2012年09月軍事50: 【源平合戦】治承・寿永の乱を軍事分析【平家物語】 (760) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【源平合戦】治承・寿永の乱を軍事分析【平家物語】


1 :2012/05/25 〜 最終レス :2012/10/28
治承・寿永の乱つまりいわゆる源平合戦を軍事分析をしましょう。
保元の乱・平治の乱も範疇に入れます。

治承・寿永の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1

2 :
2get!
当時の日本は弓騎兵が主戦力だったんだな。

3 :
貴重な馬を近接戦闘に持ち込むのは馬の豊富な源氏しかできない。

4 :
平氏も北陸を実効支配して兵站を確保していれば敗北しなかった。
義仲も養和の大飢饉がなければ京で強引な徴発をする必要が無く
朝廷から見放されはしなかった。

5 :
大鎧に萌えるスレはここでよろしいのか?

6 :
重複スレにつき誘導
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合02[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1334948359/1

7 :
保元の乱って、上皇側が夜襲していたら
どうなっていただろう?

8 :
市街で両軍の遭遇戦 数の多い後白河側が押し切ったと思う

9 :
>>8
やはり興福寺勢を宇治で足止めされたのが響くか。

10 :
つーか中世の日本の戦いなんて軍事的に語るもんなんか無いっしょ。
原始的な小競り合いしかやってないんだから

11 :
いや壇ノ浦の戦いは凄いんだぜ!

12 :
藤原頼長って、アッーの性癖が本当にあったの?

13 :
>>10
具体的に。

14 :
水軍強し!

15 :
昨日の大河ドラマ、保元の乱だったね。
どうだった?

16 :
>>15
放送は今日だよ

17 :
だって皆既日食があって形勢逆転って(+o+)
作り話っしょ

18 :
水島の戦いのことか?

19 :
>>12
台記で検索することをオススメする

20 :
台記?

21 :
>>20
悪左府さんの日記

22 :
鍬形をつけた星兜に萌えるスレはこちらでよろしいのかな?

23 :
治承・寿永の乱を軍事分析

24 :
保元の乱

25 :
火攻めが有効な手段のせいか、ほとんどの場合攻撃側が有利な気がする。
あときちんとトドメを刺しておかないと逆襲される場合がある。(確か今昔にそんな話あったよね)

26 :
古典的なイメージだと一騎打ちだの押せ押せ引け引けのしょぼい戦のイメージなんだろうが
記録を見る限りかなり広い範囲で連携しての複雑な集団戦闘が行われている訳で
大河始め創作物での単純化が行き過ぎてイメージが歪められていると言うしかない
戦国時代の桶狭間も最近は掘り下げる作品も出て来たけど世間では未だにバカ殿が谷で休んでるとこを
奇襲したってイメージしかないだろ

27 :
源平以前に関しても、前九年の役とか天慶の乱とか
歩兵も大量動員して結構大規模な集団戦闘をやってるんだよなあ。
調べれば調べるほど、名乗りあって一騎打ちなんてのは
ごく稀なレアケースだったことがわかるよね。

28 :
ごく稀なレアケースのほうが伝承に残り易いというものあるね。

29 :
>>10
阿津賀志山の戦いなんて残されてる遺構が長篠の戦いより大規模なのに

30 :
>>29
阿津賀志山の遺構の命名の方が気になる。
土塁というよりも堀だろ。

31 :
古代にそんな大要塞が建設されていたってのが後世の人にはイメージ出来なかったんだろう

32 :
じゃあ、いつから戦国以前の武士は名乗りあって一騎打ち〜みたいな俗説が広まったんだろうか?

33 :
おおお、ついにこれきたか、
どうもこの関連は
1 古い事柄である。
2 前後年における争いがある。
から事実が相当捻じ曲がるが
政治勢力として
坂東武士 農民武士対 藤原源 旧貴族 の戦いでしかないんだよね。
その構造理解しないと戦闘構造がみえないかも。

34 :

藤原 →後の足利
坂東→ 鎌倉
とみると前後年の勢力争いがみえるんだが。
最終的に三傑が統合するまでの、ほぼ600年?の勢力の戦いで
そしてその構造みないと歴史も見えない。
また関連で、16世紀前の記録でわ、当時検証がもろくなるよね。
そして
藤原 貴族
坂東 農民
という構造をみないと、 字を編纂したのは誰か、どの階級の人間か
この構造みないと資料もみえない。
そして資料として
武器は蕨手刀 三角の刀
よろいは装備 
弓も装備というもので、弓とよろいが主力武器で
あとはもう農具とかなんでも使った。いわば古代の典型な
農具と武器までいりまじる戦争なんだよね。
基本銃が登場するくらいまで、その手の戦争は多い。
そしてもう会戦前段階の補給線で坂東武士が最初から圧倒していたため、どうしても勝てない。

35 :
構造として
坂東武士勢力があらわる。
それが独自武士団として成立する。
藤原がコピりながら対立勢力として生存する。
そして藤原、坂東の間接対立の中で
坂東武士が事実上懐柔した藤原源治 の義朝が政治上の盾として期待され
実質最初にまずクーデターをおこすのがある意味弱小の第三者の平
そして戦争となるけど、実質
坂東武士対近隣勢力の富士川の戦いでほぼ独自勢力と勢力圏の確保は成立して
後は補給ができてるから、現地農民と貴族の戦いになり、後は放置してるだけでよく、
しかも戦争行動なんか、実質坂東武士対藤原で ほぼ平時もでてこなければ
藤原源の懐柔された嫡子は事実上藤原源治の内部解体戦争になってるのに、自分で意味わかってなかった。
もう会戦当初坂東武士が結集して、実質坂東武士対藤原周辺勢力の戦争になった。富士川の戦いでほぼメインは成立
あとはただの掃討作戦 政治的意味わあるんだけどね。

そして前後 藤原ー足利という構造みると構造がわかる。
もうあくまで源平 なんかは伝記の隠れ蓑で事実構造が違う。

36 :
でもう会戦前の数字段階として
武士予備戦力
武器
補給
輸送
前物資、兵力がすでに坂東周辺に結集してるため、事実上簡単に声あげれば坂東武士が勝てた。
実質勝った。
そしてそれ以外の地域は
1 周辺の有名な武士、豪族、勢力の団体もいない。
2 まともにそれこそ、物資、兵力が構成できるほどのまともな抗戦もクソもない。
3 奥州征伐のあのなんたら城塞くらいしか、ちょっとびっくりした抗戦がない。
からそもそもほぼまともに何もできなかった。
そもそも古典的にいわゆる古代戦争は
武器対農具の戦いで、武器すらあれば、圧勝できた。で

37 :

1ほぼ補給線、物資はそろってる。
2 一切まともな抗戦はない。
3 長距離を非常に短期で掃討できてる。
からまともな戦闘にならなかった。
そもそも、まともな合戦、交戦記録ってのは鎌倉以降くらいからしか存在しない。
そして藤原が最後権力者になるんだが、負けて、
武士は権力者になれないが、最後かつんだよな。
江戸時代なんか、武士農民天国
で、結局藤原勢力ってのは一気に後衰退して、戦国武将にもきらわれるだろ。
そういう戦い。
大和の地方ができる。
天皇の独裁できらわれる。
坂東武士がおこる。
天皇がカルト化しておわる。
藤原と坂東武士の戦いができる。
坂東武士鎌倉府が成立する
クーデターで鎌倉府がつぶれる。
藤原がマジでカス独立地方独裁政権おこる。いわゆる最初期の反日売国奴
信長などすらマジ切れ
三傑がある意味シメル そして元武士は農民天国
そういう勢力そして軍事交渉上、
本格的な交戦は事実上13世紀にならないとない。 そもそも日本刀成立は
13世紀
そして12世紀日本刀はないし、政治戦争要素が非常に強い。

38 :
ただし、
日本はすでにもう古墳大国で建築大国だった。
だから諸外国が非常に弱い、工兵力はたくさんある。
馬←輸送
米←兵站
よろい 三角刀 弓 ←武器
農具←簡易武器
工兵
でしか構成されない。

39 :
今北産業

40 :
おかしな人が騒いでるが平泉藤原氏は血統的にはむしろ安倍氏の血のほうが濃い
京都では完全に蝦夷扱いだった
一方河内源氏はれっきとした高貴な身分の名家だ
そして鎌倉幕府は最後は安倍氏の系譜を継ぐ安東氏に10年に渡る攻防戦の末に実質的に敗北
武家政権の不敗神話は瓦解しその後は反乱が相次いであっというまに滅亡してしまう
この時も京都では明確に幕府対蝦夷との戦いと認識されていた

41 :
>>37
『日本刀歌』を作った欧陽脩は何世紀の人だよw

42 :
>そもそも日本刀成立は13世紀
何を根拠にそんな出鱈目を?
君の中では安綱や宗近を代表とする平安時代の古刀は日本刀に含まれないと?

43 :
小烏丸は?

44 :
>>43
あれは切っ先両刃の小烏造で
日本刀としてはイレギュラーな部類だから、一般人が見たら剣と間違うかもな

45 :
でも、太刀や打刀を使用していても
剣道というしw

46 :
今日、新暦での日付では倶利伽羅峠の戦いが起きた日なんだね

47 :
>>32
真面目な話、教科書で平安〜鎌倉時代の戦の作法とされてる
双方の大将が名乗りあう

鏑矢からの矢合わせ

騎馬武者達が各自互いに名乗りあって一騎打ち
という流れで行われた合戦が実際にあったのか知りたい。
或いはそういう作法に乗っ取らなかった武将が非難された例とか。

48 :
【話題】 NHKの大河ドラマ 「平清盛」で、登場人物が、皇室のことを 「王家(おうけ)」というのは不敬?
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1338685991/

49 :
>>47
攻める際に敵に名乗りを上げる記述自体は保元物語や平治物語にはしばしば出てくる。
ただ、一騎打ち自体は義平VS重盛(といっても、義平が一方的に重盛を追い回してただけだが)
くらいしか例が無かったと思う。

50 :
50

51 :
50

52 :
三国志と一緒。
演義だと大将どうしの戦いばかりだけど正史だと2回しかない。
だいたい少数で奇襲とかしといて「やぁやぁ我こそは」なんてやるわけないでしょ。
せっかく虚をついたのにたちまち態勢整えられフルボッコ喰らうわ

53 :
あの時代、矢の調達はどうしたんだろう?

54 :
屋島の那須与一とか壇ノ浦の平教経とか名乗ってなかったか?
時代は下るが山中鹿之助とタラ木狼之介(字が出ない)の一騎打ちなどもあります。
ただし、実際に行われたのか、後世の講釈師の創作かは不明。
真田幸村だって、「家康はいずこぞ!?我こそは・・・」と名乗らないと絵にならないし。
ただ、軍記物などを読むと、よく、大将が「者ども続け!!」と真っ先かけて突進すると、
「大将を討たすな」と家臣がいっせいに敵に突撃する場面が描かれます。
実際、そういう勇気と武勇があるから「武家の棟梁」なわけで、
その際、黙って突進してもしょうがないから例えば「我こそは沙亜也!!」かなんか名乗っただろうなと思われます。
聞いただけで「あ・・・赤い彗星だ・・・逃げろおおお!!」なんてこともあったでしょうし。
家臣もまた、一応「あいつの手柄だ」と認められないと恩賞に預かれないわけですから、
「こいつは俺が討ち取ったんだぞ」と名乗りを上げる必要があったことは「雑兵物語」にもあります。
中世以前の合戦がどんなだったか史料がほとんどないのでわかりませんが、
「一銭五厘」の大量消耗戦の時代と違い、一世一代の命をかけた大舞台なのだから、
自分の名前くらいはみんなに知っててほしい、死んでも後世まで伝えてほしい、という
願望が強かったと思われるので、名乗りあっての一騎打ち、というのもあっただろうなと思います。

55 :
さすがに教科書での元寇の記述にあるような間抜けな事は無かったと思うよ。
平家物語だって名乗り上げてるシーンは全部乱戦してる最中だからね。
それを周囲全員が手を止めて黙って聞いてたとは思えないし。
双方の矢が飛び交う中を「○○以下百騎、推して参る!」って駆け抜け
乱戦の最中に「名のある方とお見受けした!」ってなるのが実際じゃね?

56 :
>>55
たぶんそうだったろうな、と俺も思う。

57 :
実際は有力者達はその子弟達を危険性の高い配置にはできるだけ置かなかったんじゃないかな

58 :
武士といっても、もともと地元での所領や権利争いのために武装していた連中だから、正々堂々とはほど遠いえげ
つない戦いをしてきたと思うよ。
でも保元の乱以降は中央の権力争いに巻き込まれる様になって、知らない連中が多い中で戦う様になって、敵味方
識別のためにも名乗りと言うか、なんらかの自己紹介的なものがあったかもしれないという気はする。
軍記物は面白おかしく伝えるため名乗りの部分を戦いのメインにすえているけど、現代だって少年ジャンプのバト
ルシーンとかそうでしょ。やっぱそうなっちゃうと思うよ。

59 :
「ハイテク兵器で物量作戦」のアメリカ軍でさえ、ハリウッド映画では
上半身裸のマッチョがナイフ片手に一騎打ち。

60 :
ところで、保元の乱ではなんで「夜討ち」ばかりがいわれるの?
勝敗を決定付けたのは夜討ちじゃなくて火攻めでしょ?
期待通り寝こみを奇襲したのならともかく、
待っていたところを迎え撃たれたわけだし、
館に篭城する上皇方が為朝の奮戦もあって天皇方を撃退してるし。
「頼長がバカだった」ことを強調するためだけの設定?

61 :
>>55
流石に今の教科書だと一騎打ちの記述は消えてる
が、文永の役神風で勝ったってのは相変わらず

62 :
>>61
マジで?
一騎打ちの記述が消えただけでも大きな前進じゃなイカ
次はアジアの人々の活躍(笑)が消えるといいんだがw
まあ文永の役は、正直戦術的には割と辛勝だったからね。
これは戦術面の問題というより純粋な兵力差によるものだと思うが。

63 :
いや、対馬助国さんは本当にそうやって戦ったみたいよ
帰路、台風で全滅したのも事実だし

64 :
>>63
その人の話のソース八幡愚童訓じゃねえか

65 :
大部隊同士が平原でぶつかるみたいなことは日本では滅多に無く
数十人単位の衝突があちこちで同時に行われるパターンが多かった
平安〜戦国初期までは動員されてるのは殆どが身分のある武士や地元名士やその従者
混戦では偶発的に名のある武将同士がぶつかることは珍しくもなかった筈
実際にあったか疑わしい一騎打ち描写も流石に乱戦の中で偶々という流れで描かれるのが殆ど
当時は複数人で連携するという意味での新撰組的な集団戦術は発達していなくて
乱戦になるとしばしば一対一での斬り合いも生じてしまったものと思われる

66 :
いつまでもにらみあってるだけでひまなときなど、
景気づけに名乗りを上げての一騎打ちもあったと思われ。

67 :
一騎討ちに関しては義家の時代に、廃れてしまったことを嘆いている様子が描写されていた

68 :
>>65
日本では大規模な合戦が殆ど無かったというが人口を考えると
軍記物は誇張とはいえ、動員兵力の規模は世界的に見てもかなり多い方だと思うんだが。

69 :
>>68
一箇所に固まらずに広い戦場に分散してあちこちで戦闘してたのが日本の戦の特徴
関ヶ原の合戦などが好例

70 :
ちょっと話題転換。「平氏は兄弟仲がよかったのに、源氏は内輪もめばかり」なのは、
西国がやっぱり、あづまえびすの地より豊かだったからではないか?
今でこそ米は東北北海道でも取れるけど、戦前まで米どころといえば温暖な九州だった。
海に近く、海産物が豊富な上、貿易でも儲けられたから、多くの人口を養うことができ、
一門にそれぞれ分配して生きていくことができたのではないか?
一方、東国では江戸時代になってもまだまだ上方にかなわなかった田舎。
関東平野では現在でも畑作中心だし、奥州では冷害が毎年のように来た。
なので惣領家が食料を独り占めするべく、親子兄弟でも容赦なく争ったのでは?
治承の飢饉が運のつき。旱魃で西日本は大凶作だったのに、東国では「旱魃に不作なし」
ハングリー精神に満ちた荒エビス相手に、平氏の政治・経済官僚たちは負けてしまった。
一方、源氏も、惣領家が死に絶えたとき、スペアになる人を自分で全員滅ぼしていた。

71 :
一騎打ちといえば、平敦盛みたいに、よせばいいのにわざわざ戻ってきた人もいる。
もっとも、「豹は死して皮を残し人は死して名を残す」のがモットーだった時代、
壇ノ浦あたりで17歳の少年が十把ひとからげに死ぬよりは、負けたとはいえ
数百年間広く日本人の間にその名を残したのだから、本人としても本望だったかもしれない。

72 :
>>70
関東で畑作が多い理由の1つとして米を作るより儲かるし一年中使えるからというのもあれ。

73 :
>>70
まあ、桓武平氏も坂東じゃあ殺し合いしてたもんな。
その代表例が平将門。

74 :
でも身内で抗争してる源氏っていわゆる河内源氏じゃないの。

75 :
大和源氏の信実みたいなのもいるんだけど
東国どうこうでなく地方に散らばったら必然的にそうなるだろ

76 :
>>72
いや畑作だとすぐに地力が衰えるけど水田だと輪作できるという、
絶対有利な条件があるから生産力が全然違うんだよ。
現代減反政策ならともかく、昔は水さえ引ければとにかく稲作だったんだよ。
で、「西日本なら食うに困らぬシャングリラ」なわけもないから、
地域と時代によっていろいろ違う あくまでも一般論。

77 :
>>76
>>70 で現在でもって言うてるやん。
米の品種改良や水田の整備が進んだ今でも畑作やハウスが多いのは効率や回転率が悪いから。
稲作だけでは食ってはいけん。畑作やハウスだけのほうが食ってける。
地力が減ったら肥料を使えばいいだけの話。

78 :
昔は二毛作とか三毛作とか普通だったからなあ

79 :
関東平野は台地ばっかで灌漑が進むまで水がないから畑作するしかないんだよ

80 :
平安時代は現代以上に温暖な時代だったから、
東北地方へ稲作が急激に広まった

81 :
>>77
関西弁で関東を語るなよ 農業が全くわかってない。
とりあえず続けるが、畑で取れる菜っ葉やなすびや大根では腹の足しにならない。
人間が生きていくのに最も必要な炭水化物を畑作で生産しようとしたら、
さつまいもが伝来するまで、麦・ひえ・あわ・きび・さといもくらいしかなく、
収量もカロリーも水稲に遠く及ばなかった。
しかし水田は手間かかるし、稲は倒伏しやすく、冷害にも弱かったので貴重品だった。
近代になっても、「おしん」みたいに人間より一俵の米が大事だった。
その米を生産する土地を守るために武士(武装農民)が一所懸命になったのも当然のこと。
ただし、あくまでも東日本の話。西日本では海運業(水軍)なのでも食べていけた。
四百年後には、軍事力では最強だった甲州の武田軍団が、経済力の織田軍団に負けた。

82 :
未だに百姓が米ばっかり作るのは農協が買い上げてくれるって他に
農作物の中でもずば抜けて手間がかからず楽に獲れるって理由があるんだが・・
稲作は大変って子供の頃からの教育やメディアによる洗脳はタチ悪いよね

83 :
>軍事力では最強だった甲州の武田軍団

戦国板じゃなければ誰からも突っ込まれないとでも思ったのかwww
外交下手で常に周りは敵。動員兵数は2万5千で精一杯。
収穫期が近づけば帰国しなければならない旧体制の農民軍。もし信玄が死なないで上洛続けてたら?
よく小説なんかでもあるけどその場合兵糧尽きて撤退しますからw
そんで収穫量も減って経済ガタガタ。上洛どころじゃありません。
騎馬の動員数も格別凄かったわけでもない。武田の騎馬軍団とか夢見てる人?
そして織田、毛利、島津がやったような戦術で戦略をひっくり返したような戦いも無し。
勝った相手といえば信濃一国に無数に存在した弱小勢力ばかり。
軍事才能2流の珍玄。
かといって戦略もすでに書いたようにいらぬ敵を作り外交もド下手。
武田が軍事力最強とか言っちゃう人ってWWUもうまく戦えば日本は勝てたとか思ってるでしょ

84 :
>>81
君のほうがわかってなかろう。
ハウス栽培が平安や鎌倉時代にあったか?ちゃんと文章を読みませう。
>>82
減反政策わかる?
米ばっかじゃ食ってはいけないんだよ。関東では米だけを作るより野菜や果実、花を作ったほうが儲かる。

85 :
収量もカロリーも遥かに上回るのに貴重品?わけわからん

86 :
網野善彦が「西日本では銭が充分流通するまで、米が代替貨幣として通用していた(東日本では絹や布)」と書いていたな

87 :
稲作は別に水稲にこだわらなきゃ陸稲でもいけるしなあ
てか、近代以前は陸稲のほうが主流って説もあるし
>>82
水田稲作舐めんな
機械化と化学肥料農薬が普及するまでの稲作は労働力一点集中投下の過酷労働だ
それこそ田圃の畦まで隅々まで舐めるように管理せにゃ十分な収穫は得られん
極小の面積に微細単位の労働力を集約するから、リターンは大きいけどなんか齟齬があったら悲惨なことになりもするんだし

88 :
>>83
外交下手っていうか信玄って同盟一つもちゃんと守ったことがないって説もあるよね
近隣との関係が利害だけで信頼関係0って、戦国でも異常な状況だわw
なんつうか16世紀版ナチス?w
どっちにでもいけるけど出れば叩かれて常時包囲状態なあたりも似てるな
どっちも無駄に戦争(というか戦闘)は強いわけだがw
ただまあ、常備戦力や補給力や動員能力が大きいから最後は織田が勝つに決まってるってのも短絡というか一面しか見ていないわけで
アメリカみたいに策源地を直接攻撃される心配が皆無な超大国じゃないんだから
勢力の基盤を叩き潰されるか、そこまでいかなくても重大な敗北を繰り返せば、なんせ戦国だし掌返すように裏切りが続いてあっという間に織田家は雲散霧消する可能性があった
信長って、史上アイツほど大小様々な裏切りを繰り返し受けた人物はないってぐらい裏切られてるし
外交下手では信玄以上だわな
実際三方原ではそうなりかけたわけだ
その後どうなるかはまあ別問題w

89 :
「平清盛」の視聴率がのびない原因がわかった。
視聴者がこのレベルだからだ。
昔だったら「TVで言ってること」が啓蒙になったわけだが、
現在では支離滅裂なのに「自分が正しい」ひとが増えたので、
史実通り描いても理解できないし、演出すればなおわからなくなるわけね。

90 :
>>88
あれだけ周囲が全部敵でも全く軍団の結束が揺らいでいない訳で
むしろ戦国時代に目を見張る強固な統治だったと思うが
実際信長制圧後は畿内の治安は劇的に改善したとされているし

91 :
>>90
信長の方?
直率の軍団はほぼ忠実だったが、傘下に入った勢力や同盟国には散々てひどい裏切り受けてるじゃん
浅井に松永に荒木に…
直率も、財布握って兵力だけ預けてた間は忠実だったが、版図が広がって部下に直轄領を与えるようになったら最悪のタイミングで裏切られたわけで
結果じゃなくて理由を見ないと
ってまあスレ違いだなw

92 :
TPPにしたって、「潅漑工事」とか「しろかき」とか「飢饉」とか「身売り」とかいう
言葉自体を知らなさそうなひとたちが議論してるんだろうか?
せめて減反政策で近郊農業の現代と、平安時代の区別くらいついてほしいんだけど・・・
分数の計算ができない大学生がいるの、よくわかるわ。

93 :
>>92
うん。なら現代のコトまで持ち出してバカなコト言うの止めましょうね。
この地が軍事板であるコトをお忘れかな?バカなコト言ってると絨毯爆撃・砲撃食らうの当たり前。

94 :
軍板に長年いて、もっとも痛感したのが「類推する」という能力の著しい欠如。
「現代ですらこうだ、だから平安時代はもっと・・・」という議論が一般人には成立しない。
一言でも「現在でも」とあると現在だけの話でファビョッてしまう。
歴史とは、「昔こういうことがあった、それに対し現代では」ということを汲み取るのが
とても重要な学問なのだが。
だから大河ドラマも理解できなくて視聴率低迷。時代的に理解できないのが原因だそうだ。
昔は平家物語くらい、日本人なら普通に教養として知ってたんだが。義務教育で習うし。

95 :
義務教育で習うっても祇園精舎の鐘の声〜の部分と扇の的のとこだけだろ

96 :
>>89
あの宋剣(笑)大河のどこが史実に沿ってるか、根拠を挙げて貰おうか。

97 :
>>95 義務教育受けてないことを自慢してどうする。
つうわけで>>1よ、まともな議論ができていれば、「家政婦のミタ」のように、
「平清盛」の視聴率V字回復も十分不可能ではなかったと思うが、
またいつもどおりの展開で撃沈。いっそ打ち切ったほうがまだいいだろう。
なにしろ視聴者の声どころか、製作者の声がこれなんだから。

98 :
>>97
じゃお前の教科書には平家物語のどの話が載ってたんだ?

99 :
>>98
それはもしかして、「国語の教科書」の話?

100 :
>>94は「昔は平家物語を義務教育で読んでたから時代を理解できてて当然だった」
って意味だと思ってたんだが違うのか

101 :
>>100
ゴメンな、おれは横レスしてるので94ではないのじゃ。
とはいえ、そういうことなら両者板違いじゃね?
なんかTPPの話まで出てるし。
2010年代の「政治・外交・経済・教育・教養」については
該当板でオナシャス

102 :
>>98
むしろ史実を知っていれば、突っ込み所満載なのが大河ドラマ平清盛。
俺はあのドラマのどこが史実に沿ってるのか全くわからんのだが。

103 :
題材に対してどのように作劇して面白くするのがドラマの見所であるのに、史実と違うから(笑)とかもうね
どうせくだらないお好みを逆撫でたとかそんな理由だろうに

104 :
いつも思うんだが大河に文句言う奴は文字を嫌わず原作も少しくらい読めと
いかに大河側のスタッフが糞原作・糞脚本相手に毎回必死に戦っているかが分かる
何であれな作家のばかり原作に選ぶのかは知らんがな

105 :
なんだろうね。
>>102-104はあれか。
大河ドラマ板(あるんだねぇ)でボコられでもしたの?

106 :
大河ドラマの話が出たんで荒れるなあと思ってたらやっぱりw。
ああいうのはドラマとして面白いかどうかで、こういう場でマジに論じるもんじゃねえよ。

107 :
>>103-104
単純にドラマとしてつまらない事を指摘すれば「史実を知らないバカばかり」と言い
時代考証にツッコミを入れたら「重要なのはドラマとして面白いかなのに偏狭な奴ら」と言う。
汚盛信者ってこんな奴らばっかりだな

108 :
>>107
本質をついている
>>89でも「史実通りでも演出してもダメ」と書いてあるのに
なぜか「どこが史実なんだ」って話になるし。
ちなみに史実通り描いてある例は「王家の乱れが保元の乱を招いた」という点など。
「保元・平治の乱」が載ってない社会科の教科書が教科書検定を通るはずないのだが、
保元の乱すら知らない人から「どこが史実通りだ?」なんていわれるんじゃ、
>>104の苦労がよくわかるわ。

109 :
「おしんは米俵一俵で身売りしました」なんて話でも、
昔だったら「えー知らなかった」「ああ、昔はよくあったなあ」
などといったリアクションで大反響だったのに、現在では
「ウソつけ、米が貴重品なわけないだろ、どこが史実なんだ」
なんてなことになるんだろうな。

110 :
汚盛が小烏丸ガン無視して宋剣エクスカリバー使ち
「海賊王に俺はなる(キリッ」とか抜かすのを本気で
ドラマとして面白い演出だと思ってるんなら頭がどうかしてるわ。

111 :
>>109
おしんは普通にドラマとして出来が良いから多少考証が正確でなくてもツッコミなんて入らない。
汚盛は政治劇として薄っぺらいしショボいし汚いしドラマとしての魅力がない。
それを指摘したら「歴史を知らない無知どもガー」って信者が騒ぐから
「時代考証だって全然正確じゃねーだろwwww」ってツッコミが入るんだよ。

112 :
>>107
「皇室の継承問題と貴族同士の確執から保元の乱が起こった」
部分は史実に沿ってるが、その確執を描く部分がコントみたいに薄っぺらいし
実際の戦闘では為朝は山賊みたいな格好だわ
西部劇みたいな打ち合いするわ清盛と忠盛が夜明けまで一騎打ちで周囲はぼーっと見てるだけだわ
ドラマとして見栄えが悪けりゃ時代考証も正確じゃない。
ないない尽くしだよ。これで視聴率取れると思う方がどうかしてる。
ついでに言うと王家呼称は当時「使う記述も稀にあった」程度で全然一般的じゃなかったぞw

113 :
>>112
日蓮が源平どちらも王家の犬っていってるぞw

114 :
>>108
大政奉還の上奏文でも保元平治の乱が武家に政権が移ったきっかけみたいに最初に記載されてるから

115 :
なあ、>>110よ、海賊王なんてまだかわいいもんだぞ。
武家が太政大臣になって位人臣を極めるより、
お前が選挙に出て内閣総理大臣に選出されるほうがまだかんたんなんだって。

116 :
いや王家は至極普通の表現だぞ
何かにつけて天皇家の事は王、王家と書かれている
王命、王法とかの表現が常に使われ天皇家などという言い回しは無かった

117 :
いろいろ考えたんだが、やはり原点に返って、
「史実通りの教科書番組」がいいかもしれない。
「演出」というのは、「史実的にこれぐらい視聴者も知ってるだろ」
という前提があってなりたつものだが、
史実そのものを知らない世代が多いと、ツッコミどころにしかみえないようだ。
「経済大国の現代では考えられないようなことが昔の日本だったんだよ、
 だから祖先が苦労したこの国を守らないといけないんだよ」みたいな、
国威発揚啓蒙路線のほうがいいのかもしれない。
ハリウッドだと個人の英雄譚だが、共同体が好きな日本人向けに集団路線がいいかも、
「ワン・フォア・オール オール・フォア・ワン」こそ最も日本人好みだから。

118 :
しかし「保元物語」や「平治物語」等の軍記物語自体が史実に合ってるのかという問題がある。
つまりこのスレの冒頭でも話題になった名乗りや一騎打ちをどうするのか等だ。
長年日本人に受け入れられてきた様式を優先するか、無味乾燥な史実を優先するか。
まあどちらにせよ説得力のある脚本でないと今の大河みたいになっちゃうけどね。

119 :
東大歴史編纂所DB(http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html) によれば
「天皇」は、平安遺文で509件、鎌倉遺文で1213件。
「皇帝」は、平安遺文で97件、鎌倉遺文で139件。
「朝廷」は、平安遺文で67件、鎌倉遺文で56件。
「皇家」は、平安遺文で4件、鎌倉遺文で17件。
「朝家」は、平安遺文で62件、鎌倉遺文で230件。
「王家」(「親王家」以外の用例)は、平安遺文で0件、 鎌倉遺文でも仏教との対立軸での日蓮上人など数例が存在するのみ。
 となっており、少なくとも平安時代では「朝家」や「皇家」の方がはるかに望ましい。

120 :
>>118
ああいう「ここを守るのは誰だ。俺は○○だ」
って言うのは本当に保元物語と平治物語の一部だけなんだよね。
義朝や清盛の祖父世代の陸奥話記にも、息子世代の平家物語にも
ましてや更に後の承久記や蒙古襲来絵詞や太平記には
そんな場面は一切と言っていいくらい出てこない。
本当に謎なやり取りだ。

121 :
いや、あれだけ問題のあるご先祖様の姿を全国区で晒し者にされる陛下にしてみれば、できることならあれもまっぽーファンタジーって事にしたいんじゃない?
ならば皇室とか現代用語と被る名前は避けてあげるのがファンタジー作家の慎みって物かと。
しかし、海賊王の剣(仮)ってシュワルツェネッガー知事が昔振り回してたのに似てるんだが、モデルはあるんだろうか?

122 :
平家物語にも名乗りのシーンはたくさんあるけどな。
やあやあ遠からんものは音にも聞け、ってやつ。
当時のエンターテイメントなんだから、それを承知であれば別に構わないと思うけど。

123 :
馬鹿だからこんなコピペを信じるんだろうな
ドヤ顔ブーメラン
東大史料編纂所准教授に王家を使った理由を聞いてみた
http://sankei.jp.msn.com/smp/life/news/120124/art12012411250003-s.htm

124 :
>123
それこそブーメランなんだが?
> とすれば、皇帝が上位で王は下位、天皇は皇帝と同格だから王とは絶対に呼ばない
>…という現代的な私たちの理解は、当時の貴族社会には適用できないのではないか。
つまり当時の「王」と現代語の「王」は意味が違うんだよ
平安時代の「王」を「現代語に翻訳」すればそれは「天皇」になる。
合戦表現で史実と創作を中途半端に混ぜたのと同じく、言葉も当時の単語と現代のものを
弁別できない形で混ぜてしまってるから物語性以前の部分で批判される。

125 :
お前ときどきアホって言われるだろ

126 :
>>122
沢山ってほどでもないし、保元物語の時とはちょっとニュアンスが異なる。
>>123
王家の使用例の方が乏しいじゃん。
わざわざ使う意味無いよね。

127 :
>>119
何でネトウヨってこんなすぐバレル嘘つくん?

128 :
どっちでもいいから、もう続きは大河板でやってくれ。
>>123
>>126
平家物語だと矢が飛び交う中を勇猛な者が名乗りを上げて突入するか
乱戦或いは追撃戦のさなかに遭遇する形で一騎打ちがおこるケースのどちらかだね。
保元物語みたいに大将が進み出て挨拶みたいに名乗りを上げるケースは無いね。
平家物語みたいなケースは実は南北朝以降もたまに起こるんだが
保元物語みたいなケースはこれ以外は見たことが無いなあ。

129 :
>>127
息を吐くように嘘をつく東朝鮮人だからだ。

130 :
>>127
>>129
どの辺が嘘なのかkwsk。
むしろ>>123リンク先の「王家が一般的で皇の字は使わなかった」という主張の方が嘘っぽいけど。

131 :
「史実」の意味だけでもいろいろ捉え方があるんだな。
基本的に「歴史的な史料」に載ってることが史実とされる。
で、古代は史料が少ないから、「平家物語」に載ってることが、
そのまま事実と長年されてきた。
「違う」というからにはその根拠となる史料がないといけないが、
最初からそんな史料ないし、
「平家物語」がどれほど信憑性があるのか、その検証自体が不可能だし。
だから一応、「平家物語こそ史実」となるわけで、それで昔は納得してたのに、
現在ではなかなかそうもいかないのね。
鎮西八郎為朝公にしても、故・ストロング金剛さんのような巨漢俳優が、
それでいて凛々しい大鎧を身に纏い、丸太ん棒のような五人張りの強弓を引いて、
伊藤兄弟を二人まとめて串刺しにしてくれるのかと思えば、兎丸と区別がつかなかった。
その方が史実に近いのか、いや演出なのか・・・悩ましいところだね。

132 :
こういう考え方もあります。今でこそネットが発達してみんなが勝手なこといってるけど、
「メディア」なんてものが全くなかった時代だったら、
「戦にのぞんだらまず名乗りを上げるのが武士の作法なんだよな、
 現に軍記物に大概載ってるし、出掛けに寄ってきた菩提寺の坊さんもそういってたし。
 なんだかよくわからないけどそれならそうしないといけないんだよな」
などと思いつつ戦に出た人も少なくないかもしれない。ソースも何もない想像だけど。
合戦の様子がどんなだったか、史料がほとんどないから現在ではわかりません。
残った史料ですら「いや後世の創作だ」といわれるとアレだし。
だから「史実通り」がどの程度なのか非常に難しいからあまり細かくいうほうではないんだけど、
「米は日本民族の支えとなる貴重品だった」という、いちいち史料をあげるまでもなく、
ほんの30年ほど前まで何世紀もの間、誰の目にも明らかだった常識以前の話ですら、
「理解できんわ」などと恥ずかしげもなく堂々と公言する人たち相手に何を描けばいいんだろう?

133 :
重複スレにつき誘導します。
古代・中世 軍事総合03
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1338234980/

>>6 新スレにより再誘導

134 :
治承・寿永の乱とは?

135 :
平家物語って一次資料ですらないから信憑性皆無。
三国志演戯レベルだよあれ

136 :
まともな史書が無いのは辛いねえ

137 :
だから大河の話とかどうでもいいから。
とりあえず名乗りとかに関しては、当時の一次史料一通り当たってみたらいんじゃね?

138 :
ある王朝の史書をきちんと作るのは後任の(つまり殴り倒した)王朝のお仕事、だからね。
建前でも万世一系を通すなら、そういう史書の作り方は出来ない訳で。

139 :
玉葉は一次史料になる?

140 :
有名なのは玉葉、吾妻鏡、愚管抄だが
他には今鏡、増鏡、建礼門R右京大夫集、山塊記、吉記、百練抄
そして頼長くんのほもほも日記くらいかな?

141 :
史書の客観性・信頼性はこんなんだからなぁ
西洋 >= 中国 > 超えられない壁 > その他の国全般
文明発祥の地の中東一帯も現地に残ってる歴史書は荒唐無稽で欧州側の記録に頼るしかないし

142 :
そんな話聞いたことねえよ

143 :
愚管抄

144 :
史書たって、著者が見たものばかり書いてるわけじゃなくて、著者が信用した本やら日記やらの引用が大部分な訳でして。
つまり、史書とは悪く言えば公立二次資料な訳です。

145 :
昔は大河といえば、司馬遼太郎さんや吉川栄二さんや井上靖さんの原作を、
ジェームズ三木さんや市川新一さんや橋田寿賀子さんらが脚色し、
緒方拳さんや渡辺謙さんや三田佳子さんや、そのどれをとっても
錚々たるオールスターキャストで文句のつけようがなかったものだ。
それが今では下請けに丸投げ、聞いた事もない若造が脚本を書く。
しかもなぜか、そのおかしいところをネットに書いたら、
通常では考えられないようなバッシングが始まる。
やはり大河は、観光地はもちろんその経済効果がはかりしれないから、
国策番組として、ハリウッド映画みたく国をあげてやるべきじゃね?
国営放送の看板番組として、その総力をあげて予算をまわし、
考証は大学教授に依頼し、放送したら視聴者の反応をすぐにフィードバックしたらいい。

146 :
いつまで大河の話してんだよ

147 :
>>1000まで

148 :
保元の乱

149 :
>>136-141
むしろ日本って、
「日記を付けるという行為が、日本の伝統の中にあまりにも確固たる地位を占めている」
って言われるぐらい日記多くて結構助かってる
吾妻鏡、各種貴族日記、愚管抄、延慶本平家物語とかど付き合わせて真相を確かめようってのは
ぶっちゃけ基本だろ

150 :
だが残念ながら、当の武家の日記は江戸時代を待たねばならない。
だから合戦の模様がどんなだったかほとんどわからない。
ほんのひとこと、「何某を討つ」という記述の行間に、
果たして名乗りをあげたのか、どれだけの死闘があったのか、
想像にまかせる以外にない。(だから小説が成り立つが)

151 :
武士自身が合戦の記録を残すのは蒙古襲来絵詞が最初かな?

152 :
その蒙古襲来絵詞では名乗り上げたり、一騎打ち挑んだ描写は皆無だから
少なくとも鎌倉時代にはそういう事は殆どやらなかったんだろうね。

153 :
>>150
そだね。
だからこういうのも漁ってみたり。ちょっとこのスレの対象からは
時代下っちゃうけど。
ttp://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_2.html
こんなに深い刀創とか、なんなんだろうね

154 :
源氏重代の刀「友切」
きっと、友人縁者といえど容赦なく切りまくったようないわれがあるんだろうな。
非情ではあるけど、「いざとなったら、一族郎党討ち死にするより、
一人でもいいから生き延びろ」という意味があったのかもしれない。
土地柄、「津波てんでんこ」なんてことも少なくなかっただろうし。
で、後世のような大軍団の激突ならまだしも、武士が生まれたころは、
まだ村単位の自衛団みたいなものだったろうから、
「おい、おれは何村の住人の某だがお前は誰だ?」
などと誰何して敵味方を識別していたのが名乗りの起こりなのかもしれない。
(現代の暴走族のタイマンも一騎打ちの一種かも。でもあれも漫画の中だけなのかな?)
平家方は「一門一蓮托生」だったのは、舟に乗ることが多かったからかも。
舟に乗れば呉越同舟、たったひとりの不注意で全員が遭難しかねない。
だから舟長(大将)の命令一下、一糸乱れぬ集団行動が必要となるが、
でもうまくいったら利益はみんなで公平に山分け、ということが多かったらしい。
(みんながそれぞれ自分の仕事をがんばったからこそ全員がうまくいったから)
戦でも古代以来、船団同士の集団戦だったようだし。

155 :
>>152
>>154
そう考えると、その図式が崩れたのは源平〜鎌倉幕府成立の頃かな?
源平の戦いは日本史においては初めての全国規模の内乱って言われてるし。

156 :
>>154
平家方ってか清盛一門に限っての話だよね
鎌倉方の主力は三浦とかもいるけど基本は坂東平氏だし
源平の戦いなんてのは後付の話でそもそも当人たちが全然そう思ってない
日本は当時から血縁よりも地縁という社会だったからね

157 :
友切って名前はすぐ変えたんじゃなかったっか

158 :
>>155
そもそも名乗りあって一騎打ちなんて図式は最初から日本にはなかっただろ
古代から中世まで一貫して集団戦法で戦ってる

159 :
つ氏文読み

160 :
ご恩と奉公なんかもそうなんだろうけど、個々の武士は自分の権利を維持あるいは新たに獲得するために戦ってるから、
場合によってはあくの強い自己主張も必要だろうね。
自分の属した集団が勝つのは重要だけど、それ以上に目立った活躍がないとリターンも少なくなるし。

161 :
>>159
何でそれが一騎打ちで戦ってたことの根拠になるのさ?
武士の戦なんて勝てば正義の世界だよ
日本の合戦に「一騎打ちで戦わなければならない」なんてルールが存在した時代はない

162 :
でも軍記物ですら長いのは保元物語と平治物語くらいでしか見かけないよ。

163 :
名乗りのことね>長いのは。
平家物語だと名乗りを上げるシーンはわずか4つくらいしかない。
それもいずれも乱戦や追撃の最中でのことだ。
脚色が強い軍記物ですらこんなんだから
実際に名乗ったケースなんて殆ど無いんじゃない?
ましてやスレチだけど旗印が普及した鎌倉以降はね。

164 :
もともと「武士は一騎打ち戦法で戦っていた」なんて提唱した論文とかは存在しないし。
誰がいつ言い出したのかもわからない根拠不明の俗説が何十年も放置されてるだけなんだよな。
中世史研究者の怠慢以外の何物でもない。

165 :
佐藤鉄太郎氏と近藤好和氏の今後の研究に期待したいところ

166 :
前田慶次が京都の川で馬を見せびらかせて、
「前田慶次の馬にて候」と幸若舞を踊ったというのは・・・
あれだけ一騎駆けが好きな漫画でも「我こそは」なんてなかったな。

167 :
そら戦国時代を題材にした漫画に「我こそは〜」はねーべ。

168 :
戦国時代を題材にした漫画に「我こそは」がなかったらどこにあるんだ?
角川春樹さんが逮捕される数年前の映画「天と地と」で
娘子軍が名乗りをあげたのはありそうに思ったけど。
即座に鉄砲で撃ち殺されたのもありそうに思えたけど。

169 :
あと、「史料にないから」といって、絶対になかったわけでもない。
鎮西八郎為朝公の「五人張りの強弓」 常識的には考えられないけど、
全盛期のストロング金剛さんなら引いて引けないことはなさそうに思う。
現代の力士やプロレスラーやK1ファイターは、ヤオなしでも、
一般人が五人や十人、束になってかかってきても楽勝でKOできそうに思う。
だから平安時代でも「五人力の力持ち」くらいいてもおかしくないだろう。
そういうの自慢したがるから、「おらと勝負するやついねえべか」などといったかもしれない。
それはともかく、まさかとは思うが、「五人張りの強弓なんてありえないよね?」などと、
下請け子会社のスタッフが、考証もしないで勝手にカットしてたりしないよね?

170 :
>>169
五人張りの意味を勘違いしている

171 :
武器の供給というか調達は末端で行ってたのか、一族単位なのか
ちょっとわからんな
一族で鍛冶や精錬やっていたような資料はちょっとは見つかる
売買の記録はあまりない
合成弓の制作も特殊技能
矢なら火入れして作るのもそれほど技量がいらない
今でも滅びつつあるアマゾンの部族の一員が矢だけ大量に作ってるってのあったはず
弓を作る技術者や弓を使う人間は感染症で全滅
足が不自由だが矢は作れる人間が生き延びて、ひたすら使うことのない矢を作っている

172 :
日本の弓は合成弓じゃないよ
かんたんなものなら裏の竹やぶから竹切り出してつくってた。
矢も、村上水軍とか、「矢竹」といって切ったらすぐ矢に使えるまっすぐな竹を植えていた。
矢じりや尾羽はある程度技術がいるけど。
で、合成弓じゃないから、元寇のときとか、
「敵の弓は日本より半分くらいしかないのに飛距離も殺傷力も倍以上」となった。
それでもなぜ、器用な日本人が合成弓や石弓を使用しなかったのか不思議。
もっと複雑な鉄砲はあれだけ短期間に大量に普及したのに。

173 :
重籐弓は合成弓だけどな。

174 :
>>172
釣れますか?

175 :
平安末期には伏竹弓や三枚打弓があったことも知らねえのかよこのおっさんは。
元寇の弓に関しては元々は「二時ばかり」という記述が
写本で「二町ばかり」に誤植されたせいで広まった俗説で
森教授の検証では実際には和弓の方が構造的には威力が上だったという結果が出ている。
ていうかアンタその調子だと、未だに昭和のカビ臭〜い
「台風のおかげで助かりました」説をガチで信じてそうな勢いだなw
クロスボウに関しては大和朝廷時代ではむしろ主力兵器だったけど
蝦夷との戦いで敵の騎射戦術に苦戦したのと、律令体制の崩壊で
大量に生産するノウハウが失われたのと、同時期に勃興した武士が騎射をメインにした上に
「誰でも簡単に撃てるクロスボウ」を使いたがらなかったから中世には廃れたんだよ。
城や砦を防衛する為の大型のものは一部で使われたみたいだがな。
その頃には弓の性能も奈良時代とは比べものにならない程上がったから
再び歩兵戦がメインになる南北朝以降でも、わざわざ復活させるメリットは無かったし
ましてや種子島が伝わってきた戦国時代なら尚更のことだよ。
大河ドラマや講談話や漫画に夢中になるのもいいけど
こういうスレで話がしたいんならもう少し史料読もうな。

176 :
釣れてますねえ 全く反論できなくて困ってたのがようやくに。
でもこういうスレならいいけど、今の国営って、こんなのに番組作らせてるの?
「台風のおかげで勝った」のじゃないのなら、どうやって勝ったの?
少し説明してくれない?史料つきで。
「大和朝廷時代には主力だった」なんて、遺跡から出土した例も出してくれないかな?

177 :
合成弓は普通は木・竹製の弓にそれ以外の材料を組み合わせたものをいう
馬上で使用するため小型であることが多い
最近は竹と弓で作った和弓を合成弓だと声高に主張する人が多いせいで
合成弓の説明時にわざわざ「和弓以外の合成弓は〜」と言わないといけない面倒

178 :
>>177
貴殿のような方をこそ、お待ちしておりました。

179 :
>>177
「竹と弓でつくった和弓」って
ホントはなんていうつもりだったの?

180 :
厳密には合成弓じゃなくて複合弓かな>和弓

181 :
175息してない

182 :
製造技術的には合成弓の枠
技能持ちが道具持っていないと作れない
小規模工房でも作れるけど、それは一族に属するのか、それとも量産して販売していたのか
いまいちわからん
刀剣とちがって経年劣化するある意味消耗品だから、継続的な更新が必要
歩兵に関しては投石の方が弓より配備も教育も楽
金がかかって機動が難しく、威力的にも微妙な弓歩兵が少ないのはしょうがない
雨降って濡れたら弓壊れるよ

183 :
合成弓=複合弓

184 :
雨の日は弓壊れるから戦しませんってか、のどかで良いなあ

185 :
>184
古今東西の戦史みれば明白だろ?
弓兵は水に濡れないように弓を袋に入れて行軍し、
弓兵力に劣る側は悪天候を選んで戦闘を仕掛けるのが常道。

186 :
火縄銃じゃあるまいし、雨降ったら弓使えないなんて聞いたことない。
「弓袋」って、防水ビニールシートかなんかですか?画像キボンヌ。
ところで、日本で合成弓が普及しなかったのは、獣の皮を使用するから
「穢れたもの」として敬遠された、という説もあるみたいね。

187 :
雨の中で弓は使えなくはないけど、濡れると膠が剥がれて壊れる
使用後にすぐ乾燥させないと後方送りで修復か使い捨てになる
膠使ってる時点で獣が絡むけどな

188 :
和弓は軽量で張力の割に射程を延ばす日本独自のロングボウの一種
西洋のロングボウと異なり馬上での使用も可能な工夫がされている
一方馬上での使用を前提に小型で大きな張力を発揮するよう作られたのが合成弓
徒歩での使用に特化して重く大きな張力で貫通力を重視したのが西洋のロングボウ
このようにそれぞれ異なるものなのに製法を理由に和弓を合成弓に含めると分かりにくくなるだけ
和弓、ロングボウ、合成弓の分類の何が不満なのであろうか

189 :
この降水量の多い日本で、「雨が降ったら使えなくなる」兵器が大量普及するわけがない。
いや、ぬれたままで放っておいたら当時の素材は大概腐って土に戻るけど。
しかしそれをいうなら鎧とか刀とかぬれたら錆びるから使えないのか?
川を挟んでむきあえば、一気に押し渡ったほうが負けることになるのか?
「後方送り」ってなんだよ。弓で戦争やってる時代に「後方送り」なんてあったのかよ。
いったいどこの国の話やってるの?

190 :
雨中でも普通に使える火縄銃の存在するスレはここですか?

191 :
和弓になんで漆が塗ってあったのか、刀がなぜ漆を塗った鞘に収めてあるのか、良く考えてみればいい。
あと、武具は大事にされてはいても、床の間の飾りなどではなく、実戦で使う実用品だって事にも留意して欲しい。

192 :
>>190
この前、「タイムスクープハンター」でそんな火縄銃使ってたよ。
雨よけどころか雨具なんか誰もつけてない。
それどころか焙烙玉を使った時限爆弾すら使用していた。
とりあえず>>190、スレ全体をよく読もうな。

193 :
ソースが娯楽テレビ番組って……

194 :
>>193
日本史板のタイムスクープハンタースレで、
「投石していないのはおかしい」と必死に言い続けている馬鹿いるんだけど、
>>192はそいつじゃね?

195 :
戦国時代は既に雨中でも使えるように改良した火縄は存在していた

196 :
本当に三行以上読めないんだな
まして基礎知識が必要な歴史モノはわかるまい
大河ドラマの視聴率低迷の原因がまたひとつ明らかになった

197 :
>>149
つっか、藤原北家が明治まで残ったのと、京都が空襲されなかったお陰で、
日記がかなり残ってるんだと思うわ
室町になって守護が国府機能を吸収して、国衙が消滅したのは痛いと思う
室町以前の史料が乏しいのは、そのせいだろ
未だ、国衙の場所すらわかんないところも多いし

198 :
>>194
最近いってなかったら、日本史板にはそんなスレがあるのか
一応、あそこは学問カテゴリだろうに。
で、そこで通用せずボコボコにでもされたやつなのかな
このアゲ厨は。

199 :
>>198
つい最近出来たスレだよ

200 :



タイムスクープハンター
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1339503070/l50



201 :
>>199.200
トン
ていうかワロスだな、そこ
なんていうか、今週の水戸黄門で
由美かおるの風呂シーンが無いのは考証として
おかしいみたいな話をしてるのな

202 :
日本史板のそのスレまた投石厨が出没しはじめたなw
確かに戦国期の戦闘で投石の有用性は認めるが、
侍が作中で弾切れを見越して、山道で拾える石で事前に代用の石を確保しとけってアフォ
そのものだろw

203 :
泥縄

204 :
またへんな方向へ走り出したね
どうしてこう視聴率V字回復しそうな議論にならないのかね

205 :
>>204
V字回復?
いや、メンタルの強さは認めてやるけどさ、
なんか根本的に勘違いしてると思うぞ。
はやく日本史板に帰りなよ。

206 :
>>176
例えば伊治城跡から発射装置が見つかってるよ。
これは宝亀の乱で使われたものみたい。
記録の上では律令で軍の兵科として定められてるよ。
ただ主力兵器というほど比率は高くないかな。
養老律令では50人(これを一つの隊とする)当たり
2人をクロスボウ射手として抜擢し、これをクロスボウ部隊として再編成するよう定めてる。
元慶の乱では秋田城を蝦夷に落とされた際に、鎧約300領や太刀55振りや弓71張りと一緒に
クロスボウ100個と大型のバリスタ19機が蝦夷軍に奪われた記録が三代実録にある。
それから律令時代ではクロスボウの作製技術は国家機密で
866年には新羅に技術漏洩しようとした奴がしょっぴかれる産業スパイ事件も起こった。
あと余談だけど島根県の弥生時代の遺跡からも見つかってる。
元寇については文永の役では元軍が予想以上に消耗したから
作戦を中止して撤退を決めるやり取りが高麗史でされてる。
また元史でも「官制整わず矢が尽き」たから撤退したとある。
いずれの記録でも台風にあったのは「撤退の帰路にある途中」となっている。
弘安の役では確かに神風はきたよ。
2ヶ月もの間、元軍が攻め倦ねた末にね。
その間に志賀島や壱岐島などの戦闘で元軍が敗退し
どんどん不利になっていく様子が元側の史料にも日本側の史料にもあるよ。
まあ詳しくはスレチだから省くけど。
あとモンゴル弓が云々はただでさえオカルト要素が強くて
信憑性が疑われてる八幡蒙古記を更に誤植だらけの文書にしてしまった八幡愚童訓が原因。
原本の八幡蒙古記では文永の壱岐の戦闘で「二時間ばかり矢合わせした」という記述が
写本の八幡愚童訓では「二倍も矢が飛んだ」という記述に変わったのよ。
>>177
そりゃ和弓を複合弓でなく合成弓と誤解する人以上に
「和弓はただの竹弓もしくは丸木弓だから全然威力が無い」
って誤解する人が多いからなんじゃない?

207 :
そこのかどでロングボウ持ったヨーマンがいじけてたんだけど、何かあった?
一応和弓も複合弓と合成弓の定義に入る(技術的にはほぼ同じ)けど
ローカル武器すぎて他国の弓と一緒くたにすると確かに面倒い

208 :
製造工程は似たようなもんだけどな
材料の乾燥工程のぞいてほぼ一か月
5人くらいの工房で、職人一人あたり、季節によっては1日2本行けるか?
治具の所有数がボトルネックになる

209 :
>>207
あれは例外中の例外。
イチイの木そのものが合成弓と同じような性質を示す材料とかチートすぎる。

210 :
よし、そろそろ源平の話に戻ろうぜ

211 :
>>209
そもそも単語の定義を理解していないなw

212 :
武士が生まれた当時なら、小競り合いくらいなら
「大将同士の一騎打ちで決めようぜ、勝った方のいうことを聞くんだ」
みたいなことは少なくなかったかもしれない。

213 :
>>212
まさにRの出入りだったしな
甲冑に身を固めていればそうそう死なないし

214 :
まあ実際今昔物語にそういう例はあるよ

215 :
>>212
頼光の代ですら、下っ端が戦う役になる
坂田金時とか

216 :
>>214
タイマン勝負の末に熱い友情が芽生えるとかどこの少年漫画だよ

217 :
まあ日本史上最も有名な一騎打ちといえば、川中島かな。
戦国時代にもなって大将同士丁々発止なんて他に例がないけど。
「甲陽軍鑑」も長年信憑性が疑われてたが近年再評価されてるみたいね。
上杉方の記録「北越軍記」でも一応、一騎討ちになってるし。
その後、宮本武蔵あたりが決闘する時代になるけど、いろいろ苦労があったようだ。
西洋なら比較的近年まで一対一の決闘がおこわわれていたけど。

218 :
>>217
武蔵の話は子孫の作り話なのっていまだに知られてないよな・・・

219 :
>>218
吉岡さんが染物屋だったって、君しかしらないわけじゃないから

220 :
源氏があまり貿易に乗り気でなかったのは、やっぱり田舎百姓だったから?
当時、大陸貿易は大儲けだったから、西国の平家はもとより、奥州藤原氏までもが南宋と貿易。
両者とも豊富な経済力を持ち、しかもそれを惜しげもなく朝廷への工作資金に使った。
対して源氏は何をしていたのか?ろくに米もとれない草深い東国のこと、
義朝が冷遇されたのは信西が意地悪なだけだったからではなさそうに思う。
鎌倉時代になると貿易はほとんど下火になる。わざわざフビライのほうから
「平和的に貿易しましょうよ」と申し出てくれたのに断るし。
その後、室町時代になると、足利義満や織田信長以下、国をあげての大貿易時代となるが、
農本主義の徳川政権になるといきなり鎖国。でも官僚化が進むと蘭学解禁。
武装農民だった武士は自分の土地が全てだから、外国へ関心がむかないんだろうか?

221 :
木曽義仲が都で略奪したことを考えると、やはり東国は経済力に乏しく、
その分武力は強かったのだろう。
当時の博多商人なら、かえって京をバカにしててもおかしくなさそう。
平家方も義仲を金で懐柔すればよかったような気も・・・

222 :
>>221
強盗に金を見せたら強奪されるだけだろ常考

223 :
>>221
義仲は源氏でも嫡流ではないし北国だし。
頼朝・義経は源氏の嫡流だし東国・伊豆。頼朝・義経は京都の教養や仕来たりをわかるが義仲はわかってなかった。

224 :
>>223
「京の都に大規模な珍走が来てるらしいよ!」
「まあ、こわい!」

225 :
>>223
甲斐源氏は頼朝と同格
幕府を開いた事でもともと頼朝の系譜が源氏の棟梁の如く宣伝されただけであって

226 :
>>225
とはいえ保元平治の乱でも田舎に引きこもって傍観していたわけで
中央の騒乱に関与せず蟠踞するそういう連中を世間がメインストリームと見ることはない

227 :
結局、源氏って貿易や大国への国司赴任でウハウハだった平氏に比べて貧乏臭いのが
最後まで抜けないな。後年頼朝が鮭を食って「こんなウマイものがあったのか!」という話が
あるし

228 :
>>226
源氏の中でもカネがあったかね>義朝系源氏
いつの時代も政治にはカネがかかる
下野守とか国司になってるからそれなりに
蓄財はできただろうけど

229 :
源氏っていっても東国武士団の基盤の上に乗っかってただけで、経済力はたいした事無いんじゃないか。
三代で終わっちゃたし。

230 :
ただ、平氏のほうでも「武士の世の中」というより
貴族政治そのものをあこがれ・目標としていたために、
「一門殿上人になれたぜうれしい!!」で満足してしまって、
元々の仲間・武士をバカにするようになったために、
田舎武士そのままの源氏に負けてしまった感がある。

231 :
>>229
これといった産業もなかった>関東
東北の藤原氏みたいに交易とかしてたわけでもなく。
>>230
中国に入ってきた異民族が、皇帝や貴族になった途端
弱体化したのと似てる。
>田舎武士そのままの源氏に負けてしまった感がある。
これには説があって食生活の変化がでかいんでは?という
見方がある。出世して食生活が貴族になってしまったので栄養に
偏りがでた→武力に差が出た

232 :
東北では砂金たくさんとれたしね。でもあっというまに頼朝に負けた。
経済大国カルタゴも野蛮人ローマに負け、ローマも蛮族ゲルマンに負けた。
「戦争は政治の延長」であり、政治力・経済力が軍事力を統括しているべきなんだが、
時として軍事力が突出することがある。その時、暖衣飽食の経済人は対抗できない。

233 :
>>232
ぶっちゃけ、暖衣飽食してても米国や全盛期のローマみたいな国ならば物量、テクノロジーで押しきれるけれどね。

234 :
別に平氏が源氏に負けたわけではなくて
清盛の一門が坂東平氏を従えた頼朝に敗れた訳であって・・
強固な地盤のあった清盛一門に比べて頼朝はいわば居候みたいな立場だったし
おかげであっさり一門根絶やしにされたしな

235 :
>おかげであっさり一門根絶やしにされたしな
そのあと公家を将軍に持ってきてるのを見ても
坂東武者には頼朝死んだ時点で源氏は用済みだったんでしょ。
室町時代の関東公方ってのも結局は関東の連中の「飾り」

236 :
全て政子・義時親子の思惑どおりだろ

237 :
政子は娘は寵愛したのに息子にはえらく冷たかったな
あっさり実の息子を殺して北条家による権力奪取の道を選ぶし

238 :
時政から実朝を守った牧氏の変は?

239 :
頼朝が自分自身で直接やったことといえば、石橋山だけ。しかも負けてる。
他は全部部下任せ。今までは「有能なブレーンを使いこなしてた」という評価だったけど、
実は単なるお飾りで実権なんかなかったのかも。
「頼朝なら傀儡でいいけど義経や義仲はそうはいかない」と思ったのは取り巻きのほうだったりして。
で、頼朝本人も謎の死。案外、用済みになったから暗殺されたとも考えられる。

240 :
曽我兄弟の仇討も仇討のあと頼朝を狙った?とも思える行動が気になる。
晩年の頼朝は娘を入内させようと朝廷に接近したりと清盛路線?をやろうと
いう傾向が見受けられる。もともとが関西の人間だから京都に復帰したかった
んじゃない?
江戸時代の初期まで政治の中心はなんやかんやいって京都中心に畿内
だった。

241 :
>>227
吾妻鏡 建久五年 2月14日 丙午 の記事に佐々木盛綱が頼朝に鮭献上したって話は載ってるけど
頼朝が「こんなウマイものがあったのか!」って言ったとは記されてない
尾ヒレじゃね
>>頼朝が自分自身で直接やったことといえば、石橋山だけ。しかも負けてる。
軍事板だからって軍事に偏りすぎ
もうちょいしっかりしろ
吾妻鏡研究者の間だと逆に北条氏陰謀説は否定される傾向にあるな
北条氏によって殺されたのが確定してるのは頼家だけだってことは念頭に置いとけ
http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_482/yurin2.html

242 :
>>241
鮭の話なら孝明天皇の話もあったような
朝、身を食べて皮は夜のおかずにという小説にあった
ハナシ。

243 :
しかし頼家の件は言い訳不能だろ
頼朝が亡くなるなり将軍の権限を縮小しまくりの上に陪臣を追放・殺害
一時危篤になると跡継ぎと妻の実家を皆殺し
頼家の回復後は開き直って将軍を何の権限も無く勝手に罷免したのちに暗殺

244 :
16まで京にいた頼朝が良い飯を食ってない訳がない

245 :
>>244
都にいるほど貧乏でしょ。
物価は高いだろうし、親父は殿上人だから
いろいろカネもかかる。

246 :
東国なら鮭いくらでも川上ってきてただろ
それにしても幼少期を京で過ごした頼朝が、
なんで故郷に錦を飾ろうとしなかったのか不思議。
殿上人だったのが田舎に流人になり、食べ物もあわなかったろうに。
普通、自らの手で親の仇を討ちたい、と思うものだが。
家康も隠居後は第二の故郷・駿府で過ごしたし。
案外、本人はとっくに平家方に暗殺されてて、仕方ないから影武者を立てたとか。
だから用済みになると全員処分されたのかも。
なおここは2ちゃんであり、実在した人物とはあまり関係ありません。

247 :
故郷も何も京都に基盤が無いでしょ>頼朝
>家康も隠居後は第二の故郷・駿府で過ごしたし。
この人の場合は半分は思い出の地であったのと、
京都への近さを考慮したと思う(江戸よりも一週間程度早く行ける)。
4代将軍が上洛しなくなるまで将軍は頻繁に上洛を繰り返してたよう
にあの時代までは政治の中心地は京都だった。
しかし気になるのは平家を討って、当人が上洛したのが
一回だけ。上洛したくてもさせてもらえなかったのか?頼朝は。

248 :
いちばんかわいそうなのは範頼さん
がんばったのに惨殺されて、
しかもその死に様を誰も知らない

249 :
>>246
ageるアホの子はサケの遡上南限も知らんの?
鎌倉にサケなんてこないんだよ
鮎なら馬入川でもどこでもなんぼでも捕れただろうが

250 :
知ってた?太平洋側の鮭の訴状南限は利根川付近だけど、
日本海側は現・福岡県北九州市の紫川なんだよ。
それで、いくらクール宅急便が鎌倉時代にはなかったからって、
利根川から鎌倉まで鮭運べなかったの?
遠く平泉から壇ノ浦、はては南宋までひとやものが移動してたのに?

251 :
あ、鮭って、塩鮭ね。塩鮭なら冷蔵庫なくても普通に日本中で通年食べれたし。
生鮭は寄生虫がいるから、平安時代から食ってなかったし。

252 :
>>250
とことんバカだな
>>241
>>吾妻鏡 建久五年 2月14日 丙午 の記事に佐々木盛綱が頼朝に鮭献上したって話は載ってるけど
普通に入手可能なものをわざわざ献上しないし、されてもそんなものを特記しないだろ
よっぽどの貴重品ならともかく、たかだか干魚が広域流通するかよ
代替物がない内陸でもないのに
中世の貧弱な流通網無視して、プ、クール宅急便てw

253 :
干物=塩分濃度UP+水分含有量Downで腐敗防止
で、食用塩がないと難しい
低温乾燥できるならいいんだけど、18度こえると乾く前に腐敗する
東国では塩が作れない
薪を焚いて海水煮て塩を作るわけだけど、窯の製造というか調達が難しい

254 :
>>252
クール宅急便って書いたらファビョるかな、と思ってたら案の上。
吾妻鏡読んだことないからよく知らんけど、
「献上」ってのは、「あなたの部下になります」って宣言することだから、
それが特記されたのかもしれないよ。
酒とか昆布とか勝栗とか、「普通に入手できるけど縁起物」が献上されることもあるし。
砂金とか米とか、「貴重品ゆえに広域流通してるモノ」だってあるよ。
まあキミには理解できんだろうが、「タイムスクープハンター」台風で放送延期だね。

255 :
>>253
あのー、鮭ってのは、わが国では普通、秋に遡上してくるんですけど?
わが国では、鮭が遡上してくる季節には、普通に18C以下だったんですけど?
で、東国で塩が造れなかったら、東国には塩不足で人が住めなかったのか?
時代が遅れるが「敵に塩を送った」故事をご存知?
ようやくまともな議論になってきたかと思えばうんざりだな。

256 :
18度ってのは条件が悪い時の話ね
ざっくり22度越えたら加塩か送風がないと乾く前に腐敗する(俺経験)
谷沿いとか常時風があるところで干物作るとかの生活の知恵は当時もあったんだろうな
あるいは日光乾燥(ただし温度が中途半端に上がると超危険)
当時、何を食っていたのかはすごく気になる
記録に残ってる範囲では味噌作るにも豆がないというか足りない
塩は潮解するし、豆ないし米足りないし、麦味噌だったんだろうか

257 :
その文献に出てる鮭はサクラマスのことだから。
近世まで区別があいまいだから、まま混同して書かれることが多いが
季節と地域を考えれば特定は容易。

258 :
占領地での略奪前提だとしても、占領地に何があるか
瀬戸内だと麦? 米は無理だよな

259 :
http://www.ibaraki-tsukemono.jp/introduction.html
>『常陸国風土記』信太郡の条に「乗浜の里の東に浮島の村あり。
(長さ二千歩(あし)、広さ四百歩なり)四面絶海(よもうみ)にして、
山と野と交錯(まじ)り、戸(いえ)一十五烟(とうあまりいつつ)
・・・居(す)める農民は塩を焼きて業(なりわい)と為す」
>貞観13年(871)に書かれた『文徳実録』の斉衡3年(856)12月の条に
「鹿島郡大洗磯前に神あり、新たに降る。初め郡民海を煮て塩を作る者有り」とあり、

260 :
源平合戦の頃は兵站はたいへんだったろうね。
織田信長は米どころ・尾張美濃を抑えていたからよかったけど、
木曽義仲は現地調達しかなかっただろうね。
長年日本でもっとも貧しく食うや食わずの状態が続いた長野県。
行家がよほどせっつかないと、戦やる気にすらならなかったんじゃないか?
平家方は舟運が使えたからまだいいけど、陸路を進んだ範頼軍は補給に苦しみ、
しばしば略奪集団と化している。敵地だったからあまり知られてないけど。
義経が奇襲戦法を好んだのは、何より「短期決戦しかない」ことに気づいていたからかも。
食料ばかりでなく、源氏方は寄り合い所帯で結束力が低いし。
天才的な知略と果断さ、そして天運がないとできないけど。

261 :
>>254
>「あなたの部下になります」って宣言することだから、
吾妻鏡 建久五年二月の記事と書いてあるんだから、少しは調べればいいのに。
佐々木盛綱は頼朝挙兵の頃からの家人だよ。建久五年にもなっていまさら「部下になります」
もなにもない。それまでに頼朝の下で十年以上戦っているんだから。
ちなみに、頼朝が征夷大将軍になったのが建久三年だよ。
で、たとえばttp://www.geocities.jp/jytkb817jp/aazuma15kan/azuma15-m02.html
にある原文では、
>建久五年二月小十四日丙午。佐々木三郎盛綱進生鮭。〔二。〕越後國所領土産云々。
>殊御自愛云々。一者被施于只今祗候輩云々。
となっているね。

262 :
越後村上の鮭は今でも贈って喜ばれるブランドだけど。そういうところの鮭だから
贈物として意味がある訳で。

263 :
http://www.uoya.co.jp/uoyasake/zatu_sake.html

古代、越後からの税は「鮭」でした。
平安時代の中期法典「延喜式」には越後国が納める物品が記されています。

 主計式 上 越後国
   調 自絹十疋 綿 布(麻布),鮭
   庸 白木唐橿十合(衣類、調度品を入れる希) 自余輸狭布,鮭
 中男作物 布 紙 漆 鮭内子并子 氷頭 背腸
 内膳式 贅殿年料
     越後国 楚割鮭八籠八十隻(尾) 鮭児 水頭 背腸各四麻笥 各一斗

264 :
村上の鮭が大昔からブランドだったわけじゃないけどね。
進貢するように定められているものは、基本的にはそこで
たくさん取れるものであり、珍しいものということではないし。

265 :
>>231
>これには説があって食生活の変化がでかいんでは?という
>見方がある。出世して食生活が貴族になってしまったので栄養に
>偏りがでた→武力に差が出た
私も長年、その説を支持してます。ただ、ひとつ疑問に思うことがあって、
「人間が長年慣れ親しんできた食生活をそうかんたんに捨てられるのか?」ということ。
いくら「糖尿になるからダイエットしなさい」といわれても好物を我慢できないのが人間というもの。
それが急激に変化した理由として考えられるのは、
「出世したら目が覚めるほどおいしいものが食えた」ことだろうか?
たとえるなら、ラーメンや回転寿司ばかり食ってた庶民が成り上がって、
銀座や赤坂の一流料亭やクラブに通い詰めになったということか?
そしてそんなひとは、いまだにラーメン食ってるかつての仲間をバカにしたがるし。
一方四百年後上洛した織田信長は京都の味があわず、「田舎者」扱いされたが、
バリバリ体育会系には、塩気・脂気がっつり濃い味でないとダメだろう。
してみると四百年の間に料理法が洗練され、味に違いができたんだろうか?
「クール宅急便」でファビョる方は、当時日本最大の消費都市・京都は、
「内陸部なのになぜそれほどの食文化が生まれたのか」を学会で言ってみてはどうかね?

266 :
>>265
変わるでしょ中国に王朝建てた匈奴とか遊牧民はそうなった。
いまでもお茶だけは呑んでるしな。



267 :
>>265補足
>当時日本最大の消費都市・京都は、
>「内陸部なのになぜそれほどの食文化が生まれたのか」
なんやかんやいって一級の素材があるからでしょ。
素材は需要のあるところに集まる。今でも地方で市場で
「最高のものは全部東京や築地にいってしまい、ここには
2級品とかしか無いよ」と言われることがある。

268 :
古来都にも税として納められた越後の鮭が御家人から献上されるというのは
主として気分が悪かろうはずがないわな。

269 :
当時、包丁まな板はあったのか?
何食ってたのか
鉄の窯はあるけど、基本土鍋だよね
兵站面がよくわからん
当時、干して保存性を高められるものって魚以外あったのか?
じゃあ、その魚の漁獲方法は?
武器の前に食い物がないと遠征はできない

270 :
「アメリカ様に負けたら、目が覚めるほどうまいもん食ってました!!
 ギブミーチョコレート!!」で食生活が変化した例もあります。

271 :
米とか大豆とかはこの時代から兵糧だったんじゃないのかな?

272 :
当時、大豆の品種改良はされてたんだろうか?
弦豆とか藪豆は日本原産だからあったはずだけど収量が少ない

273 :
普通に兵力の差で負けただけなのにドヤ顔で食生活とか言いだす人って・・
あれかアニメみたいに大将同士が殴りあって戦の勝敗決めてたとでもおもってるのか?

274 :
「腹が減って腹が減ってたまらないのに食べ物なんか全くない」なんて、
経験どころか想像もつかないひとたちが増えてるんだね。
「食べ物」自体が大切な財産だった時代が長く続いた。
わが国では、江戸時代に貨幣経済が浸透するまで「米本位制」だった。
「腹いっぱい食べたい」という動機こそが人類の歴史そのものといえる。

275 :
>>273
兵力差に加えて経済力や政治力で負けた。
各地の国司に任官、貿易等で財力たくわえた平氏と
やっと殿上人になったほうとでは差があり過ぎる。

276 :
保元の乱が朝廷、摂関家を二分したガRの衝突とすれば、平治の乱は反信西派によるクーデターの様相が濃い。
確か義朝の関東からの動員は少なかったんじゃなかったかな。
戦の趨勢は紀伊にいた清盛が逃げずに踏みとどまったのと、後白河上皇の内裏脱出によって傾いた。
最終的には政治力と動員力の差で決まったとは思うけど、この時点ではまだ関東の武士達は利用される立場で、
東西の経済力の差というのはあまり関係ないような。

277 :
>>276
兵隊動員するには今も昔もカネの有無が大事。
北条政子が承久の乱で「京都での御用(費用は自腹)の負担を軽減して
くれた鎌倉殿の恩を忘れたか?」いったように都に関東から
兵を上らせるならその支度金と兵糧の確保ができんと。。。。

278 :
ていうか義朝の代では別に関東は本拠地でも何でもないだろ
前九年と後三年で一応の勢力の扶植は出来たと見る向きもあるけど
あくまで畿内がホームだった訳だが・・

279 :
親父の為義時代に義朝や弟が関東で勢力を作り出したんでない?
その過程で義朝は息子に兄弟殺しをさせてるし、義朝も平治の乱で関東に
逃れようとした節がある。
関東にはそれなりに基盤を張り出したけど遠国であり、カネもないので関東か
らの動員は期待できず近畿での手持ちの兵力で戦うしかなかったと
考えたら

280 :
伊勢平氏とか河内源氏とかは軍事貴族的な性格が強いね。
在地の武士とは区別した方がいいかも。

281 :
源氏は関西弁使ってたんだな。

282 :
>>278
早々に為義の後継から外されて東国行った義朝にとってはそうでもないだろ

283 :
なんにしても火急の事態には東国からじゃ間に合わんがな、っていう
道路事情があれだし武士団の構成が展開出動を考えていないしで、京都-鎌倉一ヶ月じゃ移動できないんじゃないか?

284 :
関東は京の政争では不利だったけど
寺社勢力始め抵抗勢力が跋扈する畿内では領地拡大は困難だった
ガRの戦が行われるようになって関東勢が有利になったってことだろう
平家は最後まで寺社の抵抗に悩まされたしな

285 :
>>283
後年のように集団化されてない武士を関東のどこかにとりあえず集結させるだけでも時間がかか
るでしょ。あと集めるにも関東の武士にどんな利益があるか大義名分が要るだろうし。
>京都-鎌倉一ヶ月じゃ移動できないんじゃないか?
参加説得に1か月、集結に1か月、京都まで移動に1か月ってとこだな早くても
関東だと情報の伝達が畿内よりも遅いだろうし
>>284
信長出てくるまで近畿は戦国時代でもでかい勢力いなかったな。

286 :
三好家ってちっちゃい勢力なんだ

287 :
義平上洛は三条殿襲撃後だったはず。

288 :
とりあえず息子だけは上洛してきたんだな。
それだけ乱が起きたのが突発みたいなもんだったのかね?
それとも手持ちだけでも天皇さえ掌中にすればどうにでも
なると思ってたのか

289 :
信西をクーデターで追放して終わるかと思ったら
良く分からんややこしい展開で帝方と上皇方の合戦になっちまったからな
関東にいた連中からしたら、え?って思ってるうちに決着ついてたろ

290 :
>>285
戦国時代に関しては
むしろ室町時代に威勢を誇った畿内の有力守護達が
応仁の乱で衰えたから、群雄割拠の時代に入ったんじゃねえの?

291 :
「歴史から学ぶ」ってことを痛感させられたスレだな
大学の偉い先生は、自分の専門分野しか知らない
平家が専門なら平家にはやたらくわしいけど、
そこから室町時代や江戸時代と関連付けることができない。
まして現代にも通じることを学び取れるひとはまずいない。
専門なら専門だけ、全体をみることができない。
「歴史を有機的に結びつけて俯瞰できるひと」って、本当に少ないんだね。

292 :
「上げ厨がイタイ」ってことを痛感させられるスレです。

293 :
視聴率上げてからいってくれ

294 :
視聴率?
何の?
それ軍事板住民の仕事?
「イタイ」ってのは「イタちがイ」の略ですよ

295 :
細川や三好は一時は畿内で大きな所領を獲得したけど統治は脆弱だったからな
一向宗や紀伊の強大な寺社勢力や伊賀の国人一揆、堺の自治、比叡山・・・
面倒な連中が多過ぎて勢力圏の広さが軍事力・経済力には直結しなかった
一方信長は尾張・美濃の二ヶ国を制圧した時点で100万石を直轄支配だからな
条件が違い過ぎた

296 :
>>295
美濃を早い段階で掌握できたのが重要>信長
昨日まで戦ってた連中を早々と織田軍団に組み込めた。
もっともある程度規模がでかくなると信長も美濃衆の
粛清を推し進めたけど

297 :
美濃を制する者は天下を制す

298 :
美濃を制してたのに天下どころか衰亡していった連中が

299 :
なんで戦国オタのたまり場になってるの?

300 :
つーか板違いネタに敢えて付き合ってやるとだな、
そもそもライフスタイルやら価値観やらメディアやらエンターテインメントツールやらが多様化したご時世に、
国民の大半が同じ番組を一斉に見るっなんつー、TV創成期〜黄金期の視聴行動自体、滅多に起こらない。
従って紅白歌合戦の様に、視聴者の行動がある程度固定化された時期に放映される例外的な番組を除き、
現代ではかつての様な、視聴率40パーセント越えの「国民的番組」自体が生まれ難い。
次、そんな中でも「家政婦のミタ」の様に、ネット上の口コミから大ヒットする番組も例外的にあるが、
件の大河の場合「王家」問題から「反日放送局の反日番組」とレッテル貼り粘着する手合いが居着いている。
また、時代の閉塞感故かはたまた視聴者のレベルが下がったのか、
歴史や社会問題の様な「硬派なネタ」や、敵味方や愛憎入り乱れる人間関係の様な複雑なストーリー自体敬遠されがちだ。
この事は民放を含む他のドラマにも当てはまる。「坂の上の雲」や「不毛地帯」「運命の人」が低視聴率な反面、
今期視聴率の高いドラマのドタバタさ加減を比較すれば一目瞭然だろう。
最後に「固定客」であろう時代劇ファン層も、高齢化の故かはたまた頭が固いのか、
「様式美」の名の元にマンネリ以外許容しなくなりつつある。
だがそんなマンネリが衰退こそすれ発展しないのは、「水戸黄門」を最後に民放でレギュラー放送の時代劇が消えた事でも明らかだし、
目を大河に転じても、「黄金の日々」や「獅子の時代」の様に、トンデモ臭のする作品はかつても存在した。
結局長文並べて何が言いたいかというとだな、
そういう時代の変化を無視し、今日の大河に「国民的番組」たることを強要しようとする昭和脳のジジィは逝ってくれやw
個人的には「平家物語」のメタ設定からの脱却を図ろうとした意欲だけでも買うし、
純粋にドラマとしても、今期の他番組に比べれば良くできてると思うがな。

301 :
>>299
ここが軍事板であり、スレタイも「軍事分析」である以上、封建体制下の武装組織や兵器・戦術発達史の視点からの分析が増え、
かつそのネタとして文献史料その他がより残っている戦国時代の話が増えるのも自明の理だと思うがな。
それ以外の「歴史」を語りたいなら、そもそも日本史板で語るべきじゃないのかね?w

302 :
開き直りもいいとこだなw
まあたいした情報もないし、いいやこんなスレ

303 :
元からの軍事板住民でないならば歴史系板からの客なんだろうが
その割にゃ歴史研究の方法論すらよく解って無さそうだなw

304 :
軍事に敏い奴なんていないけどな
ここには

305 :
で、あんたは「敏い」のか?

306 :
「学問」じゃなく「趣味」でやってる板だからww

307 :
つまり歴史に学ぶってことは
谷垣石原は郵政や消費税で棄権や反対した
進次郎や中川秀直や菅を除名して
民主野田に小沢鳩山ら消費税造反組を
除籍させることだな。

308 :
>>300
まさしくその通りだ そしてついにワースト視聴率記録
「花の乱」は全然つまらなかったが、今度のはいいと思うんだけどな
やっぱり時代とずれちゃった、ってことなのかなあ
「史実通り」というなら、「忠臣蔵」などは史実通り描けば抗議が殺到するし、
韓流ドラマにいたっては、当の韓国人が歴史知らないのに人気なのをみれば、
なんとかならないことはないと思うけどな もう6月だけど
「ゲゲゲの女房」も「家政婦のミタ」も放送初期は視聴率最低だったし

309 :
忠臣蔵は創作では単純化し過ぎて史実であった色んなドラマをカットしまくりだろ
NHKで長い尺とって史実を中心に再構成すれば安い年末特番よりは受けるだろ

310 :
>>308
>>294
イタイ、イタイ

311 :
>>309
どうだかな。時代劇に限らず最近視聴率
の良いドラマを見る限り、
むしろ一般的にはリアルさより単純明快さが求められてるんじゃないか?
裏を返せば「史実に忠実」なドラマなんてのは、一部のオタクしか喜ばない。と。
この板で割と評価の高い「タイムスクープハンター」にした所で、オタク以外観ない平日23時台だからこそできる番組な訳で、
あれをゴールデンでやったら1期で消えるだろう。

312 :
しかしその割には、民放でゴールデンアワーの歴史番組が増えてるのはどういうわけ?

313 :
>>312
>>294

314 :
>>312
「新事実発見!」系のトンデモとかワイドショー仕立てにしたバラエティーとかだろ。
「歴女」(これ自体、"歴史をメタ設定にしたフィクション"が好きな奴が殆どで、"リアルな史実"は必ずしも興味なさそうだしな)ブームも手伝ってか
「歴史ネタ」は好まれても、「リアルな史実」は必ずしもそうではあるまい。

315 :
ま、そこは好みであって、「史実好き」と「演出好き」がいていいと思うけど。
とりあえず歴史に興味を持ってくれるひとがふえてくれるだけでもいい。

316 :
>>315
>>294

317 :
いい加減源平の話しろよ

318 :
どの分野にも言える事だが、
その種の「ブーム」で人が一時的に増えても、大半は半可通のままブームの衰退と共に去るからな。
軍事に関して言えばコヴァやネトウヨ上がりの枢軸厨然り、ヘタリア上がりの二次戦厨また然り・・・
戦国なんちゃらとかなんちゃら無双の設定世界と史実の区別の付かない奴一々啓蒙していくのも結構骨だぜ。

319 :
ネット上で源平の話させて視聴率回復のヒントをつかもうというスレなんだってことに、
いいかげんで気づけよ、>>294

320 :
な、なんだってー!

321 :
>>319
お前の目論見なぞ知ったことじゃねえよ
テレビがどうなろうとこれもしったこっちゃない
板違いは板違い 吉害は吉害
そんだけんだ

322 :
残念なことに、「ネットでいろいろな意見を聞けばビジネスチャンスになる!!」と思っていたら、
大概が粘着厨・荒らしばっかりしか集まってこなかったんだな。

323 :
自己顕示欲旺盛だな

324 :
つぅかどうみても頭悪そうなのにネットでマーケティング(笑)とかもうねw
むしろネガキャンにしかなんないんじゃねぇの?www

325 :
視聴率だだ下がりのNHKさんのステマが必死ですねとしか言いようがないな。

326 :
それよりも当時の兵站事情だ
余剰生産力がないと兵の動員ができねーだろ
職業軍人だけ飼ってられないし、動員農民を訓練しなきゃならないし・・・
わかんねーことだらけだぞ

327 :
>>325
いや〜age厨の事言ってるならそりゃ無いだろ。
マスコミ・放送業界のご多分に漏れずNHK職員も結構な高給取り(受信料徴収員の様な現業職を除く)なんだが、
こんなバカがそうなら受信料払わんってw

328 :
>>326
最初から略奪目的の戦というのも、戦国時代にはよくあった

329 :
上杉某の遠征とかか

330 :
>>326
職業軍人なんて当時はいないし農民の動員もない
また兵農分離以前は半農半武といってもその農の部分は小作農ではなく
あくまで地主階級なので農繁期でも普通に動員は可能だった
というか農民が戦に動員されていたという誤解があまりにも多すぎる

331 :
ただ陣夫(兵站・工兵)や水夫として、車引きや杣人・漁民なんかは動員されたけどね

332 :
源平期の武士は武装農民そのものであり、自分の農地を守るために戦っていた
だから「武士の世」というより「農民の武装蜂起」という解釈もできる

333 :
>>330
>>332
武士を「武芸を生業とする者」という定義で言えば、
職業軍人という名称も不自然ではない。

334 :
武芸を主たる生計を営む手段とするためにはしょっちゅう戦がないといけないが、
実際は普段は農業やってて暇なときに略奪にいくのが古今東西の歴史。
源平期は・・・ま、御所の警備は職業といえなくもないか。

335 :
あ、わかった 「武士」というと聞こえはいいが、
「田舎のドン百姓が武器もってさらに珍走団化」したのを、
そうかんたんに殿上人にするわけないわな

336 :
小作人のような底辺と下級武士では身分に差があり過ぎる
一部の没落して名ばかりとなった家を除けば基本的に御家人は名士の家
地元ではちょっとした殿様みたいな連中が一族・郎党率いて参集に応じていた
これが数人〜数十人程度で合戦での一番小さな構成要素だった
これを現代でいうところの農民と同一視するのは無理があり過ぎる
今でも本当にド田舎に行けばそこで地元の領主気取りの家があるけど
農民が武装した武士といってもそういう手合いであって間違っても一般庶民ではない

337 :
そうそう、「動員した農民」は「足軽雑兵」と呼ばれるんだっけ

338 :
とりあえず時代考えよう 平安・鎌倉期は本当に自作農が武装化してたが、
鎌倉時代の人口増で「田分け者」が社会問題化し、応仁の乱以降は足軽雑兵が副業化。
江戸期になると新田開発も限界になり、小作農が常態化するようになった。

339 :
源平期の武士は武装農民そのもの、なんて未だに言ってる人がいたとは

340 :
>>336
金田一のじっちゃんの方がお泊まりする所ですね(笑)

341 :
>>338
もう少し、日本史を勉強したがいいぞ
言ってる事が全く逆
武装化している集団が、開拓して耕作地を作っていった
それらが寄進されて荘園ができた
田舎のRが自称開拓団って言ってるのは、その名残

342 :
南北朝期くらいまでは、落ち武者が山奥に隠れ住み、
周辺を開拓して村を造ったりしっていたが、
戦国期までにはあらまし開拓されつくしてしまう。
そして近隣の大勢力の配下となる。
ところで>>341よ、「荘園ができた」って、
墾田永年私財法ができた時代に既に武士がいたのか?

343 :
聖徳太子の時代から私兵はいただろ
物部と大伴が争ってるくらいだし

344 :
江戸時代の武士階級と、平安時代の京武者及び在地武士団の違いが
全く分かっていない奴が大勢いる事は分かった
あと、信長の野望と戦国バサラに洗脳された不勉強なバカとか

345 :
軍板だから仕方ない

346 :
戦国時代の毛利氏を例に見ると元就を後継者と認める書状に名を連ねた宿老が14人
安芸武田氏との合戦ではこの宿老たちでも率いた兵力は1人あたり10〜50人がいいところ
動員された兵士はいずれも各家の一族・郎党クラス
これら重臣たちには独自に城を構えたり周辺国との独自外交を行う有力者も何人もいたが兵力はその程度
動員された兵士の末端と言えどこれら在地の極めて有力な家の親族もしくは直接の郎党クラスだった訳だ
合戦の大規模化に伴い例外的に身寄りのない浪人や没落武士を集めた組も作られるようになったが
わざわざそういう連中を別扱いでまとめる必要があったくらいに少数派だった
中世の戦と言えば農民が無理やり駆り出されて苦しめられ〜みたいなイデオロギー史観や
逆に江戸時代に困窮していた下級武士のイメージを勝手に平安〜戦国時代に適用したり
いずれも実情とかけ離れたものの見方

347 :
いくら軍板といえど
中世 奈良から戦国
近代 江戸から昭和
という事は理解しておこうな

348 :
じゃあ近世はいつだよ?w

349 :
なんか>>347は中世とは何か、近代とは何かという不毛な論争への扉を開けに来てるように見える

350 :
平安まで古代じゃないのか?

351 :
律令国家が出来た時点で、
一応、法治国家としての国家制度が整備されたことになるから
古代ではなくなるな。

352 :
古代中世近世近代という区分自体が無理やり西洋史の区分けを日本に当てはめたものだからな。
鎌倉〜室町時代の封建制のシステムが同時代のフランスやイングランドに
近かったというだけで、元々無理がある当てはめ方なんだよ

353 :
律令制なら大日本帝国憲法が発布されるまで千年以上連綿と続いていたんだが?
「征夷大将軍」とか、何時代にできた役職と思う?

354 :
あと、「大宝律令」って奈良時代にできたんだっけ?

355 :
平安でも明治でも食う飯の量は同じだからな
生産量以上の兵力は維持できない 派遣できない
荘園の収量というかアガリ見てると、3年に一回以上の遠距離派兵はできそうにない
携行する食糧が足りないよ
現地略奪前提で移動するわけにいかない
貨幣経済がきっちり浸透してないと関東から京都へ移動できそうにない
しても片道切符

356 :
食う飯の量からして違うよ 少し時代が遅れるが
「一日に玄米四合と、味噌と、少しの野菜を食べ」
その前後50年間を比べても食生活が全く違う
「貨幣経済がきっちり浸透してないと」
いくらカネがあっても食料売ってくれなきゃ同じなんだが
貨幣っつても紙じゃなきゃもっと重いし。

357 :
何と比較してるのか分からんからどうとも言えないが、玄米四合〜は粗食の形容みたいなもんだぞ
むしろあんな食事してたから早死にしたとも言える

358 :
そのホンの50年前なら、「一日に玄米四合」も食えたら
喜びのあまり即死してもおかしくなかった
「起きて半畳寝て一畳天下獲っても二合半」
「食事は一汁一菜を旨とすべし」
「興亜奉公日には日の丸弁当」
平安時代の人が聞いたら「なんとぜいたくな」とマジギレものだろうな。
ところで律令制どうなった?

359 :
いい忘れたが、「荘園の生産量、それに基づく兵の動員数」がわかるのなら、
それこそ歴史学会でドヤ顔大威張りで発表してくれ。
「日本史の謎を根底から解明した」として歴史に不朽の名を残すだろう。

360 :
米1升=1.5kgでざっくり一日*人分@戦国期の活動時必要量
まあ、売り払って現金化する部分も含むかもしれないが
戦国期の動員だと、1週間分の糧食は被動員側で用意する(慣例上)
米15kg これ以上担いだら、他のもん担げない
動員を継続するなら、この先の糧食は動員側で確保する必要がある
平安期の動員に関しても基本は1週間〜2週間で食いもんは自己負担
1反(10アール弱)の収量が1石(150kg)ちょい
農具の改良やらで後の時代だと伸びるけど、そんなに余剰生産力ないぞ

361 :
辻政信さんという方が、「米60kg担いで千km縦走しろ」と言い出したことがあってだね・・・

362 :
なんで浜の真砂は尽きるとも、泥棒とかオレオレ詐欺が尽きないのかわかる?
自前で余剰生産確保するより、他人の財産奪い取ったほうが楽だからに決まってるでしょ。

363 :
>>350
荘園制度が確立して、土地に縛られる時代が中世
秀吉の時代から江戸にかけて、それが崩壊したから、江戸は中世ではないという見方が大勢
秀吉が一応の統一を果たして、土地の縛りをなくしたので、ここいらが中世との境だろね
ただ、秀吉は武家諸法度みたいなものを作っていないから、秀吉までは中世という見方もある

364 :
永平寺では今なお、「正法眼蔵」通り、鎌倉時代そのままの生活が営まれているという。
食事は一汁一菜。おかゆと味噌汁と小皿に載った香の物だけ。
現代栄養学からするととても生きていけないはずなんだが、昔はこれでも十分だったらしい。
修行なのだから当時としても粗食なのだろうが、農作業という過酷な肉体労働ではないからいいのかも。
そして「出家すれば税金払わなくていい、粗食でも食える」というのを目的に、
入門者がさぞ殺到したのかもしれない。そして食わす以上は厳しい修行が可能だったのかも。

365 :
>>364
あそこの坊主の粗食自慢を聞いていつも思うのだが、
あの当時、お粥とはいえ毎日白いご飯を食べられた人間はどの位の割合だったのだろう?
贅沢とはいえないものの、比較的恵まれた待遇の様な気もするのだが。

366 :
白米=美味い/栄養は少ない
玄米=不味い/栄養は多い
って思ってたけど、時代によって(品種によって)違うもんなの?

367 :
一汁といっても具が山盛り入ったごった煮の様なものだったとも聞くな

368 :
言っとくけど坊主は当時一番食生活に恵まれてた連中だぞ
米に豆腐をはじめとする大豆製品に鶏肉にと下手な大名より栄養バランス良かった
だから坊主は武士より長生きした連中ばかり

369 :
奈良とか京都の社寺なら、広大な荘園を持ち、
数々の寄進を受けたり優遇措置があって、
気に入らないと強訴したりしたから裕福だったろうね

370 :
>>364
江戸時代よりずっと体格の良くなった現代の成人男性の場合でも
望ましいカロリー摂取量は2100〜2200kcal程でタンパク質は50〜60g、脂肪は50g程度で十分
一方江戸時代は現代から見れば異常な程に米を大量に食べており1日4〜5合は当たり前だった
これはカロリー換算ではそれだけで2500〜3000kcalにもなりタンパク質も十分
つまり当時問題だったのはカロリー不足ではなくタンパク質の質の悪さと脂肪の不足という栄養の偏り
勿論ビタミン類の不足も深刻だった
一方江戸時代には広く普及した高野豆腐等はタンパク・脂肪が極めて豊富に含まれており
しかも米と同時に食べるとアミノ酸スコアを著しく改善してタンパクの質の問題を解消する効果がある
米を2合程度に抑えて豆腐を1/2〜1/3丁程度だとなり良いバランスになる
なので米の量を控えめにして少量の豆腐を食べるというのは当時としてはかなり優れた食事法だった
一方現代人はカロリーは元より特にタンパクと脂肪を極端に過剰に採りすぎている

371 :
>>369
興福寺なんて藤原不比等を祭ってるからね
そりゃ最強だろ

372 :
>>371
平氏に焼かれたのは東大寺だっけ?
延暦寺も信長に焼かれてるから
坊主が政治に口出すなんてありえん

373 :
直近の国政選挙で、天台宗が応援した議員が嫌いな人?

374 :
また細かいピンポイントできたなあ、創価を無視してw

375 :
10年以上の自公連立で創価は今や絶対のタブーと化したからな
地方自治体からメディア・芸能界まですっかり創価に牛耳られている
ここまで一宗教団体に覇権を握られた国は日本だけ

376 :
なんで一騎討ちにこだわるのかと思えば、こういうことだったのか

377 :
>>375
井の中の蛙としても酷い認識だな

378 :
池田教信者乙

379 :
375は池田信者だろうな

380 :
こえ

381 :
治承・寿永の乱

382 :
平家にしろ奥州藤原氏にしろ、多くの文化遺産・国宝を残したが、
源氏はいったい何を残したんだろう?

383 :
楯無鎧

384 :
鎌倉美術の各種。
意外なところではお茶で知られる衛士あのスポンサー(の一人)は源範頼

385 :
実朝は歌人として有名なんじゃね

386 :
>>384
×衛士あ
○栄西

387 :
平清盛が音戸の瀬戸や大輪田泊を整備したことばかりをいわないでほしい。
博多津の原形となる袖の湊を造ったこともいってほしい。
というのも、個別に言ったのでは、単なる港湾整備事業にしかみえないからだ。
だが全体をみると、「関西・九州を結ぶ高速大量輸送ネットワーク」を造ろうとしたのだと思う。
バラマキ公共事業よろしく、当時中継地として要衝だった厳島など沿線の整備にも大盤振る舞いしたから、
「環瀬戸内海海上経済圏」みたいなのができてたようだ。
清盛以降はご褒美を渋るようになったから、水軍の多くが源氏方に寝返ったけど。
都を内陸の京から、港湾都市・福原に遷したのも先見の明があると思う。
ひょっとしたら、「帝も巨大な宋船を見れば気が変わるかも」と思ったのかもしれない。
しかし志半ばにして挫折。わが国が再び貿易に乗り出し、文化の華が開くには、
源氏の流れを汲む足利氏の時代を待たねばならなかった。
そして関東で「文化」という言葉が使われたのは「元禄文化」が初めてのように思う。

388 :
http://gendai.ismedia.jp/category/taira
「経営者・平清盛の失敗」
たいへん面白いです。目からうろこが落ちまくってます。

389 :
削除対象スレにつき誘導(>>6誘導先新スレにつき再誘導)
このスレは放置のうえ、以後は下記スレをご利用ください。
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合04[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1341667634/1
軍事板基礎知識・各種注意事項
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1337275415/2-17


390 :
>>389
知るか!俺がスレ削除依頼出しても削除しなかったくせに!
つか、バッシングの限りをつくす荒らしの方こそなんとか汁!

391 :
>>364
般若湯なんて言い換えがあるように、裏で食い物食ってたんだよ。
それが酷くなったのが室町時代で一休さんがそれを堂々とやってのけ皮肉ったわけで。
どんなに厳しい修行しようが煩悩から簡単に抜けられないと自身が示したような
もんだな>一休


392 :
治承・寿永の乱

393 :
平治の乱で、どうして義朝は、留守中の六波羅を急襲し、
留守番を全員捕縛して人質にし、館に火を放たなかったんだろうか?

394 :
・御所を制圧・維持するのに精一杯
・兵力少なくヘタに襲うと逆に負ける
・平家とつながる公卿も多く公卿の支持を得る必要あり

395 :
>>394
それじゃ最初から勝つ見込み全くないじゃん
阿倍野で待ち伏せするより六波羅焼き討ちにしたほうがよさそうな

396 :
>>393
あのさ
今更こんな事いうのもめんどうだけど
平治の乱は、源氏と平氏の戦いじゃないんだよ

397 :
>>397
あなたがいくらそう思っていたとしても最大の敵は平家。現に平家にやられてる。
そして、わざわざ平家が熊野詣に行って留守の間を狙ってクーデターを起こしたのだから、
いずれ平家が戻ってくる前に、その拠点となる六波羅を焼き討ちににでもしておけば、
平家方は武具の調達もままならず、再起不能になっていただろうに。
留守中の六波羅を攻撃する兵力すらないんだったら、平家が戻れば負けるに決まってる。
それでも乱を起こしたからには勝算があるのかと思えば、またいつもの論法か。

398 :
自己レス乙

399 :
>>395
焼き討ちしても根拠地の畿内周辺や西日本の平家勢力はそのまま。
それらが大軍擁して上洛してきたら源氏はオワリ。

400 :
平氏と平家の区別つけようず

401 :
当時、武士団というか直属の兵力を最も保有していたのは
伊勢平氏だったんだっけ?平たく言えば、武家で数多く荘園を持っていたということ。
源氏は内部抗争が多く、実質的に個々人の兵力荘園は少なかったわけだ。
但し、平治の乱以後平家(伊勢平氏)は貴族(公家)化し、
有力公家と婚姻を結んだり、律令制の下での官位を上昇させることに
集中して、荘園の拡大をそっちのけにしてしまったのが没落の最大の要因になるな。

402 :
>>397
あんまりバカ丸出しの書き込みはやめたが良いよ
平氏を叩くための戦いでもなければ
義朝が起こした戦いでもないし、義朝にそんな力はない
何の罪状をもって、六波羅へ押しかけるといっているのか知らないが
この時代の勉強をもうすこしやったが良いと思う
戦国ノベルのアホな作家レベルで話をすべきではない

403 :
信頼はあくまで信西打倒のために事を起こしただけだからな
六波羅焼き討ちなんて敵を作るだけの蛮行を許す筈もない
ただえさえ信頼はさほど身分が高く無く公卿の信も薄かったから
ろくに兵力動員出来なかったのにな
あ、平治の乱が源平の戦だと思ってる人にはワケワカメな話しちゃった?

404 :
大河ドラマでさえ、そう表現していたのに馬鹿はいるもんだな

405 :
>>401
平家一門の荘園は拡大しているだろ
だから宇治合戦前に、頼朝が平家に奪われた荘園を返すと約束した時に喜ばれた

406 :
>>405
保元の乱や平治の乱程度の
市街地での小競り合いレベルの規模の兵力なら
それでも充分。
しかし、宇治の戦いや富士川の戦いとなるような
大規模の合戦となると国家レベルの動員力が必要となる。
平家による九州平定も直属の兵力のみで賄ったのではなく、
形式的にも残存していた律令国家制度を後ろ盾にした
国家レベルで動員された兵力も使用している。
だから、平家や木曾義仲の末路のように
一度朝敵に扱われると脆くも崩れ去ることに成る。
もっとも、源氏の頼朝でさえ保有荘園は少なく、
北条や三浦などの有力豪族の支援があればこそ
平家を妥当できたわけであって、その脆弱な基盤によって
源氏三代で北条氏に実権が奪われることになってしまう。

407 :
>>404
大河では悪源太義平が阿倍野での待ち伏せを主張、却下された後でも、
「御所で平家を迎え撃とう!」と朝長たちと気炎あげてる。
>>402、3の言うとおりなら、最初から勝ち目なんかまったくなさそうだな。
要するに自分の固定観念をくつがえすようなことをいわれると条件反射でファビョルわけだ。
だから清盛も織田信長もナポレオンもグデーリアンも苦労したんだ、と実感できるよ。

408 :
もう少しこの時代を研究している人の本でも読め
漫画や雑誌ではなく

409 :
概ね当時の朝廷の実権を握っていたのが後白河-信西-清盛一党のライン
しかしここに二条親政派が台頭し後白河の立場は悪化していた
そこで後白河は義朝と提携する信頼を抜擢して自身の勢力形成を図っていた
またこの情勢を見て清盛は中立的な立場へと移っていく
こうした状況で朝廷の実権を握る信西は孤立し信頼によるクーデターにつながる
これには二条親政派と後白河一派の一定の合意があったとする見方が一般的
しかし両者とも自身が矢面に立つのを避けて信頼をけしかける形で信西排除へ動いた
このため信頼は少数の私兵でのクーデターの形式を取らざるを得ず最大の軍事勢力であった
清盛一党の留守に動く必要があったということ
なので元々中立的立場であった清盛に自ら攻撃をしかけるのは愚策でしかない
信頼一派が破れたのは結局信頼の極端な独断専行に二条天皇・後白河の両者から見放された結果の政治的敗北
この間清盛は中立の立場をギリギリまで通し、一方義朝は信頼に振り回された形に過ぎなかった

410 :
>>408
そんなひとの本、いまどき本屋さんに売ってないし。
学会に出てるかもしれないけど、そんなエライ方が2ちゃんでマジギレなんかしないし。
雑誌「歴史読本」じゃダメなんかね?

411 :
>>409
なるほど。それなら納得できます。
そういう論理的な反論を待って、いったい幾星霜すぎたことか・・・

412 :
歴史読本を置いているような本屋なら、新書なり文庫なりの通史ぐらい
置いてあると思うがね。
なんにせよ、歴史読本の記事は、玉石混交もいいところだからなー。

413 :
削除対象スレにつき誘導(>>6誘導先新スレにつき再誘導)
このスレは放置のうえ、以後は下記スレをご利用ください。
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合05[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1345408783/
軍事板基礎知識・各種注意事項
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1337275415/2-17

414 :
治承・寿永の乱

415 :
>>410
どうして歴史読本みたいなものを選択するのかが理解でけん

416 :
平治の乱は源平合戦だ!
六波羅焼き討ちで勝利は間違い無し、ヒャッハー!
n2yXwYSFよ、歴史読本ってそんな内容だったの?
そういう東スポノリの与太話は嫌いじゃないんで
何年何月号を読んだのか教えてくれw

417 :
義平ががんばってれば勝てたんや!

418 :
>>416
「平治の乱は源平合戦の一部だ」と学校教科書にも歴史読本にも普通に載ってるけどな。
逆に「源平合戦の一部ではない」とするほうが、「ああそういう見方もあるね」扱いなんだが、
そっちこソース教えてくれ。どうせ説明できないだろうな、言ってる本人が理解できてないんだから。

419 :
当時はまだ身分の高さのほうが重要で武力だけで政権は取れなかった
平氏も源氏も院近臣達の権力闘争や悪僧取り締まりに利用されていただけの段階
その上ともに敵味方に分かれており別に源平で色分けなどされていない
最大の武力を有していた清盛にしても自身の私兵などたかが知れており
錦の御旗を得て公的動員をかけなければ本格的な軍事行動など起こせなかった
平治の乱の合戦の主体はあくまで信頼や信西達であって武士達ではない
むしろ平治の乱で貴族の有力者達が自滅する形で一掃されたことが清盛一門台頭の決定打だった

420 :
>>419
なるほど。説得力あるなあ。
しかし一門敵味方に分かれた保元の乱と違い、平治の乱はきれいに源平に色分けされてると思う。
そして、からくも頼朝・義経は助命されたものの、負ければ一門皆殺しだった。
もし本当に「有力貴族の私闘にすぎない」のなら、下っ端の武士が何をしようと、
「いえ俺ら命令されただけですから」で済んだはず。
しかし義朝は「源氏の荒廃この一戦にあり」と思っていたみたいだし、事実そうなった。
そして私の長年の疑問は「普通、留守を狙って兵を挙げた」のなら、古今東西、
「まっさきに留守中の敵の本拠地を攻撃する」のが常道なのに、
なんで敵の主力が戻ってくるのを、のんびり手をこまねいてみていたのか、ということ。
それをしない理由として最も妥当なのが「圧倒的に我有利、敵が戻ってきてもひとひねり」なのだが、
Wikなどを読むと、源氏方が寡兵で圧倒的に劣勢だった、みたいなことが書かれている。
劣勢ならばなおのこと、こちらから奇襲をかけて機先を制するべきなのに。
そして「夜討ちでも焼き討ちでもいいからとにかく勝ちさえすればいい」ことは、
保元の乱で当の義朝自身が身にしみていたはずなのに。
まあ「信西がいなくなったからあとは信頼の天下、下っ端の武士はどうにでもなるだろ」
という油断があったのは否めないが。まさか天皇に逃げられるとは想定外だったのかもしれない。
>>419さん、反論になったけど骨太のご意見ありがとう!!荒らしばかりで退屈してたんだ。
貴官の意見は大変参考になりますので、今後もどんどんご意見賜りたく。

421 :
不勉強なバカに付ける薬なし

422 :
>>388に関連して。
政子の演説によれば、「三年間の都の警備を任ぜられた武士は、行きがけは
お家の一大事と勇んで出て行ったのに、帰りは馬も手放した惨めないでたちで、
とぼとぼ歩いて帰ってきた」とある。
私は長年、都で警備してるだけでなんでそんなに貧乏になるのか不思議でならなかったが、
田舎では自給自足できたのに対し、貨幣経済が普及していた都では、銭がないと生活できなかったからだろうか?
銅銭は田舎から仕送りしてもらうわけにもいかず、都の金貸しから借りるほかなかったのだろう。
そして南宋貿易を進めた平家こそ宋銭の出所。貧乏武士に工面してやればよかったのに、
高利貸で食い物にするようなことをしたのかも。そして武士の恨みを広く買う羽目になったのかも。
かくして、「貿易立国を進めた平家は銭の毒で滅んだ」のかも。だから鎌倉幕府は貿易に手を出さなかったとも考えられる。
平家物語のどこにも書いてない全くの想像です。

423 :
鎌倉幕府は思われてるほど、全国の掌握が出来ていなかったんだろ
およそ、全国の1/3程度
それ以下だったかもしれない

424 :
>>418
どの教科書に平治の乱が源平の戦いってあるんだよ?
監修した奴がどうしようもない馬鹿なんだろうけど
江戸時代じゃあるまいし、今時、そんな事言ってても白い目で見られるだけ

425 :
>>424
お前がいくら上から目線で「平治の乱は源平合戦じゃないといってるボクちゃん優秀」と思っていても、
日本人の大部分は「源平合戦の一部」としか思ってないから仕方ない。
現に平清盛と源義朝が直接対峙したのに「平治の乱は、源氏と平氏の戦いじゃないんだよ」
などという>>396はワケワカメ。戦争目的は政争かもしれんが現に源平が存亡をかけて戦ってるじゃないか。
で、どうしても「平治の乱は、源氏と平氏の戦いじゃない」といいたいのなら、
「もしそうだとしたら“源平合戦である”という歴史観に比べてなにか新発見でもあるのか」を
わかりやすく説明してくれんかね。それも大河ドラマの視聴者レベルにもわかるように。
どうせ文句言ってるだけで説明なんかできっこないだろうけどな。自分自身が不勉強でわかってないに決まってるから。

426 :
不勉強なバカにつける薬なしだな

427 :
清和源氏の中の河内源氏の中の、義朝流というほんの一派を、源氏の総本山みたいな言い方している時点で知識がしれてる。
その義朝が河内源氏の嫡流というのも、頼朝が作った話臭いのにな。
まあ、江戸時代から明治時代につくられた戦国観と同じに考えてる時点で、糞っぽいノベル先生と同じレベルなのは確か。

428 :
ろくに本も読まない人みたいだから
平安どころか鎌倉もどんな時代だったか知らない人だと思われ
全てが歴史人や歴史街道なんかの世界なんだろね

429 :
阿呆くさい戦国漫画描いてる奴も、意外と勉強している奴はいる
駄目な奴は駄目だけど

430 :
>現に源平が存亡をかけて戦ってるじゃないか。
え?
>「もしそうだとしたら〜
新発見も何も、もうずっと前から源平の戦いなんて言ってる人は居ないだろ。
少なくとも、この時代を研究している人には居ないし、荘園の扱いをめぐる動乱だから、源平とは関係ない。
そもそも源平が争っていたという構図は後世につくられたものでしょ。
中央集権化を図って、怨まれたのが頼長

その頼長を追い落とすのに利用されたのが信西

結果、頼長は死ぬものの、信西も中央集権化を図ったので同じロジックで殺される

その首謀者が信頼とされて、彼と繋がってた義朝も同罪

美福門院に近い一味は途中で離脱した為、減刑

摂関家が没落したので、清盛の一族が頼長・信西に変わっていく

清盛の死後、頼朝が平家を征討(頼朝が応援された理由は頼長・信西が怨まれるのと同じロジック)

頼朝が義家の親父の代まで遡って、源氏の征討な嫡男である事を事実化工作

鎌倉幕府が守護地頭を設置していく

実権は北条氏へ

431 :
源氏の「嫡流」って平治の乱時点なら頼政の系統だよね

432 :
そういや「北条時政は平氏なのだから源平の戦いはおかしい」などと
したり顔でいうやつよくいたなあ

433 :
まぁ実態は伊勢平家vs源氏+平家の戦いって所だろうな

434 :
源氏+坂東平氏だろ

435 :
ちなみに木曽義仲と頼朝・義経の内紛の宇治川合戦はどういう扱いなんだ?

436 :
>>431
源氏長者はまた別の源氏になる
摂津源氏の身分も、かなり低い

437 :
音戸の瀬戸見ていつも思うんだが、すぐ横に広い海が広がってるのに、
なんであんな狭い海峡通らないといけないの?誰か教えてくらさい。
連合艦隊の拠点、柱島のほうからいけばよさそうにみえるんですけど?
現代のGoogle地図からすれば。

438 :
清盛一門は京の治安維持を任されたせいで悪行三昧してた寺社勢力に逆恨みされ
経済改革推進のせいで商人を敵に回し
中央集権化しようとして在地勢力を敵に回し
もう最後は平氏の殆ども頼朝に味方して日本中が敵にまわって袋叩きだからなw

439 :
平家の滅亡は河野水軍の裏切りが大きいんだよ
あれがなければ十分押し返せていた
義経の功績みたいに言われているが、実際は河野水軍のお陰

440 :
清盛一門を助けて河野水軍にどんな利益があるというのか
いないほうがよくない?

441 :
大陸と福原との行き来する船が増えると、この連中の懐も豊かになるもんだよ
宗盛はそうした感覚が乏しかったので、見捨てられたんじゃないの?
清盛の子らは、皆、政治の教養は高かったみたいだけど、経済の教養が不足していた

442 :
「宋船の荷を博多でばらして、京まで海運業者が運んでいたのに、
 直接福原に宋船が来ると、それまでの海運業者の仕事がなくなるから裏切った」と、
昔、松平アナウンサーが解説してますた。

443 :
他所の港に拠点が移るんじゃなくて
新規拠点開発なんだから
うまいこと食い込めば、海運業者的にも博多にいるより美味しそうなんだがなぁ・・

444 :
「博多と福原とできたから貿易量が2倍になる」わけではなくて、
他所の港に拠点が移るだけだから、そりゃ博多商人は怒るよ。
もっとも、博多商人とも懇意だった清盛が、ただ自分の利益だけを考えて
福原を造ったとも思えない。双方利益になる利点があったのかもしれないけど、
もはや歴史の謎として、わからないとしかいえない。
ちなみに白村江の戦い以来、朝廷は関門海峡以東に外国船が入るのを許さなかったそうだ。
難波津こと堺が復活するのは室町期。でもどうして清盛は神戸に目をつけたんだろ?
そして近代以降、堺ではなく神戸が発展したのはなぜなんだろう?

445 :
戦国期の南蛮貿易が、不安定な瀬戸内海航路を取るわけがない
堺はそのお陰で栄えた
だが、鎖国と同時にそれは出島に変わった
ちなみに、明治維新の時の第二の都市は長崎ってくらい

446 :
>>445
???
日本語で桶
もしくは堺の場所知らない?

447 :
>>446
難波津は古代より瀬戸内航路として栄えてきたが、どうしたことか平安期より衰退。
室町期に復活したのは、紀伊水道を抜けて土佐から大陸に行く航路が開発されたから。
古代なら、黒潮洗う太平洋に出るなんて危険な航路は不可能だったろうけど、
してみると、大内・大友など、この時期は瀬戸内は有力守護代に独占されてたんだろうか?

448 :
井沢元彦の逆説の日本史では
義経の八面六臂の戦いで、平家は滅んだって書いてあった。
平氏は清盛が死んで、ソレと引き換えにライトを捕まえようとしたの?

449 :
経済重視→農業軽視
天候の異変により飢饉で餓死者続出
農業重視→食料の過剰生産
農家が貧乏になる
大雑把に言うと
上が平家の滅亡理由で
下が鎌倉幕府の滅亡理由

450 :
>>449
上はいいけど、下はどうかな?そんなに食料過剰だった?
人口が増えて「田分け者」が社会問題化していた時期に
とどめをさすように元軍が来たからだときいてるが・・・
そういや子どもの頃、クラス一同、「恩賞ならカネで払えばいじゃないですか」といって、
先生を困らせた覚えがあるな。そう、平家なら銭で払っただろうね。

451 :
>>450
褒美と言えば土地に決まってるだろw
銭でやったら傭兵になるだろうがw

452 :
傭兵で何が悪いの?本業は農業なのに。

453 :
>>452
封建制度理解してないのか?

454 :
>>453
もちっと後の時代になると
生産資本たる領地ではなく
茶碗などの財貨や、録のない官位官職などの名誉を報償にしはじめるが
それで封建制度が崩れたわけじゃないよな

455 :
つーか戦国期の戦といえば、農閑期に他領に略奪に行く副業、見たいな面も少なくなかった。
人口が増えるのに土地はそんなに増えないから、平等に分割相続すると全員共倒れになる「田分け者」が鎌倉期に出現。
「誰か一人が全部相続する」ことにすればいいが、そうなるとあぶれたひとが黙っちゃいない。
室町期は能力主義で決めようした結果、応仁の乱が勃発して下克上の戦国時代突入。
江戸期になってようやく長子相続制が確立、御家騒動も下火になる。
もっとも、天皇家こそしっかりするべきだった。やたら子どもつくりまくって、
気分にまかせて後継者決めるから、保元・平治の乱はもとより、南北朝の争乱にまで発展。
下々の武士としては、「ああもう、痴話げんかいいかげんにしてくれよお!!」みたいな感じだったかもね。

456 :
兵農分離以前の武士=農民という勘違いはいつまで続くのだろうか・・・
末端の下級武士が農村部で地主階級であったことは珍しくも無いが
それを畑で農作業してた農民と解するのは誤解も甚だしい
傭兵軍団の織田家以外は農閑期に動員出来なかったなんて俗説も昔は蔓延っていたよな
そういう連中は応仁の乱の戦乱とか脳内から消し去っていたんだろうな

457 :
うんそれで地主階級なら農作業しなくてもよかったとでも?

458 :
>>457
当たり前だろ、何で地主が自分で農作業するんだよw
農閑期以外の動員どころか数年単位での遠征が普通に行われていたのを
お前はどう説明する気なんだ…

459 :
>>458
何時代の話?平安期の地主こと荘園主なら農作業しなくて京にいればよかっただろうが、
現場監督者である武士・豪族が、江戸期のように水飲み百姓と格段の差があったとでも?
今昔物語「芋粥」なんかその典型だろうね。
もっとも、当時の日本にはさつまいももじゃがいももあるはずもなく、
あるとすれば里芋か山芋。話の内容からして山芋(自然薯)のようだが、
それなら田舎には豊富にあっても都では希少だったかもしれない、

460 :
このスレには、どうにも江戸時代の武士しかしらないおバカさんが常駐しているな

461 :
荘園領主と地主の区別をつけんと、話も進まんな
農業している奴は皆小作人って認識の奴もいるみたいだし

462 :
削除対象スレにつき誘導(>>6誘導先新スレにつき再誘導)
このスレは放置のうえ、以後は下記スレをご利用ください。
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合05[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1345408783/
軍事板基礎知識・各種注意事項
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1337275415/2-17

463 :
>>462
そのスレは範囲が広過ぎて不便だから、源平合戦限定スレのこっちがいい。
あ、源平合戦というとまたもめるか。スレタイは治承・寿永の乱だけど、
広義の源平合戦、「保元の乱から奥州藤原氏滅亡まで」くらいでいけたらいいな。

464 :
つーか「20世紀軍事総合」ってスレ立ったらWW1もWW2も冷戦も全部重複スレ扱いになるのかと
そんなわけねーだろ

465 :
>>456
ところで「地主」と「自作農」とどこが同じでどこが違うかわかる?

466 :
その前に、この時代の人は、自ら開拓していったって事を知らないと思われ

467 :
>>462
このスレの大河ドラマ馬鹿が向こうにまで来られたら迷惑だから誘導は止めてくれ

468 :
>>467
本人だが、俺もそう思う。

469 :
>>440-441
平時の海運業者は有事の水軍。
棟梁を継いだ宗盛も、父・清盛が編成した水軍には大いに恩義に感じたことだろう。
>>443
清盛は、大輪田泊だけでなく博多の「袖の港」も開発している。
大宰府には清盛・頼盛が続いて太宰大弐に就任しており、
さらに就任在庁官人のの大宰大監・原田種直は平家配下。
清盛は、博多を宋と福原を結ぶ重要な寄港地として重視していたに違いない。
博多・大宰府の地位をことさら虐げる理由はない。

470 :
>>444
清盛は、後白河と提携し、宋との国交関係を回復することで、
平家の私的な密貿易を正式国交下の公的貿易に変化させた。
航路・港湾の整備もあり、貿易量は格段に増えたことだろう。
積替荷役は減少しても、寄港船舶の増加による市場の活性化、
消費の拡大の効果のほうが格段に大きかったに違いない。
大輪田泊は、都という「大消費地に近く」、急峻な地形のため「水深が深い」天然の良港。
現代の拠点港湾選定に至るもこの大原則は不変であり、清盛の先見性がうかがえる。
彼自身が播磨守に任命されており、父の海賊討伐関係で
プライベートでも福原近辺に何らかの縁があったのかもしれない。

471 :
>>469
河野水軍の利益はどれ?

472 :
>>439
むしろ、以仁王挙兵から壇ノ浦直前まで4年半にわたって大半の西国水軍が平家に従ったのは、
清盛の貿易振興政策を恩義に感じたからだろう。
頼朝が成功した理由に「在地御家人の利益を代弁したから」がよく挙がるが、
水軍から見れば平家こそが自らの利益の代弁者だった。
平家滅亡から400年ほどの間はせっかく平家が大人しくさせておいた水軍が
やはり海賊に舞い戻って西国の海上は世紀末状態となるのだから、
後処理をノープランで放置した頼朝・義経はまったく罪作りな男だ。

473 :
結論として河野水軍は平家を滅ぼしたほうが利益が上がった

474 :
>>471
むしろ河野こそが西国水軍の異端だろう。
平家は伝統的に山陽道を重視してきたから、伊予の河野にとって平家の天下は苦渋の日々だっただろう。

475 :
考えてみれば、「宋船」「貿易」といっても、私貿易とかいろいろあるわけだよね?
国交レベルの宋船は、白村江以来の慣例を破って都の近くまできていただくことにより、
日宋間の信頼関係をより磐石なものとし、それによって私貿易の活発化も計ったのかもしれない。
「福原=公貿易」「博多=私貿易」とシフトしようとしていたのかも。全くの想像ですが。
今ようやく、井沢元彦さんのいうことがわかった。単に想像で言ってることだったとしても、
「史料にないからといって状況証拠があればいい」といっときゃそれでいいんだ。

476 :
>>469
だろうとか違いないとか裏付けなしの断定的思い込み多いね
妄想乙

477 :
>>476
そだよ。だってここ2ちゃんであって学会じゃないから。
「だろう」「かも」だけで説得力のある話をするだけでもたいへんなんだぞ。
いや、それならきちんとソースを示した上で断言してくれ、と何度いったか・・・
文句しかいえないやつしかいないのかなあ・・・

478 :
あ、ごめん、俺に対するつっこみかと思ったけど、
>>469さんはまったく別人だったわ。

479 :
どっちにしてもageてる奴は基地外ってことだな

480 :
↑ageてる奴

481 :
何故か後世では、下人・義経の天下みたいな話になるんだよな
多田源氏も河野水軍も緒方も歴史から抹殺されている

482 :
西国に逃げた平家が義仲と組んでいたら歴史は多少変わっていたか

483 :
>>471
新港利権を独占できるじゃないか

484 :
鵯越に一度行ってみたいんだけど、なぜか観光地になってない。
そいや歴史番組で「現在の一の谷」「現在の屋島」が全く放送されたことがない。

485 :
削除対象スレにつき誘導(>>6誘導先新スレにつき再誘導)
このスレは放置のうえ、以後は下記スレをご利用ください。
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合05[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1345408783/
軍事板基礎知識・各種注意事項
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1337275415/2-17


486 :
>>484
一ノ谷の戦いの坂落としは、『平家物語』作者の誤認のために要らぬ論争を生んでしまっている。
鵯越と一ノ谷は8kmも離れており、「鵯越で一ノ谷に奇襲」はまったく無意味。
「鉄拐山・鉢伏山→一ノ谷」もしくは「鵯越→福原平家本陣」でないと意味が分からない。、
そもそも坂落とし自体が『平家物語』の虚構という説すらある。
屋島は行ったことがあるが、埋め立てられてしまったので古戦場の風情は皆無。

487 :
>>486
ありがと。
屋島のかわらけ投げ、「海まで届くといいことがあります」
そりゃいいことありそうだな。現代では海まで届かせるの絶対無理。

488 :
>>486
逆落としが虚構だとしたら、義経は何をやっていたのか気になるな。

489 :
旧軍の解釈だと 「鉄拐山・鉢伏山→一ノ谷」 みたいだな。

490 :
>>487
www
ある程度はエスパーで歴史世界に浸れる俺でも、
あそこまで地形改変されるとちょっとガッカリスポットだったわ。
>>488
普通に搦手で平家本陣を攻め、さらに兵を分割して一ノ谷の西側から回り込んだだけじゃね?

491 :
削除対象スレにつき誘導(>>6誘導先新スレにつき再誘導)
このスレは放置のうえ、以後は下記スレをご利用ください。
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合05[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1345408783/
軍事板基礎知識・各種注意事項
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1337275415/2-17


492 :
>>482
それは充分考えられることだね。
『平家物語』にも義仲が平家に同盟を提案する場面が出てくる。
源平合戦は結構ifポイントが多くて面白い。

493 :
河野水軍か熊野水軍で天下を取りたい

494 :
>>486
>鵯越と一ノ谷は8kmも離れており、「鵯越で一ノ谷に奇襲」はまったく無意味。
範頼軍がの主攻撃軸への敵戦力配分を阻止するため
後方の福原本陣への経路を騎兵で遮断するとともに、助攻撃として圧迫を加える
これなら、戦術として合理的だぞ

495 :
範頼軍と戦っていたら、突如後方の本陣近くに火の手が上がって、
パニック状態で総崩れ、みたいな小説も少なくないな。

496 :
>>494
すまんすまん、言葉が足りなかった。
鵯越の「坂(逆)落とし」で一ノ谷に奇襲は意味分からんという話ね。
大手の範頼軍に対して搦手で後方から圧迫するなら常道なんだけどね。
というか常道すぎて絵にならなかったのかも…w

497 :
「そこ一里」の世界なら、8kmくらいすぐそこなのかもね

498 :
>>496
>鵯越の「坂(逆)落とし」で一ノ谷に奇襲は意味分からんという話ね。
それも
絵巻物のイメージで、崖下に布陣してる平家部隊を襲撃って考えるから意味わからんくなるけど
平家軍が機動困難地域と見積もって警戒が薄い経路を経て(ここが逆落し)、のち布陣の間隙を攻撃
ってんなら、合理的だわな
現代のヘリボンだって、敵陣地に直接は降りんべ
>>497
70騎の小部隊なら、通常の行軍速度でも8km/h
錯雑地形を各個に通過し、部隊を再掌握しながら攻撃発揮位置(敵外哨の視界外)まで前進って考えると
むしろ近すぎるくらいじゃね?


499 :
範頼は義経なんかよりがんばっていると思うんだけど、後世の校正作業で抹殺されてんだよな

500 :
>>499
地道に頑張って成功する人は、物語のヒーローには向かないんでしょう。
孫子さんも言ってるじゃないですか「善く戦う者の勝つや、知名も無く勇功もまた無し」

501 :
>>499
北条史観のバイアスがかかってない、確定史実だけ見れば
義経より、ずっと評価されてるだろ

502 :
でも義経の死に様は誰でも知ってるのに、範頼が惨殺されたことは誰も知らない。
あれだけがんばったのに本当にかわいそう

503 :
>>502
死に様が今ひとつはっきりしないってのがあるんじゃ?

504 :
しかし源氏の嫡流はまともな死に方したのがとことんいないな…
頼朝も暗殺説強いし
狡兎死して走狗煮らるとはいえ、ホント呪われている感じ

505 :
当時の武士なんだから、戦死はまともな死に方の内だよ…多分。

506 :
義家の系統は、義家から駄目な死に方が多いな

507 :
一番悪くてダメなのは後白河

508 :
>>504
義経以外は普通に北条氏に謀殺されただけじゃんw
政子が実子を全然守る気が無かったのも大概だけどな
娘はああも溺愛したのに息子はRってあたり
多分通説とは違って頼朝のこと相当嫌っていたんだろうな

509 :
源平合戦で死んだ連中を除くと
・頼朝:事故死(暗殺説あり)
・範頼、全成:謀殺
・義経:叛乱の末戦死
・頼家・実朝:暗殺
……なに、この呪われた一族

510 :
大半が戦死と入水だった平家のほうがまだすっきり滅びてるな。

511 :
平家(清盛一派)は一族の結束が固かったんだよな
それで平家は栄えたが敵を沢山作る事にもなった
結局神輿は軽くて馬鹿がいいって話だよな頼朝の勝利と清和源氏の滅亡は

512 :
平家→義仲によって都落ち→義経によって滅亡
義仲→義経によって滅亡
義経→頼朝によって滅亡
頼朝→北条によって滅亡
平安末期マジ諸行無常

513 :
>511
頼朝より宗盛のほうが軽いぞw

514 :
>>513
宗盛は軍記物語の描写で貶められすぎ。
頼朝と同じで前線に出られなかったから仕方ない面もあるが。

515 :
史実では宗盛の評価はそう悪くないだろう
既に敗北必至の詰んでる局面で後を継がされたのが不運だったな

516 :
義家 息子(義親)を討ち取りに行く途中で急死
義親 甥の為義に討たれる
義親 心でも偽者がゾンビのように登場する
義忠 叔父の義光に暗殺
為義 息子の義朝に斬られる

517 :
源氏に滅ぼされた安倍氏と清原氏の呪いだ

518 :
義朝 家人の義理の父に殺される
義賢 兄・義朝に殺される
頼賢 兄・義朝に斬られる
為朝 息子を殺し自分も死ぬ
義広 甥・頼朝に殺される
行家 甥・頼朝に殺される
この兄弟がいちばん凄いな

519 :
>>518
為朝は琉球王朝を開いたんじゃなかったか?

520 :
宇喜多秀家みたいに水練達者な武将だったんだろ?

521 :
>>517
清原氏は後三年で奥六郡の支配権を失っただけで本領の仙北三郡で存続してる
安倍氏の一族は安東氏に名を変えて存続しており滅亡はずっと後の時代の話

522 :
>>521
そういう、騙し討ちとか裏切りとかで出世するの、歴史的にいい死に方はしないよ、ってこと。
北条家も得宗家と一門との内紛、さらに三浦氏・和田氏・比企氏らとの抗争が絶えなかった。
源氏の末裔・足利家も初代尊氏以来身内同士との政争の挙句応仁の乱勃発。
自称平家の織田信長は、長益以外の兄弟が全員変死してるけど、
少なくとも自分からひとを裏切ることはあまりなかった。でも家臣が次々に原因不明の裏切りを続ける。
豊臣秀吉は、主家織田一族のほとんどを謀殺。源義朝ゆかりの寺で自刃した信孝の辞世、
「昔より主を討つ身の野間なればのちの報いを待てや秀吉」 果たして家康に裏切られて滅亡。
だが、自称源氏の徳川家康は、身内の争いをほとんどしてない。
長男信康を自刃こそさせたものの、三河一向一揆もそんなに苛烈な処分はしてない。
そして三河武士団一同、家族同様に忍従の日々に耐えた結束力が大きな原動力になった。
江戸幕府も決してきれいごとだけではないけれど、織田家は信長一人で全部やってたのに、
徳川家は将軍が子どもでも知能障害でも、家臣が謀反を起こさず結束できるようにしたのは強い。

523 :
徳川家は家臣の領地を極端に抑えることで主家に対抗出来ないようにしてた
そんな綺麗事じゃないよ
またそういう政策取れたのも天下統一事業を信長・秀吉がやってくれたおかげ
そのため家康は家臣に自主性を持たせて活躍させる必要が無かった

524 :
河内源氏は、義親が元凶としか言いようがない
義親が大人しくしけとば、義家の寿命が長くなっていたかもしれない
平家がのさばるのはもっと後の時代だったかもしれない
義忠が平家に近づくこともなければ、義光に殺されることもない
義親が間違って為義に討たれることもないし
義親や義忠が生きていれば
義朝と為義が保元で戦う可能性も低かった

525 :
> 家臣の領地を極端に抑えることで主家に対抗出来ないようにしてた
これはまさに信長のやり方そのものだが。

526 :
>>524
もともと、頼信や「殺人の上手」頼親の系統は内輪での殺し合い
をやりまくっていたろ?

527 :
>>523
自分はさんざん裏切りまくっといて、家臣にだけきれいごとこそ最低。
「たぬきおやじ」家康、個人的には大嫌いなんだが、「武士道」であるとか、
きれいごと押し付けるためには、上が身を切らないと納得しないのは古今東西同じ。
いったん納得させさえすれば、あとは好き放題されてももうどうしようもないけど。
名古屋城作らされた挙句、配流になった豊臣恩顧の大名とか。

528 :
>>525
信長は家臣に広大な土地を与えていてあっさり乗っ取られたが…

529 :
家康は過信ではなく、息子たちを大大名にしてまわったが、しまんづとちょうしゅうふたつにやられたんだよな

530 :
>>519
ジンギスカーンじゃなかったの?

531 :
そろそろスレ違い注意報?>>510

532 :
◎清盛(1118-1181) :病死
  ◎重盛(1138-1179) :病死
    △維盛(1158-1184) :那智沖で入水?
    ★資盛(1158?-1185) :壇ノ浦の戦いで入水
    △清経(1163-1183) :豊前国柳ヶ浦で入水
    ★有盛(1164-1185) :壇ノ浦の戦いで入水
    ☆師盛(1171-1184) :一ノ谷の戦いで戦死
    ×忠房(11??-1186) :壇ノ浦後も抗戦→鎌倉出頭の後斬られる
    ×宗実(1175-1196) :経宗養子→断食死?
  ◎基盛(1139-1162) :病死
    ★行盛(11??-1185) :壇ノ浦の戦いで入水
  ×宗盛(1147-1185) :壇ノ浦の戦いで捕虜→鎌倉へ護送→近江国で斬首
    ×清宗(1170-1185) :父とともに捕虜→鎌倉へ護送→近江国で斬首
    ×能宗(1178-1185) :父とともに捕虜→鎌倉へ同行せず京都で斬首
  ★知盛(1152-1185) :壇ノ浦の戦いで入水
    ☆知章(1169-1184) :一ノ谷の戦いで戦死
    ×知忠(1180?-1196) :平家再興の挙兵を企てるも失敗、自害
    ◎知宗(1184-1255) :武藤資頼の養子→大宰大監?(→宗氏の祖?)
  ×重衡(1157-1185) :一ノ谷の戦いで捕虜→南都引渡後に斬首
  □知度(11??-1183) :倶利伽羅峠の戦いで戦死
  ☆清房(11??-1184) :一ノ谷の戦いで戦死
内輪揉めで死んでるのはせいぜい維盛と清経(どちらも入水)くらいで、
あとは病死か戦死か敵の手にかかって斬首って感じ。源氏のドロドロ感とはやっぱり違う。

533 :
やっぱり時代の変わり目って、天変地異が続くものなのかな?
いや、天変地異が続くから時代も変わらざるを得ないのか?
いやいや、時代が安定していれば天変地異などものの数ではないのか?
「気候変動」というと数万年スパンに思いがちだが、どうもかなり気まぐれなようだ。
二酸化炭素のせいかどうかは知らないが、比較的短期間に、そして人間にとってはとんでもない変動を起こす。
平安時代は長く温和な気候が続いたようだが、末期になって、突如「方丈記」に記載されたような大災害が次々に。
当時のことだから、「末法の世だ、そもそも為政者の人徳が足りないからの天罰だ」と思ったことだろう。
時代は下って田沼意次の時代。規制緩和による景気刺激策で「化政文化」が爛熟したのに、
浅間山・富士山・青ヶ島噴火を初め、各地で地震津波大火など天災地変続出。
それさえなければ、意次の改革は成功し、八代将軍吉宗以上の「江戸中興のヒーロー」だったかもしれない。
さて、震災以来「南海トラフ地震」「富士山噴火」など活動期の日本と、
当時の日本をダブらせれば視聴率の回復も・・・

534 :
今の時代は「現実逃避」が流行だからな。
主役がドジっ子でも周りがなんとなく解決してくれるドラマが高視聴率。
主役が困難に耐えながら何とか時代を切り開いていくドラマが低視聴率。

535 :
日本は元々地震と噴火だらけの国
戦後〜2011年までが例外的に平和な期間だっただけのこと
今後数十年は東海地震に南海地震に関東地震にと盛り沢山だ

536 :
>>534
島耕作のことか〜!?

537 :
アムロレイだろ

538 :
金太郎のことかー

539 :
頼朝のことでしょ

540 :
>>533
ちょうど10〜14世紀は世界的な気候変動が起こって文明や民族がシャッフルされた時期
その後にリバウンドのように小氷期があって、落ち着くのが19世紀

541 :
>>540
ならば、当時の歴史をひもとけば、今後の対策のヒント盛りだくさんだね。

542 :
>>541
歴史っちゅうか、海底堆土や氷床コアをひもといて研究してるじゃん

543 :
>>437 お答えしよう。東西貿易航路確保との関連性は薄い。
近在海賊とのトラブルや風待ちを避ける裏道だ。。広島湾内では太田川から
膨大な水量の河川水が流入するので海流が巻いている。そのため厳島へ参詣したくとも、
風向きに拘らず海流に乗る必要がある。厳島自体は交通拠点にも風待ちの港にもならず、
良い港湾でもない。地御前神社が本殿対岸でなく相当広島寄りにあるのもそのせいでの
参拝ルートだ。潮の干満にさえ乗れば漕がなくても前へ進めるし辿りつけるだろう。しかし、
陸と海の気温差で生じる海風だけでは多%

544 :
多陸と海の気温差で生じる海風だけでは少帆走の助けになっても、倉橋・柱島方面からだと
海流に逆らうので立ち往生してしまい、南風がないと行き着くのが難しい。それほど湾奥
に鎮座する仏教と宗像女神の聖地へは行きづらい。日宋間航路(福原〜寧波?)だと、
行きは厳島へ寄れても帰りは寄れまい。琴平宮や宇佐神宮へもお礼参りに行か
ないといけないし。

545 :
>>543
どうもありがとうございます。
昭和になっても瀬戸内海での海難事故が絶えなかったんだから、
おのずと航路も決まってたんだろうね。

546 :
今治回りでは、普通に渦潮できるかんねぇ
3万トン級が潮にまかれて動けなくなってるのたまに見るよ
シーカヤックで瀬戸内にこぎ出すっつー無謀なことはやめましょう 大型船に轢かれます

547 :
鎌倉時代、入宋した道元が寧波にいたとき、日本船に老僧がきのこを買いに来た、というエピソードがあります。
きけば、当時有名だった寺の住職が、わざわざ山奥から一日がかりでやってきた、という。
驚いた道元が、「買い物くらいパシリにさせたらいいじゃないですか」というと、
老僧は、「あなたはまだまだ修行が足りない」と笑って一日がかりの道を帰っていった、という話です。
で、松本忠久「めんと和菓子の夜明け」という本で、筆者が当時老僧がつくったと思われるめんを再現したところ、
「味付けは塩としいたけのだしだけなのに非常においしかった」とのことです。そこで筆者の松本氏は、
「(大意の要約)乾貨を珍重する中国人にとって、日本産干茸は当時も重要な輸入品だったのだろう。
 そして老僧は大切な客のために、わざわざ自ら最高のものを吟味するべく出かけてきたのに違いない」と推測しています。
http://edosobalier-ishiusu.seesaa.net/article/234454567.html
 鎌倉時代も民間レベルの貿易が盛んだったことがうかがえる話です。
してみると、フビライの要求は「南宋との国交を断絶し、ウチと付き合え」ということだったんでしょうか?

548 :
もう少しふくらませとこう。
あの辺りに古代、港湾や軍事拠点が築かれなかったのもそうした自然環境の不便さや
静謐さと無縁ではなく、海運拠点を作るなら大島、倉橋、上下蒲刈、因島、鞆あたりの方が
東西航路には沿う。にもかかわらず、自分の任じられた安芸国司は加茂西条の山中に
設置されている。さぞ憤ったことだろう。清盛の憤懣が沿海開発に向かったのだ。
西条から海上へ出る水上交通は瀬野川しかないので、荘園米を京へ送るためにも音戸の
開削は必要に思われたのだろう。尤もそれだけのために前代未聞の海底掘削工事をする
のは、いくら平氏の権勢があろうと大きすぎる。その他にも秘密の任務があったに違いない。
浪速津でなく和田に港湾を築造したのも単に自領だからというだけでなく、ローカルな
原因があるんだろうが、、もちろん、詳細は今でも軍事機密である。

549 :
もう一つ。
厳島を押さえるとなぜ瀬戸内海の覇権が得られるか?という疑問もあるはずだ。
あれは、古代の海上免許制度の要なのだ。管弦祭というのが今でもあって、
管弦船のお供舟に大漁旗を飾った漁船が瀬戸内海各地から集まるのだが、
これを創始も平清盛と言われている。管弦祭に参加したこともないようなモグリの
船頭を排除することで海上交通の安全とトラブルを回避するために始めた(たぶん)。
水上民どもがビビってもしくは快く、寄進や献上品を貢納するように慮って、莫大な
カネを投入して社殿を造営したのも、豪華な宝飾経文を納経したりとデモンストレー
ションをした。警視総監兼陸海軍大臣兼総理大臣が自ら作ったシステムだから誰も
逆らうことなどできない。プラス面は確かにあったろうが、マイナス面も当然あったろう。
だからこそ庶民から全幅の信頼を得るところまではいかなかったし、戦後も温存する
ことを考えれば、厳島を戦場にするわけにはいかなかった。
民間の日宋貿易船に私税をかけて密貿易船を取り締まるような事もしたはずだ。
神社の誓詞を貼ってない船舶は片っ端からしょっぴいたのだろうな。

550 :
ついでに。
さらに疑問なのは、なぜ壇ノ浦の戦いでは女子供も含め平氏全員が船で海上へ
出て戦い、敗戦後に入水して果てねばならぬのか、という点だ。いかに彦島に
孤立させられ補給もままならないとはいえ、拠点である彦島をもぬけの殻にしては、
たとえ水上戦で勝ったとしても帰る場所がないではないか?・・・関が原の鬼島津の
ように敵前突破を図るにしても、その行き先やいかに?国を捨て宋へ亡命するなら
西だし。壱岐や対馬や五島列島、耽羅島があることは当然知ってただろうし。
多少は伝手があったはずだろうし。
・・・どう考えても、集団自殺としか考えられないのである。
あんな狭い海峡で陸からも船からも矢を射掛けられるのが分かってるのに
勝ち目があったとはとても思えない。さっぱり分からない。潔良すぎるだろ?
何かがおかしい。後の物語作りにしろ、屋島で地元家人を人質にとったことにしろ、
平氏の怨霊を鎮めるための大きな神社・寺院を建立もせず、鎌倉に源氏一統の
怨み骨髄の禅寺を建てまくったことにしろ、源氏が何かズルをしておびき出したんでは
なかろうか、と思っている。
というか彦島って、軍事拠点としてどうなん?
平たいから戦場として使い、市街戦を戦う方が有利なんじゃね?
まあ、それでも勝てる見込みが立たないと思うけど。
昔から「降伏」という手がなかったんだろうな。。

551 :
赤間神宮……は安徳天皇か
そういえば天皇様ってバス停があるとこにも安徳天皇埋葬伝説があるらしい

552 :
>>548
博識ですね。ではもうひとつうかがいたのですが、
毛利輝元が広島城下を整備する以前は広島湾は交通の要衝ではなかったのでしょうか?
厳島があるためだけの広島なんでしょうか?
だとしたら大内氏が毛利元就に負けなかったら、広島は山口に遠く及ばない田舎だったんでしょうか?
壇の浦については、最初大宰府を本拠にしていたのですがここも敵に攻められ、ついに彦島しか行き場がなくなったのです。
日宋貿易といっても、あくまで宋船から来て頂いてただけで、日本側から宋に行くことはこの時代はあまりなかったようです。
そこで一門の結束力の強い平家のこと、「死に遅れるよりみんな一緒に死のう」と集団自決を選んだのかもしれません。
「帝の御前」であればいやでも士気があがったでしょうし、幼い帝のためには女官も随行しないといけなかったでしょう。
もはや帰るところもない以上は、女性達もみんなと一緒にいることを望んだかもしれません。
そして負けたからには「あづまえびすから辱められてはならない、帝は永遠に平家のものだ」と
三種の神器もろとも、入水したのだと思います。全くの想像ですが。

553 :
>>552
毛利元就まで下れば、広島湾は海上交通・河川交通ともに紛れもなく
水上交通の要衝ですよ。厳島神社参拝のお蔭様でしょうね。清盛の後、
平氏御家人の源季遠が安芸守を受領しますが、後白河法皇といえども、
安芸国を平家の支配下から除くのはなかなか難しかったのでしょう。
ちなみに毛利氏が戦ったのは大内氏を滅ぼした陶氏、というのが大義名分
なので大内氏とは戦ってません。その頃の大内氏の山口に比べたら広島
なんてド田舎もいいとこかと。ただの漁村と広大な遠浅の砂浜が広がるだけ
(絶景でしょうね)。輝元が広島城を作っても大船が接岸する港湾はないし、
本格的な軍港として築城された備後小早川隆景の三原城に及ばない。
広島城が真価を発揮したのは日清戦争後です。水量豊富な太田川と兵員
輸送の宇品港あればこそ。ちなみに海軍が呉へも水道管を引いてます。

554 :
なお、広島の歴史の始まりを考えるとすれば、承久の乱後(鎌倉初期・源平
から30年後)安芸守護武田氏が銀山城を太田川河口に築いてますが、
この頃には国府が既に府中(安芸郡)に移されてます。
これも清盛の仕業と考える外ありません。
でもこれは当時の広島が河川交通の集積拠点だったことを示すだけで、
海上交通がどれほど盛んだったかは、音戸瀬戸の開削以外に手がかりは
ありません(それすら史料がない)。兵糧米の輸送だって軍事機密だし、
戦略資源の砂鉄や銀や金を掘ったり、貨幣を鋳造したりして京や宋へ輸送
してたとしても秘匿情報だし、当然武器も売買してただろうし、製鉄用の薪炭も
輸送してたでしょうが。。分からないことだらけです。
でも、どこで打ったか分からない刀剣や、周防(山口)の伐採木材、金銀銅・
硫黄などの鉱産物を日宋貿易の輸出品にしたことは分かっています。
・・・治承・寿永の乱とは関係ないですよね。

555 :
>>553
どうもありがとうございます。いつもたいへん参考になります。
大阪や江戸や名古屋は、全くの田舎だったのに、
「波静かな大きな湾奥に広がる広大な平地こそ貿易拠点に最適」との卓見から、
21世紀の現代に至るまで、日本経済の大きな原動力になっている。
ただ、瀬戸内海の場合、「波静か」ではあっても広大な平野があまりなく、大人口が住めない。
だから、儲けは博多津や難波津にとられ、中継となる小港ばかりだったんでしょうか?
海外貿易ができなかった鎖国の時代、北前舟の中継地として繁栄していた港も少なくないとききますが。
古代以来、「瀬戸内」は九州と上方を結ぶ通過点だったんでしょうか?
だから「中間の地」として「中国地方」というのでしょうか?

556 :
北部九州と畿内の通交の盛んになる3世紀までさかのぼるなら、吉備(備前・備中・備後・美作)の大勢力があった
5世紀の雄略天皇によって解体・分割統治(鬼退治?)されて、大和王権≒律令国家の食糧・人材供給地になるけど

557 :
>>555
中国地方の「中国」とは「葦原中津国」から来てるので、「秋津島」の安芸の
中心地である広島にはふさわしいものです。大きすぎずこじんまりまとまってます。
広島の平野は「三角州」としては有名で大きなものですが、「広大な平野」というには
ちと狭いかと。4×5kmぐらい?Rの自生で有名な岡山の児島埋立地の方がよほど
広いし、源平合戦で平家が勝って源義仲を押し返し、一の谷の戦いの遠因となった
水島の戦いがあった備中高梁川河口にある倉敷の水島もそれより広いかも?
どれも自然にできた地形ではありませんね。単なる中継地ではなく、それぞれ
消費地でもあり供給地でもあります。もちろん九州も上方も何らか生産をしてます。
てか、大阪も「瀬戸内」の一部のような気が・・・五石とか十石とかの軽自動車なみの
小さな舟でも航行できるのが瀬戸内海のいいとこかな、と。

558 :
>>555
山口〜岡山を車で移動すると、どういう場所かわかるよ
高速道路でもいい
SA間が通常の倍の距離くらいあるから、小便するのも大変な場所
とにかく山しかない

559 :
新幹線に乗ってると中国地方に突入したときすぐ分かる

560 :
山しかないなら、野糞できる

561 :
高速や新幹線は地価の安い山の中通さないといけないからねえ。
でも国道2号線やJR在来線は海沿いだから瀬戸内の風光を満喫できる
青春18切符使ってのJR西日本の旅はノスタルジックでいいです。
駅舎も車両も沿線も、昭和そのままだから大好きです。

562 :
長野や飛騨より悲惨そうだな

563 :
そだよ。瀬戸内はなんのかんのいっても無理して観光化しなくてよかったから。
交通の要衝だし、大規模なコンビナートもいくつもある。
あと、新潟や岩手や山梨や島根のように大物政治家があまりいなかった。広島にひとりいただけ。
そのせいかどうか、JR各社、駅舎や車両を次々にリニューアルしたのに、JR西日本だけ昔のまま。
でもこれが、タイムカプセルのようにレトロそのもので、実にいいんだな。
こういうお宝物件を、ぜひ観光に活用してほしいものです。地元民がどう思ってるかは知らんが。

564 :
なお、旧長州藩こと山口県だけ、道路がやたらきれいなことで有名です。

565 :
日本から大陸へ渡るのに、あまり立派な船はなかったようです。
古墳から出てくる船のはにわも、甲板のない粗末な舟ですし、
一般兵士は縄文以来、丸木舟で朝鮮半島へ渡っていたようです。
遣唐使船も板を張り合わせただけの欠陥船なので、大きな波をかぶるとすぐに全壊してました。
室町期の倭寇も、中国のジャンクのように底がV字型ではなく、平底なので波が切れず、
追い風が吹く季節でないとわたれなかったといいます。そんな粗末な舟で、
東シナ海を渡り、はるばる南京付近まで攻め込んだものもあったようです。
そして豊臣秀吉の朝鮮出兵では朝鮮水軍の亀甲船に完敗。
どうも日本の造船技術は歴史的にたいしたことなさそうですが、
それでも大陸まで普通に往来していたのだからすごいと思います。

566 :
>ジャンクのように底がV字型

567 :
>>565
古代より日本から朝鮮半島へ渡航する程度を造船するのは
それほど難しいことではない。瀬戸内海を西から東まで航行
できれば半島へ行く程度の耐久性はある。問題は、対馬海流に
逆らって宋へたどり着くための航海術と、木造船の寿命。
コールタールなどで防水・防腐処理をしていない当時の木造船では、
クスノキなどを使ってもせいぜい10年もてば大したもので、実用上は
3,4年程度ではないか?もちろん維持運用にも莫大な費用がかかるので、
経済性を考えれば1回こっきりの可能性が高い。だから1年に一回も
航海しないような大型船を所有する富豪は、どの時代でも指で数える
ぐらいしか存在できない。
平家は唐船を少なくとも1隻は持っていた。御座船というヤツ。
これをオトリにする作戦が失敗したのが壇ノ浦合戦。
この事情は近代に至るまでどの時代のどの国でも同じ。
宋船も、(亀船と呼ばれる軍船があったとしても同じ)、
舟山諸島を本拠とした倭寇も(外洋航海型の大型船は考えにくい)。
水運の発達してない国が軍船を短サイクルで更新配備するのは
現実的でないから。10〜20年ももつような耐久性があれば、
信長が造った九鬼水軍の黒い鉄甲船で攻め込んでいた事だろう
(船足が遅すぎてたどり着けない可能性が高いな)。
大航海時代の西欧船がスゴいのは、補給基地や修理基地がないにも
かかわらず地球一周の大航海をしてケンカを売って回ってたことであって、
カッコ良さとは関係ない。コールタールまみれでとても臭くて黒かった。

568 :
もちろん、鎖国時代に日本人が海外と貿易をしていなかった、
というのもウソ。薩摩・長州は言うに及ばず、北前船の廻船問屋も
朝鮮・ロシアと密貿易をしていた。一部はオーストラリアのタスマニア
にまで行って領地を持っていたという”ウワサ”まである。
昔から密貿易やりまくり。

569 :
信長が造ったという「鉄舟」 その後どうなったのか記録がないが、
やっぱりすぐにサビちゃったんだろうな、と思う。

570 :
ホントにあったかも眉唾だった希ガス

571 :
和船と言えばこのブログが詳しい
http://navy.ap.teacup.com/applet/kanzo/msgcate3/archive?b=30

572 :
眉唾というなら、「鳴門秘帳」に出ていた、
世界最古の潜水艇「竜宮舟」の情報キボンヌ。

573 :
眉唾というなら、「鳴門秘帳」に出ていた、
世界最古の潜水艇「竜宮舟」の情報キボンヌ。

574 :
江戸時代の密貿易と言えば石見浜田藩

575 :
>>567
明は大航海時代の西洋に匹敵する大航海をしている訳であって
西洋中心の歴史観のせいでやたらに知名度低いけどな

576 :
実際、「中華」というだけあって、自国内で何とかなってたから、
西欧みたいに香料や生糸や黄金を求めて、地球の裏側まで行く必要はなかった。

577 :
>>576
明代の交易圏を地球儀で見てみろ

578 :
明代鄭和たちの大航海は、永楽帝一代の気紛れ事業だから…
世界史的影響はコロンブス・バスコダガマ(West Impact)より小さいと言える。
船体・船団・航行距離など規模壮大だけど後が続かないし、マレー世界形成への影響も限定的

579 :
陸路のシルクロードでいいだろ

580 :
地図も海図もないのに大航海できるわけがないんだがな。補給基地もなく・・・
「鄭和おじさんの大冒険」を信じてる人、多いのかな・・?1990年頃、
国威発揚で突如有名になった人ではあるが、清が作った明史の列伝に
なってない以上、中国中心の歴史観でも有名な人じゃないんだよ。
冒険譚上でもミュンヒハウゼン男爵の方が身分が上かな・・・強いて言えば、
元代に細々と開発された交易路の残滓を確認するための強行偵察部隊かな。
・・気まぐれというよりは間諜だよ。>578
明国が東南アジア世界で使っていた交易銀は日本産の計量貨幣。
記録がなくて割合も分からないので、ほぼ全てと思ってればよい。
なぜか?東南アジアから日本へ輸入されたのは、日本との交易を禁止した
明の産物で、R貿易が中心だった。何のことはない、明の貿易商人は
おカネを持って東南アジアの商品を買い付けに行ったわけではなく、自分ら
が税金を納めるのに必要な銀を求めて東南アジアに出向いていたのだ。
東南アジアにおいては、明の海禁朝貢貿易よりも、日本の朱印船貿易の方が
はるかに意味も影響も大きい。
なお、秀吉の朝鮮出兵を巡る戦争で断交したと思ってる人も多いようだが、
最初から貿易を制限拒否したのは明の自己都合だし、欲をかいて絞りすぎた
ために大内氏滅亡以後は(正式に)貿易をしようとする者が絶えた。まあでも、
密貿易で繁栄した沿岸住民の暴動を「倭寇」と呼んで弾圧に及んだという意味では、
貧富格差に憤ったネット住民の暴動を「反日」と呼んで奨励黙認している現在とは、
さすがに隔世の感があるな・・・一見全く同じように見えるかも知れないが。
人間って古代からそんなに変わらない。

581 :
鄭和さんは去勢されて宦官にされていたから「鄭和おねいさんの大冒険」でええやろ

582 :
>>580
反中思想の持ち主って何でこう突然発狂するのか

583 :
>>580
地図や海図がないと航海出来ないなら、コロンブスやマゼランは架空の人物かw
まともな歴史は残っていないが、存在の痕跡はある、北米へ到達していたバイキング達なんかもいたがw

584 :
オランダ東インド会社は、日本の鎖国政策で大打撃を受けたんだよねー

585 :
鄭和って、
> 1990年頃、国威発揚で突如有名になった人
だったのか。知らなかった。まあ、無知蒙昧の徒である580に
とってはそうなのかもしれんが、実際の歴史とは全く無関係
だね。

586 :
南アジア−東アジアの海路で主に活躍してたのはアラブ人やインド人だな

587 :
大航海時代初期は航海技術そのものは大した事なかった
犠牲を顧みない挑戦と一度見つけた場所はあらゆる外道な手段を使ってでも
占領するという執念が植民地の大幅拡大につながっていた
軍事面の発達の一方での極度な貧困というアンバランスが原動力

588 :
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_10_a.html
「大航海時代の実情」 意外とこのサイト、人気みたいね。
 この当時の船は全長約20メートル、船幅は約7メートルほどで150トンくらいのサイズの帆船であった。
乗組員は約60人ほどでこれが3隻ほどの船団を組んで航海したのである。
一回の航海分につき3か月分の食料、水が積み込まれたが、その実情はどうだったろうか?
 まず食糧の内訳は、塩漬けの肉、塩漬けの魚、ビスケット、乾燥した豆、チーズ、たまねぎ、ぶどう酒、酢、水などであるが、
航海に出ると新鮮な野菜、果物の類はわずか数日で消費されてしまい、後は保存のきく塩づけの肉類、ビスケットだけに頼るしかなくなってくる。
 しかし、何週間もするとビスケットはすっぱくなり、コクゾウ虫がわんさか集るようになる。
やがて、塩漬けの肉類にも、ウジが湧き始めて、どろどろで始末の終えぬ不気味なものになる。
水は黄色く悪臭を帯び始め、口に出来るものと言えば、ネズミが食い散らかした粉々のビスケットだけになるのである。
 
 生活環境もでたらめなもので船底は水びたしで、ゴキブリ、ネズミはそこらじゅうに群がっていた。
寝る場所は船長以外定まっておらず、甲板の好き勝手な場所で寝ている状態だった。
ノミや虱にたかられて、数日間、濡れ鼠状態になることも珍しくなかった。
 こういう環境の中で、乗組員は熱病やいろいろな病気に悩まされた。中でも、壊血病は恐ろしい病気だった。 
 
 ある船乗りの日誌の中には、壊血病の身の毛のよだつような内容が記録されている。
「俺の歯茎はすっかり腐ってしまった。真っ黒な腐った血が流れ出ている。
太ももは壊疽を起こしていて、俺はナイフでこの腐った肉を削り取って、どす黒い血を無理やり流しだす。
土気色になった歯茎もナイフで削り、腐った血をしぼり出す。俺は小便で口をゆすぎ、強くこする。
ものを噛めないので、飲み込むしかない。毎日この病気で仲間が次々と死んでゆく。
包みや戸棚の裏でいつの間にか死んでいて、発見された時は目や指はネズミにかじり取られてなくなっている・・・・。」

589 :
いっぽう中国船ではモヤシを育ててビタミンを補給していた

590 :
そしてネズミでたんぱく質だな

591 :
不思議なことに、沈没する前は本当にねずみがいなくなるそうだ。
先の大戦でも、レイテ沖海戦に臨んだ重巡愛宕、乗員の手記によれば、
寄港してないし僚艦とは数百メートルは離れてる大海原で、
なぜかねずみが全くいなくなってしまった直後、米潜ダーターの雷撃をうけたそうだ。

592 :
壊血病を考えると
ラピタ人(ポリネシアンのご先祖)と一緒に1000キロの大航海した
ニワトリさんと卵さんは偉大やで

593 :
>>592
壊血病にかかる動物の方がむしろ少ないはずだけど、
ニワトリはどうなのかな?

594 :
鄭和艦隊は船内で豆腐まで作って栄養補給してたからな
後のヨーロッパの無茶な航海に比べると先進性が半端無い
中国は広大な国土で軍を動かすために昔から何かと兵站は進歩してたんだよな

595 :
「貿易」というと聞こえはいいが、命がけで大海原をわたるリスクにみあうリターンがないといけない。
西洋は香料を求めて東洋までやってきたが、東洋は西洋がなくても困ることなんかなかった。
(売り物がないから強引にアヘン売りつけたくらい)

596 :
小麦は加工するのに手間がかかるから事前にパンやビスケットに加工し運ぶ必要があった
当然それだと腐るし、肉も野菜も腐ってしまう
アジア圏は米と大豆製品があったので腐らせることなく食糧の長期保存が可能
このため西洋では食糧は現地調達が当然でそれも現場の兵士が自由に略奪していた
アジア圏では食糧の長期保存が可能なために動員側による組織的補給が行われた
このことが中世までの東洋と西洋での兵站に関する思想の違いにつながっている

597 :
>>585
もう少し正確に言えば、「鄭和」が日本で有名になったのが1990年頃で、
中国で有名になったのは、1405年の初航海から600年記念の2005年。
同じく2005年にはマラッカ海峡沿いの場末の町でチェンホー・ミュージアムが開館、
2006年にはNHKが陳凱歌監督ドキュメンタリー 『偉大なる旅人・鄭和』を放送、
2009年にCCTVで大河ドラマ『鄭和下西洋』 が放映された。
映画は中国でも香港でも作られてないと思う。(そりゃ面白くなくて売れないもんな。
それに先立ち、NHKで『1979マルコポーロの冒険』、『1980シルクロード-絲綢之路』、
『1988海のシルクロード』が放映されてブームの下敷きになっている。実に30年以上
にわたる地道な工作活動だ)。
1990年頃に日本で”鄭和”が有名になったのは、中国人民解放軍海軍の練習艦が
「鄭和」と命名されて1987年に就役したことが分かったから。中国では、鄭和が
10万人を引き連れて日本に来航し足利義満に倭寇取り締まりを要請した事に
なっているらしいが、この「鄭和」は学生230人を乗せて、2010年に江田島・呉を
表敬訪問した。きっと厳島にも参拝して平氏の威光におそれおののいたに違いない。
(中国の海軍艦艇は基本地名だが、練習艦は人名でもいいのだそうだ。
新造空母は命名規則がよく分からないので、「鄭和」と付ける可能性もある、とも
”うわさ”されていた。今では「毛沢東」の方が有力かも。「ヴァリャーグ」の
ヴァイキングよりはマシという程度か)。

598 :
鄭和の威力偵察後、時代は約50〜100年ズレるが、
1511年 マラッカ王国がポルトガル船16隻と交戦して占領されたのは、
毛利元就が満14歳、織田信長が生まれる二十年前のことである。
東アジア情勢の歴史は、
 ・1513年 ポルトガル人がマカオに来航し交易する
 ・1523年 寧波の乱で大内と細川がムチャをする
 ・1543年 種子島へ鉄砲(マラッカ銃)伝来
 ・同じ頃 ポルトガル人が台湾を発見
 ・1551年 大内義隆が謀反に倒れ(10年に1度の)日明貿易が途絶
 ・1557年 ポルトガルがマカオで居留開始
 ・1571年 スペインがルソン島領有を宣言
 ・1573年 室町幕府滅ぶ
 ・1588年 後金(清国)興る
 ・1622年 オランダが澎湖諸島を占領し明と交戦
 ・1626年 スペインがルソン島から台湾北部へ侵入
 ・1644年 明国滅ぶ
とつづく。鄭和の遠征航海が続いていれば、ヨーロッパ勢力が東南アジアに
進出するのを防ぐことができたのに・・という文脈で語られるのが特徴的だ。
しかし大砲も鉄砲もなけりゃ、そりゃ無理な話だ。
さすがにここまで来ると源平と話をつなげるのは難しいが、源平合戦後
300年を経る何時の間に日本船は外洋航海が可能になったのか?と考えよう。
すると、そりゃ最初から可能だったに決まってると考えざるを得ない。
だって卑弥呼の時代やそれ以前から航海してるんだから。
平家も決して後悔だらけの人生ではなかっただろう。

599 :
中世に作られた鄭和の功績をたたえる遺跡があちこちに残っている訳だが・・
欧州の介入と違って現地人の王朝を支援して貿易路の安定に努めてために
当時から国外でも広く英雄視されていた歴史も知らないとか

600 :
>>597
> もう少し正確に言えば、「鄭和」が日本で有名になったのが1990年頃で、
昔から世界史の教科書や副読本に出ていたぞ?少なく見積もっても、
10〜20年はずれているな。

601 :
>>600
んだな
少なくとも俺が読んだ世界史の教科書(1980年代中盤)には名前が乗ってた
突発的で単発的なあとが続かないいかにも中国的な事業事蹟で、正直どうなのとしか思わんけどな

602 :
欧州と違って中国は統一政権なので競いあうことが少なく
技術の発展や海外航路の発見に競争が働かなかった。

603 :
>>595
売り物がないから強引にアヘン売りつけた、なんてレベルの低い思い込みしてるオバカさんって軍板ですらまだ絶えないんだよね…
実態は、清国内ですでに嗜好品として広範なアヘン需要が存在し市場が成立していた
その市場に英国商人がインド産アヘンを持ち込んで販売したらよく効くと大流行り
アヘン禍に頭を抱えた清国当局は禁令を出すが具体的な取締の手段は打たず、何故かやったのは無通告での英国商人の倉庫の襲撃と没収
まあやること無茶苦茶でいきあたりばったりで、今の中共となにも変わらんw
戦争になって当たり前という

604 :
>>603
陳舜臣氏が描くところの林則徐と、ずいぶん違う妄想だな

605 :
>>603
あー、何か歴史を知らんようだが、まず清国内の阿片中毒患者を取り締まって、それから外国人貿易商人に清国では阿片は
禁制品である事、持ち込まない事を条件に貿易は継続できること、なお持ち込むなら死刑に処するって通告した後で、
実際の取り締まりに入ったんだけど。
清国は非合法化した後、強硬手段に出たわけ。

606 :
R商人の倉庫を急襲して没収って
現代でも普通に合法かつ効果的な取締方法じゃないか

607 :
鄭和の話にせよアヘン戦争の話にせよ、歴史を知らずに
長文で妄想を垂れ流しているのは何者だろうね。
教科書すら読んだことがありませんと自慢されても困る
んだけど。

608 :
鄭和どころか平家物語すら読んだことないのに他人にタメ口きくのが、
このスレの上のほうではウヨウヨいるような・・・まあいいか。

609 :
阿片は英国では合法ではあってもキリスト教では忌避されているものだった
阿片売りつけのための開戦は流石に抵抗感が強く当時の英国世論は真っ二つに割れていた
そのためごく限られた戦力しか投入出来ず本来英国側に勝ち目はまるで無かった
だが清国政府が英にびびって自ら守りを放棄してあの結果

610 :
治承寿永の乱と何か関係あるの?ってレスばっか

611 :
南蛮貿易の航路は知らないけど、堺がどうとか言うのから、この流れな気ガス

612 :
「貿易」について語るスレになってます。
違う時代のことも語ればまた新しい発見もあるかと。

613 :
義満の頃だったら、中国様相手に
「オラオラ野蛮人、こんな青磁みたことないだろ、ありがたく思えよ。」
「ハハーッ!!中国様の御威光には恐れ入るばかりでございます!」
みたいな感じだったんだろうな。
だいたい同じ時期にインドへ行ったバスコ・ダ・ガマもムガール皇帝の金持ぶりに度肝を抜かれてるし。
清盛はまだ民間商人相手だったからまだよかったな。

614 :
足利義満の時は、完全に金目当ての朝貢だよ。
貿易自体は前代にも継続して行われていたんだから。
義教時代の朝貢貿易復活の時にも、「真の日本国王
(=天皇)が国書を拝するのは良くないが、大臣以下で
『覇王』である将軍が日本国王として拝するのは問題
ない」という屁理屈をつけているくらいだし。

615 :
さらに時代が下って、はるばる一万キロも地球の裏側まで行って、
イタリアあたりの格別どうということもないバッグを、
何十万円も出して狂ったように買い捲るようなのがいるから、
貿易は当たれば大儲けなんだよね。
「ニセモノが大量に出た」らしいが、真の職人芸なら、
そうかんたんにマネできたりするはずないんだけどな。

616 :
馬鹿を騙すだけなら技術はそんなに要らないんだよね。
斬らずに飾っておくだけの刀なら、本当に使ったらぐんにゃり曲がっちゃうような酷い代物でもばれないし(笑)

617 :
>598 の年表に足すなら、
 ・1521年 セブ島でマゼラン(ポルトガル人)がムチャして戦死
 ・1546年 ポトシ銀山(ボリビア・銀45,000t産出)、サカテカス銀山(メキシコ)設立
 ・1565年 マニラ・ガレオン交通開始(アカプルコ貿易〜1821年)
かな。ノビスパン(新イスパニア)はマニラとアカプルコを拠点に奴隷を酷使し、
ひたすら銀を中国〜東南アジアに持ち込み続け、金を本国へ送り続けた。
NHKのさかのぼり日本史(今月の特集は鎖国だ)によれば、
家光が鎖国に踏み切った理由は、宗教排除だけでもなく、新井白石が
当時日本で産出された銀の3/4、金の1/3が流出したために国内物価が
暴騰しているという「”具申”と”誤った判断”」があったかららしい。
(金銀貨の価値が高騰するとデフレになって物価は下がる
鎖国の評価も人それぞれだし・・まあ何が本当かは良く分からないが。)
いわゆる”鎖国”が1639年とされてて、かなりの期間かぶっているのだが、
日本は、銀を中国〜東南アジアに持ち込み続けたという意味では、ノビスパンと
同じ側にいた。何と!(漆器・扇は例外)。絹や陶磁器、香料香木、象牙、香辛料
などを輸入したという意味でも同じ。驚くほど日本史は大航海時代と連動しており、
関係が深い。明でも楚雄銀山(雲南)などアジア有数の銀山が開発されている
のだが、それ以上に(溶けてなくなるわけでもないのに不思議だが)明国内では
銀が不足した。かつ、日本の”南蛮貿易”ではなぜか明との交易が不可欠だった。
(新大陸の産物が割に後世になるまで普及しなかったのは紅毛人のボッタクリの
せいばかりでもなく、明の舶来物が優先されてたせいだと思う)

618 :
結局、平清盛がやってた事も同じなんだよね。
平安時代の通貨は白い正絹反物だけどそれは”舶来物”だし貿易の決裁手段は
ほぼ”金”だ。”百万おじさん”マルコポーロの書いた「金でできた建物がある」と
いうのを読んで、興奮したコロンブスなどコンキスタドールどもがジパングの
金を略奪しようと目指して出帆したのだけど、それ以前の日宋貿易で金をばらまい
たのが確実なのは奥州藤原氏よりも清盛だ。南宋時代に全長100メートルの大唐船
(ジャンク)があったのは発掘で明らかだし、同じ泉州で元代にはインド船が交易した
という。マルコ自身が泉州からイル汗国のホルムズ海峡まで船で航海してモンゴルの
姫様を送り届けた。7世紀以前はムスリムじゃなかった西のアラビア人はローマ時代
から香辛料を商いしてたし、ダウ船の拠点をモザンビークからモルッカ諸島まで持っていた。
昔から、世界はそんなに狭くない。
そして、東方見聞録のその”金の建物”が、奥州藤原氏の中尊寺金色堂だなどと考える
のは非合理だ。誰が戦争ばかりしていた奥州の山中の平泉までお寺を見物に行くか?
そもそもいきなりあんな完成度の高いものが作れるわけないんじゃ。絶対金閣寺や
金色堂って何かをマネして作ってるでしょ・・。貿易で訪れた宋人や渤海人が目にするなら、
清盛が海沿いに何か金ピカの建物を建ててたんじゃないか、と・・・考えたくなるわけだな。
まず、平家が宋から大量輸入した銅銭で貨幣経済を普及させて、物価や経済構造を
すべて思い通りに牛耳ろうとしたのは間違いあるまい。源氏は源氏で、神州神世の
金銀財宝を外国に流出させる悪いヤツを討伐せよとの八幡大社のお告げがあった、
という宗教的妄想ぐらいは持ってただろう。だから、どんなに汚い手段を使っても
良心に呵責を感じることもなく平家を殺戮することができたんだ。。たぶん
源平合戦とは、コンキスタドールに対して怒った原住民・土人どもが、以前に反乱を
起こして追放されたり暗い狭い船倉に監禁されたりしていた士官だか貴種流離譚の
貴族だかをかついで反乱を起こし、憎っくき鬼畜米英を退治したという日本史上初の
革命だったわけだ!・・・あな恐ろしや。安徳様ごめんなさい。

619 :
金を支払って銅銭輸入するなんてなにやってんだか。
まあ金銀くらいしか輸出品なかったろうけど。
で、「金をいくらでも輸出してくる国」なのだから、
「黄金の国」と思われても不思議ないだろう。
住民の生活水準がどんなだったかまで考えなければ。

620 :
>安徳様
これこれ、陛下を「様」呼ばわりしたら世が世なら不敬罪で逮捕されるよ。
蘇我馬子に殺された崇峻天皇についで、こんなに悲惨な死に方をした現役天皇もいないけど。

621 :
嫁に殺された疑惑のある仲哀天皇もなかなか…

622 :
時代と共に敬称は馬鹿にしたり見下すような意味に
逆に下に見る物言いが敬称になるという逆転が起きたんだよな
まあ内心では元から馬鹿にしながら使っていたんだろうけどさ

623 :
王家の犬

624 :
>>617
ごめん、自己レス。
>NHKのさかのぼり日本史(今月の特集は鎖国だ)によれば、
>家光が鎖国に踏み切った理由は、宗教排除だけでもなく、新井白石が
>当時日本で産出された銀の3/4、金の1/3が流出したために国内物価が
録画番組を見直したら、「銀の3/4、金の1/4が流出した」と言っていた。
また家光の鎖国じゃなく、「1720吉宗の唐船取り締り令」=長崎奉行による
清船拿捕のことを言っていた。さらに調べると新井白石が海舶互市新例を発し
輸出品を限定して長崎俵物を奨励しようとしたのは、吉宗でもなく家継の時で、
あまりにゴリゴリの朱子学者の蒙昧政策で根拠もデタラメだったせいで
実行されなかったそうだ。そもそも新井白石は吉宗に罷免された人物だった。
そりゃ家光の時代じゃないよな。。。
やっぱNHKは相当にひどいが、オレもひどいな。

625 :
幕末の金流出に比べればかわいいもんだろ。
そういえば、戦前まで銅が主要な輸出品だったんだよね。
日本は意外と資源大国だったのでした。
ところでメタンハイドレードを国有化して、売上を年金基金にすれば、
国民が利益を平等に享受することになり、老後は安泰、国民負担も減って景気対策になりそうな。

626 :
メタンハイドレートって要は天然ガスだぞ。新しいガス採掘方が実用化されて、シェールガスとして普及しはじめてる
時期に、輸出で採算が取れるとは思えん。
天然ガスってパイプライン通さずに船舶輸送すると五倍くらいの価格になんだぞ。
世界中で有り余ってて、しかも大抵パイプライン経由で買えるものを、あえて日本から買おうって奇特な国なり企業はいないだろう。
かといって国内市場で、この国の電力企業に、そんなに大量の需要があるとは思えん。
この国に国民を富ませるような資源はないよ。残念ながら。

627 :
原発止まって電力企業に大量の需要ができて、ジャパンプレミアムつきで
天然ガス船舶輸送しているときくが・・・
国内メタンをパイプラインで発電所やガスステーションに運べばいい。

628 :
貿易ってのは、干茸とかフカひれとか浮世絵みたいに、
「え?あんなもの買うの?こっちではほとんどタダ同然だけど?」が理想だね。
青磁や石油や自動車のように、生産国が偏ってると足元見られる。
まして、米食ってる民族に無理矢理小麦や牛肉売りつけようとすると・・・
「ニーズ」をうまく見つけるのが商人のセンス。
清盛は政治と経済の両方のセンスをもっていたんだろう。

629 :
連投スマソ
昔話によくある、「ばかな男が嫁からもらった小判を、池にいた鴨に投げつけて捨ててしまった。
嫁が怒ると、男は、“あんなもの、裏の山から芋といっしょにいくらでも出てくるワイ”。
嫁が見てみると、山芋には砂金がいっぱいついていて、夫婦は長者になった。」
昔は、住民がその価値も知らないほど、砂金が国中にあふれていたのかもしれません。
ついでに、「三年寝太郎」の話。
「男が一日中働きもしない寝たきり青年。三年後のある日、ようやくおきたかと思うと、
 長者だった父に頼み、千石船いっぱいに新品のわらじを載せ、佐渡島へ向かった。
 抗夫の使い古したわらじと取り替えて帰ってくると、そのわらじには砂金がいっぱいついていて、大儲けした」
バリエーションがいくつかあるようですが、「アイディア・発想」というものは、
ひとりでうなりながらいくら考えていても出てこない。
本や資料を読んで勉強し、外へ出ていろんな人とR、さまざまな価値観と触れ合わないと出ません。
ソ連やリビアのような全体主義国家が自滅したのをみれば明らかです。
「言論・思想信条の自由」こそが、石油や黄金にもまさる国の宝です。

630 :
>>629
リビアはアフリカで一番豊かな国だった訳だが・・・
それに今世界一の経済大国になろうとしてる中国は共産党一党独裁
政治と経済は関係ないよ
冷戦終結直後の民主主義万能論は中国という最強の反例で完全に否定されてしまっている

631 :
長年経済制裁を受け続けたリビアが南アフリカやエジプトやケニアより豊かだったのか?
中国はケ小平以来、実質共産主義やめてる。今、金正恩がそうしようとしている。
政治と経済が関係ないなら民主党政権でいいわけね。

632 :
なんか急に反論のレベルが落ちたが、気にせずに続ける。
日本人以外は、世界的に見向きもされないマツタケ。
それに気づいた商社が、外国産のマツタケをタダ同然で買い付け、
日本に輸入して大儲けした古き良き時代があった。
ご当地グルメなんかも、強引に進出して「文化侵略」といわれるより、
なにか「隠れたニーズの発掘」みたいなことができないかな?

633 :
とにかく武器(鉄)と人(食糧)だっしょ
鉄が潤沢に供給されれば、農機具を介して食糧生産にも寄与する
物量ハ カナラズ カチマース

634 :
>>633
12世紀の急激な気候変動に、その程度で対応できるんかい?
スカンジナビア人が植民地作って、ヨーロッパ中にタラを輸出してたグリーンランドが
たった半世紀で氷に閉ざされた大変動だぞ
確かに人=食料だわな
肥沃だった九州や中国地方の所領が大干ばつに襲われた平家が
蛮勇だけを頼りに生きてたはずの関東武士団の根拠地は、寒冷なやせ地が生産力急上昇
農機具でどうこうってレベルの話じゃないだろ

635 :
>>593
鶏には壊血病はなさそうだよ。
ビタミンcを体内合成出来ないのは、確か類人猿と人とモルモットくらいのはず。

636 :
もっと支援してくれ。もっともっと・・・
もう荒らしの相手は飽きた。求ム!論客!
日本経済回復のために支援してくれ。

637 :
誰が荒らしなの?

638 :
貿易ってのも相手国の気まぐれ次第でリスクが大きいんだな。
ナポレオンの大陸封鎖以来、経済封鎖はお互い傷を負う、が定説のはずだが。

639 :
あんとくさまってのは怨霊か祭神としての安徳天皇の呼び方じゃなかったか


640 :
武器があれば略奪できるよ できるよ
タタラ製鉄、当時は普及してないと思っているが、どうなんだろ
秘伝扱いなのか、製鉄してる地域が狭いよね 砂鉄は他地域でも取れるのに

641 :
鉄も中国から輸入してたらしい
人類の歴史上、中国・インドが長い間超大国だった「

642 :
>>641
大国ってどの国になるの?

643 :
ペルシャとかトルコあたりかと。

644 :
昔は経済力が人口に比例してたからな
軍事力は無関係だからそのへんの地域は侵略され放題だったけど

645 :
中国は東は海、西は砂漠、南は山脈で守られていたから
唯一がら空きの北に万里の長城をつくった。
エジプトはスエズ地峡部を守ればよく、
インドも海と砂漠と山脈に囲まれてたから外敵はあまり来なかった。
開放的な地形のメソポタミアは自然の障壁が全くなく、
古代より多くの民族が栄枯盛衰を繰り返していた。
近年では石油まで出てきてますます複雑化。
「貿易で国を富ます」といっても石油を輸入に頼らないといけないのがアキレス腱。
清盛の時代なら「舶来品」を珍重していたのは公家だけだったろうけど。
庶民は税金で上の人がぜいたくしてくれることで景気よくなってたのかな?

646 :
>>645
当然運輸業(水運・陸運)は発達するだろうし、鉱業や刀剣製造業も伸びただろう。
都市建設や港湾工事を行ったので建設業、新たな市場を開発したので小売業も。
平家財閥の直接雇用もあるだろうから、相当な雇用創出になったんじゃないの?
農業者にとっては殆どメリットがなかっただろうけど。

647 :
いいことずくめじゃねーか。なんで「平家憎し」になったんだろう?

648 :
武力を持つ階層が農業従事者と重なるんだよ

649 :
中央の宮廷権力と一体化して法律上権利が不確定な農村支配者を支配しようとしたからな
なにもせずアガりを持ってかれるようなもんだから、そりゃあ憎まれる

650 :
>>647
飢饉でお金で食料が買えなくなったから
兵隊を集めれなくなった

651 :
>>647
清盛一門の勢力拡大に伴い寺社や在地の豪族などの権益と衝突したから
頼朝は神輿に徹してそれらの権益には一切手を付けなかった

652 :
この時代の戦争は風流だよね
わずかな規模で戦って
そして、一人ずつ名乗りを上げるのだから
まったくそんなのでよく戦争ができたものだって感じ

653 :
名乗りを上げるのは戦場に居た証明だから
別にタイマンで名乗り合うわけじゃないのよ

654 :
名乗りながら戦うのは物語調に描かれてるからでしょ
タイムマシンで見に行って
あれ?名乗りあうんすよね?て聞いてみ
多分アホか!状況考えろ!て怒られますよ

655 :
>>647
福原が決定打
政治の中心地に居宅がないと発言力が落ちるのが近代以前政治の特徴だけど
京の比重が軽くなって既存勢力全部がストレスを感じ出した

656 :
現在の価値観では「貿易立国バンザイ!!」だけど、
たかだか200年ばかり鎖国していて、でも享保以降は
江戸市中にもご禁制の品が結構流通していた時代ですら、
「開国」となるとあれだけ「攘夷」と実行不可能な大騒ぎになった。
それでも貿易によって諸藩もわりと儲かって幕府に対抗できるようになった。
平家の場合は「それこそ国禁を犯す成上り者」にしかみえなかったんだろうな。
まして、瀬戸内航路を私財で整備しただけあって貿易の儲けはほぼ独占状態。
反対勢力としては「いくらでもカネが出る打ち出の小槌を持った化け物」に思えたかもしれない。
それが地元・西国武士団はもとより水軍にすら見放される。通説では、
「苦労人の清盛は面倒見がよかったのに他はいばりちらしたから」といわれていたけど、
やっぱり銭の病?そして恐らく国民の9割をしめていた、武士という武装農民による、
「農民の、農民による、農民のための政治」が日本史上唯一、平家の血を引く北条氏が始めた、と。
(室町期以降の武士は官僚化・軍人化が進んで、一概に百姓とはいえなくなったが)

657 :
北条は平氏の血筋を自称してるけど「平家」ではない

658 :
じゃあ、「頼朝様と同じ源氏です」といえば話はかんたんだったろうに、
なんでまたそんなことを言い出すのか説明してくれ。

659 :
9世紀末から平氏は坂東に進出してて(その一人が平将門だ)
坂東八平氏を代表として傍系がどこまで行ってるか分かったもんじゃないレベルでみんな平氏だったのさ
だから自称するにしても(もしかして本当だったとしても)平氏になるのは自然なんよ
ちなみに藤原も将門討った秀衡流が沢山いる
んで、源氏は冠に摂津とか河内とかつくように、西国主体で
彼らが坂東に進出するのは前九年後三年の役以降なんで
当時だと下手すると当時の頭領の顔知ってるんで自称するのは難しいわけ

660 :
>>658
源氏のブランド力が確立されたのは室町時代以降で
それでも源家にはなれなかった
鎌倉時代に源氏の一派ですって名乗ったって、そんなのゴロゴロいるわけで
有象無象の一人ですって言ってるようなもんだわな

661 :
>>660
坂東には源氏はゴロゴロしてないんだよ・・・

662 :
で、その坂東に大勢居た自称平家が「平家憎し」で団結するのはなぜなんだい?

663 :
>>655
教科書には「平家は京都にいて貴族化したから頼朝は鎌倉を離れなかった」とか書かれてたな。
そういや、福原とか安土とか大坂とか、「京に近過ぎず遠過ぎず」は短命な政権だったな。

664 :
>>661
源氏じゃなくて、その一派

665 :
>>662
坂東に居たのは「平氏」であって「平家」じゃないのよ
血脈は祖を辿れば同じ所になるけど
方や都でブイブイ言わせてる連中、方や中央の土地政策で迷惑被ってる連中と
完全に利害が対立するわけ、200年以上前に枝分かれしててるしな
同様に坂東で頼朝の重要な戦力プールになった秀衡流の藤原氏も同じ
彼らも藤原氏だけど摂関家でもなんでもない
「家」と「氏」は違うんよ。家はもっと小さい集団で、しかも血脈の縛りは緩い
例えば清盛の子供たちの郎党や下人は平氏じゃないかもしれないが平家なわけ

666 :
>>664
一派も何も源氏は清和天皇に繋がる血脈であることだけなんよ
だから源氏の一派とは例えば足利とかの「みなもとのだれだれのながれ」の人であって
それは源氏なの。んで、その源氏に連なる方々は坂東には少なく
いても坂東に来てから精々三代ぐらいで
北条みたいな土着豪族ではどうあっても自称するのが難しいのよ

667 :
>>661
いや、いっぱいいるし。
佐竹、新田、武田とかは別格としても
貴種が都落ちしてくると在地土豪はよろこんで縁戚結んで箔つけようとするから。
直接子供でなくても養子とか猶子とかで名跡継げる。
>>664
おなじ。

668 :
>>652
軍記物語は今でいうジャンプのバトル漫画みたいなもんだから、
戦闘描写は話半分に聞いておいたほうがいいだろうね。
これ無理あるだろ常考…って表現がたくさん出てくる。
「年号は平治なり〜」のような味方の戦意を向上させる、
あるいは敵の戦意を打ち砕くような口上はたぶん有ったんだろう。
義経の所業を見ても分かる通り、交戦規定はかなりしっかりしていたようだ。

669 :
>>667
別格も何も、源氏では連中ぐらいしか例がないんだってw
ましてや三浦半島なんて坂東の南端だと、頼朝の親父の義朝からだから
彼が三浦に産ませたのが悪源太義平、波多野に産ませたのが朝長だが
彼らは義朝と一緒に死んじゃったから系譜途切れちゃってるし
頼朝と歳が近いからその流れを僭称するにも無理がありすぎるw

670 :
>>655
福原から平安京の政治をリモートするのは、後の鎌倉を考えれば決して間違いとは言えない。
福原京の失敗は遷都の時期(諸国源氏の蜂起直後)と立地(主戦場の東国とは逆側)。運がなかった。
平家が滅亡した最大の原因は後白河の戦略眼のなさだろう。
自分を幽閉した平家憎しで義仲に付き義経に付き、最後は将軍号を与えないことが精一杯の抵抗。あまりにも無惨。
腐っても(元)治天の君だから表立って批判はされなくとも、同時代の人間からの人物評がすごすぎる。

671 :
>>662
平治の乱の後、朝廷内で勢力を拡大した清盛の系統=伊勢平氏六波羅流が公家化して「平家」と称した。
で、伊勢平氏なんてのは元々が坂東での勢力争いに敗れた坂東平氏の系統が西国に戻って伊勢を根拠地
に下級軍事貴族として朝廷に仕え始めたものなんだから、坂東平氏にしてみれば自分達こそ平氏の本流。
伊勢平氏ごときが自分達の上に立ち、増長して好き勝手やってるなど我慢ならないという感情はあったろうな。

672 :
それで北条時政は平氏?

673 :
>>672
自称平氏
官位貰ってるから、そんときに何かの氏を名乗る必要があって
波風立たなさそうな無難なものとして平を選んだんだろうね

674 :
時政が名乗った平氏がまた微妙に上手いところ突いたもので
平氏でも平直方の子孫を称したのよ
直方の娘は源頼義に嫁いでおり、また頼義に鎌倉を提供した人でもある
源頼義→義家→為義→義朝→頼朝という流れで
義家の兄弟には新田や足利の祖である義国や、佐竹や武田の祖である義光が居る
平直方の子孫である北条は頼朝の遠い親戚で鎌倉にも縁があり
鎌倉幕府に影響力を持つ坂東の数少ない源氏たちとも縁戚であると
偶々こういうオイシイ位置付けの人の子孫であったという偶然よりは
そういう位置付けの人を探しだして、その子孫を名乗ったと考えるほうが自然だろう
何しろ家系図が資料によってまちまちなぐらいの格の人なんだからさ

675 :
スレが伸びてると思ったら
治承寿永の乱を語るなら
それくらい知ってるだろってレベルの話で
いきなり盛り上がってんのか

676 :
そらそうよ

677 :
平氏と平家の違いさえわからん奴ってなんなの?

678 :
>>677
一般人です。
自分の知ってる分野だけで居丈高になって、
人を見下すような発言は気に食わんな。

679 :
無学の私には知識をひけらかしてくれた方が勉強になるわね

680 :
>>675
おおよそ2ちゃんねるで、そういう人を見下すような発言をするやつが、
「ではご自分はどんなすごい意見を披露してくれるのか」という
期待に応えてくれるのは全くいない。
文句があるならもっと大勢釣れるネタ投下してみたら?

681 :
釣りかもしれんがそんなレベルなら専門板になんぞ来るなよな
大河ドラマ板ですら常識だろう

682 :
「鳴くようぐいす平安京」の桓武天皇の死後四百年も経った時点で、
「平家」「自称平氏」「平氏」の区別が厳密につくのなら、
それこそ専門板なんかに来るな。 学会で堂々と発表してくれ。
(ちなみに私は基本、清盛の一党には平家、北条時政は平氏」といってる。
今や「平家」と「平氏」は「平氏」のほうに統一されつつあるんだが、
教科書では「源平合戦とは源氏と平氏の戦いです」と書かれている。
それなら日本国文部科学省は、子ども達にこう教えているんだろうか?
「治承・寿永の乱とは“平家”ではなく、全国の平氏と源氏の全面戦争です。」と。

683 :
>>682
学会がどうだか知らんが
平家物語の主役(敵役)を張った連中が「平家」でいいんじゃね?

684 :
そもそも論として、軍事板は趣味カテゴリーなのに、専門って(´・ω・`)ココロセマイ

685 :
>>682ですが、一応、せっかく盛り上がってるときに水をさすことしかしない、
>>675>>677>>678>>681への反論ですのであしからず。

686 :
平清盛がうらやましいよ。後白河法皇というよき上司にめぐり合えたんだから。
普通のことならともかく、「前例のないこと」やろうとしたらよほど理解のある上司じゃなきゃダメ。
「これだけのコストに対してはかりしれないメリットが」などといわれて、
「面白い。ようし、やってみろ!」なんてことはそれこそTVドラマでしかありえない。
大概、「何かあるんじゃないか?」「こいつのいう通りするのも面白くねーな」
あげく「上司のオレより頭いいこいついじめるほうが面白い。会社の売上よりも」ばかり。
「改革」は本当にむずかしい。平家も既存勢力に負けたんだろうか?
同じことをやろうとした義満や信長も、なぜか謎の死を遂げるし。大金持ちだったのに。
いっそ京より遠い鎌倉や江戸のほうが長期安定政権になるんだろうか?

687 :
>>682
注釈なく平氏といえば桓武平氏、平家といえば狭義で伊勢平氏の正盛-忠盛-清盛系の血縁親族、
広義でそれらの郎党、家人を含む一門のこと。学会で発表するまでもない常識。
>源平合戦とは源氏と平氏の戦いです
なんかもうめちゃくちゃで笑いすら出ない。

688 :
平治の乱ですら、源氏と平氏の戦いのようにかいてる馬鹿もいるぜ!

689 :
あ、わかった。なんで神戸港なのか。
博多津や難波津は遠浅の砂浜だから、明治になって開港すると、
大型の船舶が着けず、掘削に苦労する羽目になった。
清盛の時代はどうかわからないけど、博多湾に宋船が入港しても、
陸地には着岸しないで、はしけに載せかえてたみたい。
「大型船が着岸できるようにしよう、どうせなら都の近くに」ということで、
難波津ではなく大輪田泊だったのかしらん?

690 :
>>689
泊と津の意味を考えてみ
どっちにせよ、「大型船が着岸」はできんよ

691 :
もうテコ入れもあきらめたから釣れなくなったわけね・・・

692 :
北条家は平氏で正解じゃね?
最近、これを否定しようとする意見があるらしいが。
なんでも、北条時政が弱小勢力だったのが大きな原因らしい。
でも、同じく平直方の子孫を名乗る熊谷家のほうでも
北条家に対する伝承が残っているらしいしな。
なぜ、北条家が低地位でくすぶっていたのか?

693 :
【古都】鎌倉北条家VS小田原北条家【戦国城下町】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255542078/236

236 :人間七七四年:2012/02/12(日) 00:43:55.50 ID:hL9tGdBS
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、案外伝承どおり、
平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。
平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍している時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、事実忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)が有った。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に対して公家による襲撃事件が多数あった。

694 :
この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。
処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の
実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と名乗っていたが、
処刑された盛方にかわって直方流を継ぐ為に都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。

695 :
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷
に土着し氾藍原の開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での
平直方流軍事貴族としてのキャリアを捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを
始める。
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方
の実子が居る伊豆でのんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争
にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、時方に有ったのかもしれない。
また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛
流の嫡流の座を引継ぐ事になった。
その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の嫡流の座を忠盛に明け渡し
平の姓を捨てて北条を名乗り伊豆に土着し東国の御家人としての歩を始めたのだろう。

【古都】鎌倉北条家VS小田原北条家【戦国城下町】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1255542078/236

696 :
熊谷の方が本家筋とも言われてるそうだが
その熊谷氏すら当主自ら前線に立たないといけない小規模御家人
当時の坂東の武家の殆どは平氏か藤原氏で、多数の平氏が居たのだよ
平氏だからって勢力になるわけでもない

697 :
弱小なだけじゃなくて真っ当な系図すら残ってないんだぞ。
時政以前の系統など事実上不明。
弱小勢力だろうが本当に天皇家に繋がる家系なら系図すら不明なんてことが有るわけない。
元々が系図などどうでもいいような田舎の小土豪だったからと考えるのが自然。

698 :
>>696
もともとは熊谷氏のほうが
北条氏、伊勢氏、伊勢平氏傍流(忠盛、清盛一家)などよりも本家筋で、
平貞盛流、平直方流の嫡流だったけど
平貞盛流の中での権力闘争で、傍流の伊勢平氏で、
その中でも更に傍流だった平忠盛との競争に負け、彼を襲撃し殺そうとしたのを罪に問われて
平盛方が処刑されてしまったのだろう?その平盛方の子孫が熊谷氏。
その結果、熊谷氏の先祖は、貞盛流の嫡流を忠盛流に明け渡すだけではなく、
直方流の嫡流の地位も、北条氏の先祖に明け渡すことになった。
実は熊谷氏も、阿多美を名乗っていた時期があるんだな。
たしか、盛方の遺児が、聖範(北条氏の先祖)に養育されていた時に。
北条氏は弱小勢力だとは言われているけど
一応、京都と関係が深い在庁官人だったわけだから
中央政界の情報が手に入り易かったのであろう。
貞盛流以外の桓武平氏、つまり、貞盛の従兄弟たちの子孫たちは
早くから関東で基盤を構築していたから、源平合戦の時は
勢力を拡大できたけど、熊谷氏と北条氏は、ずっと中央政界のほうに力を入れていたので
関東での地盤が弱かった。
伊勢平氏も同じで中央政界に力を入れていたから基盤が弱かったけど
平忠盛の時に一躍、大躍進を遂げた。

699 :
源氏にも平氏にも言えることだけど
傍系で中央政界での出世を諦めたほうが、
僻地だった関東で開墾に力を入れて勢力を拡大できている。
逆に嫡流のほうは中央政界で高い官位を貰っても、
勢力としては大きくなれない場合が多い。
桓武平氏も、嫡流の貞盛流の子孫は、伊勢だとか、伊豆だとか
少しでも畿内に近いところに移ろうとしている。
でも、その分、勢力としては、小さいままだった。
清和源氏にしても、嫡流の源頼光流のほうは、畿内で高い官位を貰っても
文化人とかやっていた場合が多いだろう?
源頼光流の中でも、長子のほうの系統は完全に文化人で
5男某の系統が摂津源氏の惣領を継いだりしている。
そして、清和源氏の系統で一番成功したのが、傍系の源頼信の系統であり
僻地の関東に下ったけど、そこで勢力を拡大できた。

700 :
源氏全体で見たら、格上の村上源氏は、京都の政界で高い官位を貰っているが
あくまでも公家として領国は小さく勢力は弱い。
格下の清和源氏のほうは、京都の政界では出世できにくかったけど
その分、速い時期に諦めて、関東で大武士団を作って勢力を拡大。
戦国時代の松平家は、本家の太郎左衛門家は、
田舎で本家の所領を継承して庄屋のままだったけどw
分家の安城松平家のほうが平野部に出て戦国大名化した。

701 :
清和源氏が関東で大武士団作った時代なんてないだろ
頼朝は関東の平氏に担がれてただけだし
頼朝死後はすぐに北条に根絶やしにされてるだろ

702 :
北条氏自体、桓武平氏の中では、関東では弱小勢力。
貞盛流は、桓武平氏高望王流の中では嫡流にあたり
中央政界での出世に色気があった連中だから
関東で大武士団を作ることをしなかった。
熊谷氏、北条氏、伊勢氏、関氏、平家もそう。
ただし、中央政界にコンタクトし続けたので、
中央での情勢分析にはたけていた。
平家は清盛によって一時期だが天下をとれたし
北条氏も弱小勢力だったが、京都の情勢にたけていたので、
それが後々に有効に働いた。

703 :
そっか。周りが平氏だらけだから「頼朝をしっかり監視してるだろ」と思ったんだな。
よもや平氏に担ぎ上げられるなんて思ってもいなかったのに違いない。

704 :
>>701
保元の乱の義朝とか、足利尊氏とか新田義貞とかを除外して語るならだな

705 :
>>703
坂東の平氏が平家と仲良しというわけでは全く無い
祖先が同じという以外の関係性なんか無いよ
頼朝本人が一番平家の皆さんと仲良しなぐらいじゃねえかってぐらい

706 :
まあ「四百年前のお父さんが同じです」といわれてもピンと来ないし。
清盛さんも関東の同族に利益誘導してやればよかったのに。

707 :
このころは家という概念がないだろ

708 :
実は平家、つまり、清盛一族も清和源氏と仲良かったんだけどなw
一時期、河内源氏の嫡流にあった源義忠一族とは婚姻関係を結んで仲が良かったし
摂津源氏とも、源頼政が平家討伐の挙兵を上げるまでは、
よろしくやっていただろう?
そういう風に考えたら、明確に
源氏と平氏に分かれてはいない。

709 :
義経ていつから頼朝倒して俺が棟梁になるって野心芽生えたのかな

710 :
そんなもんがあるのか
遊女の子じゃなかったけか
この頃は母親の力がないと何もできないぞ

711 :
義経の場合は由良御前が嫁いだ一条さんは大した格ではないけど
奥州藤原氏という後ろ盾もあるんで、義仲よりはまだ目はある方じゃないかな
また「実家」の格という点では義経と同じ遊女の子でも
藤原範季さんに養育された範頼が頭2つぐらいリードしてる

712 :
義経の功績って別にたいした事ないんだよな
後の世につくられた武勇伝だろ

713 :
義経の武功って
1 宇治川:特に「義経がいたから勝てた」戦ではないような…
2 一ノ谷:大規模な迂回奇襲を成功させたらしいが、実体が今ひとつ解りにくい
3 屋島 :嵐の海を渡っての敵陣奇襲。凄い度胸と運ではある。
4 壇ノ浦:潮の流れを計算して…と言うのには疑問も出ているようだ。
微妙だなぁ。一ノ谷と屋島は、勝利に貢献しているように見えるけど。
壇ノ浦については、開戦時点で平家は戦略的には詰んでいたという見方もできるし。
一ノ谷の戦いは源平合戦の行く末を決めた一大決戦だろうけど、その後の戦いでは
義経が参加していないので知名度が低い、藤戸での源氏勝利が大きかったとも見えるし。
 

714 :
むかし、NHKでやっていたのには
義経って、実は戦のド素人だったらしいし。
ただ、いけいけドンドンの若者。
だから、坂東八平氏の武将たちが、義経の世話に苦労したらしい。
軍規をやぶって勝手に突っ込むからw
義経の八艘飛びなんて、勝手に危険を犯して、あわやって感じになったらしい。
それで、梶原景時が大激怒したとかw
それを頼朝に報告した景時が、なぜか後世は悪者扱い。
普通に考えて、京都で公家の多いところで育てられた義経よりも
坂東の御家人たちのほうが、戦慣れしている。
よく、源平の頃は1対1の戦していたとかいう説あるけど
あれは後世の講談の影響らしい。
あと、蒙古襲来のとき、源平から50年以上たち、
なおかつ、九州の御家人がバラバラでかけつけたから
ド素人な戦いをしただけらしい。

715 :
ド素人に撃退されるほど元軍弱いのか

716 :
>>713
壇ノ浦は逃がして九州で決戦になった方が神器回収と言う点では。。。

717 :
>>713
富士川、宇治・瀬田、一ノ谷までは、甲斐源氏の功績なのが消されて、義経に摩り替えられたくさいんだよな
屋島、壇ノ浦は河野水軍の影響が強いし
義経の功績って言う程でもないけど、それらしきものは、三日平氏の乱時に京を護衛したくらい
その後は、決起しても人は集まらず、九州へ高飛びしようとして失敗
奥州へ逃亡して郎党全滅って人生だから、実はたいした功績ってのがなく
奥州藤原氏を滅亡させる口実を作ったくらいが日本史上の功績かな

718 :
>>715
最初の元寇な。
二度目の時は準備万端。

719 :
みなさん、勉強してるんですね。
ひとつだけ確かなことは「史実通りの義経」を
大河ドラマで描いたら視聴率墜落すること。
「ズッコケ義経」なんておおよそ描かれることはなかった。
「牛バカ丸」が出る漫画が昔ジャンプに載ってたくらいかな。

720 :
最初の元寇のときは、日本側は準備が出来てなくて
九州の御家人たちが、恩賞目当てに各自あつまったので、烏合の衆だった。
二度目の時は、鎌倉方が全国から12万も動員して
九州には4万配置して、万全の状態だったので、蒙古軍も上陸できず。

721 :
義経は、源氏一族の中でも地位は低くはないけど高くもない。

722 :
為義と同じだろ
位わ

723 :
為義はその位を低いと思っていたらしい

724 :
源為義って、誰の子供?
源義家?それとも源義親?
源為義って、本当に河内源氏の棟梁になれていたの?

725 :
義家の子なら、義家の子として通っているはず
なので誰の子か言われない理由は、やはり義親の子ではなかろうか
実際には、義親の子で義家が養育したんじゃなかろうかと思う
確実な史料がないから想像の域にすぎんが

726 :
室町時代に書かれた『尊卑分脈』の記載から源義親の四男が源為義で
先代当主だった祖父の源義家が、当主だった叔父の源義忠の嫡子にと
指定したとある。
『尊卑分脈』は第一級の史料だけど、所詮、室町時代に書かれたもので
当然、それ以前の平安期のことは間違いもあると思われる。
実はそれ以前に書かれたものの多くは、源為義は、
源義家の四男というふうにあるらしい。
源義家が直接,養育したみたいだから、誤解されたのかもしれないが、
源義忠の亡きあと、事実上、河内の所領を相続したのは、
義忠の次男の源義高だったみたいで、
本当に源義家が為義を後継に指定したのか嘘くさい。
また、為義は、ほかの義親の子とされている、つまり、異母兄である義信らtp
まったく交流がなかったみたいで、
通称も、義信らは、父親と後をうけついで、対馬太郎、対馬二郎ってかんじの通称があるのを見ると
為義って、義親の子供ではなくて、義家の子供だったほうが、しっくりくる。
だとしたら、為義の子孫である源頼朝は、新田や足利の弟の家系になるので
源頼朝が源氏の棟梁になるかどうか不安定だったともいえる。

727 :
源平討魔伝で表現するとどういうことなんだぜ?

728 :
源平倒魔伝とか懐かしいな
しかし当時は武士が物の怪と戦うゲームという認識しかなかった
あの武士は源氏で敵は平家だったのかな?

729 :
>>724
普通に義親の子であるはずが、正盛に討伐され反逆者レッテルを貼られたので
祖父・義家が急遽養子として義親を系図から抹消したんだろ。保元物語はその設定で描いちゃってる。

730 :
この時代に兄の家系弟の家系ってそんなに意味があったのかな?
それよりは、母親の身分、官位、総領職に付随する所領や器物の相続
なんかの方がものを言ったのじゃないかと想像していたよ
それでふと思いついたけど、鎌倉将軍が一貫して「鎌倉殿」と呼ばれたように、
源氏ゆかりの地鎌倉の支配者であることは結構重視されてたようだけど、
それは武家源氏の棟梁たる地位とどう関わりがあったんだろうか

731 :
たぶん、母親の出自、兄弟の長幼の順、人物の優劣
全部をみて、棟梁を決めていたと思うけど
為義は義親の子供だったとしても側室の子供じゃないの?

732 :
>>724
まあアレだ
もし、義家と義親の同じ愛人の子だったら、どちらの子かわからんし
どっちでもええや、って事も当時ならありえるから
だれの子なんて意味がなかったんじゃね

733 :
>>711
をい
義経の母は常盤さんだ

734 :
常磐って田舎くさい名前だな

735 :
源為義の通称は陸奥四郎。
叔父たちには、陸奥二郎、陸奥五郎、陸奥六郎という通称がついているので
彼は、祖父の義家に養育されたのは本当だろう?
義家が祖父か父親かは別として。
彼の異母兄弟たちは、
対馬太郎、対馬二郎、対馬三郎、対馬四郎という通称がついている。
この異母兄弟は、義親の正妻の子供だと思われるが、
義親が乱を起こして討たれたため、この正室の実家も連座して罰を受けている。

736 :
むつごろうさんの名前の由来が分かった気がした

737 :
>>736
そっちは有明海だ

738 :
いや北海道だ

739 :
800年前の出来事を、つい昨日のように素人が
語りあうイルボンが羨ましいニダ。カンシャクオコル。

740 :
70年前のことをつい昨日のように素人が
いいたてるの、もういいかげんにしてくれ。

741 :
「方丈記」の「治承の辻風」って、竜巻?
そう頻繁に起きるものではないんだけど、急に増えるんだろうか?

742 :
治承・寿永の乱での平家側の敗北の理由は、
平家が公家化して弱体化したわけでもなく、
源義経が用兵の天才だったからでもなく、
養和の飢饉の影響で兵を集められなかったからなのでしょうか?

743 :
富士川で負けたのが全てじゃね?
あれで鎌倉方は坂東を完全制圧する時間猶予を得ることが出来た
飢饉だの何だの言っても
軍勢を坂東から九州まで遠征出来ちゃう力を鎌倉方が確立した時点で詰みだ

744 :
スレ違いですので、軍板からの撤退をおすすめします。

745 :
>>743
富士川で負けたといっても、その後、墨俣で優勢だった
そこから先へ進めない理由があったのだろう
表向き知盛の風邪って事になっているが
飢饉の影響は大きいと思う

746 :
重盛から宗盛への嫡流交替による軍制の変化が完了しないうちに蜂起が勃発して
傍流に転落した連中が出発に際してサボタージュしたのも大きかったと書いてるな

747 :
清盛は惟盛を押してね?

748 :
「強訴じゃあー!!」とよく比叡山が神輿持ち出してるけど、
さすがに鎌倉までおしかけるわけにはいかなかったんだね。

749 :
>>748
途中で疲れてやめるだろw
まあ出先の六波羅探題はやっぱ迷惑なんだろうが

750 :
政権が鎌倉に移った以上、宮中に神輿が押しかけても、
「あー勝手にすればあ?」ですむんじゃない?
六波羅に押しかけたら、平気で神輿に矢をうちかけてきそうだし。
室町期には強訴に負けて佐々木道誉が流罪になったが、物見遊山のようだったという。

751 :
結局坊主の特権は明治維新まで手を付けられなかったからな
明治後も免税特権だけは今に至るも残ってるし

752 :
>>747
維盛も藤原忠清も平氏の軍制の中枢からは外されてる。

753 :
>>748
この頃は清盛にも仏罰が武門に及ぶのを恐れるという発想があったが、
治承4年の南都焼き討ちのあたりから次第にタブーが薄れていった面はある

754 :
興福寺が藤原不比等祭ってるんだから、そりゃ藤原摂関家が落ちぶれなきゃ
誰も手が出せんがな

755 :
源平の能力値を決めるスレ
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1341890910/
バカばかりで吹く

756 :
平清盛はなぜこんな時期にという時に亡くなっていますが、
清盛の死は平家の滅亡を早めましたかね?
それともあのときになくならなくても治承・寿永の乱の結果は変わらなかったでしょうか?

757 :
河野水軍し熊野水軍の裏切りは無かったと思うな
あと緒方

758 :
>>756
清盛が生きていたら後白河院政の復活はない。
よって反乱軍は求心力を持ちえず、高倉−安徳をいただく平氏の正統性は揺るがない。

759 :
安徳帝が成人するまで重盛が生きていたら平家が摂関家になっていたかも。

760 :2012/10/28
>>758
高倉天皇は清盛より先に亡くなってるんですが ?
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