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【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】


1 :2007/12/04 〜 最終レス :2012/09/21
いろんな興味深い話が語られる戦国武将
そんな逸話を好き勝手に検証してみようじゃないか

2 :
で          あるか

3 :
初2

4 :
上杉謙信、堺で宿屋の主人に切れてあたり一帯焼き討ち。

5 :
地元の話
三方が原合戦において
・家康が逃げるとき、食った小豆餅と、捕まった銭取
・酒井忠次が城を開けて太鼓を叩いた
ここまでは創作とのことだけど
・犀ヶ崖夜襲
これはどうなんだろう?
平手汎秀が討ち取られた場所も実は不明とか
意外にも詳しい記録が無いらしいこの戦、さて?

6 :
よう、ご近所。

7 :
ものすごく有名なのに実は完全創作の「直江状」

8 :
>>7
伊達政宗をいじめる話とかもなんかとってつけたっぽいしな。

9 :
石田三成と大谷吉継の茶会エピソード
真偽はもちろん分からないが、湯飲みは洗ったんだろうか?
それともそのまま飲んじゃったのかな
この場面、物語としては感動的だがどうしてもそこが気になる
三成でついでに、石高半分で島左近召抱えのところは時期的に違うみたいだね
つーか島左近の強さ自体が逸話のような希ガス・・・はっきりした経歴無さ過ぎない?
関が原での奮戦は間違いないけど、それぐらいなような?

10 :
>>4
謙信といえば、川中島の信玄との一騎打ち
こりゃもう創作決定してるけど一応スレ違いでもないから
そして川中島といえば、信玄弟・信繁戦死のときの、信玄号泣はどうなんだ?
そして啄木鳥破れたり、といえども、突撃して戦死する山本勘助も
一見かっこいいけど無謀じゃない?
普通の戦死をかっこよく創作しちゃったとかじゃないの?

レス内容の正誤は二の次、レスが付いて賑わえばいいのさw

11 :
>>7
直江状が成立したのはいつ頃の年代だろ?
幕末や明治以降だったりするの?

12 :
庭の木の枝を折った信長の小姓が正直に名乗り出て手討ちに遭った話はマジ?

13 :
軍師山本勘助自体存在怪しいからな

14 :
山内一豊が光秀の最期を看取ったのはウソだよ

15 :
>>9
島左近(と思しき人)が家督を継ぐ際に一家を殺しまくったと
多聞院日記だかにはあるらしい

16 :
>>11
幕末の大阪の講談、あたりが有力だろうなあ。

17 :
ただ、家康が書状を見て激怒したという資料もあり、
兼続が何らかの返書をよこしたのは事実らしいが・・・
まあ、今伝わっているアレは偽書だよね

18 :
講談やら創作話をはぶくと
歴史が凄い地味になるんじゃないかと思う

19 :
「直江状」には原本、すなわち兼続直筆のものは存在しない。
『編年文書』(前田育徳会尊経閣文庫架蔵『尊経閣古文書纂−雑纂文書』所収)
『古今消息集』(国立公文書館内閣文庫所蔵)
などにその写しが現存するのみである。

20 :
>>13
存在してたのは確定してない?
役目までははっきりしてないけど

家康の激怒・・・思い出すのは真田の九度山脱出のエピソードだな
これ自体が創作とは思うが、更に輪をかけてびびって震えたっていう話はどうなんだろう?
仮に昌幸だとしても、やっぱり恐れるよりも激怒で震えたと思うな
そもそも真田と上田で戦ったのは家康本人じゃなかったし
でも大坂方の抵抗は確かに変わっただろうねえ
昌幸の下で指揮系統が1つに統率されたかと思うと・・・
つくづく長生きした家康の運の強さといったら

21 :
>>20
>更に輪をかけてびびって震えたっていう話はどうなんだろう?
夏の陣で信繁に強襲されてボコられたことを知ってる後世の人間が追加したネタじゃない?

22 :
山本管助はいたが山本勘助の存在は確認されてない

23 :
>>20一応軍師って書いたんだけど
同名の人物はいるよ

あと本当かはしらないけど徳川三傑を秀吉が調略しようとした話がすきだな

24 :
忠勝への調略に関しては贈った兜が現存してるからガチじゃね?
忠勝といえば戦場での逸話が群を抜いてるよな
無傷伝説に武田四名臣の内二人は忠勝の隊に討たれたって話もあるし

25 :
忠勝が初めてケガしたのが彫刻してた時で、その時に死を予感したってのはマジかな?

26 :
忠勝逸話だったら蜻蛉切り
でもどう考えても・・・まああの武将にしての逸話だね
その辺の武将の話にされても全然ハクが付かない
さすがに晩年は大変になって長さを短くしちゃったとかいう話も

27 :
忠勝の逸話と言うか、ちょっと面白いなと思った話なのだが、信長の母違いの弟が
いろいろあったあげく忠勝の家老になって、忠勝が死んだときには殉死までしているな。

28 :
>>26蜻蛉切り
中学の頃、プールサイドで、水面に産卵する為に集まってきたトンボを
竹棒のデッキブラシで叩くという遊びをやったが、
5、6人で馬鹿みたいにやって3時間経ってようやく一匹殺せただけ。
とても無理

29 :
>>28
それ意味が違う(ノ∀`)
分かってると思うけど

30 :
>>9
薄茶なら1人1椀ずつ茶を点てる。
濃茶なら人数分を1つの椀に点てて、順にまわし飲む。

31 :
まさか茶の種類が問題点になるとは・・・
勝手な想像では、一応茶碗を洗わせたが、しかし石田以外は遠慮した、というのが妥当?

32 :
>>9
そもそも大谷の茶の話は、三成じゃなくて秀吉だったと聞いたことがあるな。

33 :
その茶会では、回し飲みで
他の人は飲む振りをして次の人に回したのを
三成か秀吉が飲んだという流れだったはず

34 :
でもさ、あれだけ義に厚いと言われてる大谷が
もしもそれが秀吉だったとき、家康追討を言われたときに、
石田の意見を必死に反対するかな・・・
秀吉のためと考えてたらそこで早いうちに賛同しちゃいそうにも思える
で、そこから茶会の話に戻って、石田と共に戦うことを決意する、という繋がりになるし
もちろん逸話の上での流れね
いやそれでも家康との対決は無謀だから、秀吉への義があっても、
冷静に見て先ずは反対するよ、という意見ももちろん間違いでは無いとは思うが
どっちかねえ?

35 :
さっき立ち読みしてきたんだが
ネタ忘れちまった・・・

36 :
こういうスレを待っていた。だが、ネット検索クラスの知識じゃどうにも成らな
い気もする…
竹中重治、通称竹中半兵衛。人気実力とも超一流の扱いではあるが、実際は創作
の世界の話で、史実では殆んど存在が確認されていない人物である。
しかし、その逸話の中でも一際輝きを放つ『稲葉山城占拠事件』この元ネタは、
尼子経久だと言う事は解るが(もしかしたらそれ以前に元ネタがあるのかも知れ
ない)、これだけの事件であれば気軽に創作できる範囲を逸脱している様に思う
のは、わたしが現在の人間で在るからであろうか?
この事件の真相はどうであったのかをお教え頂きたい。

37 :
>>36
このスレは単に好き勝手な自分の妄想を書き綴る
それに対して別の人間が同意したり自分の意見を述べたりしていくスレだから
好きに書けばいいの
自分で現地に足を運んだり、図書館だの市役所だのに問い合わせて
真剣に検証するスレじゃないから大丈夫ww
専門家だって400年前のその場を見てきたわけじゃないしね

38 :
竹中半兵衛は事暦だけ見れば、軍師と言うよりも明かに信長と羽柴軍との調整役だな。
信長からもかなり信頼されてて(多分秀吉よりも信頼されてた)、羽柴軍の中で相当の権限を持っていたってのは随所に見て取れる。

39 :
>>38
他スレなら未だしも、このすれでそれの意見はどうかと思うな。
光秀を信長が秀吉より信頼していたというなら納得できるが、竹中重治と秀吉
を比べるなんてありえないし、信長と竹中重治の接点すら明確じゃない。
羽柴軍の中でも云々も全く理解に苦しむ。

40 :
美濃の快川紹喜が飛騨の僧侶に宛てた手紙に以下の記載がある。
金華山(稲葉山)城、菩提城主竹中遠州子半兵衛、去六日白昼、奪取与伊賀守(安藤守就)両人、
而一国領之。奪取時、斎藤飛州以下、以上六人打殺也。太守(斎藤龍興)与備中・揖州・青木等、
不及一戦、無恙退散。(下略)

41 :
難しくて読めん!

42 :
>>41
このくらい読めるだろ…。

43 :
半兵衛の城盗りも俗説ではいいように書かれてたみたいね

44 :
>>32
茶会の席で吉継の顔から膿がたれて茶に入った
その光景を目の当たりにした諸侯がどうしたものかと躊躇するなか、
秀吉が嫌な顔ひとつせずその茶を飲み干したって話だな。
大谷吉継が秀吉の実子だって説もあるしな。

45 :
>>40
それは知らなかった。
それが本物なら(本物でなくても良いが史料的価値がある写しならば)、稲葉城
占領事件は本当だと思っても良いね。

46 :
今、テレ東でインチキ番組やってるぞw 武功夜話、準拠の生駒マンセーw

47 :
エロ

48 :
武功夜話は知名度高くて、逸話満載だっけ

49 :
>>48
創作だけどね

50 :
敵は本能寺にあり

なんて言ってません

51 :
あげ

52 :
>>50
頼山陽が言い出した話だっけ、これ。

53 :
陣中で博打のしすぎで文字通り裸一貫、褌一丁になったものの
錦の褌を締めて出陣して大暴れして敵の織田信長(?)に
生かして捕らえろと言われた奴がいるって本当?

54 :
昨日風呂で2つ思い浮かんだんだが
出たら忘れちゃった・・・

55 :
あげます!

56 :
鞭声粛々夜川をわた…ってない。

57 :
ちょっとした本なんかを見てて、たまに戦国ネタが扱われるときがあるが
逸話を注釈付けずに実話みたいにして書いてるのが結構あるよね
あれはどんなもんかと・・・

58 :
コンビニに売ってたりする戦国ネタ本は、
江戸時代の講談本からの伝統を受け継いでいるから。
エンターテイメントであり、おもしろければよいという立場。

59 :
中国大返しについて

60 :
検証スレ! 

61 :
>>59
信長の援軍があるので、京までの街道に軍需物資が豊富につまれており、そのおかげで可能だった>大返し

62 :
明智?

63 :
は天海か?

64 :
加藤清正の虎退治は本当は黒田長政の配下の武将の話だった。

65 :
>>36
●竹中半兵衛のクーデター(国人衆が味方にならなくて結果失敗)は事実。
ちなみに、紹喜の手紙にある、斎藤飛州(飛騨の守)は、
かつて半兵衛に小便をかけるなどの虐めを繰り返したため、真っ先に殺されたと言われている。
●秀吉の与力になったのは、浅井と対立している時、浅井家臣の堀氏調略に関わったころ。
一級資料ではこれくらいかな・・・
後は小瀬甫庵の「太閤記」や後の「絵本太閤記」に派手に書かれているが、ほとんど嘘。


66 :
>>65
>後は小瀬甫庵の「太閤記」や後の「絵本太閤記」に派手に書かれているが、ほとんど嘘。
絵本大功記には重治の話があるが、哺庵の太閤記には竹中重治の記述ないけど?
三顧の礼とか三国志を意識した形だけどね>絵本大功記
それで哺庵太閤記に何がどう書かれてて、どう嘘なの?

それと稲葉山城乗っ取りは安藤が主犯で竹中は娘婿として参加したんだよ
西美濃の国人衆と龍興が対立して、後和解したのであって失敗したとかそういう話ではないよ

67 :
>>66
「哺庵の太閤記には竹中重治の記述ないけど?」
あるぞ。
巻の18に「竹中半兵衛尉」というタイトルがある。
例えば、
長篠の合戦で、まだ形勢不明の頃、武田軍の動きをどう判断するかで、谷大膳(秀吉の臣)と意見が対立した。
秀吉は大膳の意見を採用し命令を下したが、半兵衛はこれを無視。
結果、半兵衛の言うとおりになって秀吉は面目を失うが、勝ち誇った態度は微塵も見せなかった。
という記述。講釈師見てきたような嘘を言いの類だ。

68 :
鳶の巣攻略時の信長・忠次のやりとりはどうなんだろう
そもそも密会状態だよね
それとも右筆だっけ、記録係はそういうときも同席してるものなのかな

69 :
信長が父・信秀が死にそうな時、坊主に祈祷してもらったって話あるよね?
結局信秀は死んで、坊主達も寺に押し込められ殺されたんだけど、
その際、信長が行ったのは焼き打ちと銃殺どっち?
戦国武将列伝読んだら銃殺だったけど、焼き打ち説もあったよね?

70 :
焼き打ち

71 :
家康と北条氏規の人質時代の話って無いのかな
近所だったのは確からしいし、
後年小田原落城のときに顔見知りだったからなんのかんのと話があったようだから

72 :
どうなんだろ?
小さい頃の家康はすっげー短気で、家臣が気に入らない事をすると、すぐぶっ飛ばすような
手の付けられない若様だったらしいが。

73 :
>>4
伝承のソースすら不明ww

74 :
>>72

75 :
鳥居元忠をぶっ飛ばしたことがあるからじゃね。

76 :
家康を追いかけた小豆餅屋のばあさんも馬を持ってたのか

77 :
ラジオでやってるから思い出したが
伊達政宗の目を抉り出したというあの話
本当なのかね
ラジオはサウンドトラベル
今週仙台特集 

78 :
>>67
見当違いのレス
>>66が言ってるのは竹中のクーデターの記述のことだろ

79 :
2009.01.15 三傑の女性に対する価値観 
216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/14(水) 23:24:35 ID:IpCq9Sps
>>214
> 魔王と恐れられた信長
この「魔王」なんだけど、実は信長の「自称」なんだよねw
たしかフロイスの書状にしか出てこない話だったと思うけど、
上杉謙信が信長にあてた書状に「オレは毘沙門天」って書いてあって、それを見た信長が
対抗して「じゃあオレは第六天魔王ー!」って書いて送ったって言うw
----------------
まとめサイトのここの部分、信長に書状を送ったのは謙信じゃなくて武田信玄。
「オレは大僧正」と署名してあったので、ならば仏敵の第六天魔王だ、と書いたもの。

80 :
武田信玄の有名な「諏訪法性の兜」は、江戸時代に講談で有名になって、それから
デフォ設定になってしまったといわれています。
現物はこれですね。
ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/dsmsh/shakhoshokabuto.html
実際は江戸期に入ってから作られたようです。ただし兜鉢の部分は戦国時代製。
それに、この白くて長い毛の飾り(白熊)が特徴的ですが、織田軍からの戦利品の兜の白熊を
勝頼が珍しがったという文献がありますので、信玄の兜には付いていなかったのでしょう。

81 :
信長と言えば南蛮甲冑のイメージを外すことは出来ないですね。
しかし、文献上で日本に南蛮甲冑が輸入されたという年は、1588年です。
着用の確実な遺品もありますが、腹巻形式ですので、イメージ的にはちょっとあわないでしょう。
ただし、大河「天地人」で信長がかぶってる南蛮兜の元ネタはあります。
信雄直系の天童藩に伝わった南蛮道具足です。現在は岐阜市歴史博物館に所蔵されています。
実物の写真はありませんが、これですね。
ttp://www.yonezawa-naoe.com/images/information/odakesyou.pdf
ttp://www.yonezawa-naoe.com/images/information/odake1.jpg
そして、そのイメージ作成は、既に江戸時代からはじまっていました。
信雄が南蛮兜を作って子孫に伝える

兜しかないのは物足りないよね 
↓ 
じゃ、兜と釣り合った鎧を作っちゃえばいいんじゃね?(これが江戸後期) 
↓ 
立派な南蛮胴できたー! 
↓ 
そういや信長公といえば南蛮趣味だよね 
↓ 
これは最初から信長公のものですが何か? 
織田家はかつての天下人の家系として、江戸城中の席次も高かったのですが、不祥事から大幅に
待遇を落とされてしまいました。しかも領地も北方の山形県になり、家中の不満を押さえるために
すがったのが、信長の威光でした。この南蛮具足をでっち上げた時期は、天童へ国替えの時期と
一致します。
移った後も貧乏で大騒ぎでしたが、そこではじめた内職の将棋駒が現在も天童の代表的産業です。

82 :
>>81
こういう流れなんだ。ありがとう良く理解できた。

83 :
ここに書いても、まとめブログには載せてもらえないんじゃ
かなり過疎だし

84 :
いい話、悪い話スレまとめでここも取り上げてもらってるみたいだぞ。

85 :
>>79
そんななめた手紙書くから同盟破棄されちゃったのにね のぶながのアホは

86 :
秀吉が亡くなる直前、家康に秀頼成人までの政権を委ねたのは創作?

87 :
安土桃山時代は泡を立てて飲む薄茶は存在しなかった。
薄茶を点てているドラマは間違い。

88 :
濃茶って慣れないと飲みにくいよな
茶が嫌いな武将とかもいたんだろうか

89 :
>>86
浅野家文書の「遺言覚書」に前田利家に秀吉のいる大坂城番、
徳川家康に伏見で諸職の采配をすること、秀頼を孫婿にすることなど
11カ条を残している

90 :
>>88
茶は、江戸時代に茶道として喫茶の部分を抜き出して体系化されるまでは、
ぶっちゃけパーティの一要素なんだよね。

91 :
伊達政宗と森忠政なんて茶室で酒飲んでたらしいし。
こいつらがフリーダム過ぎるだけかもしれんが。

92 :
>>91
いや、本来茶はそれでいいんだよ。
「茶」というのは、中国の「飲茶」って言葉からも分かるように、軽い食事をさす事もある。
つまり、正式の宴会ではない、ごく軽い私的な宴会のもてなしの体系が「茶」なのよ。
それでも室町期の武士や貴族の茶はものすごく大規模化、豪華絢爛の方向に行って
本来の茶の利点である簡便さがなくなっていった。
それを思い切って簡素化し、簡略化したのが利休の「侘び茶」

93 :
茶道って懐石食ったりするもんな。

94 :
いい話スレに本多政重の話がありましたが、それだけじゃいい話にならなそうなんで、直江兼続と
本多家のかかわりについて。

直江兼続の友人といえば当然、石田三成ですが、実は本多正信とも仲が良かったのでした。
天地人での義と愛の人と陰謀家ではちょっと意外かもしれませんが、どっちも能吏タイプの
ひとということです。
関が原後の処分についても、正信の口添えがあったと言われています。
本多政重は親兄弟に似ずに武辺者であったといいますが、残されている甲冑群も実戦仕様の
ものばかりです。
さて、直江兼続には実子がいましたが病弱でした。そこで本多政重を娘婿としてむかえ、後継ぎと
します。幕府の実力者との関係強化でお家の安泰を図ったのでしょうし、婿入りが成ったのも以前
からの正信との関係あればこそです。
なお、上杉家自体の跡取に据えるつもりだったという説もありますが、婿入りは景勝の子の定勝が
生まれた後です。
しかし、兼続の娘は子ができる前に病死してしまい、関係の維持を願う兼続は姪を養女にして
再び嫁がせます。兼続と政重の仲は良かったのですが、兼続実子の景明が無事成長したので、
政重は直江家を離れて、前田家に再仕官しました。
景明は戸田氏鉄の娘を娶りますが、外様大名の家臣が譜代大名の娘を娶ることが出来たのも、
政重と本多家の力です。


95 :
政重は前田家でも親兄弟とのつながりを生かして、幕府から取り上げられそうになった越中を交渉で
守り抜き、二万石を加増されました。この時更に五万石と言われたところを固辞して、替わりに名物
「村雨の壷」を拝領し、以後は「五万石の壷」と呼ばれ今に伝わっています。

兼続と政重の仲は関係は続き、政重は大名並五万石で500人以上の家臣を抱えましたが、大半が
上杉家から連れてきた者でした。関が原後の上杉家の再雇用対策にも協力しているわけです。
大久保事件で景勝の義弟、武田信清がとばっちりを受けそうに成った時も、政重の協力で事なきを
得ています。逆に宇都宮釣天井事件では、幕府から政重は関係無しと影響はありませんでした。

その後。
直江家では、景明が早死にしてしまい、以後養子縁組を断ったので、断絶してしまいました。
政重も長男と妻が亡くなり、三番目の妻の子の政長が跡を継ぎました。
兼続姪との子は、長男早世、次男は正純、政重の末弟(大名)に養子入りするが早世、三男は
他家に養子入りするが出戻って弟の家臣となり、樋口姓を名乗ります。
子孫は前田家直臣となった後、青地家に養子入りして幕末まで続きました。
兼続の親友、前田慶次郎の逸話を語るときによく引用される「可観小説」の作者が青地礼幹で、
礼幹は室鳩巣の高弟、加賀騒動での反大槻派ブレーンでも知られます。


96 :
>>95
オチは何処?

97 :
そういえば兼続と正信はそれぞれ越後、駿河にいたときから、外交担当者として交流しているね。

98 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-411.html
ここで家康の長可評の出所を尋ねたい。
意訳されてて多少、文面が変化してそうだが誰か知らない?

99 :
>>86
律義者・・・を装ってた家康に託すのは当然ではないかと
きっと後で譲ってくれるだろうと

100 :


101 :
>>98
たぶん森家家譜。
森家関連の逸話はたいてい森家家譜に載ってる。

102 :
家康が秀康や忠輝を醜いからと遠ざけてた、って話は創作?

103 :
>>102
「醜いから嫌われた」と言うのは後世の創作の可能性が高いと思う。
特に忠輝に関してはそう。彼はタイミング的に損をしたことはあるが、
基本的には家康に溺愛されたと言っていいほどの扱いを受けている。
「顔が醜い」と言う理由は家康が神君となって、秀康に関しては家康も含めたその生母の男性関係、
忠輝に関しては家康の育成に対して、表立った批評が出来なくなったために、当時の
合理的な思考として「顔が醜かった」という理由付けがなされたのだと考えられる。
どうも家康マンセー論のように思われてしまったのだけど、言いたいのはそっちの方じゃなかったんだよね。
家康に限らず信長でも秀吉でも信玄でも、容貌が醜かったり体が欠損したりしている人間を、
それだからといって差別しないのが特徴なのですよ。徹底して実力で見ている。
当然だよね。軍の中には負傷しカタワになった人たちがたくさんいるんだから。
そういった意識を家康は秀康に伝えようとした逸話であると思ってあの話を書いたのだけど、
どうも文章力が足りなくて旨く伝わらなかった。残念。

> 940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 19:19:55 ID:Y5rSdwle
> >>923
> 参考になったよ
> という事は信康が家康と秀康を対面させた逸話も江戸時代以降のもの?
信康が対面させたって件はおそらく事実。ただ、家康が認知しなかったのは醜いからと言うより、
家康の、秀康の母親への疑念、ぶっちゃけ「ホントに俺の子か?」って部分が大きかったと思う。
それで秀康だけど、秀吉の所に養子に行った時のエピソードには、「流石家康殿の子だ」
見たいな評価がやたら出てきて、どうも、秀康は、顔形も含めて家康に似てたらしい。
三歳で認知されたと言うのは、信康が「顔似てるからやっぱり父上の子ですよ」って事が
あったんだと思われる。

104 :
サンクス。
後年に最年長の息子にも関わらず秀吉に養子に出されたりしたのは
母親の素性の問題だったのかな

105 :
長子が人質に出されるというのは一般的

106 :
毛利隆元とかな。

107 :
秀康って猶子じゃなくて養子だったんだっけ? となると鶴松や秀頼が生まれなければ、
正式に豊臣家を継いでいた可能性だってあったわけで。
しかも、秀吉の年齢からすると、鶴松や秀頼が生まれない可能性は高かった。

108 :
秀次・・・

109 :
一応秀保もね

110 :
>>103
嫁に気を使ったということもあるんじゃない
なんせ今川一族の令嬢だから

111 :
何だかんだで十年近く子供作らなかったしね

112 :
島津家久の死
・島津家によるもの
・豊臣方によるもの
・病死・事件・事故など
どれだろう
家久死後の活躍のおかげで島津一番人気は義弘になってるけど
早死にしてなかったら天才的戦略戦術家の家久は義弘以上に人気は出てた可能性はあるはず
実に惜しい

113 :
普通に酒の飲みすぎだと思うよ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-922.html
というか飲まされすぎた。

114 :
謙信みたいなものか

115 :
>>658
あれ?
一族復興を手伝って欲しいなら飛び降りてみろ→すぐ飛び降りる
じゃなかったか?

116 :
>>115
ここはいい話スレではないぜよ

117 :
柳生宗矩の七人切りの嘘がどうやって出てきたのか知っている人はいるか?

118 :
信忠と信康の技量差を見て、不安に思った信長が家康に信康切腹を命じさせた・・・
という逸話
なんで出てきたんだろう?
あまりにも家の規模が違いすぎて、普通なら信長が生きてるうちに徳川家は吸収されただろうし
(徳川一行の堺遊覧がすでに同盟が終わり臣従契約の一環という見方もあるぐらい)
なんといっても義兄弟、うまいことやればこれも普通に信康は信忠の片腕にでもなっただろう
親の七光りかもしれんが、本能寺の頃にはすでに信忠はかなり強力な力はあったはず
なのになぜあえて信忠はイマイチだから〜などという話を作り出したのか
徳川史観云々にしてもちょっと強引な気がする
出典はどこなんだろう

119 :
だって基地外で敵に内通したから粛正されたとは書けないもの

120 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7#.E9.80.B8.E8.A9.B1

121 :
>>118
それが言われだしたのは比較的に最近
当時の学会での権力者、高柳光寿氏が言い出した説

122 :
>>117
「安藤治右衛門家書」に乗っている話なので、嘘とか柳生の捏造宣伝と言えるようなものでもない。
信憑性を云々したら、そちらが挙げた小野忠明の逸話の方がかなり怪しいものばかりなんだが。

123 :
>>122
柳生が金を払って書かせたという考えもある。
小野忠明の逸話は日取の多少のずれがあるくらいで行動そのものに嘘は無い。
仮に実際には起きなかったことだとしても、
そういう逸話が伝わるほど、小野忠明が強かったという事実は変わらない。

124 :
これはまぁ見事な検証否定で

125 :
だから柳生の嘘を検証してくれと言っている。

126 :
>>123>>125
「柳生は嘘をついている」と主張しているあなが、史料を挙げて嘘を証明してください。
立証責任はあなたにありますから。
現時点で検証しろというのならしますけどね。
残された史料から言って、柳生が嘘ついたとか捏造したとか言えるものではない。
真実だと断言できるほどのものでもないが、虚偽だと断定できるほどの根拠もない。
一方であなたの嘘をついているという主張には、信憑性のある根拠がまるでない
のでとても信じられない。
>そういう逸話が伝わるほど、小野忠明が強かったという事実は変わらない
小野忠明あが強かったことは、誰も否定していませんよ。
問題は、柳生と絡んだ逸話の信憑性であり、さらに言うならば、小野の逸話が
事実だったとしても、それで柳生を剣術流派として過小評価する理由にはならない。
小野忠明には、「どんなに強くても、その強さを他人に教えることが出来ないなら
意味はない」と家康が嫌ったなんて逸話もありますしね。

127 :
悪い話スレにもまだ湧いて出てきているよ、このID:lf/y4yvXというキチガイ…

128 :
>>126
それがわからないから聞いているんだ。
証拠があれば信憑性も出るから探しているのに、
どうして先に証拠を出せと言うのか。
あと、一刀流は現代剣道として広く伝わっている。
他人に教えることができないなど嘘もいいところだ。

129 :
>>128
あなた、根拠も何も無く「柳生は嘘ついている」と主張したんですか?
そういうのを妄想・妄言・中傷誹謗というのですよ。

130 :
>>129
もう一度言うが、だから柳生が嘘をついている証拠がないかと聞いてるんだ。
あったらこんなところで聞いてない。
それを妄想・妄言・中傷誹謗とか失礼な。

131 :
仮にも記録に残ってる事なのに嘘である事を前提で話してるからおかしくなる
というか何で他力本願なのにこんな偉そうなんだ

132 :
>>130
無い。まあ私が知る限りでは、だが。
しかしそんな明確に嘘ついたと判るような別史料があるのなら、とっくに
指摘されていてもおかしくはないと思うが。
根拠もなく「柳生は金で嘘書かせた」なんて言うのを中傷誹謗と言わずに
何と言うのやら?

133 :
>>130
もう止めとけよ、これ以上一刀流に迷惑かけるな。

134 :
>>121
それ以前は何が主流だったのかねえ

135 :
小牧長久手
本多忠勝を見て、秀吉は泣いたのか?

136 :
>>135
合戦記としては史料的価値が高いものとされる渡辺図書頭「小牧御陣長湫御合戦記」にある
「秀吉卿御泪被流」

137 :
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
西田局長みたいだな

138 :
謙信女性説って、まるっきり荒唐無稽なトンデモ?

139 :
幼少の頃寺に預けられた事が嘘になる
普通幼女は政略結婚の切り札になるので寺には出されないし
それを担ぎ出して兄に挿げ替えようという豪族もいないだろ
女とバレた途端、かついだ神輿が神輿で無くなるからな

140 :
そういえばそうだな
いまだに女説出してるやつってなんなんだろ

141 :
一種の陰謀論者と一緒で、変な夢を見たいんだろうな。

142 :
結論に導く事柄しか言わないしね。
なんで不犯なのかから飛躍したんじゃね?

143 :
卑弥呼みたいに呪術的才能が謙信にはありそうだが。

144 :
最後がかっこわるい、謙信

145 :
大坂で真田が家康を追い詰めたという話は有名だけど
あれも実は創作だという話もあった
実際どうなの?

146 :
>>145
毛利勝永軍の活躍を真田の物と勘違いしていたという説もあるな。
つか、夏の陣はぶっちゃけ良くわからない部分が多い。
ま、旗本の旗が倒れた云々くらいはあったかもしれないが、
家康が切腹を覚悟するほど追い詰められたとか言うのは、明らかに後世の作り話だな。

147 :
確か榊原家の文書では真田信繁は夏の陣の最終戦で戦わずに逃走を企てたってのがあったね
嘘だろうけど

148 :
妙向尼が本願寺救った話って嘘?

149 :
ここにある話は本当なわけないよな
ttp://2chcopipe.com/archives/51290750.html
関が原後、徳川の覇権が確立した頃の事
江戸城に出仕した上杉景勝。広間に座っていると、そこに結城秀康がやってきた。
関が原の折直接対峙した二人ではあるが、互いに尊敬しあっている
間柄である。
そうはいっても、秀康はいまや天下人の息子であり、景勝は敗軍の将である。
景勝は座を立って秀康に
景勝「…」
秀康「?」
兼続「秀康様、殿は『秀康殿、どうぞ上座にお座りください』と申しております。」
秀康「いやいや、景勝殿の方が先に着座なされていたのだ。どうぞそのまま。」
景勝「…」
兼続「『ここは江戸城でござる。身分も同じ中納言であれば、家康公のご子息である
   秀康殿が上座にあられるのが当然』と、申しております。」
秀康「何を言われるか。同じ中納言とは言っても任官されたのは景勝殿の方が先でござる。
   後輩は先輩を立てねばなりませぬ。それに私は今は結城家の者。結城家と言えば、
   世が世なら関東管領たる上杉家に従わねばならぬ家。ささ、お気になさらずどうぞご着座を。」
景勝「…」
兼続「『かたじけない思いやり、痛み入る』と申しております」
このようにして景勝は江戸城内において恥をかくことなく、徳川の世になっても、上杉家の
体面を保った。景勝のことを尊敬している秀康も、その事がとても嬉しかった。
そして秀康はいつも思うのだ。直江兼続の翻訳は、本当に正しいのか?と。

150 :
初めて見た

151 :
間に入ってる兼続の通訳はともかく、
秀康が景勝に席次を譲った話は実際にあるな。

152 :
竜造寺に攻め込まれそうになった有馬の救援要請に対しての家久の言動
本当なら泣きそう

153 :
>>152
「我に余剰戦力無し。現有戦力を持って戦域を死守し武人としての本懐を全うされたし」?

154 :
>>153
それ、某皇帝のお言葉では?w

155 :
義久<兵力が足りんから無理だ!
家久<頼られて放置は島津として恥、俺だけでも生かせてくれい!
義久<数は出せんぞ
家久<承知の上!武士として死ぬなら本望
みたいなやりとり?

156 :
誤字ったけど気にしない

157 :
>>154
つい書いてしまったw
実際家久が述べた言葉を知ってるなら教えて欲しいが。

158 :
あれだろ、家久の息子の兜の緒の話

159 :
>>155という話を某サイトで見たんだが、
それがその歴史サイトの人の創作なのか
書物に残ってたものかが分からない
そしてそのサイトのURLを見失った・・・
その真偽を知りたい

160 :
>>149
最後の一文…www

161 :
向こうで書くと大荒れ必死なのでこちらで
>ある日のこと、彼が妻の八重、妻の妹のサクラと
こういう嘘をさらっと入れると台無し
というか一気に信憑性がマイナスになる
もしかしたら逸話じゃなくて創作話なのかも

162 :
駄作大河では救出後千姫は家康を嫌っていたが
実際は家康は助けたかったんじゃないか?
秀忠の方は秀頼とまとめて殺してもかまわないと思ってたほどで

163 :
>>162
そうだよ。
今更あんな大河のことを語るのもうんざりだが。

164 :
やっぱ孫は可愛いよなあ

早く嫁が欲しい(´・ω・`)

165 :
よくある仮定の話だけど、
大和大納言がもう少し長生きしていればって実際どーなの?
秀長存命中の秀吉の理不尽な粛清や虐殺、
文治派と武断派の対立ってあった?

166 :
>>165
晩年の秀吉は完全な独裁者であり、仮に秀長が生きていたとしても、
秀吉の意向を掣肘するような行動を起こせばたちまち排除されていただろう。
秀吉は
秀頼>>>>>>>>>>>>>>>>豊臣体制
という意向だった。
秀長がもしその間も生き延びることが出きたなら(個人的にはその可能性は非常に低いと思うが)
秀吉死後の状況は変化しただろうが、秀吉の在世中に関しては、その残虐行為が
より凄惨なものになった可能性すらあると思う。
あと文治派武断派なんて明確な派閥は存在しない。
個々の武将のその時その時の立場でなんとなく別れた、ってくらいのもの。

167 :
秀吉の暴令に困った大名が秀長に相談して秀吉をいさめて解決って立場を
秀長死後にできたのは家康か利家なわけで
諸大名をかばうことが豊臣政権下での権力奪取につながる。
そういう意味では秀長の延命は
家康への求心力一極集中へのタイミングはずれたかも試練ね。

168 :
>>17最近では現在伝わってる直江状は内容はほぼ原形をとどめてると
言われてるよ。豊臣奉行衆が家康に「直江は田舎者だから怒らないで」
って諌止してる書状もあるし。
怪しい逸話は鳥居と家康の涙の別れかね。三成が挙兵すると思ってたに
しても、伏見城を捨てるなんてリスクが大きすぎる。
最近言われてるように、三成の謀反を過小評価してたんだろう。それを
ごまかすためにこんな逸話が生まれた。

169 :
>>9
大谷の茶会エピソードは明治以前に遡れないのが現状
福本日南の『英雄論』『豊太閤』がいまのところ初出で
英雄論には呉起の逸話が元ネタと書かれてる
秀吉(or三成)を持ち上げるために作られたものじゃね?

170 :
>>167
ただ、それを秀頼誕生後も秀長がやっちゃうと
秀次と同じようなことになったんではないかと思う
で、秀長が誅殺されてしまうと、それこそ決定的に家康や利家に奔る大名が増えるわけで
やっぱり結局は同じようなものじゃないかと思うんだよな

171 :
>>169
茶を飲んだ
というのも三成だけでなく秀吉だったという説も有ってこれまたぶれてるし
それにいくら親友といっても、膿を飲んでしまうものなのか・・・

172 :
>>140
不犯の他にあまり戦国武将が読みそうにない源氏物語を愛読してたからとかあるようだが
>>170
いつも思うんだがもしその辺りでifをつけるとしたら
もし秀長が生きてたらとか淀殿が死んでたらじゃなく
もし秀吉がまともな頃にねねとの間に子供が生まれてたらだと思うんだがなあ

173 :
>>172
> あまり戦国武将が読みそうにない源氏物語を愛読してたから
それは現代の感覚で、当時は源氏も立派な、男子の教養の一つだわな。

174 :
寺で修行してたっていうのは男の証拠なんじゃないの?
まさかそれも逸話・・・

175 :
>>174
寺に入れられてたのは確か。
たまに頭の可笑しい女性説論者が
「寺に入れられてたのは別人でそれと娘を入れ替えたんだよ!!」なんて言うが。

176 :
>>173
源氏講だっけね
公家や守護職なんかの重要な知識だわな

177 :
細川幽斎の、勅命による助命
あれって実際どうだったのかね
ドラマ的要素はものすごいんだけど
古今伝授はなにも幽斎だけのものでもなかったのに
という意見もあり
だから天皇ではないが将軍の落胤説にも繋がるのかな

178 :
>>177
どうも同時代的にはあの和睦はかなり評判が悪かったらしい。
武士の癖に全力を出して戦わずに海上するとは何事かと。
息子の忠興もかなり恥ずかしい思いをして相当頭にきていたようだ。

179 :
>>173
前田慶次も九条植通から源氏物語の講義を受けて、米沢で講釈していた。

180 :
>>178
第三者から見れば十分だと思うけどねえwww
戦力差といい、戦略的意味といい

181 :
>>180
あれが戦略的に意味があったのは最終的に東軍が勝ったからで、
やはり余力を残した上での開城と見られるのも仕方が無かったと思う。

182 :
関が原自体が、家康から見て、「賭けに近かった」と見れるし、
「勝算があったものだった」とも見れるし
これがまた実話・噂・推測含めて語れる題だしねえ

183 :
戦で100%なんてないからなあ
予想はある程度つくかもしんないが勝算なんてむしろなければやんないだろうし
現代の選挙とかだって確実な予想なんてできないのと同じで
結果を知ってから語ってる我々にはたぶん想像もつかない部分もあるんだろうな

184 :
「内府ちがひの条々」を送り付けられた時なんかは相当焦っただろうな。
『慶長記』でも「上方が全部敵になった」とか書いてるし、
平尾氏の記録では「徳川オワタ「\(^o^)/」と噂された。

185 :
しかし西軍は恐ろしくもろかった。実質的に家康が赤坂に旗印を上げた瞬間崩壊していた。

186 :
蒋に一番大事なのは、人望なんだろうなぁ。

187 :
上に立つ者の器量で勝敗が決まった例と思う。

188 :
仕込み八割の一例

189 :
本当は戦わずして勝つのが良かったんだろうけど
あのときはそれは無理だったんだろうなあ
三成嫌いが興奮しちゃってたし
だからこそ精一杯の裏工作だったんだと
吉川を止めたのはまさにそこが成功

190 :
関ヶ原といえばこれ見ると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3813.html
毛利は最初っから領地削減の条件で大阪城退去したように思われるな。

191 :
ツタンカーメンの死因は近親相姦による虚弱体質での病死ってのが明らかになったように
陰謀論のある不審死って大抵本当に事故死、病死だと思う。
四条天皇とかもありえねーバカ過ぎる死にっぷりのせいで陰謀論も出たが、やっぱ事実なんだよな。

192 :
>>191
近親相姦なら半島が当たり前のようにやってるが
それほど病死とか早死はないよ

193 :
>>189
豊臣方にも屈して生き残るチャンスはあったのに
その後はたぶん秀頼と淀は切り離されて
若い秀頼をうまいこと丸め込めば
大きな戦いとか日本分裂も無いままいけたんだろうと

194 :
>>190
日付が9/20だし、その後の顛末を見るにやっぱり前久の情報は正しかったんだろう
家康は秀頼を擁した輝元の出馬を恐れてたと言われるが、
恐れるどころか動かないことを計算に入れてたわけだわな
>>193
関ヶ原以降の大坂方はほんっとガタガタだからなあ・・・
「やっちゃいけないこと」を率先してやるような奴らが権力持ってたから仕方ない
大坂の陣までの一連の流れは家康のいない信雄が小牧長久手になだれ込むみたいなもんだ

195 :
>>194
事前の約束では半分だが、更に四分の一に減らされている

196 :
>>195
物事は正確に。
「”前久の情報では”半分だが、実際には三分の一」
これが正しい。あと「更に」の使い方間違えてる。日本語も正確に。

197 :
周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合なので四分の一が正しい

198 :
でも、前久の情報では「半分で」ということでも、9月19日の輝元自身や
9月22日の井伊・忠勝の書状では所領を安堵という話になってるんだよね。
9月25日には藤堂や黒田、福島らが22日付書状の内容(所領安堵)を保
証しているし。「2分の1だけど家は存続させますよ」という意味での「安堵」
なのかね。普通はそうは言わないと思うけど。

199 :
そういうのも含めてあくまで表向きというなんでしょうな>全部安堵

200 :
吉川は輝元が西軍蜂起に消極的だったことを訴えて所領安堵を求めたけど、
東軍が大坂城を接収してさまざま調べた結果、実は輝もノリノリだったこと
が判明して減封になったんでしょう。

201 :
20日の時点で、近衛前久の情報網には所領半減という話があった
大坂城で判明した西軍への積極関与で四分の一になった可能性がある

202 :
>194
関ヶ原以降の大坂方はほんっとガタガタだからなあ・・・
「やっちゃいけないこと」を率先してやるような奴ら・・・

つ「ミンス党とかぶって来て・・・。

203 :
なんでネトウヨってどこでも始めるんだろう

204 :
今じゃあミンスとか言ってる時点で痛い

205 :
チョンは「シュ」と発音できないからね

206 :
チュチェ(主体)思想だから
民主はミンスじゃなくてミンチュじゃないか、と時々思う

207 :
ネトウヨ消えろよ
スレ違いだ

208 :
>>207
お前こそ消えろボケ!!
キムチ臭いクソチョンめ!!!

209 :
ミンスもチョンもキムチも戦国には関係ないな。自重しろ

210 :
ネトウヨ最近は韓国に負けてばかりで自尊心傷つけられまくって焦ってるのかな?
こんな板にまで来て工作しなくてもいいのに

211 :
>>198
たとえ徳川四天王が約束していようが
後の大権現様が「却下」と一言言えば全部パーになったわけでwww
こういう点が家康が狸って言われる所以なのかもね
しかし家臣もそこを承知で空手形(になるもの)を出してたとも思えるし
あの時代、武力だけじゃなくて謀略面で徳川家に対抗できるところってあったのかな

212 :
家康を「狸」と言い出したのは明治以後。

213 :
ちぇっ(´・з・)
それも戦国逸話だったのか・・・

214 :
>>211
いや、たしかに家康本人が約束していなくても、徳川奉行衆と
おそらく五奉行の代わりとなった福島、藤堂らが認めていれば相当
法的拘束力はあったはずだよ。このころはまだ大権現様なんかには
なってなくて、豊臣系の力も大きい。だから毛利も開城したんだろう。

215 :
関が原の前と後では権力の大きさは劇的に変わったと思う
大坂で爆発するまで誰も刃向かえなかったところをみると

216 :
なんのかんので征夷大将軍就任が画期。
家康からの「従わせる正統性」以上に、諸大名の側が「従う正統性」を持つことが出来た。

217 :
>>213
逸話というかたぶん立川文庫とかで言ったのが始まりだとオモ

218 :
秀吉が猿ではなく禿げ鼠だった
ということからも家康も何か言われてたような気もするがなんだろう?

219 :
狸親父。

220 :
>>218
牛。
関東時代の家康は「関東の猛牛」と呼ばれていた。

221 :
デブだからかな?
しかし家康は粗食なはずなんだけどなんで太ってるのかな?
これもただの俗説で実はいいもの食ってたの?

222 :
若い頃は痩せていたが、大大名になったり秀吉家臣になった辺りから
事務仕事が多くなって、運動量が減ったので太った
もっとも固太りだとは思うが

223 :
んー
下腹が出てたというからメタボ系の太り過ぎだと思うよ
いわゆる中年太りというやつ
肥満は遺伝子の問題というのは最近浸透してきつつある学説だし
粗食でも太る人は太っちゃうんだろう

224 :
肥満ってのは、脂肪を蓄えるキャパ量だからね。
その生まれもった脂肪細胞の数で決まる。
この細胞の量が少ないヤツは、痩せ型で、脂肪を蓄えるのが
かわりに内臓の周りになり、不健康かつ死亡率の上昇になる。
本来は脂肪細胞のキャパがたくさんあった方が生存率的にも優れている。
だから欧米人で超デブでも健康だったりする。

225 :
残ってる家康の着てたものは肥満体向けだったということだから
家康肥満説は逸話じゃなくて実話の方に分類でOKかね

226 :
俺はこのスレもっと伸びても良いと思うんだが他に似たスレがあるんだろうか

227 :
>>225
太ってたの疑いも無くホントのことだと思うぞw

228 :
>>226
いい話と悪い話スレがあるからな

229 :
あと本格的な疑問ならここもあるし
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/

230 :
そういやここ隔離スレだったな…

231 :
>>230
そんなレス初
このスレをいったいどういう見方してるんだwww

232 :
>>231
ちょっといい話・悪い話スレの1に
>逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
>そのような議論はこちらでお願いします
>【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
>http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
こうあるんだな、元々は隔離ではなかったけど逸話のメインがいい悪い話スレ
になったので真贋論争の隔離場として残ってるわけなんだ
まぁここに移動することなく他の逸話論争も投下されたスレで終わっちゃうから過疎ってる
てな感じの見方してます。

233 :
>>232
そっちのスレがなぜか勝手に決め付けてるだけという結論
そのスレ見てないから逆になんで勝手に決め付けたのかを問いただしたいぐらい
>>1の通りここは特に硬い話をするところでもないし
こういう逸話があるんだけどどうなのかねえと話を膨らましてみてもいいんだし
しかし知らないところで勝手に隔離スレ扱いされるって・・・なんなんだ?

234 :
重複型のスレにはよくあること、「隔離」と言う言葉が悪かったね
「分別」とか「住み分け」と言うべきだったったかな
あちらは紹介型こっちは議論型ってことで
まぁ実際は誘導機能してないからネタ振りの少ないこっちは過疎ってる

235 :
めんどくさそうな話はとりあえずこの辺で〆

236 :
三成が秀次処分に反対していたって話は、結局武功夜話以外には存在しないんだよね?

237 :
>>236
自分は結局見つけられてないな

238 :
秀次体制だと三成失脚じゃん

239 :
>>238
三成っていうか、奉行衆はたいてい失脚だな
五奉行で比較的大丈夫そうなのはすでに国持ちになってて準一族扱いの浅野くらいか?
それにしたって奉行衆としては日の目を見そうにはないが
そういうことを考えると、秀次事件の背後に奉行衆がいてもおかしくない
っていう風に当時の人も考えただろうなとは思う

240 :
秀次には自分の奉行衆、側近団が既に形成されてるわけだからなあ。
秀次体制が成立したら三成は山内一豊あたりに追っ払われたことだろう。
特に三成は仕事熱心なだけで、長束や増田みたいな特殊技能があったわけじゃないし。

241 :
>>240
長束はわかるけど増田って何かあったっけ?
一応三成は町普請なんかには通じてたっぽい様子ではあるけどね
あとは法整備とかかな?
それにしても忙しかったのはわかるが、何が専門かは掴みにくいな
折衝役としては浅野や大谷の方が重用されてる形跡があるし
まぁ、秀次政権だと適当なところに何万石か知行もらって手打ちってとこか
しかし、こう考えると大谷吉継はスピード出世じゃね?
主要な奉行衆じゃ浅野についで早く国持ちになったんだよな

242 :
>>241
土木行政の達人だったらしい>増田

243 :
Rーの達人だったらしい

244 :
書こうと思ってたこと忘れちゃった_| ̄|○

245 :
>>240
でも秀次の与力衆ってあんまり奉行ってイメージない。
なんか田中だの堀尾だの山内だのって天下の仕置きをするにはあまりにも小物過ぎるような。
結局秀吉が奉行としての適性を見い出した面々は権力は縮小しつつもそのまま秀次政権にスライドしたかもよ。
それに秀吉個人の側近は富田一白とか宮部とかだけど、五奉行は豊臣政権の奉行っていう位置づけだったような。
奉行衆が政権を根本的に揺るがしてまであんな事件起こしたとはちょっと考えにくいよ。
増田に至っては息子が秀次に出仕してたんじゃなかったけ。

246 :
大坂での真田突撃での徳川本陣潰走ってほんと?

247 :
>>167

248 :
浅井家が織田家と同盟するときに、
「朝倉家に攻める時はまずこっちに相談してからにしてね」
と約束したってのはもちろん後付の嘘だよね?
朝倉とは長年の盟友ってのも…。
どっちも突然裏切った卑怯者呼ばわりされないための言い訳に聞こえる。
↓そう思う理由↓
1.現実的に裏切らざるを得ない理由があった。
・美濃、南近江、京に加え、若狭、越前まで織田家に支配されると、
 包囲される形となり、独立大名としての浅井家は終わる。
・六角攻めに少なからず協力したのに見返りはほぼ無く、家臣団に不満?
・包囲網はまだ形成されていないとはいえ織田家の周囲は敵だらけで、
 従属を続けるより裏切るほうが有利と見られた?
2.朝倉とはさほど親しい関係でもない。
・浅井亮政の代に一時的に助けてもらった程度で、明確な同盟関係でもない。
・それどころか久政は六角家に恭順の姿勢。
3.どちらも悪者にしたくなかったので苦しい言い訳になった。
・徳川将軍は織田・浅井両家の子孫。

249 :
>>244
Rーならオレのほうが上だって書きたかったんじゃない?

250 :
あげ

251 :
そうとう昔のやつで申し訳ないが、まとめサイトのこれ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1063.html
完全にレベルの低い作り話じゃない?
なんで全くツッコミ入らずに載ってるのかわからん

252 :
突っ込みどころ多すぎて逆にすごいなw
とりあえず挙げてみると
・上野守は普通名乗らない
・年齢的に小田原時点で生まれてすらいない
・関ヶ原で1400人は結構な大部隊
・東軍の部隊が小早川と大谷の間に布陣できるわけがない

253 :
投稿者もネタとして書いたつもりなんじゃなかろうか?

254 :
ツッコミ入らなかったから、釣りだと言えなかったのかねぇ……

255 :
ネタとしてもアレなんで誰も注目せず総スルーで今に至るとか。

256 :
完璧超人みたく持ち上げられる立花宗茂ってどうなんだろ?

257 :
同時代的な評価で既に、宗茂は一種の完璧武将みたいに持ち上げられてたのは確かだな。
宗茂にある種否定的な発言をしたのは家康くらいかと。
それもまあ、秀忠に「あんまりあいつの影響受けるなよ。お前とあいつじゃ立場が違うんだから」
みたいなことを言ったって話だが。
まあそれだけ、当時の武士のあり方に影響力を持っていた武将だったことは間違いないのだろう。

258 :
>>256
大きな勝ち仕事って島津追撃と朝鮮しか無いよなあ
関が原なんて失態といっていいほど
ただそういう後世の人間が目を向けない細かい戦いとか、
その他のところで武将らしい行動してたんだろうなあと
そこは当時の同時期の武将たちは評価してたと
むしろ同様に対比させると吉川元春の評価が低いなと
やはり似た感じの本多忠勝は名が知られてるけど

259 :
>他の武将
ってのがやっぱり大きいんじゃないか
秀吉の台頭後、それまで全く縁がなかった家が交流する機会が爆発的に増えて
九州の大名の名前が東北の大名家の文書に載ったりするなんて事ができるようになった
だからそれまで立花宗茂という人物を知らなかった人間も実際会って好印象を受けて
その事を形で残しておきたかったなんて事になったのかもしれない
秀吉台頭前に死んだ武将となると超有名どころ以外はどうしても自分の家の文書や
後世の軍記に頼る事が多い気がする

260 :
>>258
> むしろ同様に対比させると吉川元春の評価が低いなと
元春は江戸時代には非常に評価が高かった。
彼がマイナー化したのは明治以降のことだろう。

261 :
上げ

262 :
>>112
暗殺だったら伊東家の旧臣や大友家の家臣によるものってのが
動機的な可能性は高いと思う。疑わしいのは佐伯惟定と山田宗昌


263 :
小早川隆景の評価がかなり高すぎて割食ってる所はあるな>吉川
隆景が秀吉に気に入られて五大老にまでなっているのに対しあんまり中央と関わってないからか

264 :
広家さんのせい

265 :
天下人を嫌っていては
後々まで良い印象を残してもらえないんだろうなあ
更に元春は和解らしい和解もしないまま死んじゃったし

266 :
江戸期に元春はメジャー武将だったっつーの

267 :
>>260と同じ人か

268 :
>>266
そうだね
韓信と同じ背水の陣を取った人でもあるし、
諸葛孔明や谷佳知と並び称される人でもある

269 :
元春メジャーはウソだな。
むしろ元春は軍国主義時代にマンセーされて
その後に史料研究もロクにされないままに
現在のコーエーのマンセーにつながってるだけ
元服した少年当主が絶対に勝てる戦いで初陣したみたいな真似ばかりしてるのが元春。
勝てそうにない敵が攻めてくると逃げていて
結局、援軍待ちで籠城してた城がおちると「援軍を率いてきたが間に合わなかった」と言い訳ばかりしている。

270 :
明智光秀にビビって赤井直正から太刀や馬ををもらいながら吉川元春はこれらをガメて違約逃走。
月山富田城の戦いで指揮した秋上久家や降露坂の戦いでも元春は明らかに大敗してるよね。
吉川経家の鳥取城を見捨てて逃げた人でしょ。
但馬有子山城の山名堯熙・播磨三木城主・別所長治
摂津国の荒木村重も見事に見捨てたよね。本願寺が必死こいてる時の元春の無能ぶりは異常。
基本的に絶対勝てる相手としか戦わないよね。
あとは逃げてる(長期籠城してる相手への言い訳は援軍を出したが間に合わなかったw)
全勝無敗とかすさまじいマンセーするわりには戦史に残るような激闘や、特筆される戦術も無ければ
死地をくぐりぬけた辛勝などのすさまじい戦いぶりがまったくないハッタリ逸話武将なわけだ。
但馬でも垣屋豊続・太田垣輝延・八木豊信らが毛利派として
秀吉と戦う中で、ビビり元春は秀吉軍と戦う勇気もないくせに
人質出せと虫のよい要求をする口だけ番長ぶりを発揮w
戦って勝った相手が小豪族や中級大名だからな。
忍原崩れも刺賀長信救援できずに戦略的には大敗決定的に元春は立花道雪の猛追撃に付け狙われ大敗走してるよ。
西国盛衰記
毛利軍が立花から降雪の深夜に小倉へ向かって長躯敗走描写において
凍えて脱落していく兵すら見捨てて逃避行してる。
子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ毛利軍崩壊。
この時の殿に大失敗したのが元春の殿の指揮。
その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。
実際、丹波、但馬、播磨、摂津、和泉、淡路あたりは
中国地方の覇者の毛利支持派と織田支持派で分裂していて
毛利にとってすごいチャンスだったし、将軍義昭が毛利を頼ってきたりと、
京洛で隠然たる実力を有する寺社勢力の協力も取れた。
それなのに、吉川がことごとく、臆して彼等を見捨てたためにあらよ、あらよと戦線が後退して、
山陰道じゃ南条の挙兵で、因幡を秀吉にむし取られて東伯耆までなだれ込まれるし
ちょうど、淡路方面の調略が成功して四国方面に秀吉が赴く理由もあり助かったが
瀬戸内海では淡路の毛利水軍追い出され山陽方面の備前美作では宇喜多の裏切りで備中まで攻め込まれる始末。
どんだけ弱いんだよ元春ってw これで全勝無敗とか笑えるんですけどwww
立花宗茂支援に出兵した美談で隠蔽工作してるけどその陰でバッチリ虐殺大会を隆景&元春は楽しんでます。
北九州で百姓まですべてを無差別大量虐殺しまくって
死体を海に投げ捨てて証拠隠滅した悪逆非道の元春&隆景軍。
備前・播磨・美作3カ国の朱印状を信長からもらった浦上宗景に対して
謀反した宇喜多直家の反乱において、毛利輝元へ織田信長が
「両者の和解を周旋すべし」という要請したのに、
隆景が備中国欲しさに叛臣宇喜多を支援し長年にわたり毛利へ忠節を尽くした三村を裏切り
1575年6月には毛利軍は信長が後援した三村元親を攻め滅ぼし、
その幼少の子である勝法師丸を恐れた隆景みずからが殺し
完全に信長と敵対した挙句に、案の定、宇喜多に裏切られて
一機に秀吉に備中まで攻められるわ 信長に周防長門は切り取り次第で安堵するよって
言われた宗麟が長門上陸軍を編成し始めて完全に毛利死亡フラグを立てまくる
隆景のアホさ加減がガチでたまらないよね。
武田滅亡フラグにそっくりじゃないかw マジで本能寺に救われたな。
つか毛利主家を売ってまでした隆景の自立を真似て安国寺恵瓊までが伊予6万石の大名として自立し
黒田孝高とともに大友氏・毛利氏の和睦締結の斡旋を上から目線でやるまでに輝元がなめられててワロタw
そりゃあ不満だらけの吉川も自立したくなるわな。おかげで関が原のばらばら空中分解の毛利解体ぶり。
隆景さえいなければ、こんなブザマなことにならんかったのにな。


271 :
キチガイが来たぞー

272 :
悪いが評価点を箇条書きする奴の言う事は信じない事にしてる
特に良い点だけ、悪い点だけの奴は

273 :
えっ?元春にそもそも良い点なんてあるの?
功績があるなら一次史料を転記してくれないかね。

274 :
>>270
西国盛衰記だと永禄12年11/15で吉弘文書で辛10/15と日付が違うのにこれって信用できるの?
あと吉弘文書には3491人が死んだと書かれているのか?
鎮信が100人以上を討ち取ってるといわれてもそれしか言わないなら3491人が死んだ証明にはならないんじゃない
そもそも元春は大内の残党を討ちに向かう途中なのに何で殿なんてやっているんだ
それに子が親を捨て、家臣が主を捨ててあるなら何で元春生きているの、子が親を捨てたとどうやってわかったの?

275 :
>>274
子が親を捨て、親が子を捨てって軍記物の決まり文句でしょ

276 :
>>274
君、ちゃんと辛って知ってて書いてる?

277 :
むしろ吉弘鑑理のオマケで一配下として
付いてきた鎮信が100人以上を討ち取ってる時点で毛利スゴイ大敗じゃんw
この前面の大友軍から逃走してから大内の残党を討ちに行っただけだし。

278 :
解ったから早く病院に行け君は。もう手遅れだろうけど。

279 :
で、元春の功績の一次史料はまだなの?やっぱりないの?

280 :
元春どころか隆景だって功績なんてねーよ。
武の元春と智の隆景なんてのは毛利の講談軍記の世界だけの話さ。

281 :
この馬鹿はIDさえ変えれば同一人物の投稿だとバレないと、本気で信じているのだろうか?

282 :
>>281
あーぁ可哀相な毛利厨だことw
史料で議論できないなら
軍記読んでオ○ニーでもして寝ろ。

283 :
はい

284 :
黒田如水と小早川隆景の逸話って本当だったの?

285 :
     *      *
  *     +  うそです
     n ∧_∧ n
 + (ヨ(* ´∀`)E)
      Y     Y    *

286 :
>>276
知らん
どういう意味なんだ?
>>277
>むしろ吉弘鑑理のオマケで一配下として
付いてきた鎮信が100人以上を討ち取ってる時点で毛利スゴイ大敗じゃんw
これって鎮信が100人以上を討ち取ってると書いているだけであって
他の武将が何人討ち取ったとか書いてないじゃん
一部の例だけあげてさもそうだったみたいすることが
自分が批判していた捏造行為そのものじゃないか
あと大敗したのにうまくまとめて大内の残党を倒したのなら
それはそれですごいことじゃないか
そもそも救援に向かうはずの元春が殿をしているといってる時点でおかしくないか
普通なら殿する人間と救援に向かう人間を分けてやるだろうし
元春が殿していたという根拠て何かあるの

287 :
>>286
で、お前がそう主張する文献による根拠をまず出せよ。
話はそれからだ。
ただ単に俺に根拠はないが毛利最強だから絶対に認められないって言う
くだらない話なら自宅で自慰でもしてろ。

288 :
>>287
結局それらの矛盾に何も答えられないんだなお前。
ブザマな奴だなあ。

289 :
元春の功績はあげられず
ソース付きの元春敗北を
否定するソースもまったく出せない
毛利厨って相変わらずブザマですね。
史料なんて読んだことすらない無知っぷりを毎回さらけ出して恥と思わない哀れな姿…

290 :
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、大友との戦線の見通しも暗いことから元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。
行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利は立花山城に乃美宗勝、桂元重、坂新元祐の三将を残したが11月9日降伏
毛利方についた筑前の国人領主たちも降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。
【毛利マンセー安西軍策】でさえ、
毛利軍九州撤退の際に道雪が元春や隆景の使いに「そちらの陣が御敗軍の由」と発言し、
宗麟が立花城開城勧告で「今度中国勢敗軍のところ」と発言し、毛利側からはそれらになんら反論すらしてないのに毛利勝利ってw
毛利厨はほんと無知だな。

宗像は毛利と手を切る
蔦ヶ城を明け渡す
宗像の知行地半分を譲り渡す
西郷党の領袖の袖河津隆家の誅殺
大友家臣の臼杵鑑速の娘を当主氏貞の質に迎える
道雪59歳の側室に当主氏貞の妹25歳をいれ化粧代として立花に
西郷庄300町の贈与と西郷党の強制移住。
ものすごい理不尽な要求に宗像は屈してんだよ。

まー弱毛利両川が11月7日から高橋が人質を取っていた豊前宇留津城攻めを開始して
籠城兵1000&この地域の男女の生き残った民400を磔にして無意味な大量虐殺をして海に捨てて進軍し、
豊前香春岳の高橋元種(秋月種実の子)をやっと降伏させたのは12月11日と弱毛利の進軍はあまりにトロく遅い遅すぎる。
立花城までの距離はまだまだ籠城する原田氏を始めとして、かなりあるわけだし、
だいたい島津が立花城から敗走したのが8月23日なんだから講談話とは違って現実には豊臣の力なんざ頼りにしてねーよな。

291 :
大友の大軍の追撃があるからこそ
元春が殿せねばならなかったんじゃん。
そもそも隆景は道雪に敗退してたから兵は消耗してるわけだし。
そんでボロボロにされてやっと中国へ撤退した。
大内反乱軍は毛利軍が帰ってきた報せを聞くと脱走が相次ぎ、軍は瓦解してしまったから
元春がその後に討伐に向かっても楽勝だっただけ。

292 :
【異常】Sub荒らし報告・観察スレ【誇大妄想】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268982684/
ご協力とNG登録等による自衛で構ったり餌を与えないで下さいますようお願いいたします。

293 :
終わった話ですまんが、江戸期に元春メジャーだったっていうののソースとしちゃ
一例としてこんなのがあるな
諸将武勇競
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/goods/vol002/vol002.html
まぁ江戸期に流行った番付表の戦国武将版なわけだけど
吉川元春が小早川隆景と並んで前頭七枚目にエントリーしている
まぁ、大坂で作られたものらしいので番付自体は西寄りなのがご愛敬だがw
だいたい上位の面子は江戸期の逸話集や軍記物で人気だった面々で固められてる
このサイトでは横綱がいないことをちょっと皮肉ってるけど
横綱って番付に記されるようになったのは明治になってからなんで
時代的なものですわな

294 :
それ昭和26年以前に作られたものとしか言えないね。
横綱が大関の上に来ると明文化されたのは昭和26年のこと
昭和二十六年一月、吉田司家と相撲協会の間で取り交わした覚え書きに
「横綱をもって大関以上の最高位とし協会がこれを決定する」
とうたって横綱は完全に地位化した。

295 :
関ヶ原後に小早川秀詮が石田三成から罵倒されるエピソードが『小須賀覚書』などにありますが、これは信用できるんですかね?

296 :
>>295
殆どできませんな。ほぼ後世の創作と言っていいかと。

297 :
だいたい信用できる歴史書も作者の主観で書かれてるからな

298 :
>>296
「関ヶ原後に」の後に「捕まった石田三成を見に行った」を入れ忘れてました。
関ヶ原後といっても石田三成が捕まった後の話しです。

299 :
>>294
横綱が番付表に入れられるようになったのは明治からだよ

300 :
>>299
デタラメ乙
昭和からだから。

301 :
明治からで間違いではないな

302 :
>>301
なら>>294同様に
しっかりとソースを出して証明すればよいでしょう。

303 :
ほれ明治42年の番付表。
横綱ちゃんと乗ってるぞ
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/016/292/51/N000/000/000/122926201784816206443.JPG
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/016/292/51/N000/000/000/122926207279316206471.JPG
http://aruotoko.at.webry.info/200812/article_16.html

304 :
>>303
なるほど。ちょうど日本が軍神を作り出し
日露戦争で勝利し朝鮮を保護国化して
翌年には日韓併合といった
軍国主義教育の元に郷土の英雄を発揚し始めた時期ですね。
史料的裏づけによれば明治42年以降に
元春の出てくる番付表も登場してくるわけですね。
そして>>294で昭和26年以前にと言う話もあり
調査をかけましたらどうやら昭和12年に
「吉川元春元長両公の御事蹟」というもの
及び昭和19年「吉川元春」の両著において
瀬川秀雄氏(生明治6年8月22日〜没昭和44年9月21日)
父、旧岩国藩士瀬川成器(長男)。山口県玖珂郡錦見(岩国市)出身
が世間一般に吉川元春を紹介しているようです。
つまり明治42年以降、昭和26年以前の条件を兼ねている
昭和12年以降に帝国日本の時代の要請により
元春を誇張して英雄講談軍記とされたと断言できるのではないでしょうか。
なぜなら昭和20年の終戦以降現在に至るまで元春について
史実からしっかりと検討されたような事実は見当たりませんでした。
吉川元春の英雄像とは瀬川秀雄氏の当時の価値観から描かれたまま
光栄の武将ファイルなどに転用されていると言えるでしょう。

305 :
その瀬川氏の研究が誇張であるという証拠はあるの?

306 :
>>304
君は言いたいことを整理しろ。何でもかんでも自分の主張に結びつけようとしてクッチャクチャになってるぞ

307 :
なんだ岩国藩が出自の郷土愛マンセーかよアホくさ。
所詮は隆景同様の捏造過大評価武将だな

308 :
毛利の捏造ぶりと薩長政府による
さらなる神格化で
ビックリしたことになってるなw

309 :
本当にバカは何でも陰謀論で考えるものなんだな。
捏造(笑)神格化(笑)
そんなもんが歴史の選別に耐えられるかよw

310 :
>>309
そこまで言うなら元春や隆景の功績を
一次資料を引用してたくさん紹介して
彼らの凄さを論証してください。

311 :
と、>>310のような馬鹿は何かあるとこうやって
本人が納得しないと絶対に証明「したことにならない」『悪魔の証明』に持って行こうとするのですね。
もう陰謀論者の典型すぎて涙が出てくるわw

312 :
悪魔の証明って自分から言うと言うことは
つまり隆景も元春も功績なんてないんだから
証明できるわけないだろって主張してるだけじゃんw
そりゃあもともと無い功績は絶対に証明できないわな。

313 :
で、どっちなん?
吉川元春の評価は?
素人の漏れにも分かるように説明してくれおw

314 :
>>313
この>>270が戦国板が総力を結集して調査した結果だよ。

315 :
>>314
マジっすかw
本と現実は違うのか…。

316 :
事績を辿って探していくと武将の紹介本が
その武将の負け戦を殆ど載せてない事ってかなりあるからな。
特に島津とかは酷い、相良・伊東相手の負け戦とかはほぼスルーだしな。
昔は色々な所で謳われてる氏康=民政家、だと思っていたが最近は少し見方変わったなぁ
北条は民に直結する資料が多く残っているだけであって善政を敷いてた訳じゃないのな
氏康は民の不満を抑える為に氏政に代替わりで明らかに幕引きは良くないしな
同じく毛利の元春や隆景は何でか知らんが過大だ。
元就に従軍していた頃は兎も角として
元就死後とか何一つ結果残せてない←(元就の遺言通りにしたらしいがw)
ぶっちゃけ毛利家で元就以降で一番の功労者は汚れ役を買った吉川広家だろ。

317 :
これほどバレバレの自作自演を見るともう笑いもおきんな

318 :
これかね?
【異常】Sub荒らし報告・観察スレ【誇大妄想】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268982684/

319 :
なんかもう毛利厨って可哀想・・・
山口県や広島県のド田舎から
涙を流して毛利最強とかつぶやき
書き込んでるんだろうな。。

320 :
>>319
そんな田舎大名に必死になって粘着するアンチって
ある意味一番毛利を愛してるよなw

321 :
>>320
お前って田舎者の郷土愛と妬みで
捏造歪曲を平気でやるタイプだよね。
いい加減にあきらめた方が男らしいぞ。
アンチじゃなくて史実だろ。

322 :
>>321
史実かどうかより見方とか視点のことじゃないんでしょうか?>アンチ
史実というのも史料の選び方や評価に私見が入るものですしね

323 :
明智光秀や羽柴秀吉にビビって
後退を重ねたのが
吉川元春や小早川隆景の真実の姿
どこにも毛利謹製の講談軍記に描かれるような
天才ぶりもしくは軍神ぶりの一端ですら
功績を裏付けるような一次史料はありません。

324 :
相すみませんが、既にNG登録済みですので読めませんし、読みませんw

325 :
>>313
とりあえず江戸期の評価としては、名将言行録でも読んでおくといいと思うよ
あれこそ江戸期通じて醸造されたも逸話関係の集大成みたいなもんだし
実際の事績についてでなく、「江戸の庶民からの評価」を見るなら
既出の番付表とか江戸期の逸話集とかがいいと思う
というか、事の発端は>>266だよな?
>>266の「 江 戸 期 に メジャー武将だった」っていうのの根拠に
一時資料から挙げられる功績は意味を成さないだろw
武辺話や講談、逸話集から作り上げられたイメージを見れば、
庶民がどの武将を贔屓してどの武将を嫌っていたかがわかる
例えば関ヶ原もので言うなら大谷吉継や島左近は一つも悪い話が作られないくらい贔屓されてたが
石田三成や小早川秀秋の逸話は散々なもん
これだって一時資料から見られる事績なんて関係ない
逸話集なんかの書き方を見てると、江戸期の庶民が好きなタイプはわかってくる
吉川元春はそのタイプに合致してるんだな
だから江戸期に人気になって元春贔屓な逸話が作られた、そんだけだ
顔真っ赤にして連投するようなもんでもないよ

326 :
名将言行録は明治2年以降に完成したとされ
当時、庶民向けに出版されたわけでもなく
しかも歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」とされています。

327 :
「巷間で流布していた話を参集しただけの俗書」って意味判る?

328 :
巷間も何も毛利家臣が捏造した話を
作者が取材先の毛利家臣から
マンセー話として聞き取っただけだろ…

329 :
>>326や>>328は「巷間に流布」していた話じゃなく、「各大名家家臣団に藩祖の逸話を聞いて作っただけの本だから、その場の思いつきとかもあります。
当時の民衆の間の知名度を知る上でも資料になりません」と言いたいわけかな?
すまんが、それこそ、ソースは?
つーか、この本がそういうレベルだってことになると、逸話スレででてる話のかなりが逸話じゃなくて、家臣団が勝手に作っただけのその場の思いつきってことになるんだが

330 :
関ヶ原の賊として左遷され辺境山口県のさらに辺境の寒村萩で築城せざる負えなかった負け犬糞田舎大名の一配下が花の大江戸で有名になるわけねーだろアホ。
郷土愛フィルターで夢を見るのもいい加減にしろよw

331 :
>>325
江戸期の庶民評価というと真っ先に
「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」
が出てくる。

今でも大体一緒だけどな!!NHKェ…

332 :
せざるおえないとか間違った日本語使ってんじゃないよ

333 :
>>331
講談が大ヒット飛ばして一気に有名になったのの筆頭だわな<真田幸村
山中鹿之助なんかもそのクチだけどさ

334 :
>>333
近年だと坂本龍馬がそのたぐいだなw

335 :
横レスですが、真田信繁の知名度はどの程度だったのでしょうか?
大坂冬の陣や夏の陣では名を馳せたとは思いますが、毛利 勝永の活躍と混同されてるとも聞きます。

336 :
幸村という名で有名になったから信繁としてはほとんど有名じゃないよ。
そもそも一部の好事家の趣味として一部都市部(江戸ではできなかったという説も)
で聞ける講談において好まれた演題であって一般に有名になったのは
出版と読書ブームがきた大正時代(1911年)刊行された立川文庫の
「知謀 真田幸村」において真田十勇士という名前が作られ大衆に広まってからだな。
大正デモクラシー時代は銀座に帽子をかぶって
遊びに出かける女性が登場したりといい時代だよな。
まだまだ発行にコストがかかり高額だった本も戦後1960年代に貸本屋ブームが起きると好事家の趣味レベルからようやく一般層の手にも渡るようになる。
そして景気がよくなるにつれて大量生産による低コスト時代に入る。

337 :
>>336
いや、江戸期にもある程度有名だったと思われるよ<幸村
片倉代々記の二代重長の前書き部分?に「幸村」と書かれてたりもするから
その部分が書かれた時には既に「幸村」が「信繁」を凌駕してたと考えられる

338 :
幸村wwwいかに片倉代々記がデタラメばかり書かれた三次史料以下のシロモノかわかるね。
そもそもこれ成立年代が不明だと言われてるしな。

339 :
でも大正時代まで信繁だったのが急に幸村に代わるもんかね

340 :
幸村自体は後世に幕府や真田家が編纂した公式な系図にも出て来るんだよね。
本人がそう名乗った証拠は今のところないんだけど。

341 :
ベストセラー難波戦記の影響だろ

342 :
寛文12年(1672年)成立の難波戦記には既に「幸村」になっている。
その過程は全く謎。

343 :
ついでに言うと難波戦記では、実際には信繁が大阪の陣で使わなかった『六連銭の旗印』や
『赤備え』が出てくる。
それらも含めて謎。

344 :
>>338
ちょっと補足させて貰えれば、その部分は二代重長記の前置きなので
そこの部分がいつ頃書かれたかどうかは定かではない
天保年間に書替のために写本されたとあるから、その時期に書かれた可能性はある
他の伊達基礎資料と大きく記述を替えているところもないし、
三次史料以下と断ずるのはどうかと思うぞ

345 :
真田信繁から幸村へと変わった過程も謎か…脚色や虚構が織り込まれて人物像ができたのですね。

346 :
まあ天保年間ってのも嘘なんだけどな
そもそも原本自体存在しない
完全に後世に書かれた偽書だから軍記の内容をパクりまくってる。

347 :
“幸”隆→昌“幸”→“幸”村
と、名前の引継ぎでは妥当になるために、一見公的な何かがあったように思われるけど
一見公的な何かがあったように思わせる目論見があったり、
単に物語として作るにも不自然な命名ではなくなるように合わせただけかもしれないし
徳川と戦うからには、同じく徳川と戦った昌幸の幸の字を継いで挑んだ、という感じで
つーか「信繁」の名前自体本当に信玄弟からとったの?

348 :
>>347
真田家のような武田と関わりの深い家で、武田信繁と関係なく信繁とつけたのならそのほうが驚き。

349 :
>>346
原本は普通に白石城博物館にありますが
もしかして釣られたのか

350 :
無知なだけだろ

351 :
あれ後世の人が書いたやつだからガセ原本

352 :
>>351
そこまで言うならソースをくれよ

353 :
仙台はいろいろと怪しいもん多いよな。
百万石の書状は井伊にブチ破られているのに現存してたり。
そういや支倉肖像画も贋作って主張してく学者もいるしな。
ttp://www.katoh.to/shigeko/san%20antonio/shisetu/sisetu10-56/sisetu10-56.htm

354 :
>>350
「偽物だ」と喚くのはすごく楽だからなあ。墨や紙調べても時代特定はまだまだ難しいし。
正直自ら偽書である証拠を調査・提示する研究家を除いて史料の偽書を主張する人間は
「偽書で無い証拠を出せと悪魔の証明を要求する盆暗」と斬り捨てていいと思う。

355 :
伊達の場合はデタラメばっかだし
軍記を読んでから史書を書いてる場合があって、わざわざ軍記の内容をあれは違うと後出しジャンケンで史料を引用せず頭から否定してたり
よくわからない人間が登場して
あれの真実は〜だと聞いたというから嘘だ
とか平気で伊達正当化しまくるし
どこにこの戦闘描写の出どころがあるのかまったくわからない話も大量に出てくるからな。
書状も後から書いてるんじゃないかってのもあるし。

356 :
百万石のお墨付きをひこにゃんに破られたのは史実なの?

357 :
そうだよ。

358 :
>>355
>軍記を読んでから史書を書いてる場合
ソース

359 :
>>358
どうせソースなんて出せないから構わなくていい

360 :
普通に会津陣物語の記事とか読んでるのバレバレで
伊達治家記録においてなんら証拠を出さずに
頭ごなしに偽リナリって言及してるじゃんw
他にも両説不決とか
謎の人物の雑賀小平太壽悦から聞いたとかw
超デタラメじゃんwww

361 :
>>354
近いうちに、科学的に単品の時代は本物でも書かれた時代の特定もできそうだけどね。
墨に使った水とかでも今だからこその成分混入とかありそうだし、
それが墨段階で混入しているか、書かれた上から附着したかとか判るようになるでしょう。

362 :
調査すれば簡単にわかるのに仙台が拒否して研究させないじゃん…

363 :
逸話検証期待あげ

364 :
まあ逸話って時点で後世の作り話なわけだが。

365 :
逸話も事実ベースの逸話と完全創作の逸話、ある部分が創作である部分が事実といろいろ種類がある

366 :
逸話は逸話であって
一次史料をベースにした逸話なんて無い。

367 :
無いの?

368 :
あるんじゃね?

369 :
一次資料にはっきり書いてあっても、マイナーな話は逸話でしょ?

370 :
一次史料の時点で成立が後世だったり、又聞きとかあるじゃない

371 :
日本語で

372 :
一次といってもそれだって必ずしも正確ってわけでもないんじゃないのかなあ

373 :
覚書や軍記物などよりはずっとまし

374 :
具体的に教へれ

375 :
一次史料ってのは情報の正確性は問われない。
単に同時代の史料ってだけ。
誤解や歪曲・脚色があっても同時代のものなら一次史料。
事実を正確に知ることができても後世のものなら二次史料。

376 :
同時代ではないな。

377 :
かと言って奥羽永慶軍記や三河物語が信頼できる史料であるかというとそうではないからな

378 :
家康・信康の仲たがいって
結局どういう話に落ち着きそうなの?

379 :
>>377
AK軍記と三河物語を同じ扱いにするのはさすがにどうかと。

380 :
永慶軍記に比べれば三河物語はよっぽど資料的価値は高いだろ

381 :
末期とはいえ戦国武者の端くれが書いた三河物語と各地の軍記物や家記なんかを
まとめて面白おかしくした永慶軍記では価値が違いすぎる。

382 :
>>251
亀レスだが
元ネタは松平忠吉なんだろうなあ
家康の「四男」で初め「下野守」を名乗り、初名は「忠康」。
おまけに「関ヶ原で負傷」
もっとも先陣切って勇戦の末に負傷した忠吉を
何でこんな間抜けな逸話に書き換えたのかはよくわからんが

383 :
いや、そんなところまで考えてないと思うよ
七手組に入れる必要ないもん

384 :
関が原の時点で秀康は20代だし、その時点で息子が侍大将とか有り得ないし

385 :
まとめ管理人の悪い話だな
突込みどころしかないのに安易に乗せすぎ
結城秀康を知らないとしか思えんレベル
まあ、最上厨の創作話まで片っ端から載せてるから、スレに書かれたのは全部収録する方針なのかもしれんが

386 :
そもそも逸話自体「おらが村のご先祖様、おさむれぇ様自慢」やとんち話の要素を多分に含む世界なんだから
目くじら立てても仕方なかろう。
それが史実だと言い出したらぶっ叩いていいと思うが

387 :
明らかに歴史的に間違ってるどころか、これ人間として不可能だろ、ってレベルのものも含めて「逸話」。
投稿者の作文じゃない限り、それを全部載せるのがまとめサイトの存在意義。
管理人さんは全く正しい。
歴史的にどうかが気になる人はこっちで議論すればいいのであって、向こうの管理人さんにケチをつける
のは完全な筋違い。

388 :
だから投稿者の作文だっつってんだろ

389 :
作文と断定できる根拠は?
マイナーな逸話なんていくらでもある。
地元どころか特定の集落or一族にしか伝わっていない伝承もある。
それすら無い、と断言できるのは、他の逸話の改変だと断定できるケース、
あるいは誤引用だと断定できるケースぐらいしか無いと思うんだが。

390 :
なんか擁護に必死すぎてキモいな
じゃあ俺もこれからは架空の武将の小話をガンガン投稿して行こうかな!
うちの一族には伝わってるんだからしょうがないよな!w

391 :
小学生レベルの回答をありがとう。
同じくぶっちゃけると、それをやられると確認しようがないんだよね。
元々信ぴょう性の低いマイナーな逸話を上げていくスレだったんだから。
まぁ、出来がよければいつの間にかコピーされて本とか載るかもしれん。
著作に励み給え。

392 :
>>390
小学生乙w
まぁ著作に載ったら訴えて勝訴確実だなw
なんせ出典が脳内妄想だからw

393 :
>>392
勝訴する根本的なものもないから、確実ではないと思う。
とマジレスしてみる。
なんか、逸話と軍記物がごちゃまぜになっている人が多そうな気が。

394 :
マイナーな逸話ったってある程度どっかで共有されてるもんだろ(書物なり碑なり)


395 :
>>392
日付が確認できるようなものに書いとかないと駄目だろ?
匿名掲示板に書いたのは俺だ!って言い張っても、その本書いた奴に書き込んだのは俺だよ、
何いってんの?って言われて終わるから。

396 :
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 17:19:26.42 ID:Q7Wbz91P
藤吉郎と小六の出会い

立身出世を目指し、諸国の有力大名を視察する旅に出た藤吉郎は近江国番場(現在の滋賀県米原市)に訪れた際、
「自分は尾張の浪人である」
とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が
「何か食べ物を寄こせ!」
と庵に立ち入ってくると、藤吉郎は
「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。
その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目である蜂須賀小六が
「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」
と願い出ると、藤吉郎は
「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」
とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
藤吉郎は庵を立ち去ったという。
そう、将来を夢見て大志を抱き、太閤にまで上り詰めた、若き日の木下藤吉郎秀吉である。
358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/27(日) 18:51:27.29 ID:gNV+8NUq
審議中(AA略
359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 19:04:42.94 ID:EMkvuFGN
コピペ改変ならそう書いてくれ紛らわしい



こういうのも「俺んちだけに伝わるんだ」で通っちゃうな

397 :
「籠城時に水が足りず米で…」「飯に汁を二度かけるのを見て…」みたいな
コピペ改変のテンプレみたいな話もあるからな。

398 :
>>396
通るように頑張ってみれば?

399 :
なんで?

400 :
村井勘十郎が著した菅利家卿語話や陳善録や利家夜話などなど(全部タイトル違うだけで同じ物だよね?)の内容の信憑性ってどれくらいあるのかな?

401 :
>>400
前田家関係、特に利家の武功だったり権威だったりの話は他の資料と照らせあわせた上でないと
信用できない。
前田家に関係ない部分はそれなりに。

402 :
>>401
そうなんだ。ありがとう。
例えば醍醐の花見の茶々と龍の杯争いを松が調停する話や
利家が秀次邸のトイレや厩が金なのを馬鹿にして、秀次は謀反する器ではないとか言う話はやっぱり信憑性ないのかな?

403 :
>>402
その辺は後世の作り話だろうね。特に後の話は利家が露骨に天下への望みを
表明した話だけど、あの当時、いくら家臣の前でもあんな事おおっぴらに言えるわけがない。

404 :
小牧長久手の戦いにおける豊臣秀次の敗戦について、
信頼にたる史料に基づいた事実関係はどうなっていたのだろうか?

405 :
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6006.html
これの出典が「小牧御陣長湫御合戦記」で、長久手町史で信頼性の高いものとされている

406 :
>>405
本当にそれ信用出来るのかな?
この戦いについては合戦記や軍記などで豊臣秀次や池田勝入などが必要以上に貶められている気がするんだよね

407 :
>>406
池田についてはもっと後になる
秀次については奇襲を受けた時点で弁明のしようがない
あえて弁護するなら、家康の兵力移動を見抜けなかった秀吉に問題ありとなる

408 :
自分たちが奇襲しようとしてるからまさか相手が
というのはよくある話でこのあたりは家康の方を
褒めるべきかもしれない。

409 :
三方ヶ原が嘘くさい

410 :
ロマンいる?

411 :
ステマ政宗ってうそ臭いな

412 :
てか秀次はこの時点でまだ16って事も考慮しないとね

413 :
だからこそ、名目上の大将の秀次はともかく、ちゃんとした指揮官を努められるはずの森や池田、堀に対して、
行動指針をちゃんと秀吉が示しとくべきだろう。
奇襲をやりたいのか、家康を誘き出して本隊で叩きたいのか。
やってることが全く適当。戦慣れしてるはずの森や池田がなんであんなことやってるのかまるでわからない。

414 :
足が悪くなって曲げられなくなった鳥居元忠に家康が
おまえは功臣だから足を投げ出して座って良い
と言ったという泣ける話があった気がするが・・・
どこで見たのか思い打線
なんかの記憶間違いだったのかすらん

415 :
いや小少将の異父兄弟だろ

416 :
iPhoneアプリ「武将の名言」(無料)
http://itunes.apple.com/jp/app/wu-jiangno-ming-yan/id560842253
↑古墳時代から現代までの武将・軍事指揮官・将軍が網羅です。

417 :2012/09/21
http://1st.geocities.jp/sengokujidai_sougou/D-500_sengoku.htm
私のHPに詳細を載せているので感想等よろしく

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