2013年05月戦国時代43: 【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】 (515) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】


1 :2006/06/16 〜 最終レス :2013/05/02
語りましょう!

2 :
ほんとにひといないね
2げっと

3 :
卑怯者

4 :
五輪の書。

5 :
作州浪人、宮本武蔵いざ参る!

6 :
ほんとにひといないね 6げっと

7 :
関ヶ原では活躍してないのだろうか

8 :
関ヶ原で活躍?何言ってんだ

9 :
関ヶ原いたらしいね
足軽で

10 :
しかも西軍。
足軽として、敵を討ち取ったりしたのかな。

11 :
ほとんど怪我で途中退場

12 :
なにもしてねー(´Д`)

13 :
卑怯者がどうしたって?

14 :
どうしたって?

15 :
F1ドライバーの赤き皇帝こと、ミハエル・シューマッハが宮本武蔵と評価されてるんですが、彼のどういうところが評価されてるんですか?
ちなみにミハエルは、勝つためならどんな卑怯な手も使うドライバーなんですが

16 :
佐々木にとどめをさしたのは、武蔵じゃなくて武蔵の部下らしいね。

17 :
まじで?

18 :
そうらしい・・・
武しゃん、との決闘の後、小次郎様は一命は保たれたらしい。
五輪の書(原本は現存しません)でもコノ勝負の事は多くを語っていませんし。
でもね、鉄砲、大砲が重視される中、白刀戦にこだわった生き方は好きです。
二刀一流 新免宮本武蔵玄信さん カッコイイよ!


19 :
>>16
武蔵の弟子じゃなかったらしいよ。
トドメを刺したのは武蔵の弟子に見せ掛けた小倉藩の手勢。小倉藩の中で小次郎は嫌われていたらしい。
小次郎の排除に武蔵は利用されただけ。例え武蔵が負けていても小次郎は武蔵もろとも殺害された可能性が大きい。
決闘後、武蔵があわてて逃げ帰ったのも身の危険を感じたからだと思う。

20 :
いったいどっちが本当なんだよ・・・。

21 :
アウアー

22 :
JRA最強の剣豪・後藤浩輝と宮本武蔵どっちがつおいでつか?

23 :
あうあー

24 :
武蔵!!!!!!!!!!

25 :
>>22
騎乗で戦えば浩輝

26 :
コジローってほんとにあうあーだったの?
何らかの記録が元になってあの漫画でそうなってるの?

27 :
うおっ まぶしっ

28 :
あうあーわないでしょー

29 :
素人の質問なんだけど 出身はどこなの??岡山だっていったり兵庫だっていったり・・ 頭おかしくなる!!

30 :
岡山と兵庫の境目近くの山村だけど、たしか岡山

31 :
武蔵って、今の2ちゃんで言う「DQN」だよね?

32 :
たしか風呂が大嫌いだったとか、臭っ

33 :
でも江戸時代の人ってあんまり風呂って入らなかったんじゃない?

34 :
ほんとに卑怯者なのか?


35 :
風呂全然入ってなくて逆に遊女たちにモテモテだったって聞いた

36 :
佐々木小次郎の存在は確かではない
いなかったかも……

37 :
じゃあ、巌流島で武蔵と戦ったのは誰?小倉藩の正式な記録にも佐々木小次郎の名が出てきてる。
ただし武蔵と戦った時の小次郎の年令が、下は18から上は70過ぎまでいろんな説があるみたいだけど…

38 :
あんたら、バガボンド読んでろ。

39 :
もう読んでるよー。

40 :
佐々木小次郎は実在しなかったみたいだよー?

41 :
うそだーヽ(`Д´)ノ

42 :
いや実在していたが、いっぱいいてどれがどれだか分からなくなったらしい

43 :
本を複製するとき78を18に書き間違えたとか聞くけどね
18で免許皆伝とかありえなくね
宮本武蔵は老人ぬっ殺して狂喜乱舞

44 :
78歳の老人を斬らんだろ。普通。
18なんじゃない?

45 :
巌流島での武蔵はいくつなんじゃ、
18も78も妙だ

46 :
富田勢源の弟子だとすると五十は逝ってないとおかしいんだっけか?

47 :
あうあーあー
うー
あっ……

48 :
武蔵は大阪の陣にいたって言うけど活躍したのかな?

49 :
>>48
徳川方の記録では、かなり活躍したらしいよ。文の終わりが「〜見事也」で締括ってある。首級三ケタ近く挙げたらしい。


50 :
>>47
小次郎!?小次郎なのか!?

51 :
>>45
29歳。

52 :
>>49もしそれが本当ならリアル戦国無双だな!

53 :
>>50
又吉だな

54 :
>>49
ウソだろ

55 :
ちょっwwwwwwwバカボンドオモシロッ

56 :
武しゃーん

57 :
佐々木小次郎と申すもの…




嘘じゃぼけっ!

58 :
あうあー

59 :
ギアイ

60 :
誰も武蔵に興味ないのか

61 :
ふつうにあるっすよ!!!

62 :
BASARA2で武蔵登場だって

63 :
>>62
子供っぽい武蔵だねー、若さを感じる。

64 :
このスレはこれからうおっ!まぶしっ!だけで 千目指すスレになりました

65 :
まじでぇ?それかなりきついよぅ

66 :
武蔵って筋肉隆々だったんだろ?
あの時代ってどうやって鍛えてたんだろ・・・やっぱ岩の持ち上げ持ち下げとか?

67 :
筋肉質だったんじゃない?

68 :
武蔵は二刀流ではなく、実は二人いた

69 :
宮本武蔵は一人でしょ

70 :
ふたなり?

71 :
>>66
片手で素振り

72 :
保守

73 :
あうあー

74 :
>>48
水野隊にいたらしいね。
そうすると後藤隊と戦ったのか。
その後大坂城に乱入、虐殺強姦のし放題?

75 :
それ超悪くない?

76 :
武蔵が生涯不犯だったのはガチなんだろうか??

77 :
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした。
中学校の同窓会に行こうとしたら
「中学の時のクラスメートや先生に、愛知のキチガイ脳糞古川だなんて、わかったらどうする。
 みっともない。
 愛知のキチガイ脳糞古川の身で、同窓会なんかに行くな!」
と怒られた。

「同窓会くらい、いいだろう」と反論したら
「親の言うことが聞けないのか!」と玄関先から、家の中に
押し倒された。

脳糞古川だと、同窓会にも行けないのか?

78 :
>>30
たしかに県境。
生誕地の裏山を越えればそこは兵庫県。
おれの母方はその旧宮本村出身
この地区の菩提寺は兵庫県側にあったりするので
けっこう昔は美作とか播磨とかが曖昧な土地柄だったんじゃないかな?
ただ、峠を越したらあからさまに関西弁と岡山弁とにわかれるから面白い。

79 :
スポーツじゃないんだから、勝つために何でもするのは仕方ないだろ。
実際武芸者を名乗ったら、どんな形にせよ死んだもの負けでしょ。
24h臨戦態勢でないと生き残れない世界に自ら飛び込んだ物好きの
集まりなんだから、今の道徳観で卑怯だ汚いだ言う方が基地外だね。

80 :
ガチャピンが撮影に来たことがあります。
思ったより小さくて(155cm位?)
中に人が入っていると思ってた私は、その大きさがリアルに怖かったです。
動きも妙に俊敏で、周りからも孤立していて薄気味悪い存在でした。

81 :
おまえら、少しはスレの流れってものを意識しろよww
コピペ厨はR

82 :
>>81
80は、ガチャピンは「現代の武蔵」って事を言いたいだけだよ。

83 :
>>76
バガボンドの武蔵はRっぽいな。
現実のは・・。不犯説もあるが、普通にヤッてんじゃね?
武蔵の強さは狡猾さだからな。禁欲して野獣になる手もあるが、あのしたたかさは、
Rのもやもやした頭から生まれるものじゃない。

84 :
test

85 :
ドラえもんから電光丸パクっていきました。

86 :
兵法の仕合に狡猾・卑怯なんて現在の価値観を当て嵌める事がまずおかしい
侍は何をするについても先ず勝つ事が第一
個々の戦闘に勝ち、集団戦に勝ち、主君の為、自身の為、名誉を轟し身を立てる為に身に付けるのが兵法というもの
「お互い納得の行く清々しい試合をしましょう!」なんてスポーツ化してからの戯言

87 :
63 :名無したんはエロカワイイ:2006/08/05(土) 15:11:56 ID:0aJKKijM
アポ無しで果し合いを申し込んでくる武蔵
自分のホームグラウンドに来させる武蔵
ちゃっかり罠を島中に仕掛けまくってる武蔵
勝負が長引くと勝手にスタコラサッサな武蔵
そこまでやっといて負けたらもっかいやらせろとゴネる武蔵
挑戦者の鏡ですね
64 :名無したんはエロカワイイ:2006/08/05(土) 15:13:43 ID:0aJKKijM
×アポ無しで果し合いを申し込んでくる武蔵
○アポ無しで果し合いを勝手に決定する武蔵
65 :名無したんはエロカワイイ:2006/08/05(土) 16:24:21 ID:tpMrqlT/
亀田パパの教科書「五輪の書」
遅れて来て相手をイライラさせようが
太陽(照明)を背にして目くらまししようが
足下の砂を投げつけようが
勝負は勝てばよろしい
66 :名無したんはエロカワイイ:2006/08/05(土) 16:25:14 ID:tpMrqlT/
審判買収しようが が抜けた

亀田「俺様最強!」

88 :
武蔵今テキトーに紹介された>テレビ

89 :
無双2で小次郎が武蔵に対して「いいにおいがする」という発言をしていたが
確か武蔵は風呂嫌いだったよな?しかも追い討ちをかけるように
「僕の好きなにおいだ」発言。
うおっまぶしっ

90 :
変態男佐々木小次郎

91 :
武蔵相手により戦い方をかえる 二刀流・木刀・待ち伏せ・試合遅れたり頭いいし二刀振り回せる力と敏捷さに感服する

92 :
あげ

93 :
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/budou/1157205446/1-100
木刀を語るスレ。

94 :
>>19
小倉藩の家中で佐々木一族というのが大きな勢力でありそれを藩主に
疎まれていて武蔵に小次郎との決闘を頼んで佐々木一族の勢力を削ぐつもりだったという
説とかありますね。
>>66
生まれつきの腕力だったらしい。
青竹を握りつぶす握力なんてトレーニングでは無理だと思う。


95 :
剣術以外にも、芸術方面でもカナリのものだと思う
また、播磨明石の町割りを担当した

96 :
>>89
生涯風呂に入らなかったが行水はしたらしい。

97 :

「柳生宗矩と比較すれば、武蔵は囲碁で言うところの井目も強い」
と同時代人にして宗矩の門弟、渡辺幸庵の評価がある。

98 :
巌流島の決戦で、ホントは武蔵は卑怯な手を使って小次郎を倒したって
テレビでやってたんだけど、ホント?
そのテレビでは、武蔵はあらかじめ巌流島で待ち伏せしてて、穴掘って
5人がかりで小次郎リンチしたって放映してた。

99 :
関が原で宇喜多の一雑兵としてRばよかったのに

100 :
>>98
>>19

101 :
ここまで読んで初めてスレタイを見直してバガボンドスレじゃないことがわかった

102 :
>>10
関ヶ原合戦従軍では東軍だ。活躍はしていない。
西軍に参加したというのはフィクション。
>>76
普通にプロの女を抱いてる。
ただ、醜男で性格も悪かったためか、結婚はしなかったが。

103 :
>>98>>100
巌流島の決闘に関しては、二天記やら沼田家記やら丹治峯均筆記やら江海風帆草で全然違うがね。
案外行きずりの武芸者同士の決闘程度のもんだったんじゃねえの?
第一、小倉藩の公式な試合だったら、九州より本州に近い島をわざわざ決闘場所にするかね?

104 :
存在がフィクション

105 :
武蔵はここに生きておる
http://www.gametrailers.com/umwatcher.php?id=26779

106 :
武蔵が巌流島で使用した武器は木刀ではなく棒。
だから小次郎に剣術で勝ったとは言わない。

107 :
で、伊藤一刀斉とどっちが強いの?

108 :
一刀斎が実在してるかも分からんのに比較なんてできん

109 :
安芸

110 :
サイコーサイコーサイコーサイコーサイコーサイコーサイコー

111 :
じゃあ上泉信綱とはどちらが強かった?

112 :
直木三十五先生曰く「上泉信綱のほうが偉い」だそうだw

113 :
バガの夢想権乃助は、ちゃんと武蔵と戦うまでに成長するんだろうか・・・
ていうか再登場するのだろうか。
一応夢想流杖術の開祖なのにな

114 :
五輪の書読んだんだが、宮本武蔵って渡来人じゃね?

115 :
武蔵が渡来人ってのは新しいな。
何で渡来人だと思ったん?

116 :
理由は勝つためにはなんでもすることと、大男ってだけなんだけどね

117 :
長文ですまんな。
二天流の継承者の書いた記録はマンセーばっか。
(『小倉碑文』『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』なんか)
要するに亀田一家で亀田興毅の試合の記録を書いてるようなもんな。
逆に他人の記録ををみると武蔵が巌流と交わした武士同士の約束を破って多く
の弟子を引き連れ加勢させたという記録が多い。
『西遊雑記』なんかに記録されてる地元の民間伝承や『本朝武芸小伝』にある
中村守和が語る話もそうだし。
だいたい当時の武蔵の使う武道は新免無二の当理流ベースだから
弟子達が手裏剣術とか、小具足のヒモとかで、遠くからわかんねーように
巌流の動きを封じてったんだろーよ。
更に昭和後期に見つかった『沼田家記』の試合後の記録な。
卑怯な行動に怒った巌流の弟子達に追われて必死で逃げて、沼田のおっさんに
助けてって匿って頼んで城に匿ってもらって
更には鉄砲隊で警護してパパ(無二)のとこまで送って貰うんだぜ。
★どう考えてもフツーの一浪人への待遇じゃないよな。
調べてみるとそもそも沼田延元って細川忠興の従兄弟で、新免無二は細川家に
弟子がものすご多いんだよ。要は親戚の師範のワルガキを匿ったようなものな。
沼田家記の表現もあんまし身内の武蔵の事を悪く書けず微妙に抑え気味な表現
なんだが、それでも奴の卑怯さは伝わる。
★もともと武蔵と巌流で小倉の師範としてどっちが優秀かって決闘だったけど
 勝ったあと、小倉から逃げ出してパパの住んでるとこに行くんだぜ。
 小倉で師範できなかったんだよ。
みんなが卑怯さにあきれかえって白けてもう小倉に居場所がなくなったって事な。
『桜庭を、ヌルヌル作戦で破って殺した秋山』みたいなもんで
強い武蔵すっげー!マンセー!ムードなど出るはずなかったのはわかるよ
地元には試合後百数十年も「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承が残ってるし
だいたいついた島の名前も武蔵島とか新免島ではなくって、
わざわざ 「 巌 流 島 」 だぜ。
何をかいわんやだよ。

118 :
>>98
>>19
藩士だから武蔵の弟子でないなんて決めるのはおかしい。
1605年くらいに関ヶ原の論功で移封して
当時細川忠興が小倉を治めるようになったとこだよな。
そもそも無二って前から細川藩に弟子一杯いるから
藩士は無二の弟子じゃねーのかな。
http://homepage3.nifty.com/ganryu/musashi/munimen.htm
まあこれは偽書かもしれないけど。
そうでなければ本当に「沼田家記」の通り
武蔵が小倉で教えていた藩士か。

119 :
で、その卑怯モンの武蔵さんの紹介で出仕した伊織が筆頭家老になってたり、
明石の町割りに参画して城や寺院の作庭を行ったり、
細川家に客分として迎えられてかなり良い待遇受けたりしてる件については?
本当に卑怯な試合やってたんだったら、こんな風に色々な大名との接点生まれるかね?
あとね
>地元には試合後百数十年も「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承が残ってるし
百数十年伝わったから「巌流は負けたけど侍の誉れ!」的伝承に変形してったんじゃないの。
巌流島も同じく、地元の判官びいきのあらわれだと思うけど。

120 :
>119
晩年の細川の客分評価はその後の各地での活躍だろ
巌流島直後細川藩じゃほとぼり冷めるまで使ってくんないから
大坂の役んとき広島の水野勝成んとこに行って大活躍したんだろ。
そのあと姫路だっけ。
今みたいに情報網発達してないから、あっちなら小倉なんてローカルエリアの情報より、どっちかいうと京都側から入ってくる評価のほうで雇ってくれるだろうしな。
小笠原行った伊織は伊織でまた活躍してる評価されてるしさ。
小倉に宮本が戻れたのは移封でとのさんが小笠原に変わって以降

>地元の判官びいきのあらわれだと思うけど。
  ,j;;;;;j,. ---一、 `  ―--‐、_ l;;;;;;
 {;;;;;;ゝ T辷iフ i    f'辷jァ  !i;;;;;  
  ヾ;;;ハ    ノ       .::!lリ;;r゙  そんなふうに考えていた時期が
   `Z;i   〈.,_..,.      ノ;;;;;;;;>  俺にもありました
   ,;ぇハ、 、_,.ー-、_',.    ,f゙: Y;;f   
   ~''戈ヽ   `二´    r'´:::. `!
 判官びいきじゃ「沼田家記」の説明がつかんのでは。 
 まあ「沼田家記」が地元の伝説とりこんだうそっぱちの出鱈目文書ならばわかるけど。

121 :
巌流島・武蔵英雄伝説ってのは小倉碑文を元にした二天流継承者による身内ルートしか残ってない。
(江戸時代のエンタテイメント系は論外な)
それに対し、巌流島・武蔵卑怯者伝説は、地元伝承と細川藩士沼田家公式文書の2ルートで残ってる。
だから後者に説得力を感じる。

122 :
>沼田家記
伊織の奉納した棟札との矛盾がある(棟札のほうでは無二は既に死んでる)し、
巌流島の決闘についての記事は民間伝承が混じりこんでるんじゃないの。
慶長年間の無二についての史料も後世編纂された分限帳、名前がてんでバラバラの免許、
無二としか書かれてない慶長日記だから、棟札を否定するに足る代物だとは思えないし。

123 :
泊神社棟札が100%真実で天正年間に無二が亡くなっていたなら
関が原の時黒田家家臣になってた記録の残る無二は何者なのかという話もある。
「武州傳来記」も100%ウソになる(武蔵を勘当できないしね)
ついでに『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』も全滅で、武蔵英雄伝説を書いた文書は崩壊。
まあそれぞれの文書の無二の記述だけウソで巌流島武蔵英雄伝説だけは真実だ!
と主張はできるかもしれないけど、ご都合主義すぎて説得力がない。
もうひとつ慶長日記は単独では評価できない
平姓杉原氏御系図附言の延俊の項「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」ってのがある。
まあでもこの「無二斎」は実は「無三四」だったって説もあるけど。

124 :
書き忘れ
泊神社棟札を信頼すると「小倉碑文」もウソになる。もしかすると矛盾しないかもと思って読んでたけど、
父・新免、無二と号し、十手の家を爲す。武藏、家業を受け、朝鑚暮研、思惟考索して、灼に知れり、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきと 。
新免死んでたら、武蔵に十手を教えられないっす。

125 :
関ヶ原の時の黒田家の家臣云々は分限帳のだろ?それは上記のレスに書いたとおり後世のもの。
平姓杉原氏御系図附言も宝暦元年で随分と時代の下ったものだから、棟札のほうに軍配が上がると思う。
棟札は年代だけでなく、養子の伊織によるものだから、そんな信用の置けないものだとは思えんが。
で、無二に関する記述が誤っているからといって丹治峯均筆記を始めとする伝記全てが正しくないとは言えんだろ。
丹治峯均でも武蔵の五代後だから、正しく伝わった内容と誤って伝わった内容が混じっていてもおかしくはない。
あと、俺も別に巌流島武蔵英雄伝説とやらが正しいとは思わん。
ただ。卑怯者伝説とやらも同じぐらい正しいとは思えないってだけ。
英雄か卑怯者かの二択ではなく、普通の武芸者兼それなりの知識人だったと俺は考えてる。

126 :
>>124
どこに無二から直に教わったと?
・父の新免は無二と号した
・新免十手の家をなした
・武蔵は新免家を継いだ
・武蔵はその術を研鑽した
・武蔵は十手は一刀より有利と知った
これ以上の情報はこの文中には含まれていないだろ。
これだけなら棟札との矛盾はないぞ。

127 :
新免家を継いだ、じゃねえな、家業を受けただな。

128 :
平姓杉原氏御系図附言は、棟札より前の慶長18年日記の信頼性UPだけだよ。
ふたつ合わせると
少なくとも豊後の日出に、無二とか宮本無二斎とか呼ばれる人物がいて、細川忠興の義弟に剣術教えてたぞと。
巌流島が慶長17年なら、「沼田家記」にある武蔵を送った「豊後の無二」は多分こいつだろうと。それだけ。

ところで神社棟札の文ってそんなに信頼性高いんだっけ。
>正しく伝わった内容と誤って伝わった内容が混じっていてもおかしくはない。
うん、新免生存と武蔵英雄伝説、双方否定する外部文書があるわけで信頼性は同等だよな。
ただ身内ほめまくり文書はあんまし信用できんという個人的感覚。おいらのは。

129 :
ああわかったまあ無理やりだがそうも読めなくもないな。
弟子か伝書が残ってて、新免の技を教えるか勉強して貰って
家業を継いだと無理に読めばな。
しかし強引だな。

130 :
ていうか、やっぱ考えれば考えるほど強引すぎ
普通、無二が死んでから引き継いだって情報があったなら、小倉碑文にもそう書くだろ。
あの小倉碑文だけで自然に「無二が死んでいて 家業を受けた。」なんて理解できる人間いないぞ。
誰もそう読めないから『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』 に無二と武蔵の話があるんだろ。
なぜ『泊神社棟札』だけで『慶長18年日記』『沼田家記』『平姓杉原氏御系図附言』『武州傳来記』『武公傳』『二天記』『兵法先師伝記』
の全部を否定できるのかよくわからん。
というか棟札作ったとき伊織が事実誤認してただけじゃないの?
伊織は無二とは当然会ってない訳だし。
で、一年後碑文作るときには何らかの情報得て事実誤認がわかった。それだけじゃね?


131 :
家業を受けて朝に晩に研鑽したとしか書いてないんだから、父から教わったとも他から教わったとも断ぜられないだろう。
同じく伊織の奉納した棟札には、無二は天正の間に跡継ぎがなく死んだとあるから、父からは教わってないだろうと。
泊神社の棟札については、武蔵死後最初の資料で、後世のものよりはこちらの記述を採るべきだと思うのだが。

132 :
>>130
誰もあの碑文だけで「無二の死後に武蔵が新免家を継いだ」と書いてあるとは言ってない。
上に書いたように、神社の棟札と碑文合わせて考えればこうなる、って言ってるだけ。
で、誰も上記の史料全否定なんて言ってない。
無二については、棟札に載ってる説を採るべきだって言ってるの。

133 :
上の続き。
その上で、沼田家記の巌流島の記述は素直に肯定できないんじゃないかと。
巌流島については「武蔵と巌流が戦って武蔵が勝った」以上は断言しかねると俺は言いたいの。

134 :
まあウソや誤記が入っている可能性を考えて慎重にいくぞというなら
沼田家記も棟札も小倉碑文とそれ以降の身内マンセー文書も信頼できない。
それはわかる。それならわかる、すんげーわかる。
キャラへの感情移入・贔屓目は捨てて
「武蔵と巌流が戦って武蔵が勝った」という淡々とした情報だけが正しいって話だよな。
それは他の史料も伝説も全く否定はしていないよ。
沼田家記、下関伝説ともに「武蔵と巌流が戦って武蔵が勝った」話だ。
「巌流が勝った」なんて書いてないし伝わってない。
どう勝った、勝った後どうした、という話は付加されているが。
まあ俺らは所詮、数百年後の世界で残された情報の取捨選択し
そのシーンを想像して遊んでるだけだよ。
だから俺は淡々としてるとツマンネ。
いろいろ想像して考えて書くぞと。
それがこのスレの正しい姿だろ。

135 :
>>132
分かりにくくてすまん。130でかきたかったののは、仮に棟札の情報を信頼するなら
「無二と武蔵は生前に会っていない・武蔵が継いだときには無二は死んでた」
という家にとって重要な情報を、碑文に一切書いてないのが理解できないって話。
碑文と棟札が矛盾していないなんてのは言葉尻いじったこじつけにしか見えない。
政治家の強引な日本国憲法9条解釈でイラク派兵するみたいなもんで。
棟札と碑文は、碑文側に明確な無二死亡情報がない時点でズレてるんでね。
ってはなし。
…古いほうが信頼できるというなら、慶長18年日記は武蔵生前の史料では?

136 :
>>135
碑文自体は別に新免家云々を書くものでなく、武蔵個人の業績を称える目的のものなんだから、
新免家について突っ込んだ記述をしてないのは別に不自然だとは思わんが。
棟札のほうは、「私はこういう出自ですよ」と伊織の生家の田原家、養子に入った新免家を書いているから、
「武蔵という人は、嗣子なく死んだ新免家に養子に入って継ぎ、私もその武蔵の養子となって宮本家を継いだんですよ」
と無二の死亡情報を書いた。
碑文のほうの一文は、「武蔵の二刀のもとは十手にあったんですよ」ということを書くのが目的で、
別に武蔵の家の情報を書くのは目的じゃないんだから「父の無二の家業を受けて研鑽して、悟ったんですよ」
とだけ書き、死亡情報は書かなかったと。
慶長日記自体には、無二=武蔵の養父とは書いてないでしょ?
時代が下ってからの平姓杉原氏御系図附言から推察して無二=武蔵の養父だってのは首肯しかねると。
それに宮本姓も、武蔵の代からだと棟札にはあるから、
「免許もあるよ」と言ってる割には宮本無二斎と書いてるのも疑問。

137 :
あ、それと、色々想像して云々なら、個人的に思うのは、巌流島はかなり本州寄りの島で、
豊前の人間が出張ってく場所と思えないってのがあるんだよね。
だから、俺としては巌流が豊前の人間だったっていうものよりも、
長府の人間だったとしてる伝説のほうに個人的には説得力を感じる。

138 :
>136
棟札(家系紹介)と碑文(個人紹介)の目的差から情報に相違が生じたのではないかとの説はわかった。そうかもしれない
ただし碑文は武蔵個人の紹介だけど
「父・新免、無二と号し、十手の家〜中略〜十手を改めて二刀の家と爲す。」
ここのとこは武蔵の属する新免家の紹介では?
棟札のほうは、おそらく、宮本村の平田武二と混同したのではないかと個人的には思っている。天正8年に死んでるって記録もあるそうだし、
いろいろ読んでるとどうも、宮本村に天正年間に無くなった武二と、慶長まで生きてた無二の二人がいるように思えるんだよな。

>慶長日記自体には、無二=武蔵の養父とは書いてないでしょ?
百歩譲って、養父と確認はできないし新免ではないかもしれんが、それでも武蔵の生きている当時、慶長年間、豊後・日出城主に剣術を指南している「無二」なる武道家が豊後に居たという証拠にはなるよな。
だから、もしも棟札どおり武蔵の養父が死んでいたとて「沼田家記」の
「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
これが誤りとはいえない。
つまり(親かどうかはわからんが)武蔵を警護して、(慶長日記にある)豊後の「無二斎」なる武道家のとこまで送ったってことだからね。
棟札は「沼田家記」を否定しないし、慶長日記は「沼田家記」の信頼性を上げている。
まあそうすると「平姓杉原氏御系図附言」のほうは、無二って名前から類推して「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と書いたってことだな。
…ところで気になるのだけど、沼田家記、ネット上検索すると
1、「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
2、「道を致警護無別条豊後へ送届武蔵親無二斎と申者に相渡申候由に御座候」
 この2バージョンあるね。どっちが正しいんだろう。
もし1が正しいのであれば矛盾はない。
2であっても、身元引受人の武道家「無二」を沼田側が勝手に親だと勘違いしただけと解釈もできる。
沼田延元の慶長時代の手記を沼田家記に編集するときに「親」と足したのかもしれんよね。
なんせ編集時にはもう「小倉碑文」経由で武蔵の親は無二っていう情報があるんだから。

139 :
>長府の人間だったとしてる伝説のほうに個人的には説得力を感じる。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&layer=&ie=UTF8&z=14&ll=33.934815,130.933428&spn=0.030194,0.086517
なるほど、昔と今で地形変わっているかもしれんけど、
門司側から1km余だけど、彦島側からなら300mくらいか。
確かにここの海流がはやければ門司側から渡るのは面倒そうだな。


140 :
>137
>139
距離の問題ではなく海流、逆らえば少しの距離でも必死だし、乗れば長距離も楽
下関近辺は海流が一日に数回変わる
海流の状態が良ければ小倉からでも比較的楽に彦島&巌流島に行ける
武蔵が巌流島から門司へ逃げる場合も同様
それから今の巌流島は埋め立てで当時の数倍の面積になっているから今の地図
をみても参考にしかならん

141 :
http://members.jcom.home.ne.jp/t-sakamo1b/genzonsuruinohzu/ube-kokura.htm
伊能図の小倉近辺の図。
巌流島は現代に比べかなり小さい。

142 :
小倉碑文にツッコミ。
二刀兵法の元祖と為るなり。
 =>ウソばっか
十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきを灼知す。
 =>五輪書と矛盾するだろ。伊織は理解してないのか。
  …伊織、武蔵と生前ちゃんと会話してるか?
  ウソかホントかわからんテキトーな昔の自慢話ばっか聞かされた系だろ。
或ひは真剣を飛ばし、或ひは木戟を投げ、北る者、走る者、逃避する能はず。
 =>当理流には手裏剣技あるからわからんでもないけどさ
其の勢、恰も強弩を発するが如し。百発百中、養由も斯れに踰ゆる無し。
 =>荒唐無稽の創作しすぎ
新当流有馬喜兵衛なる者
大力量の兵術の人、秋山
 =>ふたつとも他に史料がないヨタ話。
扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り。
 =>吉岡側にも吉岡伝があるから本当に試合はしたんだろうな。
  でも相互に相手の記述が同レベルのウソっぽさ。
  「清十郎」「伝七郎」「又七郎」どこの誰だよそれ
  「松平忠直の家臣・奥羽の無敵流・宮本武蔵」どこの誰だよそれ
  吉岡伝を荒唐無稽っつー奴がいるが碑文も五十歩百歩。両方とも身内ぼめだしな。
  まあどっちが勝ったかわかったもんじゃないな。
  洛外下り松の百人相手はありえない。他の史料にないし、荒唐無稽な創作だろ。
  吉岡滅んでないし。
新免無二をして日下無双兵法術者の号を賜ふ。
 =>そんな記録ほかにあるのか?
爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。
 =>小倉・引島近辺に伝承もあるし、沼田家記もあるからまあ決闘はしたし勝ったんだろ。
  でもなぜ碑文以外の伝承・記録は武蔵卑怯者なんだろうね。
  事実細川藩はその後師範としてないし、よっぽどひでー決闘だったんだろうよ。
  勝てばいいという系ってなら…「五輪書」とは矛盾しないけどね。
  あれか、要は地元の武蔵卑怯者伝説を消したいから碑文立てたのか。
十三より壮年迄、兵術勝負六十余場、一つも勝たざる無し。
 =>証拠のない妄言。つうか自慢話を真に受けすぎだって伊織。
且つ定めて云く、敵の眉八字の間を打たざれば勝ちを取らずと。毎に其の的を違はず。
 =>五輪書にそんな事書いてないよ。

143 :
>103
あそこはかなり海流があるから距離だけじゃ計れない
それなりの広さがあって逃げにくく、他人の迷惑のかからない場所ならどこでも良かったのでは

144 :
>>142
吉岡道場って滅んでないのか、あんなにボコボコにされたのに。
バカボンド読んだだけだけど。

145 :
糞みたいな漫画読んでないで吉川嫁

146 :
歴史認識でいったら
吉川もろくなもんじゃねーだろ
勝手にストーカー女足すし。

147 :
>137
>139
幅1.5`bの海峡で本州寄りったってせいぜい数百メートルじゃん
これが10`bも差があるなら137にも説得力があるんだが

148 :
バガボンド面白いじゃん
絵ばかりで10分で1巻終わるがw

149 :
バガボンドに又七郎はいないんだね、つか植田って誰だよ。

150 :
>142
新当流有馬喜兵衛なる者
大力量の兵術の人、秋山
 =>ふたつとも他に史料がないヨタ話。
五輪書にあるが

151 :
バガボンド→○
バカボンド→×
剣だけで生きた武蔵が、晩年になると書などだけとは…。
仮説だが、本当の武蔵は肥後に入る前に既に亡くなってて、別人が入れ替わったかも?

152 :
バガボンドの小次郎
かわゆい
(*´Д`)ハァハァ

153 :
うぐ〜

154 :
           _ ,. - '' "~ ~’ ー- 、
.        ,. ´  _,, . -‐ '' ~ ニニ= 、
        /  ,r'" _ ,. -‐ '"     ヽ. うぐぅ  
       ,'   /,- '~/   、  ;  . ヽ.ヽ.ヽ
.       {  i { {./ / ノ'i .i ! }i !i }. }i. }
        } /^{. {r 'ソ_ }.ノ }ノ },ノ_}ノ,ノ i}ノ 兵仗弓箭で武装した
.       / .ノi (.ヽ ヽ  O    O  }V {.   数百人の武人集団と
   , ー-{ {. {`i-'ヽ. ヽ.o     o ノ、._ \   闘って生き残るのも
   \_ ヽゝ_ヽ.ヽ_.ヽ. ヽ./ ̄~`i' ̄\i /`;ノ 奇跡だよね。
      >   {イiニ=. `_/   i^ ) (^i h-'}.
    く__   ゝ `   [^` ー -‐']'` ー '〈 /
      ~)  ヽ.  ,.i` ー -‐ フ[.` ー ' .!
      "ー‐e〉ヽ._      /oi    /
.         {   ` ー -‐ ' o ` ー 'i、 
.           〉、       ,、.    ` ー- ,

155 :
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g55753565

156 :
★★★ああ残忍!戦時中、アジアで最も嫌われたのは朝鮮人だった!★★★
■ある医師の述懐 『キヤンガン、山下将軍降伏の地』
フィリピン人「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html
■当時の中国人が描いた漫画 「日本の軍旗を振り回す朝鮮人が中国人をR!」
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/47/43/enjoyjapan_13/40000/39250.jpg
■中国人 謝永光著 『日本軍は香港で何をしたか』
(朝鮮人は)一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。

157 :
五輪の書って
最初オリンピックの公式ブックかなんかの本だと思ってた

158 :
保守

159 :
Wikiみたけど実在した武蔵が又八のキャラに思えてきた…。
卑怯すぎる

160 :
↑本当なら

161 :
本当の事なんて、誰もわからんよ。

162 :
hosyu

163 :
武蔵と小次郎
http://www.youtube.com/watch?v=ODVxHm8i5fU

164 :
武蔵は刀の切先三寸の所で見切れたと云うが、本当であれば神業だ!

165 :
戦国時代ではありません。移動お願いします。
http://academy6.2ch.net/history/

166 :
俺の名前宮本武蔵

167 :
宮本ですがなにか

168 :
「むさし」より「たけぞう」のがかっこいいと思った。

169 :
「武蔵」より「無三四」のが納得いくと思った。
「新免無二」の子だけに。

170 :
>>169センスあるね!

171 :
捕手

172 :
弟子の過大広告が酷いんだよな
本多や細川に厚遇されたり弟子がたくさんいるんだから
武蔵本人は真面目な人だったと思ってる

173 :
まあ、武蔵は人気も知名度も高いし資料も結構残ってるからよく槍玉に挙げられるが、
実際は剣豪の逸話って胡散臭い話ばっかりだからな。
武将にしてもそうだけど、弟子が師を少しでも大きく見せようとするのはごく普通の話。
弟子の記述をそのまま鵜呑みにするのは(・A・)イクナイ!

兵法家に対する現代人のイメージが美化されすぎてるってのもあるが。

174 :
ここにきてみたら武蔵のスレなのに評判悪くてなんだかなw

175 :
しかしなんだな、イチロー見てると宮本武蔵ってホントに居たんだな〜と思う。
ぬるいカップラーメンをすすりながら。
「武士はくわねど高楊枝」よ。

176 :
>>173
つか剣豪の伝承って弟子の話が基本だろ

177 :
資料が少なかったら評価はもっと良かったんじゃないか?
歴史系のやつらって捻くれてる人大杉。

178 :
つか、吉川の小説が史実と思われているのが問題。
吉川にあわせてあとづけ史跡すら捏造されている。

179 :
三国志みたい

180 :
吉岡一門ぶっ潰した稀代の悪

181 :
潰してないから。
潰したと言い張っているのは、弟子連中だけ。

182 :
あれだけやられて衰退するだけに留まったのか

183 :
吉岡武蔵戦は史料によって差がある
吉岡伝では引き分けと武蔵の不戦敗の2戦
古老茶話では引き分け。
本朝武芸小伝も引き分け
宮本伊織の碑文だけが、自分の養父が3戦全勝で吉岡を滅亡させたと書いている。
二天一流の伝記は所詮碑文を元にしているだけ
しかも肥後と筑前で内容が全然違うので信憑性がない

184 :
ブサイクな弟が弱いのはガチですか?

185 :
槍に刀で勝つにはかなりの腕の差がいると聞くが、
武蔵と胤舜の間にそこまでの差があると思えん
刀においての対槍の戦術というものがあるんだろうか

186 :
age

187 :
勝てない勝負はしない

188 :
武蔵最強なり!俺はブルース・リーと同じくらい大好きです。

189 :
>>185
剣道経験者なんだけど、剣道の知り合いで薙刀と対戦した経験がある人がいる。
槍と薙刀じゃ、ちょっと違うのかもしれないけど、
その人曰く
『基本的に薙刀のほうがリーチが長いから、遠い間合いだとこっちが不利。
 だから、セオリーとしては相手の長いリーチを逆手にとって相手の懐に
 飛び込むしかないけど、相手も自分よりリーチの短い相手に懐に飛び込まれたら
 厄介なのを知ってるから、足を使って近寄らせないようにしてる』
とのこと。
試合結果は、薙刀の圧勝だったらしい。
現代剣道には、薙刀にある腰から下を攻撃する技(要は脛打ちのこと)がないし、
こじり(薙刀の柄の先)で攻撃する技も無いから、
剣道人では競技薙刀相手には基本的に不利みたいだね。
槍も、刀よりはリーチが長いから対薙刀の場合と同じことがいえると思われる。

190 :
二天一流は普通の剣道とかわらんね 戦国の剣とは違うな 甲冑つけた不特定多数相手の戦いではなく1対1の決闘に根ざしているものだ

191 :
武蔵って島原の乱でも全く活躍出来なかったじゃん
敵の投石で足負傷だっけ?

192 :
島原の時にはもういい歳だろ。

193 :
>>189 レス感謝
後でフェンシングスレで見たんだが、基本的に突くオンリーの武器の使い手は
たいてい同じクラスの剣術者に勝てるんだが達人同士になると突きを見切れるから
なすすべがなくなるらしい

194 :
             

195 :
工芸の才能があったらしいが当時どのようにして出展したんだろう?

196 :
『世界一受けたい授業!! 一億人の国語算数理科社会(秘)期末テストSP
"日本史リフォーマー"の河合敦氏は、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の真実など、調査の進展で明らかになった日本史の新事実を披露。
「教科書に載せたい日本史」巌流島の戦いに、宮本武蔵が、遅刻したというのは嘘。

197 :
【コラム】 平成の世に武蔵が復活?剣道“二刀流”の真髄とは
http://news.ameba.jp/r25/2007/12/9272.html

198 :
関ヶ原で西軍につき、大坂の陣では豊臣についたのに落ち武者狩りから逃れた運のよさ

199 :
徳川の水野に従えたのか

200 :
吉川ってなに?

201 :
>>200
>吉川ってなに?
昭和の小説家。
 一般的日本人には奴の小説で、岡山生れだとか、小次郎が武蔵より若いとか
 それまでとは異なったイメージを植え付けられている。
 あくまで小説なのに、史実と勘違いされている事が多い。
 お通も又八も彼の創作キャラ。

202 :
この程度も知らん人がいるとは…

203 :
散々既出だろうけど
佐々木小次郎は架空の人物

204 :
平田無二斎と宮本無二之助は別人ですが何か?by綿谷雪

205 :
ggrks

206 :
>>204 未だ分からないというのが現状
>>203 存在したことは間違いない。
細川氏家臣の沼田氏が寛文12年(1672年)に編集した文書『沼田家記』に
無二の子、武蔵が慶長18年(1613年)頃に行った巌流島決闘の記述があり、
ここに無二が登場する。巌流島決闘で武蔵側が一対一の約定を違え、
武蔵の弟子達が巌流島で小次郎を撲殺。
怒った小次郎の弟子達の追撃から武蔵が遁走、
当時門司城代を勤めた沼田延元に保護を願い、
沼田延元は武蔵を城内に保護した後、鉄砲隊で警護し、
豊後に居住する無二のところまで送った、との記述である。

207 :
http://mdic.gree.jp/wikipedia/entry/%8B%7B%96%7B%95%90%91%A0&gree_mobile=8f37ea02d84cd5ac0ee053da324ffa5d

208 :
>>203
実在の人物だよ
小次郎という名前じゃないけどね
佐々木巌流という人物が実際に武蔵と舟島で決闘したのは事実
ただおじいちゃんだった説が強いけど
当時の書物に齢十八で剣の指南役に〜というくだりがあって
実は七八の七の字が禿て十になったのではと言われてる

209 :
今更なんだけど新免武蔵守藤原玄信の武蔵守って勝手に名乗ってたの?

210 :
あたりめーだ
正式なものだったらむしろ超エリートじゃねーか

211 :
東京創元社の短編の賞の受賞作で
巌流島ネタなのがあって
「これこれこういう文献ではこれこれこういうことになっている」てのをずらっと並べて
最後はムリヤリに辻褄のあった真相を推理するんだよ。
犯人がトリックつかったことにしてw
今度、その巌流島ネタも入っている作品集が出るんで
出版社のサイトの作者コメント読んでみたら
「これ書いた後で○○という文献の存在を知ったんだが
 それでは巌流島の決闘は××ということになっていて
 どうやっても辻褄合わねえよ・・・orz」みたいなことが書いてあってワロタ

212 :
>>208
逆だよ。
小次郎の通称はいちおう信憑性があるとされてて
むしろ佐々木の姓が疑わしい。芝居ネタともいわれている。
巌流は号なのか流派名なのか判断の分かれるところ。

213 :
>>206
武蔵史料の中では「沼田家記」と下関の民間伝承を編纂した「西遊雑記」が恣意的じゃないという意味で
信憑性高そうに思えるけど、どっちも複数で小次郎撲殺説なんだよね
吉岡一門との死闘にしても眉唾っぽいし最強の剣豪と呼ぶにはあまりにも胡散臭すぎる

214 :
最強は誰かと言うと結論は出ないだろう。
だから実績で語るなら、柳生宗矩とかだろうね。
戦場でウンコしてたら背中を切られて失神した事がある。

215 :
正直
氏名不詳の巌流の某や
すっかり寂れて染物屋に寂れた元室町兵法所より
後世まで伝承された流派の祖になった高田又兵衛や夢想権之助の方が
剣豪的には格上じゃね?

216 :
×すっかり寂れて染物屋に寂れた元室町兵法所より
○すっかり寂れて染物屋に鞍替えした元室町兵法所より
あと
地味なところでは塩田流小具足術の塩田浜之助なんかも。

217 :
>>209
> 今更なんだけど新免武蔵守藤原玄信の武蔵守って勝手に名乗ってたの?
オリンピックの書にそうあるが、
本人が「守」とまで自称ていたかは不明じゃないの?
ただ、武蔵と名乗っていたのは事実だろう。
いわゆる百官名というやつだな。
これとても、朝廷が本来の機能をしていれば許されるものでもない。
実際、明治維新直後に禁令が出たことがあり、
このとき改名した人が結構いる。

218 :
ここではこの本はどう見てますか?
宮本武蔵―「兵法の道」を生きる (岩波新書)

219 :
長年の疑問…(突然失礼)
武蔵の父・無二斎が用いたという当理流十手術…
本当に戦国(室町)時代に実在していたんだろうか?
していたとすれば、どの流派から派生したんだろうか…



個人的には…当理流ではなく、香取(神道)流の当て字…と疑っている。
(香取神道流に二刀の技がある…ただそれだけの理由で…事実上根拠なし)

220 :
武蔵は強いわ。五輪の書の一部分だけ真似しただけで調子良いもん

221 :
宮本あげ

222 :
佐々木の爺さんを木刀でフルボッコにした極悪人のスレはここですか?

223 :
 

224 :
全然過疎やね

225 :
武蔵二人説が一番有力だっけ?
芸術家と剣術で二人で一人の創作人物

226 :
後年の武蔵は食い扶持に困らなくなったから
俗世を離れた芸術家として目覚めてもおかしくない
案外、公家とかと同様の境地かとw

227 :
宮本武蔵は乱世を彷徨ってはいない。
事実を捻じ曲げるCMはなんとかならんのか。

228 :
集団生活している以上は、国民全員を一人きりで幸せにしてあげられないのならば、人間一人だけ強いなんて事はないし、蹴落とされます。武蔵さんも例外じゃない。強い奴も世の中沢山います。ただおまえらも俺も最低だ

229 :
ところでニ天一流って槍や長刀も扱ってたのかな?
大坂の陣で長刀を使ってたという記述もあるし、
武蔵個人は使えたんじゃないかとは思うんだが、流派としてはどうなんだろ?

230 :
最低あげ

231 :
武蔵は勝てる相手としか勝負しなかったと本で読んだ記憶がある。ヒクソン グレイシーと同じやな

232 :
ワザワザ負ける相手と戦ってどーするw

233 :
宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-【押井守・脚本】
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/animovie/1245514011/
↑の映画によると、武蔵は馬上戦闘を想定して二刀流にしたそうな。
 で、彼自身は馬を使う武将・軍師を目指していたそうな。

234 :
馬上で二刀流で軍師?
支離滅裂だお(;^ω^)

235 :
>>234
映画見てから言えよ。

236 :
不動智神妙録 by沢庵

237 :
俺の名は辻風黄平。人は俺を死神と呼ぶ

238 :
武蔵が生きていた頃使われた有力な戦術に印地(投石)
とサイ棒がある。サイ棒の応用は佐々木小次郎の時に
やっている。しかし彼が何かを投擲したという記録ってない
みたい。わざわざ特記するほど珍しい技ではないから
書かなかったのか、それとも意図的に消されてるとか
ゃなかろうか。

239 :
−−宮本武蔵の五輪の書が愛読書だと伺いました
「宮本武蔵が好きなんだよ。
人とのかかわりあい方を、剣と剣との交わりを通じて解釈して捕らえることができるのが五輪の書だ。
剣を交えるときの忍耐。相手の出方を待ったり、ストライクするときのやり方、ということが、
生活の中の交渉に役に立つ。人と人が交わることが交渉だ。
例えば好きな人が、男でも女でもいたとき、相手とのロマンスであったり、声をかけてみようということも交渉といえる」
http://sankei.jp.msn.com/economy/it/090820/its0908200415001-n5.htm

240 :
レイガンドを使うのよ!

241 :
播州宮本村にいってきたけど、手作り看板しかなくてワロスww

242 :
武蔵は「生まれるのが遅かった剣豪」ってよく言われるけど、
1・2世代前の剣豪(ト伝、伊勢守、石舟斎、一刀斎)のことを考えると、
早く生まれたとしても、結局どうしようもなかったんじゃないかね。
一定以上の石高を得たら、郎党を率いて戦うことも期待されるわけだが
逸話なんかを見る限り、そういう方面の機微は持ち合わせてなさそうだし。

243 :
>>242
そいつらがいようがいまいが関係ない
武蔵の時代にだって柳生や小野がいたわけだから。
そもそもそいつらが確実に武蔵より上だって言える根拠はどこにもないし
むしろ後年の武蔵や柳生が提唱した理念の方が兵法としてははるかに洗練されてる

244 :
そのクラスの連中でも大して出世してないんだから、
そもそも武芸者としての腕の高低は出世とあまり関係ないのでは、ということなんじゃないか?
塚原・上泉・柳生は元々武将だから単純比較は出来ないけど、
伊藤は武蔵と同じで牢人だけど特に出世してないしさ。
というか、そもそも武蔵は本当に出世願望あったのか?

245 :
司馬りょーは出世願望あったっていうけど
あいつの言うこと信用に足らんしな
小笠原なんかは武蔵を欲しがったけど、武蔵は辞退して伊織を代わりに推挙したわけだし
後年の武蔵は各国大名にも人脈があった事が記録から明らかになっているし、仕官のクチなんてその気になればいくらでもあったんじゃないか。
若い頃は栄達心があったのかもしれないが、名声を得るうちにどうでも良くなっていったのかもしれない

246 :
小説を真に受けるのか

247 :
武蔵の場合、史実を追っていると出世する気があるように見えないんだよ。
後年の武公伝やニ天記で出世しようという姿が書かれているのは、
それを書いた執筆者の価値観が反映されただけじゃないのか?

248 :
武蔵自身が起こした書物を見ると
弟子たちが残した伝記に比べて自己の戦歴を誇る向きがあまりにも少ない
巌流島の戦いをあまり語らなかった事なんかは有名だが
どうも世間一般によく言われる自己顕示欲の強い武蔵像とは隔たりが感じられてならない

249 :
千日の稽古をもって鍛とし
 万日をもって錬とす
ぜんぶひらがなでよんでもらえませんか

250 :
自己顕示欲が強くて虚言癖のある剣豪って武蔵じゃなくて小野忠明の事だよな
武蔵に勝った、宗ノリに勝った、と息を吐くかの如く嘘を吐くw

251 :
うちの剣道の先生八段に武蔵と勝負したら勝てますか?と聞いたら、勝てるわけないだろと、殴られた

252 :
>>250
言ったのは本人じゃなくて弟子なんだし、そこは割り引いてやろうぜ。
武蔵だって後付で弟子が結構好き勝手言ってるんだし。
ま、当時の状況を考えたら気持ちは分からなくも無いけどな。
格で言えば、大名になった柳生とは比べ物にならないし、
強さの評判で言えば、武蔵よりもマイナーだし>小野
その二つに勝ったっていう話が作られたのも、コンプレックスの裏返しだろうしさ。

253 :
でも、最後に勝ったのは一刀流だぜw
維新の原動力にもなって、剣道に進化したのは一刀流ww
新陰流もニ天一流も幕末には衰退しきってミジメwwwwwwwwwwwww

254 :
>>253
剣豪スレでも同じようなこと書いてフルボッコにされてたな。
バカかお前。
維新の原動力ってどういう寝言だ?
一刀流がそんな大層なもんだったら廃刀令なんて出ねーよ。
玄武館だって維新後一回潰れてるくらいなのに。
坂本龍馬が江戸に出てくる理由のひとつくらいが関の山だろ。
あと、わかっててやってるのか気づいてないのかどっちか知らんが、
剣道の竹刀も防具も新陰流が大元だぜ?
剣道の意義になってる「活人剣」も柳生宗矩が確立したものだし、
むしろ一刀流が剣道に与えた影響って技法くらいしかないぞ。
その技にしても、直心影流の影響が結構あるしな。

255 :
偉いのは中西先生です


256 :
本日の日経新聞朝刊40面(文化面)の「私の履歴書」細川護熙28回に、こう書いてあるよ。
巌流島で武蔵に木刀で打たれて小次郎は絶命したというのが通説だが、領主である細川家の記録には
小次郎は脳震盪を起こして気絶しただけで、その後蘇生したのを見た武蔵の弟子らがこれは大変だととどめを刺した、と。
武蔵に関する記録は細川家に残る記録が唯一の公文書である

257 :
>>256
今更過ぎるな
日経編集はとりあえず手始めに原田夢果の著書でも読め

258 :
>>253
キメェ、

259 :
このスレの人たちは押井守原作脚本の「宮本武蔵 双剣に馳せる夢」
見た?
それほど歴史に詳しくない俺でもちょっと違和感あったんだけど。
このスレ的にはどうなの?

260 :
>>259
無茶苦茶。
「武蔵は武将になりたかったので、馬に乗って戦う為の馬上剣法として二刀流を編み出した」とか
トンデモってレベルじゃねーぞ。
馬上なら槍使えばいいだろ。
武蔵自身、状況に応じた武器を使えって言ってるのに。

261 :
つーか、武蔵は出世しようと思えばどうにでもなったんじゃないのかねえ?
生まれからして赤松に連なる公家の末孫とも言われる新免、その話が虚か実かはともかく、武門の出として決して悪くはない
諸藩譜代大名らとの交流も篤く、林羅山ら知識人層の評価も高い
経歴を見れば単なる兵法家ではなく名士としての評価もされていたことが十分推察できる。
本当に出世欲に塗れた俗世間的な男だったのかねえ?

262 :
その辺の混乱は、武蔵本人の記述・言動と、
後世の人間が書いた創作した話が混同されてるのが原因だろうな。
武蔵本人の行動を追う限り、いわゆる出世欲があったようには到底思えん。
だからこそ余計にトンデモさが浮き上がるんだ>押井版武蔵

263 :
養子の宮本伊織は母ちゃんが小原城主の一族だし
伊織の実弟の玄昌は母ちゃんの実家を継いで法眼まで出世したくらいだし
ハングリーな出自だったとは
とても思えないよね。

264 :
というか、武蔵自身にも年を経るにつれて心境の変化があったのだと思う
尾張に逗留していたころに柳生の門人と試合をした事を顧みて、
「無分別な事をしてしまった」と自嘲するエピソードがある。
この話が真実か創作かはともかく、十三で有馬喜兵衛を殺し、十六で秋山、と他流試合を重ねて行く所から、
若い頃はそれなりに自己顕示欲の強い青年だったのかも知れん
後半生で名声を得てからはもう、すっかりそういう臭いは抜けて行くわけだが
仕官を求められても伊織を代わりに推挙したりして、半分隠居状態みたいなもんだしな。
まあトンデモの先駆者は間違いなく司馬遼太郎の真説宮本武蔵だと思うけど。
司馬りょうは武蔵の残した芸術を「自身が認められないフラストレーションをぶつけた結果」とか言ってるからな。
難癖と言うにも酷い。

265 :
若い頃は若者らしく血気盛んで、修行を積んでいくに従って、心境が変化していった、というのは納得できるな。
そうでもなければ戦場に出たりもしないだろうし。
しかし、どうして武蔵ってこう毀誉褒貶が激しいのかね。
別に武蔵が完全無欠の超人だと言うつもりはないけど、
それにしたって殆ど言い掛かりに近い誹謗中傷が多過ぎる気がする。

266 :
名声が高いが故に、踏み台にされるってのはよくある事だろ。
うちの先生は武蔵よりすごい、と言えば、とりあえずわかりやすいからな。
柳生宗矩と並んで引き合いに出される筆頭だし。
で、柳生の場合は政治家でもあるから俗物呼ばわりもしやすいけど、
武蔵はそういう意味では超俗的だからな。
だから、くだらないことにケチをつけるくらいしかないんだろ。

267 :
>>266
>>名声が高いが故に、踏み台にされるってのはよくある事だろ。
  うちの先生は武蔵よりすごい、と言えば、とりあえずわかりやすいからな。
武蔵の批判屋と言うのはそういう話を鵜呑みにして、
「武蔵伝説は嘘だった」「武蔵は弱い」と短絡思考に走るからな。
奥州の無敵流を称した武蔵とか
徳川家臣の無敵流・武蔵とか
どー考えたって武蔵玄信の事じゃねーべ
小野忠明や村上吉之丞の話もとても信憑性があるとは言い難い
しかもそう言うのはまだ良い方。
ネットでは沼田家記の記述が誤読されたのか何なのか知らんが、
「武蔵は小次郎を弟子と数人がかりで寄ってたかって殺した」なんて妄言を未だにちらほら見るよ
もはや捏造レベルじゃん、って

268 :
けど武蔵って大阪の陣にも島原の乱にも出てるんだな。
無双状態だったんだろうか。

269 :
大坂の陣はわからないが、島原では敵の投げた石に当たって退散。

270 :
>>263
てゆーか
理応院スペック高すぎだろ
・宮本武蔵の兄嫁
・三つ年下でも義理姉
・小原城主(大原城主?)のお姫様
・子供たちは美形揃い
・次男は小笠原藩家老、四男は法眼

271 :
>>267
単なる逸話や創作を
「信憑性は薄いが、そういう話があるという事自体、
 武蔵という人物を考える点で参考となるのではないだろうか」とか、
わけのわからん理屈で捏造を正当化する馬鹿もいるからな。
少しズレるが、そういう意味で武蔵と同世代だと、小野忠明は最悪に近い。
あれほど逸話が捏造と自流派弁護に満ちた剣士も珍しい。
DQN同然に相手を不具にしたのを武勇伝扱いにするとか、
柳生に勝った、武蔵も逃げた、とかありもしない勝ちを捏造した挙句、
そういう話が出るくらい強かったのだ、とか、クズというか、ゴミにも程がある。

272 :
>>島原では敵の投げた石に当たって退散。
これをまるで失態であるかのように語る馬鹿どもも居るから困りものだな
戦傷を受けると言う事はそれだけ前線に居たと言う事。島原の時点で武蔵は50越えの隠居爺だ。
普通「老齢でありながら最前線に出て奮闘してた」だろ?
なぜ「武芸者としてあるまじき失態」とかいう真横に行くような発想になるのか?
大体、戦傷と言うのはそもそも論功になる。
ゲームと同じような発想してるんじゃないかね。じゃあ必死に戦って武運拙く討ち死にした人間は「ゲームオーバー」とでもいうのか?
勇敢に戦って生還したら普通は英雄だろう。
アホと違うか。

273 :
>>271
まあ、>>253みたいに、江戸時代初期の剣士同士の比較に
何故か200〜300年後の幕末や現代の話を持ち出す奴もいるしなあ。
その理屈でいいなら、毛利輝元は家康より凄いって理屈も成り立つだろうに。

274 :
今の剣道でも竹刀二本使ってもいいらしいと聞いたが
これはガセネタかな。


275 :
使っていいよ

276 :
>>272
負傷しながら敵を多数討ち取って大活躍したとかならともかく
城壁登ろうとしたら石が脛に当たって退却、結局何も戦果を挙げられず何日か寝込んでいたというのだから
十分に失態というか間抜けというか…( ーωー)
しかも武蔵は仕官の望みを捨てきれずいたとこに戦であるということでえらい張り切っていた
老齢の身でありながら参陣し仕官の望みをかけて突撃したのに百姓の転がした石でこの有様
武蔵の夢はここに潰えたお
寝込んでいたのは痛みだけのせいではなかったかもしれないお( ^ω^)

277 :
俺なら、伊織のところで楽隠居。

278 :
>>276
お前も武蔵が出世したかったとか言ってるクチか
まあこのスレの流れを見るだけでわかる事だから特に言うまでもないと思うが、
出世が理由ならこの時点で武蔵がわざわざ戦なんて出るまでも無い
武蔵と小倉藩は個人的にも関係深い、伊織の仕官のきっかけでもあるし。しかも笠系大成付録に旗本一番と名前があるから、この時点で並の扱いでは無い
で、投石で負傷したと言う事は、城は陥落間近であったと考えられる
まあこの辺から考えてみそ
>>274
片手だと有効打取りにくいからやる人は少ないけどな

279 :
>>271
そういや柳生に勝った、武蔵に勝ったと言う逸話は多いが、
「あの小野忠明に勝った! うちの師匠は凄い!」ってのはあまり聞かんな
所詮、ヨタ話にすら上らない程度の認識だったのかしら

280 :
柳生と戦ったとか槍の法僧院と戦ったなんてのは創作なんだよね?

281 :
かなり遅い時代の文献にならないと出てこないんで
そのへんは信憑性低い。
ソースの確かさなら
やっぱ高田・夢想が二強かなあ。

282 :
塩田浜之助も地味だが後に自流を立てた強豪

283 :
>>278
そもそも島原の乱自体、総勢15万以上、幕軍側の上使が討取られ、死者は8,000人に上るという大激戦だったね

284 :
しかし、武蔵の合力米300石というのは随分と厚遇に思える。
五公五民で600石相当、四公六民だと750石相当、しかも軍役無しなら、必要経費は馬と小物が数人で足りる。
武蔵の可処分所得って今の金で幾らくらいになるのかな。計算方法によってかなり幅が出ると思うが。
仮に一石2両、一両20万円で単純計算すると総収入は年間1億2千万円になるが。
下世話な話題ですまん。

285 :
>>284
必要経費は七人扶持十八石で賄えてるんじゃね?
300石って純粋な収入かと。
下手したら兵庫助や忠明より収入は多かった可能性があるな

286 :
>>285
ま、俸禄の半分以上は家来の扶持に消えるとも言うから正式な家臣よりは裕福でしょう。
武蔵のような客分の軍役負担はどういう形になるのか。正式な家臣はいろんな資料や研究があるが
客分の武芸者の負担はどうなのか?
算盤片手に小まめに帳面をつける武蔵というのも変だし、憶測しかないのかな?

287 :
>>286
武蔵に関しての経理は弟子でもある塩田浜之助が管理していたとも言われるが
塩田であるかはともかく、細川の人間がやっていたと言うのは間違いなさそう
客分という事は形としてはあくまで細川家に逗留している間の滞在費という形だから、労役等の義務はなかったように思う
忠利に請われて何度か御前試合をしたり会談したりという逸話は残ってるが、それって労働じゃないだろうし

288 :
司馬武蔵は真説ならぬ珍説だよな
どうしてあれが「武蔵の現実の姿」などと絶賛されているかわからん
我欲を捨て去った仏法僧のような吉川武蔵と対極的な武蔵を論じているだけで、極論、トンデモの典型というのは変わらない
訳知り顔で司馬武蔵のステレオタイプなイメージそのままの武蔵を実像として語る人間にこそ
「小説を真に受けるな」と言いたい。
あれは小説と言うより論文と蘊蓄だが

289 :
>>279
「ウチの先生最強!最高!」ってやりたいなら2番目を倒しても意味ないだろ?
そういうことだよ。
とりあえず、小野忠明の逸話に柳生と武蔵が両方出てきて、
柳生と武蔵の逸話には小野忠明が出てこないことが全てを物語っているかとw
まあ、一刀流の人間はその辺を都合よく解釈できるのかもしれないけどねww

290 :
>>271
前に一刀斎マンセーで
武蔵の逸話は一次資料が見当たらない、身内評価ばかりだから信憑性が薄くて剣豪としての腕を評価するべきでは無いなどとさんざん講釈垂ながら
柳生十兵衛が忠明に弟子入りしたのは歴史的事実だとか平気でぬかす香具師を見たぞ
所詮、批判好きな連中はその程度の見識しか持っていない

291 :
五輪の書って読んで見たいんだけど、文庫で売ってるの?
中身ってさどんな事書いてんの?
私はこうやって吉岡一門を倒しました
とか自伝みたいな部分もあるのかね?

292 :
>>291
俺も文庫でしか読んだことないから偉そうなことは言えんが
巻ごとに分野が分かれてて序文があって、箇条書きで要点が簡潔につらつら書いてあるような感じ
原文ママだとわけわかんなかったから諸般の本の訳と一緒に照らし合わせて読んだけど
文庫でよければ、市民図書館や大学図書館とかにあんじゃね?
俺は大学の図書館で借りたけど

293 :
岩波文庫で売ってる。
ただし武蔵の戦歴で紹介されているのは有馬喜兵衛と秋山某くらいで
内容は「実戦ではこうやって戦え!俺はこうやって戦ってきた!」というマニュアル本。

294 :
五輪書と兵法家伝書を読み比べてるんだけど、
内容も通じるとこがあったり、見解が違うところもあったりで、
そのまま武蔵と宗矩という当時を代表するニ剣士の違いが出ていて
なかなか面白いよ。

295 :
五輪の書で読み解く〜みたいなのは
パチモンだからだめだぞ!

296 :
>>254
五輪書は読んだことあるけど、兵法家伝書ってのはどんな内容なんだ?
通じるところってのはどの辺?

297 :
>>296
この辺がわかりやすく書いてある。
長いけど読みやすい。
【やる夫で学ぶ柳生一族(外伝その3・前編1)「解説・兵法家伝書(進履橋・殺人刀)」】
http://tagenmatome.blogspot.com/2009/10/blog-post_18.html
個人的には同じような感じで五輪書の紹介もやってほしい。

298 :
「至高のライバル」
互いがいたから、互いに偉大になれた。「伝説的ライバル関係」といえば!
http://sentaku.org/social/1000017335/

299 :
一般的には武蔵といえば小次郎だろうけど、
現実の武蔵にライバルなんていたのかね。
実力的にどうこうというより、武蔵の意識上の問題なんだけど。

300 :
司馬の真説宮本武蔵読んだけどいまいちわからないな。
結局吉岡とは戦ってるのか?武蔵に関する史料ってどれくらいあるんだろ?
なんか120歳まで生きた老人の話を一番信用してるみたいだが。
もっと記録残ってないもんかねえ。

301 :
間違いなく吉岡とは戦っているだろ。
何しろ江戸時代最高の剣豪エピソード収集ヲタ
日夏繁高が「勝ったのか負けたのか、諸説あり過ぎてどれがホンマかわかんねー」と
サジ投げたくらい諸説飛び交ってたんだから。

302 :
日夏繁高って調べたら江戸時代前期から中期の人物らしいが
江戸時代中期でもう諸説飛び交ってたのか。てことは実際はともかく
江戸時代中期から武蔵は有名人だったって事なのか

303 :
日夏繁高の『本朝武芸小伝』で
武蔵の扱いは他の武芸者よりも大きいから
武芸者業界ではすでに超のつく有名人だったのは間違いない。
一方、源徳修斎の『撃剣叢談』はけっこう辛らつ。
まあこの人は誰に対しても考証癖全開なんだけれども。

304 :
武蔵と暮らしてた伝助って人のことをググってもひとつの文章しか出てこないんですが
これは創作なんですか?

305 :
広く認知されてる吉川を史実だと思ったら大間違い。かといって司馬も信用できんってか。
碑文も宣伝だし、二天一流の伝記も黒田藩系と細川藩系でまるで違うから当然ったら当然。
確実なのは五輪書だけだわな。

306 :
>>267
沼田家記「小次郎を弟子が数人がかりで寄ってたかって殺した」というのが正解だっけか。
確かに武蔵が小次郎殺害に関与したことはかかれてないな。
約定をたがえて弟子を連れてきたのは確実だが。

307 :
>>306
悪意有り過ぎ
しかもその前に武蔵と小次郎が一対一で立ち会って、小次郎が昏倒したことが明記されてる所に触れていないのはワザとか、無知か?
前者なら偏見をなくせ、後者なら勤勉に勤めるべし

308 :
「試合を仕候処、小次郎被打殺候」とある
小次郎が息を吹き返して弟子が集まって云々は
「後にて打殺候」
つーか門司城代が見てる前で弟子がリンチとか出来るわけねーじゃんjk
って原田さんが言ってた

309 :
息子に伊織って名前付けようかと思うんだけどどうだろう?英弥(ひでや)とどっちにするか迷ってるんだけど

310 :
かっこいいじゃん。
名字の語呂と画数にもよるが

311 :
名前はの文字は左右対称に近い方がいい、と選対やってるおっさんは言ってた

312 :
結局剣術だの、一対一で立ち会ってハッケヨーイ、なんてスポーツみたいなもんだろ。
スポーツと実戦をごっちゃにして、色々と限定された状況でのテクニックを競うスポーツで一番だから最強!
とかやってるから色々とおかしくなってると思うんだけどな。
何でもありの実戦だったら戦国時代は化け物モドキみたいな奴の話がゴロゴロころがってるけど、
奴らが立ち会いでも強かったか、というと疑問だし。
本多忠勝だったかを道場に呼んでみてお手本を見せてもらおうとしたら全く人の参考になるもんじゃなかったって話もあるし。

313 :
その辺は後世の人間の問題だろ。
武蔵自身は、兵法を修めるのは、武士として役に立つ為で、
武士が役に立つというのは、戦で功績を立てることだ、と明言してるし、
大の兵法と小の兵法も分別してる。
後世、剣術をやってる連中が自分達の格を上げる為に、
「優れた剣術家=武士としても優れている」みたいなことを言い出したのが悪い。

314 :
武蔵が当時から武芸者として高く評価されてたのは間違いないけど
武士としての評価がどうだったかというと、今ひとつ明確じゃないしな。
別に武蔵に限った話じゃないけど。
確かに武士と武芸者を混同して話をする奴は多いよな・・・。

315 :
武士としての評価は全く高く無かっただろ。
細川家で厄介になってた時もたった300石しかもらってねーし、結局仕官しなかったのは事実。
ただ労役の義務の無い、家臣として雇ったわけでもない客分に合力米で300石もポンと渡して殿様との謁見や鷹狩りも許すんだから、
武芸者としては目ん玉飛び出るくらいの高評価。
林羅山のような学者、烏丸光広のような公卿からも絵を通じて高い評価を貰ってる
人物としての社会的ステータス、評価は高かっただろう。
逆に国政に携わるような人間ではないと思われていたのが実際の所だろうな
まあ明石の町割りとかはやってるし、息子たちは高官になってるけどさ

316 :
>>314
武士は今で言う政治家、公務員で、
武芸者は文化人やアスリートに近いからな。
まあ当時は軍人の側面も入ってくるが、確かに武士と武芸者を混同してる奴は多い

317 :
実際の武蔵は大した人物ではない、とか言われてる部分って、
ほとんど「武士としての武蔵」についての話なんだよな。
そりゃ仕官自体してないんだから評価が高いわけないだろ。
そんな評価の仕方をする方が筋違い。
そっちの方向で話がしたけりゃ柳生宗矩一人で十分だろ。
無理に武蔵を引き出すこともない。
武蔵はあくまで「武芸者」として評価される人物だと思うんだがな。

318 :
武芸者としてなら一刀斎の方が武蔵より格上

319 :
>>315
門外漢からの評価が高いというのはどう評価すべきなんだろうな
一流文化人士も認める才気を持った人物であった事の証明であることには疑いの余地は無いが
武蔵は家柄は決して悪くない。このスレではわざわざ述べるまでも無いのだろうけど、基本的にその辺の腕っ節自慢とはそもそも訳が違う
そのあたりも名士として広く認知されていた理由かもしれん。どこの馬の骨ともしれない出自ならあちこちの大名とあんなにたくさんのパイプは作れまい
林羅山、烏丸光広も、その分野では知る人ぞ知る同時代の権威だ。

320 :
しかし、武蔵って人はつくづく、芸能の人だったんだと思うよ
文武両道の文化人はいないわけじゃないが、
剣士として一大流派を形成する人間でありながら、今日まで世界中で講読される著書を書いて、残した絵が何点も国宝級の物として保管されているって言うのは
ちょっといないよね。
逆にいえばその気質が官には向かなかったのかもしれないが

321 :
今上野の東京国立博物館でやってる「細川家の至宝」展に沼田家記と鵜図の現物が展示されてた。

322 :
>>321
見てきたの!?

323 :
>>322
昨日みてきた。利休由来の茶器と信長の直筆見る気で行ったから、不意打ちをくらった。
鵜図は一気に描いている感じはある。絵師の下でかなり修練つまないと描けない感じ。
姫路にいた頃に習ったのかな。
沼田家記はかなり保存状態が良くて、数百年経過したものとは思えない。
藩の公式文書とはこういうものかと。
小次郎と武蔵の間には一対一という約定がまずあったのに
武蔵は数人弟子を連れてきて島に潜ませていたという記述があった。
そもそも当時の巌流島なんて砂州みたいなもんで数人来てたらバレバレ。
心理的動揺を誘ったんだろうなーと。
こういう騙まし討ち行為を非難する向きはあるけど、
対吉岡戦でも仮病使って清十郎ぶったおしてるって伝記もあるし
「むかつかす」「おびやかす」「うろめかす」のは武蔵のポリシーでもあるからね。
小次郎の弟子達に追われて武蔵が逃げ込んだのが門司城だったというだけで
門司城代は巌流島には来ていなかったようだよ。
立会人もいないし、島に小次郎側は本人しか来ていなかったわけで
沼田延元jは当然ながら、武蔵側にしか事情を聞けない。
実質、戦いの内容については武蔵側の主張しか残りようがないという所でしょうね。

324 :
>>323
スゲー
しかし、小次郎の弟子が巌流島、当時の舟島だが、に来ていなかったとすると、一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
色々と不可解な話だ

325 :
>>324
そもそも立会人がいたなら、武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>一体どっから出てきて武蔵に襲いかかったんだろうな?
沼田家記によれば、殺されたことが伝わって、小次郎の弟子達が、復讐のために島に大勢船で渡ってきたんで、武蔵は九州側に逃げ出したそうです。
下関の彦島に弟子待という地名があって、そこに小次郎の弟子達が集まっていたという伝説も残っているんで、そっちから渡ったのかもしれん。
巌流島は九州側からも、本州側からも、岸から数百メートル程度しか離れてない。

326 :
>>324
>言わなきゃわからなかっただろうに

そもそも武蔵はそれも兵法の一貫と考えていたんじゃないかな。
勝つ為にならなんでもするのが彼だから、

327 :
>武蔵側が約束を違えて弟子を何人も潜ませていた件を問題視しないわけがない。
>武蔵も武蔵で、本当に立会人が誰もいないのなら弟子を連れていった話なんて言わなきゃわからなかっただろうに
岸から数百メートル程度しか離れてないただの砂州なら、約条を違えば見物客にも一目瞭然
それが見咎められないわけがない
武蔵も武蔵で、自分から不利になるような事を自ら言ったと考えるのは極めて不自然
そもそもなんで一度立ち合いで小次郎を昏倒させているのに後から弟子が出てくる?
この辺の不自然さから出てきたのが暗殺説だよな
>勝つ為にならなんでもするのが彼だから
それはあくまでも後世で創られたイメージ
確かに武蔵は「勝つために最大限の努力をすべし」と言ってるが、
同時に「命は捨てても名は惜しめ(身を捨てても名利は捨てず)」とも言ってる。

328 :
まあとはいえ、実際にはわからないけどな
船頭は二人の決闘を近くで見てたんじゃないか?

329 :
>約条を違えば見物客にも一目瞭然それが見咎められないわけがない
地元じゃ無論見物人にバレバレで言い伝えにもなってたらしい。
最後の一行は小倉碑文のことだね。
古川吉松軒  西遊雑記 1726年
 岩龍島はもと舟島といひしを宮本武蔵の介と佐々木岩龍武藝の論をし
 此しまにおゐてしあひをし、岩龍宮本が為に打殺さる
 ゆかりの者有りて墓を建しよりあらため名づけしと云。
 赤間ヶ関にて土人の云ひ傳へを聞しに板本に記せしとは大に異なり
 岩龍武蔵の介と約をなし、伊崎より小舟をかもしてふなしまへ渡らんとせし時
 浦のものとも岩龍をとゝめ武蔵の助門人を数多引具し先達て渡れり。
 大勢に手なしといふ事有り一人にて叶ふまじ、今日はひらに御無用なりといふ。
 岩龍が曰士は言さはまず、かたく約せしなれば、今日渡らさるは士の耻るところ也
 若し大せいにて我を討は耻辱はかれにぞあるべけれといふておして島に渡る
 はたして門人の士四人與力して終に岩龍討る
 初止めし浦人岩龍が義心にかんし墳墓を築しよりかくは稱することゝなれり
 虚實は知らざれども土人の物語のまゝを記して後の考へとす、
 或人また宮本の子孫小倉の家中に在り、武蔵の介墓もありて、岩龍島に相對せりと云。

330 :
結局、資料がどこまで信用できるか、という大前提に帰る。
それと
>>見物人にバレバレ
であることは武蔵だって百も承知であったはずなのに、本当にそんなあからさまな手を使う阿呆だったのか、
また、その仮定であれば明らかに正道に反していた行為をしながら、その後の社会的地位を失わず、よりによって渦中の細川の厚遇を受けていること。
議論の余地があると思う。
俺個人としては、武蔵を全肯定するつもりもないし、武蔵が正々堂々戦ったかは記述から疑問の残るところだが、
逆に武蔵卑怯者説も、全くのデタラメ、とは言わないが、所詮、異説珍説の類を出るものではないと思う。
特に地元の民間伝承なんて、殆ど信用に足る史料じゃないし。沼田家記はともかくな。
私見に過ぎんが、伊織の石碑のほうが身内びいきを差し引いても、藩の用心であった分だけ、根も葉もない噂の類よりはまだ信用に足るし、また武蔵死後直後であったということを考えても、あまり事実に剥離したことは書かなかったと思うが。

331 :
小次郎の記録がもうちょっとわかってりゃ少しは変わったんだと思う。
俺は武蔵卑怯者説ってのは小次郎を憐れんだ人間の判官びいきが作った話の一つだと思ってるが
そういう話が伝わるって事はいずれにせよ、地元ではかなり人望のある、有名な兵法家だったんだろうな

332 :

それぞれの説の流れを見るとこんなかんじか
 巌流島史実=>試合見物=>巷間地元伝承=>古川吉松軒=>「西遊雑記」
         =>武蔵=>直後事情説明=>沼田延元=>「沼田家記」
              =>後年伝聞=>宮本伊織=>「小倉碑文」
 
 「小倉碑文」=>黒田藩・二天一流=>丹治峯均=>「丹治峯均筆記」(慶長8年・武蔵19歳説)
         =>松井家・二天一流=>豊田正脩=>「武公伝」=>豊田景英=>「二天記」(慶長18年・武蔵29歳説)
 「二天記」=>吉川英治=>「宮本武蔵」=>現在の本流
小倉碑文が作られたのは試合後50年〜60年経過したあたり。
巌流島当時、宮本伊織は生まれてないので、碑文の内容は親の武勇伝を十数年後口伝で聞いた感。
沼田延元は武蔵の処遇のために直後事情を聞いている。
個人的には沼田家記のほうが信頼に足るように感じる。

333 :
沼田家記のみで考えると、細川藩の門司城に逃げ込んだのも不思議。鉄砲隊でガチ警護して、豊後の新免無二のところまで送ったって厚遇も不思議。
しかし無二がこの頃、細川忠興の義弟・木下延俊(豊後・日出城主)を指南していたのは延俊の「慶長十八年日記」で明確なので
これを加味すると細川家と新免(宮本)家がこの時代、既に繋がりを持っており、この厚遇も、後年の細川の厚遇にもあまり違和感を感じない。
吉川武蔵なんて昭和のフィクションはともかく、様々な史料上、巌流は確実に武蔵より年上の熟練武芸者だから
武蔵は阿呆だったのではなく、生き残るため必死に策したのではないかな。強者との戦いで生き残るためならば、どんな策も卑怯だとは思わない。
結果的に武蔵も豊前を離れる事になって、兵法指南もできなくなったわけだが、ともかく生き残ったわけだし。
五輪書には巌流島の話はまるで書かれていないことからも、巌流島は武蔵自身の心中では黒歴史だったのかもしれない。

334 :
>>333
武蔵だってこの時には弟子を抱える一端の武芸者だったんだぜ。沼田家記を信じるなら、だが
円明流を称した前か後かは明確にはわからんにせよ、武蔵も30近い。充実著しい時期だ。
約条を違えた上、大勢で袋叩き、なんて形振り構わないにも程がある。策でも何でもない。
いくらなんでも、そんな横暴は通らんと思うが。仮にも藩ゆかりの兵法者同士の仕合だぞ。
そんなこじれた状況になるなら、普通は対戦自体を避けるだろう。無二に調停してもらうなりなんなり。
「双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究」
で、流派全体を巻き込んでそんな程度じゃ対戦を避けられないくらい事が大きくなってしまったというのなら、なおさらそんな無理矢理な手は使えなかったと思うがな。
五輪書には有馬と秋山以外には書かれていないから、これを持って巌流島だけ特別とすることも出来んだろ。
講談や創作はともかくとして、お互いの武蔵像にも隔たりがあるだろうから何とも言えないが、いずれにしても、かなり性急な説だとは思うぜ。
まあ新しい史料が出ない以上、推測の域を出ないがな。

335 :
>有馬と秋山以外には書かれていないから
吉川戦って書かれていなかったっけ。「21で京都へ上り、天下の兵法者と勝負した」とか。
巌流島が丹治峯均筆記説、19の頃の話だったらスルーされてるね。
二天記説、29の頃の話なら巌流が「諸流の兵法者」の1人にあたるのか。

336 :
 
大久保利通暗殺の日は巌流島決闘の日
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/31/200_1.html
これは偶然ではない、
佐賀の乱の首謀者江藤新平も、幕末の志士清河八郎も、
巌流島決闘の日に処刑された。
それだけではない、・・・・。

337 :
>>315
その辺の事情は映画で語られてたな。
宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-【押井守・脚本】
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/animovie/1245514011/

338 :
第一小次郎が何者だったかがわからんとなぁ。
細川家が始末したい人物で、武蔵が弟子を潜ませるのに協力してた可能性だってあるわけで。

339 :
ところで、皆さんは東京国立博物館で達磨さんとにらめっこは済ませましたか?
6月6日が最終日ですが、日曜日の夕方に行って見たら結構空いていて、ゆっくり見れました。

340 :
刀って最低でも1kgはあるよな。
1.5リットルのペットボトルを片手で振り回すようなもんだ。
両手なら兎も角片手で

341 :
まぁ握りの部分とか全体のバランスがあるからペットボトルと比べて
といわれても違うんだけどね

342 :
模擬刀もってるけど、俺じゃ片手で振りまわしても多分物切れない。
相当力が無いと相手の剣を受けることも無理だろうな。
竹刀なら余裕なんだけどね。

343 :
片手じゃ全然刀身安定しないもんな

344 :
水墨画がとても好きだな。
あんまり評価を聞かないけど、世間はどんな評価なんだろうな?

345 :
普通に高くね?
特に渡辺華山に評価されてからが高く、重文に指定されているものもいくつかある

346 :
>>303
源徳修斎?

347 :
>>343
片手斬りの多い鹿島新当流では前腕を柄に添えて
刀身を安定させるそうだ。

348 :
他の同時代の剣豪が実際には殆ど真剣勝負なんてやらなかった事を考えると、
吉岡一門とひと悶着起こしたり、兵法指南を斬り殺したりする武蔵ってかなりのキチガイだよな
巌流島以降真剣勝負をやらなくなったのは、公権力に咎められてお尋ねものになったからなのかも

349 :
刀が重いとか、片手では切れないとか剣術した事ないのに言っちゃう男の人って…
シナイの軽さと剣道のイメージがあるからか、刀は重いって良くいうけど、普通の刀は武器としては十分軽いし、刃筋は片手の方が通りやすい。両手の方がぶれやすいんだよ。大薙刀とや槍なんか刀なんかと比べ物にならんほど重いよ?でも槍や薙刀にも片手使いの技はあるよ。
素人考えで書くのって、一輪車みてあんな不安定なものに乗れるわけない、とか言ってるのと一緒だよ。人間の工夫や身体能力は鍛えたらかなりの事が出来るんだし。

350 :
>>348
講談や小説と事実を一緒にしちゃだめー
吉岡一門との勝負はあったとしても真剣使った勝負じゃないだろ。シナイかせいぜい木刀じゃね?

351 :
とりあえず両手だろうと刀と刀を直交させて受け止めるのはかなり鍔元じゃないと難しいからやってみ。
でヨウツベあたりで剣術流派の形を見て素人が想像するような、マンガや時代劇みたいな受け止め方してる流派あるか探してみるといいよ。
直交するような受け止め方はほとんど無いハズ。
二天一流の五方には受け止める動作なんか一つも無いし、五輪書の受け技も片手でできる攻撃か防御か判断しずらい技だよ。
相手の顔面を切っ先で突くように受ける、って書いてあるはず。この受け方だと、刀と刀の角度が小さくなるから、小さな力で相手の刀を反らす事になるよ。

352 :
>>350
は?
言われてる意味がよくわからないんだが、どこを講談や小説と一緒にしてるのか教えてくれないか?
巌流を殺したのは史料にあるし、吉岡と戦ったのは勝敗や顛末は不明だがほぼ間違いない。
>真剣じゃなくてシナイか木刀
それこそ推測にすぎねえな。それに重要なのはそんなところじゃないよ。他流試合を繰り返したのが問題だって事。
しかも巌流の場合、流派の宗家レベルが立ち会い、しかも相手を殺してしまっている。
問題になったのなんて、考える迄もないよ
巌流が細川の兵法指南だったのならなおさらだな

353 :
殺したって史料があるの?
そもそも武蔵自身は吉岡や巌流なんて名前は出してない。直近の文書にはなにも残ってないし、巌流も名前か流派かもわからない。
当時の社会状況を考えればわざわざ真剣で勝負よりシナイや木剣の可能性が高い。
武蔵より随分年上の疋田文五郎自身の武者修行での他流試合についての書き付けがあるけど、ほぼシナイか木剣での試合。吉岡一門がその後も普通に剣術家やってるのを見ても普通の試合だったんだろ。
で武蔵自身もシナイで小技早業ばかり求める事を戒めてるけど、逆に言えば当時既にシナイがかなり使われてたって事だよ

354 :
長い事書いてるけど
沼田家記や本朝武芸小伝くらい読めよ、このスレの上でも出てるし
経緯はどうあれ、巌流を名乗る小次郎と言う武芸者が、細川家の支配領内の小島で宮本武蔵に殺されたのはほぼ確実
小次郎の生存を伝える史料もない

355 :
巌流ってのは小次郎が称した流派ね
揚げ足取られたくないから一応

356 :
武芸小伝は1700年はじめの文献で武蔵死後六十年近くたってからの本だよ??
武蔵伝説の元ネタの一つ、1654年に宮本伊織が立てた小倉碑文だと、「兵法の達人、名は岩流」になってる。
小倉碑文だと殺した事になってるけど、兵法指南役とは書かれていない。
武蔵自身は岩流について何も書いてないしね。岩流が有名になったのは1700年代の歌舞伎の影響ってのが研究者の通説だよ。
佐々木姓も歌舞伎の創作だし。
吉岡家も清十郎に試合で重傷を負わせ、又七郎との試合では木刀を奪い打ち殺したと書かれてる。
吉岡とは真剣を使った勝負、とか岩流が真剣を使ったとかは書いてない。
沼田家記については、17世紀成立で小倉碑文よりは新しいけどそれなりに近い年代(武蔵死後三十年ちょっとらしいよね?)
まだ信じられるけど、これまた研究者から歴史的におかしいと疑問点がついてた部分があるはず。どこだったか忘れたけど。
そもそも江戸時代は創作を伝記に入れ込んだり、自分の先祖を良く見せようとしたりするのが普通だった点を理解しとかないと。

357 :
>>356
巌流か岩流かなんてさして重要な点じゃないでしょ。
ようは「ガン流」、小次郎の称した流名であることは殆ど間違いないし
名前と言う説もあるが、小次郎と言う名が沼田家記で明らかになっている点から、こっちの説はほぼ否定されてる。
どの史料から引用した戦いの模様かわからんから何といっていいかわからんが、君の挙げた小倉碑文には「岩流三尺の白刃を手にし」と書かれてるぞ。
それに重要だったのは得物がどうだったかというより、他流派の武芸者と戦い、それを殺傷してしまっていること。
だから武蔵の行動が問題視され、それを受けて他流試合を控えるようになったんじゃないか、といってる。これはあくまで俺の推測
巌流島の戦いについて疑問視されているのは経緯や小次郎の素性などで、小次郎が殺されたのはほぼ確実と言われてる
原田夢果や上村道子氏の著書なんかがこの辺の事情で有名だが、現諸史料で小次郎が殺された事は伝えられていても、小次郎が生き残った事を伝えるものは今のところないから。
新しい史料が発見されればどうなるかしらんがね
>岩流について何も書いてない
武蔵は基本的に、自分の著書で戦った相手の事は書かんよ
有馬と秋山が五輪書に名前だけ出てくるだけで、後は六十余度戦って一度も遅れをとってねえ、でまとめられてる
例えば高田吉次の伝記の崇白先生伝、丹治峯均筆記には吉次と武蔵の御前試合の事とか書かれてるが、このことも武蔵は自らでは記していない
吉岡についても武蔵は直接詳しくは語っていない。五輪書の原本には二十一で都に上って天下の兵法者に会い、数度の勝負をして勝たなかった事はなかった、と書かれてるだけ
だから小次郎に関して武蔵自身の筆がないのは別に特筆するような事じゃないよ

358 :
>>356
『日本史の一級史料』では沼田家記の成立年代については触れていたが
内容について歴史的におかしいとかの疑問点はなかったぞ。

359 :
山本博文はなんだかんだいって、自分の好き嫌いがすげー強く出てるけどね
武蔵に対しては辛いのに同書の赤穂浪士の項では評価大甘
細川藩奉書の「石遣候間、佐渡さしず次第ニ可相渡候」の所、さらに忠利が足利道鑑と一緒に山鹿の茶屋に招いた、という個所を無視、千葉城の屋敷や、錦考輯録曰く、武蔵を正月祝いに奥書院に招いた事等、
それら一切シカトして「忠利の武蔵への評価は低かった」と書き、
兵法三十五箇条を献じたのにも触れず、挙句五輪書や永青文庫などで真作と認められている書画などの作品群を全てひっくるめて「後世の神格化による捏造」扱い
東京大学史料編纂所教授の肩書がなかったら大バッシング食らう様なトンデモ論だよ。あくまで「そういう可能性もありうる」というだけに留まっている筈の事なのに、まるで定説であるかのような口ぶりだし
これに比べて、35〜44pの内蔵助への弁護ったらないぜ、最終的には「勘」とか言ってるし
大体、内蔵助がりくに送った書状には触れて、武蔵が佐渡守らに宛てた書状はスルーなのも疑問、武蔵の一級史料に関しては丸岡宗男氏が著書で纏めていたが。
そもそも武蔵は仕官してないんだから、公的文書の残存率が低いのは当たり前じゃないか。そんな基本的な事も押さえないまま批判してるんだから
まあこの人は史料の出典や吟味が重要って事が言いたくて、そのために一次資料の乏しい武蔵を槍玉にあげたんだろーけどね

360 :
『日本史の一級史料』の中では「忠利代の奉書に武蔵の名前が出てくる事は少ない、だから武蔵の評価は低い」ってな論法なんだが、
武蔵が熊本に来てから1年後に忠利は没しているんだから、冷静に考えてそんなに記述が残ってるわけがないんだ
むしろ光尚時代になっても待遇は変わらず安堵されたんだから、評価は高かったと考えた方が自然なのだが……
塩田や寺尾兄弟も細川の家臣だしね

361 :
重文三作品も捏造ってのはかなりの挑戦だね。自分だって文科省の庇護で飯食ってるのに

362 :
>>314
遅レスだが武蔵は強いと評価(噂)されただけで
武士として評価が高かったわけではないと思います。

363 :
強いだけじゃなくて、文人との交流とか町割の技術なんかを持ってた所を見ると、やっぱり技術者、武芸者として評価されてたんじゃないの?
仕官してないし役人としては評価されてなさそうだけどw

364 :
役人になることと人物の出来不出来は直接イコールではない
武蔵ほどの有名人ならしがらみも多いだろうから、弟子や息子を推挙したんだろう

365 :
フィクションで美化されすぎちゃって、希望的に武蔵はこうだからとされて可哀想な方でもあるな

366 :
>>365
講談・歌舞伎はともかくとして、二天一流の系譜や後世に残った武蔵の真作などまでフィクションとする人間が居るが
そういう意見は、はたして各分野の権威に太刀打ちできるのかな
五輪書は糸東流系の達士などが、大学の講義で教材に使う程の、広く認知された名著だ
上記の山本博文みたいな偉い学者なら上手い反論考えるんだろうが、それ以上に中身の無いバッシングが多すぎる

367 :
二天一流のは余りにズレが有り過ぎ
吉岡より巌流島が先だったり後だったり
武公伝と二天記ですら記述に違いがあって何を信じて良いやら

368 :
武蔵擁護派だって二天記なんか信用しちゃいないよ


369 :
沼田家記の顛末みると、細川家に武蔵はこの時点で既に要人扱い
おやっさんのコネだかなんだか知らんが、ほとぼり冷めてから重用されるのに、違和感は感じないよな
ただ、一介の浪人から実力で大抜擢なんて印象ではない。パパ無二の人脈大活用の世故そうな印象にはなるが 。

370 :
もともと氏素性の知れない浪人って感じじゃないしね

371 :
素朴な疑問なんだが、武蔵の名乗りのうち、
”武蔵”ってのは”武蔵守”のことだよな?
上泉伊勢守とか柳生但馬守みたいな官職名乗りの。
そうすると、呼び名としては普通は「宮本玄信」になるんじゃないの?と思ったんだが。
上二人で言えば、「上泉信綱」「柳生宗矩」みたいに。
何で武蔵の場合、名乗りの方が一般化したんだろ。

372 :
語呂が良いから

373 :
武蔵守(むさしのかみ)じゃなくて、
字がそのまま武蔵(むさし/たけぞう)だからだろ。
江戸時代だと武蔵守は基本徳川家の独占。

374 :
六三四が武蔵になったって説はアレ、信憑性はあんのかねえ?

375 :
上泉伊勢守や柳生但馬守だって諱より流布されているじゃんお( ^ω^)
他にも松本備前、疋田豊後、丸目蔵人とか
それに塚原卜伝、伊藤一刀斎、富田勢源みたいに号の方が有名な人も非常に多いお
本来は通称、官職、号などを使うのが普通なのだから諱を使う方が異質なのだお( ^ω^)
軍記など伝記の類いでもそれらの呼称で記されるのが殆どだから
これらが一般に流布されるのは自然な成り行きだお( ^ω^)

376 :
>>373
五輪書でも「宮本武蔵守藤原玄信」って書いてるんだから、武蔵が字ってことはないんじゃね。
牢人が自称する程度なら放っとかれてたんじゃないか。
そういえば武蔵の幼名は弁之助だけど、
大人になってからも字はそのままだったのかね。

377 :
>>375
その論法で行くなら
武蔵は宮本武蔵じゃなくて、宮本二天とかでメジャーになるはずじゃないの?
つーか俺は「武蔵」が流行った事よりも、なんで新免じゃなくて宮本がメジャーになったか、の方が気になるねえ

378 :
下がりすぎてるのでage
>>377
語呂がいいというのもあると思うけど、もしかしたら晩年かあるいは死んだ後は、宮本伊織の養父という意味で有名だったかもよ。
というか伊織からしてすでに宮本だし、新免は武蔵のフォーマルな名称ではあっても、普段は宮本で通していたのかもしれない。
あと上の方で武蔵が巌流島の決闘の時に30前だとか言ってる人がいるけど、それはかなり後代の二天記とかあたりの話で、それ以前では17とか19とかになってる。
時期的に早いほうが正確である、とは限らないけど、案外と若い頃の決闘だったのかもしれない。

379 :
宮本武蔵って剣術スキルはそんな高くないよね
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1288184127/l50

380 :
武蔵は、間違いなく自己愛性人格障害者だよ
http://f17.aaa.livedoor.jp/~etsubu/npd.html
親父や同僚がこのタイプだからよく分かる

381 :
自分でも理由がよくわからないが、サイキョー流ってイメージがある

382 :
宮本武蔵のドラマでいつのものか思い出せず困っています。
覚えている内容ですが
武蔵が宍戸ばいけんに挑みに行った時のシーン。
仲良く一緒に酒を飲み交わした相手がばいけんだと知り
眠っているばいけんを斬りつけられず、
喉元に布を巻いた鎌をおいて去る、、こんな感じでした。
これは誰の演じた武蔵ドラマだったか覚えている人いますか?

383 :
強かったとは思うけどねえ
宣伝が過ぎて胡散臭いから逆に評価下げてる気が

384 :
五輪書ってオリンピックに関係あるんだってな

385 :
>>383
でもそれ本人の責任じゃないからなあ
小野さんと同じで、柳生や武蔵がらみで信ぴょう性の欠片もないような武勇伝が流布されてるけど、流したのって本人じゃなくて弟子だろうし

386 :
なんだ
武蔵って卑怯者だったのか・・・
そりゃ、強くて卑怯者なら負けはしないだろうな

387 :
1000人の宮本武蔵と10000人の戦国軍隊が戦ったらどっちが勝つかな?!

388 :
>>385
近年の大河ドラマなんかも同じことがいえるけれど
過去の偉人を持ち上げるための捏造エピソードって
なんで本人を貶める結果にしかならんのだろうな

389 :
>>388
武蔵の場合、歌舞伎を皮切りに講談師がある事ない事広めまくったからな
飛んだ蠅をハシで掴むとか、有名だけど出典が解らんエピソードも多いぞ

390 :
時代が変われば人も変わるからな

391 :
高名な武芸者に無学文盲なものが多い中で、五輪の書を記した武蔵は偉い。

392 :
>>391
鉄砲隊で警護して、お父さまのトコまで送って貰える坊っちゃんが、文盲のはずないわな

393 :
>>389
箸で蝿をとらえるのは斬殺者には二天記、それと武公伝が元だとあるが…確認が面倒なので、本当かどうかはしらん。
>>392
それは沼田家記のアレか。
ひく島で決闘したことになってるってアレな。
断言はできんが、どうにもそこら捏造くさいな。

394 :
>>219
大分遅いレスだが、宮本無二之助の伝書の記述は新当流の技の名前っぽいの載ってるようなこと武芸流派大事典にあったと思う。
だから新免無二が香取神道流の関係というのは近いかもしれん。新当流とは違うが、地理的に関連はあるだろう…
ただ、面倒くさいことに武蔵の弟子の塩田松斎が熊本で当理流の創始者であるという伝があるんだ。こんちくしょう。
さらに宮本無二之助の伝書は日付などの問題からどうにも偽書くさいし、その年代に松斎が細川家で指導していた可能性がある。
無二は武蔵が新免家を継ぐ前に死んでいたというのが正しいのならば無二之助の伝書は偽造品ということになるし。

395 :
「無駄な努力はするな」
と言ったらしいですけど
だれか詳細知らない?

396 :
そういうの言ってるのかな。
五輪書は一貫して正しい理にそった稽古しろみたいなこと書いてたように記憶しているが、細かいところは忘れた。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とも書いてるのは確かなので、とりあえず日々の努力鍛錬は否定していなかったと思う。
あといちいち工夫すべしとか書いてたかな。
つまり……
正しい理論でちゃんと鍛錬を重ねるようにしよう。あと自分でも考えるように。
が武蔵の主張なんじゃないかとうろ覚えな記憶でまとめていってみる。

397 :
「鍛錬すべきなり」というような記述は何箇所あるんだかというくらいあるけど。
『五輪書』なんて入手が容易なんだから自分で見たほうが納得できると思う。

398 :
又聞きの情報で鍛錬を否定していると思われちゃ武蔵もたまらんだろうな。
なんで自分で読まないんだろう?

399 :
武蔵はあっちこっちの小説やらの題材にされるので、うっかりそれが有名になると事実無根の創作が広まることになって、
それが前提で話を進められることがよくある。
例えば二天一流などの武蔵の流派は後継者がいないだの広まらなかっただのという話がよくあるけど、ここらは司馬遼太郎あたりのいいがかり。
実際は江戸初期はかなり広まっていたし、明治あたりまで結構使い手はいた。
現代は伝える人も減ったけど、幕末でもっとも広まった直心影流の零落ぶりを考えると、かなり残ってる部類に入る。

400 :
直心は三大(四大)道場にも数えられないし、
幕末でもっとも広まった流派ではないでしょ。

401 :
三大道場って呼び方は幕末には呼ばれてないみたいね。
wikiると松崎浪四郎が自分が対戦した相手で強かった人間を並べて評したのが元らしい。
これもフィクションが拡大、変容、解釈された結果かもしれんね。
幕末の剣豪の中でももっとも評価された人物として直心影の男谷もいて、この人は講武所の師範まで務めた。
直心影流はむちゃくちゃ広まってた。
剣道形の型なんかも何度か改変されているんだが、
ttp://www.geocities.co.jp/Athlete-Athene/8236/isingonokendo.htm
これを見ると明治44年〜大正元年制定大日本剣道形の制定委員の二十人の内、五人を直心影流の人間が占めている。
ちなみに剣道形の一番最初のは制定をしている内の一人が、三橋鑑一郎という武蔵流で範士号をもらっていたという名人だね。
この当時は範士号はかなりの人間しかもらえないので、幕末から明治期にも武蔵流で強い人間がいたという傍証にはなる。

402 :
そもそも三大道場って「江戸三大道場」だったみたいなー。

403 :
幕末に最も広まったかは知らんが大正時代に入っても直心影流は多いな。
武道家名鑑を見た感じ北辰一刀流、神道無念流に次ぐくらいの数はいる。

404 :
>>401
それにしても幕末でもっともって言葉が好きなんだなw
直心の人?

405 :
>>404
いや、剣術はやってないw
ちょっと強調しすぎたきらいがあるので反省するわ。
武蔵流の話にすっけど、派によっては竹刀剣術への改変もあったりするし、割とあとの時代まで残ってたみたいな。
九州だけではなくて北陸や関西、愛知あたりにもあった。
江戸後期だったと思うが、江戸でいっぱい試合して、各流派の特徴とか書き残してた人の文章があったが、そのなかにも武蔵流系統の名前はあったと思う。
武蔵一代限りの流派ではなかった、というまあそれだけのことを言いたいだけだが。

406 :
>>405
こちらこそあらぬ疑いをかけたなw
ところで秋田に武蔵丸二刀流ってのがあるんだがこれも宮本武蔵の流儀でいいのかい?

407 :
>>406
武芸流派大事典によれば、祖は秋田藩士、小野崎造酒。
遠祖を丸目蔵人とし、上泉武蔵守の武蔵と丸目の丸をとって流名とした(日本武術流名録)。
二刀流とはいっても、根本は一刀を用いる。
ちょい略したが、こうある。
上泉武蔵守からとって武蔵流だと、武蔵全然関係ないのに二刀を使うのは面妖だが、流祖の小野崎が上泉武蔵守と新免武蔵守とをごっちゃにしてたのかもしれん。
あるいは新陰からでた二刀技法がもとなのか…は見てないのでよくわからない。
武蔵流関係の技法が混入している可能性もあるかもしれんが、実際にやってる人の映像とか伝書みないとなんともいえない。
こんな感じでいい?

408 :
ありがとう。そこで丸目の名が出てくるとは思わなかった。
現在の熊本に普及した流儀という点では武蔵流と丸目の流儀ってのは接点があるね。
ただ、タイ捨流自体に二刀があるらしい。
http://www.yamame.co.jp/sympo2-3.html
>山北 タイ捨流は、二刀を使いよる。二刀の巻き物があります。宮本武蔵は
左に小刀を持って右に長刀。タイ捨流の場合は、右が短剣で左が長刀。たとえば、
右手と左手に筆を持って書いた場合、同じ字画で同じ名前が書けるかというと絶対書けない。
どういう達人でも、書道の何十段である人でも絶対書けない。二刀といえども一刀の心に
到達するんでないと駄目です。そういう心に到達するには、一つは投げ剣にある。
投げ剣でパッとやり、受けるときに持ち替えて長刀で切る。心と仏教は一致しなければならない。
生きる法則。それをキツエン一刀の心といいます。

あと、宮本武蔵から出たという二刀神影流ってのもあるんだよな。
宮本武蔵かと思えば上泉武蔵守が出てきたり、新陰系統かと思えば流祖が武蔵だったり
正直よくわからんw
二刀神影流鎖鎌術
http://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/077/

409 :
>>408
二刀技法そのものは古くからあるしね。
武蔵も刀は片手で使うものといってるから、もう片方の手にいろいろと持つ戦闘法は過去にあったのかもしれない。
宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
>二刀神影流鎖鎌術
それは大正の頃に作られた流派で…坂本土佐海氏の随筆にもその流派作った人のこと言及があったような…悪口ではなかったけど。
武蔵を義経由来の流派の末裔とする流派もあるし、武蔵くらいの有名人になるとほとんど戸川白雲斎とかみたいな伝説上の人物と一緒で、仮託の対象にされてたみたいね。
とりあえず武術の流祖伝説は明確に資料がある場合はともかく、ほぼ話半分で聞いといたほうがいいよw

410 :
二刀神影流は創作かw
脈絡の無さが面白いのに残念だ。
>宮本無二之助伝書はシントウ流系だし、武蔵流の用語もそっちの流れらしい。
天真正伝香取神道流にも二刀のかたはあったはず。
現状の香取神道流にも二刀は残ってるけど、武蔵誕生百年前に
新当流の二刀伝書があるというからね。
http://www.yukan-daily.co.jp/news.php?id=14245
>今回、大きな発見の一つが盛嶽(もりたけ)文書という。佐伯市内の民家の古い仏壇に保管されていたこの文書は、
文明16(1484)年の兵法書「新当流両部乱之太刀口伝」。刀を2本持った人の絵が描かれていることから、
二刀流の書という。

411 :
残念ながら創作なんだw
いや、もしかしてみんなが創作いってるだけで実は神免派の影響があったりなかったりしていろいろと痕跡があるとかするかもしれんw
>新当流両部乱之太刀口伝
ほう。こいつは面白い。
新免無二が死んだのは伊織の奉納した泊神社の額によると天正年間で筑前の秋月城なんだな。
無二はこの後も生きてたじゃないかという反論は多いんだが、伊織の頃にはそういう伝があったのは確かだろう。
つまり無二は筑前ゆかりの武芸者で、偽造臭いが宮本無二之助の伝書はシントウ流系で武蔵流もそれっぽく、その無二が縁のある筑前の近隣で新当流二刀使いの人間が天正の頃までいた、と。
もしかしたら、可能性だけだけど、ここらが武蔵流のルーツかもしれんねー。

412 :
鳥取の武蔵流のように、武蔵にあやかって名前を付けた流派もあるから、
一見しただけじゃ武蔵ゆかりかわからんというのがややこしい所だな

413 :
卜伝流の中にもどう見ても卜伝の新当流とは関係なさそうな流派もあるそうだからな。
伊織伝二天一流なんかも、小さん師匠も継承していたって流派だが江戸後期になって突然でてきた流派で怪しい。
二刀遣いは古くからあるし、あるいは武蔵流の末流が伊織に伝承されていたと詐称したのかもしれないが。

414 :
あまり柔術と縁がなさそうなのに卜伝を開祖とする柔術もあったりするからな。
昔の神道流は総合武術であったから柔も達人だろうという発想かな。

415 :
柔術といえば二天一流柔術ってのも存在した、らしい。
古橋惣左衛門が伝授をうけたというが、伝書の一部が残るだけだという。
武蔵の他の弟子の塩田も小具足が使えたというから、武蔵の体術ってのはあったんだろうけど。

416 :
十手と柔は親和性があるから当理流時代からあったかもね。

417 :
当理流が武蔵の父の流派であるかどうかはまだ微妙だけどな。
宮本無二之助=新免無二については異論も多い。

418 :
明治まで伝わっていた塩田流の建てた石塔には、塩田松斎が武蔵に入門して宮本無二斎の流派を学んでのち、一度破門されてから後に武蔵に許され、天下無双当理流手縛の祖となった、とあるそうだ。
面倒くせえ伝承だぜ。

419 :
>>417
だが、宮本武蔵が受けた大名家の厚遇ぶりを見ると、そこそこ良い家柄の人間で有ると考えた方が論に根拠を持たすには都合が良い
必然的に当理流開祖と結び付ける傾向になるのだろう

420 :
>>419
単純に技術者、芸術家としての厚遇って考えてもいいんじゃないか?
明石時代の武蔵は作庭を随分としているようだし。
林羅山らと直接に関係があったんじゃないかって説もあるし。
そこらのコネクションとかあったんじゃないかな。
あるいは水野勝成の配下で武者奉行だった中川志摩之助の子供たちを養子にもらっているが、
これは水野勝成が大阪冬の陣に武蔵が参戦していて、それが縁だという話もある。
この頃の武蔵が宮本を名乗っていたのかは不明なので後世の混入の可能性は高いけど、
水野家と何か武蔵は関係があったのかもしれん。例えば放浪時代とかで。ちょっと年代あわないけど。
あと宮本無二之助は武蔵との年齢差は13歳…養子にとるのには少し歳の差が少ないかもしれず。

421 :
大阪の陣の宮本武蔵は、所謂俺らが武蔵と呼ぶ宮本武蔵の事でいいんじゃないの?
大坂御陳御人数附覚に、そのままズバリ「宮本武蔵」で載ってるし
よく宮本武蔵複数人説というのがあって、この武蔵は新免武蔵とは別の武蔵だと言う奴が言うけど
この武蔵は作州様附の十人の一人、嫡男勝俊の親衛隊であり、とすれば、道明寺と天王山で大暴れした部隊の一員で、しかも最前線に居たという事になる
もしこの宮本武蔵が二天一流の武蔵じゃないのなら、この時活躍した筈の宮本武蔵は一体どこ行っちゃったんだ? という話になる。水野家家臣として何かしらの記録が残る筈
妙政寺に武蔵が勝俊に寄進したという石灯籠があるが、ともあれ、武蔵と水野家は縁深い。この宮本武蔵=新免武蔵と素直に結論付けて問題あるまいよ
絵画や書家の武蔵を「二人の武蔵」とする説もそうだが、それぞれの分野に全く別人の宮本武蔵と名乗る人物が居て、それぞれそれなりに著名で、しかもそういうケースが複数ある、という方が逆に不自然だろう
わざわざ別人の同姓同名、というより同一人物と考えた方がよほどしっくりくる。
少なくとも水野隊の武蔵に関して言うなら、ドンピシャの宮本武蔵という名を持った同姓同名の別人、とわざわざ考えなければならない必然性が無い。
伊織からして宮本だから、新免武蔵が宮本武蔵と名乗っていた事は確実だしな。
まあ現存する大坂御陳御人数附覚が写本だから、確かに後世の人間が付けたした可能性も無くは無いが
宮本小兵衛が武蔵の養子になった経緯から考えても、水野隊に属していたのは、所謂宮本武蔵と考えるのが妥当だろう

422 :
>>421
武蔵が宮本を名乗ったのがいつ頃からかはっきりしないからな。
大坂御陳御人数附覚の原本には新免武蔵と書いてあったのを、後の人が宮本武蔵のことだろうと書き直した可能性はある。
というか、新免武蔵守藤原玄信は宮本武蔵の正式な名乗りだよ。まあ武蔵守は勝手に名乗ってたみたいだけど。
どちらにしても水野家と何かの関係があったんだろうけど、武蔵がどうしてそんな関係をもてたのかというのはよくわからない。
あと宮本小兵衛は武蔵の養子三木之助の甥。
三木之助の弟の九郎太郎…二代目宮本三木之助の息子に当たる。
武蔵複数人数説は綿谷雪氏が提唱していた説だけど、現在ではさすがに真に受けてる人はいない。
後世の伝書やらで捏造されているのを間に受けているんだろう。
ただ考証武芸者列伝で名前が列挙されてたけど、十六人とか多すぎるわなw
ここまで多いと逆に複数いたと考えたくなっても仕方ないだろうなー。

423 :
大坂御陳御人数附覚の出典は確か小場家文書で、書いたのは恐らく小場家の人間なのだろう
あえて縁も所縁も無い武蔵の名を意図的に付けたすとは思えない。武蔵が大坂の陣に参加したのは事実であったとみていい
黄耈雑録では丁度、「水野日向守が手に付き」として、道明寺合戦で何人もの敵をなぎ倒す武蔵が出てくるが、
それはともかくとして、武蔵が水野家に肩入れし、寵愛を受けていた事は広く知れていたであろう事がうかがい知れる
齢二十九までに六十余度の勝負を経て、勝ちを得ざる事なし、という定説に則るとすると、大坂の陣の時点では既に有名であったという事になる
勝重に招かれて兵法指南でもしていた縁だったのか、水野家家中に門弟でも居たんじゃなかろうか。後に入り浸る本多、小笠原、細川と同じような感じだとは思う

424 :
どっちにしても武蔵が大坂の陣前後の頃から高名で活躍していた剣豪だってのは確かみたいだな。
仕官できなかったみたいなことは小説とかでよく書かれているけど、しなかったってのが正解だろう。
どっかの家に三百、五百石で召し抱えられるよりは、複数の家に影響がありながらも一人身の方が気楽なんじゃないか。
晩年の細川家で三白石もらってたのも、滞在費として小遣いもらってた感じだったらしい。
細川家に招かれたというのは俗説で、弟子のいる熊本に湯治にきていついたみたいなのが伊織の書簡などに書いてるそうだ。
まあ考えてみたら、高名な兵法者がどうこうの前に、当時の感覚としては小笠原家筆頭家老の養父がきているんだから、それなりの待遇でもてなすのが当然なわけだが。

425 :
>>424
正確に言えば、細川忠利に山鹿の温泉に招かれた
細川奉書に、足利道鑑と共に山鹿のお茶屋に招待された事が日付入りで載っている
とりあえず、「宮本武蔵って知ってる?」って人に聞けば、「ああ、あの剣豪の」と返って来るくらいには世間に認知されていたのだろう

426 :
全く関係の無い流派が「宮本武蔵源流」を名乗っていたり
吉岡伝や村上吉之丞の逸話で、全く経歴も風体も違う人間に宮本武蔵という名前を付けて、そいつが負けたとか逃げたとか言っているケースがある
それを挙げて鬼の首を取ったように「弟子たちの伝記と違うじゃないか、武蔵は捏造ばかり」と言う輩がいるが
そりゃ他の人間が武蔵の剣名にあやかっていただけで、武蔵本人の責任じゃないよな
大体そういう論者は、武蔵伝記を疑う発想はあるのに、武蔵を否定する所までで思考が止まってしまって、それらの信憑性に言及する事が無いのが残念
そもそも、武蔵研究者だって今更、二天記中の奥蔵院や氏井弥四郎の立ち会いが本当にあったなんて思ってる人間はいない
基本的に傍証出来るものしか信頼に足る、とされていない。そのくらいには武蔵研究は進んでいる

427 :
武蔵は情報が無闇に多すぎてどれが本当か、あるいはどの程度まで本当なのかがよくわからん。
それだけ高名であったというか、ネタに使いやすい人物だったんだろうけど。
しかしよく考えれば、その理由は小倉碑文のおかげじゃないかっておもわなくもない。
兵法者の業績を分かりやすく碑文にして顕彰するとか、あまりないから。
どうも名物みたいに結構紹介されてたようにも聞いたぞ。

428 :
小倉碑文はよく身内評価だと言われるが、伊織は大名家の家老でちゃんとした身分の人だから、下手な事は書けない
だからむしろ信憑性が高いという見地もある
まあ武蔵の事績はいおりがいたから残ったともいえるね

429 :
伊織は武蔵とは別に鵜の真似とかで神格化して取り上げられるくらいに当時知名度あったしね。
播磨ではそこそこの家柄だったとはいえ、忠真の近習として召しだされて、最終的に四千石を超える小笠原家筆頭家老だし。
考えるとものすごい出世だ。
小倉碑文は身びいきの誇張とかが多くて信用できないっていう人もいるが、そもそも顕彰碑なんだから内容の誇張は当たり前ではあるな。

430 :
そもそもそれ言い出したら、筆者の主観が介入しない書き物なんてありえないからね
何も参考にしないで勝手に書いたのか、事実に則って書いたのかの違いはあるが
碑文が建ったのが武蔵没後十年以内だから、当時を知っている人もいただろうし、伊織も全くのデタラメや試合結果の捏造は書きにくかったんじゃないかなー
ともあれ、伊織が「公人」であるという事が、信憑性の確かさにつながっているよね

431 :
武蔵作州出身説の人間は伊織はうそつきとか間違いが多いってことになってるらしいけどなw
泊神社の奉納額で新免無二が天正年間に死んでることになってるとか。
新免を神免にしているとか。
いずれ言いがかりレベルだけど。

432 :
訂正。武蔵作州出身説の人間の間では、伊織はうそつきとか間違いが多くて信用ができないってことになってる、だった。
推敲しないと文章おかしくなるな。
新免無二が天正年間に死んだことになってるのに、宮本無二之助や新免無二斎などは慶長年間に伝書だしたり巌流島の決闘のエピソードに名前が出るのは確かなので、ここらはどう考えるのかはちょっと問題だったりする。

433 :
武蔵の顔ってどんな顔してたんだろうね

434 :
ゴリラみたいな顔じゃね

435 :
「朝鍛夕錬」を五輪の書でも強調してるから
生涯を通じて相当修行していたことは間違いない。

436 :
うちの剣道の師匠七段にもし武蔵と殺りあったら勝てます?
って聞いたら勝てないだろうね
だってさ

437 :
剣道ルールなら普通に勝てるべ

438 :
剣道は剣術から遠ざかって全く別物のスポーツになってるからね。

439 :
そら剣に命をかけたことがない奴が
弱ければ死ぬという世界で生きてきた奴に勝てるわけがない
プロの殺し屋と素人がやってどっちが勝つか?つー話だろ

440 :
それに武蔵は身長182センチ以上で頑強な肉体で
片手で軽々と刀を振り回せる怪力の持ち主。
当時でもバケモノ的存在だっただろう。

441 :
182以上?

442 :
人を殺したこともない自衛隊員チームと人を殺めたこともあるヤクザ屋さんチームに
鉄砲や銃剣を持たせて本気で殺し合いをさせれば、自衛隊員チームが勝つだろう。

443 :
『剣に命をかけたことがない奴』が剣道七段取れるわけがあるかww

444 :
武道に深く携わった人ほど先人を敬うものだよ

445 :
>>441
ググレ

446 :
剣道七段はその道ではほとんど最高位、八段は特別な試験を経て取得(昔NHKで特集で観たことがある)
「一の太刀」のような必殺の一撃を繰り出せるかどうかがその判定方法なんだそうだが、
おもしろかったよ
・・・・剣道七段、で横道にそれてしまった。

447 :
間違って日本刀で刺されちまったんだがやっぱ痛いわ

448 :
>>291
訓練が大事としか書いてないよマジで
剣が異常に長いのは意味ないっていうのは小次郎のこといってるのかと思ってワクワクしたりした

449 :
伊織が嘘つきというより、伊織は武蔵のことを正確に知らなかったと考えたほうがよい。

450 :
吉岡家断絶がウソなので碑文の細部が皆インチキに見える。

451 :
顕彰碑の内容なんて、事績については大仰に書くもんじゃないかね。

452 :
武蔵とひと悶着起こした会派が断絶しただけかもしれん。
まあ、実際の所はわからんけど、どっちかと言えば吉岡伝のほうが信用ならん

453 :
無理に勘ぐれば、染物屋やってる吉岡家が自分ところは剣術の吉岡家の親戚なんです…というのを主張したいから捏造したのかもしれん。
吉岡流が将軍家指南やってたのが本当なら、本家が無くなっても使える人間は結構いたかもな。

454 :
吉岡伝は全く信用できない。
けれども、後の時代まで吉岡一族の動向が他の史料でも確認できるので、
伊織が碑で述べてる完全に絶えたというのは誤り。

それとテレビや物書きが面白いから良く取り上げるが、
現在活躍中の染色家の吉岡氏は、
同じ吉岡姓で先祖の家業が染色であることから、可能性は0ではないが
一族に吉岡一門の子孫である言い伝えや系図などがある訳ではない。

455 :
まあ吉岡伝は後世の資料集積本で、登場する武蔵の素性も他の剣豪も他のぱくりくさいし、よほど武蔵にくい人間でなければあれは真面目に採用せんだろうw
後世の吉岡流というと吉岡加兵衛だっけ?昔咄に名前が出てくる。
武蔵と戦ったという吉岡家との関係はよく解らんな。原文読んでないがそこら書いてるんだっけか。
顕彰碑という性格も考えて、武蔵が吉岡家と勝負して大勝したというのはありだとして、
だけど吉岡家が断絶したというよりも道場を構えるのをやめてしまった…
程度のことを大げさに書いたのかもな。
新免無二と宮本無二之助との関係も疑おうと思えば疑える。
自分の感触からすればおおまかに小倉碑文や泊神社の奉納額は信用していいんじゃないかな。

456 :
二階堂の流祖を恐れて戦わなかったって本当?

457 :
二階堂流の流祖は松山主水だが、武蔵が逃げたって逸話はその高弟の村上吉之丞だな。
いつ頃の話かは不明だが、主水が道場で教えはじめたのはwiki見たら寛永九年とある。
村上が二階堂流を学んだとするならこれ以降となる。
この頃の武蔵は明石に在住していて養子の伊織が近習として小笠原忠真に仕えてた。
寛永九年は武蔵四十九歳で、家督も伊織が継いでいたと考えるのが妥当なところだと思う。
実質隠居してたようなもんだから、仕官を求めて武蔵が細川家に来るというのは考えにくい。
あくまで逸話とした方がいいと思う。
村上の子孫は武蔵の孫弟子の新免弁助に学んで村上派二天一流を創始したという。

458 :
うるせー武蔵!石ぶつけんぞコラ!

459 :
松山主水の説話は、ほとんど妖術の類。
戦う時に宙に浮いていたと記してある江戸時代の文献もある。
武蔵でなく柳生但馬が、あれは剣術でなく妖術と対戦しなかったという文献もある。

460 :
レベルが違いすぎる武術家のやってることは、時に魔法のように見えるもの…らしい。
関口柔心の子孫がそういうこと言ってるな。
しかし松山主水は妖術師めいているのだが、死に方はあっけなかった…。

461 :
テレビ東京 美の巨人たち 
宮本武蔵『枯木鳴鵙図』

462 :
>武蔵でなく柳生但馬が、あれは剣術でなく妖術と対戦しなかったという文献もある。
文献もある、で済ますんじゃなくてその文献の名前も教えてくれよ。

463 :

中国温家宝首相は戦艦『武蔵』
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/02/4/46_2.html
戦艦大和慰霊碑は、沈没場所とは程遠い、徳之島犬田布岬にある。
それには重大な理由がある。
島の名前が示すように、この島は、「徳川の島」だった。
鹿児島でも、「徳」の付く姓は多い。徳地、徳留、徳、久徳・・・・・。
私の知る限り、全て「御庭番」だった。
天皇一族が敵地に入植する時、必ず辺境地から攻める。

464 :
>>462
ある流派の江戸期の伝書の一つ
活字にもなってない。
江戸中期以降のものだから、そういう伝説があったんだろう。

465 :
>>464
せめて何流かだけでも教えて欲しいもんだぜ。
武蔵や但馬はビッグネームだけあって、あちこちの逸話に引き合いに出されるとかありそうなことではある。

466 :
ありそうな話ではあるけど>>464みたいな書き方されると信じるべきかどうか困る。
もう少し手がかりというか詳細頼むよ。

467 :
>>466
464が眉唾とか脳内ソースかてのは別にして
流派の伝書の中身なんて口外したら破門らしいぜ。
ソースは、自称日置流印西派の爺さんに俺が言われたことだ。

468 :
活字にすらなってないのが400年残ってる時点で嘘だ
明治後でも100年後に書かれた本はフィクションだらけ
リアルタイムを知らない人が書くんだからあたりまえだけど

469 :
>>467
古武術流派の伝書とか、昔は麩の裏あてとかに使われていたものだぜ…。
何せ当人以外にはなんら勝ちがないものだからな。一応先祖のものとして大切にしてる家もあったりするが。
最近はヤオフクのオークションなんかでよく出品されているよ。
先々月だったか、幕末で二刀流の達人のものと思しき伝書が売りに出されていると聞いた。
流派によるが五千円から十数万くらいまで上がることがあるよ。

470 :
もし剣術家の吉岡が健在で、武蔵はそいつらにボロ負けして逃走したのが本当だとしたら、伊織が顕彰碑を建てた時に黙っていた筈がないと思うがな
碑文が建てられたのは武蔵が死んでから十年も経っていない頃。まだ当時の事件を知っている人間も多く居ただろう
吉岡勢の勝利を伝えるのは吉岡伝のみ。だから剣の吉岡は事実、何らかの形で敗れたか、それとも最初から存在していなかったのか、どっちかだろう

471 :
吉岡と武蔵の対決に関しては、どっちが勝ったの負けたの引き分けたのという話があって、どれが本当だかわからん。
吉岡伝以外にも武蔵が負けたと書いてるのはある。勿論、吉岡伝を元にして記述かもしれんが。
伊織はなんぼいうても小笠原家の筆頭家老で、仮にまるで大嘘だったにしても、京都で染物屋なり剣客なりしていたというのでは文句のつけられなかったかもしれんが。
ただ、吉岡家の人間が禁裏で大騒ぎやらかしたって話はあるから、武蔵によって吉岡家が断絶したってのはないと思う。

472 :
別に吉岡じゃなくても、伊織の書いた内容が大嘘だったら「あんなもん大嘘」って書いた文献か、もしくは事実を符合させるものが出てるはずで、こんな論争になってないよね
公人の書いたものだけに、事実に反した事書いてたら後世の我々にはすぐバレるよ。それこそ、吉岡は実は断絶していなかった、みたいにさ
まあ後の吉岡と武蔵の戦った吉岡が同じ家である保証もないのだが……仮に同じ筋であっても本家分家の関係かもしれんし
これだけ逸話がある以上は間違いなく何がしかの関係があったと思うけども

473 :
武蔵と吉岡の関係はどういうものであったにせよ、伊織が書き残すくらいだから何かあったんだろうね。
武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
顕彰碑だから誇張はあるにしても、まったくの嘘であるとは考えにくい。
まあ伊織の遺した史料については泊神社のとか、こっちもなかなか難題だったりする。
天正年間に嗣子なくして死んだ新免無二と、慶長年間に伝書を発行している当理流の宮本無二之助。
そして細川家で慶長年間に剣術を教えていたという無二の関係とか。
綿谷雪先生は、考証武芸者列伝で無二が嗣子なくして死んだと書いてあることについて、伊織は武蔵のことをあまりよく知らなかったのではないかと書いている。

474 :
筑前で天正年間に死んだ新免無二の後を継いで武蔵が新免を名乗ることになったのだとしたら、
宮本無二之助は武蔵と無関係の人物になるのだが、よく解らんな。
武蔵研究サイトでは、当理流の無二之助は後から捏造された人物ということにしている。

475 :
>武蔵に敗れたという吉岡清十郎は吉岡直綱でない可能性は確かにある。
 一族で剣術やってて、たまたま兄弟で強い吉岡が幾つもあったのかもしれん。
現状で一番説明がつくのは案外、この説かもな
端っから武蔵の作り話だとして落とすのは簡単だが、それじゃ思考停止だし、何より碑文をはじめとした数ある史料の存在の説明がつかん
いくら武蔵が伝説的人物だとはいえ。
元となる事実なしにここまで発展した逸話になったとは思えん

476 :
そもそもを言い出すとアレだが、吉岡憲法って武蔵に敗れたという話と一族が禁中能か何かで暴れたということくらいしかしらんw
吉岡染めとかはあるけどあれは後世のものだしな。
実際の吉岡流からして元がなに流からとかワカンネー。
史料によっては神道流から出ているという説もある。
武蔵以上に謎が多い気がするぞw

477 :
>>468
確かに二天記も兵法先師伝記も巌流島から百数十年たった文書だからフィクションだらけ。
>>476
吉岡の作った「憲法染の掻取」が、江戸の武士の間で正装として扱われるようになったのは
安いってのもあるが、吉岡家が剣術家であったことも理由のひとつだよ

478 :
>>477
二天記はそもそも親の書いてた武公伝を底本にしているけどなw
吉岡家については興味はあるが資料をあまり聞かないな…
吉岡染めについて、どういう評価とかされてるの?

479 :
>>45
64と87の北条早雲も困ったもんだ

480 :
>>433
肖像画残ってンじゃん
あれ顔知らない人が想像で書いたんか?

481 :
近代文学の中で、宮本武蔵がはじめて登場したのは、恐らく森鴎外の『阿部一族』(大正2年1月「中央公論」)であろう。結末に近いところ、阿部一族の討手に加えられた大兵の臆病者、畑十太夫を武蔵が見て声をかける場面のほんの数行である。

482 :
武蔵がかわいい^^
http://www.youtube.com/watch?v=pLDa91XKbZ0

483 :
お前らの武蔵先生がボロクソに言われてますが。
宮本武蔵って本当に最強の剣豪だったの?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1329491176

484 :
>>480
武蔵研究サイトの人らがいうには、後期のほど武蔵の顔が怖く書かれているらしいぞw

485 :
武蔵研究サイトがいうことが必ずしも正しい訳ではない。
少なくとも他説を小馬鹿にした言動が目的に成っている部分が見受けられる。
過去の根拠がない説を非難する中に、根拠がない自説を挿入してある。


486 :
ウィキで見たけど武蔵って卑怯者じゃん
小次郎との決闘で弟子連れてくるし、カスじゃん。男なら約束守れよ
つーことで小次郎リスペクトします。武蔵は卑怯者です

487 :
>>485
あの研究サイトにある根拠のない自説か…あそこはデータが膨大な上に読みにくいものだから、何処に何があるか把握しきれねえw
他説を小馬鹿にした言動が目的に、というのは同意だw

488 :
他説を小馬鹿にすることが目的って、具体的にどこよ?
引用してみてよ。

489 :
小馬鹿にするのが目的というのは言いすぎだな。
言い方が小馬鹿にしているように見受けられる…というのは、印象としてはあるな。
多分座談会とか読んだ印象なんだとは思うが。
あそこのデータはなんだかんだと豊富なのでありがたい。

490 :
武蔵はどういう状況で脛に石食らったの?野戦?

491 :
モダンミステリースクールとかいうインチキカルトいわく、宮本武蔵はそこの信者だったらしいんだけど、本当か?

492 :
>>490
城攻めに際して、本丸に直接向かった小笠原家の軍の旗本一番隊にいたらしい。
まあかなりの最前線。
有馬直純宛武蔵書状で投石でどうこうとあるのは有名だけど、どういう風に当てられたとかは確か書いてない。
激戦区であることを考えると、まあ石ぶつけられててもなんら不思議ではない。
書状は互いの戦功を慶びつつ、有馬直純が会いたいというのを断ったっつー内容だな。
面会を断ったのは有馬家と水野家の戦功争いに巻き込まれたくなかったからではないかって意見もあるが、これはちょっと穿ち過ぎじゃないかね。よくわからんが。

493 :
塚原ト伝だって矢傷は受けてるし、最前線に出たら無傷というわけにはいかないだろうね

494 :
攻城戦での石傷だと高所からって可能性もあるな。

495 :
別に一人で突っ込んだわけでもないしなあ。
基本、護衛だし。

496 :
「禅の思想と剣術」という大学教授が書いたわりとまじめな本の中で
ネット上で武蔵の資料を見る手段として播磨武蔵研究会を推薦してて驚いた

497 :
実際、武蔵研究としてはあそこが一番進んでるんじゃないの?
舌鋒鋭く他説の批判をしてるから反感も買いやすいかもしれないけど

498 :
舌鋒鋭いというか主観による決め付けもあるしな。

499 :
少なくとも原文と資料を同時に提示・比較してるから
筆者の主観だけでなく読者にも判断できるようになってるところはフェアだと思うけどね
ここら辺は紙面に制限のないネットの強みだな

500 :
舌鋒鋭い人らの関係者かな?

501 :
ただの一読者ですよ
それより、主観による決め付けって例えばどういうところを読んでそう思ったの?

502 :
ずっと準備中のページがいくつかあるけど、もう中の人いないのかな

503 :
>>500
サイトは攻撃的(というか偉そう)なとこが嫌でちょっとしか読んでないけど
ちゃんと資料を提示した上で批判してるのは偉いと思う

504 :
攻撃的といえば菊池寛と直木三十五の武蔵論争もどぎつい言葉の応酬だったな

505 :
>>502
去年に中の人の一人が新潟の方で講演会したとかなんとか聞いたから、純粋に手間食ってるだけだろう。
更新日だけ見ると細かく更新しているから、修正作業とか日々忙しく動いてはいるみたい。
多分、中の人たちがかなり高齢なんで、なかなか準備がおわんないんだろう。
綿谷雪のアタマの具合とか証言できるっていうてたくらいだし、今七十は八十前後の人たちだと思う。

506 :
優れた主張というより、経済的に支えられた物量によって、優れたサイトであるかの印象を与えている。
まあ、物量に価値があるといえばそれまでだが。
あれだけの量だから、原文で間違っている所も多い。
ただ、あの主張内容だから、
単なる間違いでなく、わざと間違って、サイトからの引用を炙り出しているのかと疑ってしまう。
とにかく、性格が悪い。本当に勉強したいのなら、あのサイトは読まない方がいいというか
触れないほうがいいのというのが個人的感想。
毒が多すぎる。

507 :
そちらのサイトによると「疋田の新当流起請文はマユツバ」らしいんだが、
何か根拠はあるんですかね?

508 :
これです。
http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b204.html
>しかも、かの疋田豊五郎が雲林院弥四郎入道(光秀)に提出した起請文なるものがあるそうだ。
そうすると、疋田豊五郎は雲林院光秀に新当流を学んだということになり、これはいささか眉に唾してかからざるをえない。

509 :
メール送って本人に聞けよ

510 :
五輪書に書いてある一言一句の真の意味を
理解するのは容易じゃないな
容易じゃないってわかることがまた容易じゃない

511 :
>>510
それがわかったってことは貴方も相当な人なんですね。

512 :
剣客というのはどうやって収入を得ていたんだ

513 :
用心棒だろ昔はいろんなとこで毎週仕事あったし

514 :
武蔵は絵を描くだけで左団扇だったとか

515 :2013/05/02
ウチの近所には武蔵野子孫と言うおじさんが居るぞ。
武蔵と千葉のお姫様の間に生まれた一人息子の子孫。証拠は何もないそうだが武蔵が愛用していたという包丁がある。
見せて貰ったがステンレス製なんだけど…まー刺激して怒らせても怖いから感動したフリしたけど。
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∞∞∞∞宙組を語るスレ327∞∞∞∞