争が終わった喜びを実感したと言ってた。
- 42 :
- じいちゃんばあちゃんじゃなく、両親のお話。
親父は62歳、お袋は65歳。
言うまでもなく親父は戦後生まれなんだが、お袋は終戦の年の1月生まれ。
ある晩、戦争の話になった時にお袋が「空襲は怖かった」と発言。
親父:「生まれて半年の赤ん坊が分かるわけあるか!」
お袋:「覚えてるもんはしょうがないでしょ!」
こういったやり取りが5分ほど続いた後に出た結論が『離婚』
バカじゃないの?って思いながら見てました。
- 43 :
- >41
そこらへんは、よく聞くね。
まず、三年八ヶ月続いた灯火管制が解除!(昭和二十年、都心部では毎日のように空襲警報)
お米がいよいよ腹一杯食べられる!(食料難は戦地の兵隊さんに送っていたというお題目だった)
お互いに目を光らせていた隣組の連中。
間借りの窮屈さに背を丸めていた空襲被災者。
日を追って少なく、まずくなっていた配給なんかも、
もう終わると思ったんじゃないかな?
- 44 :
- 祖母は小学校時代飛行場で特攻隊の出撃を見送ったことがあるそうだ
笑顔だったり強ばってたり常人の普通の表情と大して変わらないんだけど
もうこの世の者じゃないような、なんとも言えない顔つきをしてたそうだ
告別式の棺桶の中の死人のほほえみみたいだったとも・・・・
彼らがこの世の地面と永遠に縁が切れる離陸の瞬間は、未だに夢に見るらしい
あと、飛行機のペンキが剥げかけてたりマダラだったりするのが可哀想で
せめて死に際なんだから真っさらな綺麗な飛行機で行かせてあげればいいのにと言ってた
- 45 :
- うちの爺さんは大正9年生まれ仙台に住んでたけど
長男だったため赤紙は最初来なかったッと言ってた。
その後長男でも徴兵されると聞いてずっと仮病をしてたって笑いながら言っていた。
ただ戦争中は爆弾がいつ落ちてくるか解らないけ怖さがあったらしいけど、
どこにいても爆弾が落ちてきたら終わりと半分開き直っていたらしい。
戦争が終わり仙台の町もひどいことになっていたらしいけど
みんなで集まって「地ならしに行くぞ」って大人数で道を固めに歩いてたらしい。
もう戦争が終わった喜びでみんな再興に必死になっていたと言っていた。
結構虚言癖がある爺さんでもう亡くなったから真偽はわからないんだけど
その話を聞いていた婆さんがいつも涙目になっていたので本当に辛い過去なんだと
子供心に思った、その後は仕事を始めてが忙しくなってからは県外に住むようになって
あんまり話が出来なかった、もっと話していればよかったと悔やまれる・・。
- 46 :
- フンドシっていつ頃まで一般的な下着だったんだろう。
戦前でも昭和一桁生まれ以降は生まれた時からフンドシではなくに近いものを履いてそうなイメージ。
大正生まれの爺様はとっくに死んでしまって聞く人がいないw
- 47 :
- スレチだけど、高3の時に観た神風特攻隊の演劇が
なんか忘れられない 何てタイトルだったか・・・
- 48 :
- >46
洋装が進んで次第に廃れたんだろう。
男の洋装は早かったから、都市部では大正の頃にはほとんど洋装だったんじゃねーかな。
女性の下着は、有名な白木屋の火事からスタート。
ちなみに、女が和装という時代は、戦後しばらくまで。
髪結いさんが絶滅して、銘仙もジエンド。
- 49 :
- >>48
大正だと都市の勤め人は洋装が多そうだな
でも下着の洋装化は遅れていそう
ドラマなんかだと大正どころか戦時中の兵隊がフンドシをつけていたりするけど実際のところどうなのか気になる
- 50 :
- 昭和十何年までうちの町では洋服と着物は折半ぐらいだったらしい
また家の作りが農家で、土間の横に五右衛門風呂があり
年頃の娘が入っていても、近所の人は土間で世間話を平気でしていて
娘も恥ずかしがる素振りも無かったそうな
自分が子供のころに当時80歳くらいの老婆に駄菓子屋で聞いた話
- 51 :
- 明治時代のフォルムとかだと、男は背広に帽子。
女はお召し物(よそ行きの着物)。なんてパターンが多い。
男が黒い日傘とかを差してる。
戦前、女性のあこがれの職だった、タイピスト、電話交換士、ガソリンガールも洋装だろう。
着物の芸者から、洋装のカフエー女給が人気を奪っていったのも時流だろうね。
戦後のトップモードは、アメリカンスタイルのパンパン・ガール。
国民服モンペばかりの中で、彼女たちのスタイル・ファッションは、
すごい目立ってたハズ。
- 52 :
- >>40
つっこみどころ満載
>>48
>白木屋の火事からスタート
正確ではない。そもそもあの有名な話は都市伝説みたいなもん
- 53 :
- >52
>正確ではない。そもそもあの有名な話は都市伝説みたいなもん
じゃあ、正確なことろをkwsk
- 54 :
- 明治30年生まれの母方の祖父は典型的な大正のモボ
旧制中学校時代から横濱のダンスホールに通い詰め
卒業後は横濱のダンスホールの店長になっていた。
昭和に入って、時代がきな臭くなってきてからは
海軍や外務省のお偉いさんに取り入って営業し続けてたが
太平洋戦争が始まると爺さんも徴兵され、
本土で経理をやっていた。
終戦後、多少は英語が出来たのと、ダンスが上手かったので
進駐軍相手のダンスホールの支配人をやってた。
その後、ナイトクラブのオーナー→破産→ダンス教室の講師として
横濱では有名だった(らしいw)
- 55 :
- 要するに、大正のモボ→昔のリア充なわけだがw
祖父は平成4年に95歳で死んだので、けっこう色んな話を聞けた。
ただ、基本的にはチャランポランで適当な人だったので
かなりイイカゲンなものの見方だったのは許してくれ。
祖父曰く「大正時代は最高に面白かった」と、よく大正時代の昔話をしてくれた。
「ハマ(横濱)は海軍の町で、陸軍の連中は小さくなって歩いてた」
「海軍はモノホンのブランデーを飲んでたが、陸軍は電気ブランが好きな奴が多かった」
「海軍の連中は牛肉が好きで、陸軍は豚や鶏が好き」
「海軍の連中はカードゲームが好きだが、陸軍は競馬が好き」
※以上、かなり祖父の偏見が入ってると思われw
※ちなみに祖父は陸軍軍人のことをタゴ(タゴサク)と呼んでたw
「大正の頃、ブラウニン(ブローニング?)のピストルが五十円ぐらいで買えた」
「あの頃の店の売上げは多い時は1日二百円あったんで、ギャングが怖くて一丁買った」
「1回も撃たないうちに、カードで巻き上げられたんで悔しかった」
「関東大震災の時は家で寝てたんで助かったが、店は完全に潰れてた」
「震災っていうと東京の被害ばかり言われるが、ハマも大変だった」
「銀行に行って再建資金を借りようとしたが、飲食店は後回しにされた」
「馴染みの海軍のお偉いさんが一本電話してくれたら、すぐに貸してくれた」
「震災の後は、えらい儲かったんで、すぐに借金を返せた」
「だが、電力戦争(?)のせいで荒っぽい連中が増えて、ハマが物騒になった」
「鶴見の喧嘩(?)は凄かった。ハマの者はみんな行ったな」
※今も電力戦争と鶴見の喧嘩の意味がわからない。誰か教えてくれ。
- 56 :
- これのことかな.
http://ja.wikipedia.org/wiki/鶴見騒擾事件
- 57 :
- おお、謎が解けるのは、外野から見てても気持ちいいな。
大正時代に出来事が、あれほど詳しく出てるってのは、そうとうデカイ事件だったてことだな。
- 58 :
- >>56
>>55です。おかげで長年の謎が解けました
いやぁ、こんな事件があったんですね
ありがとうございます
それにしても、祖父はいつも大正を懐かしんでましたね
死ぬちょっと前、戦争で昔の写真はみんな焼けてしまったのを悔やんでました
- 59 :
- >>46
1970年頃、
「お風呂屋さんに、フンドシしたおじいさんがいたよ」
と母親にわざわざ報告していた覚えがあるので、
40年前には、もうかなり珍しいものだったはず
(漫画『いなかっぺ大将』のおかげで、フンドシ自体の存在は知っていた)
- 60 :
- 戦前までは日本の男性はフンドシが当たり前だった。
戦後まもなく非日本化の社会情勢の中でズロースの大ブームが来て、
老若男女がズロースを履くようになり、ズロース時代が60年代前半頃まで続く。
それから男はトランクスかブリーフ、女性はパンティを履くようになった。
今でも病院に行けばフンドシが残ってる。看護士が取ったりするのに
フンドシが一番便利。病院以外では水着のフンドシが最後まで残ってたな。
1980年代まで、下町のプールにけば古式泳法のフンドシ爺さんが
1人ぐらいいたもんだ。
- 61 :
- 成人男性は徴兵により入隊した軍隊から越中褌が支給されて使用を義務付けられたことから成人男性の下着は越中褌となったが、入隊前の若者は猿股かランニングのようなキャラコ地の下着を着用していた。
戦後もブリーフが登場するまでの間は猿股か紐からゴムに代わったトランクスが男性下着の中心となっていた。
とは、wikiのブリーフの項から。
いろいろ、面白い。
- 62 :
- うちの隣の家が小野葉一刀流の師範で、なんでも戦時中、介錯をやったことがあるらしい。
首を落とすとき、雑巾をはたいたみたいな「パンっ」って音がするそうだ
- 63 :
- >>62
同じ意味だと思うけれど、祖父は
「濡れた手ぬぐいを干す時、一気に伸ばした時の音」
といってた。
だから、母が洗濯後にパンッ!と伸ばすのを
すごく嫌がってたな
- 64 :
- >>63
それは鉄砲の音だ。
- 65 :
- もしくはマッハの空気の壁を破る音か
- 66 :
- >64
一言で、言い捨てる書き込みは、よして欲しい。
せっかく書いてくれたひとに失礼だ。
- 67 :
- >66
激しく同意。
>63の話はたまに聞くことがある、だから正しいとは言い切れ無いのは当たり前だが。
まあ、切る方も切られる方も心が定まっての稀なケースかもしれないとは思う。
ただ、否定したけりゃそれなりの伝聞くらい書けよナ。
- 68 :
- みんな長生きした爺さんに恵まれてるんだな。
三重県民である俺の父方の爺さんはそうじゃなかった。
祖父は大正15年生まれ。家はかつては地主だった。
しかし、大正後期〜昭和初期にほとんどの土地を手放してしまった。(理由ははっきりしない)
祖父の父と母は昭和10年代前半に病死。(30代だったと思う)
そして大東亜戦争が始まって間もないころ、祖父の祖父も70歳ぐらいで死去。
祖父は10代半ばだったので、親戚を頼って近くの村に引っ越した。
その後海軍に入り、呉に配属され、そこで敗戦を迎えた。
戦後はダンプカーの運転手をして、昭和22年に村の庄屋の家系の長女と結婚。
翌年には男子(俺の父)ができた。
しかし昭和26年に結核で25歳の若さで死去。家には写真すら残っていない。
祖母は今も存命です。
- 69 :
- 婆ちゃんの実家は、婆ちゃんが嫁入りした昭和10年代としては
金持の方だったんだが、田舎だから恐ろしくケチで、
嫁入り道具を何も持たせてくれないのは、まあ我慢できるとして、
家から嫁ぎ先までのタクシー代までケチってタクシー呼んでくれなくて、
花嫁衣装でどうしたら良いのか途方に暮れたと言っていた。
婆ちゃんの親はバスと汽車でみんなで行くつもりだったらしい。
見かねた既に嫁いでる姉さんがタクシー呼んで金払ってくれて、
嫁ぎ先までやっと来れたけど、腹が立つより情けなかった、と言ってた。
「家や国のためには、娘や次男三男が犠牲になるのは当たり前」の時代だったから
次女なんてゴミ同然で、キツかったとしみじみ言ってたなあ。
- 70 :
- 親戚の叔母さん(80歳)が結婚した時も
あっさり「じゃ〜ね」って感じだったらしいよ。
戦後間もない頃。何も持たせてくれなかったって。
長女だから兄弟(8人)の面倒というか
下3人は自分が育てたみたいなもんだったのにぃ
って思ったそうな。
下にいくにつれ手厚くなったらしいが。
戦後、自転車屋家業が当たって羽振りが良くなった
という背景があるかららしいけど。
- 71 :
- 将校は率先して慰安所へ行き、兵にも是をすすめ、慰安所は公用と定められた。
心ある兵は慰安所の内容を知って、軍当局を冷笑して居った位である。
然るに慰安所へ行けぬ位の兵は気違いだと罵った将校もあった。
要之戦場生活は風景だから気が荒くなる、是を抑える為には兵に女を抱かせるより善い策はないとしたのは尤もである。
然し、日本軍人が戦争に来て大きな顔をして慰安所へ暇さえあれば通う姿を見て、支那人は笑って居った。
上海へ上陸した其の日に、何処へ行ったら女が買えるかと在留日本人に聞くと言うので、
日本の兵隊さんは戦争に来たのじゃあないのかと反問しているのを聞いた。
- 72 :
- 前のスレにも書いたが、うちの婆さんは群馬のど田舎の出身で
昭和19年頃から周囲の家々には疎開者がガンガン来るようになった。
東京からきた自分と同年代の女の子は垢抜けていて綺麗で、
山猿のような自分達とは余りに違うのでびっくりした。
そして彼女達は婆ちゃんが見た事もないゴム鞠を持っていて、初めてゴム鞠を
借りて遊んだ日は興奮してしまって、夜遅くまで遊んで親に酷く叱られた。
子供の目から見ると疎開者が多い他の家が楽しそうで羨ましくて
「なぜうちには人が来ねえだ?」と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」と
言われたが、子供だからなぜ我が家だけ疎開者が来ないのかよく分からなかった。
戦争末期は疎開生徒で学校はパンパンで1クラス70人とかになっていたが
終戦から櫛抜けのようにどんどん友達がいなくなっていった。
東京に戻って行った子らはすぐに音信不通になってしまい、同級会にも呼べなくて悲しい。
子供の目から見ると東京から来た子らはカッコ良く見えたが、
彼女らにとっては慣れない田舎で辛い体験も多かったのかもしれない。
- 73 :
- >72
都会の女の子たちは集団疎開じゃなくて、縁故疎開ってことっすね。
じゃあ、彼女たちも別々のことからきてるから、
華やかに見えても、友達がいなくて、寂しかったのかもな。
- 74 :
- 爺さん新潟だけど食料事情が悪化するとリュックに食料積んで東京の親戚によく運んだと言ってた。
東京の叔父宅に行くと叔父さんが「よく来た」と言って、銀座の資生堂パーラーに連れて行ってくれて
そこで生まれて初めてのホットケーキを食べて「こんなうまい物が世の中にあるのか!」
「ほっぺたが落ちる!」と感激しまくった、という話を何度も聞いた。
- 75 :
- 爺さんや
婆さんや
爺さんや
婆さんや
爺さんや
婆さんや
- 76 :
- >>73
当時の認識として、縁故疎開できる子は恵まれていた(勿論例外もある)。
親戚の家だからその家の人と同じ物が食えるし、縁のある土地というのは大きい。
「○○さんの親戚」なら、子供でもその土地にとけ込みやすい。
辛くても甘えられるおじさんやおばさんがいる。
集団疎開は辛い思いをした人が多い。食料は配給分だけでいつもひもじく、
辛くても甘える人もいないし、逃亡者が相次いで引率の先生の手を焼かせた。
- 77 :
- 父方の祖父
「俺の周りで戦争に行きたくて行ったヤツなんぞ誰もいねえ。逆らうと上官にぶん殴られるから行っただけだ。」
母方の祖父
「戦争なんて嫌だからわざと脚に銃弾受けてわざと化膿させて帰ってきた」
- 78 :
- 祖父が、生前、
おれは、背が高くて乙種合格と言ってた
179センチ、、確かにデカかった
- 79 :
- >>77
いろんな考えがあるんだからね
- 80 :
- 兵隊検査前に醤油呑んで、心臓悪くして、、
- 81 :
- >79
同意。
戦争楽しかったって話こそ、聞きたいんだけどな。
そういうひとが、口を噤んでいるのが、残念。
- 82 :
- うちにお爺さんの徴兵検査の時の記念写真があります。鮮明で人物が大きくて、とてもいい写真。
検査場だった小学校の前で、18人の若者と村長・在郷軍人会長・徴兵官が写っています。
この写真は村役場から貰ったらしく、結婚写真みたいに見開きになっていて、向き合う頁に
各人の名前と甲種、乙一、乙二が書かれている。丙種の人はいない。
丙種は全くいなかったのか、写真撮影から外されたのか判らない。
服装は学生服と背広がほとんど。和装が2人、職人姿が一人、軍服が一人。
私の目から見ると職人姿が一番カッコいい。軍人姿が何者か判らなかったけど、
年配の人が言うには、当時各大学に軍事サークルみたいのがあって、軍事教練を
部活のようにやってる軍国学生がいたから、それじゃないかとの事。
甲種は6人でやはり全員体格がいい。でも甲種の人はほとんど戦死したとの事。
爺ちゃんは唯一のメガネで乙二。晴れがましい顔しているのは偉いさんだけで、
若者の顔は軍服以外はみんな暗い。でも昔の写真にありがちな、無理矢理
しゃちほこばった顔じゃなくて、自然な表情をしている。
226事件の後、日中戦争が始まる直前だから、まだ少しは自由な雰囲気も
残っていたのかもしれない。髪型は7:3のサラリーマン風が多い。
みんな表情が渋いせいか、イケメン比率が高い。
- 83 :
- 戦争が楽しかった。日本刀で中国人きりまくった。中国人のを強姦しまくった。楽しかった。
こんな話ききたいか?w
- 84 :
- うちの爺ちゃんの部隊は戦争中台湾に駐屯。台湾は暖かいし、日本語通じるし
戦闘は全くないし、食料がとてお豊富で内地じゃ貴重品のバナナが食べ放題で、
女性は綺麗で(内地の女性はみんなモンペ姿で化粧も全くしていなかったけど、
南国はスカート姿でオシャレもしていて、まぶしいほど綺麗だったらしい)、
住民はみんな朗らかで、こんないいところはないから、戦争終わったら
台湾に移住するつもりだったらしい。でも、その願いはかなわなかった。
- 85 :
- >83
それは、普通に楽しくないだろw
- 86 :
- うちの親父は鹿児島のど田舎出身だが、
都会もんが集団疎開してきたから何やかんや巻き上げたとか言ってたな。
ゴム長靴持ってて珍しいからそれをよこせとか言って代わりに芋やるとかw
- 87 :
- 埼玉の農家だから、東京から「食べ物と交換して下さい」と大勢来たけど
都会の人は玄関前に土下座して、高級な着物をわずかの豆やイモと交換して可哀相で
見てられなくて、爺ちゃんの両親も困ってたと言っていた。
可哀相だからと気前よく交換すると、翌日から沢山来てさらに困るし、交換してあげないと相手が困る。
それで村から1kmほど離れた神社で交換していたら、闇屋まで来るようになって臨時交換所は閉鎖。
仕方なく、毎回場所を変えて交換するようにしたらしい。
相手の足元を見て都会の人に威張り腐って無茶な要求する農家もあって嫌だったって。
集まった着物や帯や時計は、昭和30年頃質屋さんに引き取ってもらったけど二束三文だったと言ってた。
時間も経ってるし、仕方ない。
- 88 :
- 爺さんは北支に行って無事に帰って来たけど、行く前に内地では
国民党軍は傭兵だから弱い、八路軍は百姓の集まりだから弱い、
と聞いて行ったけど実際に戦ったら両軍とも装備も日本軍より遥かに上で
神出鬼没で滅茶苦茶強かった、ってさ。
日本人があんな広い国に行って民衆を敵にして勝てる訳がない、
日露戦争は民衆を味方にしたから勝ったんだ、ってさ。
- 89 :
- 教師の蝙蝠ぶり、
戦後の北関東は疎開や農産物でそれほど大変ではなかった
- 90 :
- 戦中戦後はカボチャとイモばかり食ってて、肌が黄色くなったと言ってた
- 91 :
- 大正11年生まれの祖母は東京生まれ東京育ちの根っからの東京もん
戦時中はうまや橋(?)という橋の近くの靴屋で住み込みで働いていた
同じようにして働く仲間たちとも仲良くやってたそうな
しかしどうしたことか、1945年3月9日の夜は仕事が早く終わり、その日は珍しく小岩の実家に帰った
同僚の者たちもなぜだかみんな仕事が早く終わりそれぞれ久しぶりに家に帰ったそうだ
そしてその日の夜、空襲があり、そこの靴屋周辺にはたくさんの爆弾が落とされた
そこの店主は亡くなられた
次の日、靴屋までの道のりは死体で埋め尽くされてたとのこと
- 92 :
- >91
3/8(木)が、毎月恒例の大詔奉戴日。
翌9日(金)は平日だけど、3/10(土)は陸軍記念日で祝日。
だから、連休だったはず。
9日の仕事が早く上がったりして実家に帰ったのは、
そんな理由もあったんじゃないかな?
- 93 :
- >>83
そうだわな。
というか>>79や>>81は一体何と戦っているのか。
>>77は単純に自分の体験を書いただけなのに。
もしかすると、「戦争楽しかったって話を聞きたい」んじゃなくて
「戦争楽しかったって話」以外を禁止にしたいのかもな。
- 94 :
- >>37
おお ウチのじいちゃんも広島の呉にいたんだよ。
しかも同じ海軍。ひょっとしたら会ってたかもね。
ちなみに敵軍(アメリカ)の無線を傍聴翻訳がメインの職務だったらしい
- 95 :
- 戦争中の配属将校の恐ろしさはよく聞いた。
配属将校にぶん殴られると、中学生なんて意識を失って
K-1のKOシーンのように倒れるから危険きわまりなかったらしい。
- 96 :
- おれの祖母からきいた祖母の祖母(江戸時代)の話
あるんだけど文才なくて書けない・・・
- 97 :
- >>96
読みにくくてもいいから教えて。
- 98 :
- 戦争中は弾丸を製造する為に鍋の蓋まで取られたって言ってたな
- 99 :
- 海水浴をしていたら関東大震災が発生して
あたり一面の海水が一瞬にして消えてしまったらしい
近くにいた近所のおじいさんに津波がくるから早く山へ行きなさいって言われて
大焦りで避難したみたい
凄い勢いで潮が引いたというのになぜが津波は来なかったいう・・・
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