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♪邪馬台国ドンと来い!♪123


1 :2013/10/09 〜 最終レス :2013/10/21
           ,..-─‐-..、     
            /.: : : : : : : .ヽ   
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′
          ノr┴-<」: :j|    <ソースを書きなさい!
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  コツン
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/
     /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_  '⌒ ☆
      仁二ニ_‐-イ  | |      ∩`Д´)
      | l i  厂  ̄ニニ¬      ノ  ⊂ノ   < ヤダヤダー!!
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
 出来るだけソースを出して後はお好きに!
 *良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪122
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1374947515

2 :
邪馬台国関係のスレも多くなったな。
でも、これはやっぱりはずせないか…。

3 :
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか

4 :
この道を行けばどうなるものか。
ひとまず>>1さんに感謝。
○さんいるかな?
>倭国王「帥升」、伊都国王「難升・米」
まず「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」
(難升米以前にも、大夫の自称に成功)。
で升は劉伯升(光武の兄)があり悪字じゃない。
と、この仮説はイイ。さすが。
で。実名敬避俗から官名というか通称と考え、
難升米=奴潮男兄=ナ(ヌ)シオオ(ヌ)エ
=奴潮嗚兄 =ナ(ヌ)シオ(ノ)ヲエ
とか言ってみる(笑)。
奴は奴国じゃなく、灘の意もアリ。
帥は統(す)べる、統(す)ぶの関連かな。
○さんの升は王or主の意?家名込み?はて?

5 :
>>4 ルートさん
日本書紀巻第八  仲哀天皇
「筑紫伊覩縣主五十迹手、聞天皇之行・・・天皇即美五十迹手、曰伊蘇志。
故時人號五十迹手之本土、曰伊蘇國。今謂伊覩者訛也。己亥、到儺縣、因以居橿日宮。」
五十迹手は「イトデ」と読んで、伊都国に結び付けている。が
五十迹手は「イソ・トデ」=磯トデ
阿曇磯良が開いた黥面文身の国。 「曰伊蘇國」(いそ国)
「男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫」
今に伝わる「磯良舞」は、白い布で顔を隠す。志賀海神社と宮獄岳神社の二ヶ所だけ。
魏使はいそ国から、一歩も出てない。

6 :
五十は「十」を読まずに、イソ、イスとかでなく単にイと読むな。

7 :
>>4 :日本海ルート論者氏
>奴は奴国じゃなく、灘の意もアリ。
奴国の語源は、「仲」
福岡県筑紫郡那珂川町仲(ちゅう)
古い土器には「仲」の文字が出ている。
住吉神社の元宮「現人神社」がある。すぐ南に安徳台。
海退とともに住吉神社は三回に渡って、現在の博多区に移動している。
「713年 好字二字令」により、「仲」から「那珂」へ変更された。
「灘」は勉強中にて、今は分からない。

8 :
ただ伊都とは関係ないな。
音韻が似てるから、即これだとやると失敗が待っている。
勿論当たることもあるが・・・。たとえば〜〜
獲加多支鹵大王は雄略天皇で間違いないがね。

9 :
>>7
阿曇族も、713年に「安曇」に変わっている。
安曇野の穂高神社宮司が、去年の「金印シンポ」で発言されていた。

10 :
那の津は奴国とは全く関係はない、ってことか

11 :
う〜ん
今、否定に傾いてたんだが〜〜。ちょっと早計か〜?
この件、保留だな。

12 :
みなさんすごいですね…
専門の方達ですか?
前スレで大した、いや、全く知識もないのに自分の意見を言ったのが恥ずかしいです
にも関わらずレスを頂けて嬉しかったです

13 :
>>5 ○さん
難=仲
升・米=五十迹手=イソ・トデ=磯トデ
難升米=仲の磯トデ
なるほど〜。
で。
>>6 太国さんの指摘はどうしますか(笑)
太国さんのだと五十迹手=イ・トデ。
ふむ〜。八十はヤソだから五十もイソ読み
できる気もするけど、太国さんもなにか
説をお持ちとか?

14 :
>>12さん
このお二人は歴史に囲まれすぎて、もはや
埋まってる方々です(笑)。
歴史専門以上の歴史人生だと思われます。
リーマンの自分は今必死デス。

15 :
「那」は「奴」と共通
「那珂」がなまると「ぬか」になる
「額」のボスのは「奴佳鞮」として出てくる
これが後世風に記すと「中智」なるべし

16 :
「難升米」は「那司馬」なるべし
「帥升」のは「帥司」でよかるべし

17 :
>>13 :日本海ルート論者氏
「倭国王」と「倭国主」もあるとか?
自説では、「帥升」は名前。
この時代は、中国の政変と倭国の事象は直結している。
中国のケ皇后は、ボロボロの状況だった。
この苦境を打破するため数少なくなった友好国の中で紫綬の国の「漢委奴国」に
働きかけ、友好使節団の大朝貢パレードを演出し、国内を何んとか纏め上げることが
企画されたと想像できる。(岡田英弘説)
従って、帥升は漢委奴王統となる。
旧唐書「倭國者、古倭奴國也」

18 :
「倭」と「委」とが差し替え可能なことは論を待たない。

19 :
太国さん保留ですか。
確かに、もっと聞きたい所ですよね。
>>7 ○さん
福岡県筑紫郡那珂川町仲(ちゅう)
地図確認。結構海進深いなあ。
良い入江。川も南下してそう。
ふむ。(壱岐=アクアポリスも揺らぐか)
えと。伊都から魏使が出てないのは同意。
で、難升米は実名敬避俗でなく実名ですよ
ね。すると、魂渡しちゃいますけど?
あ〜。いいのか。

20 :
>>13
とにかく五十を単にイと読むようですよ。
五十鈴川のようにイスズガワから五十はイスとも読むわけですが、
イと略読みができる人名とかありますから、あの場合イでかまわんよう
です。
だから今回のイトデとはこの読みでいいんでしょう。
否定しましたが〜撤回して〜
糸島の地名に関係あると観て可となるようだね。

21 :
>>14
本当にすごいですよね
本出せるんじゃないですか!?
私はただの兼業主婦…
スレ住人の方々、私のようなものが質問したり意見を述べてもいいのでしょうか?
みなさんものすごいハイレベルなレスをしておられますので邪魔ならロムに徹します

22 :
>>15
>「那珂」がなまると「ぬか」になる
「額」のボスのは「奴佳鞮」として出てくる
福岡市西区野方ですね。
野方遺跡公園には、時々行きますよ。
http://inoues.net/ruins/nokata.html

23 :
もう寝ますが、明日に〜・・・
例えば、五十猛命といった命名は確かイタケルノミコトだったねえ〜。
崇神天皇もそんなんでないの。
zzzzz・・・・・

24 :
>>21さん
>>15>>16さんも
多分適当に書いていってokです。
あとで多分レスつくと思います。
一応今は必死です(笑)
とにかく適当に書いていっておk

25 :
五十迹手は「イトデ」でも構わない。
「曰伊蘇國。今謂伊覩者訛也」
伊覩以前は、伊覩と呼ばれていた。
「磯国」から「伊都国」で十分。

26 :
>>修正
>伊覩以前は、伊覩と呼ばれていた。
正、伊覩以前は、伊蘇と呼ばれていた。

27 :
>>24
ありがとうございます!
私は専門的なことは全く分かりません
質問したり自分の意見を聞いてもらって色々言って頂きたいのです
レベルが高すぎてもう何がなんだか…

28 :
>>17
なるほど。当時の外戚は案外良い外戚って
wikiにありましたね。
帥升は会ってると。ここ同意。
国王って明記されてるしね。
>>22
ああ。つか、どこまで比定してますか?(笑)
ヌカテは地名+通称(官)かな?
名字はないけど苗字っぽい感じかな。
これ王-諸侯-大夫の構造か。
家名兼任地名ね。

29 :
概要はなんとなく掴めた(気がする)。
これ要するに、
五王上表文まで連続性ありますよね?
邪馬台国は滅ぶけど、構成国は連続する。
違うかな?

30 :
>>28 :日本海ルート論者さん
「第七回 金印シンポジウムin志賀島」
http://shikanoshima.blog.fc2.com/blog-entry-25.htm..
   開催日 平成25年10月19日
   場所   休暇村 志賀島
  記念公演 「 金印の謎を追って60年」
  二松学舎大学名誉教授  大谷光男氏
  大御所の登場です。前回理事長の甚兵衛発見の続きかな。
  私は「春日市奴国の丘歴史資料館 井上義也氏」の方が楽しみです。
  しっかり質問して来ます。

31 :
>>29 :日本海ルート論者しゃん
>邪馬台国は滅ぶけど
滅んでません。
隋書「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
ちゃんとあります。

32 :
あれ?
志賀島歴史研究会
http://www.shikanoshima-hsg.com/

33 :
>>23 太国さん
崇神はイニエですね。
用法を示しつつ、でも例外もアリとして
明日と(笑)。お休みなさい。
>>30>>31 ○さん
アクティブ(アグレッシブ?)な質問を(笑)。
てか、○さんアレか磐井まで邪馬台国伸ば
すんでしたっけ?うろ覚えだ〜。

34 :
>>33 日本海ルート論者さん
>磐井まで邪馬台国伸ばすんでしたっけ?
いえいえ、天智までですよっ!
また明日。

35 :
>>34 ○さん お休みなさい。
イメージとして、中原が時間差で日本に
できてる感覚で良いのかな。
かなり中国と親密で、五王上表文には最高
に上手く乗り込めそうな感じ。
倭(い)奴->伊都=磯=五十(書紀:五十迹手)
でも邪馬台国=都:伊都=地方国かな。
ひとまず明日は、
どうやって大夫を自称したか、かな?
語は話せたとして、字もそうか。
にしては金文少ないのをどう取るか。
あたりを聞きたかったり。
畿内説古事記派日本海ルート論者としては
刺激が強すぎ。紀の分かる部分で助かった。
寝ます。疲れた(笑)

36 :
>>33
で、五十というのはイソ、イスと読むが、単に イ とも読むということだね。
五十迹手の「迹」は、確か音読みではシャクと読むんだと想ったな。
この漢字は日蓮宗学で使うが、法華経の前半を迹門といいその後半を本門と
呼ぶんだそうだ。前者はシャクモン、後者はホンモンと読み下し、後者は
池上本門寺の寺名に使用している。12日はお会式だな。

37 :
>>36
新井将敬ですね。

38 :
>>37
その人物のことは政治家とかでないのでよく知りません。
どういうことでしょうか?

39 :
ははぁ、本門寺にその方の墓でもあるんですかな?

40 :
12日は太国のお葬式です(爆笑)

41 :
九州説 age

42 :
>>5:○
ここの「伊蘇志」とは「勤」の意味ではないかと思います。
天平勝宝二年に、黄金を献上した楢原東人等に、「東人等賜勤臣姓」(いそしのおみ)と。
上奏した五十to手に対する単なる誉め言葉なんでしょう。

43 :
>>42老眼氏
松浦郡誌、二丈町史、糸島誌、いずれも「怡土」の語源を倭人伝に求めている。
伝以前の名称は分からないが目的。磯国は二次。

44 :
>>19 日本海ルート論者氏
>福岡県筑紫郡那珂川町仲(ちゅう)
地図確認。結構海進深いなあ。
「真鍋大覚の針摺瀬戸 」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%8D%8B%E5%A4%A7%E8%A6%9A
古代、玄界灘と有明海はつながっていた。
御笠川と宝満川は、大宰府付近でぶつかり合っていた。
そこを「針摺瀬戸」と名付け、さだまさしは「かいきょう」と歌った。
福岡の川は山際まで、海進していた。
水域は農民の為に、川の塩化を防ぐ治水目的の方が理解しやすい。

45 :
>>44
時々このネタ見るけど、
筑紫野のこのへんが一番標高が高い分水嶺なのね。
相当昔じゃないと通らないと思うけどな

46 :
>>45
「風浪宮」http://www.ofurousan.jp/main.html
六十七代続く「阿曇氏」。磯良神社も中にある。
何らかの形で繋がっていた可能性は大きい。
自説「次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國」

47 :
御笠川と宝満川は両方共近いところが源流。
御笠川は四王寺山、宝満川は宝満山から。
先ほど書いたように、ちょうどこの辺りが一番標高が高くて、
博多湾側、有明海側に分かれている。分水嶺である。
ちなみに筑紫野市筑紫の筑紫神社も近い。

48 :
御笠川と宝満川は両方共近いところが源流
舟で移動する旅にとても便利

49 :
針摺、西鉄香椎朝倉街道付近
意外と標高があるので、海進期であっても
ここまで海が来ることはない。
万年オーダーならわからんけどな。
また、低湿地ではないので、九州では珍しくないが
ほぼ全域が遺跡の宝庫でもある。
海がここまで来るのはありえないと思いますよ。

50 :
那珂川の源流部はかなりふかいよ。
坂本峠超えればそこは吉野ヶ里が砦の國であった。

51 :
>>48
この2つの川をつなぐ運河説なんてあったけど、
源流はほんとに小さい小川というか、
今ではただのコンクリの溝なんで、
当時でも舟が行けるような川だとは思えないけどなあ。

52 :
>>50
三瀬峠を越えれば、ヨド姫神社、総座遺跡、肥前国庁
坂本峠は吉野ヶ里
やはり要所なので道を開いたのか。
それとも道があるので要所になったか?

53 :
日向峠を越え吉武高木遺跡付近から東へ
「道隈〜田隈〜干隈〜七隈〜〜〜雑餉隈〜月隈〜金の隈と横一線に並んでいる。
金の隈からは、宇美へと通じている。
現在の202都市高速環状線。 これが古代の陸行の幹線と思われる。
内側は川幅も広く、まだ湿地帯であった。
塩の干満で水位が上がり、大宰府付近でぶつかり合ってた可能性はある。
真鍋大覚氏の1980年、九州各地のボ−リングでのハイガイ化石調査による
放射性炭素年代測定を元に、古代九州の詳細な地形図を発表しているそうだ。
地形図を知ってる人いたら、おしぇ〜て!

54 :
博多湾〜有明海は海峡だったのですな
針摺瀬戸の東からが倭国ですな

55 :
現在の住吉神社の絵図(鎌倉時代?)には、住吉神社、櫛田神社が
波打ち際となっている。
住吉神社の南に「美野島」「宮島」の住居表示が残っている。
博多湾内は、群島だった。
「参問倭地、絶在海中洲㠀之上、或絶或連」に合う。

56 :
>>42
ところで、童顔氏
「到伊都國 戸万餘」と「到伊都國 有千餘戸」。
近畿説としては同じ場所とお考えですかな?

57 :
博多湾〜有明海が海峡ってのは
住吉神社以北が海だったとか、博多湾内が群島だったとかいうレベルの話じゃないでしょう
西から東に陸行できないわけですから
住吉神社と針摺じゃぜんぜん場所が違いますよ

58 :
>>44 ○さん
なるほどね。ちとスッキリした。
この頃の船の型体は未だ不明な訳ですが、
かなりのノット数がない限り、川上りは歩
速より遅くなる。ならば、歩行で良くなり
水行などする筈がない。日本海で潮流を合
理的に述べる○さんがどうコレをクリアし
てるのか疑問だった訳ですが(笑)
なるほどねえ。距離的に小郡の川沿いあた
りには興味あるかな。まあ地形復元学とい
うのがあるか知らないけど早いとこ結論が
欲しいトコですね。

59 :
針摺付近=巴利国

60 :
>>58 :日本海ルート論者氏
>この頃の船の型体は未だ不明な訳ですが
これ、非常に大切ですよね。
色んな船に関する本読んだけど、どれも意味不明。
結局分からないが結論みたい。
私は、刳り貫き船説。船の進歩は遅かった。
継ぎ目のない刳り貫き船は丈夫で長持ち。

61 :
>>60 ○さん
刳り貫き船に同意。壊れないしね。
その分、潮流を読む目で勝負になる。
大潮を使うなら新月と満月の月2回か。
まあ水位が足りるなら、2回以上だが。
>>44 塩化防止は三角州の想定もかな?
仮にそうなら範囲によっちゃ収穫量は相当
確保できるが。でも麦じゃないしか。
ちと西アジアがよぎった(笑)。自己却下。

62 :
刳り貫き船じゃ海は渡れないんじゃね
大きな荷物も載せられないし

63 :
台与って神功皇后ですか?

64 :
さて。
>>16 べしさん。
那の司馬(中国官名)
帥司(中国官名には無し?漢風造語?)
なるほど。宋書からかな。
大夫自称も、竊自假開府儀同三司と同手法
と取る感じですかね。
しかし、みなさん。
大夫の自称は漢語によるか漢字も伴うか、
通訳任せか。どう解釈するんでしょう?
漢字の出土数が少ないことと当然関連して
の提起ですよ。

65 :
>>62さん
刳り貫き船というのは型体の話ですよ。
大きさの話はまた別です。
漕ぎ手と荷物、加えて持衰も乗る訳ですか
ら、かなりの面積が必要となる(笑)。
でもそれが刳り貫き船を否定する理由にな
らないのが現状です。漸次的結論となるか
もですが、型体はコレでしょう。
荷物をどうにかすれば、壊れない以上、転
覆する度にひっくり戻せば航海を続けられ
る利点は大きいですよ(笑)。

66 :
持衰は「不近婦人」だけど船に乗るのかな

67 :
レッドクリフに出てきた船はかなりでかかったけどな
実際はどうか知らんけど

68 :
>>64 いかが?
http://zh.wikisource.org/w/index.php?limit=100&search=%E5%B8%A5%E5%8F%B8

69 :
三国志の軍船
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse053.html

70 :
>>66
乗らない。遭難したら殺されるとあるけど、遭難したら持衰も
生きていないから。

71 :
>>64
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/img222.jpg
BC1世紀にして鉄製の刃物
武帝の楽浪郡の成立には薉君南閭の現地での手引きが働いていただろう
薉君南閭は濊貊系の「口二十八萬人」を従えて武帝の楽浪郡の成立に協力した
蒼海郡のコアなところは梨花洞あたりか?
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/img248.jpg
梨花洞の多紐細文鏡は三紐ので、
鍋島町大字鍋島字増田の増田遺跡 http://matome.naver.jp/odai/2127840240631636001/2127846283232206903
下関市梶栗浜綾羅木遺跡 http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0041142 のも三紐
本村籠遺跡 http://inoues.net/study/toraijin35.jpg のは、平譲から20km西南の
平安南道大同郡大宝面反川里 http://www.geocities.jp/yamauo1945/fig51.jpg
のと同一グループ
帯方縣の鳳山郡松山里のは
吉武高木遺跡 http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/271-280/277/277_01.htm
のの発展系だともいう。
楽浪人と呼ばれた混血の足跡は海峡を越えてBC1世紀から確実に辿れるはずである。
吉武高木遺跡に出現した木棺による埋葬も所謂楽浪人の持ち込んだものであろう。

72 :
刳り貫き船。そんなもので新羅征伐ができるわけがない(カラカラ)
平壌で夫租薉君の銀印が出るわけがない(ケラケラ)

73 :
>>66
私も>70氏同様乗らない。後世は卜占として同船している。
万葉集十五ー三六九六
「新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも」
続日本紀「聖武天皇が天平八年2月、・・・使節団を遣新羅使として任命」とある。
 雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/yuki/yakamaro.html
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/11/post-f91e.html
「万葉集」には、彼への挽歌が9首納められている。天皇や有名人ならともかく、
地方の一占い師に9首というのは異例である。おそらく有名だったのだろうね。

74 :
「一支国」とは、宗像大社の「市杵島姫」(いちきしま)神社、広島安芸の「厳島神社」(いつくしま)と
同様に「斎く」(いつく)という語源を持っている。
一支国は、韓半島への渡海に際し、無事を祈願する島(場所)であった。
 
 一支 = 伊吉 = 雪 も同じである。
 
伊吉氏は、壱岐島で亀ト(きぼく)に通じていた。亀の甲を焼いて吉凶を占う卜部として乗船ていた。
当時まだ卜占は、安全な航海をする上で欠くことのできない存在であった。
一支は「イツキ」「ユツキ」と発音され、「イキ」へと変化して「壱岐」という字に固定されたと思える。

75 :
「息長帶比賣」のは「ゐきなヶたりひめ」が如く発声するならむ
「ゐきな」のは「壱岐那」なるべし
「息長帶比賣」のは初代の「高良玉垂命」とコモンなるべし
「高良玉垂命」は「物部連」に属するなり
「連」のは「つら」と発声するといふ
「物部」本部は「壱岐郷ノ浦物部本村触」なるべし
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=129.70793838753&latitude=33.770188657598
「息長帶比賣」のは「御眞木入日子印惠命」と同系の御子孫で「天日矛」の末たるべし
すなはち、後の世に「新羅」とも呼ばれたコロニーの酋長の末なり
倭系土人は半島に広範に巣食っていてコロニー形成していたのだ
ちなみに「新羅」らしい「新羅」なるものが成立するのは「息長帶比賣」の世代なり
「奈勿」なる「金姓」のが「新羅」らしい「新羅」の基点たるべし
これのは「王」をつけると「おうなもち」になるのが興味深い

76 :
稗箕狐は阿呆とコモンなるべし
稗箕狐は白痴に属するなり

77 :
「息長帶比賣」は「もののべひめ」なり

78 :
>>27さん
とにかくwikiとかそのlink先を調べて行く
のをオススメします。結論より、まず論を
構成する要素に着目して読むと楽かも。
前野良沢じゃないけど、まだ(あくまで自
分の主観で)「倭化」みたいな方がお一人
まだいらっしゃらないようなので、、、
急いで(笑)。
ps.個人的にはとにかくまあ、止揚ができ
れば良いナアとか思ってます。あ、あと多
分、男書きが吉かと。

79 :
箱崎のルーツも壱岐にあるらしい。

80 :
さて。>>64へのレスが賑わわない。
おかしな流れ。
回避してるのか、それとも準備なのか。
準備はかかる気もします。
もし警戒なら無用ですヨ。
>>71 イチイの弓さん(かな?)
文化は伝播していきますね。
その鏡たちはその証。銅矛も?
で、樂浪人は漢人と東夷の混血ですかね?
韓伝の魏略注にある漢人奴隷の話、光武帝
による奴隷解放宣言と人身売買規制とかを
考えると、文化は買われたかも知れない訳
ですよ。そうでもなきゃ、難升米たち北九
州の墓地に、漢字があんなに少ない筈がな
いと思う訳です。

81 :
大夫の意味するところについては
まず倭人の身分制度を考察することが先だろうな
字義的なところからはたいした答えは期待できまい

82 :
東夷の混血の件は単純に考えない方が良いとはおもふよ。
東夷自体のが数次に亘る移動と混血の結果発生しているので
長期的な視点で発想すべき。
列島内に関していえば
移動してきたのと混血して縄文形質を残存させるのが得意だった模様。

83 :
なんか船と持衰が賑わってるけど(汗)。
しかも○さん乗らない派だし。
いや参ったな、否定はしませんよ勿論。
大変なことになりそうだから(笑)。
なので一応、論の要点だけ説明を。
船については閩越の船も中文wikiにあって
色々調べちゃいるんですけど、倭文化に魏
や閩越船の痕跡がないんだから、否定はし
ないけど持論にはしない、連続性で言えば
刳り貫き船って単純な論法ですよ。
持衰は次に書きますよ。

84 :
川筋のところで舟の底のかわら材が発掘されたのを
木棺が出たのと早とちりした例があったよ。
土壙墓に眠る酋長さんの場合は舟底のかわら材を倣ったケースのが多
土壙が進化して石で補強するようになっても舟底のかわら材を倣ったケースのが継続。

85 :
持衰についてはなかなか解釈が難しいな
3つほど考える資料をあげておこう
一つ目は北前船の持斎、これは伊作も言及しているが江戸時代の北前船の絵馬が
奉納された神社があって、そこには舳先に縛りつけられて嵐を受ける
持斎の壮絶な姿が描かれている
二つ目は和歌
万葉集に「櫛 も 見 じ 屋 内(やぬち)も 掃 か じ  草 枕 旅 ゆ く 君 を  斎(いは)ふ と 思ひ て」
というのがあって、これは海路を旅する夫を思って、妻が髪をくしけずらず、家内も掃除しないという
持衰を思わせる歌
三つ目は絵画土器で、唐古・鍵出土 ただしネットをあたってみたがよい画像がない
船の後尾に横たわって手に何かを持っている人物が描かれており
明らかに櫓を取っている人物とは異質
これは持衰を表しているという説がある

86 :
レスしながら持衰が乗ってると思う理由を。
>>66さん 持衰は原則男ですね。少なくと
も非処女、特に出産後の女性との接触は穢
れとして忌避されていたと思います。
出産前ならセーフかもですね。
>>70さん 若有疾病,遭暴害,便欲殺之。
目的は交易です。持衰が不謹でなく、勤勉
に勤めをしていれば航海成功。それが成功
するかどうか一緒に連れて行き、何かあれ
ば今度は生贄として活用する。難破しそう
ならR。病があっても貨物が流されるor
盗まれてもR。仮に難破しても壊れない
刳り貫き船に皆がしがみつく。でも、持衰
は海に捨てる。非常に即物的な発想かと。
>>73 ○さん 後世は同船で確定なのかな。
これは有難い情報。助かります。ん?
なにか腑に落ちないような、落ちたような(笑)

87 :
書いてる間にスレ進む。必死(笑)。
いやでも面白いなあ。スゴイです本当。
マジ勉強になる。
ひとまずメシなどで離れます(涙)。

88 :
>>86ルート氏
「恒使一人」は乗船と考えられる。 が、しかし
@ 乗っているなら、魏使が見ることはない。
  倭人からの伝承で、多くの字数を使うのは不自然。
A 女は乗船させないだろう。
B インドネシア付近の持衰も乗ってない。(大林太良説)

89 :
>>88 ○さん。
文脈で行かないなんて、○さんらしくない
論だなと思ったんですが他の人の説と聞い
て納得。ダメ元で勧誘用に一つ(笑)。
イザナギとイザナミ、黄泉比良坂で逃げる
男と追う女の関係があるでしょ。で、倭人
伝の文脈からは、持衰は穢れの塊かつ慎み
深い喪主です。これは巫女じゃなく、穢れ
を請け負うギリシャの浮浪者だけでもなく
歴史的連続性のある生贄の女性にも留まら
ない。黄泉に行くイザナギだと思います。
だから、持衰は生死の境である海に行かな
きゃ始まらない訳です。多分ね(笑)。

90 :
そういえば、櫓という手段もあるな。
櫓で動かせるのはどのくらいの大きさまでなのかな?
櫂より効率がいいらしいのだが。

91 :
大林太良説、詳しく読んでます。
ちと>>89保留で。
う〜ん。やり直しかあ?(笑)
>>84さん詳しく教えて下さい。
>>85さんも櫓とある。形から櫂じゃなさ
そうって話だったっけ?出雲の祭で国譲り
を迫った大和勢の使者を模した舟競争があ
って確か一人が漕がないんですよね。
そんな感じかな?ただその祭は櫂なんだけど。
>>90さん どうなんでしょうね?
遅そうだけど、重さは大丈夫なのでは?
ただ遠海は無理な気もする。
というか正直、舟は全然わかんない(笑)。
海国なのに舟わかんないって困るけど。

92 :
「若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹」
断ち物:神仏に願掛けをした時に、自分の好きな食品や嗜好品もしくは薬などを絶って、
    禁欲により願掛けを強力にできるという民間信仰。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E3%81%A1%E7%89%A9
謹:嚴禁、嚴守
船に乗ってたら、不謹もなにもないわけです

93 :
う〜ん。ここは意外に論点なのかな。
保留中なんで撤回もあり得る訳なんですけ
どね。その前提で読んで下さいね(笑)。
まず、乗らない版で読みますね。
この文脈の直前の葬式の描写で、肉を食わ
ない、埋めた後は水に入る(それまでは体
は洗わない)。当然女も断つでしょうね。
でも葬式だから願掛けではない。
で、持衰の文で改めて喪人の如しとする。
死出の旅立ちと舟の出港は同じ?で持衰は
喪人として振る舞う。帰って来れば死者の
復活となるんでしょうかね。始死停喪十餘
日を大潮にあてれば丁度同じくらい。その
間、走れメロスと同じで期限まで逃げない
ように見張られているし、逃げる気が起き
ないように生口などの財も渡しておく。
これはイイ推測。間違いない気がする。
難点は唯一、其行來渡海詣中國恒使一人。
あと皆で酒飲むってのがないのも今一つ。
で、あえてココに従って読むと、
出港日の前の大潮から持衰が一人喪を行う
のかなと。なんかオカシイですけどね。
良くわかんないけどそういうことを書いて
いると思うんですよねえ。要は逆回し。
カウントダウン後、死ぬ予定日に船に乗る(笑)。

94 :
倭人伝の倭語には二種類あって、一つは漢語として意味が取れるもの
もう一つは倭語を聞き取って漢字の音を当てたもの
この場合漢字一字が一音の原則になっているようだ
前者は末盧国、持衰など 持衰は漢語としても意味が取れる
これは何を意味するか
もちろん卑弥呼、邪馬台は後者だろう
「台」はタイではなく一音の語だろうな

95 :
舟出は死への旅立ちではないし、持衰は汚れているのであって穢れではないし
持衰は祈願のための禁欲であって、
喪人は肉を食べたいのや女といたしたいのをがまんしてるわけではないでしょう

96 :
>>94同意。邪馬台国とは山田国のことです。
やっぱり、邪馬台国は四国の土佐山田です。

97 :
確かに倭語には2種類ありますね。
持衰とか、倭語の音から取って、字を後で
当てたと思えば、凄いセンスがイイ。
持衰の良い倭音が思いつかないのがもどか
しい。もう少し倭語を正確に聞き取ってい
てくれたら楽なんだが(笑)。

98 :
一大(壱岐)、対馬、末盧、卑字ではない伊都などは
おそらく倭人伝が書かれる以前から知られていた半島に近い国々
持衰もまた倭人伝以前から倭人の奇妙な風習として知られていたのではないか
とすれば船に乗っていたのを中国人が見た可能性があるかもしれん

99 :
持衰は非同船かもね〜、
と済ませたいんだけど(笑)。
合理的解釈が提出されてな〜い!
いや現実は非合理なんだけど、やぱ合理的
解釈って必要だと思うんですよ。
そういう板の方が良いだろし。
要は恒使一人の解釈ですね。
>>95さんのおっしゃる通り、喪主は禁欲
ではないし、持衰は禁欲と持論訂正したい
と思いますけど、なんというか
(まあ清めの逆の穢れだとは思うけど)。
上でまどろっこしい解釈しましたけど、単
純に言えば、壱岐と対馬で仮に大潮を待
てば計1月。この期間、船員の中で一人だ
け禁欲している者がいる。魏使はこの異常
な光景を見て記録しただけ。じゃダメ?(笑)

100 :
んと。
大林太良説を簡単に転記しておきますよ。
まずセラム島東部のイル地方。一人が陸に
残る。大抵は少女で、航海期間内なにかし
ちゃいけない。この少女と船の運命は一体
で少女に何かあれば船は沈む、逆に船に何
かあれば少女が禁忌を破ったからだとして
殺される。
(別に少女じゃなくても良いらしい)
素晴らしい。

101 :
「其行來渡海詣中國」 これは対馬海峡の渡海のことだろうか
対馬海峡は中國に行かない時も半島と往来してる
南西諸島や東南アジアから中国に渡海する倭の風習のように思えるんだが

102 :
同意。対馬海峡でしょう。
それで倭の風習でもあれば、より限定的に
言えば壱岐の風習じゃないかなあ。
対馬は市がないと飢えるし、対馬を北九州
に繋ぎ止めるなら壱岐に海人の中枢がある
と地勢的にも便利だし〜。

103 :
>>101間違えた。不覚。
南西諸島や東南アジアからの「倭」の渡海
ってことね。そこも「倭」とするのか。
ドンと来いだからアリな訳だが、文脈から
唐突すぎる気がする〜(笑)

104 :
正直、今まで乗船しか考えてなくて、非乗
船を持論に組み込もうとしてるんだけど、
>>73の下のリンクにある
>今で言うところの気象予報士か航海士の
>ような役割だったと思われます。
これがしっくり来すぎてダメ(笑)。
案内人が責任取る。職能共同体意識という
か。最初は全員やってたけど水先案内人一
人が禁忌した方が確実とスムーズに変遷で
きる。>>85の3や弟橘媛も同船。>>85の2
は待つ他なくせめてと真似る妻と読む(同
様の歌が多い=一般的なら別だけど)。
>>85の1は後世の誤解釈かなあ(笑)
一方、船と一体で禁欲し祈願する。結果と
して汚れるが穢れではない。これは納得。
材料が増えるまで保留しますけど、現状は
乗船有利と思うナ。

105 :
>>72
まあ、古代船の復元が適当なのが痛いね。
「ろ」を使ったのは安定して良かったらしいけど。でもまあ余裕ですよ。
バイキングのロングシップ、ニュダム船は
全長23mで、不安定故に虚飾を排した造り
=マストや帆も無し。但し、鉄のリベット
で板材繋いだ構造船。対する日本は近世ま
で準構造船。
そこで横波受けてもひっくり返るだけの刳
り貫き船。出港日は相当選ぶでしょうが。
あと多少すぐ死ぬかな。

106 :
準構造船ってのは、構造船に準ずるという意味で、
構造船に近いというニュアンスで使われるのが普通です。

107 :
話戻すけど。
難升米=奴潮男兄=ナ(ヌ)シオオ(ヌ)エ
=奴潮嗚兄 =ナ(ヌ)シオ(ノ)ヲエ
自分は実名敬避俗をとりましたよ。
難升米は土着王の子息。跡取りじゃない。
意味が取れそうな名前で面白がられたかも
知れない。中郎将の肩書きもあって旗を渡
すぐらい近い対馬とかの王になったかと。
(ひとまず奴は奴国じゃなく灘の意で提示)
ナは灘で、壱岐を中心とした卑狗国々の総
称。序列から言うと、その上に奴国、更に
邪馬台国かな。あくまで協商連合だから北
九州では奴国が親分、かつルート抑える為
にだけ邪馬台官僚の一大卒がいる。
奴国とそれ以東の国々の序列はほぼ同じ。
魏官名受け取り合戦の人数が多いのは、そ
のセイと推測。(多分皆、子息かな)

108 :
>>107 ルート氏
「奴」」の上古音は、「な」
「奴」が中古音で「の、ぬ、ど」の発音に変わった為に「な」の音を保つべく
「那」「儺」を使うことになった。
日本書紀 斉明天皇七年 春正月
「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津」
「ながつ」に変更している。
上古音「奴」は「nag」。
自説、「奴国」は「なかこく」=仲国
>>7 奴国の語源は、「仲」 福岡県筑紫郡那珂川町仲(ちゅう)
713年に「なか」から「ちゅう」に変えられた。
「ちゅう」は、いかにも不自然。

109 :
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.571615,130.436962
福岡県福岡市博多区那珂
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.564642,130.411084
福岡県福岡市南区多賀
福岡県福岡市南区高宮
筑紫郡八幡村字高宮

110 :
故其伊邪那岐大~者 坐淡海之多賀也

111 :
伊邪那岐大御~
伊邪那岐淡海~

112 :
>>108 ○さん
「灘」の発音ではなく「ナダ」の意です。
灘と字短しちゃったんで分かり難かったで
すね。スミマセン(汗)。
要は玄界灘、響灘とかの「ナダ」。これ訓
読みでしょ。潮流の早い難しい海、浜が続
く卑狗地帯の名称に合う。
そんで、
確か昔聞いた○さん説だと「奴領域の都は
奴国」だとやりづらくなる気がしたんで便
宜上「ヌ」とした訳です(笑)。
う〜ん。そのまま奴国=ナにして、便宜
上、灘はナダかヌとするかな。思案中。

113 :
>>103
倭人伝の倭国が南西諸島や東南アジアにあると言ってるのではないよw
まあいいです

114 :
>>108訂正
x気がしたんで便宜上「ヌ」とした訳です。
o気がしたんで便宜上「灘」とした訳です。
しかし、
ナダ、ナミ、ナギとナは沢山ありますね。

115 :
>>113さん
いや良くない(笑)。
映画の最後だけ見ない感じで
気持ち悪い〜(笑)

116 :
水の上のも、灘だし、那だし、奴だし、野だし、原だし。
もっとも 「汝命者 所知海原矣」事依也 のは
海原=烏那原=烏奴原 で
建速須佐之男命の根城で水上のではないけど

117 :
「灘」のは「日向」とか「櫛名田比賣」とかのに、「なた」が埋め込んであるし。
「品陀和氣命」のも「ひなたわけ」と読むと出自が明らかになるし。

118 :
「陸行1か月」を学者は甘く見すぎ。
例えば1か月のうち、1週間を水行にも置き換えることができない、
まるまる1か月陸のみ移動可能な場所を特定すべき。
主要な街道を陸行することはない(水行で代行可能だから)。
となると、それは登山以外あり得ない。
剣山であれば該当すると思う。

119 :
>>112 ルートさん
>潮流の早い難しい海、浜が続 く卑狗地帯の名称に合う。
「響灘」は" ひぢきの灘 " が長い年月を経て ひびき(響)灘 にかわったものであるという説がある。
「昨日こそ 船出はせしか 鯨魚(いさな)取り 比治奇(ひぢき)の灘を 今日見つるかも」
(3893 万葉集 巻第十七 読人知らず) 古代ではこのあたりはひじき 、わかめなどの海産物が多く
採れることで知られ、これらの海産物が平城京(奈良の都)へ献上された記録が残っている。
時々釣りに行くけど、穏やかな海の印象しか持ってない。
冬は荒れて遭難も多かったそうだけど。 
http://www.youtube.com/watch?v=EQW_SW6CUBk

120 :
海の上の国。ではどの国ですかね?
ひなたわけは嫌いじゃないかな〜

121 :
>>108
元は「那」国でしょ。
それに大中華様()笑は「奴」という蔑字を当てた。
○奴国ってのがいっぱい出てくるけど、それは連合王国である那国の配下にあっか国々だろう。
那の付く地名も、それらは皆「那」国の支配下にあった地だろう。
しかし、その蔑字である奴に更に狗という蔑字を上乗せされた狗奴国って…

122 :
海原=烏那原=烏奴原=烏奴國=烏越さんの出処=根堅洲國=妣國根之堅州國

123 :
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=217518434989072787959.0004e850fa7e28dd76eb4&msa=0&ll=33.360015,130.413948&spn=0.005968,0.006813&iwloc=0004e8610cc329dda76d8

124 :
まあ九州は無いよね
水行二十日+水行十日+陸行一月に見合う場所がない

125 :
>>124
水行二十日、水行十日、陸行一月 を距離を表すものと考えるのは愚かである。
三国志には距離を日数で表した例はない。
季節、天候、旅行者の人数、旅行の目的など様々な要因で変わる日数を距離表記に用いるなど愚の骨頂だ。
陳寿はそのような非合理的な書き方はしない。
距離が分かっている区間を普通に旅するには幾日を要するかというような状況において、あるいは軍事作戦
行動などで日数を書くことがあるが、それは距離を表すためではなく所要日数を示すだけのものである。
また、

126 :
>>119○さん
そういうことは大いにあり得ますね(笑)
冬に荒れるのは日本海気候の影響ですね。
そういう知識は仕入れたけど、所詮、関東
人で博多から韓国へ船にいったことがあっ
ても、一観光でしかなく、実際に船に乗っ
て漕いだこととかない訳ですよ。
灘のwikiで瀬戸内は別として、他は先程の
ような感じとあるから、そういうもんだと
思ってしまう訳ですね。干潮差とかは調べ
て数字は見てるけど、ソッチで当たり前の
ことは意外と調べられない訳ですよ。
ふふふ。この苛立ち。
仮にビルがなかったら、どこまで山が見え
るかとか、全て検証したいんですがね。
まあ、人生長いんでね。いつかやりますが
ソチラは本当天国ですよ(笑)

127 :
>>126 :日本海ルート論者氏
私は金印の島で生まれ育ち、叔父が漁師だったので中学生の時から玄界灘に出てました。
高校時代は金持ちでしたよ。3倍位の日当だったかな?(笑)
仕事上「伊都國〜末廬國」は5千回以上往復してるでしょう。
奴國〜伊都國〜末廬國は、どうしても細かくなります・・・へっへっへ。

128 :
>>122
そこが後付けか先付けかですね〜。
先付けだと面白いですけど(笑)。
ローマはアルバロンガ出身者が作り、作っ
て早々、隣村の娘達を拉致ったらしいです
よ。お里が知れる建国物語ですが正直な感
じで好き。因みにアルバロンガはトロイの
末裔が作ったそうです(笑)

129 :
>>125
これが九州脳か

130 :
>>127 ○さん
なにい!んじゃボートで検証できますね?
日本海だと潮待ちしないで潮流乗れるんじ
ゃないかと思うんですよ。一月かなあ。
モーター付きで良いんで、ちと検証して下
さい(笑)。
あ、あとね。
倭人伝は後漢書より地理情報が弱いから、
北九州沿岸在住の人らが最初にパズルを解
くんじゃないかと。或いは機械かな。
要は机上じゃないってことで、別にそれに
限った話じゃないですけどね。

131 :
>>127
推進力の弱い船で対馬へ渡るとなったらどういう経路で行く?

132 :
>>130 :日本海ルート論者氏
>日本海だと潮待ちしないで潮流乗れるんじ
日本海側に潮待ちはないでしょう。
時期、時間帯によって、どれだけ陸から離れるかだけでしょう。
瀬戸内海の半分と思ってますが・・・
鉄の流通も日本海が速いし、銅鐸はこっちの流れでしょう。

133 :
>>131
志賀島〜唐津〜平戸を沿岸水行で五島列島西端の福江島まで。
良風を掴んで、真北に漕ぎ出す。
対馬海流を捉えれば、漕ぐ必要はないでしょう。
五島列島歴史家の人達が実験済みで、最高12ノットを記録したそうです。

134 :
○さん
>>132
実証じゃないのか〜(笑)。
潮待ちの有無は日程に大きく差がつく。ま
してや20+10日と大潮基準じゃないですし。
初期銅鐸は出雲系だと思いますねえ。
舶来の鉄も経路はそうだろうけど、回って
くるかは九州の状況次第ですからねえ。
>>133
おお?その船形と推進力は何ですか?

135 :
>>128、中途半端なんで追加〜
自分は当然、先付けで。
加えて妣國根之堅州國=出雲。
風土記を集めた以上、それら総意を大きく
変えられない訳ですから〜

136 :
伊都国まで10500里の行程中陸路はわずか500里。
つまり魏志倭人伝は船旅の記録でもある。
そのあとも水行20日、水行10日等船旅の記録が続く。
(船で行けば歩く必要もないし、荷物の移動も考えなくていい。)

その中で陸行1月だけが異様と感じないか?
だから水行が不可能で、陸路しかなく1月かかるところはどこに
あるのかを同定してやればいいだけのことと思う。

137 :
>>134 :日本海ルート論者氏
>おお?その船形と推進力は何ですか?
機会をつくって五島列島資料館「塚原氏」に聞いときますよ。
阿曇族の綿津見神は志賀島総本山だが、対馬には何んと77社もある。
地元歴史家「永留氏」に言わせると、どっちが本家が分からないそうだ。
広形銅矛も多数出土している。
阿曇族にとって、壱岐は往路。呼子は見えているので祈願の必要はない。
したがって、壱岐に綿津見は少ない。
遣唐使も五島列島で風待ち。風に頼って遭難。成功率30%位だそうな。
それ以前は潮に乗る。潮の流れが逆行する瀬戸内海より順行の日本海側が
早く開けていると思われる。
ルート氏が思わずニッコリ。
「水行二十日」「水行十日、陸行一月」出雲から若狭湾に入り、陸行する???
だがそうは問屋が卸さないのが現実。

138 :
陸行五百里、つまり船を捨ててしまったわけで、その後の水行は倭の舟だ。
出雲ならば船を捨てるはずはない。

139 :
>>134 ○さん
是非お願いします。
てかまあ、やはり直線距離でなく潮目なん
ですね。失敗の積み重ねで得た知識なんだ
ろうねえ。
あと壱岐はダメかな。対馬が神社メチャク
チャ多いのは調べてましたけど、うーん。
安曇の主流は陸化してると思うんですよ
ね。無論、奴国。海の安曇とは主従の開き
があるかなあと。まあ灘を明日書き直して
おきますが。
てか、末文が気になるな(笑)。
そういや、川から先は進めないんですか?
投馬とか、その先へ。

140 :
>>133
船の推進力にも依るけど松浦に行って北に漕いで壱岐経由で対馬に渡った方が効率的でないかい?

141 :
遣唐使って成功率30%ってマジ?
命懸けじゃん
遣唐使に任命されたら70%の確率で死ぬのか
おれだったら絶対辞退するけど、当時は辞退することも許されなかったのかな

142 :
辞退して島流しになった貴族がいたな
百人一首にもその和歌を載せられた御仁

143 :
iPhoneのbb2cだと見れなかったので、
今やっと>>123を見た。
123=122さんと今知る。申し訳ない。
しかし丹念〜。

144 :
>>141
70%死ぬわけじゃなく失敗するということ
鑑真が6度目の航海で日本に着いたように天候不順で戻った分も含む

145 :
遣唐使の成功率は75%くらいじゃなかったかな。
半分以下はいくら何でも低すぎだろう。
それも南路で失敗が多かったはず。

146 :
海人でない集団が、自前で船を建造し、潮の流れや気象状況が読める持衰(ジサイ)すら乗せていなかったのだから仕方がない。
海をなめていたとしか思えない。

147 :
>>140
瀚海で失敗する可能性が出て来る。
潮に流されだすと、人間には何も出来ない。
特に荷を積んでると厳しい。

148 :
663年の白村江の戦い以降、朝鮮経由のルートが取れなくなったので、
五島から直接行くことになったわけだが、航路が長いので
天候の予測がつきにくかったのではないかな。
壱岐・対馬ルートなら、航路が短いから何とか予測もつくわけだが。
今の気象庁でも、2,3日の予想は比較的正確だが、長期予報はよく外れる。

149 :
仲哀天皇は持衰だったのではないだろうか ?
というより、天皇とは 持衰そのものだった。
海が荒れると捨てられてしまう にわか 持衰ではなく、
最高の運を持ったシャーマン、一度も悪天候で遭難したことのない 持衰の正統だろう。
これは、神功皇后のモデルであるといわれる持統天皇という漢風諡号からも読み取れる。
持衰を統治するもの。海を静める能力を持ったもの。それが天皇。

150 :
その意味で、宗像三女神との関係が気になる。

151 :
>>149さん 大いにあり得ると思います。
天皇と卑弥呼を比するのを嫌う方もおられ
るとは思いますが、そこは便宜上保留して
頂くとして、まず持衰と卑弥呼の相違点は
他人が見れるor見れないの違いにある。そ
の意味で卑弥呼は持衰とは違う(と思う)。
卑弥呼は巫女らしいので現在の印象として
は、清めの対象です。しかし、当時は逆に
死者と変わらぬ穢れ=黄泉にいるイザナミ
と同体だった気もする。つまり、死と人と
の間に入り込む存在。すると「見た目」は
持衰と似るかも知れない。
(その後、死と人との間に人格化した神が
入り込み、高位の神に巫女が仕えるという
関係が生まれる。巫女は高位の存在に対す
る対処として身を清め始めた、と変遷?)
何れにしても、共同体の利益を保持できな
ければ、共立王は廃される。王の任期は通
常永年。つまり持衰の末路と同じ。
王権を強化した悪逆王雄略も含めて、貴族
政というシステム内の天皇に限れば、共立
王=持衰そのものと言えると思います。

152 :
卑弥呼の記述(といっても少ないが)を見る限りは
持衰的というよりは託宣的シャーマンという感じだけどね

153 :
>>138さん
なるほど。
まあ倭人伝の記載は竜頭蛇尾ですから、
尾っぽの解法は千差万別になりますよね。
頭の部分は共有し易いけど、仮に尻尾の部
分を語ろうとするなら、まず比定地を示し
た方が理解され易いと思いますよ〜。

154 :
倭人伝の記載が竜頭蛇尾だと言っても、書き手は同一人物でしょう。書き手は、この程度書いておけば
読者は理解できると思った、つまり、非常に簡単なコースだということですな。
伊都国から先は、南の一言ですむ。乍東乍南、乍西乍南も必要ない。乍南乍東も必要ない。
そうゆうことでしょう。
それが可能なのは伊都国を佐賀市付近に比定したときだけでしょうね。それに、周防灘沿岸ではそうはいかない。
魏船で回った方が安全、かつ早いでしょう。
南九州まで

155 :
持衰にも2種類あって、
1つは、航海に同行して海の安全を祈願、海が荒れれば生け贄として捧げ物にされる役割のもの。
もう1つが、出港地に居残って舟が帰りつくまで何も食べない、髪や爪も伸ばし放題、ひたすら帰りを待つもの。
恐らく、前者は漁や航海に向かない不具のもの男子や罪人、後者は神がかり的なところのある女子だったのかもしれません。
いずれにせよ、村社会に入れず労働力にならない者に別の役割を求めたのでしょう。
特に先天的な障害があるものは穢れたものとして恐れられ、時には神の使いとして敬われ、
村から隔離され、巫女として捧げ物を食 べ乞食のような暮らしていたようです。
卑弥呼はまさにそれ。魏の使いはもちろん、村の者も会えない。
会えるのは、身の回りの世話をする弟王だけでです。

156 :
>>152さん
ああ、はい。託宣的だと思います。
衆を惑わす訳ですから、指示を出してる。
ですから、託宣的以外の何物でもないでし
ょう。
天皇だって、貴族政の上で政治をします。
持衰的の定義で対立したり、しなかったり
するのかな。上のはただ責任を命で償うと
いう点で用いてますよ。でも武士的とはま
た違うでしょ?あれは恥もあるから(笑)

157 :
>>154さん
いや、だから。
もっとドンと行きましょうよ(笑)
倭人伝の地理情報は未来人が書いている後
漢書から見て、相当劣っていることが分か
るんです。
だから、竜頭蛇尾になり、解釈が多々生ま
れる。そこで各々の解法で否定し合っても
書き手に答えがないんだから、しようがな
いんですよ。
比定地を出して解法を出せば、各論で検証
共有ができる。それがない以上、水かけ論
にしかならない。できるのは水たまりだけ
ですよ(笑)

158 :
比定地:肥国人吉盆地
解法:里と日を1/6する
以上。

159 :
なるほど。
ならば、乍東乍南はおっしゃる通り。理解
しました。山間だから陸行も稼げる訳ね。
投馬は南下水行のどっかでアレコレしない
と。なるほどね。あり得そうです。
てか持衰=水先案内人は少数派みたいだな。
ふむふむ。

160 :
改めて、話戻してみる。
難升米=奴潮男兄=ナ(ヌ)シオオ(ヌ)エ
=奴潮嗚兄 =ナ(ヌ)シオ(ノ)ヲエ
自分は実名敬避俗をとりましたよ〜
難升米は対馬王の子息。升の人名用法には
光武の兄=劉伯升があり謁見時迄に魏人か
らこの好字が当てられた筈。意味が取れそ
うな当て字。好かれてたかも(語学の才能
有り?)。中郎将の肩書きもあって、旗を
渡すぐらい近い=対馬の王(卑狗)となる。
エは兄。元は王位継承者ではない(ノの音
をヌと想定。但し、オにつく時はノ。継承
者=大兄につくとノとなる為、兄とした)。
ナは北九州沿岸の地方政権=奴国連合。海
人系で各コロニーに卑狗がいる。奴国が都
かつ東境。奴国人の殆どが陸化している。
シオオは操船が巧みな男の意。陸化した奴
本国人ではなく卑狗圏出身の海人。
(大雑把に言うと)奴、投馬、邪馬台とその
間を結ぶ国々とが倭連合を形成する。あく
まで協商連合だから、北九州では奴国が親
分。外交通商管理と密貿易防止の為に邪馬
台官僚の一大卒が伊都国にいる。また奴国
連合より東の国々は、結び付きが弱い。そ
れで魏官名受け取り合戦が生まれてくる
(多分皆、子息かな)。

161 :
友人からの電話で、伊都国歴史博物館に伊都出土の船の模型が展示されてると
聞いて、見に行って来た。
伊都国の大型船?弥生時代の船の部材が出土…福岡 2004/08/24 読売新聞 Yomiuri On-Line
--------------------------------------------------------------------------------
福岡県前原市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡で、弥生時代終末期(2世紀末)の準構造船
の部材が出土したと、同市教委が23日、発表した。準構造船は、丸木舟に舷側(げんそく)や船首、
船尾に板を継ぎ足した船で、主に古墳時代に造られ、外洋航海や輸送用の大型船として用いられた。
弥生時代の出土例は極めて少ない。一帯は「魏志倭人伝」に記された伊都(いと)国の範囲と推定
されており、外交や交易の拠点として栄えた伊都国が高度な造船技術を持っていたことを示す発見
として注目される。
発見された部材は、丸太をくりぬいた船底部3点と、舷側板1点。船底部のうち1点は、長さ3.1
メートル、最大幅82センチで、欠損部を補った全長は6―7メートルに達するとみられる。
潤地頭給遺跡はガラス工房跡地で、井戸の土留めに四方に埋められていて、運良く残ったようだ。
しかし、これでは外海は無理だろう。国内の運搬用の感じがした。

162 :
>>15
>「那珂」がなまると「ぬか」になる
帰りがけに図書館に寄って、倭名類聚抄を見てきた。
早良郡 「額田」「奴加多」が記載されている。
現在の野方だろうね。
http://inoues.net/ruins/nokata.html

163 :
当時の倭船は大きくない
むしろ小さくて自在に潮のとらえられるほうがよかったろう
半島へは船団を組んで沈したやつらを拾い上げるような形で進んだのではないか

164 :
>>163
なるほど! 一理有る。

165 :
>>162
そこのもおりこみ済みで逝ってる

166 :
>>161○さん 、>>163さん
自分も>>163さんの言う通り、必要最小限
の大きさだと思うんですが、>>161のそれ
は小さ過ぎますね。幅82cmでは人が1列
しか乗れず、両輪パドルでないと安定しま
せん。
構造上、くり貫き船に外壁を足して喫水線
を上げてると思うんですが、今までの復元
船は全て、この外壁部を巨大にし過ぎて過
重量になってると思うんですよね〜。
外壁を足すのは丸木が小さいからで、渡海
用は巨木を使う一方で、外壁部の面積を最
小限にして過重量を抑えていると推測しま
す。或いは、外壁を利用して、横に2つく
っつけるとか?
弥生期と特定されてるのは大きいですね。
板面は何で固定してるんだろう?

167 :
ああ、忘れてた。
>>161の復元想像図がありました〜
http://www1.ocn.ne.jp/~mueki/zui-uruuzitoukyuiseki.htm
金属か木の釘というか、かませて繋げてる
のかな?

168 :
南風小学校の下らしい。
福岡県糸島市南風台八丁目10番1号
加布里側だから国内用と思うけどね。
外海用は、周船寺、今宿側だろう。

169 :
南風小学校の校舎工事に伴って発掘されたみたい
http://www.city.itoshima.lg.jp/uploaded/attachment/1974.pdf

170 :
「那珂」の「珂(か)」って鹿島の(か)と同根なのかな?

171 :
船底の構造部のかわら材のが厚さ最大35mm
丸太から薄く削りこんでいるものだ。
側板のが25mmとか

172 :
「那珂」の「珂(か)」って「六加」の「加」と同じかも
「那珂」は「奴加」で「ぬか」「なか」で
「ぬ」のは
「ま」と「うま」の関係で
「ぬ」と「いぬ」の関係

173 :
那:美好
珂:玉的美石
美しい玉石だろ

174 :
>>147
じゃあ逆に対馬から博多へ行くとして壱岐経由で行く?

175 :
>>174
当然でしょう。

176 :
>>175
沖ノ島経由の宗像三女神ルートはどういう時に使うの?

177 :
>>176
さぁ、どうでしょうね。
私は、流されて対馬着岸失敗の時の二次的な場所と想像してますが・・・
対馬からの帰りの便には、山陰、近畿側には便利でしょうね。
宗像三女神ルートは、もう少し時代が下がってからでしょう。

178 :
>>177
対馬から壱岐に行くときは瀚海に流されることはないんだ、不思議だな

179 :
基本、刳り貫き船説なんだけど、しばらく
準構造船で考えてみますかね〜
その前に、刳り貫き船の長所。
@現在の出雲大社本殿の柱
http://www.geocities.jp/edelfalter/travel/izumo_02.htm
>心御柱の径は三尺六寸(約1.1メートル)あります。
*幅1m超の船が作れる。
*1本の木を刳り貫くだけなので壊れない。
(カヌーと同じでひっくり返り易いので、
転覆したらひっくり戻して乗り直す)
@短所
*魏使がその形に驚き何か書き残す筈。

180 :
>>178
対馬から壱岐は東南だろう。
南へ漕魏出せば良いだけ。
何が不思議なの?????????

181 :
>>168>>169>>171
国内用っぽいですね〜。でも古墳期じゃな
く糸島で見つかってるがイイ。しかし、埋
まってますねえ。校舎の耐用年数みたいな
ものがあるのかな?建て替えラッシュ希望(笑)
25mmは薄いね。ギリギリのラインなのか
な。耐久性もあるだろうし。
横並び2列で「ろ」を左右に並べると安定
しそうな気がするんだけど、座って1列で
それが可能ならアリなのかなあ。
準構造船だと速度はともかく、刳り貫き船
と違って転覆したら終わりだと思うんです
よね。すると安定性を最優先なんだよな。
弓の持ち位置と技術みたいになんか工夫し
てる気もする〜

182 :
漕魏出せばって・・・
漕魏を検索しちゃったよw
どう考えてもこの辺りの海流は東北方向に向かってるからそれに直角に漕魏出していけば丁度沖ノ島に着くと思うんだけど
海流に逆らう方向へ漕魏出すもんかね?

183 :
>>129
そうだ。九州脳は優秀なのだ。
倭人伝を読めば分かることだが、不彌国から邪馬台国までは(道なりの距離で)1300里だ。
水行二十日、水行十日陸行一月は魏使の梯儁らの旅行日誌から採られたものだ。距離は分かっているから
水行二十日、水行十日陸行一月は距離を示すものではない。それだけの日数をかけて行ったというだけだ。
こんな簡単なことも分からないのは愚かな証拠だ。あるいは距離を引き延ばしたいという思惑だけで真実
を見ないようにしているだけだ。

184 :
>>182
沖ノ島から何処へ行くのが目的なの?
目的地で変わるんじゃないの?

185 :
最初に結論ありきだから支離滅裂になってるな

186 :
日数はやはり距離表示の一つだよ。里数があいまいな時や里数に比して日数がかかるときに
使うということだろう。

187 :
水行二十日水行十日陸行一月
と不弥国か千三百里
について
これを解決する方法は三つしかない。
@水行陸行は郡からである。
A千三百里は長里である。
B日数は距離とは無関係で何らかの目的が原因で日数を必要とした。
@は問題外
Aは倭人伝で千三百里だけ長里はあり得ない。
Bこれが正解である。

普通は日数は到着するのに必要な所用日数を記載する。
しかし、必ず日数は到着するのに必要な所用日数であるとは限らない。
狗邪韓國〜末盧國(220q程度の半分しかの距離)に
一ヶ月以上もの日数がかかっているのだから到着するのに必要な所用日数ではない。
頭の硬直した頑固爺には到底理解できない話だ。

188 :
不彌國から千三百里が水行二十日水行十日陸行一月 ではないんだよ。
万二千里で到着するのは女王国。つまり女王国の国境、入り口までだ。高句麗伝なども同様に
その国の入り口までの距離を示している。
日数は、投馬国の都、邪馬台国の女王が住んでいる都までの日数を示している。
それは万二千里よりもかなり遠い所になる。
日数の表示をしたのは、里数が良く分からなかったからだ。だから、倭人伝は
都までの里数は表示するはずがないのだよ。

189 :
>>187
九州内に収めるために、こじつけてるだけだろがアホ

190 :
ド低能でもチンピラでもないが、さほど優
秀でもない日本海ルート論者ですが(笑)
いや〜、ワクワクするな〜。今後の展開が
楽しみすぎる。
なんて、ことはどうでも良い。
しっかし○さん、親切すぎるな(涙)
まあ、178さんは素直に不思議だと思った
んですよ多分ね。意外にそういうもんです。
普通はね、海の当たり前がわかんない。自
分なんて職場のサーファーや釣り好きに質
問しまくってますからね(笑)

191 :
>>189
脳タリンのアホはお前だ。
だいたいどう説明するつもりだ。
できないだろうが。

192 :
>>189
千三百里で水行二十日水行十日陸行一月の日数がかかる理由を説明すべきです。

193 :
>>183さん
いやあの、できたら九州のドコ説か言って
くれると有難いんですけどね(笑)。
自分はまあ畿内説日本海ルート論で、投馬
=出雲->丹後上陸/陸行1月ですが、
比定地無しの日程論批判は他の九州説の方
にまで影響を及ぼすと思うので、ひとまず
事例をあげておきますね。
漢書>地理志《地理志下》137
http://ctext.org/han-shu/di-li-zhi-xia/zh?searchu=倭&searchmode=showall#result
自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月,有都
元國;又船行可四月,有邑盧沒國;又船行
可二十餘日,有ェ離國;步行可十餘日,有
夫甘都盧國。自夫甘都盧國船行可二月餘,
有黃支國,民俗略與珠w相類。其州廣大,
戶口多,多異物,自武帝以來皆獻見。
日南の障塞、徐聞、合浦より船行五月ばか
りにして都元國有り。(面倒なんで以下略)
この都元國を中文wikiで検索。
http://zh.m.wikipedia.org/wiki/屈都乾
マレー半島トレンガヌ州にあった国らしく
屈都昆、屈都乾はKuala Dunganから。都
乾、都昆,都元はdungunの発音から。
(马来语中羊味果之意とあるがわからん)
(Kualaはマレー語で川の合流点、河口)
あとは調べてね(笑)。とにかく漢書より後
の倭人伝でマレー半島より近い倭地の地理
情報が適当なのか、なんとなく分かる筈。

194 :
自分も昔は儀式込みの日程と思っていたの
で懐かしく思いましたよ(笑)
寝ます。ちと今週頑張りすぎ。

195 :
倭人伝の数字は基資料の筆写で、実際の6〜10倍に膨らんでいる。
当時の中国人は誤差というものを知っていた。今の邪馬台国研究者で誤差を
考えている人はいるのかな?。文献どおりの逐語解釈は間違い。

196 :
まともに読んで何の問題もないのに、誤写だ、何だとトンデモ一直線。

197 :
>>196
>まともに読んで何の問題もないのに
で、どこなの?

198 :
>>196
>まともに読んで何の問題もないのに、誤写だ、何だとトンデモ一直線。
一種の宗教だな
頭の中に問題ありそう

199 :
唐津までは問題なかろう。そこで上陸して東南陸行五百里。五百里は対馬〜壱岐の距離の半分。佐賀市付近になる。
佐賀市にでれば有明海がある。そこから水行できるわけだから、放射式が正解。佐賀市付近から南へ水行十日陸行1月と
なれば、八代で上陸して1月歩く。都城付近が邪馬台国だ。
投馬国は佐賀市付近から水行二十日、薩摩川内で決まりだな。
倭人伝の行程どおりで、誤写だ、誤解だなんて話はまったくいらない。

200 :
倭地に初めて来た魏使の梯儁らはガキの使いではない。単に詔書や親魏倭王の印綬や下賜品を届けるだけ
ではない。
難升米らから聴取した倭地の事情や卑弥呼の様子を実地に確かめる必要があった。
当然であろう。それまで公孫氏支配下にあった半島と倭である。その倭から来た難升米らの言うことを信
じて卑弥呼を親魏倭王に任ずることにしたが、実地において確認もせず騙されたでは魏の面子が立たぬ。
梯儁らは道中において各国の国情を調査しながら卑弥呼が都を置く邪馬台国に至っている。
卑弥呼にも会わず、卑弥呼の都を見ずして帰るなどあり得ないのだ。
さらに重要なことであるが、使節は宣伝を行う者でもある。魏の威光を倭人達に知らしめ、親魏倭王に叙
した卑弥呼の後ろ盾となることを宣言して倭人達を卑弥呼に従わせるための行動をしたのである。
それは各国の有力豪族、とりわけ大国である投馬国と邪馬台国の有力豪族、の集落を巡り説明や説得や懇
談を行ったのである。それくらいのことをするのが外交官の常識である。

201 :
あらら、グーの音も出ないらしい。まあ、これまでも行程的にまったく問題が
ない説だと評価されているからねえ。
今後は、倭人伝には誤記があるなんて軽率に言わんことだ。

202 :
伊作先生っぽい文章

203 :
縄文人だろ

204 :
>>199、201
それで、これまでに邪馬台国の跡は見つかったかい?

205 :
>>199
倭国王の権力を示す出土物は何がでてるの?
鉄刀は何十本位あるの?
鏡は?

206 :
南九州は7世紀までサファリパークでした。

207 :
>>199さん
その解法なら、あり得るんじゃないですか
ね。因みにその邪馬台国は、魏の完全な家
来ですか?それとも見せかけでしょうか?
単に意見を聞きたいだけですから、ご安心
を(笑)

208 :
ところで、発音記号を入力したら、発声し
てくれる無料サイトとかないですかね?
難升米
上古音:nan-thi∂ng-mer
中古音:nan(ndan) -∫I∂ng-mei(mbei)
これは読めるんだけど国際記号読めない(笑)
http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/shangguyin?kaiOrder=2421
まあ、基本魏使の聞き取り能力はアテにし
ちゃいないんだけどね。。。

209 :
ぼくは国際記号読めません
でも聞き取り能力はアテになります
ぼくは基本魏使じゃないからね。。。

210 :
当時の倭語の音韻すら定かではないんだから
原発音の再現は不可能事だな

211 :
なしま
那司馬 ぢゃろ

212 :
「長髄彦」のは
「那珂都根卑狗」
鉄の刃物を持ち込んだ賊にやられて日本海北上して逃げたんだ

213 :
デタラメ言うな無知低脳

214 :
>>213>>211

215 :
長曾根虎徹かwwww

216 :
ナシマかなあ。なんつーか長いのを面倒臭
いって感じで短くするクセがあるような。
ナンシ(ィァ)ン(=nm)ムェ->(メンドクセー)
->ナシマ 、でないかな。キツイか?(笑)
長髄彦は血統工作に反対した出雲本流派と
思うな(スレチ)。
まあ清音でナカスネヒコ。ナカツネヒコは
良い線かも知れませんねえ。出雲はナカな
いね、そう言えば。武美ナカタはタが美称
でないし、武宗像寄りだしな(笑)

217 :
>>204 >>205
花弁状住居の址というのは、国内で他にほとんど例がない倭人伝どおりの住居址だ。
遺物としては、完璧な玉璧がでているね。中国から王侯と認められた王がいた証拠。北九州の金印
に匹敵するものと言えるだろう。それから鉄矛、鉄剣。特に蛇行状剣は実用性はない、指揮者が持
つべき剣だ。これが十数本、国内でこれほどでている所はない。

218 :
>>217
>遺物としては、完璧な玉璧がでているね
何処から出たの?
鏡は何十枚?卑弥呼の好物だろ?

219 :
>>216
「長髄彦」のは、記では「登美能那賀須泥毘古」
「那珂都根卑狗」が日本海北上して逃げた先のは津軽。
出発地は那珂川流域。
鉄の刃物を持ち込んだ賊のが実は「邇藝速日命」
「登美能那賀須泥毘古」のは
「淡海」の「那賀須泥毘古」。
「那賀須泥毘古」のとられたドメインのは「ひのもと」と称したのじゃろて。
関係ないのをいろいろかきあつめていじって東征譚に仕上げている。
「~倭伊波禮毘古命」の攻め込んだ先は「元祖山門」で南征ぢゃろて。

220 :
那賀であって那珂ではないな
那賀川といったら徳島

221 :
阿南市にある延喜式内社の八桙神社には「長(なが)の国の祖神は,大己貴命」と書かれている
長国が粟国に統合されたのは大化の改新の時

222 :
上の二人は精薄稗箕狐とウスバカ南解次次雄(泣)

223 :
>>222
巣に帰れ
ここはお前が立ち入って場所じゃない

224 :
ミスった
巣に帰れ
ここはお前が立ち入っていい場所じゃない

225 :
精薄稗箕狐とウスバカ南解次次雄。
これは対句として書いたのだから、南解次次雄よ、そんなに気にするな。
お前はまともだが、稗箕狐はほんとにキモい。
こいつはほんとに半分キチガイか半分精薄のような男だ。
この男の書いてるようなことは、まともな人間では書けない。

226 :
馬鹿が南解次次雄と断定してきたか
俺は旧近江説、今濃尾平野説だよw

227 :
>>219さん
記とは有難い。元はトミビコ説かなあ。
私見、都市開闢+男系創始説話。婿入りは
史実と思うな。実際あの系譜なら上手く行
くし、紀で選択肢増=ウヤムヤだから、逆
にあり得る気になる(笑)。末子継承+血の
統合、下手な戦争より効果ある(スレチ)
ただトヨ見ると、男系思考はまだ早い。
5世紀直前位でビンゴかなと(復帰)。
てか、四国説の方も来たようで、
こりゃ面白くなってきた〜(嬉)。

228 :
さてココは。
ドン来いだというそもそも論。
そう考えると、
ど〜見てもツンデレにしか見えん(笑)
てか、満州さん。
お弟子さんは、結局断るの?

229 :
近江説、濃尾平野説。
どちらもよほどの馬鹿でしか思い付けない説だ(ゲラゲラ)
>>228
天才的な人間はみんな孤独になるのである。
世間のくだらない人間とは付き合うまいと思っているとどうしてもそうなる。

230 :
このスレ読んでいると、ドンと来い!は口さきだけで、実は、俺の説に文句があるやつは来るな!みたいな人が多すぎ。

231 :
満洲必死すぎ
今まではフツーにスルーされてたんだけど
よっぽど彼にとって都合の悪いことを書いちゃったのかな?

232 :
>>193 :日本海ルート論者
漢書>地理志《地理志下》137 の例は距離を示したものではないでしょう。
倭人伝の行程記事と同列に論じられるものではないでしょう。
漢書>地理志の記事は遥か遠方の国についてのもので、特に誰かが何らかの目的で行く場合のものではありません。
単に、都元國に行くには船で五ヶ月、・・・と所要日数を挙げているだけですね。距離を示してはいません。
これは東京からニューヨークに行くには航空機で13時間、ブラジルには36時間・・・と言うのと同じです。
倭人伝の行程記事は魏の使者が初めて来倭した際の記録に基づくものと考えられ、魏使は>>200に述べられている
ように邪馬台国の卑弥呼の都まで行って国情調査を行っていると見るべきです。距離は不彌国から千三百里と分かる
ように書かれています。不彌国から投馬国を経由して邪馬台国に至る千三百里を水行一月陸行一月かけて行ったとい
うことになりますね。

233 :
>>232さん
貴方は素晴らしい(笑)。そうやって、反論
をしなければダメですよね。そうでなきゃ
何も生まれません。いや本当に。
現実は理屈に合わないことだらけでしょ?
だから解法はむしろ自由が良い。ただ、べ
きだ、違いない、と主張するには合理的解
釈が絶対必要。いや同意見ばっかなら良い
けどそんなんあり得ないし。でも、比定地
がココだからこうあるべきだ!は当然ok。
だから自分は比定地を尋ねた訳です(笑)。
お互い理解し合ってから論の補強をしても
良い、しなくても良い(要は矛盾点の指摘)。
折角だから次に簡単に指摘を(笑)

234 :
>>207
>魏の完全な家 来ですか?それとも見せかけでしょうか?
意味がよく分からないが、南九州の邪馬台国と魏の関係かな? もともと南九州の邪馬台国は
呉と近かったのでは。それが倭国の乱を通じて北九州を支配下においた、そのため魏に接近す
る政策をとった、魏もそこの事情は承知していて卑弥呼を優遇したということだろう。

235 :
隋書と魏志の比較したら良いのでは

236 :
>>233:日本海ルート論者
さらに例を示しましょう。
『魏略』西戎伝
大秦国…在安息・条支西大海之西。従安息界安谷城乗船、直截海西。遇風利二月到、風遅或一歳、無風或三歳
ローマに船で行く記事です。安息(レバノン近辺)の安谷城から船に乗り、西に真っ直ぐ行く。順風に恵まれれば
二ヶ月で、風が緩ければ或は1年、無風では或は3年(かかる)。
同じ距離でも風の条件で二ヶ月、1年、3年と所要時間は変わると言っています。
これを見ても距離を日数で表すなど馬鹿げていることが分かります。
魚豢も陳寿も日数で距離を表すことはしていません。

237 :
>>232さん
すみません、遅れました。
えと。まあ前提として、満州さんに比べた
ら全然あり得ると思うかな。
速度x時間=距離。
徒歩で3日=遠い。船で3日=かなり遠い。
徒歩と船の速度が感覚として共有できると
すれば、距離単位として活用できる。この
論理は誰もが共有できるから説明不要。
これを「距離単位ではない」とするなら、
ソレが何なのか、移動+αのαに何を想定す
るのか。それを提示する必要が生じる。そ
れができれば論は成立する。
>>232はその点を説明できていない訳です
が、まあ成立させられる。あえて、何論か
をさらさないなら、共同作業で行えば良い
し、個人で論をお持ちなら、比定地を明か
した方が効率的だと思いますよ。
何れにしても我々のやってることは、満州
さんよりは容易でしょう(笑)。だから、後
は論拠を示しつつ、提示していけば良いかと。

238 :
黒歯国 船行可1年至 これは距離を年で表しているね。

239 :
あらま。例示がある。
コレははかどりそうですね
というかまずお聞きしたいのですが、
あなたの主張はどれとどれなんでしょう?
それとも通りすがりの方という認識で宜し
いですか?
あと、何を目指せば良いのか、実はサッパ
リだったりします(笑)。
自分は論証?それとも反証?

240 :
>>199
あなたは「自分は出来る人間だ」と錯覚していませんか?
倭人伝を正しく読めば、「放射式」だとか「女王国≠邪馬台国」だとか「水行二十日、水行十日陸行一月は
距離を表す」だとか、倭地の「周旋可五千餘里≠周囲五千餘里ほど」だという珍説は出てこないのです。
南九州(宮崎、鹿児島)に邪馬台国はあり得ません。そこは狗奴国(熊本)の支配下の国なのです。

241 :
>>239 :日本海ルート論者
要するに、あなたの日本海ルート(魏使のルートか?)による邪馬台国比定は無駄だということです。
水行や陸行の日数を距離に換算することはできません。そもそも陳寿は日数で距離を示すような不合理な書き方
をしていません。三国志のどこにもその例はありません。単に所要日数として示しています。

242 :
>>
240
自爆コースまっしぐらの読み方をしているようだね。
私の読み方は、どれも有力な学者が主張していること、それを組み合わせただけ。
反論があるならそれをきちんと述べてみたら?

243 :
倭人伝には奴国の南にある狗奴国が卑弥呼の国と同一だろう、って書いてある。
そして、狗・卑という蔑字を当てて、中国様は正当な政府としては認めなかったという意思表示をしてる

244 :
行程と距離の区別もつけないで書いてくれてもな。

245 :
>>241さん
私は畿内説日本海ルート論者ですよ。
以後お見知り置きを(笑)。
自分は魏使伊都常駐=日程伝聞説です。
>水行や陸行の日数を距離に換算すること
>はできません。
果たしてそうでしょうか?自分はこの換算
を必要とはしませんが、否定はできません
ね。可能性を残しても良いと思いますよ。
wikiの「里」にこういう文があります。
>ただ、「里」は長い距離であるので、直
>接計測するのは困難である。そこで、1
>里歩くのにかかる大体の時間から、その
>時間に歩いた距離を1里と呼ぶようにな
>った。人が歩く速度は地形や道路の状態
>によって変わるので、様々な長さの里
>(36町里、40町里、48町里など)が存在
>することになるが、目的地までの里数だ
>けで所要時間がわかるという利点がある。
距離を知りたいのは魏人だけです。だから
自分は換算を必要としません。倭人は道順
と所要時間が分かっていれば生活に困りま
せん。
>>241さんと一致させるとすれば、自分も
実距離数は必要としないんです。大潮の周
期では割り切れない20と10。その比率2:1
だけで十分。日本海は冬場を除けば地中海
同様に干満差が少なく、しかも沖に出れば
西から東へと流れる対馬海流がありますか
らね。

246 :
「豿」熊虎之子也
「狗」本或作「豿」
高句麗
高豿麗
「涓奴部」「犬奴部」也

247 :
いまどきの発声だけど
第1声 juān 捐
http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flit/public/zh/c_onsetsu10/data/3714.html
第3声 quǎn 犬
http://el.minoh.osaka-u.ac.jp/flit/public/zh/c_onsetsu10/data/3715.html

248 :
>>238さん
ですです。距離単位ですよね。面白いのが
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又
有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千
餘里。又有裸國、K齒國復在其東南,船行
一年可至。
皆倭種は(渡海)千餘「里」。
侏儒國は(又有)四千餘「里」。
裸國、K齒國は船行一「年」。
自分は伝聞説だから、この違いは伝送者の
伝え方の違いと捉えても良いんですが、
ココで「里」が出てくるのが引っかかる。
投馬国経由邪馬台国まで「日」なのに?
ここね、速度単位の種別と読むと面白い。
*距離=速度x時間
つまり「早い船」「遅い船」みたいに。
*皆倭種&侏儒國=「里」=「渡海」
*裸國及びK齒國=「年」=「船行」
自分は>>183さんを南九州説と想定して
>>193を書いてるんですが、>>193の漢書
から考えると、南九州説もイイ。
つまり、
「船行」が仮にマレー半島までの経路のように「(とても遠い)沿岸沿い航路」との速
度単位を示してるとすれば、この航路は島
伝いの沖縄航路かも知れない(笑)。
「渡海」は「大潮待ちの潮流沿い渡海航路
(とても早い)」という速度単位とかね。
すると、伝聞でも里変換可能となる(笑)。

249 :
>>246さん(247)
どういうことですか?
247は全く同じに聞こえるけど
1声と3声だと違う。なんで1と3?
分からないけど興味が!

250 :
>>245 :日本海ルート論者
>自分は魏使伊都常駐=日程伝聞説です。
魏使の梯儁らは卑弥呼に会っています。それは下記の記事で明らかです。
正治元年,太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物
そして卑弥呼と会った場所は邪馬台国の卑弥呼の都にある居館です。その居館の様子が記述されています。
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
梯儁らは魏帝の命を受けて詔書、親魏倭王の印綬、下賜品を卑弥呼に渡すために来ていますが、倭の国々の国情を
具に調査しています。それが使節としての任務だからです。邪馬台国の卑弥呼の都に行かないでは任務は果たせま
せん。
そして実見したことを報告しています。卑弥呼を親魏倭王に叙したからには倭国と魏の交流が始まり、この後も魏
から使者が倭国に来たり、倭国からの使者が魏に行ったりするでしょうから嘘の報告やいい加減な報告はできませ
ん。嘘やいい加減な情報がバレたら罰を受けるか、少なくとも出世の道が閉ざされるでしょう。
なお、水行二十日、水行十日陸行一月は距離を表すものではないことは既に述べたとおりです。不彌国から邪馬台国
までの距離は千三百里(1里は約70m)とわかるように記述されているのですから水行二十日、水行十日陸行一月が
距離を表すものではないことが明白です。
さらに、魏使が伊都国に常駐などはあり得ません。
郡使往來常所駐 を誤読されていますね。
これは「郡の使者が往来する際に常に駐する所である」という意味であって、魏使が常駐する所ではありませんよ。

251 :
ふむ、日数と里数とが釣り合わないつてことは分かっているんだ。
そこで、日数を捨ててしまうからトンデモになってしまう。ご苦労さん。

252 :
>不彌国から邪馬台国までの距離は千三百里(1里は約70m)とわかるように記述されている
どこに記述されてんだアホ
捏造すんな
こういうやつは陳寿が引き算もできないと思い込んでるのか
行程記事が別々に書かれてるということは別ソースの元ネタであって、
差を引き算をしていいものではないから里数を記述してないんだろが

253 :
まず、>>250は女王国と邪馬台国の違いを考えていないね。それに、残り千三百だというのならば不彌國から投馬国まで何里、
投馬国から邪馬台国まで何里ってすぐでるだろ? 千三百を比率を考えて二つに分けるのは簡単だからな。
それなのに、投馬国までの里数が書いてない、おかしいって思わないのかね。


254 :
>>251
水行二十日、水行十日陸行一月については>>200に述べられていますね。
ガキの使いしかできない方や漢文を読めない方や政治や外交というものを知らない方には理解できないでしょうね。

255 :
>>252
>行程記事が別々に書かれてるということは別ソースの元ネタであって
>差を引き算をしていいものではないから里数を記述してないんだろが
「行程記事が別々に書かれてる」とはどういうことですか?
倭人在帶方東南大海之中から始まって自郡至女王国万二千餘里まで一連の記事ではないですか。
この一連の記事の中にあることですから引き算をすることは可能ですよ。
なお、「差を引き算」などと仰ってはいけませんね。引き算をした結果が差になるのですよ。

256 :
>>254
>まず、>>250は女王国と邪馬台国の違いを考えていないね。
女王国とは邪馬台国女王之所都ですよ。
あなたが考える女王国とは何ですか?それは倭人伝において定義されていますか?
>それなのに、投馬国までの里数が書いてない、おかしいって思わないのかね。
不彌国と投馬国は境を接していたのでしょう。同様に投馬国と邪馬台国も境を接していたあるいは
境界が相互に入り組んでいたのでしょう。つまり、これら三国の国境間距離はゼロですね。不彌国
から邪馬台国までの距離は千三百里ですから、投馬国の長さは千三百里だったと考えられますね。
水行二十日は投馬国の豪族集落を巡るに要した期間、水行十日陸行一月は邪馬台国の卑弥呼の都お
よび豪族集落を巡るに要した期間ですね。

257 :
「郡使往來常所駐」から中国の役人は何度も日本に来たと読み取れる
1回や2回では「常」とは言わない
海外出張に行ったら出張報告書を書くのは今も昔も同じ
魏使が伊都国滞在中に邪馬台国への行き方を倭人に聞いたため日数表示となった説も正しいだろうし、
梯儁や張政が邪馬台国まで行ってるって説も正しいだろう
伊都国に滞在中の役人が残した行程の詳細な記録と邪馬台国へ直行した場合の万二千里は明らかに別
直行した場合のルートが伊都国を経由したかどうかも確かでないしな
陳寿が引き算しなかった意図を読み取れって
ちなみに、女王国≠邪馬台国と距離は国境線までは両方ともトンデモ
末盧國や伊都国までの距離は中心地までを表してるのに、
邪馬台国までの距離は国境線までとするような一貫性のないことはしない
国境線までの距離を示すときは、相手国が敵国であったり疎遠な国であったりして
内情がわからずそこから先の距離を測ることができない場合のみ

258 :
>水行二十日は投馬国の豪族集落を巡るに要した期間、
>水行十日陸行一月は邪馬台国の卑弥呼の都および豪族集落を巡るに要した期間
また変なやつが現れたぞ
接待説と同じ次元の珍説だな
投馬国では島巡りでもしてたのか?

259 :
>>257
>「郡使往來常所駐」から中国の役人は何度も日本に来たと読み取れる
そのとおりですよ。但し、この郡使は魏が帯方郡を公孫淵から奪い返す前のものか、以後のものか定かでありませんね。
何れにしても、魏の使者として最初に来倭したのは梯儁らですから、その報告を最優先するでしょう。
直前まで公孫氏支配下にあった倭の地ですから、梯儁らは実地に詳細に調査する任務を帯びています。
>伊都国に滞在中の役人が残した行程の詳細な記録と邪馬台国へ直行した場合の万二千里は明らかに別
梯儁らがひたすら急いで邪馬台国へ直行したと考えるのは浅薄な見方です。上記したように、梯儁らは
倭の地の国情を実地に詳細に調査する任務を帯びていたのですから邪馬台国へ至る途上の国々も調査し
ながら、かつ、魏の威光を示しながら卑弥呼を親魏倭王に叙して後ろ盾となることを各国の豪族達に知
らしめつつ行ったのです。
>末盧國や伊都国までの距離は中心地までを表してるのに、
>邪馬台国までの距離は国境線までとするような一貫性のないことはしない
一大国から末盧国までは渡海距離ですね。海岸から海岸までの距離ですよ。国の中心から中心までの距離は示されていま
せんね。末盧國から伊都国までの距離五百里にしても中心地から中心地までの距離と断定できますか?

260 :
>>258
>また変なやつが現れたぞ
ガキの使いしかできない人から見れば私はは変なやつでしょうね。

261 :
里数行程記事はほとんど無名の魚豢が知り得るような情報源だから資料価値は低いな
重要な詔書の内容までも訂正されてるしな

262 :
水陸行計二ヶ月
九州内に収めるには不自然極まりない説を唱える他無く…
まあ九州がもっと南に伸びていればすんなり収まるんだが、現実は非情ですな

263 :
>>261
魚豢について記された文献が少ないので詳細は分からないが、魏に仕えた史学者であることは三国志の裴松之注
に記されている。魏の文官であるから魏の資料室にある資料を見ることが出来たと考えられる。
史官という地味な仕事だから無名というのはさほど重要なことではない。その無名ということを理由として書か
れていることの資料価値を低いと断じるのは愚かなことである。
倭人伝の記事を信用置けないものとしたい下心あっての書き込みであろうが、まことにくだらない。

264 :
>>262
また一人日数を距離に換算したい愚か者が出て来たな。モノを知らぬとは悲しいことである。

265 :
文系脳の計算方法
一万二千里+六十日=12,060日

266 :
>一大国から末盧国までは渡海距離ですね。海岸から海岸までの距離ですよ。国の中心から中心までの距離は示されていま
>せんね。末盧國から伊都国までの距離五百里にしても中心地から中心地までの距離と断定できますか?
屁理屈をこねくり回した結果、自滅してるな
各国間の距離とし記述されてる里数が中心地から中心地までの距離ではなく、
海岸から海岸までの距離あるいは国境から国境までの距離としてしまうと、
12000里から10700里を引いた残りが1300里とする考え方も成り立たなくなるな
里数の合計10700里にはそれぞれの国の東西間あるいは南北間の距離が含まれてないことになる
対馬国や一大国の大きさは書かれているが、その他の国もすべてを合計したら10700里より遥かに大きくなる
まあそれ以前に引き算するという考え方自体が無理がある
陳寿が引き算しなかった意図を読み取れって

267 :
見苦しいの一言に尽きるな

268 :
>>266
>各国間の距離とし記述されてる里数が中心地から中心地までの距離ではなく、
>海岸から海岸までの距離あるいは国境から国境までの距離としてしまうと、
>12000里から10700里を引いた残りが1300里とする考え方も成り立たなくなるな
そのとおりだ。だから不彌国で既に万二千餘里に達しており、その南に投馬国と邪馬台国が接している
という構図もあり得るのだ。
周旋可五千餘里だから卑弥呼の倭国は佐賀、福岡の範囲だな。投馬国は筑後川北岸〜西岸の筑紫平野部、
邪馬台国は筑後川南岸以南の筑後平野部だろ。

269 :
>>266
>>一大国から末盧国までは渡海距離ですね。海岸から海岸までの距離ですよ。国の中心から中心までの距離は示されていま
>>せんね。末盧國から伊都国までの距離五百里にしても中心地から中心地までの距離と断定できますか?
>屁理屈をこねくり回した結果、自滅してるな
あなたが引用した部分(>>で示した部分)は屁理屈ではないでしょ。
その部分に対する反論はありませんね。当然ですね。
>まあそれ以前に引き算するという考え方自体が無理がある
>陳寿が引き算しなかった意図を読み取れって
引き算をすることには無理はありませんよ。あなた以外の普通に理性的な人なら皆引き算をしますよ。
陳寿の意図は引き算をさせることですよ。
さらに言えば、不彌国以降の里数を書かなかったのは国が境を接していた(距離がゼロ)からと考えられますね.

270 :
>>266
>対馬国や一大国の大きさは書かれているが、その他の国もすべてを合計したら10700里より遥かに大きくなる
何だこれは?これを書いた奴の頭の配線はそうとう狂っているな。

271 :
>不彌国以降の里数を書かなかったのは...
里数を書かなかったのは投馬国である、
よって投馬国は女王国(邪馬台国)より南(おそらくは宮崎平野)にあったことになる。
女王国(邪馬台国)については、自郡至女王国万二千余里と里数を明記している。

272 :
痔漏のは全てが妄想だからなw
82からもう妄想歴10年近くなるんじゃないか

273 :
>陳寿の意図は引き算をさせることですよ。
笑ったわ
本気でこんなこと言ってるやつがいるとはな
不彌国までの距離は全部書いていたのに最後だけ読み手に引き算させるとはな
ナゾナゾかよ
で、引き算した結果、邪馬台国までの距離はあるときは1300里と言ったりあるときは0と言ったりどっちなんだよ

274 :
いやしかし、凄い台風だった。
ふと元寇を思い出すけど、
舞台は、ほぼ倭人伝に被る。
対馬、壱岐、博多と続く補給路が確保され
ていたら、歴史は変わっていただろうな。
なんてことはドーでもイイ(笑)
>>234さん
まず聞いた理由ですが、自分は畿内説です
けど、ここらの解釈は比定地関係なく共有
できるでしょ?だから勉強できるかなと。
ふむふむ。
親魏倭王とも合致させ易いですよね。大体
親魏って何だよって話ですし(笑)
別の意味じゃ魏倭奴王ぽいのじゃダメなの
かよとか。

275 :
>で、引き算した結果、邪馬台国までの距離はあるときは1300里と言ったりあるときは0と言ったりどっちなんだよ
引き算の結果、1300里というのは九州熊本説、
ゼロ里というのは九州福岡説、というか福岡県内にとどめるためには、あちこち道草してゼロにせざるを得ない事情あり。

276 :
熊本はなんかちいちゃな仿製鏡が出るな、もらったやつ

277 :
>というか福岡県内にとどめるためには、あちこち道草してゼロにせざるを得ない事情あり。
正直だな
人間正直じゃなきゃいかんよね

278 :
おお。なるほど。ふむふむ。
眠いのでさておき。難升米と帥升の宿題。
ちと広げて、大夫を整理してみる。
西周〜春秋戦国の身分(官位ではない)。
周王室および諸侯に仕える「小領主」。
卿>大夫>士。卿=大夫で重職(国政)経験。
盟主国=周:(君を称する)王>卿>大夫>士。
諸侯国:(君を代称できる)諸侯>大夫>士。
ややこしいけど西周の爵位(諸侯の定義)
順位は、公>候>伯(or叔)>子>男。
都市国家の首長=侯。特別な候=公。
(だから、諸国を治める人達=諸「侯」)
都市国家の衛星的小都市の長=伯(or叔)。
これらの一般成員=子or男。
例外:遠方の国々の首長(蔑称)=子。
*戦国時代には全てが諸侯の封号となる。
(だから、漢人の常識=伯子男も諸侯)
*周の宗法制度では、諸侯も大夫も世襲。
http://wapbaike.baidu.com/view/479293.htm?adapt=1&
(左上の図が分かりやすい)
*宗法制度=嫡長子相続。女子に相続権無し。

279 :
サービス豆知識
全遼備考
寧古塔舊無醫有之自周長卿始故滿人多有呼長卿為周大夫者 【 京師呼醫為大夫而寧古塔效之】
満州では医者のことを大夫と呼ぶ。

280 :
サービス豆知識 その2
2002年、百済の古都とされる風納戸城から「大夫」の銘のある土器が出土したそうである。
これまた卑弥呼の倭が百済とか任那であった証拠である。
というのは風納戸城は百済の古都とされているが、そこは任那だったからである。
この情報は以前一度書いたことがある。何の反応も無かったがw
大率を達率ともいう。百済の官であるが任那にもあった。

281 :
>>271
>里数を書かなかったのは投馬国である、(1)

里数が書かれていないということは不彌国と投馬国が接していた、あるいは距離が数十里以下だった
からでしょう。
>よって投馬国は女王国(邪馬台国)より南(おそらくは宮崎平野)にあったことになる。(2)
(1)からどうして(2)の結論が導けるのですか?

282 :
>>273
失礼ですが、あなたは風邪を引かないタイプのお方のようですね。
>不彌国までの距離は全部書いていたのに最後だけ読み手に引き算させるとはな
別におかしくはないでしょ。そういう書き方もあるのです。
単純な頭をお持ちの方には理解できないでしょうけどね。
>で、引き算した結果、邪馬台国までの距離はあるときは1300里と言ったりあるときは0と言ったりどっちなんだよ
私は「あるときは1300里と言ったりあるときは0と言ったり」していませんよ。

283 :
不彌国から邪馬台国までの里数を書かなかったのは、その部分の行程は倭人からの伝聞であったからだな。
倭人は里数を知らず、日数でしか表せなかった。

284 :
>>283
倭人伝をちゃんと読めるなら「その部分の行程は倭人からの伝聞であったからだな。」などとは言えないな。
魏使の梯儁らは邪馬台国まで行って卑弥呼に会っている。
ガキの使いではないのだ。直前まで公孫氏支配下にあった倭の地だ。司馬懿は公孫淵の縁者を皆殺しにした。
反乱の芽を摘む為だ。半島にも倭にも公孫氏の息のかかった者が居る筈だと見ていただろう。
したがって、梯儁らは倭の国情を詳細に調査し、倭の豪族達を確実に魏の味方とすることを任務の一つとして
いたに違いないのだ。
倭の大国である投馬国や邪馬台国に足を踏み入れずに帰るなどあり得ぬのだ。
普通の頭脳であればこれくらいの読みは出来るだろう。キミはもう少し勉強すべきだな。

285 :
>倭人は里数を知らず、日数でしか表せなかった
そもそも倭人伝に、このようなことは書かれていないぞ
後世、だれかが倭人を見下すために書いたであろうざれ

286 :
梯儁が日本へ赴くなら黄幢を授ける必要はない

287 :
伊都国と奴国も接していたのではないかな? 百里の間に別の国があったとでも?

288 :
>>280
倭面土国(ワミャタ)、邪馬台国(ジャマト)
はい、邪馬台は九州でした。残念賞

289 :
やはり最終的に行き着くところはこれだろうw
http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/kouyanomiya.jpg

290 :
俺、凄いことに気づいてしまった。
満州の新発見に匹敵するくらい凄いものだ。
倭面土国とは倭の水戸国のことなんだよ。つまり鹿島。
兎に角、鹿島・越・毛野とかは日本の歴史から抹殺されてしまってるからな

291 :
>>286
およよ。とんでもない初心者が来たぞ。

292 :
校尉梯儁より中郎将難升米のほうが名目上の位は上だ
この意味を考えるべき

293 :
>>287
>伊都国と奴国も接していたのではないかな? 百里の間に別の国があったとでも?
現在では雑木林などを切り拓いて宅地が作られたりしているので町や村が連なっているが、弥生時代では
集落の無い地帯がいくらでも在っただろう。伊都国の集落と奴国の集落も百里にわたってそのような無人
地帯で隔てられていた可能性が高い。百里の間に別の国があったのではないだろう。

294 :
>>292
チミは>>286を書いた者かな。
梯儁らが来倭したのは正始元年で、難升米らも同道していた可能性が高いが、この時に黄幢うんぬんの話は
出てないぞ。黄幢が出てくるのは正始六年のことだ。
其六年詔賜倭難升米 黄幢付郡假授 とあるだろ。

295 :
>>294
全然別人なんだが
それよりその程度のレスしかできんのか

296 :
そんな倭人伝を読めば一目瞭然なことww
それよりなぜ最初の倭への答礼使に中郎将より低い位の者の名しか出てこないか
その意味を考えてみろというておるのだ

297 :
>>281
>里数が書かれていないということは不彌国と投馬国が接していた...
その可能性も無いとはいえないでしょう。
しかし両国が接していて里数ゼロであったのなら、その直後に水行20日はいかにも不自然、日数もゼロであるべきでしょう。
>よって投馬国は女王国(邪馬台国)より南(おそらくは宮崎平野)にあったことになる。(2)
>(1)からどうして(2)の結論が導けるのですか?
>自女王国以北、其戸数道里可得略載、
この部分は重要です。
女王国以北は、「道里」を記載したと書いています。
地理・地図的な国々の並びを書いたのでなく、旅するための街道を書いたのです。
いい換えれば、東京から鹿児島まで新幹線のレールにそって書いたようなものです。
だから、途中に隙間があったとか、国々が接していたから省略したとか、
そのような車輪が脱線しかねない細切れの記述は有り得ないのです。

298 :
もっと言えば、なぜ難升米は卑弥呼に王印が届く前に魏の官を受けたのか
これは一つには皇帝にお目通りするには無位無官の蛮人ではまずいということがあるが
しかしそれだけではない
このあたりの記述は魏の朝廷内での確実性の高い記事であり
みな意味がある

299 :
この時代は、倭国も中国も分裂してた
敵の味方の敵は大歓迎だっただろう
それが魏が卑弥呼を歓迎した理由

300 :
イギリスのエリザベス女王陛下>>>>>>>日本の今上天皇陛下。 理解出来るかな?
文明国の国王・女王陛下>>>>>>>>野蛮国の皇帝・天皇陛下。 わかるかな?

301 :
>>285
隋書倭国伝には「夷人不知里數、但計以日。」とある
東夷の人は里数を知らない、ただ日を以って計っているという意味
隋書が書かれた時代にでさえ、倭人は里数を知らなかったのだから、
それより前の魏志の時代に倭人が里数を知らなかったのは当然

302 :
>>290
おめーはなかなかエエことに気付いたど。その調子で推理して行けや。
そしたらよ、おらの満州朝鮮説がまんざら冗談でもないと分かってくっど。
ヒントをやってもえーがの、ヒントをやれば自分で見つける楽しみがねーからやんねーど。
だどもおめーの言うとることは佐久間象山か誰かがすでに唱えたことだどw

303 :
>>296
>それよりなぜ最初の倭への答礼使に中郎将より低い位の者の名しか出てこないか
梯儁らを答礼使と見ているようでは三国志を読めていないな。
梯儁らは魏帝の詔書を携えた使節だ。卑弥呼を親魏倭王に叙するとする詔書を持って来たのだ。
たとえ梯儁の身分が低くとも皇帝の代理だ。卑弥呼以下その配下の者は、中郎将の難升米であろうと、
その任において梯儁より下位となるのだ。
そもそも、難升米は遠路はるばるご苦労さんということで中郎将に叙せられたが倭の使者にすぎぬ。そ
のような者と位の上下を比べても意味の無いことだ。

304 :
>>302
悪いね、漢江以南は倭国の勢力圏だったんだ
方形周溝墓があることで証明されてる
半島を一括りにしてる時点で間違い確定なんだ
どうだ、ヒントになったか?

305 :
>>301
東夷の人は里数を知らない・・・、
(しかし我々中華人は里数を良く知っており、倭国内の里数距離も承知している)という意味さ。
魏の時代でもそれは同じ、倭人伝を書いたのは倭人でなく、誇り高き中華の人々。当然倭地の里数も承知。
倭人が知らなかったから、魏人も知らなかったなんてありえぬ。

306 :
書いていない事を断定的に決めつける
九州脳の悪い癖

307 :
>>303
縄文人並みの馬鹿だなww
せっかくこれほどのヒントを与えているのに

308 :
>>305
だからー、不彌国から邪馬台国までの行程を里数ではなく日数で書いたのは、
倭人からの伝聞だろって言ってんだよ。

309 :
>>304
おめーはパカだのう(カラカラ)
書いとることがイミフだど(ケラケラ)
せっかくエエ線行っとると思ったのによ、
おめーのようなパカにはヒントはやんねーど(ゲラゲラ)

310 :
297
>>281
>>里数が書かれていないということは不彌国と投馬国が接していた...
>その可能性も無いとはいえないでしょう。
>しかし両国が接していて里数ゼロであったのなら、その直後に水行20日はいかにも不自然、日数もゼロであるべきでしょう。
そう、「その直後に水行20日はいかにも不自然」です。同様に、邪馬台国の水行十日陸行一月も極めて不自然です。
不彌国から邪馬台国までは千三百里(或はそれ以下)しかないのですからね。
したがって、この水行、陸行の日数は距離を表すものではないと考えられます。最も有りそうなのは、これは梯儁らの旅国記録
から採られた日数ではないかということです。投馬国で豪族の集落を巡るに要した水行の日数が二十日で、邪馬台国を巡るに要
した水行の日数が十日、陸行の日数が一月だったということです。
>自女王国以北、其戸数道里可得略載、
>この部分は重要です。
>女王国以北は、「道里」を記載したと書いています。
>地理・地図的な国々の並びを書いたのでなく、旅するための街道を書いたのです。
そのとおりでしょうね。女王国(邪馬台国)まで通った国が書かれています。

311 :
>>298
>もっと言えば、なぜ難升米は卑弥呼に王印が届く前に魏の官を受けたのか
>これは一つには皇帝にお目通りするには無位無官の蛮人ではまずいということがあるが
知ったかぶりでエラソ〜に。おめ〜もアホだの。
倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻
難升米は倭の大夫という官位の肩書きで行っている。皇帝に目通りするのに魏の官位など必要ではない。
>>299
安っぽい筋書きだ。

312 :
>>307
おまえは旧石器時代の落ちこぼれ並だな。
少しは纏まったレスをしろ。

313 :
コテちゃんと出せよ

314 :
魏志倭人伝の都市牛利とはだれのことか、長く疑問にも持っていたのですが、最近、都市牛利とは曽尸茂梨(ソシモリ)のことだと気付きました。
素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ) の所においでになった。とあるように、
都市牛利とは、五十猛神の頃だったのです。

315 :
そんな根性はないだろう
逃げる用意してのカキコだろ

316 :
>>310
投馬国には里数が書かれていません。
つまり投馬国は、郡から女王国までの街道筋に面しておらず、
不彌国からはるか南に飛び超えた先にあったと理解するほかありません。
また不彌国からの陸行里数が書いてないということは街道もなかったということなので、どこかから水行20日で達するほかなかったのでしょう。
次に、邪馬台国のまでの里数は不彌国から1300里で良いでしょう。
この場合の日数も、どこかっから水行10日+陸行30日だったのでしょう。
投馬国の水行20日と邪馬台国の水国10日+陸国30日をうまく説明できるのは、
共に郡からの日数であり、そのうち最初の水行10日は郡から末盧国まで共通の水行日数、
残りの投馬国まで水行10日が、末盧国〜投馬国の港までの船行、
邪馬台国まで陸行30日は、末盧国〜邪馬台国間の徒歩行・・、とするのが最も無理の少ない理解でしょう。

317 :
行程記事は、素直に読めばいいのさ。万二千里は行程記事ではない。それは意味が分からなければ
分からないままにしてもいい話だ。
水行二十日、水行十日陸行1月がいきなり帯方郡からだなんて読み方は、文章的に到底成立しない。
順次式に不彌國から水行二十日で投馬国と読むか、放射式に伊都国から水行二十日で投馬国と読むか、
二つに一つさ。

318 :
>>317
偏見を持たないで考えればそうなるよな
水行二十日、水行十日陸行1月で普通に進めば九州をはみ出ししまう
無理やり九州の中に収めるために、
12000里から10700里を引き算したり、2ヵ月接待を受けてたことにしたり、宣伝活動をしてたことにしたり
トンデモ理由をこじつけるしかないわな

319 :
>>317
順次式にしろ放射式にしろ、
佐賀平野から南へ、二十日、三十日かけてどこまで行くのか、その行く先がはっきりしない、最初にして最後の問題だな。
南は東の誤り、北は西の誤りだった、では理屈にならない。
それより、古代人には水行・陸行日数の相場が在ったのではないか
郡から末盧国までの行程を読めば、まあここはせいぜい10日だなと読者は読んだのではないか
当時のそのような前提・相場感があって(あったとすれば)、上の>316は良く成り立つ
純粋な漢文読みだけでは解決しない

320 :
>>316
>>310
>投馬国には里数が書かれていません。
>つまり投馬国は、郡から女王国までの街道筋に面しておらず、
>不彌国からはるか南に飛び超えた先にあったと理解するほかありません。
あなたは「地理・地図的な国々の並びを書いたのでなく、旅するための街道を書いたのです。」と
言っておられますが、では何故女王国(邪馬台国)への街道から外れた投馬国が記載されているの
でしょうか?
投馬国は北に不彌国と南に邪馬台国と境を接していればその距離はゼロに近いので最小百里で書か
れている行程記事では記載されないし、不彌国から邪馬台国までの距離が千三百里であればこの千
三百里が投馬国の長さと分かりますね。
水行1日千里で郡から末盧国までの1万里を水行十日とし、陸行一月を二千里として末盧国から邪
馬台国に至るのですか。そうすると投馬国は郡から二万里の彼方ですね。それで宮崎平野に収まる
のでしょうか?
行程記事の書き方からすれば距離(日数)が投馬国と邪馬台国で突然郡からのものになるのは違和
感がありますね。郡からの所要日数であれば「自郡至女王国万二千餘里」に続けて「水行十日陸行
一月」と書きそうなものですね。

321 :
>>318
ガキの使いしか出来ないおまえには理解不能だろうよ。ここに来るのは百年ほど勉強してからにしろ。

322 :
>>321
宣伝活動やりながら2ヵ月かけて邪馬台国まで行ったとか断言してるお前はどうしようもないバカでキチガイだ
妄想が現実だと思い込むのは統合失調の症状だ
通り魔事件起こす前に一生入院してろ

323 :
>>317
>行程記事は、素直に読めばいいのさ。万二千里は行程記事ではない。それは意味が分からなければ
>分からないままにしてもいい話だ。
そうではないでしょ。「自郡至女王国万二千餘里」は從郡至倭循海岸水行歴韓國 から始まる行程記事の
最後に置かれた記述です。「郡から女王国まで万二千餘里で至る」という締めの文章です。行程の総距
離を示したものです。

324 :
>>322
ははは。ガキのおまえには「おめ〜のかあさんで〜べ〜そ〜」程度のレスしかできんわな。
悔しかったらまともに纏まったレスをしろ。まあ、出来ないのは分かっているがな。

325 :
>>320
>投馬国は北に不彌国と南に邪馬台国と境を接していればその距離はゼロに近いので最小百里で書か
>れている行程記事では記載されないし、不彌国から邪馬台国までの距離が千三百里であればこの千
>三百里が投馬国の長さと分かりますね。
国土(領土)の長さ幅でなく、街道の長さで書かれているので、ゼロはあり得ませんね。
たとえば末盧国というより、末盧の宿、伊都の宿、不彌の宿、投馬の宿、邪馬台の宿(女王の都)と読み替えれば、分かりやすいでしょう。
なお末盧国から一万里といえば、九州島の西回り、又は東回りで、概ね宮崎平野までに要する日数に相当するでしょう。
地図上の距離は五千里程度でも、ともに黒潮に逆行する部分があり、日数的には荒唐無稽なものではないでしょう。
その距離感・日数感もあって、巨大古墳群を有する宮崎平野を投馬国に当てているのです。
>郡からの所要日数であれば「自郡至女王国万二千餘里」に続けて「水行十日陸行
>一月」と書きそうなものですね。
もともとそういう文章構成だったのではないでしょうか。
ただ文章はできるだけ短く、文字数は一字でも少なくしているようですから、
中締めに使う目的で「自郡至女王国万二千餘里」の部分だけを後ろにまわしたのでしょう。
あれこれ入れ替えてみましたが、丁寧に書くとどうしても文章が長くなります。
やはり、
「郡から末盧国までの行程を読めば、まあここはせいぜい10日だな」という古代人の相場感を織り込んで、
このような構文にしたと好意的に理解するほかないでしょう。
贅沢に慣れた現代人の感覚では理解できかねる構文もやむなしだったと思います。

326 :
>「自郡至女王国万二千餘里」は從郡至倭循海岸水行歴韓國 から始まる行程記事の
>最後に置かれた記述です。「郡から女王国まで万二千餘里で至る」という締めの文章です。行程の総距
> 離を示したものです。
ちがうな。從郡至倭は、邪馬台国までの記事で完結している。行程はそこで終わったのだ。
あとは道里の分からない各国を書いただけ。これは行程記事ではない。
郡から女王国に至るには万二千里というのは、次の風俗記事の冒頭部分だよ。そう読まなかったら、風俗
記事はどこに関して書いたものか不明ということになる。万二千里が行程記事の末尾だというのは誤読だ。

327 :
>>325
>たとえば末盧国というより、末盧の宿、伊都の宿、不彌の宿、投馬の宿、邪馬台の宿(女王の都)と読み替えれば、分かりやすいでしょう。
對海国から一大国へは「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」と渡海距離しか書かれていませんね。
一大国から末盧国へは「又渡一海千餘里至末盧國」とこれも渡海距離しか書かれていませんね。
少なくともこの二つの区間は海岸(の港)から海岸(の港)までの距離です。言い換えると、A国の境界からB国の境界までの距離になりますね。
一大国や末盧国の宿は海岸にあったのですかね?

328 :
海岸にあったのだろうよ。狗邪韓国だって北岸と書いてあるだろう。海岸にあったんだ。

329 :
アワビ捕ってたんだから海岸だわな

330 :
>>326
>ちがうな。從郡至倭は、邪馬台国までの記事で完結している。行程はそこで終わったのだ。
>あとは道里の分からない各国を書いただけ。これは行程記事ではない。
名前だけが書かれた国々の記事は行程ではありませんよ。女王の支配下の国々を列記した付属の文章です。
これは例えば伊都国の部分で 「世有王皆統屬女王國」などと書かれた付属の文章と同じです。つまり、同じ
行程記事に含まれるのです。
>郡から女王国に至るには万二千里というのは、次の風俗記事の冒頭部分だよ。そう読まなかったら、風俗
>記事はどこに関して書いたものか不明ということになる。万二千里が行程記事の末尾だというのは誤読だ。
風俗がどこのものであるかは倭人条の冒頭に「倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑」とあることから倭の
風俗であることは明白に分かりますよ。「郡から女王国に至るには万二千里」という前置きなど必要ありませ
ん。誤読しているのはあなたですね。

331 :
>>328, >>329
莫迦が涌いてきた。チミたちはもう寝なさい。

332 :
距離はA国の境界からB国の境界までと考える時点で常識がずれてる。
そういう解釈をする人は100人に1人いるかどうかだろう。

333 :
「自郡至女王國萬二千餘里」は>>326が言うように、次の
「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
計其道里、當在會稽、東治之東。」
に繋がるように書いてるんだね

334 :
>>272
>痔漏のは
こらこら、同じ考えの別人を俺と間違えるんじゃない。
>全てが妄想だからなw
其餘旁國遠絶不可得詳の意味が判らないのか?
不弥国―投馬國―邪馬台国の間には他の国は一つも無かったと言う事だぞ。
まともに進んで
水行二十日、水行十日陸行一月で途中に一つも国のない場所なんか無いだろ?
あるなら挙げてみろよ。
まぁ、言うだけ無駄だろうが。
>82から
82で最初は九州説畿内説とも佐賀伊都國説は皆無で
孤軍奮闘しているからと
畿内説の勘太郎氏は佐賀伊都國説の傍証を提示してくれたりした。
しかし今では賢い人も増えて佐賀伊都國説は20l以上になるかもしれない。
>もう妄想歴10年近くなるんじゃないか
千三百里で畿内まで行ったり、
水行陸行は郡起点と言うトンデモ(本人は真面目なつもりなのかもしれないが)
もいるが、
千三百里(狗邪韓國〜末盧國の4割程度の距離)に
水行二十日、水行十日陸行一月かかっているのだから
何らかの目的があった日数と考えるしかあるまい。
それは勅使がわざわざ倭まで来た目的を果たすための日数だ。
まぁ、言うだけ無駄だろうが。

335 :
確かに倭人伝の冒頭部分も同じような始まり方してるな

336 :
こういう空気イイなあ。
騒がしい店外、分煙室で一人チビチビと。
簡単に>>278宗法制度の私見。
母系社会があり次に宗法制度がソレを繋いだ。
邪馬台国時代の倭は母系社会=非宗法と思う。
でも隋書のように間違っていると蔑まず。
むしろ越との関連性をあえて示唆する。
中國失禮求之四夷猶信(中略)豈常也哉!
四夷から学ぶこともあろう。世は無常。
ダメだ寝る(笑)。

337 :
>>330
>倭の風俗であることは明白に分かりますよ。
倭全体のこととして読むと、その道里を計るに正に会稽東冶の東にあるべしがあまりにも不自然になる。
倭は対馬から始まる、いくらなんでも対馬が会稽の東ではね。

338 :
>>337
>倭全体のこととして読むと、その道里を計るに正に会稽東冶の東にあるべしがあまりにも不自然になる。
「計其道里當在會稽東冶之東」は倭人の黥面文身の習俗に関して、「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」
という故事を挙げて、そう言えば倭は計其道里當在會稽東冶之東なんだというふうに感想を述べているだけです。
「倭は対馬から始まる、いくらなんでも対馬が会稽の東ではね。」などと言うのは重箱の隅をつつくような論で、
陳寿はそんな些末なことを気にして書いてはいませんね。

339 :
陳寿の作文ではなかろう。行程記事を書いた使者の作文、つまり原資料にあった文章だと
思うよ。自ら旅していない陳寿がそんな作文をするとは思えない。
そして、故事から作った文章ならば、会稽はともかく東冶が出てくる理由はない。
それに、「道里を計るに正に」とあるように、単なる連想に基づく記載ではなく、ちゃんと
道里を検討して慎重に書いた文章であることが明らかだ。「些末なこと」などといってごま
かさざるを得ないというのは読み方が間違っているのだよ。

340 :
>>279,278 満州さん
サービス有難うございます。
大夫に飢えてる自分には本当有難い。
風納土城の大夫のは字が美しくない訳で、
評価はその取りようになるとは思いますが
全遼備考のソレと合わせて考えると、大夫
自称という手法は倭人独自の物で、あのタ
イミングに限って効果の高いものだったと
いう感を強くしますね。コレ雑感ですが。
当然ソコにはパワーバランスを想起すべき
と考えます。やはりなぜか夷の区別が前提
にあるんだろうと。いやコレも行程論から
来る思い込みかも知れませんが(笑)

341 :
>>336ダメだ。辿り着けず。断念=元の鞘。
試行1「宗法制度を知らない」
*下の展開予想に添って試行する。
◎性別不問の家長制度社会=同一家系連合
->何れ違う家系連合体と接する->対処は戦
争or政略婚の2手法(極論)->可能なら制服->
無理なら政略婚=道三と信長の関係同様、
原則「対等」+かりそめの平和->何れ決裂
->「上下」作る->当然安定->何れ別の上下有
連合と接する->政略婚->相続権で決裂->繰
り返す(私見ではココが卑弥呼時代)->一国
が抜きん出る->父系王統化->血が絶える->
血のストック、婿入り->安定->宗法拡大化。
*試行1失敗=卑弥呼->男王->台与=論拠に
ならず。スセリ=同。以下略=ダメだった。
*試行2「宗法制度に基づく共立」
宗法知る=故に卑弥呼(相続無し)共立->故
に男王->故に複乱->故に台与(->納得でき
る血の導入=男系創始譲る->抜きん出る)。
中國失禮求之四夷猶信(中略)豈常也哉!
倭=宗法過渡=「古き」より学ぶこともあろう。
*試行2=整合。
過渡期=非宗法と言えるだろうか。竹葬。
ps.故に大夫に戻る(笑)。

342 :
o征服(汗)

343 :
<倭人伝の推定一次原稿>
・・・この一次原稿なら、現代のわれわれでも迷うことはなかったであろう
東南陸行五百里、到伊都国、有千余戸。
東南至奴国、百里、有二万余戸。
東行至不弥国、百里、有千余家。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(投馬国なし)
南至邪馬壹国女王之所都、可七万余戸。
自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳、次有斯馬国、、、、、此女王境界所盡。
其南有狗奴国、男子為王、不属女王。
自郡至女王国万二千余里、水行十日、陸行一月。

<倭人伝の最終稿>
・・・洛陽まで存在を知られていた大国の投馬国にも、是非ふれたかった。そこで下記の如く追加挿入し、修正したのであろう
東南陸行五百里、到伊都国、有千余戸。
東南至奴国、百里、有二万余戸。
東行至不弥国、百里、有千余家。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸 ( ← ここに投馬国関係の行を追加挿入)
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日、陸行一月、可七万余戸 ( ← 上に合わせ、うしろから 水行十日、陸行一月 を繰り上げ挿入)
自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳、次有斯馬国、、、、、此女王境界所盡。
其南有狗奴国、男子為王、不属女王。
自郡至女王国万二千余里。 ( ← この行をもって、行程記事の締めとした)。

344 :
>>343
妄想
チラシの裏にでも書いとけ

345 :
>>343
>洛陽まで存在を知られていた大国の投馬国にも、是非ふれたかった。
ピーポー、ピーポー、ピーポー
気がふれてる
脳外科だな

346 :
おおせの割には、詳しく読んでくれましたか。
ありがたいことです。

347 :
>>346
満州よりマシ

348 :
確かにソレだったら迷わない。
切り返しもイイ(笑)。
まあ九州説はコレだけ各論あるし、
某国比定とか大差あるし、
互いに長短あると思うんだよなあ。
フト思ったけど、応神の妃は仲姫か。
偶然にしては出来過ぎ。

349 :
>>348 ルート氏
>応神の妃は仲姫か。
今で言えば、>>7 ちゅう姫ですな。

350 :
九州説は時間が経てば経つほど望みが無くなっているのだから赤っ恥をかく前にさっさとあきらめろ




早く畿内説を認めた方が傷は浅くて済むぞw

351 :
○さん
軽く言うもんなあ(汗)。
でも、仲姫はあり得るのかも知れない。
まあ自説多少崩れるけどソレもイイ?
いや多少どころじゃないか。
危ない危ない(笑)。

352 :
>>339
>陳寿の作文ではなかろう。行程記事を書いた使者の作文、つまり原資料にあった文章だと
>思うよ。自ら旅していない陳寿がそんな作文をするとは思えない。
陳寿は自ら倭国に旅してはいないが、資料を調べて倭のことを書いたのだ。史官でもあるから故事来歴
に詳しい。倭人の黥面文身の習俗についての報告があれば「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之
害」に結びつけて書く事も出来たであろう。むしろ、魏の使節団にそのような故事の知識があって作文
したかという事の方が怪しい。陳寿自身は蜀から魏に移った人間で、旅の経験もあり、地理に疎いとは
考えられない。使者の報告資料から「計其道里當在會稽東冶(治)之東」と推定することは出来たであ
ろう。

353 :
339
>そして、故事から作った文章ならば、会稽はともかく東冶が出てくる理由はない。
東冶は東治が正しい。夏后少康之子封於會稽の故事からすれば会稽東治でなければ辻褄が合わない。
>それに、「道里を計るに正に」とあるように、単なる連想に基づく記載ではなく、ちゃんと
>道里を検討して慎重に書いた文章であることが明らかだ。「些末なこと」などといってごま
>かさざるを得ないというのは読み方が間違っているのだよ。
>>338は「単なる連想に基づく記載」などとは言ってはいないよ。邪馬台国までの「道里から
計れば 會稽東冶(治)の東にある」という文を踏まえての話だからね。
倭人の「黥面文身の習俗」を「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」と結びつけて論じ
るに際して「邪馬台国は會稽東冶(治)の東にある」ではないか と書いていると言っているの
だ。
だから、「対馬も倭だから「會稽東冶(治)の東」ではおかしい」と言うのは的外れだという訳
なのだ。

354 :
穂積臣の祖の鬱色雄命の妹の鬱色謎命、彼女こそ卑弥呼だ。

355 :
>東冶は東治が正しい。夏后少康之子封於會稽の故事からすれば会稽東治でなければ辻褄が合わない。
東治が正しいという理由は? その東治の意味は?

356 :
○さん
>>351のは半分冗談半分真面目。
どうもここの系譜は二重の血固めに見えて
仕方がないもんですから、各論に相当影響
する気がしちゃうんですよね。
仮に、自分ので整合させるなら、仲哀を九
州系統にする。神功は息長の大和系と読み
ます。コレ神武を歴史(大和)の始めと読ん
での帰結。景行、成務までは大和系。仲姫
の系譜を二重の血固めと読めば仲哀が九州
系。高天原系素戔嗚の男系というかな。
これは理論上の試行なんだけど、そもそも
仲(哀)があるのに気づく訳です(笑)。
なぜか整合する訳ですよ。不思議だよなあ。

357 :
補足。
上のは循環論法だから整合してる訳ではな
いんですよ。自分は仲哀に日向三代を付け
足す手法だから、万世一系論とはそもそも
対立してるんです。つまり成務(大和)、仲
哀(九州)と別系統を元々想定している。
王統を継ぎ足すには説得力を増す為に、二
重の血固めが良く使われるから、きっとや
ってるだろうと曖昧に考えている。
で、仲哀は漢風諡号で要は後付けだから、
これまで仲に着目してなかった訳です。
で、着目してみた。整合する。あれ?
という感じ(笑)。

358 :
散らかしついでに連投したり(笑)。
整合するように作られていると言う解釈も
あると思いますけど、自分は取りません。
継ぎ足しはあっても、コスト考えると大王
譜の幹の部分は創作ではないと思う。武士
のとはそもそも根本が違いますからねえ。
で、仲姫に戻ればコレは海で繋がる系譜と
も読める。その中間の出雲は残念ですが蚊
帳の外です。これも面白い。
更に、地理情報は疑わしいから、いっそ宗
族の統合情報のみに絞ってみてみれば、満
州さんには悪いけど理論上応神までは九州
王朝説は成立できるかなあと(笑)。
ただそうなるとイソトデは何者か?
となりますね。

359 :
>>358 :日本海ルート論者氏
「金印シンポジウムin志賀島」に参加して来ました。
大御所「大谷光男」先生も86歳。多くは期待できません。
大宰府天満宮の「味酒安則」氏の「阿曇族と大宰府天満宮」は
非常に興味深かった。
>理論上応神までは九州 王朝説は成立できるかなあと(笑)。
天智、天武まで九州ですよ!

360 :
>天智、天武まで九州ですよ!
もお(笑)。各国調整とか諸々のコストを考
えるとソコまではお供できません(笑)
ところで興味深いとはどんな話で?

361 :
>>360 日本海ルート論者氏
古代は朝廷が外国との交易を独占して「和市」と呼ばれ、鴻臚館で行われていた。
本来管理すべき大宰府の役人達が直接商人と取引を始め、この制度を崩した。
大宰府天満宮は阿曇族を使って、長江付近から呉服、陶磁器などを交易した。
そして、天満宮内に総漆造りの「志賀社」祭神:志賀大明神を建てている。
やはり阿曇族は、「自謂太伯之後」かな?

362 :
いや〜面白いですね〜。
邪馬台国がドコだろうとやはり監視者は必
要ですね。太宰府の連中には問題あります
けど、締め付けの甘い朝廷にその主因があ
るなあ。安曇族は自由、勿論不問(笑)。
>やはり阿曇族は、「自謂太伯之後」かな?
また気になることを書き残しますね。
それは、どういうことで?

363 :
大和の王宮が畿内に移ったのは飛鳥浄御原宮からだ。
それまでは、大宰府に天皇(そう呼ばれていたわけではないが)がいた。
天武が初めての大和の大王ということだ。

364 :
>>362 日本海ルート論者さん
大宰府政庁はそれまで宗像氏を主に使っていたが、
呉との交易には阿曇氏を利用している。
阿曇族が呉との交流が強かった為でしょう。
渡海技術もありますけどね・・・
天満宮の伝承は味酒氏説とは少し違いますが、
宗像から阿曇に代わった事は間違いない。

365 :
<<363
おっ、嬉しいねえ。
話の分かる人がいるぞ〜!

366 :
>>363さん
ああ〜、>>360のは失言ですよ。
失礼しました。
>>364 ○さん
面白いなあ。
呉との交易=安曇指名か。
安曇氏の起源に遡れば、越関連はある気が
するし、論拠の一つと言えるかもですね。
技術と政治が絡んでも、どうかな。
あえて安曇にする理由は「自謂太伯之後」
があるのかもですよ。
風説にせよ、いやむしろそういう風説があ
ったから翰苑が保管されてたのかも?

367 :
ああ。風説のトコ。
「自謂太伯之後」は魏略だけど、コレはあ
り得ると思いますね。魏略はゴシップと思
っていて要は東スポでの一面、
「猪木、総理大臣指名
か!」
と同じと思うけど(笑)。
だからこそ、魏略で書け、
倭人伝では書けなかったのかも。
そう読むと「夏后少康之子封於會稽」は
非常に安全でお堅い。信頼性を下げない。
さておき。
当時「自謂太伯之後」の主が安曇という風
説があったけど、その論証は当然難しい。
そこで翰苑が保管されたのかもナと。
そういう意味です(笑)。
ps.
今でこそ猪木は国会議員になってますけど
ね。まあ、あり得ないですね(笑)

368 :
>>367 ルート氏
>「自謂太伯之後」は魏略だけど
陳寿は、「自謂太伯之後」は書きたくないでしょう。
張華が睨んでるし・・・
そう考えると、卑弥呼は反委奴国、反阿曇勢力でしょうね。

369 :
>>366
この時代の韓半島南部は西側に馬韓、中央南に弁韓、東側に辰韓があった。
真蕃郡が置かれると、倭国への交易ルートも盛んになっていった。
釜山港から大邸ー大田ー天安ー水原からソウルまで。
ソウルから原州ー堤川ー安東ー永川ー慶州ー釜山が経済ルート。
従って、弁韓・辰韓はルート上にあり、馬韓よりも早く開けている。
馬子は、阿曇連を初代「法頭」に任命している。
百済仏教と新羅仏教との調和を考えたのだろう。
阿曇族は「新羅弥勒信仰」と言われている。
呉の滅亡が早い。早く来た方がイイ場所(弁辰)をとる。
阿曇族は、越より呉の可能性が高いと思う。
一歩遅れて来た越人が日本海を東北へ・・・かな?

370 :
>>368 ○さん
周の美化が進んだ後世では、
弟に王を譲った(とされる)
長子太伯の美化も進んでますからねえ。
というか宗法体制なんて後付けで、太伯の
頃には男系長子相続が本当にあったか疑問
ですけどね。そう編纂者が思っていても、
太伯之後とは書けないでしょうね(笑)
>そう考えると
旧倭奴が正統、長子との捉えですかね?
まあ伝えたのは難升米でしょうけど。
あと旧倭奴は華夏で言う処の中原だった筈
だけど北九州説でも南北問題があるのかな。

371 :
>>370 ルート氏
>まあ伝えたのは難升米でしょうけど。
そうすると、貢物の貧弱さを考えないとね。
反委奴国となると、有明海側か遠賀川側しか残ってない。
ルート説の対馬人は、広形銅矛出土の委奴勢で否定される。

372 :
>>369 ○さん
韓四郡ですね。○さんのルートを今、マッ
プの衛星写真で追ったけど山あい。
というか真番郡の置かれた地には平地が多
く、置かれなかったのは山あい。
呉は句呉ですね。先んじて、弁韓。
コロニーでも作りましたかね。
で、越は日本海を東北か〜。出雲もか。
遅れた出雲は辰韓さんと仲良くとか?
遊びにしても、さもありなんとか。

373 :
>>372 ルート66氏
>コロニーでも作りましたかね。
辰韓の住人の古老は、秦時代に逃げて来た中国人達で
馬韓に土地をもらって住んでいるということだそうな。
コロニーは、辰韓と真蕃経由の燕の中国商人が作った。
コロニーは、十五の城郭都市が建設されたとなっている。
 (岡田英弘)

374 :
>>371 ○さん
反委奴=有明海or遠賀川側か。
貢物の脆弱さは倭奴のフライングと。
ふむ〜、面白い。さもありなん。
ルート説はアレですよ。
対馬は農地不足だから依存前提です。
半島依存ではないから倭奴と一体。勿論主
従の従側。ただ、この人達は地勢上、鋭敏
な国際感覚がある。倭地を守るには命を捨
てる、中央が愚かなら半島を刺激しない程
度に仲良くする。コレ連続性がある。列島
の門番って言えば良いかな。と、まあ銅矛
をこの説明で回避できれば良いけど(笑)。
あと貢物は価値次第と思います。国際感覚
のある優秀な商人でもあるから、生口は交
易で手に入れた漢人だと思ってます。
量より質、価値はタイミングってヤツです。

375 :
>>355
「紹煕本」「紹興本」に會稽東治之東とあるだろ。

376 :
会稽って南京周辺のこと?
それとも連雲港北東にある会稽山の周辺のこと?

377 :
>>374 日本海ルート論者氏
説的に嫌いな安本美典氏も、漢委奴王統は対馬避難説ですね。
対馬侵略ならルート説も生き残りますが、春日市の山あいと違って
墓から出土してますから、里帰りかも?
どちらにせよ、交易の首根っこを押さえているのはセンス抜群。
旧唐書「倭國者、古倭奴國也」

378 :
>>373 ○さん
いや陸人の秦人のコロニーではなく、海人
の呉人のコロニーですよ〜
コレ遊びが入ってますからね(笑)。
ああ>>374の中央ってのは朝廷とか幕府の
ことで、倭奴は愚かじゃないです。とにか
く宗族での上下はあっても一体ですから。
すからね。

379 :
>>378 日本海ルート論者氏
岡田氏の著書では、弁辰には倭人達も混じって生活し、
弁辰人にも黥面文身してる人がいる。となってますね。
人種的にあまり差がなかったのかも?
言語だけで。

380 :
>>378 ルートさん
今日は金印シンポで朝早くから出掛けたので、寝ます。
明日は、太宰府天満宮内の「志賀社」の撮影に行きます。
また!

381 :
>>377 ○さん
対馬論はシンプルですよ。
米が列島から半島へ行く過程で、北九州か
ら対馬に住み着いた連中がいます。彼らは
北九州と結びついてる。故郷は列島です。
倭奴とは宗族が同じですが対馬は弟分。
兄貴は倭奴の都会で住んでる。
銅矛が遅くまで出続け、神社が多くあるか
ら、当然倭奴とは強い結び付きがある。
銅矛末期は都会ではやれないことを思い切
りやっただけじゃないかなあ。避難と言え
ば避難でしょうけど国譲りしたって出雲人
は残っただろうし、祭祀も多少残った。そ
れと同じかと(笑)。

382 :
○さん
>>379
弁辰の祖とは繋がってるかもですね(笑)
(帥升はご存知の通り、考え中)
まあ倭人主体のコロニーは公孫氏時代には
無かったと思いますよ〜。
魏晋で半島内の倭人は増えたでしょうね。
でも、コロニーは作らないかな〜。住み着
かなくても利益を増やす方法はありますか
らね。対馬人だってワザワザ守ってくれる
海を捨てる程、生活に困ってはいないかと〜
ま。何にせよ魏としては「半島は韓」かな。
>>380
楽しくて時間を忘れた。自分も寝ます〜

383 :
>>376さん
今の南京とか上海より南ですよ。
紹興本や紹興酒の「紹興市」。
その南東〜南の一連の山峰が「会稽山」。
周の前の夏初代の禹が会盟をし没した地。
「会稽郡」は会稽山を含みますので、目安
になると思います。

384 :
>>376
単にそれだけの理由ではだめだろう。後漢書は、倭人伝の会稽東治に相当する部分を
会稽東冶と書いている。晋書も同様だ。してみると、東治と東冶、いずれかが誤記と
いうことになる。東冶は有名な地名だが、東治という地名はない。
東冶が正しいということになろう。

385 :
>>384
福建省に東冶という地名があるが、これは永安三年(260年)以降は会稽郡に属していない。
陳寿が三国志を執筆した頃には會稽郡に東冶はなかったのである。
夏后少康之子が會稽に封じられてこの東の一帯を治めたことを指して會稽東治と言っている。
つまり、東治は地名ではなく、會稽東治之東とは「會稽の東」と同義である。

386 :
山東省に安東という地名がって、ここが安東将軍倭の五王の本拠地ではないかと目される。
倭国は、高句麗を支配していたのだ。

387 :
會稽東治が地名でない以上、その東ということはあり得ない。

388 :
後の世の餘姚郡 ?縣 奉化縣 慈溪縣 翁山縣
これの治所の餘姚郡餘姚縣のを冶縣と称して
會稽郡の下におき會稽東部都尉をおいて治めていた時期があったようだ
すなはち、會稽東部都尉治で、支配領域の省略形のが「會稽東治」
支配の拠点が會稽「東冶縣」

389 :
?縣のは鄮縣

390 :
たぶんこれのはおれのオリジナルならむ
ぱくったら卒論程度なら通るぢゃろうて。

391 :
論文書く前に国語の勉強だ。

392 :
大統領という言葉を作ったのは日本人だけ
ど、これは良い造語だと思う。既定概念に
ないものを説明するのはかなり難しい。
魏使は漢語諸々を使って、倭地を説明。
*倭地の官位と身分(結構強引)
「女王>官名≧大夫≧大人>下戸>奴婢≒生口」
*官名
[3国]卑狗>卑奴母離
[伊都]爾支>泄謨觚≒柄渠觚
[奴國]兕馬觚>卑奴母離
[不彌]多模>卑奴母離
[投馬]彌彌>彌彌那利
[邪馬壹]伊支馬>彌馬升>彌馬獲支>奴佳鞮
大人下戸奴婢は漢語。官名は倭語。
そして大夫は周語(笑)。生口は漢語(捕虜)。
ただ男女生口という記載は通常あり得ない
ので難解。
あと女王も中国ではあり得ない(一例のみ)
(女王で検索してたら曹丕の皇后、郭女王
がいた。名前をつけた親が凄い)

393 :
東冶は前スレでやったばかりだけど
卒論ノリなら話は別。
三国志と後漢書の音韻比較で迫ったら
面白いと思う。
まあ自分は上古音とかサッパリなんで
解法しか示せないけど(笑)
まあ手間かかるからまた今度〜

394 :
>男女生口という記載は通常あり得ない
そんなことはない。
元史/卷035
男女生口二十二人及它寶貨無算
ネット史にもあったように思う。
生口とは捕虜とか奴婢だけではなく一般人民も指す。

395 :
>>392
>あと女王も中国ではあり得ない(一例のみ)
これはひどい。
中国では女王をあまり見かけないからわざわざ女王と
書いていることぐらい想像できないのかね。

396 :
>>394 満州さん
ほほ〜、元史にあるのかあ。
三国志以前の用法では
捕虜と考えて良い気がしてます。
後漢書も同じような。
元史は調べてみます。
ありがとうございます

397 :
>>395さん
魏人からすれば珍しかったでしょう。
女王というか女帝は武則天だけで母后は
母后ですし、武則天も後世の唐だし、
魏人の感覚からは驚きだったかと。
語としての女王は郭女王のようにあっても
実際の女王は当時の中国ではあり得ない。
だから女王という名前(いみな)がついてい
て権勢を振るっても郭女王は女王になれない。
その点、日本には女性天皇が複数いる。
アメリカと日本が違うように、
中国と日本も違う。その文化差を一つ一つ
押さえる以外に他意はありません。

398 :
>>394のをwikisourceから
http://zh.wikisource.org/wiki/元史/卷035
辛巳,禦史臺臣劾奏:「燕南廉訪使蔔咱
兒,前為閩海廉訪使,受贓計鈔二萬二千余
錠、金五百余兩、銀三千余兩、男女生口二
十二人及它寶貨無算,雖遇赦原,乞追奪制
命,籍沒流竄。」詔如所言,仍暴其罪示天
下。
(元8代目=文宗帝の頃)(どうも御史台という
百官の監察官が汚職や不正を暴きまくって
る文脈上にある。禦史臺臣劾奏の後に金何
万両等の財貨が並ぶ文章が繰り返される)
[適当な意訳]辛巳。御史台、臣劾を奏す。
「燕南廉訪使の蔔咱兒(名前??)。前閩海
廉訪使を為す。受け取った盗品の計、鈔二
萬二千余錠、金五百万余両、銀三千余両、
【男女生口二十二人】、とその宝貨は数え切れず。恩赦(?)といえど追奪令を出し流
罪として下さいますよう」所言の如く詔し
その罪を暴いて天下に示す。
ps.
男女を性的職能者の隠語とする説は否定で
きない(笑)。ただ帥升韓人説を保留して試
行中の今は帥升の160人にも整合させたい。
そこで漢人捕虜。コレなら半島調達も渡海
も可。漂流民返還含みも悪くないかな〜。

399 :
生口ではないが、こういう例ならいくらでもある。
陳書/卷35
迪攻陷其城,虜其男女萬餘口。
資治通鑑/卷198
得城中男女萬餘口
資治通鑑/卷176
突厥蘇尼部男女萬餘口降隋。
晉書/卷114
率男女萬五千口出城
百戰奇略/卷03
得虜裨將十餘人,男女萬五千餘口,畜數十百萬。
十六國春秋/卷13
殺鮮卑王公以下三千餘人,以男女萬餘口為軍賞。
隋書/卷53
發五州兵,入掠其國,殺男女萬餘口
隋書/卷51
都速等歸染幹,前後至者男女萬餘口
舊唐書/卷143
拔其所部兵一千五百人、男女萬余口直趨京師

400 :
訂正。(脱線してるけど)
>雖遇赦原,乞追奪制命,籍沒流竄。
赦原=赦限らしいです。
http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/kuwaharagun/rukei_1.htm
許される限界距離なのかな
よくわからんが、なんだか勉強になる。。

401 :2013/10/21
>>399 満州さん
ソレは一応知ってはいます。
けど。よくわからん(笑)。
ソレは戸口というか単位だと思ったりも
して。〜戸とか〜家とかと同じとか?
ただ戦争に絡むのが多い?
虜とか降とか殺とか。
まあアレです。とにかく助かります(笑)
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