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大政奉還後の新政府構想について (114)
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大政奉還後の新政府構想について
- 1 :2012/01/18 〜 最終レス :2013/10/20
- 教えてくれないか?
- 2 :
- ・土佐→船中八策にみられるように議会開設を主唱 →薩長にほとんど黙殺
・薩摩→皇軍(薩長)による事実上の軍政、廃藩置県、産業振興
・長州→条約改正、近代陸軍、官僚制導入
・公家→天皇と神道を中心とした神権政治、養老律令体制の復古
まず土佐は最初からシカトされ、薩長公家体制。公家の主唱する神祇官制は
あまりに理念すぎ(神主国家論)なので薩長が押しつぶし、事実上の軍政。
これが明治5年くらいまでのおおまかな流れ?
- 3 :
- アホかw 最初から土佐の後藤は参与に入っとるし、福岡孝弟が五箇条の御誓文起草に参画しとる
板垣も軍功でかなり発言権あるぞ
木戸は版籍奉還の話を大久保に持ちかけるのと同じ日に後藤にも持ちかけてる
知りもせんで適当なこと言ってんじゃねーよw
- 4 :
- 4様
- 5 :
- ho
- 6 :
- ho
- 7 :
- ho
- 8 :
- ho
- 9 :
- 全ての原発停止後は火力で補いその間自然エネルギーを開発したところで廃炉に
- 10 :
- >>1 一挙に共産主義革命まで行っていたら世界初の共産国になったのにな。
もうマルクスはいたんだろ。
- 11 :
- 薩長閥という革命政府が前衛党となり日本の人民を指導した天皇制社会主義国
- 12 :
- >>9
その間の火力の燃料代毎年3兆くらいを払ってくれるならいいぞ。
- 13 :
- >>11 下級武士主体の革命だから無産階級革命ではあるな。
- 14 :
- 国家社会主義
- 15 :
- 薩長幕府でごわす。
- 16 :
- 薩長天下でごわす。
- 17 :
- 大政奉還で公議政体の道が開かれたのにそれを謀略と武力で押しつぶして
藩閥政権に持ち込んだのが薩長。かれらのせいで日本の議会政治は
20年遅れた。
- 18 :
- 集議院では全国から集めた藩士や諸侯らが存外保守的だし既得権にこだわるしで
ちっとも改革案が通らず、頭の中身を刷新せねば議会制は無理だと露呈した
そのへんから若手諸侯や有望藩士がショック療法のため海外留学に送り出された
結果としてしばらくは有司専制
- 19 :
- 薩長同盟構想
- 20 :
- 幕末機動隊などと呼ばれ、幕末を扱った小説や映画では悪役とされてきた新撰組であるが、その実態は決して幕府側の守旧派の集まりではなかった。組長の近藤勇をはじめ、副長の土方歳三、など隊士の大半は下級武士か、農民出身の若者であり、
彼らにとって新撰組は、身分を越えて出世する大きなチャンスであった。
思想的には、開明的で、土方のように、後に北海道に逃れ、函館に日本最初の共和国「北海道共和国」を建て、大統領選挙を行った人物もいた。
土方に従った隊士も何人かいた。新撰組が戦ったのは、薩摩、長州であり、彼らのきわめて政治的な行動に不信感を持つ者は多かった.近藤、土方の出身地である東京の多摩地区は、明治になってからの自由民権運動の中心地でもあり、
それを担った豪農層は、同時に新撰組の支持層でもあったのである.土方らの思想には、長州、薩摩と違い、天皇に対する思い入れは微塵もなかった.このことは、長州、薩摩主導によらない日本の近代化が行われたならば、今の天皇制はなかったことをしめしている。
15代将軍徳川慶喜は、大政奉還後、諸藩の大名を議員とし、自ら初代大統領となる議会を開こうとした.これは、フランス議会を真似したもので、大統領と議会による共和制を目指したものである.
従来、この慶喜の構想を幕府と将軍の生き残り策とする見方が多かったが、慶喜が.将軍在任中にヨーロッパの政治制度や法律の研究を進めていたことから、決して生き残り策としてだけではないとの見方も出されている.
慶喜の近代化政策も、天皇制でなく共和制だったところが興味深い
- 21 :
- 徳川慶喜は将軍に就任して以来、列強諸国から「日本の皇帝」(エンペラー Emperor)として承認されていました。
その彼が、12月9日の「王政復古」の政変による幕府廃止に伴い、
将軍職を辞任(と言うよりも更迭)させられた一週間後の12月16日、大坂城(大阪城)に各国公使を引見した際、
慶喜は引き続き「自分自身が日本の主権者である」旨を宣言しており、公使達もそれを支持していたと言う事実です。
更に重要な事は、「大政奉還」にしろ「王政復古」にしろ、朝廷=新政府(薩長主体の)には、発足当初、日本を統治する何らの実力も無かったと言う事です。
「大政奉還」を受理した朝廷は、国家の重要案件や外交問題の処理については「衆議を尽くす」事、
その他の案件については「召しの諸侯上京の上、御決定これあるべく」として、諸大名に対して朝廷から上京命令が発せられたのですが、
譜代大名(徳川家の直接の家臣)の多くがこの命令を辞退(無視)し、朝廷より賜った官位を返上しようとした事実です。
つまり、彼ら譜代大名にとっては、徳川家こそが自分達の主権者であり、
外様(とざま)である薩長が主体の新政権=朝廷に指図を受ける筋合いは無い、と考えた訳です。だからこそ、
上京命令無視・官位返上と言う挙に出ようとした訳です。これが意味するものは、
例え将軍職(列強諸国が言う所の「エンペラー」)を辞したとしても、慶喜が「日本の主権者」である事に何ら変わりがなかったと言う事です。
そして、その慶喜が最終的に目指したもの、それは将軍に代わる新たな地位 ── すわなち「日本国大統領」の座だったのです。
「日本国大統領」。慶喜は、自らの政治顧問である西周(にし-あまね)に『議題腹稿』を起草させています。
これは言うなれば「憲法草案」と言えるものでした。(以下、概要)
この中に謳(うた)われている「大君」こそ、慶喜が将軍職に代わって新たに狙っていた地位なのです。
確かにその名称は「将軍」の対外的呼称であった「大君」(タイクーン:Tycoon)と同じです。
しかし、『議題腹稿』に定義されている新たな「大君」職は、行政府の長であり、立法府の長であり、尚かつ、軍最高司令官をも兼任する強大な権限を有しており、
それはさながら、古代ローマ皇帝(元首:Princeps プリンケプス)か、アメリカ合衆国大統領(President プレジデント)と言った所でしょうか。
そして、それを可能にする素地が実際にあったからこそ、慶喜は「大政奉還」の挙に打って出、将軍職を辞任しても何ら臆する事が無かったのではないでしょうか?
「列藩会議」。慶喜は、徳川宗家の持つ強大な軍事力、
「前将軍」と言う知名度、そして、列強諸国から依然として「日本の主権者」として認知されている事実を最大の武器に、
朝廷が諸大名を招集して開催するであろうこの会議において政治の主導権を掌握し、
『議題腹稿』に則って「大君」 ── 事実上の「日本国大統領」に推戴される事を狙っていたのでしょう。
しかし、歴史の歯車が狂い、戊辰戦争において「朝敵」の汚名を受け、遂に日本国初代大統領の座を掌中にする夢は潰(つい)え去ったのです。
その後、日本は薩長土肥主体の明治新政府が成立、時をおいて内閣、そして議会が開設されていくのですが、
私は、慶喜の思惑通り事が進み、例え『議題腹稿』に沿った新国家が成立していたとしても、
我々の知る「歴史」とそれ程違った体制になったとは到底思えないのです。発足当初こそ大名主体だったとしても、
時が経てば当然の事ながら民主化されたでしょうし、天皇も現在の地位である「日本国民統合の象徴」として定着した事でしょう。
要は、「明治維新」と言うある種の「革命」があったかなかったか、改革が急進的だったか漸進的だったかの違いでしか無かったのでは無いでしょうか?
もし、歴史に「if」が許されるのであるならば・・・そう考える時、
慶喜が目指した新国家の「その後」の歴史が、実際どの様に推移していっただろうか?と、知りたくもあります。
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/keiki.html
- 22 :
- 1868年正月 小栗作戦が実行された場合の近代日本史。
1858 井伊直弼が日本を開国。日本の近代化が始まる。
近代化に反対する鎖国主義勢力を処罰する。
1860 新見使節団が米国を視察する。
桜田テロ事件。反近代派のテロ。井伊氏が犠牲に。
1861 軍制改革が始まる。福沢諭吉ら知識人が活躍し文明開化が始まる。
1862 竹内使節団が欧米を視察する。留学生を送る。
薩長の乱がおこる。(〜1868) 鎖国回帰を主張する
復古勢力の反乱。一時京都を焼く。
1863 池田使節団が欧州を視察。
1864 反乱による政情不安続くも、小栗忠順らが政府の
建て直しに活躍する。
1865 横須賀製鉄所をつくる。日本の工業化が始まる。
1866 薩摩藩・長州藩の起こした薩英戦争・馬関戦争により、関税率が下がる。
1867 兵庫商社をつくる。株式会社のはじめ。
軍制改革がすすむ。
1868 徳川慶喜氏が大君(=大棟梁=大統領)に就任する。小栗らと連携し
反乱鎮圧と近代化に尽力。
政府が最終的に反乱を鎮圧し、首謀者および
政府側内通者を斬首。6年にわたる政情不安が
解消される。
廃藩置県が実施される。
1869 鉄道が開通する。
1870 憲法が発布され、議会が開設される。
1871 日清 日朝間に平和友好条約が結ばれる。
1872 小栗らの主導により、富国強兵政策がすすむ。
1873 産業革命がすすむ。
1907 小栗氏が死去。日本近代化を指導した巨人。
1913 徳川慶喜前大統領が死去。
1945 すでに日本は世界屈指の平和国家・民主主義国家・経済大国に。
- 23 :
- プロイセンドイツの例をみても軍事力を背景にしない権威による統治はムリだよ。
倒されるべくして倒された。逆に小栗改革で行ってたら朝鮮みたいな状況で停廻
していた可能性が高い。守旧派というのは変革期には一掃して発言権を奪わなきゃ
うまくいかんよ。結果的に変革が破滅に至ったとしてもね。
- 24 :
- >>23
てか、プロイセン王室のホーエンツオレルン家が、徳川宗家みたいなモノなんですがね。
最大の封建領主が、軍事力でもって無理やり国民国家を作るのは、
通常の歴史コース。 ブルボン家しかり、スチュアート朝しかり、ハプスブルグ家しかり。
徳川宗家が大政奉還をしたり、公議政体論を言ってるのは、時間を稼ぎたいだけ。
特に慶応の改革を進めて幕府陸軍や海軍の近代化を進めたかったし、武器の国産化を目指していた。
特に幕府陸軍は、元込式の銃の配備を進めていた。その途中で王政復古のクーデターが勃発した。
- 25 :
- >>20
でも慶喜は政権を天皇に返したのだから、一応天皇制は残したんじゃないの?
- 26 :
- >>25
純粋に神主の親分になっていたと思う。
- 27 :
- 王政復古のクーデターの前は、
大政再委任か、慶喜の摂政就任の動きでしたよ。
二条摂政は、王政復古の前から、辞職の意向を言ってましたからね。
紀州や会桑、大垣、あたりは、大政再委任で動いてたみたいですけどね。
- 28 :
- >>22
果たしてその通りに行くかどうかは判らんが、少なくとも徳川が継続しても
史実通り薩長の天下になってもいずれは西欧方式の近代国家に変貌していった
だろうね。但し、廃藩置県や秩禄処分等の改革はしがらみの関係上、薩長の
様な迅速な行動は出来たかどうかは甚だ疑問だな。無論、改革の必要上やった
のはやったと思うけど・・。
>>23
今までの幕府そのものが武力を背景にした権威だったし、幕府が画策していた
政治改革が西欧方式のやり方だったからそういう心配は無いとは思うね。只、
当時の幕府の求心力が低下していたのは事実だから。やはり倒幕というのは
自然の流れだったわけだ。
- 29 :
- >>22
よく見たら1866年以前の史実か事実と教えられた事(と、敢えて言うが)と
違う様な感じなんだが(1868年以降は想定上の歴史だろうが)。徳川が天下
を継続すれば、そういう歴史史学になるという事なのか。まぁ、学校で教えられた
歴史教育だって薩長主催の明治政府が作ったもの(考古史と昭和前期史以外は)
だから、特に幕末史の部分は完全には信用できないが・・。
- 30 :
- >>22
薩長じゃなくて徳川が政権を継続していたら、日清・日露もなく、韓国併合も
無く、大東亜戦争も無くて、アメリカの占領政策の上での民主化では無くて
自然に早々と現在の状態になっているという事だな。この年表をみる限り・・。
- 31 :
- >>30
江戸開城まで何も手をつけることのできなかった大奥の存在ひとつとっても
徳川が進歩と無縁なのは明らかだよ。江戸の無頼で構成した幕府歩兵隊
を権力の中核に据えて親藩や譜代を全部潰せば薩長並みのことはできただろうが
それが妄想に過ぎないのは明らかだろう。
22の年表を見ると上からの改革ばかりで議会政治の存在が薄いね。
やたらと小栗を持ち上げるが強引な専売制度の実施で隠居所を一揆に襲撃され、
自分の領民から新政府側に大量に内通者を出した政治家になれず官僚止まりの
人物を過大評価しすぎだよ。
- 32 :
- >>31
でも、徳川に国を変える気が全く無かったと言うのが薩長の主張だったと別スレで
カキコしたらどこぞの薩長オタに「薩長の誰がそんな事を言った!、証拠も無いの
に妄想もいい加減にしろ!!」みたいな反論をされたぞ。まぁ、この文面を見る限り
あんたでは無いだろうけどな、徳川の変革の意志を認めるような(薩長側から見れば)
そんなバカ言う与太は。
- 33 :
- >1862 薩長の乱がおこる。(〜1868)
これが何なのかさっぱり分からないんだが……
長はまだしも薩?
- 34 :
- >>33
まぁ、徳川が勝った場合、そう歴史が改竄されるという事だろう。でも
勝者が歴史を作るのは世の常だから、あながち非難も出来ない(逆に言え
ば、薩長にもそれは言えること)。
- 35 :
- 明治政府が行った神仏分離政策が行われなければ
神仏習合の神社がたくさんのこっていることになるな
宗教面で大きく違ってきそうだ
- 36 :
- >>35
それは非常に惜しい事だった。明治政府の愚策を三つ挙げると
1)神仏分離令
2)神社合祀令
3)韓国併合
と、言ったところだろう。いずれにしてもそれ以降の日本の文化や風土に大きな禍根を
もたらしたことは、疑うことも無き史実であった。
- 37 :
- >>31
日本の民主主義が坂本龍馬によって思案され、明治政府に於いて構築されたという
龍馬伝オタの愚劣な幻想よりは実現性はあるがな。
- 38 :
- >>37
ないない、大奥のような前近代的な権力集団が存在する限り
近代化など妄想に過ぎない。
- 39 :
- >>38
まぁ、あんたの言うとおり徳川政権が薩長によって奪われてしまった以上
その後(仮に徳川政権が継続した場合の)の話はただ単に推測に過ぎない
のだろうが。その場合でも政権を朝廷に返上してしまった以上、徳川が今まで
のやり方を継続していく可能性が100%あるなんて断定できないんじゃ
無いのかね。大奥の存在もそうで絶対に廃止できないと推測もそういう事実が
無い限り単なる憶測に過ぎないだろう。明治政府だってそうだよ、確かに廃藩
置県という大改革を行った、武士階級もなくした。その反面「華族制度」という
前近代的な階級制度を作ってその立場にいる人を中心とした貴族院という非民主的
な政治機構を創設した。一応、欧米の真似事で憲法を作り国会も作り選挙制度も
設けた。だけどその実態は貴族院は院内の互選で議員を選ぶ終身制だったし、衆議院
は選挙こそ有ったけど高額納税者のみに与えられた制限選挙制(勿論、女性には権利
無し)だったし、憲法だって主権は天皇にあって国民には無いし、言論だって政府の
許容範囲の中での自由(つまり今の中国と同じ)でしか無く、とても民主的だとは
言えない内容の代物だったわけだ。つまり、明治が民主国家なんて戯言は徳川政権での
近代国家の可能性以上に空想的な幻想てな事だ。
- 40 :
- そうはいっても、19世紀末は欧米でもようやく男子普通選挙が定着するかどうかの段階だからな
イギリスなんか20世紀に入ってからだった
現代の民主主義の尺度から批判するのは飛躍がすぎるだろう
少なくとも言えるのは、主導したのが幕府だろうと明治政府だろうと
下から盛り上がっての改革ではないから
そう簡単に今で言う「民主主義」の域にはいたらないよ
- 41 :
- >>39
慶喜がワンポイントリリーフなのは後継が本来家茂や大奥が支持した田安亀之助
であることからもわかる。将軍のプライベート空間である大奥というのは貴族院や枢密院のような
憲法に規定された存在ものとは違い将軍の権威と不可分であり、不文律のような
存在であり、比較するなら元老が妥当だろう。それでも元老は内閣の推薦という局面でのみ
存在を発揮し、統治の主体は内閣だったが、大奥は将軍という法をぶっちぎった存在と密接につながるために
田沼にせよ定信にせよ忠邦にせよ失脚しないためにご機嫌伺いをかかせなかった。
>>40
明治政府が徳川と違うのは自由民権運動が国会開設に結びついたことだよ。
推進したのは地方豪農が主体だが明治初期の士族の反乱や地租改正に反対する農民一揆
のような反体制運動ではなく政治参加を求める国民運動であることに特徴がある。
これまでの身分別による政治の役割分担の時代が終わったことを明確にしたといっていい。
- 42 :
- >>41
貴族院や元老は大奥と違って法で規定されたものであり、憲法と国会が
機能していた明治政府は江戸幕府と違い民主的な政府機構だという事を
言いたいんだろうけど、問題はその中身だよね。まぁ、>>40の言うとおり
世界の情勢を見れば、ごく当たり前の事かも知れないけど。逆に言えば
江戸幕府だって成立した当時の世界の態勢を見れば、特に非人道的な政治
体制でも無いという事になるな(いくら世情が安定しているからと言っても
農本主義等体制の基本方針を倒幕直前まで変えなかった点は頂けないが)。
それに>>38は大奥を倒幕時まで残した点を挙げて、江戸幕府を守旧一辺倒の
政治機構と言うけれど、明治政府だって華族制度という前近代的な特権階級を
太平洋戦争の敗北後まで温存(GHQの出方次第では暫く残すことも考えていた)
していたしねぇ・・。まぁ、明治政府が薩長の田舎侍のクーデターで成り立った
政府でしがらみが余りなかった点では徳川よりも(旧来の封建制度の)改革が
スムーズに運べることが出来たのは、確かに言えることなんだけど。自分達が
いったん築き上げたシステムをたとえ時代の転換期に於いてでも簡単に崩せない
という点では徳川も薩長も、そして(薩長政府の後裔である)今の政府にも言える
事だよね。
- 43 :
- 新政府に徴用された旧幕府の官僚たちは
それまでの改革を掣肘してきた固陋な組織から解き放たれて
それぞれの知識と能力を存分に発揮しはじめた
彼らは「天皇の下での王民の平等」という
欧米の平等観とはやや異なるが、その時代の日本を映す理想を見いだし
新政の基盤づくりという職務に邁進したという
もちろん彼らの施策が万全だったわけでもないし
新政府にも保守派という壁はあり、急激な開化への人々の反発もあったが
明治初年には木戸派が、六年政変後は大久保の内務省が強力に後押しした
要するに、改革を下支えした人間は徳川時代と新政府では重なりがあった
ただ、一度組織を壊すこと、徳川という忠誠システムを一旦外すことは
やはり必要なことだったと思う
- 44 :
- 徳川体制に限らず、大名による封建的統治体制を壊したところに大きな意義がある。
例えば大奥のようなものは各大名にあったわけだしな。
- 45 :
- 大名の私的な家政と藩財政が分離されたのも
明治になってからだからねえ
戊辰戦争による身分制の解体が無いと強力な改革ができるかというと
怪しい
- 46 :
- >>20-22
よくもまあ、ここまで事実誤認と妄想を書き連ねられたな。
- 47 :
- >>43-45
「天皇の下での王民の平等」と謳いながら華族制度という皇室とは違った身分制度を
構築した矛盾はあるけれど、欧米列強が犇めいていた国際社会に船出するにあたって
従来の封建社会を解体し、主流派の欧米に合わせた政治システムに衣替えすることは
当時の情勢からいって、やはり不可避な事であった訳だし。それを半ば強引ながらも
見事成し遂げた点では、明治の政治家の功績は賞賛すべきだろう(薩長でなければ
出来ない事かどうかは疑問だが)。只、社会の仕組みは時代の流れに従い変革すべき
なのに、明治政府が「天皇の下での制限付きの人権社会」という帝政国家と華族制度
という非民主的な特権社会を江戸幕府に於ける「徳川中心の幕藩体制」と同様(太平洋
戦争の敗北による)国家崩壊時までに変える事が出来なかったのは、はなはだ残念な
事だった。
- 48 :
- 政党政治にも、ただの人気取りで政策を決定する衆愚政治になるのではないかという
危惧が常にあったからな
山県閥が藩閥・軍閥の域を超えて、包括的な官僚閥へと成長していった背景にはそういう事情もある
そんな折に初めての政党内閣として成立した隈板内閣は、政党人の激しい猟官運動で
国民の失望を買ってしまった
まあその失敗にもめげず、大正デモクラシーに繋がっていくんだが
- 49 :
- 明治四年の廃藩置県のすぐあとぐらいに、英国代理公使アダムスとサトウが
木戸を招いて今後のことについて聞き出したときの記録で木戸は
「今、お国(イギリス)のやり方で投票で議員を選んだとしたら、
議員の十人中八人は外国との交際に反対票を投じるでしょう」
といってイギリス側の二人も納得したそうだ そういう時代だ
木戸の構想としては、まず教育によって人民の開化を促しつつ、
天皇中心の憲法を作って非選挙で選ばれる政治家に枷をかけ
一方で村など身近なところから会議をおこして人民に政治的経験を積ませる
だから天皇にも「二、三十年は貴方が人民を守らなきゃなんだから
しっかり勉強してください」と言ってたらしい
まあ木戸はさっさと死んだしそううまくはいかなかったわけだが
貴族制に関していえば、当時欧州の二院制国家で上院ってのはほぼ貴族院だぜ
「ノーブレス・オブリージュ」って考え方が背景にあるしな
金とかそーゆーよけいな要素に左右されずに諮問できる
という理想のもとに上院を作ろうとし、そのために華族制度を整備した
まあ、あくまでスタートの理想だけど
アメリカの制度は、天皇中心にしてようやくまとまってる状態の日本には
無理と判断されている フランスもイタリアもえらい騒ぎの時期だしな…
- 50 :
- 貴族院にやけに批判的だが
現代のイギリスでも貴族院は存在するからな
衆議院の劣化コピーの現在の参議院よりよっぽど
- 51 :
- >>50
日本方式の封建制度にはずいぶん批判してるけど、欧州方式の階級制は
OKなんですか?。確かに欧米主流の国際社会に出て、列強と対等な立場
になる為には欧米形式の国家制度にするのが最善だと思うし(明治政府が)
それを選択したのは、賢明だと思えばこそ批判はしないよ。只、どんな
形式にしろ華族制度はれっきとした階級制度だと思うし、非民主的な制度
である事には変わりないよ。
- 52 :
- 当時の庶民にとっては明治新政府の急進的な近代化は迷惑で幕府による緩やかな近代化が
望ましかったことは間違いない。
- 53 :
- 「幕府による穏やかな近代化」って幕府厨はよく言うんだけどさ、
幕府主導の近代化が穏やかであるという根拠は何なの?
- 54 :
- >>51
そりゃ世界的に産業革命が始まってる頃に
封建制なら批判も当然だろ、逆に貴族院は近代的な
欧州諸国の制度だぜ時代性を鑑みるなら
別にそれほどのことじゃあない
- 55 :
- >>51
貴方の論は時代性についての観念が欠落していますね
「民主主義」は古代ギリシャに始まったといわれますが
彼らの直接民主制が、奴隷制の上に成り立った
自由民男子のみによるものであることはご存じですよね?
貴方はその政体を、現代の民主主義の常識から批判しますか?
幕末維新期の政治体制について論じるなら、
同時期の世界の政治について勉強なさった方がいいですよ
当時もっとも貴方のいう「民主主義」に近い政体のアメリカでさえ
南北戦争の直後、つまり奴隷制がまだ生き残っていました
フランスはナポレオン三世皇帝が失脚、まだ試行錯誤の状態ですね
政治が貴族の独占状態から、財産のある者もまた政治に参加すべきだ
ということがようやく常識になった時代だということをお忘れなく
貴族院(上院)と中産階級による下院で政治が行われる二院制は
かなり進んだ政治体制でした
- 56 :
- >>54 >>55
貴方達は本当にご都合主義ですね。だったら江戸時代の封建制度についても
同じ事が言えるのではないのですか?。薩長が主導した明治維新を「長く
閉ざされた封建制度からの画期的な転換期」などと言って江戸期の日本を
世界的に見て閉鎖的な絶対君主制みたいな事を言って否定的な論評を説いて
自己のクーデターを正当化した「王政復古史観」を鵜呑みにして四民平等を
画期的な平等政策などと賞賛して、前政権の徳川を非人権国家の権化みたいに
評価している方々の言い方とは思えませんね。そう、確かに当時はまだ民主制
度は発展途上でした。だから明治政府が布いた制度は当時としては普遍的な
制度でした(イギリスもドイツも帝政でしたしね)し、あれ以上の対策が無かった
のも事実です。でも、逆に言えば家康が江戸に幕府を開いたのはそれから遡る
こと2世紀半以上もの前ですから、その当時の世界の情勢から見ても徳川を頂点と
した絶対封建制も特に非人道的で遅れた政治体制では無い。だから、江戸時代を
「がんじがらめの封建制度に縛られた非人道的な時代」などという(実際はそれほど
厳格的なものでも無かった様ですが)史観そのものこそ「時代性を無視した」
論評であり、「江戸暗黒史観論」などはその最たるものです。だから大奥を非民主的な
制度と誹謗しておきながら、華族制度を「当時の世界常識に乗っ取った合理的な制度」
などと言う事自体矛盾して居るんですよ。
あと>>54の意見について
貴方は近代欧州の制度ならば非民主的な制度でも良いというのですね。それでいて近世日本の
制度は全面的に否定しているのなら、完全な欧米コンプレックス人間だわ。
- 57 :
- >>56
自分は江戸幕府を落としたつもりはなく
単に変革期には一度制度を壊す必要があったよねといってるだけなんだが
そして明治政府の作った体制は万全なわけではなかったが
現代の民主主義の観点から批判するのはおかしいといってるだけなんだが
幕府に改革が出来たか否かは水掛け論になるだけっしょ
事実として、幕府の改革の進み方はは時代の勢いに追いつけなかった
事実として、明治政府の作った政体は譜代以外の出身者が
実力とやる気次第で政権を担える道を作った
当時の人間の評価はともかくとして、
現代の目から見てどっちが悪かったもよかったもないと自分は思ってる
ここで打った手はまずかっただろとかはあるけどね
- 58 :
- そもそも、薩摩も長州も土佐もついでに水戸も、
最初は幕政改革で何とかしようとしてたじゃん
佐賀と福井はほぼ最後までそっちだし
どうしてこうなった?というのは当時誰でも思ったことだろう
最終勝者が「だって幕府がダメだったもん」といっちゃうのは
事実がどうであれ自然な流れなんじゃないの?
- 59 :
- >>56
被害妄想が過ぎるなw
いつ俺が>前政権の徳川を非人権国家の権化みたいに評価なんて
したんだよw
ただ『幕末の時点』で大奥なんて害悪以外の何物でもなかったろう
まず金食い虫だし。
開明派幕臣の敵は討幕派だけでなく大奥を筆頭とした幕府内保守派
もだった事を忘れてはならんよ。
- 60 :
- >>57 >>59
悪い、悪い。あんたは単なる維新至上主義者じゃなかったんだね、お詫びします。
で、俺が言いたいのは明治維新というのはあくまでも日本独自の従来の国家システムから
西洋方式のシステムへの転換期という事であって、それによって国家が国民目線の政策を
始めたわけでも、完全な平等社会を実現したわけでも無いという事を言いたかった訳なの。
なんか2ちゃんを見ていると、あたかも薩長政府が民主国家を構築したみたいな事を言っている
人が目立つので異議を唱えただけです。
>>58
確かに歴史というのは最終勝者の都合で構成されるのは世の常で、薩長だけが特別ではない。
只、勝者の圧力という制約がない現在に於いては勝者側の視点で書かれている資料だけではなく
他面的からでの客観的な資料等で事の真偽を検証してみるのが、建設的な歴史探究ではないのでしょうか。
- 61 :
- >>60の訂正
他面的→多面的
- 62 :
- 自分は明治初年オタの自覚はあるが
いまどき江戸時代が暗黒期みたいにいう極端な書き込みは相当の無知か釣りだろw
今では良いことも悪いこともいろいろわかってきているが
当時の誰もそんなこと俯瞰して見られなかった
当時の人々の言い分や思い込みと後世の批評は分けて考えるべきだし
同時に昔の人の誤解や決めつけに俺らが腹立てても意味ないってこと
- 63 :
- >>40 >>少なくとも言えるのは、主導したのが幕府だろうと明治政府だろうと
下から盛り上がっての改革ではないからそう簡単に今で言う「民主主義」の域にはいたらないよ
・・・自由民権運動が起きれば幕府と薩長政権ではどっちがより徹底的に弾圧したかな。
幕府が延命してたら、四民平等、武士身分の廃止など可能だったか。
- 64 :
- http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%80%80%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86+%E5%98%98&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%9B%9B%E6%B0%91%E5%B9%B3%E7%AD%89+%E5%98%98&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%95%B7%E5%B7%9E+%E7%A9%A2%E5%A4%9A+%E8%8D%89%E8%8E%BD%E3%80%80%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
- 65 :
- >>40 >>少なくとも言えるのは、主導したのが幕府だろうと明治政府だろうと
下から盛り上がっての改革ではない
・・・薩長は下級武士(ほとんどが貧乏侍)が盛り上がって特に長州は革命派がクーデタを起こした政権だった。
幕府主体となると旗本・御家人中心の幕藩体制維持派を排除できたか?
- 66 :
- >>幕府主体となると旗本・御家人中心の幕藩体制派を排除できたか?
なにしろ社会情勢が情勢であった事から、今までのようなわけにいかないだろうし。
何らかの形で政治システムを欧米スタイルに変えた(変えざろうえない)可能性はあるね。
只、武士身分を完全に無くせたかどうかは半信半疑だが(武士を軍人として活用していたかも)。
まぁ、いずれにしても倒幕により薩長に政権が渡ってしまった以上、これらはあくまでも空想上の話だけど
でも、長きに及ぶ鎖国政策を解いたのは幕府だし(その頃長州は攘夷などと言って、対外関係を悪くする事をしていましたが)
慶喜が幕政の抜本的な改革を模索していた事を考えると、(幕府による近代化政策の)可能性はゼロとは言えないね。
- 67 :
- >>66
長州は当初開国派だよ。航海遠略策は知ってるだろ。
逆に幕府も四侯会議では薩摩が開国を唱えるのに
攘夷を主張するようになる。
- 68 :
- >>66 >>只、武士身分を完全に無くせたかどうかは半信半疑だが(武士を軍人として活用していたかも)。
・・・長州は幕府の長州征伐に対抗して身分に関わらない奇兵隊を作って撃退した。
銃砲主体の時代に武士の軍事力としての役割は終わったということだろう。
軍事力として無意味な武士階級は平民と並ぶしかないと長州戦争は教えた。
- 69 :
- 当時は開国がただの国交ではなく植民地化される危険があったのと
幕府の弱腰姿勢で危機感が強かったのが問題だろ
ほとんどの一般人は知識もない状況
今では想像するのも困難な危機感だったはずだよ
- 70 :
- 江戸期が暗黒時代云々かどうかでは無く、問題は明治維新が無かったとして
日本は武家政治体制のままで独立を維持出来ていたのかだろう。
改革を拒んで守旧派が実権を握っていた清国や李氏朝鮮がどう成ったか
日本が独立を維持出来たのかを考えればわかるかと。
江戸幕府体制の下で独立を維持出来たとしても
沖縄、小笠原、対馬、北海道は少なくとも列強に取られていたのは?
- 71 :
- 当時の列強に日本の土地を租借する必要はなかった。そのための
シミュレーションではとてもペイしないことが分かっていたからだ。
諸外国が求めていたのは外国人居留区の安全だよ。
神戸で外国人が新政府の人間が殺害された事件ではすぐに犯人は
切腹している。欧米とのトラブルはこの程度であり、戊辰戦争がイギリスとフランス
の代理戦争とか言うのもトンデモで武器商人は横行していたが完全な自己責任
の商売で国家の保護は受けられなかった。欧米は一貫して非干渉的だから
北海道の旧幕府勢力は認知されなかった。
- 72 :
- >>71 長州の攘夷戦争後に4カ国側は彦島の租借を要求したがな。
高杉晋作がそれを蹴った。
北海道共和国はフランスが承認したんではなかったか。
- 73 :
- >71
>当時の列強に日本の土地を租借する必要はなかった。そのための
>シミュレーションではとてもペイしないことが分かっていたからだ。
旧幕府軍と薩長が泥沼の内戦を4〜5年くらい延々と続けてたら、
使い古しの銃器や大砲や艦船を高い値段で売りつけて借金漬けにして
無理矢理にでも土地を咀嚼させられたんじゃない?
統一政権が「幕府→新政府」へとスムーズに交代して、まがりなりにも
ひとつの国としてまとまっていてこそ諸外国に抵抗出来たのであって、
国内が四分五裂になっていたらイギリスもフランスもここぞとばかりに
足元を見てつけ込んできたろうと思うが。
- 74 :
- >>71
諸外国の意図が実際どうだったかと、当時の日本人一般が抱えていた危機感は
実は連動しないものだと思うよ
そりゃ幕府の首脳部と外交担当者を含む一部の人間は意図を正確に知ってたかもだが
それにしたって事実として隣の大国・中国はひどい目に遭ってるし
ほかにもアジアは植民地だらけだし
日本も実際武力背景に強引な交渉されてるし 武力の差はあまりに歴然としている
「外国の意図は侵略じゃないから心配しないでください」って言われても
危機感を払拭出来るわけないっしょ
- 75 :
- そもそも遅れた国がどんどん植民地化されていた時代に
我が国だけは大丈夫、などと考えていたらかえって無能だろう…
を植民地支配してはいけないなんて考えは当時はなかったわけだし
直接外交した幕府の役人だって、相手の本心、いざとなったらのやり口までは
予想はできなかっただろうな
- 76 :
- ああ、あとロシア船の対馬居座り問題もあったし
この件は結局イギリスが乗り出して解決したが
自力で解決できないことや、諸国間の紛争に巻き込まれる可能性の浮上など
これに大きな危機感を持ったのは幕府も諸藩も一緒だろうね
特に長州は姻戚だったからかなり運動してる
正直彦島租借の件は嘘か真か疑わしいが、対馬の事件はガチ
- 77 :
- >>76 >>彦島租借の件は嘘か真か疑わしい
・・・連合国側にも交渉記録は残っているだろう。アーネスト・サトウの回顧録にも書いていた。
- 78 :
- >>77
『一外交官が見た〜』にも『遠い崖』にもそんな記述はなかったと思うが
魔王云々はあるけど
- 79 :
- >>78 租借に失敗したという不面目な記録はのこさなかったかも知れんな。
- 80 :
- >>79
そりゃちょっと都合のよすぎる解釈でしょ
これ以上この件を語るとスレチになりそうだが
イギリス公使は、日本という新しく外交を進めなければならない相手について
さまざまな情報と見解を定期的に本国の外相宛に送っている
正しい判断を下すための材料になるようにね
租借の件を持ち出した際の日本人の反応という重要な情報を
本国に送らないのはありえない それこそ更迭もんの大失策だ
外交部と軍部と両方同席しているので隠蔽もまず不可能
- 81 :
- >>80
wikipedia 下関戦争より
この談判の際に四国連合側のすべての要求を受け入れた高杉が彦島の租借だけは断固として拒否し、高杉の努力によって彦島が香港のような外国の領土になるのを防いだという逸話が有名だが、
この話は当時の記録にはなく、ずっと後年になってこの交渉の時に長州側の通訳をした伊藤博文が述懐した話であり、真実か否かは不明である[9]。
・・・伊藤博文が高杉晋作を持ち上げるために粉飾したのかな。
- 82 :
- >>80
wikipediaより
日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。
オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。
オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。
だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送るが、
この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。
・・・本国が戦争回避を指示しているのに現地公使の裁量で決行していた。これでオールコックは戦後更迭されたのかな。
- 83 :
- イギリス留学を途中で止めた当時の伊藤博文の英語は日常会話レベルだろうから、
通訳は不可能だろう。
- 84 :
- >>82
『長州留学生』だかに、イギリス外務省が長州留学生居残り組と話をしていて
日本&長州の友好度を実際より良くとらえていたようだとかあったな
オールコックは更迭されたが帰国後提出した報告書で名誉回復してる
伊藤の語学力がどの程度だったかはわからんが
微妙な交渉の中で誤解が生じた可能性はまああるね
- 85 :
- 『長州留学生』じゃなくて『密航留学生たちの明治維新』だったスマソ
- 86 :
- >>83 連合国側にシナ人通訳がいたら筆談で可能だったのにな。
それと長州側に蘭学者がいたら、日常会話以上のことも理解し合えただろう。
- 87 :
- >>86
いや、そういう意味では向こうには薩道がいるし。あいつ無双。
伊藤の語学力だってそこまでは低くねえよw
ロンドン大学で授業を受けられる程度の力はあんのよw
- 88 :
- >>87 日常会話程度なら行きの船旅数ヶ月で十分だっただろうしな。
帰りの船旅も加えると2年程度の英語訓練になったんだろう。
- 89 :
- >連合国側にシナ人通訳がいたら筆談で可能だったのにな。
上海で高杉晋作が書店に行きたいので人力車引きに紙に「書店」と書いて見せた所、
人力車引きは洋服屋の前で人力車を止めた。
>それと長州側に蘭学者がいたら、日常会話以上のことも理解し合えただろう。
NHK大河ドラマ『花神』では吉田松陰たちとペリー艦隊の水兵がオランダ語で会話して居ました。
- 90 :
- >ロンドン大学で授業を受けられる程度の力はあんのよw
皇太子と同じで実態は聴講生みたいなものでしょう。
イギリスの大学を卒業して居れば、話は別ですが。
- 91 :
- ウ゛ァーベックが聖書を叩き込み、日本は神の国になりました。侍はリストラ。
- 92 :
- ☓NHK大河ドラマ『花神』では吉田松陰たちとペリー艦隊の水兵がオランダ語で会話して居ました。
◯NHK大河ドラマ『花神』では下田奉行の役人とペリー艦隊の水兵がオランダ語で会話して居ました。
其の翌年に吉田松陰たちでしたね。
- 93 :
- http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%99%AF%E6%95%99%E3%80%80%E5%8E%A9%E6%88%B8&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%99%AF%E6%95%99+%E8%A6%AA%E9%B8%9E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%99%AF%E6%95%99+%E7%A9%BA%E6%B5%B7&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
- 94 :
- >>89 >>上海で高杉晋作が書店に行きたいので人力車引きに紙に「書店」と書いて見せた所、
人力車引きは洋服屋の前で人力車を止めた。
・・・人力車引きと欧米公使付通訳とでは語学力・漢文能力が違いすぎるやろ。
- 95 :
- 上海の人力車引きは間違って居ないのです。
当時のシナでは「書店」とは「洋服屋」なのです。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%BC%A2%E5%AD%97%E3%80%80%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A7%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%8C%E9%81%95%E3%81%86&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=
- 96 :
- >>95 そやから欧米公使付シナ人通訳なら、日本語「書店」の意味がシナ語の意味と違うことくらいは分かっていたやろ。
- 97 :
- 76だが、自分が余計なこと付け加えたせいで
話が変なほうにズレて正直すまんかったw
対馬のロシアによる一部占拠の件だけど、このとき対策担当の小栗は
ポサドニック号の艦長がロシア本国の指示で動いているわけではないと見て
ロシア本国の方と交渉するべきと考えていたんだよね
あと国際世論に訴えるべきだとか、今の目で見ればごくごく正統派の外交術だ
しかし幕閣に反対論があり不可とされ、小栗は辞職してひきこもり
結果としてイギリスに頼った解決となってしまったw
自分は小栗をよく知ってるわけじゃないから賞賛する気もないが
いわゆる万国公法的な行き方をわきまえてる人物ではあったよね
でも悲しいかなそういう真っ当なやり方が通らなかったのが
当時の幕府であり時代なわけで
新政府側が倒幕の勢いでいろいろ強引に変えたのは
結果的に正解だった気がするんだわ
外交の方針についていえば、幕府内にいた
「外交するのは仕方がないからどこまで譲歩できるか考えよう」派と
「外国が来たチャンスだこれを機に制度や技術を取り入れ力をつけよう」派が
ランダムに入れ替わって外交を担当し首尾一貫しない有様で、
特に前者の「譲歩は屈辱だわ〜国辱モノだわ〜」という愚痴が外部に漏れて
それを聞いた諸有志に徹底攘夷派が形成されてしまったという説がw首絞め乙w
時代的には仕方がないことだし
そういうところから学んだ新政府の開き直り外交に結実したともいえるんだがね
- 98 :
- >97
幕府の方針決定が、伝統的に「老中による合議」というモノで意志決定に時間が掛かる仕組みだったのも
そうした弊害に拍車をかけていたし、ペリー来航時に阿部正弘が「諸藩に意見を徴する」ということを
やったから、なおさら「外国の連中は失礼だ、屈辱的だ、打ち払え!」的な意見までが下から上がってくる
ようになっちゃった。
結局、外国と付き合って力を付けよう派と、イヤだけど妥協して外国と付き合おう派と、
外国人は追っ払っちまえ派とがそれぞれに別れちゃって、対立抗争を行うことになったのが
幕末日本の大雑把な姿で、その中でもっとも少数派だった「力を付けよう派」が西洋式の
武力という「現実的な力」を持って、反対派を黙らせていく政治過程が「明治維新」だった
ってことなんだろうね。
- 99 :
- >>98
阿部は意見を諸大名に求めたが開国を否定する藩など皆無で(徳川斉昭ですら)
開国は規定事項といって言い。しかし朝廷に許可を求めるということをやったために
混乱が始まった。
この時点というより明治直前まで開国反対だったのは朝廷とくに孝明天皇であり、
家斉時代には勅使を家来扱いさせ、関白を幕府のパシリ扱いしていたのが
ひっくり返るという事態を招いたのが幕末であり、内戦にまで行ったのは日本史伝統の
東西の断裂が起きただけだよ。
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