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「大坂の冬の陣、夏の陣」


1 :2010/12/17 〜 最終レス :2013/03/24
戦国板で、豊臣家が徳川家康を挑発したから、
大坂の陣は起こったという主張があります。
実際は、どうなんでしょうか?

2 :
age

3 :
>>1
そのとおりです。タヌキオヤジに大阪方は嵌められたのです。

4 :
それより大阪の役はどうすれば豊臣方は勝てたんだ?
関ヶ原なら西軍は裏切りがなければとか、秀頼よりを無理やり出馬させれば勝てたんだろうけど
大阪の役の豊臣勝利はやっぱ無理ゲーなん?

5 :
堀を埋めなければ負けなかった。

6 :
age

7 :
大坂方は、真田幸村とかが色々作戦出したけど
それが実行されなかったのが勝敗の原因らしいです。
その理由は大坂方は関が原の戦いなどで流された牢人の集まりだったから
信頼とか絆?を築く時間がなく、案を出しても大野治長ら(秀頼の家来)に
信用されず受け入れられなかったってことです。

8 :
アホな妾の淀が外交もいくさもむちゃくちゃにして豊臣家を沈没させただけ。それ以上でも以下でもない。
権力者の妻妾が政治に口出しして国を傾ける例なんていくらでもあるじゃん。その一例に過ぎんよ。

9 :
家康が豐臣家を滅ぼす意図を固めたのは、冬の陣あたりからだろう


10 :
>>1
それ結局誰が主張してるの?
>>8 
淀殿は妾ではない。れっきとした妻ですよ。
つか未だにこういう人いるんだな。

11 :
>>7
その城外出撃策なるものはなかったという説聞いたことあるが。
あったとしても当時の情勢を分析すると結局籠城戦が一番現実的だったと。

12 :
豊臣方は最低でも指揮系統の統一が必須だろうな
そうなると総大将には豊臣譜代の家臣にも大きな影響力があり、かつ浪人衆も納得するような百戦錬磨の武将
となると既に死んでる加藤清正か、福島正則あたりが良かったんだろうけど、
現実的に八丈島から宇喜多秀家を連れてきて総大将になってもらうのが一番現実的だったかな

13 :
福島なんかすでに徳川の犬じゃんか。

14 :
出撃説って本当にそう主張したのかどうかが怪しい。
周りが全部的なのに出撃は無謀だろ。
篭城策を取ったのは当然だ。

15 :
>>1
スーパーセレブのお江サマが、
豊臣家なんてつぶしちゃいなさいよ!って
家康に頼んだから。

16 :
>>15
おいおい・・・
お江サマ、大阪城にいた自分の娘(千姫)は
見殺しかよw

17 :
>>5
家康は豊臣方が埋めた堀を掘り返したのを見て
宣戦布告であると言って出陣、滅ぼしてるからね。
どの道力づくでも堀を埋める気だった。
ちなみに、大阪城攻略法として秀吉が冗談で言っていたのを
家康が覚えていて秀吉の言葉によって息の根を止めたともされている。
>>8
家康は秀吉がいよいよ病が重くなったあたりから
天下取りを目指して、秀吉に血判状を出す一方で、
味方になってくれそうな大名と次々に婚姻を結んだ。
家康は豊臣に臣従する気は初めからなかった。
(家康が秀吉より先に死なない限り)
つまり、淀がいなくても豊臣家は滅んでいた。


18 :
>>10
正室は一貫してねねで淀は側室だから妾。
>>17
徳川家が天下を握るのと豊臣家を断絶させるのとは全く別問題。豊臣が織田のように大大名として
存続する可能性は、アホの淀が政治に口を出さなければ十二分にありえた。

19 :
>>18
織田が大大名だって???
織田家の石高見ろよ。
どこが大大名なんだ。
信雄は家康に軟禁されて任地へ行けず、
消滅寸前だったし。

20 :
>>18
正室も側室も「室=妻」。
側室にも相続の権利があり、妻としての立場が認められていた。
ちなみにねねと淀を指して「両御台所」と呼んだ史料がいくつかあり、
秀吉の晩年、淀が大変重んじられていたことも分かっている。

21 :
>>19
秀吉が死んだ時点では岐阜城主が石高が一番か。
家康は大坂城を退去させられればいいという考えだったようだけどね。
>>20
側室でも妻とかいう問題じゃなくて、淀は妾でも出自自体を重んじられただけの話。
側室は妾。日本の伝統では二人目の妻を意味する第二夫人とは決して呼ばれない。

22 :
>>21
>側室は妾
これはどっから引っ張ってきた定義?
厳密にいえば側室と妾は違うんだが。
例えば妾は本妻に認められた存在ではなく別宅に住んだとか。
妾には夫の遺産の相続権がないことが多い。
淀は出自が良かったので重んじられたというのも違う。
例えば秀吉の側室の中では、信長の姪である淀よりも
信長の実の娘である三の丸殿のほうがはるかに出自が良い。
また、京極龍子もれっきとした近江源氏、室町幕府四職のうちの一家であり、
もとは淀の出た浅井氏の主家に当たる名家であり、織田や浅井より血筋が良い。

23 :
>>21
秀吉が死んだときの岐阜城主は秀信(三法師)だが、
たかだか13万石の大名だ。
どこか大大名なのかね?
ちなみに秀吉が死んだ時点で豊臣家に次ぐ大名だったのは
徳川家康220万石だよ。

24 :
>>22
>例えば妾は本妻に認められた存在ではなく別宅に住んだとか。
じゃあ淀城を独自に与えられた茶々は妾か。
>妾には夫の遺産の相続権がないことが多い。
定義自体が不明確なわけか。
>信長の実の娘である三の丸殿のほうがはるかに出自が良い。
確かにそれはそうだ。淀は次期当主の生母が次期当主によって、あるいはその臣下によって
大事にされたってだけの話だな。

25 :
>>23
秀吉が政権を簒奪した段階では信雄が大大名。
すぐに福島や最上などのような末路を辿っても、あくまで大大名。

26 :
>>24
淀が淀城に住んだのはたかだか3年ほどだよ。
秀吉の側室であった時期の大部分は大坂城や伏見城で
ねねや他の側室たちと暮らしている。
妾=側室という定義でいる人は少ないから
その辺は調べてみなよ。
見解の違いだから
これ以上妾=側室だとごねられても仕方がない。

27 :
>>25
へー、秀吉が死んだ時点で織田家が大大名だったって言うのは
間違いだって気付いたわけか。

28 :
>>25
秀吉がどの時点で政権を取ったとするのか知らんが。
清州会議では信雄は百万石を獲得していたが
この時点ではまだ柴田勝家も生きているし
秀吉の天下ではないもんな。
ちなみに信雄は秀吉が死んだ時点で5万石の大名だった。
秀頼が家康政権下で大大名でいられない理由が分かるだろ?

29 :
>>17
冬の陣の前に北の川の中州を掘削しとけば
チャンスはあったんじゃないの?
あれさえなければ大阪城天守や本丸を砲撃なんて
できなかったんだから。
少なくとも、徳川家及び諸侯連合軍は寒さと糧食不足で
撤兵を余儀なくされる。徳川家の権威は失墜する。

30 :
結局、時期が不明確だとして大大名云々に突っ込みを入れてくるだけで、>>17への当初の
反論の「豊臣が滅ぶのは必然ではない」という点には反論はないみたいだね。
>>26
>妾=側室という定義でいる人は少ないから
>その辺は調べてみなよ。
>見解の違いだから
一度でもググったことがあるのかね。その上で自説が定説だといわれたらあとは水掛け論だ。

31 :
>>28
信雄が家康と組んで挙兵したのは、政権を秀吉に簒奪されてムカついたから。
他にどんな理由があるのか。

32 :
前田みたいに徳川政権にヘイコラ言ってたら、秀頼も大大名のままでいられたかもしれないけどね。
所領は既に摂河泉の大部分にまで削られてたわけだし。

33 :
大砲が無くても毎晩の時の声と銃声で豊臣は精神力が尽きて敗戦間近だったろ。

34 :
そんなことより徳川による日本史上最大規模の
ジェノサイドの話が聞きたい

35 :
>>30
家康は豊臣を滅ぼしたでしょうよ。
だって、秀頼、淀ばかりではなく、国松も殺して豊臣家を根絶やしにしているからね。
大名として残してやる気が少しでもあれば、8歳の国松を生かしておいて
豊臣家を復興させてやればよかった。
国松を殺し、娘まで嫁がせることなく尼寺に入れて未婚を強要したわけだから
やることが違う。

36 :
>>35
それらは全て徹底抗戦という形になった結末としてのことだから、その形にならなかった場合とは前提がまったく違う。
天下人となり足場が固まった徳川家に最後まで逆らったやつだけが徹底的に叩き潰された。豊臣家にしても、
日蓮宗不受不施派にしても。ゲーム理論の基礎では、安定状況に導くには相手の態度相応に報復するのがいい。
それを多元的かつ力の強弱が複雑な状況で何を正しいかを判断するのが政治的判断なんて言葉で呼ばれる。
政治力を発揮して恭順の意志を示す奴をそう簡単に潰すことはできない。前田家にしろ、武備恭順の島津にしろ。
要はバランス感覚だ。自分の持つ力を正しく理解して生き残りを図れれば生き残れるし、アホの淀は自ら
最悪の手ばかり打ってその可能性をぶっ潰した。
家康がもう少し若ければ、あの時点で鉢植えを拒んだ豊臣に焦って禍根を断つこともなかっただろうけどね。
上方ってのは日本の最重要拠点だから短期決戦で行かざるを得ず、ゆえに根切りに繋がった。
はじめの一文が飲み込めなければ、あとはピンとこないかもしれないけど。たぶん君は社会経験の乏しい学生だろ。

37 :
喩えるなら、アメリカ映画で馬鹿な女(淀)がヒステリーを起こして自分に刃物を振り回してる状況。
早くコンピュータでパスワードを入力しないと世界は破滅するというのに、馬鹿な女(淀)は自分の
判断が誤っていることを理解できず、闇雲にコンピュータから主人公(家康)を遠ざけようとする。
映画なら馬鹿な女(淀)を説得するなりして対処するけど、本当に余裕がなければ、馬鹿な女(淀)を
死んでもかまわないくらいの判断でぶちのめしてからコンピュータに向かうだろう。
なお、爆破指示用コンピュータは時間差を設けて他にいくつもあるし、馬鹿な女(淀)は中途半端に
生かしておくと、ぶちのめされたことで完全に主人公を敵視して確実に同類のバカを集めて
妨害を始めるよ? 今なら馬鹿は一人だけど。
大体そんな状況。映画のように馬鹿な女を説得する時間があれば、馬鹿な女を殺さずに済んだのに。

38 :
>>36>>37
僕は文盲の気ちがいです、まで読んだ。

39 :
淀が馬鹿とかヒステリーとか・・・
よっぽど考え方が偏った人なんだね。

40 :
>>35
同意。
この時代、嫡子は殺害されても庶子は生き残れることが多い。
たとえ男子は殺害される場合でも女子は助命され、女系は残るのが一般的。
しかし、女子の天秀尼すら千姫が助命嘆願しなければ助命されず、
しかも嫁ぐことなく尼になって未婚を通すことが条件って、
どんだけ厳しかったの?って感じ。

41 :
淀が理性的だったとか政治的判断に優れてたなんて話は寡聞にして聞かないな。
フェミ女が書いた小説以外で、そういうことを示す史料とか研究結果ってある?

42 :
家康は関ヶ原で豊臣家を66万石の大名にまで落とした。
それでも飽き足らずにさらに淀の人質や
秀頼の領地がえを要求していたのだから
生かしておく気だったという理論の方が難しいだろう。
同じく徳川の姻戚であった加賀前田家は100万石を許しているのに
豊臣は66万石でも駄目なわけだ。

43 :
徳川家の旗奉行を務めた穂坂氏に詳しい人いないかな?

44 :
>>41
君の文章の方がよほど非理性的でヒステリーだな。

45 :
>>42
大坂は上方でしかも経済的にはドル箱の港湾都市だからな。
そんなところに潜在的な敵を大藩のままで置くわけないじゃん。
だから家康は九州に移そうとし、淀君は拒んだ。
それだけの話だろうに。

46 :
>>45
秀頼の転封地は大和じゃなかったっけ?
九州って、誰を動かしてねじ込むの?
大坂から出ていけば残してやるってもんでもないだろうに。
豊臣も女系まで根絶やしにしている。

47 :
淀がヒステリーとか言ってる人って、
司馬遼太郎の小説の読み過ぎじゃないかな?
秀頼のもとには淀のほかにも織田家やら石田やら
毛利やらいろいろな旧臣たちがいてその総意だったろうに。
23歳にもなった秀頼が意見も言えないぼんくらだったというのも
小説家が造り上げた妄想だろ。
悪いことは全部淀に押し付けるという。

48 :
>>47
>司馬遼太郎の小説の読み過ぎじゃないかな?
池波正太郎も同じ。真田家の奴だから大坂方には好意的だけど、淀が聡明なんて設定にはなってない。秀頼は
聡明だとしているけど。他の小説家の作品は知らない。
子供の頃読んだ小学館のマンガ日本の歴史は考証がしっかりしているというので評価されてるけど、やはり
ヒステリーババア扱いだったな。
創作系で淀がまともに描かれてるのって、フェミの影響で女を悪く描けない最近の映像関係くらいじゃねーの。
>秀頼のもとには淀のほかにも織田家やら石田やら
>毛利やらいろいろな旧臣たちがいてその総意だったろうに。
いつの時代設定だよ。
>悪いことは全部淀に押し付けるという。
だから、何を根拠に淀が聡明だったと言ってるんだ? 

49 :
>>48
ほらほら。
自分の根拠が「小説」であることを自分で暴露しちゃって。
ここは史学板なんだから、池波や司馬の小説を史料にするなよ。
彼らは男と女の合戦に男が勝ったということを描きたいだけだから。
実際の大阪城の主は秀頼で、淀の首を取ったって何にもならないのにね?
道理で話がかみ合わないわけだ。

50 :
>>49
相変わらず相手の主張を都合よく解釈する子どもだな。創作の話が出たからその流れに乗ったのに。
別に既に出した「少年少女日本の歴史」を根拠にしてもいいよ。考証は驚くほどしっかりしてるし、
君のように馬鹿な歴女にも読めるだろう。

51 :
>ここは史学板なんだから、池波や司馬の小説を史料にするなよ。
>彼らは男と女の合戦に男が勝ったということを描きたいだけだから。
池波の真田太平記では随分くのいちが活躍するけどね。最近のドラマみたいに時代背景を無視する不誠実さは
ないから、史実に基づいて男尊女卑の世界が描かれるのは当然だけど、女の側の価値観は尊重してる。
鬼平にしろ剣客商売にしろ、女を主人公にした話は多いしね。

52 :
テレビドラマ真田太平記では淀はヒステリックだが綺麗な女に演出されていたよ

53 :
淀を美人に扱わなかったら、それこそ史実に反するかもなw

54 :
大河ドラマ「徳川家康」の夏目雅子の淀君が最高だろ

55 :
>52
淀をバカだ阿呆だと言う奴が多いけど、相手は歴戦の兵の家康だよ
たいていの参謀がついていても勝ち目は薄い。
冷静に考えたら、実戦を指揮したことのなり淀が指揮して、少しは
家康の肝も冷やさせた戦いなのだから、彼女は有能だったと思う。

56 :
>>55
大坂城という天下の名城にいて真田信繁や後藤又兵衛といった大将を擁し、十万の兵を集めたが、
城攻めが苦手な家康の調略の標的となって騙され堀を埋められ、そのまま落城。
実質的な総指揮官が淀じゃなくて物言えぬ石ころならもっと戦えたのに。

57 :
>>56
あれは家康がだましたんでしょ。
一方的かつ強引に堀を埋め、大坂方がこれを掘り返したら
徳川に対する宣戦布告だといって一気に秀頼と淀を殺した。
家康は前々から秀頼を殺したかったが、大阪城内にいて
それが果たせなかっただけ。
むしろ大阪城が血気盛んな男の城だったら、
もっと早くに秀頼は家康に殺されていたはず。

58 :
>>56
家康は関ヶ原で西軍についた連中を徹底的に粛清して、
豊臣を除く日本国中の大名を家康配下においた。
大阪城冬の陣の時点で、城持ち大名はすべて家康に味方している。
その状況で、関ヶ原で粛清された浪人たちが勝つのが無理なんだよ。
で、豊臣は家康に生きるも死ぬもお好きにどうぞ、
と首を差し出すくらいなら、と徹底抗戦に臨んだ。
戦国時代、大名は必ず降伏さえすれば命を助けてもらえるとか、
大名として扶持してもらえるとか、天下を渡してでも降伏するべきだったとか、
そんなの一概に言えないでしょ。
家康がたまたま誰にでも降伏して運よく生き残ってきたというだけで
特に恨みのある豊臣に対しては大恩に報いたとも思えないし
名誉の死を選ぶ大名はいくらでもいたのだから。

59 :
生き残りたいなら大阪捨てて田舎へ引っ越しするか
いっそ領地を捨てて家康から2万石くらいもらって公家になるとか
完全に公家化する前提なら清華くらいの家格でも承認されたと思う。

60 :
>>57
政治が分からないなら馬鹿な女の子が口を出さなくていいのに。発想が淀と全く同じだ。
秀頼を是が非でもR理由は家康にはないよ。あるのは秀頼を是が非でも支配下に置くことだけだ。
>>58
>家康は関ヶ原で西軍についた連中を徹底的に粛清して、
首謀者程度しか粛清していないから大坂城に真田や長曽我部が入ったわけだ。処刑したのは
石田と小西くらいで、他の大大名に対して家康がやったのは単なる領地召し上げ。宇喜多でさえ
島流し、真田親子でさえ高野山追放で済んだ。
>家康がたまたま誰にでも降伏して運よく生き残ってきたというだけで
>特に恨みのある豊臣に対しては大恩に報いたとも思えないし
>名誉の死を選ぶ大名はいくらでもいたのだから。
大恩には報いないよ。家康が大名内の世論を慮って将軍徳川家への従属を申し入れた豊臣家を
処遇するとしたら、秀吉が織田に対してやったこと程度に扱うのがふさわしい。旧主をその程度に
冷遇する前例はわざわざ豊臣家が作ったわけだし、従属を申し出た相手を殺しては天下人としての
人徳が疑われ、他の大名の猜疑心を生む。
これで分からないなら、たぶんお馬鹿な女だから男の政治感覚が分からないんだろうと思う。
無理に口を出さなくていいよ。女同士で意地の張り合いやってるのと同じ基準で見ても
分かるわけがないから。

61 :
>>59
家康は別に武家であっても許したと思うけどね。大坂城にいることをどうしても無視できなかっただけの話。

62 :
家康に右大臣家を滅ぼす理由はあるよ
乱世の種は摘まなくてはならないから

63 :
>>43
保坂

64 :
>>62
一度いくさになればね。国松が殺されたのはいくさにまでなったために徹底的に滅亡させる
大義名分ができたから。
しかし、せっかく10年以上もいくさがなかったところに大いくさを起こすこと自体が
体制側にとってはより大きな乱世の種になる。いくさは技術だから行われなければ
技術が廃れていって反乱を起こせなくなる。そこにわざわざいくさを起こそうってんだから。

65 :
大坂の陣で感動するエピソードは
淀殿と常高院の別れ
秀頼と千姫の別れ
常高院と千姫が秀頼の娘を助命できよう尽力したこと
真田家の子供たちを伊達家と片倉家で引き取り養育したこと
(片倉重綱と真田幸村の娘の阿梅は結婚し夫婦となる)

66 :
あまり感動しないエピソードだな・・・

67 :
>>61
家康は関ヶ原で西軍についた大名を徹底粛清しているよ。
武家を許したのならば、なぜ西軍を許さなかったんだい?
城を持つことも許されず、軒並み切腹を命じ、
わずかに親族が東軍についたために助命嘆願を申し出た者に対しては
高野山に入り出家することを生きるためのただひとつの方法とした。
秀頼が家康に降伏すれば同様だろう。
切腹か、豊臣家取りつぶしの上、高野山で出家だよ。
家康は自分に敵対した人物を許したことなどないからね。
前田は秀吉が死んだ一年後、関ヶ原も起こらない、何もしていない時期に
勝手に母親を送り付けて家康にどうか臣下にしてくださいと
言った家だから関係ない。

68 :
ただ一つではないな

69 :
>>67
きみ島津って知ってる?
毛利とか立花とか久留島とか聞いたことないかなぁ?

70 :
許したと言うよりも、元々グルだったと見るほうが自然じゃね

71 :
もともとグル?
誰が?

72 :
「西軍だったが、裏切って東軍についたため粛清されなかった」大名
とっさの判断でそんなことするか?
あり得ないだろ

73 :
>家康は関ヶ原で西軍についた大名を徹底粛清しているよ。
マジキチか?
首謀者の石田小西が切腹は当然として、それに加担した毛利、上杉、島津、佐竹、宇喜多といった大大名は
一人も切腹させられていない。増田長盛や織田秀信、長宗我部、真田昌幸も同様。これを徹底粛清と表現する奴は
明らかに頭がおかしい。
つまり、お前の主張の前提自体が全て誤りであることが、お前の認識や主張がおかしいとする何よりの根拠だな。

74 :
俺も家康は何があっても豊臣家を滅ぼすつもりだったと思うよ
ただ、大阪からの転封に応じるなどして時間稼ぎしていれば
家康の寿命が尽きて逃れれたかもしれんが
それでも家光くらいまでに滅ぼされてたかもな
あの官位であの石高、さらに豊臣恩顧の大名の存在
目障りすぎるでしょ

75 :
>>74
恩顧なんて、既に目の前で豊臣が滅ぼされても逆らえないくらい無意味なものになってるし、意にそぐわず
従軍してる大名も、むしろ豊臣を生かしておいた方が逆らいにくくできる。徳川にとって豊臣が目障りなのは、
立場不相応の拠点を有しているからに過ぎない。
反徳川の盟主として担がれる懸念については、むしろいくさが廃れれば自然消滅する。わざわざいくさを
自分から行っては懸念材料を増やすようなものだ。徳川の世が続けば、反徳川の盟主として豊臣の
存在感は薄れるしね。なにしろ天皇に将軍として認められた家柄だし、豊臣は織田から政権を簒奪した
歴史があるから、同じことをしただけの徳川を悪として批判するいわれはないしね。心情で豊臣びいきの
大名たちも、道理でなく秀吉個人への忠誠心でしかないから。何度でも繰り返すけど、その秀吉は主君の
織田から政権を簒奪したんだよ。
政治的決着は関ヶ原の段階でついていた。それを受け入れなかったのは加藤清正くらいかもな。

76 :
>>75
家康がいい人で、将来の戦乱のもとになっても秀頼を生かしておくつもりだったというのは、
それこそ小説をもとにした妄想にすぎないよ。
それくらいに家康は天下を欲していた。
たとえ自分が天下をあきらめても秀頼様を生かしておく、
なんて人間じゃないんだって。

77 :
>>73
マジキチはそっちだろう。
家康は西軍を徹底粛清した。
大阪城で捕えることができた石田などは粛清している。
しかし、毛利や上杉、島津がいつ家康に捕えらられた?
捕えることができれば間違いなく切腹させただろうが
家康は捕えることができなかった。
やむなく殺せなかっただけだと言っていい。
それでも減俸などになっている。
家康に敵対して家康に捕えられ、
それでも助命されて大大名にとりたてられた大名がいるの?

78 :
>>75
主張がすべて小説根拠で史料によってない人だからなあ。
よっぽど家康は天下がとれなくてもよかったと妄想してる人なんだね。
あのあたりの小説はすべて勝者の側(家康味方)で書かれ、
豊臣目線ではどれも書かれていない。
負けた明智や石田が悪人のように描かれるのと同様、
淀が悪人だから負けたことになっている。
大事な史実の大部分を省いているからねえ。

79 :
>>76
既に天下取ってるし、秀頼を生かすかRかはいい人か否かでなく、政治的事情で決まる。人情で
大勢力の扱いを決めたら秀吉の二の舞だ。秀吉ですら必要に迫られて行っただけの選択だというのに。
本当にダメな子だな。
>>77
徹底粛清ってのは、逆らった人間全てを表舞台に立てなくする状況をさす。大大名の多くを
減知で済ませた状況を徹底粛清とは決して呼ばない。
より厳しく処断したかったが相手を捕えられなかったのなら、粛清できなかったからしなかったと表現する。
状況を知らないんじゃなくて、言葉の使い方がおかしいだけだということは分かったよ。
逆らう相手を中途半端に許せば豊臣の二の舞だから、家康がそんな馬鹿なことをするわけがない。
>>78
反論が相手の主張に基づかず、思い込みを振り回して妄想を根拠にしちゃう人だからなあ。
単なる自分の思い込みを議論の前提にしてのけるその粗雑な脳ミソはなんとかならんだろうか。

80 :
>>78
国史大辞典にごく普通に書いてあるレベルの話ですら平然と否定してのける人だからなあ。
で、その根拠はやっぱり自分のお気に入りのドラマだったりするんだろうか。
>淀が悪人だから負けたことになっている。
儒教では悪人だから負けたってな価値観だから、前近代の歴史書は全てその価値観に基づいて書かれる。
今時、そんな価値観で書かれた小説が読み継がれるわけがないけど、君は馬鹿な子だから、歴史どころか
小説さえ妄想で語ってのける。
本当にダメな子だ。

81 :
>>79
あれえ?
最初は家康はいい人で秀頼様をR気がなかったのに淀が・・・
という主張だったのに、家康の天下取りのためには
秀頼をRこともあったという主張に大きく転換しましたね?
秀頼を生かすだけの政治的事情はなかっただろう。
たとえば、二条城の対面。
若く美しい秀頼が京の市民の大歓待を受けたという。
これは徳川に不利なことは書かない徳川家の正史徳川実紀に
載るくらいだから、かなりの衝撃だったろう。
家康は息子の代になっても秀頼に勝てると思っていたのかな?
そうではないだろう。
家康は秀頼をR理由を何とか見つけろとブレーンどもに頼み、
鐘銘事件を捏造してまで秀頼を殺そうとした男だよ?

82 :
>>79
お前が小説根拠なのは事実だろ?
何か当時の文献読んだのか?
読んだなら上げてみろ。
小説基本の奴に小説基本だと言って
激怒するって馬鹿かw

83 :
>>80
小説しか読んでないのに日本史板で馬鹿みたいに
説教垂れる本当に駄目な子だねえ〜
母ちゃんのおっぱいでも吸ってろ。

84 :
歴女ってのはこんなものなんだろうかね。歴史的人物に自己を投影させ過ぎるから、その人物が
史実としてかっこ悪いと指摘されれば、自分が批判されてる気分になってヒステリーを起こす。
人は事実を指摘されると腹を立てる。大人はそれを自覚できるけど、子供には無理。
会津とか三戦とか、気持ち悪い人間の巣窟だからな。

85 :
>>84
ほらほら。
自分で言い返せないからって腹を立てて
歴女がどうとかヒステリーとか会ったこともない他人を個人攻撃。
小説が大好きな人格障害の子供は寝てな。来るんじゃねえぞ。

86 :
>>84
歴史的人物に自己を投影させ過ぎてるのってお前だろ。
お前に反論している人は誰ひとり小説基本で話してねえからな。
文献をもとに公平に議論している。
小説しか読まねえで日本史板に来るな。


87 :
>>81
じゃあ、俺が「政治的事情」でなく「いい人」であることを根拠に秀頼を殺さなかったと主張した部分を
ちょっと指摘してもらおう。見つからないか、君が読み違えてることが明らかになることによって、
君の勘違いは客観的に証明できるから。
>>82-83
国史大辞典まで小説扱いされたら、もう君をデンパ扱いするしかなくなるよ。
あと、君は必死すぎる。見ていて痛々しい。

88 :
ここまで来ると、おバカな女の子を俺がいじめていることになりはしないか。

89 :
>>87
じゃあまず、君が「政治的事情で秀頼を殺さなかった」と
結論付けている部分を描きぬいてもらおうか。
そして、77や81への反論もね。
全く人の文章が理解できてないみたいだな。

90 :
>>88
史料を呼んでるやつは馬鹿な小説厨男を制裁しているだけだから
完全にお前の勘違いだよ。

91 :
>>87
デンパ君が他人をデンパ呼ばわりねえ・・・
君の過去の記事、読んでごらんよ。
司馬に池波?これのどこが史実を描いてるの?
恥ずかしくならないかい?
自分の文章読んで・・・

92 :
>>89
なぜその質問でさえ勘違いが入ってるんだろう。こっちの一貫した主張は「政治的事情を考慮すれば、
秀頼が家康の支配下に入れば家康は殺さなかった」だ。該当部分は、たとえば>>60の冒頭が明確だな。
ちょっと頭を冷やしてから、主張を続けるか決めるといい。いくらなんでもそれでは議論なんて無理だろう。
あと、バレバレの自演はやめてくれ。必死すぎて見ていて痛々しい。

93 :
>>81には答えておこう。これまで出てきていない話題だからな。
いくら民に人気があっても、軍事力を持つ武家政権の帰趨には影響しない。
わざわざ僻地の江戸を本拠地としたのはそれが一番の理由。

94 :
こいつが入れ込んでいる司馬遼太郎ですら、
二条城対面の後は家康は秀頼を殺害する明確な意志を持っているんだよな。
それ以降も生かしておく気だったなんて
ほどんど誰も言っていないんじゃないのか。
今回のスイーツ大河は江様の活躍により、
家康も秀忠も秀頼助命に動くことになっているらしいが。
まあ、普通はありえない。

95 :
秀頼は家康配下に入るくらいなら名誉の死を選んだだけだろう。
なぜそれが分からない?
どんな屈辱を味わってでも生き延びるために
家康にこびへつらうべきだった、
なんてお前の価値観だろう。

96 :
徳川慶喜はさっさと新政府に降伏して体力を温存しようとした。
しかし、逆に腰ぬけのように言われるんだよな。
新政府は意図に反して慶喜の体力温存は認めなかった。
雄藩体制を否定して徳川家を無力化、
徳川家は辞官納地を命じられ、
慶喜は隠居、徳川家家督も別の家に移った。
慶喜はその後60年間趣味のカメラに生きただけだった。

97 :
でも徳川家は存続したな、しかも公爵位

98 :
>しかし、逆に腰ぬけのように言われるんだよな。
手下がまだ戦ってるのに、自分だけ、けつまくって江戸へ逃げた事実は消えんからなw

99 :
>>98
豊臣だって兵が残ってたしな。
慶喜は徳川方に不利だったから逃げたんだろ。
逆に部下たちの中には徹底抗戦して
江戸城で討ち死にを望む者が多くいただけの話。
討ち死には悪だ、降伏してどんな目に会ってでも
助命を請え、というお前の思想が正しいならば、
部下を見捨てて逃げた慶喜の行動は全く正しい。
価値観の問題だな。

100 :
>>97
慶喜が公爵になったのは明治35年だよ。
それまでは無位無官で明治政府によって、
ひたすら静岡に監禁されていた。
明治35年、すでに幕臣の多くが死に絶え、
明治天皇の恩情によって奇跡的に監禁を解かれたときには、
慶喜は感激して自分の葬式は明治天皇をあがめる神式で行えと言ったくらいだ。

101 :
旧徳川将軍家の家督は家達だろ。慶喜は別家だよ。

102 :
俺も慶喜は正しいと思うな。戦争を長引かせて得をするのは諸外国と、死に場所を探してる奴らだけだ。
だからこそ新政府も報復からは程遠い叙爵基準を設けている。
さすがに内部批判が多いから、新政府のポストはそいつらに与えざるを得なかったけどね。

103 :
>>94
>こいつが入れ込んでいる司馬遼太郎ですら、
勝手にバカ扱いするのはやめてくれたまえ。俺の日本史知識の基本は小学館の『少年少女日本の歴史』の初版だ。
>それ以降も生かしておく気だったなんて
>ほどんど誰も言っていないんじゃないのか。
お前みたいに司馬遼太郎その他の講談や小説に脳ミソやられてるだけじゃね?
>今回のスイーツ大河は江様の活躍により、
>家康も秀忠も秀頼助命に動くことになっているらしいが。
>まあ、普通はありえない。
スイーツドラマは興味がないけど、お前に「普通」を語れる知識がないことだけは分かるよ。

104 :
しょーもな

105 :
>今回のスイーツ大河は江様の活躍により、
>家康も秀忠も秀頼助命に動くことになっているらしいが。
>まあ、普通はありえない。
そもそもどの段階での助命をお前は想定してるんだと言いたい。

106 :
>>103
少年少女・・・やっぱりお前は小学生かw
そら知識なくても仕方ないわ。
孤軍奮闘ってやつだな。

107 :
>>105
まあ、徹底抗戦して滅んだ平家や北条は馬鹿だったということか。
平家は清盛の息子や孫たちが多数大勢助命嘆願したんだが
頼朝が首はねちゃったんだよな。
こいつの言い分だと、ありえね〜よな。
助命嘆願すれば、誰でも助命されるって主張だから。

108 :
>>106
あの漫画のクオリティと考証の正確さを知らん奴はモグリだ。
ガキは引っ込んでいなさい。
>>107
平家は武運つたなく敗れて同情されたが、北条は醜態を晒しまくってバカそのもの。やっぱどの段階の
助命嘆願の話をしてるのか把握してないバカってことかよ。
それと、大坂の陣前夜の豊臣家を語るのに持ち出すのが平家と後北条氏ってのは何のジョークかと
問い詰めたい阿呆さ加減だ。
>頼朝が首はねちゃったんだよな。
いくさをやらかした後に助命嘆願なんて遅きに失してる。
>助命嘆願すれば、誰でも助命されるって主張だから。
流れを把握できないのに口を挟んで返り討ち。馬鹿な子供だ。

109 :
北条って大名で残ったでしょ。旗本だっけ?

110 :
大名にも旗本にもいるよ。
ちなみに大名になった河内狭山藩の子孫は、層化の会長や議員になった人がいる。

111 :
>>81
だな
いくら徳川の天下になったと言っても
家康自身が豊臣の天下を秀吉の死によってひっくり返したわけで
もし自分がRばまたひっくり返されるかもしれないと
思っても不思議じゃないよ

112 :
>もし自分がRばまたひっくり返されるかもしれないと
>思っても不思議じゃないよ
誰もが厭戦気分に浸ってるって状況で、家康の家臣団なみの軍事力や政治力を発揮できる奴が残っていればね。
どの大名でも一家では無理だし、同盟を呼びかけても空気読めない奴とバカにされてチクられるのがオチだ。
ガチの潰し合いをやってた世代はあの世に引退して、大したいくさも駆け引きもできない世代に交代済みだからな。

113 :
当時の人間、ましてや当事者からしたらそんなこと思えんよ
現代の視点で見てるから徳川の天下が盤石になってると思えるだけで

114 :
>当時の人間、ましてや当事者からしたらそんなこと思えんよ
豊臣が大坂にいるままならね。
政治力でひっくり返される懸念はいくらでもあったから外様には幕政に口を出させなかったし、
譜代は忠誠心の強い田舎者ぞろい、一族は我の強いものを疎外して結束を図った。
つーか、見当外れの嬢ちゃんのコメントにレス付けてる所を見ると、流れを見ずに書いてるのか。

115 :
徳川が豊臣を潰しにかかったのは、「前代覇者だから」ではなく、「大坂の大大名だから」だ。
軍事政治的にも経済的にもこの状態での共存はありえない。

116 :
>>114
見当違いの漫画厨に誰が味方するんだよw
自分が孤陣奮闘で誰一人味方してくれてないことにいい加減気づけよw

117 :
秀頼は長らく秀忠よりも官位が上だったからね。
家康が死んだら武家の中で最上位なのが秀頼になったわけだ。
それでも徳川家がひっくりかえらないなんて誰も思わないよ。
たとえ官位が上でも秀忠の天下が来るなんて、どこまで馬鹿なんだ。

118 :
>>117
官位何それ、美味しいの?

119 :
>>118
官位の低い方が高い方に頭を下げる

120 :
力の裏付けの無い官位なんぞ、ちり紙以下ですね

121 :
じゃあ、徳川が豊臣を挑発したでいいのか?
1の内容と逆だけど。

122 :
>>116
俺の相手をしているのは、毎度毎度きっちり短い改行の文章でヒステリックに噛み付いてくる嬢ちゃん一人だな。
嬢ちゃんは俺以外の何人かに突っ込みいれられてるけど。

123 :
>秀頼は長らく秀忠よりも官位が上だったからね。
摂関政治の再来かね。

124 :
>>122
逆だろ?
君の意見にみんな噛みついてるんだよ。
だいたい君の文章がここのところスレの半分を占めている。
自分の文章に反論してるのはどうしても
たった一人だということに妄想したいみたいだけど、大勢いるよ。

125 :
>>123
秀吉は関白太政大臣として政権を運営してたからねえ。
家康も官位が関係ないなら征夷大将軍だけで幕府は開けたのに
あえて太政大臣に就任してるんだよ。
小学生の本には書いてないから君には解らないだろうけど。

126 :
>>125
家康の太政大臣は生前贈与みたいなものだが

127 :
>>124
直近でも>>118は私が書いたものじゃないな。
>だいたい君の文章がここのところスレの半分を占めている。
どうやってそれを把握してるか教えてくれないかね。
>たった一人だということに妄想したいみたいだけど、大勢いるよ。
自演じゃないことをちょっと証明してみてくれないかね。
>>125
なんだ馬鹿姉ちゃんか。
第三者の指摘くらいは冷静に見れるくらいには落ち着けばいいのに。

128 :
今の先進国の経済活動は「ウーマンバブル」と呼ばれることになるよ。
キーワード検索でもまともに引っ掛かってこない今の内に指摘しておくことにする。

129 :
なんか自演ばっかでつまんね

130 :
>>127
冷静に見れば、反論してるのが一人じゃないことは解っているのに
糞爺さんはしつこいね。
id表示でも志願してみたら?
>>118は爺さんの説に賛同するものではないし、>>117は別の人が書いたものですが?
馬鹿は本当に頭いかれてるから仕方ないね。

131 :
>>127
お前も自演ばっかでつまんねからIDが分かる板でやってくれ。
そもそもお前が来てからかなりレスのレベルが下がった。

132 :
おもしれーなこのスレ。もう一度書いとくわ。
今の先進国の経済活動は「ウーマンバブル」と呼ばれることになるよ。
キーワード検索でもまともに引っ掛かってこない今の内に指摘しておくことにする。

133 :
すげー露骨な自演だなW

134 :
>>133
自演すんな糞が

135 :
>>115
「豊臣家が前政権だったから滅ぼしたわけじゃない」って・・・
そんな説聞いた事ねえな。
これはかなり酷い。
爺さんの話のもとになっていると主張する
少年少女日本史の第何ページに書いてあるのかまず示すべきだな。
この爺さんは自分が一番連投してるから
自分の説が通ったと嘘書いてるだけで
他の人たちはあまりのレベルの低さに様子見してるだけだろ。

136 :
>>135
自分が受け売りでしか歴史を語れないからといって、他人もそうだと思うのは程度が低すぎだ。
>「豊臣家が前政権だったから滅ぼしたわけじゃない」って・・・
>そんな説聞いた事ねえな。
嬢ちゃんは馬鹿だからな。
豊臣は織田を滅ぼしていない。自政権の邪魔にならない程度にまで勢力を縮小しただけ。
一般論として、前政権を徹底的に潰すのは王朝の交代の際の唯一の選択しにはならない。

137 :
だから何?

138 :
>>137
だから何?

139 :
この歴女は自分が馬鹿だから
自分の説が通ったと嘘書いてるだけで
他の人たちの突っ込みすらお花畑思考で無視してるだけだろ。


140 :
Q:信長公に呼ばれ、茶々、初、江の三姉妹のうち一人を嫁にやると言われた。誰を選ぶのがよいか。
  なお、三人の容貌や性格は以下の通りとする。
茶々 勝気な美女
初  お淑やかな令嬢
江  奔放なお嬢様

回答例:最も乳の大きな娘。

141 :
大蔵卿の孫娘のお夏は成仏できたんだろか

142 :
>>136>>>>138 >>139
他人の意見に耳を傾けない
馬鹿爺は去ったみたいだね。
連投自演、悪口嘘付、すごかったw


143 :
俺のことかね。
馬鹿にはまともな意見が理解できないらしい。ヒステリー起こすだけの阿呆だ。

144 :
毛利軍撤退は、本家の大江氏が徳川方の武将だったから‥
平将門と将門の伯父大江・毛利の先祖の良兼らが、将門征伐で身内同士の血肉の争いで、滅び掛けたから、血族同士の戦は御法度だったから‥。

145 :
神として崇拝しているネコを盾に攻め込まれたために戦わずして降伏したエジプト軍かよ
http://plaza.rakuten.co.jp/raelian/diary/200601130003/

146 :
>>143
一人で連投してた自覚はあるみたいだな。
誰もいなくても一人で怒りの連投のヒステリー爺。
お前、ストーカーだな。

147 :
>>146
相手を闇雲に批判するだけで、自分の愚劣な行いを反省出来ないのな。
馬鹿なお前さんが小型犬みたいにヒャンヒャン噛み付いてくるからせっせとレスしてやったってのに。
噛み付いてきたのを懲らしめてやったら、相手がいなくなったと思ったとたん負け犬の遠吠えのごとく
勝利宣言、相手がまだいたらストーカー扱いっつーのも、ちょっとイタすぎやしないかね。

148 :
>>147
あれれ?
負け犬の遠吠えで勝利宣言したのは爺さんのほうでは?
自分への反論が大勢からきていたことに対して反論できず、
自分への反論が一人だなんて嘘書いてたんだよね?
ストーカーにストーカーと言ってまたまた逆切れ。
幼稚な爺さんだな。

149 :
>>147
相手がいなくなっても3度くらい闇雲な誹謗中傷を書いてたのは
お前さんでは?
自分の愚劣で卑怯な行動を反省しろよ。
で、また相手がいなくなったら勝手に勝利宣言かね?
馬鹿にするな。

150 :
淀殿ってなんかエロいよな

151 :
>>150
昔の女は汚いチンチクリンが多かったけど、淀殿は色白でムッチムチの得ろ意肉体美の人だったそうな。

152 :
>>148-149
口喧嘩のレベルに堕した途端にこれだもんな。で、なんで二回に分けて書くのかね。
こっちへの二人称まで替えて、バレバレの自演のつもりなのか??
主張のソースは出せないわ、相手のソースは小説だと思い込みを振り回すわ、政治は
全く理解してないわでやりたい放題の馬鹿な嬢ちゃんはちょっと大人しくできんものか。

153 :
>>151
汚いチンチクリンってのは日々の糧を稼ぐために働いてる庶民女じゃねーの。
自分で働かない戦国大名の女家族は色白になるだろ。

154 :
>>152
お前さんもレスを分けないで>>136>>>>138 >>139
まず一つにまとめてから他人様に意見したらどうかね?
幼稚で姑息な手をあきらめない爺さんだな。
さて、お前さんの主張のソースはどうしたんだね?
お前さんの意見に複数の人が反論をつけていた。
でもお前さんは俺の意見に反論するのは一人だ、
俺のばかばかしい意見は通った、と妄想してたんだ。
ソースはどこかね?
出せないなら早朝から書き込みしてないでおとなしくしてろ。

155 :
>>152
政治を理解してない←そのままお前にお返しするわ。
無茶苦茶な持論でレスを大量消費、
皆が呆れてレスつけなきゃ勝利宣言、
そりゃないわ。

156 :
誰が誰なのか途中から分からなくなったが
嬢ちゃんとか言ってる奴はクズなのは分かるわ
頭悪いくせに何で偉そうなのw

157 :
淀殿にRされたらどんな部将も腰砕け

158 :
>>154-155
>お前さんもレスを分けないで>>136>>>>138 >>139
時系列を見れば、自分が書いた後のレスまで踏まえてまとめられるわけねえことは分かるはずだ。
これを本気で主張する基地外でないのなら、常識をわきまえろよアホ嬢ちゃん。
>お前さんの主張のソースはどうしたんだね?
これだけ言っても自分はソースを出せず、こっちが既に出した小説ごときでないソースについては
何度も出させようとする。どこまで程度が低いんだろう。
>皆が呆れてレスつけなきゃ勝利宣言
少なくとも嬢ちゃんがみえみえの自演を行うアホであることは昨日の指摘で明白だし、
今日のこのレスで嬢ちゃんが常識も記憶力も判断力もないマヌケであることは明白になったよ?
ただでさえ改行の長さやカキコする時間は複数人を想定しがたいのに、書き手のテンションまで
揃いも揃ってヒステリーモードだからな。いくらなんでもそれでバレないとか世間知らずにもほどがある。


159 :
まだやってんの?いい加減にしろよ

160 :
>>159
愚痴こぼしてないで、話題振りゃいいだろう。本当にダメな嬢ちゃんだ。

161 :
>>144
それ以前の問題だろw承久の変で嫡男寒河江が天皇軍、次男以下の毛利、永井が幕府軍。
これで寒河江さんは毛利さんたちに敗れた。
これが兄弟不仲ご法度の起源だろ?

162 :
>>160
別の人が仲介に入ったのまで同じ人のせいにして
ますます敵を増やしてるね。
本当にダメなヒステリー爺さんだ。

163 :
>>158
おまえが小説以外のソースを示しただと?
とうとう爺さん、痴呆が入ったな。
こちらが史料に基づいた論争を展開しようとしても
適当に誹謗中傷して無視、自分の連投で己を正当化してたくせに。
お前がこっちが書き込みを辞めても何度も誹謗中傷を連投してたことも
すべて正統化かする基地外であることだけは解ったよ。
仲介をしようとする他人のつけたレスまですべて一人がやったことと
妄想してさらなる誹謗中傷を書き込む常識も記憶力も判断力もない知恵遅れの
も痴呆爺ってことだけはこれで証明されたしな。
中裁しようとする人、この爺に対して何も書き込まなくていいよ。
この痴呆爺に中裁しようとレスすると、ますます爺は頭が狂って炎上します。

164 :
ここはたった一人の爺のためのスレじゃないんだから
そんなに自己満足したいならコテハンつけて自分専用スレを
どっかに立てたらいいのにね?
他の人は何も書き込まない条件で。
スレ主さんが可哀想だ。

165 :
なんでこの嬢ちゃんは指摘されたことすら直せないのかね。
正真正銘この嬢ちゃんの限界がこれなんだろうか。

166 :
爺さんには理解不能みたいだ。
自分の何が悪いかが全く理解できないみたいだ。
スレ主が気の毒だから
コテハン作って専用スレ立てしろといわれても無視。
暇なのは解るが全くお気の毒だ。

167 :
面白そうな議題だ!と思ってロードして、50レス以内に暴言の応酬が始まっているのを見た時の悲しさといったらない。

168 :
真田丸ってさ、秀吉が大坂城に最初から作っとくとかすればいいのに
まあ、それじゃ警戒されて効果半減かも知れないけど、
速攻で作れる仕掛けとかあったら面白いのに

169 :
>>168
大坂冬の陣講和の時、真田丸は東軍に破却される前に解体して、大坂城に収納したから、
作る方もすぐできるだろう。

170 :
徳川家康は何度も大坂城に入り実際に居住したこともあって
秀吉築城の大坂城を熟知してたんだよね。
大坂城を攻めるなら外堀を埋めることだと城普請に定評のある秀吉が
家康に冗談で言ったら家康にそれを実行されて豊臣家が滅んでしまったとも言う。
秀吉が築いた伏見城も秀吉死後はなぜか家康の居城に乗っ取られてるし。
つくづく、秀吉が家康と言う不気味な男を信用しすぎたせいで滅んだんだと思うわ。
家康って信長の同盟者時代からいろいろ言われてたけど
(本能寺へ向かった光秀の雑兵が家康を討ちにいくと思ってたとか)
不思議と信長にも秀吉にも殺されなかったんだよね。

171 :
>秀吉が築いた伏見城も秀吉死後はなぜか家康の居城に乗っ取られてるし。
>つくづく、秀吉が家康と言う不気味な男を信用しすぎたせいで滅んだんだと思うわ。
家康がやったことは秀吉が信長の一族にやったことと同じだよ。大大名の信雄が移封を拒否して
放逐されたようなもん。豊臣みたいに徹底抗戦の構えを見せていれば信雄も滅ぼされていたことだろう。
>不思議と信長にも秀吉にも殺されなかったんだよね。
信長には表立って逆らうことがなかったからな。そろそろ統一には邪魔な存在になりつつあったが、
従う従順な同盟者を滅ぼすと悪名が広まって統一がやりにくくなる。信長が生きてれば徳川征伐も
やったかもしれんが。あるいはその前に徳川が所領を自ら削って臣従するかもね。
秀吉には徹底して力を誇示しつつ形だけ従属してただけ。武力でも政治力でも排除が難しかった。

172 :
>>163
>おまえが小説以外のソースを示しただと?
>とうとう爺さん、痴呆が入ったな。
>こちらが史料に基づいた論争を展開しようとしても
国史大辞典が小説かね。嬢ちゃんは小説の話題以外何も言及してないけどね。
息するように嘘をつくとはこのことだ。

173 :
追加。
嬢ちゃんはこのスレを「国史大辞典」というキーワードで検索してみてくれ。
自分がどれだけイカレた主張を繰り返してるかが自覚できるだろう。
自覚できなければモノホンの害基地だから、いずれにしろ頼むからもうレスはつけないで欲しい。

174 :
>>172 >>173
「国史大辞典」にこの爺の主張は全くのっていない。
淀のヒステリーで豊臣が滅んだなんて
何ページの何行目に載っているのかね?
自分勝手な説を述べて他人を誹謗中傷しておいて
挙句の果てには載ってもいないのに「載っている」と主張。
ほんまもんの基地外爺。
いい加減自覚しろ、といっても基地外だから無理なんだろう。


175 :
>>173
爺もこのスレを最初から読み返してみることだな。
自分のイカれた主義主張に誰ひとり賛同をつけていないことが
分かるだろう。
分かっていて他人を誹謗中傷してるんだろうがな。
理由は他人を無差別に誹謗中傷すれば
当然相手が怒って自分の下らないレスに
返しをつけてくれることが分かっているからだ。
結局暇な爺は誰かにかまってほしいだけの馬鹿ものなんだな。
違うというのなら絶対にレスは返すなよ。


176 :
>>174
淀の項目を見るといい。淀が秀頼を差し置いて豊臣家を仕切ってたってのはごく当たり前に乗ってる。
で、論点が変わっているが、こっちが小説以外のソースを出さないという妄想がどれだけ愚かかは
自覚できたのかね。それもできないほどの害基地かね。
基地外じみた鸚鵡返しではどうにもならないほど醜態を晒しまくってることをどうか自覚して欲しい。

177 :
>>171
家康は秀吉に臣従すると、秀吉の母を返し、
代わりに自分の息子を秀吉の人質に送りつけている。
秀吉の北条攻めでも家康は辛い先陣を率先して勤めている。
家康が秀吉に臣従する様子は信長のときと同様で、
秀吉は家康の力があまりに強いので
政治的にも武力敵にも排除できなかったというのは違う。
秀吉は人質を送り、先陣を勤め、秀頼の叔母を後継者の正室とした家康を信頼。
秀頼の姻戚として親友の前田利家とともに実質徳川家康に秀頼を託した。
託されておいてそれを裏切るというのは
秀吉が織田家に対してやったこととはまったく違う。
秀吉は織田家の内紛に乗じて政権を取ったが(内紛している織田家も悪い)、
家康は秀吉から託された正統な後継者である秀頼を殺してしまったのだから。


178 :
>>176
>淀が秀頼を差し置いて豊臣家を仕切ってた
全く論点がずれてるね?
お前の言っていた淀のヒステリーはどうした?
「秀頼を差し置いて」というのは何ページ何行目に載っているのかね?
淀殿が一部豊臣政権を代行していたのは事実だが、
この時代の君主母はたいていそうだ。
成人した秀頼に発言権は一切なかったと国史大辞典編者が言っているとしたら、
相当思想が偏っているとしかいいようがない。
で、淀のヒステリーで豊臣が滅んだという記述は何ページ何行目なんだい?
結局、暴言を繰り返して相手を怒らすことによって
レスの返答を求めるかまってほしいだけの糞爺だということだけは否定しなかったな。


179 :
>>178
>お前の言っていた淀のヒステリーはどうした?
なんだ。「馬鹿なメカケが分かりもしない政治軍事に口を出して豊臣を滅ぼした」というもともとの話題じゃなくて、
あくまで近視眼的に、「淀はヒステリー気質だったかどうか」を問題にしてるのか。
「淀 ヒステリー」でググってみな。定説であることが分かるから。あと、このスレがトップにかかってくるのはご愛嬌だw
定説を否定したければ、淀がヒステリー気質でなく落ち着いた人柄であったことのソースを示すこったな。
「馬鹿なメカケの淀が分かりもしない政治軍事に口を出して豊臣を滅ぼしたのは事実だが、ヒステリー気質ではなかった」
ことを証明したければね。
>「秀頼を差し置いて」というのは何ページ何行目に載っているのかね?
いいから国史大辞典の淀の項目開け。淀が秀頼を差し置いて大坂城を仕切ってたことがちゃんと書いてある。
ソースを示されても検証する脳ミソがなければ議論が成立するわけがないわな。

180 :
そうそう。少年少女日本の歴史には淀がヒステリー起こしてる。
児玉先生監修の考証のしっかりしたマンガだから、淀のヒステリーが定説であることの証拠に使えるな。
子供向けであることを批判しても無駄だよ。馬鹿な嬢ちゃんは本質が見えない馬鹿だから、そういうところしか
批判対象にできないみたいだけど。

181 :
>>179
なんだ。
>馬鹿なメカケが分かりもしない政治軍事に口を出して
>豊臣を滅ぼしたというもともとの話題
なんて国史大辞典のどこにも載ってないじゃねえか。
「秀頼を差し置いて」という言葉も見当たらない。
爺さん、嘘だらけだ。
淀殿が豊臣家の政治の一部を担っていたことははじめから否定していない。
しかし、
「馬鹿な妾」「ヒステリー」「秀頼を差し置いて」「淀が豊臣を滅ぼした」
は爺さんが勝手に想像したもので、国史大辞典には一言も載っていない。
載ってもいない言葉を国史大辞典という権威を振りかざして「載っている」
と嘘つくわけだ。
全く議論が成立しない爺さんだ。
で、暴言を繰り返して相手を怒らすことによって
レスの返答を求めるかまってほしいだけの糞爺ということだけはまた認めている。


182 :
>>180
残念だが、その漫画にも「ヒステリー」という言葉はどこにも使われていないよ。
淀殿が怒っている絵を見て爺さんが勝手にヒステリーを表現したと妄想してるだけだ。
それを言い出したら、織田信長も怒ってるし、孝明天皇も怒っているし、皆ヒステリーだ。
馬鹿な爺さんは筆者が意図していないことまで妄想癖が激しいね。

183 :
嬢ちゃん惚ければ誤魔化せると思ってんのな。基地外相手に議論すると大抵こういうことになる。
ま、基地外嬢ちゃんはともかく第三者になら分かるように書いておくけど、国史大辞典の淀の項目には、
本来秀頼が行うべき家中の取り仕切りを、大坂の陣直前の段階になっても淀が行っていた記述が
ごく当たり前に書かれているし、このヒステリー嬢ちゃんは見てのとおり読解力も議論をする能力もなく、
程度の低い子供の喧嘩レベルのマヌケなカキコを行うのみ。かわいそうな嬢ちゃんだ。
嬢ちゃんが基地外じみているのは、既に>>158でやったとおり、「時系列を見れば、自分が書いた後の
レスまで踏まえてまとめられないものを平気で要求する」点で誰の目にも明瞭だけどね。
>>182
淀の伯父の信長がヒステリックだったのも定説だと思うけど、無意味な茶々入れして楽しいかね。

184 :
>>183
困った基地外爺さんだ。
議論の内容をすりかえればだまされるとでも思っている
痴呆爺は仕方がない。
「馬鹿な妾」「ヒステリー」「秀頼を差し置いて」「淀が豊臣を滅ぼした」
が国史大辞典に何ら根拠もなく学者も言っていない
デタラメであることはいい加減認めてるんだな。
淀が豊臣の内政の一部にかかわっていたことなど定説で、
そんなことを議論した覚えもない。
こちらは一次史料を読んでいるんだ。
学者がどうこういったということではなくてね。

185 :
>>183
爺さん、自分のレスのレベルが低すぎることにいい加減気づけよ・・・
この板に来る奴が漫画や辞典程度の知識で書き込んでると思ってるのかい?
得意になって国史大辞典を書きださんでもよろしい。
それと全く違うことを議論しているんだ。
>読解力も議論をする能力もなく、 程度の低い子供の喧嘩レベルのマヌケなカキコ
返しのレスがいくらほしいからってまあ、爺さんの痴呆の酷さを表してるわな。
平日の夜と早朝、土日はひたすら毎日毎日一日も欠かさず2ちゃんねる。
他に会話する人もいない社会不適合の爺さんであることだけはわかるがな。

186 :
>「馬鹿な妾」「ヒステリー」「秀頼を差し置いて」「淀が豊臣を滅ぼした」
>が国史大辞典に何ら根拠もなく学者も言っていない
基地外ならともかく馬鹿には分かるように繰り返しておこう。
国史大辞典の淀の項目には、本来秀頼が行うべき家中の取り仕切りを、大坂の陣直前の段階になっても
淀が行っていた記述がごく当たり前に書かれているし、このヒステリー嬢ちゃんは見てのとおり読解力も
議論をする能力もなく、程度の低い子供の喧嘩レベルのマヌケなカキコを行うのみ。かわいそうな嬢ちゃんだ。


187 :
>>186
爺さん、とうとう反論できなくなって降参だな。
自分の書いたもののコピペする荒らしとなりました。
「家中の取り仕切りを淀が行っていた」この国史辞典の言葉を引いて
「馬鹿な妾」「ヒステリー」「秀頼を差し置いて」「淀が豊臣を滅ぼした」
という爺さんの痴呆語の根拠になるはずもない。
まさに痴呆レベルのレスだな。


188 :
>>179
だって「淀」っていまでいうタケシのバカ娘と同じじゃん。もう救いようないよw

189 :
>「家中の取り仕切りを淀が行っていた」この国史辞典の言葉を引いて
>「馬鹿な妾」「ヒステリー」「秀頼を差し置いて」「淀が豊臣を滅ぼした」
>という爺さんの痴呆語の根拠になるはずもない。
なんでこんな愚かな結論になるんだろう。ヒステリー以外はごく当たり前に導き出せるのに。
淀が家中の取り仕切りを淀が行っていたんだから、当主である「秀頼を差し置いて」取り仕切っていたのは
議論の余地がないし、その結果として豊臣が滅んだんだから「馬鹿な」「淀が豊臣を滅ぼした」 ことになる。
「妾」については以前議論があったけど、側室が産んだ子は妾腹と呼ばれるように、存命中の正室のねねを
差し置いて淀が正室になるわけがない。男児を産んでその側室の扱いが高まろうとメカケはメカケ。
なんで基地外女にはこんな当たり前のことさえ理解できないんだろう。

190 :
戦国時代の話に今の妾の定義で主張されてもなあ

191 :
妾腹ってのは軽蔑を込めた当時の言葉。

192 :
>>188
まあ、歴史上の人物をここまで馬鹿に出来る人物に
歴史を語る資格などないだろうな。
おたくがどれほど賢い人間か知らんが。

193 :
>>189
はい、爺さん、もういいよ。
どこをどう見ても国史大辞典には淀が
内政の一部を取り仕切っていたとしか書いてないのだから
それ以外はすべて爺さんの妄想だ。
国史大辞典に書いてないことを書いてあると嘘をつき妄想していたことを
爺さん自身がはっきり公言したのだから、もう結構。
爺さんの説は学者の説に裏打ちされているわけではないことははっきりしている。
この上でまだ罵詈雑言ちりばめたくだらない連投を繰り返して
お願い、レスを返してくれと叫び続けるなんて、
どんだけ構ってほしい困ったチャンなんだろう?
また暴言で応酬してくるかなw

194 :
>>192
この板は語る資格のない人間の巣窟かね。
>>193
基地外ちゃんはなんでそんなに妄想に捉われてんの?
ごめんね。基地外ちゃんの心情が理解できなくて。

195 :
先祖が夏の陣で家康残して敵前逃亡した可能性があるw

196 :
>>195
kwsk!

197 :
>>196
祖母の実家は徳川家に仕えてたのは確定なんだが
苗字を調べると夏の陣で家康の周りを固めた旗本っぽい
本多作左衛門がまあ譜代の家臣ですらあたふたしたからと
先祖を構ってくれた痕跡が間接的にあるw

198 :
真田に蹴散らされたわけか。

199 :
>>198
だなw
小牧長久手でも家康を護衛して岡崎城に帰ったらしい

200 :
旗本なら寛政重修諸家譜に系図が載ってる。大きな図書館には必ずあるから
調べてみてはどうか。索引1の冒頭に姓の索引がのってる。

201 :
>>200
御家人の可能性もある
先祖の同僚は旗本にいるのは確定した
流れから先祖も旗本でもおかしくないと思う
旗奉行はやってたらしい
詳しく調べると豪農だったってオチかもしれないがw

202 :
旗奉行って相当毛並みいい気がするぜ

203 :
なんで奉行に御家人がなる場合があるんだろうな。御目見できなくて旗奉行がつとまるのか??

204 :
旗係と書くと下っ端ぽいな、
公式に面会できる立場なのと現場で会える部署に配属されてるのとは違うでしょ

205 :
江戸時代で安定した時期の区分では、旗本は馬上の士で御家人は足軽だからな。
与力は騎乗が認められているけど御家人だから騎馬足軽なんて呼ばれている。
奉行は足軽を束ねる士分だし、旗奉行は2千石の格らしいから御家人がなんて就いたのかわからん。

206 :
御家人を一くくりに足軽と決め付けるのは間違い。御徒士と足軽を一緒にするなよ。
与力が騎馬足軽などと呼ばれていたなんて史料を見たことないしね。

207 :
幕初の状況では、御三家附家老のように直臣が嫡男以外につけられて、そのままなし崩しに
陪臣のような扱いを受けるようになったものが多いしな。平時なら御三卿家老のように
直臣がつくであろう職務であったはずなのに。諸藩でも、分家で大名を作るときは
分家大名家臣の扱いでどこも苦心してる。
京や大坂の町奉行や番方の与力も、実質的にはかなり厳密に世襲なのに、格自体を落とされて
かろうじて直臣ながら御家人最軽格の抱え席だし。
つーか、こういう話題ができる専用スレはないものか。

208 :
>>194
基地外爺の連投でスレが埋まるところだったね。
爺自身が自分が嘘を描いていたことを「はっきり」
認めてんだからもういいよ、嘘つき爺さん。
いや、自分も認める基地外だから理解できないか。
とにかくもう来なくなって良かったよ。
はい、爺さん降参だったね。

209 :
>>208
もういい加減にしたらどうか。挑発以外の何の要素も含まれていないじゃないか。
まるで子供だ。

210 :
家康(爺さん)と淀殿(嬢ちゃん)の確執を迫真の演技で説明してくれた二人に拍手

211 :
足利義昭or義尋が生きてれば大坂方の総大将で担ぎ出せたのにな。

212 :
淀の親戚の織田ですら相次いで逃げ出したのにかよ。
秀吉が将軍になれなかった理由は義昭に嫌われて養子にしてもらえなかったからだって話もある。

213 :
>>212
秀吉は豊臣姓を下賜し豊臣長者として君臨するつもりだったのでは?
関白を豊臣一族で継承していくのはさすがに無理だとわかるだろうし
源平藤橘に豊が加わる歴史的なことだと思うが

214 :
爺の方が分が悪いなwww

215 :
>>213
源氏の足利の養子になれなかったから将軍になれず、五摂家の養子になって関白を経て豊臣を賜姓されたわけだ。
スレの話の流れを無視して茶々入れしてこんようにな。アホ淀嬢ちゃんが勘違いではしゃぎだすから。

216 :
日本の苗字7000傑
第582位 織田 約34,500名 平資盛の後裔が越前国敦賀郡織田剣神社神官となり称す。後裔の織田信長が有名。
↑織田氏は信長の系統だけではない。織田氏は正真正銘の「平家」。本当に平家。
「戦国時代」とは「源平の戦い」のリベンジマッチだったのだ。
正当な武家政権としての権利を奪った源義経、頼朝一派への復讐のこめられた戦い。奥州仕置きにおいてついに天下統一なる。
奥州とは義経の出身地に他ならない。天竺第四天魔王の娘「鈴鹿御前」の話もまた奥州にある。
そして信長は天竺第六天魔王を名乗った。

217 :
源平が交互に政権をとるってのは昔から言われてるが、奥州がリベンジ対象なら
最後まで残しておくはずねえだろと。そもそも足利義昭を生かしたまま追放するわけねえだろと。

218 :
>>215
それぐらい知っているが本当に秀吉が義昭に養子を要請したかどうか

219 :
>>218
はじめから豊臣賜姓を狙ってたんなら藤原になるわけないじゃん。

220 :
>>219
秀吉が端から豊臣狙いって言ってないんだが

221 :
まぁ難しいことは無しにどっちがエロイのかで決めた程度だったったり

222 :
足利と豊臣の関係を語ってるところに、流れ無視で茶々入れしてきただけだったか。

223 :
なんにしてもスレ違い

224 :
豊臣&織田&足利か…
実現してたら夢のタッグだったなw

225 :
過疎スレでスレ違いを振り回す奴ってやっぱ馬鹿なのか?

226 :
約2カ月で200レスで過疎スレ認定
社会からのはみ出し者の発想はわからねえ
挙句他人を馬鹿呼ばわり
育ちが悪すぎ

227 :
>>1
積極的に「ファック・ユー」みたいな挑発したわけではないが、
臣従しなかったのは一種の挑発とも言えると思う。
家康の言うとおりにしていれば、少なくとも家康の時点での徳vs豊はなかった。
その後はどうかは知らんが上手く立ち回れば取りつぶしもなかったと思う。
最終的には10万石ぐらい←テキトー

228 :
だからアホなメカケの淀が豊臣を滅ぼしたとなるわけだ。

229 :
籠城戦で勝利しても得る土地もないのに、
浪人どもが豊臣に同調したのが不思議だ。

230 :
不安定な世情だからな

231 :
豊富の家臣に過ぎない竹チヨ家康ごときが豊富を裏切ろうとした動機が いまいちワカラナイ
国家安康の鐘は口実 あの寺そのものが家康の息のかかった寺
日本の伝統文化勢力の関西勢を敵に回して 闘う気が知れない→今の日本に至る不幸のはじまり

232 :
>>229
名を挙げて死ぬのが武士というものだ。後藤又兵衛とかは大喜びで死に場所を見定めてやってきたことだろう。
それに、摂河泉の土豪も結構入ってたようで、俺の祖父の生まれ故郷にもそういう人間がいる。つーか俺の先祖自体が
城に入ってて、落城後に土豪を頼って村に至り帰農した可能性がある。

233 :
日当もらえるからじゃね??

234 :
スイーツ女がヒステリック起こしててワロタ
淀がすぐれた人物なんて見て取れるような資料はない、逆に無能であったとされる資料もないが、もし本当に優れていたならプライドより家名存続を第一にし人質を進んで受け入れたんじゃないか?例え秀頼が反対したとて先見の明があれば甘んじて受けただろ
それをしなかった時点でどちらかと言えば無能に近い印象になるな
家康に土下座するタイミングさえ見誤らなければ豊臣根絶やしにはならなかったのは可能性としては高いだろ
ただし可能なら後顧の憂いは絶ちたかったって思惑は徳川にはあっただろうから、改易する口実探しは後々も続いたかもな
ただ根絶やしにされずに振る舞う事は一応は可能だったと見る、相当な無理難題を吹っかけられだろうが

235 :
>ただし可能なら後顧の憂いは絶ちたかったって思惑は徳川にはあっただろうから、改易する口実探しは後々も続いたかもな
主に領地替えと石減らしだろな。
逆に言えばそれに耐えれば、幕末まで豊臣は残ってたと思う。
キティ殿が江戸城で事件とか起こさなければw
石高は減っても家格は加賀百万石とタメだから台所は厳しい←見てきたようなw

236 :
加藤や福島が改役・除封されたのに豊臣が潰されないとは考えられないね

237 :
>>229
今の就職難と同じだからだろ
今だと派遣切りされてもまた派遣?って感じだろ
豊臣に行くしか就職の可能性がない

238 :
幕初の改易は無嗣改易のパターンが多い。

239 :
>>229
大阪に入城すれば食べれるから

240 :
>>238
小早川が第一号かな?

241 :
浪人が豊臣に与した理由が>>237>>239がいう程度なら
戦意は極めて低いよな。
だらだらと長引けば長引くほどいいわけだ。
前線なんてとんでもない。

242 :
手柄を上げればどっさり貯めてある金銀財宝で褒美がもらえるけどね

243 :
真田信繁の首を取って「やった、三万石だ!」みたいなやつか

244 :
「やった三万石だ!」って真田幸村の首を取れば万石の分限になれると思ったのに家康に評価されず万石の夢は脆くも崩れた加賀か越前の武士だよね?

245 :
>>234
淀殿は前田みたいなヘタレじゃないんだろうw
家康は家臣として秀頼を盛り立てるという誓詞もだしてるし
家臣に頭を下げるなど、武家のプライド?が許さん

246 :
>家臣として秀頼を盛り立てるという誓詞もだしてるし
室町将軍を追放した織田を乗っ取った豊臣が、
そんな紙切れに効果ないのはたぶん一番知ってる。

247 :
唐入りなんかして内治を適当にやった亭主を恨め
秀吉が天下人だったのは15年程度
いつまでもガキに臣従するわけがない

248 :
まぁ早い段階で家康に従ってても減封の嵐でいつか消えてなくなっていたかもしれないが全面対決は愚の骨頂であった

249 :
>>246
オイオイ、秀吉は三法師を優遇してるだろ
本能寺で家督(信忠)と先代(信長)が消え、次期家督と決まった人物もおらず
重臣会議で決定するしかなくなり、信孝(柴田推薦)、信雄ら、候補が多数いるなかで織田家督
を三法師に決めてあげたのは秀吉(三法師の方が秀吉に恩がある)
家康は秀頼の家臣であり(本能寺のような事件で)、関係が切れたわけではない

250 :
征夷大将軍就任で切れました

251 :
>>250
将軍就任では主従関係は切れないだろうw
実際に諸大名は、家康の将軍就任後も大坂と江戸に参勤しており
家康も一時的に政権を預かっているというフリをしていたので
秀忠の将軍就任後も毛利や伊達の書状では、いずれは秀頼が成人して関白になり
政権をとるだろうという観測が書かれている
秀忠が将軍になった時、秀頼の官位も昇任し、秀忠より上位になった
その後、京で秀頼と対面した時、家康は対等の礼を望んだが、秀頼は拒否してるw

252 :
>>251
それはただの噂、イギリス商館長も日本の噂は参考にならないとしている
秀頼の拒否は豊臣家側の都合なだけ

253 :
豊臣があくまで権威で上位に立とうとしたから下克上でフルボッコされたと言いたいわけだな。
そこまで政治感覚がなければそりゃ滅ぼされるわw

254 :
>>249
それは少し違うな
秀吉が秀信を優遇してたって根拠は
秀信を中納言にし豊臣一門の扱いをしたこと
秀吉は自らが天下を牛耳る正当性を気にしていたんだろ
だから秀信にある程度の処遇をする

255 :
>>250
秀吉は武家関白として武家と公家の頂点に君臨した
その武家の部分を征夷大将軍に就任することで打ち砕く

256 :
秀吉が裸一貫から作り上げた家だから「お家大事」が定着してなかったのかも。

257 :
領地と城を全部捨てて公家化すれば生き残れたかもしれんね。

258 :
戦争に負けた側は支えた下々のもの(戦闘員・地域・住民まで)どういう処遇を受けた?

259 :
頭が変わっただけ

260 :
>>258
悲惨な落ち武者狩りや略奪に遭った
大阪方の武士の一家眷属は見つかったら皆殺し

261 :
>>252
うわさというか、伊達政宗が家康側近の今井宗薫に宛てた書状でも
いかに太閤秀吉の子であっても、能力がないなら、二三ヶ国を与えて存続させればよいとあり
毛利輝元の国元宛ての書状でも、秀頼が関白になるらしいと書かれている
なので秀頼が関白に任官し、関白型の公儀体制に戻ると思われていた
家康は将軍は武家の棟梁なので大名が臣従するのは当然だが、
関白型の公儀を継ぐべき豊臣家への忠誠心とは矛盾しないと
豊臣恩顧大名には説明してだんだろう
>>253
上位に立とうとしたというか元々上ですよ
主従関係が切れてないのは二条城での会見でも明らかで
「徳川実記」によると、家康は秀頼が到着すると、わざわざ庭まで出迎え上座に案内
帰るときは玄関まで秀頼を見送っている
毎年の年賀には、関白を初め、親王なども大坂城に訪れ、秀頼に祝いをのべていた(大坂の陣の年まで)

262 :
藤田 謙一(ふじた けんいち、)は、日本の実業家である。日本商工会議所初代会頭、貴族院議員として知られる。
人物・来歴
1873年(明治6年)1月5日、青森県[2]弘前市に、武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれる[3]。5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る[3]。
東奥義塾を中退、1891年(明治24年)に上京し[3]、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学する[2][3]。法学博士・熊野敬三の書生になる[3]。同学を卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する[2]。
1901年(明治34年)に大蔵省を辞し、翌1902年(明治35年)、「天狗煙草」で知られる岩谷松平の岩谷商会の支配人となる[2]。岩谷の個人商店だった岩谷商会を会社組織化し、専務理事となった。
1904年(明治37年)の専売制実施の際、政府による同社の買収金額を莫大なものとした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E8%AC%99%E4%B8%80

明石 全登/景盛(あかし たけのり/かげもり)は、戦国時代の武将。宇喜多氏の客将。官位は掃部頭。別名に守重、全職など。洗礼名はジョアン・ジュスト。
明石景親の子。妻は宇喜多直家の娘。子に明石景行、明石内記。孫に明石宣行。知行は3万3千石といわれる。 諱(全登)の読みは、「たけのり」の他に「てるずみ」「ぜんとう」「なりとよ」などが伝わる。
慶長19年(1614年)、大坂の役が起こると豊臣方として参陣する。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では伊達隊と交戦、同士討ち事件が起きている。
大坂城が落城した後は戦死したとも、南蛮に逃亡したとも言われており、その後の行方は不明である。死亡時期については各説がある。
但し、熱心なキリシタンである全登が、戒律を破り自害した可能性は考えられない。徳川家光[5]は全登の武勇を恐れて、「明石狩り」を行ったと言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB



263 :
>>261
△豊臣があくまで権威で上位に立とうとしたから下克上でフルボッコされたと言いたいわけだな。

○豊臣があくまで権威を振りかざして政治的に上位に立とうとしたから下克上でフルボッコされたと言いたいわけだな。

264 :
明石全登の子孫
日露戦争でロシア革命工作を行った明石元二郎陸軍大将(日露戦争当時は大佐)は、明石全登の係累の明石安行の末裔と言われている。
同じく自らもキリシタン大名であった黒田孝高、長政親子に匿われた可能性は高い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB#.E5.AD.90.E5.AD.AB

265 :
>>261
もしかすると秀頼の関白任官の動きが水面下で起こっていたか
そのような動きがいつ生じてもおかしくない情勢で
想像以上に豊臣家が政治的、経済的に弱体化してないことに
家康は危惧を抱き、あのタイミングしかないってことで征伐したのかもね
秀頼との会見がきっかけとの指摘はその通りだが
それ以外に京で実感した豊臣の公家衆らへの存在感とかね

266 :
>>261
それも含めて噂ですね

267 :
>>265
自分の死期が近いとわかって、徳川家の存続(不安要素の除去)
しか眼中になくなったんだろう、徳川幕府体制は作ったものの、
豊家は、その幕藩体制外で、家康がRば、朝廷への抑えもきかなくなる。
実際、十万規模の浪人を抱える経済力もあるわけだしね。
(最近では、家康が分配してしまったものもあるが、三カ国以外にも
まだかなりの蔵入地[大和・讃岐など]が残っていたことが判明してる)

268 :
豊臣が関白になろうと、武力がないなら武家政権に抑えられるのは、数百年の戦国の世を経ている人間なら
誰もが理解できること。それをあえて実権まで握ろうとしたら武力で排除されるのは当然。後鳥羽上皇や
後醍醐天皇のように。
家康が死ぬまで状況を維持する政治力がないんだから、徳川が戦いを仕掛けないという都合のいい
思い込みで構えていたら滅ぼされるのは当然。つーか豊臣は武家の力を弱めようとする朝廷の工作に
踊らされてただけじゃないのか。官位が秀忠より秀頼の方が上だっていうのならね。

269 :
>>268
武力は実際にあるし、関白になるとすれば、秀吉のように武家関白になるわけだ。
家康ですら、あやうく義元の二の舞になりかけたわけで、家康が死んでたら結果はわからんw。
また、朝廷の工作というか、秀吉在世当時からの豊臣>徳川を変えてないだけで
家康自身が、諸大名に幕府に従うという誓詞(三か条の誓詞)を差し出させた時にも
豊家は、その対象になってない(誓詞を求められてない)
朝廷、徳川とも豊家を上位として扱っていたわけで
秀忠は将軍就任時内大臣になったが、秀頼も同時に昇進し、より上位の右大臣になっていて
そのご機嫌伺いに前田や島津、上杉、その他、豊臣恩顧大名が多数大坂城に行っていた。
千姫の輿入れの際にも、諸大名が多数大坂城に参集して祝ったが、
その際、福島が主導して、密かに秀頼さまに異心なき旨の誓詞をしたためたという噂がたったw。

270 :
>秀吉在世当時からの豊臣>徳川を変えてないだけで
既に朝廷は秀頼の上に家康を持ってきてる。その上で秀忠を下に持ってきてるんだから、
明らかに政治的な動きだよ。朝廷にとっても徳川よりは豊臣の方が与し易い。
>その際、福島が主導して、密かに秀頼さまに異心なき旨の誓詞をしたためたという噂がたったw。
しかし大阪の陣で豊臣に付いた大名は織田と七手組のみ。それさえも裏切り続出。

271 :
>武力は実際にあるし
ないよ。状況をひっくり返すだけの武力はね。

272 :
家康を批判する奴は、豊臣の地位の高さを根拠に正当性を主張するんだけど、
豊臣が織田の政権を簒奪している以上は身勝手な言い分に過ぎないんだよな。
政治感覚ゼロで徳川に譲歩しなけりゃそりゃ滅ぼされても誰も同情せんよ。
個人的感傷ならともかく、客観的判断ではね。

273 :
大坂の陣の時点で大坂方にはまともな政治家がいないだろ。
武力の問題だけでなく、早晩政権は崩れる。
オンナやコネ出世の大野が威張っているようではどうにもならい。
本多がいるか? 土井がいるか? 酒井がいるか?


274 :
>>273
政治力のないトップは担ぎやすいから新たな火種になる。
征夷大将軍に任じられた徳川家が積極的に火種を排除するのは当然。
それが朝廷から課せられた義務だ。
その程度の判断させ出来る奴がいないなら、豊臣滅亡は既定路線。

275 :
豊臣が徳川に譲歩すれば秀頼は殺されなかったというのは言い過ぎだろうな。
老醜の家康が鐘銘事件をでっちあげてまで秀頼殺害に躍起になった。
関ヶ原で西軍についた大名たちを家康は自在に
領地を取り上げたり高野山に追放したりしており、
現実に、関ヶ原の後、豊臣家減封にも成功している。
つまり、家康がその気になれば秀頼を減封の上生かしておくこともできたが、
あえてそれをしなかったということだ。

276 :
>>272
織田宗家は信長、信忠で絶えてしまった。
簒奪も何も、織田信忠で織田政権は絶えており、
本能寺の変で織田政権は終焉している。
その意味では、織田政権を終わらせたのは明智光秀であり、
秀吉が終わらせたわけではない。
秀吉に臣従した三法師や信雄は織田家分流であり、信長の直系ではない。
その点、秀頼は秀吉が定めた正統な後継者。
織田家で言う信長の跡取り信忠に当たる。
秀頼を滅ぼすことは織田家で言う信忠をRことに当たり、
家康がしたことと秀吉がしたことは全く異なる。

277 :
信長だって守護代殺して守護追放してさらに将軍まで追放してるのに
何故秀吉や家康の簒奪は悪いこと扱いにされるのか

278 :
>>276
教条主義者だな、こいつ

279 :
>>275
>つまり、家康がその気になれば秀頼を減封の上生かしておくこともできたが、
だから、豊臣側がその気にならなかったから力押しせざるを得なかったと言ってるんだよ。
豊臣は諸大名を頼りにしてただろうし、それらが全て徳川についたのを見せられてさえ
降伏しようともしなかった。おかげで律義者で通っていた家康は晩節を汚すはめに。

280 :
>秀吉に臣従した三法師や信雄は織田家分流であり、信長の直系ではない
サル自身が重臣会議で信長嫡男信忠の長子である三法師を織田の正当な後継と認めてる。
どう見ても直系です。ありがとうございました。

281 :
>>274
そのトップ(秀頼)を補佐するのが家康の役目
秀頼の家老として前田や徳川がいたわけで、関ヶ原で、他の家老(毛利・上杉)を追い落とし
無二の家老になったが、やがて、「私、将軍になりますけど豊家は別格です」と将軍になり
当初は諸大名にも大坂に参勤させ二重公儀体制を認めてたが、とうとう逆臣となり主君を滅ぼす
秀吉の場合は、重臣会議(清州)で、柴田の押す信孝でなく三法師を家督に推挙、
三法師を生涯優遇した秀吉とは大違い

282 :
>>281
征夷大将軍として朝廷から課せられた使命は、天下太平の世をもたらすこと。
天皇への忠誠のために平和を妨げる豊臣を滅ぼしただけの話。
正当性は朝臣としての立場の方が当然ながら上だ。

283 :
>秀吉の場合は、重臣会議(清州)で、柴田の押す信孝でなく三法師を家督に推挙、
>三法師を生涯優遇した秀吉とは大違い
当時の戦国大名の例からすれば、当主は成人していないと軍団の指揮などおぼつかないから
信孝を推した柴田の行動は普通。
三法師が秀吉に殺されなかったのは政権を簒奪されても刃向かわなかったから。信雄も含めて
秀吉は織田を優遇などしていない。

284 :
>>283
優遇というより配慮だな
秀信の官位でかろうじて配慮した感じかな
信雄の三河と駿河遠江への領地替えは
端から信雄が清洲がある尾張に固執し拒否するって
考えた上での策略だったのかは気になる

285 :
配慮は権力者でなく配下がするもの。
信雄と秀頼はそれが出来ない馬鹿だったから排除されただけ。

286 :
本能寺からさえ逃げ切った立ち回りの天才の有楽斎がいたんだから、秀頼や淀も
この頼りになる親族のいうことを聞いてればよかったのにね。2人とも聞かないから
有楽斎はまた自分だけ助かる選択をしちゃったよw

287 :
>>282
勝手に無理やり大坂の陣を起こして、平和を乱してるのは家康だろw

288 :
>>287
空気読まない豊臣家が悪い

289 :
チンピラ集めてたヤクザのヤサにガサ入れしたみたいなもん

290 :
大和への国替の話受け入れたら秀頼が暗殺される
そして徳川の仕業にして開戦

291 :
>>287
秀吉の戦は無理矢理じゃないとでも?
秀吉は臣従を申し出れば寛大に処している。
秀頼も素直に家康に従えばよかったんだよ。

292 :
秀頼が大坂城退去に応じていたら、
大和郡山で20万石くらいの待遇は受けられたのかな?

293 :
>>287
少なくとも織田家家督(三法師)に無理やり戦をしかけたことは無いw
家督以外を排除するのは、よくあること

294 :
>>292
伊勢か大和の一カ国
国替えに応じれば、秀頼が家康に臣従することを意味するので
それなら家康にとっては万々歳
戦になれば、どんな事態になるかわからない(実際に義元のように首を取られかけた)
ので、なるべくなら不要な戦はしたくない

295 :
>>287
>勝手に無理やり大坂の陣を起こして、平和を乱してるのは家康だろw
無理やり豊臣を臣従させようとしただけ。
豊臣が臣従したら大阪の陣は起こらない。
下手に成り上がるから、なんとしてもお家を存続させようという気力に乏しいのかね。

296 :
織田や足利は傍系で残っているのに豊臣がないのは淋しい限り

297 :
木下家があるじゃん

298 :
種無しに子孫が残せるわけないじゃん。

299 :
大阪の陣前夜の秀頼の態度は、織田包囲網を形成した足利義昭の態度に近い。
自分は敵対勢力に対して軍事的に無力なのに、権威を笠に天下太平の世の成立を遅らせた。
後の世の視点では、これほど迷惑な存在もなかろ。普通は孝明天皇のようになるのがオチだ。

300 :
一応秀吉の親戚筋の小出秀政の次男の家系が
幕末ま存続した。
3万石だから脅威に感じるほどでもない
大坂の陣の時は複雑だったと思われる…
秀忠が大坂の陣が始まる前太閤殿下には恨みはないと発言した
秀忠は小田原の陣の前人質として上洛し
子供好きの秀吉はまだ15歳の秀忠を可愛がり秀忠の命名し元服させた
秀忠は秀吉から名付けてもらった名前だから変名しなかった


301 :
小出秀政って秀吉の叔母(大政所の妹)の旦那なのに、
秀吉より3つか4つ年下なんだよな。
どんだけ熟女好きなんだよw

302 :
>>298
淀の生んだ鶴松も早く死んだし、淀殿以外では長浜時代に二人子供が生まれたが早世
当時は子供の死亡率が高いのでやむをえない
勿論、秀吉が死んだ時点で、元服した子供がいれば豊家は揺るがなかったわけで
百姓から関白(朝廷側では将軍でがまんしてくれと言ったが、拒否して関白)
にまで上り詰め、天下を統一した一代の英傑としては惜しい
(後の家斉ほどとは言わないが、10分の1でも十分歴史が変わっていた)

303 :
>301
叔母なら大政所よりも年下だから、後妻を迎えるのが当たり前の当時なら親子ほど歳の離れた兄弟姉妹も珍しくない。
大阪つながりの大塩平八郎なんかは、義理の祖母の甥だから父の従兄弟に当たる格之助を自分の養子として迎えている。
平八郎の叔父で宮脇家に養子に入った志摩は叔父なのに平八郎より年下だし。

304 :
毛利輝元が名誉挽回で籠城すればよかったんだよ

305 :
毛利輝元の親戚の小早川隆景が長生きしていれば
あんな悲劇的なこともなかったかもしれないけど
輝元は豊臣家と将軍家の周旋も無理だし
大坂城での籠城もないだろう。

306 :
関ヶ原で静観・東軍への裏切りをしたのは毛利家絡みの勢力ばかり。
小早川秀秋、吉川広家、安国寺。
この3人が西軍としてそれなりに働いたら少なくとも豊臣と徳川の戦争は長期化しただろうな。
しかし朝鮮役による諸大名の豊臣家への失望と経済的な問題を考えると長期化しても豊臣家への恨みが募るばかりで結局は徳川の天下になったかなぁと思う。
秀吉死去時に世継ぎが成年になっていて秀次、秀秋をそれなりに厚遇し藩塀としてある程度役に立つようにして家康が老衰でもう少し早く死んでしまってても微妙か。

307 :
>>302
長浜時代の2人の子供は疑問視されてるけどな
秀吉がもし実子4人も作って成人したのが秀頼たった1人だけなら
あまりにも死亡率高すぎ
この時代の子供の死亡率はそんなに高くないよ

308 :
秀吉は六本指の奇形だからな。

309 :
のりPがまさか薬中だとは思わなかった

310 :
真田幸村 信濃国主格
後藤元次 播磨國主格
大野道犬 壱岐国主格
薄田、木村、長曽我部、明石

311 :
>>301>>303
タラやイクラがワカメと結婚したり、風間くんがむさえと結婚するようなものか。

312 :
>>303
シンケンジャーレッドみたいなもんか

313 :
あげ

314 :
aiyo

315 :
一度過疎化すると、本当にだれもいなくなるな。

316 :
>>315
日本史板自体の人が減ったからな。
昔は近現代や戦国(ゲーム・小説・漫画込み)の板がなかったからかなり多かったんだが。
知識や見解のレベル差は凄かったがなかなか面白かったw

317 :
不利だね

318 :
>>300
> 一応秀吉の親戚筋の小出秀政の次男の家系が
> 幕末ま存続した。

なるほど。

319 :
これ、右大臣と内大臣の戦いなんだっけ?

320 :
真田幸村かっこいいっ!!

321 :
>>319
豊臣秀頼は大坂の役の頃には官職を辞していた
一方大坂の役のときの徳川秀忠の官位は右大臣

322 :
age

323 :
豊臣家が滅んで、コリアンは喜んだのかな?

324 :
>>323
喜んだよ。

325 :

【東日本大震災】中国山東省から仙台市に義援金と「国泰民安」の文字が刻まれた玉印が送られる
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1307701813/

「なぜに印鑑なんて実用価値のないものを贈る?」と思った人もいると思う。
実は玉印は宗主国が属国に渡すもの・・・・・。


326 :
国民という字を斬っているところからして
日本国民に対する害意は明白
攻め滅ぼすべき

327 :
>>326
自演乙
自演じゃなかも知れないいけど自演乙

328 :
水野勝成が大活躍した戦争だな。

329 :
伊達のポカのせいで効果が半減したがな

330 :
ウィルスソフト入れてるのにユキチカに感染するくらい低い確率だ...

331 :
>>328
> 水野勝成が大活躍した戦争だな。

巨人黄金期でいうと末次外野手に匹敵する人だな。

332 :
最強の5番打者は柳田だろ

333 :
激しく尿意

334 :
岡崎を軸に十年は打順が組めるとは何だったのか

335 :
tes

336 :
>>1
歴史歪曲
http://ameblo.jp/yamasiro02/entry-10965087888.html

337 :
>>336
紫衣事件以降に幕府権威が衰退した並行世界のブログなんて紹介されても、その、なんだ、困る

338 :
千姫って落城間際に助けられたの

339 :
>>338
助けられたっつーか、城側の人が「秀頼様と淀の方様の助命嘆願に行って下さい」と護衛付きで送り出した。
自分が助けだした、と主張してる人はこの送り出された一団を保護して秀忠のところに連れていっただけ。

340 :
保守

341 :
テレビで秀頼の大柄説ついに解禁か?
態度が大きいとは浸透していた江戸〜昭和w
まあ2mはないと思うが190cm前後はあったと思われ

342 :
大河で痩せる前の渡辺徹が、やっとる

343 :
裸城になれば終わりだとわかっていて、なんで濠を埋めさせたの?

344 :
千姫を助けだしたのは坂崎出羽守だ。褒美に千姫をやると家康が約束したが、
出羽守が醜男だったので千姫が嫌った。

345 :
怒った坂崎出羽守は本多忠刻に嫁ぐ千姫の行列を襲って姫を略奪しようとし、
失敗して自害した。

346 :
>>344
>>339

347 :
大河あげ。書き込み、よろしく。

348 :
大河ドラマ板へR

349 :
>>343
最後まで、豊臣が意のままに動かなければ、家康が本気で豊臣を潰す覚悟だとは理解できなかったから。
幕府にとって自分自身が危険すぎる存在と自覚できず、圧力を加えられて自己防衛のために浪人を山ほど雇い、
攻められて大幅譲歩を受け入れ、それでも戦略拠点の大坂から動かなかったから言い掛かりをつけられて排除された。
大坂城を実質的に仕切っていた淀や取り巻きの女どもは単なるバカ。鉄砲構えていながら、警察に撃つな
撃つなと泣き言言ってるようなもん。

350 :
「秀吉亡き後、秀頼を支えるように」
ということで定められた「五大老」制度は、いつ廃止されたのですか?
どうしても「大坂の陣」の大義名分がわからない。
諸大名は、こんなことでよく徳川についてゆく気になれたもんだ。
「筋が通らない」と思った者はだれもいなかったのだろうか?

351 :
>>350
五大老制度は秀吉没の翌年早くも秀吉の盟友前田利家が病没し
関ヶ原の合戦で事実上崩壊だな
関ヶ原は豊臣家家臣団の分裂を利用して家康が勝たせていただいただけなので
結局主君である豊臣秀頼を殺せなかった
この教訓から大阪の役で家康は豊臣の息がかかった大名は一切呼ばずに
徳川家血族と譜代大名(三河時代からの家康直臣)だけで戦ったはず

352 :
>>350
家康将軍就任により、五大老制も含めた豊臣政権そのものが無くなった形

353 :
関ヶ原の後の大老
宇喜多島流し、でも長生き
毛利36万石に減
上杉30万石に減
前田根性なし
家康しかおらん

354 :
>>352
それでも大坂の役までは諸大名は事実上
徳川家康と豊臣秀頼に両属する形を取っていた
家康将軍就任後も秀頼から偏諱を受けた大名が複数いることや
豊臣家出身の完子を摂家北政所にねじ込む力を持っていた
家康の将軍就任と同時にただちに諸大名が
秀頼は家臣、家康を主君と仰いだわけではない

355 :
>>354
偏諱を受けていたら従属というのもおかしな話だし(秀忠は終生「秀」を残している)、
それに完子の実母は秀忠正室のお江の方なので徳川家にとっても損な話ではない

356 :
>偏諱を受けていたら従属というのもおかしな話だし
受けた時には確実に従属だろう。

357 :
>>356
受けている間は無条件に従属というわけでもない

358 :
>>357
思考停止してるのか?
受けることと使い続けることは別。受けるってことは従属するということで、
徳川と豊臣、それに大名自身の関係に状況変化がないなら従属したままだ。

359 :
>>355
当時は夫の姓になるという概念がないので江はあくまでも浅井家の人間
父親が豊臣、母親が浅井である完子が徳川のために働くというのはまずない
完子が徳川秀忠の養子になったのは豊臣家が滅んでから
当時の史料を見ても完子の結婚を徳川家が支援した記述は全くない
完子は淀殿の猶子であり豊臣秀頼の義姉
豊臣秀頼の義姉が摂関家に収まるのは徳川家にとってメリットではない

360 :
>>355
偏諱が従属を意味しないなんておかしな話
徳川歴代将軍も諸大名を従属させるため将軍の一字を与え続けてたじゃん

361 :
>>358
じゃあ、使い続ける=従属ではない
>>359
義演准后日記に六月五日に九条や大蔵卿局に物を送っているが、
その中に「江戸の局」にも物を送っている

362 :
>じゃあ、使い続ける=従属ではない
頭の悪い子だな。もともと何を問題にしていたのかすら忘れてるだろ。

363 :
>>362
ああ、将軍就任後にあらためて秀頼の偏諱を貰った者の事か
よく知らないのだが誰がいるの?

364 :
>>351
いや、大坂の陣には真田の兄ちゃんも伊達も毛利も上杉も参戦してるだろ。
来んな、って言われたのは福島正則ぐらいのもの。
そもそも五大老制度ってそれほどカチッとしてものでもないんだよね、もともと。
秀吉自身が、利家が大坂で秀頼を後見し、家康が伏見で政務をとれ、と言い残してる。
で、豊臣家の天下の実務は五奉行が担ってたんだから、五大老の家康以外が
政務に関する判断をしなくちゃいけないケースって何?って話。
利家と家康が険悪になりかけた、徳川と諸大名の婚姻問題についても、「政務は家康
がとる」という太閤の遺言に従えば、「政務」である大名家の婚姻を家康の判断で
行なっても問題ない、とも言えるのさ。
まぁ、毛利・上杉・宇喜多にしてみれば、五大老なのに無視しやがって、と感情的に
面白くなかっただろうけど。
豊臣の天下のシステムの崩壊は五大老の消滅よりも、五奉行の消滅だと思う。
五奉行の消滅で豊臣家には天下を治める事務遂行能力が無くなった。
片桐且元はそれなりに優秀だが、天下すべての統治を行えるほど優秀では
勿論無い。
豊臣家に天下を治める能力がなくなり、徳川家の官僚団が引き継いだ、関ヶ原後が
実質的な徳川家の天下の始まりだと思う。

365 :
>>364
真田信繁は徳川家康の娘(養女)婿で家康の義理の息子。
伊達政宗は徳川家康の息子を娘婿に迎え徳川忠輝の岳父となっている。
いずれも徳川家康の血族だよ。
上杉景勝は召集がなかったにもかかわらず関ヶ原で家康に敵対したことに対する弁明のために
家康に「どうか味方に加えていただき、豊臣家滅亡に加担させてください」と起請文を提出。
半ば強引に兵を率いて上洛し、勝手に家康に参陣した。
大河ドラマで直江兼続が千姫救出をしているので上杉が大坂城攻めしたと思ってる人が多いが
実際に上杉軍が陣取ったのは後方部隊で当時京都八幡山におり、大坂城は攻めていない。
当然上杉景勝や直江兼続が大坂城の千姫を救出するはずもない。
大坂城攻めをしていたのは徳川家血族と譜代大名。

366 :
>徳川忠輝
おいっ!

367 :
>>365
いや、あのな。
嫁もらったからには徳川一族、なんて分け方初めて聞いたぞ。
それだけで全面的に信頼できるんなら、そもそも秀頼自体が
信頼できる徳川シンパってことになるじゃねえか。
無茶だろ、それ。
将軍家からもらった娘が外様大名の子供を生んだら、
次の代は親藩扱いになるわけ?

368 :
外様の藤堂も戦闘に参加してただろ。伊達は味方に攻撃してたし。

369 :
>真田信繁は徳川家康の娘(養女)婿で
兄のほうだろ

370 :
>>367
家康も秀吉存命中は豊臣一門みたいな顔してたぞ
豊臣家の嫁貰って
大坂城攻めには前田みたいな外様は呼ばれてないし

371 :
>大坂城攻めには前田みたいな外様は呼ばれてないし
なんで息するように嘘をついてのけるかなあ。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Osaka_no_eki_winter.png

372 :
真田幸村「だから宇治・瀬田で防げとあれほど言ったのに。」

373 :
>>372
伏見城があるから不可能

374 :
防ぐってよりも野戦にしなかったら絶対負ける。
全戦力で野戦を挑めば勝ち目がないわけでもなかろうに。
一度勝って畿内を固めることができれば風向きが変わったかもしれん。

375 :
秀頼公が前線に御出馬されたらどうなっていたかな?
徳川方諸大名にも動揺が出たかも知れないのだが。

376 :
信長の子供も失敗したんだし
実力が無きゃ駄目なんじゃね。

377 :
>>376
秀忠vs秀頼だったら正直秀忠が上だとは思えんが。
当時は家康がRば秀頼>秀忠ってのは皆が思っていたのでは?

378 :
個人よりも組織
豊臣家の組織はカスだが、幕府は幾十幾百の手足を持つ化物

379 :
織田長益(有楽斎)
関ヶ原後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。
大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。
冬の陣後、和睦を締結させるが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、
家康・秀忠の許可を得て豊臣家から離れた。
織田信包
大坂城で姪孫である秀頼を補佐したが、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死した。
片桐且元による毒殺の噂が流れたが、定かではない。
織田信雄
関ヶ原後は豊臣家に出仕したが、大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身する。
当時、信雄が豊臣方の総大将になるとの噂もあったようである。
後に家康から大名に取り立てられていることから、大坂城内での情報を流す間者であり、
その働きが評価されるほどであったと推察される。

380 :
おじさんやいとこに見捨てられた淀。哀れ。
もっと悲惨なのは、謎の死をとげた信包おじさんだが。

381 :
>>4
ウザイ女どもがいなければ勝てた

382 :
などと思っている人は、ほとんどいない。

383 :
冬の陣で1年間篭城したらどうなったかわからんよ。

384 :
士気が落ちて
裏切り内通が現れ
オシマイ

385 :
>>384
それは徳川方も同じ。果たして兵糧が続いたかどうか。

386 :
自分の領地にいても、大坂城を囲んでいても、飯は食う。
徳川方は半数ずつ兵を帰してもいい。
籠城している豊臣方がきつい。

387 :
>>385
11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じている

388 :
平時と攻城戦で大名の経済的負担が同じだと思ってる奴がいるのか。

389 :
冬の陣は米の収穫時期などとうに終わってるわ。
それに大阪城には10年篭城する力があるんだよ。

390 :
10年籠城して、みんなボロをまとい、甲冑や刀剣も錆び、運動不足で、
老化したり、死んだりするだけ
流行病でもおこればあっという間だわな

391 :
冬の陣では大坂方は兵糧はともかく、火薬は欠乏していた

392 :
城下町を焼かれた後、民は城を出入りして物を売っていたというけどね。
誤解の果てになし崩しに城を囲む形になったってことを徳川側が演出してたから。

393 :
厭戦気分の徳川軍に豊臣方の密書が届けられた。
徳川政権に疑問を感じる大名が続々と撤退をはじめ国許で軍備を整えるのであった。
〜ここまで読んだ。

394 :
小田原城攻めより簡単。
延々と大砲撃ちこむだけで城は壊れるし。
豊臣方の主戦力は知行持ちじゃなくて傭兵だから秀頼以外助命するといえば
上層部はともかく下のほうは最後まで戦わんだろ。

395 :
>>1
>豊臣家が徳川家康を挑発したから
方広寺の鐘銘は挑発と取られかねない とはいえるな
避諱は当時の常識だからな 言いがかりとはいえない

396 :
>>394
夏の陣で豊臣方の方が士気が高かったことは周知の通り。
彼らは行き場のない浪人であったために集まった手負いの虎
調略もしくは降服をするはずがない。
また夏の陣後の残党狩りは凄まじかったことも文献残ってますね。

397 :
逃げ延びた浪人も多いけどね。いつまでも浪人狩りが続いたってことは、瞬殺できず逃げるチャンスが
いくらでもあったことを示している。行き場がなくていつまでも大坂にいたから狩られたんだ。
俺の先祖も大坂城に入っていて、豊臣の蔵入り地の土豪と仲良くなったおかげで助かったようだ。

398 :
冬の陣は、淀・秀頼そろってやる気マンマンだったが
千畳敷砲撃で30人もの侍女のグロ死体をみて淀真っ青・秀頼発狂
とりあえず講和になったが、駿府タヌキーに掘徹底的に埋め立てられて
完全に丸裸になった。
常識的な人間なら、ここで勝ち目なしと判断して降伏するし
おそらく本人らも降伏しようとしていた。
家康も、降伏すれば10万石くらいの小禄で
津軽かどっかに国を宛うつもりだったんだろう。
しかし、真田・長曽我部・毛利の浪人衆が
「城を枕にうちじにじゃー!ゴルァ!!」
「いまこそ豊太閤の恩義に報いるときじゃー!ゴルァ!」と
いきまいて、和平など口にしようものなら
大野治長みたいに半殺しにあう殺気だった状態になっていた。
そこで降伏することも許されず、
不本意ながら開戦。最後の最後だけ、千姫だけ
かわいそうだから助けてあげた。
こんなとこだろ

399 :
福島正則が「あと三年早いか、三年おそければ勝機はあったろう」と
吐いたのが痛いほど正論すぐる

400 :
幸村の突撃シーンが「ランボー 怒りのアフガン」と
ダブってしょうがないんだが

401 :
>>399
家康の戦略眼スゲー

402 :
>>401
単に長寿なだけだよ。
家康が1598年に死去し、秀吉が実姉の日秀のように長寿だったら
どうだったろうな?

403 :
>>402
日明朝がより酷い目にあっていたな

404 :
大野治長って半殺しにされたの?

405 :
和平に傾いて狙撃されたんじゃない

406 :
同じ場所にあった石山本願寺は10年間籠城しても
とうとう落城しなかった(天皇の調停で開城)
大阪城も10年は籠城できたんじゃね?
籠城するうちに、家康くたばって大名のうち
何人かが反旗ひるがえしはじめれば勝機はあっただろう

407 :
>>402
ここは学問日本史板なんだがw


408 :
>>406
本願寺は完全に包囲されたわけではない

409 :
騙されて堀を埋めなければ勝てた。すべてタヌキオヤジの筋書きだ。関ヶ原と同じだ。

410 :
>>406
織田信長は10年間、石山に滞在して石山本願寺攻めだけをやってたわけではないよ。
当時、石山本願寺は信長包囲網に加わっており、
信長は浅井・朝倉攻め、比叡山焼き討ち、長島一向一揆と並行して
石山本願寺を攻めており、そこらじゅうを駆け回っていた。
全国大名を結集させて豊臣秀頼ただ一人の首をピンポイントに狙った家康とは違う。
しかも、強引に大坂城外堀を埋めて秀頼の息の根を止めている。

411 :
>>409
別にダマしちゃいないが
牛歩戦術という姑息な真似をしようとしたのはむしろ豊臣方

412 :
>>411
豊臣方は人数で負けているのだから牛歩戦術も立派な戦術。
豊臣秀吉に右大臣までしてもらい、豊臣家親族としての恩恵を受けたのに
その遺児と愛妻を殺害した徳川家康の罪の大きさに比べたら・・・

413 :
>>412
戦術を見破られて文句つけるほうが無能
後、右大臣は秀吉死後なのだが

414 :
1年がんばったら兵糧続かなくて徳川軍崩壊。
豊臣家恩顧の大名と西軍残党と天草四朗が蜂起。
スペイン艦隊来襲。これで勝てる

415 :
福島正則が江戸城で原因不明の横死
(事実は、発狂して返り討ち)
これを国元の広島が大騒ぎして蜂起
領土の大量削減をうけた毛利も連動して蜂起
東北では、上杉と伊達が勝手にケンカはじめて
収集つかなくなる
家康、胃ガンで死亡確認
という事態になれば、豊臣勝利の可能性もあり

416 :
火薬が欠乏していたので豊臣方は講話に応じるしか無い

417 :
へうげものの最終回は、有楽斎籠城・古田織部切腹でガチだな

418 :
正直、冬の陣の講和は家康の温情あふれる措置だろ
あのまま砲撃つづけて、城ボロボロになるまでやっても
かまわんし、硫黄のかたまりを投げ込んで大阪城炎上
させることもできたわけだし
それをしなかったのは、千姫もいたけど秀頼・淀君を
Rにしのびなかったからだろ
完全に抵抗する手段を奪って、むこうから降伏してきたなら
とっとと許していた
大阪城退去というのも、手の付けられない浪人どもと
親子を放す算段だろ、げんに淀殿が「下向してもよい」と
いってるのに、反対したのは浪人連中
すべての害悪は、冬の陣開戦前にまねきいれた
無頼の徒 こいつらが豊臣家を滅ぼした

419 :
秀頼が生き延びて天皇が幼少だったら
摂政になったのかい?

420 :
>>419
徳川家康は秀頼に官位をやるつもりなんかない。
講和条件でも秀頼は高野山で出家、淀殿は江戸へ人質だと言ってただろ。
まあ、豊臣秀吉が秀頼15歳まで生きていたら秀頼は摂関だったろうが。

421 :
>>418
家康は難攻不落の大坂城を攻めあぐねての講和だよ。
秀頼を生かしておこうと思って講和したのではなく、むしろ逆。
徳川軍の消耗を押さえ、一気に秀頼をRために和睦した。
実際、講和と見せかけて外堀を埋めたから、大坂夏の陣では一気に秀頼を殺せた。
それに、家康も秀忠も千姫の命など徳川家興隆のためならば毛とも思っていない。
冬の陣で淀殿の侍女が徳川方が打ち込む大砲で玉砕したが、
当然、淀殿が住む奥御殿に千姫も住んでおり、千姫玉砕も構わずとして打ち込んでいた。
むしろ、千姫が大坂城から生きて出てきて意外だったというところだろう。
大坂城を攻めれば千姫は秀頼と一緒に自害だと言われたところで攻めただろうし。

422 :
>>421
家康は相手が屈服して、反抗の要である大坂城の堀を破却すればそれで良しなんだが

423 :
>>422
関ヶ原で西軍についた武将たちの末路を見れば
それですんだわけがないだろ。
徳川の世を盤石とするために秀頼は生かしておけなかった。
ましてや、幼児の国松まで殺している。

424 :
家康は朝廷が授けた秀吉の神号を廃棄させ
豊国神社と豊臣秀吉の墓まで破壊しているからな
いくらなんでも死者に対してやり過ぎだろう

425 :
>>423
さあ、島津の例もあるし
国松は夏の陣まで至ればそうなるだろうとしか
>>424
家康の豊国神社廃絶の真意は、秀吉を大仏の鎮守神にする為と「駿府記」にある
そもそも豊国神社は豊臣家守護を目的としており、その豊臣宗家が滅んではその存在意味も消失している
という理屈も成り立つ

426 :
家康の晩年って僅差で勝ってるよな
ちょうどワシズvsアカギみたい
関ヶ原にしても、小早川のガキが
西軍に寝返ってたら確実に負けていたし
大阪でも、冬の陣でもうちょっと
籠城が長引いていたらどうなっていたかわからん

427 :
>大阪でも、冬の陣でもうちょっと
>籠城が長引いていたらどうなっていたかわからん
砲撃が早まるか、城内の建物が全てが瓦礫になるかだけで、史実と同じ結末。
むしろ淀を肉塊にすれば勝利は早まってたんじゃね?

428 :
すべてタヌキオヤジの筋書きだ。

429 :
>>427 でもそうなるとわざわざ和議にした理由がわからんよ

430 :
へうげものが国松を匿っていたというのは、
ネタだよな。家康って、古田嫌いだったのかな

431 :
へうげもの、「安土盛り」をブチまけられるシーンがあるから
家康とは馬が合わなかったんだろ

432 :
秀頼は薩摩に逃げた

433 :
細川のバカムスコも身代わり立てて生き延びたらしい

434 :

 後藤又兵衛は、道明寺合戦で死んでるから、
 これはウソくさいな
大坂の陣で死亡 ----------------------------------------
家康は大坂夏の陣で戦死して
その後の1年間は影武者であったとする説もある。この説によると、
真田信繁(幸村)の奮戦により恐慌状態に陥った家康は自害すると
叫んで部下に誡められ、駕籠に乗せられ逃亡中に後藤基次が家康
の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺の寺に運ばれてそ
こで死亡したとするものである。家康の代役として小笠原秀政が選
ばれ、その後正史で家康が死んだ時期まで影武者として家康を名
乗っていたと言われる[5]。
堺市の南宗寺に「家康の墓」と称されるものがあり[6]、その説を裏
付けるものとして語り継がれている。南宗寺に徳川秀忠・家光が上
洛した際に自ら参拝していることや、東照宮[7]が勧請されていたこ
ともその傍証とされることがある。


435 :
南宗寺って、古田織部・沢庵とか反体制派の
拠点になってたから家康の墓をシャレでつくったんだろ

436 :
秀頼が臣下の礼を申し出たら、Rに殺せない
家康の人望は地に落ちる

437 :
真田幸村って、九度山にこもってたときに
栄養不足で禿て歯抜けになってたっていうから、
天王寺の戦いは、イメージでいうと横山弁護士が馬に
のって発狂しているって感じ

438 :
>>437
そりゃ怖いなw
家康も逃げ出すわけだ。

439 :
でもたしか徳川家康も歯がなくて入れ歯でものを噛んで
ご満悦だったことが史料に残ってるんだよね
大坂の役のとき家康は70歳超えてたから口もごもごで指揮とってたはず

440 :
当時の70過ぎじゃ、最前線に行くだけでも
かなり驚異的な体力だな。

441 :
小笠原なんたらが代役やってたんだろ

442 :
大阪冬の陣の直前に家康が死んだとしたら、各大名は将軍秀忠に従っただろうか?
それとも秀頼が豊臣家権威復興を成し遂げ、豊臣方に離反する大名家も出ただろうか?
秀頼関白職就任の可能性も生まれただろうか?

443 :
夏の陣の翌年に家康が死んだので、もう少し豊臣側も待っていたら天下の情勢も変わっていたろうに
と思われがちだけど
家康が翌年死んだのも、冬と夏の陣からくる過労死じゃないの?
合戦が無かったら、家康は何歳まで生きたんだろうか?

444 :
逆に1616年に島津か上杉が反乱
おこしたら寿命が延びただろう
あのタヌキは野戦キチだからw

445 :
久能山に葬儀しておきながら
あとで東照宮に改装してんだよな。
2回も葬式やったのは、影武者の可能性がある

446 :
>2回も葬式やったのは、影武者の可能性がある
秀忠が葬式饅頭をもう一度食いたくなったからだという説がある。

447 :
天海の陰毛

448 :
天海ってたんなるバケモノだろ 

449 :
天海って天台の大僧正の資格もってたんか?

450 :
崇伝が金地院崇伝なのに
天海は寛永寺天海と呼ばれない、なぜ?

451 :
寺は公共施設、塔頭は住居という曖昧な線引きのためかもね。

452 :
>>450
崇伝は南禅寺の住職を勤める僧。
金地院は南禅寺の塔頭で崇伝が住んでいた住居(僧坊)の名前。
法号としては以心崇伝であり、金地院崇伝の名は
「金地院に住んでる崇伝という坊主」程度の意味。

453 :
中国では塔頭・僧坊は高僧が増えた都度作られる一時的な施設に過ぎないけど、
日本ではも恒常的に置かれるようになって寺と院は区別が曖昧になってるんだよな。
○○山××院などとつけられたりして。

454 :
浄土宗の総本山知恩院は、正式には華頂山知恩教院大谷寺というらしい。
なんで院が寺よりも先に来るのやら。

455 :
>>453
明治時代に僧坊が全部独立して個別の寺になったかららしいよ。
>>454
本寺で寺号の前につけられる院は僧坊を表す院とは違う意味。
もともと寺号だけだったものが(奈良時代以前創建の寺はその後山号を付けたものを除き
基本的に寺号だけのものが多い)やがて寺号の前に山号がつくようになり、
さらに時代が下がると山号と寺号の間に院号を挟むようになる。
この場合の山号や寺号は教義を意味したりゆかりの建物に由来した美称みたいなもの。
僧坊を意味しているわけではない。

456 :
急に勉強になるスレになった
でもなぜか午前中

457 :
タヌキのフェイク墓が南宗寺にあるんだよな

458 :
>>442
豊臣恩顧の大名も殆ど死んでるし
徳川家の石高は他を圧倒してるし
豊臣家滅亡は避けられなかったろうね

459 :
wikipedia 須恵器より
須恵器
須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(b器)である。
青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、土師器より高級な品として扱われた。

460 :
ごめん、誤爆した。

461 :
家康が死んで大阪の陣が起きなくても豊臣は結局ジリ貧で一大名になるか滅びるかの二択。
全ての権益が幕府に没収されたから大量の資金は持ってても収入は60万石と大阪の商業権。
商業権を維持するためには幕府との対立が避けられない。
穏便に済ませたければ大阪退去か封土を放棄して公家として生きるか。

462 :
>>461
家康に秀頼を一大名として残すつもりなど毛頭なかっただろ。
家康はあの年まで孫のような年齢の秀頼一人をRために
執念で生きていたようなものだ。
秀頼を殺害して徳川安泰となるとさっさと翌年死んだからな。

463 :
ほんとは徳川としてもあまり抵抗してほしくなかったんだよなー・・・豊臣家orz 

464 :
豊臣は生き残る道を自分で潰したんでしょ。
地方大名に転落した時点で素直に恭順してれば家康も潰しようがなかった。
将軍に対抗するように行動してりゃそりゃ潰される。

465 :
織田信雄と同じで、蚊帳の外で勢力固めをされたから状況の変化が読めなかったんだろう。

466 :
>>464
そこまでして生き残りたくなかったんだろ。
織田家のように一家離散の小大名としてなら生き残れた可能性もあるが、
なぜ織田家の子息たちは秀吉や家康に反逆しなかったかというのもいつも言われていることで。

467 :
生き残る意思があっても潰されてたとは思うけどね。
織田は地方の強い武家ぐらいだけど
豊臣は賜姓も受けたちょ〜強大な一族。
豊臣の意思はむつかしいけどどっちみち
アウトだったろ〜な〜。

468 :
だな。
「国家安康、君臣豊楽」程度で
「家康さまを呪った、憎き秀頼殺してしまえ!」とやってるくらいだから
たとえ恭順してても理由付けて殺しただろう。
せめて事前に恭順してくれて、秀頼が大坂城から出て小大名に落ちぶれててくれれば
家康としては非常に殺しやすかったのに、って程度だろう。

469 :
釣りかな。

470 :
いや、細かい研究で豊臣の挑発というのは
わかるけどそれとは別に徳川はやる気まんまんということね。
国家安康の前にもチャレンジしてるでしょう。
あの時点で徳川にマジ狙われたら大変だったろうなという話。

471 :
結局、織田は一族がたくさんいたから何人か殺されても残りが一族を伝えることができたが、
豊臣は秀頼しかいないから秀頼があぼんしたらそれで終わりってことでしょ<残れなかった理由

472 :
まあね。
北の政所系の木下氏は残ったしね。
こっちも本姓は豊臣氏ということだけど。
秀長も小無しで養子の秀保も子無し。
日秀の系統は秀次切腹、秀勝は女子のみ。


473 :
家康の目的は秀吉の男系直系の抹殺だったろうから
それで十分。
タラレバだが秀吉がポコポコ男の子に恵まれてたら違ったろうなぁ。
もっともそれだと織田家家臣の立場から考えないといけないだろうが。

474 :
>「国家安康、君臣豊楽」程度で
>「家康さまを呪った、憎き秀頼殺してしまえ!」とやってるくらいだから
 当時から為政者の名を碑文などに
 使うのは忌避されていたから、これは
 豊臣側の挑発行為と受け取られてもしょうがない。
 たぶん秀吉の時代に徳川が同じ事
 やってても、戦争になってたろう

475 :
>>464 
夏の陣の前に、淀殿は江戸に人質にいってもいいって
いってたんだよね。なぜか秀頼が反対したけど。
まあ自業自得だろ こうなったら

476 :
茶々は本当にそう言ったのかな。
秀吉も母を人質に出してるから歴史は繰り返すだよなぁ。

477 :
「国家安康」は、今で言えば
暴力団の事務所に「うんこたれ タマどこにつけとんねん」と書く
くらいの自殺行為

478 :
>>476 大政所は、三河でよってたかって手込めにされたから
     それを聞いた淀殿はかなり警戒していたのだろう

479 :
>>478
大政所は骨の髄まで庶民だから乱交を当然と考え、若いイケメンを見るたびに迫っていた。
決して三河者の側の責任ではない。
とかな。

480 :
>>474
国家安康、君臣豊楽という言葉自体は古くから中国にある言葉だよ。
勿論、この8文字だけが鐘に刻まれたわけではなく、
鐘全体に印字された膨大な漢文の中のごくごく一部。
鐘は現存しているが非常に小さな文字の羅列で、
一般人は鐘を見たってそんなもん書いてあることは分からんよ。
そりゃあ、天海が家康の命令によって何とかして
物凄い執念で探し出したものだと思うよ。

481 :
>>475
淀殿が言ったか言っていないかは史料に残っていない。
また、徳川家康が淀殿を人質に要求したという史料も残っていない。
(片桐且元が家康の怒りを鎮めるためにそうするべきではないか、と進言をしたという史料はある)
秀吉の死の直後、徳川家康と前田利家が敵対、あわや戦かという最中に前田利家が没した。
続く前田利長を徳川家康は攻め滅ぼすべく加賀出兵を開始した、その最中、
利長は自分の母親のまつ(芳春院)を人質に差し出して助命をこい、家康はこれを許した。
しかし、前田家などはもともと秀吉政権時代にも徳川家より格下だった家。
徳川家康と徳川秀忠が臣従の誓書を出した豊臣家が淀殿一人の人質と引き換えに
豊臣を許したとはとても思えない。

482 :
>>480
そういう言葉があろうがなかろうが、権力者の名前の文字を使うのは遠慮しろ、って話だよ。

483 :
>>482
銘文は豊臣家が考えたものではなく、東福寺の僧侶が考えたもの。
豊臣家は鐘の金を出したにすぎず、これをすべてチェックするのは相当大変だ。
そもそも、日本に数ある合戦の中でも僧侶が考えた鐘銘を理由に
金を出した人間を殺してしまえと正当化したことはこの事件のみだ。
この銘文を書いた東福寺の僧侶は天海のライバルだったらしい。
鐘銘事件を機に、この東福寺の僧侶は江戸幕府の命で追放されており、
天海にとってはライバル蹴落としの意味もあったことは確からしい。

484 :
>>483
別に殺せとは誰も言っていない
徳川家がこの件について、明確な形で豊臣家に謝罪以上の行為を求め、
片桐がそれに対して、三条件を豊臣家に提案し、
それに激怒した豊臣家が片桐を誅殺しようとし、
徳川家からも録を得ていた片桐の誅殺を、徳川家に対する反逆と捉え、
徳川家、豊臣家が反逆したと判断した

485 :
後、清韓は臨済宗の僧で、天台宗の天海とは関係ない

486 :
>>484
家康は片桐と大蔵卿局の両者にあっているはず。
片桐は家康の使者でもなんでもないんだよ。
家康は片桐の豊臣家からの離反を狙ってあえて厳しい態度で接した、
そして大蔵卿局に対しては甘いことを言って豊臣家を攪乱させた。
結果、片桐は豊臣家から出て行かざるを得なくなっただけ。
>>485
鐘銘文起草者の文英清韓は家康参謀で金地院崇伝の同僚。
東福寺の前には崇伝が住職を勤める南禅寺に勤務していた。
鐘銘事件には金地院崇伝がかかわっている。

487 :
>>486
且元は家康から知行をえているので、家康の家臣でもある
秀頼が且元に加増しようとした時も、家康に憚り断ったが、家康の許しを得て受け取っている
この且元を許しなく誅殺しようとしたことは徳川家に対する反逆を意味する
>>487
崇伝は鐘銘事件について家康から尋ねられるまで、全く与り知らなかったことが彼の日記に
ある且元への書状に書かれている

488 :
これ両家の立場が逆でも国家安康、君臣豊楽とは
家康の繁栄を願い豊臣の姓を分断する呪詛だ、けしからんとなったのかな

489 :
>>487
この時期の大名はすべて徳川と豊臣に両属している
片桐は関ヶ原で家康についたから知行を安堵されていただけで
徳川家康だけに所属する家臣ではないのは明らか
豊臣にも属している以上、豊臣家が生殺権を持つのは無理からぬ話

490 :
>>488
平和な時代にそれをやっていたならば戦になるはずもない

491 :
>>474
鐘銘事件さえなければ豊臣家は80万石近い所領を安堵されたまま、
温存されていたとでも信じている人なのかな?
どこまで家康を買い被ってるんだ。

492 :
>>491
時期の問題があるだろ。
鐘楼事件がなかったら、豊臣が健在なまま、家康は死んじゃったかもしれん。
秀忠じゃあ、外様の皆さまが素直に従うかどうか。

493 :
>>489
全然していない
あくまで諸大名は徳川に臣従している
笠谷氏の論は見当違い
また、且元は徳川家の元で摂津・河内・和泉の国奉行を勤め、
駿府に屋敷も拝領していた

494 :
方広寺については徳川家もかなり関与しているのに、それを無視して豊臣家のみに
帰そうとすることにも不快感を募らせている

495 :
>>492
家康の死期が近いから何としてでも秀頼を殺しておきたかったのならば、
理由は鐘銘じゃなくても良かったわけだ。
鐘銘事件さえなければ徳川は豊臣を生かしておくつもりだったとなぜ言い切れる?
他の理由を付ければ済んだこと。
>外様の皆様
有力外様の皆様には政略結婚で秀忠の実娘と秀忠の義姉妹(家康の養女)が
ねじ込まれてただろ。
秀忠は血縁者すら粛清しており、ある意味家康以上に強硬。

496 :
>>493
おいおいw
片桐且元は豊臣恩顧の外様大名だぞ
関ヶ原でも西軍に属し、家康と敵対している
その後も主に秀頼の側から家康との調停役に当たっている
どうやったら家康腹心の部下になるんだ

497 :
面白くなってきた。
489の関が原で家康についた、というのはどう説明する?
笠谷論はどうなる?

498 :
>>487
豊臣家が片桐且元を誅殺しようとしたとかw
且元が交渉決裂で自分の城に帰っただけだろ
どんな歴史小説を真に受けてるんだ

499 :
>>496
慶長6年1月28日に家康から加増されたときから(家康代官の知行書立を貰っている)

500 :
>>498
9月28日付
本多忠政宛板倉勝重書状
10月2日
藤堂高虎宛本多正純書状
より

501 :
板倉勝重って鐘銘を家康に報告した奴だろ?
戦功をはやるあまり豊臣家のあらゆる悪口を報告してたわけで
すべて史実とできるのかよ

502 :
徳川家康は豊臣家が誅殺しようとした片桐且元の命を助けるために
それを理由として豊臣秀頼を攻めたって初めて聞く説だな。
どの学者が言ってるの?
しかも、家康がそこまでして命を助けたかった片桐、
豊臣がなくなれば家康にとって用無しとばかりに
大坂城落城後、不審死してるしな(自殺か)。

503 :
>>501
他には「駿府記」「当代記」にも記述がある
「梵舜日記」にも22日に且元を尋ねた時、且元の室が恐怖していたとある
>>502
違う、徳川家が知行を与えた且元を誅殺しようとしたことが
徳川家への反逆を意味したから

504 :
>>501
後、最初に鐘銘に問題があると家康に告げた人物は不明

505 :
文英清韓と崇傳坊主の出来レースだったんじゃね?
わざと不吉な文字が入っている文章を選んで、
鐘が完成してからいちゃもんつけた

506 :
城が落ちたあとに且元と織部が切腹しているな

507 :
>>505
それ以前から、開眼供養や堂供養の日付について意見の相違があった

508 :
>>507 わざと対立しているようにみせかけて、裏で豊臣を
     ひっかけるように画策してたんだよ

509 :
>>508
豊臣家の日付は秀頼の意思

510 :
>>488
反対の立場なら避諱にあたらない

511 :
>>495
>他の理由を付ければ済んだこと
こんなに簡単ではないから、鐘銘事件で無理矢理難癖をつけたんだよ

512 :
>>509 秀頼が金の文章ぜんぶ読んでるとはいえないな

513 :
現在は鐘銘だけが取り沙汰されるが、他にも棟札や日付等の問題があった

514 :
豊臣家以外がこんな鐘つくっても文句言ったと思えんだろ?
「家康を挑発するような鐘作ったのに気づかなかった豊臣が悪い」といってる家康厨ってw
そもそも方広寺は秀吉の命で建造が始まり
豊臣家の大老筆頭であった家康も金を出していて共同出資者に名を連ねている
鐘の銘の責任は家康にもあるのに

515 :
会社役員が不祥事を起こして会社に多大な損失を与えた場合に、
出資者である株主は役員の責任を追及する権利がないってか。

516 :
豊臣秀頼も方広寺の出資者、方広寺の株主だからな
家康と立場は同じ
秀頼は方広寺の寺の住職じゃないし

517 :
>>514
だから鐘銘だけの問題でないと何度言わせるつもり

518 :
共同出資者である家康に無断で豊臣が銘を決めた。
なんで家康に共同責任が発生するというのか。

519 :
>>517
且元騒動も家康が仕組んだものだろう?
なぜ家康は大蔵卿局には会ったんだ?
善良至極な徳川家康公が、悪人豊臣秀頼を我慢に耐え兼ねて
殺害したという風には取れないんだが?
片桐且元が徳川家康の腹心の部下であり、家康が且元助命のために
秀頼を殺したというのならば、且元は家康によって大藩にでも取り立てられ、
何も大坂の役の後不審死することもないだろう。

520 :
>>518
なら、方広寺に文句を言うのが本来の姿。
秀頼は方広寺のパトロンにすぎず銘をいちいち調べてねーよ。
家康がやったのは会社の経営責任を社長や会長に問うのではなく、
同じ株主に対して「俺は株主だが、チェックしなくても責任なし。
だけど、同じ株主のお前がチェックしないのは死罪に値する、弁明して謝れ」
といちゃもん付けた言ったってこと。

521 :
>>519
何故と言われても、そりゃ何度も遣り取りしている且元と違い、
この件で初めて下向した大蔵卿局が来たら会うでしょう
それに家康は且元と大蔵卿局を同席させて、正純や崇伝に
自身の意を伝えている
後、且元は当時の記録では病死と明記されている

522 :
>>521
大蔵卿局と且元に対して家康が言ってることが違う点は?
大蔵卿局に対しては豊臣家の謝罪など一切求めてない。

523 :
>>522
両者へは「家康・秀忠を調伏するという風説に対する秀頼の意思は何か」
と言う同じ内容を伝えているが(『駿府記』)
内容が違うというのは俗説に過ぎない

524 :
>>517
家康は大坂夏の陣の後、文英清韓を方広寺鐘銘の件でとらえているから
これが不問だったはずはないだろ

525 :
>>521
且元は方広寺の普請奉行。
方広寺建造の総責任者であり、方広寺に何らかの不手際があったならば
本来、家康から切腹を命じられてもおかしくない。
しかし、且元は逆に豊臣から命を狙われ、
これを助命するために家康が動いたという説がおかしい。
この件に関しては豊臣方の史料は一切残っていないわけだし。

526 :
>>524
鐘銘はあくまで複数ある問題の一つ、何度も言わせるな
>>525
且元が豊臣から命を狙われた原因は三策(秀頼下向、淀殿下向、大坂転封)を提案したから
後、家康が動いたのは助命でなく、知行を与えた且元が勝手に殺されるのは徳川家の沽券に関わるから

527 :
>>526
豊臣秀頼が且元に切腹を命じた史料は?
豊臣に悪意を持つ京都所司代の手紙しか残ってないわけだが。

528 :
>>527
>>500
>>503
後、切腹でなく誅殺

529 :
>>528
それだったら且元が豊臣に殺されてから攻めたほうが
徳川家の正当防衛になっただろう。
家康は秀吉に対抗した時も秀吉に内通した織田信雄の家老を
殺害しているからな(まあ、命じたのは信雄だが)。
結局は「誅殺の可能性」という口実なんだよな。
実際に且元は殺されておらず、当時の豊臣家に
且元を攻め滅ぼすほどの力があったと思えんから。

530 :
>>529
何だ只の陰謀論者か、話に付き合って損した

531 :
三家老殺したのは家康・・なにか書状とか出てきたのか・・?

532 :
陰謀だろうが難癖だろうが、
言われた時点で抗弁できないほど政治的に弱体化していた豊臣が悪い。
そういう時代じゃないの?

533 :
2人の使者に違う態度を取ったのは初歩だがうまいやり方。
豊臣から見て「家康怒ってね〜じゃん」のところに「直接あやまらないと」
なんて言ったらそりゃ「はぁ」となる。
ましてや旧臣とはいえ徳川の家臣でもあるから疑いをもたれても仕方ない。
片桐は「やられた、家康ひでぇ」と思ったろう。
ただそうなると大阪城から出るのは当然として家康の下にも再び戻りにくくはある。
このあたりの微妙さが急死につながってはいるんだろな、と。
家康から見て片桐は「いつか利用してやろう」というぐらいの存在だったか。

534 :
>>531
信雄が同盟者で作戦決行の実質的責任者徳川家康の助言なしに
勝手に家老を殺して秀吉に宣戦布告するわけないだろ。

535 :
>>534
陰謀論なら家康じゃなくて秀吉が三家老を
うまく篭絡したというのが普通じゃないか。
家老たちが本当に秀吉とつながってたかも
確定しないし家康は家老たちをR必要もないだろう。
逆に自分が不利にならないか、それ。
それと家康が秀吉といつから対抗したかは難しい問題。
それまでは両者は別に敵対してないし逆に仲がよかったぐらいだ。
あくまで秀吉が上野城の件とか信雄を挑発しただけだろう。

536 :
>>533
それは俗説

537 :
>>536
一応事実を元にしてるんだが。
どっかおかしいか?

538 :
>>537
違う態度をとったという点
確かにこの時は且元に家康は会わず、大蔵卿局には会っているが、それ以前より且元は何度も会っている
一方、方広寺の問題で大蔵卿局が下向したのはこの時が初めて
また、家康は崇伝や正純を介して、両者に家康・秀忠を調伏したという風聞に対する秀頼の考えを聞く様にと同じ内容を伝えている

539 :
>>538
細かいが、初めて会った使者と家臣のような立場では
同じことを言われても受け取り方が違うだろう。
イエスマンみたいな大蔵卿と気をきかした優秀な部下の
片桐では秀頼への答え方も違ってそれが片桐のみが
命を狙われた理由だろう。
片桐からすると、どうして自分だけが命を狙われるか
不思議だったのではないか、そしてその理由は大蔵卿との
秀頼への答え方が違ったから、と考えたとすると家康が
大蔵には自分と違うことを言ったのではないか、と
思ったのではないかということ。
崇伝や正純を介してるから余計にややこしい。
徳川方の記録では、公平、になっていても結果的に片桐のみが
不利益を被ったのならやはりそこになにか不公平があったのだろう。

540 :
>>532
むしろ弱体してたのに気がつかなかったのが悪い。
徳川から大阪明け渡せって申し入れがあったときに素直に従って
秀頼が秀忠に土下座してれば前官礼遇として前田と同程度の格式の大名になっただろ。

541 :
正直事を起こすのに時機が悪すぎたというのは否めない。
家康の3条件でも、次のような対応が可能だったはず
 ・秀頼参勤交代 → 恩顧の大名を引き連れて威光を江戸に示す
 ・淀殿人質    → 厳重な警護をつける 万が一何かあったら幕府の責任
 ・転封       → すなおに受け入れる、カネが余ってるから石高は二の次
こうして懐柔策で放置しておけば、家康がくたばって
恩顧の大名の福島あたりが与してくる。あとは、取りつぶし
寸前の大名や毛利・上杉あたりを味方にして
京都を占領。朝廷に征夷大将軍任官の取り消しと、
関白職就任を強訴すれば、あるいは天下はひっくりかえったかもしれない

542 :
>>540
前田はもともと豊臣政権時代から徳川よりも格下だった大名。
一方、豊臣は徳川家康・徳川秀忠、ともに一度は服従の誓書を提出し
臣下となった元主君の家。
扱いが同じであるはずがないだろ。
家康はたとえ助命させても小藩大名で生涯徳川家直轄領の京都に監視付きで軟禁し
任国へ一切下らせなかった織田信雄程度にけちょんけちょんにはするはず。

543 :
家康に狙われたら助からないだろう。
単に意地とか先を見通す目がないとしても
最後の勝負をかけるしかなかった。
その最後のチャンスがあったとことが秀吉の
ラストパワーだったか。

544 :
本多正純を金銀で雇ってれば
豊臣家は存続してたかもな

545 :
>>539
大蔵卿局がどの様な返答したのかは一次史料では確認できないんだよね
『譜牒余録』の片桐氏の項では三策は帰洛の途中で且元と大蔵卿局の会議で
且元が提案し、それを聞いた大蔵卿局が先に大坂に戻り偽りも交えて讒言したとある

546 :
片桐且元も、大阪城爆撃のときに千畳敷と奥御殿の
淀・秀頼の居所を家康に教えてるから相当怒ってたんだろ

547 :
大坂の陣が起きたのは豊臣家内の穏健派と強硬派の乖離が大きく
その上、秀頼と淀殿が後者に迎合したからに他ならない

548 :
>>545
まぁ正確に何をどういったなんてのは記録からは確認
できないから片桐が殺されかかったとか使者が2人いたとか
そういう確実な事実からの話なんだけどね。
片桐としては戦ったらやられるから正直に臣従の道を
申告しただけなんだろうがそれを「裏切り」みたいに言われては
たまらんちん。
先に出た信雄の家老殺しもだがアホ殿というのはまず
内部からおかしくなるというのはよくある話。

549 :
への突っ張りばかりやって
持久戦に持ち込めなかったのが豊臣家の最初の誤り
つぎに有り余る金銀をつかって、浪人を
かきあつめたのが最大の誤り

550 :
金の使い方まちがってるよな

551 :
>>541
アハハ(笑)

552 :
>>548
「秀頼は出家させられても処刑されても徳川に臣従するべきだった」
というのは疑問だな。
徳川に臣従さえすれば家康は加賀100万石程度の厚遇で秀頼を迎えたなんて根拠がない。
それこそ、且元の意思に従って秀頼と淀殿が生きるも死ぬも家康次第で大坂城を出たら
家康によって磔にされた可能性だってあったのに。

553 :
家康が名家として豊臣を残すつもりがあったのならば
国松に捨て扶持でも与えて存続させることもできたのに
これも8歳で斬り捨ててるからな。
秀吉の墓を破壊し、神号剥奪、豊国社破壊など
家康は徹底的に豊臣家破壊をやっている。

554 :
>>553
そりゃ夏の陣までしたら族滅だろうよ
後、秀吉の墓の改葬・神号剥奪・豊国社破却は秀吉を大仏の鎮守にする為

555 :
>>552
そう思うよ。
だけど片桐からすれば「戦いましょう」なんて言えないでしょう。
秀吉のやったのと同じことをすればいいんだし
家康から人質をとればいい。
そういう駆け引きは自分がするから後は秀頼がうまく指示をだして
くれればいい、とそんなとこじゃなかったかな。
片桐の意思に従う、んじゃなくてあくまで決定権は親子にあるわけだしね。

556 :
というか、三策を示しただけで殺そうとする豊臣家は末期状態かと

557 :
あの親子だけだったんだろけどねぇ。

558 :
当時の豊臣家中枢は外戚・閨閥で構成されていたと言っても過言ではない
そりゃまともな判断も出来なくなるわな

559 :
>>554
徳川家康は秀吉の墓の破壊をしただけで改葬などしていない。
現在の豊国廟が整備されたのは明治に入ってから。
しかも、秀吉は大仏の鎮守になどなっていない。
方広寺も江戸幕府によって境内に妙法院が強制的に移築されて
その管理下に置かれていた

560 :
>>556>>558
「且元を殺そうとした」と連投する常駐家康厨の連投w
徳川方の史料にしか出てこないんだがな

561 :
>>559
元和二年八月六日付妙法院宛板倉勝重書状に妙法院に豊国社の宝物や蔵を移すと共に
大仏殿の霊場に石塔を立てることを命じている
また、現存する墳墓の地石には元和元年八月十八日の刻印がある
後、方広寺は照高院から妙法院に替えられたという形
家康の秀吉を大仏鎮守とするとの意は『駿府記』より

562 :
>>560
「徳川の史料にしかないから嘘だ」という典型的なレッテル張り
『梵舜日記』にも且元の妻が恐怖していたとある

563 :
>>562
風聞を証拠にされてもな。
藤原伊周が藤原彰子を呪詛したのは史実、
豊臣秀頼が徳川家康を呪詛したのは史実だと言う人なのか。
当時の日記には徳川家康が淀殿と
大坂城において結婚したという記録もあるしな。

564 :
>>561
豊臣秀吉の阿弥陀ヶ峰の墓は徳川家康によって破壊され、
秀吉の遺体は地中に放置されているが?
あとから妙法院が秀吉の遺体を掘り当てて供養し、
明治政府によって豊国廟に葬られている。
遺体が改葬された事実は一切ない。
大仏殿後に残る宝塔は徳川家康により豊国廟が破壊された後、
怨霊封じのために供養塔を建てたものと推測されるが、
家康が「秀吉の新たな墓」と称したものでないことは明らか。

565 :
面白くなってきた。
宝塔は建てたが改葬とまでは言えないということか。
大仏鎮守も駿府記の記録をどうとるか、ということか。
史料だけでは560みたいなツッコミが入るし
史料を少しでも読み変えるとツッコミが入るし
2ちゃんは気楽でいいとこだ。

566 :
>>563
いいえ、梵舜が大坂へ出向いたときの記事です
>>564
その史料をお願いします
こちらは『妙法院文書』と『大正十二年往復』にある秀吉墳墓調査回答を基にしました
後、墓であることは『妙法院文書』に『墳墓』『石塔』『仏事勤行』とある
また、仏塔も通常の五輪塔
また『駿府記』では大仏回廊裏に遷すと明記してあります

567 :
>>566
おかしいな。
家康が秀吉の遺体を改葬しなかったのはなぜ?
「妙法院」は後から秀吉の遺体を独自に掘り返して供養している(徳川家の指示ではない)。
同じく江戸時代に妙法院配下に置かれ、徳川家康に破壊された豊国社の跡地に強制移住していた
新日吉神社が内密に豊国大明神を祀ってきたこともある。
これらはいずれも徳川家の指示ではない。
で、これらが家康の指示だったという史料は?
妙法院がこっそり行った処置と家康の指示を取り違えてないか?
(遺体を掘り返し妙法院が供養した史料は「妙法院文書」他)

568 :
>>554
死んだ人を祭神にして神社に祀ることはあるけど、
大仏の鎮守にした例なんてあったっけ?
豊臣秀吉の神号、豊国大明神はそもそも朝廷から貰ったものだが
これを家康が私に廃棄した真意は何だと思ってんの?

569 :
>>567
『妙法院文書』は元和二年八月六日と明記されている
これは伊賀守の名だから京都所司代板倉勝重であるのは間違いない
また、石塔の銘文も元和元年八月十八日とある
その場所も明治に再建された豊国神社(大仏殿と同位置)本殿の背後
南隅と『駿府記』の家康の指示と一致する

570 :
>>568
神号が廃棄されたという記録はないな
豊国社破却にいつの間にか神号破棄も加わったんじゃない

571 :
なお、「秀吉の大仏造立」という本によると元々、豊国社は大仏の鎮守となる予定だったようで
その神号も当初は八幡大菩薩を望んでいたらしい

572 :
やっぱり、方広寺事件は、徳川が豊臣を潰すための言い掛かりだと思う。

573 :
徳川が豊臣を屈服させる発端としたのは事実であろう
しかし、同様のことは秀忠将軍就任時より何度も行われており、
方広寺の一件もその一つと見るべき
ちなみに家康にとっても方広寺の大仏はかつての頼朝による
大仏再建を擬えた行為であり、彼としてもそれを欲していた

574 :
家康は秀吉を祭神とし全国各地にあった豊国社はすべてぶっ壊したが方広寺大仏は残した
方広寺大仏の製作者は豊臣家ではなく徳川家康に置き換えられ、
本来、京における徳川家の象徴になるはずだった
しかし、江戸時代の洛中洛外図屏風に方広寺大仏は豊臣家の象徴として描かれる
右端に豊臣家の方広寺大仏、左端に徳川家の二条城というのがお決まりのスタイル
都の人たちは豊臣家滅亡後も徳川に対する存在として豊臣家をとらえていたことがわかる

575 :
大坂の陣前はそうするつもりだったけど、その後はその気は無くしたと思う
そうならば大仏の鎮守に秀吉を祀ることもしなかっただろうし

576 :
妙法院は隠れて秀吉の供養をしてたらしいが。
秀吉の供養に江戸幕府が出資した記録もない(そもそも出資するはずもないが)。
方広寺は豊臣家滅亡後、明治維新まで、住職も置けず寺号も廃止されていた。
豊臣家滅亡後の大仏は「妙法院大仏」であり一般人は「京の大仏」と呼んだ。
徳川家としては豊臣の残骸を隠していたとみるべきだろう。

577 :
方広寺の寺号を廃したとか住職が置かれなかったとは初耳
京の大仏が幕府の物になったのは寛文7年の再建時からかと

578 :
大坂夏の陣の後、妙法院が家康の命によって方広寺の場所に移された。
(秀吉が大仏供養に用いた方広寺所属の大仏経堂が、
現在は妙法院の庫裏になっている)
このとき、三十三間堂や方広寺は妙法院を構成する塔頭扱いとなり、
住職は置かれず、監理は妙法院住職が兼ねた。
明治維新後、新日吉神社が神仏分離令により妙法院より分離、
その後、方広寺が妙法院から独立してこのときに初めて住職が置かれた。
尚、現在でも三十三間堂は妙法院に付随したままで、
三十三間堂独自の住職は置かれていない(妙法院住職が管理)。

579 :
>>578
成程、ただ方広寺は妙法院に移管される前も照高院住職が兼任していたようです
なので取り立てて問題視することかなとも思います

580 :
なお、家康が命じて作らせた秀吉の墓は「馬塚」という名で現在そのまま残っています
ttp://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-2370.html
もっとも、
「豊国神社境内奥、東南の隅に、高さ2.5m程度の五輪塔がある。阿弥陀ヶ峰の旧豊国社が徳川氏により取り壊され、
その参道を塞がれた後、秀吉公を慕う人々が代拝所として同峰から移霊したものだが、ときの徳川氏の権勢を恐れて、
近辺の地名「馬町(うままち)−馬の市があった為)にちなんで「馬塚」と呼ばれたようになったとする説が多い。」
という具合にいつの間にか家康の指示とは認識されなくなったようである
庶民によって歴史が歪められた一例と言える

581 :
>>579
ん?
照高院は豊臣秀吉が創建した門跡寺院。
現在の妙法院の場所にあり、秀吉は照高院を大仏を管理する寺と定め、
照高院に大仏を建てた(後に方広寺と称し、照高院住職が兼任)。
照高院は鐘銘事件の際に徳川家康に潰されている。
豊臣家滅亡の後、方広寺とは全く別の場所に別の親王が再建している。

582 :
>>580
家康は馬塚の周囲に高い塀をめぐらせて見えないようにし、
一般人に近づくことを禁じるなど、明らかにこの塚を警戒している。
また、家康は馬塚に秀吉の遺体を改葬してない。
「家康は秀吉の墓を移動させただけ。破壊していない」というのはかなり違う。
徳川家に近づくなと言われても、この塚を拝む庶民は後を絶たなかったそうだが。

583 :
>>581
照高院興意法親王は方広寺住職を辞めた後、暫く蟄居した後に
元和6年4月に白川の新しい坊舎に移っています
その坊舎は伏見城松の丸の御殿を移築した物でした
>>582
高い塀を巡らしたという事実はない
他の全てと同じく俗説に過ぎない
しかし皮肉だね
家康が秀吉の遺骸を野ざらしにした云々という家康を貶める話を広めたが故に、
本当の秀吉の遺骸がある墓は未だに忘れ去られているのだから

584 :
>>583
秀吉の遺骸があるのは明治時代に建てられた今の豊国廟。
馬塚に秀吉の遺骸が埋められたっけ?

585 :
>>583
「家康が秀吉の遺骸を野ざらしにした」ってなんにある史料?
一般的な通説でも、豊国廟を家康が破壊した後(これは史実)、
妙法院が密かに堀り出し供養してきたとなっているでしょ。
豊国社に彩られた壮麗な豊国廟と馬塚を同様だというのもねえ。
秀吉の妻ねねは豊国社があるときには月参りをかかさず、
家康に豊国社破壊免除を申し出たのに破壊された。
それ以降も京都に住んでいたねねが馬塚に詣でたという記録はない。
家康を持ち上げすぎ。

586 :
>>584
『妙法寺文書』に「墳墓」と明記されていますので、秀吉の墓です
そして馬塚から今の豊国廟に遺骸が遷されたという話は無い

587 :
>>585
ネット上にあるただの俗説
個人的には豊臣宗家が無くなった以上、その守護を目的とする豊国社の存在意義はないんじゃないかと
それなら国家鎮護を目的とする大仏の鎮守にした方がいい

588 :
>>586
そうじゃなくて、馬塚に秀吉の遺骸は埋められたの?
埋められてないでしょう

589 :
>>587
正室のねねが大仏や馬塚に参っていないのはなぜだ?
本当に「秀吉守護・秀吉墓」を謳っていたのならば
豊国社の月参りを欠かさなかったねねが来ないのは理解できない
晩年住んでいた高台寺からは徒歩でもこれるくらい近いのに

590 :
>>586
秀吉の遺体は最初に埋められた阿弥陀ヶ峰から動かされていない。
家康は上にあった墓石や廟は破壊したが、地中の遺体は捨て置いて動かさなかった。
江戸時代に妙法院が秀吉の遺体を探し出し、密かに供養した。
現在の豊国廟には秀吉の遺体が葬られている。
まさか、いまも秀吉の遺体は馬塚に埋められているので
馬塚が本当の墓だと言ってたの?

591 :
>>583
秀吉の遺骸は明治時代に阿弥陀ヶ峰から発掘、確認されているから、
これを覆すのは難しいな。
家康が秀吉の遺体を馬塚に改葬したという史料もなかったろ?
なぜ秀吉の遺骸が馬塚にあると知ったかを言ったのか知らないが、
さすがにそれは無理だわ

592 :
明治30年、かつて秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峰の旧地に
現在の豊国廟を造られる際に、秀吉の遺体が偶然に発掘されたんだっけ?
秀吉の遺体は瓶に入れられ御所のほうを向いて手を合わせていた状態で発見された。
江戸時代に一度、妙法院によって掘り出されて供養され、元の場所に埋め戻されたことが
妙法院の記録に残っており、これが実物であることはほぼ間違いがない。
現在の豊国廟に改めて遺骸は改葬されている。

593 :
それ本当なのかな。
現在の豊国廟に秀吉遺骸の実物があるというの。
江戸時代の記録はともかくその時にすでに「本物かどうか」
は不明になってるような。
徳川将軍だって調査してるのだからもし本物ならぜひ
調査してほしいものだ。
頭がないとか文字が瓶に刻まれてたとかはどこまで
信憑性があるのかな。

594 :
>>593
ところで、おたくの「今でも秀吉の遺骸が馬塚にある」
というのは何の史料によるもの?
発掘調査結果は?
高台院すら参拝していないのならば、尚更ありえないことだろう。
現在、豊国廟に葬られている秀吉遺骸はいつでも調査できるだろうが、
研究者も疑問を抱いてはいないので特に調査されていないようだ。

595 :
>>593
「豊国廟から馬塚に秀吉の遺体を動かした」という史料は?
その史料がないならば、君の秀吉の本当の遺体は徳川家康によって馬塚に改葬され、
現在も馬塚に埋まっているという主張は見当違いになる。
また、馬塚に埋めた史料があるならば、なぜ発掘調査が行われないのか。
通常考えれば、秀吉の遺体は動かされず、江戸時代を通じて
当初秀吉が葬られたままの阿弥陀ヶ峰にあったということになる。
明治時代に発掘されて豊国廟に改葬されたのが誰の遺体であれ
(険しい山の山頂に土葬する人がいたとも思えず、秀吉本人の可能性が高いと思うが)
馬塚に埋められていることはないということになる。

596 :
普通、「墳墓」とあれば墓だと考えるのが自然だが

597 :
>>596
改葬の記述はどこにもないわけだね。

598 :
>>596
そもそも大仏と馬塚を管理していた妙法院が江戸時代に阿弥陀ヶ峰を掘り返して
秀吉の遺骸を見つけたなんて記録を残しているくらいだから
馬塚に遺骸がないことは周知の事実だったろう。
家康が秀吉の遺体を妙法院境内の馬塚に改葬していたら
妙法院が知らないなんて馬鹿なことはないからね。
妙法院が知らないのに勝手に馬塚に遺骸が埋まるなんて思えない。

599 :
>>597
その頃、梵舜は家康の葬儀で下向していたので『梵舜日記』には無い

600 :
>>598
それ本当の記録?

601 :
何か、江戸中期の妙法院の改葬とか、明治時代の豊国廟発掘とかどれも
まともな記録とは思えんものばかりなのだが

602 :
ちなみに馬塚を秀吉の墓とし、構造について説明したのは梅原末治氏

603 :
593だが、今回の話には初参加だから間違えられてるな。
自分は指の謎とかDNA鑑定とかは理想だが
なにかわかればすごいなという意味。
史上最大級の英雄ではあるが直系の子孫はあれだし
調査するのになにか障害はあるのかなってね。
それと副葬品とかも普通ならすごいはずなんだろうけど
すでに江戸期に放置でなくなってしまってたのかなとか。

604 :
江戸時代だと墳墓とあっても埋葬を伴う墓ではなくて
供養塔の類いの場合があるから要注意
歴代天皇だと高野山にも「御陵」があるし
輪王寺宮は日光、上野、山科にそれぞれ墓塔がある

605 :
>>596
織田信長の墓も全国に20か所以上あるが、
骨が埋まってる可能性が少しでもあるのは1カ所だけ。
(京都の阿弥陀寺。それも誰のものか分からずに骨をかき集めたもの)
それでも20数個所の寺はいずれも信長の墓と記載。
「墳墓」=遺骨・遺骸を埋めた場所
ではないよ。

606 :
>>601
「梵舜日記」にも改葬の記事はない。
そもそも、毎月、豊国廟の代拝所である豊国社への月参りを欠かさなかった北政所が
馬塚へも大仏殿へもまいっていないことは、そこに秀吉の遺骨がなかった
(家康が主張する秀吉の墓を豊臣家は認めてなかった)ことに他ならないはずだが?


607 :
>>602
梅原氏はなぜ馬塚を発掘調査しなかったのか。
秀吉研究の第一人者は多いのに、なぜ他の学者は皆馬塚説を取らないのか。
明治時代に豊国神社を造る際、馬塚も動かされて整地されている。
でも、何も出てこなかったんじゃ?
まあ、そんなに有力な説ならとっくに発掘調査してるだろうが。

608 :
>>605
その点は良く解らんな
各種史料でも「遺骸」と記述することは差し障りがあるようで、主語を抜いた状態で大仏に遷すとある

609 :
>>606
元和5年までは本殿や神宮寺も残り高台院も人を遣わしている
>>607
『秀吉の大仏造立』を著した河内将芳も同様の見解を採っています
調査が行われない理由は知らない
後、動かされて整地されたという史料は?

610 :
>>608
秀吉の遺骸が没後阿弥陀ヶ峰に葬られる時にはきちんと史料にかかれており、
秀吉の遺体のことを書いてはいけないから書かなかったというのは意味不明。
高野山にも大勢の戦国武将の「墓」があるが、
ほとんどの場合、そこに遺骸は葬られていない。

611 :
>>609
>なぜ馬塚は発掘されないのか
これに尽きる。
お前は豊国廟に現在葬られている遺骸は別人、あるいは「巷説で信憑性がない」
(明治時代に改葬に加わった人の口述書が残るがこれが偽物?)のもので、
それに関する史料は「嘘、出鱈目」だと決めつける。
唯一、馬塚から秀吉の遺骸が発掘されればお前の主張が正しいことが証明されるが、
現状は机上の空論。
これ以上議論しても正解は出ない。

612 :
>>610
>>611
具体的な資料名をお願いします
ちなみに私はこれまでの史料は全て『大日本史料』を基にしています

613 :
>>609
「梵舜日記」によれば、高台院が元和5年まで月参りしているのは
「豊国社」だよ。
豊国社は元和元年に徳川家康によって祭神が廃され、豊国社の宝物類が
家康によって智積院や妙法院に強制的に引き渡された後も
建物だけはしばらく残っていた。
高台院が元和5年間まで参っていたのは、この豊臣家創建の豊国社の旧殿。
家康によってすでに祭神が廃されているにもかかわらず、
高台院は引き続き「豊国大明神」と夫の旧祭神名で穂料の奉納を続けていた。
これはおたくが提示するのと同じ史料に載っていること。
おたくの主張する大仏殿に参った事実はない。

614 :
>>613
うん、だから豊国社が残っていたから高台院はそこに詣でていた
ちなみに寺については自身の高台寺があったから方広寺には足を運ばなかったかと

615 :
>>614
秀吉の遺体が方広寺大仏殿の馬塚にあったのならば、
これに参らなかった理由がない。
高台寺に秀吉の遺体があったわけでもないのに、夫の墓参りを放棄した理由は?
馬塚に秀吉の遺体がなかったからだろう。
高台院は、いまも阿弥陀ヶ峰山頂にある夫秀吉の墓参りのために、
阿弥陀ヶ峰の麓に造った代拝所豊国社に詣でていたんだ。


616 :
>>614
高台院が豊国社に参っていたことと馬塚・大仏殿は関係ないんだが。
夫の遺体がすぐそばに葬られているのにこれを素通りしていたなら、
こちらのほうがありえない。
元和6年にいよいよ豊国社までが廃されてしまうと、
高台院は跡地に設けられた神龍院内の鎮守社に詣でるようになる(出典は「梵舜日記」)。
神龍院は寺なので、高台寺があるから寺に詣でなかったというのは通じない。
夫が葬られた阿弥陀ヶ峰まで高齢女性が上ることは不可能だから、
ここに詣でるしかなかったとしか取れないが。

617 :
>>615
>>616
正直その辺は当時の遺骸に対する受け取り方が不明なので何とも
妙法院に移管された方広寺と高台院との関係もよく分かりませんし

それで、阿弥陀ヶ峰で秀吉の遺骸が発掘されたという具体的な資料名は何でしょうか

618 :
>>617
自分の寺があると、他の寺にはお参りに行けないって?
高台院は方広寺に立ち入り禁止されてたなんて史料もないが。
江戸時代の将軍は寛永寺と増上寺にあるんだが、
将軍はどちらか片方の墓参りしか行けなかったのか?
豊臣家の寺は複数あったんだが、高台院は智積院へも行けなかったのか。
全く以て意味不明だ。
豊国廟については明治時代の遺体改葬に加わった人の口述書がある。
「大日本史料」には収録されてないがね。

619 :
>>618
その口述書の書名を教えてください
正直それが本当が疑問なので

620 :
>>617
「梵舜日記」によれば、元和9年、秀吉の養子だった八条宮智仁親王も
やはり鎮守社に詣でている。
この人物は高台寺とは関係ないが?
それなのに、やはり方広寺大仏殿(すでに妙法院配下)に参っていない。
それでもまだ、高台寺があるから高台院は方広寺に参ることができなかったと
主張するのか。

621 :
>>619
京都の豊国神社に問い合わせて、関係史料閲覧を願い出ることを勧める。
豊国廟を現在管理しているのは豊国神社。
豊国神社に付随している資料館では「秀吉の歯」なる展示があるが、
このときの豊国廟遺骸改葬と関係ある可能性がある。
ついでに馬塚を管理しているのも豊国神社。

622 :
>>621
つまり確かな資料では確認できないということですね
これ以上は分かり様もないので、直接連絡しようと思います
論文にでも纏めて投稿してみようかな

623 :
今、豊国神社に問い合せましたが阿弥陀ヶ峰に遺骸があったという資料は「秘密」とのことです

624 :
「歯」があるのかぁ。
なら鑑定はできるな。
本職が見るだけでおおまかに400年前か
栄養状態、何を食べてたか、かなりわかるというからなぁ。
・・猿の歯、なんてオチだと怒られるな・・

625 :
>>624
ああ、無理無理絶対に応じない
天皇陵の発掘を宮内庁が許可しないのと同じ

626 :
もちろんガラスから取り出した正式鑑定は
無理だろうけどプロの目はこわいよという話。

627 :
http://www.kyotodeasobo.com/art/houmotsukan/toyokuni-shrine/01-toyokuni-midokoro.html
>秀吉子飼いの武将で「賤ヶ嶽七本槍(しずがたけしちほんやり)」の一角、加藤嘉明に秀吉自身が贈ったもの。
あまり関係ない話だね

628 :
逆に言えばこの歯を使えばDNA検査が可能なわけだ
絶対しないだろうけど

629 :
秀吉は血判状はあるんだっけか。
信長は本願寺系の起請文であったような気がするが。
そういうアクセスもあるわなぁ。

630 :
まあ、豊国神社が阿弥陀ヶ峰や馬塚の調査を認めることは先ず無いでしょうな

631 :
個人的な感想を言えば、家康は豊国社を壊したが秀吉を当初の方針であった
大仏の鎮守とすることで義理を果たしたのかもしれない

632 :
井沢流だと鎮魂のためってか。
ところでモメてたのは改葬とまではいえなくて
墳墓あたりの解釈を拡大してたのがいたってことでいいのか。
もういっこは鎮守扱いにしたってのでいいのかな。
ここらにも史料完璧主義と解釈アリ組との差がでるわな。

633 :
遺骸は阿弥陀ヶ峰に残されたまま派と、改葬され大仏の鎮守として馬塚にある派の争い
前者は馬塚が築かれた後も高台院は豊国社に詣でていたからを根拠にし
後者は当時の史料の語句(墳墓等)と学者の見解を根拠にしている
なお、両者を管理する豊国神社は阿弥陀ヶ峰に一貫して遺骸があったとしているが、
根拠となる史料は秘密としている

634 :
天王寺の戦いで、家康クビチョンパのシーンがある
映画って何だったっけ?

635 :
松方弘幸が真田幸村やったドラマじゃなく?

636 :
梵舜日記読んだけど高台院は元和元年の破却以後の豊国社に奉納はしているけど
参詣はしていないんじゃないかな

637 :
やはり、秀吉の遺骸は馬塚にあるな

638 :
>>636
高台院は元和元年の棄却以前から奉納と代参が中心。
高台院本人が高齢であることに原因があると思われる。
関ヶ原の頃から侍女による代参だよ。
しかし、奉納をしているということはこれ自体に意味がある。
自分が行く代わりの代参なのだから。
江戸時代の将軍も本来月ごとに行かなければならない菩提寺参拝は、
将軍本人が行くのではなく使者を行かせる代参がほとんど。

639 :
元和6年以後も、高台院は豊国社跡地の神龍院鎮守社に奉納を続けた。
馬塚派の主張する方広寺大仏鎮守への奉納は行われていない。

640 :
>>638
>>639
同様のことが方広寺に行われなかったという証拠はない
豊国社は梵舜が記録を残したから判明しているだけだし

641 :
>>640
史料にないことを空想で言ってもな。
むしろ、豊国社が方広寺の鎮守社だったのならば、梵舜は記録したと思うが?
梵舜は方広寺大仏の造営状況についても詳細な記録を残しており、
方広寺のことは記さないようにしていたという理由がない。

642 :
>>640
うーんと、馬塚派は高台院には高台寺があるから方広寺には
立ち入りできなかったとか無理な自論を述べてなかったっけ?
神龍院に代参することはやってるから自説撤回してきたわけか。

643 :
>>641
阿弥陀ヶ峰に遺骨が残っていたという話が胡散臭いものしかないのでね
秀吉は当初は新八幡として大仏の鎮守となることを望んだ
しかしこれは叶わずに大明神として祀られ、豊国社には別に神宮寺が建てられている
方広寺大仏の造営なら『義演准后日記』『時慶卿記』と有意な差は見られない
>>642
高台院が参詣しているという事実がなかったしね

644 :
>>643
代参をしていれば十分だが?
江戸時代の将軍が菩提寺に代参させているならば、
寛永寺には歴代将軍の遺骨がないとでも主張するの?
江戸時代の「都名所図会」には大仏のことが乗っているが、
馬塚は「石塔婆」と表現されるだけで墳墓という認識はすでにない。
高台院名義で何度も代参と奉納が行われている豊国社・神龍院鎮守社を
「高台院本人が行ってないなら、高台院の意思はなかったも同じ」と否定するよりも、
むしろ、たった一つの史料にしか墳墓と記されていない馬塚のほうが
墳墓である可能性は低いと思われる。

645 :
>>644
遺骸が移動したから代参を行わないとは考えられない
それは将軍家が遺骸のない久能山東照宮の代参しているのと同じ
また、「都名所図会」は江戸後期のものその頃になるとその存在もあやふやになったのだろう
一方、大阪市立美術館蔵等の「洛中洛外図」の一部には方広寺に馬塚が描かれるようになり、その重要性を暗示している
また、大仏殿回廊裏手・内に遷すことは『駿府記』『梵舜日記』にも記述されている
この遷す対象は前者は「太閤」、後者は「豊国大明神」と記載されており、秀吉を遷すという意味になる
なお、馬塚の位置はこの大仏殿回廊裏手の記述や「洛中洛外図」の描写に合致する

646 :
馬塚派が秀吉の遺体改葬をハッキリ書いた史料がないのは
「言葉を忌んだから」と言っていたが、徳川家康の遺体改葬が
さまざまな史料にご丁寧に書かれてあるのはなぜ?
家康の遺体を「御体」、改葬のことは「改葬」と
はっきりした言葉で書かれてある。
出典は金地院崇伝の日記。

647 :
>>645
霊を移したという意味にしかとれないが?
当時の史料をみても秀吉の遺体「御体」を移したという史料は一つもない。

648 :
>>645
どの史料も「墳墓」だとは言ってない。
しかも、遺体の改葬だと記したものがない。

649 :
>>645
「駿府記」も「梵舜日記」も豊国明神の神号を廃し神霊を大仏殿廻廊裏に移すこと
照高院門主は秀頼の命を受けて家康を呪詛した罪で追放することは書かれてあるが
阿弥陀ヶ峰から秀吉遺体を移すことはどれにも書かれていない。
まだ大坂城の豊臣家は滅亡しておらず、家康は大軍を率いて今にも大坂城を攻めるべく京に滞在中。
神号廃止による豊臣家挑発を命じており、改葬を思わせる記事はどこにもない。


650 :
>>646
「権現」「神体」という文言もある
>>647
『妙法寺文書』は「墳墓」とある
>>648
二つの史料に神号を廃したという内容や「神霊」の文言もない
更には豊国社破却は夏の陣後

651 :
横から悪いが、改葬派の人は「墳墓」が唯一の根拠なのかな。
「墳墓だから骨がある」「骨があるなら改葬」というのは一種の
循環論法になってないか。
645で馬塚の重要性を強調してるがそれと
改葬=骨がある、は直結しないだろう。あくまで「霊を移す」
という方が一般的だろうし、史料は?と聞く自分の根拠が
妙法寺文書の「墳墓」だけであとは無理気味の状況証拠
というのはかなり厳しい。
それなら当時の「墳墓」という記述がすべて「骨も一緒」という
用例であることを証明したほうが早いぐらいだが
それは可能なのか?
逆に妙法寺文書の「墳墓」が「骨の有無は別で単にお墓みたいなもの」として
使われたとした方がこれも一般的じゃないのかな。
どうも一単語の「墳墓」から発展しすぎのようには感じる。

652 :
>>651
豊国社の破却と方広寺の鎮守にすることはセットになっている

653 :
>>650
自分の都合の悪い史料には目をつぶらないで、きちんと呼んでご覧よ。
明らかに徳川方の史料(徳川実記)には家康改葬のことが描かれてある。
それも「改葬」「御体」という直接的な表現で、だ。
一方、該当の記事を読んでみると(徳川実記にある駿河記の引用)
どこにも改葬の記事がない。
ましてや、今にも豊臣を攻めようという元和元年7月に突如、
家康が豊臣秀吉の遺体を豊臣秀頼の許可を一切取らず掘り返すような大事件を起こせば
当然都は大騒動になっただろうが、一切、何の記録もないのは不可思議としか言いようがない。

654 :
>>652
遺体を伴わなければ墳墓と呼ばない、ということの説明になっていない。
豊国社=秀吉の墓ではない。
豊国社が廃されるとなぜ秀吉の骨を掘り返したことになるのか説明になっていない。

655 :
>>650
「徳川実紀」の元和元年7月に、徳川家康が京都所司代や崇伝などに命じて
>>649に書いてあることを命じたことが書かれてあるよ。
「徳川実紀」は記事の引用先として「駿府記」「梵舜日記」を挙げているから、
同じ内容だろう。
京都に滞在する徳川家康が豊国明神の神号を廃することを命じたと
確かに書いてあるんだが、おたくの手持ちの史料には書いてない?
どこか史料を意図的に省いてる?

656 :
梵舜の日記では金地院崇伝の使者から豊国社の神事を大仏殿に移す(豊国社の棄却)
を聞いたという伝聞を載せているだけか。
しかし、江戸幕府の正式史料である徳川実紀に載っているのだから、
このとき家康が豊国明神の神号廃止を命じたのは事実だろう。
また、どちらの記事にも秀吉遺体を改葬したとはどこにも書かれていない。
家康によって秀吉遺体が阿弥陀ヶ峰から掘り返されれば
梵舜も高台院も抗議せずにはいられなかっただろうが、
高台院も豊国社存続は願いは出しているものの、
やはり秀吉の遺体のことに触れた記事はない。

657 :
・秀吉の遺体が「改葬」されたとする史料はない
(馬塚派は改葬や遺体を表す言葉はタブーなので書いてはいけなかったと主張する。
しかし、徳川家康が改葬される際には「御体」を「改葬」、
更には家康の遺体が入った「柩(ひつぎ)」が今どこを通っているかまで詳細な記録がある)
・馬塚派が主張する秀吉の遺体を埋めたとする根拠は「妙法院文書」にある「墳墓」の言葉のみ
(戦国武将は墓が複数の場所にあることも少なくない。供養塔であってもこんにち墓と称される。
馬塚派が主張する「遺体を伴わなければ墳墓と言わない」という根拠は提示されていない。)
・「豊国社を廃し、豊国明神を大仏殿廻廊南に移す」
これについて豊国社に祀られていた豊国大明神という神霊が移されたと解釈されるのに対し、
馬塚派は阿弥陀ヶ峰の秀吉遺体を掘り返して大仏殿廻廊南に移したと解釈する。
また、秀吉遺体が家康によって掘り返されれば、豊国社神宮寺住職の梵舜や高台院が抗議しそうなものだがそれもなく、
もしくは都の人々のなんらかの記録に残りそうなものだが、それもない。

658 :
>>653
>>655
『徳川実紀』は後世の史料ですな
元和元年七月には豊臣氏は既に滅んでいます
>>654
これまで遺骸があった場所を破却して、新たに大仏の鎮守として祀る
その状態で秀吉の遺骸がそのままということはない
>>657
盛儀として行われた家康改葬と同レベルで語られても
それに>>650で語ったようにそれ以外の語句も用いられている
遷すという文言を用いられている
豊国社が廃され大仏殿に遷されるのに遺骸がそのままという考えがそもおかしい
梵舜は遺骸以前に豊国社の存続に傾注していた

659 :
>>658
>>651さんの意見は?
まずは墳墓には遺体が入っていないものは墳墓と呼ばない」
ということを証明してください。
「駿河記」も後世の史料です。江戸幕府の公式史料「徳川実紀」より信憑性は低いでしょう。
また、梵舜は豊国社神宮寺の僧侶にすぎず、江戸幕府中枢の人間ではありません。
当然、徳川家康の様子を詳細に記すことはできません。
そもそも改葬の文字がないにもかかわらず、秀吉が改葬されたと主張するのは本末転倒。
はっきりした史料を出してくださいと言っているのに、一度も出してこない。

660 :
>>658
「遷す」
普通に神社の「遷宮」、日本古来から使われる神霊を移す言葉です。
史料の読み込みに多大な誤りがあるかと思います。
まあ、とにかく馬塚優位になるようにすることに躍起になって、
もはや史料を適格に読むことができなくなっている、というのが正しいでしょう。
当初、他の書き込み者を「2ちゃんねるは気楽でいい」と馬鹿にしていた方ですが、
どうも一人の教授の本を読んでそれ以外の説は頭に入らなくなってしまった人のようです。
他人の本からの孫引きばかりで、あなたご本人は史料を読んでおられませんね。

661 :
>>659
いや『駿河記』でなく『駿府記』なのだが、全然ものが違うのだが
>>660
御霊を遷すなら、豊国社が存続していて方広寺に新たに分けるとなる
しかし、豊国社は廃絶された上で、方広寺に遷すとある
その状況で遺骸がそのままとはありえない

662 :
>>661
豊国社は豊国大明神を祀るただの神社ですよ。
あるのは神霊だけ。
豊国社が存続してそこから分社するのならば「(大仏殿)別宮」もしくは
「豊国社若宮社(本宮豊国社に対して新しい神社を指す)」です。
しかし、豊国社を廃棄して別所に本宮そのものの神霊を遷すから
「遷宮」なんです。
そもそも豊国社と秀吉の墓である「豊国廟」は別ですよ?
日光東照宮でも家康の墓は「御廟所」と表記されます。

663 :
>>660
いや、「気楽」と書いたのは自分で改装派?の人じゃない。
念のため。

664 :
651だが、657さんに同意ですよ。
墳墓、というのは骨の有無に関わらず使われたのでないか
ということ。
だから墳墓だから必ず骨が入ってる、改葬である、というのは
少し飛躍じゃないかということ。
自分はそう考えるというのならご自由にということだけど
それで人を納得させたり一般の説のように語るのはどうだろうということ。
一番最初の登場の時に「改葬された」「鎮守になってる」と断言的だったから
みんなその根拠を求めてるのでしょう。そしたら大日本史料とかいろいろあったけど
結局は「墳墓」という文字のみなのかな、と。
「遺骸はそのままという考え方がおかしい」というのと「墳墓=骨アリ=改葬」
と連関していくのではどっちが妥当かというとこでいいのかな。

665 :
>>662
それは無理がある
家康の墓はあくまで日光東照宮の一部
豊国社も同様だろう

666 :
>>665
神体と遺体は別物ですが?
豊国大明神を祀る豊国社は全国各地にある。
東照大権現を祀る東照宮もまた全国500か所にある。
まさか、豊国大明神=秀吉本人の遺体
東照大権現=家康本人の遺体、であるはずもない。
神社は神霊を祀るところであって、遺体を祀るところではないのです。
あと、神号をうけたものとしては菅原道真なんていう人もいます。
北野天満宮天神、俗にいう天神様ですね。
天満宮もまた全国各地にありますが、道真本人の骨なんてどこも所有していませんよ。

667 :
>>664
直接の文言はそれだけですね
その上で、『駿府記』『梵舜日記』の豊国社を破却して「豊国大明神」「太閤」を移す場所
とした位置に馬塚があるわけです
>>666
『本光国師日記』には家康の遺骸を「御神躰」とする記述もありますが?

668 :
>>667
日光東照宮では創建以来、東照大権現像が御神体です。
徳川家康の遺体そのものが御神体とされたことはありません。

669 :
>>667
で、「墳墓」の意味の解読は不能なわけか

670 :
>>668
さて、そう言われても崇伝はそのように記述していますので
>>669
私は遺骸を収めた墓と考えています
ちなみに『梵舜日記』の元和元年十二月十六日に「豊国之躰別事逼退之刻」を
板倉勝重に申し出たという記事があったけど、これが秀吉の遺骸のことかもしれない

671 :
>>667
神社では御神体が祀られるところが本殿。
ここに祀られた御神体は東照大権現の木像だな。
徳川家康の廟は日光東照宮奥宮という本殿からさらに登った山奥にあり、
観光客も訪れる人はまばらな場所にある。
ちなみに、文化財に登録された名前では墓のことを「奥宮御宝塔」というそうだ。

672 :
>>670
その2日後に妙法院によって豊国社への参道がふさがれている。
豊国社本殿や秀吉が葬られている豊国廟への参拝が不可能になるので
京都所司代に温情を願ってるんだろ。
すでに家康が豊国社棄却を命じてから5か月たっている。

673 :
614〜617あたりが重要じゃないのかな。
馬塚に骨があったり正式に?改葬とされてるんだったら
そこがもっと重要視されてもいいはずじゃないかな。
単に鎮魂のための施設みたいな意味合いが強いようにも思う。

674 :
>>672
塞がれたのは同日、なおその記事の後に「さりながら」と続く
また、それ以前に内陣は封鎖されている
>>673
豊臣氏が滅亡し豊国社が破却された以降は秀吉のことは急速に
忘れ去られていったんじゃないかな

675 :
現在、馬塚を所管している豊国神社が秀吉の墓は阿弥陀ヶ峰といっている
本当に馬塚に改葬されているのであれば、神社側にとってはいい泊付けになるにも関わらず、だ
つまり、秀吉の遺体が改葬されたなんて認識はなく、そのような記録もないということだろう

676 :
馬塚説を唱えた教授の論文はえらく前に発表されている。
(すでに本人が30年ほど前に没しておられる)
しかし、その後、その説を継承する人も現れず、馬塚説は学会でも無視されている。
そもそも、改葬記録がないのに、「改葬した」というのは無理がありすぎる。
京都市は1990年代後半から2000年代前半にかけて、大仏殿跡の大規模調査に入り、
遺構を確認、その大きな成果が発表されているが(結果は図書館などで見ることができる)
馬塚については「供養塔」の立場をとっている(京都市観光協会)。
また、大仏殿跡地の一部に建てられている京都国立博物館においても発掘調査が行われ、
遺跡と景観保存のための建て替えが決定されており、国も京都市も大仏殿遺構に対して大きな関心を示しながら、
それに付随する大仏殿研究の学者たちもいずれも馬塚説をとってはおらず、「供養塔」の立場を崩していない。
つまり、馬塚説は学会でも支持されていない。

677 :
>>675
明治30年に豊国会という団体により阿弥陀ヶ峰に豊国廟が再建されたから
ちなみにそこに遺骸があると豊国神社は言っているがその資料は秘密
そして、一度認定するとおいそれと否定など出来るはずもない
天皇陵の調査を宮内庁が認めないのと同じ話
>>676
明確に否定する論文はない

678 :
>>677
明確に否定するも何も・・
「供養塔」という表現そのものが馬塚墓説を完全否定しているが
天皇陵調査と違って豊国神社境内や豊国廟の発掘調査などいつでも入れる
明確な根拠があればね
現実に豊国神社境内に最近になって大掛かりな大仏殿発掘調査が入っているんだが?
君も「墳墓」の言葉だけを根拠に同じことばかり延々連投し続けているが、
とてもここの人たちも学会も納得させる根拠になってないよ。

679 :
>>678
供養塔という論拠が「京の民衆により云々」という事実と異なるもの
豊国神社の許可がないとできないし、これまでの調査はあくまで「方広寺大仏殿」が目的ですので

680 :
後、豊国神社の敷地内で行われたのは本殿と宝物館の間のみのようにも思えるが
大仏殿跡緑地は誰の管理なのだろうか?
http://www.kyoto-arc.or.jp/kouza219.pdf

681 :
>>679
民衆が秀吉を忍んで建てた、江戸幕府が建てた、両方の説がありますが?
京都市や京都府が発行している案内や書籍を手に取ったことはないの?
で、どちらの見解も「供養塔」。
そもそも、秀吉の遺体が馬塚にあるという根拠がありますか?
「妙法院文書」に一か所、「墳墓」とあるから遺体はある→遺体を伴わない供養塔も墓と記された用例があるが、
では、墳墓は遺体を伴う者のみを指すと証明できますか→無視
「妙法院文書」に一か所、「墳墓」とあるから遺体はある→遺体を伴わない供養塔も墓と記された用例があるが、
では、墳墓は遺体を伴う者のみを指すと証明できますか→無視
ひたすらあなたは無視を続けるのみ。
だから、同じことばかりの連投だと言っているのですが。
発掘の件は、京都市や国からの要請があれば、豊国神社はこれまでも
境内の発掘調査にずっと協力してきているということを言っているのですよ。
「明確な学説をもとに学会からの申し出があり、国や京都市が豊国廟や馬塚を掘らせてほしいとどんなに頼んでも、
豊国神社は絶対に許さないし認めない」
なんて、なぜあなたが判断し、断言できるのですか?

682 :
>>680
大仏殿跡地は方広寺、豊国神社、京都国立博物館、
大仏殿跡緑地公園などに広がっている。
それぞれで発掘調査が行われている。
大仏殿跡緑地公園を管理するのは京都市でしょう。
というか、史料だの、論文送りつけて豊国神社に問い合わせるだの、
大騒ぎをしながら何とご自身が一次史料に当たらず
ネットで探索かけているのは笑いましたがw

683 :
>>681
遺骸のあった豊国社が破却され、代わりに大仏殿に遷されたので遺骸も当然、移動したことになる
で、馬塚が調査された事実はありますか
>>682
『駿府記』と『駿河記』の区別もつかない人もいるようですね

684 :
>>683
>遺骸も当然、移動したことになる
「当然」じゃないから支持する学者がいないわけですが。
で、新たな根拠を示せないようなら、もう終わりにしたほうがよくありませんか?
一次史料もお読みになってないようですし、あなたの説は無理がありすぎます。

685 :
>>684
ではそれを否定した学者やその論文を提示してください

686 :
馬塚説さんはがんばってるけど
人に「史料は?」と言うのならまず自分が
「当然移動したことになる」という推測の根拠となる
事実、記録、をあげるべきじゃないのかな。
それと「支持する学者がいない」と「否定した学者」とは
違うよ。細かいけどこういう論理のスリカエ?みたいな手法と
循環論法でしか語ってないから繰り返しになってるんだ。
例えば「支持する人がない」を「否定はされてませんよね」という
次の主張につなげるのは基本パターンでしょう。
支持する人がいない現状は「当然」じゃないからでこれは
イコール「否定」ということ。
だから個人で「自分は当然と思う」というのはかまわないんだけどね。
「思う」に根拠を結び付けようとするからおかしくなってるし。
でもがんばれ・・?

687 :
>>685
論文が「無視」されてるんです。
論文が出なければ定説なわけではありませんよ。
実際に、学会の定説は「供養塔」です。
家でネットで漁った知識に頼っていないで、
大仏殿に関する論文や史料を少しはお読みになったらいかがですか?

688 :
>>686
今まであった場所が壊されて、新たに移るのにそれが供養塔のみという論理が理解出来ない
家壊して引っ越すのに、その跡地に家財を残す奴がいるか
>>687
「無視」は何も言っていないに等しいです

689 :
>>688
豊国社が棄却され、馬塚が造られたのは元和元年7月です。
しかし、それ以降も、元和6年までの間に、
・京極竜子(本人)が豊国社参拝
・高台院が側近侍女を豊国社に代参させる
・高台院が「豊国大明神」の名で豊国社に穂料を奉納
では、このときの豊国社は何を祀っていたのですか?
更に、元和6年以降、梵舜は神龍社内鎮守社へ豊国社を遷しています。
このとき、移した豊国社はなんですか?これ以降も、
・豊国社へ高台院からの穂料
・豊国大明神(神龍院内鎮守社)へ八条宮(豊臣秀吉の養子)が参拝
神龍院内鎮守社に祀られた豊国社は、何を祀っていたのですか?
豊国社=秀吉遺体だと言えますか?

690 :
>>689
封鎖された内陣を祀っていたのでしょう
それはつまり空家の状態ですな
そして梵舜が移したというのは神宮寺の鎮守社です
豊国社ではありません

691 :
>>688
学界の定説が「供養塔」であることに異論はないですね。
大仏関係の論文・史料にもそう書かれてあります。

692 :
>>690
豊国社=内陣だというわけですね。
つまり、豊国社=秀吉の遺体ではないわけです。
つまりは、馬塚に移されたのは内陣にあったもの、つまりは神霊であって、
秀吉遺体ではありません。
そもそも改葬記録もありませんものね。
梵舜の日記にも改葬記録は一切ありません。

693 :
>>691
論拠込みで示してあるのなら
後、具体的な資料名も

694 :
>>690
神龍院内鎮守社は「豊国大明神」と呼ばれていますよ。

695 :
>>692
内陣は豊国社の一部ですが全てではありません
木を指して森というようなものです
そも豊国社を大仏殿内に移すことが限られた内の史料にのみ残っています
また、以外の移送が妙法院で内々に行われて梵舜が知らなかったとも考えられる
>>694
そりゃそう呼んだだけでしょ

696 :
>>695
だから、妙法院の記録でも幕府の記録でもいいから
「秀吉の遺体の改葬」に関する史料をあげよう。
豊国社並びにその神宮寺、関係者、誰一人として気づかれないうちに
妙法院が豊国廟まで人夫を出し、柩を担ぎ上げて山道を降りるなんてほぼ空想の世界。
もう、馬塚の論理を無理に組み立てるために妄想に走る以外、なさそうですよね。

697 :
>>695
神龍院内鎮守社=豊国大明神ならば、
豊国大明神=神霊だってことです。
馬塚に遷った豊国明神だけは特別に秀吉遺体のことにして、
それ以外の豊国明神は「そう呼んだだけ」なんて、
あまりにも史料無視のとんでも説ですねw

698 :
>>696
私は「大仏殿に太閤移した」で改葬したと考えて問題ないと認識している
改葬の行為自体の記録がないのは内々に行われたからとも
豊国社は内陣は封鎖されて人の行き来が無い、神宮寺はどこにあったかは知らないが
石段の下では気付かない可能性もある
>>697
豊国社を破却した後に大仏殿裏に移した豊国社は供養塔一つということかな

699 :
>>698
改葬記録がない、ではねえ。
駿府記、さらに後の徳川実紀に引用するくらいだから、豊国社棄却は幕府の威信をかけて
堂々と行われたことでしょう。
その際、秀吉の改葬が行われたのならば、幕府として当然記録が残る。
むしろ、豊臣家壊滅のために華々しい出来事だったでしょう。
また、崇伝の使者から事前に豊国社棄却が梵舜に伝えられていることから、
当然、梵舜もパイプを持っていた。
豊国廟を管理する豊国社が、自分の神領を荒らされ、
豊国廟が破壊されても気づかないなんてまず考えられませんね。
どういう管理をしていたと空想しているのですか?

700 :
>>699
別に堂々とでなく、淡々と行われている
破却の過程を細かく記しているのは『梵舜日記』のみで、後は解体した資材を受け取った文書があるくらい
梵舜は神宮寺の住職ですが、豊国社の社務職は萩原兼従で豊後に移されています
よって理屈の上でこの時の豊国社は幕府のものです
梵舜の日記では自分のもののように書いてまりますが

701 :
>>700
改葬記録がないので空想します、では全く説明になっていません。
豊国社破却の様子をこと細やかに記した梵舜が、遺体改葬に気づかない理由になっていない。
それに梵舜がいつ豊国社を自分のものだと書いている?
パトロンである豊臣家関係者から豊国社神宮寺の管理をゆだねられているに過ぎないが。

702 :
>>701
梵舜が豊国社を管理してなければ、解体工事と異なり人手もいらない改葬に気付かないかもしれませんね

703 :
記録にないからこっそり行われてたというなら
義満暗殺孝明天皇暗殺なんでも言えてしまう。
「当然遺体も移されてた」という根拠をもう少し
述べてもらわないとそちらがどうして「当然」と
考えるかが理解できない。
「墳墓なら遺体はある」「遺体があるから墳墓だ」
では循環論法で何も語ってない、根拠がない、というのと
同義だと思うがどうか?

704 :
>>703
萩原文書に神躰を大仏殿に移したという記述があるという
現物を確認していないので断言はできないが

705 :
>>702
梵舜は豊国社に頻繁に詣でているのに?
豊国社は元和6年まで封鎖されていないでしょう、豊国廟も解放されていたはず。
で、誰一人豊国廟に立ち入りできず、秀吉遺体を確認できなかったという根拠は?
改葬の記録も残らない、では話になりません。

706 :
>>704
神社の御神体とは遺体のみを表し、神霊を表した例はない、と証明しましょう。
先ほど、明神は遺体を指さない例がある、と指摘して無視したばかりですよ?
家康は「改葬」「柩」「御体」という直接的な言葉で改葬が表現されるのに、
「家康は葬儀が行われたからだ。葬儀が行われない場合、改葬が行われても
改葬のころを記述してはならない」という無茶苦茶な論理で無視ですからね。
全く同じことの堂々巡りですよ。

707 :
>>704
遺体を動かしたのならば、家康の例にある通り「改葬」でしょう。
「遷した」は神霊に使われるはず。

708 :
>>702
改葬したというからには、改葬したという史料の提示が先です。
「俺が改葬したって決めたんだから、改葬したんだよ!
てめえら、改葬してない証拠出せ!黙って俺の言うことを称賛しろ!」
では話になりません。
「秀吉の遺体」が「改葬」された、この史料を提示してください。

709 :

 大坂の陣について語るのは嫌いか?

710 :
>>705
常駐しているわけではない
内陣は扉が封鎖された
また、秀吉の遺骸は東照宮と同じく、その更に奥にあったと考えられる
>>706
崇伝が遺骸を「神躰」と記述しています、これ何回目かな
>>707
『言緒卿記』に家康の遺骸を移すことを「東照大権現御遷宮」としていますね
>>708
太閤を移す、豊国大明神を遷す、神躰を移す
もっともあなたは「遺骸」「棺」の語句がないと納得しないのでしょうが、当時の記録に
そのような直接的な表現をした史料がありますか?

711 :
>>710
墓は供養塔を指す用例もありますが「墳墓」が遺体を伴うものにしか使わないことを証明してください→無視
豊国社、豊国明神は馬塚造営後も別のところに使われていますが
「豊国社」「豊国明神」が秀吉遺体しか意味しないことを証明してください→無視
「遷す(移す)」は一般的に神社の遷宮を意味し、「御神体」も神社神霊(あるいは祭神の木像)
を指すことが一般的ですが「神体」が遺骸しか意味しないということを証明してください→無視
延々ループがわかりますか?
質問の意味を意図的にすり替えているだけで、全く回答になってないんです。

712 :
>>711
できません

713 :
>>711
成程、語句の単一用法についての証明を求めているのなら、その証明は無理です
前後の状況を踏まえた上で判断しているので

714 :
>>712>>713
だったら、これ以上議論しても意味のないことですね。

715 :
>>710
ツッコミどころ有り過ぎw
>内陣封鎖
豊国社本殿内陣封鎖と豊国廟に何の関係が?
江戸時代の史料に阿弥陀ヶ峰山頂に豊国廟がある、とありますよ。
つまり馬塚以降も豊国廟は阿弥陀ヶ峰にあったんです。
>神躰
御神霊を日光へ遷すのですから、そういうでしょうね。
>東照大権現御遷宮
神社本殿に新たな御神体(神霊)を入れることを「遷宮」と言います。
豊国社が最初に創建されたとき、「遷宮」と言ってますよ(梵舜日記)。
日光東照宮が創建されることを言ってるのでしょう。
>当時の記録に そのような直接的な表現をした史料がありますか?
だから、家康の改葬は「柩」の移動まで書かれてあり「改葬」と明記されてますよ。

716 :
>>714
そうですな
>>715
>家康の改葬は「柩」の移動まで書かれてあり「改葬」と明記されてますよ。
どの史料に?『東武実録』等の後世の編纂物は除外し、当時の記録で

717 :
>>716
「東武実録」が編纂されるまでの数十年の間にタブーがなくなり、
新たに「柩」「改葬」と言う言葉が使えるようになったということですか?
死体を埋めるときは「葬」というのは「日本書紀」の時代からありますがね。
ちなみに、あなたがしつこくあげていた「妙法院」の「墳墓」記載も
豊国社棄却命令が出た同時代史料ではありませんよね。
こちらも史料として誤りだったということをお認めになるわけですね。

718 :
>>717
現在進行形で神体の改葬に関わっている人物は直接的な文言を避けるという意味です
いいえ、妙法寺文書は翌元和二年の日付です

719 :
>>718
豊国社棄却に直接かかわった人の記録はどこにもありませんが?


720 :
>>719
命令した人物である家康やそれを伝達した板倉勝重の文言が
日記として『駿府記』『梵舜日記』に記録されている

721 :
>>718
死者の埋葬に直接かかわった者は「葬」と書いてはいけない、
という例があるの?

722 :
>>720
梵舜や駿府記筆者が秀吉の遺体改葬に直接関わったと?
関わってないでしょう
おたくは「改葬されたのに知らなかった、だから記さなかった」と連投続けてたはず。

723 :
>>720
まずは、同時代を生きた人は埋葬記録を残してはいけなかった
実例を挙げないとな。
天皇の埋葬記録なんか、いくらでも同時代の史料が出てくる。
徳川将軍の埋葬記録だって残ってるだろ。

724 :
>>721
神とされた秀吉や家康について当時の記録で遺骸等の直接的な文言は
今のところ確認していない
>>722
発言内容を書き留めているという話

725 :
>>723
必ず埋葬記録が残っているという証明をしてください

726 :
>>725
六国史のあたりから、どうぞ。
埋葬記録は数多いので、史料読破お願いします。

727 :
>>725
「徳川実紀」だって12代将軍以下はまさに同時代史料だろ
どこまでとんでも説続けるんだよ

728 :
>>724
神とされてもわずか数十年で徳川家康の改葬記録が堂々と書けるのはどうしてなんでしょう?
ましてや、秀吉は元和元年に神号廃止されているわけで、もはや神でもなんでもないんですよ?

729 :
>>726
なるほど神として祀られた人も証明してください
>>727
彼らは神として祀られたっけ

730 :
>>728
関係者ではないですから
後、神号廃止の史料をお願いします

731 :
>>724
秀吉の改葬記録がないことのこじつけでしかないんだよな、結局。
だったら、数十年たてば秀吉の改葬記録だってかけただろ、って話。


732 :
>>731
そう思いたければご勝手に

733 :
>>730
「梵舜日記」。
豊国社に神として祀られていた豊国明神の祭祀を止め、
以後、仏教の妙法院に移されたのに、まだ神号を許していたと思うのですか?
以降、江戸幕府は豊国社の祭例も禁止していますので、秀吉を神として祀ることを
禁止したということです。
本当に史料読んでますか?

734 :
>>733
『駿府記』に大仏の鎮守としたとあるので
本当に史料読んでますか?

735 :
>>734
妙法院は秀吉の50回忌も100回忌も仏式で行っているが、
江戸時代を通じて豊国明神が祀られていたのならば神式で行うはず。
まあ、祀られていた形跡もないが。
で、豊国明神の祭礼が行われなかったのはなぜ?

736 :
>>735
その頃には仏とされていたんでしょう
何しろ神号が廃されたという明確な記録はありませんので

737 :
>>736
祭礼を認めなかった点は?

738 :
江戸時代に阿弥陀ヶ峰にある豊国廟の詳細な記録がある。
豊国社旧社殿の位置、大きさ、阿弥陀ヶ峰山頂にある豊国廟との位置関係。
江戸時代の地誌や観光案内、研究書などに広く取り上げられているから、
阿弥陀ヶ峰の豊国廟は観光地化していたようだ。
江戸時代、阿弥陀ヶ峰の豊国廟を整備したのは妙法院だとおもわれるが、
妙法院が秀吉遺体が安置されている豊国廟は阿弥陀ヶ峰にある、とした理由は?
江戸時代、大仏殿・馬塚・豊国廟、すべて管理していたのは妙法院。
秀吉の遺体は最初埋められた場所よりやや移動(改葬という言葉で表現)した(やや上に場所を変えたか)
というのも妙法院が行ったと思われ、妙法院が江戸時代に阿弥陀ヶ峰において秀吉遺体を確認していたことになる。

739 :
>>737
認めなかったのではなく、行わなかっただけでは
>>738
なぜ、いつも具体的な史料名を書かないのだろう
悪いけど、あなたは絶対に納得しないから
これまでとします、さよなら

740 :
>>739
>>738さんに限らず、皆納得していませんが。
大仏鎮守の名で一度も祭礼がおこなわれてないなら、もはや神社の体をなしていません。
豊国社にあった各大名が寄進した燈籠がすべて大仏殿の周囲に移されたようですが、
その名目にすぎなかったということです。

741 :
>>739
だいたい、妙法院の文書で鎮守社といえば新日吉神社しか指さない。
そもそも大仏鎮守なんてものがあった形跡が他の史料で確認できないわけで。
板倉文書の実物が残ってるわけでなく、駿府記の筆者だって又聞きにすぎない。

742 :
>>739
何か、苦し紛れだな。
史料を読破した、と自負してるなら阿弥陀ヶ峰の豊国廟が
江戸時代に観光地化してたことなど簡単にわかりそうなものなのに。
「翁草」、「莵芸泥赴」、「出来斎京土産」、「封内名蹟志」
このあたりはいずれも「豊国廟」を記載し、いずれもその場所を「阿弥陀ヶ峰山頂」
「大仏東、阿弥陀ヶ峰」などとしている。

743 :
クリスマス休戦・・

744 :
超次元サッカーやろうぜ、磯野

745 :
「大阪の戦後は夏の陣からや」
 堺の商人を谷町台地に強制移住させて
 その直後に大阪の陣、大阪人乙であります

746 :
天王寺のあたりから北の大坂城へ向かって攻め進んだ徳川軍は
人ひとり、草木一本に至るまで切り倒し焼き払って進んだというからな
大阪城の城下町になっていた谷町台地に住む町人たちはほとんど殺されたらしい

747 :
>>744 
冬の陣のときは、堀の中に住んでいた住人と
食料の争奪戦がおきていたらしい
いまでいえば飯田橋やお茶の水あたりの橋を
ぜんぶおとして、封鎖された状態に近かったんだろう

748 :
>>747
な、なんと、超次元サッカーのルーツがそんな恐ろしいものだったなんて

749 :
大阪城下もそうだが、堺ににげた商人たちも
夏の陣で大野治房に焼き討ちにされたから
この頃、大阪は一時的に荒野と化したといっていい

750 :
「戦国自衛隊・大阪の陣」を激しく希望する
もちろん自衛隊がタイムスリップしたのは
豊臣方という設定で

751 :
茶々さえいなければ、
大野治長もおらず、
もう少しまともな戦闘になったろうになあ

752 :
アホの淀がいなければそもそもいくさになってない。

753 :
淀がいなければ秀頼もいない。

754 :

そしたら子沢山の秀次が万難の体制で世襲してたかもしれない。
家康が死ぬ迄は持っただろ、秀忠ではびっくり返せないだろ。

755 :
秀次はボンクラだから秀吉がRばすぐに家康に嵌められて滅亡だ。秀頼が幼少だったから
関が原後15年も豊臣家は続いたのだ。成人の秀次が家康と衝突したら即座に豊臣は
終わりだ。

756 :
ぼんくらだろうが息子たちが成人していた織田家は存続したのだし
豊臣家が滅んだとは言い切れない
秀頼は側室との間に一男一女をもうけていたし長生きしていれば
もっと大勢の子や孫がいたはず

757 :
大阪の陣は長細い台地上で合戦が戦われたのである
ということが分かる地形模型はないもんかのう

758 :
>>757
模型ではないはこういうのはある
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/UemachiDaichiss.JPG

759 :
>>758
おおおう素晴らしい
やっぱり南から北へ攻め上がる以外に無いんだな

760 :
豊臣家は籠城してたら政務が取れないじゃん
天下人である意味がない

761 :
公家が大阪城に登城してただろ

762 :
大阪城最大の戦いは
ウルトラマンvsゴモラ

763 :
>>762
ノー、ゴジラ対アンギラス

764 :
>>755-756
秀次は意外と人脈広かったよな
秀頼が幼いために関ヶ原に家康に実権が渡らなければ
徳川政権は無かったと思う

765 :
幸村大河オメ

766 :
正しい信繁の外見を再現してもらいたいな。

767 :
そこはドラマだから
幸村はイケメン俳優じゃなきゃ嫌だな。
徳川家康(83年)での若林豪が最高だった

768 :
総白髪で歯抜けの小男以外は信繁とは認めないw
通俗的な幸村像を打ち壊して歴史系腐女子を絶望させてくれ。

769 :
腐女子じゃないけどそんな幸村ヤダヤダ!
カッコいい俳優じゃなきゃ活躍も引き立たない
あくまでドラマなんだからさ

770 :
真田幸村大河だとだれるんだよな。真田十勇士が元ねたでほとんど架空戦記のような話になるし見せ場は
一番最後で、そこで討ち死にだからな。最初も上杉家人質とか見せ場ない。九度山
とか正直だれるんだよな。

771 :
九度山編はハートウォーミングなホームドラマでいいじゃん。
いっぱい子供生まれるし。

772 :
もう一つ合戦見せ場なのにドラマの合戦は期待できん。
真田十勇士これも居なくても面白くないし、居たら創作さが増す。

773 :
三好清海入道にぴったり来る俳優って誰かなー
猿飛佐助は若い頃の堺正章で

774 :
>>764
真田大河は来ないだろ

775 :
大阪の陣から400周年だから
主役にすると幸村しかいない

776 :
>>775
鎌倉幕府創建800周年→1992年の大河は源頼朝ではなく織田信長
本能寺の変400周年→1982年の大河は織田信長ではなく大石内蔵助
江戸幕府創建400年年→2003年の大河は徳川家康ではなく武蔵
大河板の連中が大騒ぎしてるが関係ないと思うぞ

777 :
大阪の陣から400周年
この年代に他のことでも400年になってそうな予感。

778 :
>>776
そうなのか
大河板でほぼ決定て書いてあったんで

779 :
>>778
毛利元就生誕500周年→1997年の大河は毛利元就
関ヶ原の戦い400周年→2000年は徳川三代
井上靖生誕百周年→2007年の井上靖原作の風林火山
詭弁に引っかかってはいけない

780 :
真田信繁と見せかけて片桐且元だな。
こっちのほうが地味に面白いと思うんだがなあ。

781 :
且元じゃ幸村以上に一年間話し持たんよw

782 :
>>778
決定じゃないよ
そもそも真田の名が出たのは三谷幸喜がNHK大河50のガイド本で
次は真田の脚本をやりたいというコメントが載ったため
次の大河は三谷脚本の真田で決定と騒ぎ出したのが最初
大河板によれば2013年が真田のはずだった
(八重は真田決定を東北大震災で急遽変更したという言い分だったが
綾瀬が臨時代役とは思えず2013年大河はもともと女性主人公だったということで落ち着く)
大河板は次期大河主役や次期大河予想結構外してる

783 :
日本武尊にします。
受信料払わない人は在日。払えよお前ら!


784 :
>>782
「決定」じゃなく「ほぼ決定」
まあ実際には「最有力」程度の評価だろうけど
誘致運動の活発なのとNHK側の反応がいいし
いずれやるなら他にやりたい題材でもない限り2014年を外す理由もない

785 :
>>784
わずか一月前に真田の地元が「真田を大河で取り上げろ!」と
NHKに署名を添えて嘆願に行っているから
ほぼ決定どころか最有力ですらないと思うよ
再来年大河内定なら今更陳情に行かない
http://urageispo.com/archives/6687417.html

786 :
>>785
なんで誘致側の署名提出が判断材料になるんだ
単なるダメ押し&他にやることがない上田市長の観光アピールだろ

787 :
>>784
「ほぼ決定」の根拠は一つもなし。
誘致活動が活発→日本全国の自治体が地元有名人を大河にしろと陳情に行っているが
「陳情が通って大河になった」例はほとんどない
(江の陳情にどこの自治体が行ったのか?)
NHK側の反応がいい→どこの陳情者に対しても対応が悪かったことなどない

788 :
>>786
「ほぼ決定」が地元自治体に伝わってないとでも?
2014年大河など、もう内定している時期だぞ。
(2012年の清盛は2010年4月に題材発表)

789 :
>>788
何で伝えるんだよ?

790 :
>>787
江は長浜市が
直江兼続は米沢市などが誘致している
逆に後北条などは早雲だけでは厳しいという反応から
三代や五代に変更している
保科、浅倉、長曽我部、里見なんかの署名にもNHKは慎重な受け答えで終わっている
なぜそんなに判りやすい嘘をつく?
思い付きで言ってるだけ?

791 :
>>790
>保科、浅倉、長曽我部、里見なんかの署名にもNHKは慎重な受け答えで終わっている
君が陳情に行ったの?
それを事細かに証明できるかな?
>江は長浜市が直江兼続は米沢市などが誘致している
江は女性大河に決まって事細かに調べたところ「信長・秀吉・家康を
叔父、義兄、義父に持つ戦国女性がいた」ということで決定。
長浜市の陳情したおかげで決まったというのを証明してくれるかな?
長浜市は「浅井三姉妹大河」の陳情はしてたが「江」とは言ってなかったが。


792 :
>>790
分かりやすい嘘すぎるよw

793 :
伊那市「名君保科正之の大河をつくる会」
>7月8日に署名数が45万人に到達致しましたので、NHKへ第10回目の要請に出かけました。
>46万という大勢の皆様に署名をしていただいたことをNHK関係者も重く受けとめて下さり、
http://takato-inacity.jp/taiga-drama/
これが「慎重な対応」?
朝倉氏大河誘致は署名活動がはじまったばかりでまだ陳情に行っていない
http://www3.fctv.ne.jp/~asakura/30event/taiga.html
嘘つきすぎるぞ

794 :
>>791
教えてもらったんだから自分で調べな
>>793
真田と比べれば慎重だわな
朝倉はそうだったか? だとしたらわかりにくい嘘ですまんな

795 :
>>792
どれが?
間違いも含まれていたかもしれないが
とりあえず親切で教えたつもりなんだがね

796 :
2014年大河「真田幸村」のNHK陳情の反応
2010年4月「真田は十勇士を始め、大河ドラマの素材としては内容が
豊富で、幸村の人気も高いので、時間はいただくかもしれないが、実現
に向けて研究、検討したい」
2010年9月「皆さんの熱意に感服した。幸村は(大河主人公として)取り
上げておかしくない人物。いずれは実現すると思う」
2011年5月「真田幸村は幅広い年代層から支持されているので放映される
と思う。ただいつ?とは明言出来ない。真田幸村は面白い題材で十分
(大河の)主役になれるストーリーがある」
2011年10月「(大河ドラマは)視聴者が一番見たい人物、時代にはまる人物
を選びたい。幸村を願う皆さんの思いを胸に真摯(しんし)に検討したい」

幸村への反応が割といいのは事実だが2014年に実現しなかったら暫く無さそう。
保科正之は2011年が生誕400年だったが、
「企画の一つとして、今後検討させていただきます」のままスルー。
その後の「重く受け止める」ってのはしっかりとした査定を行いますという意味だろうし、
直江兼続の時のように、再評価される事も有りますって意味でもあるだろう。
それにしても、長野県は「真田幸村」、「保科正之」、「木曾義仲」と、大河誘致に熱心だね。

797 :
幸村ならTBSの新春時代劇ですればよくね。

798 :
大河ドラマスレwwwwww

799 :
誘導
大河ドラマ@2ch掲示板
http://kohada.2ch.net/nhkdrama/

800 :
真田一族大河ドラマ化を目指すスレ!3
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1319534545/l50

801 :
>>791>>793
真田一族大河ドラマ化を目指すスレ
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1319534545/
どうせここから来たやつだろ。
こいつが上げてる真田陳情に対するNHKの反応は全部2ちゃんねるのこのスレ丸写しだから。
で、ほかの大河の陳情は慎重な受け答えだと断言しておきながらどこにもソースなしで自分で調べなどころか本人が知らない。
(だってそんなソースはどこにもないから)
他の大河とは全然対応が違うんだよ、ってどこが違うのかすら言えず
ネットだけがソースって馬鹿丸出しだな。

802 :
>>794
「教えてもらった」じゃねーよ
ネットでググれば誰でもわかる2ちゃんねるネタを
自分が問い合わせたかのように自慢する馬鹿が
>>795
お前の悪意はもうたくさんだよw
調べもせずに間違ったことを書いて誤りを指摘されたら
「わかりにくい嘘でごめん、こっちは親切で嘘を教えたんだよ」だと?
素直に根拠ないこと書きましたと謝れよw

803 :
板違い

804 :
冬の陣
徳川方20万、豊臣方10万
夏の陣
徳川方15万、豊臣方5万(〜7万)

805 :
真田信繁(幸村)を倒した男・西尾宗次
大河はこれで決まりだろ。

806 :
真田が有力だってのを必死に否定している人は
何故にそれを言われるのがそんなに気に食わないのか?
それとも間違いを指摘されたのが癪だった?
スマンで済ませりゃいいじゃん
それとも幸村に決定したら首吊って謝罪するくらいの自信と覚悟で否定しているのか?

807 :
古田織部も大坂の陣に関わってるんだよな
大野兄弟の師匠だったし
やっぱり戦国時代はこの戦いに集約していくんだな

808 :
当スレは
真田一族大河ドラマ化を目指すスレ
ですw

809 :
後藤も毛利も活躍しない大坂の陣大河なんて見たくないぞ

810 :
そこは仕方ないんじゃないの?
幸村主役だったら他の大阪方武将の活躍はどうしても薄れるだろうし
基次か勝永が主役の場合は逆に幸村が埋もれる

811 :
群像劇として大坂の陣の実績なりに
出番を分け合えないのかな?
徳川方の重要人物の藤堂高虎や松平忠直や
伊達政宗やひこにゃんなども活躍無しか?

812 :
まったくだ

813 :
>>806
真田が有力だってのを必死に肯定している人は
何故にそれを言われるのがそんなに気に食わないのか?
それとも間違いを指摘されたのが癪だった?
スマンで済ませりゃいいじゃん
それとも幸村に決定しなかったら首吊って謝罪するくらいの自信と覚悟で否定しているのか?
根拠もないのにバカすぎるw

814 :
>>806
間違いを指摘されたのはお前のほうだろw
癪に触るあまり首吊って謝罪の覚悟と言って黙らせようって、
暴力団なんだろうな。
ネット使って他人を脅迫しかできない犯罪者のくせに。

815 :
>>811
なら水野勝成を主役にしようぞ
彼が主役なら
徳川勢の活躍も描けて後藤明石真田毛利の奮戦も洩れなく付いて来る

816 :
大河の話がしたい連中は「大河板」へR
http://find.2ch.net/?STR=%91%E5%89%CD&TYPE=TITLE&BBS=ALL&ENCODING=SJIS&COUNT=50&x=0&y=0
日本史板ということを忘れすぎ

817 :
誘導
大河ドラマ@2ch掲示板
http://kohada.2ch.net/nhkdrama/
真田一族大河ドラマ化を目指すスレ!3
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1319534545/l50

818 :
【2014年】大河ドラマ予想スレ6
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1339294418/l50

819 :
真田オタが出てくると、
スレのレベルが急速に下がるの法則w

820 :
×「大坂の冬の陣、夏の陣」
〇大河ドラマ予想スレwww

821 :
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1339294418/247
から飛んで来ました
>>765
本当ですか?

822 :
>>815
水野は個人では美味しいけど
大坂では冬が地味なんで
後藤のライバルポジションくらいかな
後藤主役なら思う存分に活躍させられるだろうけど
今のところ真田が有力
・・・なのか?

823 :
test

824 :
水野が主役だと
後藤・明石が引き立て役に

825 :
2051年の400回忌辺りには水野主役の大河も実現するかもしれないが
それまでは心配ないだろう
大坂の陣大河にはちゃんと出てきて
徳川を撃破していく後藤・明石の前に立ちはだかって欲しいけどな

826 :
水野は明石の杭瀬川での戦いを見てるのかな?

827 :
大河版から飛ばされてきた
サナダムシこんなとこでも暴れているのかw
しかも三谷できるキムタコでないと絶対認められないそうだから
この板でこんな事いうのは余りよろしくないが
一部の狂信的ヲタ除き戦国は飽き飽きというのが
あの板のマジョリティだから

828 :
家康は、何故裏切ったのか?最初から天下取りが目的だった
のか。秀吉生前には 逆らわなかったはず 豊臣秀頼が不遇
したという話はない。戦国において家臣とは反乱をしない
間のスタンスであり誰もが転覆をはかっていたのだろうか

829 :
秀吉は、何故裏切ったのか?最初から天下取りが目的だった
のか。信長生前には 逆らわなかったはず 三法師が不遇
したという話はない。戦国において家臣とは反乱をしない
間のスタンスであり誰もが転覆をはかっていたのだろうか

830 :
光秀は、何故裏切ったのか?最初から天下取りが目的だった
のか。信長生前には 逆らわなかったはず 信長が不遇
したという話は…あるか。

831 :
>>811
うちの死んだばあちゃん、
大阪の陣で藤堂高虎が最後に立てこもって戦死して彼の墓があるお寺のむすめさんだお?

832 :
>>830
信長生前には逆らわなかった、の時点でダウトじゃねーか

833 :
>>831
ええー?!

834 :
オレの中では、
価値的に>3つ分くらいオカルト板がの方が学問板より価値を置いてるんだが、
面白さは><=と考える
ねえ文字ってなんか物凄い秘密が隠されてんじゃねえのか?
ある意味漫画を芸術作品と捉えるなら・・・

835 :
絶対神界をのぞく全界を0にするってできるんかな。
絶対神しかできないからできないか・・・

836 :


837 :
字の神は神である人に字を書かせているわけであるから当然神示(とでたが神字ね)である。ハングルはきっと幼児の神が落書きしたと思われる。

838 :
大阪夏の陣で豊臣方が勝つには、家康の首を獲ってもダメ。
それじゃ秀忠に弔い合戦の口実を与えてさらなる猛攻を受けるだけ。
家康を逮捕して、両軍将兵の見ている前で自己批判させて、謝罪の証として秀頼の草履の裏を舐めさせる。
このくらい実現しないと諸大名も納得しない。

839 :
豊臣側には政治の実務をできる人間がいないから、
仮に戦で勝ってもすぐに世が乱れる。
大野ごときが仕切ってるようではダメ。

840 :
豊臣大坂城が見たかった…

841 :
>>839
天下が転がり込めばそういう人をすぐに雇えるがな・・・
家康のブレーンだった天海や崇伝だって松平家歴代家臣だったわけでもなんでもなくて
ただの金で集めたお抱え参謀だから

842 :
坊さんは知恵袋であって、本多父子や土井利勝のように働けるわけじゃない。
譜代がいないことは、軍事的政治的に致命的だ。

843 :
>>840
徳川大阪城よりスケールのだいぶ小さい旧式の城ですが

844 :
当時、72歳の家康が、冬、夏の時期に、遥々、駿府から大軍を率いて、
全軍の先頭に立って、指揮したのに、23歳の秀頼は、結局、城内から、一歩も出なかった。
こんな、気力の無い男に天下が取れる筈はない。
多くの、戦国気風の残る大名が豊臣を見限ったのは当然の事。

845 :
>>844
もうあの段階になったら秀頼が出て行っても負けてただろ
しかも公家として育てられた秀頼に戦闘経験なし
あの時点では徳川方も戦国気風の残る大名はほとんどいない
家康も豊臣恩顧の大名たちが次々死亡・引退するのを待って仕掛けたわけだし
老爺徳川家康だけが戦国の遺物みたいな感じ

846 :
なんにせよ、秀頼に天下人の資質も資格もないわけだ

847 :
妄想押しつけ乙

848 :
>>846
大坂の役の段階ではすでに手遅れ
関ヶ原の時に秀頼が15,6歳になっていて美しい若武者姿を披露していれば
天下は秀頼にひっくり返る可能性は十分あったけどね

849 :
それだと徳川は黙って従うだろw
関ヶ原合戦は豊臣と徳川の戦いじゃなくて、豊臣内の内部抗争だぞ

850 :
秀頼は実際には淀殿から猛烈な武士的教育を受けている。
淀は武芸者まで呼んで秀頼に武芸の訓練させたし、
室町9代将軍足利義尚に一条兼良が教授した君主論である『樵談治要』の講義も
受けさせてた。
淀殿は秀頼を公家ではなく、明らかに武家の棟梁として育てていた。
それで大阪の陣ではあの体たらくだったのだから、素材が悪かったとしか言い様がない。

851 :
>>850
それは初耳

852 :
>>850
反面、秀吉は武芸が嫌いだったんだよな
性質が遺伝したのかなあ
どう育てれば豊臣は存続できたんだろうと思う

853 :
家康が育てる

854 :
>>852
調略の秀吉とはいうけど秀吉はかなり合戦でも武功あるよね?
浅井攻めでは信長家臣中最初に小谷城の一つの廓を落とし
なし崩し的に浅井家を滅亡させて浅井領をもらい長浜城主になった
槍が強かったとか弓矢の名手だったとかではないがかなり野戦は強かった

855 :
>>854
あと実はなで斬り(皆殺し)が非常に多い。秀吉が人をRのが嫌いとかって大嘘だわなw

856 :
>>354
嫌っているのはあくまで武芸ね
秀次が剣術を習いたいと聞いた時、そういうものは不要と怒りを露わにした話がある

857 :
あの吉良上野介も浅野内匠頭の怨霊を恐れお守り3つも首に掛けていたとか。
では家康とか怨霊恐れてなかったのか?
もしかして家康の墓がある?伝説のある大阪の寺は実は秀頼一族の
怨霊封じの寺ではないか?
(秀頼一族の怨霊は大阪の寺(家康の墓?)に祟っていて出てこないでね!)
(日光東照宮の家康の墓は権現様として幕府を守ってね!)
だから秀忠、家光も参詣(怨霊に対する慰霊?)したのでは?
特に怨霊として恐れたのは秀頼+浅井長政の怨霊では?
如何でしょうか?





858 :
しらんがな。

ただ江戸期の大阪城在番の間には、大阪落城の日に大阪城内で難波戦記を読むと怪異が起こる、
という程度のオカルト話は存在した。

859 :
豊臣びいきの難波戦記で怪異なら、徳川びいきの読んだらどうなるんだろう

860 :
俺の曽祖父は明治の中頃に大阪難波で生まれたけど、秀吉のことを「太閤さん」って言ってたよ。
テレビドラマを見ても「秀吉」とはけっして言わなかった。大阪では近年まで秀吉びいきの気風が
残ってたんだね。

861 :
秀頼から偏諱を受けた者もおらんやろ。
周囲から見ても、だめなんだよ。

862 :
>>861
いるじゃん
豊臣一門・秀吉の養子以外でも
・徳川秀忠・毛利秀元・蒲生秀行・堀秀治・大友吉継・小早川秀包
などなど

863 :
釣れますか

864 :
>>862
自分で、おもしろいと思ってる?

865 :
>>861
毛利秀就は確か秀頼からの諱

866 :
関連スレ
軍事板の近世総合スレ
近世総合=火縄銃,戦列歩兵,ナポレオン=江戸・大航海時代5
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1342678782/1

867 :
徳川は天下取りの過程がせこすぎる
鐘銘難癖に堀埋め立て
それが死んだら神君だから笑わせる
そんな人間心から尊敬していた武士なんているのだろうか

868 :
何匹釣れるかな?

869 :
ヒスとか言われる淀殿は本当に発言力があったのだろうか。
過去に二度の落城経験があるなら、それを学習して自分と秀頼を守る為の世渡りはできなかったのだろうか。
淀殿自身だって織田から豊臣へと時勢の流れに乗っかかって地位を手に入れたのだし。
それを思うと、淀殿は強硬派に押されてどうすることもできなかった普通の女性に見える。

870 :
蒙古襲来のパロディをしていた徳川家康
http://music.geocities.jp/jphope21/0204/46/305.html
そのパロディとは、大坂冬の陣・夏の陣のことだ。

871 :
過去に二回の落城経験があるからこそ、トラウマになって正常な判断の妨げになったのだ

872 :
落城の経験から何も学ばないバカのうえにヒステリーでしょう>淀殿
世継ぎを産んで発言力を高めたいっつー狭い家中しか見えてない日本史世界史で典型的な愚かな女
淀殿がいなければ、いや秀頼を産まなければ、いや秀吉が側室にしなければ豊臣は良い方に違っていた

873 :
秀次は求心力があったのかな?
関白の世襲で天下人は無理がありそう

874 :
淀殿に発言力はなかった説なら、なんで秀頼は戦場に出なかったんだろ。

875 :
出るタイミングが遅かった説
又兵衛が生還していれば

876 :
戦後のこと考えたら生きててもらわんと困るから
死にたい人たち以外はみんな止めるっしょ

877 :
死にたい人達が幅をきかせていたという

878 :
一花咲かせたいだけの親分に使われる、一旗揚げたい兵隊さん…
悲哀すなぁ

879 :
太平の世には相容れない武闘派達に死に場所を提供する戦い

和睦派には迷惑な話だが

880 :
日本史上、もっとも空気の読めないバカ母子を抹Rるための戦

881 :
そもそも秀吉の生前の時点で三成のアホを粛清しとけば豊臣家は安泰だった

882 :
変なのが湧いてきたw

883 :
三成スレに常駐していて
他人の言葉の反芻と感情的な三成否定しか言えない奴じゃねぃ>881

884 :
>>873
次代の天下人は秀次だというので
毛利、細川、最上、伊達など多数の大名がしっぽを振っていたし
そのまま秀吉がRば、すんなり権力継承だろう

885 :
加藤清正や浅野幸長が梅毒であぼんして、
秀頼の周りに頼りになる家臣が少なくなったことを考えると(大野兄弟や有楽じゃなあ)、
三成は悲劇の英雄として名を残すよりも、生き延びて秀頼を守り続けるべきだったな。
もっとも、三成自身も時勢を読めない保守なんだが。

886 :
三成は佐和山に追放されたわけで、奉行でもない。
家康が筆頭大老で、七将が存命である限り、中枢へ復活する術はない。

887 :
出仕してる子どもを出世させてどうにか、ってのが現実的なラインじゃね?
秀頼が政治を執れるようになるころを考えればもう20年待っても良かった。

888 :

グロ動画 / 斬首処刑
http://www.liveleak.com/view?i=46327ba5c5&to_friend=1
http://www.m90.org/violent-videos/60971_dude-gets-brutally-beheaded-with-a-rusty-knife/
http://www.m90.org/violent-videos/62238_oh-lol-jamal-totally-lost-his-head-during-that-fight/
http://theync.com/media.php?name=4321-extremely-graphic-video-shows-two-hostages-beheaded-in-iraq
http://theync.com/static_html/18172-new_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://www.theync.com/media.php?name=15644-beheading
グロ動画 / 斬首処刑
http://theync.com/static_html/17711-just-released_media.html
http://theync.com/static_html/15998-new-beheading_media.html
http://theync.com/static_html/23804-chainsaw_media.html
http://www.m90.org/violent-videos/61686_captured-prisoner-gets-extremely-dead-and-beheaded/
http://kickassasia.com/2012/07/%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%96%AC%E9%A6%96%E3%81%99%E3%82%8B-12%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%B0%91%E5%B9%B4-%E9%96%B2%E8%A6%A7%E6%B3%A8%E6%84%8F/
http://www.heavy-r.com/video/117710/Man_Beheaded_By_Taliban/
http://www.liveleak.com/view?i=081b763bba


889 :
>>885-887のやり取り見て思ったが
清正や浅野親子が生きてれば大坂の陣は起こらなかったような気もする。

890 :
無理じゃね? 浅野も加藤も大阪城内、というか豊臣公儀において政権運営に携わる立場じゃなかったし。
政治的に秀頼や淀殿を支える立場にない。

891 :
福島も池田も黒田も細川も...
大野ごときが仕切る政権は持続不可能

892 :
>>880
もっと戦力差のある無謀な戦いをした連中なんて幾らでも

893 :
>>892
それをやった連中はその戦力差でも勝つ自信があったか(第2次長州征伐の長州藩)、
同じ死ぬなら死に方ぐらい選ぼうとしたか(武田家滅亡)だろ?
豊臣家の最後は「味方がどんどん集まってくるだろう」という思い違いをした挙句、
わずかに集まってきた死にたがり浪人どもを制御できなくて滅亡という最低な最後。

894 :
天下人の立場を賭けたという点では他と比較できない

895 :
>>894
槇島城に立てこもって信長と戦った挙句追放された義昭の立場は?

896 :
鞆の浦に長期滞在する現職の将軍様

897 :
長期滞在中に構想をまとめたのが、ポニョである。

898 :
方広寺の大仏開眼供養の座席で揉めたって
家康は天台宗にやらせるつもりが
後水尾天皇が勅命で真言宗をねじ込んできたのが原因?
それで家康はお堂の供養を別の日にして
天台宗にやらせる事にしたと言うことでいい?

899 :
でも、どうあがいても戦になるように無理矢理にでも追い詰めてきたやろ

900 :
秀次が関白でいたら家康もてがだせたかどうかだよな

901 :
>>899
あがく方が間違い

902 :
そもそもあの時点で戦争起こそうとするほうが頭おかしいし、
さらに冬の陣のあとまた挙兵するなんて自殺願望以外の何物でもない

903 :
前田が通称100万石だから、
豊臣としてはそれ以上の待遇がほしかったろうな
でも茶々が意地になってたから無理か

904 :
堀を全部埋めるなんて条件飲んだのは誰で何故でどうやって説得したんだ?
有楽か?

905 :
>>904
当時の大阪城指導部。具体的には淀殿-大野治長-織田有楽斎ライン。
そのかわり幕府からは「豊臣家の現状」をほぼ維持するという、大きな譲歩を得ている。
ただ現状維持をしたために、講和直後から過大すぎる牢人の問題が現れ、よりにもよって豊臣家は
牢人を維持するための援助を幕府に要請するなんてことまでし、結果的にコントロールを失い牢人と過激派に
大阪城を乗っ取られる。

906 :
大きな譲歩?
それはともかく有楽の口車で
無抵抗主義にコロッと騙されたのが淀殿ってことかな

907 :
>>906
莫大な牢人の維持まで認められたのが無抵抗主義のわけねーだろ。
淀殿派は防御施設の破却の代わりに、莫大な牢人の維持が幕府に対する牽制力となると考えたのだろう。
しかし逆に牢人の存在が豊臣の寿命を縮めた

908 :
淀殿は自ら人質に江戸に出向しようとしてたが、幕府に拒否されたんだよな

909 :
単純に砲撃で屈した

910 :
>>907
攻城十倍って言われてんのに
その考え方は無いわ
武装解除すれば関係が修復されるとか
有楽に騙されたんだろう

911 :
崇伝は五山の僧侶の扶持を筆記試験で行なって
自分に都合のいい事をいう人間を優遇していたってことを
東北大の中西弘氏か誰かが書いていたけど
本光国師日記とかにそういう記述があんの?
というか国師や住職ってのがそういう試験をする立場なの?

912 :
>>911
> 東北大の中西弘氏
こいつ英文学専攻じゃねーか。
こんな史学素人の言うことなんて信用できるかよ

913 :
もう家康の時代だったんだし、あきらめ悪いの一言だぜ
豊家の恩顧だって、何ごたくたれんだ
秀吉が織田信孝を自害させたんだ、本人だって恨んで死んで
三法師立てたはいい、小大名においやって、政権くれる気もさらさらなかっただろう
結局無様に信長の直孫も死んだがさ。己がどん百姓から引き立ててもらった恩顧を
理解してないのに、まわりに要求すること事態に無理ある!

914 :
>>913
せめて信長が征夷大将軍にでもなってから死んでくれないと
織田信長は天下統一してなかっただろ
天下統一して関白になってもなお秀吉は
家康に嫡男殺されて政権かすめ取られたのに・・・

915 :
その政権が秀吉の死とともに腐り納屋の如くグズグズになったので
ちなみに家康がいなければもっとひどい有様

916 :
でも、なんだかんだ後の世では豊臣びいきだからさ

917 :
>>916
明治以降のの反徳川洗脳教育の結果だね

918 :
秀吉は、普請しまくり、戦争しまくりで、
大名のみならず民衆の負担も大変だったんだろ

919 :
負担に耐えかねて一国単位で逃散なんて話がわらわらあるからな。
秀吉の方でも耕作者がいなくなった村に都市の遊民を捕まえて無理やり農業させようとして、当然大失敗したり。

920 :
秀吉没後の日本をまとめることは、秀頼はもちろん、石田や前田や当時の天皇家にもできない

921 :
>>917
徳川慶喜が江戸城を枕に自害でもしてれば後世の同情ひいただろうけどね
慶喜の幼い息子たちや、天璋院や和宮、一条美賀子といった徳川に嫁いだ女性たち、
女子供が犠牲になると更に悲劇性が増す

922 :
スレ違いな上に基本的な知識も欠落しているお花畑様なり
歴史難民板じゃねえぞ

923 :
先祖が徳川方に従軍したが、結局見てるだけで終わったらしいが。
どんな感じだったのだろうか?

924 :
まずお前の先祖がどの隊に所属してどの攻め口を受け持ったのかが解らないと

925 :

★ こちらも、よろしくお願いします ↓

秀吉の死〜関ヶ原〜大坂の陣、について語り合おう
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1349929455/
1 :日本@名無史さん:2012/10/11(木) 13:24:15.08
秀吉の死〜関ヶ原年表
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/seki-nen.htm
関ヶ原〜大坂の陣・歴史年表
http://tikugo.com/osaka/sonota-os/nenpyou.html
関ヶ原の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
大坂の陣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3


926 :
週間文春の忍者小説読んでいる人いるかい?

927 :
誰もいないのかよ。
週間文春連載の万城目学の「とっぴんぱらりの風太郎」の話だよ。
今、秀頼と淀殿とその側近が小さい櫓に閉じこもっているところに
忍びが三人入り、秀頼に寧々からの短刀を渡し、少し前に生まれた秀頼の子を
連れて脱出しようというところだ。
俺は女装して秀頼に従っていた常世と蝉左衛門は真っ先に死に、
風太郎は相原コージの「ムジナ」の最後の場面みたいにボロボロになって、
助けに来た芥下の手に赤子を渡して死ぬという筋書きだと思う。
史実では女の子が脱出して後に身元がバレて出家しているので
赤子は助かるんだろうけど、護衛の忍びたちは助かりようがないと思う。
二人の化け物がさらに介入して来ない限りね。

928 :
豊臣家の滅亡のはじまりは秀次一族の抹殺
これはあまりにむごすぎるわ
穏健派の織田有楽斉 常高院が秀頼 淀殿を
いろいろと必死に説得工作したけど将軍家との対立路線を
変えられなかったのは仕方がない…
常高院が5月7日まで大坂城から出てこないので
京極忠高や他の家臣たちは相当焦ったらしい
ちなみに秀吉の母方の縁者 つまり秀吉の親戚筋にあたる小出氏が
3万石の大名で存続しているから豊臣家滅亡は
自分的にそんな悲観的ではない
伊達政宗が幼い時に秀頼が大坂城を出て他国の大名になるのが良いと発言したけど
これがベストだったと思うわ

929 :
淀殿って冬の陣後に人質を志願していたらしいけど
幕府から断られたんだよな

930 :
大坂の冬の陣の時には既に豊臣家討伐は決定事項だったから
もっと早く幕府に恭順しない淀殿や秀頼がよくない

931 :2013/03/24
>>929
それは豊臣が牢人養うための「加増」と交換条件にしてきたためだ。
そんなアホなもの受けられると思うか?
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