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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう


1 :2012/02/12 〜 最終レス :2013/03/17
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった
この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている
日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である
毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ
毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる
このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください

2 :
邪馬台国を脅かしていた強大な狗奴(くぬ)国とは毛野(けぬ)国のことだと言われているね。

3 :
狗奴国は、許乃国(コノ国)

4 :
良スレの悪寒

5 :
吉美侯部

6 :
ヤマトは、関東辺りを日本(ひのもと)と呼んでたよね
そして、この地を勢力下に置いた時期に国号を日本にしてる
なんで大和国にしなかったんだろう?
日本王国に敬意を払った?

7 :
>>6
邪馬台と大和が似てるから、嫌だったんだろ

8 :
>>2
狗奴は熊野で間違いない

9 :
>>6
日本と書いてやまとと訓んでた。

10 :
アジアは東に移動する。
日ノ本も、太陽の昇る東のほうと言う意味で、
最初は河内湾岸から見た生駒山「日下」のあたりだったとは
谷川健一説。
それがだいだん東へ移動し、
朝廷から見て最辺境を「日ノ本」と呼んだらしい。
さいごには東北がそう呼ばれた。
「ひのもとヤマト」とき「ヤマト日高見」とか言うのは
美称。

11 :
>>6
大和朝廷の関東への東征が、ことのほか上手くいったというのも、理由のひとつじゃない
ほとんど抵抗された形跡が見られない

12 :
>>11
たしかに関東には毛野氏のように豊城入彦の子孫や
大彦の子孫の豪族が多いな

13 :
>>12
大和だけでなく、出雲とのつながりも感じる
栃木は出雲と並んで前方後方墳が多い地域だよ
大田原にある日本で一番美しい古墳といわれる下侍塚古墳も前方後方墳

14 :
東国六腹朝臣の本貫地ってどこなんだろ
上毛野氏 下毛野氏は それぞれ その国だろうけど

15 :
666年 百済人2000人を東国に移す
684年 百済人23人を武蔵に移す
687年 高句麗人56人を常陸に移す。
687年 新羅人を下野・武蔵に数十人の単位で随時移す。
716年 甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など7国の高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を置く。
<続日本紀より>
関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す証拠はいくらでもあるが、
縄文系であることを示す証拠は何も無い。
由比ガ浜の鎌倉人骨(長頭、低顔(上下に短い)、扁平な顔、出っ歯)も遺伝子解析の結果、
渡来系と判明した。坂東武者は気持の悪いチョンなんだよ、平和的な日本人らしくない。
チョンの末裔の関東人どもは、捏造をやめて事実を直視しろよ。

16 :
260 本当にあった怖い名無し sage 2012/02/14(火) 08:27:21.20 ID:MvXGidh+0
酒豪マップから見える日本人のルーツと歴史
http://blogos.com/article/4003/

下戸の比率は近畿東海北陸などが高い。
関東では群馬だけ下戸の比率が高い。
それは古来から群馬は渡来人の集積地だったからだろう↓


古代朝鮮文化訪ねる旅 15周年企画 上野・下野路(群馬、栃木)、随所に古代朝鮮の足跡
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506j1105-00001.htm

>群馬県は全国でも有数の「古墳県」で、その数は1万基を上回るといわれる。
>栃木県にも100メートルを超える大型古墳や群集墳が少なくない。

>これらの古墳文化は6〜7世紀頃、古代朝鮮から渡来した新羅、百済、高句麗、伽耶などの
>移住民勢力がもたらしたもので、朝鮮系統の様式と色彩が濃く、武具、馬具、須恵器などの
>副葬品にも朝鮮渡来系のものが数多く見受けられる。
↑なんで今の韓国人は下戸が少ないのか?
今の韓国人はどこから半島に辿りついたのか?

17 :
>>14
東国六腹朝臣がみな毛野氏を祖としていることから北関東だな
大野朝臣は下野国那須郡
佐味朝臣は上野国緑野郡佐味郷
車持朝臣は常陸国真壁郡
池田朝臣はよくわからん

18 :
それにしても東国六腹の朝臣は不思議だよな
畿内以外のしかも辺境の北関東から
貴族の最高の位置である朝臣を賜る氏族がこんなにまとめて出るとは
他の地方では例がない
何か特別な理由があったんだろうな

19 :
>>10
日下も元は「ひのもと」と読んだはず、と唱えてるのが谷川説だよね。

20 :
>>15
武蔵七党などにはネイティブがそれでも多いのではないか?
児玉党の児玉氏の始祖はニギハヤヒであるし、
小野姓横山党の小野氏の先祖は小野妹子であって祭神はアラハバキである。
鎌倉時代以降、このような人々が日本中に広まっていったのだ。
以下wikipedia 児玉惟行の一項目↓
(前略)上記の様に児玉氏の初姓が藤原姓だったと言うのは後世の創作と考えられる。有道(在道)氏は始め、大部氏を称していた。
大部氏が有道氏を賜った事は、『続日本後紀』に見える。従って、
大部氏→有道(在道)氏→遠峰(コダマ・コタマ)氏→児玉氏→庄氏→本庄氏と言うのが本来の流れであり、大部氏から本庄氏に至る。
大部氏の祖神はイキシニキホの命とされる(ニギハヤヒの別名とも伝えられる)。

21 :
>>1
中世の藤姓足利氏も、源姓足利氏も、新田氏も、宇都宮氏も母系氏族はみな毛野氏だよ、多分。

22 :
>>15
よく言われるのは
関東は縄文3:7弥生 高句麗 馬文化
近畿は縄文1:9弥生 百済 牛文化
>>20
児玉党の有道氏は常陸の豪族
有道の前身は丈部氏だよ

23 :
>>21
それどころか、あの「大魔神」も毛野氏だw
群馬で出土した国宝の武人埴輪がモデルだからね
さらに言えば武人埴輪は現代のガンプラ
つまり、ガンダムも毛野氏を祖としているのだw

24 :
まず、北関東の地に国譲りで国を追われた出雲の人々がやって来て平地を開拓。
山地に住む縄文人と交流、混血した。
やがて、大和の人々が毛野川(現利根川)伝いにこの地に進出し、毛野氏を興す。
この地でも国譲りが行われたということなのか?

25 :
アメリカから見た鎌倉:ブレイスのアイヌ−サムライ説
1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。
この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、
鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。
今回、ブレイスの頭蓋骨計測データを新しい統計処理法を使って再分析した。
また、歯の計測データに関しては、ブレイスらは歯の合計面積の平均値のみを使って集団間の血縁関係を議論したが、
今回は、個々の歯のサイズのデータを用いて多変量解析を行い、それらの結果を報告する。

26 :
手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島
各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い
+2.12…畿内
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州

27 :
有道氏の前身は大部氏ではなく丈部(はせつかべ)であって、丈部氏と氏を付けてはいけない。
この丈部は平安期には駆使丁とされてきたが、古王朝においてかなり枢要な役を任じていた
族の後裔であることが、近年分かってきた。そして、その丈部の後裔から"有道"を賜姓され
た族が北条氏や室町幕府を事実上支配した伊勢氏、江戸幕府の主要幕閣を任ずる氏族が派生
していることが論証できるのである! http://kamakuragokenin.blog.fc2.com/

28 :
元の意味が何であろうが、それが氏(うじ)になったってことだろ。
それが駄目なら同様の理由から、物部や大伴や中臣や忌部だって「氏」をつけちゃいけないことになる。
ちなみに、武蔵国造も出雲氏族・丈部氏(のちには武蔵宿禰氏)の出だ。

29 :
毛野氏って平氏じゃん?
DNA鑑定してみ、Qとか出るかも。
http://www.familytreedna.com/default.aspx
(英語だし高いし、自分はできないけどさ。。)
いわゆる「縄文人」とはちょと違う。
韓国にも、たまーに濃い顔のイケメンいるでしょ。
あれも毛野の遺伝子ね。
あっちには「縄文人」のDNA出てないし。
邪馬台国のライバルだった狗奴国も毛野の国だけど、
北関東の毛野組とは別の一派。
桐生(群馬)と西陣(京都)は日本有数の織物(特に帯)の産地だった。
毛野の女子は織物が得意なんだよ。

30 :
田辺史は毛野氏族を称していますが、
どう見ても帰化系です。本当にありがとうございました

31 :
だって毛野系の人、韓国(新羅)にもいたから。
だいたい同系の人がいる所に住まわせてるみたいよ。
百済人を東国にってのはよく分からんけど。

32 :
>>30
藤原不比等は、幼少期に田辺氏に育てられているね

33 :
古代の氏族辞典『新撰姓氏録』によれば、上毛野氏と同祖とする貴族集団は三十六氏ほどあり大きく三つのグループに分けられる。

第一グループは東国六腹朝臣を中心とする東国に関係する氏族群。
第二グループは百済系を中心とする渡来系氏族群。
第三グループは紀伊、和泉、大阪湾周辺に住み続けたとみられる氏族群である。
http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/2359d9c73999a21dc0453d3c0b2469a7

34 :
新撰姓氏録ってうさんくさくねえ?
この板ではバイブルみたいに持ち出すやついるけれども

35 :
>>34
それを言うなら、古事記や日本書紀はもっと胡散臭くね?

36 :
>>35
特に物部氏のうさんくささは半端ないね
神武天皇が来ました〜ニギハヤヒは服従しました〜
あっ、これ物部氏の祖先だから!
ヤマトトイモモソ姫がRされて亡くなりました〜
R犯を奉れば国は安泰でしょう〜
大物主さまバンザイ
な ん だ そ れ は

37 :
だいたい大物主って名前からして大国主のパクリなのがみえみえ

38 :
伊達政宗も毛野氏なんでしょ?

39 :
あと奥州藤原氏も

40 :
あー、徳川氏もそうか...

41 :
神戦「赤城と日光二荒山神戦」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=1302
上毛野は長野に近い分、出雲勢力側
下毛野に見方して猿麻呂を呼んだ白鹿は鹿島の神だから
下毛野は大和勢力側だね

42 :
>>41
誤字修正
×見方○味方

43 :
>>41
顔が猿に似ている
広く厚い胸と丈夫な息づかい
弓が得意
奥州の厚樫山出身
猿麻呂は間違いなく俘囚だろうな
下毛野氏はその猿麻呂と親戚筋
実際、下戸遺伝子やアクセントの違いを見ても、同じ毛野氏でも群馬は弥生が強く、栃木は縄文が強い
なかなか面白いな

44 :
なにが「間違いなく俘囚」だ
バカが

45 :
>>44
何、昔話にムキになっとーと?

46 :
昔話板じゃなくて日本史板なんでね、一応

47 :
たしかに同じ毛野国なのに上野と下野は方言だいぶ違うんだよな

48 :
ほうほうそうなのか。
どんな感じ?広島弁に似てたりしない?
わしは〜じゃのう。とか言わない?

49 :
>>41
群馬には羊太夫伝説というのがあるよ。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7211/Japanese/hitujij.html
多胡羊太夫は中臣羽鳥連の末裔。
ちなみに、中臣羽鳥連の子、中臣菊連の娘が上野国の地方豪族車持国子に嫁ぎ、
その娘・与志古が藤原鎌足の妻となって藤原不比等が生まれたという説がある。
何かにつけ藤原不比等が毛野氏を重用するのは血縁関係があったからなんだろうね。


50 :
群馬県、玉村町ってひょっとしてかなり重要な地点なのかな
古墳が多くあり、竜神を崇めていた伝説や
朝廷から魔物討伐に派遣された武士に倒された魔物が
神として畏れ崇められているし

51 :
>>50
ほう、どんなお話?

52 :
http://ameblo.jp/toojoon/entry-10899301886.html
角折神社の魔物伝承
そしてこの玉村町というのも
将門伝説と係わり合いがある悲劇の伝承
http://yukiskan.3.pro.tok2.com/manholl-frame/gunma/tamamura.html

53 :
小野姓横山党との関係は?

54 :
■ 関東古代の海岸線
http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1188432232495/simple/071022194142_4.jpg
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw2.htm
南関東は人の住む場所ではなかった。
人々は北関東に集まっていて、縄文人は特に1,000m以上の高地を好んで生活圏としていた。

55 :
>>54
武蔵国のむさしは、人の住めない、むさ苦しい土地という意味があるらしいね

56 :
>>55
他にもアイヌ語で草原を意味する「ムンザシ」など様々な説があるね(※万葉集に「牟射志」=ムンザシとの表記あり)。
>>53
小野横山党は興味深いね。
加えて、小野氏が入り込む前の小野県のあたりの土着豪族にも。
武蔵国一宮と位置付けられる小野神社や、総社になる以前の大國魂神社などを調べているとその思いを強くする。
初代武蔵国造・兄多毛比命は天穂日命後裔で出雲氏族なんだけど、この命は大國魂神社界隈を中心とした多摩川流域で多く祀られている。この大國魂神社が先に述べた小野神社を一宮と位置付けていることから、
武蔵総社である大國魂神社は、延喜式名神大社である氷川神社よりも、延喜式小社である小野神社の方を明らかに大切にしている感が伺える。
国が定めた格式(延喜式)と、現地武蔵国の総社が定める順位に「ねじれ」生じているわけだからね。
そうなると、“原大國魂神社”と小野神社とは元々一体のものであったという推論も成り立ってくるだろう。
そして、総社になる以前の大國魂神社は代々出雲氏族である武蔵国造一族が奉祭を司っていたことから、
やはり小野党も(小野氏が入ってくる前の)さらに前身氏族を辿れば、それは同じ出雲氏だったとするのが妥当ではないか。

57 :
加えて、律令時代に名神大社とまで位置付けられる氷川神社を奉祭していた北武蔵勢力は実は武蔵においては後発氏族で、
多摩川(〜鶴見川)流域を支配する南武蔵勢力の方がより先行開発氏族だった。
6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」においてこの多摩川流域勢力は、氷川神社を奉祭する元荒川流域の新興勢力に破れ、国造の地位も元荒川勢力にとって替わられる。
この戦いで、南武蔵の多摩川流域勢力が同盟を結んだのが上毛野氏だった。
一方新興勢力の元荒川流域勢力が結んだのが大和朝廷。
関東における基層覇者勢力である毛野氏と、武蔵国内での先行開発勢力である南武蔵・多摩川流域勢力とが結び、
新興勢力である北武蔵・荒川流域勢力とこれまた出雲に代わる新興勢力であった大和朝廷が結んだというのが面白い。
最も、古参の南武蔵・多摩川流域勢力も、新興の北武蔵・元荒川流域勢力もともに姓は「笠原」で、姓のうえでは両者は同族の出雲系氏族ということになる。
これは多摩川流域と元荒川流域では元々支配勢力は違っていたが、ともに出雲氏から婿を迎えた招婿婚によって「同族化」したものなのだろう。

58 :
↑の「名前欄」は
「56つけ足し」
の間違い。

59 :
>>57
古墳の年代観としては、多摩川流域とかよりも埼玉古墳群の方が古くないか?
それを多摩川流域の勢力のほうが先行とするのはなんで??
このことを踏まえれば、埼玉古墳群の被葬者層を旧勢力として、多摩川流域
の勢力を新興勢力って位置づけるほうが自然。
それに武蔵国の国府が置かれた場所は大国魂神社付近だから(府中)、律令の時代まで自然に
結びつけることができるよ。

60 :
多摩川なんて毛野国から見れば辺境の地だからな

61 :
>>52
そこの川よりがBなのと因果関係あるのかね?

62 :
>>59
☆埼玉古墳群(北武蔵=元荒川勢力)
・稲荷山古墳:5世紀末〜6世紀初頭
・丸墓山古墳:6世紀前半
・二子山古墳:6世紀前半
・将軍山古墳:6世紀末〜7世紀初頭
etc
☆荏原台古墳群(南武蔵=多摩川勢力)
・宝来山古墳:4世紀後半
・亀甲山古墳:4世紀末〜5世紀初頭
・野毛大塚古墳:5世紀前半
etc
ちょうど入れ替わるように武蔵の古墳の築造年代は南武蔵=多摩川エリアから北武蔵=元荒川エリアに移動してるんだよ。
それから武蔵国府が南武蔵=多摩川エリアに置かれたのは、6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」の結果、
勝利者となった北武蔵勢力により、破れた南武蔵勢力の領域が北武蔵の後ろ楯となった大和朝廷に屯倉として献上されたから。つまりは律令制施行時には朝廷の直轄地となって久しくなってたからだよ。
「武蔵国造の乱」の経緯は、『日本書紀』安閑天皇御代元年閏十二月条に載ってるよ。
このテーマに対してレスしてくれるのは嬉しいが、もうちょっと勉強してくれ。

63 :
>>60
>>57

64 :
>>62
終末期古墳は??

65 :
>>64
は?

66 :
>>62
これって甘粕健とかの古い説じゃないの。古墳の年代観は何に拠ってるの?
今までの諸説の経緯とか示して頂けると助かります。

67 :
>>65
古墳の規模からそれを造ることができる有力な首長がいたってことは
いえても、本当に国造職ってのはその在地社会の一番の有力者を
任命していたのか、そこまでいえるのかって所に疑問をもってる。
古墳を扱う研究者はみんなそこを自明のものとして扱ってるけど、
現に有力な古墳は武蔵国内の他の地域に色々ある。
例えば埼玉古墳群内の最大級の古墳である稲荷山とか双子山に匹敵する
古墳として、築造年代が同時期にあたる野本将軍塚古墳とかあったり、
単純に古墳の最大規模=国造の墓といえるのかってこと。
これは国造職そのものの任用の問題ともかかわるんだろうけど。
もちろん、示してくれた古墳の築造年代が接続するから国造職の勢力間の
移り変わりがあったんだという考え方は、わかりやすい見解だと思うけど。

68 :
>>66
古いのかどうかは知らんが築造年代は古墳の埋蔵品などからの比定だよ。
逆に、より「新しい」築造年代比定がなされたんだとして、それで南武蔵→北武蔵の権力の移動の順位が逆転するものなのかどうか?そんなソースがあるなら是非示して下さい。

69 :
>>67
武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
因みに、
隣の相模国だと、相武国造、師長国造と並んで「鎌倉別」という勢力が有って、少なくともこの3つの勢力が鼎立していたとされる。
まあ相武と師長は令制前は別の国ではあるが、相模国が成立した後も同国は相模国造が任じられているから(いわゆる「律令国造」)。

70 :
>>69
武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味
がある。もちろん、国造云々の時代は、各豪族の縄張りみたいなもので
ある程度線引きしたものであったんだろうけどね。今自分たちが思い描く
国境っていう概念ができたのは天武朝の国境画定事業であって。
>武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
 当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
→これは面白い。となると、どういう選定理由で国造職をヤマト王権は決めていたのかとか、
 そもそも国造職は一人だけだったのか、とか色んな疑問がわいてくる。
 これ以前だと「県」との関係とかどうなんだろ。

71 :
『遊牧騎馬民族と東国武士 』
著者:保坂俊三
出版社:中央公論事業出版
item.rakuten.co.jp/book/1076854/
593 名前: 天之御名無主 投稿日: 01/10/01 19:52
以前図書館で「遊牧騎馬民族と東国武士」という本で興味深い内容を読
んだ。遼東半島に居た倭人が拓跋氏に捕らえられ、海で獲った魚を拓跋
に供給していた。これが禿髪氏。その後拓跋氏は魏を開いたが、禿髪氏
は同じ鮮卑であり、源が同じということで皇帝から「源」の姓を賜り、
将軍職を与えられるなどたいそう出世した。禿髪とはちょんまげの事。
つまり、日本の東国に入植した、出土品から見て異民族に思える騎馬集団、
のちの武士は禿髪氏の事である、というような内容だった。参考までに。
http://mimizun.com/log/2ch/min/989770047/

72 :
>>70
> 武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味がある
氏姓制度時代の北武蔵エリアは本当に元から武蔵国だったのかっていう疑問もあるね。
後発開発地域で5世紀末になるまで大型古墳が存在しなかったっていうことは、当然より強大な先進地域である毛野国のテリトリーであったからということであるのかもしれない。
それから、国造封建については1人が任命される場合もあれば、一国に2人(以上)任命される例などもあったみたいだし、
上で挙げた「武蔵国造の乱」のような覇権戦争その他理由で交代する例もあったみたいだ。
国造封建は成務朝期に多い。やはり日本武尊絡みかな。
国造の任命については元からの在地豪族が任命される場合もあれば、中央朝廷から派遣されて(封をうけて)任命される場合もあったようだ。
つまり、のちの鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の守護地頭や大名の任命の仕方とおんなじ。

73 :
ああ、わかりやすく歴史で書くとな。日本史の史実はホントはこうだ。
そして坂東武士そのものは
承久の段階でもう坂東の軍団の合計3割 10万以上は占めてた坂東武士一計そのものだろ


74 :
>>62
ならば、5世紀後坂東武士がとりかえすんですな。

75 :
>>2
前スレ
【毛野】関東に大王あり【武蔵】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1105834872/

76 :
>>3
コノハナサクヤ姫と関係ありますか?

77 :
>>15
>関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す
>証拠はいくらでもあるが、縄文系であることを示す証拠は何も無い。
大嘘。
関東ではD2の比率が高いが、朝鮮にはD2はまずない。
むしろ中国・朝鮮に多いO3の比率は西日本で高い。

78 :
畿内古墳人は
渡来系古墳人の中でも渡来形質が特に際立っている集団である
畿内古墳人は
韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し
縄文人から最も離れている
関東・東北南部古墳人は
渡来系古墳人の中で縄文人グループに最も近い
『日本人のきた道』 (池田次郎・京都大学名誉教授 自然人類学)

79 :
三毛野命
若三毛野命

80 :
>>79
神武天皇のことか
けぬってどういう意味なんだろうな

81 :
http://seiji.yahoo.co.jp/vote/result/201211270001/

82 :
百姓上毛野貞並

83 :
>>80
だから神武天皇の乳母氏族が毛野國の人だったんじゃね?
昔の皇族の名前って母親の氏族名か乳母の氏族名つけるじゃん

84 :
中臣=藤原氏も元は軍事貴族で畿内から関東に遠征し通婚して常陸や房総に地盤を得たのかな
だから鹿島神宮=春日大社のつながりがある
あるいは元々地方の勢力だったのが連合政権を作り、首都周辺に集住し豪族層を形成する
後の室町時代、江戸時代を考えても官僚層は地方に地盤があるね

85 :
>>84
中臣氏は神官の家系で元々軍事貴族ではないだろう
中臣氏の中でも、毛野氏の後ろだてを得た藤原氏が、後々政治的軍事的に突出した力をつける事ができたが

86 :
>>85
藤原はむしろ大伴に近いんじゃね?
中臣鎌足の父中臣御食子辺りまでは神官やってたらしいんだが
中臣鎌足の実母が軍事氏族の大伴氏出身
鎌足が母方の縁で軍事力を身につけてもおかしくない

87 :
>>86
鎌足は生前には藤原姓を名乗っていない
実質的な藤原氏の祖は不比等だろう
不比等の母親は上野国の地方豪族車持氏の出、つまり毛野氏だ

88 :
中臣氏も尊卑分脈からだけでは推し測ることの出来ない難しい氏族ですよね。
九州・宇佐津臣(宇佐国造)の一族に仲津臣(なかつのおみ)という氏族がおり、この氏族が常陸に移動して鹿島神宮宮司の多臣(おおののおみ)氏と、
常陸・那賀国造(なかくにのみやつこ)氏とに分かれます。
那賀国造氏は同時に那賀臣(なかのおみ)氏、仲臣(なかのおみ)氏、そして中臣氏とも称しました。
また、那賀国造の「那賀」は、宇佐国造一族である仲津彦の「仲」に由来するものと思われます。
そしてこの宇佐津彦(宇佐国造)、仲津臣氏、多臣氏、那賀国造(=那賀臣、仲臣、中臣)氏の共通先祖に天種子(アマノタネ)命という神がいます。

89 :
>>87
天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたのは鎌足
通例で中臣と呼んでいるだけで藤原鎌足でもあるんだよ
だいたい、藤原が朝廷で重んじられるようになったのは鎌足の軍事行動によってだ
それでは鎌足の軍事力はどこから来ていたと思うのか?
車持氏は名の通り、天皇の輿を担いだ一族だが傑出した大和朝廷の軍事氏族ではない。

90 :
>>89
軍事行動って何を言ってる?
中臣氏は「壬申の乱」でボロ負けしてたろ
近江方の中心人物だった中臣氏族長の連金は乱後に処刑されてる
頼みの大伴氏も大海人皇子側に付いたしな

91 :
中臣鎌足は弓削大連・物部守屋の曾孫か玄孫くらいだと思います。

92 :
>>88
へぇ、面白いね。
ところで、中つながりで、天智天皇(中大兄皇子)には、何か氏族的なつながりがないのかな。

93 :
>>89
確かに壬申の乱後の中臣氏・藤原氏の立場はかなり微妙なものになったし
両氏はこのまま歴史の舞台から消えてしまう可能性もあった
大伴氏が天武側についた事がこの乱の勝敗を決めたともいえるから
父を裏切った大伴氏に対する不比等の恨みは相当のものだったろうね

94 :
すまん>>93>>90に対するレスね

95 :
天武十三年(684年)の「八種の姓」で毛野一族である「東国六腹」は
そろって朝臣の姓を与えられているね
当時、朝臣を与えられた面々を見ると畿内の大豪族ばかりなので、
地方豪族にすぎなかった毛野氏に朝臣が与えられたのはかなり異例な事だね
なんでなんだろ?壬申の功臣だった?そんな話は聞いたことないけど

96 :
さらに不思議なのは
毛野氏に朝臣の姓が与えられた時、中臣氏にも同じ朝臣の姓が与えられたが
壬申の功臣であるはずの大伴氏に与えられた姓はワンランク下の宿禰だったという事だ

97 :
神別系で優遇されたのは中臣藤原氏と石上朴井の物部氏だけだから。
同じく神別系の大伴は除外された。

98 :
久米、大伴は同族な気がします。
また大伴、物部、中臣は緩やかな同族かと。

99 :
>>95-96
おまえはなにをいってるんだ?
不思議でもなんでもないだろ。
上毛野氏も下毛野氏も、北関東と畿内の両方に繁茂してる立派な大豪族だぞ

100 :
>>99
上野、下野、車持だけならまだ分かる
大野、池田、佐味なんてそんなに立派か?
畿内やその周辺にももっと有名豪族がいただろ
大伴とか忌部とか尾張とか吉備とかさ

101 :
>>100
毛野氏は一族の結束が強かったから
六氏族すべてに同等の姓を与える必要があったってことだろうね
まあ、それだけ一族の力が強かったってこと
武力については蝦夷と接する土地柄だから言わずもがなだけど
財力についても他の豪族をはるかに凌いでいたようだ
例えば、下野国では持統天皇の病気回復を願って
平城京内の七大寺に比肩されるほどの壮麗な大伽藍を持った
官寺「下野薬師寺」を建立しているし
「公地公民」では率先して奴婢六百人を解放している
普通、奴婢は畿内の大豪族でも十数人程度だったといわれているから
いかに下野一族の勢力が大きいものだったかわかるよね

102 :
カバネってのは個人に与えるんじゃなくて
一族全体に与えるんだから何もおかしくないだろ
出世頭が一人いれば一族全体が余沢にあずかるって仕組みじゃん

103 :
>>102
そう、その出世頭が下毛野古麻呂だね

104 :
オビ=ワン・毛野氏

105 :
下野古麻呂って何者なんだろう?
最終的な冠位と役職は「式部卿大将軍、参議、正四位下」
・式部卿 ・・・ 文官の人事を担当した式部の長官
・大将軍 ・・・ 最大で三万人の兵士を統率する指揮官
・参 議 ・・・ 国の最高決定機関である「朝政の議」に参加できたのは大臣、納言、参議のみ
出世競争で差別されていた地方豪族出身者が、これほどの高位にのぼるのはきわめて異例だ
古麻呂以前には例がないし、古麻呂後でも古麻呂の上を行ったのは吉備真備以外にはいない

106 :
持統天皇即位以前の古麻呂は無名の下級官僚にすぎなかった
それが持統朝になると一転めざましい活躍をみせるようになる
既に持統天皇や草壁皇子と親密な関係のあった藤原不比等からの
推挙があったかもしれない
古麻呂は生涯、不比等と行動を共にしている

107 :
大野東人は?

108 :
>>107
おっと、同族の大野東人を忘れてた
ご指摘感謝

109 :
斉明六年(660年)唐・新羅連合軍の侵攻により百済が滅亡。
中大兄皇子は百済の遺臣「鬼室福信(きしつふくしん)」の要請により
人質「余豊璋(よほうしょう)」に織冠を与え、護衛兵5千余人を付けて送り返す。
さらに天智元年(662年)日本より送られた救援軍は余豊璋を国王とし百済を復興。
翌年、二万七千の主力軍が新羅に向けて出撃。
前軍の将軍は「上野稚子(かみつけぬわくご)」。
稚子らは新羅の二城を奪うなど緒戦は優勢であった。
このとき青年となっていた古麻呂はすでに出仕していただろうか、
同族の上野稚子の活躍を誇らしく思いながら見守っていたに違いない。

110 :
>>105
だから地方豪族じゃないと何度いえば…

111 :
ところが、何を血迷ったのか余豊璋が鬼室福信を謀反の罪で殺害。
この内輪もめにより百済軍は空中分解する。
日本軍は指揮系統が不明瞭なまま唐・新羅連合軍に単独で対峙しなくてはならなくなった。
結局、日本史上初の対外戦争であった「白村江の戦い」は惨敗という結果に終わった。
敗戦の原因は、余豊璋の度重なる軽率な行動もあったが、
日本の救援軍が豪族の私兵の寄せ集めに過ぎず、
国家による軍団制が完成していなかったことが大きい。
毛野一族にとっても多くの私兵、そして将軍上野稚子を失うという
大きな痛手を被る戦であった。

112 :
余豊璋は無能

113 :
崇神の皇子、トヨスキイリヒコは東国を収めるように命じられる。
トヨスキイリヒコの孫の御諸別の代に、
崇神の孫である景行が、
御諸別に「汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ」
と命じたとある。
時系列的には不自然ではなく、
毛野がヨスキイリヒコ並びにその子孫を始祖とするのもまた不自然ではない。
ご都合主義的に書紀を利用してきた、従来の逆皇国史観はおいといて、
日本書紀の記述は案外正確。

114 :
>>111の続き
「白村江の戦い」の敗戦処理で国内が混乱する中
唐からの使節団と共に、満を持してあの男が帰ってくる。
学問僧として渡唐していた不比等の兄「定慧(じょうえ)」である。
孝徳天皇の後胤だといわれる定慧を父・鎌足は彼の安全のため唐に留学させていた。
しかし、定慧の外交能力を必要した鎌足が呼び寄せたのだ。
また、年老いた父を持つ若い不比等のためでもあった。
もちろん、定慧の母親は不比等と同じ車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)。
毛野氏である。

115 :
定慧の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」という。
還俗して名を真人に戻したが、今もなお、その命を狙われる身。
そのまま中臣氏でいるわけにはいかなかった。
定慧帰国前のある晩、鎌足は粟田百済(あわたのくだら)を自分の屋敷に招いた。
百済「ところで内臣殿、私に内々の頼みとは何でございましょう?」
鎌足「実は近々、長男の真人が唐から戻ってくる。
  その真人を百済殿の子息として迎えてはくださらぬか?
  無論、貴殿及び粟田一族の悪いようにはせぬ。
  このような事を頼めるのは身内である貴殿しかおらぬのだ。」
粟田氏は中臣氏と関わりの深い春日氏の後裔氏族である。
個人としても粟田百済は大事を共することができる人物であった。

116 :
>>115
面白い話だが、
>粟田氏は中臣氏と関わりの深い
ことを論証できないとただの思いつき、妄説に終わってしまう。

117 :
>>111
お前の妄想には興味ない。

118 :
粟田氏限定というよりも、同氏を含めた和邇・久米氏族と中臣・藤原氏族との結び付きについては確かに注目すべきものがあると思われます。
鹿島神宮宮司家の多氏・仲臣(中臣)氏のルーツである宇佐氏(宇佐国造氏)と神功皇后の出身氏族である息長氏との関係や、
春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

119 :2013/03/17
>>118
>春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。
考えられるのは、藤原史と粟田真人との関係。
それ以外の結びつきには首をひねってしまうが。
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