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2013年01月日本史22: 【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その18 (433)
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【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その18
- 1 :2012/07/06 〜 最終レス :2013/01/06
- 前スレ
その17 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1309908664/
─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
考古学板
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1309667396/
- 2 :
- 乙
- 3 :
- NHKスペシャル 知られざる大英博物館
ttp://www.nhk.or.jp/britishmuseum/lineup/japan.html
第3集日本巨大古墳の謎
総合 7月8日(日) 総合 午後9時00分〜 放送
再放送 7月12日(木) 総合 午前0時50分〜(※11日深夜) 放送
第3集は、日本。
ピラミッドや始皇帝陵とならぶ世界最大級の墓、巨大古墳。
3世紀から350年に渡る古墳時代は、文字資料がほとんどないため、未だ謎に満ちています。
その謎を解く鍵も、日本から遠く離れた大英博物館にありました。
今から120年前に、一人のイギリス人が日本から持ち帰った膨大な古墳のコレクション。
日英の合同チームは、収蔵庫に眠り続けていたコレクションの本格的な調査を開始しました。
そこからは、日本独自の進化を遂げた巨大古墳の知られざる実像が、浮かび上がってきます。
- 4 :
- 過疎
- 5 :
- 邪馬台国スレが乱立しすぎ
- 6 :
- 昨日の二上山博物館の邪馬台国シンポジウムについて
- 7 :
- 今日もやってたんだよね。なんか面白いことあった?
- 8 :
- 邪馬台国シンポ、見に行った。なかなか面白かったけど、
それ程目新しいのはなかったような。
以下、記憶に残ってる内容を書くと、
弥生終末期の高知県の遺跡で鉄が大量に出だしており、
太平洋ルートが鉄の伝播で有力となった。
逆に、瀬戸内海は難所が多く、余り機能していなかったと。
瀬戸内海ルートが機能し出すのは古墳時代以降。畿内と吉備が手を結んでから。
瀬戸内ルートが活性化すると、丹後は振るわなくなる。
代わりに越が、ヤマト王権の一員となり、交易拠点として台頭。万行遺跡に巨大倉庫群が作られ、
交易物資が集積されたと推測されている。
沖ノ島で庄内ガメが見つかっていたことが調査で分かる。
朝鮮半島では、残念ながら庄内はまだ見つかっていない。
松木が楯築の被葬者=帥升と空想。
出雲西谷3号のオウらと組んで、107年後漢に遣使したとする。
他の人から楯築から鏡が出てこない、中国との関係が希薄と突っ込まれる。
東海の人と物が関東へ伝播するのは、2世紀、洪水旱魃地震が頻発し、カリスマが求められたから。
朝日遺跡は大河川に近く、洪水やら塩害に悩まされる地形。それに対処する
ノウハウを濃尾勢力が有しており、関東でそれが求められたのではないか?
あと、寺沢が言ってたのは、
マキムク型前方後円墳の周りに、小さな前方後方墳が造られてる地域があるらしく、
赤塚が言うような前方後方vs前方後円のような対立構造は見られない、と。
出来ればこのあたり討論してくれたら面白かったのだが、
赤塚はパネルディスカッションで殆ど喋らず。
- 9 :
- 沖ノ島や宗像に庄内甕があるみたいだが、筑紫の庄内甕は福岡平野の方が多いし重要じゃないの?
宗像は言うほど出てないし、重要なことは、博多湾岸や糸島みたいに弥生末から古墳前期の朝鮮半島系土器がほとんど無いと思いますけど。
楽浪土器あったかな?確か無いはず。あるの?
博多湾岸に舶載三角縁がたくさんあるが、宗像にはないというのも疑問。
つまり邪馬台国時代については対外交渉では、宗像はそんなに重要な拠点になってないだろうということ。
沖ノ島ルートの重要性が評価できるのは沖ノ島祭祀以後だし、その始まる頃の古墳中期初頭からなら宗像地域にも朝鮮半島系土器がたくさん出てくる訳で。
あと前方後方墳が邪馬台国と対立した狗奴国の墓という説自体、かなり怪しいわな。濃尾で古いとされる狭間の年代根拠は怪しいと言う人も多い。
前方後円墳と後方墳は階層および出自とか、複雑な関係だと思う。
寺沢の指摘の通りで、その場合でも基本的に後方墳が下位に来る。東海狗奴国がヤマト邪馬台国に勝ったとか言う赤塚説は妄想的だわな。
帥升が楯築?中国とのつながりは大量の朱があるが、やはり鏡が全くないというのは致命的だし、中国製の長い大刀も無い。吉備の王だろうが、倭王じゃないな。やはりこの時期はまだ伊都国に倭王がいるでしょう。平原とかもう少し新しい訳だし。
- 10 :
- 畿内から九州への三角縁の配布はかなり時代が下る。
また近年、配布は地域内でもより新興の地区に行われている可能性も示唆されている。
大陸との外交上の地位が配布に影響を与えたというような証拠はない。
むしろ畿内政権の日本列島への覇権拡大と大きな関係がある。
前方後方墳が狗奴国の墓制というのはそれほど悪くないと思う。
ただ狗奴国と邪馬台国はそれほど対立してなかっただけじゃないかと。
そもそも高地性集落の時代ほど戦の痕跡が見つからないので。
- 11 :
- 寺沢は、マキムク型前方後円墳が庄内の頃に東海を飛び越えて関東まで伝播していた、
って主張だから、東海以東の狗奴国連合、なんてのは認められる訳ないしな。
関東への東海勢力の侵出は考古学上明らかだし。
- 12 :
- 狗奴国なんて東海方面にあったとしても東海のみでしょ。
邪馬台国だって畿内のみの連立政権に過ぎないし。
三世紀に限れば。
- 13 :
-
纏向遺跡で出土された土器は伊勢・尾張系土器が過半数を占める。
伊勢・尾張系土器の代表土器、S字甕(がめ)・パレス壺など。
- 14 :
- 東海系土器がマキムクに多いのは土木労働者集団が来てたからだろ?
マキムクだけだと分かりにくいが、桜井茶臼山近くの城島遺跡は造営キャンプとされているが、東海系がやたら多いし。
あと、>10のカキコで、九州の三角縁配布は遅いとか言ってるが根拠が分からん。
布留最古段階から古段階併行とされる古墳からいくつも出ている訳だが。
藤崎の三角縁盤龍鏡は確実に古い土器が出ているようだし、布留最古段階の津古生掛は三角縁神獣鏡ではないが、「関連鏡群」とされる(福永氏)訳だが。那珂八幡も築造が庄内式併行に上がる可能性が指摘され、第2主体出土なので、下るとしても布留最古から古段階だろう。
- 15 :
-
甕や壺に土入れて運ぶの?w
- 16 :
- 城島遺跡は煮炊きの甕の比率が異常に多い飯場的な遺跡ですよ。これに木製鋤がたくさんでる。しかも大型甕が多い。ちなみにその外来系土器は搬入と在地胎土の両方がある。
マキムクの場合は他の器種も出るが、外来系土器ではの甕の比率がヤマト本来の土器より多いのと、他の農耕集落だと鋤と鍬が半々に近い比率だが、鋤の比率がかなり高いとされている。
当たり前だが甕に土入れて来る訳ではない(笑)
各地から労働動員された集団が、自分たちの食生活を維持して飯場を形成しているということ。
搬入だけでなく、故地の形と技術で作られた在地胎土の外来系土器があるのは、労働者個人ではなく、土器工人を含めた集団単位で土木労働動員(何かとの交換?)されているということだ。
- 17 :
- 桜井茶臼山ってのは磐余地域だから、初瀬街道での対東海への玄関口として、
東海からの移住者が多かった、程度の認識でいいような。
戸籍もない当時では人はクニに束縛されず、自由に行き来、移住が出来ただろうし。
労働が商品として売り買いされた、ってのは無理がある。
- 18 :
- 労奴として朝貢、みたいなこと主張している人もいるね。
考古学的な根拠はよくわからないが。
- 19 :
- 城島遺跡をちゃんと調べろ。
- 20 :
- 弥生終末〜古墳初はまだまだ部族社会で、当時のクニは律令制での郡程度の広さだろう。
近距離、隣同士のクニグニでも畿内系土器の受容に
大きなバラつきがあるらしい。
松木武彦はそのような状況を
「ローソン、セブンイレブンなどコンビニのフランチャイズみたいに、
畿内とか東海の影響を受けた小さなクニグニがモザイク状に混在していた」
と言っていた。
ある地域に東海系土器が集中的に出たからと言って、
連れてこられた東海の労働者とかの話は論理に飛躍があり過ぎるように思うな。
- 21 :
- だからさ、城島遺跡の様相、桜井茶臼山との関係を調べてからにしろって。
- 22 :
- 鍬が無くて鋤だけだからと言って、それが東海から徴発された労働者のムラ、
って論理に飛躍がないか?冷静に考えて。
単に東海と関係が深くて、東海からの移住者が多かったではダメなの?
- 23 :
- >>22
元は同族同士だったんだろう。
- 24 :
- 二上山シンポジウムを観ての感想。
楯築や、ヤマト王権のような強大な権力が求められた背景は、
「瀬戸内海航路が安全に航行出来るように、安全を保証する権威として、
強大な王権が生まれた」っていう、昔から俺が言ってた説が裏付けられてきてるように思う。
石野や村上が言うように、瀬戸内海が難所が多く、本当に交易路に向かないなら、
後世も利用されることはなかっただろう。
瀬戸内海航路が機能不全を起こしていたのは、沿岸部のクニグニが通行税を
取り過ぎたり、海賊行為が頻発したから。
瀬戸内航路が機能不全を起こし、瀬戸内海航路で利益を得ていた海商小国家群にとって、
自分の首を絞める結果となった。
鉄やら大陸との交易を希求した畿内や東海は連合して大王を推戴する。
その後、東瀬戸内である阿讃播、吉備など瀬戸内沿岸部のクニグニと連合した。
- 25 :
- >>24
> 鉄やら大陸との交易を希求した畿内や東海は連合して大王を推戴する。
> その後、東瀬戸内である阿讃播、吉備など瀬戸内沿岸部のクニグニと連合した。
阿讃播は纒向の前から鉄の拠点でしょ。
- 26 :
- 弥生終末期、瀬戸内海航路はいまいちで、
吉備も出雲経由、中国山地を越えた陸路で鉄を入手してたみたいだ。
実は高知県を経由した太平洋航路で鉄の交易が盛んだったらしい。
私はこの太平洋ルートが狗奴国ではないかと考えている。
昔から言われてる熊野=狗奴説になるが。
- 27 :
- 五斗長垣内遺跡も太平洋経由だという主張なんだろうか。
- 28 :
- そこで水銀朱という目的がある中国人は、当初大平洋を回る訳です。
阿波東南部を目指すには瀬戸内と大平洋ルートが使えます。
が、大和や紀伊半島を目指すなら、流石に瀬戸内経由が有利ですからね。
- 29 :
- 「太平洋ルート」でなに妄想してるんだ?
某掲示板によると、博多遺跡でインゴットを作り、高地、愛知へ運んだ、って話らしいぞ。
>>8>>24はもう少し内容をkwsk
- 30 :
- 某掲示板?似たような連中が出入りしてるってw
- 31 :
- ヤマト王権が出来て、交通の安全が保障された結果、交易が活性化したとも言える訳で。
交易が先か?王権が先か?は昔のこのスレでも議論されていたが。
ヤマトに強大な部族連合が出来てオウを共立したのは間違いないが、
交易の安全性を求めて、という理由だけでは若干弱いように思う。
何か強大な敵と立ち向かうために同盟を結んだとか、理解し易いのだが。
伊都国・奴国を両巨頭にした玄海灘沿岸部グループから、鉄ルートを奪取した、
みたいな白石の言説が村上に否定され、ヤマト王権成立プロセスは甚だ分かり難くなった。
- 32 :
- 大平洋ルートってのは具体的にどういうルート?
纒向まででいいから大陸からのルートを教えてちょうだい。
- 33 :
- 北部九州から言えば、愛媛を通って高知、阿波、畿内じゃない?
事実、高知県から大量に庄内ガメが出てるらしい。
- 34 :
- >>27
従来思われてた程、瀬戸内海ルートは活発ではなかった、ていう意見な訳で。
弥生後期初めには畿内にも鍛冶技術が伝わっているが、
五斗長垣内のはかなり炉が浅く(というか全く掘り下げが無い)
温度が上がらない、簡単な成形やら鍛延程度しか出来なかったようだ。
当初畿内に伝わった技術より退行しているという。
- 35 :
- 吉備、阿波、河内を主体とした連中が
奈良盆地、巻向にやってきた。
これで殆ど正解だろう。
- 36 :
-
狗奴国一宮
- 37 :
- >>35
寺沢は吉備+東瀬戸内、それに筑紫も足してる。
個人的には、石塚東田大塚勝山矢塚に特殊器台が見られないことから、
当初から吉備勢力が参加してたことには懐疑的だが。
松木は箸墓に特殊器台を並べることで、吉備系、楯築の被葬者の後継であることを
声高に宣言した、みたいなことを言ってた。
- 38 :
- >>33
愛媛は鉄が殆ど出てないから、そのルートはありえない。
- 39 :
- >>38
> そのルートはありえない
愛媛の文京遺跡では、舶載鉄器のほか、さまざまな鍛造鉄器も出土しており、
鉄素材の供給を受けて鍛冶生産をおこなう工人がいた可能性はきわめて高い(村上恭通 2000)。
高知では西分増井遺跡で複数の鍛冶遺構から鉄器加工の行程を示すような未製品、鉄板裁断片、
そして素材と考えられる板状・塊状鉄製品が大量に検出された(村上 2011)。
土器の類縁関係から豊後水道をはさんだ伊予中部と東北部九州や東九州の沿岸部との間には関連性があったことが指摘されている。
また、高地平野の田村遺跡群は中広形銅矛の分布の東限だが、
中広形銅矛は高地平野西部から幡多地域・伊予南部地域で多く出土しており、
これは銅矛が東九州から伊予南部を経て高地平野に流入するルート上に沿って分布しているものと考えられる。
というわけで、地域間交流からみるとありえないことでもないと思うよ。
- 40 :
- http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_3.html#1-3-20
ここの後の方に次山淳氏による 吉備型瓶と畿内系の初期布留形甕の分布図があり、これを解析すると、愛媛県大三島の越智(おち)氏の名前が出てきます。
瀬戸内航路開拓のための 陸上から攻撃されない安全な拠点ということなのかな。
「越智」とは もちろん「物部」になる前の氏族名のことで、これには幾つかのバリエーションがあります。
「恩智(八尾・河内三島)」「愛知(えち・滋賀県・後の息長氏?)」「愛智(熱田神宮のあたりなど」。名古屋から伊豆の「三島」にかけても物部系の氏族が散在しているようです【←東海系】。
一方 東山道(後の中山道)を辿り。碓氷峠を越えていくと、物部氏の支族である「中臣」に繋がる「鹿島」「香取」【←関東系】があります。
これで 巻向のメンツは 肝心の“親分”以外は出そろったことになります。"緩やかな首長連合"とは、全く異質な諸部族の連合ではなく、物部系を中心とした"同族意識"のあるもの同士の集合だったようです。
三島≒越智≒物部≒三島≒越智≒物部≒三島≒越智≒物部≒三島≒越智≒物部
- 41 :
- 鉄などの交易に、海洋民が携わったというのは村上も言ってるが、
安易に物部氏とか出してくるのはどうか?と。
古代史において、物部は鬼門じゃないかな?w
それくらい謎が多くて、興味深い氏族であるのだがw
物部ってのは、ヤマト王権が部民制を地方に拡大していく中、
地方豪族を同族として取り込んでいったんだろう。
で、結果として、地方に広範囲に分布する「謎の」氏族になったのだと思う。
- 42 :
- イマイチ不明な点が多かった、奈良北西部にある上牧町の久渡古墳
(三世紀後半推定)から画文帯環状R神獣鏡(和泉黄金塚のと同型?)
が出ましたよ。
- 43 :
- 上牧か、こちらもマキだね。
- 44 :
- 同型と書いてあるね。
- 45 :
- 畿内と東海が連合した王権を中心には
後の織田豊臣政権と同じだな。
戦国時代と同じよう統一過程を歩んでいたんだな。
- 46 :
- 狗奴国は、許乃国(コノ国)。
- 47 :
- >>41
> 安易に物部氏とか出してくるのはどうか?と。
> 古代史において、物部は鬼門じゃないかな?w
巻向の成立を考える場合には、当然その背景となる弥生社会の成り立ちについて考察する必要がある。
そこでは当然 物部"系"の氏族を取り扱うことになる。
> 物部ってのは、ヤマト王権が部民制を地方に拡大していく中、
> 地方豪族を同族として取り込んでいったんだろう。
> で、結果として、地方に広範囲に分布する「謎の」氏族になったのだと思う。
これは ずっと後の時代の組織化された支配階級としての物部の概念を 弥生時代に無理矢理当てはめようとするから訳がわからなくなる。
弥生時代の初め頃から 数人から数十人程度の小グループで少しずつ各地に散らばり、
現地の縄文人と混淆を繰り返しながら それぞれの土地で根付いていった弥生人は何に対して帰属意識を持っていたのか? という問題。
小さな括りでは集落に対する帰属意識でしょうが、大きな括りで言えば自己の出自、同じ氏族に対する連帯感だと私は考えます。
- 48 :
- 現代の視点で物事を語るから滅茶苦茶な解釈が生まれるんだよな。
大坂山に近い上牧辺りで三世紀の中国鏡が出たのは興味深い。
でも墓自体壊しちゃたんだね。
- 49 :
- 久渡古墳、墓自体は壊してないんじゃないか?重機で鏡を割っただけで。
葛城地域に出現期の古墳が見つかった意義は大きい。
上牧銅鐸とかもあるし、古代、葛下川流通を抑えた有力な勢力が
このあたりにあったのは確かだろう。
寺沢は卑弥呼の鏡を画文帯あたりが妥当と言ってたし、
福永は三角縁前に画文帯を配布してた時代を想定していたよな、確か。
- 50 :
- 結構広い範囲を壊したらしいが。>>49が何を持って「墓」と表現しているのか知らんが。
- 51 :
- 中の配置がわからなくなったらしいから、
やはり破壊したんじゃないか?
場所的には水運の要所だが、久渡という名だと竈由来でもある。
- 52 :
- 壊した時って発掘用のトレンチしてたのかね、それとも普通に工事してたのかね?
九州だと、どこ掘っても何かしら出てくるから、
ある程度は仕方ないとも思えるが、どんなものなん?
- 53 :
- 久渡古墳群は上牧町のどの辺なんでしょう?
こんどにじの湯(スーパー銭湯)へ行ったときにちょっと見てきたいです。
- 54 :
- 【朝日新聞 抜粋】
町教委は昨年11〜12月、宅地開発計画に伴って同古墳群を試掘。
遺跡がありそうな層まで重機で掘り下げようとしたところ、古墳の埋葬施設を破壊し、
青銅製の鏡や鉄製のやり、矢じりなどが掘り出された。
確認した結果、古墳時代初め(3世紀後半)の一辺が15メートルほどの方墳か前方後方墳があることが分かり、
久渡3号墳と名づけられた。
銅鏡は二つに割れており、重機で損壊した可能性が高いという。ほかにも2基の古墳の埋葬施設を損壊した。
- 55 :
- 【読売新聞 抄出】
これまで古墳時代前期の古墳は存在しないと考えられてきた上牧町で発見された同時代の久渡(くど)3号墳。
精巧な画文帯神獣鏡が出土し、3世紀後半の3号墳から7世紀の2号墳まで約400年間、
小さな丘陵に脈々と古墳が築かれていたことも判明した。
1日発表した町教委は今後、国史跡指定を目指して調査を進める。
南北に延びる尾根で古墳7基を確認、久渡古墳群と命名した。
3号墳(3世紀後半)は、のちの4号墳(6世紀後半)と重なっており、
墳丘はほとんどなかったが約15メートル四方の方墳とみられる。
画文帯神獣鏡(直径14.2センチ)のほか、鉄鏃3点、鉄槍2点などが出土した。
鏡は大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳(4世紀後半)で出土した鏡と同型だった。
古墳群は丘陵の南北約150メートル、東西約100メートルの範囲にあり、3号墳は丘陵北端付近の見晴らしのよい場所に立地。
南側には全長約60メートルの前方後円墳とみられる1号墳、さらにその南には7世紀に斜面を削って造った2号墳があった。
今回の発掘は宅地開発に伴って行われたが、古墳群が発見されたことで開発は中止された。
町教委は3、4号墳に加えて1、2、5号墳も2014年度までに調べ、成果を踏まえて国史跡指定を目指す。
◆技術不足で損壊
久渡古墳群の3号墳を含む古墳3基は昨年11〜12月、町教委が重機で試掘調査した際、
技術不足で誤って一部を壊してしまった。
町教委によると、遺構は深さ約10センチと浅い場所にあった。
しかし、土層の識別が難しかったことなどから、重機で幅2メートル、長さ60メートルの試掘溝を深さ約1メートルまで掘削。
その後、調査担当者(37)が掘り出した土の中に土器片を見つけ、古墳の存在がわかったという。
- 56 :
- 【毎日新聞社 抜粋】
画文帯環状R神獣鏡は、直径約14.2センチ、約511グラムで、非常に精巧な文様が描かれている。
内側に4匹の神獣が、外側に竜や神仙などが時計回りに配置され、日月の運行を表しているとされる。
和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)で出土した鏡と同型鏡だった。
宅地開発に伴う昨年11月からの調査で、標高約70メートルの丘陵地で発見。
古墳時代前期初頭から終末期の古墳が7基あり、久渡(くど)古墳群と名付けられた。鏡は3号墳から出土した。
- 57 :
- 埋葬施設をまるごとショベルで掘り上げちゃったんでしょ。
駄目な学芸員/調査員だなあ。
- 58 :
- 上牧町HPに詳細が載ってるね。
http://www.town.kanmaki.nara.jp/
- 59 :
- 物部氏もそうだが、葛城氏も謎の多い、興味深い氏族。
極楽寺ヒビキ、とか鴨都波とか、葛上郡、葛城南部ではなく、
今回のは葛下郡、葛城北部なんだよな。
大和川水運や二上山のサヌカイト利権で考えれば、
当然葛城北部が力を持っていた筈なのに、
何故か記紀では葛城南部が主体になっている。
馬見古墳群で考えても興味深い。
- 60 :
- 出現期古墳は、山の尾根の先端部を整形したのが多いからな。
平地の中でぽつんなら見つけ易いが、今回みたいに山と繋がってると
なかなか見つけ難い。
丹後竹野川の大風呂南とか、岐阜県の象鼻山など。
丘陵を整地した王墓が、葛城以外でもこれから見つかっていくんじゃないかな。
- 61 :
- ここは実質香芝市との境界に近い場所だね。
あれが古墳だとはちょっと思わない場所だよ。
ガキの頃近所の竹藪で遊んでたし。
真美が丘の近くで少し近所に牧野古墳もある。
なかなか興味深い発見だよ、マジで。
- 62 :
- 竹内峠で葛城北部と古市百舌鳥古墳群は繋がってるからな。
河内の大王たちとの関係が深いというか、
立役者である武内宿禰は葛城北部の有力者、
竹内街道を押さえていて、名前を峠に残したと妄想w
なのに武内の墓が葛城南部にあるというのが、そもそも違和感があった。
室大墓は武内ではなく、やはり葛城襲津彦で、
葛城北部の馬見古墳群とは別系統の氏族で、高句麗との戦いで活躍したソツヒコにより、
葛城国の主導権が北部から南部に移ったように思う。
葛城南部は紀伊と関係が深く、紀国造の水軍を率いる立場で、
外征で活躍出来たのだろう。
- 63 :
- 画文帯はどんどん興味深い鏡になっていくな
- 64 :
- 三角縁に固執するよりは一歩前進かな
- 65 :
- 正直言って、その古墳のどこに興味を持てるのか不思議でならない。
- 66 :
- 土師器はどの様式なんだろうね。
- 67 :
- マキの名が付くだけでも興味深いよ。
今まで空白地帯的に見られてた場所だからだし。
それに巻向に対しては東西軸で対向する場所でもある。
- 68 :
- >>66
>>58紹介の町教委発表(http://www.town.kanmaki.nara.jp/pdf/kudokohun1.pdf)では、
「土師器」としか説明されてないですよね。
唐突に「古墳時代前期初頭」と言う判定だけがなされていて、その根拠は書かれていない。
出土鏡が和泉黄金塚鏡と「同型鏡」と言うことなら、そっちに合せて、もう少し新しく見てもよいと思うけど。
- 69 :
- そうなのよね、その根拠がよく分からない。
「前期初頭」とまでいうには相当の根拠があるのだろうから、
pdfにもそれを書いて欲しいところだ。
- 70 :
- 五日に説明会があるので確認したらいいかも。
でもあの場所は宅地化が進んでしまったが、
あの森が古墳だったなら、実はまだ周辺に
それらしき林があったりするけど。
- 71 :
- 新聞では、画文帯神獣鏡を卑弥呼の鏡なんて書いているところもある。
要するに、画文帯が3世紀後半の根拠と言うわけなのだろう。
しかし、6世紀の可能性さえ指摘されている江田船山古墳からも画文帯は
出ている。画文帯を根拠に年代を3世紀まで持っていくことは不可能。
逆に、5世紀後半とか6世紀まで下る可能性もある。
- 72 :
- 埋葬施設の構造もわからないのかな?
- 73 :
- 五世紀以降?それは墓の形状からない話。
- 74 :
- 二上山の近くでカミマキという地名なら
当然何かしらあったと考えるべき場所だな。
- 75 :
- >>74 当然何かしらあったと考えるべき場所だな。
そばの馬見が丘で放"牧"をしていました。 以上 終わり。
半年ぶりくらいい このスレ来てみたけど、だいぶレベルが下がったな。
- 76 :
- >>75
よくその説を唱える人がいるが大間違い。
馬見が丘の理由なんて後付けだよ。
大体巻向でも放牧してたのかw
- 77 :
- >>76 大体巻向でも放牧してたのかw
巻向は人間が住むための都市ではなくて、基本的には
祭祀施設とその築造に係わる人が滞在していただけなので
馬は飼っていなかったと思う。
飼っていたとすれば、かなりの期間にわたって遺跡が検出されない芝運動公園のあたりかな。
- 78 :
- 町名の由来は実はあまり参考にならないですよ。
私も古事記の資料等を提供する仕事をしていたのですが、
広報等で由来を調べたりすると結構曖昧なんですよ。
上牧‥周辺の馬見丘陵は飛鳥時代牧場だった、という話からの
説がとられてますが、安易すぎてあまり私は賛同できません。
マキに関する言葉なら高野槇にミマキイリヒコ等もあります。
それに周辺の神社は厳島や貴船神社が多いというのがね。
- 79 :
- 倭国は現代のアメリカのような国だった
来る者を拒まず
それがあらゆる国の優れた部分を摂り入れることに繋がった
○○氏とは、恐らくその出身国を基に纏まったグループだ
それらが奈良盆地に集結し
利害を調整しながら一つの体制を作った
北九州、日向、出雲、阿波、吉備、越、尾張等等
そしてそれらの国々の中で主導権を握ったのが
日向から来た神武を頭とするグループだったのだ
- 80 :
- 馬ってスレタイの時代から飼ってた形跡はないだろ。
そもそもこの頃の地名なんて全く分からないも同然だし。
- 81 :
- 邪馬台国には馬がいなかったのに
記紀では、スサノオが馬を田んぼに放して荒らしたり
馬の皮を剥いで縫製工場の天井から投げ入れたり
明らかに後世の創作だよな
- 82 :
- 上牧の件は無関係に見えても、巻向とは東西軸上に乗る場所にあるんだよ。
そこに古墳が集中していた点を一応は考慮した方がいい。
- 83 :
- 上牧やらマキムクっていう地名が三世紀からあった証拠がないから、
余りマキ繋がりとか妄想は膨らませない方がいい、というのが一般的な意見なんだろうな。
しかしハツクニシラスである崇神がミ「マキ」イリヒコとか、
どうにも気になってしまうw
私個人的には、マキは馬関係の牧ではなくて、真木=杉から来ていると思う。
大神神社が杉の御社と後世呼ばれているし。
奈良盆地南東部の勢力が吉野の木材資源=杉を抑え、
瀬戸内海航路で覇を唱えたのが、ヤマト王権の最初だろう。
クセがなく真っ直ぐな杉は、船材に最適とされる。
古代フェニキアは船材に適したレバノン杉によって、
海洋国家として飛躍出来た。そのようなことが三世紀のヤマトでも起こったのではないか?
崇神が初めて船を作ったとかの説話は、そういった経緯を神話的に物語っているのだろう。
真木というのはヤマト王権の本来の主宰神とされる高木神とも通じるものがある。
高木神は葛城の神とも云われているが。
- 84 :
- 本来の槇(マキ)との関係は?
- 85 :
- スレ違い気味だがこの周辺も謎だらけだね。
例えば久渡古墳近くにあるのは牧野(バクヤ)古墳だが、
有力被葬者が彦人大兄王子で、活躍が聖徳太子に隠れて謎なのに
当時石舞台古墳に匹敵する最大級の石室を持つ点とか。
また葛城尼寺か?と騒がれ法隆寺をしのぐ
最大級塔が想定される尼寺廃寺跡の存在とか。
- 86 :
- うーん。六七世紀は皇位継承権者の複数の皇子たちが宮を造り、
その宮に中央の豪族たちが奉仕する形が取られたらしい。
忍坂彦人大兄が大和川水運の要地、河合町に宮を造り、
恐らくは川合大塚山古墳群の造墓集団が与力したのはそうだろうが、
それ以上でも以下でもない。
- 87 :
- 久渡古墳の周辺はかなりの古墳密集地のようだね。
既に開発が進んでるので、もっと存在した可能性もありそう。
- 88 :
- 後日談だが馬見丘陵地周辺に古くから土地を持つ知人がいるのだが、
この周辺の宅地化が計画されたのが昭和30年代。
おそらく何かしら出土しそうなのはわかってたらしい。
昔に知人宅も敷地内に離れを増築しようと掘り下げたら、
大規模な石垣が出てきて急遽埋めたりしたそうだ。
箸墓逸話では大坂山から石を人力で運んだ話があるが、
当然この周辺地の勢力が協力しないと出来ない話。
上牧辺りは巻向とはセットで考慮しないといけないだろう。
- 89 :
- 馬見丘陵は元々豆山とも言った。
本当の豆知識な。
- 90 :
- ミマキイリヒコ(崇神天皇)のマキは牧ではない。
ごく僅かに移入されたものの、
飼育、制御が難しい動物だったから、
牛と同じようにごく一部で運搬か食糧くらいとしてしか利用されていなかっただろう。
本格的に飼育が始めるのは、
朝鮮半島に進出して高句麗の騎馬隊と戦うようになってからだろう。
- 91 :
- 後世に充てられた漢字は参考にならないよ。
マキは牧場という意味だけではないから。
巻向なんて意味がわからなくなる。
- 92 :
- 地名の漢字は騙されちゃいけない、よく検討する必要があります。
例えば話題の馬見近くにある広稜町の三吉、これは今
「みつよし」と読んでるが由来は散吉郷からきている。
つまり元々の読みはさぬきで讃岐の事。近所には讃岐神社も
ある事からわかるだろう。
また三吉赤部という地名からわかるように、この辺りは
赤土のとれる山でもあった訳です。
- 93 :
- ミマキイリヒコのマキは真木の意で、杉だと個人的には思うがな。
大神神社が杉の御社と後世呼ばれたり、
崇神が初めて船を作ったとかの伝承からも
(まっすぐな杉は船材として尊ばれた)。
上牧がいつからそう呼ばれているか知らないが、
杉とは縁がなさそうだから、マキムクとは関係ないだろうと思う。
- 94 :
- マキという言葉の問題なら、槇(マキ)を考慮しなければならないだろう。
悠仁殿下のお印が高野槇だね。
あと船材ならば、クスノキだね。
比較的柔らかく加工しやすいのと、樹脂が多くて、虫に強く腐りにくい。
クスノキを乾留すると、殺虫剤の樟脳が取れる。
- 95 :
- 杉は水に強くないので、
雨がかからない建築物には良いが、
船にはあまり向かない。
- 96 :
- 紀国造家とか、吉野杉を船材に用いて水軍を作り上げたと思うがな。
水軍を率いて外征でも活躍した紀氏の本貫地は木の国だけど、
果たして「木」とは何だったと考えてるんだろう?
杉は確かに腐りやすいけど、船材に使われてないとか無理があり杉
- 97 :
- 大和三山は人口の山
- 98 :
- 真木(マキ)てのは、まっすぐな木、杉を御柱に建てて、
その柱に神が宿る(イル)ってのが、ミマキイリヒコの一番納得がいく解釈だろうな。
当初の皇祖神が天照ではなく高木神だったという説とも符牒が合う。
- 99 :
- 私は「マキ」の元々の意味はともかく、ミマキイリヒコについては
尊称+マキからやってきた男、という解釈をしてます。
この「マキ」が元々四国の美馬辺りか、現上牧辺りの
事を指すのかまでは断言できませんが。
馬見丘陵地東部で画文帯神獣鏡が出た事は、3世紀中期には
この辺りにも力を持った一族の基盤であった事の証明には
なるでしょう。赤土が出るという事も船にも好都合な土地ですよ。
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