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2013年05月戦国時代65: 戦国ちょっといい話37 (216) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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戦国ちょっといい話37


1 :2013/04/08 〜 最終レス :2013/05/07
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1357367577/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話36
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1363877097/
【既出】の戦国ちょっといい話・悪い話を話そう
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350227528/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :


3 :
   (  ~~.旦
       .~旦 )
     (( 旦~  グラグラ
       .旦
       ..旦~
       (旦~~
      /⌒ヽ   みなさん ごくろうさまです
     / ´_ゝ`)
     |    /    お茶がはいりましたよ
     | /| |
     // | |
    U  .U   

4 :
大阪冬の陣により、幕府は諸大名に出陣を命ず。
時に米沢の上杉景勝家臣・杉原(水原)常陸介親憲は大変悩んでいた。
「私には先祖伝来の鎧一領しか無く、これは数度の合戦に着古した物の具である。
国元の坪軍(小さな合戦)であればこれで構わないのだが、今度、両御所様は二条伏見に
御在城であり、京に着到した軍兵は皆、野路、篠原、石部、坂本より華麗な物の具を着けて
入京する、との風聞である。はげた鎧では見苦しい。どうするべきか…。」
これを同僚たちに相談すると、
「我々は、一手の物頭でさえ替えの鎧を持っておらぬ。田舎であるから、鎧を借りると言うことも
出来ない。常陸介殿は機転のある人だから、何とか上手く考えてほしい。」
そこで親憲は、猿楽の能装束の法被を具足の上に着て、摂津まで罷り立った。
さて、大御所様(家康)は親憲の姿をご覧になり
「上杉はさすが古い家だ、常陸介の武具立見事である。
古風にも紺地に綿の鎧直垂を着ている。皆々、後学のためあれを良く見ておけ。」
と言われ、天下の話題になったのも不思議なことだ。
さて、親憲はこの戦いで感状を拝領したが、それを頂いて帰る時
「しかし思いもよらない物を貰ってしまった。今回の摂州御陣は子供が喧嘩して礫を投げ合うのと
同じようなものであり、互いに恐ろしい事など何もない。
昔、関東北国において、今死ぬか、明日死ぬかと思うほど激しい合戦に、朝も晩も戦っていた時には
御感状頂いたことは無かったのに、今回のような礫の打ち合いのような戦で、公方様(秀忠)からの
御感状を取ってしまったわ!」
そう、大笑いしたそうである。
(北越太平記)

5 :
豊臣冬の大感謝祭☆感状大量発行中!

6 :
上杉ってどこ方面担当だったの?楽しすぎ

7 :
>>6
なにが楽しすぎる?
一行目から二行目への飛躍がわからんw

8 :
なにが楽してたんだって、そりゃ上杉だろ

9 :
たのしすぎうえすぎ

10 :
たのしすぎとだけよんだ
なぜらくがあたまのなかからきえていたのかはわからない

11 :
今福・鴫野で佐竹の救援とかやってるけど楽か?

12 :
>>11
救援されるほうならともかく、するほうなら比較的楽じゃない?

13 :
前半の話(水原常陸の錦の直垂)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3402.html
後半の話に似たの(そんな恐い景勝の大坂の陣エピ)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3840.html
後半は景勝の話だから上杉の将兵みんな子供の喧嘩程度としか思ってなかったのかもしれない

14 :
ある程度楽ではあるけれど、経験の薄い武将が多くなってくる時代においては重要な役回りじゃないかな

15 :
その割には、ぷっwwwなんなのあの格好わwwwって家康に爆笑されてたよな

16 :
前半は当世具足の普及が高くなってて「伝統あるレトロな鎧もありやね」みたいな感じなんかね?

17 :
大阪の陣の時のことである。徳川家康が周りの者達に
「大野主馬(治房)は天下を望んでいる、と言われているが、それは本当だろうか?」
と仰った。しかしその言葉や表情には、主馬を憎いと思っている様子は少しもなかった。
その後、再びこのように言われた
「天下に望みを持ったとしても、不可能だとはいえない。
天下というものは、例え武辺に達したからといって、得ることは出来ぬものであり、生まれながらに定まった
運命のようなものである。
私には、天下が転がり込んできた。
信玄や謙信といった者達は、武勇に達した武将であったが、天下を得ることは出来なかった。
これも運命であったのだろう。
こう言った運命を持つものは、誰に寄るという事はない。
だから、大野主馬が天下を望んだといって、それが不可能だとは誰にも言えないのだ。」
そう、皆に仰った。
(紀伊國物語)
徳川家康の天下観のについての逸話である

18 :
タヌキの関ヶ原前で240万石だっけ?有力ではあるけど絶対的な国力じゃないんだよな。無口とまーくんと市松が一致団結すれば叩けんわけじゃない。三成がアホやらなきゃのう

19 :
もはや三成のポカとか関係ない組み合わせじゃないか

20 :
家康自身も自分がラッキーマンだと思っていたのか。

21 :
>>18
その三人がどうやって組むんだ?特に伊達と上杉が組むとか有り得ない構図だろ。

22 :
実力があるのは前提だけど、最終的にはやっぱ運だな

23 :
相馬利胤が江戸に在府していた頃の話である。
ある時利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、ここで本多出雲守(忠朝)殿が
このようなことを仰った
「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」
列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は
「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の新愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。
私のような者でも、明日何事があったとしても、人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、すなわち私一人が、自身が恥をかかないために
仕えさせた者達なのです。ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。
一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで
攻め込ませた事はない、とのこと。こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。
相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる
人々なのでしょう。
尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。
関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、それでも
少しは分けて扱いたい気持ちがありました。ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。
ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、親しみ睦み深く人を召し使う
状態こそ、理想的な環境は無いと、この頃そう考えていたのです。」
この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に
続こうとする御仁である。若き者共よ、今に見ておれ。天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を
驚かせる働きをされるであろう。」
この本多忠朝殿は関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、その後大阪の陣において
涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、捨てがたい挿話であるので、ここに
記して置くのである。
(奧相茶話記)
相馬家の記録に残る、本多忠朝についての逸話である。

24 :
長いけど、いい話だね

25 :
>幾度も分に過ぎた大敵と対戦
ああ、あいつね…

26 :
>>25
アレですね。

27 :
奴だな

28 :
で高名な武士って誰よ?

29 :
那須、相馬は一騎当千
小田は...(´・ω・`)

30 :
ぶった切っちゃうが
相馬の殿様は、いま北海道にいるんだっけか
震災のあとも相馬復興や野馬追い存続に尽力してたような
相馬に限らず、いまも殿様と家臣として続いてるところは多いんだろうなあ

31 :
相馬氏は特に700年くらい在地領主として一貫して相馬を支配してきたんじゃなかったっけ
江戸時代の話になるけど、年貢とかに関してもかなり柔軟な制度を作ってた記憶

32 :
>>30
細川護煕が総理になった時に家老の家に連なる爺さんが殿がやっと天下を取られてとか言ってたなw

33 :
小田何とかさんが総理になって菅谷と名乗る爺さんが殿がついに天下を取られて、
と号泣してたら海外に移住しなくては
首都が陥落してしまうw

34 :
取り返すまでが小田総理の実力だろ
菅谷官房長の御子息は戦死してしまうわけだが

35 :
佐竹なら、佐竹の殿なら…

36 :
佐竹さんとこは、完全な与太話じゃないからなぁwww

37 :
>>34
奪還されるとはいえ何度も陥落して戦場になる首都に住んでいたくないなw

38 :
>>18
石高だけでみたら頭2つ抜けてる程度だが動員兵力数がずば抜けすぎてるからその辺が集まった程度では無理

39 :
>>18
天下を取れる人は大勢いても
敵と身内に対してタヌキ役になってくれる人がいないと中韓に乗っ取られるような社会になるんやで
運だとしても最終的に天下人が家康だった日本の運も強いな

40 :
豊臣政権は時代を先取りしすぎた感はある
政権安定のためには中央と各大名の力の差を決定的に大きくしないと不安定になる

41 :
関ヶ原までは豊臣本家と徳川家に圧倒的な差はあったけどその権力を振るえる人間がいなかっただけ
豊臣政権が安定するには1570年代に秀頼が産まれてないと無理なわけで機関的に別に時代を先取りどうこうの問題ではない

42 :
権現さん以外は少数を除いて、豊臣家の中のいわばリーマンだしな・・・
全部自分の判断で家を切り盛りしたってのはなかなかいないわな〜

43 :
関ヶ原あたりだと豊臣本家=家康だから差があるとか意味がない

44 :
秀吉の子供は夭逝だし尽く養子もアレだし秀長に至っては女しか作れないというダメダメ兄弟

45 :
そこで太閤権現ハイブリッドの秀康さんです

46 :
>>23
>この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて
これってこの人?
(`●∀・)

47 :
>>46
相馬家だけは死んでもマーくんとは慣れ合わんだろうなあw

48 :
秀忠が利胤と政宗を酒宴に呼んだときに
「どうだ利胤、政宗から杯を受けては?」って提案したら、利胤が
「無理です。それだけは上様からの命令でも絶対無理です」って言って場を中座したのに
秀忠からは何もお咎めがなかった(最初からそれが目的だった)って話があったよね
いい話とか悪い話に分類できない話だけどさ

49 :
ほしゅ

50 :
>>46
次の間に座ってる身分だから
もっと軽輩じゃないかな

51 :
>>40
豊臣家は直轄領だけで220万石くらいで家康の直轄100万石の倍くらいだし
秀吉存命の頃は中国東部から近畿濃尾に大量に居た小大名群も直轄軍扱いだっただろうから
他の大名に比べ隔絶した動員力を持ってはいたんだよね
秀頼が直接指揮できる年齢になっていればこれが活きたんだろうけど・・・

52 :
>>51
関ヶ原は徳川vs豊臣じゃないんで
それと大坂の陣を見る限り適齢でも前線に出てこない可能性のほうが高いと思う

53 :
拾わせたのに温室育ちのお坊ちゃんじゃ無理やろ
秀秋見倣えと言いたい

54 :
天正壬午の乱において、徳川家康が甲斐新府で北条氏直と対陣していたころ、
徳川方の平原宮内が密かに北条氏直に内通しているとの情報を
保坂金右門が漏れ聞き、これを言上したため両者が呼び出され糾明が行われた。
そこに元武田家臣の辻盛昌も立ち合っていたところ、
平原はその罪を逃れがたい状況となったため、
奥山新八郎の従者が主の刀を携えていたのを見てとるや、馳せ寄ってこれを奪い、斬り回った。
その場に丸腰でいた辻盛昌は、捕えようと素手で立ち向かったが面を斬られ血が目に入り
進みかねて退き、結局土屋権右衛門(重成)、永見新右衛門(勝定)が立ち向かい、
小幡又兵衛昌忠が平原を討ち取った。
この話を家康が聞き、平原を討ち取った小幡昌忠らを賞したが、
辻盛昌については、その心は剛であるが
打ち物もなしに白刃に立ち向かったため思わぬ手傷を蒙ったとして
深く賞することはなかった。
けれども、辻盛昌に対して絹衣に黄金を添えて与えたという。
これは、このような剛の者をみだりに褒め称えると、
手に武器もなしに白刃に立ち向かうことがよいことであることになり、
別の機会において或いは死んでしまうことがあるかもしれない
という家康の心配りであったという。
以上、武徳編年集成、武徳大成記、家忠日記追加、古人物語を出典とする干城録より。
ちなみに貞享書上には、辻盛昌が平原を組み伏せ討留めたと記録されているそうですが
なんにせよ家康公の細かな配慮がいい話ということで。

55 :
戦国時代の教訓は現実とかけ離れた理想論や道徳がないのがいいな。
逆を言えばそれだけ安心出来ない世の中だったわけでもあるが

56 :
妻の兄からの招きに応じてはいけませぬ
橋守りを仰せつかったら家族との別れを済ませておきましょう
主をいくらこき下ろしても問題ありません(M兵衛を除く)
手柄なしの帰参は死を招きます
4番目は今でも通用する気もするか

57 :
太閤秀吉の生国は尾張国中村の人であり、古くは川中島の高坂弾正の所で奉公をし、
それから三河に行って松下嘉兵衛に道で出会った。
秀吉は長い楊枝をくわえており、嘉兵衛はそれを見て尋ねた
「その方は牢人であるか?」
「如何にもその通りである。」
「その方は、どうしてそんなに長い楊枝を使っているのだ?」
「牢人であるので何本も楊枝を才覚する金もなく、長く使えるようにこうしたのだ。」
「なるほど」
嘉兵衛は再び尋ねた
「その方は今までどこに居たのか?」
「川中島で、高坂弾正のところに。」
「なんと!弾正殿に直に仕えていたのか!?」
「弾正殿の家来である外記孫八郎の足軽をしておった、その後工藤源左衛門の所にも少々居た。」
嘉兵衛はこの者の話を聞いて、普通ならず利口な者であると思い、彼を召抱えた。
(紀伊國物語)
松下嘉兵衛の前に高坂弾正の元にあったという、珍しい秀吉に関しての逸話である。

58 :
そういや秀吉と高坂って百姓生まれ繋がりだったか
それにしても高坂→内藤ってすげぇ遍歴だな

59 :
松下嘉兵衛って柳生十兵衛の祖父なんだよな

60 :
若き日の秀吉は松下嘉兵衛の元を去ると、どうにか織田信長に仕えたいと考えたが、
当然の事ながら信長にお目通りが叶うこともなく、織田家の人々に知られるべくもなかった。
そこで秀吉は、信長の小姓衆の小便所の下に隠れた。すると当然、上から用を足しにきた小姓の
小便がかかる。ここで秀吉が飛び出した
「わしに小便をかけるのは何者か!?」
小姓たちは大いに驚き、また秀吉の剣幕に押されて「どうか堪忍してほしい」と謝った。
ところが秀吉の方は「知らずにやったのなら仕方のない事です。気にしてません。」と、
あっさりと引き下がった。
が、この事で信長の小姓衆と顔見知りになり、彼らのもとに出入りするようになる。
そのうちに彼らから、彼らの食した蜜柑の皮を貰うようになった。
こういうことが何度か有ったあと、ある日突然、それまでみすぼらしい姿だった秀吉が、
立派な肩衣を着て現れたではないか。
秀吉は言う
「これは蜜柑の皮で仕立てた着物でござる。」
それは一体どういうことかと問われると
「私は頂いた蜜柑の皮を貯め置き、これを薬種屋へ売り、その代金を以って
この肩衣を拵えたのです。」
この事は大いに話題となり、賢きものであると秀吉のことを皆が知るようになり、
終に信長の耳にまで達した。
そして秀吉を呼び出し対面した信長は
「姿形に似合わぬ利口者である。猿の面に似て面白いやつだ。」と、
彼を猿と呼ばれたそうである。
(紀伊國物語)

61 :
ミカンの皮どれだけ貯めたんだよw

62 :
陳皮って漢方薬だっけ

63 :
吉野家の七味だな

64 :
見しは昔。当君が江戸へ御打ち入りよりこの方、町は繁昌し、住居も多く出来た。
しかし、みな草葺なので焼亡も多かった。慶長六年霜月二日の巳の刻、駿河町かうのじょう家より出火した。
この大焼亡に江戸町は一宇も残らなかった。
御奉行衆から「町中草葺だから火事が絶えない。ちょうどいいので、この機会にみな板葺にせよ」と御触れが
あったので、町はことごとく板葺に作るなか、瀧山弥次兵衛という者が人々よりも秀でた家を作ろうと思い、
海道表棟より半分を瓦葺に、後ろ半分を板葺にした。
人は皆取り沙汰して「本町二丁目の瀧山弥次兵衛は家を半分瓦で葺いている。さても珍しや奇特や」と褒美して、
半瓦弥次兵衛と異名するようになった。これが江戸瓦葺の始めである。
(中略。瓦の始まりは崑吾氏が土で作ったとか、王元之の黄州竹樓記によると竹瓦には徳興が多いなど)
されば愚老が大和国を順礼したところ、宮寺などに竹瓦が多く見受けられた。是又、黄州の竹樓を学んだのだろうか。
然れば、家康公の興ぜられた江城の殿守は五重鉛瓦にて葺かれている。富士山にならび雪の嶺にそびえ、
夏も雪かと見えて趣がある。
今は江戸町も栄えてみな瓦葺となっている。たくさん広大にあって美麗であることは前代未聞だ。
明暮すべての人が見ることだから記すには及ばない。
――『慶長見聞集』

65 :
長可「あそこは燃えてないから屋根に登り瓦剥いでシューティングゲームだ」
松永「この平蜘蛛茶釜爆弾でも大丈夫だろうか?実験だ」

66 :
城まで一直線の広い道を作るべき、火はその通りを越えることはない
大石をもって道を開こう

67 :
片手の武人(1/2)
>>54
この話に出てくる小幡昌忠の話(途中までは同じ話の詳しいバージョン)
天正壬午の乱において、元武田家臣で板垣衆覚えの者として名高かった平原宮内が
北条氏直に内通したとの疑いが発覚し、詮議が行われた。
罪を逃れ難くなった平原宮内が、その場で奥山新八郎の従者が刀を携えていたのを見て取り
馳せ寄ってこれを奪い取り斬り回ったため、手負い・死者が合計21人も出た。
辻盛昌(元武田家臣山県衆)はこれを素手で取り押さえようと立ち向かったが
面を斬られ目に血が入り進みがたく退いた。
土屋権右衛門重成は家康の御前の板戸を引き立てて御座に侵入させまいと支えた。
小幡昌忠は短刀を抜いて平原宮内に立ち向かい戦ったが、左手を負傷し少し間を取った。
その合間に永見新右衛門勝貞が鑓の石突で平原宮内を突き、平原が思わず倒れたところを
小幡昌忠が馳せよって平原を刺し殺した。
このときまだ20歳にもなっていなかったにも関わらず
剛の者に短刀で立ち向かい倒した小幡昌忠のこの働きを、家康は限りなく褒め称え、
医師2名を遣わして昌忠の左手の治療にあたらせ、
近臣の者に一日に2度も昌忠の傷の具合を問うほど気にかけたという。
しかし結局、このときの傷のため小幡昌忠の左手は不自由になってしまった。

68 :
片手の武人(2/2)
けれども、小幡昌忠は元来剛気だったのでその後もなお片手で近接戦闘をし、
信濃前山で味方が崩れかかった際に高名し、更に味方が退却しようとした際に
馬を返して首を挙げた他、信濃国岩尾、長久手など各地の戦いで高名を挙げた。
家康も、他の者が取った首は、大久保治右衛門(忠佐)らに実検させていたものを
昌忠が取った首は自ら実検し、その働きぶりに感じ入るほどだった。
天正13年、徳川氏が信州上田の真田氏を攻めて敗れた際も、
小幡昌忠は兵士6人ほどと染屋村に踏みとどまり、
追撃してきた敵を防戦して支えたので、味方は無事に退くことができた。
徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
片手でこのように危ない戦いをすれば、
討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
こうして小幡昌忠は、(戦場で討死することなく)慶長4年に36歳で死んだ。
以上、干城録より抜粋訳。
小幡昌忠というのは小幡昌盛の長男で、甲陽軍鑑の編者小幡景憲の兄にあたる人です。
ちなみに下の逸話では、昌忠の左手は手首から先を斬り落とされたことになっています…
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6427.html

69 :
>>68
>徳川家康が小幡昌忠のこの働きを聞いて本多正信にこう命じた。
>「昌忠は出陣するごとにいつも手痛く戦う。
>片手でこのように危ない戦いをすれば、
>討死してしまうのではないかといつも心が痛んでしまう。
>これ以降は昌忠を本陣に留めおき、みだりに先手に進ませないようにせよ」
>本多正信は承り、この旨は白須平次を通じて小幡昌忠に伝えられた。
某ルーデルさんみたいなパターンになるのかと思ったら、
案外あっさり言うこと聞いたんだなw
でも、36歳で死んでるってあんまり意味ない(ry

70 :
>>69
享年36とは言え、エピソードは天正13年から慶長4年だぜ
十分に意味があるだろ

71 :
武士は主君に忠義を尽くし、仲間に信義を守るものだと世間は軽く言うが、
これを生半可な覚悟で行うならかえって仇となることもある。
それについて武田信玄は、
「忠義は不満(を生み)、不満は謀反(を生み)、謀反は没落(を生む)」
と語っていた。
忠義を尽くすぞと骨折る苦労をしたけれど、
主君からはなんのお褒めもなく、
上下の意志疎通がバラバラとなれば、
やがては不満が限界に達し、
気持ちも荒んで、ついには謀反心が生じる。
逆に、もとから忠義という観念が頭にない者は、
あたりまえに謀反という観念も頭にないのだから、
生半可な忠義の心掛けは、無学なものよりかえって悪いということになる。
友達に親切にすることにもこれは当てはまる。
相手が自分の親切に対し感謝をしないと、
気を悪くし、感謝を知らない奴だと見限り仲違いし、
結果、親切にしないよりも悪いこととなる。
そういうこともあるから、武士は最初の覚悟こそが大切なのだ。
主君からお褒めにあずからずとも、
少しも怨まず、いよいよ忠義を尽くし、
友達に親切にし、かえって取り違えされ、
遺恨を抱かれても、いよいよ親切にする。
この覚悟を決めてこそ誠の武士であろう 【葉隠】

72 :
見しは昔。上野国岡根という山里に、藤次という身は貧しく、姿は無骨な者がいた。
六、七年以前、江戸へ来たり、志葉の町のはずれに小さき草の庵を結び月日を送っていた。
年を経てその身の上はよろしくなり、今は江戸も栄えた町になって家屋敷を求め、たくさんの什物を貯えて、
人との交わりも睦まじくなった。「普段の振る舞いが他の人よりも勝れている」と人々に誉められ、
目出度く栄えた。
「賤しき身とて思ひ捨めや」という前句に「立ちぞ寄る人を厭はぬ花の陰」と兼載は付けられたものだ。
この者は古郷にいたならば一期は貧しく、心愚かなまま果ててしまっただろうが、生まれた地を見捨て、
繁昌の江戸へ来たり、人の形儀作法を見習い、仁義の道を学んで今人と呼ばれたのも、よき住処にいるからだ。

73 :
人間は天理といって、この理を持たない人はいないけども、それを分明しないので万事につけて迷う。
その上、心の愚かな人は学ばなければ道を知ることは難しい。先哲も一期の大事は住処と言っている。
まさに人間は、一期を楽しむべき住処が肝要なのだと求めることをせず、生まれた地を慕い、旧縁に繋がれて
いたずらに一生涯を送り暮らすのが常の習いだ。孟母とは孟子の母であるが〜
(中略。孟母三遷の教えを例にあげる。教育には環境が大切であるという教え)
さてまた、頭虱といって虱は住処によって色々である。首に住むものは黒く、身に住むものは白い。
麝香はかやを食して香ばしい。このように人も住処によって悪人とも智者ともなる。
花山院の御製に「木の本を栖とすれば自ら、花見る人と成りぬべきかな」と詠じておられる。
また昌叱の「詫びて住とも都なりけり」という前句に紹巴は「遠近の花の梢をみぎりにて」と付けた。
こんな目出度き江戸の花の都を余所に見て、片田舎に住んで果てるのは愚かな心ではないだろうか。
――『慶長見聞集』

74 :
丹後宮津藩(宮津城)初代である京極高知が病気となり、京へ養生のため上られたが、
この時、内匠豊後がお供をした。内匠豊後は高知お取り立ての者であり、常にお側に有った。
その上、高知の三男である修理太夫高三とも大変懇意な者であった。
高知の病状が甚だしくなると、内匠豊後は仮に御書を作った。その内容は。
京極領12万3千石のうち、嫡男である采女正高広に7万8千石、三男の修理太夫高三に
3万5千石、甥で婿養子の、主膳正高通に1万石あまりを継がせる、というものであった。
これを作り置き、高知が終に前後不覚の状況となると、内匠豊後は高知の手を添えて
その御書に御判物を書かせたという
高知が死ぬと、内匠豊後はその御書を高知の遺書だと言い、それは江戸の将軍にまで達し、
幕府からその内容通りにするよう仰せ付けられた。
後に、この事は全て内匠豊後のはかりごとであったことが顕れたが、京極家中の者達は皆、
内匠豊後の手柄であると言っていたそうである。
(宮津日記)

75 :
>>74
「はかりごと」とはいえ、特に問題視はされなかったんですよね
結果論かもしれんが、京極家も無事に明治まで生き延びられたからいい話 ということですよね?
高知が南北朝バサラの子孫という事しか知らないニワカの独り言でした、スマソ

76 :
>>75は狡猾。

77 :
本家の石高下がって格は下がったけど無嗣断絶の多かった時期で分家作りが流行ってた頃でもあるからなあ

78 :
ある時、織田信長は不思議な夢を見たので気がかりに思っていた。
誰に判じさせたらよいかと彼是案じ悩んでいたが、きっと思い付いて、翌日に乗慶僧都を招いた。
「ちと御房に判断してもらいたいことがあって、お招きしたのだ」
「承ってみましょう。どのような御事ですかな」
「実は今宵なんとも理解できない夢を見たのだ。御房の了見を聞かせてほしい」
「広々とした山野をただ一人辿り出て、東より西へ行こうと思ったが、道の中程と思わしき所に、
向こうへ半段ばかりと見渡せる大河があった。岸を打つ波は荒く、水面もすさまじく尋常ではない。
これを渡りたいと立ち休んでいたところ、この河の水がにわかに紅血に変じてとても生臭い。
そのような所に、三十ばかりに見える剣が一振り流れていた。夢心にこれを取ろうと思うも、
容易くは取れず、どうしたらよいかと色々と案じておると、そのまま汗をかいて夢は覚めた」
「これは誠にめでたき御夢です。近いうちに河内国は御手に入ることでしょう。
その剣はすなわち敵の魂です。その精魂が抜け出て、水に流れて消えるという御告げですぞ」
僧都がそのように判じると信長は大いに感じ入って手を丁と打ち、
「さてもさても、めでたい判断をしてくださったな。年来の本意を達せられるならば喜悦の眉だ」
と喜び、「それぞれ」と言って当座の引出物として料足五貫文、白布二反を与えると、
律師は「有り難し」と拝領して御前を立った。
――『室町殿物語』

79 :
西に向かうとか、途中で三途の川っぽいものがあるとか、死亡フラグのようだけどな

80 :
この手の話は吉夢と解説して後で実は凶兆だったというオチがデフォだと思ったがw

81 :
花落つる 流れの末を せきとめて

82 :
まぁ信長もこれヤバい夢なんじゃ?って思ったから呼んだんでしょ
そこで機転をきかせて吉夢ということに切り替えさせたこの坊さんがうまい

83 :
>>80
魏延「まさかそんなw」

84 :
>>83
アンタ吉夢だって言わないと斬るじゃないですかー!
信長様はそんなこと致しませんよ…ね?

85 :
朝鮮の役の時のことである
正月元日の未明、挑戦に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。
物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。
物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。
急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。
この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。
その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)

86 :
>>85
あー変換ミス。2行目 挑戦→朝鮮です。申し訳ない。

87 :
どんな罠かと思いながら読んでたがここはいい話スレだった

88 :
武田の風林火山の旗を見れば、
腰抜け武士はそれだけで逃げ出す。
そんな武田家全盛の時代のこと。
武田信繁は重臣にこの思いを書き残した。
「たとえ自分の立場が時勢に適応して、
地位、力のある者が親類、周囲にあったとしても、
そのことに安心して、軟弱な趣味を持ったり、
あるいはことさら派手な振舞いなどと、
そういったことをしてはいけない。
なぜなら、それは武士として大切な勇を失いがちになるからだ。
三略にも上の者に勇がなければ、
役人、武士もこれを軽く見るとある通りだ」
《信玄家法》

89 :
>>85
経久「正月に踊るのは実にいいぞ」

90 :
信繁堅いなー。背中叩くとカーンて音が鳴るかも

91 :
超義理堅い堅物と思われてた方が安全ではあっただろうな
謀略に長けた兄を持ってしまうと

92 :
信繁には、本当に兄貴に取って代わるつもりは無かったのか聞きたいw

93 :
信繁「兄貴に取って代わって家訓を199条まで伸ばしたいなー」

94 :
相国寺善光院の宣長老は大徳寺の僧・董甫の弟にして藤原惺窩の伯父である。
当時、五岳第一の学者であった。
宣はかつて「舜首座(惺窩)に逢っては物が言えぬ」と言った。
そのまま、やりこめられてしまうからである。
当時の人に宣は勝れた人として知られていた。そんな人がこのように言ったから、
惺窩が傑出した人ということが初めて知られたのである。
――『老人雑話』

95 :
>>94
申し訳ありません訂正します。
×相国寺善光院
○相国寺普光院

96 :
儒者は正義を前面に出してくるから口喧嘩ははげしく強い。
それが政治において実現されるのかは別だがw

97 :
腐れ儒者を信長公とかDQN眼と戦わせてみたい

98 :
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。
ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。
・・・スレ違いでゴメン。

99 :
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか
成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる
百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた
江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた
円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した
木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない

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