2013年17鉄道懐かし266: 【鉄道】昭和30年代生まれの鉄ちゃん【黄金期】 (470)
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【鉄道】昭和30年代生まれの鉄ちゃん【黄金期】
1 :2008/10/26 〜 最終レス :2013/08/25 昭和30年代に生まれた鉄ヲタは現役蒸気をはじめ、旧型ELや旧国 を追って、ワイド周遊券を持って東奔西走したものだ。 同志よ、若かりし頃の思い出を語れ! *「総合板」から配転させました。われわれの世代ですと、 「鉄ヲタ」よりも、「鉄チャン」の方がしっくりくると 思いますので、修正しました。 1番線 http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/train/1158123716/l50 2番線 http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/train/1173187365/l50 3番線 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/train/1218796830/l50
2 : 空気読めよ、タコが
3 : 昭和31年生まれですが何か? 当時はにわかSLファンが多かったな、DL,電化は敵。黒煙マンセー。
4 : 首都圏で生まれ育った私はSLよりも旧国。 小さい頃、国電はみんな茶色かった。 カラーの新性能車も入り始めていた当時、既にボロ電というイメージがあった。
5 : 3だが中学の京都修学旅行で東京〜京都が155系ひので号だった。 翌年からは新幹線利用となったが最後の列車に乗れてうれしかった。 6人がけクロスシートのまん中にあったテーブルがなつかシス。夜行なのに全然寝なかった。
6 : >>5 京都なのできぼう号だが,中学の修学旅行で利用した. のぼりが昼行で帰りが夜行. 帰りの夜行は爆睡していたと思う.若いと言っても疲れていたんだと思う. 品川のただっぴろい待合所で長いこと待たされた記憶だけが残っている.
7 : 小学校の修学旅行でひので号に乗った。
8 : わしらはあおぞら号でお伊勢さん。
9 : 近鉄あおぞら号、今もあるのかな?
10 : >>1 均一周遊券と言って欲しかった。 貴殿は昭和39年生まれか?
11 : おっさんが2ちゃん(笑)
12 : >>9 あるよ、スナックカー改造車の三代目だが。 でも大阪の小学生は今伊勢より広島行きが多いけどね。 ちなみに今年の修学旅行専用列車はN700系だったよ。
13 : 「青春18のびのびきっぷ」が初めて発売された昭和57年春に、 本当に18歳だった私達は、昭和38年生まれ。 そう言えば「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットした年に生まれて本当に赤ちゃんだったのも、 昭和38年生まれ。 昭和38年生まれは世間から何かと話題にされやすい。
14 : 38年は、河合奈保子の明るいイメージ。俺は37年だが、基地害だらけw
15 : >>14 38年生まれはダウンタウンの松本・浜田や、横綱をクビになった北尾もいる から基地害もいる。 プロ野球最年長の工藤公康も38年生まれだからすごい奴もいるけどな。
16 : 近頃は公立学校の遠足では神社に参拝に行く旅程は組まないみたい。 代わりにキャンプとか…俺の地域だけかな?色んな信教の児童がいるとはいえ…
17 : >>12 700系じゃないの?
18 : >>16 京都に移動教室いくってなくなるのか・・・・
19 : 参拝しなければ、ありなのかな。俺も知りたいところ。 修学旅行なんか困るだろうにね… 国鉄沿線ではなかったので修学旅行専用電車には乗らずじまい…
20 : 東京の小学生ってたいがい高学年で鶴岡八幡宮と大仏を見て,江ノ島や由比ガ浜あたりで プチ水遊びってあったと思うがそういうのはなくなるのかね?
21 : 神奈川、というよりy横浜・横須賀・三浦・逗子でガキの頃を過ごした自分にとって、 小学校の遠足は低学年だと鎌倉、高学年になるに連れ箱根になり、段階的に延びて最後は箱根の山を越えて 富士五湖とかになった。何回かあった野外学習は近所の山に水筒とおにぎり持って行った。 写生や虫捕り、観察と「歩く」という目的があったもんだ。 高学年の社会見学は東京の官庁街、そして修学旅行は日光。 日光へは今でも日光集約臨として専用電車が運転されてるのはある面、すごいと思う。 しかし、その電車が帰ってくる時は、駅前がそれぞれの出迎えの親の車で溢れる光景は異様としか思えない。 まるでそれそれの「お坊っちゃま、お嬢さまのお帰りだ!」という感じだ。 時代といえば仕方ないが、親の姿、格好、意識も自分の時代とは全く変わってしまった。 そういえば、中学・高校の修学旅行で都内に来る学校の大半がTDLに行く。わざわざ「遊び」に行く修学旅行なんて 何の意味もないと思うんだけど、これも時代なんだな…。 中学の修学旅行で0系新幹線で京都に向かい、帰りは「わかくさ」という修学旅行専用電車で帰って来た時代の話なんて…。 その0系新幹線も1ヶ月後の運転が最後。指定券を頼んでおいたがやっぱり取れなかった。 「夢の超特急」で憧れだった新幹線の0系を栄光を知っている年代のおっさんとしては、 長いこと一緒に歩んで来た同僚が定年退職していくようなもんだ。 ほとんど馴染みのない若い鉄ちゃんがムキになって「さよなら乗車」するようなもんじゃあないだろ…。 と、グチが多くなって来たこの頃。
22 : >>17 違うよ、ひかりのスジでN700だった、ちなみに昨年は500系が多かったな。
23 : おくての鉄だし、昭和30年代も後半の産だと、国鉄特急の黄金期には あまり間に合わなかった…厨房の頃はカネがなく一人で遠出できなかった。 で、私鉄趣味に走った。
24 : >>23 在来線の先端技術採用という視点で見ると、私鉄が育ててめどの付いた技術を国鉄が採用して脚光を浴びることの 繰り返しだから、規模だけは国鉄にかなわないけど、先端・斬新では私鉄で良かったんじゃない? シロートにゃ見分けの付かない101/103で40年余も引っ張ったし、151/181/485/183だって似たようなもんだから(w
25 : 12月14日という日は33年前もそうだったし、今年も記念日になるのかな。
26 : 東京スカイツリーの立地は最強だ! ★東武伊勢崎線 押上駅 直結 ★都営浅草線 押上駅 直結 ★東京メトロ半蔵門線 押上駅 直結 ★京成押上線 押上駅 直結 ★東武伊勢崎線 業平橋駅 直結 上記「5路線が集結する」スーパークロスジャンクションの真上にそびえ建つ。 この立地の素晴らしさは、新宿駅や池袋駅に直結する百貨店に匹敵する。 今の東京タワーよりもはるかに立地は良い。 古くからの江戸市街地にもごく至近だ。 国際観光都市、浅草からもわすか1km!徒歩15分以内で散歩がてらで行ける。 ★東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩 ★東京メトロ銀座線 浅草駅 徒歩 ★都営地下鉄浅草線 浅草駅 徒歩 こんなスーパー凄い立地に建てられるのに、なぜか辺鄙なところだと思われているのが不思議だ。 ★JR総武快速線錦糸町駅 徒歩 ★JR総武緩行線錦糸町駅 徒歩 ★東京メトロ半蔵門線錦糸町駅 徒歩 半蔵門線で錦糸町からも一駅。歩いても1.4km徒歩20分だ。 三越前や大手町・渋谷からも乗り換えなし! 都営浅草線なら日本橋や東京駅(宝町)や銀座や新橋や浜松町(大門)からも 一本で行ける。 想像を絶する観光名所になるのは間違いない。
27 : 東武と言えばセイジクリームの7800系。 金八で堀切のガードを走っていた。 古めかしさが昭和の味。
28 : 急行型のビュッフェで立ち食い寿司を食った。
29 : 確かに東武の8000系は私鉄界の103系だが フルモデルせず30年代に登場した310形の基本デザインは平成にも増備、25年も造り続けた神戸電鉄こそ鉄道界の驚異のデザインだ
30 : >>28 夏場はネタが腐るだろ?
31 : 新幹線が東京ー新大阪4時間の頃、併走する名神高速を走る軽トラに抜かれたのを 覚えている。速いんだか遅いんだかわからなくなった思い出がある。 当時の私の1番の楽しみは、新幹線から乗り継ぐ151系「しおじ」! 幼少の頃からの憧れの車両で、クロ151を先頭に目の前をゆっくり滑り込んでくる時は、 うれしくて窒息しそうになった。
32 : まだ5才位の時、上野駅5番線から乗ったキハ82の『つばさ1号』 それまで特急になんて乗ったこともなかったしいつも夜行の421レばっかりだったから祖母の逝去なのにすごくはしゃいでいた記憶がある。
33 : グーリーン車だけ冷房だった。
34 : みんな知らないと思うがヒマなときの修学旅行列車を使った 東京から下関まで走る臨時電車急行があったんだ 19時間も・・・お尻痛い・・・
35 : 急行「長州」だったか 確か、「わこうど」の間合いだったかと 季節列車扱いだったので、時刻表には毎月載っていたが 末期はずっと運休中表示のまま… いつ運転するのかと思ってたら、新幹線博多開業で消えた
36 : 準急のビュフェで立ち喰い寿司食った
37 : >>34 サハシは営業休止していた
38 : 小学校一年の夏休み、京都から東京までの帰りは153系急行「よど」号。スピード感はけっこう速い!浜松で「第二こだま」の待避をした
39 : といっても時速80キロほど
40 : 153系のハザで京都→東京はきついな
41 : >>40 新幹線開業前は一般的な移動手段だった。 10数年前までの大垣夜行に165系が使われたことを思えば、大したことないだろう。
42 : 何でこれしきをきついと思うのかね。 桜島・高千穂で何度も九州へ行ったよ。
43 : 昔はそんなもんさ 俺だってキハ58の夜行に乗った事がある。 新庄〜上野だったな。 酒田発、陸羽西線経由の急行「出羽」だったと思う。 もう30年前だ。
44 : 確かに鉄オタならむしろ楽しいが 純粋に移動の為に乗る人にはきついかも 自分も大垣鈍行+網干行きなんて乗ってたし でも夏休みだと当時クーラー無し 俺ならビュフェ入り浸りだな…
45 : >43 出羽は23時08分発でしたか?米坂線撮影に乗った。昼行の101D八甲田1号もキハ58で東京←→青森を頑張っていた
46 : >>45 え〜っと、記憶が曖昧だが、上野には朝5時に着いたのは覚えている。 新庄を出たときは既に深夜だったと思う。 そうそう、修学旅行色のキハ58-800番台が混じっていたのを覚えている。 煤けていても(当時の国鉄はみんな薄汚れていた)色が違うのははっきりしていた。 去年の秋、山形新幹線で久しぶりに新庄〜東京を乗ったけど、当時を思い出すと感慨深い。 あの頃、俺はまだ若かった。
47 : 昼間は秋田行き「おが1号」(東北・奥羽本線経由)、「鳥海1号」(上越・信越・羽越本線経由)がDC急行でした。今からしたらすごいですね
48 : 比較的近場のSL撮影は 米坂線(出羽)、只見線(佐渡6号か普通735M)、 日中線(ばんだい6?号)、小海線(普通425レ) 二俣線(普通143M)・・てなとこでしょうか。 当方1958年生まれ
49 : 新幹線が出来るまでの移動手段って一般庶民にとって急行がメインじゃなかったかな‥
50 : 特急は高嶺の花。だいたい主要幹線でさえ特急自体が日に2-3本とかもあった。まさにエース。格調も高く昼行でも新宿ー甲府、大宮ー長岡、上野ー水戸(これは今も)ノンストップ。今の特急は当時の準急並みの停車駅(つд`)
51 : >>43 「出羽」懐かしいな。 山形で併結される上野行きに乗ったけど、うち1両はキハ58812、修学旅行用。 車内のスピードメーターや、後付で付けられたと思われる前面窓のツララ切が 珍しかった。 さっそく1ボックスだけあった簡易寝台を引き出して上野までぐっすりですたw
52 : >>49 >>51 連投スマソ 当時家族旅行の際は常に急行でしたな。子供心にも特急は背広を着たおじさんの 乗るものという感じで、高校で初めて乗るときも敷居が高かった。 いつも急行のボックスシートの窓際に俺、向かいに弟、通路側に父母。そして母の つくったおにぎりを頬張って・・・・楽しくも切ない思い出。・゚・(ノд`)・゚・。
53 : 確かに新幹線出来るまでは帰省の時 (名古屋〜関西) 普通か奮発して準急 急行でも贅沢な感じだった 準急なくなって急行になり新幹線での帰省は 70年代からだね
54 : 昭和50年代にある首都圏の公立高校が甲子園に出場した。 ところがその公立高校の学則によると 部活動の遠征費用は「片道100キロメートルを超える区間」は急行まで支給 ということで新幹線利用が却下になった。 スッタモンダの末新幹線部分のみカンパ+部員(の親)が個人負担。
55 : >>53 名古屋〜関西は近鉄特急の利用も多いだろう。 特に76年の国鉄大幅値上げで新幹線から近鉄に流れた乗客が多かった。 現在でも関西の行き先によって棲み分けができてる感じ。 それから青春18シーズンは新快速・普通の乗継ぎも所要時間が長くないため 利用多くなり、米原の乗換えは戦闘状態となっている。
56 : 昭和30年代に20系を借り上げて甲子園へ団体応援しに行ったよ> 特急型に乗れて生徒たちみんな興奮した。
57 : >>55 両親の実家が京都だったんであまり近鉄はつかってない 比叡が一番乗ったかな? 準急時代はうろ覚えですが急行になっても 停車駅は 今の新快速以上だったかな? ビュフェも一時期あったけど寿司コーナー やってなくて残念
58 : 新快速には車内販売が回ってきたよ さすが関西とオモタ
59 : >>56 余程、裕福な学校だったのですね。
60 : >52 同じシチュでハザで家族旅行していた。30歳過ぎて結局は最後となった家族旅行、年老いた両親が通路側に座り自分を窓側に座らせた。子どもはいつになっても子どもなのだと思った
61 : >>59 昭和50年代なら有得たが。
62 : 急行のグリーン車はすげぇ格差を感じた。ボックス席に比べ、 えんじ色に白いカバーのリクライニングシート。 普通指定席が3等車に思えた
63 : >>62 普通車はもともと3等だからそれでOK イ=1等 ロ=2等 ハ=3等
64 : >>48 「出羽」で行くと翌朝米沢の始発121D(だっけか)に接続、今泉で隣の側線に停車中の9600貨物がいて まずこれをスナップ、先行して羽前椿で上りの客車列車と交換、向こうが後着・先発なので到着と発車も撮れた。 そして手の子か羽前沼沢で降りて一日の撮影のスタートをきる、って感じが良かったね。
65 : >>61 >>56 氏は30年代に借り上げてと書いてあるのだが‥ 確かに50年代なら有り得ると思う
66 : 普通車はもともと3等だからそれでOK イ=1等 ロ=2等 ハ=3等 ニ=4等 なんちゃって
67 : あー! その冗談、懐かしい。
68 : ニ=4等(椅子が無い) ホ=5等(屋根が無い)
69 : 眼薬VロートのCMは、会津線C11客レ同士の対面式ホームでの交換で、隣の客車の女性に向けて男性がリンゴを放るシーンだった。
70 : 10問正解して夢のハワイへいきましょう ロート製薬のお送りするアップダウンクイズ 司会は私小池清です 10問正解してさぁハワイへいきましょう ロート製薬のお送りするアップダウンクイズ 司会は私小池清です みんなどっちが印象深いかな?
71 : 問題を読むのは佐々木さんです。 こんばんは、佐々木未絵です。どうぞよろしく!
72 : クイズもの多かった。 →では、社会の50!、常磐線の起点と終点は? というのもありましたね 。鉄道モノは負ける気がしませんでした
73 : ♪ロート ロート ロート ロート ロート ロート ロート製薬 会社の上を鳩が舞い上がって行く… …この出だしのメロディー、「徹子の部屋」のテーマに似ている。 佐々木未絵さん、懐かしいなぁ。個性的な顔立ちしてたね。
74 : 30年代に登場した 神鉄310形はその後 神鉄通勤スタイルの基礎となり この全面、狭い運転席の車両が 平成1年に 新型1500形として登場したのはご存知? 鉄道界のびっくりだよ 0系より長いのでは?
75 : ごめんなさい、地域性が強すぎてイメージがわきません<(_ _)>
76 : 佐々木美絵といえばこの替え歌だろ。 ♪斉藤、近藤、虫獲った ♪斉藤、近藤、虫獲った ♪美絵ちゃん、子供は要らんのかいな〜
77 : 東京大阪を結ぶ急行電車は、なにわ・六甲・せっつ・よど・いこま・金星 とかありました。153系頑張っていました。四時間で夢の超特急といわれた時代でした
78 : 上手くいけば蒸気からリニアまでリアルタイムに見ることができるなあ。
79 : >>48 S46頃だが父に連れられて小海線のC56の撮影に行ったが 八ヶ岳高原を小淵沢で撮影するには新宿23:50の臨時165系×8普通電車でないと間に 合わなかった。この列車当時にしてみれば普通列車で数少ない冷房きいていた列車 だった。 乗った車両がモハ165で後年知った事だが当時使用していた列車が「富士川」。 当然甲府から送り込んで来たものだろうが、当時は車両のやりくりはまるで手品の ようなものだったと思う。 ちなみに俺1959年生まれ。
80 : 79です。続き。 S49,10に日中線、会津線にC11の撮影に行ったが宿泊費を浮かすために 会津若松から「あがの」で郡山へ。ホーム内の待合室で仮眠して4時前に出る 「ばんだい5号」で再び会津若松まで向かった。 郡山のホーム内待合室を同業者の間では郡山ステーションホテルなんて言わ れていたっけ。
81 : >79 中央線区間のモハ164は800番台という低屋根パンタだった。天井はそこだけファンデリアで好きだった
82 : 日曜夜8時から放映していた大いなる旅路…って知っています? 松山栄太郎のゴハチの機関助手がカッコ良かった
83 : 再放送しないかな
84 : 1972年に鉄道百年を記念して作られ、主題歌は今聞いてもジーンときます。その年の記念行事では汐留からC571が出ましたね、札幌オリンピックでは東京−青森に特急オリンピアが走りました
85 : C571じゃなくてC57の何番だったっけ7だったかな。 撮りに行ったよ。 和歌山あたりのカマで煙室戸の丸みのないカマだった。 C571は千葉で走ったんだよね。
86 : 失礼!、7号機でした。昭和45年10月のD51791は撮りましたが、この時は行きませんでした、今から考えると悔やまれます。1号機はまた京阪100周年としても走りましたね
87 : ハチロクといえば、今の人は峠の走り屋AE86、わしは8620
88 : 飛行機大好きな俺的にはハチロクとはF-86セイバー 8620もセイバーも今は思い出
89 : 中途半端に終わった京阪100周年。
90 : >>86 俺もD51791を撮りに行ったけど、まだチビだったんで凄い人だかりに入る事ができず、遠くから眺めただけだった。 すぐ帰るのももったいなくて、池袋で地元の東武東上線78型を撮って帰った。
91 : >>89 人身事故の所為?
92 : >90 ナクイチ、三日間とも行った。ゴハチの牽く「霧島・高千穂」がオシとスロを従えた長大編成で来たが、フィルムの無駄遣いと思って撮らなかった
93 : ゴハチじゃフィルムもったいないよね
94 : >>90 俺もだ。東京駅15番線の混雑は今でも覚えている。 以来蒸機の追っかけはあきらめた。ここら辺も世代の分かれ目か。 地元に近いEB10とかもっと撮っておけばよかった…。
95 : >94 あの頃自分は中学一年生。あれで目覚めたが、九州や北海道はさすがに行けなかった。今は出張で毎月宮崎県に行っているが、485系は蒸機と共存していた時代があったと思うと感無量。
96 : 発売日でも3月1日の上り「はやぶさ」、取れませんでした。昔の朝番組でみどりの窓口というのがありました。急行「瀬戸2号」に試行的に14系寝台車が入っていました
97 : >>89 >>91 俺は向日町〜神足(何で改名しちゃったかなぁ) で待ってて運転取り止めを知らされた。 今から思えばあれは無謀だったと思う。 恐らく沿線は皆同じような状況だった だろうから起こるべくして起こった事故だ。
98 : 高校1年の頃に深夜 大阪駅で東海道ブルトレを撮影しに徹夜した! 当時の記憶 夜8時頃?博多からの【まつかぜ】から始まり 22時過ぎた頃から 【銀河】【ちくま】【だいせん】… ブルトレや寝台電車の大阪発着分なら 【明星】【あかつき】【彗星】【なは】【安芸】 少し時間を過ぎての深夜 時間帯は 【さくら】【みずほ】【富士】【はやぶさ】【あさかぜ】【瀬戸】そして 名古屋発着の【金星】… なんだか昨日の事のように思える…
99 : >>93 その頃はDD51やDF50がヘッドマークつけて来てもフィルムもったいないからって 撮らないのが普通だった DLやELを撮る人は変人扱いされたしな
100 : 東京駅の夕方以降も賑やかだった、さくら はやぶさ みずほ あさかぜ 富士 出雲 瀬戸 紀伊 銀河 … 77年にTVで特番をしたのがブームのきっかけとなった
101 : >>100 いなばを忘れないでやってください
102 : ウチは関西で、ガキの頃に強烈な印象が残ってるのは 大阪→京都の同時発車、同時到着「雷鳥VS新快速」。 意図的かどうか知る由もないが、本当に抜きつ抜かれつ で走ってくれる事もあって大興奮した。約30分にわたる 併走はさすがに何処にもないだろう。 草臥れた153系のブッ飛ばし体感速度は相当速かった。
103 : >>100 さくら、みずほ、はやぶさ、富士、あさかぜ1号、あさかぜ3号… 覚えている順番で世代がばれるね。 昭和40年代からすでに少年のあこがれではあったよ。 Discover→Japanの頃、東京−九州ブルトレにもスタンプがあったっけ。 「SLブーム」の陰に隠れていたといえなくもないかと。
104 : おれは 1630さくら,1645はやぶさ,1700みずほ,1800富士,1820出雲,1825あさかぜ1号,1900あさかぜ『2』号 1910瀬戸,2040いなば・紀伊 の時代がいちばん印象深いな。
105 : でも安芸や瀬戸が夜行急行で出てた頃が やっぱり黄金時代でつよ
106 : >>104 その頃瀬戸は1925発と記憶してるが。 >>103 時刻表ではさくらと博多あさかぜにスタンプ設置と思う。 >>98 77〜78年の事だろうが、大阪駅は深夜帯でも駅は施錠されなかった。 下りみずほから上りさくらまで客扱いなかったと思うが。 それから大阪地区は高校生の深夜徘徊とか当時はうるさくなかった? 漏れも同じ頃名古屋の高校生だったが、名古屋は高校生の深夜外出うるさくて、 また名古屋駅も浮浪者対策として深夜に駅を閉めるようになったからな。 下り銀河が名古屋で客扱いしなくなったのもそのため。
107 : あさかぜのスタンプは押したことあるな。 キオスクでスタンプ帳買って、 おおそういえば・・・と思い出して押したんだったかな。
108 : >>100 俺の住んでいるところは21時頃から次々下って行く
109 : >>102 おぉ懐かしい!俺も新快速側に乗ったよ。なんて言うか 判官贔屓みたいな感じで「特急に負けない新快速」が好きだった。 しかしネットも何もない時代、どうやって情報を入手してたのだろう? 月一発売の鉄道誌だったんかなぁ?
110 : その種の情報は タビテツのイエローページにいろいろあったな。
111 : >105 「紀伊」もかつて寝台急行で加太の撮影で乗りましたが東京20時30分発でした。土曜に乗ったのでTBSラジオのヤングタウン東京を発車と同時に聴きました
112 : >>102 >>109 雷鳥以外にも、急行「比叡」なんてのもあったね 大阪を5分後に発車した新快速が京都には1分前に着くというやつ でも、何度乗っても京都駅構内で追い着き、同時到着ばかり… 走行中の追い越しには遂に出会えなかった ただ、当時から京阪間では破格のスピードを誇った新快速も、 阪神間では80km/h前後でタラタラと流すだけの存在だった DC特急「はまかぜ」にも蹴散らされていたし 最高速度が京阪間110km/hに対し、阪神間95km/hだったこともあるが
113 : ゴハチの牽く急行「きたぐに」なら、大阪を後発した113系快速にも向日町あたりであっさり抜かされました
114 : 「北海道ワイド周遊券」これを抜きにして自分の学生時代は語れない。(ほどに利用した) あの当時だからこそ利用価値があった。仮に今の時代に復活たとしても、ほぼ何のメリットもない。 「新得返し・上川返し・名寄返し」なんて言葉もあったし、「北海道3大○○YH」なんて懐かしい。
115 : >>114 それに比べ九州ワイドは新幹線博多開業後夢がなくなった。 九州内夜行も長らく3系統あって周遊区間の使い勝手はあったが、アプローチに使える列車が限られた。 特に阿蘇・くにさき・雲仙・西海廃止後に安くアプローチできる列車がなくなったのは痛い。 またいざとなれば新幹線でその日に行けるのもあったから、趣に欠けてた。
116 : 新幹線博多開業以降は北海道ばかり行ってたな@東京 九州方面は周遊券で乗れる急行がなくなっちゃったんだよね。
117 : 東京から各停乗り継ぎで京都に。そこから新幹線で新大阪。 新大阪からあかつきで九州というパターンで行ったっけ。 でも夜行座席急行が走っていた北海道に行く方が多かったな。 連絡線が好きだったし。
118 : >>114 平成になってから、周遊券ではない他の企画券で冬に名寄返し考えたけど、 もしもベタ遅れで交換駅変更でもされたら文字通りガクガクブルブルなので やめましたが、そんな運転整理って実際にありうるのでしょうか? それとも国鉄時代は待合室24hオープンで暖房も完備だから大丈夫とか?
119 : >>118 国鉄時代は貴方の推察通り。道内の駅待合室はでかいストーブがあって暖房完備だった。 道内の駅は札幌も含めて列車別改札が徹底してたのはそんな背景もあった。 漏れは深夜の夜行折返しは辛くてしなかったが、下り大雪が遠軽4時過ぎに到着して20分待ちの 名寄本線始発に乗換えはよくやった。その列車を利用すれば湧別支線・緒滑線・興浜南線を効率 よく利用できた。寝過ごしてしまったという事態もよくあったけどw
120 : >>118 もちろんありうるけど・・・ 寒い中お客がガクブルしていたら 待合室のストーブ炊くか事務室に入れてくれるか その程度普通だったよ。
121 : >>119 遠軽乗り換えやりましたね。 大雪到着するとホームの向かい側に急行形が待っていて、震えることなくポカポカの 室内で夢の続きを見ていましたw
122 : >>106 残念ながら70年代では無くて1980年! 北や南の繁華街では高校生の深夜徘徊が問題に成って 集中的に取り締まってたかも知れないが、大阪駅の しかもラッチ内!犯罪なんか起こるはずも無い、ある意味 おおらかな時代かも? 今なら考えられないかもね。 上のほうにも書いてある周遊券利用の夜行ターン 私も北陸ワイドで富山⇒敦賀⇒金沢(夜行の急行立山5号利用) で使った事あります。若い頃なら宿泊費を浮かす夜行列車の 折り返しパターンも苦にならないと思ったが実際したら 2度と止めとこうと思った。
123 : >>122 1980年に高校1年とは昭和30年代最後の生まれだなw ただ安芸は1978年に廃止だったけど、あんたの記憶違いか? キタの繁華街は大阪駅に近いから、夜間大阪駅改札から出づらかっただろうが、 若かったら徹夜撮影は平気だったかもな。 その世代だと校内暴力が新聞に取り上げられてたが、あんたの行ってた学校は無縁だったか?
124 : >>123 ごめんなさい記憶違いでした 安芸って廃止78年でしたか… 【安芸】と言えば中学2年か3年の頃の季節は忘れたが九州鉄道旅行の帰り 下関から乗った記憶はある!78年廃止なら廃止間際に乗ってたんだろう 【安芸】ってひっそり寂しく廃止になったんだろなぁ… 当時葬式鉄がいたら騒々しかったかもね? 校内暴力ってのは、無縁でしたよ。
125 : 上り安芸は大阪駅に早い時間に着くから家から始発に乗っても撮影できないから よく梅小路に行く途中に向日町操車場付近を通る時には車内からカメラを出して写真を撮った覚えがある また当時、梅小路は国鉄が赤字だったので廃止の動きがあり【梅小路のSLを守る会?】に入会し、月に一度?会員がSLのナンバープレートを磨いたり、ミニSL(田川栄次朗氏?)に乗る方の誘導などをした思い出があります。
126 : 安芸は特急昇格からしばらくは20系があてがわれていたけど、 そのうち24系25型のなかでも最新型の切妻型が奢られたんだよね。 しかし、ほとんどその直後に死亡、と? 機関車は最後まで古豪EF58だったかな。
127 : 当時の関西系のブルトレ 西行きのEF58使用の 明星・あかつき 彗星には機関車にヘットマークが無くて 当然 急行の 雲仙・西海 あそ・くにさき にも皆無… 北陸線関係なら、日本海や つるぎにも ヘットマーク無し!この時代の夜行列車の機関車に付いてたヘットマーク と言えば東京発着のEF65-500P牽引列車のみ… なおさら、おっさんになった今でも EF65-500Pには格別な想いが ある… 今思えば 何で東京発着のブルトレにだけヘットマークあったのだろうか? 当時の東京機関区のEF65-500はP型だけに旅客輸送のみ重点を置いた 機関車だから、栄えある東京〜九州間の夜行列車の先頭に立つからこそ ヘットマークは必要不可欠と考えたかも知れない
128 : >>127 関西と関東のやる気の違いでしょうね。 宮原運用の複雑さもあったのかもしれませんね。 私もEF65-500Pは大好きですね。 ブルトレ牽引といえばこいつでしょう。 EF58がなんで人気あるのかいまだに分からな世代です。
129 : >>127 大阪発のブルトレも70年代初頭までヘッドマークはあったらしい 75年頃、NHKの大阪ローカルに「テレビ投書欄」という番組があって 小学生の鉄道ファンからの質問に対し、国鉄に取材して回答していた それによれば、東京発は夕方出発・昼頃到着で明るい時間の走行時間が長く 沿線に対するアピール度があるが、大阪発は明るい時間にあまり走らないので 着脱に経費をかけてまで掲出する意味があまりない… とかいうものだった まぁ、実際は労組絡みの理由だったのではないかと思うが
130 : 48年10月までは、ほとんどのブルトレにHMがあった。 東北・常磐のあけぼの、ゆうづるにも付いていた。
131 : >>129 >>130 あんたらホントに昭和30年代生まれ?
132 : >>129 それにしては昭和59年2月に関門間もよくヘッドマーク復活したよ! 1駅間でしかもほぼトンネルオンリーなのに。その頃は労使の体制が変わってたのかな? >>131 昭和30年代前半は高校生の時代だから否定もできない。 昭和20年代が紛れ込んでるかもしれないが。
133 : SLマニアの場合 昭和30年早生まれ・・・45年4月高校入学 呉線に間に合った 昭和31年早生まれ・・・46年4月高校入学 C62重連ニセコに間に合った 昭和32年早生まれ・・・47年4月高校入学 高校3年間まだまだSLを楽しめた 昭和33年早生まれ・・・48年4月高校入学 高校3年間まだまだSLを楽しめた 昭和34年早生まれ・・・49年4月高校入学 北海道のSLなら高2まで楽しめた 昭和35年早生まれ・・・50年4月高校入学 高1まで室蘭・夕張線のSLを楽しめた 昭和36年早生まれ・・・51年4月高校入学 SLねえよ
134 : 34年早生まれです 自分家の前が 関西線(名古屋市内) 子供の頃は毎日SL見てた
135 : 48.10で増発のあかつき・彗星にはHMが無かったかもしれないけど、全廃は50.3かな? 49年夏に新大阪でHM付きつるぎを撮った 48〜50年といえば、30年代前半〜中盤の生まれならば小学校高学年〜高校だから一番記憶に残っている年齢層じゃないだろうか? 八戸や鹿児島の新幹線開業が何年のことだったか即座には思い出せない…
136 : 昭和31年度生まれにとっては、47.3が高校受験 50.3が大学受験と重なり、受験勉強どころではなかった。
137 : 昭和37年生まれ。 山陰線(京都口)でのSLの記憶はシッカリあるな。 保津峡のトンネルで白いシャツが煤煙だらけに なってエライ目に遭った。子供心に一風変わった DD54が好きだったナ。 子供時代、俺が鉄道好きって事を知るとSL関連の グッズをくれる人が多かったんだけど正直ちょっと 迷惑だった。 SLファンの皆様、ごめんなさい。
138 : >>135 ヘッドマークについてそれで合ってる。当時2愛称併結列車はヘッドマークが 省略されていた。10年後ヘッドマークが復活した時の明星・あかつきには度肝を抜かれた。 >>133 >昭和36年早生まれ・・・51年4月高校入学 SLねえよ 大井川鉄道で夏から運転しただろうw >>136 昭和34年生まれも似たようなものだね。
139 : 50年3が月改正の最終日は あかつきとかHMなかったね その昔は急行でも安芸やニセコについてたのに でもあれはC62だからか… 銀色にもATMが付いてた (行灯式テールマーク)
140 : >>137 山陰線のSLはS40生まれのうちの嫁でも記憶にあるらしい。園部だったかな。
141 : >>133 昭和38年度の生まれだと、高校1年の時にやまぐち号復活。
142 : 復活モノはねえ…別モノだよね
143 : >>131 129だけど、このスレ的には最年少(昭和39年生まれ) 75年はまだ小学生だったけど、テレビ番組の内容は不思議と覚えてるし、 幼児期には山陰線でSLに乗ったことも記憶にある 当時は、学校でもクラスの半数以上が鉄道ファンだったので、 グループで大阪駅や京都駅に出かけて、長時間写真を撮ったりしてた 確かに子供なので機動力はないものの、部活動だの受験だのがない分、 ある意味小学生の方がピンポイントの活動密度が高かったのではないかと
144 : 自分は昭和39年生まれ。貝島炭坑のコッペルとかアルコの現役時代を見て育った。 リリー・フランキーの私小説(?)「東京タワー」に出てくる小学校の頃の描写を読んでびっくりしたよ。 自分の小学校の一年先輩だ、このヒト。 そんな自分が好きだったテレビ番組は、「走れ! ケー100」w
145 : 他スレよりコピペ。 酷使される東京の72系と101系。 昭和30年代の貴重な映像です。↓ 「ラッシュアワー」−朝日ニュースNo.959 昭和38年11月27日公開 ttp://j-footage.vox.com/library/video/6a00d41420c1f0685e00e398c0eddc0005.html ここの近隣頁には「国鉄鶴見事件」によりボコボコに壊れた70系電車の映像もあります。
146 : オレは昭和30年ジャストの生まれだから 東京近郊の蒸機も上野や東京駅の賑わいも知っている ただ、今残念なのは当時はまだガキで 今思うとそれらが日常あたりまえで それらを見られるありがたみがわからなかったことだ 長じて東北上越新幹線の開業で 在来線の特急が消えると知った時の感動のほうが 前記の事よりも危機感を持って感慨を込めて撮影記録できた もちろんその前記の事はガキなりに記録は残してあるし 今では素晴らしい思い出ではあるけれど もう5年早く生まれたかったとは思う
147 : >>119 ー>>120 ありがとうございました
148 : 昭和36年生まれ… 小学生の頃に初めて奈良に言った時に駅から見えた奈良機関区の初めて見るSLには感動した、高校生になってから一度訪れたらプレートの無いEF52とC11?が停まってあった、最近行ったら団地が建っていた。
149 : 都電が闊歩してた時代、隅田川貨物でC11が入換やってたな
150 : >>143 >確かに子供なので機動力はないものの 「親父に鉄分があったかどうか」も大きいヨ 俺は当時久喜に住んでいたが水戸線のサヨナラ蒸気イベントに行った記憶あり あと羽越線でD51-36ナメクジが現役で働いている光景とかも覚えてる、、、 、、、俺を英才教育してどーする >天国の親父よ >ある意味小学生の方がピンポイントの活動密度が高かったのではないかと 43.10の頃、久喜で東北本線&東武線が見える場所に住んでいた俺は 家の縁側が活動拠点でした(w 当時の東北スジの濃厚さといったらもう!
151 : 昭和40年頃日田彦山線池尻駅の脇の閉山になった炭鉱のボタ山に登って 通る蒸機牽引列車や気動車を見ていたなあ 石炭車の入換も多かったので半日ず〜〜と登っていて見ていた事もあった
152 : 30年代後半だから、微妙に悔しい思い出が多いなぁ。 やっと小遣い貯めて廃止直前の軽便に乗りに行ったら数日前に廃止とか… 当時の時刻表は「○日頃廃止予定注意されたし」と書いてあった記憶がある。
153 : >>152 横軽か
154 : 昭和30年代に生まれてもカメラ持たせてもらえなかったからダメぽ
155 : >>154 当時は余程の家でなければ子供はカメラなんて持ってなかったじゃん。 キャノンだったかのCMで山登りに行く弟に兄貴が寝床から「持ってっていいぞ」 ってカメラを貸してくれるやつ、覚えてない? 婆ちゃんから借りたハーフサイズカメラで鉄活動を始めたオレにとって、その CMですら夢のような状況だったよん。 今の消防厨房はすごいよ。カメラ機能付きでWEBも見れる携帯持ってんだもん
156 : 他界した親父が新しい物好きだったので 「○○(俺)が欲しいと言ってる」という理由付けでコダックの ポケットカメラを買って(たまに)使わせてくれた。 本体は未だに残ってるよ。 110フィルムは無くなるんだね。
157 : >5 俺と同じだ。世田谷区だ。 東急8000系のデビュー時は放課後に切符買って東横線に乗り日吉で試運転中のに遭遇。 緑色の制動不緩解表示灯が新鮮だった。
158 : >>153 いや、尾小屋鉄道。
159 : >>153 つか、それを言うなら草軽だな。
160 : 昭和37年生まれ。親の転勤で札幌と福岡へ。函館線C62、D51釧網線C58、石北線D51、室蘭線C57 福岡では室木線8620と山陰線D51に乗車 した。現役SLで最後に乗ったのはD51−145で区間は下関〜川棚温泉間
161 : 昭和34年生まれ 山手(やまて)線は黄色く 赤羽線は茶色だった。 西武池袋線には床が木で真ん中にポールがあつた。 トローリーバスがまだ走ってた。
162 : || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| || ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。 || ○ウザイと思ったらそのまま放置。 || ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。 || ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。 || ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。 || エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ || ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。 || ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ | ||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,) 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
163 : >>161 同い年。 来月閉店の池袋三越にトロリーバスで行った。 パルコはまだなかった。 京浜東北も茶色でポールがあった。 京成は変な青緑だった。海老茶のもいたけど。
164 : 岡山駅で伯備線のD51三重連を目撃した記憶あり! (昭和46年3月。自分がまだ小学校低学年の時代)
165 : >>164 同じ頃に見たよ、倉敷で。 ただ、D51かD52の「重連」じゃなかったかな?
166 : >>164 山陽のD51三重連。あったよ。 http://www33.ocn.ne.jp/~railway/menu1_west_sanyo_00.htm
167 : >>166 伯備の3重連が、本線に入線してきてたんだね。 珍しい画像が見れるようになったのも、ネットが普及したおかげ。
168 : そうなの?あとの2台は有火回送とかじゃなくて? リアルじゃ知るヨシもないけど…
169 : >>119 亀レススマン。 急行「大雪」から遠軽4時過ぎの始発列車はSLファンの利用多かった。 S49,3だったが定員の半分位は埋まっていた記憶。 途中紋別で9600の入れ替えを撮影して、後続の普通列車で一の橋まで行って 1691レ、サミットを越えて9600×2の1690レの撮影と効率良く動けたものだった。 でも寝不足+心地よい暖房のおかげで紋別での下車はすげえ眠かったな。
170 : 俺は36年遅生まれ 都会育ち 当然「SLねえよ」だし、SLに拘りもなかった。 34年生まれのSLへの拘りが理解できない。
171 : >>170 俺も36年で東京育ち。 でもSLの記憶は微かにある。 でも、やっぱりSLより国電の方が好きで、101系が来ると茶色のに乗るwwwと言って、よく親を困らせたが。
172 : >>170 俺、40年生まれの大阪育ち。 当然、周りにSL無し。 でも、昭和46年頃、倉敷駅でD52の重連見たことは、 強烈な印象になって残ってるな。
173 : S32生 名古屋 一眼レフが、SLにも名古屋市電全廃にも微妙に間に合わず、無念・・・・ 後に関西で583系やらEF58やらを撮って回ったが、今見るとゴミの山だなwww
174 : S36、横浜生まれ TKK7000系やスカ線70系をはじめ やはり電車が興味の的だったが、 スカ線から見える新鶴見のD51や 横浜線のSL貨物列車、房総の海に 行った時に見た蒸気を覚えてる 特に上総湊の鉄橋を渡るシーン は良かったなあ。 40年代前半は結構首都圏でも 蒸気見れたんですね。
175 : >>173 ゴミにするくらいなら私に譲ってくださいとの声が殺到する予感…
176 : S36生まれ 新潟東港の近所でC11やらDD13の記憶有り キャブにも乗った記憶有り 新潟鉄工に忍び込んでモーターカーに乗ったり 運転させて貰った記憶有り。 ジッチャンが機関士だからか。
177 : >>170 自分も同じような状況で、典型的なSL乗り遅れ組 現役の保存/臨時運転ではないSLの牽引客車に乗った記憶は、内房線で一回だけ 自分の行動の少し外にSLの線区があったため、いわゆる現役のSL撮影は、本格的なのは僅かにテツゲンだけ(1982年) でも、保存鉄道でも一度SLに対面したら、引き込まれる気持ちはよくわかるように思えます
178 : 昭和31年第3四半期生まれ。復活蒸機には萌えない。スピードが活きてた頃より遅過ぎる。あこがれはクロ151。勤め人になったら天賞堂のそれのHO買う夢にも果たせずじまい。旧国も好き。いまは最後の大型釣掛である瀬戸電再訪しておきたい。
179 : 生まれた時は鉄道黄金時代だったが、実際活動していた頃は 国鉄赤字問題、ローカル線廃止問題、東京口以外のブルトレのヘッドマーク廃止、 夜行列車廃止論など、鉄道暗黒時代だった。
180 : この板も全然古い人いないね。 ほとんど30代くらいの人なんだろうな。
181 : >>180 んなこたぁない。 ただ最近懐かし関係のスレが充実しているから、個別の話題に逝っているのでは?
182 : http://www.youtube.com/watch?v=97Tg846BITQ @故田宮二郎氏/昭和46年(当時35歳) A稲垣吾郎氏/平成21年(35歳) 所詮リメイクはリメイク。 稲垣君には荷が重すぎるかと。
183 : >>182 リメイクじゃなくてパロディかと思った。 昔は清酒各社はCMソング持ってましたね。板違いスマソ
184 : 線路搗固め音頭 http://www.youtube.com/watch?v=6u0F1vzQHd0
185 : 昭和38年東京うまれ。 SLの記憶はないが,父親が野外写生好きだったので 小さいころからよくあちこちに連れていってもらった。 自家用車もないので電車バス移動だったが, 今はなきツーマン専用仕様バスの最前席にありつけると 幸せそのものだった。幼いときはどちらかというとバスヲタだった。
186 : 草軽軽便をイメージして車運転。 途中、旧駅であっただろうバス停に停車。 「時間調整で30分停車しま〜す」と言ったら家族に 「何の調整?」「こんなとこで」私は「色々・・・」と 答え、行先を鉄道村からアウトレットに変更させられた うっぷんを晴らしました。 ※子供の頃は西武鉄道になると言う噂を信じてたっけ。
187 : ぼんびーだったので自分のカメラを手にした時には 蒸機どころか旧客や旧国は、あらかた無くなっており 私鉄趣味に流れざるをえなかった。
188 : 昭和34年早生まれ。 テツとしての最も古い記憶は 小学校入学前に上野を早朝に出る急行で両親に連れられ新庄まで帰省した時の事。 確か食堂車でサイダーを飲んだ記憶が。 高校の時より乗り鉄中心となり金銭の関係で旧客急行がいいとこだったが今では いやでも仕事で新幹線や航空機に載せられてしまい、旧客で乗り鉄出来た時はい い時代だった。今では旧客は乗れないに等しいかなね。 その後、山梨に移り、今の女房と知り合う。女房いわく、勝沼、初狩のスイッチ バックをしっかり記憶している。駅では豚を積んだ貨車をよく見たとか。
189 : 急行「出羽」。これしか停まらない駅がうちの田舎。 だから大切な交通手段だった。ぎりぎりでも座れる、ちんたら走るから遅れ ない。給油でもしてるのか長時間停車。上野駅で肩身狭いし、周りは寝台列 車ばかり、マスクはいつも排気ガスでまっ黒け(更に濡れると泣きっ面) 行先さびさび、ドアに鉄格子(早く出発してけろ!) 今思うとこれが「ブサカワイイ」って言うのかも。
190 : >>154 おいらみたいな貧乏所帯の人間にとってはカメラなんて高嶺の花もいいところだったのさorz
191 : 昭和36年生まれ 国鉄宇品線の広島−上大河の通学専用列車が最大の想い出。 乗務員は5名体制のプッシュフル運転だった。 営業係数は3000位と酷かった。
192 : 鉄と関係無いけど、この番組見てた人いる? http://jp.youtube.com/watch?v=v2oBgW8vqnQ&feature=related 俺の同級生(♂)は皆ウルトラマン見てたから話題が合うのは女の子だけだった
193 : とでん(土佐電気鉄道の略称)安芸線の土佐住吉駅を降りたらすぐに海岸に出られたのがレトロな思い出。 また、女の車掌さんが車内で黒くて大きなカバンを首からかけて運賃の料金を徴収しに来ていたのも、 今の日本ではまず見られなくなった光景。 >>192 UHF受信対応ではなかった白黒テレビ(U局毎日系のテレビ高知が受信できなかった)で、 その番組なら毎週見なけりゃいけなかった。 それ、フジテレビ系の番組ながらも読売系の高知放送で時間遅れの放送をやってたし、 また、豪傑肌で鳴らした姉貴めが強引にチャンネル権を奪取して、熱心に見ていたんだよねw
194 : >>193 >車内で黒くて大きなカバンを首からかけて運賃の料金を徴収 東京都区内(足立区)でも、昭和40年代初頭にはまだ車掌乗車のボンネットバスとかあったよ。 東武のDRCをこだま型特急のお下がりだと思っていたのは内緒だ。
195 : >>193 不謹慎で申し訳御座いませんが、DF5045号機は今でも川底にあるというのは本当ですか?
196 : >>194 こちとら、たまに行く浅草で見た「けごん」を上手く読めずに 「こげん」と呼んでいたのは内緒だ…
197 : >>196 麻生太郎大明神の御利益で、肩身が広くなったのなんの(w
198 : >>195 のちに引き上げられたのでは? 但し、転落した際に破壊されて散乱した部品の一部は川底に眠ったままかも知れません。
199 : >>194 「はつかり」のニセモノだと思っていた…。北区民より。
200 : 今は夏場冷房車なしは思いもよらないが、昭和50年代初めまでは、東京でもめったにお目にかからなかった。 私鉄などでは1両編成のなかである特定の車両だけが冷房車だったり(特に運転台のある車両は冷房車)。 その冷房も効きが悪かったり、異常に冷えたり、天井から水滴がおちてきたりいろいろだった。地下鉄は駅の 冷房でお茶を濁し、余熱がでるので冷房は入らないといううわさもあったが、なんのことはないいつのまにか 銀座線ですら冷房が入ったのは昭和55年ごろか? その一方で窓を大開きにして、外気を車内にいれる風情がなくなったのは味気ないきもする。窓をあけたがる乗客と しめたがる奴が入るのもご愛嬌だった。 都バスで最後に車掌がいるのを目撃したのは、昭和50年代初頭、確か水天宮か清洲橋あたりの路線だったと思う。 強い労組の配転拒否闘争のおかげか定年間近のオバサンというかお婆さんが勤務していた。
201 : >>200 地下鉄に冷房が入ったのは抵抗制御が減ったから。 最初の頃は、地下区間に入ると冷房を切ったりする事もあった気がする。 国鉄103系の1000,1200番台が抵抗制御のまま冷房化された時はびっくりしたけど 営団車両とのトータルでの廃熱が減ったからとか理由を付けていたはず。
202 : >>200 >配転拒否闘争 地上職に降りると乗務手当分が実質減給になるというのが理由だったらしい。 民間なら労使協議で所得保障して配転という選択もあるのだろうが、お役所 交通局では制度的に不可能だったらしい。 都バスの車掌と言えば昭和50年代中頃だったと思うが、ある事件に巻き込 まれた方がいた。新聞に載って都バスにまだ車掌がいたということを知った 人も多かった。 >>201 たしか営団はそういう理由付けしていたと記憶している。 その頃既に都営1号線では京急車がクーラーつけたまま入線していた。
203 : >>185 、>>193-194 車掌さんの黒い鞄ナツカシス それから発車するときの「おーらい!」と言うのも子供心にも可愛かった。 最前列の席は、今のマイクロ乗るとちょっと思い出す。 当時は砂利道が多くて揺れて揺れて・・・でも楽しかった
204 : 昭和34年北関東早生まれです。小学校中、高学年から鉄でした。 高校1年の夏に7日間の九州一周旅行。急行阿蘇から始まってすべての夜を夜行で 過ごしました。山陰や九州のSLを貧しいカメラと貧しい録音機材で撮り録り。 高校2年の夏には北海道SL撮影旅行を企てましたが台風で函館本線がずたずた。 青函連絡船にのって函館まで行って涙ながら引き返してきました。 リベンジで9月の連休に0泊3日の北海道旅行を強行。追分機関区は感動しました。 でも、当時一番通ったのは只見線かも。日中線も一度だけ。 昨年家族でSL奥利根にのったら焼け木杭に火がつきそうで困っている今日この頃です(笑
205 : 32年生まれ東京 私も高1/2と北海道周遊券学割\5,800で 目一杯16日+前後夜行で、夜は駅の待合室と夜行で過ごしましたよ。 ゆっくり寝るために北海道を対角線状に移動してた。 旭川駅が一番便利だったな。網走駅は、夜水撒いて追出すのな。最低。 沼ノ端では、駅員さん帰宅する時、閉めずに泊まらせてくれたばかりか、 蚊取り線香まで持ってきてくれたよ。
206 : 204です。今日列車にのっていてふと思い出したのですが、昔のグリーン車には、 冷水機がついていて、簡易紙コップみたいので飲めましたよね。 あの設備がついている車両ってまだ存在しますかね? 子供の頃よく水だけ飲むためにグリーン車まで行ったことある。
207 : >>206 能登・きたぐににないか?あと日本海などの開放寝台にも残っているかも。
208 : 昔の急行や鈍行夜行の四人掛け座席はよかった。 確かにそこには一期一会の出会いがあった。
209 : >>208 あんちゃん、何処までいくんや? みかんくわねえか? まぁ、1杯やれや。
210 :あぼーん :あぼーん あぼーん
211 : >>209 あちこちマルチしているあんたが一番キモい!
212 : こんなスレあったんですね 当方昭和39年生まれですがこのスレ世代の方は公害病(気管支ぜんそく)患者で 若くして亡くなった方が多く少し世代がずれている自分としては心が痛みます 公害が一番ひどかった頃の水俣駅や四日市駅についてご存知の方はいますか?
213 : 大人の休日倶楽部ミドルって、もう少しサービスして欲しいな。パスも良いけど3日も連休取るのは難しい。 JR全エリアOKとか、1ヶ月と一日前から指定席優先予約可能とか。割引も10%希望。
214 : Club DISCOVER WEST会員の方はいますか?年収制限とかあるんですか?
215 : まだ消滅してませんよね。 34年生まれです。福知山線育ちですが、ちょこっとC54には間に合いませんでした。38豪雪のときだったかと思いますが、父に連れられ川西池田駅に汽車を見に行きました。 ホームに入ってくる列車の屋根は雪が積もり、ホームも雪合戦ができるくらいでした。雪を丸めて駅員さんにぶつけ、父に怒られたのを覚えております。
216 : >>161 私も34年生まれ。 環状線はオレンジで、 東海道線は茶色だった。 能勢電でポール式パンタの電車が走っていた。 梅田周辺でトロリーバスが走っていた。 似てますね。
217 : 34年はや生まれ。 東海道で昼行の旧客普通列車に父に乗せられた記憶がある。 また父はよく京都まで出張に行ったが俺にとっては使用済みに切符が最高 のお土産だった。その中でも京都から東京までの「明星」の1等寝台券。 寝台券から当時の編成を調べるとマロネ40の開放寝台だった。 一方、帰省する時は夜行急行の自由席で特急に乗りたいなんてよく親に せがんだものだった。 でも今では旧客はないし、仕事でいやでも航空機、新幹線に乗せられる。
218 : おなじく昭和34年早生まれ 団地の窓の外を京王線が走る環境で育ったので自然と・・・ 甲州街道を走っていた時代(昭和38年春新宿駅地下化)の記憶あり. ダブルルーフの小型車を従えた2010系がお気に入りだった. その2010系、まもなく銚子電鉄で再会できるのが楽しみ♪
219 : >>218 小田急が新宿西口にでかいデパート立てた(のちのHALC)と思ったら、駅などの工事が済んだらさらに駅寄りにでかいのを おったてて「こんないたくさん大きなデパート見た事ない!」って喜んだっけなあ。 「スカイタウン」はまさに別格の高層階でいっちゃいけないところだと思った。11階に本屋があって そのあたりから淀橋浄水場の跡地が見えた。
220 : 37年神戸生まれ 記憶にあるのは阪神ジェットシルバー辺り、 石屋川沿いの神社で、まだ地上だった国鉄線を よく眺めてました。 113系新快速のヘッドマークが読みづらく 友達の間ではナゾの列車でした。
221 : 39年大阪生まれ 記憶にあるのは50年国鉄の長期ストライキの時阪和線の線路を歩いた事 113系新快速と旧型区間快速の奇妙なコラボレーションは一生忘れないw あと吊り掛けモーターの爆音車の昇圧前の南海本線急行も印象強烈です ちなみに南海本線は昔の方が準急普通の本数が多かったのが残念ですね
222 : たとえばですね同じ昭和30年代生まれでも31年年生まれと39年生まれは別世界 だと思うんです。前者は物心ついた時の鉄道車両といてば茶色いもの。後者は オレンジとか黄色とか緑とかカラフル。同様に昭和41年生まれと49年生まれは 前者は国鉄型最後の全盛期を見ていて場所によってはSLの記憶さえ微かにあるが 後者はステンレス+VVVFインバータ電車の世代。行動力付いた中学頃は国鉄は JRに。昭和51年と59年だとそれほど変わらない。昭和61年と平成5年?は もっと変わらない。平成5年と平成15年、ぜんぜん変わらない。逆に行って 昭和21年と29年も大して変わらない。昭和11年と19年はぜんぜん変わらない。 昭和30年代40年代生まれが最も激しい変化を体験した世代か?
223 : >>222 昭和47年:新幹線岡山開業 昭和50年:新幹線博多開業&SL全廃 昭和53〜55年頃:旧型国電、旧型電機の大幅淘汰、DLもDD51・DE10の画一化、50系客車登場 昭和57年:東北・上越新幹線大宮暫定開業 昭和60年:上記新幹線上野開業 昭和62年:国鉄分割民営化 ざっとこれだけの変化があるので、昭和30・40年代生まれはそれだけのギャップがあるのだろう。
224 : >>222 蒸機に関してはこんな感じでしょうか 鉄道世代論(現役蒸気機関車の撮影旅行に関して) 昭和50年(1975)を国鉄蒸機実質最後の年(厳密には51年だが)とすると、最後の10年は昭和41(1966)〜50(1975)年となる。(前2〜3年は配慮) 昭和30年代生まれの鉄道ファンの興味の多くを占めていたのはやはり「蒸気機関車」であり(無論それがすべてではないが)、 昭和30年代生まれを厳密に30(1955)年1月〜39(1964)年12月生まれとすると(30年代=年度とすれば 30年4月〜40年3月でもいいが)、その世代で鉄道趣味に目覚めた、というより実際に蒸気機関車を撮影しに長期の休みを 利用してひとりで(または友人と)遠出の撮影旅行を許された年齢というと下限は中学2年(13〜14歳)、3年(14〜15歳) あたりになるだろうか。とすると30年生まれだとすると43年が初めてになり、奥中山に間に合い、 ニセコも布原も味わえたということになる。この微妙な「差」が消え行く蒸機との出会い・経験の「差」になるのだろう。 無論、下限の差といっても家庭環境などで個人差はあり、こちらが高校生の時、中一でひとりで一眼レフや望遠を下げて ひとりで蒸機撮影旅行をしているのに出会ったこともある。 またほぼ蒸機が最後の働きしていた時期の学校休みである昭和50年度の冬休み(50年12月〜51年1 月)に(北海道へ)出かけられた世代の下限は昭和36年(1961)生まれあたりになるだろうか。 これはあくまでも首都圏や関西在住のファンとしての考えであり、地元の方々ではまた経験は違うのだろうが。
225 : 俺は昭和37年生まれ。 京都に住んでたから山陰線でSLが現役だったのを何とか覚えてる。 旧客ゆえ窓を閉めてるとは言え保津峡の連続したトンネルでは白い 服が煤だらけになった記憶も鮮明に。 暫くして登場した特急「あさしお」の快走っぷりが俺を鉄の道に導いた。 その山陰線も今や複線電化とは時の流れを感じる。
226 : >>225 あさしおの快走っぷりとはねw 確か舞鶴・宮津線回りのあさしおは日本一の鈍足特急だった。 昭和37年生まれと言えば現国交大臣と同い年だが、中学か高校は一緒だった?
227 : 昭和31年金沢生まれの俺にとってはキハ82の白鳥はあこがれだった。 大学生になってから宮津線まわりの「あさしお」や、函館線の「北海」に乗って、 鈍足ぶりもさることながら、 内装が古くさくなった キハ80に何か侘しさを感じたなぁ。
228 : 速度云々ではなく、それまでゴロゴロノタノタの山陰線に転入してきた キハ82「あさしお」は軽快で静かで速いイメージはあったがな。 京都駅山陰1番線(やったかな?)に止まっている「あさしお」の横を 「雷鳥」がかすめ一瞬の並びを見るのも好きだった。 あんなローカル特急にもキシも連結されてたな。
229 : あ、俺は225ではないよ。でも言いたい事はよく分かる。 俺も山陰線はよく親と一緒に乗った記憶があるから 「あさしお」は憧れだったんだ。余剰車の転用とは言え 紛れもない特急だったからね。
230 : そうそう 山陰線といえば客車鈍行ディーゼル急行が当たり前だったからエリートだね。
231 : 同じ年代でも、住んだ地域で歴然の差があるね。 東海道線沿いに住んでて幸せだった。 色んな列車を身近に見れて。
232 : >>231 東海道線沿いでもどのあたりかによって落差があるだろう。 静岡県下は新幹線開業後はバリエーションに乏しい。 大阪周辺なら面白味あっただろうが。 >>228 あさしおのキシも昭和50年3月改正で無くなったから、あっという間の出来事。 世代によっては食堂車があった時期を知らないだろうな。
233 : >>231 昭和34年早生まれ。 住んでいたのが玉電沿線なので玉電200系芋虫電車、小田急のミュージック ホーンを鳴らしたSE,NSE車に御殿場DC急行、デビューしたばかりの京王 5000系などなどをよく見たので私鉄の印象が深いね。 そして、たまに親に川崎の親戚に行く時に見られた20系ブルトレに157系 の急行「伊豆」などはまさに憧れだった。
234 : >>224 昭和34年生まれですが、SLの撮影を中心に楽しんでました。 中一の夏にひとりで初めて九州に行き、その後は春休み九州、夏休み北海道と3-4回撮影旅行を敢行しました。 昭和46-49年頃ですから、ちょうど筑豊のD50が姿を消し、安芸のC59も引退、ニセコのC62も置き換えになった頃です。 話題の中心は布原や龍ヶ森、宮崎に移動したC61あたりでしょうか。 SL最後の5年間に間に合って幸運でした。 それにしてもこの「昭和30年代生まれの鉄ちゃん」というテーマはいいですね。 同時代に色々な地域に住んで、共通の趣味を持っていた方の体験を聞けるのは非常に興味深いです。
235 : >>234 早生まれの方で?通常生まれなら昭和47年に中学入学、昭和50年高校入学だから 布原はきつそうだし、SL以外でも国鉄大変化前の昭和49年が受験生の時期だったから その点では良かったかどうか。
236 : 鉄道ファン6月号の特集「新幹線開業前夜」は世代的に興味深い。 東海道新幹線は幼児か小学校低学年の世代だから、あまりピンとこないだろうが、 岡山開業から東北・上越新幹線上野開業は世代的に脂が乗ってた時期だから、 見てて懐かしがる者は多いだろう。
237 : 世間のSLブームに反発して営団6000やキハ391に萌えてた俺は その後、進学も、仕事も、技術畑まっしぐら
238 : 最近では全く実施されなくなった白紙ダイヤ大改正。この時刻表を見るときのワクワク感はたまらんかった。
239 : 反面、ほとんど改善されていなかったときの絶望感もたまらんかった。 また、他地区にピカピカの新車が投入されるのに、自分の地区には 他から中古車が多数転用されてくる絶望感もたまらんかった。
240 : >>235 234です。私は34年の早生まれです。ので46年中学、49年高校となります。 別段受験はSL撮影に支障はありませんでした。 種明かしをすると、当時住んでいた兵庫県の公立高校受験は兵庫方式というもので 内申書でほとんど合格が決まってしまう、というものでした。一応入学前の試験は ありましが、ごく形式的なもの。信じられないかもしれませんが、試験前10ヶ日間ほど 机に向かって勉強しただけです。中三の夏休みも受験のことなどまったく頭になく、 北海道を回っておりました。 47年の夏の北海道ではまだC62やD52にも会え、九州では宮崎のピカピカのC61 が見れて感激しました。 布原は46年夏に一度だけ行きましたが、当日三重連はなく空振りに終わってしまい 残念でした。今気が付いたのですが、通常の運行でSLの三重連結局一度も見な かったなあ。
241 : >>240 ならば相当羨ましい世代ですね。新幹線岡山開業前に中学入学・博多開業前に高校入学だから、 山陽本線の大変化も目の当たりだったわけだし。 当時はSL撮影以外は眼中になかったならそれまでだけど、山陽本線の181系電車末期にもめぐり逢えてるし。
242 : >>231 生まれた年代不詳 (ということにしておこう)。 国鉄土讃本線の高知駅よりも下り方面の線路であってすらも それなりにバラエティーに富んだ列車が行き来していたのは実に趣があった。 SL牽引の貨物列車および客車列車。 DF50ならびに丸窓のDF91試作車、さらには北陸本線から借用のDD50牽引による 貨物および客車列車。 DCによる急行もしくは快速・普通列車。 キハ58による赤ひげの先頭車には、小田急の特急SE車と同一のミュージックフォン搭載! 昭和44年ごろになってDE10が初入線。 そして時には黄色い保線車(?)が名脇役ぶりを演出。 客車列車の場合は、通過するときの走行音が、病院の床を歩くときに鳴るスリッパの音に酷似ww ※今に比べて、昔の列車の各車両には風格があり、そこが大きな魅力だったものだが…
243 : 土讃本線は入明ー円行寺口間にある、とある踏切の横の 線路の砂利の上に落ちている五円玉を発見! …この五円玉、列車に轢かれて押しつぶされてペッシャンコになっていたが、 五円玉の直径が、なんと7センチ!! 厚さはほとんど無く、おおむね薄紙程度。 五円玉の穴の直径が約3ミリww 「昭和三十年」と刻まれている穴開きの五円玉。 この平べったい五円玉、今や我が家の家宝w アマゾネスの奴、結婚直後にこの平べったい五円玉を初めて見たときに、 こんなことを言ってたものだった… 「このゴエン玉のおかげで、あたしという、あんたには勿体なさすぎる人とのゴエンがあったのよ!」 抜かせ!!
244 : >>82 >>84 亀ちゃんながらとりあえず、ここにも貼り付け。 http://www.youtube.com/watch?v=G3WEgxcX0kQ
245 : 昭和30年生まれ。 小学校の修学旅行はピカピカの165系で日光へ。中学校では京都・奈良に加えて折から開催されていた大阪万博。 往路は0系新幹線、復路は修学旅行専用電車の167系「わかくさ」でした。 そして初めての一人旅は中学卒業後に“東京発”の「銀河2号」(当時はまだ上下の偶数奇数の区別なし) のスハフ43で関西本線の加太越えや紀勢本線のC57なんかの撮影旅行。 以来、新聞配達のバイトしながら、学校の休みには小海線、山陰、九州、北海道とSLを追いかけてました。 布原や龍ケ森の三重連の迫力、次から次へとやってくる筑豊や沼ノ端のSL列車も懐かしく思います。 身近では新鶴見でも高島貨物線のD51の牽く貨物列車をチャリで追っかけていましたね。 でも、SLが消えてからは撮影よりは乗り鉄になり、撮影はしなくなりました。 以来、国鉄全線乗車、私鉄全線乗車、そして定期急行・特急全列車完全乗車、 更には臨時列車もできるだけ含めて完全乗車を未だに続けています。 空の世界にも手を広げてJALのJGCの資格を“自腹”で達成したりして、 青春、中年時代を休み毎に全国毎年行かない県がないくらい飛び回ってきました。 おかげで一般的生活には出遅れ、最近ようやく人並みに家庭を持つことになりましたが、 今では昔の話ばかりを思い出す“ふつう”のオヤジになってしまいました。 もちろん、乗り鉄も家庭を持つと同時に止まってしまいました。 折からの不景気で、家族で乗り鉄する余裕もなくなったのがその理由です。 まあその分、今は20歳も下の嫁にせっせと“乗り鉄”しております。まだまだ現役ですからね。 皆さんの懐かしい話、どれも楽しく拝見していますよ。
246 : 昭和44年12月 横浜機関区 機関士127名 機関助士114名 内勤 金子 指導 石塚 外勤 五十嵐 庫内助士 平中 掃監 野中 長欠機関士 長欠機関助士 その他 草柳
247 : >>245 20歳も年下なんて羨ましいw
248 : ほんとに羨ましい。 39年生ですが、もう元気が・・・・・ でも若い綺麗な女性が相手だと元気でるだろうなぁ! 男はそういう動物ですよね。
249 : 39年生ですが、同窓会に行くとハゲ散らかしたおっさんばかりで嫌になります 自分はハゲていませんが人に白髪を見られるのが嫌なので自分で散髪してます 職業柄若い女性に接する機会は多いですが確かに若さをもらっている感じです 吊り掛けモーターで元気に走っていた旧型電車のように元気でいたいですね。
250 : 皆の衆、まぁコレでも見て元気出せや
251 : スマヌ、中途送信orz 呆けたな・・・・ http://www.youtube.com/watch?v=ehhQg7BpoL0&feature=related
252 : ↑更新改造で原型をとどめていない。
253 : 人の事言えないが、悲惨やな〜! 吊り掛けモーターもいいけど、初期113系もよかった。 窓を開けてもう一度堪能したいです。
254 : 昭和31年はや生まれ 神戸 生まれたころは、家のすぐ近くをC59やC62、D52が普通に走っていた(のだろう、記憶にあるはずもない) 親父が国鉄の職員だったから、高校、大学時代は蒸気機関車を追って家族パスで全国を廻っていた。 大学受験も合格発表は親が見に行って(国立落ちました)自分は北海道に撮影に 特急の食堂車は何度も利用したが、急行の食堂車は見たこともない(意識してなかった んだろう)電車急行のビュッフェは利用したことがある。 昭和40年代後半をもう一度やり直したいなぁ、鉄として
255 : >>254 そう言える昭和30年代前半生まれが羨ましい! 昭和30年代後半生まれは、自由に鉄行動できるようになったのが昭和50年代。 その時は国鉄線上のSLは全廃され、新幹線は博多まで開業済み。 機関車のヘッドマークは東京発着のEF65だけで、国鉄は昭和51年の大幅値上げ以来 割高になり、暗黒の道を進んでた。
256 : >>255 そう言うな、、、 S32生だが、自由に使えるカメラが手に入ったはいいが、 路面電車と蒸気機関車が地元から無くなった直後。 そういうおぬしも食堂車付きの長編成L特急やら EF58の、今で言う「葬式鉄」をやったクチではないのかな。 多分年下の連中がそれを羨ましがるぞ。
257 : >>256 EF58は昭和50年代中盤まではまだまだ幅を利かせていたから、特別珍しいものではなかったな。 まあ好きな奴はいたけど、東海道線では貨物牽引も多く、銀河、いなば・紀伊も牽引してたし。 食堂車付き長編成の電車特急も昭和53年10月以降は編成が画一化されて面白味が薄れた。 それも今となっては思い出だが。 数少なかった80系DC特急の長編成の方が当時は萌えたかも。大阪〜博多のまつかぜや、 北海道のおおぞらは13両編成で圧巻だった。 しかしそれらも昭和40年代ならかもめ、白鳥、なは・日向もラインナップに加わっていたから、 やはり昭和40年代の方が羨ましい。
258 : 昭和30年代後半生まれは、既に急行が特急の陰の存在の旅だったからね
259 : 活気がないね 孫が襲来して皆忙しいのか?
260 : 昭和32年後半生まれです。やはり一眼レフカメラを買えたのは高校生に なってからですので、昭和40年代末期から昭和50年代初期にかけてが 一番飛び回ってた頃です。ほんの一部ですがご笑覧ください。 http://the-denshadou.hp.infoseek.co.jp/ 宣伝になってしまいすみません。蒸気機関車は改めてご紹介します。
261 : 我々が生まれた頃のふるき、よき時代の東京駅の案内放送らしい。 「特別急行、普通急行」なんていう呼び方を本当にしていたんですね〜。 http://www33.ocn.ne.jp/~railway/menu7.htm
262 : >>260 (´・ω・`)阪神がない、、、 だけど西北のクロスと疎水沿いの京阪は良い♪
263 : >>254 昭和34年早生まれ。 自由に乗り鉄出来るようになったのは昭和50年代になってからだがなにぶん 値段高いのでコーヒーとカレーで粘るのが精一杯だったが座席から眺める 車窓とはひと味違っていた。 「おおとり」から眺める噴火湾、「まつかぜ」から眺める日本海など。 それよりも始発駅を発車する時にウェイトレスが整列してホームに向かって 一礼する姿は凛としていていつ見ても良かったなあ。
264 : >>263 食堂車(とくに日食?)のコーヒーってデミタスカップで小さくって、やけに濃かったよね。 あとペットシュガーの袋も懐かしい。
265 : 【社会】D51を撮影しに来た「撮り鉄」が滑落か…がけ下に男性遺体 - 群馬 http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1273149127/
266 : 昭和30年代生まれのとしては、関西ではやはり阪急梅田駅のドームだろう。 たしか万博の前頃まで残っていたが、あの薄暗い独特の雰囲気は忘れがたい。 ホームは今より南で、国鉄環状線の内側、阪急百貨店の一階部分にあたる位置。しかし現在進行している百貨店の立替などに伴う工事で、わずかに残っていた面影もなくなってしまった。 阪急百貨店の最上階にあった食堂でお子様ランチを食べた思い出は、当時の京阪神間の子供ならたいていは共有しているはずだ。
267 : あの頃京都線普通は十三始発終着でしたね 神戸線吊り掛け900系特急がいい思い出
268 : 種村氏の阪急京都線の特急のルポを読んだ直後に修学旅行で京都へいった。 自由行動の日は京都観光なんてそっちのけで関西私鉄をのりまくった。 梅田について紀伊国屋書店で「トーマスクック時刻表」を買ったはいいが・・・ 駅にもどれなくなって右往左往した思い出がある。
269 : age
270 : 田舎育ちで厨房で東京に出た俺にとって、東京で1つ衝撃だったのは 田舎のおっちゃん、おばちゃんは鉄道はすべて「汽車」と呼んでたのに 東京に来たら、みんな「電車」と呼んでたことだった。 相模線、八高線、関東鉄道まで「電車」と言ってるのを聞いて 思わず突っ込みいれたくなったが、田舎もんのコンプレックスで言えなかった。 田舎で電車は市電のことだったのに。。。。
271 : >>270 昭和34年東京生まれ。 物心ついた頃は廻りは電車と呼んでいたな。 祖母(故人)は山手線の事を「省線」と呼んでいた。 また昭和37年頃までは渋谷の方から汽車の汽笛が聞こえたとの事だ。
272 : >>267 >あの頃京都線普通は十三始発終着でしたね 神戸線吊り掛け900系特急がいい思い出 ウチは京都線沿線だったがP-6がまだ急行運用に就いてたな。 地下線内での爆音が嫌いでP-6が来たら「ハズレや」と嘆いていた。 国鉄で言えば113系に連結されていたサロが良い思い出。 今は亡き親父と京都から米原の親戚の家に行った帰り 「お母ちゃんには内緒やで」と張り込んでくれたっけな。
273 : 昭和49年の12月、 甲州街道のたもと、代々木方にあった今は亡き新宿駅貨物駅で 年末バイトをやったことがある。 ワムやワキが品川区の常駐DD13に牽かれて入ってくると方端からドアを開けて、 木箱に詰められたりんごを鉤手でつかんでかき集めるんだが、その木箱が10kg以上ある。 米俵やずた袋も多かった。肉体労働だったが2週間で当時で5万ぐらい貰えた。 子供なのにフォークリフトまで遊びで運転させて貰って、酒やタバコも振舞われ凄く楽しかった。
274 : >>273 私は全く同じ時期に、関西の某駅で小荷物の積み込み、下ろしのアルバイトをしました 約1ヶ月で10万円貰えましたから、同じですね。かなりいい金儲けでしたね あの仕事では、深夜の「はやぶさ」の機関士に朝刊を渡す仕事があったのですが それが楽しみでした。 お歳暮用の酒瓶を荷物車に放り込んで、割ってしまったことがあったなぁ・・
275 : >>243 おんしゃ、こんなところで何をほざきゆうがな? http://kochibbs.daa.jp/cgi/mibbs.cgi?mo=p&fo=hobby&tn=1052&rs=29&re=29&rf=no&al=on
276 : その昔、旧国鉄大井工場で臨時工員として働いた事がある。 職場名は忘れたが、軸箱の組み立て工場にいた。 分解洗浄された軸箱にベアリングを組むのが仕事だった。 仕事場の建物は通称『鉄研』と呼ばれ、昔はこの建物内で蒸気機関車の性能試験などが 行われていた、歴史的に価値のある建物だと聞いた事がある。 最近の航空写真を見ると、臨海高速鉄道の会社のテニスコート付近と思われる。 すぐそばには御料車庫があり、よく昼休みに覗きに行った覚えがある。 もちろん中へは立ち入り禁止だ。 当時クロ157やクモヤ191などの入場もあり、ジャッキアップされた珍しい車体を間近で見た。 仕事に行く時はいつもカメラ持参で、普通では撮れない写真をコッソリ撮ったものだ。 今思うと給料も良く割りの良い仕事であった。 仕事時間は午前午後共に各2時間程度、噂では聞いていたが国鉄とは本当に良い職業だと思った。 夕方は4時を過ぎるとみんなで風呂に入りだし、退社定刻少し前には正門のタイムレコーダー の前は長蛇の列、タイムカードを押すとキンコンダッシュで大井町の駅に向かうのである。 職場の近くに国鉄の学園があり、よく職場の人から口を利いてやるから学園に入って、 国鉄に就職しろと言われた。 その当時組合紛争真っ盛りの国鉄だったので、親に話しをしたら猛反対された時代である。 田端機関区に遊びに行っても良くお誘いを受けたが、今思えばもったいない話しであったかも。
277 : >>254-257 や>>263 レスのような話を聞くと、大江健三郎氏の真似をして、 こう叫びたくなることがよくある。 「俺は、遅れて生まれてきた青年だぁ〜!」
278 : こどもの頃母親の買い物中は 貨車の入れ替えを眺めているのが好きだったな。
279 : N.Sas.氏 Y.Mik.氏 S.Hat.氏 N.Iwa.氏 Y.Sir.氏 H.Suz.氏 その他大勢… 最近は現役社会人の中核にあたる年代で、さすがに忙しいのか、ご無沙汰気味の人が多いが、一時期、鉄道誌を飾った有名鉄ちゃん、結構多いな
280 : 東海道線の昼間客車急行や山陽線の昼間旧客普通列車に乗ってみたかった。 普通列車は宇野行きがかなり大きくなってからでも走っていたんだが、一人で乗れる年齢ではなかった 記憶の彼方に、土山や加古川、宝殿などに止まった旧客乗車の思い出があるのだが、鮮明には思い出せない 幼稚園ぐらいの時だったのかもしれない
281 : 尼崎から大阪まで、旧客に乗って楽しんだものだ。
282 : 昭和31年生まれだが、もう10年早く生まれていれば・・・と思う(戦後の混乱期であるが、あくまで”鉄”として) そしたら山陽本線での大型蒸気の活躍や、珍品のローカル私鉄の機関車が、大人の目で見れたのに
283 : http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/s/?@0_mall/book/cabinet/8640/86403019.jpg
284 : 保火
285 : もうすぐ上越新幹線開業から28年か・・・
286 : ほう 俺が足を洗ってからそれだけ経ったのか
287 : >>286 足を洗ったはずのやつがなぜここにいる。
288 : やってた頃の事はなつかしいからな
289 : >>254 ナカーマですね。31年10月生、東京です。家族パス10日間国鉄全線乗り放題、急行自由席OK。地方私鉄も何となくOKだった。 高校の夏休みにこれで日本一周しました。宿は夜行列車か国鉄の宿泊所。電話は鉄道電話でタダ。ポッポ屋は給料安いと言ってた 鉄研にいた親父まだ生きてる。通常の乗車券や定期券もまる職印押されて半額でしたね。後に世間から批判されパス廃止。
290 : >>289 そのまんまです(笑)鉄道電話は使ったことがないけど 夜行急行でブランコみたいに行ったり来たり、宿舎もYHより安かったし、便利な場所だし 寝台券は満額だったかな? 自分が自由に動き出したころは、家族で誰もパスを使うものはいなかったので 毎年独り占めでした(高校生ぐらいになると家族旅行なんて行かなかったから)
291 : >>276 亀すまん 車両課長は田邊さん?遠藤さん?
292 : 昭和31年生まれ、品鶴線徒歩圏 小学5年(昭和42年)にバカチョン持って上野駅が、始まり 地下ホームは今思うと、博物館状態でした 昭和44年に一眼にしてから、九州、北海道、4回ずつその他いろいろ 昭和50年3月までフル稼働、今後、語っていきたいと思います。
293 : 292です 地下ホームでは無く、地上ホームの間違い 13から20番線のことです
294 : うむ、地下ホーム(銀座線)もその頃は博物館状態の昔風の駅だったよね。 たしか京橋駅なんかもホームの柱など建設時のままだったし。
295 : >>292 上野駅13〜20番はつい地下ホームって言ってしまいますね。 1〜12が地上に有るような感じだからか?
296 : 全盛期の地上ホームは楽しかった。特に年末なんて行き先見てるだけでわくわくした。 定期列車も含めると、日光、大阪、茂木、久慈、酒田、大湊、宮古、など今では見ることのない 行き先表示が見られた。
297 : このスレを見て、あらためて復刻版の時刻表をみていたら昭和31年当時は、今では考えられない始発駅の列車があったんだね 三宮発上郡行きや富士発島田行きとか 三宮の駅は今も昔のままだけど、蒸気機関車牽引で宮原から回送で来ていたのかな?上郡には駐泊所とかあったのかな?
298 : 清水市内線があれほど繁盛していたのに たった一箇所の小さな鉄橋の損壊が原因で廃止になってしまうとは・・・ 子供の頃よく乗っていました。
299 : ギリギリで東海道線の旧客車で熱海から東京行きに乗れた世代。 が、なぜか川崎に停まらず、横浜でスカ線に乗り換えを余儀なくされた。 その後電車化になってからも、ずいぶん長い間、東海道線の普通は特に朝、 川崎を通過していたが、なぜなんでしょう? 同じ線路を走っていたスカ線は停まったのに。
300 : >>299 同じような現象が東北・高崎線の浦和、常磐線中電の北千住でもあったな。
301 : >>299 一般的には遠近分離などと体裁のいい説明がよくされるけど、推測にすぎないが、 当時東海道と横須賀線は同じ線路を共有していたわけで、過密ダイヤのラッシュ時 東海道線の列車をを川崎停車することにより、ダイヤが余計に乱れるリスクを 嫌った可能性が強いと思う。 横須賀線が品鶴線経由になった後は、東海道線だけで使用可能になったため ダイヤ的には相変わらず過密でも川崎停車するゆとりができたのではないでしょうか。 なにせ昔の国鉄は遅延にやたら神経質でしたから。 浦和や北千住はまた別要因(専用ホームの有無でダイヤ組成的に不可能)もあるような。
302 : >>282 >もう10年早く生まれていれば・・・と思う みんな同じ考えなんだね。
303 : >>302 >>282 のそれは贅沢というもの。国鉄線上のSLは充分間に合ってるし、151系こだまそのままの 車両に山陽路で乗ることができたから、5年後に生まれた俺には充分羨ましい。 それに現在東日本在住なら、大人の休日倶楽部有資格者で、3日間12000円で乗り放題の機会もある。
304 : >>303 そうでしょうね、中学の時には神戸市内でも時々イベントでない蒸気機関車が 走ってましたから(鷹取工場の検修の入出場?) 小学校の時には、「うずしお」に乗って宇野まで行きましたし おっしゃるとおり、蒸気機関車の最後の3年ぐらいは全国を飛びまわれる年齢 でしたから でも、もう10年早く、と思ってしまうんですね
305 : >>304 もう10年早くなら、今頃この世にいないかもよw
306 : 東急玉川線のかすかな記憶。
307 : S35年生まれ、高校時代に国鉄の川崎駅でバイトしたことがあるが、南武線ホーム担当のときは同駅 折返しのため、方向板や方向幕の行き先を変更する作業があった。当時(S50年代前半)の南武線は 旧国73系と101系の4連と6連が混在しており、特に73系の方向板の変更は片手で前面の雨樋に?まり 、ステップに足を掛け、もう片方の手で板を入れ替えたり、裏返しにしていたが不安定な態勢でスリ ルがあったよ。また、101系の900番台(試作車)や一編成のみの貴重な冷改車も走ってたね。
308 : 失礼しました。雨樋に?まり →雨樋につかまりの間違いでした。
309 : 東京発、西鹿児島行、急行桜島・高千穂に乗りたかつたよ。 もちろん終点までね。
310 : おれは小豆色の急行電車「つくし」に 乗りたかった、、、 普段見慣れてない、あの配色 けっこう衝撃的だった。
311 : >>309 昭和49年の廃止直前に東京・熱海間だけ乗った。 もうグリーンもなしのボロボロ客車だった。 たしか1時間40分近くかかっていて、品川・横浜・大船・小田原しか 停まらなかったのに、現在の各駅停車と大して変わらなかった。
312 : 確かグリーンと自由席のみと記憶していたのですが 末期はグリーン無しでしたか。 どうもありがとうございました。 私は上野発、東北、磐越西線経由,新潟行、急行いいで に乗つたことがあります。 ご記憶あるかた、おりますでしょうかね。
313 : >>310 大阪〜三原で使ったよ。赤穂線回りだった。
314 : >>312 昭和49年10月の運賃・料金改訂で、東京〜西鹿児島のグリーン料金が2000円だったな。 本来は値上げだけど、最長距離のこの列車全区間については割安になった。 でも改訂してほどなくグリーン車は外されたが。 >>310 玄海・はやともも当時は同色の車両だったけど、つくしにこだわっている?
315 : >>313 羨ましいな〜 >>314 神戸に住んでたんだけど、 普段見れたのはつくしの一日一本だけだったと思う。 俺にはブルートレインより好きだった。
316 : 急行「高千穂」にフルコース乗車しましたよ。それも帰省シーズンのピークだった8月13日だったかな。 東京10時丁度発の列車に乗るために8時から2時間並びました。 乗車したのはナハフ10 36。相棒の「桜島」共々、グリーン車以外は全て自由席の編成でした。 相席は延岡と都城に帰省するおっさんと、大垣に行くお姉さん。 おっさんたちとはほぼ丸一日一緒に過ごすことになって、当時浪人生の自分に何かと気を使ってもらいました。 東京で通路まで立ち客で埋まった状況は、夜の関西を出ると、トイレに行くことさえ難儀する超満員! 夜明けの門司に着いて切り離しの長時間停車にホッとしたものです。 あとはもう惰性かな。やっと空席が出始めたのは延岡を出た辺りから。 翌日の14時20分に西鹿児島到着。 暑いホームに降り立った時、28時間20分のフルコースを乗り通した充実感は、鉄ちゃんには至福のものでした。
317 : ありがとうございます。 高千穂の情景が浮かびます。 俺も乗りたかつたな。 乗り鉄の頂点の列車だと思います。
318 : >>316-317 富士には同区間フルコース乗ったけどw >>315 神戸なら新幹線岡山開業以降の山陽線交直流急行型は、確かにつくしだけだった。 ただあの色がお気に入りなら、大阪から北陸の立山・ゆのくにも同色の急行型 だったけど、新幹線博多開業で影響なかったから萌えなかったわけ?
319 : 寝台特急「富士」も後年フルコース乗車しました。 こちらは東京18時00分発、西鹿児島には翌日の18時20分着で24時間20分の旅でした。 まだ20系の時代で、食堂車も健在、大分から先はDF50が牽引していました。 20系とはいえ「高千穂」とは雲泥の差!でも、ガラガラの寝台の上で手持ち無沙汰のまま淡々と走っていろので、 感動という点では今ひとつでしたね。 終着駅間近の錦江湾の向こうにそびえる桜島が夕陽にシルエットになっていたのが印象的でした。 ちなみに、その後も「きたぐに」「白鳥」などや九州特急、急行のほとんどに全区間乗車しました。 「まつかぜ」「くろしお」や824列車にも乗り通しました。 決して快適とは限りませんが、鉄道旅行が楽しかった時代が懐かしく蘇ります。
320 : >>318 東灘駅の近所の踏み切りで列車を眺めてる 小学生だったので、山陽本線以外の列車は全く 知らなかったよ。
321 : >>320 ならば山陽本線でも岡山発着のつばめ・はとも馴染みがなかったわけだな。 当然雷鳥・北越・白鳥の存在も後年知ったとw
322 : >>320 形優先だったから名称はそんなに 気にしなかったね、 大阪駅で見て感激したのは 前面橙一色の153系だった、、 ちょっと脇役が好きだったみたい。
323 : >>319 富士の東京―西鹿児島全区間を20系時代に乗ったのもある意味羨ましい。 俺が富士の全区間乗り通したのは79年。直流区間はEF65-1000番台、客車は24系25型に替っていた。 食堂車は付属編成で東京―大分間。A寝台が個室になった以外は20系時代よりクオリティーが下がった。 それでも末端の宮崎―西鹿児島がDF50牽引にギリギリ間に合ったのが救いだった。 しかし大分からDF50時代より所要時間が延びて、24時間24分とは一体何故だろう? 直後に全区間EL牽引になって、上りの運転時間が24時間を切った。 そして1年後に東京―宮崎運転になって、最長距離列車をはやぶさに明け渡し。 本当に全区間乗車ギリギリ間に合ったわw
324 : その昔、秋田から20系の、天の川で上野まで帰つてきたとき 最初で最後の20系,A寝台に乗つたな。 上野、早朝着で、本当はもつと乗つていたかつたよ。
325 : 「天の川」は新潟も利用時間帯に入れていたから、上野発は遅く、上野着は早かったんですね。 晩年まで時刻表に数少ない“急行寝台列車”のマークを示していたものですが、 下り列車に乗ると新潟からナハネフ22が最後尾になって、ここが素晴らしい「展望席」になりました。 景色の良い羽越本線を、ここにあった小さな椅子に腰掛けて、いつ飽きるとも知らず眺めていた記憶があります。 特に冬場の雪景色は最高でしたね。 秋田に近付くに連れて車内は人気がなくなり、誰もいない車内で独りきりなんてこともありました。 秋田着は確か11時前。今なら朝一番の新幹線でも着くような時間でしたから、乗り通す客はほとんどいませんでしたね。
326 : ありがとう。 あくせくせず、いい時代の急行でしたね。
327 : 漏れは廃止直前の20系下り天の川に乗った。 >>325 と違ってB寝台。A寝台乗る金が無かったorz しかし上り早朝着を愚痴るなら、何故下りの上野→秋田で乗らなかったの?
328 : 運転免許合宿で山形に19日間いた。 その後、秋田に移動し、友人と別れて東京に戻るため 発車当日にみどりの窓口で、天の川A寝台取つた。 だから上りなんよ。
329 : 連投すまん 友人は秋田のホテルで1泊。 俺は鉄なので、ホテル代と思い奮発してA寝台にしたと言う訳。
330 : まだアンちゃんの時、17日間の九州旅行(乗りつぶし)の締めくくりとして、最長特急列車「富士」に西鹿児島から乗ったことがある。 A寝台を奮発。清水の舞台から飛び降りる気分だった。 当時、指定席類は、一般は一週間前発売だったので、旅行の途中で手配したが、3回位失敗。 (上段はあったのだが下段じゃなくちゃだめなんだよな) 乗ったのは開放式のオロネ24だった。調べてみると個室化される直前だったようだ。 お金を使い切って、食堂車にも行けなかった。そのうち食堂車が無くなるとは思っていなかった。 夢のような24時間ちょっとだった。 その後の俺は夜行はもっぱらハザ派。
331 : >>330 個室化直前ならA寝台料金が7000円の時代かな? 24系三段寝台時代は1年半しかなかったから、それはそれで貴重だが。 昭和51年の大幅値上げ前なら、確かに運賃・特急料金の割にA寝台・グリーン料金が割高だから、 奮発したならその気持ちは分からなくもない。 しかし24時間乗車して食堂車に行けなかったのは勿体ない! 当時でも寝台特急の食堂車は東京発着のブルトレだけだったし。 その後富士の食堂車は15年以上は稼動してたけど、リベンジもしなかった?
332 : >>331 レスありがとう。 料金はそうだった。横長の特急・A寝台券が今でも保管してあるはずだが。 当時は、正規のの特急券(自由席特急券でなく)に寝台料金を取られた。理不尽だなと思った。 その後、ブルトレに乗ったのは就職してから出張帰りに鳥栖から。 一人だったのと、個室を取って食料持ち込んだのもあって、このときも食堂車に行かなかった。 (ちなみにAネはこのほかは新婚旅行の北斗星のみ。いつも夜行はハザ) 食堂車無くなるとは思わず、あまりありがたいとは思わなかったが、今になってみると・・・・ 北斗星のときはディナー食べたが。 上り富士も、宮崎発、大分発になり「ふじぶさ」の後消滅。当時は思いも寄らなかったよね。
333 : >>332 国鉄の泥沼赤字の合理化推進で、富士はいつ宮崎打ち切りになってもおかしくないと思った。 西鹿児島まで日豊本線回りで行くのはどう考えてもマニアしかいなかったし。 新幹線博多開業前は実質別列車を直通させてた、そんな酔狂な列車が多かった。 そして1978年10月、1980年10月、1982年11月改正で段階毎に消えていった。 桜島・高千穂廃止後に最長距離急行になった、きたぐにの大阪〜青森を乗りとおした 者はこのスレではもっと多くなる?
334 : ここでは「富士」に比べると、若干インパクトが劣るようですが、九州ブルトレといえば、 自分自身には「あさかぜ」が一番馴染みがありました。 “走る列車ホテル”の触れ込みで華々しくデビューした当初や、 A個室車両をいくつも連ねた豪華編成の頃は縁がありませんでしたが、 24系化され、特に金帯寝台車になった頃には頻繁に利用しました。 東京発の夕方の「あさかぜ1号」に乗って、食堂車の開店と同時に席につき、 横浜駅で帰りの電車を待つ通勤客の羨望の中でビールを飲む…これが“快感”でしたね。 ただ、もう九州内までブルトレを使うことは少なく、多くは岡山〜広島の利用でしたから、 もっぱら“下関あさかぜ”の「あさかぜ3、2号」の利用が大半でした。 食堂車もない編成でしたが、シングルDXは格段に居住性が良く、愛用していましたね。 東京着が出勤前に着くことも大きな理由でした。 でも、時は変わり、その後は飛行機の往復が当たり前、ブルトレには乗らなくなり、 気がつけば次々と廃止になっていきました。
335 : >>334 何だか博多あさかぜをよく利用したか、下関あさかぜの方が多かったのか、訳の分からない文章だな。 スカイマークの就航や、下限運賃の撤廃で飛行機利用が多くなったのは、全般的な傾向だろうな。 >>334 の張本人はこのスレタイと違う昭和40年代生まれかな?w
336 : 80年代に東京ー大分の往復に富士をよく使った。 高千穂はとうになく、くにさきも途中で消え、 新幹線、にちりんか富士しか選択肢がなかった。 当時は金はないけど、時間はありあまるほどあった。 金はあるけど時間のない今の俺には富士の17時間は 凄い贅沢だ。
337 : >>336 今は富士も無くなっちゃいましたが何か。
338 : 湘南顔のキハ44500の快走を自宅の窓から眺めてました。 @九州
339 : キハユニ16の最期までおせわになっていました。@奈良
340 : >>338 九州の湘南顔は電気式キハ44100のようです。竹下に5編成ありました。(44200をはさんで3両編成で) 走行音はつりかけモーター音か、ディーゼル音かどちらが勝っていたのでしょうね。聞きたかったです。 晩年生き残ったのが奈良のキハユニ16というわけで。 44500の活躍場所はもっぱら川越線のようです。
341 : >>340 重箱つつきで申し訳ないが、キハ44000系のモーター架装は釣り掛けでなく直角カルダン
342 : >>341 そうでしたか、ありがとう! 電気式といえばDF50は、楕行しようが駅に止まろうがドリドリドリとエンジンがうなり続けていました。 おかげでモーター音には気づかずじまいです。 停車しているとSLは静かなんですよね。
343 : >>342 いや蒸気だって停車中コンプレッサーとかスチーム弁とか ドコドコ・シャーシャーいって結構うるさかったが
344 : 力行してきて、停車したあとはコンプレッサーやインジェクタ、ブロワーとか色々 動いているからね、けど長時間停車の普通列車や貨物列車などは、一段落したら 乗務員もホームに降りてきたりして、その時は静かなものじゃなかったですか? DLはずっとアイドリングしてましたから(けれどもそれを言えば、ELは静か なのかな)
345 : 毎年3月になると廃線の謹告が出ていた 大阪市電
346 : 小学生のころ京都にいったときは市電がまだ元気だった。 京都駅から乗って百万遍で下車してちょっと歩いて銀閣寺までいった。 そのころすでに東京の都電は早稲田〜三ノ輪橋を残すのみとなっていた。 あれから40年 まさか京都のほうは全廃されて東京の荒川線が残るとは 当時夢にも思わなかった。
347 : 昭和53年頃まで、東海道線東京口に一本だけ残っていた最後の80系、列番327Mでしたっけ? 確か沼津行きだったと記憶していますが。
348 : >>347 創価臨の回送兼ねていたやつね。
349 : その80系沼津行きは、確か12両貫通編成だったと思う。 普通列車で中間に運転台の入らない貫通編成は、よう考えてみたら、史上最長だったんじゃないだろうか?
350 : 詳細な指摘! あなたの言うとおりかも知れない。
351 : 1号車に組まれていたクハ86の200番台が自分のお気に入りでした
352 : すんません 自己突っ込みしておきます × クハ86の200番台 ○ クハ86の100番台 自分は何気なく「番台」を使っていますが これと「番代」はどちらにすべきかなどというネタで 炎上していた鉄道趣味誌がありましたっけね
353 : >>351 自己突っ込みまで全く気づかなんだw 86100番台・80200番台(F誌流に)というと、静岡と山陽本線のイメージかな。 名鉄局管内だと名シンの◆80200位しか印象がない。 Tcは名カキの86138しかいなかった。 86100番台・80200番台、新製時からのアルミ窓枠にしては、古風なニス塗り車内が何とも言えずよかった。
354 : >>318 「べっぷ」もそうだったのでは?
355 : >>354 つくしと併結してただろう。 べっぷは昭和48年の改正で消えたようだけど。
356 : 桜島高千穂は一度だけ乗ったな。ただし上りの小田原〜東京。 なんというか・・・そこだけ時間が止まって別世界の感覚。 急行なのに冷房がないと母親はブーブー。
357 : 子供の頃、バスの「ワンマンカー」と言葉が、とても新鮮だった。 ちょっと前の、E−なんとかとか、同じ位かな。 戦前・戦中世代は、「特殊」なんとかが最先端の言葉だった ようだ。
358 : ワンマンカー、子供時代は意味判らなかったな。 地元のバスは既に運転手一人の何処までも料金同じの先払いだったから。 博多に住む親戚のところに行った時、バスに乗ったら、運転手の他、中ドアに一人居て、 その人にお金を払ってから乗った記憶はよく覚えてる。 まだ蒸気機関車が走ってて、大きな踏切で蒸気機関車が何故か立ち往生みたいに止って、 長い時間、踏切が開かない状態に親戚のオジサンが怒って、クラクションを何回も鳴らしてた。 改めて写真でオジサンの車を見ると、二代目RT20コロナなんだよな。 乗ってる時、オジサンの襟足がよく見てていた記憶も思い出したので、 あの当時の車はヘッドレストが無かったんだな。
359 : 考えてみればむかしのバスの車掌さんってすごいよな。 ゆれる車内で乗車客あると切符売る。しかも区間ごとに運賃は違うし つり銭の計算も暗算でテキパキしないといけない。
360 : ♪田舎のバスは おんぼろ車 タイヤは継ぎだらけ 窓は閉まらない それでもお客さん 我慢をしているよ それは 私が美人だから 田舎のバスは おんぼろ車…♪ …こんな歌が昔あったのをふと思い出した。 ♪…私は東京の バスガール 発車 オーライ 明るく 明るく 走るのよ♪ …なんて歌もあったな!
361 : >>360 田舎のバスとハイケンスのセレナーデのメロディーが酷似してると思ったのは私だけ?
362 : ttp://minna.cert.yahoo.co.jp/bnmeb/710008
363 : つぎは○○○○ ○○○○〜 ネガイまーす ブッブー ○○○○ですー ありがとうございました ありがとうございました ありがとうございました お待たせしました△△△駅行でーす 発車しまーす オーラーイ ご乗車ありがとうございます おそれいりますが乗車券おもちでないお客様に 乗車券をお切らせさせていただきまーす つぎはー□□□□でーす □□□□でお降りの方いらっしゃいませんかー つぎオーラーイ いまご乗車いただいた方で終点まででないかたいらっしゃいますかー? どちらまででしょうかー? △△△市役所までですねー 180円になります ありがとうございます □□□□通過しまーす 次はーー
364 : ♪紺の制服脱ぎ捨てて 私は東京のバス(BATH)ガール 発射〜オ〜ライ 明るく 明るく しごくのよ〜
365 : 「日立のエレベータ」等の宴会ソングの類かwww ヒネクレ者だから、当時先輩が得意気に歌うのをさめた目で見ていたな。 元気バリバリの頃追っかけていた車両が次々と廃車になっていく。 老いをつい感じてしまう。
366 : 和製pccカー
367 : http://youtu.be/NQf6Qu76RJ8
368 : 新宿に向かって新原町田手前の鉄道土手でよく遊んだなぁ、お墓の上の方で 線路の一円玉のプレスをやってたら、ロマンスカー止めちまった事も有ったよ。 まあ、元々よく停車したり徐行の区間だったようだけど 当時ロマンスカーのあの音は、でぶばぼ〜んと聞こえたww 昭和33年型です
369 : 600V→1500V昇圧 一気に旧型車が消えてしまったのが子供心に 寂しいような、嬉しいような・・・ @阪神ユーザー(小1の時に昇圧)
370 : でも京都(叡電)に行けば小型車に逢えたし、 そんなに感慨はなかったなあ。 昇圧後、山陽との相互乗入初日に父に連れられて大石駅に行ったが 2000系アルミ車が「阪神←→山陽」の方向板を付けて 待避線に停まっていたのを思い出す
371 : 特急充当の山陽2700が物凄い軋み音を立てて阪急六甲駅1号線にやって来た DT13Sのせいだったのか。 ホームで待っている時この形式が来ると焦げ臭さを感じることが良くあった。
372 : グリーンチャンネルの競馬の番組で「クラシックパーク」というのが あったが、司会の岡部玲子がバスガールの格好をさせられ、 「バックオーライ」といいながら、後姿を映されるというサービス カットがあった。 スマン、つぎはもっとまともなこと書く。
373 : @大阪 昇圧の頃って、クーラー車が増えたりした時かな? あと、行き先のミニ看板とか、好きだった。 当時、¥200くらいだったかな。
374 : 東海道線の塚本-尼崎で線路に入って写真とってたら、おれの目の前でEF58が 停車して、あせったことがある。下り線で宮原につながる連絡線が本線とクロス する手前で、築堤のコンクリートを背に固まってしまった。 単なる信号停車で、お咎めなしだったが。
375 : 以前、このスレだったかと思うが、子供の頃の話で、国鉄の機関士の親戚がいる友達がいて、 SLに乗務させてもらって福知山線を走った、という話を書いたが、先日ある本を読んでいると もっとすごいことが書いてあった。近衛秀麿という大正〜昭和の指揮者についての本だが、 秀麿本人が山の手線の列車を運転する話だ。 「その頃の運転手は笑ひながら、小学校の小僧にハンドルを握らせたものだ。目白の次が 新宿、ふだんよく見ているから、どこでブレーキをひとつ入れるカなど、ちゃんと知ってゐる。 新宿のプラットフォームにぴたつと停めて降りると、向こう側へは中野に住む同級生が中央 線を運転して入って来る、といふ調子であった。」 いやはや、たいへんな時代だったな。
376 : 近衛は、展望車のテールマークを譲渡するように車掌に強要したという話も残っている。
377 : 近衛秀麿は明治生まれだが、子供の頃から鉄道模型で遊んでたという鉄の音楽家。 岩城宏之なんかもせっせと、サボとか盗んで献上してたようだな。 後日全部没収されたらしいが。
378 : 30年早生まれ、毎日宇品線に蒸気機関車を見に行ってました。 とにかく雨が降っても「見に連れて行け」と母親にねだったそうです。 運転台に乗せてもらって、汽笛を鳴らしたことがあったのですが、 あまりの大きさに泣いた記憶があります。 途中、親父の転勤で引っ越しましたが、高校でまた広島に戻り、 自分は自転車通学でしたが、宇品線で通ってる同級生もいました。 線路のそばは黒ずんでる印象がすごくありましたね。
379 : 当時のクラ関係だと音楽之友社をつくった堀内敬三も大変なマニアだね たしかピクトリアル創刊号に8850の思い出を書いていた
380 : 音友社かあ、ステレオ誌、どんどん薄くなってる。
381 : >>379 ピクの蒸気機関車特集集成?に幾つか載っているな。 C53・59は伊達男だがC62は「ブーチャン」で不細工だ、とか書いてござった。
382 : 音楽関係では有名だがドヴォルザークが鉄オタの代表だな。 車両編成なども熟知しているマニアだった。 最後は汽車を見に行って風邪を引き、それが原因で亡くなった。
383 : >>382 彼としては、それで本望だったのかもね。
384 : 中川ナントカだった?RFかなんかに連載があったかと、クラ関係者。
385 : 中川イサト?
386 : こりゃまたコアな人を、 で、次に出てくるのは高石ともや、ステファン・グロスマン、トニー・ライス?
387 : ドック・ワトソン逝去てか!
388 : >>387 ありゃ、本当だ。 こりゃまた、偶然というか、ドク・ワトソン氏が「覚えておいてくれよ」と呼んだかな・・・・ 追悼記帳、 これ位のスレチは許してくれ、この年代じゃないとわからんだろう、このあたりは。
389 : というか、スレチにしても狭すぎる分野だと思うんだが・・・・ こんな話題が通じる方が鉄ヲタにいらっしゃるとは・・ いっそこのままスレチで行きますか?
390 : しかしS30年生まれとS39年生まれでも見てきた世界にだいぶ違いはあるだろうな。
391 : >>390 1950年代生まれと60年代生まれと言い換えると、結構違うだろう。 日本が飛躍的に変った時代だったから。 東京オリンピック、大阪万博、連合赤軍事件など、大きな事象に関わった歳に結構差がある。
392 : S39年度の早生まれはS40年生まれということですしね 私はこれに該当しますが旧型の釣りかけ小学校卒業迄 旧型客車は大学生迄国鉄がJRになったのが大学卒業の 世代になりますが青春18切符があり有り難かったです
393 : >>386 出てきた他の人たちに比べたら高石なんてずっと格下じゃねーかw
394 : 鉄に関して、本当に黄金期を過したのは昭和10年〜昭和20年位までに生まれた人だろ。 幼い次期、小学生に戦争を体験、中学高校は戦後復興期から高度成長期、 大人になった時に昭和30年以降を迎えてる人が一番良い時期だろう。 大人になれば仕事にもよるけど、サラリーマンなら日曜は休みで各地に行けるし、 未成年だからと制約も無いからな。 昭和30年〜昭和42年頃までに大人になってれば、何の制約も無く見に行けるし、 親の車を借りて、見に行けることだって出来る。 蒸気機関車は昭和41年以降に廃車が進んで行くから、それまでに制約無く見に行ける立場が、 一番良い時期、黄金期の人達だろうな。
395 : あの世代は本州在住でも、現役C55やC59を日常的に見てたとか、 蒸気はC57と12しか見たことがないとか、いろんな人が多いからねぇ・・。 ちなみに、俺んちはDF50が旧客車を引いてたと言うと羨ましがらえるよ。 ほかにはC58と8620しか居なかったから、ほかの地域がうらやましかった。
396 : 四国の方ですか?
397 : 四国は早く無煙化されたしね 関東も同じ1970年度無煙化で 少年の身としては煙を味わうのに夜行で大変だった 中津川や奈良まで行けばすぐ煙を嗅げる 名古屋や大阪がうらやましかったな
398 : 当たりでつ! おまいら、サスガだな。
399 : >>392 同い年か。朝5時になにやってんの?w 7歳くらいで肥薩吉都線の最後のSL列車に乗せてもらえた。 そして飯塚駅でボタ山背景にSL眺めることができた。 冷水越えのSL音収録したレコード、聴いたことあるが 自分で買った記憶は無いし、いつのまにか捨ててしまった。 その頃地元私鉄で一人で乗り鉄始めた。調子乗って 筑豊の国鉄路線も時刻表読まないで挑戦して 原田駅やら上山田駅で玉砕したw 小学校卒業頃に、新横浜停車のひかり目当てに 一人でミニ周遊券(小児運賃)で東京でかけて、 横浜線の73や鶴見線の旧国乗った。
400 : S36-39年の東海道本線黄金時代を体験したかったな。 東京大阪間をサロとサハシを2両づつ連結した12連の急行が走っていたなんて、 夢のような話だ。 サハシに向かう三等車乗客のサロ通り抜けをなくすため、サロを2両のサハシ で挟んでおり、当時のビュッフェは繁盛していたことをうかがわせる。
401 : 新幹線岡山開通前でもぜんぜんおkなんでタイムマシン欲しいな 大阪駅から西へ下る数々の特急、急行、寝台、電車、ディーゼル、客車・・・・
402 : 153系ビュッフェで寿司を食いたかった。 東海道新幹線開業後、大阪以西でも寿司コーナーは営業していたのだろうか。
403 : 昭和36年頃の東海道山陽線の食堂車の記憶が僅かに残っている。 欠品や積み込み待ちが非常に多かった。 名古屋を出た時にトーストを頼んで、提供されたのは神戸を過ぎてからなんて、 当たり前。(ウエイトレスから少々時間をいただきますとは言われたけど。) 6枚切り食パンのトースト二枚分に球形に整形されたバターが二個ついていた。 大阪を過ぎたら、ずっと田舎の景色。 姫路近辺は干潟みたいな風景。駅の近辺だけ 木造4階建ての頼りない工場や灰色の発電所があった。
404 : http://auction.mobile.yahoo.co.jp/p/auction/search/word?p=%97%F1%8E%D4+%8E%D4%8E%7E%82%DF&catID=0
405 : >>394 南関東S35年生まれの俺もタッチの差でSLを体験できなかったorz 小学校低学年じゃ行動半径も限られていたからなぁ 高島貨物線のD51や鶴見線のC11なんか今だったら毎日見に行くんだけどなー なんとか旧型電車や旧型電機に間に合ったのでそれで慰めてはいるけど
406 : 昭和39年生まれですが物心ついた頃にはもう福知山線 SL引退後だったのでタッチの差で間に合わなかったな 福知山線以外の山陰本線紀勢本線北陸本線でまだまだ SLが走っていた時期だったので今でも残念に思います
407 : 昭和36年の北海道生まれなので、小学校6年生の時までSLは走っていた。 小学校5年生の時の市の催し物で、C62 2牽引の旧客で編成された貸し切り列車に乗って 長万部機関区まで往復したことがある。 運転台に乗って警笛を鳴らしたのは良い思い出だ。
408 : S39年末の東京生まれなので、SLは体験できなかったどころか、都電(荒川線除く)の記憶もない。 小4の頃、北海道に行った時に石北本線でSLを見たのが唯一の体験
409 : S34年東京生まれ 俺ら世代はSLブームの頃がちょうど高校受験なんだよね。 それでもS48年の夏、九州遠征しかも始めての一人旅で唯一のSL撮影の旅をした。 筑豊の9600、古豪D60、一番嬉しかったのはC55だった。 金が無いのでカメラはハーフサイズモノクロ2本のみ。 坊主頭が笑える。 超へたくそな写真、それでも良い思い出。 網膜フィルムには昨日のことのようにしっかり焼きついているよ。 弟がS40生まれだが、S47年の夏、家族で八ヶ岳へ行った時に見た小海線のC56を覚えていると言っていた。
410 : >>409 S34東京生まれ。 S49,3に高専に合格して中学を卒業した春休みに相対するようだが一人旅で 北海道に撮影旅行した。俺もカメラはコンパクトカメラだったが室蘭本線 でひっきりなしやって来るD51、名寄本線の9600重連、そして宗谷本線で サロベツ原野を行くC55には感動モノだったな。 撮影以外でも周遊券の下車印や駅のスタンプも交換待ちで停車時間あれば 走って押しに行った。いろいろな思い出の詰まった撮影旅行だったな。 その14年後の88,10にカミサンと北海道旅行した時に鉄道記念公園に保存 されているC5550と再開出来た時はすげえ嬉しかったよ。
411 : よく田舎の公園で見る「荒れ放題の蒸気機関車」。 北海道では塩害で腐ってしまったC55もあった。 運転室の計器類が全部割られているなんて当たり前。 住民のモラルが低い場合は、保存方法を変更すべきだと思う。 北見のロータリー車は蒸気に勝るとも劣らない鉄道遺産なのに 屋根もない場所に放置。内部の部品の多くが盗難に遭っている。 しかも、稼働中のボイラー式ロータリー車の動画自体が非常に少ない。 このままでは、将来必ず後悔しそう。
412 : そんな機関車も戦中戦後製なら廃車になってからの年月のほうが長いんだなあ・・
413 : フルムーンの権利を得たんなら いろんな線のグリーン車、寝台車を乗りまくろうと思っていたんだが 幹線しか優等列車走らなくなったし、寝台は壊滅状態だし。 それよりも嫁さんの協力を得ることが先かな。俺は乗って車窓見ていれば満足なんだが。
414 : オハネ20は中段寝台は良かった。 ちょっとカーテンをずらせば通り過ぎる夜景を眺めながら 名物駅弁で一杯やれた。今の時代にあんな贅沢をすれば 軽く3万は飛んでいくな。
415 : 俺にとっての乗り鉄での最高の贅沢は回送の荷物車に乗って荷物扉全開 で人吉ー矢岳の景色を楽しめた事。 但しトンネルの入るとDD51の熱風が壁に跳ね返って来るので熱さは半端で なかった。 肥薩線に限らず、地元の人たちは通勤で荷物車が空いていれば公然と乗って いたようだな。 こんな贅沢は今では荷物車も無いし有っても安全上の理由で不可能だ。
416 : アメリカのホーボーみたいだね
417 : 映画のスタンドバイミーみたいだけど今は違法だなorz
418 : >>415 東北本線かどっかの客レでEF57だったかの客車連結側デッキにも 乗客?が乗っている写真を何かの雑誌で見た。素晴らしい時代だったんだなあ・・・ まあ戦後の復員列車や買い出し列車は凄すぎるけどw
419 : >>418 上野を16時すぎに発つ福島行125レ EF57の後部デッキに乗客の姿があるのを 大宮付近の線路際でよくみた記憶がある ちなみに1978.10.1 最終日の同列車 客車はいつもの仙フクの旧客編成だったけど 牽引機はEF65 1000番台
420 : 旧型客車と言えば赤い激流最終回の仙台ゆき223列車 今となってはあり得ない常磐線経由普通列車仙台ゆき 1977年昭和52年11月25日に放送された水谷豊のドラマ 父親殺しの冤罪で仙台の刑務所への護送にマッチした
421 : >>420 赤い激流の最後は、水谷豊の冤罪が晴れて真犯人は小沢栄太郎であることが判明したはず。 だから、護送後に真犯人が判明したのかな。 関係ない話で申し訳ない。
422 : >>421 その通りと言うか最終回がまさに怒涛の展開となった 上野12時25分発の223列車常磐線普通列車仙台ゆきは 今となっては原発警戒区域を走る走行不可能な列車だ 1977年昭和52年登場でも特急ひばりが既に主流であり わざわざこの列車を選んだ所に凄く深いものを感じた
423 : 登場→当時の誤り
424 : 登場線
425 : D51は、どこにでもいた蒸気で、あまり撮影しませんでした。 国電乗っていても、鶴見あたりですれ違ったし。 もっとも、当時の子供が持つ標準のハーフのカメラでしたけど。
426 : 新日本紀行 http://www.youtube.com/watch?v=-Uy52SKsBl4&feature=related 1966年頃の神戸なんだってさ。 (動画の途中に登場する581系と思しき列車の編成、長いこと 長いことw)
427 : >>426 今はたいていの人がこの581系編成を「長い」と感じるのだろうな。 30年前までは、幹線の電車特急はたいてい12-13両編成で、9両以下で食堂車も ない183系や381系は「特急の面汚し」だった。
428 : >>427 「加越」の7両編成なんざ、エサ無しミニミニ特急的な事言われていたな。
429 : >>427 隔世の感があることは、否めません。
430 : >>426 581系が運用に入ったのは1967年。映像の中で「来年春に迫った万博」 というナレーションもあるので、1969年の間違いだろうと思う。 俺が厨房のころだなw 万博輸送では12系PCが大量に増備されたよな。 165/475の客車バージョンw だがドアが折戸。冷房付き! 俺が最初に12系に乗ったんはいつだったっけなぁ。万博行ってないし。
431 : >>430 581系は1967年583系は1968年だからやはりと思った 1966年昭和41年だとあの番組はまだ白黒だったはずだ
432 : スレチですみませんが、どなたか教えてください。 近鉄名古屋駅から明星駅に行きたいのですが、 乗り換えは伊勢中川ですか松坂ですか?足の悪い老夫婦なのですが、 乗り換え駅と明星駅はエレベーターはございますか? よろしくお願い致します。
433 : >>430-431 う〜む… ま、>>426 のようつべで工事中の鉄筋の建物、どうやら「神戸そごう」のようなので、 きっと1969年(昭和44年)のほうが正しいのであろうと推測できます。 この自分が幼少期だった時代なんかにしても、ときの生田区・葺合区なんかは工事中のところだらけで 子供心に「神戸って本当に騒々しい街だなあ」って。 殊に左右交互に回転を繰り返すミキサー車が多数、一列に並んでいたのがグロテスクにさえも思えて… そして、昭和44年の夏場の、とある夜に神戸は兵庫駅に降り立ったとき(兵庫駅20時19分到着の岡山発1422M)のネオンの多さに驚いたのと ひらがな表記のネオンを「うそふ」と発音したとき、横でそれを聞いていた姉貴めが 「あんたは本当に馬鹿じゃね。 あれは左から”ふそう”って呼ぶんよ! そんなこっちゃき、あんたは学校(小学校)で 先生に怒られて立たされてばっかしおるがよえ!」だなんて。 …このネオンサイン、今の灰Xアンテナさんのある場所あたりに当時あった? おーおー。 この時代、貧乏所帯だったテメーの一家にとっては急行「鷲羽」に乗車することすらも高嶺の花だった昭和44年頃のこと。 しかしながらロングシート宇野線鈍行の540Mにしても山陽本線のクロスシート1422Mにしても、ちょっとした物珍しさを覚えたもんだったねw
434 : 「コテハンは嫌われやすい」っていう理由はどういったことからだろうか?
435 : >>434 変人が多いからなんでしょうね。
436 : >>432 近鉄名古屋線・山田・鳥羽・志摩・湯の山・鈴鹿線33 http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1348737053/ か //// 鉄道路線・車両板 質問スレッドPart26//// http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1343521700/ で訊ねるのが良さそう
437 : >>428 その「加越」だが、53-10改正時には下り1本が在来線特急最速(表定速度)だったのは皮肉 上りは新疋田ループがあり、やや余計に時間がかかったが…。
438 : >>437 なぜ「加越」より停車駅が少なく経路の線形も良さそうな大阪金沢間の「雷鳥」の方が遅いのか 理解できなかった。 あとになって、大阪京都間で北陸線の雪で遅れたとき回復できるように、わざとゆっくり走って いることが原因とわかった。 そういえば、この区間は特急を153系新快速がぶち抜くことで有名だったな。 今の北陸特急は大阪京都間を全速力で走っているようだが、雪による遅れは黙認なのだろうか。
439 : 昭和31年生まれ、大阪。 本屋が持ってきた「別冊子供の科学・日本の鉄道」という一冊の雑誌が 私をおかしくした。というよりも、父をおかしくしてしまって、夏休みに 呉線に連れて行ってやるぞと、突然言い出した。新大阪発のみどりで広島 に行き、一泊して、広島機関区と糸崎機関区を見学。それが中二の夏。 鉄熱発症。カメラはミノルタ・ハイマチック! 中三の夏には、友人二人と山陰方面に3泊4日で、蒸機を撮影する旅行に。 ヤシカの一眼レフだった。ペンタは高くて買ってもらえなかった。 高校受験発表の翌日、同じメンバーでこんどは九州5日間。夢のような 旅でした。高校一年の春は、弟を連れて再び九州へ。再び夢のような旅行。 この辺がピークでしたが、身の回りから蒸気機関車が消え、北海道まで行く のは無理だったので、この辺で熱が冷めてきた。 スレチ、ちょっと接続させてもらうと、高校では高石ともやとナタ−シャ ーセブンが人気で、コピーバンドを作ったりした。ブルーグラスにも、 はまってしまう。音楽やりつつ。クラブは写真部。 日藝の写真学科に進んでしまったのも、鉄道趣味の行き着く先だったか。 でも、学校ではいろんなもの撮らないといけなかったので、鉄道趣味は 隠し気味だった。 卒業してから、アグフアに入社した。日本で売ってないフイルムを取り寄せて、 ローカル私鉄なんかを撮りに行った。 アグフアでは、出張で九州に行くときは、「富士」と「さくら」は使うな、 ということになっていた、、、、というのは私があとから作った嘘話です、ごめんね。
440 : >>439 あなたもしかして>>386 のかた? コピーバンドでは何を担当されていたのですか?
441 : >>440 386ですが、残念ながら別人です。どちらかと言わんでも、聞くだけw Jethro Burns氏にあこがれてフラットマンドリンを始めましたが、あっけなく挫折。 この道に導いてくれた友人も随分前に鬼籍に、しかも不幸な手段で・・・・・(´;ω;`)
442 : ふうん、ブルグラやってる人が鉄な人にもけっこうおるんやね。 なんか面白いなあ。まあカントリー系の音楽には鉄道が結構つきもんやけどね。 歌詞は悲しい歌だけど97号機関車の大破のレスター・フラットのバージョンとか好きですね。 私もフラマンは持つだけは持っていますよw
443 : >>441 ご友人のかたは何があったか存じませんが、それは悲しいことでしたね。 そのかたのためにも、いつか余裕ができたらまたフラマン・・始めてみたらいかがでしょうか? あ、そろそろスレチと言われてしまいそうですねw では失礼。
444 : 439です。 私もフラマンでした。阿部野橋のトミヤ楽器で、ブルーベルのF5タイプの、 買いました。経年劣化で、処分しましたが。あと、オートハープも少し。 鉄道趣味とブルーグラスには、何か共通するものがあるのかなあ。 こんなところで、って感じです。 トレインソングというジャンルがあちらにはあるそうで、 オレンジブロッサムスペシャルなんかは、何度聞いてもわくわくします。
445 : あちらの「トレインソング」といえばポップスではショッキングブルーの「悲しき鉄道員」を始め結構ありますが、 アコースティックギターのサウンドとブラスとペットが合わさったドゥービー・ブラザーズの「ロング トレイン ランニング」がいいですねえ。30=40年代生まれにとっては青春時代に良く聞いた曲でした。 ずばり「トレイン」なら1910フルーツガムカンパニーのも。
446 : 439です。 1910フルーツガムカンパニーの「トレイン」はEPレコード買いました。ただ、イントロの最後のところで音飛びがして 萎えましたが。ジャケットに、アメリカの蒸気機関車のイラストがありましたね。ポータブル電蓄で聞いてましたよ。 ポータブルといえば、カセットテープレコーダーも出て来たころで、ワンポイントステレオマイクと いっしょに、木次線の出雲坂根のスイッチバックでC56の貨物の録音にトライしました が、マイクの先にアブが寄ってきたり、私の頭にスズメバチが止まったりと、最悪でした。ほかにも人はいるのに、なぜか スズメバチは私を追いかけてきたので、ほんとうに怖かったです。
447 : >>444 ブルーベルとはこれまた懐かしい! グレコが作ってたんだっけ? 何のスレかわからなくなってきたなw
448 : まあ、人生の達人及びそのなり損ない?のスレという事で、、、あ、拙は当然後者。 鉄道と音楽といえば、The Beatlisの「A Day In the Life」のリズムとうねりから、 旧客の夜行急行の走りを感じるが、どう? と書きながら、You Tubeで「The Staple Singers」を聞いている。
449 : >447 スレチですねえ。そろそろ「あっち行け!」と怒られそうな。 学生の時、黒沢楽器の主催で、松本に、富士弦楽器を見学するバスツアーがあったんだ。 一泊して、工場を見せてもらった。グレコのエレキギターや、ブルーベルのフラマンを 職人さんが仕上げているのを見せてもらえて、とてもよかったよ。
450 : スレチなのでこちらへ 【H・ウィリアムス】カントリー・ブルーグラス【B・モンロー】 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloe/1076228653/
451 : 越智ちゃうよ
452 : --- 【緊急アンケート】東急東横線の夜間の女性専用車両廃止を歓迎しますか? http://research.news.livedoor.com/r/73842 読売テレビが女のわがまま女性専用車を斬る http://www.youtube.com/watch?v=98pWaXYihXk&list=PLCDC875F7D14589A7
453 : >>448 >鉄道と音楽といえば、The Beatlisの「A Day In the Life」のリズムとうねりから、 >旧客の夜行急行の走りを感じるが、どう? やはりこれ、個人差が大きいようで。 この自分としてはなぜかローリングストーンズの「Under My Thumb」でもって旧客の夜行急行の走りというか 風情を想起してしまう摩訶不思議…
454 : >>192 それ、落ちているようなので別のを貼り付け。 コートにかける青春 http://www.youtube.com/watch?v=V7q3kUlBllE
455 : あげ
456 : 保守
457 : 旧客急行よりも臨時の12系によく乗ってたので 旧客夜行急行は「すずらん」しか思い出がない。 今思えば、仙台から帰る時 「まつしま6号」じゃなく「十和田」に 乗っとけばよかった。
458 : 一杯飲んで、YouTubeで安木節やら金毘羅船々やら南部俵積み唄をぐるぐる聞いていたら、 脳内をキハ58系の急行やDD51牽引の旧客が走り回っている。 疲れているなあ・・・
459 : 保守
460 : 湘南色やスカ色の111、113、115まで 『懐かし』のかつく時代になりつつある。 白髪が増えるのもしかたない。
461 : 保守
462 : 保守
463 : 中古車に侵食される前のローカル私鉄をある程度みることができたのは幸い。
464 : >>1 >昭和30年代に生まれた鉄ヲタは現役蒸気をはじめ、旧型ELや旧国 >を追って、ワイド周遊券を持って東奔西走したものだ。 いいねえ、都会っ子は…
465 : 今や関西私鉄でさえ衰退期だよな。 通勤時の10両編成も減少甚だしい。
466 : 今後、中部圏、首都圏へと続く、避けようのない道。
467 : 板チだけど蘇ー鉄や神経性も減車してるしな
468 : 保守
469 : ジャンボ尾崎が西鉄ライオンズの選手だったってもう忘れられてるね。 http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211161.html http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211161_p.html 07年11月13日、西鉄の黄金時代を支えた通算276勝投手、稲尾和久投手が亡くなった。 「西鉄では3年しか一緒にいられなかったけど、よくかわいがってもらったよ。2年目のオフに稲尾さんのふるさとの別府に連れてってもらって、 ミニキャンプを張ったこともあったんだ」。故人を懐かしんだのは、プロゴルファーの尾崎将司。あのジャンボ尾崎がかつて西鉄ライオンズの選手だったことを 知っているプロ野球ファンも年々少なくなりつつあるが、プロポーラーも考えていた尾崎にゴルフを勧めたのは実は稲尾だった。 獲得に3000万円かかったとされる尾崎正司(当時)投手がゴルファー転向を球団に申し出たのは67年末。3年間で17試合0勝1敗、打者としては わずか2安打の成績に、出した結論は野球から身を引くというものだった。 徳島海南高で64年の春のセンバツに優勝。荒削りながら速い球が投げられる魅力たっぷりの右腕だった。尾崎の背番号は22、20番を付けた63年の同大会優勝投手、 下関商高・池永正明投手とともに西鉄期待の星として入団。稲尾が全盛期を過ぎ、大黒柱を探していた西鉄にとって2人は希望の星だった。 ライバルであり、友人であった2人のリレーで勝った試合は、ルーキーイヤーの65年6月13日、西宮球場での阪急7回戦。5回まで5失点の先発池永を7回から 尾崎がリリーフ。ダリル・スペンサー二塁手ら強打のブレーブス打線を9人パーフェクトに押さえ、見事な火消し。現在ならセーブの記録が付くものだった。 2人が同じように活躍した時期は短かった。同年新人王を獲得した池永に対し、制球が安定しなかった尾崎はファームでの生活が長くなった。尾崎が足踏みしている間に、 池永は3年間で通算58勝。中西太監督の指示で打者に転向した尾崎だったが、42打席で24三振と結果は出なかった。 「池永に勝ちたいという気持ちが野球を辞める理由だった。野球では負けたけど、違う世界ではあいつを追い抜く。そんな気持ちだった」と尾崎は、12月23日に 中西監督に退団の意思を伝えた。 球団側は慌てた。大金を使って入団させた西鉄としては収まりがつかない。仕事納めの28日、国広直俊球団社長は球団事務所で尾崎説得を試みた。 何度も思いとどまったほうがいいと力説したが、尾崎が聞く耳を持たなかった。とうとう激怒した国広社長は、思わず声を荒げた。 「そんな勝手なことは許さない。ユニホームを脱ぐんだったら、契約金と3年間の年俸そっくり返してもらおう」。 大人気ないといえばその通りだが、当時西鉄は56年(昭31)からの3連覇時に比べ観客動員が減り、球団の経営は苦境に立たされていた。 高騰する年俸を払いきれなくなり、生え抜きのレギュラー選手や主戦投手を次々と移籍させていてるさなかに、大金で獲得した若い選手の 言いなりになるわけにはいかなかった。 尾崎はあっけらかんと言い返す。「契約金なんてもう使って一銭も残っていません」。国広社長は次に泣き落としにかかった。 「まあ、ゴルファーになるなんて言わないで、野球で頑張れよ。オレの顔も少しは立ててくれよ。困るんだよ」。 話し合いは平行線をたどり、結論が出ないまま越年。最終的には尾崎は退団を勝ち取った。しかし、西鉄の息のかかった九州では 活動できなくなり、プロを目指して修行していたカントリークラブを突然クビになった尾崎は、婚約者を残して独り千葉のカントリークラブへと旅立っていった。 野球での力の差は成績の上でははっきり出てしまったが、運命は分からない。尾崎がプロゴルファーのテストに合格したのは70年4月。 その翌月に池永はプロ野球界の八百長「黒い霧事件」で球界を永久追放になった(現在は復権)。それでも2人の友情は変わらず、尾崎は九州に行くたびに 池永が営むスナックに顔を出す。 2人ともシーズンオフに行われるマスターズリーグに出場、オールドファンに健在な姿を見せた。 余談ではあるが、尾崎の弟の健夫も投手として、71年のドラフト3位でヤクルトに指名されている。交渉の窓口はジャンボだったが、既に兄の影響を受け 3年生の夏の大会終了以降はゴルフ三昧の健夫。兄の後を追うようにゴルフの道を志し、入団は実現しなかった。
470 :2013/08/25 尾崎将司は昭和22年生まれ
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