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明星なは彗星あかつきの時代


1 :
2008年ついに消滅してしまったこれらブルートレインを中心とする
関西発の九州方面夜行列車の話題をしてみませんか?
呉線経由下関行安芸とか雲仙西海、霧島などの急行夜行の話題も可で
現役のML九州に話題ついては板違いですのでほどほどに
(でも頑張れ、板違いにならない日が遠い将来でありますように)
関連スレ
さくらはやぶさみずほ富士あさかぜ瀬戸出雲の時代
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220165746/l50

2 :
ふと名古屋発の金星はどっちで語るべきだろうと思ったので
とりあえずwikipedia見たら[[なは]]で語られていたので、金星スレが立つまではこっちということでよろしいでしょうか

3 :
主な列車と主な走行区間 運行開始年は九州ブルトレとしての開始年を記す
あかつき 新大阪−長崎、佐世保 1972年運行開始、2008年廃止
明星 新大阪−西鹿児島  1968年運行開始 1986年廃止
なは 新大阪−西鹿児島(末期は熊本) 1975年運行開始 2008年廃止
彗星 新大阪−都城(末期は南宮崎) 1968年運行開始 2005年廃止
安芸 新大阪−下関 1975年運行開始 1978年廃止 
金星 名古屋−博多 1968年運行開始 1982年廃止 
月光 新大阪−博多 1967年運行開始 1975年廃止 最初から最後まで581系寝台電車だった
運行開始年が比較的新しいのは山陽新幹線開業による名称変更が激しく一定しないため
それ以前は急行や別名で走っていたということもある
また廃止後も臨時列車として運行されている(末期は急行に格下、別名で運行、いずれも1996年までに全廃)。

4 :
サロンカー明星とユーロライナー連結の臨時金星に乗った漏れが来ましたよ。

5 :
80年代初頭、広島駅で徹夜で駅撮りしていたおれもきました
昭和30年後半から40前半生まれの中国、九州地方在住だった人々の記憶に残るもの・・・・

6 :
>>5
>>昭和30年後半から40前半生まれの中国、九州地方在住だった人々
え?呼んだ?それなんてオレ?w
懐かしいよ。関西ブルトレ。殊に1972(昭和47)年10月〜1975(昭和50)年03月の間は
EF58がヘッドマークをかざして颯爽と走っていた。リアル消防時代の夏休みには
徹夜してでも眺めていたよ。殊に明け方やって来る下り彗星5号はサイドを朝日に
輝かせてそれはそれはカッコよかった。
あれから30数年、憧れた関西ブルトレは全廃、東京発着ブルトレも1往復でしかも
風前の灯。こんな時代が来るとはあの頃は想像もつかなかった。
(長生きし過ぎたのか?>オレ)

7 :
>>3
あかつきは1965年10月からだろ。
明星もブルートレインとしては1975年3月からだと思うぞ。

8 :
きりしま(京都ー西鹿児島、S45,10〜S50.3)も存在したよね。
あと臨時だがS50.8に岡山ー宮崎間の「夕月」(583系座席車)に小倉から延岡
まで乗った。まるで回送列車同然だったが絵入りマークには驚いたよ。

9 :
>>8
50.3できりしまがなはに名前変わったんだよね。
昼行特急だったなはの名前を消す事が出来なかったからとか。
しかし50.3前の大阪口の夜行本数はホント感動モノだな。

10 :
広島人としては、呉線経由大阪・京都行きの「音戸」が今もあったら便利なんだけどな。
あと単独客車時代の「なは」って、上り広島通過が4時過ぎくらいだったのかな?
もし営業停車してたら、レガートシートになら乗ってたのに。

11 :
ゴハチ+25型客車の関西ブルトレはセノハチで補機付けて登坂していましたな〜
当時はヘッドマークが付いていない上、あまりにもEF65Pがスター扱いされていたから
どこか日陰の存在に見えてしまったが、今思うとハァハァしてしまう絵だと思う。

12 :
>>8
あの時代、上手くいえないけど「きりしま」は他の583系関西寝台に比べて随分と格が違うように思ったものだった。
南九州直行型のダイヤがそうさせたのだろうか?

13 :
昭和61年の夏 末期の20系明星に新大阪から出水まで乗ったことある
当時はもう臨時列車扱いだったはず
昔は明星と言えば583系のイメージがあった 1日2〜3便くらい存在した主力夜行特急だったな

14 :
関西ブルトレは なは を除いて名称復活の可能性はほとんど無いだろうなぁ
いずれも夜から朝にかけての星というイメージ強いだけに

15 :
筑豊線経由のあかつきって、あったよね?

16 :
某作家の推理小説。え,えッ同じ列車が2回通るんですクワッ? (w

17 :
小雨の中、原田でレッドトレインの横をかすめていく昔の情景。

18 :
>>12
8です。
同感です。
理由はいくつかあって、「明星」「月光」に対して走行距離や食堂営業していた事。
南九州を目指すに歴史も古い、ふさわしい愛称である事、S50.2時点で西鹿児島まで
3往復あった「あかつき」に対しても孤塁の1往復なのが逆に目立ったせいもあると
思う。
同様に「ゆうづる」の大世帯に対して孤塁の「はくつる」も格が違うように見えた
ものだったね。

19 :
>>13
全盛期は、客車電車合わせて1日7往復もあったんだよ・・・>明星

20 :
そう言えば、14系座席車のみ編成の季節列車「明星51号」とかもあったな。
※「ムーンライト九州」のバッタンコシートに文句ブーたれる
 ゆとり18キッパーは、深く反省しるw

21 :
>>19
そうなんだ?! 当時はガキで鉄分が充実してなかったからそこまではおぼえてないな
>>20
昭和50年の夏休みに鹿児島へ帰郷するとき親が寝台指定とれなかったらしく
12系座席車で寝不足と窮屈な思いして夜通し乗っていったのをおぼえてる
それが明星なのか しかも特急だったのかまでは忘れてしまったが
帰り大阪に戻るときは583のなは 寝台に乗ることがこれほど有難いと感じた小2の夏・・

22 :
>>20
その頃は、まだ急行の「阿蘇・くにさき」「雲仙・西海」があったのに、
同じ車両で全車指定、ラッシュ後にのんびり到着の昼行灯ダイヤ、
…今思えば、ぼったくり列車だったかも。>座席「明星」
そういえば、一時期583系にも座席指定車の設定があったねえ。

23 :
昔はあかつきって数往復走ってたんだよね
急行とかも入れたら関西-九州の夜行列車って10往復以上あったんじゃない?
車両も583系・20系・14系・24系とバリエーションがあったね

24 :
583の有明、しらさぎ、雷鳥、にちりん

25 :
1973年10月 大阪
屋久島1号 15:05 大阪-西鹿児島
雲仙1号   17:39 京都-長崎(臨時)
屋久島2号 18:04 京都-西鹿児島(臨時)
高千穂・桜島18:12 東京-西鹿児島(日豊線経由)・西鹿児島
雲仙2号   18:30 京都-長崎
あかつき1号18:36 新大阪-長崎・西鹿児島
あかつき2号18:51 新大阪-西鹿児島
日南1号   18:57 大阪-南延岡(運休中)
ことぶき   18:57 京都-宮崎(臨時)
明星1号   19:06 新大阪-熊本
あかつき3号19:10 新大阪-長崎
西海1号   19:15 大阪-佐世保
彗星1号   19:36 新大阪-都城
日南2号   19:43 大阪-宮崎
きりしま   19:52 京都-西鹿児島
明星2号   20:06 新大阪-熊本
あかつき4号20:36 新大阪-西鹿児島
天草     20:44 熊本(筑豊本線経由)
あかつき5号
&彗星2号 20:54 新大阪-佐世保・大分
日南3号   21:21 京都-都城(宮崎-都城間:C57?)
彗星3号   21:51 新大阪-大分
あかつき6号22:06 新大阪-長崎・佐世保
阿蘇     22:13 名古屋-熊本
明星3号   22:36 京都-博多
明星4号   22:50 新大阪-熊本
彗星4号   23:06 新大阪-大分
鷲羽1号   23:10 新大阪-宇野(臨時)
音戸1号   23:13 新大阪-下関(呉線経由)
鷲羽2号   23:29 新大阪-宇野
つくし2号  23:32 大阪-博多
音戸2号   23:40 京都-広島(呉線経由)
音戸51号  23:50 大阪-下関(呉線経由)(臨時)
以下、さくら(23:58)を筆頭に東京からのブルトレと金星が続く

26 :
豊橋の市内電車の運動公園支線開通式を見て、
熊本市電に新型車登場の報を受け、
思いつきでその夜、明星のBネをとろうとしたが満席(!)
仕方なく長距離で値ごろ感(←当時この言葉はなかった)の
ないサロに乗ったが、
べネシャンブラインドのハンドルが肘掛にあたって幻滅した。
熊本に行ってみれば8200は発車式の前日(泣)
しかも帰りのはやぶさが富士川橋梁が流されたとかで打ち切り。
新幹線に振り替えてはくれた(!)が帰京したのは月曜日の昼過ぎだった...

27 :
>>25
このあと昭和49年4月の宮崎電化のときに最盛期を迎えましたよね。
24系25形も登場したりして…。
当時は東京から東海道新幹線で新大阪に出て、接続する山陽夜行で九州に向かうのが、
効率的な移動手段として旅客に支持されていた時代ですた。
時刻表の連絡早見表にも、新幹線と山陽〜九州寝台特急との接続が明記されていました。
で、昭和50年3月の新幹線博多開業で本数が減るのですが、
激減するのは昭和53年10月以降段階的に…。
新幹線開業と航空の台頭と、度重なる国鉄運賃料金うp…。
一方で移動スタイルの変化…寝ている間に移動できるありがたみを感じる旅客の激減…。
で、国鉄改革時には各方面1往復程度ずつしか残らなかった…orz
東京〜九州のブルトレが昭和50年以降殆ど増減なく推移していたのとは対照的でした。

28 :
ブルトレが博多を出た後の新幹線の方がその日のうちにつけるようになっては勝負ありだろうね
特に山陽は東海道に比べて運賃安いし。新幹線+ビジネスホテル<ブルトレ だし
慣れてないと到底列車で寝るなんて厳しいからなぁ 
最低でもA寝台個室が新幹線+ビジネスより安くなきゃ、同格とは言えない

29 :
モハネは電車なのに、わりと防音が効いていた。スハネフとは大違いだw
(しかも昨今は東京口九州ブルトレ…って1本だけか…
 まで床下電源エンジンになってるし)。
俺は乗ったことはないが、583のパンタ下の上段は
架線を摺る音でけっこううるさかったとか。

30 :
>>28
東京〜(新幹線)〜新大阪〜(寝台特急)〜九州各都市
という乗継パターンで持っていたこれらの列車ですが、
昭和50年以降も東京を19時ないし20時頃の新幹線に乗れば、新大阪乗換で翌日の朝には博多、
昼前までに西鹿児島や宮崎に到達できていました。
もちろん東京発着のブルトレに比べたら遅く出て早く着くことができましたし、
博多行き最終新幹線(当時は17:00発が最終)よりも遅くでて、
翌日朝6:00発の新幹線が博多に到着(当時は13:01着)するよりはるかに早く到着できていました。
その意味では大きなアドバンテージを依然としてもっていました。
それでも、新大阪で深夜(上りは早朝)に乗換をするなど、せわしない移動を強いられていたわけで、
航空機の大衆化が次第に進んだ昭和50年代に。、一気に流れてしまったというわけ。
新幹線と夜行の乗り継ぎで行くくらいなら、最初から飛行機で行こうという時代になって行きました。
東京〜九州のブルトレは、新幹線博多開業に併せて「あさかぜ」が1往復減りましたが、
その後は国鉄改革を経て1993年12月のダイヤ改正まで18年以上もの間、
概ねこの当時のダイヤを踏襲して来ました。
その一方で、関西〜九州間の寝台特急はその間激減していったわけで、
全く対照的な経緯をたどっているのも、ひとつ注目すべきところでしょう。

31 :
そうなんだよね
東京からのブルトレって、90年ぐらいまであんま変わってないんだよね
それと比較して考えると、関西での乗り継ぎ需要って劇的に変化したんだろうなあ
>>25の過密ダイヤとか、今じゃ想像もつかない

32 :
>>27
岡山発着の「月光」もありましたね。これが最速達パターンでした。
「きりしま」も京都発着だったけど、時間帯から岡山乗継も可能でした。

33 :
寝てる間に移動できるメリット、という需要は夜行バスや繁盛期のながらを見れば充分にあると思うけどなぁ
それらに比べてブルトレが値段がぼったくり感になるのは仕方ないだろう。夜行バスより金を出すのだったら
なるべく早く着くほうを選ぶだろう。まぁそんだけの話

34 :
1975年3月
明星:7往復、なは:1往復、あかつき:3往復、彗星:3往復、金星:1往復、阿蘇:1往復、雲仙西海:1往復、くにさき:1往復
※明星1往復は筑豊経由
1978年10月
明星:4往復、なは:1往復、あかつき:2往復、彗星:3往復、金星:1往復、阿蘇くにさき:1往復、雲仙西海:1往復
※あかつき1往復は筑豊経由
1980年10月
明星:3往復、なは:1往復、あかつき:2往復、彗星:2往復、金星:1往復
1982年10月
明星:1往復、なは:1往復、あかつき:2往復、彗星:2往復
1984年2月
なは:1往復 明星あかつき(1・4号):1往復、あかつき(2・3号):1往復、彗星1往復
※あかつき2・3号筑豊経由は1985年まで、その後は博多経由に変更
1986年
なは:1往復、あかつき:1往復、彗星:1往復
※快速「ムーンライト九州」は前身列車が1989年から運行開始 一時期は京都〜熊本運転(1991年〜93年)
※明星は臨時20系化→1990年急行格下げで霧島に改称→1995年特急「きりしま」運転開始に伴い「桜島」に改称
→1996年24系25形化により「なは81・82号」に改称→1997年頃設定なしに。
2000年
なは:1往復、彗星あかつき:1往復
※彗星は1995年に南宮崎〜都城廃止、あかつき佐世保編成は2000年廃止
2005年
なはあかつき:1往復
※なはの熊本〜西鹿児島は2004年廃止

35 :
>>34 補足&訂正
1986年→1986年11月
2000年→2000年3月
2005年→2005年10月
山陽〜九州夜行特急の全滅は2008年3月
>>30
東京〜九州夜行で1975年以来はじめてメスが入ったのは1994年12月(みずほ、博多あかつき廃止)。
ただし、食堂車営業が1993年3月までに全廃されるなどその前から退潮傾向にあったのは否めない。

36 :
博多あかつき→博多あさかぜでした。凡ミスもいいところw

37 :
明星あかつき(1・4号)のヘッドマークは衝撃でしたね。

38 :
1990年代に「あかつき」と「なは」にテコ入れをしましたね。
「あかつき」・「なは」共通でレガートシートとソロ。
「あかつき」には出雲がサンライズ化で余剰となったシングルDXとツイン。
「なは」はデュエット。
当時、高校生だった自分は九州に乗り鉄に行くのに「なは」のソロが2回と「あかつき」の
レガートシートが1回乗車しました。
あの当時は「彗星」も含めて全区間JR西日本の車掌が乗務してましたね。

39 :
今のブルトレって1975年で言うとオハ35と同じ車歴なんだな。
よく寝台料金に6300円も取れるよ。

40 :
有効時間帯や会社またぎ問題からしても先に東京〜九州系統のブルトレが先に消えると思ったが。
新幹線と丸被りする「なは」はともかく、「あかつき」「彗星」なんて生き残る余地はなかったのかな?
日豊系統は船という大敵もいるから難しいのかな。
(関西〜大分・宮崎は高速バスですらボロボロに打ち負けたし)

41 :
JRにやる気がなかった、結局それにつきる

42 :
関西〜日豊線系は線形が悪すぎて船に敵わないからな。
いちいち関門回らなきゃならんのはなんとも

43 :
昭和50年台中頃広島に住んでいたのだが、色々記憶が蘇ってきた。
宮島初詣臨・・、深夜の宮島口駅で列車を待つ沢山の人。
構内アナウンスが特急列車の通過を告げる。
間もなくしてものすごい勢いでアイボリーとブルーの電車が通過していく。
宮崎から来た581系彗星。モハネの2基のパンタの擦れる音、グリーン車の乗務員室から顔を出して安全確認する車掌、遠ざかっていく青と黄色のトレインマーク。
普段は布団の中で夢の世界に入っている時間、夢のような光景を見た。

44 :
>35
東京〜九州はJR各社が看板として維持で残していた点(ヘッドマークや食堂車など)も大きいと思う。
後、東海の実権が葛西氏に移行したあたりから急に衰退しているが、なんかあったのだろうな。

45 :
東京〜九州のブルトレは1980年代になってもそれなりに利用する旅客がいたんですよ。
「みずほ」のような補完列車がしぶとく残っていたのがその象徴です。
東海道新幹線の開業以降、最速手段では決してなりえなくなったこれらの列車は、
所要時間の短さを求めるのではなく、乗換なしでマターリと一夜を過ごす客層、
それも相当数の客層で支えられていたのです。
だから、新幹線や航空機が便利になっても、かなりあとまでしぶとく存続していたのだと思います。
それに対し関西〜九州のブルトレは、新幹線との乗り継ぎ客で支えられていた時代があったのですが、
最盛期は1970年代でした。
まあこの当時の客層はビジネス客が多かったのだと思います。
(そうでなければ>>25>>34のような列車設定本数にはならない。)
料金も新幹線の特急料金と在来線特急料金(乗継割引適用)と在来線寝台料金がかかったわけで、
東京〜九州のブルトレに比べて高くつく上に、
新大阪などでの乗換が必要だったわけで、
それでも多数の人に利用されていたというのは、当時としは便利な移動手段だったからに他なりません。
新幹線博多開業後も関西〜九州の夜行列車の需要はそれほど減らなかったのですが、
その後5年くらい経ってから激減(>>34を参照)する様を見ると、
新幹線の影響より航空機の影響のほうが大きいのかなと。
この頃になると各地の空港が整備され、日本航空も全日空もB747をはじめとする大型機を就航させるなど、
着々と輸送力を上げてゆきます。
成田空港の開港で羽田からの国内線の増便ができるようになったのもこの頃ですし。
フェリーについてはこれはもう明治の時代から競争で、
むしろ1970年台の頃は棲み分けがあるていどできていたのではないでしょうか。
まあ、いずれにしても新幹線は方開業の頃がピークで、
その後一気に凋落していった関西〜九州のブルトレ群には、
一抹の寂しさを感じてしまいますね。
ちなみに>>34の1975年3月の本数ですが、「明星」「あかつき」のうち2往復は併結運転をしていました。
で、併結していた「明星」のうち1往復が筑豊経由でした。
筑豊経由の列車が設定されていたのも「時代」ですね。

46 :
>>44
国鉄分割反対論を抑えるために当時のエラい人(臨調?)が
ブルトレは残します、と言明した記憶があります。
それがなければもっと早くに無くなってたかも?

47 :
S61年前後そんなこと言ってた記憶がある、確か
ソースがあればwikipediaにも書けそうなネタだが

48 :
筑豊本線経由の夜行なんて今となっては想像も付かないけど
急行天草(京都〜熊本:1975年廃止)時代からの名残で明星やあかつきに引き継がれたんだよな。
ちなみに1990年代、大阪〜久留米〜大牟田・荒尾間に夜行高速バスちくご号が運転されていたが
途中飯塚や直方を経由していて昔の天草や明星、あかつき時代を髣髴とさせていたけど
結局これも廃止になっちゃったのは悲しいところw

49 :
1980年頃にも夜行列車廃止論ってあったよね。流石にまだ反対が多くて立ち消えになったが。

50 :
あの宮脇俊三さんも国鉄ローカル線乗りつぶしの頃には新幹線+関西ブルトレの乗り継ぎをけっこうやってたな。
同じ列車でも始発の新大阪で乗り継ぐか三原で乗り継ぐかで2時間ぐらい差が出てたのには驚いたなw。
>>49
当時の運輸大臣が“夜行全廃”なんてぶちまけてたな。“貨物はどうすんだ?”て突っ込まれたら速攻でゴメリンコ
してたがwww。

51 :
夜間の人員確保が難しいと言うが車掌だけでなく
貨物が別会社になったとは言え、
廃止すれば沿線の駅の夜勤が無くなる事になるのか?

52 :
>>51
そういう目的も、あるんだろうねぇ。
北海道の、新得を訪れたら、ホームに帯広だか釧路だかの
指令へのホットライン電話が設けてあって、
おおぞら13・14号(「まりも」になる直前の頃)が
定刻より大幅に遅れているときには
この電話でお確かめください、的なことが書いてあった。
当時すでに、深夜は無人化されてしまってたんだな...
イタチごめそ。

53 :
諫早に仕事があったとき、諫早到着8:12(8:11だったっけ?)、9時から客先入るのにうってつけ!
これだけの理由で東京から新幹線(岡山乗換だったと思う)乗り継ぎであかつきを使ってた。
B個室を必ずとってた。仕事仕事で気ぜわしかったとき、個室はかいこ棚より快適で過ごしやすかった。
6分しか出ないシャワー室300円のシャワーの使い方も結構工夫したっけ。
後年、宮城にいる工場の人間が急遽諫早へ朝一に行かねばならなくなり、飛行機大嫌いな人だったので古川15時台の
東北新幹線やまびこ〜ひかり〜京都乗り継ぎで京都始発あかつきの、やはりB個室を勧めてそれで行ってもらったけど、
初めてのそんな鉄道の使い方をして、個室は次の日のお客への対処をじっくり考えるにはよかったな、との話に
なったこともある。
寝台特急はあればあったで使うのだが、だからといって恒常的に使ってやれないし、結局衰退してしまったね。
社内旅費規定に「車船中泊手当」(=日当の夜行版)の規定がまだあるんだけど、もはや死文化している。

54 :
「車船中泊手当」(=宿泊手当の夜行版)でした。訂正します。

55 :
せめて最後の関西〜九州夜行であるムーンライト九州だけでも残して欲しいよな。
しかし、夜間高速バスがあれだけ隆盛しているのに
夜行列車だけが衰退しきっているのはちょっと悲しい。

56 :
九州往復割引切符があったときには、夜行バス並みに安く行けたのにね<あかつき
生活リズム的にも時間帯がちょうどよかった上に、上下とも便利だったし、
関西・九州両側でラッシュにかからない時間に列車を入れられたのもよかった。
北部九州−関西の需要をまとめられれば残った可能性はあったのだけれど。
後は長崎本線のホーム長の関係で583系化できなかったのが痛かった。583系の
貫通構造を最大限利用できる唯一の列車だったのに。
もし583系化してたら最後の583系はきたぐにではなくあかつきだったかもしれない。

57 :
>>53
俺の会社にもある。全国に行くからなあ。しかし、実際には九州・四国への
フェリー乗船時の5000円と食事補助2000円だなあ。

58 :
>>45
その昔は東京発夕刻のひかりに乗っていると、「ああ、この人は関西ブルトレに乗り継ぐんだよな」って人が結構乗っていましたね。
荷物の量とか長旅オーラ(笑)とかで何となく分かりました。

59 :
ttp://www.geocities.jp/maahirai/JNR/akatuki.htm
「あかつき」の歴史を扱ったサイト
単独あかつき・明星あかつき・彗星あかつき・なはあかつき全部写真あり。

60 :
>>56
583系は3段ベッドだから、最後は「あかつき」も客車のみになってたんじゃないかなあ
前者サハネにするわけにもいかんだろうし。
明星、なは、彗星が全部客車になったのにも、それなりの理由はあろうかと・・・
結局、2段ベッドが当たり前の時代になると、583系は「きたぐに」のような夜行急行でしか使えない車両になってたんじゃないかな
あと、ある程度の距離を走る列車になると、寝台の取り片付けが必須だろうけど、
上の三列車って、寝台の片付けとかしてたの?

61 :
板の趣旨からは、外れるけど、583のB寝台が2段に改造されてたとしたら
もっと多くが生き延びただろうか?
そう思うならサロネに乗れって…? 失礼しました〜

62 :
583系が生き残らなかったのは昼夜兼用なのに昼の座席が快速並というせいもあっただろうなぁ
東京ブルトレに入れなかった583系の命運は新幹線博多開業で尽きてたと思うよ

63 :
>>62
客車寝台より583系のほうが長生きするかも…
まりも…廃止済み
富士・はやぶさ…2009年春廃止
はまなす…2010年(2009年?)春廃止
北陸・あけぼの・北斗星・カシオペア …2011年春廃止

64 :
カシオペアとトワイライトは残すだろう、新幹線開業でも貨物走らすんだし
コンセプトや客層が全然違うと思うが・・・

65 :
ちょっとお尋ねなのですが、下り最終の「あかつき」に充当された車番を
ご存知の方がおられましたら、教えて頂けませんか?


66 :
福岡県の柳川の者ですが
国鉄で佐賀まで出て「あかつき」や「さくら」は何度か利用しましたね
懐かしい列車です、とくに「あかつき」は翌朝関西に着けるということで重宝したものでした
時代の流れとともに飛行機を使う方が多くなり誰も乗らなくなってしまったのですね

67 :
>>61
オロネ14とオロネ24の全車両を個室化改造することを前提であれば、
583系の2段寝台かもありえたかも知れないと…。
そうしないと583系のB寝台と14系24系のA寝台とで何が違うんだという話になってしまう…。
国鉄末期という時代背景の中でそういう意思決定が成し遂げたかどうか…。
(実際には583系は715系とか419系という変な車両に改造されてしまったが…。)
>>62
御存知の方も大勢おられるかと思いますが、この車両はもともと国鉄の車両運用の都合上生まれた車両。
当時、朝6時頃〜10時頃、車両基地内で到着した夜行列車と出発前の昼行列車でごったがえってしまって、
車両基地内での処理に困っていました。
そして夜の18時頃〜22時頃は逆に到着した昼行列車と出発前の夜行列車で同じことがおきていました。
これらを解決するために昼は座席、夜は寝台の車両が必要とされていました。
もともと急行列車を昼夜兼用にしようとして開発が始まったそうです。
一方、この手の車両は所要時間が8〜9時間程度の路線が丁度いいのですが、
新大阪〜博多間に導入するとなると急行では所要時間がかかりすぎて上手くいかないことがわかり、
急遽特急用として設計をやり直した経緯があります。
そのため昼間の2等車(普通車)をボックスシートにして、
夜間の1等車(A寝台)は設定せずに座席車(グリーン車)のままにせざるを得なかったのです。
で、所要時間8〜9時間だと、寝台⇔座席の切換を3時間とすれば、丁度上手くいのですが、
当時のダイヤでは新大阪〜博多、上野〜青森はまさしくドンピシャでした。
しかるに、新幹線開業前の山陽本線や東北本線で、その能力を遺憾なく発揮していました。
まあ昭和50年に山陽新幹線が博多開業し、昭和57年に東北新幹線が開業し、
また、同時に航空が台頭してゆく中で、
581系、583系という車両がその機能を最大限活かして運用する場はなくなってしまいました。
それでも現在「きたぐに」と、仙台の団体臨時用に残っているのは奇跡です。
列車の特性上座席車と寝台車を混用する必要のある「きたぐに」と、
時と場合と状況により座席車としても寝台車としても使いたい団体臨時列車用として、
583系の特徴を活かされているのも、この車両の面白いところであります。
団体用であればボックスシートにしたほうがグループ向きで都合がいい側面もあったり…。

68 :

2

69 :
>>67の続きです。
まあ583系という車両は、とりあえず「寝るだけ」の寝台車と、座席車の兼用車なので、
東京発着の寝台特急のように、全所要時間のうち「起きている時間」の長い列車にはそもそも向かず、
しかも当時既に東海道新幹線が存在して、
短距離を除き昼間の特急が設定されていなかったため、
583系のでる幕は当然にしてなかったわけであります。
まあ、山陽新幹線、東北新幹線開業後の583系の生きる道として、
「原則夜行専用」として扱うのであれば、「銀河」等に充当する道もあったかもしれませんが、
そもそもこの当時既に夜行列車激減の時代を迎えていたわけで、
「寝るだけの寝台車」である583系を使い続けること自体が難しかったかもしれません。
(583系を活かせば14系や24系が余ってしまう時代になっていた。)
それにしても、短期間で無理矢理寝台と座席の両用車を造ったのですが、
全体のデザインの美しさや、その多機能性が、ファンの心をくすぐるという、
まあ昭和40年代の国鉄の傑作車両といっていいでしょう。

70 :
国産旅客機のYS11に通じるものがあるな
銀河で座席と寝台を両方使ってたら、あるいは583系は銀河で生き残ってたかもしれない
どっちにしろこの数年来の状況の変化で廃止は免れなかっただろうけど

71 :
>>34
「安芸」新大阪〜下関(呉線経由)もいれてやれよ。

72 :
>>66
九州北部から関西だったら新幹線メインになりますた・・・。
今後夜行で関西へ行くならばフェリーを使う予定です。

73 :
>>66
福岡地区〜関西地方のシェアは新幹線7割:航空3割。熊本〜関西地方でも現状でも4人に1人は鉄道利用だから、
夜行から新幹線利用に変わったとはいえ、基本的に鉄道自体は使われているほうだよ>北部九州〜関西

74 :
>>70
まあ「名車」とは言いましたが、両用というのはやはり無理があったと思われ…。
悪い言い方をすれば、「アブハチ(ry」とか「二兎を追うものは(ry」…orz
<二等車・普通車・B寝台車★★>
寝台車として使う以上座席車をボックス構造にせざるを得なかった
→昼間の特急用としては、はっきり申し上げて「落第点」
寝台車⇔座席車の切換に手間がかかる
→「寝るだけの寝台車」以外の運用は困難
<一等車・グリーン車・A寝台車>
日中に一等車(グリーン車)としてのサービスを提供するためには、
A寝台車を設定することができなかった。
当時の国鉄は、「グリーン車⇔A寝台車」ができる車両も検討したそうだが、
流石に両者の構造が違いすぎて両用車にはできなかったという経緯があるそうな。
どっちにしても、昼間は485系に比べたらやっぱり×ですし、
A寝台の連結されない寝台車ではやはり半端ですし…。
583系は、新幹線開業前の山陽本線、東北本線の
どうしようもない車両のやりくりを助けるために登場した車両で、
その後新幹線の開業や全国的な夜行需要の減少に伴い、
このような車両は必要なくなったといってよいでしょう。
見た目が美しいのでwktkしてしまうのですが、
まあ新大阪〜博多間8時間を
ボックスシートの583で乗りとおすのはやはりしんどいものが…。
>>66
「あかつき」が、九州の人にとって関西だけでなく東京に出かける手段として、
かつては常用されていたという時代があったのですよね。
翌朝新大阪や岡山などで新幹線に乗り継げばれば、
「さくら」より遅く出て「さくら」より早く東京につけました。
飛行機という手段がそれほどメジャーになっていなかったころは、
こういう使い方が割と当たり前になされていたそうな。

75 :
>>74
忙しいビジネスマンとか、宮脇先生の完乗旅行とかに愛用されていましたよね。

76 :
国鉄末期からJR時代にかけて、
東京あたりからだと「グリーンきっぷ」というのがあった。
新幹線のグリーン車、または在来線B寝台が使えるというもの。
九州方面へは、たしか途中から、1回に限り新幹線から寝台特急への
乗り継ぎができるように制度が改められた。
だからなるべく遅い新幹線で東京を出て、岡山あたりで関西発の
ブルトレをつかまえることができた。
にもかかわらず、起死回生とはならなかった。

77 :
少々スレ違いだけど、夜行衰退について、口を挟ませてもらいます
ここ最近毎年何かと北陸〜新潟方面で地震、台風等の天災で日本海とか運休になるけど
これらに関係ない大阪および東北を移動する人にとっては、運休になる理由は仕方ないにしろ
予定をたてていたのに、急遽移動手段を変更せざる得なくなり、飛行機の手配が出来なければ
最悪取りやめということにもなりかねない、そういうリスクがあるし、ここ最近は毎年のように1ヶ月単位での
運休が多い。そんな経験のある人間なら、次に移動するさいは鉄道を利用しようなんて思わないだろう

78 :
>>77
寝台列車しかなかった昔なら、足止め食らっても諦めが付いたが、
今は翌日以後まで悪天候をやり過ごして別の手段で行った方が
確実に目的地に付けるからな。
無茶するとこうなる。
ttp://www.hokutosei.net/html/log/log1_003/log1_003483.htm
ttp://www.hokutosei.net/html/log/log1_003/log1_003501.htm

79 :
日本海経由がダメなら東海道〜東北を走ればいいじゃない、とは簡単にいかないわけで。貨物と違って
神戸の地震の際、関西ブルトレは播但線経由という手段をとったけど、東京ブルトレは軒並み運休だったし
東京ブルトレが3ヶ月にわたって運休した例はこれが最初で、おそらく最後の例になるだろう
そう言えば東京ブルトレが廃止になってきたのもこの時期からだし(これはこじつけだけど)
昔、1985年北陸が大雪の影響で東海道経由で(牽引機はEF5861)という例はあったけど
今じゃムリだろうなぁ、東海が走らせるわけがないし

80 :
>>79
姫路から先の筋は東京ブルトレのやつ使ってたな>福知山・播但経由の代行ブルトレ

81 :
>>80
確かに「なは81・82号」の場合、
新大阪発着の時点ではなはのスジ使って、山陽九州内ははやぶさのスジ使ってた。
で、この当時はなは・はやぶさ共に西鹿児島まで運転されていたが、この列車は熊本発着だった。
今なら播但線を経由してまで夜行列車を運行するなんて考えられないな。

82 :
>>77
近頃の長期運休する鉄道会社としての思惑は
それによって夜行利用者減も考慮に入れているといっていいでしょう。
利用者減になれば廃止しやすいからです。
実際夜行列車は全部廃止したいというのが会社の本音でしょう。

83 :
次の日に飛行機や新幹線で行った方が速いからだろ。
狭い日本、急げばその分早く着く。
ちんたらとしか走れない鈍足列車に客を缶詰めにしないのもサービスのうちじゃね?

84 :
>>81
興味はあったけど、良心の呵責にさいなまれて乗りに行けませんでした。

85 :
>>82 思惑で災害復旧を意図的に遅らすくらいだったら
大糸線、高山本線、越美北線は今も分断されたままだったのでは(謎)
ブルトレねたに戻せば、子供の頃新車ヲタだった俺は、
関西発九州方面に14系15形が投入されたのが無意味にうらやましかった。
まさかこの期に及んで東京口でそれを見れるとは。
でも寝台車の客となったならスハネフのエンジン音はいただけない。

86 :
山陰の824レに乗るために14系15型の「あかつき」のスハネフに乗ったけど、エンジン音は気にならなかったな
それよりも寝台に登るはしごが細かくカチャカチャ五月蠅かった記憶がある。
広島に進入する前の広繰に先行の10000系高速貨物が停まっているのを追い抜いて、
こちらが広島に停まっている間に抜き返されるのをぼーっと車窓から見てた。
名古屋では見られる時間帯に走っていないグリーン屋根のワキ10000が連結されているのが見れてうれしかった。

87 :
筑豊のとある町から関西に出るのに何度かその車両を利用しましたよ
一度飯塚駅の駅員から、お客さんが乗るのは最新型なんですよ、と言われたことがあります
私にとって「あかつき」はいろんな意味で懐かしい列車ですが
私の母や伯父にとっては「天草」がもっとも懐かしい列車となるようです

88 :
はしごは畳むとカチャカチャ言う。
開いておくと、あんまり音がしない。
邪魔だけど。

89 :
「天草」万歳!

90 :
親戚の家が筑豊線沿線にあって、夏休みとかにある駅のそばに
泊まっていると、朝早くにあかつきのスハネフのディーゼル音が
響いててあああかつきが通ってるなあと思ったものだった。
別の親戚の家ではやや遠くに列車が少し見えて、青い客車に
昼光色の照明が青白く寝台を照らして見えて夜行特急の威厳を
感じさせたものだった。普段はキハとか50系客車しか走ってない
ローカルな路線だから14系15型の特急車両が一際光っていたよ。
かつて誰かがたまに使っていたんだろうと思うが、80年ごろおばさん
はまだ天草が走ってるものだと思っていた。天草に乗れば直接
大阪まで出れる、というようなことを言っていた。事情を知っている
俺は、天草は特急になって今はあかつきになっているよと話したら、
ちょっときょとんとしていた。まあ俺も10系寝台含んだ天草がその
当時走ってたら面白いのにと思ってたんだけどね。そういう考えからすると
「今風でつまらない」14系15型に一回だけ乗ったことがある。
登場してまだ数年だったから塗料の匂いかわからないけれど
新車の匂いがまだ少し残ってたよ。

91 :
>>85
漏れの場合も、モノクラス・銀帯・小窓・切妻・電源車無しってとこが、
子供心に妙にスマートに見えたものですよ。 >15型

92 :
結局、581・583系は長崎佐世保には乗入れた事はなかったのでしょうか?
715系に変身してから初めて?

93 :
筑豊の年配の方で「天草」を知らない人はあまりいないのではないかという感じもしますね
筑豊から本州に出るにはこの列車だったようです
就職、進学、駅での見送り、「天草」は筑豊人の喜びや悲しみを見てきた列車なのではないでしょうか
筑豊線沿線に住んでいた私の母は「天草」が通る時間は知っていたといいます
母の兄が筑豊へ帰省するときは「天草」から荷物を実家の前の線路脇に投げるので
それを取りに行っていたといいます
あの青い新しい汽車(「あかつき」)は高級すぎてよそよそしくなった、とはその母の兄、私の伯父の弁です

94 :
懐かし板まで来て>>83みたいなレスは見たくない。ちょっとは考えてくれや。

95 :
>>93 線路脇に荷物を投げるんですか!!それはすごい!
さすが筑豊人、無茶するなあ!何とも筑豊らしいエピソードですね。
アウトローなんだけれど何とも人間臭い!豚骨スープのような
芳しい人間臭いアウトローさ!
僕も関東育ちながら5歳の頃から筑豊の洗礼を浴びてきただけに
そういう人間臭さは僕の一部でもあります。
SL末期のころ、桂川ー原田間のどこかの駅で、秋には出発待ちの
時に機関士と助士が二人して山に入って栗拾いしてた、とか
今の締め付け厳しいJRでは考えられないアウトローさも筑豊
ならでは?
脱線ついでですか、10歳近く年上の従兄弟が撮った冷水峠を超える
天草の写真を見せてもらった事があるのですが、たしかD60の前補機で
客車が10系寝台何両も挟んだ急行らしい編成なのでそれを見て
僕:すごいこれは10系寝台じゃない!
従兄弟:いやーこれは朝の光線が悪くてねえ
僕:客車の写真は撮らなかったの?
従兄弟:? 2回撮ったんだけれど煙の形が良くなくてねえ・・・
などとトンと客車には興味がないようで話を聞いてもらえませんでしたorz
なんせ日豊線のDF50が牽く富士の20系客車も「あの後ろがこうなって丸いやつ」
ですからorz

96 :
>>95
今でこそ地域の世話役のようにいろんな方の相談に乗ったり(とくに独居高齢者の方々の問題ですね)
子供たちを鍛える、などと言って柔道教室、たけのこ掘り遠足などに地域の子供たちを引率する穏やかな感じの伯父は70近いですが
若い頃は手の付けられない暴れん坊だったようです、私も中高生の頃よく問題を起こすのでそっくりだと言われていました
小学生の頃一時期、博多駅のすぐ近くに住んでいましたが父が急遽大阪に出張となり今から寝台車に乗るというので
母が止めるのも聞かず見送りに行ったことがあります、博多始発の電車寝台「明星」でした
「明星」が入っているホームの下の階段のところにいるとほどなく父が現れ驚かれました
列車が見たいから、とホームに上がって見送りましたが父はニコニコ笑っていましたね
最近、そのときのことを話す機会があって聞いてみるとそのとき大阪の顧客から大きなクレームが入り
その対応に急遽派遣されることになったのだということでした、とても気が重かった、と
技術屋であった父は1週間ほどろくに家に帰っておらずその日は久々に帰ってくるということで
母もご馳走を作ろうとしていた日だったのでなんとなく淋しい思いがあったのでしょう
あの時は私が来たのにびっくりしたが、とても嬉しく気持ちがシャンとなったと父は語っていました

97 :
>>92
そうだったと思うよ。

98 :
サシ581の食堂車のメニューってどんなのがあったんだろうか・・・?
後継?のサンライズ交直流版が登場するほど需要があったら・・・
寝台のコスト削減には限界かな・・・?
三段式じゃないとペイできないのが・・・

99 :
電車寝台の食堂車といえば出張サラリーマンの溜まり場で
タバコの煙でモウモウとしていたような感じがあります
そういえば随分前、電車寝台「彗星」の上りに乗っていた若者が
延岡駅でホームに出ていたあいだに列車が出発してしまい、どこをどうしたのか屋根によじ登ったまま佐伯まで行き
そこで屋根から降りようとして架線に触れ感電して亡くなった事故がありましたね

100 :
せっかく佐伯まで頑張ったのに、最後の最後でドジを踏んだのか・・・

101 :
日豊本線では平成になっても屋根に登って…ってのがありましたね、、
スレチでゴメソ

102 :
明星の担当車掌区って?どこか教えてください。

103 :
>>102
鳥栖車掌区

104 :
一度だけ「あかつき」の最後尾に立って、遠ざかる長崎駅を眺めたことあるけど、
何かこう、如何にも長崎を去るって感じがしてとても良かった。
ああ、旅が終わったんだなあ・・・っていう。

105 :
新幹線博多開業直前の時刻表を見ますと、赤穂線回りの夜行列車(確か日南?名称失念。。。)がありましたが。
別スレで大阪米子方面伯備回りの特急「おき」が赤穂回りだったようですが、廃止されたための救済便だったのでしょうか?

106 :
赤穂線に夜行はない。 
多分昼行の間違いでしょう。
岡山から伯備線に入るディーゼル急行(「おき」だったかな?)が赤穂線経由で走っていたが、
44.10で赤穂線が電化され、46.4に「おき」(?)が特急格上げ・本線経由になったため、
その救済で電車急行「つくし・べっぷ」が赤穂線経由で走っていた

107 :
>>106
勘違いでしたね。。。すまなかった。
救済便だったのは合っていたんだ。ありがとう

108 :
南九州最後のブルトレ、
彗星が流れ去って今日で三年…
南宮崎での最後の汽笛が甦るなぁ。

109 :
廃止前の彗星の窓の汚さと言ったらもう・・・

110 :
>>109
あれは酷かった。
運命を共にした76の87号機は綺麗になってたし
HMも新調して放置宮崎にしては破格の扱いだったのに…

111 :
彗星が おおよど川 を 渡って行ったよ。

112 :
彗星にとっては三途の川か

113 :
583系彗星の座席指定に、岡山から
大阪まで乗ったことがあったな。

114 :
グリーン車?

115 :
普通の指定だったよ。
あれは臨時だったのかな?

116 :
オオ〜 彗星が よど川 を 渡って行ったよ。

117 :
Gでない指定(椅子の絵)が編成表にあった希ガス

118 :
大分で小学生をしていた頃
太平洋戦争で最後の特攻隊が宇佐から飛び立ったという話を年配の先生から聞きました
「飛行機の名前は彗星、大阪行きの汽車とおんなじじゃ」と

119 :
東京で小学生をしていた頃
太平洋戦争で最後の特攻隊が宇佐から飛び立ったという話を年配の先生から聞きました
「飛行機の名前は彗星、大阪行きの汽車とおんなじじゃ」と

120 :
神風、桜花、回天、震洋はさすがになかったようで。

121 :
彗星、大分から日向市まで乗った。
大分ー延岡は線形が悪く、駅に入いる度に減速してた。
明星は熊本ー新大阪に乗った。583系。

122 :
爆撃機「銀河」の開発に携わった方が0系新幹線の開発にも携わったそうですね
宇佐から彗星で飛び立った最後の特攻隊長中津留大尉は津久見の方ですが
初めて乗り組んだ艦の名が「暁(あかつき)」
「暁」は撃沈され大尉は十時間以上漂流しましたがこのときは助かりました

123 :
>>115>>117
50・3〜53・10の間くらいじゃなかったかな・・・。
寝台設置・解体要員削減という、何とも消極的な理由だったが
それ以上に利用率が低迷して、結局全車寝台に戻ったと。

124 :
東条英機の息子は飛行機設計者

125 :
昭和50年3月のダイヤ改正時
明星7往復,彗星3往復体制になったとき
明星も彗星も電車1往復はハザ4両あったはず。
後2両になって
さらに全車寝台になったんだっけかな。
もっともその間に本数自体の削減もあったけどな。

126 :
彗星末期の大淀川、上り狙いの撮り鉄連日すごかったな。

127 :
明星なは彗星あかつき
金星もまぜてやってほしいです

128 :
若戸大橋って夜でも見えたっけ?
尾道大橋とか明石大橋みたいな感じで。
最後に「なは」に乗ったときに、見ようと思ってて見逃した。
昔、見たような気もするし、ただの記憶違いのような気もするし。。。

129 :
ながら&ちくまも混ぜてくんしゃい

130 :
>127
>2
>129
ながらはそのうち立つでしょうし、ここより東京ブルトレスレの方がスレとしてはあってるはず
ちくまは・・・ないのか?


131 :
昔(RJ誌でのS51年彗星号乗車記で)はモノクラス12〜3編成で寝台券完売だったのね。。。
バブル期(〜民営化〜平成3年頃)までは九州夜行特急は寝台はほぼ満杯だったのでしょうか?

132 :
微妙に違うけど、過疎ってるし、
ちくまは↓でいいんじゃないか?
【金星 きそ】名古屋発の夜行列車【のりくら 紀州】
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220854940/

133 :
>>129
混ぜんなw
本題に戻って・・・
あかつき七往復時代って、20系、14系、24系24型、24系25型
という、当時のブルトレ全系列を使用していたのもスゴイよね。

134 :
いつも向日町の端っこに停められていた
安芸は混ぜてあげてもいいと思う。

135 :
入りきらない583が野洲まで行ってたぐらいだからな・・・

136 :
>>133
「あかつき」7往復の時代って方向による名称統一がなかったからな。

137 :
>>132
ありがとう

138 :
>>119
「私兵特攻」ってやつだな。
隊長の宇垣中将は、終戦を知っていながら、特攻を命じた=兵を私物化したという。
とかになっていたような。

139 :
>>138
「自決なら一人でやれ!」と宇垣の行為に激怒した最後の連合艦隊司令長官小沢治三郎は宮崎は高鍋の人
そのひとつ前の豊田連合艦隊司令長官は大分の杵築の人
日豊線沿線は大戦中の連合艦隊司令長官4人のうち2人を出しています
最後の連合艦隊旗艦は「大淀(おおよど)」と言いますし、今度就役する海自初の空母も「ひゅうが」と命名されました
小沢元司令官は急行「高千穂」をよく利用していたそうです
「高千穂」と聞くだけで懐かしい気分になる、とアル中になった後もおっしゃっていたそうですね

140 :
玉音放送を聞いてから特攻した兵士の話をNHKスペシャルでやってた
沖縄まで飛び米軍が戦勝パーティーをしてるすぐ近くに墜落
パイロットが意図的に外したのではないかといわれてる

141 :
熊本で末期の「なは」の方向幕が回るのを見てたら、
「つるぎ」、「ゆうづる」、「いなば」、「紀伊」、「安芸」・・・と次々に出てきた。
懐かしかったけど、
その中に「あさかぜ・宮崎」、「彗星・下関」っていう幕があった
あれは何だったんだろう

142 :
金星や月光も含めてこのスレタイ見ると、581・583をすぐ思い浮かべる。
付随して、有明、しらさぎ、雷鳥を思い出す。
実績無いと思うけど、加越の幕って入ってなかったんだろか。
ゆうづる、はくつる、も。
ゆうづるや明星は50年代半ばまで、アホみたいに沢山走ってたなあ。
昔は良かった。
そういや「きりしま」もあったな。

143 :
付随して思い出してもらえない、にちりんカワイソス。
富士ぶさ亡き後の最後のJR九州運行夜行になるかと思ったら、
ドリにちも廃止の噂があんのね。

144 :
583系のにちりんは格好良かったですね

145 :
>>141
「彗星・下関」は、昭50年3月改正まで大分行の付随編成に下関行が存在した。

146 :
>>144
にちりんを忘れてたな。さすがに、みどりや、つばめは知らない。
>>145
なんで下関回転?あさかぜと共通運用?
昔は超広域運用してたからなあ。

147 :
懐かし板は、AAやアラシがなくて平和だな。
やっぱり年齢層が高齢なんだろうな。
でも、これから50年後とかになると、よぼよぼのじいさんが、
AA貼ってるのだろうか。

148 :
にちりんはあんまし見たことないから、すぐでてこなかった。
やっぱり何度も乗った明星と一回だけ乗った金星だな。
はつかりも思い出した。
思い出すの遅すぎ。ボケてきたかな。

149 :
>そういや「きりしま」もあったな。
「きりしま」は、581系統で唯一、走行中に寝台解体していたらしいけど、
やっぱり運用の都合だったのか? それにしても、解体作業はどんな感じだったんだろうね?

150 :
>>145
おお、そうなんだ
書いてみるもんだな

151 :
下り「金星」も解体してました。
当時、寝台の使用時間は朝7時までと決まっていたため、7時から解体作業に入るのですが、大掛かりな作業のため一両にたっぷり一時間以上はかかっていた記憶があります。
上中段を収納するために網棚が通路側にクルリと半回転する仕組みや、大量のリネン類を放り込んだ中段を勢いよく持ち上げて畳む様子に感嘆しました。
係の方は汗びっしりになってましたが、これだけ頑張ってもらったのに座席として走る時間は一時間ちょっとで、まもなく終点の博多…申し訳ないようでした。

152 :
>>151
おれは小倉で降りた時もう9時回ってたな。
初めて乗った581が金星で、それまで10系20系の蚕棚しか乗ったことが無かったので広さに感動した。

153 :
>>149なんだが、いいかげんなこと書いてすまん。
調べてみたら、581系使用夜行列車で、終着が9時を回る運用は、
「きりしま」「金星」以外にもかなりあった。
これらはやっぱり寝台解体してたんだろうね。
その後の昼行運用の都合もあっただろうし、何よりも、目が覚めてから
上中段で過ごすのも辛いものがあるだろうし…。
俺は「明星」に一度乗ったことあるだけだけど、
上段の小窓は、ちょうど目の高さで実に具合がよかったなあ。

154 :
>>153
明星の西鹿児島は10:00代とかあったような。

155 :
「きりしま」があったS50.3直前の「明星」は、
熊本行き3本、博多行き1本 (ずべて電車) ですね。
西鹿児島着
「月光1号」7:52、「きりしま」9:58 (583系)
「あかつき1号」9:13 (20系) 「あかつき2号」9:38 (14系)
「あかつき4号」11:14(24系)

156 :
山陽新幹線博多開業直前のダイヤだと、寝台電車の9時以降の終着は、
【下り】
「明星4号」熊本9:57
「きりしま」西鹿児島9:58
「金星」博多10:11
【上り】
「明星3号」京都10:22
「明星4号」新大阪10:41
「きりしま」新大阪11:22
になっているな。
それにしても、昼近くまで走る寝台電車があったとは驚き。
乗ってみたかった…。
あと、スレ違いかもしれないが、寝台解体ということでいえば、
蒸気牽引で有名になった「日南3号」だが、都城到着は夕方だというのに、
写真を見ると、ハネは解体していないよう。設営された中段が確認できる写真もある。
「日南3号」の場合、自由席座席車があったから問題はないんだろうが、
夕方まで寝ていられる寝台車は…、ある意味極楽かも?

157 :
なるほどそう言われてみれば、日南3号の切り離し作業(ED76+ロネを切り離し、DF50+荷を連結)を大分で見かけたことがあったけれど、目の前のハネの中段がセットされたままの記憶映像…。
そう考えると寝台特急は実に律儀に解体してたのか。
20系彗星に乗った時、当然ナシ20も営業していて、解体作業中は食堂車で朝定食っていうのが一般的コースだったなあ。
調理場の横の通路に空席待ちの人がズラリと並ぶ朝の風物詩…。
まあ、夜の食堂車も同じくらい混んでたけれど。

158 :
昔は寝台解体してたんだよなあ。
今は寝台車解体だが。

159 :
>>158
誰が上手いこと言えと

160 :
もしかしたら、寝台解体は、人手不足が深度化したの40年代では、
特急だけの特権だったのかもね?
急行は、朝になればとっとと寝台車を切り離していたわけだし。
それにしても「日南3号」は、なんでハネ一両を都城まで連結していたのかなあ?
大分あたりでロネや他のハネと一緒に切り離していてもよさそうなものだったのに。
ロザ二両連結も謎だった。

161 :
>>160
日南3号の大分は900頃で、都城15時代だったかな?
確かに大分で解放しないのも伏木

162 :
昔の宮崎といえば新婚旅行のメッカ

163 :
昔の関西〜九州夜行の乗務員は九州の車掌区所ほぼすべてが関わっていたんだよね。
鳥栖車掌区はいつごろまであったのかな。

164 :
>>160-161
そのハネ一両は、確か都城持ちの車だったはず。

165 :
>>155
山陽本線はカーブが多いのでさすがに東北筋ほどの速度差は出なかったけれども、それでも「あかつき」と「きりしま」は出発地に比べるとかなりの接近ぶりだったんですよね。

166 :
昭和50年のガキの頃、九州方面行きの583系で
ボックス席→寝台へ転換作業を経験した事が有ったけど
何の列車だったか覚えていない。名古屋から乗ったような気がしたが・・・

167 :
金星じゃないの?

168 :
>>167
博多へ名古屋から来る特別急行「金星」において
座席→寝台の転換作業なし。
寝台をセットした状態で始発駅の名古屋に入線してくる。
だから違うだろ。

169 :
>>168
たしか「しらさぎ」の583間合運用があったと思う

170 :
>>166
>ボックス席→寝台へ転換作業を経験した事が有ったけど
これは、非常に興味深い話ですね。
このスレによる検証(?)で、寝台電車における寝台「解体」は数例あったことがわかっている(大げさだが)。
が、寝台「設営」は、まだ証言がなく、>>166が初めてのケース。
ただ、下り「金星」に限っては、通常ダイヤであればそれは絶対にない。
また他の寝台電車も、基本的には19時以降の発車だったし、18時台(上り「金星」のように)発車でも、
19時数分前で、当然、寝台はセットされていたはずだし…。
が、実は俺も、営業中の583系車内で寝台設営しているシーンの写真を、
RJ誌のトップアングルという昔あったフォトコンテストの入賞作として見たことがあるんだよなあ。
だから、>>166の記憶も、勘違いとは決め付けられない。
たぶん、583系だけの特殊事情で、間合い運用の昼行特急が遅れたりして、
寝台設営の時間が確保できず、それで車内設営となったケースが何度かあったのではないか。
そのレアケースに>>166もトップアングル入賞者も乗り合わせたのでは?
貴重な体験をしましたね。うらやましい。

171 :
考えてみりゃ、毛布や枕、浴衣などのリネンのセットもあるし、
営業運転中の寝台転換は確かに無理っぽい気がするな。

172 :
こんな最近のことなのにもう分からなくなるんだな。難しい。
客扱い中に寝台をセットするのは考えにくいなあ。
長距離急行ならあるかもしれんが。

173 :
>>170
ああ〜やっと確信に近いレスがキタ〜!ありがとうございます。
以前に路車板で何度かこの事例について聞いてみたんですが、
明確な回答が得られなくモヤモヤしてたんです。
きりしまか?臨時だったのか?とも考えたんですが、どちらも
該当しなかった。途中で乗り換えた記憶も無いし、時期的に
ビミョーだけど合わないし・・・。
当時(S50・4)東京の小学校入学後1週間で引越しで大分に行く時に
途中の名古屋の親戚宅に泊まってから夕方に乗って山口の美祢の
祖父宅に寄る行程で厚狭か小郡までの利用だったと思います。
現地着が05:00ぐらいだったかと記憶、でもこの時間帯に着く
列車なんか有ったかな〜?夕方に乗ったてのは記憶違いかもしれないし
謎だ!w
東京発のブルトレで早い時間帯に出る列車(さくら…)は
静岡あたりで寝台セットだったから、583系でも走行中に寝台セットは
当たり前のものだと思ってて、学生時代の鉄仲間にこの事を話したら
誰も信じてくれなくてオオカミ少年の心境でしたが、解決の糸口が
見えてきました。一番の解決策の親に聞けばいいは、親がもうボケてて
過去の記憶が無いのが何とも・・・(−−

174 :
父はかつて九州〜関西を夜行で何往復もしたそうですが
電車寝台のほうがよく眠れた、と言っています
客車のやつはよく眠れなかった、と、毎回広島を過ぎるまで眠れなかったそうです
弟が関東から帰省するときに一度「はやぶさ」に乗ったときも眠れなかった、と
進行方向に枕があるかどうかでそんなに違うものでしょうか
私は客車寝台にしか乗ったことがありませんが毎回快適に眠れたのですが

175 :
>>174
下段の場合だが、そもそも客車3段式★は70cm
電車三段式★★だと106cmだからなあ。
電車の方が寝やすいな。

176 :
>>174
10系ハネならまだしも20系以降なら空気バネ台車だからロール方向の減衰はしっかり出来てたんじゃないかな
加減速で出るピッO方向は車体の揺れはなくても線路と直角に寝ているとGで揺さぶられる影響は大きそうだし
レールと並行に寝ていればピッO方向のGで体が揺さぶられる可能性は低いだろうし

177 :
20系だと更に52cm
更に横になる方向で寝やすさが違うというのもあるのかもしれない

178 :
>>173 1975年3月改正
特急 金星 博多←名古屋
小郡 着  8:01

179 :
電車の場合ないが、客車の場合下手なウテシにあたると悲惨
発車のたんびにガターン!
特急では少なかったけど。

180 :
個人差が激しく、普通で静かな事もあれば、
特急でガックンガックンやってたこともあるなあ。

181 :
>>155
50・3までは「明星」の西鹿児島行きはなかったのですね。
勉強になりました。

182 :
>>1
「遠い将来」なんて言葉はない。
が、禿同

183 :
583系の寝台について、S53.10の時刻表では、
下り「金星」 "小郡から寝台券なしで乗車できます。" (小郡8:03---10:11博多)
下り「なは」 "熊本から寝台券なしで乗車できます。" (熊本8:23---11:44西鹿児島)
の記述が見られます。ということは 寝台の何処か一角を座席に戻しているってことですよね。

184 :
>>183
普通に寝台解体してたが。

185 :
>>184
全車両?それとも○○号車〜○○号車まで数両ですか?

186 :
>>183
>>185
ヒルネって言葉知ってるか?

187 :
>>185
>>183
S50,8に下り「金星」に乗車したが全車両です。
解体係員が1名で2両持ちだったかな?の受け持ちで7:00より始めていた。
車内放送でも案内があり、知らんぷりして寝ていたが、カーテンごしにたたき
起こされてしもうた。
解体完了する時刻を見計らってヒルネ扱いを始めていたようだね。

188 :
ソロにヒルネがあったら嫌だなw

189 :
3段寝台を解体したら4人座席に3人座る、ということになるんだな、基本

190 :
そこにもう一人来ても文句言うな。
通路に立っても文句言うな。
それが本来のヒルネ。

191 :
>>188
う〜ん、今の御時世だとソロにヒルネ制度があれば、不満続出でしょうね。
時代は変わりましたな。
昔は、1等寝台車マイネ37130の個室や2等寝台車マロネ37480の特別室でさえ、
午後9時頃〜午前7時頃しか寝台利用ができず、
他の時間帯は区間乗車の乗客を乗せていましたから。

192 :
Bソロとイネでは個室という概念からして違う。

193 :
>>191
「夜になるまで、誰のものでもない!」@宮脇長吉ですね。

194 :
>193
そんなことを言ってるとまた
「黙れ長吉!」と言われるぞw

195 :
お線香は青雲

196 :
581・583系の走行中の寝台解体の件なんだが、
星晃氏の「寝台電車登場の頃」によれば、
寝台電車の寝台設営・解体は営業中に行わないことが前提としながらも、
「朝など簡便法として中段を途中まではねあげて下段を座席に使えるよう
仮セットのための吊り上げバンドは用意してある」とある。
その「中段をかりに持ち上げた」写真も出ているが、
寝具は中段と上段の間に収納され、上段を仮の網棚として使用できそうではある。
実際に、「金星」や「きりしま」で行われた寝台解体ってこの方法だったんだろうか?

197 :
>>196
覚えてないなあ。乗ってるのに。
星さんの記事は、ピクかなにか?

198 :
ほんの数十年前まで組織的にやってた作業の真偽が、もう不確かなものになってしまうんだな。

199 :
>>197
星氏の記事はRJ誌74年8月号掲載のものです。
それにしても、星氏の記事には必ずといっていいほど「特急列車には折戸が最適」という記述があり、
年代によって「(151系設計時は)さまざまな理由で実現できなかった」から「某幹部の強い反対で実現できなかった」
と表現が異なり、星氏の立場が変わっていったことが伺えておもしろい。
>>198
金星51号氏も前に言ってたけど、本当にそうだよね。
紙がなかった時代に庶民が何で尻を拭いていたか、本当のところはわからないというのと同じだな。

200 :
尻を拭くのは、新聞紙、縄とかかw
子供の頃は、汲み取り式が普通だったから、四角いちり紙。
生まれる前は新聞紙を使ってたとか。本当か?

201 :
新聞紙、リアルタイムで見ましたよ。よくもんでから使うんです。
鉄道とはまつたく関係がないけど。

202 :
>200
奈良時代の坊さんは棒だったらしい。

203 :
ラーメンのCMに明星がでてきたことがあった
けど、あれは近鉄の駅だ…

204 :
日豊線南宮崎電化はS49年4月だが、直前の3月に「日南3号」に宮崎まで乗ったときは
すでに大分以南もED76が引いていた。途中ですれ違った上りの「日南」は
ED76とDF50の重連だった。

205 :
>>166-173
寝台の設営については、昭和51年10月までは車掌補の乗務があったので、
普通に設営していたと思いますよ。
14系15形や24系25形の固定ハネ導入は、乗客サービスの向上とあわせて、
人員合理化の一環で車掌補を廃止するための側面もあったわけですから。
ちなみに、禾重木寸氏の著書「鉄道旅行術」(JTB 1980.7改訂版)によれば、
「さくら」と「みずほ」で静岡・名古屋間で民間委託した業者作業員による
設営作業が見られるとあります。これらは確か3段ハネだったはずです。

206 :
上り「さくら」のA寝台に関しては、「はやぶさ」と一緒になりモノクラス編成
になる直前まで、静岡〜沼津間で寝台から座席への転換作業やっていましたよ。
ほとんど、無人の寝台を、年配の作業員が一人で淡々と作業を続ける光景は、
ブルトレ衰退を象徴するような寂しさがありました。

207 :
関西ブルトレは深夜から早朝にかけての時間帯だったため、小学生の頃は
名前は知っていても実物を見ることは皆無だった。
中学生の頃は、日曜日の朝の2時頃、自宅を抜け出して、これらの列車を
よく見に行った。すでに新幹線は博多まで開通していた時代だったが、
当時先頭に立つ機関車はまだEF58だった。
昼間の荷物列車ではあまり見かけない「宮原」や「米原」のゴハチがすごく新鮮に見えた。
広島のゴハチは、なぜかパンタが下枠交差のタイプを搭載していて特徴的だった。

208 :
ゴハチの関西ブルトレ牽引は、正確に言えば47.3からの「復活」だな。
増発に伴う夜間規格ダイヤの導入で、関西ブルトレが高速を必要としなくなり、
かつEF65を貨物と新生・瀬戸&出雲に使うために捻出する必要があり、
ゴハチ牽引のあかつき&彗星が「復活」した……、ことになっているけど、
あかつきも彗星も、新設から47.3まではずっとEF65牽引だよなあ。
てことは、「復活」ではなく「新規」だと思うのだが…。

209 :
>>208
東京ブルトレ含めて復活と言ってんじゃ・・・

210 :
大阪発の夜行に乗ったのは、田舎の佐世保に行った時(1974年頃)の「あかつき」
がある。当時、福知山線の伊丹駅から大阪に向おうとしたのだが、伊丹駅で
大雪のため(12月の末頃だった)、汽車(当時DD54牽引の客車)が来ずあわてて
阪急で三宮へ向かった。どうにかぎりぎり間に合い、三宮の南側(外側)のホームに
「あかつき」のヘッドマークを付けたEF58が、すごい音を立て、突っ込むような感じで
入線する様は子供心に今でも怖い記憶がある。そして、30年以上たった今でも
初めて乗った寝台車の空気のにおいの記憶が今でもある。
翌朝、鳥栖で停車時間がしばらくあって、ホームで駅そばを食べた記憶がある。
2回目は中学の時、1980年ころ、友人と旅行に行った時に新大阪発博多行きの
583系明星に乗った。583系に乗ったのはこれが初めてで興奮して岡山まで起きて
いた。岡山駅に入るとき、東京方面に向かうBTが見えたのだが、それが何なのか
今はちょっとわからない。(0時近くか、過ぎてたかもしれない)。
3回目は大学受験(長崎大学を受けに)再び「あかつき」に。1988年だった。
なぜか座席車両がついてたので少しでも安いほうがいいと思って、寝台に
乗らず座席で行ったのが悪かったのか落ちてしまった。
この前、書店で時刻表立ち読みしたら、ほんと味気ないというか寂しいというか
夜行列車がないとつまらない気がした。

211 :
>210
博多行きの「明星」なら岡山到着は0時を回っていたと思われるので、
その時間に岡山付近を上ってくるブルトレは、博多発の「あさかぜ4号」だと
思います。

212 :
長崎系統のあかつきに、581・583が投入されなかった理由は何ですか?
長崎や佐世保単独編成も存在してましたし。長大編成がネックになる時代よりも登場時は早かったのでは?
貫通扉も付けてるから短編成で分割併合したら良かったのにね。。。

213 :
長崎電化は山陽新幹線全通の後で寝台車の凋落がはじまっていたため、敢えて1〜2本異形式を入れる必要がなかったためでは…?
訓練や検修に手間もかかるし、かもめ・みどりは485で揃えたいと考えたのでしょう
また、分割併合するとすれば編成中にクハが2両必要になるが、
そのクハが調達できない
モハ(サハ)→クハは定員が減る
あかつき専用の編成にせざるを得ないため非効率
とかいう理由があったのではないでしょうか…?
寝台車や583全盛の72〜73年頃に電化されていれば、583のあかつきもアリだったかもしれませんが

214 :
理由は大雑把に言えば、車両運用上の問題ということになると思います。
583側からではなく、客車側から見た、車両運用効率のアップです。
「あかつき」の14系編成が、広域運用で「日本海」に使用されていたのは周知の通りです。

215 :
明星・彗星・あかつきの担当車掌区の詳細を教えて下さい。

216 :
>>212>>213
長崎・佐世保電化は異様に遅かったもんな。
宮崎電化よりも後だったとは、今ではちょっと信じられない。
大分電化(42.10)と同時に581系はデビューしたから、
あのとき長崎電化していれば、長崎あかつき・佐世保あかつきの併結列車として、
かもめと共通運用で有効に使えたかもしれないのにね。

217 :
>>216
新幹線博多開業にも間に合わなかったんだよね
新幹線の九州上陸に合わせて鹿児島・日豊・長崎佐世保各系統にECエル特急で連絡!と行きたかったのだろうに。。。
長崎佐世保系統はDC急行だけだったもんね・・・DC特急かもめ号も廃止されたし。
ちなみに、新幹線博多開業以降の関西発着の九州ブルトレで
モノクラス客車寝台編成の乗車率ってどのくらい減少していったのでしょう・・・
今のような閑散期には減車するなど、運行経費抑制されていたのでしょうか?

218 :
>>216
ああ見えても、宮崎は地方空港で初めてジェット機が就航したりとか、
当時は観光のメッカだっただけに交通機関拡充にもかなり力が入ってる。
尤も、それも高速道路延伸まで持たなかったけどな。

219 :
新婚旅行といえば宮崎、という時代があったもんな…

220 :
長崎電化が遅れたのは新線建設と佐賀付近のを複線化を先にやったからではないか?

221 :
まあ、輸送力増強が先だわな。
ただ、昭和40年代後半に予算的に車両の手当てがつかなかったのでは。
民有車でもどうだか。

222 :
>>217
本当は同時にやりたかったんだけど、山陽新幹線博多開業がオイルショックの影響に苦しめられているうちに予算がそっちに集中されてしまった。

223 :
スレチだけど、「かもめ」「みどり」用の485系って、東北の485系に
クハ300番台を中心に大量投入した事で捻出された200番台者を中心に
用意されたんだけど、肝心の電化の遅れで、用意された車両が宙に浮いた状態に
なってしまいました。折りしも、奥羽南線電化により、上野口最後のDC特急「つばさ」が
電車化されたが、これに投入予定の本格的耐寒耐雪構造の485系1000番台の落成が遅れてしまいました。
そこで「かもめ」用の485系を一時的に「つばさ」に先行投入し急場を凌いだ
という話です。3電気方式の485系の機能を有効活用した例として語り継がれています。
そういえばS53年に電車特急のイラスト絵柄化に先立ちデザインが発表された時、
なぜか「つばさ」のデザインが200番台サイズになっていましたが、その為だったのですね。

224 :
217>
新幹線博多開業後の関西ブルトレは夜行列車凋落のはしりだったかもしれません。
ブルトレブームに沸きかえっていた東京発ブルトレや、増発が盛んに行われていた
東北方面夜行特急を尻目に、新聞では空気輸送などと書かれていました。
具体的な乗車率はわかりませんが、2段ハネ化もむなしく、関西ブルトレの
トップを切って廃止された「安芸」の乗車率が10%くらいだったと聞いたことが
あります。当時中学生だった自分の頭で考えても、新幹線で3時間かからない
関西〜山口県内の夜行需要などありえないと思っていましたから、当然だと思っていましたが
九州まで行く「あかつき」「彗星」などは昨今の「富士ぶさ」よりははるかに
高い需要があったのでは?と思います。
ちなみに14系座席車で運転されていた「阿蘇」や「雲仙」をよく見ていましたが
8両の指定席は完全に無人、4両の自由席に2割程度といった乗車率でしたよ。

225 :
>>224
>ちなみに14系座席車で運転されていた「阿蘇」や「雲仙」をよく見ていましたが
>8両の指定席は完全に無人、4両の自由席に2割程度といった乗車率でしたよ。
繁忙期と閑散期に車両の減車、増結などせずに、ずっと固定編成・・ってことなの?
短距離ならともかく、長距離運用で乗車2割弱っていくら急行でもコストがハンパねぇ〜な。。

226 :
>>225
阿蘇、くにさき、西海、雲仙
銀河51号など・・・
いつでも12両編成

227 :
>225
当時は、編成は固定でしたね。
逆に、盆、年末年始、GWでも増結しないから
その時期だけは「阿蘇」「くにさき」なんかも通路までギッシリでしたね。

228 :
「彗星」は早めに予約しておかないととれないときがある、と大分にいた頃言われたことがあります
国鉄に勤めていたその知人いわく延岡と山口、広島県内各地とのあいだを利用する人が
わりあい多いのだということでした
私は京都に行くときに3回ほど利用しましたが、よく揺れる列車だと思ったのを憶えています

229 :
>>228
延岡なら旭化成関係者の出張ですかね

230 :
>>227
新系列の客車は6両単位、485系は12両、583系は13両、新幹線は16両。
ある時期の鉄道少年の脳はこれで刷り込まれていたはずです。

231 :
>>230
そんな昭和50年代初頭、長崎線電化開業直前の試運転で
初めて見た4両編成の485系のインパクトはすごかったw
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!(AA略

232 :
「みどり」が485系特急の最小単位だと思っていたあの頃・・・まさかもっと短くなるなんて。

233 :
4両編成でクロがまるまる1両だったんだから、凄い編成だったよな。

234 :
>>231
しかし、閑散期、繁忙期とお客の入りの増減のある地方都市線区でいつも長大固定編成だった方がある意味スゴイ。
ドンブリ勘定過ぎてw
80年頃のジャーナル誌での九州急行周遊の旅コラムでいつもすれ違う特急にちりん(当時12連)がガラガラで走っていると・・
国鉄だからなせる業なのか・・
ニーズ把握できても柔軟に対応できない壁が大きかったの?

235 :
国鉄末期の「なは」「彗星」は25形12両編成だったが6両が付属編成。
特に下りの場合、「なは」の付属編成が停まる下車駅は博多、鳥栖、久留米、
大牟田、熊本。「彗星」は下関、門司、中津、別府、大分。
これだけの駅で、B寝台6両分の下車客がいたとは、今では想像できない。

236 :
そういえばスレチだけど無くなる2年前の博多あさかぜで
博多で何人降りてくるかカウントしてみたら
30人前後だった(泣)。
シーズンオフの週のなか日ではあったけど。

237 :
九州でヘッドマークが復活した時、登場した「明星、あかつき」の合体マークは
すごくカッコ悪かった。その後の「さくら、はやぶさ」「なは、あかつき」も
九州内の図案は単純に二つのマークを併せただけでパッとしなかった。
しかし本州側の「彗星、あかつき」「なは、あかつき」「富士、はやぶさ」は
すごくいいセンスだと思う。
九州の車両はあんなにユニークなのに、ヘッドマークは手抜きなのかな??

238 :
かっぱらう馬鹿がいるからだ。

239 :
いつまでもつか分からん列車のヘッドマークに
そんなに力入れても仕方ないよw

240 :
スレチだけど、1980年代末から、全国的にヘッドマークを無くした
新型特急電車が流行った。
その中に783系があり、その流れが続いているような気がする。
ヘッドマークがさらに懐かしくなってゆくね…

241 :
正面から消えた代わりに、車両が特定の列車に固定運用になった分、
側面にシンボルマークを取り付ける例は増えたね。

242 :
篠栗線を走る特急「かいおう」の前面には赤地に「ARIAKE」の文字が刻まれていたように思いますが

243 :
いつぞや乗った「なすの」にも、側面には「つばさ」って書いてあったw

244 :
>>243
わざわざそっちに乗ったのかよw

245 :
>>241
九州名物「白いソニック」と「白いかもめ」の日常的な交換のことかーーー!!
あれ、走行距離を調整するためらしいが、それをやるんだったら
ロゴを替えろっつーの。重に高齢者が迷う姿をよく見かける

246 :
・・・数年前にTSUBAMEロゴ入りの787系有明に乗った覚えが

247 :
赤地に黒帯の赤かもめは秀悦だった

248 :
>>10
あれは特急安芸になっちゃったんじゃなかったっけ?
しかも急行音戸だった当時は機関車がC59だったような。
>>43
かっこいい^^
>>96
いい話じゃのう・・・。

249 :
マイネ40形7〜オヤ41形1から復元、飯田線中部天竜駅構内にある佐久間レールパークに保存。
マイネ40形11〜オヤ41形2から復元、碓氷峠鉄道文化むらに保存。
それをさらに、マロネ40形にまで復元して、初の寝台急行「海星」を走らせてくれ。
牽引機なんなんだろ?
昭和42年3月31日、大ミハのマロネ40 4が、狩勝実験線用試験車マヤ40 1に改造されました。
配置は釧オロ(帯広)です。
同じく大ミハのマロネ40 7,11は、42-10改正時に静ヌマ(沼津)に転属した後、昭和43年3月30日に三島操機区工事車オヤ41 1,2に改造されました。
廃車されていたはずのマロネ40 5が、釧路鉄道管理局保健車スヤ42 1に改造されました。
配置は釧クシ(釧路)です。
引用〜ttp://cu1.web.infoseek.co.jp/kumoi103/inerone4.htm
北海道のマロネはもうないの?

250 :
沼津通過時、オロネ40らしき車両を確認後、りゅうがもりでオシ17ハケン。

251 :
マイテ49は交通科学館から復帰
ED18は佐久間レールパークから復帰
C62は北海道鉄道記念館から復帰
やる気になればどこに保管されていても復活は可能でしょう!

252 :
「なはつき」って姫路〜大阪間の時間帯が上りは朝のVIP出勤、下りは
一杯ひっかけた後のラクラク退勤にピッタリのダイヤだったが、レガートシート
の愛用者って結構いたのかなあ??首都圏だったら絶対使う奴いそうだけど・・・

253 :
客車時代末期の「だいせん」ってそういう使われ方されてませんでした?

254 :
>>253
20系+12系?
帰りの下りは時刻が遅かったので、遅くまで飲んだサラリーマンが仕方なく使う場面はあったでしょうが、
上りを通勤ライナー代わりに使う意味はなかったでしょう。

255 :
上野〜高崎あたりの下り「能登」も割りとサラリーマンが乗っていますね

256 :
>>254
「だいせん」は14系+12系。
下りは篠山口やら福知山で下車する人が結構多かった。
これは気動車になってもそんなに変わらなかったです。
スレチ

257 :
>>254
下りにしても大阪はまだ20時台だぜ。
新快速が23時過ぎてもあるし、姫路へのラクラク退勤なら新幹線だ。

258 :
え?姫路?

259 :
レガートシートの切符を短距離で買われたら、
本当に必要な人が乗れなくなってしまいますね。

260 :
>>259
廃止が取り沙汰される前、空気輸送の「なはつき」はレガートシートもガラガラでしたが、
31レの博多←小倉は、結構乗車人数がありましたね。
小倉駅では、10号車のドア位置付近に5〜10名程度の人が待っていて、
スーツケースやキャリーバッグを持って、乗り込んでくるのをよく見ました。
博多で下車するまで、例のミニロビーで時間をつぶす人が結構多かったですよ。
見るからに「なはつき」に乗りそうにない客層、若い女性等がメインでした。
北九から海外へ行く人たちだと思います。
博多5:52着でしたから、朝早い飛行機に乗る人には、なかなか便利な列車だったようです。
>>252
関西は貧困ですから、特急料金を払って通勤することなど
有り得ないのでは?
>>257氏は、>>254のレスにあるアンカーもろくに読めないようです。
まるでシナ人か関西人並の低い日本語力ですね。

261 :
と、チョンが申しております

262 :
>>260
>>252
関西は貧困ですから、特急料金を払って通勤することなど
有り得ないのでは?
>>257氏は、>>254のレスにあるアンカーもろくに読めないようです。
まるでシナ人か関西人並の低い日本語力ですね。
こんなことをわざわざ書くからまったりしているこの板も荒れるんだ。

263 :
>>260 なるほど。あかつき号のレガートシートには、そういう需要もあったんだね。
しかし、客室には入らずに車端のロビーに乗ってたということは、
指定席特急券は持ってない乗客だったのかな?
自由席特急券を持っていれば、Q管内限定で黙認?

264 :
上りながらの半デッキには明らかに指定持ってないサラリーマンが多数乗車してたからなぁ

265 :
「なは」は博多発が0時をまわっていたから、ライブやナイター帰りの人が乗り込むことがよくあった。

266 :
彗星は飛行機より高かったから1994年辺りで廃止されても仕方が無かったね。

267 :
263>
といより、私も「あかつき彗星」時代のレガートに早朝の岡山から大阪まで
乗ったことありますが、真っ暗な室内に、数人がフルリクライニング状態で
いびきかいて寝ており、正直、指定券持っていてもなんか入りづらい雰囲気でした。
そういう中でおとなしく座っているより、ロビーでおしゃべりしていた方が
快適だと判断したのでは???

268 :
なはには昔よく乗ったな…
熊本在住で東京に行くときは、いつもなはで岡山まで行ってそこから
新幹線でビーフシチューを食べるのがお決まりだった

269 :
>>267
安カプセルホテルに、夜中に入ると、そんな感じだなぁ・・・・
ロッカーやアコーデオンカーテンの開閉さえはばかれる雰囲気だったwww。
てか、レガートシートやB寝台やノビノビ座席に、貴重品ロッカー設置しないの?
ピッキングとかで盗まれたときにJRが責任とわれるとやだから、個人で管理させちゃえば本人の責任になるから設置したくないってことだろうか・・・。

270 :
>>263
>自由席特急券を持っていれば、Q管内限定で黙認?
以前、上りあかつきのレガートシートに乗っているとき、
(指定券を持たない)飛び込みの香具師が指定席分の額で
徴収を受けているのを見かけますた。(博多→小倉間)

271 :
>>266
「彗星」と直接競合関係にあったのは大阪―別府や宮崎のフェリーだった
わけだが

272 :
彗星とあかつきは小倉に止まらないから使えない
使えるのは明星と急行の日南
と親に言われてた
俺は1972〜1975年の3月まで関西在住、両親は北九州の小倉北区出身だった

273 :
客車特急は機関車の付け替えの関係で下関と門司に停車
バランスを取るため、電車特急は小倉に停車
両方停まる下関が一番得してた
ふくめし、ふく天うどんは今と比べ物にならないくらい売れたろうな

274 :
>>260,>>263,>>270
まだ「なは」号が単独運転していた頃の話。
福岡市内⇔熊本(武蔵塚)の2枚きっぷで熊本へ行った友人が、
帰るとき、最終「つばめ」号に乗り遅れた。
そのとき熊本駅の職員に、まだ新大阪行「なは」号があるから
それのレガートに乗るよう指示されたそうだ。
対熊本の2枚きっぷは自由席のバージョンだが、特に指定料金はとられなかったそうだ。

275 :
>>269
スレチだけど、東北新幹線200系の二階建て車にロッカーが備えられていた
ような気がするが、使われていなかったみたいだった。
日本の列車内でロッカーを見たのはその時だけ。

276 :
>274
それ、部内で黙認だったんだろうな。「なは」レガートに博多から乗ろうとしたら
数人の客が降りてきたのにびっくりしたことがある。
その中に熊本県出身・福岡在住某タレントがいたからなおさらびっくり。
(いきなり降りてきたから鉢合わせになったよw)

277 :
「なは」が熊本打ち切り以後も、しばらくは単独運転が続いたが、熊本打ち切りの単独時代の乗車率って
想像しただけでも悲惨だっただろうなって思ていた。
まちがいなく廃止され、関西ブルトレ最後の1本が「あかつき彗星」になると思っていた。
「彗星」が先に廃止され、「あかつき」の相棒として「なは」が生き残ったのは意外だった。

278 :
(中学生の頃)昭和50年、大阪駅では安芸〜急行鷲羽〜583系明星〜58牽引あかつき〜…81系まつかぜ、381系しなのが撮影パターンでしたね。
今からは考えられませんが、当時は、あかつき、彗星、明星、が何本も走っていました。
赤帽さんもホームにおられ、お客様もそこそこ乗車されていました。

279 :
うおー、懐かしい!
ブルトレブームの頃、写真を撮っては友人達と見せ合っていました。
ある日、明星が20系の電源車を繋いでいてびっくりしたことを思い出したよ。

280 :
カニ22の改造車のカニ25ですな。予備車として明星や大分行きの彗星に使われてましたね。時々見かけましたが、20系全盛時代を思い出させてくれる車両でした。

281 :
改造された当初の背景は似たようなものだけど、
20系用のマヤ20とちがって、カニ25は電源車の
本務機(と言うと語弊があるが)にもついていたんだよなぁ。

282 :
>>281
カニ24が故障した時の代替車として役割も有った。

283 :
ttp://hokuso.com/date/jpeg-date-25-2.jpg

284 :
KTNスピークで長崎市内の高架を走るあかつきの映像喜多━━⊂⌒~⊃。Д。)⊃━━!!!

285 :
6〜7年前にどうしてもブルトレに乗りたくなって
「彗星」で宮崎〜 快速など乗り継いで西鹿児島
「つばめ」で博多と、九州を一回りした。
都城で乗り換えの待ち時間があったのだが、
ホームから見える荒れ果てた留置線が痛々しかった。
なんか「兵どもが夢のあと」と云うか・・・
切ない気持ちになった。

286 :
都城はねえ・・・
かつて長距離列車が発着してたとは思えない有様

287 :
>>286
駄菓子菓子、九州新幹線全通でフカーツしそうなヨカーン

288 :
ブルトレの次は485が九州から消える番ですね…

289 :
>>288
九州新幹線全通で有明787モノクラスは宮崎落ち?
リレー車も短編成化して持っていくのかな?鹿児島中央にリンクする「きりしま」はともかく「にちりん」も置き換えできるほど余剰なのかな?

290 :
>>237
亀だけど、「明星・あかつき」はいいと思ったがなあ
むしろ、その三つの方がダサいと思った
特に「なは・あかつき」と「彗星・あかつき」は

291 :
>>290
概ね同意。
単純な配色決めというよりも、ブレンドのうまさを感じるかな。w

292 :
昭和47年5月15日午前0時、本土復帰のサイレンが那覇市内で鳴り響いた。
本土復帰の最初の朝、なはの車内はどんな雰囲気だったでしょうか。
最初の車内放送では、「本土復帰おめでとうございます。」と流れたのかな?

293 :
>>276
う〜ん…それはたぶん西の車掌が「二枚きっぷ」を指定席回数券と思い込んでたのでは…
普通は収受します。
新幹線開業前つばめ末期の頃
西鹿児島20時代発ができたら少なくとなりましたが、最終が19時10分西鹿児島発の28Mの頃は熊本21:45に出れば次は「なは」しか無いので熊本乗車は割と多くありました。
博多以北も同様に小倉までの利用が多くありました。
ちなみに博多〜西鹿児島間ですが、B個室ソロの利用が結構ありました。
グリーンよりは高いけど
西鹿児島到着が1Mより早い(下り)
28Mもあるけど疲れたからのんびり帰りたい(上り)
そんなお客さん、ビジネスの方が割とありました。
特に下りは熊本〜西鹿児島を立席特急券でヒルネ利用ではなく、あえてソロに乗る方も…
一度そんなお客様とお話する機会があり、つばめのグリーン個室をおすすめしてみたら
「グリーン個室は広くていいけど、つばめレディさんが来るし横になりにくい。1人じゃなんか広すぎて落ち着かないからね」
と。
彗星の九州区間でも、そういうビジネス利用はあったようです。
あかつきに乗務したことがありますが、下りに鳥栖〜長崎でシングルDXに乗ってこられた方がいました。「長崎で大事な用事があるから1人で景色を見ながら色々と考えながら行くのもいいんだよ」と聞きました。
そんなに1人で仕事のことを色々考えるなんて車掌は乗務員室があるからわからないけど、寝台は夜中に寝るだけのものではないと実感しました。

294 :
>>293
乗務員室で深夜は何を考えてますか?

295 :
>>294
帰宅したら何しよ〜かな〜
朝飯ど〜しよ〜かな〜
です。
東京からの帰りは到着が遅いので東京駅で弁当調達してました

296 :
>>278
その「安芸」を撮影しようと東京から夜行でいった場合
東京→(いなば・ハザ)→京都→(立山)→新大阪だった。
京都発の初電各停だと間に合わない。

297 :
>>295
昔、東京に住んでいた頃東京駅で九州の車掌さんを見かけると
「おお!こんな所に九州の車掌さんが!やはり線路は繋がっているんだな」
と当たり前な事に感動した記憶がありました。
今や東京駅で九州の車掌さんを見かける事は無くなって久しいし、
九州を結んでいたブルトレももうすぐ無くなりますね・・・・・。

298 :
>>277
熊本は寝台特急のターミナルとしては優遇されてたね
東京行きも関西行きも最後の最後まで生き残っていたし。
熊本自体が政令市になれるくらい都市規模が大きいこともさながら、
やはり鹿児島本線という九州最大の幹線だからというのもあったのかな。

299 :
昔風の考え方で、九州新幹線が部分開通したときにも、とうぜん
はやぶさは八代までは走らせるのだろうと思っていたから意外だった。
しかも九州新幹線全通を待たずに廃止とは…

300 :
あかつき撮りに行こうかなぁ……?

301 :
>>293>>295
おお、九州の車掌さんですか。
さくらorあかつきでお世話になったことがあるかもしれません。
諫早市民として崎サキ表記の車輌が上京したり、
九州の車掌さんが上京・上洛するのに萌えたことがありますよ。
路車板の九州ブルトレのずっと前のスレで西の車掌さんが
九州遠征ができなくなったことを口惜しがってましたが、
九州の車掌さんもお仕事で上京・上洛できなくなったことを
口惜しがってるんでしょうね・・・

302 :
やはり、こういう長距離夜行って
「このレールは東京や大阪まで繋がっているんだ」と認識させるものであったよな。
九州基準の目線だと下関を跨いで本州へ入っていく旅客列車が全滅するのはちょっとさびしいね。
(新幹線は除く)

303 :
やっぱり、東京行きは、ステイタスですかねぇ・・・。
宮崎県の東知事ががんばって高千穂復活・・・・いえ、なんでもないです。

304 :
>>303
ええ、さくらはステイタスだったと思います。
私は2004年3月にさくらで京都に行き、さくら乗車はそれが最初で最後でした。
さくらもあかつきも同じ車種であり、さくらの車輌の一部(15の0番台)は
あかつきの転用であることは存じてましたが、それでもさくらには
かもめやあかつきにはない貫禄があると思ったものでした。
さくらに1回しか乗ったことがなかったので、先月24〜25日にかけて
博多から名古屋まではやぶさ葬式乗車した時、スハネフ14-5、
つまり、さくらの14系化後から廃止まで、さくらにほぼ一貫して使われた
車輌に当たった時は感動ものでしたよ。

305 :
昨日、テレビで屋久島のことやってて15年ぶりに行ってみたくなったけど、
もう鹿児島まで寝台車で行けないんだよな・・・
そう考えたら行く気が半減した。

306 :
便利で快適なフェリーをご利用ください

307 :
>>304
その「さくら」が 鹿児島⇔新大阪 の新幹線愛称になるとはね 時代は変わり続ける

308 :
>>306
余計なお世話です(^-^)

309 :
>>292
そのころのなはって寝台列車か?

310 :
>>309
1972年5月なら日向と併結のディーゼル特急だね。

311 :
>>305
ニーズが高ければ廃止されて無いと思うけど?

312 :
>>311
昨今の夜行激減は単にニーズの有無だけではない感じがする

313 :
ニーズはあるだろ、夜行バスがあれだけ走ってるわけだし
ロングシートに毛の生えたような席に布団敷いて寝るのが
新幹線+ビジネスホテルより高けりゃそりゃ誰も乗りたくねーわ
寝台車走らせるより座席車にした方が、まだ客入るわ
もはや、つやまどころじゃねぇぼったくり特急のオンパレードだろ、寝台列車は。

314 :
>>313
だから、そこなんだよな。
結局の所、夜通しの移動が金のかかる
交通機関でやるべきじゃないって所に来てるわけで。
走るところは自前で整備して安全要員も配置しないと行けないような
金のかかる交通機関の一つにすぎない鉄道は
夜通しの移動から撤退しないと行けないところに来ていると。

315 :
適正価格は、仮に東京−大阪なら
運賃+在来特急料金指定=B寝台
ひかり指定=B寝台ソロ A寝台
のぞみ指定=A寝台個室
のぞみG=ロイヤル
これが適正だろう、銀河B寝台で15000円とかありえない(かった)
企業だって朝1時間くらいの差で夜行使わせるよりは、朝一番の
新幹線や飛行機で行かせるわ。東京九州ブルトレとかなおさらだし

316 :
やはりB開放寝台6300円追加は大きいよな。
カシオペアやサンライズみたいな新車ならまだしも、車齢40年近い車両なんだから、
寝台料金を値引くか思い切って廃止してもよかったのかもな(つまりゴロンとシート)。
ふとんとかいらないけど、横になれるだけでも違うから高速バスとも違った需要はあったかも。
あと、九州側からなら寝台往復切符があって、
片道あたり15000円〜17000円程度で東京まで行けたんだけど
いかんせん誰もそう言う切符があるのを知らない。というかPRもしてこなかったが。

317 :
たしかに。とっくに車両の減価償却おわってるんだろうしなんというか。
設備に対する金か、専有面積に対する金か、微妙なところだが、同じ専有面積のゴロンとが指定だけの値段なのだから。
スリッパとまくらと布団とシーツの値段=6300(−510(ゴロンととの差額))円なのだろう。

318 :
本州ではないけど「まりも」の寝台料金を季節によって半額?にした
ことがあったような。もともとの利用者数の違いはあるかもしれないが
その後それらの列車がどうなったかはご存知のとおり。

319 :
うん、まりもは閑散期三千円だったっけ?安くていいよね。
寝台は下段が埋まるくらいだったなぁ・・・。
座席車も含めた全体の乗車率であぼ〜んしたんじゃないかな。
たぶん。

320 :
>寝台は下段が埋まるくらいだったなぁ・・・。
それ、寝台も振るわなかったな、って言ってるのと同じだから。

321 :
でも東京−大阪は別にして、夜行バスの客が全部鉄道に流れたとしても
1列車全部埋まるはずもないよな、どの便も学校休み除けばバス1台だしな

322 :
その分瀬戸内航路が絶好調になるのですね、分かります

323 :
フェリーの上客は人間じゃないので・・・

324 :
だからこそフェリーは余力を風呂や食堂に回せるのですね。

325 :
>>323-324
そうか、そういうことか。
じゃあ、寝台列車にも、トレーラーのシャーシーを連結して・・とはいかないから、ISOコンテナかなんかを連結して、その輸送費も収入の足しにしたらどうよ。
で、ドライバー様専用のドライバールームとか、食堂とか風呂とか連結するの。
JRFは激らいばる出現で困るかもしれないけどさ。

326 :
積み下ろし設備の負担増やら編成重量増大で圧縮引き出しによる乗り心地最悪化とか、
デメリットのが多いような気もするけどな。

327 :
>>325
列車に乗せようとすると燃料抜けって言われるんじゃなかったっけ?
ていうか「カートレイン」ってあったじゃないっすか。

328 :
>>325
ユーロトンネルで走ってる列車みたいにしないと無理。

329 :
83年の時刻表眺めてて思ったけど、
先発する彗星1号(583系)が宮崎止まりで、
後発の彗星3号(24系)が都城行きというのは何か不思議だ

330 :
南宮崎以南が電化されたのは1979年だったからその名残なのと、
583系をにちりんに投入する都合なのかもね。

331 :
>>329
まだ夜行需要の絶対数が多かった時代だからそれでも十分やっていけたの
>>330
それそれ。
結局宮崎以南で583系の定期運用はないまま終わったよね、確か

332 :
>>315
それが適正価格だからこそ、
JRは廃止したんだって。

333 :
>>332
あっ。ここは懐かしスレだった。
こんな議論は総合版ですべきだった…スマソ
>>329
彗星3号の付属編成は大分回転していなかった?
ピンクのページの編成表をご確認ください。
で、それであれば、あながち矛盾は感じないと思いますが。
そういえば、14系や24系が2段寝台化改造されてゆくとき、
583系もやればいいのに、と思った少年時代…。
ただ、583系を2段寝台化するには、
オロネ14とオロネ24は個室化改造が条件だなと思っていました。
で、実際には583系についてはサロネ581を除いて2段寝台化されず、
変な近郊型電車への改造が実施されてしまったのがorz

334 :
>>333
>彗星3号の付属編成は大分回転していなかった?
>ピンクのページの編成表をご確認ください。
>で、それであれば、あながち矛盾は感じないと思いますが。
ごめん、意味がわからん。
後から出る列車の方が遠くまで行くのって変だなあって思ったんだけど、
それがなぜ大分切り離しと関係するの?

335 :
大分回転…
すごく回ってるのかと思った

336 :
花びら大分回転

337 :
>>335
富士は宮崎行きの編成より1.5倍ほど回っていたが、
彗星は都城まで行った相方が戻ってきて
そのままつながっていったからな。

338 :
>>337
あ・・・そういう車両運用ももう解説が必要な時代になったのね・・・orz

339 :
確かに遠くまで行く列車の方が、関西を早く出発していたが、それほど厳密ではなかったようです。
事実51年頃は熊本、長崎行きの「明星、あかつき」の後を西鹿児島行きの583系「なは」が追っかけていた。
東京発もトップバッターは西鹿児島行きではなく、長崎行きだったし・・・・

340 :
NHK G 14日 2115〜

341 :
>>334
当時の「彗星」の旅客の流れは、下り列車でいえば、
大分までで過半の旅客が下車し、さらに佐伯、延岡、宮崎等で下車が続き、
宮崎より先、都城まで足を延ばす旅客は、ごく限られていたと思われます。
また、大分以北で下車する旅客は、どちらかといえば、
1号よりも3号、5号を利用されていたと思われます。
(その当時だと「5号…大分行」は既に設定されていない?)
その手前(行橋、中津など)で下車をするには早すぎるからです。
私の手元にはもう既に資料がないのでわからないのですが、
おそらく1号の大分到着時刻は相当に早かったような記憶があります。
一方、使用する車両ですが、
かたや583系電車で切り離しのできない編成でしたが、
かたや24系25形客車で途中駅で切り離しが可能な編成です。
ということは、
〇583系は、切り離しができないので、できるだけ早い時間帯の列車に充当する。
○25形は、切り離しができるので、都城まで足を延ばす列車に充当する。
 そして、その付属編成は大分で切り離す。
としたほうが自然な流れと考えることができます。
終着駅での到着時刻が遅くなりすぎないよう配慮することも重要ですが、
どうやら中途で下車する旅客の流れも含めて考えられたのではないかと。
なお、私自身日豊本線の利用経験は1回しかないし、
関係者やヘビーユーザーから聞いた話でもないので、
できれば詳しい方のご解説を頂けると助かります。

342 :
大分に住んでいた頃、国鉄(JR?)に務める知り合いに聞いた話ではありますが
「彗星」で大阪から宮崎まで行くのはよほどの物好きだろう、と
多くの乗客は別府か延岡で降りる、ということでした
私は所用で佐伯、延岡までそれぞれ一度ずつ利用したことがあります
大分からの日豊線下り特急の一番列車だったように思うのですが記憶違いがあるかもしれません
体を横たえることもできるので私は「にちりん」よりも好きでした
これは「富士」についても同じです

343 :
なはは沖縄復帰をこめた愛称だけに重みがあるな。西鹿児島駅のサボも懐かしい。

344 :
>>342
ありがとうございます。
大分以北で結構降りてしまうことや、
延岡など、県庁所在地外の都市で降りる客が意外に多いのがわかりますね。
旭化成の関係者が利用されていたのでしょうか。
空港から便が悪いことも、利用されていた理由かもわかりませんね。
ところで、新幹線博多開業後、彗星が3往復していた時代の、
各列車の大分および宮崎、都城到着時刻がわかる方、
お示し願えるとありがたいです。

345 :
新幹線博多開業直後のダイヤでは、1号(583系)は宮崎着が8時代だったと記憶しています。
0時過ぎに柳井に停まった後、別府まで客扱いなし、関西、山陽地区対宮崎県に特化したダイヤでした。
2号は大分に7時過ぎ、宮崎に10時過ぎ、都城は11時40頃の到着で、関西発九州行きのブルトレでは、最も終着駅到着が遅い列車でした。
3号(583系)は大分着が8時代。早朝の徳山、小郡、宇部にも停車しており、日豊線というより
関西〜山口、北九州間がメインのターゲットでした。

346 :
なんで終点が都城だったんだろう?
何かあったのかな。

347 :
都城以西は、鹿児島経由の方が早いからだと思う。
熊本行を先発させ西鹿児島行を後発させるのは、
乗客を分離するためでは?
西鹿児島行の後を熊本行が追いかけるダイヤにすると、
熊本の客も鹿児島の客も、同じ列車に集中し
西鹿児島行 瞬祭
熊本行 空気輸送
になるからだと思う。

348 :
>>346
吉都線と志布志線があったからじゃね?
一度、小林の実家まで帰るっていう学生に会ったことある
「彗星」じゃなくて、大分止まりの「富士」だけどね

349 :
>>347
「みずほ」が、まさにその状態だったな。S50年ごろは、
はやぶさ東京1645→熊本1058、みずほ東京1700→熊本1123
だった。

350 :
よくみたら、明星も西鹿児島行きを先行させて、
熊本止まりのあかつき併結列車は全部後だね。
明星のトリは37Mの博多止まりだ。
彗星だけが、宮崎行、都城行、大分行の順番で出てる。
ただし、上りの新大阪着が大分発、都城発、宮崎発の順番なので、
おそらくはさっさと昼行運用に折り返させて、夜行運用までは
遅くまで引っ張るという583系の運行効率の問題じゃないかと思う。

351 :
昔の時刻表を掘り出してきた。
 1975.10
3001M 新大阪 18:28-05:09 大分 -08:26 宮崎
3003レ 新大阪 19:31-06:31 大分 -10:35 宮崎 -11:54 都城
3005M 新大阪 21:43-08:27 大分
205レ 大阪 20:44-09:38 大分
1,3号は583系12連。1号はロザ×1+ハザ×4(!)、3号は各1両、ともに食堂車営業休止。
2号は25形ハネ12連(+電)。うち大分回転6両。
 1978.10
3001M 新大阪 18:22-05:08 大分 -08:26 宮崎
3003レ 新大阪 19:31-06:30 大分 -10:33 宮崎 -11:54 都城
3005レ 新大阪 21:56-09:08 大分
4201レ 新大阪 18:31-08:06 大分
1号は583系12連。ロザ・ハザ各1両、食ry休ry
3(旧2)号は変化無し。5(旧3)号は25形化されてハネ10連(+荷)
電と荷の違いも興味深いというか、
この頃の5/2号には、カニ25が隔日で入っていた。
「くにさき」は「阿蘇」(201レ)と併結に合理化。

352 :
続き
 1980.10
3001M 新大阪 18:42-05:02 大分 -08:28 宮崎
3003レ 新大阪 19:57-07:00 大分 -10:54 宮崎 -11:50 都城
「彗星5/2号」「くにさき」廃止。
編成は1号のハザが無くなった(寝台化)以外変化無し。
 1982.11
「彗星1/4号」10連化。時刻は大きく変化無し。
 1984.2
3001レ 新大阪 19:57-07:00 大分 -11:01 宮崎 -11:57 都城
「彗星1/4号」…というか、九州特急の583系全廃。
生き残った25形は大分回転車を7両に増強、ハネ13連(+荷) 
都城に関しては、あくまでも付け足しで、
取りあえず支障のないのを延ばしてみました、という感じでは。
それにしても583系はいい着時間帯をもらっていたな、と感心。

353 :
>>345 >>351-352
ありがとうございます。
彗星1号の大分到着時刻が、
付属編成を切り離すにはあまりに早すぎる時間帯であるのがわかりますね。
しかるに切り離しのできない583系を導入するのが自然と考えられますね。
彗星2号(S53.10以降は3号)ならば、大分で付属編成を切り離すのは、
ちょっと早いけどまあ理解できる時間帯であるのもわかります。
しかるに25形を導入したのもわかりますね。
また、宮崎以南まで乗りとおす旅客が限られていただけでなく、
当時は宮崎以南非電化(電化はS54.10)だったこともあって、
都城行には必然的に25形が充当されたのでしょう。
ならば、
・「彗星1号」を25形都城行にして、付属編成を宮崎で切り離す。
・「彗星2号」を583系宮崎行にする。
ことも考えられますが、
こうなると大分以南の輸送力が過多になってしまうという問題が生じます。
以上により、
・彗星1号は583系宮崎行
・彗星2号(S53.10以降は3号)は25形都城行(付属編成は大分切離し)
という形になったと考えられます。
という推測をいたしましたが、如何でしょう。

354 :
博多から「なは」に乗る予定だったのが、長浜屋台で酒飲んで、ラーメン食った後に博多駅に着いたら、電光表示板に「山口県内の大雨により運休」と案内が・・・。

355 :
>>353
彗星一号を客車にしたら新大阪17時代の夕方ラッシュに発車ってことになるよ。
それに、日豊本線の末端区間である宮崎-鹿児島間は線形も貧弱で、重たい581系12両が
うまく入れなかった可能性はあるんじゃね?、

356 :
17時台なら別にいいような気もするけど、
東京は17時台発車が昔からなかったな
混雑具合って17時<18時<19時だと思うんだけど、昔は違ったのか?

357 :
>>356
一応山陽新幹線博多開業後は17時から18時の間は優等列車はなし。
75.3で
1657 但馬4号みまさか3号
1800 はまかぜ2号
1804 明星1号
1836 彗星1号
1840 雲仙西海
1851 明星2号
大阪だと75.3前は17時台も結構あったけど、山陽本線は長距離客であふれてたしね。
まあ、17時台がなかったのはどっちかってと東京の方だったからついうっかり出したw
なお、昔はフレックス勤務制度無しで8時始業17時終業。通常残業0-1時間だから、
17時台-19時台は多少前の方が多かったとかだったと思。

358 :
ちなみに>>351の彗星、発車時刻所要時間そのままに客車と電車入れ替えると
新大阪 1828-0528大分-0932宮崎-1058都城
新大阪 1931-0612大分-0929宮崎
宮崎で追い越すwとかはおいといて、両方宮崎着9時台半ばだとやっぱ遅いんじゃね?

359 :
今週のモーニングにあかつき登場

360 :

|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
||  ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
||  エサを 与えないで下さい。             Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて   \ (゚ー゚*) キホン。
||  ゴミが溜まったら削除が一番です。       ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_      | ̄ ̄ ̄ ̄|
     (  ∧ ∧__ (   ∧ ∧__(   ∧ ∧     ̄ ̄ ̄
   〜(_(  ∧ ∧_ (  ∧ ∧_ (  ∧ ∧  
     〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
       〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ

361 :
彗星だって24系25型客車に583系電車。さらに臨時で座席の14系客車まであったよな。
でもすでに当時空き始めてた。

362 :
車種のバラエティーに関してはあかつきより
彗星が一枚上手だね。
20系、14系、24系、25形、14系(座)、583

363 :
あかつきは朝鮮時代も含め電車がなかったからな。

364 :
あかつきって20系時代に個室寝台もあったんだな。

365 :
>>362
最後に15形

366 :
>>362
晩年は>>365氏がおっしゃっているとおり、14系15形も使われていましたね。
今を思えば、バリエーションに富んだ列車だったかもしれません。
行先も大分、宮崎(南宮崎)、都城、とありましたし。
24系25形でありながら電源車は20系からの改造車カニ25が使用されたケースもあったし。
とはいっても私は関東人で、彗星だけでなく、あかつき・明星・なはの雄姿をついぞ見る事がなかったorz
>>363
昭和50年3月までは全編成が長崎行というものもありましたが、
その頃は長崎本線は非電化だったしなぁ。
電化されて以降は長崎・佐世保行か、明星との併結かいずれかだったしなぁ。
583系のでる幕はなかったといえますね。
(えっ?サハネ581の先頭車化改造?…そこまでする必要もなかったし)

367 :
583系って貫通扉あるから、分割併合もやろうと思えばできたんじゃないの?
「かもめ・みどり」みたいに

368 :
>>367
分割併合は可能な構造です。
ただ、新幹線博多開業した昭和50年3月改正のときも、
583系による寝台電車の本数は(実質的に)変わってなくて、
フル稼働していたのです。
しかし当時は長崎本線・佐世保線は電化工事の真っ最中でした。
で、次に大きなチャンスがあったとすれば昭和53年10月のダイヤ改正で、
583系の運用には余裕が生まれてくる一方、
「あかつき」には当時最新鋭の14系15形が導入されています。
ただ、この「あかつき」も一部非電化の筑豊本線を走ったりで…。
二段ハネが時代の流れってのもありましたし。

369 :
>>367
スレ違いだが485系かもめみどりじゃ貫通扉使ってなかったぞ。
583系含めて先頭が急行型やキハ82見たくなってたら通り抜けできるようにしただろうが。
いずれにしても長崎線電化後じゃ関西夜行の利用者数は右肩下がりだったからなあ。
まだ二段化改造してさくらみずほにでも使った方が良かったかもしれんw

370 :
しかし、当時の583系では分割編成にしようとすると、編成中に食堂車が2両はいるな。

371 :
>>369
>長崎線電化後じゃ関西夜行の利用者数は右肩下がりだったからなあ。
まさしくおっしゃるとおりですね。
この後55年10月、57年11月、59年2月と、改正ごとに激減していき、
そのうち「明星」という列車名を必要としないところまで減ってしまう。
その一方で、二段ハネが普及してくると、583系はもはや不人気車両になってしまい、
長崎・佐世保行の「あかつき」(上りは逆)がクハネ581を突き合わせて走る姿なんぞは、
当然ながら見ることなく終わってしまいますた。
で、その後、583系が姿を変えて長崎本線・佐世保線にやってくるのでした…orz

372 :
あかつき万歳!

373 :
早い時間帯に出発する明星か彗星で、暮れなずむ明石海峡を見てみたかったものだ

374 :
たかたかたたん、たかたかたたん、、、おっ彗星だ〜

375 :
明石大橋の案内はいつからやってたんだろ
橋が出来てからずっと?

376 :
898712158203124
【画像あり】「同級生の女の子に頼んでみた」中学生AVが流出 ★14
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1256707678/
394256591796874

377 :
モーニング今週号のカレチに彗星登場

378 :
はやぶさが今小惑星イトカワから帰還中だけど来年は金星にあかつきが旅立つんだってね

379 :
「すいせい」という探査機もありました

380 :
JALの福岡〜関西・大阪便も廃止されるようですし
そろそろ九州〜関西を結ぶ夜行列車にも復活してほしいものですね

381 :
>>378
打ち上げに成功しましたね。

382 :
明星・あかつきの併結はあかつきが明星(金星)へ行くことの暗示だったわけだ

383 :
明けの明星に引っ掛けたんじゃないの?

384 :
あかつきのオマケの3機は行方不明

385 :
明星・あかつきを乗務していた車掌区を教えて下さい。

386 :
>>385
京都、大阪、下関、門司、博多、鳥栖

387 :
昭和48年4月の大阪駅発 九州方面夜行
1812 急行桜島・西鹿児島 急行高千穂・日豊経由西鹿児島 ※東京始発
1836 特急あかつき1号(客車) 長崎・西鹿児島
1840 特急あかつき2号(客車) 熊本
1900 急行雲仙 長崎
1905 特急明星1号(電車) 熊本
1940 特急彗星1号(客車) 都城
1944 急行西海2号 佐世保
2006 特急明星2号(電車) 熊本
2014 急行日南2号 宮崎
2036 特急きりしま(電車) 西鹿児島 ※京都始発
2043 急行天草 西鹿児島
2106 特急あかつき3号 西鹿児島・佐世保
2123 急行日南3号 都城
2136 特急あかつき4号(客車) 熊本・長崎
2206 特急明星3号(電車) 博多
2222 急行阿蘇 熊本 ※名古屋始発
2236 急行明星4号(電車) 熊本
2240 特急彗星2号(客車) 大分
2314 急行音戸1号 下関
2329 急行鷲羽2号 宇野(寝台なし)
2332 急行つくし2号 博多
2341 急行音戸2号 広島 ※京都始発
2358 特急さくら 長崎・佐世保 ※以下東京始発ブルートレイン
012 特急はやぶさ 西鹿児島・長崎
029 特急みずほ 熊本
121 特急金星(電車) 博多 ※名古屋始発

388 :
1505発(だったかな?)の急行屋久島1号・西鹿児島行も、ぎりぎり九州方面夜行に入るかと・・・

389 :
>>388
それもありました。
1505 急行屋久島 西鹿児島
停車駅は三ノ宮・神戸・明石・加古川・姫路・和気・岡山・倉敷・笠岡・福山
尾道・三原・西条・広島・西広島・宮島口・岩国・柳井・下松・徳山・防府
小郡・宇部・厚狭・下関・門司・小倉・博多・鳥栖・久留米・大牟田・熊本
八代・水俣・出水・阿久根・川内・串木野・伊集院・西鹿児島

390 :
「明星」に乗って、西鹿児島に行きたい

391 :
スレ違いではあるが
大阪の大学に行っているときに、帰りに大阪駅から明石駅まで急行屋久島によく
乗ったものだ(通学定期で)兵庫駅を通過してから列車線を通るのが新鮮だった
この区間だと検札にはこなかったから出来たんだけど

392 :
保守

393 :
>>391
なかなか稀有な経験をお持ちのようで

394 :
今週のモーニングカレチに彗星登場

395 :
見逃した・・・

396 :
明星には新大阪駅11番ホームが良く似合う。

397 :
>>391
昼下がりの大阪駅に停車中のロネ、ハネ、ロザに
平日だととにかく客が乗っていなかったのと
大阪>三宮間の快速との並走が懐かしい・

398 :
いつやったか、「あかつき」に乗った時に「B個室寝台空いてます」の放送があって
車掌氏に申し出て変更してもらった覚えがある。

399 :
“あかつき”でさぁ、今で言うトワイライトのBコンパートっていうやつ?
当時はそんな言葉はなかったけど、初めて乗った関西ブルトレがいきなりこれで関東人の漏れは
西日本が快適な開放型B寝台を目指す取り組みに敬服したもんです。
寝台も勿論バラ売りですから男も女も個室内に混乗となりますから、閉めている人なんて
いませんでしたけどねw

400 :
学生の頃乗った時に、知らないおばさんと二人きりだったけど、ドア閉めてたな
どっちが閉めたのか覚えてないけど
目が覚めて扉開けたら、もう有明海の側をゆるゆる走ってたのをよく覚えている
「あかつき」に乗る前に京都駅で飯食ったとき、
最初にウェイトレスに「お飲み物は?」と聞かれて、
絶対にアルコールを頼まなきゃ行けないルールでもあるのかと思ってちびりそうになった。
当時はまだ一人で外食なんてほとんどしたことなかったし
慣れない土地で小心者の自分は緊張していたのだ

401 :
大分から日向市まで彗星乗ったけど
のろかった

402 :
>>401
大分から先の気だるい事といったらorz
朝飯食って眠くなるから横になって寝ようかと思ったら上段の客やらヒルネの客が腰掛けるから
それもかなわないしさぁ、「え〜これだけ乗ってまだ二駅かよ〜orz」みたいなw
マターリつかグッタリするよな、彗星の下りはさぁ。

403 :
大分ー延岡は単線で運転停車多いし
PCだからECみたいにスピードでないし
よくいえばまったり

404 :
あの区間はにちりんももっさり運転じゃないか
併走する10号の車にもばんばん抜かれるし・・・

405 :
あの区間は線形も悪いから、
通過駅でも構内入場時に減速してた。
延岡ー宮崎間は線形改良したから、通過駅がバンバンとばす。

406 :
京都発なはのアナウンス「発車し〜ま〜す〜」
妙な京都訛りの、あれ懐かしいなあ。

407 :
京都着の時も訛ってることがあった希ガス

408 :
>>387
急行「しらぬい」「しろやま」は昭和48年時点では既に名称が消えてしまってたの?

409 :
昭和47年の新幹線岡山開業で
「しらぬい」は「玄海」に統合、「しろやま」は「屋久島」に改称。

410 :
へーーー

411 :
123

412 :
玄海はいいけど、屋久島は個人的にチョット・・って感じだったね。

413 :
屋久島は鉄道と結びつかないもんなあ。

414 :
「屋久島」は島の観光局あたりが上京して命名を陳情したのだとか。

415 :
陳情したら簡単に命名してくれるものなのか・・・

416 :
そこはほら、先立つモノが必要なのですよ。
おぬしもワルよのう的な。

417 :
西村京太郎「ミステリー列車が消えた」のドラマを見たのですが、今いちトリックがよく分かりません。
どうやって列車をジャックして、乗客を移動させたのか?

418 :
トレインジャックって聞いたことがないな
海外の国際列車だとありうる?

419 :
なぜ鹿児島本線系統だけ「なは」「明星」と愛称が2つあったのだろう?
しかも「明星」が先に廃止されたけど
「なは」よりも夜行にふさわしい愛称だと思うのだが

420 :
「なは」は、沖縄返還運動の意味合いもあって設定された列車名だから、
別格扱いだった。
そう、簡単に廃止できない愛称名だったのではないか。

421 :
昨日テレビ見てたら、長崎観光をやってた
「あかつき」が走ってたら、ちゃんぽん食いに行くんだがなあ

422 :
それは、ちゃんぽんを食いに行くんじゃなくて
あかつきに乗ったついでにちゃんぽんを食う、じゃないのかw

423 :
>>420
なははもともと山陽〜九州の昼行特急だったのが、新幹線博多開業による山陽昼行優等全廃のときも
つばめやはとなど伝統的な列車名が葬られた一方で夜行としてコンバートされ生かし続けた経緯があるしな。
まぁでも最末期に熊本までに短縮された後でもなはという名称を使い続けたのは違和感あったがw
最後くらい明星を復活させてもよかったのではないかと思う。

424 :
ここまでなはの名を引っ張るならみずほじゃなくてなはにすりゃあよかったのに>新幹線

425 :
せんだ
いや、なんでもない

426 :
トワイライト日向路を離れた頃かな?
無理だと分かっちゃいるけど毎日じゃなくても
彗星あかつきの血筋は残してほしかったなあ…

427 :
んだ

428 :
>>237俺もそう思うよ!彗星あかつき、なんてびっくりするほどかっこいいよ!ブルートレインを愛してる人が
作ったのかな?

429 :
>>425
熊本の名物に「せんだご」(芋団子)があるけど?
それに元々、ナハ×3回は、せんだの親友・湯原昌幸の持ちネタ。
関係ないけどこれ豆な。

430 :
初めて見た寝台特急が上りのあかつき。(EF65P+20系)
大阪着の時間帯が遅かったので、小学生でも無理せず見に行けた。

431 :
初めて見た寝台特急は明星7号。

432 :
「なは」が無くなったせいで、熊本にいきなり団子を買いに行くこともできなくなってしまった

433 :
>>429
芋? 団子? 豆?

434 :
いきなり団子みたいな消費期限の短いなまものを買って帰るなんて
同日中に帰れる新幹線じゃないと駄目だろ

435 :
>>434
冷凍+クーラーバックで持って帰れるよ

436 :
なんか本末転倒だのう

437 :
明石海峡を眺めつつ、いきなり団子をかじる朝

438 :
>>436
まあさくらで行って帰ればいい話だなw
少し前までは博多駅の土産物屋にもいきなり団子があったんだが無くなってしまった

439 :
飾らない
言葉を運ぶ
夜の汽車
こんにちはいっとろっけんの川柳コーナーより
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