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2012年07月軍事300: (大東亜)商船+戦標船(大欧州) (865) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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(大東亜)商船+戦標船(大欧州)


1 :2008/08/02 〜 最終レス :2012/08/06
商船
19世紀終り、20世紀の世界各国の貿易と旅行を支えた大中少客船・貨客船・貨物船・油槽船。
ホワイト・スター・ラインを始めキュナード・ライン、アメリカン・プレジデント・ラインズ、
日本だと日本郵船、大阪商船、東洋汽船、山下汽船・・。
大型高速優終船を始め平時標準船から小型船まで。
戦時標準船
古くは英国B型、AO型戦時標準船を始め評価の高い米国戦時標準船、
粗製乱造と罵られた戦中戦後を支えた日本の戦時標準船。

これらを心ゆくまで語り合うスレです!

2 :
ネタ投下
戦前の高速優秀船(日本郵船A型)はカッコイイ!

3 :
基地外の団塊左翼がまた糞スレを立てたと聞いて

4 :
商船スレはなかなか伸びねえんだよな。
そういえば郵船A型はN型改じゃないかという印象があるんだが

5 :
日本の戦時標準船を語る
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1199976744/
関連

6 :
普通に重複じゃん

7 :
>>6
>>5が950超だから後継スレと考えて良いんじゃね?

8 :
伝説の信濃丸
日露戦争の殊勲船でオンボロだから誰も彼も皆解体されたと思い込んでたが
そんなこんなで終戦後に水木しげるが生ける伝説に遭遇して絶句

9 :
兵站・補給について語るスレ 2
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1206241309/
【+】 病院船を語る 【+】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1195747644/

10 :
ちょっと変り種
砲運丸 HOUN MARU (1890)
「大阪砲兵工廠から各要塞への重砲運搬船で上甲板に40Tのウインチ一台と
 大型デリックを備え一般重量物の運搬にも用いられた」
(川崎重工業社史)わが国で建造された数少ない鉄製汽船。
後に暁丸 AKATSUKI MARU と改名され太平洋戦争を生き抜き戦後まで船籍を有した。
竣工 1890.8.4(明23)→1951(昭26)旭汽船(神戸)に売却、暁丸 AKATSUKI MARU と改名。
船歴60年以上!

11 :
>>10
60年も働いている船がいるというのにお前らときたら、、、

12 :
長く使われたと言えば、三菱商会の近海航路(横浜上海間)1884年進水の薩摩丸。
1945年4月朝鮮沿岸で米潜SPADEFISHよる雷撃で沈むまで50年近く生きた。
※三菱商会の船は1895年に日本郵船に移籍。

大信汽船
第一大信丸
1918年7月進水後、戦争徴用されながら戦後も同社で使われる。
解体年不明だが60年代だと思われる。
第二大信丸
1918年10月進水、1935年3月売却され金立山丸と改名、
1945年5月六島灯台沖で機雷接触により沈没、1948年7月に引揚げ修復、
1957年8月尾道造船(広島)で船体引伸、1965年解体売却。

13 :
WWIIの各国商船を調べてると19世紀建造の猫又の如き老船がゴロゴロ出てきて驚かされる。

14 :
鋼製のスクリュー船で商船として最低限のスピードが出れば
いつ建造されたかわからんようなレシプロ蒸気船でもとにかく使い潰してたんですな
船舶の安全基準がうるさくなり、エンジンが低速ディーゼル一辺倒になった1960年代以降は、
さすがにそういう凄まじい船も引退したでしょうが

15 :
19世紀〜20世紀初頭(1910年頃まで)の商船は結構、第二次大戦頃まで生き残っているのが多いね。
基本は使い倒して廃船解体。
中には1903年に竣工、三ヶ国、四ヶ国と持ち主が変って第二次大戦後まで生き残った船とかあるし。

16 :
商船の世界は底なしだな。
近代日本に限っても大小数千隻もの汽船が・・・気が遠くなりそうだ。

17 :
初代の方の赤城なんざ、っていうか、1950年代まで帆船すら特定航路ではけっこう残ってたというし

18 :
和洋折衷の大型弁財船なんかも大正期まで建造されてたしな。
大型和式帆船は当時法令で禁止されてたため修理名目で新造されてたらしい。
弁財船の耐用年数は20〜30年程度だったから太平洋戦争の頃にはまだ結構残ってたと思う。
NHKで放映された昭和初期の横浜港の動画にも五大力船と思しき木造帆船が映ってる。
それより21世紀の今でも少なからぬ木造貨物船が現役なのがびっくりだけどな。
この前小豆島で見かけて腰を抜かしそうになった。

19 :
壹岐丸型 壹岐丸1,681G/T
釜山航路用に建造したわが国では最初の鉄道連絡用の航洋渡峡船。
起工 1904.5.31(明37) 進水 1905.6.19(明38) 竣工 1905.9.5(明38)
1905.9.11(明38)關釜航路に就航→1906(明39)逓信省(下關)に移籍→1909(明42)大蔵省(下關→東京)に移籍→
1922.11.18(大11)凾航路に就航→1924(大13)神戸製鋼所播磨造船工場(相生)で耐氷設備工事→
1924.4.19(大13)凾航路終航→1924.7.25(大13)稚泊航路へ転配→1932.2.14(昭7)大阪商船(大阪)に売却→
1937.3.26(昭12)北日本汽船(小樽)に売却→1937.4.25(昭12)樺太丸 KARAFUTO MARU と改名、稚内/本斗連絡線に就航→
1943.11.16(昭18)合併に伴い大阪商船(大阪)に移籍→1950.12.25(昭25)運輸省(東京)に売却、同年、楢崎造船所(室蘭)で解体
渡り歩いて45年
岳陽丸型 岳陽丸3,588G/T
日本郵船が長江航路用に3隻計画した浅喫水型旅客船。
進水 1906.12.25(明39) 竣工 1907.3.28(明40)
日清汽船(東京)に移籍、岳陽丸 YOH YANG MARU と改名→1937.8.15(昭12)日華事変の際に中国軍に拿捕。
China Merchant Steam Nav.(招商局),Shanghaiの江華KIANG HANとして使用されていたが九江下流で沈没、
のちに浮揚に成功。昭和20年にはChina Marchant Steam Nav.(招商局)によって運航されていた→
1949(昭24)China People's Steam Nav. Co.,Shanghaiに移籍、江漢 CHIANG HAN と改名→
1960(昭35)Lloyd's Register 1960-1961年版より削除

20 :
幸光丸型 海光丸1,515G/T
葛原冷蔵が横濱船渠で建造したわが国初の本格的な冷凍・冷蔵運搬用の貨物船
起工 1922.4.20(大11) 進水 1922.7.15(大11) 竣工 1922.10.20(大11)
1926(昭2)藤本ビルブローカ銀行(東京)に移籍→1927(昭2)日魯漁業(横浜)に売却→
1942.12.24(昭17)帝國水産統制(東京)の設立に伴い移籍→
1945.12.1(昭20)社名変更に伴い日本冷蔵(東京)に移籍→
1951.9.11(昭26)日本郵船(東京)に売却。主機をD) 神戸製鋼所99号10型 1,600BHPに換装(時期不詳)。鋼材運搬船に改造。
後に石炭運搬船に改造→1957.8.6(昭32)北星海運(東京)に売却、松前丸 MATSUMAE MARU と改名→
1962.11(昭37)前田汽船(東京)に売却→1967(昭42)船名録より削除
江浦丸 貨物船643G/T
起工 1899.9.11(明32) 進水 1900.8.4(明33) 竣工 1900.9.1(明33) 三菱合資会社三菱造船所(長崎)建造
三菱合資会社(長崎) 江浦丸 Enoura Maru →1921(大10)葛原猪平(東京)に売却、冷蔵運搬船に改造→
1925(大14)葛原冷蔵(東京)に移籍→1928(昭3)藤本ビルブローカ銀行(東京)に売却→1929(昭4)日魯漁業(横浜)に売却→
1931(昭6)泉谷義一(横浜)に売却→1932.11.17(昭8)林兼商店(横浜)に売却→1933(昭8)第六播州丸 Banshu Maru No.6 と改名→
1943(昭18)西大洋漁業(東京)に移籍→1945.12.15(昭20)大洋漁業(東京)に移籍→1945(昭20)SCAJAP No.B009→1953(昭28)大阪で解体
53年生きた。
新潟丸 貨客船 2,184G/T
起工 1902.4.7(明35) 進水 1903.5.9(明36) 竣工 1903.6.29(明36) 三菱合資会社三菱造船所(長崎)建造
日本郵船株式会社(東京) 新潟丸 Niigata Maru →1923.3.31(大12)近海郵船(東京)に出資→
1939.8.12(昭14)東亞海運(東京)に出資→1948(昭23)平安汽船(京都)に売却→1951(昭26)船名録より削除

21 :
群山丸型 木浦丸780G/T
進水 1904.8.20(明37) 竣工 1904.9.23(明37)
1935.3.5(昭10)攝陽商船(大阪)に売却→1942.5.4(昭17)関西汽船(大阪)の設立に伴い移籍→
1950.9(昭25)貨物船に改造、主機をディーゼル(550 BHP)に換装→1955.10.12(昭30)土佐海運(大阪)に売却→
1957(昭32)太伸丸 TAISHIN MARU と改名→1959(昭34)太平商船(東京)に売却→1961(昭36)岳南海運(清水)に売却、
第一大伸丸 TAISHIN MARU No.1 と改名→1963(昭38)紙村建義(不詳)に売却→
1965.11(昭40)羽田沖で大阪商船(大阪)の はわい丸と衝突、沈没
ちなみに相手の はわい丸 は、中日本重工神戸造船所が建造した初の双螺旋貨物船
ぱなま丸型 はわい丸(2番船)9,309G/T 大阪商船
起工 1951.5.30(昭26) 進水 1952.2.15(昭27) 竣工 1952.4.30(昭27)
貨物船 Lpp:145.00 B:19.40 D:12.50 m 主機 D) 三菱神戸Sulzer 7SD72 2基 10,000BHP
1964.4.1(昭39)合併に伴い大阪商船三井船舶(東京)に移籍→
1974.11.21(昭49)Scotia Maritime Carriers Inc.(Panama)に売却、SCOTIA CAREERと改名→
1977(昭52)中国で解体
ちなみに3番船の めきしこ丸 は航海で横浜/サンフランシスコ間を10日14時間5分で横断して
日本船による戦後の新記録を樹立した

22 :
岳陽丸は河用汽船としてはかなり大型だな。
船艙も見かけによらず広大で長さは垂線間長の60%、高さは船体内と上甲板合わせて7メートルもある。
客室が欧米人用(1等のみ)と中国人用(1・2・3等)に完全分離されてるのも時代を感じさせるな。

23 :
長寿船といえば三菱炭鉱の夕顔丸もすごい。
明治20年に建造された鉄製貨客船で昭和37年まで75年間にわたって高島炭鉱と長崎港の連絡に従事。
もはや化け物だな。

24 :
小型鉄船・鋼船って呆れるほど古いのが生き延びたりしているよね
この手ので物凄いのは、100年物が観光用にまだ動いてたりする河川用外輪船か

25 :
でも河川の観光用でスクリュー式と外輪船のどちらに乗るかと言われたら、
俺も外輪船に乗りそうな気がする。w

26 :
内水船は寿命長いよ。
ボリビア海軍は数年前まで艦齢108年のタンカーをチチカカ湖で使ってた。
荒天で沈没しちゃったけど。
現役軍艦で最長寿なのもパラグアイ海軍の河川砲艦だったはず。
日本だと北海道の大沼の観光船に船齢40年越えてる奴がいたと思う。

27 :
大型タンカーの系譜
紀洋丸 1909年、9,287総トン、140m、東洋汽船
干珠丸 1922年、8,200重量トン、129m
帝洋丸 1931年、13,960重量トン、150m
黒潮丸 1938年、14,960重量トン、153m
日章丸(二世) 1951(昭和26)就航、18,774重量トン、IHI呉、出光興産
シンクレア・ペトロ・ロア 1955(昭和30)就航、55,000重量トン、全長230m
ユニバース・リーダー 1956(昭和31年)、85,500重量トン、全長248m
ユニバース・アポロ 1958(昭和33年)、103,000重量トン、全長287m、IHI呉
世界初の10万トン級タンカー
日章丸(三世) 1962(昭和37)年7月10日進水、13万1,000重量トン、全長291m、佐世保重工、出光興産
幅43m。 深さ22.2m。航海速力16ノット。出力2万8千馬力。
東京丸 1966(昭和41)年、15万3,687重量トン、全長306m、IHI横浜、東京タンカー
出光丸 1966(昭和41)就航、21万重量トン、全長342m、IHI横浜、出光興産
世界初の20万トン級タンカー
ユニバース・アイランド 1968(昭和43)年、32万6000重量トン、全長346m
日石丸 1971(昭和46)年4月進水、37万2,400重量トン、347m、IHI呉、東京タンカー
グロブティック・トーキョー 1972(昭和47)年、48万3,644重量トン、全長379m、IHI呉
日精丸 1975(昭和50)年、48万4,276重量トン、全長378.35m、IHI呉、東京タンカー
238,517.49G/T、型幅62.00m、型深36.00m
何処かにユニバース・アポロの画像無い?

28 :
近海郵船が昭和3年にイタリアから購入した二隻の大型貨客船、
Giuseppe Verdi 9千6百t→大和丸
Dante Alighieri 9千3百→朝日丸
この二隻、好きだな。

29 :
照国丸 Terukuni Maru
竣工昭和5年5月31日 11,930Gt 三菱造船長崎造船所 日本郵船
長さ154,76m ディ-ゼル2基10,000HP 15Kt/18Kt 乗員177人 
昭和5年5月に長崎で竣工後の6月30日横浜を出港し航海に就く。
以後ロンドン線に就航し、ロンドン港での荷役作業の合間を縫ってショート
クルーズを行う。昭和14年9月のWW2開戦により欧州航路は香港以西の港での夜間入出港禁止、
戦時禁制品搭載の臨検にあう。9月24日午後5時横浜を出港し、第25次航に就く。
名古屋、大阪、神戸、門司、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、ベイルート、ナポリ、マルセイユと
順調に航海を続けるが、マルセイユで臨検の為に4日間抑留される。
カサブランカ寄港後11月15日ロンドンに向けて出港し、19日午前9時ドーバー海峡北方のダウンズで
英国海軍による審検が行われ、独逸海軍によりテムズ河口に機雷が敷設された為掃海が終わるまで待つよう指示を受ける。
20日航行の許可が降り、21日午前8時半英国海軍水先案内人の教導によりロンドンへ向かうが
ハーウイッチ港沖(N51;50,E01;30)で午後0時35分2,3番船倉右舷が浮遊機雷に接触。
午後1時総員退船が命じられ、午後1時35分雑貨5,151t郵便物53個と共に沈没。
WW2で2番目の商船沈没事件であり、中立国船であった為日本国外務省は24日英独両政府に対して抗議、
損害賠償請求を行ったが泣き寝入りとなった。なお接触した機雷は英独どちらのものであったかは不明。
犠牲者なし。
ttp://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/03/index.htm

30 :
大正期の日本郵船欧州航路船舶末路。
香取丸型 2隻 KATORI MARU Class (1913) 主機 R&T(排気タービン付3連成)
香取丸 KATORI MARU 10,513G/T 15.5/16.73kt
1941.12.23(昭16)ボルネオ島北西岸クチン沖約5浬(1.55N,110.13E)で仮泊中にオランダ潜水艦K-14の雷撃、翌日沈没
鹿島丸 KASHIMA MARU 10,559G 16.6kt
1943.9.27(昭18)仏印カムラン湾の南南東約100浬(10.10N,109.40E)で米潜BONEFISH(SS-223)の雷撃により沈没
諏訪丸型 3隻 SUWA MARU Class (1914) 主機 R 3連成 2基
諏訪丸 SUWA MARU 11,758G/T 13/16.45kt
1943.3.28(昭18)ウェーク島南水道の南5Km(19.14N,166.36E)で米潜SEADRAGON(SS-194)、TUNNY(SS-282)、
FINBACK(SS-230)の雷撃を受けウェーク島南岸に任意擱座、船体放棄
八坂丸 YASAKA MARU 10,932G/T 13/16.46kt
1915.12.21(大4)エジプトのプルロス燈台沖(地中海)でドイツ潜水艦の雷撃により沈没(第1次世界大戦)
伏見丸 FUSHIMI MARU 10,940G/T 13/16.46kt
1943.2.1(昭18)御前崎の南28浬(34.08N,138.18E)で米潜TARPON(SS-175)の雷撃を受け御前崎の南18浬で沈没
箱根丸型 4隻 HAKONE MARU Class (1921 - 1923) 主機 T 三菱Parsons 2基
箱根丸 HAKONE MARU 10,423G/T 14/16.1kt
1943.11.27(昭18)台湾海峡鳥丘興の東北東12浬(25.04N,119.40E)で空爆により沈没
榛名丸 HARUNA MARU 10,421G/T 14/16.4kt
1942.7.7(昭17)御前崎燈台の東、大根バエ礁(34.35N,138.15E)で濃霧のため座礁、7月21日船体切断、沈没
筥崎丸 HAKOZAKI MARU 10,413G/T 14/16.5kt
1945.3.19(昭20)上海の北北東120浬(33.07N,122.05E)で米潜BALAO(SS-285)の雷撃により沈没
白山丸 HAKUSAN MARU 10,380G/T 14/16.526kt
1944.6.4(昭19)硫黄島の西南西約280浬(22.37N,136.50E)で米潜FLIER(SS-250)の雷撃により沈没

31 :
>>27
これでいい?
ttp://www.t2tanker.org/ships/apollo.html

32 :
そういえばドゥロスってまだ健在なのかな。

33 :
「ドロスめ、よく支えてくれる。Nフィールドの全艦隊を前進させよ」

34 :
アメリカ、ヴィクトリー型。
イギリス、エンパイア型とフォート型。
この戦時標準船について詳しい人はいます?
画像が載せてあるサイトとかありますか?

35 :
>>27
日本最大の日精丸よりでかいタンカーって結構あるもんだね。
ttp://www7.tok2.com/home/yamafuso/yamaB-8.html

36 :
http://en.wikipedia.org/wiki/Victory_ship
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Victory_ships

37 :
米国の戦時標準船、平時も含まれていると思うけど、
種類が豊富で訳判らなくなる。
有名なリバティーから無名の貨客船ジェネラルタイプまで。
(正式な船名が判らないのでジェネラルタイプと呼ばせて貰う)
ジェネラルタイプは正直、知らなかったよ。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/USS_General_A._E._Anderson_(AP-111)
隊輸送に貨客船を使うなんて日本とは大違いだな。
誰かGeneral Edwin D Patrickが何型に当るか知ってる人はいる?
ttp://www.tt-museum.jp/post_05.html

38 :
P2型じゃないかな、ターボエレクトリックのP2-SE2-R1。
旧名Admiral C. F. Hughes、解体されたのは最近?
写真はこの辺りがええかのぅ。
ttp://www.history.navy.mil/photos/images/i05000/i05089c.htm
ttp://www.history.navy.mil/photos/images/g430000/g437315c.htm

39 :
英Wikiにもリストあるじゃん。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/General_John_Pope_class_transport#Generals

40 :
SS President Coolidge
http://www.michaelmcfadyenscuba.info/viewpage.php?page_id=21
機雷での沈没一部始終

41 :
第二次大戦は起ってほしくなかったな。多くの商船を失うこともなかったのに。
戦前船の多くが長寿をまっとうできたのに。

42 :
イギリスの戦時標準船って第一次大戦と第二次大戦では違うの?

43 :
郵船博物館でやっている新田丸の写真展行って来たが
白黒にしては色が見えるがごとき鮮明な写真だったな
あれは中々見ごたえがあるよ

44 :
青函連絡船の第三青函丸から戦時標準船だね。
戦時標準船は改悪みたいな印象だけど、そんなに悪い船でも無いよ。
一応、時化でも乗り切れるほどの強度はあるんだし。

45 :
>>44
残念、第四青函丸からだよ。鋼材ケチりすぎて異常傾斜で大問題。
#時化でも乗り切れる
「時化に遭っても乗り切れる」ってのは、「船体強度が不安なので、
時化になりそうだったらさっさと避難します」ってイミだよな?

46 :
>>45
それでも戦標船の中では最高級の部類だったんだけどね青函連絡船は。
戦略航路だし機構上どうしても複雑になるんで手抜きは出来ないから。
あと高い技術力を持つ鉄道省相手に雑な仕事は出来なかったのもあるし。
アメリカのマリナー級戦時標準設計貨客船が普通に戦後も稼動しているのを見ると、
国力の差は分かっていても暗澹となるわな。
個人的には戦後洞爺丸台風で死にかけた青函航路に米軍LSTが応援で投入された
話が面白かった。
函館だけでは滞貨を捌ききれず、室蘭港にランプウェイと接続する可動橋を
応急設置して急場を凌いだ話。
フネも地上設備もやっつけ仕事なもんで、可動橋とLSTの接触角が潮位によっては
基準の数値を超えてしまい、貨車の腹を擦る危険があったけど何とか乗り切ったそうで。

47 :
>>45
戦時標準船は普通の船より強度は落ちるが、時化でも乗り切れる位の強度は保ってる。
じゃなきゃ戦時中、多くの戦時標準船が外洋に出れんだろ!
>>46
LSTの応援は戦後、占領期間中のこと。
青函連絡船空襲で多くの船を失っている状況をGHQが打開策としてLST投入した。
だが、LSTは上陸作戦用という特殊用途から喫水が浅く、津軽海峡の波浪に揉まれて
船員でも酔うような状況だったという。 操船も困難で、僚船の連絡船から厄介者扱いされた。
しかも甲板を車両甲板に改造したはいいが、狭すぎて小型貨車しか積むことができなかった。
12隻の貸し出しで実際には2隻しか運行されなかった。
洞爺丸台風により欠損した穴を国鉄は広島鉄道管理局が保有し、
国鉄用燃料輸送に使用していた元稚泊連絡船「宗谷丸」と、
引き揚げ軍人等の輸送に使用していた元関釜連絡船「徳寿丸」を青函航路に派遣した。
よく洞爺丸台風で沈没した第十一青函丸の沈没状況を戦時標準船の強度に例える人が多いが、
第十一青函丸は船首と船尾を除く船底部を切り落とし、そこに新たな二重底の外板を取り付けるという大工事をしてる。
その新しい部分と古い部分が強大な波浪により一気に切断して沈没したと推定される。
強度不足で沈没するなら戦中生まれの第六青函丸・第七青函丸・第八青函丸、
とくに第十一青函丸と同じ函館湾内に居た第六・第八青函丸も同じ状況で沈没しなきゃいけないけど、
3隻とも洞爺丸台風を乗り切り1964年まで使用されている。

豆知識で青函連絡船空襲により浮揚されなかった船は第三青函丸・第四青函丸・津軽丸で
今も津軽海峡に眠っている。

48 :
リバティ船も建造数の一割弱にあたる233隻が脆性破壊で沈没したり使用不能になっている。
粗製乱造はどこも同じか…

49 :
粗製濫造っていうか未熟な技術を広範囲に利用したからってとこだな

50 :
丁寧な強度計算やってる余裕も無かっただろうし。
ただそれでもそういう部分を含んだ生産性、輸送力、
耐久力トータルで見ても一応要求されている水準は
クリアしてるんじゃないのか。

51 :
てか、そういう強度の部分も丁寧に、絶対に破断しないように
慎重にということで作ると、史実の生産性は発揮できないし
ヴォルフ・パックに負けちゃう。

52 :
>>45
もっと残念、W型は第五からだ。
>>46
どうだろ、雑だったと思うけどな。現場が何も言えずに泣いてただけで。
W型までは浦賀船渠の専売特許だったから、他よりは多少はマシだったかもね。
>>47
結果的にはそうだったかもしれんがね、耐航性は確実に落ちてると思うが。
「この船はヤバい」ってのが念頭にあれば、無理はさせないだろ。
雨漏りするレベルの溶接に、強度が保証されてるっつっても説得力ないなぁ。
ま、当時の状況で生産性をあげようとすれば、品質を落とさざるを得なかったんだろうけどね。
#LST
ディーゼル燃料補給に横須賀まで往復8日とかの時点で無理があったと思われ。
<当時連絡船燃料は石炭
#船底部を切り落とし
主機室とボイラー室の内側に一枚貼り足して、折れてるのはその前後付近だからね。
#同じ状況で沈没
第六と第八はずっと函館港内にいたと思いますが>沈没したのは全部港外
第七は運行表にいないから、どこかで修理中だったみたいだね。
#青函連絡船空襲で浮揚されなかった
もっとあるぞ、第一第二第十青函丸と津軽丸型計4隻と亜庭丸。
戦時標準船だけを言ってるなら津軽丸は違うし、第十が抜けてるな。

53 :
まぁビルジキールもない最速10.5ノットの船に津軽海峡を常時渡らせるのはしんどいわな。
でも燃料は国鉄なんだからそれこそ貨車輸送するなりして何とかできなかったのかなぁ。
大湊線や男鹿線あたりで既にディーゼルカーも使っていたんだし。
ナッチャン姉妹やゆにこんの悪戦苦闘を見ていると、津軽海峡って特別な海なんだなと
つくづく実感する次第。

54 :
ゆにこんとナッチャンの失敗は海象条件もあるけどニーズの読み違えという面が強いな。

55 :
台風直前の函館港
台風当時の函館港内は港内は青函連絡船を始め各大少貨物船が防波堤と
様々な岸壁を結ぶ航路を残して避難船でびっしり埋まっていた。
その中で座礁事故で機関故障によりブイに固定されていた8000トンの大型貨物船アーネストが
係留索が切れて漂流し始めた。機関始動できないまま南風にのって北へと流された。
風下の船に混乱が生じ、様々な船がタグボートや連絡船の補助汽船の出動を要請した。
殆どの船が錨を落としているため、これを巻き上げるのに時間がかかる。
船の機関は巨大で、きちんと暖気をとらないと機関に負担が生じて故障の原因となる。
この強風下での機関故障は生命とり、沈没に繋がる。
港内の停泊船は機関を暖めてはいたが、避難船がひしめくなか動くことができない。
アーネストの風下に大雪丸、日高丸、第六青函丸、第八青函丸、第十二青函丸がいた。
函館港の最大の弱点である南西の風が40メートル以上の強さで吹いてきたのだ。
波は巨大なうねりとなって函館湾、そして函館港内にも押し寄せて強風で函館港内は大混乱となった。
その中、港外への避難をしようと大雪丸が決断して前進するが強風により思い道りに舵が効かず、
斜め前方に居た第六青函丸の側面に吸い込まれるように近付いた。
第六青函丸は汽笛を連呼して大雪丸に危険を知らせたが、もうどちらもどうすることも出来ず、
大雪丸の錨が第六青函丸の側面に接触し激しく火花を散らした。
幸運にも他に接触箇所や破損個所なども無く、大雪丸の甲板に居た船員は
第六青函丸を甲板にいる船員の顔がはっきり見える距離で交わした
アーネストはさらに流され続けた。そして風下の第十二青函丸に接近したのである。
第十二青函丸も走錨が起きて自由が利かない。アーネストの巨大な船体が「第十二青函丸」に覆い被さった。
船員に緊張が走った。船首スレスレのところを左舷から右舷へとアーネストは流れていった。
つづく

56 :
19時53分、国鉄海岸局が全連絡船に無線電報を送った。
12隻中11隻の連絡船が返答したが、19時57分に第十一青函丸は、
「停電につき、あとで電報を受ける」とだけ返答、以後返答が無かった。
20時の少し前から、函館湾には巨大なうねりが押し寄せるようになった。
南西の風に吹かれて波が巻き上げられ、うねりになる。
しかも函館湾の場合、南西方向からのうねりは風の吹走距離が長く非常に巨大なものに成長する。
さらにうねりとうねりが重なりあって、巨大な三角波になる。
港外に出た船は強風に加えて、この巨大なうねりとも戦わなければならなくなった。
船はうねりに船首を没し、波が直接船橋を叩く。大音響に続いてうねりに乗り上げ船は上昇し、
うねりが去るにつれて奈落の底へ落ちて行くのである。
このうねりで棚に収納しているものはすべて落下し、引き出しはそのまま抜け出てきた。
港外でうねりと格闘している十勝丸の火手見習いだった一人の若い船員は、
うねりがひどく不安になって外を見ると並んで停泊している船があるのに彼は気付いた。
その船の電灯が突然消えた。「あれっ」と思うまもなく、その船は船首を空高く上げて棒立ちになった。
そして船尾から順にねじられるように海の中にゆっくり沈んでいった。
沈むときの波のすごさは例えようがなかったという。
この頃、北海道は後志、倶知安の北にある港町の岩内町で小さな火災が発生した。
ところがこの火災は風に煽られて風下の民家にあっと言う間に燃え広がり、
海岸に達したところで各漁船の燃料を貯蔵した倉庫のドラム缶に引火、
爆発吹き飛び、火の玉となり街中に降り注いだ。
その火の玉が瞬くうちに次の火災をあちこちで引き起こし、
岩内町の4500戸の住宅のうち3300戸が焼失、死者・行方不明者63人を出すまでに
それほど時間はかからなかった。
つづく

57 :
20時03分、台風のため函館港外に避難していた進駐軍のLSTがSOSを発した。
LSTには米兵191人が乗っている。SOSを傍受した近くの船は助けに行く義務があるが、
どの船も自分の身を守るのに精一杯でそれどころでなかった。
海上保安部が付近船舶に問い合わせをしたが、洞爺丸と十勝丸が自船も難航中で、
他船を救助どころでないと返答しただけで、あとは無言であった。
洞爺丸のすぐ近くに海上保安庁の巡視艇「りしり」が停泊していたが、
これも台風から自分の身を守るのに精一杯で、他船の救助どころでなかった。
他船の救助が無いLSTはやむなく、近くの陸岸に強制的に座礁することを試みた。
座礁に成功して20時30分、SOSを解除した。
更に大阪の商船会社が保有し、名古屋から室蘭へ雑貨を運ぶ途中に函館港外で台風避難をしていた
貨物船「第六真成丸」(2209トン)が洞爺丸の近くに投錨仮泊していたのだが、
錨が利かずに巨大なうねりに流されて、風下である北へ北へと流されていた。
20時26分に函館湾の北に広がる七重浜海岸に座礁、船体はしっかりと砂浜に食い込み、
10度ばかり傾きつつも危険はなく乗組員も無事であった。
座礁を知られるSOSを打電しようとしたが、あまりの波浪で海水を頭から被ったため、
無線アンテナが使い物にならずSOSは発射することができなくなっていた。
このように函館港内外の海はひとつ間違えると大きな事故が起きる地獄の海になっていた。
つづく

58 :
この頃、港外に出た各船に今まで青函連絡船が経験したことのない異常が起きていた。
車両甲板に海水が浸入してきたのである。過去に一度だけ経験があったが、
その時は車両甲板の入り口付近に出たり入ったりというのが主であった。
でも今回のは前回とは明らかに違う、船尾から大量の水が一度に入り、
船首が下がったときに車両甲板の最前部まで水が入り、船首が上がってもそれが全部出ていかず、
次の水が入って来てどんどん溜まっていくという有様だった。
次第に水が増えて、ある深さを持って「滞留」し始めたのだ。
連絡船各船は、後部開口から入ってきた海水が車両甲板を浸し、
車両甲板と機関室やボイラー室、石炭庫を繋ぐ換気口や出入り口から水が漏れていた。
これがさらなる事故を生むことになる。
この時はまだ誰も青函連絡船が事故を起こして沈むなどとは、夢にも思っていなかった。
いや前例も無いのだから誰一人、予想もしなかっただろう。
洞爺丸、大雪丸、北見丸、日高丸、十勝丸、第十一青函丸、第十二青函丸は港外へ出て台風と戦っていた。
港外に出た船には台風をやり過ごすための作戦として、ふたつの選択肢があった。
一つは洞爺丸のように船首を風や波の方向へ向け、錨を降ろしてその場で動かずに耐えること。
もう一つは船首を風や波の方向に向け、錨は降ろさずに機関を動かして波間に船を進ませる方法である。
前者の方法は洞爺丸の他、日高丸、十勝丸が取ることになる。
後者の方法を選んだのが、大雪丸、北見丸、第十二青函丸である。
この後者の方法を踟厨という。
つづく

59 :
北見丸
北見丸は94便として貨車を積み込んで函館を出港し、港外で投錨して仮泊していた。
20時頃から猛烈な風とうねりによって走錨が始まった。船長はすぐに踟厨航法を取ることを決め、
錨の巻き上げを命じたが、波が揚錨機ずある船首を洗っていたため、作業は困難となって、
錨は引きずったままにすることにした。後部の開口部から海水が浸入し、機関室とボイラー室に海水が浸入、
焚火が困難になっていたが、航行の自由はある程度あったのではないかと考えられる。
21時頃、北見丸は葛登支沖まで来た時点で船体は左舷へ10度傾いたままだった。
船長はこの傾きが気になったのであろうか、ヒーリング装置を使用してこの傾きを取ろうと考えた。
10度の傾きを気にするほど余裕が生じていたのではないかと考えられる。
まず後部船橋に行って遠隔操作でヒーリング装置を操作したが、どういう訳かうまく作動しなかったので、
機関室にあるポンプを直接操作することになり二等航海士と操舵手が機関室へ行き、
ヒーリング装置のポンプを直接操作した。ところが、傾斜は直ろうとしない。
タンク内を水が動いているのは間違いないが、船の傾きはそのままであった。
15分ほど過ぎると船は少しずつ傾きを取り戻しはじめた。
ところが今度は水平を越えても止まらず反対の右舷への傾きを急速に増した。
傾斜の増し方が急で、船員達は慌てて周囲のものに掴まった。
つづく

60 :
やがて25度で傾きは止まった。しかし、大した量でなかった船底の汚水が、
急激にその量を増して一気に右舷側に流れてきた。
機関長が「左舷に傾きを変えろ」と怒鳴る。
操舵手は何処かに穴が空いてそこから海水が流れてきたと考えたが、
他の船員は操舵手がヒーリング操作を誤ったと考えた。
しかし、ヒーリング装置は水平の少し手前で止めるという手順通りに動かされていた。
言い合っても仕方がなく、船員達は総出で排水に力を尽くした。
それでも右舷への傾斜は少しずつ増えいった。
船底に溜まった汚水は大した量でなかったが、見えない部分に大量に潜んでいたと考えられる。
それが船体が水平近くになった瞬間、右舷へ流れ出し、重心が狂って右に傾き、
続いて左舷に残っていた汚水が一気に右舷へ流れてバランスを崩したと考えられる。
22時20分頃、北見丸は右舷への傾斜に耐えられず、右舷に横転沈没してしまった。
葛登支岬の東方3キロの地点であった。
SOSも遭難を知らせる無線も発することができなかった。
夜が明けるまで誰も「北見丸」の沈没を知らなかった。
乗組員達は暗黒の海に投げ出された。近くに陸地の影が見えるが、
南西からの風とうねりがそれとは逆方向へ船員達を流した。
船員達はこれから数時間に渡って、暗く冷たく荒れ狂う海と戦わなければならなかった。
つづく

61 :
日高丸
日高丸は31便として石狩丸の後を追うように11時20分に青森港を出港、
50分遅れの16時33分に函館港内に到着した。
前述のようにアーネストが風で流されて、大雪丸と衝突しそうになるなど、
港内で危険な思いをしたので港内に居るのは危険と判断、錨を上げて20時頃に港外へ出た。
どうして船は風に立たないんだ。
船長は繰り返し呟いていた。どう操船しても日高丸は風に横っ腹を波に向けるばかりであった。
当時の車両渡船の側面上部には換気用の大きな窓が開いており、後部開口からはもちろん、
この側窓からも大量の水が車両甲板に流れ込むことになった。
機関長と一等機関士が船橋にやって来て、機関室への浸水が甚だしいと伝える。
船長は一等航海士に船内の浸水状況を確認するよう命令した。と同時に左舷に何かあるぞ!と叫んだ。
操舵手が探照灯(サーチライト)の電源を入れた。探照灯の光の輪が荒れ狂う海面を走った。
光の輪が物体の姿を捕らえた。
「左舷に沈没船、距離80メートル!」
三角錐の船首を上に向け、錨をぶら下げた沈没船が日高丸を目掛けて突進してきた。
このままでは日高丸は沈没船と衝突してしまう。
それは同時に日高丸が瞬時に沈没する危険でもあった。
つづく

62 :
チェーン伸ばせ!と船長は怒鳴った。
チェーンを伸ばすとは、錨と船を結ぶ鎖を全て伸ばして海中に落とすことで、
錨を巻き上げるより時間がかからないので、緊急を要するときに使われる手段である。
この船長の叫びに船首は反応した。錨のチェーンを固定するブレーキが放たれ、
250メートルあるチェーンは火花を散らしながら全て海中に没した。
これで船を固定するものはなくなった。
しかし、沈没船は日高丸に吸い込まれるように迫ってきた。距離は60メートルを切った。
探照灯の操作ハンドルにぶら下がった操舵手がたまりかねて叫んだ。
「船長、フルアスタン(全速後進)をお願いします。」
「なに!?フルアスタン?」
船長は決断を迫れままれた。
沈没船は前方左舷からすぐにも衝突する勢いで迫っている。
避けるには後進するしかないが、後進すれば車両甲板の開口部が大波浪に突っ込み、
大量の水が車両甲板に流れ込むに違いない。それはただでさえ浸水して運転困難の機関を、
さらに水に浸すことになるのだ。
しかし、後進しなければ、船そのものが危険だ。最悪の場合、瞬時に沈没である。
「フルアスタン、ツーエンジン(両舷機関全速後進)!」
船長は怒鳴った。テレグラフが両舷機関全速後進を機関室に伝え、操舵手が舵輪を回す。
日高丸は後ずさりを始めた。
沈没船は衝突寸前まで迫り、操舵手は瞬間「もう駄目だ」と思わず足を上げたという。
手を伸ばせば届くと思われるところで沈没船を交わし、
日高丸の後進につれて沈没船は探照灯の光の輪から消え、
吸い込まれるように怒濤の海へ消えていった。
つづく

63 :
機関室から浸水甚だしい!と報告が来た。
風は40〜45メートル。以前止む気配は感じられない。
日高丸はどうしても風に立たず、横っ腹から波を受けるだけ、
しかも沈没船を回避するための後進で、機関室への浸水が余計にひどくなってしまった。
浸水を止めなければエンジンは使用できなくなる。
船長は「フルアヘッド、ツーエンジン(両舷機関全速前進)!」と命令した。
等航海士がテレグラフを操作し、機関室に両舷機関全速前進を伝えられた
操舵手は舵輪を握り、船が何時動いてもよい体制が整った
船橋の船員全員の視線がスクリューの回転計に注がれた。
機関室浸水で機関が故障しているが、果たして船は動くのか?船が動けば何とかなる。
船が異常に揺れた。既に錨を失った船の揺れはこの直後の悲劇を予感させるものであった。
ドカンと大きな波に叩かれて右舷45度まで急激に傾いた。
だが、回転計は何十秒待っても動かなかった。
もう駄目だ!と船長は力無く呟くと、日高丸最後の命令となる、次の命令が出された。
「総員退船」その名の通り、全員船から逃れよという命令である。
二等航海士が復唱し、操舵手が総員退船を告げる汽笛のレバーを引いた。
汽笛は微かな空気音を上げただけで、長年聞き慣れた日高丸の汽笛の音にはならなかった。
船体は50度まで急激に傾き、船長と航海士が船橋の端まで飛ばされた。
船は一定の速度をもって右への傾きを増し、同時に電灯が全て消えた。
「SOS 日高丸、防波堤灯台より西9ケーブル(約1500メートル)の位置にて、
ソウ…(以下途絶)」電文はそこまでだった。
このSOSを打電している最中の23時40分、「日高丸」は右舷に横転して沈没した。
つづく

64 :
十勝丸
最後に青森から函館港外に到着した十勝丸も台風との熾烈な戦いが続いていた。
船底の機関室やボイラー室には大量の海水が流れ、機関の運転は困難を極めていた。
港外に投錨仮泊する手段を取っていたが、走錨が起きて船がじりじりと流されてしまうため
機関をもって船位の保持に努めた。
他と同じように波は車両甲板の後部開口部と、側面の換気口から車両甲板に流れ込んでいた。
「バンカーが流れた!」
ボイラー室で誰が悲痛に叫んだ。
バンカーが流れるとは、粉状の石炭と海水が混じって石炭庫から流れ出すことである
火手たちの間では「バンカーが流れたら船は終わり」と言われている。
水を含んだ石炭ではボイラーの火を落としてしまい、蒸気圧を落としてしまう。
蒸気圧を落として機関の運転ができなくなったら、この大時化では船が危ない。
その船の終わりを告げようとする事態がまさに目の前で起こったのだ。
「この傾斜を何とかしなければどうにもならない!」
そう言ってる間に石炭庫からの泥水の噴出は何としても止まらず、
泥水は膝のあたりまで上がってきた。
懐中電灯で石炭庫の中を覗くと、石炭庫は既に空になっていた。
思うまもなく船がひときわ大きな波に叩かれた。壊れんばかりの胴震いと同時に、
たたき上げられ、奈落の底に落ちると今度は傾きが反対側に変わった。
今まで一方に溜まっていたものが一気に反対側へ流れると、
残りの無事だった石炭庫からも石炭が泥水になって流れ出した。
ボイラー室の中は泥の海となり、深いところでは腰の辺りまで泥水が上がってきた。
ボイラーの敷き板として使っていた厚さ3センチもの分厚い鉄の板が泥水に浮いて流れ出した。
つづく

65 :
その悪条件の中、投炭担当の火手は必死になって石炭を探しだし、
ボイラーに中に必死で投げ込んでいた。
ボイラーの中から火に水をかけたときと同じ「ジュー」っという音が聞こえた。
水を吸った石炭は火種を潰し、ボイラーが発生する蒸気圧は少しずつ落ちていった。
「20時40分現在、葛登支灯台より62度、4.4カイリ(約8キロ)、
南西の風30〜35メートル、突風40メートル、動揺右40度、左舷28度、本船半速前進中。」
地上からの問い合わせに通信士が答えたのだが、動揺が激しすぎて電鍵を叩くことができず、
電鍵を叩く次席通信士の腰を首席通信士が後から支え、2人がかりでやっとの思いで送信した。
地上や他船からの無線通信で、どの船も台風と必死に戦っているのが手に取るように分かった。
石狩丸の係留索が切られたこと、第十二青函丸が港外で巨浪に揉まれて難航していること、
大雪丸が機関故障を起こしながらも海峡で台風と戦っていること、
洞爺丸も機関や発電機が故障しつつあること。
それら僚船の悲痛な叫びが十勝丸通信室にも聞こえていた。
それと同時に通信士たちの耳に十勝丸も機関室への浸水が始まり、
機関や発電機が止まりつつあることが入ってきた。
「電気が消えるぞ、電気が消えるぞ。」
何処かで誰かが怒鳴る声が聞こえたと同時に飛沫を頭からかぶって
全身ずぶ濡れの三等航海士が通信室に顔を出した。
電報を頼む、釜場(ボイラー)浸水、エンジン使用不能と打ってくれ。
機関部がいかに深刻な状況にあるかを示すものであった。
つづく

66 :
通信長、SOSを打つべきではないでしょうか?
よし、船長に聞いてくる。通信長は再び船橋への階段を上った。
船がなんとなく右舷へ一方的な傾斜をするようになってきた。
ボイラー室ではなおも流れ出た泥水状の石炭との戦いが続いていた。
火手たちは腰まで泥水につかり、休む間もなく投炭作業を続けていた。
その甲斐もなく、虚しく蒸気圧を示す計器の針は下降を続ける。
車両甲板から落ちてくる海水が大量に溜まっていた。
その海水は徐々に水位を上げ、すぐにも機関そのものを水没させそうな勢いである。
その水はついに機関を浸した。機関に潤滑油を送るポンプが水没し、
主機への潤滑油の供給が止まってしまった。
潤滑油無しでは機関は焼き付くため運転は不可能である。ついに主機関は運転不能となった。
続いて、泥水は機関室のヒューズボックスを浸した。中の端子が短絡して火を噴いたと思うと、
十勝丸は停電し、電灯は全て消えた。
耳をろうする機械の轟音が途絶え、船底の機関室とボイラー室に不気味な静寂が訪れた。
機関長、蒸気がなくなりました。ボイラーもダメです。
これ以上どうすることもできません!と言うと、
「みんな、よくやってくれた。全員、上へ上がれ。」
その言葉に機関部員の船員たちはぞろぞろと機関室から出る階段を上っていった。
水密扉を完全に閉めて、機関部員は一人残らず、機関室を後にした。
通信室に機関長が入ってきた。後を追うように二等機関士と三等機関士が入ってきた。
みんな疲労しきった顔で黙っている。分かり切っていることだが、次席通信士が声をかけた。
機関長、エンジンどうですか? 「あとは天命を待つだけだ。」
つづく

67 :
機関長は力無く呟いた。
もう、機関も発電機も停止してしまい、誰にもどうすることも出来ない。
力を尽くして船底で戦ってきたのにどうにもならない悔しさが、その声には溢れていた。
陸上から「貴船の詳細なる状況知らせ」と打電があった。
次席通信士が船橋へその電報を伝えた。船橋では誰もが救命胴衣を着けて最後の奮闘を続けていた。
しばらくすると目に見えて船体が右へ右へと傾き始めた。機関長と二等機関士が立ち上がった。
「SOSだ!」
通信長が悲痛に叫んで電鍵に手をかけたとき、車両甲板で金属がぶつかる轟音が響きわたった。
車両甲板の貨車が横転したのだ。同時に船体の右への傾斜は速度を増した。
通信長は「もう駄目だ、外へ出ろ!」と叫んだ。通信室にいた船員たちは通信室から逃げ出した。
通路から海水が上がってきて、もう少し遅かったら誰も通信室から逃れることはできなかっただろう。
通信長と機関長は船橋への階段を上がり、首席通信士、次席通信士、二等機関士の3人は甲板へ出た。
さらに船体の横転は早くなり、3人は船の回転にあわせて船腹から船底へと走り、海に飛び込んだ。
23時43分、十勝丸は右舷に横転して沈没した。
つづく

68 :
洞爺丸
出港の汽笛が鳴った瞬間の18時39分、洞爺丸は遅れ4便として函館港を出港した。
強い風に押されるように函館岸壁を離岸した。
客室には乗客1167人が乗船、乗組員と公務職員147名の合わせて1314名が乗っていた。
洞爺丸は岸壁に船尾を向け、港外へ向かう航路に乗った。
補助汽船が切り離され、両舷機関半速で港口を目指していた。
港口が近付くと機関を全速にして巡航速度へと速力を上げ始めた。
防波堤が近付いてくると洞爺丸の船体は異常な揺れを感じ始めた。
信じられないような大波浪が洞爺丸を襲いはじめたのである。
波飛沫の固まりが船橋の窓に当たり、窓ガラスは壊れそうな音を上げた。
波頭が風で飛んできているのである。船首の甲板員はびしょ濡れになった。
防波堤を交わすと、ひときわ大きな波と猛烈な風が洞爺丸に襲いかかった。
瞬間風速は40メートルを超えた。
不意に汽笛が鳴った。
誰も汽笛を鳴らす操作をしていないのに勝手に汽笛が鳴ったのである。
二等機関士が船橋に飛び込んでなぜ汽笛を鳴らしているのかと聞いてきた。
あまりの強風に煙突付近にある汽笛操作用のワイヤロープが引っぱられ、
別の部品に引っかかって汽笛が鳴っていることが分かった。
汽笛が勝手に鳴り出すような強風は、航海士や機関士はもちろんのこと、
船長にも全く経験のない出来事であった。
つづく

69 :
素人目に見てもこの状況で海峡へ出て行くのは無謀である。
船長が「これはひどい、アンカーを入れる」と言い、
洞爺丸の錨が荒れる海の底へ落ちていった。
「投錨時刻、19時01分。」
三等航海士が時計を見て船長に報告した。防波堤から僅か1300メートルの場所であった。
この状況で船内は変わった様子はなく、売店や食堂も通常通り営業され、
乗客は普段と変わらない様子であった。
遊歩甲板では多くの乗客が、港内の避難船が海面を照らすサーチライトの光と、
めったに体験できることのない大波を眺めてはしゃいでいた。
誰も4時間後の地獄を想像すらしていない。
洞爺丸から函館市街の夜景も見えていた、と思うと街中に青白いスパークが走り、
船の灯りを残して街は暗黒になった。
あまりの強風で電線が各所で切れ、ショートして全市停電となった。
暗黒の海で、台風から避難する船達と台風との闘いが始まろうとしていた。
洞爺丸は船首が風に立たず、右へ左へと振られていた。
レーダーは洞爺丸が錨を支点に振り子のように右へ左へと振られているのを表示していた。
右へ振られたときは右から波浪を受けて、左に振られれば左から波浪を受け、
次から次へと押し寄せる巨大なうねりに弄ばれていた。
レーダーを覗いていた二等航海士が叫んだ。
振り子のように振り回される洞爺丸の後の海岸線が徐々に近付いて来たのだ。
錨が利かず、錨を引きずって流される走錨が洞爺丸にも起きていた。
つづく

70 :
洞爺丸の機関室ではかつて経験したことのない事が起きていた。
車両甲板に海水が溜まり、全ての点検口から水が機関室とボイラー室に流れてきていた。
最初の漏水は左舷発電機上の脱出口からで、大粒の雨のようにざあっと降っては止まり、
またざあっと降って来るという繰り返しであった。
左舷発電機は水を被って周辺は湯気で真っ白だった。
続いて左舷天窓から海水が流れた。天井の電球が音をたてて割れ、
見る間に左舷側のあらゆる場所から海水が落ちてきた。
ボイラー室も浸水が始まっていた。右舷と左舷に3つずつボイラーがあり、
うち右舷のもの全部と左舷の2つの合わせて5つのボイラーが使用されていた。
やはり左舷から水が漏れていた。
車両甲板では、救命胴衣をつけた甲板員が排水溝の手入れや、
機関室やボイラー室を結ぶ扉を固定する金具の増し締めに懸命になっていた。
甲板員達にとって、この車両甲板に水が溜まるという状況は初めてどころか、
聞いたこともないことであった。
車両甲板には後部開口から波が打ち上げ、先端部まで海水が往復していた。
大きな波が来ると甲板員達は貨車の上に逃げたり、
エビのような姿勢で車両緊締具にしがみついたりしていた。
次第に車両甲板に滞留する水の量は増え続けていき、
水が移動する勢いも激しくなって甲板員の作業は危険となった。
左に傾斜していた船体が、大波を食らって傾斜を右に変えた。
この時、船体は激しい胴震いをたてて、激しく揺れた。
車両甲板の水が左舷側から右舷側へと一気に流れた。
作業していた甲板員達は足下を掬われそうになって、危険と判断して車両甲板から逃げた。
同じ揺れの衝撃で、機関室では機関長が左舷から右舷へと跳ね飛ばされ転倒、
その上に水が流れてきた。
同時に、もう海の一部となってしまった車両甲板の下は右からも左からも浸水が始まり、
それを止めることは誰にもできなかった。
つづく

71 :
大きな揺れが来ると老人や子供が船室の畳の上を端から端へと転がっていった。
そして通路に落ちてあちこちで子供の泣き声が聞こえた。
腹這いになって揺れに耐える船客もいた。
船室にロープを張り巡らせて、大きな揺れに耐えようとする「かつぎ屋」たちの姿もあった。
二等入口広間に整然と並べられていたソファは動き回ってバラバラになってしまい。
寝台船室では寝台から客から転がって落ちていた。
だが、そんな二等船室の一角で、外国人客の一人が手品ショーで場を落ち着けて、
そこだけ恐怖を忘れて笑い声が響いていた。
ボイラー室では「洞爺丸」の運命を決定付ける悲劇が起きていた。
青函連絡船では石炭を粉状にして使用していた。
その粉状の石炭が海水と混じって泥状になって石炭庫からボイラー室に流れてきた。
火手たちは慌てて石炭庫の扉を閉めようとしたが、泥状になった石炭を噛んでしまい、
扉を閉めることができない。ボイラーの前は泥の海が広がった。
「出てきたやつを焚くんだ!」
火手長は怒鳴った。
石炭は水を吸ってしまったため、泥になった石炭をボイラーに入れると火種を消してしまう。
「蒸気を落とすな、水もなにもかも焚いちまうんだ!」
この嵐の中、ボイラーの火を落として蒸気圧を下げることは、
船を操船不能に陥れることになる。
しかし、釜口から蒸気が上がり、火種は少しずつ消えていった。
つづく

72 :
機関室では天井全体から雨のように海水が降っていた。
車両甲板は海水にどっぷり浸かってしまった。
床に溜まった海水は膝のあたりまで量を増していた。
排水ポンプを出力全開で回していたが、それでも間に合わなかった。
発電機からベルの音が聞こえた。
このベルは発電機から発生した電気が接地短絡すると鳴るようになっている警報である。
床に溜まった海水は発電機に触れたのだ。続いて凄まじいスパークが起きた。
左舷発電機が水に浸かってショートしてしまったのだ。
同時に左舷発電機は停止して動かなくなった。
さらに左舷機関が大きな振動をたてて異常回転をはじめた。
機関長は「左舷エンジンを止めろ!」と怒鳴った。
機関は停止して振動は止まった。
機関を全開で動かし続けたから無理がたたったのだろうか。
三等機関士が船橋へ走り、「左舷機関故障」を伝えた。
一等航海士が「だめだ、ぶっこわれてもいいから、機関を全開で回すんだ。」怒鳴った。
片方の機関が止まったら船を風にたてることができなくなる。
この迫り来る大波を真横から食らったら、瞬間で横転する危険もある。
機関長は「よし、左舷機関回せ!」決断した。
回せば本当に壊れるに違いない。でも回さねば船そのものが危ない。
回すしか手はなかった。全員が見守る中で再び左舷機関が回った。
機関全体が振動し、回転は正常でなく誰もが長くは持たないと予感した。
つづく

73 :
21時25分、「洞爺丸」は函館桟橋に次のように打電した。
「エンジン、ダイナモ(発電機)止まりつつあり。突風55メートル。」
「洞爺丸」の悲痛な叫びであったが、陸側ではどうにもできず、
「こちらも非常配置でワッチ(監視)中、貴船も頑張れ。」と応えるしかなかった。
5分後改めて「洞爺丸」に問いただす。
「発電機、エンジン模様知らせ。」
「左舷発電機故障、左舷機関不良、ビルジ引き(排水)困難」
「かろうじて船位を保ちつつあり。詳細あと。」
陸上に「洞爺丸」の叫びは伝わっていた。
この頃、客室への漏水も始まった。
まず車両甲板の下にある前部三等雑居室の右舷側の天井から、水が滝のように流れた。
この水は数秒で止まったものの、畳2〜3枚を濡らした。
乗客達も特に慌てる様子はなく、何人かは畳に溜まった水へ走り、
手拭いを落ちてきた冷たい海水で冷やした。
船酔いしている仲間や家族の額に乗せるためである。
続いての漏水は車両甲板のすぐ上、下部遊歩甲板の三等椅子席であった。
下部遊歩甲板に大きな角窓が整然と並んでいるのが「洞爺丸」の外観上の特徴である。
この角窓のひとつが巨大な波浪に破壊され、ガラスが破れて船内に轟音と共に風が吹き込み、
波が飛び込んできた。三等椅子席の乗客は騒然となった。
この時、椅子席にいた女性客に割れた窓ガラスが当たった。
女性はパニックに陥り、狂ったように泣きながら椅子から落ちて床を転げた。
額から流れた血を見てそれまで押さえられていた恐怖感が一気に噴出したに違いない。
そしてその恐怖は三等椅子席の客に広がって行く。
つづく

74 :
洞爺丸はは片方の機関の出力が落ちて波と風に押し流されるようになっていた。
青函連絡船は34度の動揺に耐えられるように設計されていたが、
大きな波が来て大きく揺れた瞬間、傾斜計の針はその34度を超えていた。
再び左舷機関が更に激しい振動をたてた、と思うと煙がぽっと吹き出し、
それきり回転しなくなった。ついに左舷機関は故障して停止してしまった。
洞爺丸のふたつの心臓のひとつが、止まってしまった。
「左舷エンジン、停止しました。」
操機手が船橋に走り込んで、震える声で報告した。
左舷エンジンは本当に駄目なのか?長は聞き返したがどうにもならない。
この嵐の中での機関停止は生命とり、沈没に繋がる。
「右舷エンジンはどうだ?」
操機手はビルジ(汚水)排出困難で、時間の問題と思います。答えた。
操機手が機関室に戻ると今度は右舷機関が同じように煙を噴いて止まってしまったという。
操機手は再び船橋にそれを報告するために走った。
機関長はボイラー室へ行った。ボイラー室では泥状になって噴出した水を吸った石炭が、
ボイラーの火を落としてしまい、5缶のうち3缶は既に火が落ちたのと
海水に浸かってしまったために使用不能になっていた。
火手たちはそれでも必死に洞爺丸の火を消さぬよう、残り2缶に全力で放り込んでいた。
「エンジンが止まってしまった。もう焚かなくていいよ。」
火手たちに機関長は言うと、「焚けと言われたって、焚ける状況じゃありませんよ。」
火手長は情けなさそうに答えた。
つづく

75 :
機関長はボイラー室を出て、機関室に戻った。
電気係は端艇デッキへ上がり非常用電源を用意せよ。救命胴衣を忘れるな。
あとは部屋に戻って貴重品を整理しろ、救命胴衣をつけろと命令した。
この命令は端的に言えば「船から逃れる準備をせよ」ということであった。
船底の機関室から船員達がゾロゾロと上がってきた。
機関長は自ら、船長に両舷機関停止を報告した。
悔しそうな声で涙混じりの報告だったといわれている。
洞爺丸は両舷機関が止まったため、波と風に対する抵抗力を完全に失って
なすがままに流されていた。
巨大な波に翻弄されながら、錨を引きずって流されるだけになってしまった。
機関が止まって舵も利かないため、船首を風にたてることはできなくなり、
船は風浪に対して横向きになって左舷側のみから巨大な波を受けることになった。
今までの両舷に揺られる大きな揺れは止まり、右舷にだけ一方的に傾いて行く。
「海岸までどのくらいだ?」
船長の怒鳴るような質問にレーダーを睨んだままの二等航海士が、
1200メートルですと答えた。
船の外は巨大な波と飛沫しか見えず、レーダーだけが頼りだった。
「よし、このまま七重浜に座礁する。」と船長は決断した。
洞爺丸に残された唯一の手段はそれだけであった。
つづく

76 :
22時12分、両舷機関不良のため漂流中と洞爺丸が函館桟橋に打電。
レーダーを睨んでいた二等航海士が海岸まで1000メートル!と怒鳴った。
船橋の船員達は全員、船底にずしんと来る座礁の瞬間を待っている。
船員は極限の緊張状態となり、不気味な沈黙が船橋を支配した。
二等航海士が海岸まで800メートル!と叫ぶと同時に船底から
ドン、ドンという音が2回聞こえた。
船長と一等航海士が揚がったな言うと、第二、第三の衝撃が来た。
三等航海士が時計を見て叫んだ。
「22時23分座礁。」
続けて、レーダーを睨む二等航海士が船位を報告した。
「防波堤灯台から267度、8ケーブル。」
関係箇所に電報を打て、救助手配を依頼せよ。
本船は七重浜に座礁した。船長は矢継ぎ早に指示を出した。
ところが、座礁したというのに洞爺丸はまだ風下へ流されていた。
座礁したら止まると思っていた船体が、座礁しても海底を滑って漂流しているのである。
そして右への傾きは止まらず、どんどん傾きを増している。
このまま海底を滑り続けたらどうなるか…、船長は嫌な予感がしたのだろう。
「全員、救命胴衣を着用せよ。500キロサイクルでSOS(緊急信号)を打て。」
船長は叫んだ。
つづく

77 :
客室では乗客達は揺れに耐えながらも、比較的落ち着いていた。
「救命胴衣をつけてください」こう流れた瞬間、
乗客達は初めて自分たちが生と死の狭間に立たされていることを知った。
救命胴衣が格納されているロッカーが開かれると、我先にと飛びつき、ロッカーに人々が殺到した。
一部のロッカーは開かず、何処で見つけ斧を持った乗客がロッカーをぶち壊して救命胴衣を着用した。
二等船室では、手品ショーをしていた外国人客が他の船客達に救命胴衣を着用させていた。
二等広間には何処から入ってきているのか、波が床を洗っていたという。
三等船室では、人々が救命胴衣を奪い合い、転んだ人々を踏みつけて逃げ場を探し回っていた。
転んで起きあがれなくなった老人は念仏を唱え、まるでその風景は地獄のようだったという。
「おじちゃん、怖いよ、助けて。」
ある給士にこの光景を見た少女が泣きついた。頭をなでながら
「大丈夫、心配しないでね。」となだめたが、
ついに大粒の涙を流して泣き始めた。
「怖い、怖い…」
給士の耳に少女の声がまとわりついた。
船を出しておいて、今頃救命胴衣をつけろとは何事だ。
どけ、そこを通せ、俺達を溺れされる気か?」
船室入口の階段で旅客を止めるかたちで立っていたその給士にある男性客が殴りかかった。
三等船室にはどこからともなく多くの水が流れ込んできた。男性客は給士の胸ぐらを掴んだ。
「やめろ、船に乗ったらボーイさんの言うことを聞くんだ。」
落ち着き払った別の客の声で、その男は大人しくなった。
満員の旅客の目が「自分たちはどうすれば助かるのだ?」と全ての目が訴えていた。
この続きは明日に。

78 :
異様に伸びてて驚いた。
読む気はない。

79 :
>>78
長文レスにしては書いてることはマトモだよ

80 :
昨日の続き、洞爺丸
給士は「上の者に聞いてきます」と言い残し、走り出した。
事務長に船がどうなっているのか、いつ避難指示があるのか、聞くために走り出した。
下部遊歩甲板に上がると、彼は信じられない光景を見た。
下部遊歩甲板には多くの水が流れ込んできていて、傾いている右舷側では胸元まで水が来ていた。
この水が船底に近い三等雑居室に流れたら…乗客は先を争って狭い階段に殺到するだろう。
間違いなくパニックになる。乗客が少しでも冷静なうちに下部遊歩甲板に誘導しよう、
彼は決断して三等雑居室に戻って乗客に大声で言った。
「上に上がって下さい、私に続いて…」
言いかけたところで旅客が階段に我先と殺到した。
押し合い、前の人を引き倒し、転んだ人を踏みつけて、人々は狭い階段を上った。
給士が船室を見た。ほぼ全員が船室から脱出しているのを見届けて、上へ上がった。
さらに船体は右舷への傾きを強めた。
天は「洞爺丸」を見放したのか?、船内の電灯の光がすうっと暗くなった。
一度明るくなったと思った瞬間、洞爺丸の電灯は消えて真っ暗になった。
船内に乗客の悲鳴が響き渡った。
「今何度まで傾いている?」
傾きが大きくなった洞爺丸の船橋で一等航海士が聞いた。
「45度です。」
操舵手が滑り台のように床を滑って答えた。大丈夫だ、船は起きあがる。
船橋のガラス窓が割れて船員たちの帽子が飛んだ。鋭い風と波が船橋を洗った。
船体の傾きは止まることなく増えていった。車両甲板から金属の塊がぶつかり合う鋭い音が響いた。
車両甲板の車両たちが一気に横転したのである。
洞爺丸はさらに傾きを増して一気に90度近くまで傾いた。
つづく

81 :
船橋では右舷側から水が噴き出し、一等航海士は水に吹き上げられて望遠鏡に掴まった。
救命胴衣を着けていた二等航海士はレーダーから離れて水に浮き、
三等航海士はテレグラフにまたがっていた。船長はそのまま水没したようだ。
船員たちは今は上になった左舷の窓から、脱出していった。
既に左舷船腹は水平になり、マストも煙突も水中に没した。
22時43分、洞爺丸は七重浜沖600メートルの地点で横転、沈没した。
船体は130度回転したところで煙突を海底に突き刺すような形で止まった。
洞爺丸が横転した地点から、おびただしい数の人々が七重浜の海岸に向かって流されていた。
人々は波に翻弄され、助かるかどうかも分からないまま波に弄ばれた。
つづく

82 :
第十二青函丸
強風と巨大なうねりとの戦いが続いていたが、23時を過ぎると少しずつ風は弱まっていった。
しかし、うねりだけは少しも衰える気配を見せていなかった。
その中でレーダーを見ていた二等航海士があることに気付きレーダーを様々に操作していた
近くにあった2隻の船影が、1隻を残して消えてしまったのだ。様々に調整しても現れない。
2隻の船影が日高丸と十勝丸を示しているのは分かっていた。
十勝丸がなくなった?
二等航海士は悲痛に一等航海士に報告した。報告を終えて再度画面を見ると、
残っていたもう一つの船影も姿を消していた。
「沈没?」、嫌な予感が二等航海士を襲った。
様々に調整してみたが2隻の船影はレーダー画面に再び現れることはなかった。
日高丸と十勝丸の船影がレーダーから消えました。と船長に報告した。
青函航路にレーダーが導入されてまだ数年。
船影がレーダー画面から消えるという体験は初めてで、
船に事故が起きているという事実が実感して感じることはなかった。
通信室から船橋に報告が来た。第六真成丸と石狩丸の通信を傍受し、
「付近に漂流者多数」との電文から洞爺丸沈没の可能性があるということであった。
船員たちに言いしれぬ衝撃が走った。
もしや、レーダーから船影が消えた日高丸と十勝丸も沈んだのか?
日付が27日に変わって風は一段と弱まり、暴風という様相ではなくなってきた。
この時刻になってようやくうねりも衰えてきて船の動揺も小さくなっていた。
さきほどの海面に手が届きそうな横揺れや、たたき上げられたり奈落の底に落とされたことが、
嘘みたいなほど異常な揺れはおさまった。
1時50分、第十二青函丸は機関を停止した。
「よくやった。」「よく乗り切った。」船橋の船員たちは、船長を囲んで喚起の声を上げた。

83 :
嵐の後
七重浜に座礁した一般の貨物船「第六真成丸」航海士が、
波浪の中に光る物が浮いているのを発見し、船長に報告した。
「灯りのついた物が流れています。救命筏のようです。」
救命筏(いかだ)や救命胴衣には海水と接すると灯りを放つ豆灯がついている。
船長がサーチライトで救命筏を照らすように命じた。光の輪が海面を動いてその物体を捕らえた。
確かに救命筏であるが、だが誰も乗っていない。
目が慣れたときに付近の海面を見て、船員たちは顔面蒼白になった。
生きているのか死んでいるのか、おびただしい数の人々が救命筏の周りだけでなく、
「第六真成丸」の周りを埋め尽くすように浮き沈みしながら流れているのだ。
荷物や木片が混じり、海面は粉を散らしたように見えていた。
「ロープを下ろして漂流者を救助せよ。」
船長の断が下った。船員たちがその命令に従ってロープを持って甲板に出た。
つかまるんだ、離すなよ!船員たちはそう叫んで海にロープを投げた。
この巨大なうねりの中で、漂流者を助けることは生命がけであったが、
漂流者たちは死ぬ思いをしながら流されているに違いないのである。
何度目かに投げられたロープに重みを感じた。船員たちは励ましの言葉を海に向かって何度も叫んだ。
2人の遭難者がロープにかかって引き揚げられた。一人は乗客で、もう一人は二等機関士だという。
二等機関士が「第六真成丸」船長に、洞爺丸が多くの乗客を乗せたまま沈没した旨を伝えられた。
彼は洞爺丸の二等機関士であったのだ。
1000人もの乗客が乗っている洞爺丸が近くに沈没したという事実に船員たちは驚愕した。
船長はすぐに通信長にSOSを命じた。
つづく

84 :
港内に錨を降ろして停泊している「石狩丸」からは危機が去っていた。
だが救命艇が風で飛ばされて使用不能、係留索を全て失い、
調理室の小さな煙突が根元から取れて運行不能となっていた。
通信室では首席通信士が当直担当となり、無線機に耳をそばだてていた。
洞爺丸のSOSを聞いても驚くことはなく、座礁と聞いて「これで一安心」と思った。
座礁してれば沈没は無いと思っていた。
休息を取っている通信長には報告せず、船橋の当直担当である二等航海士に報告した。
二等航海士もそれほど驚いた様子はなく、休息を取っている船長に報告するということはしなかった。
1000人以上の船客を乗せた船が遭難すれば、どんな事情があろうともSOSを打つのは当然であり、
座礁して安全と分かっていても救助を求めなければならないのは明白であるから。
誰も本当に危険とは感じていなかった。
むしろ「座礁」の二文字が、「洞爺丸」に起きている事実を見ることのできない船外の人たちにとって、
安全を保障する言葉に聞こえたのだろう。
首席通信士が通信室に戻り、再び無線機に耳を当てると強大な電波のSOSが耳に入った。
符号から船名を割り出したところ、「第六真成丸」であることが分かった。
SOSの内容は七重浜に座礁したことを告げている。
しかも七重浜に座礁し右舷に10度傾いているが、転覆の危険はないが監視を頼む。
なお、本船付近に多数の漂流者が海岸に助けを求めているからもよりに連絡の方法はありますか? 
本船も2名救助した、二等機関士カワカミと、船客アオキ。
通信士は驚いた。石狩丸首席通信士と洞爺丸二等機関士とは家が向かいにあって顔なじみであった。
その機関士が海面を漂流の後救助され「第六真成丸」にいるという。
さらに付近に漂流者多数ということは答はひとつである。「洞爺丸」沈没としか考えられない。
考えたくないことだがそれ以外に出てくる答はなかった。僚船が1000人の乗客と共に海に消えたのである。
通信士は続けて電鍵を叩いた。
つづく

85 :
貴船から洞爺丸の様子は分かりますか?
海岸に座礁後横倒しとなり、その後電灯が消えたとのことです。
それから船内に人が残っているらしいとのことのですがよく分かりません。
洞爺丸の正確な位置は分かりません。本船の南西に座礁したのは分かっているのですが、
視界が悪く距離不明。漂流者多数、至急連絡乞う。
それを聞いた通信士は通信を打ち切り、通信室を飛び出し叫んだ。
洞爺丸が沈没した!
その声に聞いた船員、目を覚ました船員達が通信室にどっと押し寄せた。
「本当に洞爺丸は沈んだのか?」
船長、洞爺丸の二等機関士が漂流の後、救助されて第六真成丸にいるんですよ。
第六真成丸では付近に漂流者多数といっています。これは洞爺丸沈没以外考えられません。
通信士の説明を聞いても、船長は洞爺丸沈没を信じられなかった。
いや、そんな事故が起きたと思いたくなかったのかも知れない。
しかし、船長自らが電鍵に手をかけ、青函局長宛てに打電した。
「第六真成丸の報によれば、洞爺丸沈没の模様。漂流者多数とのこと。」
その頃、洞爺丸から投げ出された人々の中で、第六真成丸に助けられる事のなかった、
船客や乗組員が七重浜の海岸にぞくぞくと打ち上げられていた。
生きたまま打ち上げられた者もあれば、意識のないまま打ち上げられた者、
既に仮死状態にあった者、漂流中に溺れたり、凍えたり、漂流物にぶつかり絶命した者、
様々であったが浮き輪や救命筏、船の部品や貨物や荷物とともに砂浜に一人、また一人と打ち上げられた。
意識のある者は巨大な波に再び引き込まれまいと、全力で走った。
つづく

86 :
打ち上げられた二等航海士は、すぐに近くの民家に駆け込み連絡船が沈んだ事を告げた。
その民家には多くの遭難者が駆け込み、みんな高いところによじ登ろうとしたり、
何かに掴まった離そうとしなかった。
船が沈没し、漂流したときの恐怖がまだ抜けていなかったのだ。
海岸では波から出てきた遭難者が救援活動に当たった者に抱きつくようにしがみついた。
足下にはまだ息のある者が倒れていたが、動ける人に対応するのに手一杯で、
倒れている人や仮死状態の人に手が回らない。人出がいくらあっても足りなかった。
医師が来ても仮死状態の者はどうすることも出来ず、多くの人をそのまま見捨てることになった。
洞爺丸に乗り、生きて海岸に戻ってきた者の多くが、そのような形で海岸で死を迎えた。
函館湾では、まだ連絡船と台風との闘いが続いていた。
海峡へ出ていった大雪丸は渡島半島の陸岸に沿うように南下を続けた。
巨大な波浪と飛沫のために視界はゼロ、レーダーを頼りに航行を続けた。
二等航海士が先代の大雪丸船長から南西の風の場合は、木古内へ行けと言われていたのを思い出し、
船長と一等航海士に進言したのだ。
渡島半島の木古内湾は、南へ突き出た渡島半島が南西方向からの風を遮る地形になっているのだ。
操舵手が舵故障と叫んだ。船底の操舵機室が浸水して舵が使えなくなってしまったのだ。
やむなく左右の機関を交互に使用して舵代わりにすることにした。22時頃に機関が浸水して停止。
もはやこれまでと覚悟を決めて通信長はSOSの電文作成に取りかかった。
機関室が浸水して潤滑油ポンプが停止し、機関が停止したと言うことで、
機関部員が必死になってポンプを修理、僅か5分で機関は復旧して大雪丸はさらに南下を続けた。
あまりの揺れのため、機関室にはロープが張られ、船橋では船長が右へ左へと飛ばされたという。
日が変わって0時すぎに木古内湾に投錨。船員たちは無事を喜んだが、
機関を酷使したために故障してその場で動けなくなってしまった。
つづく

87 :
無線を通じて函館湾各船に洞爺丸の悲報が次々に飛び込んできた。
さらに日高丸がSOSを発したまま音信不通になり、
十勝丸、北見丸、第十一青函丸も一切の連絡を絶っている。
日高丸と十勝丸の船員たちは沈没地点からうねりに乗って函館港へと流されていた。
彼らの運命を分ける大きな障害が立ちはだかっていた。防波堤である。
流されて港口まで来た船員たちは、運良く防波堤の切れ目に流された者以外は、
防波堤を越えるのに悪戦苦闘していた。
体力のある者は青函連絡船の航路に沿って泳いで防波堤を交わし、
また別の幸運を掴んだ者は巨大な波の頂上に乗って防波堤を乗り越えることができた。
だが多くの船員は防波堤に到達する前に絶命するか、防波堤に激突して絶命した。
船員達は漂流物に掴まり、仲間の船員を見つけては励ましの声を掛け合って漂流を続けた。
SOSを受けて出動した補助汽船が港口付近で日高丸、十勝丸の船員を発見して救助した。
補助汽船の船員たちは助け上げた船員たちを何度も殴ったり摩ったりした。
長時間漂流して救助された人間の身体は極限まで冷えている、本人達は疲労のため眠気を催す。
救出された遭難者がそのまま眠ってしまえば、待っているのは「死」だった。
船員たちを眠らせないように、補助汽船の船員は生存者を殴り続けた。
殴って眠気を覚まし、摩って身体が暖まったところで暖かい布団に寝かせた。
救助された十勝丸通信士は殴り続ける補助汽船の船員に怒鳴った。
「俺も船員だ、海難の時はどうなるか分かっている。殴るのをやめてくれ。」
いや、あなたも前の人と同じようになったら困る。
前の人は大丈夫というから殴るのをやめたらそのまま死んでしまった。
北見丸の生存者は長時間に渡る漂流の後、函館山の裏側に打ち上げられた
助かった船員たちは抱き合って無事を喜んだ。
彼等は洞爺丸をはじめ他の連絡船が沈んだという事実を知らない。
つづく

88 :
夜が明けると次第に函館湾の惨状が明らかになっていた。
補助汽船の船員が収容した船員の遺体の中に、第十一青函丸船員が含まれていた。
さらに日高丸、十勝丸の沈没地点付近に、船首だけを海上に出し、
錨をぶら下げた第十一青函丸が無惨な姿をさらしているのが発見された。
船底のペンキが新しく、二重底に改造されたばかりの新しい船底、
そして水面スレスレに「第十一青函丸 SEIKANMARU No.11」の文字。
恐らく、十勝丸の火手見習いが偶然目撃した沈没船も、
日高丸が生命掛けで交わした沈没船も、十勝丸が沈没直前に存在を報告した沈没船も、
第十一青函丸であったのだろう。
この海域では日高丸、十勝丸、第十一青函丸以外の沈没船はない。
七重浜の海岸もむごたらしい惨状を見せていた。
洞爺丸の部品類や貨物、そして船員や乗客の遺体がゴミのように散乱していた。
遺体は全て背をエビのように曲げられ、目を見開いたままの状態であった。
あまりの波の大きさと強さに、人々は身体を強引に押し曲げられ、
目をこじ開けられたまま流され、その苦痛を味わいながら死んでいったのである。
対岸の青森港も洞爺丸の悲劇を耳にして早朝から騒然としていた。
前夜には「早く出せ」と苦情を言い続けていた羊蹄丸の船客が、
もし出ていたら自分たちも死んでいたかも知れない、
羊蹄丸の船長は生命の恩人で神様のようだ。
と感謝の言葉を給士に伝えていた。
この事故で、洞爺丸は1155名が死亡し159名が生存、
第十一青函丸は90名の船員全員が殉職、北見丸は70名が殉職し6名が生存、
日高丸では56名が殉職し20名が生存、十勝丸は59名が殉職して17名が生存。
合わせて乗客・乗員1430名が犠牲になるという悲劇となった。
海外でもイギリスのタイタニック号沈没事件に次ぐ海難事故として報じられ、
世界の目が函館湾の悲劇に注目した。
つづく

89 :
これから数日に渡り、七重浜海岸には乗客の家族が遺体収容作業を見守り、
遺体が上がると同時に肉親を呼ぶ泣き声が聞こえ絶える事は無かった。
国鉄では船内に残された遺体の収容のため、多くの潜水夫を投入していたが、
収容作業ははかどらず遺族達から不満の声が上がっていた。
国鉄は貨物船4隻「北見丸、日高丸、十勝丸、第十一青函丸」の
遺体収容を後回しにしてまで洞爺丸の遺体収容作業を続けていた。
赤ん坊をしっかり抱いたままの女性の遺体や、まだ幼い子供の遺体が上がったとき、
収容作業の手が一時止まって一同ただ涙を流していた。
遺体収容所では多くの遺族が自分の肉親を捜していた。遺族が遺体にすがって泣き声を上げると、
すぐに近くにいる国鉄職員に「人殺し」と罵声が飛んだ。
さらに遺体を使った詐欺なども起きて混乱していたと言われている。
その収容所の入口で泣いて謝りながら遺族たちに頭を下げる年輩の女性がいた。
洞爺丸船長の妻であった。彼女は夫が死んだという悲しみの前に、
夫が船を沈ませたという責任感の方が先に立ち、罵声を浴びるのを覚悟で、
毎日遺体収容所の入口に来て遺族たちに頭を下げていた。
その洞爺丸船長の遺体は事故から約1週間後に上がった。救命胴衣も着用せず、
手にはしっかり双眼鏡を握りしめたまま、掃海艇の網にかかったのだ。
つづく

90 :
事故直後から事故原因について語られた。
台風は実際にどんな動きをしたのか、船はどんな状況にあったのか?
関係者の全てが「洞爺丸事故」を二度と繰り返したくないという思いで解明が進んだ。
台風の動きは複雑かつ前例にないものであることがその後の気象関係者の調査で分かった。
当日の予報は全て外れたことも一部の予報官は認めていた。
この日、日本海側を台風が北上し、太平洋側を温暖前線が北上していた。
それに先行して津軽海峡付近に温暖前線が発生し、昼過ぎから北上を初めて、
津軽海峡付近に猛烈な東風を吹かせ、大雨を降らせた。
同時に台風の南に伸びていた寒冷前線は徐々に台風の東に回り、
奥羽地方で太平洋側の温暖前線と交わって閉塞前線となった。
この閉塞前線通過時には滝のような大雨が降り、
前線通過直後に一時的に風が止んで雲が切れて晴れ間が広がった。
この閉塞前線は16時頃に青森、17時頃に函館を通過し、台風の眼と錯覚させることになる。
その頃、台風は当日の観測結果大きく西へずれて津軽海峡の西の日本海上に達していた。
そこで西側から流入する冷気と東側の暖気に刺激され、中心示度が960ミリバールまでに発達した。
さらに時速100キロ以上のスピードで北上していた台風は、
オホーツク海上の高気圧に阻まれて急に速度を時速40キロまで落とした。
台風は発達しながら函館の北西をゆっくり進むことになり、
函館湾に猛烈な南西の風と日本海を渡ってきた長大なうねりが長時間に渡って押し寄せることになったのだ。
誰もその変化に気付くことはできなかった。
気象予報のプロである気象予報官がこの結論を出すのに2年もの時間を要した。
従って当日の台風の動きを正確に把握しきれずに、連絡船を出港させた洞爺丸船長を、
一方的に責めることは出来ないと思われる。
もし日本海における台風の予測が正確で、当日にこのような予報を出した者が一人でもいれば、
1954年9月26日という日は、青函連絡船にとって台風通過で難儀した一日で終わっただろう。
つづく

91 :
沈没に至る経過は船ごとによって大きく違う。
第十一青函丸は生存者がないので断定は不可能だが、
十勝丸火手見習いの目撃証言と、発見された船体から推定は可能である。
第十一青函丸は魚雷攻撃を受けた船舶のように轟沈の形で沈んでおり、
船体を折る力が一瞬に働いて沈没したのは間違いない。
第十一青函丸は直前に船底を戦時標準船独特の一枚外板構造から、
他の連絡船に合わせた二重底への改造工事を行っていた。
船首と船尾を除く船底部を切り落とし、そこに新たな二重底の外板を取り付けるという大工事であった。
その新しい部分と古い部分が強大な波浪により一気に切断して沈没したと推定される。
北見丸は前述のように、傾斜を直すためにヒーリング装置を使用したために沈没したと考えられている。
傾斜の補正を考えなければ転覆しないで生還できたとの説は強い。
つづく

92 :
洞爺丸、日高丸、十勝丸の3船は、座礁したという事実以外は似たような行程で沈没に至った。
沈没せずに生還した連絡船にも共通して言えるが、車両甲板に開いた後部の大きな車両積み込み口から、
巨大な波が浸入して車両甲板に覆った。
これだけなら問題はないが、当日の函館湾でのうねりの波長と高さが重要な問題になる。
当日の波の高さは6メートル、波長は9秒で波の長さは120メートルであり、
波の高さは連絡船の喫水線の長さよりほんの少しだけ長く、車両甲板の中程までの高さの波である。
この波に合わせ船が上下運動したとき船首が波に突っ込み船首が上がる、
すると船尾のすぐ後に前の波の山があって、この時に海水が車両甲板に打ち上げる、
船首が波を乗り越して徐々に下がり、打ち上げた海水が車両甲板の最前部を目指して一気に流れる。
波が船首の近くまで進み、船尾の持ち上がりがピークに達した少し後に車両甲板最前部の壁に当たり跳ね返る。
次に船首に次の波が近づいて少しずつ持ち上がるのに少し遅れて海水も船尾へと移動する。
そして船首が次の波に突っ込んで持ち上がりが最大になると、
また船尾から海水が入るが前の波で入った水はまだ船尾に達しておらず、
次に船首が下がり始めたときに船尾付近で次の波によって入ってきた海水とぶつかり、
しかも船尾が上がるのだから前の水はここで船尾へ向かう力を失って、
次の波の水と一緒にまた船首へ向かうという現象を繰り返した。次第に車両甲板に溜まる水は増えていった。
この現象は喫水線の長さより数メートルほど波長が長い波の場合にだけ発生し、
以外の波ではどんなに大きい波でも起こらない現象であることが水槽実験で実証された。
つづく

93 :
このような波長の悪戯によって車両甲板には大量の海水が滞留し、
車両甲板と機関室、ボイラー室、石炭庫を結ぶ扉の隙間から大量の水が機関室やボイラー室に流れた。
この扉は海水が滞留するのが前提でなく水密はされていなかった。
そのために船底に近い機関室やボイラー室は水没して機関が故障、
同時に石炭庫に流れた水は石炭と混じって泥水となってボイラー室を水没させ、
機関の運転を不能にした。
湾内は長大なうねりが殺到しており、機関運転停止によって連絡船は船位の維持が困難となり、
船を風に立たせることが出来なくなって次第に横波を受けるようになった。
車両甲板の大量の海水が船の重心を上げ、傾斜時の復元性が著しく低下して最終的には沈没した。
洞爺丸の場合は少し違う。同じように機関運転が不能になった段階で、七重浜海岸へ流された。
その頃、七重浜沖には長大なうねりが運んできた砂が海底に溜まり、
海岸から数百メートルの沖に大きな砂の丘が出来ていた。
洞爺丸は流されている途中でその丘に触底し、船長と一等航海士はそれを砂浜に座礁したと誤認した。
そのまま風下に流されながら丘にバウンドし、
何度目かの触底で船底にある右船底にある「ビルジキール」が丘に突き刺ささり、風下への漂流は止まった。
突き刺さったビルジキールは海底をしっかり噛むが、風上から来る波浪により洞爺丸を風下へ押し流す力は止まらず、
船体を右舷船底を軸に回転する方向に動かした。
船長が船橋の船員たちに救命胴衣の着用を命じた頃にこの現象が起きたのであろう。
船体は徐々に右舷へと傾きを増し、傾斜が50度に達した頃に車両甲板の貨車が転覆、
同時に左舷側の錨のチェーンが切れて横転したと考えられている。
「ビルジキール」とは船底の両舷端部に、船首から船底へと伸びる竜骨板状の板のことで、
横揺れ防止などのために取り付けられている部品で、後日引き揚げられた洞爺丸を調査した結果、
右舷側のビルジキールは欠損してなくなっていた。
つづく

94 :
港外に仮泊して助かった連絡船との明暗の差は、車両甲板に貨車が積載されているか否かの違いが大きい。
貨車を積んでいない船では貨車の重量分船が浮き上がり、船尾から打ち上げる海水量が大幅に少なかった。
その上貨車がなかったために船底への扉の水密対策がとりやすくなり、
機関室やボイラー室への浸水は僅かで済んだ。
客載車両渡船大雪丸は沈没船と同量の海水の滞留があったと考えられるが、
南西のうねりを遮る地点まで何とか逃げ込んで幸運にも助かった。
事件から1年、沈没した5隻は引き揚げられて函館ドックに持ち込まれた。
そこで徹底的に調査された。事故原因に繋がるものはないか、まだ船内に遺体は残っていないか、
そして修理して再び使えるかどうか。遺体は流出しなかったものが多数発見された。
特に日高丸機関室では機関長と一等機関士が執務体制そのままの状態で発見されたという。
調査の結果、日高丸と十勝丸の2隻は修理して再使用することが決まった。
ただ、第十一青函丸、洞爺丸、北見丸の3隻は損傷が大きく、
修理しての継続使用は困難と判断されてそのまま解体されてしまった。
日高丸、十勝丸は引き揚げられて修理が決まったとは言え、
引き揚げ時に車両甲板から上をすべて失い、十勝丸に関しては船尾も失っていたので、
新造船を作るのとほぼ同じ状況であった。
船影も僅かながら変化し、特に船橋周辺は直線中心だった仕上がりが曲線を主調としたものに変化し、
印象は後述する新造車両渡船に似たものになった。
煙突やマストの配置は修復前と全く同じで以前の両船の面影は残していた。
性能面では機関関係はそのままだったが、舵が従来の1枚から2枚に増えて操船性能が向上した。
さらに車両甲板には、海水浸入対策として水密扉が設けられた。
2隻は1956年(昭和31年)4月と8月に相次いで青函航路に復帰し、
十数年に渡って車両渡船として君臨することになる。
つづく

95 :
さらに現存連絡船に対しても洞爺丸事故対策の工事が施された。
外見上いちばん大きいものは、船尾の貨車積み込み口に水密扉を設けたことである。
これは生き残った連絡船全船に施された。
羊蹄丸、摩周丸、大雪丸の洞爺丸型には、下部遊歩甲板の角窓が丸い水密型の小窓に変わり、
ボイラー燃料を石炭から重油に変更した。同時に船体の塗装を白と黒の二色塗りから、
白と緑色(木賊色)の二色塗りに変更された。
第十二青函丸、石狩丸、の2隻は、甲板上の客室があるために重心が高くなって
横転しやすいのではないかという問題があったため、
1957年(昭和32年)までに客室は撤去されて純粋な車両渡船となった。
なお第十一青函丸に施されて沈没の原因となった船底の二重底化工事は、
第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸」は施工済み、
第十二青函丸、石狩丸は洞爺丸台風後に施工された。
終り。
各船員当事者、遺族、関係者証言を纏めた青函連絡船研究より。

96 :
>>95
乙 全部読みました。  

97 :
>>53
問題はそのディーゼル燃料をどこから調達するかだと思われ。
重油でさえ欠乏して魚油とか大豆油とか混ぜて使ってたんだし<煙がそこはかとなく香ばしいらしい
鉄道も石炭欠乏で間引きダイヤになってるとこに、
燃料輸送列車割り込ませるのも無理があるだろうし、桟橋に燃料タンクつくるのも大変だろうしな。

98 :
そもそも、昭和20年代前半ぐらいは男鹿線が蒸機牽引で若干天然ガス動車が出てきたぐらい、
大湊線は蒸機列車のみだったような……
国鉄自体がLSTに回せるディーゼル燃料なんて持ってない時代ではなかったかと。

99 :
だなー。(後の)キハ10系登場したのが昭和20年代末以降だから、
まだこの頃はディーゼルカーなんか全然普及してないよね。
という訳で、このスレ的にはどんな燃料でも使える焼玉エンジン万歳。

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