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邪馬台国畿内説 Part3


1 :2013/10/16 〜 最終レス :2013/10/22
邪馬台国ド本命の畿内説のスレです
王者の貫録を見せつけてやりましょう
前スレ
邪馬台国畿内説 Part2
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1380115851/

2 :
1000 :日本@名無史さん:2013/10/16(水) 16:28:39.04
詐欺がバレたっていうけどバレてないよなあ
なあバレてないよなあ
おれ絶対にバレてないぞ
バレてないんだからもう
うわ〜〜ん

3 :
あげとく

4 :
また九州アワビ男が恥を晒してますね

5 :
邪馬台国は畿内ではないと考えている
畿内だと魏の使者は来れないと思うから
その時代はまだ北九州、山陰、山陽、瀬戸内を畿内の勢力は支配下に置いていない

6 :
>>5
>その時代はまだ北九州、山陰、山陽、瀬戸内を畿内の勢力は支配下に置いていない
「共立一女子為王」なんだから、支配というような強権的なイメージは持たなくていいんじゃない?
ところで、アワビ男って何?

7 :
>>6
そういう連合のようなものの方がずっとイメージしにくい。

8 :
妻木晩田と青谷上寺地との間には明らかな文化的断裂があった。
そして、女王国東渡海千餘里復有国皆倭種
これは何を意味してるんだろうね?w

9 :
銅鐸が九州から中部まで出土してる位だし、イメージし易いじゃん。

10 :
もし邪馬台国連合が西日本一帯を支配下に置いているほどの大国なら
例え狗奴国が強国だったとしても朝見までして魏から軍事支援を乞うことはない

11 :
日本の天皇、総理大臣、上場企業の社長どれも日本人にしかわかりにくいと思うよ

12 :
伯耆国に高千穂、日向浦、久米、伊勢、宮内、伊那佐(出雲)の地名が揃ってるんだな

13 :
畿内説には、やっぱりいろいろ問題が多い。
まず、突然、出来たような遺跡を邪馬台国にしなくてはならないこと。
その突然できたものが、九州の壱岐や対馬まで支配していることを
説明しなくてはならないこと。
大陸との交流がほとんど見られなかった近畿地方の国が、大陸の情勢に
通じていて、公孫氏が滅ぶとすぐに使者を送ったりするのも不自然。
だいたい、近畿地方の国が、大陸への航海に通じており、狗邪韓国を
自国の領土のように往来しているのもおかしい。

14 :
突然って何が突然なの?

15 :
519 :日本@名無史さん:2013/10/12(土) 11:23:11.60
纏向でアワビの潜水漁ができる、と言いたいのが畿内説。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1380797513/519
こいつが前スレ後半を荒らしてたから九州アワビ男と呼ばれるようになった

16 :
遺跡が突然見つかったとしてもそこから分かる歴史は突然ではない

17 :
何人かをまとめて九州アワビ男と名づけてる気がする
ま、ここに出入するのは畿内信者だけではないからな

18 :
畿内説って巻向遺跡以外に何もないでしょ
卑弥呼も倭の五王も大和王権には知られてなかった(日本書紀に書いてない)のに、なんで畿内説が成立するのか

19 :
倭国の首都は東海から奈良盆地へと遷都されてる
卑弥呼の時代の首都がどちらだったのかは不明だが、倭人伝に邪馬壹國として記されてるのは東海だろう

20 :
>>18
その理屈では勿論九州説も成立する訳でもないけどw

21 :
>>13
>まず、突然、出来たような遺跡を邪馬台国にしなくてはならないこと。
纏向の事かな?(笑)
その突然に意味がある訳だ。
旧来からの自然発生集落遺跡と違い、広域倭国黎明期を考えた際、その王権の中心として最も相応しいものだから
君の言う「突然」は重要なキーワードなんだ。
>その突然できたものが、九州の壱岐や対馬まで支配していることを説明しなくてはならないこと。
誰一人、「支配していた」とは言っていないが。何説であれ、「共立一女子為王」に強権支配や軍事制圧を主張するのは少数だろう。
思うに、勝手に「支配していた」という前提を設けた、幼稚なミスリードという以外に無いなあ。

22 :
アワビ男はひとりだけ。
でないと、九州説の平均水準が低すぎて不合理である。
異常に知能の低い人が一人いる。これが合理的推論だ。

23 :
諸国の市を仕切る大倭が大和の前身だろう。
勿論奈良盆地北東部辺りを指す。

24 :
>>20
成立するよ
邪馬台国ができる前の倭国大乱で敗退して近畿に逃れて来たのが神武の大和王権だ
よって、近畿のやまと王権は以降の九州の状況(卑弥呼の魏への遣使とか倭の五王とか)を知らない
巻向はニギハヤヒや神武の初期の遺構だろう

25 :
「近畿説は、だろー、だろー、ばかり。だろー運転だね。今に事故で死ぬよ。 」
と言ったうすばかは、それが九州説にしか該当しない罵倒である事実を知らない。

26 :
九州説作り話乙

27 :
>>21
突然できたと言っても、自然に出来たわけじゃない。
誰かが作ったわけ。その誰かが問題だな。
また、何かに憑かれて作ったわけでもない。
リーダーシップを取るものがいなくてはならない。それは誰だ。
いろいろと問題はあるのだよ。
各国には「官」が置かれている。これは普通、支配の体制を意味する。
また、伊都国については「世有王、皆統屬女王國」と書かれている。
さらに、「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」ともある。
一大率は、明らかに支配の目的で置かれている。

28 :
遷都すれば人と一緒に物資も流れこむ
纏向に流れ混んでる物資の主力は東海のもの
即ち東海から纏向へと遷都されたと言うこと

29 :
>何かに憑かれて作ったわけでもない。
笑ったw

30 :
アワビじゃなくて冬野菜だったら
ここまで言われなかったw

31 :
ネーミングがいいなw

32 :
まあ、アワビも全く無関係というわけじゃないかもしれない。
倭人伝に、倭人の男子は大人も子供も皆、黥面文身と書かれている。
これは元々海洋民族というか、海にもぐる人の風習。
伊須氣余理比賣の驚きは、大和にこの風習がないことを示している。

33 :
南は藤原頼りだからなw

34 :
>>24
だが九州に邪馬台国があったという、証明出来る物が何もないけど?
誰が卑弥呼で何処に宮を持って墓は何処なんだ?

35 :
例のアワビ男は魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝だと勘違いしてたようだな
倭人の風習=邪馬台国住人の風習と思い込んでしまった

36 :
>「共立一女子為王」に強権支配や軍事制圧を主張するのは少数だろう。
女王国が伊都国に一大率をおいて諸国を検察し、畏憚させていたことを忘れているのかな。

37 :
>倭人の風習=邪馬台国住人の風習と思い込んでしまった
倭人伝が「男子大小となく」以下に書いているのは主に女王国の風習だよ。
その証拠に、鏃に銅鏃は出てこない。倭人全般ならば北九州では銅鏃を多く使っていた。
鉄、骨だけをあげて銅を落とすのは不自然だ。

38 :
九州アワビ男は倭人伝もろくに読んでいないことが露見

39 :
>女王国が伊都国に一大率をおいて諸国を検察し、畏憚させていたことを忘れているのかな。
「特」に置いたと書かれているね。
つまり、それは特例だということ。

40 :
>>38
そう言って自分を慰めないとやってられないんだね。かわいそうね。

41 :
倭人伝記載の「鰒(あわび)」
「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」
 鰒を捕るのは末盧國の記事で、末盧國には倭人の官名がない
「男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
 計其道里、當在會稽、東治之東。」
 倭人の特徴の記事では蛤を捕るとなっている
 末盧國は倭人ではないことを示唆しているのかもしれない

42 :
>>27
>突然できたと言っても、自然に出来たわけじゃない。
そうだ。計画されて作られたものだ。そしてそこには、在地のものだけではなく広域の遺物が見られるという、それまでの自然発生集落遺跡とは違うタイプの遺跡だ。
そこに、後の大和王権に繋がる広域倭国の黎明期を見ようというのが、纏向王都説だ。
>リーダーシップを取るものがいなくてはならない。
リーダーシップと支配はイコールではない。
>一大率は、明らかに支配の目的で置かれている。
連合体の秩序維持を目的とした役割、と捉えれば良いだけの事。

43 :
一大率は前々からあったものではなくて
卑弥呼の初の朝貢後、三十国が使訳を通じるようになってできたものかもしれん
とすれば伊都国に郡使が常駐する状況で
周辺の国が一大率に逆らえるわけもない

44 :
>>43





天孫の卒
倭人伝って誤記ばかりなんだろ?w

45 :
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、
名曰卑彌呼
その国もとまた男子を以って王と為す。
これはどのように解釈するわけ。
伊都国について、「世有王、皆統屬女王國」。
代々王あり、皆、女王国に統属する。
これはどのように解釈するわけ?

46 :
質問の趣旨が不明瞭

47 :
ヤマトが出雲を武力で滅ぼしたことを聞けば他の国の王様はビビって誰も歯向かわないだろ
言うことを聞けばそのまま王様として認めてやるよと言われれば喜んで従うでしょ

48 :
国譲り

49 :
>>45
読んでのとおりでしょう。
共立によって卑弥呼が女王になった。
彼女が都を置いた地域が女王国という別称で表記されている。
彼女のために建設された新都なのでしょう。
もちろん現在の纏向です。
彼女の治世は既に長いから、伊都国王は何代か代替わりしている。

50 :
>>46
不明瞭と思うのは、畿内説による邪馬台国、あるいは纏向誕生の
全容が明らかになっていないせいかもしれない。
誰かここのところをきちんと説明すべきじゃなかろうか。
畿内説によると、邪馬台国はどのようにして誕生したのかな。

51 :
いや、おまえの質問が不明瞭

52 :
>>45
カギは「統属」
この属する形態には10種類くらいあるらしい、
思うに「統は一統」、つまり血族の一統と理解すると、伊都国の王だった人たちは皆女王国(女王一族)の血筋となる。

53 :
>>42
誰が計画し、誰が参加したのか。どうして参加したのか。
ということなのだが。
また、どうしてそういうことをしなくてはならなかったのか。
これは別に固有名詞を出して証明しろと言っているわけではなくて、
そういうこと自体が不自然だということ。

54 :
>>51
あのね。畿内説だったら、大体知っているだろうが、纏向は突然できた
集落と言われる。それに呼応するかのように、邪馬台国は各地の豪族が
連合して纏向に新しい都を建設し、卑弥呼を王にしたと言っている。(多分)。
しかし、倭人伝には、その国は元また男子を以って王と為す、と書かれている。
伊都国については、代々王がいて、皆、女王国に統属すると書かれている。
これは、突然、出来た国としてはおかしいだろうと言っているわけ。

55 :
不自然だという論拠は?

56 :
帥升より卑弥呼のほうが貢物がしょぼい。
戦争中ってこともあるだろうが、
帥升よりも権力を持ってはいなかったってことだ。
共立の名目だから、そんなもんだろ。
支配という概念ではなさそう

57 :
>>54
その突然出来た纏向に人が集まってきた
その人達はどこから来たのか?
土器を見れば一目瞭然
人々は土器を携えてやってきた

58 :
>>52 あほ。  じゃあ、黄忠は韓玄の血筋なのかよ!

59 :
世の語源は、
>象形。「葉(?)」の原字で、草木の枝葉の新芽の出ている形を示す、それによって新しい時期、世代をあらわすものか(白川)、
又は「十」を三つ重ねた「丗」を原字とし、自分の子へ継ぐまでの約三十年が元の意で幾世代も続くことを意味したもの(藤堂)。
前者の意だとするとどうなる?

60 :
>>45

61 :
>>54 だから、何がおかしいと聞いているわけ。

62 :
そりゃ固定観念に凝り固まった>>54の頭だろう

63 :
古いのか新しいのかどっちなんだよって聞いてるんでしょ

64 :
新しい

65 :
自分の知ってる現代に意味で解釈しようとするから可怪しくなる

66 :
>>61
おかしいと思わないならそれでいいよ。
倭人伝には、倭国の大乱の70年か80年前に男子の王がいたと書かれている。
つまり、卑弥呼の前には王がいた。つまり、倭国の大乱は、倭国の王の座を
めぐる争いで、その座に卑弥呼が就いて大乱は収まったということ。
つまり、畿内説の連合説はおかしいというわけ。卑弥呼が初代の王と
考えているわけだから。
ほかの歴史書にも、歴年主なしとか、歴年王なしと書かれている。
邪馬台国は突然出来た国ではなく、ずっと前からあった国なのだよ。
伊都国の王が代々女王国に統属するというのもこれで説明できる。

67 :
最近の畿内説は、基礎力が欠けているというか、そもそも畿内説自体について
知らない人が多いから苦労する。
当然、知っているだろうと思ったことを知っておらず、説明にも骨が折れる。

68 :
それはおまえが空想してる「畿内説」で誰も主張してないことだから
当然だれも知らない。

69 :
>>68
だったら、その畿内説について説明すればいいだろう。
纏向が突然出来た遺跡ということも含めて。
ついでに言っておくが、纏向については説明させないように。
自分で調べたほうが身につく。

70 :
チミは身についてないのね・・

71 :
クレクレくん乙。どうして君は調べないの?

72 :
結局、「おかしい」「おかしい」と言うばかりで
何が「おかしい」のか説明できないんですね?

73 :
>>72
すごい。畿内説が2行レスを返した。

74 :
大丈夫。
纏向は2世紀ごろからあったって、そのうち考古学的に証明されるから。
何の問題も無い。

75 :
もっと後の時代だろ
東海の勢力が魏との交易路を開拓した→交易に便利なように都を西へ移した
こういう流れ

76 :
畿内説の考古学は、神のような推理力を持っていて、土器で全てが
わかるらしい。
纏向から、よその地方の土器が15%ほど出てくることを根拠に連合説を
打ち出した。たった15%なんだけどね。
しかも、邪馬台国連合と言えば、九州を抜きには考えられない。
郡使の常駐する伊都国は九州にあるし、一支国、対馬國、末盧国、
奴国、不弥国は間違いなく九州にあるわけだから。
だから、外来土器は九州から東海までのものが出ているというが、
これはウソ。どこを調べても九州の土器は出ていない。
土器で連合説を語ったが、その土器ですでに破綻している。
纏向邪馬台国には何の根拠もない。

77 :
ただ「ウソ」と言い返しただけで反論になると思ってるレベル

78 :
こいつ、あわびん?

79 :
>>77
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/gairaidoki.htm

80 :
奈良でもアワビが捕れる。ドヤッ!!

81 :
こいつ、やっぱり馬鹿だ。
「殆どなかったといってよい。」という文章を読んで
「どこを調べても九州の土器は出ていない」に脳内変換してる。

82 :
引用元を書いてるやつも明らかに馬鹿だけどな。
外来系土器について総合計で20%弱になる図表と
「調査地点によって差があるが一五〜三〇%含む」という文章について
「本文記事と図表とが食い違うのであろう」と言って騒いでる。
あきらかに、おつむが足りてない。

83 :
>>81
九州の土器の出土割合とか出土数のことが書いてあるものがあるなら
教えてくれる?

84 :
>>82
馬鹿はどっちだか。
その図表は、石野・関川氏のものだよ。
石野氏は、図表には九州の土器は全く書いていないのに、
コメントでは、関東から九州で作られた外来系の土器の
比率が15〜30%と書いている。これはインチキだろう。

85 :
土器は近場だと搬入土器を多く含むだろうが、土器を作るのは女性と下層民だから
遠方の北部九州から鉄鍛冶工人などが来ていても北部九州系土器はたくさんは出ないだろうな

86 :
畿内説は、纏向を邪馬台国にしようとしているわけだが、その根拠に
外来土器を持ち出した。つまり、纏向に各地の土器があることが
連合の証というわけ。
ところが九州の土器は出ていない。しかし、九州の入っていない
邪馬台国連合なんてあるわけがない。
だから、九州の土器が出ているなんて嘘を言ったわけだ。
嘘を言わざるを得ないわけだ。

87 :
>>84 あんたマジで馬鹿?
 少ないんだからグラフに出てくるわけないじゃん。
 それでも「関東から九州で作られた外来系」の土器の
比率が15〜30%な事実は変わらない。

88 :
九州の土器はほとんど出ていない、そして畿内の土器は九州でたくさん出ている。
畿内について各地の土器がでているから畿内が各地を支配していた裏付けになると
いう主張を適用するとどうなるかな?

89 :
>>86
出てるって書いてある

90 :
>>87
ウィキペディアには、 東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、
近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%と書いてある。
この数値でちょうど100%。
普通、九州も含めてほかの地域の土器は0と思うだろう。

91 :
まだ脳内変換してるよ、こいつ
ほとんど病気だな

92 :
「畿内について各地の土器がでているから畿内が各地を支配していた裏付けになると
いう主張」
って、誰がしてるの?

93 :
90の脳内に小数点以下の概念は無い

94 :
>>92
誰もそんなことは言っていない。畿内説は連合と言っている。

95 :
>>93
淡い期待だな。吹けば飛ぶような期待だ。

96 :
全部足したら100%になったので九州の土器は無いと思う辺りが
あわびんの脳の足りなさを物語っている

97 :
九州の国がヤマト政権にどこまで組み込まれていたかは明らかではないが、
少なくとも関東から畿内、中国地方、四国までの広域政権が3世紀前半から中頃にかけて出来上がっていた状況で、
九州にいた地方豪族を倭国全体の王様に任じることが不自然だと思わないのかね
こう言うと九州アワビは、当時の中国人が認識していた倭国とは九州だけだったとトンデモ反論するだろうけどな
中国と交易してた30ヶ国のうち本州の国が1つも入ってないなんてありえるわけがないんだから
中国人は本州の存在を知っていたと考えるのが自然

98 :
>>94
詭弁だな。卑弥呼は倭国王、その領域を治めるものだ。支配というのは治めるという意味。
寺沢の本でも見てみな。その搬入範囲は倭国の推定範囲に近い、単に社会経済上の物流では説明しがたい、
王都の建設や古墳造営に駆り出された各地の人々の生活の痕跡とも考えられる、などと主張している。
これはまさに支配を裏付けるという主張にほかならない。
もし支配、被支配という関係とは違うというのならば、倭国の範囲は支配関係が成立する範囲にとどまるわけだから、
その範囲を明らかにする必要があるな。

99 :
相手の言ってないことをデッチ上げて批判してドヤ顔をする
というのが、追い詰められた九州説の最後の戦法かね

100 :
こんな書き方もされているな。
奈良盆地東南部における集中的な古墳の築造は、ヤマト王権の所在地に急激な労働人口の流入をもたらせました。
纏向遺跡から出土する日本各地の土器は、その事実の一端を証明しています。過酷な労働の強制は、人々の心と
体に疲労を蓄積していきます。その労働組織の編成や管理機構がどのように準備されたかは、ほとんど想像の域
を出ません。しかし、当時の人口や技術水準を考えると、想像を絶する人々が、古墳築造のために奈良盆地東南
部に集まったことだろうと思われるのです。
これでも支配ではなく、単なる連合だと言うのかな。

101 :
もちろん「支配」なんて、ひとことも書かれていないな
おまえの脳内にあるだけだ。

102 :
そうか、連合だとも書かれていないな。

103 :
だから、連合だという畿内説を、あなたは否定する手段が無いわけですが。

104 :
機内でも九州でもいいんだけど
魏志倭人伝に書かれてる風俗(刺青やらなんやら)だけ見たら九州かなって思う
神武東征とか読んでもやっぱ西から流れてきたのかなと思うし

105 :
支配というのは、武力制圧が基本。要するに、戦争して勝ったほうが
負けたほうを支配する。
ところが、倭人伝を見るとわかるように、いわゆる倭国の大乱のあとに
鬼道を事とするような巫女的な卑弥呼が女王に共立される。
どこかの国がそのほかの全ての国を武力制圧したような記録がない。
また、支配するためには強力な王が必要だが、その王がおらず、なぜか
巫女的な女子が王になる。これも不可解。
だから、畿内説の場合は、纏向が突然出来たこともあって、連合という
妙な考えを作らざるを得なかった。支配の関係に出来ればそれに
越したことはないわけだが、それが出来なかったから連合にせざるを得なかった。
九州説の場合は、倭国の大乱を帥升以来の倭王の座をめぐる争いと考える。
だから、巫女的な女王でも務まる。そういう体制が帥升によって
作られていたわけだから。
とりあえず、畿内説の人は、畿内説の根拠をちゃんと把握しなくてはならない。
邪馬台国は近畿にあったに決まっている、では話にならない。

106 :
こいつ馬鹿じゃん
相手のことを勝手に、おまえはこう考えたんだって想像だけで決めつけて
自分は、理由はないけどこう考えるからOKだ、だってさ
ぜんぶ自分の空想の中で閉じた世界だ

107 :
>>106
お前は畿内説の根拠をちゃんと把握しているのか?

108 :
畿内説は、「ゆるやかな連合」なんて盛んに宣伝しておいて、
信者は、勝手に決め付けるなというから話にならないな。

109 :
>>105
卑弥呼は武力ではなく鬼道によって人を
支配していたと記述されてるのだが?
三輪山周辺は古くから鏡や玉、酒を作るという、
宗教的な聖地としては充分邪馬台国の都として資格を持つ場所だよ。

110 :
畿内説の根拠
古代日本には奈良盆地の大和朝廷しか無かったはずだ
九州奥州関東 え?

111 :
まぁ倭人伝は縄文でも弥生初期でもなく三世紀末の記録だからなw
三世紀以降の倭の都なら、河内や大和盆地が
相応しというのが考古学的に見た畿内説だろう。

112 :
モモソ姫は大物主に嫁いだとされる巫女王だと記録されている。
大物主とは名のとおり物部の神であり、
山海の宝や産物を所有する神であるという意味だろう。
ではモモソの役割はというと、大物主から授かる
山海の産物を仕切るのが一番の役割と言える。
つまり「市場」なので、箸墓は「大市墓」と古来呼ばれてきたんだよ。

113 :
そうか、畿内にも卑弥呼みたいに頑張っていた女がいたということだ。
卑弥呼との違いは夫がいたということが一番かな。

114 :
神様と結婚なんだから実際に目に見える夫はいなかったってことだな

115 :
卑弥呼には子がいないように、モモソ姫には子がいないですからね。
海部氏の系図にも日女命、神大市姫とあり、
海部氏の間で神格化されている姫なのでしょう。
で、モモソ姫と出雲の三穂津姫はおそらく同一人物だと睨んでます。
だが何故記紀に卑弥呼は登場出来ないのかというと、
八世紀の朝廷史観では天皇視する事が当然出来ず、
また正史上間違ってでも血統を残してもらっても困るので、
箸でホトを突いて巫女として終わったこと、
子孫を残して無いことを念押ししてるの書いてるのでしょう。

116 :
>>115
妄想ここに極まれり。

117 :
まぁ考古学、古代史の検証なんて所詮は妄想から入るものです。
それを強引に辻褄合わせすると、一部の九州説のように
全く整合性のない話が出来上がってしまいます。

118 :
記紀は中国的な「王朝」観に基づいて男系一系に再編集しているが
実際の古墳時代は双系制や入り婿相続が普通だから
まるっと記紀を信じてココが合わないから云々という論難は
出発点から誤っているのだがね

119 :
>>113
知り合いの修道女が「私はキリスト様と結婚しています」って言ってるよ。
指輪もしてる。
でも、独身。

120 :
そう、日本書紀なんぞをそのまま受け取るのは問題なんだな。モモソ姫は古事記では活玉
依姫という名前で描かれている。そして、その姫は、オオタタネコの先祖ということだ。
つまりモモソ姫には子がいたんだよ。日本書紀は、物語をはしょっただけ。
やはり、モモソ姫はどうみても卑弥呼ではないな。

121 :
そのまま受け取ってら・・・  こいつ馬鹿だ

122 :
知識が無い馬鹿にはついてこれない話だな。

123 :
馬鹿って九州アワビ男?

124 :
豊玉姫-玉依姫

125 :
「タマヨリヒメ」は心霊の依り代になる女、つまり巫女という普通名詞です。
固有名詞と間違えて混同してはいけません。

126 :
>畿内説は、「ゆるやかな連合」なんて盛んに宣伝しておいて、
>信者は、勝手に決め付けるなというから話にならないな。

「ゆるやかな連合」と宣伝してるなら
「『支配』だなんて勝手に決め付けるな」と言うのは当たり前なんだが。
お前、頭おかしい?

127 :
「ゆるやかな連合」なんて勝手に決めつけている畿内説論者が他人に対しては「勝手に決め付けるな」といってることを
問題にしてるんだよ。文章の意味が理解できないのかな?

128 :
お前の文章は明らかにおかしい。

129 :
畿内説だと三世紀頃にゆるやかな連合を
推測出来る祭祀用具、材料が揃ってるからね。
銅鐸、それに代わる三角鏡しかり。丹山も紀伊半島周辺に多いですし。
邪馬台国を証明する出土品に関して重要なのは、
決して武具ではないはずてすよ。

130 :
緩やかな連合と言うよりは、そもそも支配関係などはなく、
それぞれ独立して交易してただけじゃないかな?
もちろん、連合もなかったと。

131 :
それは無いですね。
前方後円墳という、各地の祖先祭祀のかたちを1つに纏めたものが纏向で発生し
それが全国に波及していますから。
九州などでは、外から見えるところを畿内式にして、見えない地下を従来通りにするなど
「しぶしぶ」感も見られますが。

132 :
>>100
>これでも支配ではなく、単なる連合だと言うのかな。
そうだ。共立された王の死後、積極的に参加するのが有力共立者のとるべき常道だ。跡目や、連合内での立場の事も考えればね。
大王は時代下っても自軍を持たない。共立システムというバランスの上に乗っかったものだ。
だから後世、中央集権の為に擬制血縁関係の明文化が必要となった訳だ。

133 :
>「ゆるやかな連合」なんて勝手に決めつけている畿内説論者が他人に対しては「勝手に決め付けるな」といってることを
>問題にしてるんだよ。文章の意味が理解できないのかな?

畿内説側が「ゆるやかな連合」と勝手に決めつけている
というのが事実なら、支配だと主張してないのは明らかなんだから
畿内説が支配だと言ってると決めつけてるお前は
間違ってるんじゃね?

134 :
要するに、畿内説は、どうして纏向が邪馬台国なのか、
その根拠が自分でもわかっていないということだ。
ただ、そのように信じているだけ。
纏向は、吉野ヶ里のように、「宮室、樓觀、城柵」の物的証拠が
出ているわけじゃなく、決め手がないにもない。
だから、「外来土器」を根拠に連合を考え出した。
元々、土器で政治的なことを語るのは論外な上に、不可欠な九州の
土器が出ていない矛盾も示すことになる。
出ていないのに、出ているというウソもつかなくてはならなくなる。

135 :
「要するに」とだけ言って理由が言えない馬鹿者

136 :
>>132
畿内説が連合を持ち出さなくてはならなかった理由の一つに、
三世紀に邪馬台国が畿内にあったとして、それが九州まで支配して
いたと考えるのは、八世紀の大和朝廷にも匹敵する強大な力を
三世紀の邪馬台国が持っていたことになり、歴史の発展性を考えない
暴論ということになるから。
崇神天皇の四道将軍派遣とも矛盾する。
畿内説として、もっとも望ましいのは、いわゆる自生説だろう。
邪馬台国は大和で生まれ、成長・発展したという説。
しかし、畿内説の学者はこれを捨て、さらに支配も捨て、連合にせざるを
得なかった。それにはそれなりの理由があるということなのだ。

137 :
九州説の強みは大和朝廷と関係ないことにしてしまえば、
ヤマトという地名にもこだわらなくて済むし、文献なし、伝承なし、遺跡なし、
一切の物的証拠なしで邪馬台国は九州にあったと主張できることである
行程パズルで非常識なヘンテコ仮説を作り上げ強引に辻褄を合わせができたやつが優勝

138 :
>>135
纏向が邪馬台国である根拠があるなら言ってみな。

139 :
大体邪馬台国は七万戸もの集落なんだから、連合も何も
相当の範囲を見込まなきゃ、考古学的には成立しないもんだよ。
なので極端に狭い範囲に求める大半の九州説なんて
必然的にあり得ない暴論になる。

140 :
>>139
それは単なる数合わせ。
数百年後に日本を支配する大和朝廷の国は大和。
邪馬台国が大和より広いと考えるのは無理がある。

141 :
>>136
>崇神天皇の四道将軍派遣とも矛盾する。
特に合わせる必要は無いなあ。まあ、以下は私の単なる想像だが、
四道将軍とは、大王共立システムの一員。在地の有力豪族。紀編纂時、「派遣」に変改したと考える訳だ。
>さらに支配も捨て、連合にせざるを得なかった。
強権支配や軍事制圧の痕跡が無い上、「共立一女子為王」とある訳だから、「支配」という選択肢は無い。
>それにはそれなりの理由があるということなのだ。
当たり前だ。何事にも理由はある。

142 :
>>137
そうすると中国は弱小国にわざわざ使者を出したマヌケ国って事になるな
九州説が神の如く崇めてる陳寿も超マヌケなおバカさんって事になるし

143 :
>>140
モモソ姫を卑弥呼と考えた場合、武埴安彦と吾田姫の反乱騒動では
河内や山城地方が舞台となりますからね。
反乱だという事は同一国内だと考えないとおかしい訳です。

144 :
>数百年後に日本を支配する大和朝廷の国は大和。
>邪馬台国が大和より広いと考えるのは無理がある。
ローマ帝国の存在を否定するが如きアワビバカ

145 :
>>142
最近の九州説では陳寿は引き算もできなかったおバカさん扱いになってるみたいよ
陳寿が水行二十日、水行十日陸行一月と日数でしか記述できなかったところを
12000-10700=1300と邪馬台国までの残りの距離を計算できた俺様は凄いだろうって自慢してる

146 :
陳寿は南と東の区別がつかない馬鹿、というのが畿内説。

147 :
倭国は大乱で南北に分裂して瀬戸内海を挟んで戦闘状態だった。
北が奴国、南が狗奴国。
南の狗奴国が卑弥呼の国。
陳寿は南にある国だから南へ進むもんだと早合点してしまった。
このことから陳寿が参考にした文献は、北の奴国と交易してた呉もしくは公孫氏のものだとわかる。
そして魏の文献には倭国の地理の詳しい記述がなかったことからして魏の使者は日本へはやって来てない。

148 :
143氏の言うとおり。畿内説、畿内説と一口に言うが、実際は巻向説、近江
説、河内説と有る。畿内説の人らはこの3説を都合よく使い分けている。どれ
か一つに決めよ。畿内説の卑怯者ども。南国風の風俗から考えて河内説なら賛
成してもいいよ。巻向説・近江説はあきらめろ。

149 :
などと畿内説を知らない九ちゃんが想像で吠えていますが
いったい誰に反論しているのでしょう?
いいえ、誰にも。
脳内で、ひとりで自問自答しているのですから。

150 :
そもそも「共立」に
連合国を作るなんて意味があるのか
倭国乱が起こる前と起こった後で
国の大きさが数倍になってるなんておかしいだろ
そんな風に読めないだろ

151 :
連合
「使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國」
各々の国が王を称しているのが伝統だが、(盟主的存在の)大王が邪馬臺に居る

152 :
畿内説は、倭人伝の都合の悪いところには触れないようにしている。
それは、「その国、元は男子を王としていた。住すること70,80年。
倭国は乱れ、相攻伐すること暦年。すなわち一女子を共立し王と為す。
名を卑弥呼という」という部分。
つまり、倭国には元から男子の王がいた。その跡継ぎをめぐって大乱が起きた。
そこで、卑弥呼という女子を立て王とした。という解釈が妥当。
大乱の70年か80年前と言えば、すぐに思いつくのが、西暦107年に
後漢に生口160人を献上したとされる倭国王・帥升。
卑弥呼は、帥升の築いた倭国体制の跡継ぎというわけである。
なぜ、畿内説がこれに触れないかというと、纏向ができたのはどんなに
捏造しても200年以前には遡れない。つまり、帥升の存在は近畿地方には
認められない。この時期、大陸との交流の痕跡も近畿地方には
まず認められない。
だから、帥升は九州の王というのが広く認識されている。卑弥呼が帥升の
跡継ぎであると、邪馬台国は九州になってしまうわけである。

153 :
朝賀したのは倭國の極南界にある倭奴國
大倭王が居るのは拘邪韓國から七千餘里の邪馬臺國=倭奴國よりも北にある
樂浪郡から拘邪韓國までは五千里
倭国の範囲は最小の場合で倭奴國から邪馬臺國まで
倭王は九州には居ない
帥升が九州に居たのなら、倭王ではない

154 :
蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
半島の南半分は倭だし

155 :
>>153
倭奴国が後漢に朝貢したのは西暦57年。
帥升とは異なる。帥升は西暦107年。

156 :
>>152
あんたの主張の全ては
「つまり、倭国には元から男子の王がいた。その跡継ぎをめぐって大乱が起きた。
 そこで、卑弥呼という女子を立て王とした。という解釈が妥当。」
という根拠のないあんたの説について
自分でオレ様が正しいと理由なしに言い張っている
だけに過ぎないのだが

157 :
>>152
九州にあった帥升の面土国は畿内にあった邪馬台国に追い詰められて滅亡したわけです。

158 :
>>152
>卑弥呼は、帥升の築いた倭国体制の跡継ぎというわけである。
論理が飛躍してる
跡継ぎでもなんでもない、赤の他人

159 :
>>156
では、あなたはどう解釈するのか、それを書かなくちゃあ。
そこまで書いてこそ論争。
根拠がない、理由がないというだけでは、「お前の母ちゃんでべそ」と
同じレベル。

160 :
>>155
後漢書の内容が理解できていないみたいだね
説明してもたぶん理解しなさそうだから
君のいう帥升西暦107年の時点での倭国の範囲と倭王が居る国を書いてみて

161 :
★外国人学校児童・生徒保護者補助金の23区別支給額   日本国民の税金です…
(平成23年10月24日現在)
     月額支給 年間支給  備考
江戸川区. \16,000   \192,000  朝鮮学校のみ16,000円。韓国、中華学校は月額15,000円。
大田区  . \11,000   \132,000
葛飾区  . \11,000   \132,000  初級学校は月額10,000円、中級学校は11,000円
墨田区    \9,500   \114,000
板橋区    \8,500   \102,000  全ての外国人学校が対象。
中央区    \8,000   . \96,000  朝鮮、韓国、中華学校のみ。所得制限無し。
江東区    \8,000   . \96,000
渋谷区    \8,000   . \96,000  朝鮮、韓国、中華学校のみ。
目黒区    \8,000   . \96,000  朝鮮、韓国、中華学校のみ。所得制限無し。
世田谷区  \8,000   . \96,000  朝鮮、韓国、中華学校のみ。
中野区    \8,000   . \96,000
文京区    \7,300   . \87,600  朝鮮、韓国、中華学校のみ。
荒川区    \7,000   . \84,000  全ての外国人学校が対象。平成17年度から日本国籍者も対象に!
品川区    \7,000   . \84,000  朝鮮、韓国、中華学校のみ。所得制限無し。
台東区    \7,000   . \84,000  全ての外国人学校が対象。
港区      \7,000   . \84,000  朝鮮学校に限る。
北区      \7,000   . \84,000  朝鮮、韓国、中華学校のみ。所得制限無し。
練馬区    \7,000   . \84,000  朝鮮、韓国学校のみ。所得制限無し。
豊島区    \6,000   . \72,000  全ての外国人学校が対象。所得制限無し。
足立区    \6,000   . \72,000  全ての外国人学校が対象。所得制限無し。
新宿区    \6,000   . \72,000  世帯人数毎に所得制限有り。朝鮮、韓国、中華学校のみ。
杉並区    \6,000   . \72,000
千代田区  \6,000   . \72,000

162 :
>>132>>141>>152
「共立」の意味が違うらしいよ
終止符スレに書いてあった
だから「其國本亦以男子為王」のその国は倭国の国々ではなく、邪馬台国だけの意味でしょ

163 :
>>160
後漢書に書かれているのは、
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
これだけだな。知っていると思うが、倭人伝には奴国が二回登場する。
ひとつは、伊都国の東南百里にあって、二万戸を擁する国。
もう一つは、その余の旁国の最後に登場する奴国。これが女王の境界の
尽きるところで、その南に狗奴国があると書かれている。
これも知っていると思うが、後漢書は三国志よりも後で書かれている。
范曄は、三国志を見て、奴国が一番南にあると勘違いしたのだろう。

164 :
>>152
>この時期、大陸との交流の痕跡も近畿地方には まず認められない。
弥生期の遺跡で河内平野で貨泉確認されてるけどな。

165 :
>>162
その国を邪馬台国とすれば、ちょっと意味が通じなくなる。
つまり、卑弥呼は三十カ国余りを従える倭王であること。
巫女的で、ほとんど外に出ない卑弥呼が、王になってから支配を広げたとは
考えにくい。
倭国の大乱は、邪馬台国だけの問題ではなく、倭国全体の問題であること。
だから、その国は倭国と考える方が妥当。
中国の歴史書では、共立は、不連続的な継承の場合に使われる。
帥升の跡継ぎとしては、けっこう異例の抜擢だったのだろう。

166 :
唐古カギ遺跡は弥生後期の今来の渡来人の集落跡。
その暮らしぶりは、びっくりするほど異人さんだったはず。

167 :
帥升はたぶん甕棺墓に眠っているだろうけど
卑彌呼の前後のは方形周溝土壙墓に割竹形木棺ならむ

168 :
>根拠がない、理由がないというだけでは、「お前の母ちゃんでべそ」と
>同じレベル。

おまえが主張していることの理由を言え
と言われるのが「お前の母ちゃんでべそ」だと思ってるあわびんは
永遠にトンデモ男

169 :
>>163
後漢書に書かれているのは
「使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
倭王は九州内にはいない
後漢書の范曄が何か勘違いをして後漢書の内容のどこかに誤りがあるなら
後漢書にある帥升の記事内容にも同様のことが言えるし
同じ人間である陳寿の倭人伝にも同様のことが言えるね

170 :
>>167
平原か…。
割竹形木棺というのがねえ。
さらに、粘土槨らしいし。
帥升の墓には興味があるな。
甕棺だったら、すごいのが出てくるかもしれない。
その近くに卑弥呼の墓もあったりして。

171 :
残念ながら2世紀初頭に「倭国」と呼ばれるほど国家形成が進んでいた形跡はないね

172 :
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/mm-kanag.JPG
これってえろいひとが貰えるブツらしいけど。

173 :
帥升の倭国王が倭国全体の王だと解釈するのは不自然
奴国と同じように九州北部にあった国の1つと解釈すべき
金印ももらってないってことは奴国よりも小さい国だったかも

174 :
>>168
理由はいっぱい書いているのに理解できないのか。
もう一度書こうか。
倭人伝には、「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」と書かれている。
その国、元また男子を以って王と為す。住すること七、八十年。倭国乱れ、
相攻伐すること歴年。すなわち一女子を共立し王と為す。名を卑弥呼という。
倭国の大乱は、一番狭い範囲の書かれている梁書で漢霊帝光和中と
なっている。つまり、西暦180年前後。その70年も80年も前に男子の王が
いたわけで、その国の王に卑弥呼がなった事が書かれている。
文字通り、帥升の後継者が卑弥呼というわけである。倭国王なる存在は
卑弥呼以前には帥升しかいないし、年代もぴったり合う。
帥升は九州の王とされているので、その後継者である卑弥呼も九州に
いたことになる。
畿内説は纏向の誕生を西暦200年頃としている。そして、これに合わせて
卑弥呼が王になったと言っている。しかし、それでは倭人伝の記述に
合わないわけだ。どう思う。

175 :
>>172
それ木棺に使うんだよね
日本に来る前にもらってたかもね

176 :
つまり帥升が卑弥呼より前に邪馬台国の王だったっていいたいのか
文献に書かれた文字の倭国王つながりってのが根拠か
無理がある

177 :
107年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
130年 八月太君(解夫,脱解)以暑疾崩于日知宅

生口百六十人だもの小さなコロニーとかではないし
倭國王帥升のは倭人の王の脱解さんとかぶるし。

178 :
九州にいたのは伊都の男王、後の伊都津日子だろう。
女王なんてのは存在する余地はない。

179 :
四道将軍が派遣された範囲が倭国大乱前に統一されてた範囲。
再統一後も忠誠を誓うかを迫るために行った。
戦闘目的なら他面作戦なんかあり得ない。
で、出雲だけは服従しなかった。

180 :
生口は戦争捕虜がメインだから戦争が多かった時期と少なかった時期ではかなり差がある

181 :
諸縣こそ帥升の本拠地。
卑弥呼が帥升の後継、娘なら、宮崎地方が本命ということになる。

182 :
>>173
帥升については、通典など倭面土国王と書いてあるものもあるが、
後漢書には、倭国王と書かれている。文字通り倭国の王なのだろう。
また、倭人伝に「東に海を渡ること千里でまた国がある、皆倭種」と
あるように、倭国の範囲は九州の一部だったと考えられる。
帥升について特筆すべきは、後漢に献上した生口160人。
卑弥呼が魏に献上した生口は男女合わせて10人で、これと比べても
桁違いに多く、帥升が非常に大きな力を持っていたことがわかる。
ただ、いくら力があっても、1世紀か2世紀にこれほどの人間を献上する
のは通常では不可能。だから、帥升はかなり大規模な戦争の勝者では
ないかとの推論が出来る。戦争捕虜ならば献上しやすいからである。
というわけで、帥升は初代の倭国王。つまり、倭国を最初に統一した
王であると考えられるわけである。

183 :
都合のいいように解釈して声闘(ソント)するみんじょくだなw

184 :
畿内説(近江や四国説も)の人間の脳は正常な人間の脳とは機能が異なるようだ。
>>152>>174>>182は極めて当然な内容であるが、それらを「都合のいいように解釈して声闘(ソント)
するみんじょくだなw」などと拒否するだけである。
精神疾患の一つにこのような”特定の相手が如何に正しいことを言っても絶対に認めようとしない”症状がある。
たぶんこれに冒されているのだろう。
或は知能が低いのかも知れない。
もしかすると精神年齢が幼児並みなのかも知れない。
彼らは風邪を引かないであろう。

185 :
論理の飛躍を指摘されても、ただ自画自賛するだけで
反論する代わりに相手を精神病呼ばわりするあわびんは
勿論風邪をひかない

186 :
2chにいる私達は皆たいして変わらぬレベルなんでしょうけど
やはり、同じ日本人として優秀な頭脳を持った方々は本当に誇りですね
何かが違うんですね、やはりね
ノーベル賞
鈴木章 ─── 北海道大 ─ 北海道生まれ北海道育ち
田中耕一 ── 東北大 ── 富山県生まれ富山県育ち
南部陽一郎 ─ 東京大 ── 東京都生まれ福井県育ち
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち
小林誠 ─── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
益川敏英 ── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち
白川英樹 ── 筑波大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち
朝永振一郎 ─ 筑波大 ── 東京都生まれ京都府育ち
湯川秀樹 ── 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち
福井謙一 ── 京都大 ── 千葉県生まれ大阪府育ち
江崎玲於奈 ─ 東京大 ── 大阪府生まれ京都府育ち
川端康成 ── 東京大 ── 大阪府生まれ大阪府育ち
野依良治 ── 京都大 ── 兵庫県生まれ兵庫府育ち
佐藤栄作 ── 東京大 ── 山口県生まれ山口県育ち
大江健三郎 ─ 東京大 ── 愛媛県生まれ愛媛県育ち
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち
山中伸弥 ── 神戸大 ── 大阪府生まれ大阪府育ち

187 :
ベンジャミンフランクリンメダル(アメリカ版ノーベル賞)
’61物理 江崎玲於奈(大阪・三重)
’90物理 有馬朗人(大阪)
’99物理 外村彰(東京)
’02物理 飯島澄男(東京・埼玉)
’03物理 小柴昌俊(千葉)
’04工学 中村修二(徳島)
’05物理 南部陽一郎(福井・福島)
’07物理 戸塚洋二(静岡)
ウルフ賞(イスラエル版ノーベル賞)
’84数学 小平邦彦(長野)
’86医学 早石修(京都)
’87数学 伊藤清(三重)
’94物理 南部陽一郎(福井・福島)
’94医学 西塚泰美(兵庫)
’00物理 小柴昌俊(千葉)
’01化学 野依良治(長野・福岡)
’02数学 佐藤幹夫(東京)
’11医学 山中伸弥(大阪)

188 :
>>152>>174>>182は論理に飛躍があるけど一つの説としてはきちんと書いていると思う
帥升が邪馬台国の国王だったなんて、何の根拠もなく自分に都合のいい創作話でしかないけど
>>184は文体から別人だろう
いきなりイチャモンつけて罵倒は明らかに異常者

189 :
論理に飛躍があると、ふつう
一つの説としてきちんしてないが

190 :
>>186
> 山中伸弥 ─ 神戸大 ─ 大阪府西成区生まれ大阪府育ち、父は、全羅南道出身、百済人。
日本の国は飛鳥時代に渡来した百済人が造った国で、その後も多くの渡来人を受け入れて発展してきました。
朝鮮半島の動乱を避け、また、百済人の叡知が日本に帰化して名を上げることができたわけです。
これは日本が開かれた国で、優秀な人なら出自は問わず受け入れる風土があったからです。
日出処の天子の徳は今も健在。

191 :
邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

192 :
天皇勢力って、なんやそれ

193 :
>>188
都合よく解釈してるだけで、キチンとは書かれてないだろう。
弥生後期なら畿内方面と大陸との交流痕跡なら普通に存在するし、
奈良盆地で巻向は鍵唐古とは隣接する位置関係にある。
大体畿内説で卑弥呼像として挙げる事の多いモモソ姫は
唐古遺跡の横、保津遺跡周辺に生まれたとされているよ。

194 :
>>152
>>156氏にも指摘を受けている通り
「つまり、倭国には元から男子の王がいた。その跡継ぎをめぐって大乱が起きた。 そこで、卑弥呼という女子を立て王とした。という解釈が妥当。」
は、君の誤訳に基づいた間違いなんだ。
「住すること70,80年。」と君は書いているだろう。「住する」って(笑)
君はこの「住する」を男子王の在位期間と捉え、男子王→後継者争い→卑弥呼共立という一連の流れだと考えた訳だ。
「住する」って変だろ。それは普通「とどまる」と訳すんだ。 つまり、70〜80年王が不在。
男子王と卑弥呼に連続性を考えないのが当たり前の解釈。

195 :
「とどまる」と訳すのはそれでいいが、それは「不変」という意味にとるわけで、
男王の時代が七、八十年続いたと訳しているよ。たとえば山尾は、「男王のの統治が七八十年
続いたところで」と訳すのが妥当としている。

196 :
どう訳したところで連続性は無いんだけどね。

197 :
安帝が倭国王を冊封した形跡すらないし

198 :
>>152も男王と卑弥呼に連続性を認めたわけではなかろう。

199 :
あ、そう。
「だから、帥升は九州の王というのが広く認識されている。
 卑弥呼が帥升の跡継ぎであると、
 邪馬台国は九州になってしまうわけである」
けれども
 男王と卑弥呼に連続性を認めたわけではなかろう
から、邪馬台国は九州になってしまわないね。
終了

200 :
>>194
勝手に解釈してもらっては困るな。
70年か80年前にいた男子の王というのは、まず帥升で間違いないだろう。
これは後漢書の「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」
からきている。
一方で、いわゆる倭国の大乱については後漢書は誤解している。
桓霊間は、あまりにも長すぎる。空白期間全てを倭国の大乱としている。
むしろ、梁書の「漢霊帝光和中」が的確な時期を示していて妥当性がある。
つまり、帥升が後漢に朝貢した西暦107年から光和元年(178年)あたりまでが
空白の期間となる。その後で倭国の大乱となる。
帥升は後漢から倭国王と呼ばれている。一つの国ではなく、それらを
総称した倭国の王と言うことで、倭国の多くの国を従えていたと考えられる。
これは卑弥呼が三十カ国余りを従えていたのと同じ。
倭国王の根拠のひとつが生口160人にあることも前に書いたが、戦争捕虜を
あれだけ多く持っていることは、大規模な戦争の勝者を意味する。
名前が共通していることから、帥升と卑弥呼は同じような立場と
考えられるわけだ。前に、卑弥呼は帥升の系統の王と書いた。
これは、帥升と卑弥呼の間には、数人の王がいたという意味。
住七八十年は、時の経過くらいの意味しかないと考える。

201 :
男王の後、諸国に共立された卑弥呼が邪馬台国を都すると定めただけ。

202 :
まあ考古学がもう具体的に
2世紀末〜3世紀のドラスティックな変化を証明しているので
1世紀の倭国と3世紀の倭国の範囲が同じである
なんて根拠なく力説しても、信じる人はいないし

203 :
>2世紀末〜3世紀のドラスティックな変化を証明しているので
そこが笑えてくるわけだ。考古学者は、後漢書や梁書の誤訳に気づかず、それに合わせて
銅鐸消滅の時期を何とか早めようとしている。
しょせん考古学だけでは細かい時代設定などとうてい無理ということだ。

204 :
>>199
通典には、帥升は倭面土国王とあるが、後漢書には倭国王と書かれている。
これは、卑弥呼が邪馬台国に都を置いているが、倭王と呼ばれているのと
共通している。
また、帥升は九州の王であると言うのが一般的な認識。
107年当時に、大陸と交流を持っていたのはだいたい九州に限られる。
たとえば、帥升が近畿地方にいたとすれば、「倭国王」がどういう意味を
持つのか、あるいは、当時、近畿地方から瀬戸内海や九州を経て
大陸と交流を持つ経路をもてたのか、など疑問点が多い。
それに、近畿地方には、その当時の漢式鏡や装飾品などの遺物が
九州とは比較にならないほど少ない。ないと言っても過言ではない。

205 :
>前に、卑弥呼は帥升の系統の王と書いた。
根拠もなく、ね

206 :
結局、考古学全否定と文献我流解釈が九州説のすべてなわけですね。

207 :
考古学を否定はしていないよ。使えるところは使う。本来の考古学的知見は役に立つ。
考古学者の妄想は役に立たない。

208 :
>>206
纏向から九州の土器は出ていないのに、出ていると嘘をつくような
畿内説の考古学は信用できんわ。相変わらずの捏造考古学。

209 :
つまみ食いはダメよ

210 :
また「九州の土器は出ていない」と嘘をつくような九州説は
たぶん誰も信用しない。

211 :
今大半の考古学者に九州説の主張なんて言っても相手にされないよ。

212 :
生口とは処女と声変わりする前の童貞くん。身長でいうと130cm以下だな。
物心ついたときから奴婢としてしつけられた子供でないと、
言葉の通じぬ国で新しい言葉を覚え、主人の言うことに絶対服従の奴婢にはならない。
質の良い奴婢をたくさん持つことが権力の象徴だったのだ。
戦とは、領土だけではなく村を襲って子供を攫い、奴婢として育て高く売るのも一つの目的だった。
現代人は驚くかもしれないが、山椒大夫のような人買いは近世まで普通にあったことなのだ。

213 :
畿内説者の中には、このスレに九州説者が闖入して引っ掻き回すのを防げるよ
うな力量の人はいないのか。低能だノー。

214 :
キミ、完封されてますけど

215 :
畿内説は一行レスが引っ掻き回しているだけ。
ああいうレスは反論のしようがない。
まあ、反論されては困るからそうなるのだろうが。

216 :
>闖入して引っ掻き回す
池乃めだか状態のことかw

217 :
キミの書いた長文は、一行で完封されています。

218 :
満洲引き上げのときだって、やむにやまれず子供を中国人に売って金や食料にして残りの家族が帰国できた。

219 :
要するに、反論でえきない言い訳ね

220 :
ま、所詮まともな知識も無く妄想だけで論を組むと
九州説のような、歪な俺様ファンタジー小説が量産されるのだろう。

221 :
結局152の演説は
「俺様の九州説は正しい。ゆえに邪馬台国は畿内でない。」
以上の何者でもなかったわけだが

222 :
いやいや、倭人伝は男王時代からのことを記しているけど、纏向にはそんな歴史がない、
畿内説の痛いところを指摘した意見だよ。
男王は吉備時代の話ですとか、こじつけざるを得ないだろ。苦しいねえ。

223 :
邪馬台国はココだ!
と、言える証拠が何処からか出ないかねえ
もう疲れてきた

224 :
何より倭人伝だろ。誰が読んだって分かることなのに往生際が悪すぎる。

225 :
結局、ここの畿内説は、レスを理解できていないということだ。
そのくせ、毎度毎度決まったようなケチをつける。

226 :
曹操の陵墓である証拠とされていた板碑も偽物だと言い出すし、決定的な証拠などない。
と思ったら大間違い。
金印の出てきた志賀島、神宮皇后も筑紫で応神を生んで、 百済の武寧王も筑紫に着く前に糸嶋で生まれて嶋王と呼ばれていたし、草壁皇子も筑紫の娜の大津宮で生まれている。
当時は母の出身地で子供を産んで育てた。卑弥呼の血を引く女を妃にすると国が荒れる。

227 :
デヴィ夫人の悪口はそこまでだ。

228 :
>畿内説の痛いところを指摘した意見だよ。
賛同者がゼロなので自画自賛する惨めさ

229 :
と、切り返さざるを得ない畿内説の苦しさ。

230 :
>>228
はっきり答えて欲しいのだが、レスの内容を理解できているのか。
何が問題点になっているのかわかっているのか。

231 :
伊都国の王が代々女王国に属していたと書いてあることから
伊都国は倭国乱の前から女王国に属していたと考えられる
つまりそれが3世紀に突然できたような纏向ではおかしいということでしょう
邪馬台国はそれより前の2世紀とか1世紀からないとおかしいということ
賛同者はゼロではありませんよ

232 :
>>231それだ!
つまり、伊都国も邪馬台国の一部というか邪馬台国そのものじゃないか。
卑弥呼は伊都国の糸島にいたということで何の問題もないのだ。
そして、聖なる島、志賀島に卑弥呼は金印とともに祀られることになる。
何だ、答えは簡単ではないか。

233 :
もうこのスレは畿内説板を止め、九州説板に変更になりました。

234 :
また、パズルか漢字のゴロ合わせしたくなって戻るから
もう少し放っておけば大丈夫だよ

235 :
もう語呂合わせはしません。
邪馬台国の首都は伊都で決定。
卑弥呼も伊都にいた。

236 :
なに自演してんだか・・・

237 :
伊都には男王しかいないのにな。

238 :
>伊都国の王が代々女王国に属していたと書いてあることから
>伊都国は倭国乱の前から女王国に属していたと考えられる
それ、>>49でとっくに論破されてるけどな

239 :
倭国王帥升と名乗る人物が奴隷160人を献上して謁見を願い出たっていう記述だけで、
帥升を邪馬台国の王、つまり倭国全体を支配する王だったと断定するのはいくらなんでも論理の飛躍

240 :
>>231
>>59
都合の悪いことは無視して同じことばかり繰り返すな

241 :
志賀島とは師が島、つまり帥升の島という意味では?

242 :
ざっと読んでみても九州説の人って、本当に
畿内の事は何も知らないんだねw
巻向だって当然母体は周辺の弥生遺跡だろ。

243 :
このように
九州説のひとは結論先にありきなため論理が飛躍しまくりだが
かってに脳内補完しちゃってるから自覚症状がなく
反論されても最初の自分の主張を連呼するだけだ
そして
俺様の正解が理解できない奴はバカ!みたいな罵倒しか出来ない

244 :
>>230 読んでる人は
 おまえさんのレスは無内容だと理解できてる
 なにも問題になっていない

245 :
何度も言われる事だけど
九州説の人は、もう自分の中では正解と確定してるから
だから他の人は全て間違い

246 :
>>242
畿内説が畿内のことを知らな過ぎるんだな。
それが可能なら、とっくにそれでやっている。
というか、唐古・鍵→纏向は、ずっと前に破綻している。
どうしてかというと、唐古・鍵は石器社会なんだな。
掘っても掘っても石器しか出てこない未開ともいえる集落。
纏向とはどうしてもつながらない。

247 :
畿内説オームがまた同じ事を繰り返し繰り返し呟いている。

248 :
>伊都国の王が代々女王国に属していたと書いてあることから
>伊都国は倭国乱の前から女王国に属していたと考えられる
馬鹿じゃねの?
倭国乱で無主の時代が終わって女王が共立されたんだろ?
その前は男王だったんだろ?
じゃ、乱の前に女王国なんて無いじゃん!

249 :
痲奇夢苦の外来土器の話で「脳内変換」を連発していたアホが居たな。
九州の土器は1%にも満たないのだろ。0.1%か?
そんなレアなものは誰かが持ち帰ったお土産みたいなものだ。九州が痲奇夢苦連合の一員に組み込まれて
いた証拠になどならんわ。
とりあえず
     脳内変換と
          言ってみる   (脳の無い畿内説信者作)

250 :
>どうしてかというと、唐古・鍵は石器社会なんだな。

・・ここまで無知か・・・

251 :
九州説の人って結局何が主張したいんだろうね?
まともに候補者や候補地が有る訳でもないし、
かといって鉄や鏡等考古学に頼るかと思うと、
都合悪い結果になると手のひらを返すように大批判。
そりゃ学者には愛想つかされるってw

252 :
>>249
もし九州の土器があったとしたら、神の手が持ち込んだに違いない。

253 :
邪馬台国畿内説の最大の弱点は、
未開の山の中の国の宗女が、なぜ、遥か遠い中国大陸に魏という国があることを知り、そして朝貢しようとしたのか?
その辺が全くわからない。つまり、動機がないのだ。
これは犯罪捜査でも何でも基本中の基本だ。

254 :
>>250
無知はそっち。唐古・鍵は石器を作っていた社会。
畿内説の学者は必死で鉄を探したが、見つからない。
あれば石器なんか作るわけがないからねえ。
調べてみればいい。

255 :
>>246
どうやって鍵唐古で銅鐸造るんだよw
それに近所に鏡作神社がある説明つかないからな。

256 :
>>254
君は無知じゃなく単なるバカだったのか?

257 :
>>254
ひょっとしたら調べても出てこないかもしれない。
畿内説は都合の悪い事は書かないから。
鉄があるかないかは石器でわかる。鉄が見つからなくても、
石器が減少していれば、鉄器があった可能性がある。
畿内説は都合の悪い事は書かないが、学者の態度でわかる。
唐古・鍵は学者があきらめた。それが証拠。

258 :
>>257
で、どうやって銅鐸作るんだよ?
都合の悪い質問を無視するのかなw

259 :
銅器も作れない未開人がどうして魏に使いを送ったというのだろう?
全く動機がない。船もないというのに。

260 :
また恒例の九州脳の現実逃避が始まりますw

261 :
>>258
石器しかないんだから、石器で作る以外にないだろう。
縄文時代の家だって、石器で作っているわけだし。
古墳時代になると、鏡は大量に作られる。
鏡作神社はその頃にできたんだろう。
都合のわいる質問をいつも無視するのは畿内説。
纏向が邪馬台国である根拠をいくら尋ねても、誰も答えない。
一番基本的なことなのに。
答えてみる?どうして纏向が邪馬台国なのかの根拠。

262 :
>邪馬台国畿内説の最大の弱点は、
>未開の山の中の国の宗女が
結論先にありきの典型ですな。

263 :
畿内は、邪馬台国の時代に大きめの邑ができたというだけの話じゃないの?
大陸とつながりもないし、魏へ使者を送ることなど考え付かない。

264 :
邪馬台国九州説の最大の弱点は、・・・

おつむ

265 :
>都合のわいる質問をいつも無視するのは畿内説。
>纏向が邪馬台国である根拠をいくら尋ねても、誰も答えない。
誰も答えないって証拠はないけど
きみが都合のわいる質問を無視した証拠は挙がってるんだよ。
石器社会で誰が銅鐸作ったの?

266 :
九州には、中国大陸から直接、もしくは朝鮮半島経由で魏や呉の商人が渡って来ていた。
九州からも大陸に人が渡来していた。
それに引き換え、瀬戸内海経由でも若狭湾経由でも、危険を冒さないと行くことのできない畿内へ誰が情報を伝えたというのだ?
何度でも言おう。畿内には、魏に使者を送るに足りる動機がない。船もない。

267 :
頭の弱い九州教徒が無残に爆死しておる

268 :
反論せずにあおるだけ、どっちが馬鹿か一目瞭然。

269 :
>>261
石器で銅鐸作るんなら技術的には高いという事だよw
鏡なんて簡単なもんだ。
それにモモソの母は淡路島出身だからな。
つまり日常的に同一生活園でもあり、畿内に鉄工房もあるんだよ。
戸数的にも七万戸ならそれ位の範囲をみなければダメだからな。
なので巻向はモモソ即位に際して新たな祭祀場として建設されたのだよ。

270 :
>>266
中国から九州でも十分危険だろ
キミは東京から京都行くのと神戸行くのに旅程に
大幅な差が生まれると思うのか?

271 :
纏向で楽浪土器でてるんだけど。
舶載鏡あるんだけど。
輸入物の紅花や水銀朱が見つかってるんだけど。

272 :
>>263
何故河内の弥生遺跡から貨泉が出るの?
また中国人なら紀伊半島の鉱物、水銀朱は興味あるはずだが。

273 :
纏向に最新式の鉄器鍛冶工房あるんだけど。

274 :
おい、石器社会男。石器社会でどうやって銅鐸つくったか説明してみ
おまい、アワビ男か?

275 :
纏向に大きな国があったというのは確実だ
問題はその国の勢力がどのくらいの大きさだったかということだ
北九州にまで及んでいれば畿内説が正しいし
北九州に及んでいなければ畿内説は間違っているということだ
で、纏向の勢力が北九州に及んでいるかというとこれはいないんじゃないか
考古学者の知り合いがいないので分からないが
考古学でも纏向の力は北九州に及んでいるとはいえないんじゃないか
連合国を作ったという無理のある「設定」を作らないと畿内説は成立しないのだ

276 :
明らかに及んでるので畿内説正解で間違いなし。

277 :
「無理」とか「おかしい」とか言うばかりで
理由をひと言も言わないのが九州説

278 :
>>266
>それに引き換え、瀬戸内海経由でも若狭湾経由でも、危険を冒さないと行くことのできない畿内へ誰が情報を伝えたというのだ?
>何度でも言おう。畿内には、魏に使者を送るに足りる動機がない。船もない。
これはウケ狙いのネタだよな
中国から九州まで来るのと畿内まで来ることの危険度の違いは誤差みたいなもんだろ
邪馬台国(ヤマト)は戸数7万戸で国内最大の国だった
勢力範囲が奈良盆地だけのはずないだろ
当然領土の一部は海に面していただろうから船を持っていたと考えるべき

279 :
畿内説はちゃんと理由言ってるのになあ
モモソは女だから卑弥呼だとちゃんと言ってるよなあ
うちの母ちゃんも女だから卑弥呼だぞ

280 :
畿内説だと九州に上陸した理由が説明付かない
九州も大阪も誤差の範囲なら
直接大阪に行きそこで上陸する

281 :
>>275
纏向を中心にして国があって、勢力が北九州に及ぶか及ばないかくらい大きな国だったと認めてしまった以上、
もはや九州説は成り立たないんだよ
九州説の人が九州にあったと主張する邪馬台国は弱小国ってことになってしまう
そんな弱小国に倭王の称号を与えるわけないでしょ

282 :
うちの母ちゃんだって女だっていう伝承があるぞ
やっぱり卑弥呼だったんだなあ
姉ちゃんも妹も女だっていうからやっぱり卑弥呼だ
うちには卑弥呼が三人いるぞ
九州説ざまあみろ

283 :
卑弥呼は魏に朝貢したのではない。魏を征伐したのだ。
そして弟の斉王曹芳を魏王に立てた。

284 :
ここのスレの住人は言い合いっこすれば邪馬台国が見つかると思っているのか。
きっちり自分の意見の理由を明確にし、論証・立証をしろ。ウマシカども。

285 :
邪馬台国がもし北九州だけだったら
そんな弱小国に倭王の称号を与えるわけがないといっている人は
当時の朝鮮半島の状況を知らないのだろう
はっきり言って北九州だけでも十分大国だ
それに1世紀には奴国が金印をもらってるし
ずっと後のことだが九州を支配していただけの懐良親王が日本国王になっている
案外いい加減なもんだ
シナの王朝が日本列島の状況を完全に把握していたと考えるほうがだめだろう
シナの王朝は日本列島をひとつの国だと認識していて
その中の最大の勢力でなければ倭王の称号を与えなかったと考えているのかな
それは実に愚かだね

286 :
>>285
これぞ九州脳だなw

287 :
>>280 上陸したなんてどこにも書かれてないことが読めてしまうのは
これも九州脳

288 :
>>200
>つまり、帥升が後漢に朝貢した西暦107年から光和元年(178年)あたりまでが空白の期間となる。
そうだ。空白だ。
>前に、卑弥呼は帥升の系統の王と書いた。
書くのは自由。しかし、その根拠を明示しないと話にならん。
確かに帥升等が九州に居たと読める史料があるので、それを元に推論を立てる事は可能だが、残念ながらそれでは倭国王じゃない。
帥升等がどこにいたかなんて、「わからない」が妥当な姿勢だ。
そのわからない帥升等の後は、君の言う通り、「空白」なんだ。
卑弥呼が帥升等の系統の王なんて言うのは、単なる君の想像。
想像する事は自由だが、その勝手な想像を根拠に推論を重ねた所で、そんなものが議論の俎上にあがる訳が無い。
相手にされないゆえ、まともなレスが付かないんだよ。

289 :
穴だらけの「解釈」を絶対視して根拠も示さずに言い張り
他人の解釈は頭から拒否するだけで反論もせず
考古学の成果にはソッポを向きながらも
自分に都合のよい部分だけはいいとこ取りして
適宜歪曲のうえ使用する
それが九州脳

290 :
>きっちり自分の意見の理由を明確にし、論証・立証をしろ。ウマシカども。
それ、九州うましかアワビ男のみに該当

291 :
帥升こそ九州にたとした方が妥当。
大宰府の長官である大宰帥である。
陸奥国の長官は陸奥守であり、北辺の守りを担う多賀城の長官は鎮守将軍だから、
大宰府の長官は帥でなければならない理由があったはず。
言い尽されたことだけれど。

292 :
>>90
>西部瀬戸内海系3%
>>193
>大体畿内説で卑弥呼像として挙げる事の多いモモソ姫は
>唐古遺跡の横、保津遺跡周辺に生まれたとされているよ。
>>269
>それにモモソの母は淡路島出身だからな。
なんか繋がってきたね

293 :
帥升が願請見した107年頃は倭国内で大きな戦争があったようなことは後漢書には書かれていない
北部九州には販売する貴重な産物がないにもかかわたず舶載品が多い
生口百六十人は九州での交易で奴婢を手に入れたものだろう
倭國王というのは偽称で、北部九州で舶載品を副葬している渡来人商人だな
九州地方のこうした基幹産業は、その後も九州のキリシタン大名、唐行きさんといった形で
受け継がれている、日本の恥部だな

294 :
>>287
陸行五百里とあっても上陸しなかった、水行したというのかな?

295 :
キリスト教にすぐに感化されたのは、もともと景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人、秦氏の子孫だったからではないかと推測されます。
八重の桜を見ていたら、伊勢の御師を祖先に持つ伊勢時雄(八重の姪のみねの夫)がキリスト教の伝道士になったのがおかしかったけれど、
実はごく自然なことなのです。

296 :
>>288
こうやって見ると、畿内説としてはローガンもかなりまともに思える。
最近の畿内説はひどいな。論理的な思考が皆無。
帥升は、西暦107年に後漢に生口160人を献上した。後漢書には倭国王とある。
これだけの情報しかないが、重要なキーワードが三つある。
一つは「西暦107年」。九州では、須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡など、
それ以前から大陸との交流が認められ、前漢鏡などが数多く見られる。
前漢鏡は、上の二つの遺跡だけでも65枚以上。有明海沿岸からも出ている。
一方で、近畿地方からは大陸との交流の証はほとんど見られない。
この交流の証の違いから帥升は九州の王と見られる。
次に、生口160人。卑弥呼が魏に献上した生口は男女合わせて10人。
これからも帥升が大きな力を持っていた王であることがわかる。
ただ、いくら大きな力を持っていたとしても、この時代に160人もの
人間がいなくなれば、集落あるいは国は成立しなくなる。
このことから、160人の生口は戦争捕虜と考えられる。
つまり、帥升はかなり大規模な戦争の勝者と考えられる。
次に倭国王、倭国王は、一つの国を表しているわけではない。
それらの国々の総称として使われている。日本国王というような意味になる。
西暦57年の倭奴国の王と比較するとその違いは明白。(続く)

297 :
(続き)
また、倭国王は、日本史上初めての登場であり、これは卑弥呼の倭王と
共通するものである。この称号から帥升と卑弥呼の連続性が認められる。
また、帥升がたとえば近畿地方にいたとすれば、倭国王の意味するところは
日本の大部分ということになり、これは明らかに非現実的。
ここにも、帥升が九州の王であると考える理由がある。
また、倭国が九州の一部を指してことがわかる。
帥升と卑弥呼の連続性は、倭人伝の記述、「その国もとまた男子を
以って王とする」からもうかがえる。
畿内説では、倭国の大乱の70年も80年も前に男子の王がいたことが
説明できない。
つまり、倭国の大乱は、帥升が築いた倭国の体制の後継者をめぐる
争いということになる。これは、卑弥呼の死後、跡継ぎをめぐり
争いが起こり、千人あまりが殺され、台与を王にすることにより
国中がついに定まったということからもわかる。
このように、帥升を九州の倭国王であり、卑弥呼がその後継者であると
することにより、矛盾のない歴史が浮かび上がることになる。
つまり、邪馬台国は九州にあるということ。
ローガンには、畿内説に立って、これらをうまく説明して欲しいな。

298 :
帥=将軍
升=昇 昇る、昇進する
固有の人名ではなく、
将軍から王になった人物
って意味だな

299 :
>>296
そこまで大発見だと思ってるのならこんな便所の落書き掲示板で発表するのはもったいないよ
しかるべきところで発表したらどうだ?

300 :
>>294
魏の使者が「陸行五百里」したなんて、倭人伝のどこにも書かれてないけど?

301 :
ここで畿内のどこが有力かって議論が起きないのが不思議

302 :
>>300
里数を書いてあるところは魏の使者は行ってるでしょ
里数を書いてないところは行ってない
ただしこれは行程記事を記録した役人の話
梯儁や張政は邪馬台国まで行ってるが、彼らがどこまで詳しい記録を残して、
その記録が倭人伝にどう反映されてるかは不明だけど

303 :
>>297
何故九州のすぐ横、瀬戸内海の視点がないのか不思議だね。
モモソ母は淡路島出身で、モモソ自身も
讃岐や香川で三輪山に戻るまで過ごしてるんだろ?
倭国大乱を瀬戸内海の領海権争いだと過程すると、
邪馬台国を畿内に求めるのに全く苦労しないけどなw

304 :
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至
女王國東渡海千餘里 復有國    ←行ってるでしょ
有侏儒國在其南 去女王四千餘里 ←行ってるでしょ
有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至 ←行ってない

305 :
「行ってるでしょ 」に根拠なし

306 :
女王國東渡海千餘里 復有國
    ↑
行ってるくせに名前出していない。
投馬國の構成國なのかもしれない

307 :
合算とかして出した数値には「可」がつく
伝聞による情報のも「可」がつく
確かな情報から論理的に導き出した数値にも「可」がつく

308 :
使者が行ったのは邪馬台国まで。あとは東渡海千里の国や侏儒国、裸國 黒齒國
は倭人から聞いて書いたものだよ。

309 :
数値に「可」がつかない構成の文だから実際に行っていると理解すべき。

310 :
倭種が住んでる国って表現は、都市伝説に近いニュアンスだろ
小笠原あたりの島のことで、漁師が遭難して奇跡の生還を果たした数少ない生存者から聞いた話だな
本州や四国のことではないのは明らか

311 :
若くして聡明だと評判だったモモソヒメが、大乱で疲労した
北部九州〜瀬戸内海沿岸諸国の推薦を受け諸国が和睦。
大和へ戻って大物主に嫁ぐのは、東国の産物を
モモソヒメが諸国へ分配する役割を任されての事だったんだろう。
だから大市の名があるんだよ。
なので各地の市を仕切るのが大倭、大和の所以でもあるという事。

312 :
女王國東渡海千餘里 復有國
有侏儒國在其南 去女王四千餘里
參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里
千餘里+四千餘里=五千餘里

復有國といい
女王國を行程端として方向と里数と移動手段を記述
しかも「復有國」のを行程端として侏儒國への方向と里数を記述
でありながら「復有國」の國名のを記述しないのはへん

313 :
>>309
「可」がつくかつかないかで区別する理由はない。

314 :
里数を書いてあるところは魏の使者は行ってるという根拠もない

315 :
>>312
東には倭種の国があるというだけで国名は分からなかったんだろう。
侏儒国は女王国の南にある。倭種の国の南ではない。

316 :
>畿内説では、倭国の大乱の70年も80年も前に男子の王がいたことが
説明できない。

普通にできるけど?

317 :
有侏儒國 在其(復有國の國)南 去女王(女王境界)四千餘里
復有國の國のは女王境界線上にあった
乃至は、女王境界のぎりぎり内側にあった
乃至は、女王境界のぎりぎり外側にあった

318 :
千餘里+四千餘里=五千餘里
「女王境界」といふは「倭國」の外延を区切るラインの如きものならむ
「女王國」といふは「倭國」を統べる女王の根城の如きものならむ

319 :
稗箕狐は幼稚園児の如きものならむ

320 :
>>194 :ローガン
>君はこの「住する」を男子王の在位期間と捉え、男子王→後継者争い→卑弥呼共立という一連の流れだと考えた訳だ。
>「住する」って変だろ。それは普通「とどまる」と訳すんだ。 つまり、70〜80年王が不在。
其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歴年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼
ローガンの頭は詐欺師的発想で満ち溢れているようだ。
其國本亦以男子為王,住七八十年 は「其の国は本亦男子を以て王と為し(男子王の状態で)とどまること七八十年」
と述べているのだが、ローガンはそれをねじ曲げて「70〜80年王が不在」とする。
あるいは、ローガンは漢文を読めないのかも知れない。誰かの訳文をタネに論じているだけかも知れない。
もしかしたら、ローガンは阿呆なのかも知れない。

321 :
>畿内説では、倭国の大乱の70年も80年も前に男子の王がいたことが
説明できない。
こんなアホな事言ってるからバカにされるんだよなw

322 :
字面:「説明できない」
真意:「おまえが何と説明しようが聞く耳は持たない。
    正しいのは何が何でもオレ様だけだから。」

323 :
出来るならすりゃいいのに

324 :
またバカにされるからだろ
アワビマンの二の舞になるだけ

325 :
しかし、大昔の権威ある大馬鹿が吐いた嘘に騙されてる小馬鹿が多すぎる
謀叛なんて概念は存在すら許されなかった概念だろうな

326 :
国々の王が一人の巫女さんを女王にして連合国を作った
このファンタジックな与太話を信じている人はとてつもないアホウだろう
そんな話は古事記にも日本書紀にも書いてないし
よく読むと魏志倭人伝にも書いてない
纏向遺跡からは北九州の土器が出てこないから
考古学の成果とも一致しない
何より常識的に考えてありえない

327 :
卑弥呼は小国家群の議長かバチカンの司教みたいなもんだろう。
直接大国を率いていたわけじゃない。
何より貢物が帥升よりも、かなり少ない。

328 :
半島の南半分のが貢物なんだからすごいのな。

329 :
貢物が少ない?じゃ、遠い畿内が邪馬台国という事だな。

330 :
バランサーなんて小国の考えることだろw

331 :
帥升邪馬台王=アワビマンなの?

332 :
>畿内説では、倭国の大乱の70年も80年も前に男子の王がいたことが
説明できない。
説明ずみじゃん。
日本列島は100年も国家形成が停滞してるとでも思ってるのか、アホ!ってさ。

333 :
生国魂神社(大阪市)(紀元前700年)日本の神そのものを祭る神社
神功皇后の住吉大社(大阪市)(211年)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)(593年)

334 :
住吉神社の元社は福岡ですね

335 :
卑弥呼の鬼道は住吉大社だと思うよ
三輪山を御神体とする大物主じゃないと思うな
卑弥呼は北九州にいたんだからね

336 :
住吉神社の関係は神功皇后で語るべきでしょうけど、
福岡市を中心として事跡が多い神功皇后の、
ゆかりが深い住吉神社の元社が福岡市にあり、
大阪にもあるというのは、興味深い話ですね。

337 :
神功皇后自体は葛城地方出身だけどな。
人前にもバンバン姿を表して、はっきりした婿も
子供もいるので卑弥呼像とは全く違う。

338 :
神功皇后は豊玉姫、卑弥呼は玉依姫神

339 :
逆かな?

340 :
>>296
>畿内説に立って、これらをうまく説明して欲しいな。
簡単な事だ。では、わかりやすいように君の論調に沿って
>「西暦107年」。九州では、須玖岡本遺跡、三雲南小路遺跡など、
君は、代表的な遺跡遺構遺物と史料を重ね、帥升等の在所を九州と推測した訳だ。
(もっとも「願請見」なので、通交の有り様を記録したものではないが、とりあえず横に置いて)
帥升等後の「空白期間」を経て、約120年後に中国と通交が再開した。
という事は、通交が始まった3世紀の前半以降、大きく様変わりを見せる遺跡の存在する地域が、通交の主体と捉えて良い訳だ。
同様の理路でいけばね。
勿論該当するのは纏向。

341 :
>人前にもバンバン姿を表して、はっきりした婿も
>子供もいるので卑弥呼像とは全く違う。
あんた神功皇后が実在の人物だとでも思ってんの?

342 :
もちろん伝説の人物をモデルに、あるべき新羅得討伐戦争の大元帥斉明天皇を理想化神格化したプロパガンダ・イメージキャラクターでしょうね。

343 :
倭国王帥升等/献・・・請・・・ではない
倭国王帥升/等献・・・請・・・だ
等の後には必ず複数の事項が記されていて、等は前にではなく後に係ってる
全ての等の事例を調べてみろ
過去の権威ある馬鹿の言ったことをそのまま信じるな!
自分が納得出来る読み方をしろ!

344 :
そういやって自分ひとりしか納得しない珍読を発明し続けるのが九州説

345 :
レッテル張りで根拠なく否定するんじゃなくて、具体的な根拠を示して反論しろよ
ちなみに俺は九州説でない
畿内説でも四国説でも東北説でも朝鮮説でも日本海説でもないけどね

346 :
エジプト説?

347 :
ハワイ説?

348 :
345って口を開くたびに、ついてたウソがバレるね。

349 :
具体的なウソの事例は?その具体的な根拠と共に頼む

350 :
バレるのは嘘じゃなくて知識の無さだろう。
結局独りよがりで勝手な断定しかしてないしな。

351 :
>>341
神武と同様に、ある人物に脚色をされた存在だろう。

352 :
具体的なウソの事例
「俺は九州説でない
 畿内説でも四国説でも東北説でも朝鮮説でも日本海説でもないけどね」
で?

エジプト?
ハワイ?

353 :
>>340:ローガン
>帥升等後の「空白期間」を経て、約120年後に中国と通交が再開した。
帥升等後の「空白期間」とは倭から漢(後漢)への朝貢が史書に記録されていないというだけだろ。
交易などの通交があったことは九州の遺跡出土物(漢鏡など)から推定できる。
倭と漢の通交が途絶えたのは倭国乱後のことだろう。三国志東夷伝に
桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康、分屯有縣以南荒地、爲帶方郡。遣公孫模張敞等、
收集遺民、興兵伐韓濊。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方
とある。桓靈之末と言えば倭国乱の頃である。この頃、公孫康が倭や韓を帯方郡に属しめたとあるが、しばらくはこの
帯方郡を通じて倭と漢の通交は行われたであろう。漢との通交が断たれたのは公孫淵が遼東大守(228年)となって後
自立路線を歩みだしてからであろう。それは卑弥呼が魏に難升米らを派遣する数年〜十年ほど前のことであろう。
そう見れば、中国(漢、魏)と倭の通交の途絶期間はそれほど長くなかったのであろう。120年の空白期間など妄想に
過ぎない。

354 :
ダメだこいつ。
「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域」と史料にあるのを知らないよ。
 公孫三世代が「数年〜十年」だってさ。

355 :
>>350
だったら論破してみろよw

356 :
だいたい倭王が洛陽までのこのこ160人の奴隷連れて行かないだろ

357 :
>>352
日本国内でも、関東・東海・中部(内陸部)が残ってるなw

358 :
畿内説がどんどん支持を失っていくのが目に見えるようだ。

359 :
畿内説は、アホとか馬鹿とかを連呼するだけだな。
これで支持を得られると思っているんだろうか。
見ている人の反感買うだけだろう。

360 :
多数決で決まるわけでもないけどな

361 :
>>340
ローガンは、纏向をどのように考えているわけ?
いつ頃出来たのか。誰が作ったのか。卑弥呼はどういう位置づけになるのか。
これと、「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂…」の記述の
整合性をたずねているんだが。
ほかの畿内説の人でもいいから、これに答えられる人はいるかな。

362 :
男王の時代から都が纏向って説いるのか?

363 :
べつに
倭国の九州に、むかし男の倭国王がいたことと
その王が失墜したあと180年代に
纏向が建設されて卑弥呼が擁立されたことと
なんの不整合も無いですけど?

364 :
>畿内説がどんどん支持を失っていくのが目に見えるようだ。
むろん、それは幻覚。

365 :
纏向が建設されたってことは、その周辺に権力を持った勢力がいたってことだが・・・
果たしてそれはどこなんだろうね?w

366 :
>男王の時代から都が纏向って説いるのか?
きみの脳内妄想世界以外には、いません。

367 :
>>361
自己レスだが、畿内説の考古学者は、纏向は三世紀になって突然出来た集落と
言っている。僕はもっと後だと思うが。
まあ、年代はともかく、突然出来た集落(人の住んだ形跡は見つかっていない
ようだが)であることは間違いない。
では、誰が作ったのか。邪馬台国は九州の各国までも支配していたのは
間違いない。郡使は伊都国に常駐しているし、末盧国や奴国、不弥国も
九州の国だから。
つまり、突然出来た纏向邪馬台国がどうして九州の壱岐や対馬まで
支配して、魏に使者を送れるのか。
これが第一の問題点。

368 :
何故、九州の勢力が纏向に新都市を作らなければならなかったのか?
それが第二の問題点。

369 :
>>366
きみのって、俺は違うぞw

370 :
じゃ、どこにあるの?
「男王の時代から都が纏向って説」と発言したのはきみだけだけど。

371 :
>つまり、突然出来た纏向邪馬台国がどうして九州の壱岐や対馬まで
>支配して、魏に使者を送れるのか。

>これが第一の問題点。
なんの問題でもありません。
「纏向邪馬台国」が「突然出来た」などと誰も言っていないからです。
纏向という王都が邪馬台(ヤマト)国に新規に建設されたと
皆が認識しているだけです。

372 :
>何故、九州の勢力が纏向に新都市を作らなければならなかったのか?
>それが第二の問題点。
はあ?
畿内説の誰が纏向作ったのは九州勢と言ってんの?

373 :
>何故、九州の勢力が纏向に新都市を作らなければならなかったのか?
>それが第二の問題点。
なんの問題もありません。
だれも「九州の勢力が纏向に新都市を作」ったなどと
言っていないから、です。

374 :
>>370
纏向の出現時期と男王の時代が合わないって言ってるおじさんがいるんじゃないのか?
そんな説を聞いたことがないから、いるのか?って訊いたんだが
何かおかしいか?

375 :
つまり纏向周辺にはそれを作れるだけの大勢力があったってことだね

376 :
アホ
>何故、九州の勢力が纏向に新都市を作らなければならなかったのか?
>それが第二の問題点。
まともな人
>はあ?
>畿内説の誰が纏向作ったのは九州勢と言ってんの?

ヘンテコな説を自分で捏造して、それを自分で批判して
勝った勝ったドヤ顔をするマッチポンプ九州説の異常体質が
顕著に現われている

377 :
>纏向の出現時期と男王の時代が合わないって言ってるおじさんがいるんじゃないのか?
>そんな説を聞いたことがないから、いるのか?って訊いたんだが
>何かおかしいか?

纏向の出現時期と男王の時代が合わないって言ってる
明らかにチエオクのおっさん(おそらく爺さん)がいるけど
勿論そんな説を、誰も聞いたことがないから
そのおっさんは、おかしい。

378 :
結局アワビ男がひとりで発狂しているだけのような

379 :
>>354
>ダメだこいつ。
>「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域」と史料にあるのを知らないよ。
> 公孫三世代が「数年〜十年」だってさ。
アホかこいつは。
而公孫淵 仍父祖三世有遼東 天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷不得通於諸夏
の意味を知らないな。
公孫氏は公孫度、公孫康、公孫淵の三代に亘って遼東大守を務めた。天子は其れ(遼東)を漢の東の端の領域
とし、海外(国外)の事の処理を任せた。が、遂に公孫淵の時代に東夷と諸夏(中国の国家)の通交が断たれた。
と書いてあるだろが。
畿内説信者の漢文読解力の低さは哀れなほど低いな。

380 :
>>377
纏向の出現時期はいつで、男王の時期はいつなんだ。
それを言わなきゃ話にならない。

381 :
>>379
畿内説の無知は恐ろしいほどだ。
性格が悪いだけと思ったが、無知も極まっている。
ここまで来ると、無知は極悪といえる。
掛け算も出来ない高校生が、微分・積分を語っているようなもの。

382 :
>>379
「天子爲其絶域」の訳があきらかにウソ

383 :
なにも反論できなくて罵るだけの九州説といったら
レベルの低さは哀れなほどだ

384 :
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
基本的に記紀の通りだろ
7、80年は欠史八代に相当する
この間、邪馬台国は抜けた存在ではなかったため日本列島全体では親分不在であちこちで紛争があった
その後、邪馬台国では後継者争いで揉めた結果、家臣の総意でオカルト全開のモモソヒメが擁立された
奈良周辺の豪族とタッグを組んででかい国のできあがり
連立政権スタートに合わせて纏向にサイキバも作る
さらに全国に遠征して地方豪族を支配下に置く
雑魚豪族は国造として認めてやる条件を示せば抵抗せず従ったが、
出雲みたいにでかい国は反抗したので武力でやっつけちゃいました
出雲が負けたと聞けば九州の雑魚など戦意喪失で戦わず傘下に入りましたとさ
全国制覇が完了したら、それにふさわしい都が必要ってことで纏向を増築
まあ根拠も何もない妄想なんでつっこみはなしな

385 :
それなら>>363が通説を明解に書いているので
言われても解らない>>380はチエオク

386 :
アワビ男がへんな自演をしている

387 :
>>382
ならばおまえがそれを日本語に訳してみろ。
おまえの漢文読解力では出来ないだろがね。

388 :
>>385
で、纏向は誰が作ったわけ?
つまり、リーダーシップを取ったのは誰かということ。
また、>>363には纏向が出来たのは180年頃と書いてあるが、
纏向遺跡で検索すればわかるが、まず全部、出現時期は
三世紀と書いてあるはず。まあ、三世紀も100年あるわけだが。

389 :
>>388
リーダーシップを取ったのは誰か、というと誤解があるかもしれないので、
どこの国がリーダーシップを取ったのかに訂正。

390 :
>>388
385の奴は畿内説信者の中でも特に知的レベルが低い男だよ。軽卒で、無学で、軽口だけの男だから。

391 :
そうやって罵倒しか出来ない事実が
自分自身を
 知的レベルが低い男で、軽卒で、無学で、軽口だけの男
と立証しているわけだが

392 :
>>367>>368を見れば明らかなように、こいつの畿内説に対する理解が間違ってたってことでしょ

393 :
つまり、纏向が出現したのは三世紀。
なのに、倭人伝には、その国には、180年ころとされる倭国の大乱の
70年も80年も前に男王がいたと書かれている。
これは大きな矛盾だな。
国が出来る100年以上も前に、男の王がいたなんて事はありえない。

394 :
まだ勘違いしてるw

395 :
>>394
何を勘違いしているかな?

396 :
纏向が突然できた≠邪馬台国が突然できた

397 :
寺沢は次のように言っている。
 三世紀の初め、纏向は突如として出現した。それは従来のいかなる巨大弥生集落とも
異質な政治的な都市の誕生であった。〜纏向の地に都を置いたにもかかわらず、その権力
母体は邪馬台国でもなければ、奈良盆地や近畿中心部の部族的国家連合でもない。

398 :
>>379は「仍」(=因果關係)をきちんと訳してないから
前の西域の大国からの朝貢がない年はないという内容と繋がってないな

399 :
反原発といているのはあほ。
地震が起きるまでは反CO2と言っていた。
なのにそれまでのこと全て忘れて急に反原発なんて言い出すのは馬鹿。
地元自治体に多額の補助金が行っていたのはこういうリスクまで含んでのこと。
原発にはM8まで耐えられるように設計されてる。
関電の責任は古い原発を動かしていたことだけ。
今から原発止めたら電気料金が上がる。
それだけでなく京都議定書の削減量守れなかったら他の国から買い取らないと
だめだからとんでもないお金がかかる。
今までやってきたことを急に変更することはできない。
それを考えずに反原発なんて言っているのは売名や寄付金を中抜きしたい
人だけ。
現実には可哀想な被爆者なんかいない。
ちゃんと対価を貰っていた。

400 :
 >三世紀の初め、纏向は突如として出現した。
纏向に古墳群を建設することになったので、工事の現場指揮所と飯場を急いで作ったのだろう
ま、四世紀の初めだな

401 :
もはや外界との情報交換を遮断して幻想と戯れるしかない九州説

402 :
>>395
>何を勘違いしているかな?
あんたが空想している「畿内説」なるものが、地上に実在しない事実を知れや。

403 :
巻向は別に突然出来た訳ではない、そのうち判る。
母体は当然鍵唐古も含まれるよ。

404 :
>>397
その通り。畿内説の人たちもだいたいそういう認識だと思っていたが、
それを知らない人もけっこう多いようだ。
そして、それをもっとも的確に説明できるのは、東征・東遷ということ。
九州から、ある勢力がやってきた。新しい集落を建設する。
統治者として君臨する。その地域の銅鐸祭祀を禁止する。
自分たちの墓である古墳を作る。自分たちの祭祀である鏡信仰を広める。
棺は自分たちの習慣である朱で染め、副葬品は自分たちの従来からの
鏡・剣・玉類などにする。全てうまく説明できるわけだ。
しかし、これでは邪馬台国東遷説になってしまう。畿内説の考古学者としては
それだけは認めるわけにはいかない。だから、いろんな奇妙ともいえる
説を考え出さなくてはならなかった。「ゆるやかな連合」というのが
それなのだが、ここの畿内説は、そういう畿内説の事情を否定する人も
けっこう多い。

405 :
それが妄想

406 :
これまでに出てきたように、卑弥呼を帥升以来の倭国王の後継者とすれば、
邪馬台国は九州にあることになる。これと、東征・東遷を結びつけると
すれば、纏向は、卑弥呼・台与のあとでなくてはならない。
従来はそういう考えだった。纏向は300年頃出来たという考えだった。
纏向を百年ほど遡らせて邪馬台国の候補としたのも、東遷説を否定する
畿内説の考古学者の戦略と言えないこともない。しかし、関川尚功氏のように、
纏向を四世紀になってから出来たという人もいる。関川氏と言えば、
纏向を発掘してきた責任者の一人。

407 :
それも妄想
だって、出典が挙げられないでしょ

408 :
1.自説に有利な証拠を集めることで対立する説より優位に立とうとする方法。
2.対立する説の欠点を突くことで自説の不利を補おうとする方法。
決定的な証拠がない場合に起こる学術論争は、常に不毛なものです。
これまでのやり方では、らちが明かないことは論争の当事者自信が一番感じているはず。
ブレイクスルーのためには発想の転換が必要なのです。
そのためには、関連する周辺分野の最新の知識を習得すること。
魏史倭人伝や紀記といった旧来の文献解釈に頼っていても埒が開かない。

409 :
>>404
年代が違う
三世紀初めに邪馬台国東遷したんかw

410 :
>>404
解釈が古すぎる。最近の出土傾向からは無理があるから。
巻向周辺には九州以前に瀬戸内東部との関連性が大きい。

411 :
纏向ができた時期と大和朝廷の全国支配の時期は重なる
建設の初期段階はもちろん奈良周辺の人たちのみだったが、全国統一が完了すると
他の地域の人も加わる
数の上では纏向の建築物のほとんどはそうした新しい人々によるものだろう
寺沢氏の解釈はそれを言っている

412 :
纒向が仮に三世紀としたならば、
男王の7〜80年前から国は存在していたわけだから、
二世紀以前の痕跡がないとおかしいということになる。
箸墓だけを三世紀に持ってきても、説得力はない。

413 :
寺沢はこんなことも言っている。
 権力母体は、明らかに「筑、備、播、讃」などの西日本各地の部族的国家連合による連合政権
なのであり、前方後円墳の原型が楯築墳丘墓に求められる以上、そのキャスティングボートを握
ったのはキビ国だった。〜 前方後円墳を構成する諸要素は、肝心の部分が前段階のキビや讃岐、
播磨などの中・東部瀬戸内地域の要素で占められていることが一目瞭然だ。続いて北部九州で、
近畿の要素はずっと少ない。

414 :
>>412
イミフ
というか男王の時代の痕跡をなぜ纏向に求めるのか、その理解が間違ってると散々指摘されてるだろ

415 :
連合政権が自分たちの宗教を持ち寄って新しい宗教を作ったのか
新しい宗教を話し合いで作ったとでも言うのか
卑弥呼の鬼道を作ったのは誰なんだ
何で各国の王が卑弥呼の鬼道に従ったんだ
畿内説の人たちの説明はわけが分からない

416 :
>>413
そう、畿内説は、纏向出現の状況を九州勢力の東征によるものでないことを
否定するために、そういう連合政権を考え出した。
しかし、それにはかなり無理がある。
吉備が主導権を持ったとして、どうしてそれにほかの地域が
従わなくてはならないのか。九州がどうして参加しなくてはならないのか。
そのへんが不明。
それに、楯築にしても、従来の吉備の伝統の上にあるものではない。
突然、出現したそれまでの吉備とは異質なもの。むしろ、九州の影響を
強く受けていると考えられる。

417 :
>男王の時代の痕跡をなぜ纏向に求めるのか、その理解が間違ってると散々指摘されてるだろ
では、どこに求めたらいいのかな? キビにもとめるのかね。それとも北九州に求めるのかな?

418 :
>>414
そう、倭国の大乱の何十年も前の男王の痕跡は纏向には求められない。
>>397にあるように、周辺地域にも求められない。
つまり、邪馬台国の状況は、近畿地方には求められないということになる。

419 :
>>414
まあ、そのとおり
巻向周辺で生活の痕跡が少ないというのは、
さんざん言われているように、
元々はこの辺りの勢力ではないことを示している。

420 :
寺沢が上のように言いながら、それでも畿内説をとる理由は、「筑、備、播、讃」の中で、北九州の筑は
三世紀以降衰退していったからだろう。残る「備、播、讃」の中では吉備が有力だということだな。
しかし、吉備はもともとは銅鐸勢力圏内の国だ。銅鐸を消滅させた勢力とみるのは誤りだ。

421 :
>>379
なんじゃこりぁ?
「天子爲其絶域委以海外之事」の意味が
>天子は其れ(遼東)を漢の東の端の領域とし、海外(国外)の事の処理を任せた。
とは…。おそらくどこかで拾った訳なんだろうけど 幼稚過ぎる。

422 :
ローガンは言いたいことを小出しにするからまどろっこしい。
ちくまの三国志は次のように訳しているよ。
ただ(東方の地域については)公孫淵が父祖三代にわたって遼東の地を領有したため、天使は
そのあたりを絶域(中国と直接関係をもたぬ地域)とみなし、海のかなたのこととして放置さ
れ、その結果、東夷との接触は断たれた。

423 :
天使→天子

424 :
寺澤薫氏は、以前は東遷説に近かったんだよな。
1989年の雑誌で、森浩一氏と石野博信氏の対談が載っているのがあるんだが、
それを引用すると、ちょっと長くなるが。
(森)いずれにしても、吉野ヶ里遺跡の最後のころに、大和の纏向遺跡が
大きな姿を現すという、このつながりが面白い。纏向遺跡の北方に、
私がかつて発掘を担当した大和天神山古墳という、鏡を二三枚出土した古墳が
あります。この組み合わせを、鏡の専門家の梅原末治先生などは早くから
注目されていて、一段階前の九州の弥生の鏡の持ち方と一緒だということを
言っておられた。
あの古墳では、方格規矩鏡と内行花文鏡が中心の組み合わせです。だから
どういうかかわりかは難しいけれども、やはり九州の大勢力が、ある段階で
大和を中心とした地域に大きな影響を与えたいうことは、まず動かないと思います。
(石野)研究所の寺澤薫君は盛んにそういいますね。私はそこまでは行きません。

ちなみに、石野博信氏はこの対談の中で、
(吉野ヶ里遺跡は)倭人伝が書かれた頃、卑弥呼が死んだというのが247,8年ですから
少なくともその時期は含むだろうと思います。
と言っている。

425 :
189年 中平6年 
○董卓 首都洛陽に入る
○公孫度字升濟本遼東襄平人也 始度以中平六年據遼東
後漢が実質的に崩壊した時に
遼東では公孫度が勢力を伸して
董卓と結ぶことで支配の正統性を手中にした。
公孫淵仍父祖三世有遼東(189-238)
天子爲其絶域 委以海外之事
遂隔斷東夷 不得通於諸夏
天子云々はいいわけみたいなものだよ。

426 :
公孫「度」 始「度」以中平六年
「度」=「渡」 御一行様は船で渡海して遼東に入った?
「升濟」←→「帥升」「難升米」
「升濟」←→「百濟」

427 :
>>418
どれだけ思い込みの激しい奴なんだよw
巻向は阿波や讃岐辺りとも関連性が深いというだけで、
女王=モモソの為に新しく宮を造る理由が簡単に説明出来るじゃん。

428 :
北部九州に七万戸の集落なんて、考古学的には相手にもされないからな。

429 :
なんでモモソヒメが女王だって思い込んでんの
ちゃんと記紀を読んだことがあるの
本に卑弥呼がモモソヒメだって書いてあったからって鵜呑みにしてるの
纏向は大和の天皇が作った都であって邪馬台国ではないよ

430 :
>>427
女王のために新しく宮を造ったなんて話ではすまんぞ。寺沢が次のように言っている意味をじっくり
と考えてみることだ。
 三世紀の初め、纏向は突如として出現した。それは従来のいかなる巨大弥生集落とも
異質な政治的な都市の誕生であった。
その誕生と同時に、盆地の弥生集落の基礎構造は瓦解した。唐古・鍵など弥生前期から
安定した環境のもとで発展してきた集落の大部分が消滅したり衰退したりし、小規模山村
へと分裂してしまったのだ。
〜纏向の地に都を置いたにもかかわらず、その権力母体は邪馬台国でもなければ、奈良盆
地や近畿中心部の部族的国家連合でもない。

431 :
「三世紀の後半、纏向は突如として出現した。」のなら
はんこ貰ろたおひとが移動して「知初國之御眞木天皇」のにぴったり。

432 :
>>431
だから、倭国の都なんだよ。

433 :
それは430へのレスだな

434 :
>>429
何故紀には結構項を割いてるモモソが
天皇として記述されないか、考えてみたら?
倭人伝には倭の女王、卑弥呼には婿や子がいないと
書かれてしまってるだろ。
血統切れちゃマズいだけの話。

435 :
>>430
だから新たな知識を得て讃岐辺りから大和へ返ってきた
卑弥呼=モモソの宮なら話は簡単だけどな。
三輪山の神に嫁ぐんだからピッタリじゃないか。

436 :
では纏向を建設するまでの都はどこなのか、それが問題だな。

437 :
モモソは鍵唐古のすぐ近所で生まれたとされてるだろう。
そこは考霊天皇の宮、元々「宮古」と呼ばれていた場所だからな。
ここにも弥生期の遺跡が存在しているのは古くから確認されている。
鏡作神社もこの場所だからな。

438 :
>北部九州に七万戸の集落なんて、考古学的には相手にもされないからな。
七万戸の大半は農産漁業者でてんでんばらばらの散居状態。まとまった遺跡なぞ想像するほうがおかしい。

439 :
畿内説論者は行き当たりばったり。畿内に七万戸の集落があったかどうかすら
考えたことがないんだよ。

440 :
>七万戸の集落
どこにもあるかそんなもんw

441 :
北部九州説では七万戸どころか投馬国や奴国もぶち込む事になるからなw
よくそんなバカな話を主張出来るもんだ。
畿内説なら大和に淡路島から大阪湾周辺だけでいい案配だろう。
モモソの行動範囲とも一致するだろう。

442 :
北部九州説は戸数を信用しないと主張するんだろう。行程記事を信用しないという
畿内説と五十歩百歩だと思うよ。まだ、北部九州説がましかも知れん。

443 :
>>430
>その権力母体は邪馬台国でもなければ、
寺沢氏のこの発言はどういう立場で言っているのかさっぱりわからん
なぜ邪馬台国という表現が突然出てくるのか?
まるで邪馬台国がどこの誰であるかを特定してるいるような意味になる
この発言のソースは?

444 :
国全体で7万戸だからな
7万戸の都市が有ったわけではない

445 :
西暦200年の推定人口。
畿内(京都・大阪・奈良) 30,200人。
畿内周辺(滋賀・三重・和歌山・兵庫) 70,300人。
北九州(福岡・佐賀・長崎・大分) 40,500人。
南九州(熊本・宮崎・鹿児島) 64,600人。
ただ、九州の場合は遺跡の規模が大きいので、もっと人口は
多かったとも言われる。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html

446 :
行程パズルは馬鹿らしいのでする気はないが、
畿内説でも奴国を山口県に跨る国と見りゃいいだけの話。
戸数を正確と考えりゃそれが普通だし。
方角の間違いもこれだけで相当解決するよ。

447 :
盛時の楽浪や帯方なみの国が九州の一角にあったという説は
まず、ありえない。

448 :
九州は下半分は文化が違う

449 :
>>443
寺沢は纏向を含むヤマトを邪馬台国と考えているんだよ。ただ、弥生時代の遺跡があまりにも
乏しい。纏向を造る実力は到底ない。畿内に広げて考えても無理。そこで、「筑、備、播、讃」
というわけさ。「王権誕生」での主張だ。
何で北九州が参加したというのか、そこの話になるとメロメロ、卑弥呼の魅力におぼれたという
程度の妄想しかできない。

450 :
>>448
ネットで見かけたんだが、八女の人が、八女は明太子文化圏(福岡)ではなく、
高菜文化圏(熊本)と言っていた。
久留米はどうなんだろうな。

451 :
証拠もない悪口をいうしか能がないのが九州説の惨めな現状

452 :
そもそも魏志倭人伝には吉備なんて国出てこない
連合政権を作ったなんてのは全部想像で
どんな文献にも出てこない作り話なんだよ

453 :
>>421 :ローガン
これがローガンの詐欺の手口だな。
卑弥呼の朝貢の前に120年の空白があったと主張した不正を指摘されると枝葉末節にすぎない相手のミス
に論点をずらし、卑弥呼の朝貢の前に120年の空白があったと主張した事実には頬かむりをする。
仮に公孫度が遼東大守に任じられた時から東夷と後漢の通交が断たれたとしても、189年以後のことであ
るから、空白期間は50年だ。120年の空白など根拠を欠く妄想に過ぎぬ。

454 :
>>450
岩戸山遺跡が石人石馬があって、熊本文化だからね。
南関からは熊本だから感覚的にも近い。
久留米周辺でも、福岡という感覚はないね。
福岡は鳥栖の山の向こう側という感覚。

455 :
>>452
>そもそも魏志倭人伝には吉備なんて国出てこない
邪馬台国=大和朝廷の話してるんだから記紀くらい読め

456 :
北九州は土蜘蛛、南九州は熊襲

457 :
記紀くらい読んでるよ
邪馬台国=大和朝廷なら
連合政権を作ったなんて話はおかしいだろう
吉備が中心になって連合政権を作ったなんて言ってる人こそ
記紀をちゃんと読むべきだ
魏志倭人伝には吉備なんて国出てこないし
記紀には連合政権を作ったなんて話出てこない

458 :
>>457
いい加減記紀は天皇家の血統証明だと理解しろよw

459 :
畿内説論者は記紀を正しく読むことができないから困ったものだ。
連合政権などという中途半端なことで倭国統一ができたと思ってるのがまちがいだ。

460 :
帥升が邪馬台国の王だと言ってた人と纏向邪馬台国説を否定してる人は同じ人?
中国の文献に書かれたたった1行を鵜呑みにしてしまった姿勢と
纏向邪馬台国を否定するためにかなりの労力を費やして本を読んだりしてる姿勢にギャップを感じるんだが

461 :
任那は古代日本が侵略したのではなく
元々、任那に住んでいた天皇家の先祖の故地だった
こう書くとネトウヨの方が怒るかもしれない
神武天皇は九州出身だと
しかし考えてみてくれ、神武の奥さん
つまり綏靖の母ちゃんはどうだ
あるいは綏靖の奥さん、つまり安寧の母ちゃんは?
ヤマトの大王家の嫁ともなれば、名家、名門との政略結婚は当たり前
オーストリア皇女がフランス王子に嫁いだように
任那の王女がヤマトの皇子に嫁いだって不思議じゃない
その後に任那王家が断絶したら、任那はヤマト王家が相続するのはおかしくない

462 :
新羅や百済は日本の植民地というか属国だが、
任那はそうではなくて、もともと日本の一部だったと思われる。
そう思わせる記事が紀にある。
で、その任那の領域も、半島の西南の一隅ではなく、半島全部と、
さらに南満州にも及んでいたと思われるのである。

463 :
新羅なんて4世紀末にならないと成立とかしないし。
任那なんて彌馬都ひめの勢力の及ぶ範囲で半島の南半分だし。
雛牟なんて、牟婁の雛で倭人だし。

464 :
なるほど、日本の領土は遼東半島まで及んでいたということだ。

465 :
>>447
半島と日本を一緒にしちゃ駄目だ
弥生時代の日本の水田稲作はアジア最先端だった

466 :
>纏向邪馬台国を否定するためにかなりの労力を費やして本を読んだりしてる姿勢にギャップを感じるんだが
単なる孫引きの可能性大

467 :
モモソ姫は自ら箸で突いて死んだのでなく、
じつはドラキュラ伝説のように、とんがった柱の先で突き刺されて処刑され、宙に晒されたのだろう
奈良湖干拓の生贄にされたとかではないのか?

468 :
ホトを突いて死んだってのはどういう意図で書かれたのか、当時の人の感性がわからんね
モモソヒメの存在自体を貶める目的があったんだろうとは何となく想像できるけど

469 :
古代の人たちは、モモソ姫伝説を読んだり耳にしたりすれば、
どういう事件だったのか、うすうす理解できたのだろうけどねえ

470 :
>>445
>北九州(福岡・佐賀・長崎・大分) 40,500人。
人口密集地帯ではない壱岐対馬唐津だけで八千戸だぞ。
鬼頭は大きく根本的に間違っている。

471 :
>>451
証拠もない悪口をいうしか能がないのが畿内説の惨めな現状

472 :
なんらかの異常な死を迎え、死後懸命に名誉回復が図られたが、人の口に戸は立てられなかった
みたいな

473 :
出産の時に難産で死んだってことじゃねーの?
昔はそんなの普通だったろ

474 :
鬼頭の人口推定の基準になっている弥生年代は旧知識に基づくもの、
グラフを検討すると、弥生時代〜奈良時代の間だけ、増減変動が余りにも極端すぎる
稲作が導入され食糧生産が増えたからだと言うが、米だけで人間は生きて行けるわけではない
戦争もあり、伝染病もふえるなどマイナス要因も少なくなかった
明治以降のように急速な人口増大は、古代には、そうそうあるものではない
鬼頭の弥生の基準年は、新知識では数百年遡らせる必要がある、そうすればグラフ上の不自然さは無くなる

475 :
単純に、海面が上昇して陸地面積が減ったことで人口密度が増しただけと思われる
また、そのことで争いが勃発したんじゃないかな

476 :
>>454
なるほど、筑後川の存在が大きいのかもしれない。
一方で、日田は大分よりも福岡に親しみがあるというのも聞いたことがある。
文化的なものは県境では計れないな。

477 :
弥生末期の人口推計は間違ってる可能性がかなり高いから絶対数は参考にならないけど、
各年代ごとでは同じ方法で推計されてるだろうから地域ごとの比率は参考になると思う
推計方法が異なる年代間の人口推移は全くあてにならない

478 :
行程パズル→纏向などの考古学論議→統計学などの話
こればっかりw

479 :
この数字を出した本人が、「弥生」とした数字は弥生末期ではなく末期なら約100万と言っている。

480 :
>>468
ホトは隼人の盾の文様でもわかる様に、基本的に魔除け。
鬼も怖がる物なんですよ。
それと同時に子供を産む部分ですから、当然神聖視と
畏怖の念を持たれているでしょう。
ウズメがホトを曝け出して踊るのは、何も笑わせる為じゃない。
巫女がホトを使えなくする、傷つけるのは相当な意味がある訳です。

481 :
>>453
アホか。
>>200に言え。
>つまり、帥升が後漢に朝貢した西暦107年から光和元年(178年)あたりまでが
空白の期間となる。その後で倭国の大乱となる。
200が言う、帥升等後70年間が「空白の期間」それに、 その後の倭国乱から卑弥呼共立の期間を合わせてみろ。
参加したきゃ よく読め。

482 :
>>480
>ウズメがホトを曝け出して踊るのは、何も笑わせる為じゃない。
>巫女がホトを使えなくする、傷つけるのは相当な意味がある訳です。
どういう意味があるんですか?

483 :
呪術が使えなくなるとか、もっと言えばその宗教の権威が無くなったってことじゃね?

484 :
んじゃ、磔の刑か?

485 :
斎宮が処女じゃないといけなかったのと同じだろう。

486 :
子孫を残さなかったことを強調してるんだろ

487 :
>>481 :ローガン
言い逃れのためとは言えこれはひどいな。
>>200の言いたいことは次のことだ。
>前に、卑弥呼は帥升の系統の王と書いた。
>これは、帥升と卑弥呼の間には、数人の王がいたという意味。
>住七八十年は、時の経過くらいの意味しかないと考える。
男王の時代が七八十年続いたという解釈だ。

488 :
女として最大限の屈辱ってことではないの?

489 :
>>481
ローガンは、卑弥呼が女王になった時期を示すべきだな。
ひょっとして西暦220年とか、230年を考えているのかな。

490 :
王位の空白期間と中国との交流の空白期間をごちゃごちゃにして勘違いしてる人がいるだけじゃん
揚げ足取りとか見苦しいだけだからやめろ

491 :
倭国の大乱についてはけっこう問題となる点が多いが、
だいたい2世紀のうちに終わっている。たとえば、後漢書では
桓・霊の間となっているが、霊帝は189年に亡くなっている。
梁書には、倭国の大乱を霊帝光和年中とあり、これは西暦178年〜184年。
倭人伝は、男子の王から70年か80年経ってからとなっている。
ということで、大乱は180年前後の数年と考えられ、後漢書は、空白の
期間も倭国の大乱に含めている、つまり勘違いしていると考えられる。
だから、卑弥呼が女王になったのは180年頃。これで倭国の乱は
終結することになる。個人的には、卑弥呼は台与と同じく10歳くらいで
女王になる。魏に使者を送った景初三年で70歳くらい。亡くなったのが
248年あたりで80歳くらいということになる。
ただ後漢書などに紛らわしい記述がある。
桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、
年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。
これを読むと、卑弥呼が女王になったときには年すでに長大と
読めないこともない。恐らく、范曄は倭人伝の記述を独自に解釈したと思う。
このことから、卑弥呼が女王になったのは魏に使者を送る直前という人もいる。
しかし、それでは大乱が終わってから卑弥呼が女王になるまでの期間が長すぎる。

492 :
>>487
わからん奴やな。
いいか、元々「空白期間」とは>>200>>152が、言い出した事で、勿論、中国との通交が無い状態を指すものだ。
そして彼は「男子為王住七八十年」を「住する」と訳している。勿論、これは誤訳だ。
まともな辞書なら用例位あるだろう。「両岸猿声啼不住」不住で「止まず」だ。つまり「住」の意は「止まる」だ。
それを「住する」と誤訳し、連続して王がいたと誤解したんだ。
そう誤解した彼は>>152
>その跡継ぎをめぐって大乱が起きた。そこで、卑弥呼という女子を立て王とした。という解釈が妥当。
と述べた上で>>200
>帥升が後漢に朝貢した西暦107年から光和元年(178年)あたりまでが空白の期間となる。その後で倭国の大乱となる。
とした。つまり、70〜80年間の空白期間の後、跡継ぎを争う大乱があったと考えた訳だ。
私は、彼の「住する」という誤訳を指摘し、王不在とした上で、「大乱前70〜80年間の空白期間」には同意。勿論、大乱時、王不在も同意。
さて、君はというと、「委以海外之事」を「委ねる」と誤訳し、公孫氏自立時に、遼東経由で中国と倭は通交しており、大乱時以降が、空白期間だとの意見のようだ。
>>200は上述の通り、倭国乱以前が、空白期間だと述べる。
まずは、君達で指摘済みの誤訳を改めた上で、議論してから私に言ってくれ。
誤訳に基づいた、バラバラな意見を好き勝手に言われたって対応できん。
だから、「>>200に言え」と言ったんだ。

493 :
>>492
元々大乱の70年か80年前に男子の王がいたことは確かで、それが
後漢書に書かれている倭国王・帥升であることも間違いない。
問題は、帥升から大乱までの70,80年をどのように考えるか。
その期間ずっと男王が続いたという解釈もあるし、その期間は不明で
ただ、70年か80年という時の経過を示しただけという解釈も出来る。
僕の場合は後者と考えているわけで、その期間には帥升の後を継ぐ
王が少なくとも数人いたと考えている。
しかし、根本的な問題は、卑弥呼の前にその国には王がいたということ。
つまり、纏向の出来て卑弥呼が王になる前に、その国に男の王が
いたというのがおかしいというわけで、畿内説を否定しているわけなのだ。

494 :
>>493
"たしか"なんだ
凄いね
さすが九州説脳

495 :
住は停という意味にとり、その間変わらなかった、つまり男王の時代が7、80年続いた
と解するのが通説だよ。ローガン説は聞いたことがないな。
異説としては、住は往の誤りとし、7、80年前に倭国の乱があったと解する説もあるがね。

496 :
>>492 :ローガン
>いいか、元々「空白期間」とは>>200>>152が、言い出した事で、勿論、中国との通交が無い状態を指すものだ。
君もその考えに同意していたね。しかし、その空白期間というのは「朝貢などの記録が残されていない」期間であって、
通商などの交流が無かったとは言えまい。後漢末の戦乱や倭国乱の時期には交流には危険が伴ったかも知れないが、180
年以前では交流もあっただろう。九州の遺跡の漢鏡などがそれを示唆している。
>そして彼は「男子為王住七八十年」を「住する」と訳している。勿論、これは誤訳だ。
>まともな辞書なら用例位あるだろう。「両岸猿声啼不住」不住で「止まず」だ。つまり「住」の意は「止まる」だ。
>それを「住する」と誤訳し、連続して王がいたと誤解したんだ。
住の意味は「止まる」だけではない。留まる(stay)、住まうなどの意味がある。
「其國本亦以男子為王,住七八十年」は「其の国では本々は男子を王と為し、(それが)七八十年続いた」という意味だ。
「其の国では本々男子を王と為し、七八十年止んだ」では意味が通じないだろ。王が七八十年居ないのであれば、
「其国七八十年無主」で済むだろ。

497 :
ついでに言えば、倭国の乱のときに女王国(もちろん後のな)に王がいなかったのかとなれば、そうではない。
ちゃんと男王がいたんだよ。つまり倭国乱の収束のときに男王が引退し、女王共立ということになったんだ。
王がいない状態で乱を戦い抜くなんてことはあり得ない。

498 :
王とは邪馬台国の王なのか倭国全体の王なのか、
人によって違う意味で解釈して議論してるように見える
どっちなのか整理して議論した方がいい

499 :
107年に朝貢した帥升は倭国王
238年に朝貢した卑弥呼は分裂した一方の倭国王
卑弥呼の都は邪馬台国に有り
帥升の都は不明
57年倭の奴国が朝貢したが倭王と見なされてない
帥升が魏志倭人伝に出て来る卑弥呼の前の男王で間違いないだろう

500 :
>>498
そうだったな。其の国というのは、倭国と解する説と女王国又は邪馬台国と解する説とがある。
其の国→倭国と続く文章から、其の国は女王国又は邪馬台国と解するのが正解だと思うが、倭国説を
とると王がいなかった期間というのを考えることになるだろうな。
しかし、ローガンみたいに7、80年王がいなかったというのは聞いたことがない。

501 :
>>>>493
>元々大乱の70年か80年前に男子の王がいたことは確かで、それが後漢書に書かれている倭国王・帥升であることも間違いない。
それほど、後漢書が「確か」で「間違いない」のに
「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」は都合が悪いので間違いだと?(笑)
勿論、「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」のテキストは
「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」だ。
後漢書編者は、「住七八十年」を「歴年無主」と読んだ訳だ。
さて、上述した通り、史料が少なすぎて帥升等、どこの誰かなんてわからん。
勿論、九州に居たと読める史料はあるが、それを採用すれば倭国王じゃない。テキストである後漢書が、通行本になる過程で「奴」の脱字があったのかもしれない。
いずれにせよ、どこの誰かなんて根拠の無い推測でしか、述べる事が出来ないんだ。
だから、そんなのに立脚していくら論じても、見ての通り。
みんな相手にしてないだろ?
君の言い分に対する反応としては「そう思うんならそれでいいんじゃないの」
が、妥当。という事だ。

502 :
>>501
その後漢書に、安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
と書いてある。范曄が自分で書いているわけだから、これを知らないわけがない。
しかし、范曄はその後については知らないから、倭人伝から推定した。
その際、70年か80年経って倭国の大乱が起きたと書いてあるのを、その間ずっと
倭国の大乱であると誤解した。だから、桓帝と霊帝の間と書いた。桓霊間という
わけだ。
桓帝の在位期間は146年から167年。霊帝は168年から189年。合わせて43年。
いくらなんでも、こんなに長いのは考えられない。梁書には、もっとはっきりと
霊帝光和年中(178年〜184年)と書かれている。倭人伝の「70年か80年経って
倭国が乱れた」という記述も梁書のほうと合う。
何度も書いているが、帥升は後漢に生口160人を献上している。卑弥呼が魏に
献上した生口は10人。帥升が非常に大きな力を持っていたことは確かで、
また、一つの国の王が160人もの人間を無駄に出来るわけがない。
これも、帥升を倭国王と推定できる根拠になる。
また、卑弥呼が帥升の系統の後継者であることは、卑弥呼の死後、男王が
立ったが、国中が不服で争いが起き千人が殺された、そこで13才の台与を
王にすると国中がついに定まったという記述と酷似する。
ここにも、卑弥呼の前に王がいたことの妥当性がある。

503 :
「國皆稱王、世世傳統」
倭國の王 帥升等(=複数)が生口百六十人を獻じた だろうね
倭國王の帥升だと、生口を献上するのは倭國王なので等をつけるのはおかしい
倭國王は後漢書では大倭王と書かれている
書いてあるのが「倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」だけだから、帥升等(=複数)も複数の国の王
が献上したのかもしれないし内容がこれだけでは不明

504 :
>>503
これについては、帥升自らが後漢に行ったと考えるのが妥当ではないかと
考えている。つまり、帥升一行を帥升等とした。
どうしてかというと、こういう場合は、使者を派遣したと書かれて
いるのが普通なのに、それが書かれていない。
たとえば、卑弥呼の場合は、
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻
そのほかでも、使者の場合はそう書かれている。
後漢書は、「倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」であり、
帥升自身が従者を引き連れて後漢の皇帝に請見を願い出たと
考えるほうが妥当。

505 :
日本の王様が自ら中国に行くだと?
んなわけあるかいな
本人が行ったなら北九州にいた地方豪族に過ぎなかったってことだわな

506 :
倭國王に臣下が同行するのはどこに行くときも当たり前のことで、
臣下が生口百六十人を献上するわけではないから
等を獻の前につけるのはおかしい

507 :
>>505
そう考えるのが妥当じゃないかと思うわけ。
たとえば、倭人伝だけでなく、同じ後漢書に書かれている西暦57年の
倭奴国についても、
 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫
使人自ら大夫を自称する、とあり、行ったのは使者だったことがわかる。
倭人伝の場合、卑弥呼の使者は、台与の使者も含めて名前まで書かれている。

508 :
考古学的には戦闘の痕跡はないから神武東征はなかった。同じく、弥生時代に武力で他国を支配した痕跡
もないから、倭国はゆるやかな連合国家であった。
と、こんなことを言う輩がいるが、よほど間抜けな頭の持ち主であろう。
二千年近くも前の戦闘の跡が残ると考えるほうがどうかしている。
源平の戦の跡などどれだけ残っているか?
武力支配は戦闘を伴うとは限らない。大兵力の示威だけでも相手を屈服させることができる。
相手の指導者を捕らえるだけでも支配できる。
政治的な事柄に関して考古学が言えることはほとんど無いと言ってもよいであろう。

509 :
>>507
『後漢書』安帝紀永初元年
冬十月,倭國遣使奉獻。

510 :
一度戦乱の世になったら国をまとめるのはやっぱり武力だよな
こういうのは世界中どこでも同じでしょ
あちこちで殺し合いの戦争してたのに、全国の王様たちが1人の女王を共立したんで
日本中がまとまり円満解決とかありえんだろ
東西5ヶ月、南北3ヶ月の交通網の時代に全日本王様会議とか無理じゃん
天皇家が記紀通り紀元前660年から続いていたわけないんだし、権威も何もないのに地方豪族があっさり同意するわけないし、
自ら邪馬台国政権の傘下に入ってなるべく上のポジションを狙って昇進しようなんてするはずがない
非現実的だわ
女王を共立とは邪馬台国だけの話で、全国に四道将軍を派遣して武力で従わせたってことだろ
黙って従えばそれでよし、従わなければ叩き潰すのみってことで

511 :
平安後期に備中国を統治した備中国衙跡とみられる総社市金井戸の御所遺跡で、源平合戦が激化した12世紀後半に焼失した大型建物跡が出土した。
一帯を治めていた平家の有力武将・妹尾兼康(せのおかねやす、1123-1183)が源氏の木曽義仲軍に敗れた戦いの痕跡ではないかと注目されている。
これまでの総社市教委による同遺跡の調査で、大溝と土塁で囲まれた約100m四方の敷地から方形居館と判明し、祭祀用井戸2ヵ所が見つかり、
京都との強いつながりを示す儀式で使用した8トン近くの土師器が出土している。
12世紀後半の土器とともに、建物の柱を支えた礎石(一辺30〜40cm、柱の直径25cm)が5個出土。
その間隔などから、元の建物は南北約10m、東西はそれ以上の長さが想定されるという。
礎石は赤く変色し、地面も赤色に硬く焼き締まっており、高熱を受けた痕跡が見られた。
                                                               産経新聞

512 :
>>508
だが少なくとも卑弥呼の時代は鬼道で人を惑わし支配したとあるぞ?
戦闘の激しい国内で、殆ど巫女しかいない宮を守れるのかね。
それに大した武器や戦術があるとも思えないしな。

513 :
確定事項でもあるまいに

514 :
>後漢書編者は、「住七八十年」を「歴年無主」と読んだ訳だ。
住七八十年と暦年は別の期間だろう。七八十年に続いて暦年があったということ。

515 :
天神は海人の事であり、国神は協力した土着人だろう。
両者神扱いされてるのに、決して一方を滅ぼしたような争いは無い。
海人側は新しい知識を持って迎え入れられたはずだ。
神武の神話だって結局協力者を得てヤマトに
迎えてもらったにすぎない話だ。

516 :
天神の天は、天野山(金剛山)の天。
海人ではない。
高天とは、高野と天野を合一した地域の名前。
高野山と天野山に挟まれた地域とその周辺の名前。

517 :
>>515
もう、お前無茶苦茶だな。
神武東征に協力した氏族だって天神に認定されているぞ。

518 :
>>516
元々俺もその説だ、だが天の二上を海の二上とした文献もあるのだよ。
>>517
逆のケースもあり。だからそれが争って
一方的に滅ぼしたのではない証拠。

519 :
>>514
>住七八十年と暦年は別の期間だろう。七八十年に続いて暦年があったということ。
君の言い分は、その70〜80年間には倭王が居た。その論拠として、鏡等の遺物を見なさい。って話だな?そして
>>453
>空白期間は50年だ。
倭国乱から卑弥呼共立まで倭国王は居ないと。
じゃあ同様の理路で、3世紀に通交復活した事により、遺物遺構的に大きな変化があった地域が、中国との通交の主体と捉えて良い訳だ。
岡村氏の論に近いな。勿論、「邪馬台国畿内説」だ。

まだ続けるかい。(笑)

520 :
>>519:ローガン:2013/10/22(火) 14:30:45.31
>>453
>>空白期間は50年だ。
>倭国乱から卑弥呼共立まで倭国王は居ないと。
公孫度が遼東大守になった時から漢(後漢)と倭の通交が途絶えたとしたらの話だ。その場合は空白期間は
50年となる。しかし、公孫淵が独立してからだと十年程度だ。
「倭国乱から卑弥呼共立まで倭国王は居ないと。」はそのとおりだが、上記の空白期間とは何の関係もない。
耄碌して理路が整わないようだな。
>じゃあ同様の理路で、3世紀に通交復活した事により、遺物遺構的に大きな変化があった地域が、中国との通交の主体と捉えて良い訳だ。
何が「同様の理路で」だ?
「遺物遺構的に大きな変化があった」とは何を指すのだ?前方後円墳か?三角縁神獣鏡か?
それが魏との通交とどう関係するのだ?

521 :
元々これ↓を言い出したのは>>520だろ?
>>200
>つまり、帥升が後漢に朝貢した西暦107年から光和元年(178年)あたりまでが
 空白の期間となる。その後で倭国の大乱となる。

522 :
>>520
>上記の空白期間とは何の関係もない。
君の言い分はわかった。
「倭国乱〜卑弥呼共立までの間は倭王は居ないが、公孫淵による絶域の期間は、10年程の可能性がある。
王不在であっても、中国との交流はしていた。」だな。
なら>>296>>200に言え。
>この交流の証の違いから帥升は九州の王と見られる。
交流のある事と、倭国王の存在は関係ない。とね。
今日も言ったばかりだ。そっちで話をつめてからにしろ。

523 :
>>521
それは僕が書いたものだな。
永初元年(107年)に帥升が後漢に朝貢したのは、記録が
残っているので、それを書いた范曄はもちろん、陳寿も
知っていた。
いわゆる倭国の大乱は、一番狭い期間の書かれている梁書の
霊帝光和年中(178年〜184年)が妥当だろうと言うこと。
そして、この大乱の時期には王がいない。
つまり、帥升が後漢に朝貢した時から光和元年までの約70年間は
よくわかっていないと言う意味で空白の期間と書いたわけ。
そのあとで、倭国の大乱があり、卑弥呼が女王になる。
陳寿も范曄も良くわかっていないから、陳寿は男子の王から
70、80年経ってという書き方をしているし、范曄は大乱の期間を
非常に長く取っているんだろう。

524 :
>よくわかっていないと言う意味で空白の期間と書いたわけ。
空白の期間=よくわかっていない期間なら、それを初めから書かないから
ローガン氏は、中国の文献上次に倭国の王が登場するのは卑弥呼だろと書いてるんだろ

525 :
それと
>>496は誰が書いてるのかわからんが、
>180 年以前では交流もあっただろう。九州の遺跡の漢鏡などがそれを示唆している。
漢鏡が日本に舶載されない期間なんか設定できんから
空白の期間=よくわかっていない期間とは関連して話できんだろ

526 :
よくわかっていないことは、よくわかっていないわけだ。
王がいたかも、いなかったかも。
ただ、注意すべき事は
帥升が印綬を受けた形跡がないことなんだが。

527 :
昔は、なんで鏡をありがたがったんだろ。
記紀にもたいしてエピソードがないんだろ。
重要ならそれにまつわる神話がいっぱいあってもいいのに。

528 :
>>519
>その70〜80年間には倭王が居た。その論拠として、鏡等の遺物を見なさい。って話だな?
後漢書にそう書いてあるというだけの話だ。
>同様の理路で、3世紀に通交復活した事により、遺物遺構的に大きな変化があった地域が、中国との通交の主体と捉えて良い訳だ。
かってな思い込みだ。 通交復活したからといって、急にどうこう変わるものではあるまい。

529 :
>>525
言葉が足りなかった。
中国の王朝に対する朝貢や朝見の記録は57年の「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀」と107年の「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人」
の後は238年の「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻」で、それ以前(57年以前)の記録は明確ではない。
周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云(漢書 地理志)
これらの記録からかなり昔から中国と倭の間で通交があったと推測されるが、日本の遺跡出土物の中にかなり広い時代幅を持った中国由来
の品(鏡、棺の飾り金具、鉄剣や鉄刀など)が見られるので、朝貢の記録がない時代でも中国と倭の間に通交があったと考えた方がよいの
ではないか。

530 :
しかし4世紀から5世紀の五胡十六国でしっちゃかめっちゃかな状態で
よく使者をだせたよな
思うに何組も出して、一組が到達すればokpkだったのかね

531 :
殷時代の青銅刀子が山形から見つかっているから
日本海側はかなり昔から大陸と交流が有ったと考えられる

532 :
蓑を着込んだナマハゲのは殷の民の末裔のイメージだし

533 :
しっちゃかめっちゃかだから北朝側に記録がないのかも知れんが

534 :2013/10/22
>>527
記紀には鏡が数多く登場しているよ。銅鐸は全く登場しないが…。
冒頭の付近にも、最初の頃に登場した神様として生天鏡尊とか
天鏡尊生天万尊とかが出てくる。
伊邪那岐命も白銅鏡を持っていたと書かれている。
天照大神が岩戸に隠れた時にも、八咫鏡を榊に吊るしたとあるし、
瓊瓊杵尊が日向に天降るときに持たせたのも、八咫鏡と八尺瓊勾玉、
草薙の剣のいわゆる三種の神器。
伊邪那岐命が国土を固める時に使った天沼矛もそうだが、
鏡が多く登場するなど、記紀神話は明らかに九州を舞台にしている。
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