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2013年08月日本史50: 【初心者】スレッド立てる前に質問をPart30【歓迎】 (465)
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なぜ織田家は徳川家になれなかったか (126)
龍馬を愛した女たち (101)
武士と極道と盗賊の違いは? (365)
武士と極道と盗賊の違いは? (365)
邪馬台国は九州にあった27 (686)
青森県の悲惨な歴史について語るスレ その2 (144)
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart30【歓迎】
- 1 :2013/02/02 〜 最終レス :2013/08/03
- 分からないことがあるときは、スレッドを立てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問については、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなかったりしても、怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップを付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたいときは、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。
※まずは下記でチェックしてください。
日本史・世界史FAQ
http://www.geocities.jp/magurogyosenn2000/index.html
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。
前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart29【歓迎】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1339584875/
- 2 :
- 昔、積雪地で冬季は農業ができない地域に住む農民は、冬季どこで何をして過ごしていたのでしょうか?
出稼ぎが登場したのは交通網が発達してからですよね。江戸時代やもっと前はどうしていたのでしょうか?
- 3 :
- >>2
主に自宅で副業。手工業製品の製造など
- 4 :
- ありがとうございます。なるほど。
- 5 :
- 武士が、刑罰や責任を取るために切腹をする場合、
その切腹人の手が病傷、生まれつき、高齢等のため不自由だった場合はどうしていたのでしょうか?
将軍「何野誰兵衛に切腹申し渡す。」
側近「しかしながら、誰兵衛の手は怪我でもう動かないとの事です。」
みたいな
手が動かなければ切腹できないし、斬首にするには差しさわりがあるし、助命する事もできずと。
短刀の替わりに木刀や扇子を用いる場合でも、それに手を伸ばさなければならないのでどうするのだろうと
疑問に思いました。
- 6 :
- 知らんけど、別に実際には何もしてなくても切腹したと記録しておけば済む事では?
- 7 :
- >>5
「では…」で軽く頭を垂れた時点で"介錯"してもOK
全身麻痺なら無理かもだけど、>>6のような処理は可能(本人が暴れるとかだとそうなる)
- 8 :
- >>5自身も「木刀や扇子」って書いていて、しまいには扇子で切腹の真似しただけで後は
介錯人に任せるのがOKになってることを知ってるわけだし、
そこまで切腹が形骸化した時代なら、本人が何もできなくても問題ないんじゃないの
- 9 :
- 皆さん、手が動かない人の切腹に関してありがとうございます。納得です。
- 10 :
- 質問です。
「寿永・治承の乱は頼朝率いる勢力が平家を打倒した」という前提なのですが、
頼朝が「反平家勢力のトップ」に立つことはできたのには、何か特別な理由があったのでしょうか?
逆に言うと、「甲斐源氏や近江源氏」、「源頼政」、「足利氏・新田氏・佐竹氏」、「義広や行家ら義朝の兄弟」、「範頼や義経ら頼朝の兄弟」。
こういった「他の源氏」ではダメで、「源頼朝」なら良いといった何らかの条件があったのでしょうか?
- 11 :
- 幕藩体制を山口組に例えた場合、
徳川宗家=山口組本家
雄藩といわれた薩摩藩や長州藩=山口組傘下の有力団体である山建組
この例えはそれなりに妥当なものと言えますか?
- 12 :
- >>10
木曾義仲がちゃんとしてれば頼朝の出番は無かった。
- 13 :
- >>11
暴力団みたいな個人的忠誠による関係性から脱し、組織的・制度的結合に至ったのが近世幕藩体制であり
それはその「雄藩」も包括される。
つまりそういう例えは実際には非常に間違ってる
- 14 :
- >>10
結果論的に、御曹司、というのは旗としてはそれなりに
重要だったとはいえる。
ただ、京を最初に蹂躙したのは義仲だし
実力があれば流れに乗って誰でもトップに立てる
状況で一番上手く時と運をつかんだのが
頼朝で、それを後から「他の源氏ではダメだった」というのは
少し認識が違ってくるだろう。
条件、というとどうしても血統とかが問題になってくるが
「どの時点か」というのも大事で
平家滅亡後は「トップに立つのはそれなりに
万人に受け入れられるモノ」が必要だろうし
それが「頼朝なら血統もオケ」のように
条件に符合してくる。
「特別な理由」も「条件」もあくまで結果論的にしか
語れない、明確には答えにくい、ということなんだな。
- 15 :
- >>10
以仁王が諸国源氏に対して平家打倒の令旨を出していることから
源氏が平家に対抗しうる武力保持者と認識されていたことは事実でしょう
だけど源頼朝でなければならない理由はなかったでしょうね
それほど有力なら以仁王は源頼朝に名指しで平家打倒の令旨を出していたでしょうし
実際に以仁王が行動を共にし令旨を出す前提の協力者としていたのは源頼政ですしね
- 16 :
- でも、在京武士の頼政や、美濃や甲斐、足利ら田舎源氏、
保元の乱でまともな基盤を失った義朝の兄弟、
平治の乱の時点で官位もなかった頼朝の弟たちでは
坂東武者たちはついてくる気になれなかったんじゃないかな?
我ながら頼朝に肩を入れすぎた意見だとは思うが
鎮西八郎や悪源太が生き延びていたら、
頼朝の対抗馬になったかもしれんが
- 17 :
- >>13
ありがとう
- 18 :
- 家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家に「女歌舞伎」と称して
女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて
騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか?
何卒よしなに頼みいります。
- 19 :
- >>16
木曾義仲には坂東武者はついて来なかったけど平家を討つのに何の問題も無かった。
- 20 :
- >>16
以仁王を擁立した源頼政や、平家を都から追った木曽義仲、
そして日本最初の武家政権である平家、いずれも坂東武者の兵は使っていない。
源頼朝が鎌倉幕府を開いたことを知っているから坂東武者を味方に付けないと
天下は取れないみたいに思っているだけ。
- 21 :
- 徳川時代の武士たちは儒学って必須の教養だったんですか?
- 22 :
- 学問所に行けばとりあえず四書五経の素読から始めるので必須です。
- 23 :
- 昔から疑問だったのですが、幕末〜維新後の戊辰戦争等で
近代式の鉄砲や大砲で戦う維新軍に対し、刀や旧式の鉄砲の幕府軍が
不利であったと言われてます
なぜ幕府軍はもっと近代式の鉄砲などを揃えていなかったのでしょうか?
幕藩体制とは、地方の内政は地方でやってくれ、幕府は国防や外交などを
担当しますよっていう政治体制ですよね
その幕府が地方の藩(いくら雄藩とは言え)よりもしょぼい武器しか持ってないって
凄く違和感があるんですが、どうなんでしょうか?
鎖国による平和ボケって言葉で片付く話でしょうか?
- 24 :
- 感想だけど
単に財政難でカネがかけられなかったのでは?
密貿易とかで儲けてた所はカネかけて強力な軍隊持ってたみたいだし
- 25 :
- >>23
幕府にも親衛平気の部隊は勿論有った。だが大所帯でそれが全体に行き渡っていたわけではなく軍装がバラバラだった。
端的に言えば旧軍装の弱いところをやられたわけだ
- 26 :
- >>24
ありがとうございます
幕府は雄藩と言われる藩が貿易等によって近代式の武器を大量に持っていることを
知らなかったのでしょうか?
知ってはいたけど放置していたのでしょうか?
知らなかったとしたら、幕府の管理体制が不備だったとしか思えないし、
知っていて放置していたなら、危機意識が足りなかったと言わざるを
得ないですよね
- 27 :
- 幕府は最新装備の舞台作ってるっつーの。組織がでかいうえに、軍制改革していない諸藩も組み込まれていたので
それが上手く機能しなかっただけ。
なので一点集中で整備できた幕府海軍は薩長なんて問題にならないほど近代的で強大なものになっていた
- 28 :
- 家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家廷内に「女歌舞伎」と称して
女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて
騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか?
何卒よしなに頼みいります。
- 29 :
- 江戸時代、江戸城に勤める旗本や御家人って、徳川家の家紋の付いた
羽織を羽織ってたのですか?
- 30 :
- >>29
自分の家の家紋だよ。
葵の御紋の付いたのは御拝領の羽織りだろうから、通常家宝として大切に保存される
- 31 :
- >>30
どうもありがとう。
他の藩でもそうなんですかね。
時代劇を見てたとき、街中で主役の侍と、どこかの藩士達がトラブルに
なるシーンがあったんですが、その後に「あの家紋は○○藩だな」って
のがあった記憶があるんです。
- 32 :
- >>31
他の藩でもそう。
- 33 :
- 時代劇の描写なんてけっこういい加減だし
- 34 :
- と思うと昔の黄門様や平次は細かいとこで
正確だったりするんだよね。
- 35 :
- 西洋文化の流入、社会の西洋化という意味では維新後の文明開化と太平洋戦争の敗戦後、
どちらのほうが大きいでしょうか?
- 36 :
- 参勤交代で大名とその藩士達が江戸に来た場合、藩士達は江戸の街を
飲み歩いたりしたんですよね。
その場合、どの藩の藩士かは、一般の人にはわからなかったのですか?
- 37 :
- >>36
訛りとかである程度は分かるだろうが、江戸には全国から武士が集ってたからいちいち気にしてもおられん
- 38 :
- どうもありがとうございました。
- 39 :
- 参勤交代の大名行列は、幕府から定められた最低人数があるが、たいていはより多くの人員を連れて行っていた
そうです。
では、本当に最低人数で大名行列を組んだ例はあるでしょうか?
節約志向、うちは貧乏なんだよ、分かっているだろみたいな。
もちろん本当に最低人数きっかりだと途中で誰か一人でも病傷で倒れたとたん定められた人員を割ってしまうので
いくらかは補欠を連れて行かなければならないでしょうが。
- 40 :
- 関が原合戦後、西軍諸将の中で捕らえられた人達の処遇に関して。
厳しい沙汰を受けた人達の中でも、切腹と斬首の違いが生じたのは何故でしょうか?
なぜ石田三成や小西行長は切腹でなく斬首なのか?
逆に斬首でなく切腹する機会を与えられた人がいるのはなぜか?
- 41 :
- >>39
そもそもちゃんと行列を仕立てるのは宿場などの人目の有るところだけで、その多くは日雇い人足です。
>>40
>なぜ石田三成や小西行長は切腹でなく斬首なのか?
首謀者として罪人扱いにしたから。斬首にならない人は三成に組した共犯者だけど、
現代だって主犯と共犯では罪の重さが違うでしょ。
- 42 :
- 落ち武者狩りというのは、時間的にはいつごろまで続けられたのでしょうか?
たとえば大坂夏の陣で大坂方についた浪人(一般兵レベル)たちは、戦後何年間も追いかけられ続けたりしたのでしょうか?
- 43 :
- 家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家廷内に「女歌舞伎」と称して
女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて
騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか?
何卒よしなに頼みいります。
また万が一、分からないようでしたら、「不明」とでもお答え下さいましな。
よろしく。
- 44 :
- 『予章記』に出る「鉄人」やら「白人城」の挿話は
何らかの歴史上の出来事を反映しているのでしょうか?
- 45 :
- >>42
戦後間もなくならともかく、しばらくすれば一般兵を落ち武者って判断することがそもそも難しいんじゃないか?
仕事も帰るところもなければ、結果的に山賊や盗賊になって捕まるって運命はあるんだろうけれど。
- 46 :
- >>42
明智光秀とか石田光成クラスの重要人物の追跡以外は、数日もしたら終わりでしょ
落ち武者狩りは、勝者側の兵よりも、戦場付近の農民とかが武具や衣服をはぎとって稼ぐためにやる
- 47 :
- 蛤御門の変で山田顕義が西郷隆盛を撃って
負傷させたってどこまで真実なんですか。
交戦してたのは確かですけど、西郷は他の場所にも援護に行って負傷した
みたいに書かれてるのもあったんですけど。
- 48 :
- 武家諸法度って公家侍には関係なかったのですか?
- 49 :
- >>35
面白いテーマだが、0〜100と
101〜1000とどっちが影響大か、ってとこかな。
質と量というか、具体的な西洋化の分野、
そういうのにもよるだろうね。
- 50 :
- ウィキペディアの「凡下」の記事には
「鎌倉幕府は御家人を「侍」とし、郎党・郎従をはじめ名主・農民・商人・職人・下人などを一括して「凡下」と呼び、
幕府の職員でも雑色以下の者は凡下として扱われた」
とありますが、そうだとすると非御家人の武士は侍身分として扱われてなかったんですか?
- 51 :
- >>50
まあそういうこと。本所一円地住人と呼ばれた非御家人系武士は鎌倉幕府から大きな差別を受けていた。
鎌倉幕府というのはすべての武士を組織した政府ではなく、東国武士中心の東国政権に過ぎないものだった
- 52 :
- >>51
幕府と関係ない荘官や名主でも郎党をもって武装した人々がいたようですが
そういった人々はすべて本所一円地住人・非御家人武士のようなカテゴリーで考えていいのでしょうか?
それとも「侍身分ではないけど武士並みの戦力をもった人々」の間でも
あれは武士である、あれは武士ではないといった区別はあるのでしょうか?
- 53 :
- 戦国時代、戦のついでに町が荒らされて、盗んだり人を殺したり誘拐したり
ってことはやっぱりあったんですか?
勝った際にその荒らした所も自分の領地になるわけで、
恨みを買うだけでいいことなさそうなのですが。
もしあった場合は下っ端の勝手な行動でそうなるのですか?
それとも上から襲って来いと指示されてたり、黙認状態だったりとかだったんですか?
- 54 :
- >>52
「武士であるが御家人ではない」層だと考えていい。
武士であるかどうかというのは、代々「武芸の家」として武技を受け継いでいるかどうかによる
- 55 :
- >>53
足軽たちにとっては略奪こそが合戦の主目的。
そもそも勝ったから即その土地が切り取れるわけではなく、戦略の一環としての略奪などもおこなわれていた。
そして一義的にはその責任は、そういった自体を防げなかったその土地の領主の能力の無さから来るとされる。
まあ確実にその土地が自分のものになるとわかっているような場所では、戦国大名も略奪などはなるべく控えるようにはする。
要は政治的なもの
- 56 :
- >>55
あー、なるほど
理解できました。ありがとうございます
- 57 :
- 所謂「武士」と「公家さんの側にいる侍」って、どっちが格上だったのですか?
- 58 :
- >>49
文明開化時は社会インフラと一部上層階級の人の生活習慣に西洋文化が入ってきたって感じであり、
敗戦後はそれが広く大衆にまで入ってきたって感じですね
こういう場合はどちらの影響が大きいと解釈するのが妥当なんでしょう?
- 59 :
- >>54
>「武士であるが御家人ではない」層だと考えていい。
>武士であるかどうかというのは、代々「武芸の家」として武技を受け継いでいるかどうかによる
なるほど。分かりやすい解説ありがとうございます。
- 60 :
- すっげーどうでもいいことなんだけど
昔の人ってお茶どうやって淹れてたの?
今みたいな茶漉しって作れ無さそうなんだけど
普通に煮て上澄みを取るっ感じ?
- 61 :
- 煎茶は江戸時代になってからでそれまでは抹茶しか無いと思う。平たく言うと茶道の飲み方だ。
- 62 :
- >>60
>>61
一応「煎じ茶」というものがあった。薬みたいに茶葉を煮立てて煎じて飲むもの。
これが後に煎茶に発展した
- 63 :
- 横から失礼しますが、小説で、信長は働きの良い家来に対して
茶の湯を許可したってのがあったんですが、昔は許可制だったのですか?
- 64 :
- 煎じ茶は薬を煎じて飲むのと一緒だから薬缶で煮だして布で濾すかもしれん。
- 65 :
- >>63
信長はそうやって茶道の価値を高め、茶道具の価値を高めて恩賞に利用したというね。
あくまで信長の家中での話だと思うけど。
- 66 :
- >>61,>>62,>>64
ありがとう!
地味にお茶どうやって飲んでたのか気になってたから分かって嬉しい
- 67 :
- >>64
あー そういえばお茶って元々は薬か
- 68 :
- >>58
視点とか何の学問による質問かだろね。
日本史全体だと維新後のゼロのとこに入ってきた
ほうが重大事件とかね。
でも、文化史とか生活庶民一般とかの
「広い影響」という話だと戦後の大衆西洋化のほうが
実感としても大きく感じるし現在形でもあるからね。
最初に面白いテーマと言ったのは
こういった現在形で語れる日本史というのは
なかなか貴重な問題で決して答えの出る
問題ではないでしょう。
テストの解答的ではなく考える日本通史上の
テーマということで、こっから先はものすご〜く
個人的なお返事になってしまうわねぇ。
- 69 :
- 「遠山の金さん」や「江戸を斬る」はフィクションですが、
江戸時代の法や慣習で、裁判官である町奉行自身が担当事件の証人になることは可能だったのでしょうか?
奉行自身が直接事件捜査することはなくても、奉行が偶然事件を目撃し、それが自分の担当事件になるかも
知れないなあと。
- 70 :
- 奉行が「証人」なんて卑役をつとめるわけが無い。
奉行が、下々の住む町へ出かけるわけも無い。
従って、「目撃」するハズが無い。
- 71 :
- 法はともかく、
>奉行が"偶然"事件を目撃し、それが自分の担当事件になる"かも知れない"なあと。
慣習になりうる程の事例が積み重ねられた可能性を、自ら低くしてないか?
- 72 :
- 江戸時代とかで、街を歩いてるときに、たまたま新鮮な貝のシジミが
売ってあったとします。
それを買った場合は何に入れて持って帰ってたのでしょうか。
現在のようにビニール袋とかはないですよね。
手ぬぐいとかでしょうか。
- 73 :
- 竹籤(たけひご)で出来た笊(ざる)。
- 74 :
- 茶漉しが無いと煎茶を入れられないと思ってるこの人は、
今の世でも使ってる急須を知らんのか。
訊いてる内容は、国史の問題じゃないね。
民俗学風俗学文化学の対象ばかり。
- 75 :
- >>72
魚は川沿いの魚河岸に買いに行くか、ボテフリが売りに来るかのどっちかだよ。
貝類は別かなぁ?
- 76 :
- てやんでい、手ぬぐいがなけりゃ、煮〆みてえな六尺に包んで帰らあな
- 77 :
- ↑汚ねえなぁ!
しかし、ま、「良」としよう。
新年度の進級を認める!
春休みして宜しい。
- 78 :
- 天皇が着座する前の警蹕の声は、正確には何と発音していたのですか?
誰が声を発することになっていたのですか?
- 79 :
- >>78
「枕草子」では帝に食事を運んできた蔵人(天皇の側近の雑務をおこなう官僚)が
足音を高くして「をしをし」と言ったと書かかれてあります。
この声を発するのは帝の側近である蔵人です。
現在でも一部の神社などには警蹕の声が残っており「ヲー」などと発音しているようです。
- 80 :
- >>79
ありがとうございます。
天皇に対していつから使われなくなったのですか?
或いは今でも時によっては使われるのですか?
- 81 :
- >>80
そういう礼式が変わったのは明治維新だろうな
- 82 :
- >>80
現在も毎年11月23日に神嘉殿で行われる宮中行事「新嘗祭」では警蹕の声が出されます。
天皇の前に、神に供えるための神饌が運ばれてくる際、
神饌を運ぶ掌典という女官が「おーしー」という声を出して天皇の前に配膳します。
天皇は運ばれた神饌を一つ一つ箸でとって神に供えるそうです。
- 83 :
- 大嘗祭では如何なものでしょうか?
- 84 :
- 岩明均の雪の峠って漫画読んでると、
佐竹ってのが清和源氏云々って出てくるんだけど、
この清和源氏ってのを検索してもイマイチ理解が出来ないです。
誰かどうか教えて下さい。
ちなみに頼朝や義経ってのはこの清和源氏ってのに関係するんですか?
- 85 :
- >>84
源氏とは天皇の子孫が皇族から外れて臣下になる時に「源」の姓を与えられた者を言います。
その中で清和天皇の子孫から源氏になった者を清和源氏と呼びます。他にも宇田源氏とか色々有ります。
清和源氏の中でも有名なのが八幡太郎義家です。前九年の役、後三年の役で活躍して
源氏の武名を上げました。源氏が武家の棟梁と見なされるようになるのはこの辺からです。
頼朝や義経はこの義家のひ孫の義朝の子供です。
義家に二人の弟が居て、加茂次郎義綱と新羅三郎義光といいます。この義光の子孫に佐竹氏が居ます。
甲斐の武田とか奥州(岩手)の南部もそうです。
- 86 :
- >>84
平安時代の天皇はだいたい子だくさんで、放っておくと皇族がどんどん増えてしまう
皇族が増えて、皇族として贅沢な暮らしをさせていると、養うのも大変になってくるわけだ
そこで、皇子を臣籍降下して自立させ、独立した家を営ませた
その時に、皇室を源流とする家ということで、「源」という姓を与えられたのが源氏
他にも臣籍降下した皇族に与えられた姓には、「平」とか「在原」(在原業平が有名)もあるが
「源」もよくつけられた
自分の子に「源」の姓を与えた天皇は清和天皇だけでなく、他にも何人もいたから、同じ「源」を
姓にする家系がいくつかあった
だから、どの天皇の子を祖先とするかによって、清和源氏とか嵯峨源氏とか村上源氏というように
区別する
で、初期の頃の嵯峨源氏なんかは、源氏と言っても、武士というより都の貴族的なイメージが
強いけど、清和源氏ともなると、どんどん地方に出ていって武士化し、地方での勢力を確立し
ていって各地に土着し、多くの土地に子孫を残しているわけ
- 87 :
- >>84
系図には諸説あるが、
清和天皇ー貞純親王ー源経基…源頼朝・義経
源頼朝や源義経は血筋を遡れば清和天皇に行き着くことを称していた
清和天皇から派生した源氏の一族であるから「清和源氏」
「源」姓を受けた元皇族は多かったのでそれぞれ行き着く天皇によって
嵯峨源氏・宇多源氏・村上源氏・後三条源氏などいろいろある
ちなみに、平清盛は「桓武平氏」
桓武天皇ー葛原親王ー平高望…平清盛
元皇族から派生した氏族には、高階氏、在原氏、清原氏などたくさんある。
しかし、特に源氏や平氏を与えられた者が多かったため、他と区別するために
遡った天皇の名を冠している。
- 88 :
- >>85
武田も皇族の血をひいてるとは知らなかったです。
>>86
紫式部の「源氏物語」の光源氏はこの場合当てはまるんですか?
>>87
なんか凄いですね。
元をたどればいろんなところが皇族の血をひいてるって。
- 89 :
- >>88
光源氏も桐壷帝(もちろん架空の天皇)の第2皇子で、臣籍降下して源姓を与えられている
- 90 :
- 伝説とか物語じゃなくて実際にいくさで
矢で敵を倒しまくった名人って誰がいますか?
- 91 :
- 伝説や物語に出て来る侍しか居ない
- 92 :
- 源為朝などの源平合戦の頃の武将は、伝説や物語だけでなく
おそらく実際にも弓矢でかなり敵を倒してたんじゃね?
- 93 :
- その時代は弓が主要兵器だし、もともとが
「いくさ」は「射」「交さう」が語源だからな。
むしろ、弓ではなく取っ組み合いの白兵戦で死んでいた人間の方が少なかっただろう。
というか、鉄砲以前の戦ではあまり戦死者はいなかったようだ。
いろんな戦の記録を見ても、首級3とか5とか、
散を乱して退却中に溺れ死んだとか
農民に狩られたとかそんなんばっかだ。
- 94 :
- 大嘗祭に於ける警蹕の声に関しては、どなた様もご存じではありませんか?
- 95 :
- 鉄砲以前はそんなに大規模合戦自体がなかったしね。
戦国でも水増し大げさがかなりで実際は思われてる
よりかは直接死者は少なかったろうが
薬がないからちょろっとどっか切られたり矢が当たったりして
その後になくなった人は多かったろうな。
何千人も一瞬で死んだら伝染病とかもこわいが
あんまりそういう記録は聞かないな。
- 96 :
- >>94
大嘗祭では悠紀・主基の国・郡が選ばれ、それぞれから稲穂が献上されます。
悠紀国から献上された稲穂は宮中の悠紀殿で、主基国から献上された稲穂は宮中の主基殿で、
それぞれ御飯、白酒、黒酒といった神饌に造り変えられますが、この最初に稲穂が
悠紀殿や主基殿に運び込まれる際にやはり警蹕の声が出されます。
大嘗祭の当日、天皇は最初に悠紀殿、続いて主基殿に入り、いずれでも、
天皇自身が神前に神饌をささげた後、神饌を食べて五穀豊穣を神に感謝します。
- 97 :
- >>94
完全にうろ覚えだけど「よやよや」とかそんな声じゃなかったっけw
太平記のどっかに書いてたような
- 98 :
- 上杉謙信と武田信玄、よく戦さの天才と書かれてますが、
あの当時、土佐や薩摩や中国地方の大名と比べても、
やはり凄かったのでしょうか?
- 99 :
- 最強!とか、少年ジャンプで御腹一杯でつ
小説や漫画は勝つ側、負ける側に読者が納得できる理由が必要なんだよ
それができない無能な作家やコメンテーターは、「天才だから」で誤魔化すにすぎない
- 100read 1read
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