2013年05月戦国時代47: 3傑以外で天下を取れた可能性が高い武将は? (841) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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3傑以外で天下を取れた可能性が高い武将は?


1 :2012/03/17 〜 最終レス :2013/05/08
明智光秀、柴田勝家、織田信孝、武田信玄、上杉謙信、足利義輝、毛利元就
毛利輝元、石田三成、豊臣秀頼、大友宗麟、今川義元、島津義久...etc
3傑以外で天下取れる可能性高かった大名は??

2 :
あと伊達政宗、輝宗を入れ忘れてた。

3 :
本願寺顕如

4 :
大内義興

5 :
三傑(笑)

6 :
三好長慶

7 :
朝倉義景のケツ

8 :
なんだかんだ三好じゃね
京に近いってのが必須条件だろうし

9 :
土佐の雄、一条兼定
朝廷と関係が深いから

10 :
>>1
信長は天下取ってねーよ。
信長が天下取ったと言うなら三好や大内も天下取ったわ。

11 :
関が原で西軍が勝ったら誰の天下になるの?
秀頼?石田?毛利?

12 :
>>10
よく読め
取ったなんて書いてないぞ

13 :
じゃあ三傑(笑)じゃなくてニ傑だな

14 :
>>11
毛利が家康ポジに滑りんで、豊臣政権存続ってイメージ

15 :
蒲郡風太郎

16 :
>>14
つまりその後展開になると考えますか?
毛利の幕府が開かれるのではなく、豊臣幕府か?皆はちゃんと従うのだろうか?

17 :
>>16
血筋はまあ家康もごり押しだけど
そこまで考えれるブレインが居たら関が原であんな事にはなっていない気がする

18 :
(毛利幕府なんて)考えれるブレインがいたら

19 :
三成が実権握るよりかは秀頼が実権握る方が可能性高いか?
まあ凡庸そうな秀忠でもうまく治まったから秀頼でもうまくいくかもね
他の連中で天下目指す奴が出てきたらまた動乱の予感だがそんな覇気に満ち溢れた奴はその時代ではいなさそうだ
政宗あたりが挙兵した所で佐竹・相馬・上杉あたりと衝突するだけだしな

20 :
三好長慶
明智光秀
柴田勝家
このあたりか?

21 :
秀頼政権は室町の焼き直しにしかならんぽ
まず大老筆頭毛利が家中で真っ二つ
秀元粛清とかやりそうだ

22 :
息子が長生きすれば
三好長慶と毛利元就

23 :
大友宗麟、今川義元は天下狙えるだろ。>>1の中だと信孝、義久が可能性低そうだけど
他はチャンスありそうだ

24 :
信孝は本能寺以降の主導権握れる可能性があったじゃんじゃん

25 :
反対勢力に信雄担がれてる時点でな

26 :
尼子晴久
国力的には申し分ないし

27 :
今川
朝倉
三好
本願寺
黒田
石田

28 :
大内義興
大内義隆
今川義元

29 :
おじゃるばっかりじゃねーか

30 :
石田は無理だろ
なんだかんだやっても毛利が美味しい所を持って行きそう

31 :
京からほどほどの近さで能力、国力、人材で優れているのが必須じゃね?
>>28はあながち間違ってはいない

32 :
病死ならまだしも義元とか戦で負けた奴が天下とか無いわぁー

33 :
尼子晴久。
将軍への嫌がらせのために上洛を企て、播磨まで進出した実績がある。
吉田郡山城攻めで敗北して権勢を失ってからは支配体制の深化を試みている。
もう少し長生きしていれば。

34 :
同時代に元就がいたのがな…
少なくとも山名や赤松・浦上の当主より優れているだけに惜しまれる

35 :
政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる

36 :
どう考えても伊達が中央の織豊政権を潰すのは無理ゲー

37 :
伊達はねー 地の利がない
うーーーん 朝倉義景とかは信長公がやった手を義景が打ってれば
天下取れてたような気がしねえ?

38 :
政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる

39 :
嫌がらせかよw

40 :
普通に考えれば武田信玄じゃね?
信長が急伸してなかったら案外楽に天下取れてる気がする。

41 :
信長が急伸しなかったら地方覇者は全員可能性あるでしょ
信長が京と境抑えたのが絶望的だったんだから

42 :
信玄はけっこう最善の手を打ってあそこ止まりって感じじゃね?
能力はバツグンだったけど条件が悪すぎ
いっそのこと関東制覇を目指すべきだったか・・・

43 :
三増峠や三方ヶ原など、敵に背後を見せて行軍して
追撃を誘っておいて、軍を一糸乱れず180度反転させ包囲する
指揮能力を真似できる大名はいないだろう。

44 :
しかも相手は戦巧者な武将ばかりだしな

45 :
明智光秀だろ
山崎の戦いにさえ勝てば天下に手が届いた

46 :
信玄は寿命が持たんだろ
50歳で上洛目指すシナリオじゃ天下は遠い
今川義元の方がまだチャンスはあるんじゃないのか

47 :
やっぱり地理的要因てかなりでかいと思われ
この中だと今川かな、普通に
血筋的にも問題ないしね

48 :
やっぱり信玄だな。
上杉から本庄や北条などあり得ないほどの重臣を離反され謙信を追い詰めておいて、
今川攻め開始するや、
今川から21人の重臣を離反させて
ほぼ無傷で駿府城を落とすとか魔術師レベルの調略。
謙信と氏康が同盟するや、
佐竹や里見と結び
関東を縦断して小田原城を威嚇。
結局、北条を再び武田方に引き戻させる。
毎回、場を主体的に操り優位に立ち続けてる。
織田との戦いでも美濃での調略を完了させていたと言っていい。

49 :
信長が急進しなかったら地方大名にチャンスあるって言うけれど、
その場合には内乱の収まった三好家を相手にすることになるわけですが、勝算あるの?

50 :
一つの結果が変ってたらという条件なら、
「本能寺の変ですぐ逃げていたなら」織田信忠は天下にかなり近かったと思う。
三好の次に地の利があるのは六角だけど…、近江統一すらできる気がしない。
「道三と義龍がラブラブ親子」だったら、織田と手切れするまでにかなり天下に近づけたかも。

51 :
>>48
だーがだーがだがアスペの子♪

武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part2
721 :人間七七四年[]:2012/03/23(金) 06:54:15.39 ID:3B1OK8PB
織田厨死亡

武田信玄の天下取りの難易度は高すぎ
806 :人間七七四年[]:2012/03/23(金) 06:57:13.11 ID:3B1OK8PB
織田チョンさんはなんで同時期の足利義昭方の書状を転記しないのw


52 :
連呼リアン登場

53 :
>>52
くやしいのうwww

54 :
信玄じゃ無理だろう
謙信が30ぐらいでくたばってくれたり家康が織田から早くに寝返ってくれたりとかしない限りなぁ
53以上に寿命があってもあの時代、50過ぎたらいつ死ぬかわからんしなぁ
大内義興や義隆は?

55 :
信玄よりは尼子晴久や朝倉義景の方が可能性あるだろ
だいたい今川義元にビビっていた時点で信玄に天下取れる可能性なんかない

56 :
信玄の凄いところは有利な状況を作ってから兵を起こすところ。
天下取りには向いていない。
時間掛け過ぎ、ギャンブル避け過ぎ、ビビり過ぎ。
晴久は近年の説では生年が10年近く遡る。彼も又時間が無い。義久がまともなら或いは。
三好は内乱でグダグダし過ぎ。ノブの上洛が無ければ三人衆が松永ぶっ頃してただろうけど、統治機構が将軍ありき。
毛利は支配体制ぬるぬるぬるぬる。
関ヶ原後に漸く国人一揆から脱却。
よって、今川義元。


57 :
義元は背後を武田北条に攻められる心配もないというこの上ない好条件
ただ信長を屠ればよかっただけなのに運がなくあっさり負けた
天下なぞ無理

58 :
条件揃えてるんだから運がどうのと仮定スレで云われても

59 :
領土拡張率ランキング
         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍
最下位 織田信長 30万石    0           0倍

ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長

60 :
>>55
同盟相手にビビる?それって信長にとっての家康にも当てはまるな
戦ではとうてい勝てないし京を目指せば背後から襲われるしw

61 :
まあ信玄が義元にビビってたのは事実だからなぁ
義元がその気なら武田なんか一瞬で崩壊して信虎が当主に返り咲いただろう

62 :
国外追放されたのにどうやって当主に返り咲けるんだ?
逆に今川家臣が信虎に調略されてるんじゃねぇのw

63 :
領土拡張率ランキング
         家督相続年  相続時勢力圏  最終勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
北条早雲     1460 0 万石   25万石      ∞ 
3徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
4最上義光    1533年     1万石  54万石      54倍  
5津軽為信    1540年    0,7万石  24万石     34倍
6葦名盛氏    1532年?     2万石    60万石      30倍
7伊達政宗    1585年     15万石    180万石     13倍
8武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
9上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
10毛利元就    1526  10万石    60万石     6倍 
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍
最下位 織田信長 30万石    0           0倍

ちなみに領土拡張スピードなら
短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長

64 :
>>60
信長が家康にビビっていたらパシリにしてないだろ
まあ信玄は義元のパシリだったけどなあ

65 :
信長は織田家を崩壊させただけ。本能寺の変をきっかけに皆織田家として機能せず好き勝手に動いているだけ。
織田家の誰も信孝信雄秀信を当主として機能していない。織田は領土拡張率0w
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww

66 :
相変わらず織田家が崩壊するなんて妄想に捉われているだがw
せっかくだ、武田家も書いてやろう、楽だからなw
(信玄死後〜長篠)
勝頼が武田家当主になる。信長が西を向いている間に徳川領や第三勢力切り取り
最盛期では駿河、甲斐、信濃大半、上野一部、東美濃一部、遠江一部、三河一部を領する。
しかし三河にいた奥平貞能が寝返るなど早くも危うい趨勢であった。その後信長と戦うべく長篠へ行くがここで大敗。推定120万石
(長篠〜武田征伐)
長篠以降は積極的な織田との対決を避け北関東や分裂した上杉に手を伸ばす。
しかし上杉景勝を助けたせいで上杉景虎が敗死し、これを受けて北条氏政が勝頼と絶縁
織田徳川北条と三方に囲まれ、味方は遠国の佐竹や分裂混乱した上杉とあってないようなものであった。
結局織田が武田へ本格侵攻を開始すると木曽義昌をはじめ寝返りの嵐で武田家はわずか1ヶ月程度で滅亡。0万石になる。
のちに信長を倒した明智光秀や天下を取った徳川家康は武田家の魂を継いでいるという連中もいるが、完全にいい迷惑である
(武田征伐後〜明治維新)
同僚の今川がそこそこ出世する中武田家は完全に形骸化していた。
大名なんて夢のまた夢であり、織田家のように家臣が再興を考えてくれすらしない薄情者ばかりであった。
大久保長安が一度武田再興を考えたらしく信玄の孫が彼に付き従っているが大久保事件の連座で配流。
結局信玄の玄孫の代になってようやく高家旗本入りするもののわずか2代で柳沢吉保の一族に家を乗っ取られた。


67 :
信長は織田家を崩壊させただけ。本能寺の変をきっかけに皆織田家として機能せず好き勝手に動いているだけ。
織田家の誰も信孝信雄秀信を当主として機能していない。織田は領土拡張率0w
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww


68 :
もうほんとに透明あぼーんするだけ まったく読めん
実はいいこと書いてあるんだろうか

69 :
>>68
所詮妄想よ

70 :
>>64
信長も家康のパシリだろ
三方原高天神長篠と呼び出し食らってる

71 :
↑珍説wwwwwwwww
駿河拝領はパシりからの贈り物か?w

72 :
珍説はお前

73 :
パシリに来るのが遅いからと家康に金をカンパさせられる信長

74 :
信長 家康 パシり
でググると家康がパシりという話しかないなぁwww
家康が信長をパシりにしたなんてお前の脳内戦国時代は平和そうだな

75 :
ネットサイトがソース(笑)

76 :
織田厨のトンデモ珍説理論を元に反論してやっただけ

77 :
武田上杉北条はまずない(史実からみて)
となると距離的に今川最右翼で次点が毛利かね

78 :
史実から見たらみんなアウトやね

79 :
やはり伊達だな
南奥州の動乱がもう少し早くに訪れていれば十分可能性あった。
盛氏末期の疲弊した葦名を滅ぼす⇒上杉と同盟して関東進出⇒そのまま西上
一番シンプルかつ簡単そう

80 :
>>78
まぁそれいったらねぇ

81 :
>>78
秀吉家康以外みんなアウトだもんなぁ

82 :
史実を無視しすぎるとトンデモないことになるし
囚われ過ぎると話が広がらんし
まぁそのへんをどう取るかがifの面白みではあるんだが

83 :
だから、信長の急伸が無かったら三好だろどう考えても……。
歴戦の将で、めんどくさい山城の差配をしていた長逸が五畿内に加えて四国・播磨・丹波を手に入れたら、誰が対抗できるのよ?

そういえば、内紛が収まったら三好の当主は誰になるんだろう。
義継が続投か、長治あたりが担がれるか、まさかの長逸出馬か、
義興の忘れ形見義資が担がれるか……。

84 :
>>83
三好は信長関係なく内紛でグダグダだから・・・長慶含め兄弟息子が無事ならなぁ

85 :
>>84
しつこいようだけれど、信長上洛直前には義継・久秀陣営が最後の5分間状態で、
三人衆側が勝利する寸前だったじゃん。
つまり、数ヶ月から1年は内乱の余波が残るだろうけれど、最盛期の三好軍に匹敵する陣容が整うのは時間の問題。
新将軍・義栄が入洛すれば大義名分もばっちりで、誰かが義昭を担いでも五分。
後は丹波の再征服や若狭侵攻の再開ってとこかな。紀伊や大和情勢が気になるけれど。
義継が変なことしなけりゃ良かったんじゃないかな。
三人衆の方がどうしたって先に死ぬんだから、待ってりゃ良かったのに。
あなたのおっしゃる通り、長慶兄弟+義興が生きていれば……というのが理想だけれどね。

86 :
足利義輝がハンニャバル並の武将なら5年で天下統一

87 :
謙信と輝元はやる気を出せば可能性あったと思う
少なくとも信玄よりははるかに
謙信は関東なんか無視して越中攻略に専念すべきだった
輝元は関ヶ原のときに本気になっていればなあ

88 :
毛利輝元は本能寺のときと賤ヶ岳のときと関ヶ原のときと3回もチャンスがあった

89 :
本能寺前の1574〜本願寺降伏前の攻防でもチャンスあったんじゃね。

90 :
良くも悪くも元就の遺言に振り回された

91 :
可能性があったのは三好長慶くらいのもんだろう。
将軍がいない時期には改元までやってのけたし、実休、義興、
長慶の三人がもう少し長生きできたとしたら、情勢そのものが
大きく変わったものになっただろうしね。

92 :
本能寺の変の後すぐそばで大兵力を持ちながら何もしなかった丹羽さん、あのとき周りの織田家の将兵を糾合して明智さん討てばかなり天下取れる可能性はあったとおもう
丹羽さんもおかしいけど目の前に大部隊がいるのにそれに対して何もしない明智さんの動きも変だけど

93 :
丹羽さんは自分の分というものがわかっている人でしょう。
自分が先頭にとって何かをするタイプじゃないのをよくわかっていたと思う。

94 :
ズバリ朝倉義景さん。
性格が、もう少し史実と違っていたら、天下取りも夢ではなかったでしょうww

95 :
武田信玄と伊達政宗は確定
この二人は天下取れないケースを考える方が難しい
次点は難しい所

96 :
信玄は自国が貧相すぎて継戦能力が低いのと京までの道のりが長すぎ&障害物大杉の無理ゲー
政宗は言うのもアホらしい
謙信は京へ進行方向を絞ってれば天下は無理でもかなりの大勢力になれた筈

97 :
農繁期には帰らなきゃならないというハンデをどう克服するかが問題だな

98 :
信玄の一番の問題は病気

99 :
では、信長さん最大の敵と評判の、
本願寺の顕如さんはいかが?
野田福島の戦いのとき、もう少し運が良くて信長さんが死んでいたら、
邪魔モノもなさそうだし。
まあその、天下とったと言うのとは微妙にベクトルの違う支配になりそうだが。

100 :
本願寺って外征能力まともにあるの?

101 :
本願寺は地元の人達がわらわらってのが売りだからねぇ
地方ごとの連携が取れるほど一枚岩でもないし

102 :
>>99
結局息子の代で分裂してるし

103 :
もし、家康が関ヶ原戦勝夜、鯛の天ぷらに
あたって死んだら秀康の目が有るかも・・

104 :
とりま京都制圧の可能性は斎藤道三が本命じゃね?余命と跡取りを考えたらそれ以上はあまり期待できんが。

105 :
第一藤堂高虎第二前田利長第三真田信之
伊達や島津は治世の才がないからムリ

106 :
藤堂や真田のような下っ端にどうやって天下を狙えとw
利家ならともかく、利長には豊臣恩顧をまとめる求心力などない
伊達と島津は、才能以前に地理的にはじめから終了してる

107 :
黒田と島津は九州で独立王国作れそうだったけどな
九州に引きこもって、朝鮮や明の援助を受けながら
本土から渡ってくる豊臣軍を迎え撃つ感じで

108 :
朝鮮や明の属国になるわけか

109 :
黒田はない、兆しのかけらもない

110 :
三傑以外はどう考えても無理
逆に色々と都合の良い条件付けるなら誰でも天下取れる

111 :
信長以前に、京都を制した細川、大内、三好あたりが、
天下取ったと言えないのは、
地方があまりにバラバラで、威令が及ばなかったから。
ある程度、地方が統一された時代にならないと、
天下取りは無理っぽい、か。

112 :
佐竹 いがっぺよ〜

113 :
>>111
その条件なら信長の段階でもダメだわ。
天下取りは秀吉から、だな。

114 :
>>112
鬼佐竹は素敵な大名だが、
天下取りたきゃ、
北条と戦うたびにじわじわ不利になってく状況から改善しないと無理ですw

115 :
天下統一したのは秀吉
家康はクーデターを起して政権を奪取しただけ

116 :
何気に輝元は可能性があったんじゃないかね

117 :
>>116
輝は可能性ならあったろうが、大内、その前の山名と「都に出ていったがゆえに衰退」していった勢力を間近でみていただけに
家中一同「もう都に関わるのは懲り懲り」っつう感じだったからなー。
むしろ長曽我部元親には「一発当てて成り上がってやろうじゃないの」という山っ気感じるし、これがないと話にならんと思う
まあ元親は国力だったり、軍制だったりいろいろその他の条件が足りないけどさ

118 :
北九州で敗色濃厚すぎて身動きできんかっただけじゃねの

119 :
秀吉は天下なんぞ取っていない
一時的に大勢力だっただけ。公家とか朝廷みたいに表面的に諸大名を従えてただけ
豊臣幕府が開かれず徳川幕府が開かれたのがその証拠

120 :
幕府開かないと藤一じゃないってのは・・・どっかのスレでそう言うヤツ見たな。

121 :
秀頼さえ生まれなければ豊臣秀次あたりも
天下を狙えたかも知れんね。

122 :
>>119
それはないんじゃない
だったら、幕末の王政復古とか薩長が倒幕に動くのはおかしいよねw
征夷大将軍なんて官位と同じだからね
関白職の方が上って見方はあるよ
江戸幕府も関白を抑えてたから機能したわけだし
倒幕は朝廷を抑える事ができなくなった結果だし
関白職を抑えるのと将軍は同レベル

123 :
豊臣秀頼は普通に天下人の状態でバトンを譲られているから対象外になる気もするのだが
織田信孝は親父の敵も取ったし、秀吉が超想定外のエゲツ無さを出さなければ天下人になれた可能性が高いよね?

124 :
どうだか
信長信忠が死んだ事で織田一門の求心力つーか、最有力家臣への発言力ってのは下がってたと見て間違いないし
幾ら信長の遺領を引き継ごうが潜在的な力の無い当主なんてただのカモだろ
家臣団が信孝に絶対服従の忠臣揃いって有り得ない仮定でもしなきゃ
各々が動きやすい一門を擁立→各派閥で内紛
ってオチしか見えないが

125 :
結局、織田や豊臣は中央集権が出来ていなかったってとこでしょ
それか、信長は相当嫌われてたとか

126 :
黒田孝高が鍋島直茂、豊臣清正、島津義弘と手を握って上方に攻め上るのが一番リアリティーあります

127 :
>>124
仮に信孝・柴田ラインが、秀吉・信雄に勝ったとして
勝家は秀吉みたいに露骨に織田政権を乗っ取ったかどうかが焦点
下手に動けば第二の光秀にされてしまう中で、秀吉ほど狡猾に織田家乗っ取りが出来るブレーンや
その意思があったかと言われると疑問符がつく、やはり秀吉の露骨な反逆が無ければ信孝は信忠亡き後の有力候補でしょ

128 :
>>125
個人の力で纏め上げてた集団の末路は大体こんなもんだろ
その頂点の個人が制度を明確に厳格に定める事で集団は組織になる
>>126
その設定への突っ込みは無粋だとしても
毛利領でまごついたら負け確定ですしおすし

129 :
細川ダァロ!

130 :
たわけぇっ!福島正則たわけぇっ!

131 :
>>125
そのあたりを考えると、世襲を制度化する事に成功した家康の行動は
やっぱ凄いことなんだな。
伊達は、仮に正宗が10年早く生まれたとしても、中央に進出しようとしても
北条とのやり合いで関東止まりな気がする。

132 :
蘆名と南部で挟み撃ちや

133 :
>>131
伊達政宗は10年早く生まれたらああいう風な育ち方しないような気がする

134 :
政宗が領土を大きく広げたときにはもう他所もすんごく大きくなってるもんな
300万石ぐらいありそうな北条には勝てまい するってえと上杉あたりか
でも上杉景勝は秀吉の家来になったもんな 無理だ こっちも勝てん
逆に東北の残りを攻撃して東北統一するか

135 :
でも幕末は薩摩と長州だけで天下取ったろw
石高とか関係なく
なんで、戦力差とか関係なかったとかは、幕府は外様から武力と闘争心を奪ったからよ
後、儒教朱子学を輸入して思想で徳川に服従させるという洗脳教育を行った
5代綱吉の生類憐れみもあれは無骨な武士を取り締まる法律だったのね
実際に罰せられたのは一般市民じゃなく武士階級、反乱分子の摘発に使ったといわれている
こうやって、幕府は戦国大名から闘争心と武力を奪い、腑抜けにすることに成功
しかし、薩長だけは関ヶ原の恨みを忘れずに独自の藩教育を行い反体制教育を行い藩士に教育に熱心だった
この結果、薩長は250年掛けて倒幕を成功させたと行ってよい
坂本龍馬がいなくても、薩摩は長州と手を組み倒幕を行ったと思うね


136 :
政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる


137 :
慢性的に続く戦乱を終わらせる実現性を持つ勢力を作り上げたのは、信長。
その勢力を横取りできる位置にあった連中なら、可能性だけなら誰にでもあっただろうな。
史実じゃ秀吉、その秀吉も終わりが悪くて家康にかっさらわれる因果応報だけど。

138 :
>>135
綱吉は、おっしゃるように日本を戦国時代の「邪魔者はぶっ殺せ」の精神を「生命は大切だ」という社会に変革させた偉大な政治家
同時に現在でいう「社会福祉」を充実させたりと、徳川史上でもトップクラスの名君だと思う
結局関ヶ原以降、幕府に対する反骨精神を持ち続けた薩長が倒幕の最右翼になったのも偶然ではないよね

139 :
>>136
>その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
一言で簡単に書いてるけど、少なくとも北条を潰すのは難しいと思う。
小田原城を落とすには、秀吉クラスの動員力が必要だったわけで。
仮に北条を抜いたとして、東海ルートだと徳川、中央ルートだと武田との戦い。
どっちも楽ではないな。

140 :
正宗はどんなに生まれが早かろうが奥州を早々に制圧したとしても、京を目指すなら北条武田上杉と壁が厚すぎ
遅いと早々に織田ないし豊臣方の領地にぶつかるから
立地条件が悪すぎますわな

141 :
葦名を潰すまでは難易度高いけど佐竹宇都宮結城水谷壬生里見那須大田原皆川など中小クラスの大名が多くまとまった勢力がないから
南下は比較的楽なんじゃないか
彼らは北条と敵対路線を志向しているから北条と彼らが結びつくとは考えづらいし
北条と上杉は基本敵対おまけに御館の乱が78年から発生し上杉も分裂
武田も対徳川北条と対決と互いにもみ合ってる状況だから会津(岩城地方含め)を安定して支配下におければかなりチャンスあると思う

142 :
東北は、みな親戚で身内みたいなもんだから
えげつなくやると自分の家臣や親兄弟に潰される
伊達や最上を御家騒動みりゃよく分かるよ
武田や長尾も同じ、甲斐信濃とか元を辿れもみな甲斐源氏で親戚
身内の争いになって、やりすぎると家臣から裏切られる
こういう身内のシガラミがない織田三好松平後北条道三はやりたい放題して
下克上を体現させて成功した

143 :
そんな状況を力ずくで脱した英雄が政宗なんだろ

144 :
まあ、正宗がどうだろうと良いけど、田村とか石川とかを見るとなぁ、英雄と
は言えないと思うな。
>>141
逆じゃね?
圧迫してたのが後北条だからなんで、伊達の方の勢いが強くなれば、後北条と
組む者も出てくるわけで、簡単にはいかないっしょ。
現に佐竹、相馬とは敵対していたわけだが、佐竹は伊達よりも、後北条の圧迫
が強くて、そっちを優先していただけ。
でもまぁ、東北の雄としては筆頭になるのかなぁ。

145 :
北条の関心事の中心はあくまで関東
この事はほぼ一環して北条が関東方面を優先したような政略・外征を行ってきたこと、
御館の乱後の氏政の書状「景虎没名の末は、上州の仕置、当方で行い候」などと書いた文書などから
わかる
ちなみに北条から佐竹へ強く圧迫していたのは天正12年の沼尻の戦い〜天正14年頃までで
この頃すでに結城も宇都宮も本拠地眼前に北条方拠点が築かれているほど追い込まれていた。
翌年からは秀吉の関東総無事令への対応で、豊臣政権への外交対応や、緒城普請による防衛体制構築が行われ、
外征活動はほぼなくなる。
ちなみに70年代の時期だと佐竹は葦名田村などと交戦中、中盤頃から佐竹結城那須宇都宮を初めとする反北条連合
さらに葦名白川佐竹二階堂など南奥州の連合が形成される。
葦名の弱体化はまだ完全には進んでいないため、葦名攻略まではハードルが高いが、そこを切り抜けられれば一気に優位にたてると思われる

146 :
晴宗が天文の乱起さなければ伊達がいいとこ行けたんじゃない?
芦名・最上・大崎・相馬は属国ってほどじゃないけど、伊達家を中心にした連邦国家みたいなかんじだったわけだし、実元の上杉入嗣が成功してれば越後もその体制に組み込まれただろう。
まあ晴宗がよっぽどうまくやんなきゃ稙宗が死んであぼーんになる可能性が高いが…

147 :
財政管理もできない政宗じゃ勝頼同様途中で力尽きて大量離反されおしまい10年早く生まれようが20年早く生まれようが無理

148 :
伊達はねーよwww
そもそも超重臣クラスの出奔くらいすぎの阿呆大名やろwww

149 :
謙信の才に秩序回復という義ではなく野望がはまれば天下統一できたはず。
上杉謙信。
あれは歴史に瞬く綺羅星なんだなぁ。

150 :
政宗が第一候補だろやっぱ。
生まれた時期が悪すぎた。

151 :
例えば、関ヶ原で伊達と黒田が西軍に組して
三成が勝てば、戦国時代に逆戻りしてたわけよ
このチョンスに乗らなかった政宗はやっぱ勝負師でもなく英雄でもない
若い政宗にはチャンスはまだあったのよ

152 :
大内義興
その気があればこの人が一番天下に近かった
周防、長門、筑前、豊前、肥前北部、安芸、石見が領国
足利義稙を奉じて上洛後は、前将軍を追い出して義稙復位
以降10年に渡り幕府を事実上差配、足利幕府における役職は管領代、官位は従三位、
山城守護を兼ねる

153 :
>>152
現実はその気も無ければ(これが一番重要)、あったとしても天下を治めるビジョンも無いから厳しいと思う

154 :
>>152
結局、尼子が暴れて本国に帰るハメに合う

155 :
伊達はないわ。
やっぱ京都に向かおうとしても北条が強力すぎる。

156 :
北条の関心事の中心はあくまで関東
この事はほぼ一環して北条が関東方面を優先したような政略・外征を行ってきたこと、
御館の乱後の氏政の書状「景虎没名の末は、上州の仕置、当方で行い候」などと書いた文書などから
わかる
ちなみに北条から佐竹へ強く圧迫していたのは天正12年の沼尻の戦い〜天正14年頃までで
この頃すでに結城も宇都宮も本拠地眼前に北条方拠点が築かれているほど追い込まれていた。
翌年からは秀吉の関東総無事令への対応で、豊臣政権への外交対応や、緒城普請による防衛体制構築が行われ、
外征活動はほぼなくなる。
ちなみに70年代の時期だと佐竹は葦名田村などと交戦中、中盤頃から佐竹結城那須宇都宮を初めとする反北条連合
さらに葦名白川佐竹二階堂など南奥州の連合が形成される。
葦名の弱体化はまだ完全には進んでいないため、葦名攻略まではハードルが高いが、そこを切り抜けられれば一気に優位にたてると思われる

157 :
ええっと、京に行くのにその後北条とぶつかるわけだが、関係ないのか?
つか、コピペ?

158 :
北条はその頃まだ上野は東部の由良長尾富岡領しかもっていない
下野にも本格的に進出するのは沼尻以降
里見も健在で単なる同盟関係
下総でも結城が頑張ってる状況だから会津平定終えた後という設定なら伊達の方が有利

159 :
バタフライエフェクトがない歴史改変は読んでて面白くない

160 :
つまり伊達が天下を取るには
@それなりの規模の勢力が、南下してくるにもかかわらず、
 なんの対策もとらずに各個撃破される北條以外の関東諸家
A北條の関心事は関東だからと、訳の分からない理由で
 伊達家に敗れる北條家(御家の存続が目的じゃないので
 北條家的にはおk)
Bその後にも、なぜか現れない中央の巨大勢力
 まるで無人の野を行くように抵抗もなく天下を手中に。

こんだけ条件揃ってれば天下取れんじゃない?

161 :
>>160
それに加えて、東北の親戚の皆さんが留守中にちょっかいをかけてこないことが必要

162 :
よしんば京を手中に収めたとして、その状態を維持しなきゃいけないんだが。
しかも遠く離れた本拠地を空にした状態で。
そもそも京にたどり着くまで兵站もたないだろw

…伊達が天下取りとかネタだよな?

163 :
産まれた時代が遅すぎたけど、早すぎたとしても逆に天下は無理だと思うの
天下布武という構想は信長しか抱いていなかったから、それ以後の大名は信長の猿真似

164 :
今川
桶狭間が起きない→数年かけて尾張征服→義昭奉じて上洛→天下の副将軍
くらいかね。3国同盟が崩れない(武田が裏切らない)のが前提。
朝倉
かなり惜しい。最初の機会は義昭を奉じて上洛かね。
もしくは金ヶ崎〜姉川の間に信長を敗死させる好機が何回かあった。
でも単独政権を維持できるイメージが沸かない。
武田
長篠が無いかダメージ小で本能寺まで甲信駿を維持できていれば。
まあ無理だし、その場合はそもそも本能寺が起きない可能性が高い。
信玄が数年長生きして三方原の後でひとまず徳川を滅ぼしたとして、
京都まではまだ遠い。
上杉
謙信が長生きしていれば、と言うロマンはある。
毛利
関が原でマジにやっていれば、目は無くもない。
なんとか西軍を勝たせて、gdgdな中でうまく立ち回って実権を握り、
豊臣政権の中での筆頭の座に納まるといった所だろうが。
島津
九州統一しても、毛利が壁になるので天下は無理。その後もノーチャンス。
伊達
東北統一しても、上杉、北条が壁になるので天下は無理。
関が原の時に上杉、佐竹と組んで江戸に攻め上るのが一番確率が高いかね。
まあそれでも伊達の天下と言う形には程遠いが。

165 :
上洛した! というだけの話でもないからな。
上洛して得た力をどう使うか、その構想がどんなもんかもポイント。
三好とかが畿内に勢力張っても……だったように。

166 :
>>164
上杉つーか長尾家はまず関東及び信濃には向かわず日本海沿いに京方面へ向かって領地を延ばすのが前提かと
史実のまま謙信が何年か生きてようと北条と泥試合やってたろうから

167 :
>>164 >>166
関東管領を名乗る以上、関東への出兵は避けられない
つまり上杉憲政を保護した時点でアウトか

168 :
関東管領名乗っても北条と同盟したりしているじゃん。
要するに戦略眼と長期的視野の問題だろう。
父祖の仇である一向宗とも妥協しているんだから、後世虚像と違って利第一だったはずだが、
最終的なビジョンの設定がなかったんじゃないか。

169 :
ネタに走ってみる。一件くらい北条が天下とった説があっても良いじゃん。
そもそも、駿河を占領したり、信濃甲斐に手を出したり、
後北条が関東にしか興味が無いと言うのも一種の伝説で、
実態は余力が無かっただけだと思うが、まああえて。
北条氏直による天下取り。
前提条件は、御館の乱の時、勝頼がきっちり景虎を支援していた事。
すると、まあこうなる。
「小田原の兄上。越中に織田勢が押し寄せてきました」
「義兄様。木曽が寝返ってやばいんです。助けて」
援軍(一応三方ヶ原の時も出して、足軽大将が戦死してたりします)の損耗に耐えかねた後北条では、
郷村レベルからの直接徴兵と言う禁じ手に出る。
かくて作った大兵力で西へ。
北条だけにわざわざ六波羅に拠点置いたりなんだりして、天下統一に至ったのは、
氏直の時代でしたとさ。

170 :
史実以外はみんなネタなんだから思う存分語るがいいいさー

171 :
本願寺が宗教王国作るとかやっちまってたら、日本はどうなっていたんだろう。
信長が出なければそうなってた可能性も排除できんほど武力財力あって、一揆持ちの国さえあったから。

172 :
京兆家や三好に全く頭の上がらなかった本願寺にそんな力ねーよ

173 :
>>172
頭が上がらない、どころか三好元長らぶっ殺し、畿内の信長包囲網の中で最後まで残ったのも本願寺なわけだが。

174 :
朝倉義景が一番可能性があったな
義昭から信長より先に上洛を促されていた
ってか義景が拒み続けたから信長に話が移っただけw
このタイミングで上洛してたら信長は何も出来ないで終る
京と越前若狭北近江浅井を抑えたから、ほぼ近畿内は朝倉の従属するしかなくなるわけね
オワコンの南近江の六角と信長が同盟結ぼうが
実質、管領職にあった朝倉の権威の前じゃ織田も対決するのは厳しい
要は、第一次信長包囲網より強固な勢力が誕生する
この好機を息子の死で鬱になって逃したのが朝倉義景

175 :
>>173
倒す優先順位が低かったから最期まで生き残ったんだよ。
その程度の存在。

176 :
>>175
信長を最後まで苦しめたのは信玄でも謙信でもなく一向宗だと思う
当時は兵農一致だったわけで、死をいとわない農民(足軽)の一斉蜂起は信長にとって驚天動地の大事件
戦国最強の城塞である石山は、最後まで武力で制圧できなかった程だしね

177 :
一向宗とかどこも苦労してる別に信長だけじゃないよ
本願寺とか兵が信者だから地域密着で兵を挙げての行軍ができないから言うほど怖くないわけ
うざのは、その地域を治めている大名ね
信玄と本願寺を同じ目線でみるのはアホ

178 :
>>177
>本願寺とか兵が信者だから地域密着で兵を挙げての行軍ができないから言うほど怖くないわけ
信者だから地域密着って説明になっていないような、信玄の兵は信者ではないから地域密着ではないという事かい?

179 :
>>178
少なくとも、石山本願寺が信徒を動員することで摂津の支配権は危うくなるけど、その兵力が
そのまま京都に進撃してくるって事は考えにくいと思うな。
そういう点で能動的な遠征能力を持った普通の大名と違うわけで、その点が「後回し」になった
理由だと思う。
ゲーム的にいえば防御力98で移動力0.1みたいな。

180 :
>>179
越前においては朝倉氏が越境して来た門徒と交戦している
後には信長が制圧した後の越前が一向宗に支配される始末、決して越境しない事はないと思う
ただし、摂津・加賀・長島の連携がなされてなく、各個撃破されたのも事実ですね
それにしても、一方的に信長を奇襲したのも本願寺側からだし、その後の和平条約もことごとく
反故し続けた本願寺を許して存続させた信長は、本当に宗教に寛大な政治家だと思うよ

181 :
う〜ん、一向宗が率いた一揆が全て宗徒とは限らず、地方豪族も利害が一致し
たから行動を共にしたのが当時の一揆。
利害が一致しなくなった時点で当地の豪族とは相容れない事になるから、その
まま一向宗が統一ってのはないんじゃないかな。
現にヨーロッパでも統一国家は出ていない。

182 :
信長が出なければ慢性的な戦乱がずるずる続いたまま、という可能性が一番高いか。

183 :
百万石超えの大大名が続出していたから、どのみち戦乱の終息は間近だっただろ。
>>181
宗教勢力は宗派の壁を越えられないから普遍的な共同体を造れないよな。
ヨーロッパの未統一は大英帝国、アメリカ、ロシアなどの外的要因がほとんどだと思うけど。

184 :
>>168
その最終的なビジョンを、長尾氏を天下に近い大勢力とする
に設定したら、やはり関東や信濃に降りていくのはロス
武田や北条と直接隣合わせになりたくないから
緩衝材として信濃豪族や反北条勢力を抱き込むのは確かに合理的かもしれないが
そのために払う物は天下取りを目指すには浪費が過ぎる

185 :
>>183
続出? 百万石超え(一時期だけ含む)を自力で切り開いた大名なんて数えるほどだが……。

186 :
天下統一なんて当時からすれば夢想もいいところ。
それを構想し、かつ実現に向ける能力持った人間なんてそれこそ少数だろう。
史実では信長が出るまで皆無。
みんな目先の騒乱や略奪で領民食わせるので手一杯。
たまに中央にちょっかい出しても本国お留守で自滅とかだからな。

187 :
征服なんて無理だろう。
明治の軍人で歴史家・佐藤鉄太郎が論じたように、大陸進出は地勢的歴史的に無理。
結局失敗して、「どうせ朝鮮や中国なんてとっても損なだけだったんだよ!」というすっぱい葡萄理論で言い訳するのがせいぜいだろう。

188 :
誤爆

189 :
信長が美濃攻めなんかやってる頃に上杉謙信が北条は無視して信玄と不戦協定を結び、さっさと上洛してれば天下は上杉のものになってた
幕府は謙信の上洛を望んでたし、謙信はとりあえず足利を傀儡にして三好を駆逐しとけば天下統一の大義名分を手に入れ、守護大名の多くは上杉家に服従しただろう
あとは前田利家もあと十年生きてたら三成に西軍の総大将に担ぎ出されて徳川を打ち破っていた可能性はあるね

190 :
大勢力の持ち主が上洛するだけではダメ
戦国中期くらいまでは大勢力が上洛→朝廷や幕府に長期間束縛→地元の支持が離れる
ってのが何回もある

191 :
信長以前の上洛の大物たちは結局幕府の権威から脱却することができなかった
そもそも何故戦国時代に突入したのか、理由は足利将軍家が大名の統制に失敗したから
それを考えたら新しい枠組みを創生しない限り、平和は見えてこない
それを理解して本気で実現しようとしたのは恐らく信長だけなんじゃない?

192 :
同意

193 :
>>190
大内義興なんかまさにこれだもんな。
上杉謙信が仮に上洛したとしても、武田北条あたりに国元を狙われて本国撤退が関の山
信長ですら京を取ってからも美濃に居城を置いていたくらい。

194 :
>>191
それを考えると、3傑以外で天下を取れる可能性があったのは、信長の配下武将の誰か、という
事になるのかな。
信長の行動やビジョンを身近にいて学んだ人々。
そうなると、柴田勝家あたりが有力候補になるか。賤ヶ岳の戦いに勝ってれば・・・という感じで。
次点として、豊臣秀頼。関ヶ原の戦いに勝ってれば・・・という感じ。
少なくとも、信玄や政宗ほどはifを積み重ねたり変な設定をしなくてもよさそう。

195 :
>>194
どうなんだろう、例えば時代区分を見ても室町の後は安土桃山となっている
信長の実績は多岐にわたるだろうけど、その一つは(結果的に)古い室町時代を終わらせて新時代を築いた事
あれだけレールを敷けば、それ以後は誰が権力者になっても室町に戻ることは無いと思う
柴田勝家にその器量があったかと言われたら疑問符がつく、織田家にとっての忠臣という意味では秀吉以上なんだろうけど
彼には戦略眼がなさ過ぎる。清洲会議の後、三法師を跡継ぎに指名された後(票集めに失敗したので対秀吉1敗目)
なんとか巻き返して三法師を岐阜の信孝に預けさせ、長浜城まで割譲させて、戦略的には有利な条件にしたにもかかわらず
なんと本人は冬になったら身動きの取れない越前に引き上げる始末、本拠地を姫路から京に移した秀吉とは対照的
結果、一冬の間に岐阜を攻められて三法師を奪回され、長浜まで奪われる始末。賤ヶ岳の以前にある意味勝敗は決していたと思う

196 :
前田利家に野心があれば、天下とれたか??
秀吉死後の家康との対立で戦えば、勝てたか?
ただ、野心がないから、出世したとも言えるが・・・

197 :
細川政元

198 :
>>196
当時の交通の要所を押さえていたし
他の大名家に金を貸してたとあるから味方は多そうな気がする。

199 :
>>198
譜代の駒が致命的に足りないキガス。
秀吉よりは多いかもしれないが、家康より格段に少ないでしょ。
全国の要所に信頼のおける親族・譜代を置かないと、
遠くない将来利家が死んだらすぐ乱れるんじゃないですかね?

200 :
蒲生氏郷と堀Qがすげぇ長生きして秀吉死後、織田秀信担いで旧織田閥で天下統一とか…
駄目カナ…?
堀Q(関東?)、前田・丹羽(北陸)、蒲生(奥州)、森、池田
これに徳川も加われば敵無しだよ(*´ω`*)

201 :
秀吉死後だと、すでに秀信より石高上だし、時勢も変わってる。
織田家を担ぐ意味が浮かばない。
根本的に駄目じゃないか?

202 :
>>191
えっ?信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。

203 :
>>193
信長なんて天正元年からたった10年満たずして
崩壊した政権だぞ。
細川高国や三好などの政権の方が長く続いてるわ。

204 :
天下統一の流れが出来た後、その後釜を奪う事は想像できても。
信長のように、そこまでの流れを作り出す武将っつーとイメージが浮かばん……。

205 :
えっ?各地に中途半端な兵力を派兵しまくって
現地調達をして喰いつないでいた織田軍の信長じゃ天下平定なんて無理だぞ。
秀吉が位攻め(戦力集中の圧倒的大軍で相手を攻める)ができるだけの
兵站補給組織と刀狩りなどで兵農分離させるなどの統治力強化に乗り出したからだぞ。
しかも信長は家臣に殺されたバカっぷり。

206 :
確かに、信長って秀吉よりは組織作り 管理能力 人材掌握 部下を動かすのと外交力は低いと思うね
なんだかんだで、秀吉時代は反逆が起きていないし、スムーズに天下統一に向かっている
おれが思うに、本能寺の変はたまたま成功しただけで
もし、失敗してもまた謀反に合うと思う
そもそも本能寺の変で信長が裏切られるのは6度目ぐらいw

207 :
>>202
その義尋がいつ征夷大将軍になったんだい?
なぜ副将軍を信長は蹴ったんだい?
それは幕府の権威に取り込まれるのを防ぐため

208 :
嫌っている人間、敵対者ですらその存在を決して無視し得ない時代を動かした英傑。
史実として戦国にただ一人だった信長に取って代われる人材なんて見当たらんね。
ぶっちゃけ秀吉あたりなんて信長でもなければ取り立てないだろう。
今川家に陪臣として仕えた際は嫉妬で追い出されちゃうし。

209 :
現地調達で超がつく杜撰体制だった織田信長に負けた大名って悲惨ですよね

210 :
>>207
吉川家文書610によれば安国寺に義昭嫡男・義尋将軍擁立を表明して
来春の年頭儀礼は義尋に対して行うべきであると言ってる。
信長が義昭の息子を「大樹若君」と呼んで擁立しているし
義昭様が天下を棄てて去ったので信長が上洛してやむなく治めているだけと言っている。
中山孝親が「大樹若君御上洛」と書くなど公家も義尋を大樹と日記に書いてるし
大樹とは足利将軍を指す言葉。


211 :
>>210
選択肢としのオプション(構想)を持っている事と、実際に行った事を混同していませんか?
いつ「義尋」が「16代将軍」になったのか、教えてください

212 :
構想じゃねーだろw
毛利に申し渡してるし
公家の義尋を大樹と呼んでるんだから。

213 :
公家の
じゃなくて公家も
訂正しとく。

214 :
>>212
ですからいつ天皇から将軍の宣下があったのか教えて下さい

215 :
将軍に「するする詐欺」じゃね?
義尋たてるからって言い訳して時間を稼ぎつつ
自分がとって代わる準備を進めてた

216 :
義昭が帰ってこないから
代わりに儀尋を擁立して
天下の儀を行ってんだから
天皇の認可なんて今更いるかよw
公家が大樹と呼んでるんだから答えは出てるだろw
そんなこと言うなら
義昭は秀吉の元へ帰るまでずっと一応将軍だしw
室町幕府ですら義政が成長するまで将軍位は空位になってたように
義尋が1歳で幼すぎて将軍正式認可なされてないだけ。
実態として大樹と呼ばれてるんだから将軍も同然。

217 :
>>216
天皇に認可されていないのに「征夷大将軍」ってありえないんですが・・・
律令って知ってますか?

218 :
>>216
腐っても15代将軍だからこそ各地で暗躍出来たんじゃね?

219 :
ちょっと左翼に毒されすぎですね
天皇の影響を歴史から抹消したいが為に日教組が足利幕府1338年を変更して教えているが、そういう教育を受けたのですね。

220 :
そもそもなんで天皇に認可されなければ将軍になれないの?
意味不明。

221 :
他に認定機関がないからのう

222 :
公家の決定にいちいち天皇が介入してたと思ってんのかw

223 :
>>220
天皇に認可されずにどうやって「征夷大将軍」になるんです?意味不明
ともあれ信長は天下を実力で動かせるようになるまで室町の権威は最大限活用した、それは事実
ただし将軍自らによる賞罰権は認めなかった、副将軍を受け入れたら、義昭による賞罰権も認めることになるから
なまじ有能だったため義昭は苦労したんだよね、御所で酒色に耽るバカ殿なら苦労はなかったのに(双方にとって)

224 :
そもそも「将軍」とか「幕府」ってのが天皇の権威にのっかって
はじめて成立するものなんだが

225 :
>>222
天皇に決定権があるとは言っていない、現在の内閣総理大臣だって、そういうもんでしょ

226 :
そもそも天下とって何の得があるの? 天皇も将軍も乞食同然の有様じゃんってのが当時の常識だろうな。
目先の領土争いに勝てば、所領増えたり略奪できたりの明確な旨味が見えるが。
信長が出て、ある程度成長するまで皆天下取りなんて特段気にしなかったんだから。

227 :
大義名分があったほうが何かと楽だからのう

228 :
大義名分を踏みにじる行為なんてザラだったし。
信玄なんか将軍家の和睦仲介一度は受けながら、あっさりそれ破って謙信の留守を攻撃したり。
これを批判するどころか略奪成功は威徳です、と褒めているのが当時。

229 :
とりあえず、地球は丸いということを即座に理解できるぐらいの知能がないとw

230 :
>>228
つーか、信玄は第二次川中島の段階で謙信の工作で朝敵にされてるけどなw
だから、当時の朝廷はボロボロだった、京の朝廷に仕える貴族の女が
食うために体を売っていたほど荒れていた

231 :
>>京の朝廷に仕える貴族の女が食うために体を売っていた
マジで!?たとえば誰が?

232 :
誰って聞いて解るのか、凄いな。
貴族って、いっぱいいるぞ。

233 :
身売りは知らんが、天皇が直筆の書を売らせて食っていたのは有名な話。
献金と引き換えに位とかをやる、実質売官も当たり前に。

234 :
いや、誰とは分からないけど本当に身売りがあったのかどうか知りたいんだ 純粋に興味から
資料とかあったら教えてもらいたい

235 :
つまり天皇直筆の書が高価に取引されたり位も権威があったということだな。

236 :
>>235
何がつまりになるのかさっぱりわからん。
御所に強盗が入って、親王の衣冠さえかっさらわれている時代だが……。

237 :
実力あっての権威。その逆ではない非情の時代。
将軍家仲介の和睦を反故にした信玄とか。
守護不入権を否定して、領国を自分の器量で収めると宣言した義元とか。

238 :
朝敵にされても、まったく動じなかった信玄をみたら
影響力も糞もなかったと思うが
これが戦国時代を象徴していて
信長の天下布武が新しくもなく保守的で時代と真逆のことをしていたと思う
考え方によれば、中央集権より地元地域で独立した大組織を築き上げる方が斬新で新しい考えかと
朝廷や幕府の後ろ盾や権威に頼るより、自国で分国法などを作り実施し独自の文化と国作りを行う
これを見たら、信長の行いは斬新ではないw
大内や大友や今川や武田の方が進んでいたw
信長が斬新で改革を行った新しい大名ではなく
戦国時代のすべての大名が斬新で新しかった
戦争の内容180℃変わり発展した、鉄砲の量産化も信長が行った行為ではない
商人を成長させたのは戦国時代という時代おかげ、特に流通面では西の大名の経済感覚はすばらしい
比べたら信長なんてチンカスである
こうやって、競い合っていた戦国大名が互いに争い疲弊し共倒れした結果
漁夫の利を得た信長が天下統一に近づいたと
信玄とか第四次の川中島のおかげで戦力が削られ再起不能化している

239 :
これがアンチ信長の電波ってやつですか・・・

240 :
のぶやぼ厨涙目w

241 :
>>231の質問に関しては結局ソースなしですか・・・
まあそうなるだろうと思ってました

242 :
そもそもゲームじゃあるまいし漁夫の利を得るのが戦国の常識だからな。
信玄もそんなに謙信が最強無敵ならさっさと和議を結んで雑魚今川を倒す方向に進めばよかった。
結局謙信と川中島みたいなド辺境を巡って争い弟と重臣は死ぬわ、いざ今川へと考えたら今度は息子に反発されてぶちRわ、
戦略性のかけらもないのが武田信玄。自ら楽な道を捨てていばらの道に邁進して、結局道半ばで無惨に野たれ死んだのが信玄。

243 :
ゲームじゃあるまいしといいながらゲーム脳的結果論でこじつけようとするアホ織田厨ワロス

244 :
>>237
>>将軍家仲介の和睦を反故にした信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して
上洛してきて協力しろよ交渉の時も
9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、武田側に非は見られない。
(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)

>>238
>>朝敵にされても、まったく動じなかった信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・
むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を
正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。
詳しくは下記にて
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/

245 :

>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で
「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。
本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。
それを察知した信玄だがそれでも最初のころは
見逃して我慢していたんだが。
家康は遠江の人質をぜんぶ俺にくれと信玄に要求してきたから
信玄はOK!って駿河にいた人質をぜんぶ家康に送ってやったのに
当初の約束では今川氏真を決して許してはならない協定を無視して
ひそかに逃がすなどして北条と結んで対抗を開始したりと
やってることが火事場泥棒的キチガイ。
まぁだからこそ信長死後に北条との友好を無視して
武田遺領を盗めたんだけどな。

246 :
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。
つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)
のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。
この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。
これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。
11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で
信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。
その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。
信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、
信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って
俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。
だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。

247 :
武田と北条が上杉と戦っている裏で、
今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。
武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、
上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。
しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。
明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。
絶対許さんと書いてるのはたしかだけど
あれは完全に屈辱感から来る逆恨みだろw
つーかそのくせ謙信にビビッて勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w

1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は真偽が疑われている書状であり見当余地ありだが
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶

完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。

248 :
天下を取れるって話を現実味帯びれるようにしたのは信長だけ、代替者の話は出ないね。
やっぱり三傑以外無理か。イフとしても。
後釜分捕れる位置にいた事も考えると、柴田とかもだけど負けているからなー。

249 :
>信玄
天文22年に謙信が天皇直々の「治罰」令を貰っている。
が、それでも信玄はへっちゃらだし、謙信の配下も謀反。
後年、謙信と信玄の和睦が成ると信玄は見返りに朝廷から信濃守の官位貰っているが、
和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。それでも特に不利蒙ったことなし。

250 :
信玄が天下を取るなんて今年の横浜DeNAベイスターズが優勝するくらい無理な話

251 :
信玄は器じゃないね
今の時代で言う陸軍大将止まりって感じ
北条早雲とかかなり良い線言ってる

252 :
>>249
この頃の謙信は越後を統治するのも難しい状態で
平子と松本の山俣の領地を巡る紛争は幕府の介入による解決を謙信は依頼してるし
越後守護上杉家の伊達時宗丸養子問題から対立していた揚北衆の抗争もいまだまったく解決できてない。
その挙句に関東管領山内上杉まで越後に逃亡してきた。
そこで混乱する越後統治の正当性と北条化した上野国への対応として天皇権威が必要だったんで
天文22年4/12治罰の綸旨を謙信は貰っているが、
一方の5月には武田も後奈良天皇の綸旨と義輝の御内書をもらってる(村上氏と一進一退の攻防中)
7/23には義輝が嫡男に義の字を与える使者も甲斐に来てる。
8/20には後奈良天皇が諏訪大社に自筆文書を奉納してるが
それには信玄の戦勝を祈願し信濃を安定させた上で禁裏奉公するように頼んでる。
8月中に村上氏との勝敗が完全に決したことから、謙信が危機感を抱き9月に南下開始しており
それ以前の段階である謙信がもらった治罰の綸旨が信玄を朝敵にしたとする曲解捏造は非常に気持ち悪いぞ。
>>朝廷から信濃守の官位貰っているが、 和睦破りで奇襲し春日山近辺まで略奪。
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
織田チョンってほんと偏執的に武田貶しに必死だが、毎回無知を晒して真性のバカじゃないのかw

253 :
北条早雲みたいな末代にまで気を掛けて発展やらしてった武将も少ないでしょ
ぶっちゃけ俺は彼が一番凄い武将だと思ってる。
もちろん毛利とかも凄いが、ほぼホームレス状態からあそこまで行けるって流石に化物でしょ。
しかも氏康の時代まで関東最強を誇ってたんだからさ
あの軍神と言われてる上杉とそのライバル武田からの侵略を追い払ってる訳だし
軍事面、内政面どれを取っても一級品
まさに北条早雲こそ天下人の器だね

254 :
武田上杉の最強とか軍神って講談……。
まあきちんとした家譜が、当主の任官日時という大事なものまで間違えた講談の丸写しです、という記録のおかしさがあるんだけどさ。

255 :
>>253
早雲は凄くないぞ早雲のねーちゃんが凄いからツテで出世しただけ
三国志の何進と同じ

256 :

1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。

257 :
ついでに北条も家が滅んだせいか、軍談の類がさも史実のように語られているな。
有名な河越夜戦なんかあったかどうかさえ怪しまれている。

258 :
後追い組も大変だが、天下統一の機運を生み出した信長はさらにレアだなやっぱ。

259 :
畿内周辺を天下と呼ぶなら信長は確かにそうだな。
しかし信長は幕府に寄生した挙句に天正元年から
10年に満たずにあっけなく崩壊して下克上されたものであり
(畿内政権としては細川高国や三好政権より短い)
秀吉のように兵站と衛生の問題を解決できずに
各地に兵力分散して現地で兵を養うために
(天正10年に至ってすら美濃尾張の隣国である信濃への侵攻ですら兵力調整をしてる)
秀吉のような位攻めが(圧倒的大軍で制圧してしまう)できず
毛利攻めで大敗する可能性が非常に高い。
全国統一は秀吉の頭脳と改革によってなされた。
そもそも敵中孤立で信長から捨て駒にされての横山城で浅井の攻勢を寡兵で圧倒していた秀吉の軍才がなければ信長が近江攻略どころか敗死していた。
だいたい本能寺前夜の秀吉は
宇喜多の属国化や播磨や但馬や因幡や淡路など
自勢力で100万石越えの実力者。
信長も秀吉を警戒して安土に召還したり
宇喜多を独断で許してるのを激怒したりと猜疑で見ていた。
しかも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

260 :
吉川家文書610によれば安国寺に義昭嫡男・義尋将軍擁立を表明して
来春の年頭儀礼は義尋に対して行うべきであると言ってる。
信長が義昭の息子を「大樹若君」と呼んで擁立しているし
義昭様が天下を棄てて去ったので信長が上洛してやむなく治めているだけと言っている。
中山孝親が「大樹若君御上洛」と書くなど公家も義尋を大樹と日記に書いてるし
大樹とは足利将軍を指す言葉。
なにより天正元年の発足と同時に、
安国寺から高転びすると簡単に予測できたほどずさん蒙昧政権。
信長は義昭の息子を擁立して
毛利とかにこれからは義尋に挨拶にくるようにとか命じたりしてんじゃんw
しかも義昭にも帰ってきてと哀願して拒否られただけじゃんw
それでも幕府の政治体制になんら手を加えた形跡もなく
そのまま幕府組織も継続してるし。
つか分国法すらない内政感覚ゼロが信長。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
だいたい新領国の早い安定化を達成できた撫民政策や民政力ある大名に信長は該当しません。
むしろ一揆や謀反や反乱平定に追われる暴君や失政、無策な大名であり、それが原因で死んだ大名。

261 :
一揆と反乱は全く違うのにそれを区別すらできないアホだがw
まあ親父を追放して息子をぶち殺した信玄にとっては家臣の反抗なんてアリを踏みつぶすような感覚だからな
挙句「義信を殺したくなかった」と世迷い言をほざきやがるw
信玄が本当に義信を大事にしていたのなら、跡を継がせて隠居するか義信に折れればいいだけ。
義信事件の発生時は信玄は数え年45歳でもう立派に隠居してもいい年頃。
いつまでも老害根性で当主に居座った挙句お家のために苦言を呈した嫡男を腹いせのように幽閉廃嫡して側近を皆殺し。
見せしめのように翌年には武田家臣達に起請文を出させ、武田家は義信ではなく信玄ありきだと誇示。
もちろん、そんな無能暴君だったのだから、案の定義信が危惧したとおり今川との盟約破棄に伴って北条とも決裂、
今川上杉北条(のち徳川)と四方全て敵勢力に囲まれると言うおよそどんな暗君ですら回避するであろう自爆行為を信玄はやってのけた。
今川当主の氏真に人望がなかったのがせめてもの救い。

262 :
毛利攻めで大敗する可能性が非常に高いとかねーよw
まず毛利には信長に徹底抗戦する意思はなかったし、高松城が落ちたら織田に降伏するか少なくとも和睦してた
清水宗治なんて毛利家の元々の家臣じゃないし毛利は見殺しにしたに決まってる
秀吉は結局のところ柴田を倒した時点で織田家の半正式な継承者となった、つまりは織田家の領土と軍事力を引き継いだだけでその指針を大きく変えたわけではない
むしろ秀吉は信長のビジョンを引き継ぎ、それを信長に代わって達成したというのが妥当
元就もいない毛利ごときに阻まれるなんてことは到底ありえない

263 :
織田厨、涙拭けよwww

264 :
むしろ織田アンチのやつは高松城陥落後に毛利が一戦も交えずに秀吉に実質服従したことについてはどう思ってるの?
だいたい武田家は滅亡し、謙信死亡後上杉は内乱中、徳川とも同盟関係で東に敵がいない中、織田と毛利が真っ向に戦って本当に毛利に勝ち目があると思う?

265 :
まぁ隣国武田攻め自体が補給の問題から兵数調整してる上に
(人数少なく召し連れることで在陣中の兵糧がつづく様に〜中略〜
但し人数多く候様に剛力粉骨の者を召し連れるように)
たまたま浅間山大噴火で勝頼が後詰めを止めて甲斐に帰ったから
武田に勝てただけで実力じゃねーしな。
隣国ではなく、岡山県まで出張だろw明らかに兵站破綻するでしょ。
つか秀吉だけで毛利と戦ってたら善戦するかも知れんが
負けまくりの信長が来て指揮したら毛利に負けるだろ。
と言うか織田軍って一揆如きに追撃されて半殺しにされたことがたくさんある前歴を持ってるから
兵站破綻したところを追撃されて織田軍自滅するだけだろうし。
そもそも九鬼水軍が連戦連敗でまったく勝てないのを公記は勝ったと歪曲してるだけだしw

戦国時代を平定した秀吉
なんでもかんでも秀吉の業績はすべて信長が脳内で構想していたと
バカみたいに主張する織田チョンの歪曲を糾して
秀吉を正当に評価しよう。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/


266 :
信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないし
ただの急死だろ。
そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は
江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。

267 :
>>264
毛利が織田に勝てたとは思えないが、高松城陥落後の毛利家の戦略をもって、
毛利が勝てないなんてヌかす意見に賛同するほど、無恥でもないなぁ。

268 :
>>266
確かに信玄は晴信を殺してないよな。

269 :
のぶやぼ厨即死www

270 :
自害に追い込んだのを殺してない、と言い張るのならかなり戦国史を書き換えないといけないなぁ。

271 :
どのみち天下取りの可能性がゼロの武田は論外。
そもそも自発的な発想さえなかっただろう。

272 :
以上 織田厨の心の叫びでした

273 :
まあ歴史の方向を動かすってのは大事業で、かつ反作用も大きいからな。
他時代見ても、当人は非業の死を遂げておいしいところは他者がもってくというのは見られる。

274 :
自害に追い込んだのは家康だろ
なに混同してんだw
天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく
武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
なんでそんなにアホなの?
恥ずかしくて自害する気にならないの?

275 :
仮に義信が病死だとしても幽閉し側近を皆殺しにしたからなあ
嫡男をこんな目に遭わす時点で異常としか言い様がない

276 :
ここ数レス「信玄は義信を殺してねぇ織田厨ザマァ」みたいなことをカキコしてる奴は、
じゃあ信玄が天下を取ることができたと思ってるわけ?このスレの趣旨的に。

277 :
義信に手心を加えたなんて片腹痛い妄想を繰り広げるだが哀れw
義信が幽閉された東光寺は、かつて信玄と敵対した諏訪頼重を自害させた場所に当たる。
こんな物騒極まりない場所に嫡男を幽閉しようというのは、死を与えたに等しい所業。
義信が東光寺で死んだのは永禄十年の10月で、このわずか2ヶ月前には信玄が起請文を家臣に出させて武田家臣団の統括に尽力している。
いやー偶然って怖いね(棒)

278 :
いやw
家臣の謀反で殺された信長と
謀反の撃退に成功して、+謀反の目を潰した信玄
どっちが優れているか明白だよね

279 :
最大領土を比べたら信長>信玄
よって信長の勝ち

280 :
本願寺顕如が法王として日本統一、天下布佛の世となる。
異教徒ザビエル、フロイスは磔。

281 :
信玄は戦国で屈指の暴君だからな。
暴君は概して自分の身の回りのことに機敏でもある
しかし自身のことで頭がいっぱいの信玄は周囲を見ることを怠った。
結果それが武田を苦しめ滅亡へと導き、二度と武田が隆盛することはないという結果となった。
一方信長は他人を信用することで支持を集めた。
もちろん裏切られて時には戦争をすることもあったが最終的には全てこれを下すことに成功した。
本能寺でも例外ではなく、信長急死で光秀は朝廷と連絡を取り合ったが同調勢力が集まらずに最終的に死に至った。
いかに信長の仁徳が優れていたかがわかる。

282 :
信長は特異すぎる。だからこそ天下狙いなんてトンデモな事を実現性あるもんにできたんだろうけどさ。
秀吉もかなりアレだし……。
結局、三傑の中じゃ比較的まだ大人しめ(あくまで比較的w)な家康が長期政権建てて終わったのも当然かも。

283 :
まあ信玄のとろい進撃速度じゃ信長が朝倉を秀吉が明智柴田を瞬殺したようなことは出来そうにないしな
進撃速度という点を考えれば謙信の方がまだ可能性あると思う

284 :
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦した雑魚
家康は瞬殺した。

285 :
毛利輝元は2度チャンスがあったと思う。
特に本能寺の方は、秀吉、直家を殺して摂津まで一気に進撃すれば、
天下統一に一番近い勢力になっていた。

286 :
>>285
中国大返しについては、毛利信者の俺ですら輝元にその器量はなかったので無理と言っておきます

287 :
>>286
選んだ大名の器量が最高レベルになると仮定した場合(他の大名は史実通りの能力)、
毛利輝元は自力で天下統一できるポテンシャルが一番高いと思う。

288 :
次が上杉謙信かな。
腹黒い外交と戦略を駆使し信玄と早期和睦、その後氏康、信玄を順番に倒せば、
東日本は謙信のもの。信長を相当脅かしたはず。
もしくは川中島で信玄を討取っていたら・・・。
ダークホースは北条氏直。
天正壬午の乱で家康に圧勝できれば、一応、自力で天下統一できそう。
いづれも>>287の前提条件適用だけど。

289 :
前田利家が80位まで長生きしてれば
豊臣家を乗っ取る可能性はあったかも知れないな。

290 :
大名が有能だと仮定するんだったら今川氏真の方が可能性高いんじゃないか
義元くらいの器量があれば信玄も家康も裏切らないだろうし

291 :
謙信は信玄と同程度の可能性だな

292 :
越後に関東管領でなくて足利将軍が下ってたらモチベーションになったかな

293 :
謙信のモチベーションにはなったかもしれないが、足利将軍は京に近い勢力
ではない遠くの越後までは下らんだろ。
助けを求めたのは、基本的にすぐ京に行ける勢力、維持できる勢力。
そう言う意味では、謙信にしても、信玄にしても天下を取るのは難しいと思
う。

294 :
となると、自力で将軍を擁立できた大内・三好・織田が三強かな?

295 :
官位や領地に目の色変えてた時代、取り放題と指定されても「経済要地に代官置ければいいです」と判断できるような奴が、信長以外いたとは思えないが……。

296 :
いやそこで顔をけられた六角が怒って近江をばくは
無理だな

297 :
>295
みよしながよし

298 :
>>295
経済的な要衝を押さえて畿内を支配するというのは三好長慶が
先鞭をつけているな。
堺にも三好家臣の加地権助が代官として置かれているし

299 :
三好さんって晩年の不幸がなければもっと評価されてたはず

300 :
その三好を直接討つチャンスを逃した朝倉が一番天下に近かったかもね
義昭と要請を断ったのがアホ

301 :
フラグクラッシャー義景か
チャンスの神に愛されまくっていたにも関わらず
その数々のチャンスをものの見事に棒に振るという素晴らしき采配

302 :
上洛しても三好がいる以上朝倉には勝てない

303 :
中央情勢に振り回されて、本領がグダグダになった大内とかの轍を踏みたくなかったんじゃ。
三好は元から堺を拠点にしていたが(堺幕府論なんてのも)、これも将軍家とのごたごたで長慶が出るまで衰退している。
まあ、ただ安定を望むのなら信長が義昭を上洛させた後に無視決めるのはよくなかったが。

304 :
>>303
>中央情勢に振り回されて、本領がグダグダになった大内とかの轍を踏みたくなかったんじゃ。
それを考えると、大名本人の資質や考え方や精力の大小よりも、家中の支配体制と有能な
参謀の存在、というのが3傑以外で天下を取れる条件になるのかな。
信長が明智光秀を重用したのも、自分が美濃にいても京都の管理を任せられたからだし。
大内も地元を任せられる参謀がいれば、あるいは地元に帰っても京を任せられるNo2が存在
してれば、そのまま長期政権を固められただろうし。
中央の政治と自国の経営を両立させなきゃならないけど、それを大名一人で行うのは無理っぽい。
その点で、家中がまとめ切れてなくて中央集権制になっていなかった謙信・信玄は無理っぽい。
京都で政権を取っても、地元で配下の武将達が勝手なことをやって、すぐに国に帰らなくちゃ
ならなくなって、だからといって京を任せられる人物もいなくて・・・という感じ。
毛利もそんな感じかな。
そう考えると、やっぱり戦国大名よりも確固たる支配体制を持っている一部の守護大名が
有力候補になってくるか。
家中の体制や京との繋がりも考えて、今川義元が有力か?

305 :
>>304
とりあえず村井貞勝、参謀、中央集権制。
今川義元が有力なのは禿げ胴。
>>290
氏真はスタートが悪い。有力武将が大勢死んだうえに、
独立心旺盛な家康が三河を制圧しているのはきつい。
おそらく家康と互角程度まで国力が落ちていたと思う。

306 :
成り上がりはきっついよな。いくら下克上の時代だからって……。
信長が身分や出自が怪しい連中を盗用したのも、自分ところの家格がさほどでもなく譜代衆がろくにいないからやむなくという面があったんだろう。
秀吉はもちろん、家康だって家系捏造したりと苦労している。
後世でおかしく脚色される謀反や離脱も、「下賎な」者に対する反感が原因かもね。

307 :
盗用→登用

308 :
戦国時代の堺を知らんのか
自警団ってか一個の武装組織で独立勢力よ
信長も上洛した時、真っ先に堺商人相手に同盟を結びに行った
喧嘩を売るのではなく頭を下げてね。
それだけ、商人の力は凄まじかった
商人出身の大名は武将の活躍みりゃわかるでしょ
秀吉だって豪農出身でその経済力と商人等の多くの人脈を生かして信長にスカウトされて出世したのよ
三成の出世も同じ

309 :
妄想レベルで資料的証拠のない話を断言されてもw
秀吉も大変だな、出自をいろいろこねくり回されて。
あと信長の堺攻撃を阻止した今井宗久の奔走も無かったことにされるのか……。

310 :
歴史ブームで井沢元彦みたいな妄想大家が乱立してるからな。

311 :
>>308
だからどうして三好家が堺に代官を置いた事実を無視するのかと。
そんなに長慶=ガチガチ旧体制派、信長=革新者という構図にしておきたいわけ?

312 :
要所に代官を置くのはそこまで目新しいことじゃ発想ではない
ただ京と目と鼻の先にある皇室御料たる堺荘を公然と横領するような輩は幕府以外では三好が初(三好政権を細川の後継と見なさない場合)
織田は天皇の信任をもって堺の管理人になってるから

313 :
そりゃそうだ。堺は三好時代は独自勢力色をむしろ強めた。
対して信長の支配は、文句言ってきた商人を処罰したり文字通りの直轄領に近い状態。
この時に信長の支配を受け入れて伸びた商人層もいるがな。

314 :
むしろ逆らったから堺支配が進んだとも……。
一向宗の禁令を出した(江戸時代になっても)大名がいくつもある中、
信長は一番一向宗と敵対した大名なのに教義禁止とかしなかった。
本願寺が石山退去した後は雑賀衆の要請に応じて顕如を守ったりしているし。
このあたりの割り切りは余人に例がないからな。
矢銭要求に快く応じたら三好レベルの支配で満足してたんじゃないの?

315 :
それなりの大名が出ても、結局三好みたいに時代遅れになった幕府に取り込まれて、共倒れ自壊→エンドレスになりそう。

316 :
ついでに堺・京商人の動向。
まず堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2〜3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。

317 :

もしアインシュタインがE=MC2の公式を発見しなくても、
遅かれ早かれ誰かが発見していただろう。
それが時代の流れというもの。

318 :
やっぱり三傑は武将として別格かー。
信長が出た後の後追い・奪取ならまだしも楽そうだけど、それを維持するのも大変そうだ。

319 :

「織田厨及び、それに準ずる者は、自論に根拠となる事績を必ずつけてレスすること。」
とりあえず315、318。

320 :
前から思っていたのだけど蒲生氏郷が天下人の器量として
評価されている場合があるけどそれ程のたまかなあ〜。

321 :
蒲生氏郷は信雄征伐や滝川攻めで大敗した雑魚武将
カスすぎて秀吉から葦名の瓦解と徳性連発によって領内が荒れまくった奥州に左遷された

322 :
蒲生氏郷は長生きしてたら関ヶ原では東西どっちに付いただろうか

323 :
実際に天下取った(まぁこれもいろいろ定義はあろうが)人間じゃないんだから、全て想像の世界だし……。

324 :
>>322
難しいな。
信長の寵童で秀吉を格下扱いしていたけど、
家康のことも嫌いだったみたいだしな。
秀郷に天下が取れても、ただの反動政権だよな。
世の中が中央集権による統制経済に向かっているのに、
未だに転封先の城下町に楽座令出してるし。

325 :
>>324
>信長の寵童で秀吉を格下扱いしていたけど
史料を見る限り蒲生は秀吉の忠実な家臣だけどね。

326 :
>>325
ありゃ、私の記憶違いでしたか。失礼。
だとすると、「政を私する治部許すまじ」で東軍か?

327 :
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記
永禄11年9月19日
京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、
すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w

328 :
[本命]
今川義元
[対抗](「天下分け目」の決戦までは持ち込めた)
豊臣秀頼
毛利輝元
柴田勝家
明智光秀
[抑え](実力はあるけど条件面が厳しい)
朝倉義景
武田信玄
上杉謙信
北条氏康
[穴](いろんな面で微妙)
三好長慶
伊達政宗
[大穴](ゲーム的に進行が楽)
長宗我部
島津
時系列がメチャクチャだけど、ざっと思いついた感じ。
下に行くほど「if」を積み重ねないと天下統一は難しいかなぁという評価。
異論は認める。
抜けてる名前多そうだなぁ

329 :
ところで、織田信忠が本能寺の変で死んでなければ、というifはどうだろう?
さすがに信忠が生きてれば仮に秀吉が光秀を討っても、すんなり織田政権を乗っ取るわけには
いかなかっただろうし。
信長生前から権力委譲は進めていたわけだから、あるいは信忠という目もあるのでは。
有能な武将でもあるし、補佐している人たちも豪華。

330 :
というより本能寺で跡継ぎ+有能な重臣団根こそぎいかれたから崩壊したわけで
信忠生きてれば一緒に死んだ連中も生きてるし実権は信長だけど家督は相続済み
さっさと逃げてれば本能寺後の跡継ぎ問題も家臣団対立もそこまでなく無難に天下統一してたんじゃね?
あと東北と九州は天下統一レースに参加すらできない気がする
立地が悪い+国人多くて集権化進んでないのが多い+畿内付近の生産力経済力はパネェ

331 :
勝家は上杉と手を組めなかったのかな
秀吉に対する毛利同様の関係になりそうなんだが

332 :
武田攻めで醜態晒した雑魚信忠じゃ到底無理
光秀に殺されたのも実力がなかったからだし
普通なら逃げれてたし

333 :
>>88
本願寺の時点では厳しい。隆景に誰が逆らえるのかな?

334 :
守旧的な大名だと三好長慶のようにいい所にいっても、ガタが来た幕府に自分から取り込まれにいってあぼんとかありそう。

335 :
三好より信長のほうがよほど旧主的なわけで。
そのへんはあまり関係ないと思うぞ

336 :
三好長慶は意識としてはあくまでも自分は幕臣っぽ。
天下とか目的にしてなかったんだろう。
近世化への改革は、ある意味で幕府否定だからな。
露骨に俺一人の力量で、と言い放つ今川義元とかその象徴。

337 :
>>336
> 三好長慶は意識としてはあくまでも自分は幕臣っぽ。
そのへんは違うんだわ。むしろ室町幕府無き畿内政権というのを形成したのが三好政権で、
その前例があったからこそ信長政権も成立できた。
というか信長の政権は、三好の作った枠組みを最後まで克服できずに終わった。

338 :
>>337
三好は自分から幕府統制のための書状発給から手を引いて将軍に返したり、明らかにそんな動きはしてないが。
現実に室町体制を克服できたのは信長だけだよ。
毛利なんか、無実化した後の義昭に引っ張られている。

339 :
>>338
信長と同じで、利用価値がある間は利用していただけだよ。
それと、室町体制を克服ってどういうこと?将軍追放とか役職を貰わない、ってことなら先例があるけれど。

340 :
構想があっても実行力がおいつかないと却って自分の首を絞める。
まぁ当時の大名は「本当はこうしたかった…」なんて記録はほとんど残さないから想像の入る余地しかないっぽいがw
つくづく三傑は別格だな。

341 :
信長秀吉家康は一番毛並みのいい家康ですら土豪の家系からの成り上がり。
手段選んでられね、という迫られた環境も影響しているだろ。
家康は下手な名家より家臣団の紐帯が強かったっていう強みがあるが。

342 :
おれが思うに
本能寺の変は、信長体制を進める段階で失敗しただけなんでしょ
鎌倉室町江戸明治政府
どれも内の問題を片付けて政権を確立していった
信玄もおなじ、義信事件で反乱分子を叩き潰して安定させた

343 :
家康が家臣団の連帯強かった?
初期で活躍してた三方が原で討ち取られた連中はともかく
他の連中は皆外様&新参ばかりじゃないか
三河一向一揆では譜代宗こぞって一揆側についてたし
西三河のほんのちょこっとの小領主で全然毛並み悪いな

344 :
>>338
将軍を再度擁立したこと事体は三好氏にとって大きな路線変更であり、結局長慶の
死後には放棄せざるを得なかったんだけど、将軍帰京後も三好氏は洛中の相論の
裁許を行いうる(それも長慶が死ぬ直前まで)存在でありつづけており、幕府奉行
人連署奉書の復活が直ちに三好氏が洛中支配を奉還したわけじゃないことは
留意すべきだな。
永禄初期の三好氏は将軍帰京という状況のもとで、畿内支配や領国外の大名の編成など
試行錯誤している段階といっていいと思う。三好義興の家督相続や三好氏奉行人奉書の
発給などもそういう文脈から評価すべきものだな。
個人的には永禄初期の三好氏の動向については、天野氏ほど積極的には評価はできないとは
思うが、今谷氏がかつて指摘したような三好氏の敗北という評価も一概にはできないかなあ。

345 :
再三言われていることだが、当時の大名や武将は天下取りないしそれに近い行為を目標あるいは意識していたのは、後世イメージと違って少数派だからねえ。

346 :
>>344
自分も三好=畿内戦国史を学んでるけど
確かに天野氏と今谷氏の考えの答えは正にあなたの言うように中間だよね
今谷氏は、足利義輝を迎え入れた=敗北
天野氏は、足利義輝を迎え入れた=政権強化
と言うよりも三好長慶は足利義輝を畿内に迎え入れ監視下に置いた、が正しい気がする
受け入れた事によって義輝の発給文書は増えたが義輝に権力が戻った訳ではないし
むしろ近江時代のように自在に動き回ってた時よりも義輝は身動き取れなくなったよね
他の人が言うように何で義輝を帰京させたんだ、って意見も解らんでもないが(弟達も不満あったっぽいしね)
そこはやはり織田時代と三好時代の違いと言うべきか、足利を蔑にできない風土は他地方の大名にはあったんだろう
それに加えて長慶の性格も入ってんだろうなぁとは感じる。
1558年の義輝帰京からは三好長慶と足利義輝の精神的な削り合いだな、どちらが先に折れるか
そんで、長慶が先に折れてしまい、三好側を挑発し続けた義輝は折られた。
三好長慶と足利義輝の戦いは共倒れと言っていい。
長慶・義興は飯盛山と芥川山で栽許を続けた理由は正に畿内統括の為だったんだと思う
生駒山の山頂から畿内一回り見渡せるし京に留まるよりずっと良いだろう
現場の方は芥川の義興に任せる事も出来るし
何より信長が畿内に侵入した時一番最初に目指したのが芥川なのも注目点
従来の武将なら京で一端止まるんだけど信長はその溜めが無かった。

347 :
竹阿弥

348 :
>>345
少数派どころか、具体的に目標を「天下統一」にして終始一貫行動したのは信長だけかと

349 :
>>1普通に信玄が最有力候補だろ
ただでさえ畿内から東国にかけて武田家の恐ろしさは有名だったし、濃尾を平定した時点で東海道を合わせて、200万石以上の巨大さに
なれば・・・・・逆らう大名がいるかとw
信長が上洛した時はそこまで大きくなかったし成り上がり者というレッテルも貼られていた
一向宗とも敵対してたしな

350 :
信玄は信長の後追いを意識するまで、目先の領土拡張にこだわってたからどうかなぁ?
そのための縁戚騙まし討ちやりすぎて、上杉徳川北条を敵に回して信長に泣きついたりしているし。
後世の虚像と違って、そんな有力でもない。
家督を父から強奪した直後から天下取りを考えて動いてたら話は別だが、それじゃ信玄じゃないしw

351 :
また騙し討ちとか言ってる馬鹿がいるのか

352 :
武田に限った事じゃないが豪族連合の色合いが強い所が、天下取りのために無理したら自壊するか、
当主が排除されて逆戻りかどちらかだろうから無理っぽ。

353 :
>>349
中央集権の進んでない大名は、仮に京を抑えても天下政権にはなれないだろう、っていう
話は少し上でも出てたな。
武田しかり上杉しかり毛利しかり。
天下を取れるかどうかは石高や勢力の大小だけじゃないんだよ。

354 :
足利将軍が、時代遅れの自分は朝廷と同じように命と生活の保障があれば神輿でいーや、と思い切ってくれればいいが。
どこが台頭しても潰そうとするだろうな。
包囲網をなんとかできそうな大名となると……。

355 :
松平清康(家康のじい様)。いろいろ吹かし癖や恨み節に定評がある大久保彦左衛門の過大評価はともかくw
まあ、一近臣に恨み買っただけであぼんするのが戦国の怖さだけどね。

356 :
信長は中央集権なんてやってないけどねw
最近じゃ尼子晴久が再評価されて、中央集権化を図ったようだが途中で死んで挫折
尼子と武田は同じ問題を抱えていたのね
国人豪族連合の議長に過ぎない立場から脱却できなかったところが。
信長はこの尼子や武田にくらべてマシなだけで中央集権ではない
自らの家臣を自由に動かして領地を治めさせたが
武田も山県や内藤や高坂等の名家に自らの家臣を送り込んでいるから同じことなのね
高坂には北信濃、上野には内藤と武将を駒として使っている
むしろ、尼子とか見ると名将経久の政策の失敗のせいで孫の晴久が苦労する
需要拠点の出雲を本家の直轄にせずに息子の国久に治めさせる
結果、経久が生きているうちでも本家を凌ぐ力をもった国久が増長していた
中央集権化の利点は次代の当主になったときスムーズに政権を移行できる
信長もこれが出来ていたら、秀吉の天下はなかったと
要は頭を代えるだけでシステムは変えなくていいからね

357 :
ニコニコ動画 戦国時代ソング
『討てよその矢を!〜明智光秀のテーマ〜』
http://www.nicovideo.jp/watch/nm17709607

358 :
>>356
参考になる。今の官僚制度はまさしく
>中央集権化の利点は次代の当主になったときスムーズに政権を移行できる
で「当主」を「役職」と置き換えれば、2-3年の順送り人事ができるんだね。
だから組織保全が優先されて、にっちもさっちもいかない。

359 :
そもそも家康って天下取った事になるのか?
足利幕府の将軍みたいに名目上の頂点に立っただけだろ
天下を思うがままに動かしたのは秀吉だけ。
まあ、そんなに定義を厳しくしたら>>1に該当する人物は秀吉しか居なくなるけど

360 :
秀吉は実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
諸大名の自立権&広域な版図を高いレベルで認め戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
家康始め諸大名を純粋に軍事的にねじ伏せる力量がなかったため死後に問題が露呈した
将軍ではなく関白にしかなれなかったのもその一つの現れ

361 :
>秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
もうこの時点で意味不明だなw

362 :
>>348
もしかしたら知らないのかもしれんが、当時の「天下」の範囲は畿内周辺だけな。
信長の天下布武の天下もそういう意味。もっと具体的に言うと京都とその周辺が「天下」

363 :
>>361
君も充分意味不明なんだが。
というか豊臣政権なんかよりはるかに強大な動員を行うことが出来、
駿府や江戸での通達が即座に全国法になり、
本拠地江戸が全国の街道の始発点になるほどの権威を持たせることの出来た
その家康が天下を取っていない、名目上だ、ってのはどんな歪んだ考え方なんだ?w

364 :
>>356
凄い同意。
あと信長は直臣に権限委譲をしすぎて、後で取り返すのに苦労してるイメージ。
中央集権志向ではあったと思うけれど、成功したとはとても言えないと思う。

365 :
>>363
>豊臣政権なんかよりはるかに強大な動員を行うことが出来
は?そんな事実無いが

366 :
徳川幕府も集権なんてものには程遠い、が豊臣政権より強固な体制ではあるが
中央集権国家において藩国に準ずるような存在は認められない
その点において戦国の三傑は同時期の絶対主義国家のような集権体制の確立までには至らなかった

367 :
そもそも軍事力を中央政府からアウトソーシングされた武士が権力を握っている時点で
中央集権国家なんてありえないし無意味な議論だわな
織田・豊臣・徳川とかそんな次元の問題ではなくて武士という階級そのものが原因なんだから

368 :
武士が「知行とかの土地権利をもらえるから主に従う」生き物である以上はね。
家臣団に推戴され、その意向を伺わないと何もできない中世大名か、
それとも主君が改易等の強い権限を行使できる近世大名か。

369 :
>>360
俺も会社にうわべだけ従っているのだが

370 :
>>368
そういう太守の権限強化は集権とは逆の方向性だろ
分散的集権システムとでも言えばいいのかな

371 :
というか、近世化した相手と自分の贔屓の大名の落差を認めたくないから、
それこそ身分制度から社会制度まで違う西洋の絶対王政とごっちゃにするとか。
このあたりの滅茶苦茶さはなんなんだ。
それとも西洋コンプレックスの塊なのか。ならなんで戦国板にいるんだw

372 :
徳川幕府の体制は厳格な封建制度だからむしろ中世ヨーロッパの体制に似てるね

373 :
家臣団を自分の本拠に常駐させるようにするだけで一苦労な時代だからな……。
家臣らの不興を買えば、信虎のように追放。最悪殺害。

374 :
まー結局、天下を取っても朝廷の権威が健在だから
中央集権とか無理なんだよね
今なら政府と皇室を分けて見ることができるが
当時は、天皇は教祖で神様なんだよ
日本人すべてが、その信者だった
こういう状況で、天下統一を果たして幕府を開いても、将軍は朝廷の代わりに
政治を行う摂政的な立場なのは変わらない
関白とも天皇直々の小間使いなんだよね
こういう関係を断ち切るために、徳川幕府は政教分離を行う
これは=朝廷の威光を抑え込む政策
家康を神にしたのもこのせいね
それから関白に徳川の血縁を送り込んだりして、新たなシステムの構築に儒教朱子学を導入し
徳川幕府を中心とした思想の構築を行った
この過程の出来事が5代綱吉時代の生類憐れみとか、朝廷軽視に反発する水戸学なんだよね

375 :
>>371
近世化とか中央集権という世界史用語を使うから駄目なんだと思う。
実際、後の江戸幕府なんて中央集権とはほど遠いし。

376 :
>>375
どっちも日本史の学問で当たり前に使われている言葉ですが……。
それこそ戦国はるか以前の、公地公民化の動きなんか絡んで。
絶対王政は日本史上無かったから、まずないけどな。

377 :
大名を頂点として、慢性的戦乱の原因になった室町式の重層的な領国体制を武家一職で統制したい。
一方で多数の敵と戦うため、家臣にはどうしても大封と裁量権を与えないといけない。
この矛盾のせめぎあいだからな。
成功例といえる信長ですら、最後はああだし。
他にできそうな武将のイメージが浮かばん。

378 :
>>376
古代-中世-近代-近世や中央集権というのは、
世界史から日本史に移転された言語では?

379 :
>>368
一代で領土を大幅に拡張した大名は、部下に新しい領土を与えられるから、
誰でも改易等の強い権限を行使できる。
その後継者が、(死んだ)親の決定に逆らって家臣を改易できるかどうかは、
個人の資質で決まる。
両方とも、昔からある武士の権力構造そのままだと思う。

380 :
>>358
そうはおっしゃいますが、
「政治の安定度」という意味では十分な意味があるわけで。
それを欠くと、南朝鮮みたいに
保守で失敗→じゃあ親北で行くニダ!
と、数年単位で左右にぶれまくる体制になっちゃいますよ?

381 :
天下取りより根拠地中心に割拠、のほうが現実的だから、信長が出て「天下取りを目指す旨味」を見せる以前はおおむね割拠志向、
たまに大内氏とかが出ても本国手薄になって……だし。
無理じゃねーか。織田の勃興以後となると、それこそ織田の後釜狙いできる立場に限定されちゃう。

382 :
>>381
大内のあと、三好、浦上、朝倉、六角と次々に上洛してるけどね。
信長は尾張、美濃の本国が安定してたから、
けっこういい線までいったんだと思う。

383 :
>>369
www

384 :
>>382
織田の場合
上洛して、すぐに織田領と近畿を隣接させることができた
美濃尾張が隣国に攻められることもなく、尾張美濃領内は安定していた
三好六角になると、領内が近畿で常に戦場で内乱状態の不安定、まともに国作りができなかった
大内に場合、本国と京が遠すぎて話しにならない、出張扱いで本国が攻められると戻らないといけない
山城守護にもなったが、本国が尼子に攻められて帰国するしかなくなった

こういう問題をクリアしていたのが信長で
これは立地的に恵まれていたから
他には朝倉が信長と同程度の好条件だったが・・・


385 :
織田を攻める
≒ 京を攻める
≒ 朝廷に敵対
= 朝敵決定、包囲網形成へ
になったからな。
朝廷ではなく足利幕府だったけど
逆パターンで織田家が死に掛けた事を考えると
上洛の威力は想像以上に大きいのかもしれん。

386 :
地理的に恵まれていたっていっても、信長が尾張を切り取り東は徳川武田と講和して、
抵抗続ける美濃を執拗な攻撃で落とし……と自分で安定させたんだけどね。
長期的視野っていう点で、ほかが駄目で信長だけが成功したのも当然。

387 :
>>386
尾張に生まれて美濃と戦国時代の最強の2国を抑えた幸運
武田も上杉と北条と敵を抱えて動けない
朝倉も同じことよ

388 :
>>387
なんでそこで尾張と美濃を確保するまでの戦いを無視するんだ……w
単なるアンチとか、贔屓の大名にもチャンスがあったことにしたいから、とかか?

389 :
武田信玄の場合、三国同盟も幕府斡旋の甲越和睦も自分からぶち壊したわけだしw

390 :
>>388
こんなのいいだしたら、
島津や毛利や武田や伊達も同じ、苦労して領土を拡大しても天下には届かなかったの
織田は領土が近畿に隣接していたからこれらの大名より幸運だったわけ
いい加減、織田の運のよさを認めろw
朝倉も幸運な立場だったわけで織田だけが幸運とか言ってないよw

391 :
なんでそう1か0かみたいになるのかね
信長は地理的には確かに幸運だったが、
相当以上に奮闘したのも確かだろうに

392 :
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年 。その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。信長の戦下手は神レベルだよな。

393 :
>>389
武田の立場的に、北条上杉無視して織田なんて不可能なの
武田は泥沼な信濃制圧戦で北信濃上杉上野との対決は避けられない
こんなことも分からんの?w

394 :
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…

395 :
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺をRしかねーな!」

396 :
幼君斎藤義興は多いに信長を苦しめたが不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城  織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城  と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて 戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達
駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。
越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。
南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)
美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。
跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

397 :
地理的状況的なモン整えても、今川義元みたいになる可能性だってあるしね。

398 :
運も実力のうち。そして明らかに運だけとも違う。
三傑が他大名と別格の評価なのは当たり前だって再確認しているだけだな。

399 :
>>391
だから島津や武田や伊達もド田舎で苦労して100万石の大大名になったの
織田が天下に近づけたのとこれらの大名の違いは
立地の運とか、その他諸々織田が幸運だったから
京と距離の差は埋められないほどのあるわけ

400 :
尾張が最強ねえw
尾張の弱兵、とか馬鹿にされてた地域なのに。
最強()の越後や甲斐の兵を用いてもろくに伸びなかった大名いるよねそういえばw

401 :
兵質なんて日本みたいな狭い国土の領土で差がつくわけないし
ただ負け戦が多い大名のただの言い訳にすぎない
兵質に差があるとしたら兵農分離(笑)が完了されたプロ機械化武士団でもって
非戦闘員(餓死寸前)に一門10人くらい殺された信長はどれだけ戦下手なんだ、という事に…
今川義元の領国は大して国力ないよ。3国合わせてせいぜい70万石そこそこ。
信長は細川高国と敵対した細川晴元の嫡子の信良に自分の姉妹を嫁がせて京兆家と兄弟になってるし
細川高国後継者の氏綱を擁立し京兆家の政治的な力を奪った三好長慶とやってることは何ら変わらないと言うより二番煎じ。
信長は京兆家の義兄の立場を利用してる分だけ旧時代の権威への依存度が高いだろ。
義尋を手元に置いておけば歴代の有力者みたいにいつでも義昭を廃して義尋を将軍に擁立できるだろ。
実際は関白になった秀吉の時期に義昭の将軍位は廃されたようだけど。
三法師の件だって別問題じゃないだろ。家臣によって織田後継者が左右されてる時点で信長がシステムを作ってないことに起因してる。
義尋を手元においている信長と
三法師を手元に置く秀吉ってのも同じ性格を有するものだ。
長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。
元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、
信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、
義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
畿内での肥大化が信長1人の力だと思い込む傲慢さが信長厨が重度盲目たる所以だよ。
簡単に言うと細川政元や細川高国や大内義興や細川晴元や三好長慶や浦上宗景や松永久秀らが
長い時間をかけ内紛と下克上の闘争を通じて努力し
京洛の権威の弱体化による更地化をしてやってきた成果の果実を信長は拾ったに過ぎない。
その成果の果実が信長をして彼らより大幅に時間短縮できて肥大化できた主たる理由。
むしろ信長は彼らに比べ、より何もやらずに果実だけを手に入れたと言える。
後発の利益が各地域での巨大勢力を生み出しているに過ぎない。
もちろん中国地方でも大内より肥大化した毛利が生まれているのが信長だけが例外・特別でない証拠。
地域の脅威に対して規模の経済や規模の軍事力による利益分配を国人達がより必要としたからに他ならない。
そういう時代の気運が反映したから信長が歴代畿内有力者より多少肥大化しただけのことで、
だからこそ信長だけを特別視するほどの差違も理由も無い。
果実を得た代償として信長は京洛において地盤やシステムを築かずに
ひたすら軍役をかけまくり乱暴性急に事を運び過ぎて親子揃って反発を買い謀反死を招いた愚者で死亡パターンは細川高国タイプ
まあ長慶や高国が暗殺されて、後継者がその仇討ちをして天下統一していたら
彼らは信長を超える評価をされていたのは間違いない。
将軍の式典などでの華美で派手な無駄遣いに反対して、
将軍から不興を買ってまで徳を以て天下に臨む態度こそ人心を得ると推奨していたし、
まさに岐山に発した周王朝の創始者武王の父の文王の如き仁君と称されたな。
信長はただの暴君だから暗殺された。

402 :
>>398
つまり信長が光秀に殺されたのも実力だな

403 :
信長に怪しまれないように完璧な演技をして油断した一瞬の隙を突いて襲撃し殺害したのだから
光秀の実力を否定することは出来ないだろ

404 :
内容なんて考慮する必要ない。
信長が状況や条件無視で領土広げたから別格というなら
信長は圧倒的国力持ちながら光秀に殺されたから雑魚
ある一部分だけ条件状況経過を考慮して
都合悪い部分は相手を持ち上げ状況条件加味して擁護とか都合いいにも程がある

405 :
天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。

406 :
その「だけ」さえできなかった他大名はクズって言いたいのですねわかりますw
どーでもいいがコピペはやめい。どっかの武田厨捏造魔じゃあるまいし。

407 :
戦国時代を平定した秀吉
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1334820387/l50
織田チョン涙目www

408 :
あれだ。三傑並の事ができた大名を根拠とともに示す、じゃなくて。
嘘や妄想で三傑を貶めるのに必死な奴は間違いなく「だが」。

409 :
>>401
なげえwwwww
「カツオ待ちなさい!」「ねえさんズルイよ〜」まで読んでやめた。

410 :
信玄が和睦破りの奇襲をかけなければ、謙信は上洛して義輝を助けて三好と戦ってたんだろうか。
もっとも、それで勝ったとしても天下の権を握れる可能性は低いが。本国と隔絶しちゃっているし。

411 :
信長は経過を加味するなら状況や条件に恵まれまくってるから>>392-401
一概に勢力拡張だけした事をもって別格扱いなんてできない
経過を加味せず結果だけでいうなら殺されて死んだだけ
ある一部分だけ条件状況経過を考慮して
都合悪い部分は相手を持ち上げ状況条件加味して擁護とか都合いいにも程がある

412 :
バカの一つ覚えwww
また信玄が和睦を破ったなどとデタラメを繰り返す池沼織田チョンwww

413 :
一度決着のついた話を繰り返すのは無駄だからテンプレにこれいれよう
・武田が織田・徳川に騙し討ちをしかけた⇒織田厨のデタラメ
元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬ
フリをする方針にしたことを述べていて織田との抗争にならないよう配慮してたら
信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
>>信長が和睦をかなり武田寄りの立場で仲介する意志
謙信と信玄の和睦の仲介は元亀3年7月はおかしい
元亀2年だと柴辻が2009年に主張して反論はいまだ無し。
家康に至っては謙信との書状の中で「信長と信玄の間をどうやっても裂いてやる」と書いてるキチガイぶりだぞw
そもそも元亀3年に和睦仲介してるのは信玄。本願寺と信長の和睦交渉を仲介して努力してたのに
信長は東美濃で小里氏を支援してた。それを察知した信玄だがそれでも最初のころは見逃して我慢していたんだが。
家康は遠江の人質をぜんぶ俺にくれと信玄に要求してきたから信玄はOK!って駿河にいた人質をぜんぶ家康に送ってやったのに
当初の約束では今川氏真を決して許してはならない協定を無視してひそかに逃がすなどして北条と結んで対抗を開始したりと
やってることが火事場泥棒的キチガイ。
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。
2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実
3/23 市川宛の信玄書状は真偽が疑われている書状であり見当余地ありだが
雪解けするので謙信が信濃へやってくるのは疑いない。
北条と興亡の一戦をやるために甲越の和睦を信長に媒介してもらいたい。
ただいま信長に頼む以外にない。粗略にされては信玄滅亡疑いなし。
この織田厨が得意になって持ち出してくる書状は偽文書の可能性あり。
5/23 信長の配下の武井などへ信玄が出した書状。
遠江の人質も渡したし、その後に北条がやってきたから対陣した。
掛川城落ちたのに氏真が無事に三河経由で尾張へ送られたのは
小田原衆と岡崎衆が会面し掛川籠城衆を
つつがなく駿河へ通過させてやったからで存外のことだ。
すでに氏真と氏康親子は和睦の旨。
家康も誓詞を出してる。この状態を信長はどう思っているのか!
信長も家康に氏真と氏康親子に敵対するように催促するべき。
5/24 氏政から酒井へ 氏真が帰国したし、家康から誓詞も届いた。当方との入魂大慶

完全に家康の方が上杉&北条と入魂して武田を裏切ってますね。
本当にありがとうございました。
ちなみに信玄は家康を信長の配下同然にみてます。
そして信長も三好攻めや北畠攻めなどで東側に介入する余裕もない。
翌年には浅井・朝倉と泥沼の戦いを開始するし。

414 :
だが理論による強弱関係
諏訪頼満(その信虎を破って諏訪家拡大)>武田信虎(村上から領地を奪う)>村上義清(上田原でボロ勝ち、調略でしか潰せなかった)>武田信玄(三方が原で破る)>徳川家康(小牧で善戦、最終的に天下取る)>豊臣秀吉(天下を取った)
つまり諏訪頼満こそが戦国随一ということになる

415 :
>>386
正室が濃姫じゃなかったら、
美濃はあれほど安定しなかっただろう。
でも運も実力のうちだと考えれば、確かに別格だけど。

416 :
村上って二戦以外負けまくってるし
上田原は1.4倍で大して兵力差ないし板垣の敵陣ど真ん中での首実験が原因
砥石も基本は城攻めでの疲弊だから強弱関係で不等号はつけられるわけないじゃん
越後から援軍つれてやってきたら一日に十何個も城落とされまくる負けっぷり

417 :
それでいいなら信玄が小岩岳城攻略し、飯富が村上勢を撃破。
葛山城を信玄が攻撃して村上は城を捨てて逃亡。
その後で戻ってきた村上に対して信玄が本隊を率いて攻撃、
一日に村上方の城が16陥落し、他の城も次々と陥落。
村上は城から叩きだされてついにその後は信濃に戻れませんでしたとさ。

418 :
そもそも、信玄が村上に苦戦したのは
小笠原の残党や後ろに長尾上杉とかの影響でしょ
ただ単に、武田vs村上だけでみるのはゲーム脳だよw

419 :
塩尻でアボーンされてるしな

420 :
やはり毛利では

421 :
信長・秀吉・家康が「やってみせた」から他大名にもできそうじゃね? と思えるだけで。
史実的にはこの三人以外は……だったからなぁ。

422 :
>>420
毛利は、国人連合の盟主的な立場だと天下統一は無理だろう、と上の方で話がでてる。

423 :
どこも国人連合と言ったら国人連合だという・・・

424 :
もし秀吉が居なかったら誰が天下統一したんだろうか…
その場合、家康では無さそうだよな。

425 :
>>414
敗戦責任を家臣に追及か、惨めだな。
なら小牧も「実際に負けたのは池田森」なんて言えるわな。
上で統御している信玄秀吉に責任がいくのかいかないのかというだけでw

426 :
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな  100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずゥ20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ 。中入り勢は突出などしとらん。秀吉の命令通り動いただけ
御用史書に書いてある中入りが池田の提案なんて信じてるのか?
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。得意戦術とはそういうものだ。
秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。
要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。
これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の立案などと
信じるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。増して機動力のみが頼みのしかも2度も披露した秀吉戦術では、
歴戦の将、家康をたぶらかすのは無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。
だから秀吉もこの戦術は2度と使っていない。九州征伐、小田原陣では信長方式の
戦術不用の物量作戦戦略に切り替えている。


427 :
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

428 :
>>423
国人に対する支配権が強いか弱いか、じゃね?
その意味では、あまりにも毛利家は周囲の国人に対して立場が同等すぎた。
元就があと20年くらい生きてれば、家中を掌握しきっただろうに。

429 :
元就「天下を望むな」という遺訓があったそうだが。
結局、天下騒乱に首突っ込むんだよなあ。

430 :
つーか、天下統一っていう発想が曖昧
どこからどこまでを日本とするのかもね
朝鮮攻めも天下統一事業の一つじゃないのかね
信長の天下布武もオリジナルじゃないしね

431 :
史実として三人しかおらず、天下人の定義を拡大しても十人もいかない。
そんなのをイフでこいつならできた、とかハードルが元々高すぎる……。

432 :
>>426
小牧の戦いは秀吉はやりにくかったと思う
大義名分は完全に信雄と家康にある上、池田は盟友であって上司ではない
つまり「共に戦おう」とは言えても「戦え」とは言えないのでどうしても統率に乱れが出る
承久の乱における北条泰時と関東御家人との関係に似ている
無謀な奇襲作戦も秀吉は渋々了承している、下手に意見を却下すれば池田親子が拗ねてしまうから
ただし秀吉が天才なのは、その後調略(奥義人たらし)でその信雄と和睦を結んでいる
結果梯子を外された家康も矛を収めるしかなかった
>>428
元々が安芸のいち国人の当主のスペアのスペア(兄とその遺児)というハンデだからね
一代でよく頑張ったと思う
>>429
輝元が暗愚だったのは事実ですね
それでも両川に支えられ?てなんとか長州一国は安堵
幕末には薩摩とともに天下を取ったとさ

433 :
信長とR兄弟の池田恒興や乱暴者の森の鬼武蔵さんの扱いは
秀吉にとってめんどくさい相手だったのは事実。
しかも彼らも領土欲がかなりあって
武功を立てたくて仕方がなかっただろうしね。
無碍に拒否して士気を下げるどころか離反されたらかなわん。

434 :
>>426
どうせコピペなんだろうけど、三河奇襲作戦は勝入による提案を渋々秀吉が承認してる
そして奇襲というものは相手に悟られたら失敗する、つまり神速が必要となる
ところがその行軍は遅々たるもので、1日10キロという進軍速度だったらしい
中国大返しや賤ヶ岳で見せた大垣城からの反転、こんな芸当は秀吉が軍勢を率いないと凡将には難しい
結果家康の索敵網にひっかかり、あべこべに奇襲されたのも必然の成り行きです

435 :
加えると、勝入の心中を少しでも察すれば少しは理解できるのでは?
一言で言うと「後ろめたい」状況だ、R兄弟であり主君である信長に対する義理を捨て
金で秀吉に転んだ状況で、家康から弾劾文まで送られる始末
人間は後ろめたい事を指摘されると腹が立つし冷静ではいられない
その「後ろめたさ」が焦りとなり、リスクを伴う奇襲作戦へと突き動かした
そうなると主君でもないあくまで「同志」である秀吉も止めるに止められない

436 :
そもそも池田が信長の義理を捨てたってなんだ?
義理捨ててるんなら家康の方に行くんだが?
これは秀吉自らも公言しているが、畿内政権側の認識では
「織田信雄が徳川家康に操られて家康の好き放題させられている」というのが彼らの認識。
一方の羽柴秀吉側には織田秀信、織田上野をはじめ多くの織田一門がいる。織田信雄側なんて直属家臣くらいだぞ。

437 :
>>426
おまえ日本語理解できてるか?
小牧の失態を秀吉の失態とするなら当然板垣の失態は武田信玄の失態だよな?って言いたいだけ。
当然だよな、いくら板垣信方が首実検なんて言っても、武田の許しがでなければそんな暴挙には出られない。ましてや長久手の池田と違い武田信玄は板垣のすぐ近くにいたわけだ。
武田信玄自ら、あるいは伝令だして制止させればよかっただけ。それを怠った結果の板垣信方の戦死、当然責任が武田信玄にある。
コピペで小牧の流れに持って行って誤魔化すつもりだろうけど、上田原は完全に「武 田 信 玄 の 負 け」だよ。

438 :
>>436
秀吉が信孝を討ったのは信雄・三法師様のご命令です
ちなみに信孝の辞世の句をご存知ですか?反逆者秀吉への恨みの句です
結果主君であるはずの織田家の人間が家来にさせられる
ところが今度は身の危険を感じた信雄が家康を頼り、義の人家康は立ち上がった
形としては逆臣秀吉対主君の遺児信雄+その盟友家康という図式になるのでは?

439 :
>>437
「武田の負け」が受け入れられない人もいるんだよ、察してやれ。
>>438
ならないと思うな。
あくまでも主君は秀信、清洲会議でそう決まっている。
信雄は主君に弓引く一族の恥だろ。
とは言え、信雄側からみれば、身の危険はひしひしと感じていただろうなぁ。

440 :
下克上の時代だからねえ……。
実力のない上が、下に取って代わられるのはよくあること。
筋目云々が大事にされるのなら、そもそも戦乱状態にならない。

441 :
いや、下克上の時代は終わってるだろw

442 :
どっちが主君でどっちが非主君かってのはついた家臣見れば一目瞭然
織田秀信、羽柴秀吉には丹羽長秀、池田恒興、堀秀政、織田信包、前田利家、稲葉良通、滝川一益がつくというそうそうたる連中。
一方の織田信雄側には佐々成政といった一部の織田家臣連中が従うものの大半は佐久間信栄や織田長益のような信雄直臣、徳川家康みたいなよそ者ばかり。
本当に織田信雄が主君だったらここまで極端にはならない。秀吉に懐柔されていた、と言い訳付けるにしても織田信包が秀吉につくのはまずありえない。

>>438
信孝辞世なんて完全に後世の創作。
挙句何が「義の人家康」だよ徳川家康こそ不忠者だろw
徳川家康は織田家先代である織田信長の代からの同盟者で清洲会議でもそれは継続されている。
実際甲斐信濃といった織田旧領は織田家の承認を得て統治をおこなっている。
だから本来は織田秀信、羽柴秀吉の援軍として馳せ参じるのが筋であり、離反した織田信雄を擁して戦争などと言うのは義も糞もない。
しかも離反の理由が信雄様に頼られた、とかでもなくただ単に新織田政権ともいうべき信長死後の織田家で地位を確立できなかったことによる不満からで
当然羽柴秀吉はこれに激怒して、同胞の丹羽長秀に対し「家康ごときが信雄様を操り織田家転覆を狙っている」とか「徳川家康は必ず討ち果たす」と書状の中で完全にマジギレ

443 :
秀吉の調略勝ち。
清須会議での取り決めを破って「我一人の覚悟にて」とかいって自分の味方になるよう領土分配している。
これで実利>筋目の時代らしく雪崩現象。
勝家は信長存命時から思考が抜け出せず、会議の取り決め守ってよといい続けている。
これじゃ負けて当たり前。

444 :
死の床で秀吉は、信長の幻影に責められ苦しんだ(「国祖遺言」)そうだから、
天下とってもそれが本人の幸せかどうかはまた別だよね。
何しろ信長の息子だけじゃなくて、側室とかまで殺害しているからな。

445 :
>>443
勝家はともかく「勝家側」は守ってない奴もいるけどな。
信孝なんかそれの最たる例で勝家の言ったことを守らなかった張本人。

446 :
>>432
とりあえず妄想や願望で書かずに>>426-427を十回読み直してくれ
秀吉が織田家臣らに足を引っ張られていたなんてアホな考え浮かばなくなるから。
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

447 :
これは迷惑捏造コピペ野郎の「だが」じゃね?
言っても無駄だと思う。

448 :
でもこの件に関して言えばだがはある程度当たっている。
この時点では羽柴秀吉と池田勝入の地位の差はかなりあって、
名目上は織田家臣同士の同僚という間柄だが、実際に池田はもう秀吉の家臣扱いでもおかしくないくらいの差。
端的に言えば「池田の献策を秀吉があっさりと拒否否定するくらいはできる」という状況でもある。
もちろん実際に戦ったのは池田なので直接の敗因は池田なのだが、秀吉に責任が全くないわけではない。
結局この戦いで「当主代理とはいえ秀吉が指示し家臣団がそれに従う」という既定事実ができる。
織田家一門で秀吉となんの接触もなく残っているのはもう織田秀信だけ。当時わずか4歳で何をかいわんやである。

449 :
数え年だったら5歳か

450 :
もちろん間違っている部分もあるからな。
和議とはいえ織田信雄が応じて臣従している以上小牧は秀吉の辛勝とはいえ勝利でもある。
(むろん局地戦では敗北しているが)
そもそも秀吉軍は開始当初から伊勢の付城をボコボコ落としている割には信雄居城の伊勢長島城は素通り。
尾張方面に転進した後も徳川軍に攻撃かけようとするだけで織田信雄を攻撃する様子はまるでない。
本気で織田信雄を攻撃する気でいたのかとすら思う。家康にはマジギレしまくってる当たりも秀吉なりの遠慮であろうか。

451 :
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな  100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずゥ20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ 。中入り勢は突出などしとらん。秀吉の命令通り動いただけ


452 :
>>448
作戦の立案は秀吉なので120%秀吉の責任
眼前にある敵に対する戦術・作戦が秀吉の責任じゃなきゃ
ほとんどの軍事行動も秀吉の功績ではない
>>450
秀吉は家康にびびりまくって128000もの圧倒的兵力で持って
家康が後詰にこれない木曽川流域地域を荒らしまわってただけ
秋になって秀吉が信雄領国を荒らしたら馬を納めて帰ろうと思ってたところに信雄が和議を懇望してきたから勝てただけ

453 :
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

454 :
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

455 :
初歩知識レベルの間違いを直さないコピペはいいから、せめてソース出して言えw
あ、もちろん出典捏造という誰かさんお得意の嘘はなしだぞ?

456 :
マー確かに
信長秀吉ラインはおかしいよな
みな、いい風に取れえすぎ
まず、織田家は秀吉のせいで天下統一の夢を失った
家臣に家を乗っ取られたのと同じ、織田家からみたら下克上と同じ
秀吉もその行為は光秀となんら変わらん
織田家から完全に権力を奪い取ったからね


457 :
>>455
お前は文盲かw
レスよく読め

458 :
>>452
信雄が和議を結んだ、というのは信雄にとっては和議を結んだ方が得策だと考えたんだろ?
それって信雄が劣勢だった証拠でもあるんだが・・・当たり前だけど自軍優勢で和議乞う奴はいないぞ?
つか秀吉はハナからやる気ゼロでgdgdで収めようというのが丸わかり。
織田信雄と和議を結ぶや否や反秀吉の周辺勢力を嬲り倒してご丁寧に石川数正まで呼び寄せて寝返らせているという用意周到っぷり。
挙句年老いた母親や妹を厄介払いして、身内を捨ててまでぶち殺してやるという脅しにも取れる対応をしてまで家康を屈服させる有様。
家康ではなく信雄をRことを恐れていたとしか思えない態度の豹変っぷりには驚きを禁じ得ない。
>>456
そもそも1585年までの豊臣秀吉はほとんど何もしていない。
結果論で言えば勝手に織田が転がり落ちただけ。内乱を収められない幼君当主じゃ当たり前だが。

459 :
家康「徳川家が天下を取れたのは、天道に従ったお陰。それを外れると滅びるから、そういう真似はするなよ!」
そんな思想の時代だから。
逆に言えば、天道に選ばれた()のなら下克上しようが簒奪しようがオッケーと。
怖い時代だったわけだ。

460 :
>>458
>つか秀吉はハナからやる気ゼロでgdgdで収めようというのが丸わかり。
領国から12万8000もの圧倒的大軍動員して
短期決戦しかけて1万もの圧倒的被害を出して楽田の防衛強化など防衛態勢に入って
二重彫合戦や蟹江合戦や夏の対陣でも負けてビビって家康に対してビビリで動けなかっただけ
秀吉書状で各大名や家臣達に向けて家康討伐の意思をありありと述べてるのに
実際は終始苦戦して北畠の傀儡状態で権力基盤ガタガタな信雄領国荒らしまわるのがやっと
>挙句年老いた母親や妹を厄介払いして、身内を捨ててまでぶち殺してやるという脅しにも取れる対応をしてまで家康を屈服させる有様。
圧倒的国力差なのに全然家康が頭下げないから母と妹まで差し出したのを厄介払いとか歪曲にもほどがある

461 :
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
敗戦翌日の10日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか15町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差7倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな 木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

462 :
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる

463 :
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わず150町ほどの距離にある自軍の7分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか15町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

464 :
>>433
池田や森のせいとか基地外だな
池田や森のおかげで木曽川を越えて尾張に侵攻できたし
家康が尾張に転進したおかげで南伊勢を蹂躙できたんだろうがw
秀吉の敵を侮りて武勇を誇りたる人、を拡張解釈する基地外乙
百パー秀吉のせいだろうがこのチンカス野郎
>>434
行軍速度が遅いのは単に秀吉が屋敷や砦を堅固に構えながらのろのろ行軍させたから
丹羽宛書状でそういった計画をつづっているし一柳や山内などにも直接書状で屋敷の普請に関して指示している
>>450
南伊勢を蹂躙できたのは単に信包や関氏ら地元諸将が秀吉の味方になって
家康が尾張に転進したおかげ
3月初頭重臣離反→誅殺の流れに見られるように信雄の権力基盤なんてガタガタだったし

465 :
>>458
>そもそも1585年までの豊臣秀吉はほとんど何もしていない。
>結果論で言えば勝手に織田が転がり落ちただけ。内乱を収められない幼君当主じゃ当たり前だが。
秀吉がいかに織田家を乗っ取ろうと動き回っていたかまるで見えてないのですか?
幼君当主と認めているなら、織田家がすでに秀吉の傀儡と化している事を認めているという事ですね?

466 :
小牧長久手ののち、秀吉の戦略は尾張西部へ攻撃対象を変更した。
一柳直末に大浦城(羽島市)の普請を命じ、楽田から岐阜へ移動。
5月、秀吉は尾張富田(一宮市)に進出し加賀野井城(羽島市)包囲を開始。
この城は信雄首脳陣たる林・楠・千草・小坂らが篭もっており、
信雄が救援に木曽流域にきたところを捕捉殲滅しようと策した。
しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
その次に竹鼻城攻めが開始された。この城が水攻されたのである。
一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
滝川が清洲(徳川軍策源地)と長島(北畠軍根拠地)の連絡を寸断すべく蟹江城を乗っ取った。
一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
秀吉の行動に対応して伊勢筋からの信雄の注進により10/23に松平家忠が清洲に入っていたが
(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
結論
信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
信雄は北畠家から強制出家させられ小者1人付きだけの秋田流罪にされる。

467 :
>>家康が来ないからまんまと狙いが外れた
>>木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
>>鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
秀吉は加賀の井城を攻略後に竹鼻城へ水攻めを開始している。
つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい
秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
>>滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
>>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失
すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
>>和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
>>長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
しかも吉村に対して11/7・11/8で相次いで信雄が福田の裏切りへ対処するように行ってる状況下で。
まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
城とは書いてないからその地域を一時的に占有できたのかもしれんな。
どっちにしろ家康には何ら功績などない。
>>家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
家康が出陣していたとは書いてないだろ。
秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから
自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
しかも10/18付けで家康は遠山半左衛門尉討死を伝えているし
9/23には飛騨の金森が美濃郡上へ秀吉のために動くなどと書いているし
>>家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも信雄が2/22着で大坂城へ土下座しに行ってる時点で家康の大敗は確定的。
そもそも家康には天正12年6/27付け書状からわかるように秀吉へ人質を出していた上杉という敵までいるしw
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。

468 :
戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど
他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと
書いてあるので事実だと思っている。
そこには奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が戸木城へ来て
木造親子を宥められて扱い入れてくれたことで木造家は無事になった。
10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し
信雄の清洲へ退いた。それにより木造・小倭の領地は上野介信兼(織田信包?)へ付けられた。
ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
そういうや信包が秀吉方にいたと確認できる資料って見たことないけど
どの史料に出典あるの?木造記から戦争末期には秀吉側にいるのは間違いないだろうけど。
織田有楽斎は信雄方に最後までいたのは間違いないんだが。
10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には
桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り
北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して
美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
>>和睦条件がデタラメ
これは本や史料によって解釈がまちまちで正直わからん。
尾濃葉栗見聞集によると、
木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ
勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には
壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
大半を氏郷とその与力に与えていたりするし
これ取り消したりしないだろうし。


469 :
講和条件については
「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。
しかも細部の内容がまったくわからないし。
実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、
別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
尾張北東部では丹羽郡〜葉栗郡東部・春日井郡北部などが奪われたか。
尾張北西部も西加賀野井などが奪われたか。それとも返却されたのか不明。
どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
そして秀吉が信雄に遠慮して、家康を討つと言い換えていたなんて
トンデモ理論を持ち出す織田厨のバカさが突き抜けたキチガイぶりで笑えたw
逆、勢州軍記がいろいろな史料を集めて編集しただけ。
講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に
源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、
木造長政の名前がないのは、
この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが
秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるが
のちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
>>尾張北西部も西加賀野井も奪われたか
奪われてるね。竹鼻城は水攻め落城後に一柳直末が入っていたが
のち天正13年のことだが
11/3付けで竹鼻における不破広綱の領地を
池田輝政配下の伊木忠次に与えてる秀吉書状がある。
天正14年の木曽川大氾濫で流路変更がおきて
尾張国から美濃国扱いになってしまったが
当時はまだ尾張領。しかもここからすぐ下流の長島城まですぐだから
信雄は完全に頭を抑えられた格好になってる。
まぁ天正13年11月の天正大地震で長島城はぶっ壊れたから
清洲へ移転することが天正14年2月に決まったが
実際は長島の修理をせずに、竹鼻城から遠い清洲へ逃げた格好だろうね。
信雄にしてみれば、おちおち枕を高くして眠れないからね。
なんせ長島城の堅固さは関が原の戦いでも
正則の弟の福島高晴が籠城してる中で
西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して
攻めずに関が原へ急行してるしね。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけど
そもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。


470 :
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが

471 :
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

37 :人間七七四年:2012/05/08(火) 20:36:13.43 ID:LbRJcoNr
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め


472 :
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之して
>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
いやだって128000もの圧倒的大軍がありながらわずか16000〜7000の織田徳川に一年一杯かかって苦戦しまくったのは
秀吉が長久手・二重掘・蟹江・松の木・戸木など各城郭で梃子摺りまくったからだぞ
>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い

473 :
あんたは日付とか書かないから
いつのことを指して、誰々がこう言っていると言ってんだかわからんから
それぞれ日付を明示してくれ。まったくわからんよ。
>>秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして
尾張東部へ攻め込んだだけ。
>>家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。
秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
秀吉軍を呼び込めばいいだけ。長島城が危機的になり敗北確定になるまで
なんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
>>鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より
加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
落とされた家康の失策でしかない。
というか家康は完全に追い詰められているよね。
7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
もう絵に描いた餅状態じゃん。
>>この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかり
>>その間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
その後、あらたに大きな軍事行動を秀吉が開始したのが10月下旬で長島直撃作戦だ
城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
>>どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる。


474 :
さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
ちなみに佐竹への書状でも秀吉は対外宣伝としては、そんなに大法螺は吹いてない。
>>戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
>>お前の主観なんて聞いてない
本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
>>長久保の城が落居
この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
まぁ福田の裏切りへってのが長久保城のことだとする話は聞いたことあるけどソースを俺は知らない。
謀反した城を奪回したのなら別に秀吉軍を撃退したわけじゃねーしなぁ。
>>信雄がへタレて
ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
>>一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定
そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
>>織田信雄分限帖
いつの分限帖を指してる?戦後のやつか?漠然と書かれてもわからん。詳細を書いてくれ。
大身だからとか関係ないだろ。外様や最前線の国人城主か首脳陣かでかわる。
そんな出先の小城の主まで人質要求しないだろ。
>>信包が秀吉方
神戸城への兵糧搬入だかなんだかの件の書状で民様と書かれているのが信包のことだと確認済み
>>木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
根拠は?


475 :
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。
イエズス会日本報告集
羽柴はただちに山崎や都から三里の八幡に強固な城を築いたので
柴田と三七殿は大いに懸念し、彼に使者を送り、当初の約束では
三者対等であったはずなのに、彼は天下の絶対君主となる素振りを見せている。
すぐ二城を破壊しなければ春には彼を滅ぼすと伝えた。
秀吉はそれに対して、望むところだ。誰が天下の主になるかは、各自の腕で決まることだろうと返答した。
そして岐阜の町を包囲し三七殿は羽柴の慈悲を乞い、母と娘と家中の子弟と信長の孫を人質に取った。
信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。


476 :
信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため北畠信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度。
イエズス会日本報告集
御本所は三河国主を味方にして羽柴に敵対した。
彼は父の下僕が高い地位に上り、父の子である自分が羽柴の家臣に留まることが我慢できず除こうとした。
しかし羽柴は優れた武将であり、大きく優位にあったので彼らは降伏し和平を乞わざるおえなかった。
羽柴は和平を認め三カ国のうち、一カ国半を自分のために取り、一カ国半だけを彼に残し
彼の娘と三河国主の長男を人質として取った。
秀吉はすでに清洲会議から叛意むき出しで徒党を組んで会議出席してるとしか思えない。
そもそも宿老だけで重要決定をしてるのだから、
専横権臣たちによる合議であり主君に諮ることをしない政策に変更されてる。
そしてまったく合議をしようとせず、それにより秀吉に不都合が生じると、
まるで道具を扱うかのように軽く自分に都合がいい北畠家の信雄を持ち出してきて、
相手を謀反人呼ばわりし信孝をR。
そして信雄や家康との戦いではもう大義すら掲げずに狂犬のように信雄に噛み付いてきてる。
朝廷は既得事実を積み重ねた秀吉に対する事後認定に過ぎない。
本能寺の変で織田は事実上滅亡したと言っていいだろう。
結論
三法師を織田家督に据えたといっても秀吉がやりたい放題をしていて
安土に織田主君はおらず、無主状態のままに三法師の名代も廃絶され
北畠を利用して信孝を消した秀吉は信雄を家臣扱いして挑発。結局、信雄は屈服。
本能寺の変をもって織田は実質滅亡し残りカスが秀吉の手のひらの上で踊らされた挙句にポイ棄てされた。
秀吉が信孝から奪い人質にした三法師(2歳)は一次史料上から天正16年(9歳)まで行方不明。
そのため同一人物でない可能性が高い(織田家や旧織田家臣は三法師に冷淡で関が原後に至って野垂れ死ぬのを放置)
宇喜多秀家すら島津に匿われて、家康にバレたあとに死罪を免除されて遠島送りで済んだんだから
丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の四男の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。
このすり替えも江戸時代を通じてずっと気づかれないできていた驚愕の事実。


477 :
>>456
>織田家は秀吉のせいで天下統一の夢を失った
どう考えても光秀のせいだろ。

478 :
>>477
信長にとっては光秀、織田家にとっては秀吉でいいかと

479 :
織田家の領土拡大なんて殆ど
光秀&秀吉の成果なんだから(+信長も)
仮に秀吉が清州会議直前に急死したとして
残りの織田家家臣の能力&人望じゃ誰も天下取れないだろ。

480 :
>>465
そもそも織田秀信擁立なんて清洲会議の決定事項だから秀吉の傀儡でもなんでもねーよw
おまえの頭の中には柴田勝家や織田信孝の名前がないのかw
挙句織田秀信の替え玉説てwww
羽柴秀吉が本気で織田家を乗っ取り簒奪する気でいるなら織田家の正統当主である織田秀信なんて邪魔なだけ。
事故に見せかけて暗Rるとか秘密裡に処理するとかいくらでも方法はある。替え玉なんて作るより完全に存在そのものを消し去った方が早い。あとは信雄だけになるから当然だろ。
替え玉なんか擁立して替え玉がその弱みを片手に後で実権振るいだしたり秀吉に牙向いたらどうするんだかw

羽柴秀吉が織田家を重んじていたからこそ朝廷高級官位や織田一族が要地につけたんだろ。
秀吉が織田家を潰す気なら織田家なんてもう残ってねーわw

481 :
官位とか当時、殆ど意味ないけどね
そもそも、織田家を潰す理由がないわw
つーか、3万石しか与えられなかった時点でどうなのよw

482 :
最近の説では官位は超重要だったらしい
関ヶ原の勝敗は徳川と毛利の官位の差で決まったとさえ言われてる

483 :
>>480
あなたにとって、家臣である秀吉が織田家を重んじる=主君である秀信にわずか美濃一国を安堵という事ですね
これを家臣の専横・もしくは主君の傀儡化と言わずなんというのか教えてほしい
そして織田家重んじているなら、忠節を尽くすのが普通の考え方です
あなたの人間としての常識を疑いますよ・・w

替え玉説はしったこっちゃないけどね

484 :
>>481
3万石?どこソースだそれw
江戸時代ですら12万石もあるのに豊臣政権期なんてもっと多いぞ
潰す意味がないとか正気で言ってんの?平清盛と源頼朝源義経の逸話も知らないの?w
官位がほとんど意味ないとかノブヤボのやりすぎw
豊臣政権が律令体制に基づく官位性だから格や家式なんかは全て官位で決まる
豊臣政権下では1位の豊臣秀吉(関白、太政大臣)、2位豊臣秀次(2代目関白)に続く第3位に織田信雄が内大臣として徳川家康と同列の扱い。
織田秀信も祖父織田信長が継いだ正三位中納言の位を授けられていきなり重要職につくという厚遇。
ちなみに同時期でいうと伊達政宗と毛利輝元が従四位下侍従、徳川家康が正三位左近衛大将、石田三成が従五位下治部少輔、
上杉景勝が従三位参議、前田利家が正四位下参議で明らかに織田家一族のみが不自然に官位で浮いている。
>>482
そもそも征夷大将軍も関白も全て官位だからね。
官位を重要視しないというのは朝廷律令体制を全否定するということ。
そんな暴挙は信長すらやっていない。

485 :
>>483
豊臣秀吉による統治体制の確立は朝廷である正親町、後陽成両天皇の意向でもある。
これは秀吉の死後にいきなり秀頼がわずか5歳ながら官位を与えられたということからも明らか。
そもそも小牧の時点で端役官位であった秀吉にいきなり高級官位を与えるという優遇も行っている。
1000年以上続いている朝廷体制を全否定して秀吉個人の感情に走れ、と言うんだな?w
国賊朝敵となれという非常識な発想には恐れ入るよw

486 :
そもそも石高を持って優遇不遇を語るなんて言うのは歴史を知らない素人の発言。
豊臣政権下では徳川家康、前田利家、上杉景勝、伊達政宗、宇喜多秀家、毛利輝元あたりが大領持ちだが
彼らが直接豊臣政権に関与したのは秀吉最晩期である五大老五奉行の時代くらいのもの。
その状況ですら伊達政宗は加入することができず、東北の片田舎で中央政府の裁可を待つだけと言う不遇の境地を歩んでいる。
さて、織田秀信に話を戻すと織田秀信は若干12歳で美濃岐阜12万石を領有している。
初期領土10万石と言うのは豊臣秀勝(秀次弟)、豊臣秀秋(小早川秀秋)と同等クラスの初期領土で
黒田如水や宮部継潤のような豊臣家臣の生涯領土よりも多い。
既に秀吉が織田家を単なる主家ではなく、天下国家を収める関白豊臣家の立派な構成パートナーであり名家であるという認識があってこそのものであろう。
豊臣政権の後期では織田秀信の叔母にあたる三の丸殿が蒲生の養女を経て豊臣秀吉の側室になり、縁戚関係まで維持される豊臣一門としての確たる地位を築いている。

487 :
>>485
農民出身でただでさえ身分にハンデがあり、しかも織田家の家来である秀吉にとって
彼の権威を保証するには必要以上に朝廷を頼らざるを得なかった
結局それは織田家を乗り越えんがための事でしょ
あなたの言っていることは朝廷の方から自発的に秀吉を頼って「天下をお願いします」
とあったという事ですよね?
私はそうは思わないけどね、むしろ秀吉の激しい朝廷工作の結果があなたの言う天皇の「意向」になったと思います

488 :
>>487
日本中世の政治体制を何もわかっていない発言だな。
日本では平安時代の源義仲源頼朝に始まり足利尊氏や足利直義、三好長慶に織田信長、豊臣徳川に至るまで
全て天皇(王)による権力の移譲による間接統治、世界史で言うなら「王権神授説」のような統治を代々行ってきたわけだ。
これは秀吉主君である織田信長の実績を見ても明らかで、彼は本来武士という将軍に従う存在でありながら
武士のトップである将軍の足利義昭を攻撃して追放している。これ以上ない暴挙がなぜそれほど否定されなかったかというと
それは信長が天皇の信任を得ていたから、足利将軍家が天皇の信任を得られなかったからに他ならない。
大体秀吉の激しい朝廷工作と言うのがいかにも結果論で、秀吉は1584年に左近衛少将に任命されるまでは
未だずっと筑前守のままであり、秀吉が官位昇進に熱心ならこんな低官位のままと言うのはあり得ないこと。
ましてや秀吉は本来藤原氏しか叙任されない関白にまで任じられていて、これは明らかに藤原氏同士(二条氏、近衛氏)の対立を
避けて権力を削ごうという意図的な朝廷の沙汰や仕儀が働いている。

489 :
(王)じゃなかった、(神)

490 :
>>488
信長による義昭追放が、それほど否定されなかったという認識がそもそもピントがずれている
義昭による包囲網(信長の激しい否定)がどれだけ信長を苦しめたことか
あなたは知識があるのにもったにないですね

491 :
朝廷の秀吉優遇政策は当人の官位履歴を見れば一目瞭然で
1584年の10月に従五位左近衛少将に任じられたのを皮切りに
わずか1月後には従三位権大納言に昇進、あけて1585年の3月には正二位内大臣を叙任され、
そのすぐ4ヶ月後の7月には従一位関白に任じられる、わずか9ヶ月で位階が8以上昇進するという異例の出世劇
あまりに露骨な官位昇進なために官位の昇進時期を明示する「公卿補任」では秀吉の従左近衛少将任官を約2年早めた1582年の事とし、
1583年に任官されてもない従四位参議に叙任されたと異例の出世劇を意図的に誤魔化すように記録している。

492 :
>>490
朝廷の支持を抜きに考えれば、当時の体系で大義名分があるのはあくまで将軍足利義昭。
織田信長はそれを軽視して好き放題行動する不届きものという認識でしかない。だからこそ戦力皆無の義昭に味方する勢力が多かった。
もちろん織田信長本人の実力があったのは言うまでもないが、彼の行動に大義名分が出来たのは朝廷が織田信長を支持していたということに他ならない。
この動きは信長前代に畿内に勢力を張っていた三好長慶と将軍足利義輝の対立でも全く同じ動きが起こっている。

493 :
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
小牧長久手の戦いは7倍もの圧倒的兵力差がありながら
短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと
長久保奪われ神戸も奪われ蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却
秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に苅田や放火の応酬を行って
示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に
朝廷への急速な接近をしていくのは近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われて
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で7倍もの圧倒的兵力差がありながら短期決戦で1万人戦死するような一敗地にまみれた秀吉が
朝廷を利用する事を考えたんだろう

494 :
>>493
だがよ、御所の造営も禁裏での饗応も連歌興行への参加も全て
「朝廷による秀吉側へのお誘い」がなければ成立しない話だぞ?
まさか頼まれてもいないのに勝手に御所造営して天皇朝廷の行政に介入するなんて暴挙を行うとか
呼ばれてもないのに勝手に禁裏での饗応や連歌興行に参加するなんて礼儀を知らないような真似が通るとは思ってないよね?

495 :
大体秀吉が武力統一を目指したとか・・・毛利輝元に頼んで足利義昭の帰洛を助けた人間がやることじゃあないだろ

496 :
>>492
信長が大義名分を得るために朝廷工作を行ったという説明をありがとう
結局秀吉も同じと説明してくれてありがとう

497 :
>>496
おいおいマジで何も知らないんだな
織田信長の時も全く同じ朝廷側から頼ってきている。
1567年に美濃を統一して岐阜と改めたころの11月19日に天皇綸旨と万里小路惟房の女房奉書つきで
時の天皇である正親町天皇の子息、誠仁親王の元服費用と御料所の回復をしにきてくれと織田信長に書状を送っている。
もちろんこれ自体にそこまで価値はないが、天皇は綸旨で織田信長を「古今無双の名将」とべた褒め。
結局信長はこれに応じる形で足利義昭を連れて上洛、当然誠仁親王の元服も無事翌年に行いこれ以降朝廷は信長を支持するようになる


498 :
>>494
これを書いている兼見卿記によれば特に朝廷から強くお誘いがあったとか
御所造営を頼みこんだようなことは書いていない
困っていたところに秀吉が助けを差し伸べたと書いてある
>>495
秀吉がこれ以前朝廷工作に頼ったソースをどうぞ

499 :
ちなみに三好長慶の時は微妙に違っていて、朝廷と将軍足利義輝が対立したから敵の敵は味方理論で朝廷と三好が結びついた。
将軍の足利義輝が朝廷の裁可を無視したり、朝廷有力者で関白でもあった近衛前久が改姓して事実上足利家と断交。
義輝がぶち殺された後も朝廷は三好を咎めるばかりか三好家が推す足利義親を室町幕府の14代将軍にするという潔さ。

500 :
>>498
困っているから助けようというのまで朝廷工作というのかね?
そもそも秀吉がそこまで朝廷差配に詳しいとは思えないし御所なんて朝廷政治の中枢。
勝手に秀吉の一存でできるものじゃないだろ。
>>秀吉がこれ以前朝廷工作に頼ったソースをどうぞ
え?いやいや日本語通じてるか?武力統一に頼ったというのが反対なだけで朝廷官位や権威というのはまた別の話だろ?
そもそも俺は信長葬儀の段階で秀吉が確たる野心を持っていたとする谷口説は反対だからな、一応言っておくけど。
あんなの後世視点でみた後付でしかないし史料からの根拠も目ぼしいものなかったろ。

501 :
信長による朝廷への献上行為は秀吉よりも遥かに激しく
お湯殿の上日記によれば天正元年より毎年天皇や誠仁親王に対して10回以上も金
傘一・髭篭五・雁・鶴・壷などの高価品を献上しまくっている
ソースは 『儀礼からみた公武関係』第一章論文

502 :
向こうの要請もないのにやるわけない。
ましてや元亀年間の頃から朝廷は信長支持をしていたが・・・・

503 :
>>497
その頼る内容って、「誠仁親王の元服費用と御料所の回復」
結局お金を出せ、所領を差し出せって事でしょ、つまり献金の要請
あなたは物事の形式に詳しいので、かえって振り回されているのですね

504 :
>>502
要請してたというソースをどうぞ

505 :
なんのスレなのかわからなくなっててワロタ
秀吉家康以外無理に決まってんじゃん

506 :
加藤清正

507 :
徳川ん所の息子達。親父から継承で楽に天下人。

508 :
>>504
本当に信長の野望の感覚が抜けてないんだな。おまえが挙げた「御湯殿の上日記」にちゃんとあるぞ。
これによると禁裏朝廷側から織田側へ唐錦、古巻物、薫物を与えたとあり、信長が有力勢力になった天正年間には
織田家大名である織田信長はおろか、京を統べる村井貞勝にすら正親町天皇自ら差配してプレゼント攻勢という徹底っぷり。
これは豊臣秀吉の代になっても存続され、関白豊臣秀吉とは別に京の政治をつかさどる前田玄以にも別箇に与えられている。
結局のところ信長や秀吉が献上行為して朝廷に媚を売っていたのではなく、プレゼント交換を延々とやって一応の便宜を図っていたに過ぎない。
>>503
献金要請とはいえ立派に朝廷からのエールなんだが。
特にこの2つ目の「御料所の回復」について織田信長は「まあ気が向いたら今度ね」とあっさり拒否っている。
朝廷の要求をやんわりとはいえ拒否った形なのに朝廷は信長支持を変えなかったんだが・・・・

509 :
またまた織田厨死亡

510 :
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。

511 :
宇喜多秀家(本性が父親と同じだったら)

512 :
小早川隆景
明智光秀

513 :
>>508
朝廷は基本的に時の実力者に好意的になっている事はわかった
問題はなぜその権力者が秀信でなく秀吉なのか、なぜ関白「秀信」でなく「秀吉」なのか
それは秀吉が織田家を事実上乗っ取ったから
朝廷がなぜ秀吉に好意を抱いたか、それは秀吉が時の実力者だったから

514 :
家康の代わりに天下を取る事は他の武将にも出来たかもしれないが(如水等)
秀吉の代わりに誰かが天下平定するのは無理だったろうな。

515 :
>>513
そもそもこの時点の朝廷に織田家=時代の有力者の認識はない。
本能寺の変が起きた後に明智光秀にも迎合していてそれを山崎合戦後に織田信孝、羽柴秀吉と言った旧織田家臣に追及されている。
織田家で一番官位が高かったのは言うまでもなく織田信長の右大臣だが、
結局信長死後にこのような高官位につく連中は織田一族には現れず、織田信雄が従四位左近衛権中将、織田信孝が従五位下侍従、織田秀信は幼少を理由に無位無官と、
明らかに朝廷が織田家と距離を取って天下の大名勢力の覇権争いを様子見している状況が伺える。
村井貞勝のような朝廷と織田家を取り持つ人間が本能寺で消えたのも大きい。
ちなみに秀吉が関白になれたのは近衛信輔と二条昭実の揉め事に仲裁する形で「棚からぼたもち」の状態の全くの偶然。
秀信はおろか秀吉ですら本来就任できる官位ではなかった。当然だろ関白は藤原氏の独占職、織田も羽柴も藤原氏とは縁もゆかりもない。

516 :
いい加減スレ違いな気もする。

517 :
>>514
秀吉は信長が倒そうとしていた毛利・上杉に面倒くさいから100万石与えるなどという暴挙を犯している
このような楽な手法でよいなら別に秀吉でなくても統一は出来る
むしろ毛利・上杉の領地を関ヶ原によって減らした家康の方が頑張った方だ

518 :
このスレは「3傑以外で天下を取れた可能性が高い武将は?」というスレだよ?
お互い悔しいのはわかるけど、信長・秀吉・家康以外の武将の話をするスレなので、
信長がどうこうとか秀吉がどうこうって話はやめるか他スレでやるか新スレ立てるか
してくれないかな。

519 :
つーかアホ二人は反省してゲーム板に帰れ。

520 :
ここは戦国板だ
知識のない連中こそゲーム板にふさわしい

521 :
結局、誰か一大名を論じても「無理」という結論になるんだから、ざっくりと相対的な可能性だけ考えてみればいいんじゃね?
前も書いたけど
[本命]
今川義元
[対抗](「天下分け目」の決戦までは持ち込めた)
豊臣秀頼
毛利輝元
柴田勝家
明智光秀
[抑え](実力はあるけど条件面が厳しい)
朝倉義景
武田信玄
上杉謙信
北条氏康
[穴](いろんな面で微妙)
三好長慶
伊達政宗
[大穴](ゲーム的に進行が楽)
長宗我部
島津

みたいな表を基準にして、新しい名前を加えたり、序列を変更してみたりっていう議論がいいんじゃないかと。
「この大名はどうやって天下を取るか?」よりも「この大名は実力やチャンスがこれくらい恵まれてた」という方向で。
このスレでも信玄・謙信は名前出るけど、上の表の評価では中位くらいにしかならない。

522 :
俺様ランクより今までの議論を続けた方がまだ有意義

523 :
まあ、本命は足利将軍家の誰かが幕府復権するルートだろう。
その他のルートは三傑以外無理臭い。

524 :
信長も天正3年から門跡や公家らの借銭や借米をチャラにして
急激に官位を上げてるだろ
門跡・公家・親王らに新領地をやるから俺に直接仕えろ!って言う公家の家臣化を推進し
信忠を従四位下・秋田城介に、織田信雄を左近衛権中将にさせるなど、
無暗やたらに買位買官を繰り返し、一足飛びに高官になるなど信長はもはや魑魅魍魎。
長篠の戦いの裏で、信長は京の不安定な統治を打開すべく、
アスペゆえに人の心までは買収できないのも理解できず、卑しいまでに賄賂でご機嫌を取ろうとしていた。
秀吉が急激に官位があがるのは別に不自然じゃない。
朝廷が以前からの実力者・権力者に対して遅きに逸して事後承認してるだけ。
ついでに金魚の糞にも官位を与えてるだけだし。

525 :
聞いてもいない事をペラペラ話すだがさん
知識ない人ほど知識自慢したがるよね
しかも間違ってるし

526 :
むしろこの時代は朝廷が進んで武士を家臣扱いにでもしようとしている。
正親町天皇みずから織田信長、村井貞勝にプレゼント攻勢を徹底して
これ以降朝廷では時の権力者と京を治政する人間のみに天皇みずからプレゼントを支給するという徹底ぶり。
「武士の権力者の背景には我々(天皇、朝廷)がいるんだぞ」と、朝廷権力の行使に追われている。
これは貴族でも例外ではなく、近衛家当主の近衛前久がこの典型。
彼は時の権力者に露骨にすり寄っては、その権力者が死んでその勢力が衰退するとトンズラするという変わり身の早さで
三好長慶、三好義継から足利義昭へ、織田信長、明智光秀から織田信孝、羽柴秀吉へと何度も何度もこの変わり身の早さで事なきを得ていた。
そんな近衛が台頭著しい羽柴秀吉の権力を背景に宿敵二条晴良ら二条家を追い落とそうと考え、
時の関白であった二条昭実(晴良息子)を就任からわずか半年足らずで辞任させるという悪どさ。
羽柴秀吉を近衛秀吉として猶子に迎え入れ、近衛家の権力掌握に伴った恨みを秀吉に全てなすりつけるという外道っぷり。
もちろん秀吉がそんな姑息な策に引っかかるわけもなく天皇から姓を貰い、天皇実弟を猶子にするという方法で
近衛の野望を見事に打ち砕いた。

527 :
秀吉時代に官位の階級制がしっかりしていて
官位に価値があったのなら
豊臣恩顧の大名が裏切るとかないわけよ
秀吉は自分の地位をはっきりとさせて高めるために朝廷を利用して
ランク付けのために官位に意味を持たせようとしただけ

528 :
恩顧の大名は揃って徳川に靡いて、大阪の陣でも容赦なく攻めましたが何か?
秀吉自身が旧主筋を平気で攻撃しているのに、自分の家は無事とかないわ。

529 :
むしろ官位がしっかりしていたから豊臣家から鞍替えする連中がきた。
豊臣秀吉の死後に豊臣家で一番官位の高かったのは内大臣徳川家康。
豊臣家の他のメンツはおろか、秀頼ですら従二位権大納言、西軍主力の毛利石田はどちらも四位以下。
豊臣秀頼が中立を貫いた以上どちらにつくかなんて馬鹿でもわかる。

530 :
これの元凶を招いたのはほかならぬ秀吉自身。
豊臣秀吉は1591年に関白職を豊臣秀次に継がせて豊臣家の関白世襲を盛大にアピールしたが、
その秀次を自らぶち殺して豊臣体制を崩壊させてしまったことにある。
一応朝廷側は、秀吉の遺志を継ぐ形で幼君豊臣秀頼に関白摂関家として十分な官位を与えていたものの、
結局秀吉が最後に見せた甘さが命取りになり、正二位内大臣の徳川家康が権力を持つに至った。

531 :
>>527
ヒント:関ヶ原時点では
    家康の持つ内大臣が武家の最高官位。

532 :
つまり秀次こそ大本命

533 :
秀次は色々と察するべきだったのだよ
誰かの後継として養子に入ったあと、義父に実子が生まれたら大抵ろくな目にあわない

534 :
家康も自分の後継者として
岡崎城を与えた信康を殺してるし
別に大したことではない。

535 :
官位上位だけで天下の主が事実上、自動決定するわけねーだろ。
看羊録によれば
秀吉は敵だったものも簡単に許してしまうが
家康は一度恨みに思ったら、絶対に仕返しする執拗な性格だったので
諸将は家康に心服してなかったが、報復が怖くて従ったと書いてある。
実際、秀吉の方が安心して接することができる人柄で
秀吉が生きていたら秀吉を慕ってただろうが
いざ秀吉が死んでいなくなったらジャイアン家康を恐れて従ってただけだろ。

536 :
はいはい。
けど家康の官位が高かったのは相当重要な要因だったのは間違いない。
実際関ヶ原で寝返り、停戦を促す文章にも家康はわざわざ官位を持ち出してる。

537 :
だいたいそんなに官位上位者に従う論理が通用するなら
西軍に参加するやつなど存在しないはずだろ。
そもそも官位のさらに上位に位置する天皇の一声で天下平定できるだろ。

538 :
>>537
>西軍に参加するやつなど存在しないはずだろ。
実際殆ど従ってねーだろw

539 :
>>538
お前の脳内ではなw

540 :
秀頼生誕→秀次を種なしにしておく。

541 :
>>535
逆だろ
家康は三成の謀反においても首謀者連中以外は処刑せず改易で許してあげているが
秀吉は秀次の謀反においては女子供も含めて殺しまくっている
暴走した豊臣政権に恐怖を感じて家康に協力したり内通したりする者がいたから関ヶ原に勝てた

542 :
看羊録って姜(きょうこう、강항)が日本に来たときに書いた史料だろ
一次史料はおろか日本の史料ですらない、ましてや韓国の史料
こんなのアテにするんだったらまだ甫庵の方が信用できるなw

543 :
そもそも関ヶ原において豊臣家自身は中立を貫いている。
これは関ヶ原後に大坂を占領していた毛利輝元(西軍総大将)を大坂方が追い出したことからも明らか。
豊臣関係なく徳川家康と毛利輝元・石田三成で測る必要があるわけで、
下手すりゃ自分より官位の低い毛利石田に従う連中なんてほとんどいなかった。

544 :
>>541
実際に娘虐殺された最上なんか、家康のためにかなり頑張ったからね。
晩年の秀吉の暴君ぶりは日本史上ちょっと珍しいクラスで酷いし。

545 :
織田信忠と毛利隆元、輝元かなあ。
他は勢力と寿命考えるとかなり無理がある。

546 :
スレ違いなんだろうけど途中の本能寺の変以後の織田家中の力関係
小牧・長久手の内幕は面白かったわ。
結局の所秀吉が織田家にした行為を、今度は豊臣家が家康にしてやられるのだから
因果は巡るというか。。。。。

547 :
>>521
北条氏康より北条氏直の方がチャンスあった気がする。
氏康の時は周囲が同等か同等以上の大大名ばかりで非常に苦しい。
天下取りを目指すのははっきりいって無理。
時代が下がって氏直の時点では、滝川一益以外は全て格下という状態だった。

548 :
>>547
滝川一益以外は全て格下だけど…
超格上の化け物が上方に一匹居るからなぁ…w

549 :
細川晴元
大内義隆

550 :
大内は内藤・杉・陶といった守護代クラスの連合政権だから無理でしょ
呆ける前の義隆がもっと大名権力強ければ歴史は変わったかもしらんが

551 :
やっぱ室町幕府復権ルートが一番無難じゃないか?
既に征夷大将軍だし

552 :
>>550
大内って、義隆がもっとしっかりしてたら陶は裏切らなかったのかな。

553 :
>>551
それにはもっと所領が畿内にあって、
ある程度の規模の直轄軍を編成できないと厳しくないですかね?

554 :
>>548
小牧・長久手以前の秀吉の領土って意外に少ないみたい。
丹羽、池田、森、信雄なんかも居るし。

555 :
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している

556 :
>>541
三成憎しで武断派を操っていたのが家康なんだから
すべて三成が悪かったストーリーにするしかないんだから
他の連中を処刑しまくれる力など家康には無い。
逆に関が原後の恩賞で大領になった西国を中心とする
豊臣恩顧大名から豊臣への野心を疑われるだけ。
秀次の場合も毛利や伊達や最上らも疑われているが、
彼らも処刑されてない。
秀次は前田や南部らと共に朝鮮出兵行きを拒否ったと言われてる。
秀吉政策からの離脱を謀っていたも同然。
しかも秀次の覚えめでたい最上は小野寺侵攻までやってる始末。
>>542
最近の関が原へ至る過程を書く論文では看羊録の引用が常識だぞ。
しかもこの筆者は関が原の戦いを知らないうちに書いてるために
結果を知った者による無意識の誘導過程を書いていないし、
大名との利害関係もないから配慮する必要もない。
>>543
いやいや豊臣家は明らかに西軍側だった。
そもそも輝元が自分の命の保証と領国安堵の二つの保証を家康から貰ったので
大坂城の者どもに大坂城を明け渡すように説得すると申し出てる。
輝元を大坂の連中が追い出したなんてデタラメ話を書くなよ。
つーか官位の上下で勝敗は決まらない。
>>544
いやいや最上は秀頼付けで息子を仕えさせていたり二股かけてただけ。
しかも最上は直接、秀吉に対面できる身分じゃないので、
東国取次の家康を窓口にしてただけ(外交が苦手な最上には三成や利家窓口がない)
そもそも殺された娘にしたって義光と大崎夫人の娘であるとする一次史料は存在しない。
完全に妄想レベルで、基本的にいつもの毛利擁護のチョン思考による秀吉晩年人格豹変などとデタラメ洗脳で
歪曲偏向ぶりが酷い書き込み多いなwww

557 :
大内氏の経済力は凄かったんだろ
勘合貿易とかで

558 :
大内は畿内に本拠地を移転するか、山口遷都を実現させるとかしないと

559 :
>>555
調査、乙。
それぞれの関係が浅く、秀吉政権がまだ盤石じゃない事が
良くわかるよいレスだと思うよ。

560 :
丹羽さんて普請とかの仕事はきっちりこなすイメージなんだけど
本能寺以後の仕事ぶり見ると見切った信長が正しかったんかね

561 :
逆だろ。有能だから相談役として手元に置いていた。

562 :
最上義光の領土拡張率すごいな。戦よりも知略、謀略によって一代で領土を拡張したのだから
尾張の付近に生まれていたらどうなっていただろう。

563 :
拡張できずに終わるんじゃね?

564 :
>>561
逆に言えば、相談役が彼の頂上だったとも言えるね。
信忠が生きて天下統一していたら、秀吉でも光秀でも勝家でもなく、
彼が宰相だったかもね。

565 :
丹羽さんて信長の姪を嫁に貰って息子は信長の娘を嫁に貰って織田家
とは他の重臣よりも縁が深いけど、信長死後はあっさりと秀吉の織田家
簒奪に手を貸しているよね。
当時は家を守る事が第一とはいえ、信長の幼馴染でもあったのだから
もう少し気概は見せて欲しい気がしたわ。

566 :
そもそも丹羽が守るべき織田家て何?
織田三法師秀信の家ならきっちり守っている

567 :
信雄、信孝の魔の手から織田家を守った?

568 :
二人とも基本的に養子に出した他家だしなぁ。

569 :
でも確か柴田勝家・信孝との戦が終わった後、池田、秀吉、丹羽の協議で
信雄が織田宗家当主を継いだんじゃなかったっけ?
秀吉の野望に全く気が付かなかったとは思えんけどね。

570 :
まぁその頃には織田家と天下様は切り離されて考えられてるんじゃねかね

571 :
丹羽さんは正直あんまり信長の事を好きじゃなかったんだと思う。


572 :
>>569
信雄が家督継いだのは柴田や信孝と戦っている最中。
時系列で言えば1582年の11月1日で、この書状によると
「信長様の仇を討って国々を安んじようとしたのに悪心を抱く輩が出てきて迷惑千万」と
明らかに柴田と信孝の行状を指して信雄に家督を交代させている。
正式な当主じゃなくてただのピンチヒッター

573 :
>>547
天正壬午の乱で甲斐・信濃を抑えることができてれば、また違ったんだけどなあ。

574 :
大内
当時の山口の経済力、文化レベルは凄かった

575 :
>>573
徳川は北条の5分の1の兵力しか無かったのにな。

576 :
それ徳川方軍記と講談の兵力
一次資料だと北条2万に徳川1万

577 :
>>572
>>正式な当主じゃなくてただのピンチヒッター
捏造乙w
(8/26書状から織田に復姓したのが判明する)織田信孝や柴田が謀反したので
秀吉は丹羽や池田と相談して三介殿を御代に相立たと書いていて
三法師を廃嫡して北畠当主を織田当主に祭り上げている。
ピンチヒッターじゃねぇよ。

578 :
>>569
秀吉は光秀を討った時の運命共同体メンバーである
池田や丹羽らを清洲会議での重臣会議に参加させ
会議の主導権を握っていたからね。
なんら功なき織田宿老の柴田を排除する気満々。
信長が愚かにも佐久間を追放したから織田家は乗っ取られた。
柴田より上の地位にいた信盛が参加できてれば
秀吉ら3家老の野心を砕けたのにな。
秀吉は筒井に続いて7/11には細川幽斎に血判起請文を提出して
入魂を約束するなど
対柴田を見据えて着々と手を打ってる。
バカな織田や柴田らを見捨てて
池田や丹羽と同様に秀吉に付く者を集めて多数派を構築してる。

579 :
そもそも織田軍で一番の大軍を率いて摂津に駐屯してたのが佐久間信盛。
光秀が謀反する気持ちすら抱けないし、
謀反しても信盛に速攻で殺される。

580 :
信長暗殺当時の情勢では、秀吉を担いだ方が他家に睨みが効くと考えたとか
したらトントン拍子に日本平定しちゃって、逆らえない雰囲気に

581 :
>>579
この板で、信盛が織田家最強の武将ってレスしたら馬鹿にされたよ。
巷じゃまだそういう評価なのかなぁ。

582 :
そりゃ最強じゃな
最古参クラスだとか最上位クラスだとか書けば馬鹿にされんだろうけども

583 :
最古参で最上位なのに最強じゃないんだ。哀れな佐久間信盛さん。

584 :
重鎮ではあるけど、最強というほど結果が出なかったのも大きい
本当に最強なら折檻状なんてもらうようなことはそもそもない

585 :
そも何をもって信盛を最強といえるのかが知りたい。>581

586 :
加藤清正

587 :
佐久間が本願寺攻め総責任者になってから
まったく織田軍は敗退してないし
名将でしょ
信長が佐久間への折檻状で主張するような
要害を頼んで大坂で籠城してる
本願寺を攻略なんてもともと無理な言い掛かり。
本願寺が大坂を譲渡したのも天皇の度重なる斡旋であって
信長自体が大坂の武力制圧できなかった責任を
佐久間に押し付けただけ。
信長が功臣を排除しようとする流れから
摂津方面責任者だった荒木は摂津の軍権を佐久間に取られ
丹波は光秀、播磨の軍権は秀吉、和泉の軍権は織田信張と
完全に荒木は排除されたから謀反したんだし、
謀反した光秀にしたって本来、光秀が山陰や四国征討の拠点にするはずだった但馬も淡路も秀吉に横取りされたことで
完全に秀吉の下の地位に堕ちてる。
しかし佐久間は信長に謀反せずにおとなしく高野山へ行き
信長の御勘気が解けるのを待っていたほどの忠臣。
信盛死後に高野山にあった信盛の遺品を奪い取るために
信長は高野山攻めを開始してるほどキチガイ。

588 :
島津や伊達がもう少し中央に近い土地だったら、もしや。

589 :
「信長は京都の近くに生まれて運が良かっただけ」by上杉謙信

590 :
山中鹿之助。

591 :
多分、石田三成
鎌倉幕府の北条氏みたいな立ち位置だろうけど

592 :
三好義興

593 :
織田配下だった逸見昌経は
8000石の所領を持ち若狭衆筆頭として活躍。
天正9年2/28に馬揃いに傘下したが3/26に死去。
すると信長は所領全没収の上
5000石を溝口秀勝に
3000石は武田元明に分配され
子の源太虎清は追放される。
なんら罪もなく武功を重ねてきたのに・・・
こんな暴君はありえない。

594 :
>>592
義興が当主なら三好家は一枚岩でいられたかな?
義輝との関係も気になるところだね。

595 :
三好義興か。
六角さえ弱体化すれば、三好の天下は目前だったんじゃないかな?

596 :
信長がいなかったら秀吉なんて百姓だし、家康も人質のまま
群雄割拠が長引いて、順当に伊達政宗が天下人になっていたんでしょうな

597 :
北畠一族もっと頑張れよ・・・先祖も泣くぞ

598 :
>>587
荒木謀叛は軍権を失ったからというより、軍権範囲(本人とその与力国人)が持っていた商路・座に絡む権益を取り上げられた面が強いかと。
本願寺への補給ルートはまんま商路で、運んだ品は商品。

室町初期〜中期に大内氏が堺〜博多ルート押さえ、明との貿易でウハウハ。

時代下って荒木はそれに倣って儲けを狙い、その過程で摂津・播磨なんかの色々を色々しておったのだよ。

599 :
>>596
順当に行くと、今川義元が天下統一して、松平元康が実権を奪って江戸幕府成立。

600 :
俺様が戦国末期の有力大名で半ば強引に天下取りのシナリオを考えてやろう。まずは
西国編だ!
島津……兵は精強だし、政治、外交も超一級ではあるが、いかんせんやはり九州
の南端という地の利は中央の大名に比べて相当不利である。考えられるシナリオ
としては、せめて後五年早く九州を統一していた場合だ。その場合秀吉侵攻に際
しても最終的に政治で屈するにせよ、小牧長久手の家康のように秀吉に一矢報いて
いれば、その後の外交次第で九州全領国は安堵、豊臣政権では五大老の一人として
最高の権力を握ることになる。そして秀吉死後の関ヶ原は家康対毛利・島津の
戦いとなる。なにしろ関ヶ原に島津隊が数百いてもあの有様なのだから、数万の軍勢
でしかも西軍の主力を担っていれば、関ヶ原も西軍の完勝だったろう。その後
は毛利と島津の間で最後の覇権をかけた争いになっていただろうが、史実における
関ヶ原後の両勢力の徳川との外交・駆け引きをみれば力の差は歴然最終的に島津
が天下を握っていただろう。
大友……家臣は粒揃いだし、宗麟とてただの暗君とはいえない。鍵は対毛利戦に
あっただろう。関門海峡あたりで毛利を痛撃し致命的な打撃を与えていれば、
元就はもはや高齢、数年して毛利を併合、そうなれば大友の領土は北九州から山陰・
山陽まで及ぶ広大なものとなる。これなら島津や長宗我部の部隊がいかに
精強といえ、もはや抗うことはできない。つまり西国全土が大友のものとなるわけだ。
後は東国の織田との戦いとなるわけである。
毛利……元就・両川なき後の人材難が深刻だ。せめて小早川隆景に頑張っても
らって関ヶ原まで存命してもらうしかない。もし隆景が関ヶ原で毛利の実権を
握っていたらそうやすやすと家康に屈してはいなかっただろう。大阪城を拠点
に家康に徹底抗戦の構えをしめせば、西軍勝利もありえたかもしれない。だが
最終的に天下が毛利にもとに転がりこんできたにせよ、輝元ではあまりにも凡庸
である。ただ結局天下というものは力あるものにいきつく。つまり最後には隆景
自らが天下人となり小早川幕府を創設するのである。
長宗我部……いろいろ考えたがやっぱり無理、せめて島津同様、秀吉に一矢報いて
四国全領国安堵くらいでないと想定できない(それでもせいぜい80万石)せめて信親がぞんめいならばとも
考えてみたがやっぱり無理だった。

601 :
>>600
戦争なんて倍倍ゲームだから、四国半分の勢力があれば、
四国全土を確保したも同然。土佐と伊予を抑え秀吉政権に潜り込み
長宗我部信親が存命だったら、大坂城を盛り立て乗っ取る事は可能かと。
大友の方は島津戦で手を抜いたのが痛い。
どれだけ圧倒的な勢力だろうと最大リスクの場面でトップ不在では結局駄目。
逆に耳川の時に自ら調略、出陣していれば天下も夢では無かったのかも。

602 :
太閤検地での四国の総石高は
・讃岐=126200石
・伊予=336200石
・阿波=183500石
・土佐=98200石
合計744100石 だけど、
長宗我部の土佐は過少申告してたのは有名。
しかも土佐は、種子島から雑賀への鉄砲の通り道。
畿内に近い100万石勢力であれば天下への最右翼。
(実際、細川-三好が実証済み)
当時の四国は侮れない。

603 :
東国編
伊達……もちろん自力で奥州から九州まで平定するのは無理。鍵は松平忠輝の
存在だったろう。忠輝がもう少し世渡り上手でうまく立ち回っていて、将軍職
に就任していたら(もちろん九男である忠輝の将軍就任は極めて難しいが、
そこは兄達を毒殺・謀殺の末に滅ぼして晴れて将軍就任となる)そうなれば政宗
は舅殿として幕政を影から操ることもできたかもしれない。やがては政宗が忠輝
をも謀にかけついには鎌倉幕府における北条的ポジションに立つわけである。
北条……とにかく秀吉には平身低頭して関八州を安堵してもらうほかないだろう。
実際に家康は史実において関東を基盤にして天下を取った。関東二百五十万石
なら豊臣政権中最高の実力者となる。むろん氏政に家康ほどの器量があったとは
到底思えない。例えば氏康にうんと頑張ってもらって八十歳くらいまで存命して
いればもしかしたらも考えられるかもしれない(笑)
上杉……伊達同様謙信がいかに優れていても全国平定はむろん無理。やはり景勝
の代をまたなければならない。関ヶ原で西軍勝利の場合である(すでにこの時点
でかなり無理があるが)では西軍勝利の場合どの大名家が天下を取ったか?
それは毛利か上杉かのいずれかだったろう。だがいかになんでも輝元に比べたら
景勝のほうがはるかに器量で勝っている。そして三成と上杉家も親しい仲に
あり一朝事あらば三成もまた毛利より上杉を頼りとしていただろう。つまり最終的
には毛利と上杉の天下争覇の戦いで上杉が天下を握るのである。


604 :
>>595
教興寺合戦+観音寺騒動で六角はズタボロだからなぁ。
近江は落ち着いたと考えたのか、久秀の弟・長頼は逸見昌経を後援して若狭侵攻を開始するし。
義興政権ができるとなると、浅井・朝倉・若狭武田・斎藤と勢力圏が接した状態が続くわけで、
彼らがこれをどう考えるか、そして三好家がどう彼らを扱うか、更に将軍・義輝がどう出るか……うん、全然読めない。

605 :
豊臣遠征軍どころか相良・立花・甲斐・高橋・伊藤・志賀などにボコボコにまけまくり
戦いのたびに寝返りがドミノゲームのように起こりオセロのように勢力図が入れ替わる
統制もろくにできないハリボテ九州を30年かかっても制覇できなかった島津が兵が精強とか
外交や戦略が一流とか馬鹿すぎて笑える
島津ならまだ斉藤・浅井・北条あたりのが天下統一できる可能性あり

606 :
織田信忠、徳川信康、豊臣秀次、豊臣秀頼あたりは可能性ありそう
信忠生存時の織田秀信も可能性はありかな

607 :
>>606
信忠は、本能寺の変の時に脱出成功したら、だよね。
信康は親父(とその配下)相手のクーデターが成功したとして、
信玄率いる武田勢に対抗できるのか?
秀次は、秀頼生誕と同時に隠居しないと誅滅されてしまう。
隠居した秀次は、太閤亡き後勢力を伸張させる内府に対抗できるのか?
秀頼はさらに無理ゲーだろ。
家康を東征に送り出した後、TERUMOTOとともに手のひらを反して
反内府に立てば、あるいは…

608 :
>>607
信康に関しては切腹しなくてすむのが条件で、場合によっては岡崎派と浜松派の対立解消が条件に加わる
そもそも信康の元でまとまってた岡崎派が三方が原後の信玄の三河侵入を阻止してるじゃないか
秀次に関しては、秀頼が生まれないか、幼くして死ぬのが条件(当時流産したり、幼少で子供が死ぬのは珍しくなかった)
秀頼に関しては関ヶ原を主導して徳川に勝利が多分条件、西軍の総大将が秀頼だったら家康もヤバいだろ

609 :
>>608
> >>607
> 信康に関しては切腹しなくてすむのが条件で、場合によっては岡崎派と浜松派の対立解消が条件に加わる
切腹しなくて済む、ということは、切腹が信長の指示でない以上、ありえない条件じゃないかな?
せいぜい、家康が手元に呼び寄せて、岡崎在番衆との引き離し=手駒の消滅になるんじゃないの?
まあそれでも、のちの天下様の嫡男であれば、2代将軍は確実だが、
それって「天下取った」って言うのかな?
> そもそも信康の元でまとまってた岡崎派が三方が原後の信玄の三河侵入を阻止してるじゃないか
なるほど。お教え 多謝。
というか、信康切腹の時信玄死んでるやん。ごめん。
> 秀次に関しては、秀頼が生まれないか、幼くして死ぬのが条件(当時流産したり、幼少で子供が死ぬのは珍しくなかった)
なるほど。
でも秀頼、生まれて育っちゃうからなぁ。
せめて小牧長久手で家康に一定の打撃を与えていればなぁ。
> 秀頼に関しては関ヶ原を主導して徳川に勝利が多分条件、西軍の総大将が秀頼だったら家康もヤバいだろ
その場合、家康はどう動くだろうね?
出馬した秀頼の帷幕で、相変わらずでかい面する治部に嫌気の指す面々を調略で抱き込んで、
秀忠勢の到着を待って決戦、かな?

610 :
>>609
秀頼が出てきた時点で関ヶ原はないんじゃないかな。
元々家康は豊臣家として会津に向かったわけだし、西軍と言われる三成勢は
実は豊臣家の公認の軍隊ではない。
その軍の総大将に秀頼は可能性としてはかなり低いし、なったとしたら速攻
で家康が秀頼の元にきて「援軍痛み入ります」くらい平気で言いそう。

611 :
>>610
> その軍の総大将に秀頼は可能性としてはかなり低いし、なったとしたら速攻
> で家康が秀頼の元にきて「援軍痛み入ります」くらい平気で言いそう。
秀頼が「豊臣の政を私する内府を征伐する」って言って出てきているのに、
のこのこご機嫌伺いには行かないと思うけど。
ここを逃して江戸に籠ったら、後北条氏の二の舞だよ?
決戦だよ、決戦。
お題目は「君側の肝 石田を討つ」

612 :
>>611
いや、秀頼が出てきた時点で東軍と言う軍隊は動揺し、元々は豊家としての
出陣だし、解体近くに追い込まれるんじゃないかな。
そんな状態で決戦出来るほどの士気が上がるとも思えないが、どうだろう。
その前に、前述したけども、西軍が豊家の公認勢力じゃ無い限り、秀頼出陣
はありえない気が。

613 :
>>612
> >>611
> いや、秀頼が出てきた時点で東軍と言う軍隊は動揺し、元々は豊家としての
> 出陣だし、解体近くに追い込まれるんじゃないかな。
> そんな状態で決戦出来るほどの士気が上がるとも思えないが、どうだろう。
>>609で書いたけど、秀忠勢を待って決戦。
関ヶ原が戦場になるかどうかはわからないけど。
> その前に、前述したけども、西軍が豊家の公認勢力じゃ無い限り、秀頼出陣
> はありえない気が。
公認すればいいじゃない。
「余は内府に謀られておった」とかノタマッテ。
実際の話、家康は故太閤の遺訓を破るごり押しをかなりやってるし、
そこを並べ立てれば、名分は立つと思われ。
…一応スレの趣旨に沿った考察をすると、
秀頼はこの決戦で徳川勢を破って天下様にはなれても、維持はできないよな。
頼りになる親族が茶々の親族、つまり外戚頼みだし。
それもあの残念な織田家の方々。
早晩第二次七将襲撃事件が起こって家中が二つに割れるんじゃないかな?

614 :
>>593
信長は部下に対してエコ贔屓というか待遇にムラがあり過ぎる。
まあ詳細な資料が無いからもしかしたら正当な処置なのかもしれんが。
森家なんかむちゃ甘いのに。
佐久間信盛追放が本能寺の変の遠因なんだよね。。。。

615 :
光秀ぐらいじゃねーの
光秀だって信長・信忠謀Rれば
天下は自分に転がり込んでくると思ってたろうし
光秀動かなければ、秀吉・家康すらどうなってたか分からない

616 :
>>614
案外信忠への権力移譲をスムーズに行うために無茶したら、
肝心の信忠もおっちんだでござるって形だったりして

617 :
>>614
ありゃやる気の無さと寄騎の追放が原因だべ

618 :
佐久間信盛と信長の関係について面白いブログを読んだ事がある。
過去を見る事が出来るという怪しさ全開のブログだけど、信盛と信長
の関係は妙に説得力があった。
佐久間信盛は結局織田が小勢力だった頃の感覚から抜け切れなかった。
上昇以降の信長にとってはそういう信盛がどうにもむらむら来る。
でも信盛は自分のどこが悪いのかわからず、それでも信長への忠誠心は
あるが空回り。その空回りに信長が更にムカムカ来るという感じだった。

619 :
>>617
お前権力者の言うこと素直に信じるんだねえw

620 :
佐久間スレじゃ信盛と勝家が織田家ツートップってことになっててワロタw

621 :
佐久間はどう見ても織田軍団の主力だぞ?信長公記でもいいから少しは読んでみろ。

622 :
主力だけど戦が弱く、無能で追放されたわけか。

623 :
秀吉より長生きをしていればという前提なら前田利家だろう
加賀・能登・越中と京都に比較的近く、地生えの大名でない分兵農分離が進んでおり、家中の動員も伊達や毛利・島津より容易
五大老であることと「秀頼の守役」という立場により大義名分もある
外様や旧織田系の大名の人望も厚い

624 :
佐久間が最大兵力を任されてたんだから
実力も地位を織田家トップだろ。
本願寺相手にミス無しなんだから
完璧な仕事ぶりだったし。

625 :
>>623
利家はトップの似合わん男。信長、秀吉の下で言われた通りに動いていた
人間だし。

626 :
三好長慶
朝倉義景(上洛に積極的だった場合)

627 :
佐久間信盛の追放って他の武将にとっても衝撃だよな。
最大最強の武将がいきなり追放だもんな。

628 :
>>625
家康もそうだし

629 :
家康はちゃうやろ。
戦国大名として強敵と渡りあって領土拡大してきたんだし。
「言われた通りに」という内容が違い過ぎると思う。

630 :
佐久間が最強で最大なんて聞いたことないな。
与力つけられてただけで佐久間当人の戦力なんてたかが知れてる

631 :
与力どうのとか、それを言ったらどれも同じ。
当時としては、佐久間が筆頭格だったのは間違いない。
つか、スレ違いか。

632 :
やっぱ三好だろ

633 :
よく考えたら三好の遺領全部佐久間の管轄なんだよね。
例えれば、畿内に柴田勝家が大領抱えて居座っているようなもの。
追放しなければ信長の方が危うかったのでは。

634 :
>>633
あとで息子に返されたよ。
つか、転封すればいいだけだし。

635 :
いろいろ書いたが地生えの島津・毛利とかでは天下は無理だろう
もしこの三傑が同時に倒れたら、伊達や上杉・北条より堀秀政・藤堂高虎・井伊直政が天下取り
に動くような気がする。
藤堂は人望に問題があるとは思うがw


636 :
山崎の戦で光秀が勝ってれば
勝家vs光秀
勝家、光秀が天下を取れてたかと言えば疑問符だろうね
家康があっさり天下取っちゃったかもしれんし

637 :
>>635
俺は蒲生氏郷に一票

638 :
大内義興

639 :
木造攻めや滝川征伐で大敗した蒲生や
輝元・信雄・氏政をはじめどこと戦っても大損害&大苦戦ばかりの豊臣雑魚軍団の武将が天下取れるわけねえだろ

640 :
圧倒的大軍を用いた武将の資質の問われない楽な位攻めによる、寝返りばかりで統制もろくにできない
ハリボテ西日本大名イジメしかしてない経験してない豊臣武将じゃ
到底無理だわな
まだ島津・北条・伊達・長宗我部のが可能性あるわ

641 :
本能寺の時点に絞ると、
羽柴の家臣連中は本能寺の時点で陪臣だし、
関ケ原の判断酷いし無理だと思う。
徳川の家臣連中も陪臣という点は同じで、石高も少なく厳しい。
やはり織田家の重臣が織田家を簒奪するのが一番天下に近い気がする。
本能寺直後の序列的には、
柴田>丹羽>滝川>池田>蒲生>森>佐々>前田>堀>長谷川
あたりまでだろうか。
あとは本人のやる気、能力、暗殺の成功率次第で上位陣を蹴落とせるかどうか。

642 :
柴田が上杉と和睦すれば

643 :
秀吉その時点で上杉と通じている、勝家の器量では秀吉には到底かなわない

644 :
3傑以外の話じゃないのか?

645 :
伊達政宗

646 :
3傑同時に死ぬ設定だったら明智はどう?
四国討伐軍の信孝・丹羽
北陸の柴田をつぶせるかどうかだが。

647 :
>641
多分この意見が一番現実的だろうね
「国人連合の盟主」や「守護・守護代」あがりの大名では、どうしても「政治的妥協で傘下に収める」しか手段がないから
領国経営が不安定なうえに軍事行動の範囲が限られてくる
小粒ではあるが、個人だけでも五千〜一万人の直卒軍団を構成できる信長家臣団の誰かが天下人になると思う

648 :
宇喜多家はわりかしチャンスあったんじゃないかな?本能寺直後は当主幼少にしても、その後もわりかしチャンスはあったはず。
渡海で戦力疲弊させられたのは痛かったな。

649 :
三好政権が十年くらい長持ちしてたら色々変わってただろうな

650 :
>>647
幻想だね。
天正8年佐久間追放までは、織田家も国人連合でしかない。
領国経営が不安定なのは、信長も秀吉も最後まで解消してない。
そして3傑の2代目になると、皆国人連合に逆戻り。
結局支配力なんてトップの資質と実績だけ。

651 :
>>641
織田家の内紛が短期で収まらなかった場合に限り、
羽柴を追撃可能かつ、足利義昭を擁する毛利輝元、
滝川を撃破し今川氏の家督を持つ東日本最大勢力となった北条氏直、
十河を撃破し土佐、讃岐、阿波をほぼ手中に収めた長宗我部元親、
等に上洛のチャンスがあったと思う

652 :
>>650
確かに徳川幕府の安定化も家光あたりまでの大名伐採で果たされたような感じもある
織田はほぼ家臣で固めたけど、結局それぞれが軍閥化し独立勢力のようになってしまった
ましてや在地大名を極力温存した豊臣をや

653 :
a

654 :
>>651
その中で一番チャンスがあるのは毛利輝元だろうなあ。

655 :
ttp://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4239307.html
哲学ニュースRs

656 :
コピペ
437 :日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:53:48.47
東日本勢って圧倒的に強いのだけど、周囲に強大な武家が多すぎて
いつもなかなか動けないんだよな
頼朝の時も佐竹氏、武田氏が強力で鎌倉から動けなかった
信玄の時も上杉氏、北条氏に足を引っ張られて時間を浪費した
家康の時も上杉氏、佐竹氏を警戒し関ケ原へ直行できなかった

657 :
歴史的に兵力がほぼ同数だったら東国勢は必ず勝ってる気がする
倶利伽羅峠の戦い、富士川の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、関ケ原の戦い、、

658 :
鳥羽伏見は?
三倍の数的優位があったのにボロ負けしたぞ

659 :
あの当時既に旧式の銃では役に立たない時代になってた。数だけいても意味が無い

660 :
旧幕軍の方が装備は充実していたよ

661 :
鳥羽伏見は最初で最後だよ

662 :
一番現実的なのは毛利輝元じゃないかな
日和見しないで家中の考えを統一して出陣していたら
少なくとも西軍が一日で敗北する結果にはならなかったと思う
その後、畿内をしっかり統治すれば家康も簡単に動けないだろうし
名目上はTOPに君臨できたはず
長期でその座を守れたかは知らんけど

663 :
輝元は機会って意味だと三傑に次ぐ立ち位置なんだよなぁ

664 :
家康が利家と同じくらいにコロっと死んでたら間違いなく輝元が権力握ってただろうね。
元就の代で運を使い果たしちゃった感じ。

665 :
隆元も先に亡くなっちゃったしね。
元就としては、当主としてはっぱをかけていたのかもしれないけど、フォロー
していれば、心労で死ななかっただろうに。

666 :


【五輪/柔道】松本薫が初の金メダル!今大会日本勢金メダル第1号!女子57キロ級[7/30]★4


http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1343689616/



667 :
なんだかんだ幕末までもーり生き残ってるからなー

668 :
>>651
北条氏直は
武田信玄の孫で今川家の家督も持つ超サラブレッドなんだよな
家康が存在しなければ強大な勢力になっていただろうに


669 :
毛利、北条、武田だなー
それ以外はどうしても絵がかけない

670 :
武田と北条は無理だろ
まだ上杉と前田の方が可能性はある

671 :
>>669
三好と大内がダメな理由を教えて下さい。

672 :
上杉は謙信に実男子がいれば天下取れた可能性はあるね。

673 :
嫁の実家しだいやね

674 :
>>662
まあ元就はそれを毒殺やと思って家臣を粛清したけどな
隆元が生きてれば毛利天下だったかもしれんけど

675 :
>>672
ちょっと遅い
信玄が上洛始めたころに謙信も同様のことやってようやく希望が見える程度

676 :
上杉は謙信くん以外がアレじゃん

677 :
謙信さんは戦えば必ず勝つから寿命さえ続けはどこまでも行けるで

678 :
男色の時点でおわっとる。
直系が残せないなら、1代限りの英傑。

679 :
>>674
でも隆元もそんなに有能では無かったんだろ?
輝元は元春隆景の助言で何とかやってこれたが、隆元は弟達の助言を無視する可能性が高い。
それで吉川小早川の離反を招いて窮地に陥った可能性もある。

680 :
ま両川粛清して一本化できない限り毛利に目はないということで

681 :
毛利は家内に問題抱えてたけど
御館の乱で家臣団を一本化してた割に上杉景勝の無能さも大概だよな

682 :
御館の乱
家中二分。武田北条伊達蘆名が敵方でこぞって国内出兵
これで当初は景虎優勢なほどだったが武田北条の大軍が迫りくる中
本城と枝城の連絡を復旧して逆転勝利
天正8年〜天正10年
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
本能寺後
信濃を北上してくる徳川勢4000を二年連続で撃破(麻績・青柳の戦い)
長久手戦でも徳川方軍勢をほとんど領国に残させるほどの貢献を見せる
上野でも北条の軍勢打ち破り北進阻止。同時に佐々も越中に足止めし
八幡原の戦いで新発田も新潟津から駆逐し蘆名義広にも大勝。
ちなみに上杉の動員兵力は5000程度で、北信4郡と佐渡と出羽庄内が加わった小田原合戦時でも1万そこそこ。
どうみても景勝は強いです。本当にありがとうございました。
9倍もの圧倒的大軍で御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化したところ狙って迫りくる中
越中中部〜魚津松倉間で2年も敢闘。長沼攻防で森長可撃退
景勝>>>>>柴田(織田家トップ格)

683 :
武田滅亡がもう少し遅れてたら
魚津城攻防で柴田ら45000の大軍は5000そこそこの上杉軍に瞬殺されてただろうな
何せ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
→内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ

684 :
御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に
伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
景勝>>>>>>柴田

685 :
家臣を一本化?新発田が離反したり越中で神保やら寺崎・石黒その他富山以東ほとんどが離反したり
新発田攻めで本庄色部が腰を上げずにいたり鮎川が裏切ったり全く一本化してるとは思えんのだが。

686 :
謙信以外糞

687 :
景勝や本庄や斉藤や須田が糞なら柴田をトップ格とする織田軍団はゴミクズ以下だな
なにせ御館の乱や新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で
能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに越中中部で天正8年から天正10年半ばまで
2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の魚津城で大苦戦。
こんな体たらくじゃ史実で上杉が信濃に派兵した隙をついて居留守泥棒的に奪った魚津攻防でも
初めから越中に軍動かして魚津城外で圧倒的な大敗劇を演じていたんじゃないか。
何せ松倉の須田に手も足も出ずに苦戦していたんだしな
新発田なんて完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞に追い詰められていただけだし。
→内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北
越中中部で苦戦する織田軍じゃ100年戦っても勝てないだろ

688 :
コピペつまんね

689 :
大内、今川、朝倉、三好、黒田、伊達

690 :
会津移封後は家臣団はまとまってたでしょ

691 :
その気があれば、朝倉は取れてたな。
80万石の実力と、京から遠くなく近すぎない。
更に将軍が逃げ込んでる。
ここまでお膳立てが整ってて、領土拡張や上洛しなかったのは
当主や家臣団がアホ過ぎたんだな。

692 :
関ヶ原で西軍が勝っていたら上杉と毛利で最終決戦か?

693 :
>>691
朝倉は加賀一向一揆が背後に居て京方面に全力を投入できない
織田が大軍率いて上洛して畿内で勢力を拡大できたのは
背後の武田や徳川と同盟関係にあったから

694 :
バカじゃねーの
織田が同盟結んで上洛できてんだから
朝倉がその気ならもっと容易かったってんだよ

695 :
>>694
同盟はいくら自分が望んでも相手が組みたいと思ってくれないと結べませんよ?

696 :
朝倉は必ず同盟できる仕様なんだよ

697 :
>>679
メチャメチャ有能だったぜ。
隆元が急死した後、毛利家は財政難に陥って立て直すのに苦労したらしいぞ。
元春や隆景はおろか、元就さえも隆元が存命の間はその真価を見極められなかった。

698 :
パッとでの育ちの悪い猿が、天下を取れるワケないだろ
甘く考えるなよ

日本の歴史(中世〜近世(1185〜1867年))
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)

”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

699 :
実際、朝倉は織田に連戦戦勝してるからな。
将軍が信玄の死を知り信長に降伏したことで
将軍の影響力が強い若狭が動揺してしまって
朝倉が至急、後退しなければならない事態になってしまったことで朝倉は自壊してしまった。

700 :
なんだかんだ言っても柴田、明智だろう。
柴田も明智も敗北したから器量で劣るとか評価されてるけどな。

701 :
>>697
有能じゃないよ
隆元が死んで元就も元春も、全然評価なんかしてないし
ぶっちゃけ、後世に残されるような具体的な実績もない
てか隆元が有能なら毛利家は九州から撤退なんかしてねーよ

702 :
>>699
織田の場合、負けても負けても新たな動員が可能なだけの
国力があるからな。

703 :
>>701
そもそも一方に尼子がいながら九州に行くこと自体戦略的に間違っている
信長や謙信みたいに多方面作戦しても勝ち抜けるだけの能力あるなら別だけど

704 :
http://17s.me/eW
http://17s.me/eW

705 :
パッとでの育ちの悪い猿が、天下を取れるワケないだろ
西三河に生まれた奴が天下を取るのは宿命、それがたまたま家康だったのだよ
日本の歴史(中世〜近世(1185〜1867年))
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

706 :
現代だと誰?
トヨタ?

707 :
足利将軍の遺髪、仏像の頭部で保存か
http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20121113-OYT8T00500.htm?from=yolsp

>南北朝時代の資料「園城寺文書」では、3代、義満の後見役として知られる武将・細川頼之が1368年、同寺に送った書状があり、そこでは「源頼朝や足利尊氏の先例にならって、義詮の遺髪を納めた地蔵菩薩像を園城寺に奉納した」

>源頼朝や足利尊氏の先例
足利尊氏は知らんが、源頼朝のは細川頼之の生まれ故郷の三河にある
こういった裏のネットワークは三河に生まれ育たなければ分からないんだよ

滝山寺
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
>聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという

708 :
10万の大軍で越後から鎌倉まで制圧した上杉謙信
あれが成功してたら天下統一も夢じゃなかった

709 :
今川が織田に敗れなかったら天下取った可能性は高いな

710 :
成田さんを叩くから結局無理

711 :
今川義元じゃないの

712 :
>>710
それ一次史料にまったくない講談話だから。

713 :
福島正則。
大阪夏の陣の直後、江戸城で、家康と秀忠を暗殺。

714 :
でも上杉の関東制圧が維持できなかったのは大体国内経営が困難だったって事情もあるのではなかろうか

715 :
あの時点では、越後は結構収まっていたと思う。
むしろ武田信玄が越後と上野の両方を脅かしていたから、
厳しかったのでは?

716 :
ていうかあれだけ3国同盟で信玄に助けてもらった氏康が駿河のために
宿敵の謙信と組んだのはなぜなんだろうな?
あれで信玄も氏康も無駄な数年を費やしたわけだが

717 :
うーん…
毛利、大友は北九州攻防戦でお互いに泥沼に嵌った時点で、天下取れない。
北九州攻防戦はおそらく戦国時代最も多くの死者出した戦いだと言われている。

718 :
>>717
大友の守護任命は毛利けん制のための三好の謀略説があるけど
結果だけで言えば十二分な効果をあげちゃったってことかな?

719 :
>>718
結果的に、毛利は九州に手を出してはいけなかった。早期に上洛を目指すべきであった。
大友は毛利よりも、先に龍造寺を抹殺しておかなければならなかったが、今山合戦で夜襲で
大敗してしまった。
これが大友軍には致命的で九州制覇の野望はここで終わったと言える。

720 :
上洛するにもケツに火がつかないよにせにゃならんだろ

721 :
>>720
大友軍に北九州を平定する力の無い早期に上洛すべしと言う意味である。

722 :
毛利が九州来なけりゃ大友の平定も早まるんじゃないの

723 :
毛利が東上すれば
播磨備前あたりの勢力が三好に流れるでしょ。
万単位の軍勢を通年動員できる当時の三好は
大友なんて比べ物にならん難敵では?

724 :
三好長慶が死んでから織田信長が上洛するまでの
およそ4年の間に他勢力は上洛しなければ
巨大勢力の三好か織田を相手にしなければならない。
しかし長慶生前に三好を倒せそうな大名はいない。
長慶が死んだ1564年から信長が上洛する1568年の間に上洛する場合、
数年の内に来襲するであろう織田軍を排除できれば可能性が見える。
信長上洛後だと、1568年の上洛から1570年の朝倉攻めまでは勝てそうな大名はいない。
1570年〜1573年の時期に包囲網に加わっておいしいとこを持ってくのが有り得る可能性。
1573年以後は上杉謙信ですら信長に勝てないだろう。
つまり、1564年〜1568年、1570年〜1573年のどちらかの時期に上洛し
畿内に大勢力を構築できた大名こそが天下を取れる可能性を手にすることができただろう。
信長死後であれば、明智光秀が山崎の戦いで勝った上にその後上手く立ち回れば、
または柴田勝家が賤ヶ岳で勝利し織田家の実権を握れば、
または織田信雄や織田信孝が重臣たちの専横を防ぎつつ家中の基盤を確立できれば、
または重臣たちの均衡状態が続いたまま織田秀信が成人すれば、それぞれに可能性が生まれる。
秀吉死後であれば、立ち回り次第で五大老全員に可能性はあるだろう。

725 :
三好は確かに強大だが、元就の謀略を持ってすればいかようにもなる。
それに最強の水軍もいる。不可能とは言い切れないと思う。

726 :
清洲城下で活躍した奴だけでは?>1
のぶちゃんとひでちゃんといえちゃん抜かすとしたらさ
1利家、2成政、3勝家、4浅野、5滝川・・・こんなところかな

727 :
>>696
朝倉て家臣共々無能すぎだろ

728 :
>>716
理由その一。「義元が死んだら、駿河を狙うと言う事は、
俺(氏康。信玄より六年ほど年上)が死んだら、相模を狙うと言う事ですね?
織田、徳川と手を組むと言う事は、そういう事なんですね?
先に潰します」
理由その二。「今川家を、下総千葉家みたいにできたら、お得じゃないですか?」
理由その三。「と言いますか、戦ったら勝てるんじゃないですか?
最大動員兵力は今のところ北条が上だし」

729 :
>>716
謙信のことが実は好きだったんだろうな

730 :
三好一党はド・マイナーだけど
応仁の乱から信長上洛まで空白とされているw
年表を追っていくだけでもなかなかの傑物揃いだとわかる。
松永久秀と三人衆の確執がなければ
三好義継が順当に天下人になったと思う。

731 :
>>725
畿内での権力闘争の中で生きてきた三好に
田舎者の毛利が謀略で勝てるとは思えない。

732 :
三好と毛利がぶつかるとしたら多分播磨あたりでぶつかることになるよね
ちょっとそのドリームマッチは見てみたかった

733 :
毛利と秀吉が戦ってます

734 :
>>730
三好義継とその配下三人衆には「室町将軍の足利義輝を弑逆した」という
確たる不都合が存在するからな。織田信長が上洛するとき纏まったのも
足利義昭が織田信長(含めた諸大名)にアプローチを仕掛けていたというのが一因にあるわけで
一応三好側も足利義親を14代将軍にするように頼み込んではいるが史実ではのらりくらりかわされて
将軍就任後すぐに義昭が来て京を追われてしまっている。
仮に織田信長が出てきても義昭が反三好勢力を糾合するのは時間の問題だろ

735 :
>>734
義継は若年を理由に将軍弑逆の責任を三人衆に押し付ければ問題なくね?

736 :
三人衆が離反したらそれこそ天下無理やろ

737 :
松永と三人衆は幕府を排除して
直接朝廷と結びついて三好義継を頂点とした
三好家による畿内の直接支配を狙ってたらしいよ。
だから松永と三人衆が結束して義継を支えて順調に勢力を拡大すれば
三好幕府も十分ありえたかと・・・。
畿内が盤石なら織田の敵対勢力を支援して伸長を妨害しただろうし。

738 :
いきなり横槍になるが↑の724が言ってるように
長慶死後〜永禄の変〜義昭脱出〜三好衆・松永決裂〜東大寺の戦い〜信長上洛
この辺の三好氏の動きは安易に語らん方が良いぞ、マジで。
俺も詳しい方だけどこの辺の流れは本気でモザイク領域すぎるんだよ。
何故かと言うと
三好義継(十河の養子・三好宗家)
三好長逸(長慶の側近)
岩成友通(山城周辺域)
三好政勝(政長の遺児)
松永久秀(発言力抜群)
篠原長房(実質的阿波統括者)
三好長治近辺(阿波三好後継)
阿波公方とその信奉者(足利の権威・阿波細川もこのカテゴリーか)
細かく分けるともっといるだろうが大体この辺が当時発言力があった連中
それぞれがその後に思い描く道筋が違う可能性が高い。
それだから資料に中々出てきにくく三好氏の流れの中でも一番性質が悪いのがここ。
いっちゃん簡単な解釈の仕方が
【我が名をあげよ雲の上まで】

【足利義輝ぶっ殺した残虐非道な三好残党を義昭擁する信長がぶったおす】

【寝返ってきた松永久秀は有能だから生かす】→【三好三人衆は悪の集団】となるw

逸話のインパクトも含め、三好政権の中でも長生きした松永の評価が最も高くなる

今に至る

739 :
政治的に三好政権で最も長生きしたのって三好康長じゃないの?
もしくは政権当時は若年だったけど十河存保?
生物として長生きしたのは三好政康かも知れんがw

740 :
>>738
畿内の統治は本当に難しいから
容易に分裂する可能性が高かったから
(実際分裂しちゃったけど)
三好から自立し始めた幕府を廃して
権威を三好宗家に一本化して求心力を高めて
義継元服まで乗り切ろうって算段だったと思うのね。
困難な道のりだったろうけど
他の諸大名よりは天下を取る可能性は高かったかと。

741 :
細川政元や三好三人衆は結局足利将軍家を必要としたから天下人といえるかは微妙。
大内義興が一番可能性あったんでね?と思う。
執政ポジションでも実質的重視なら先の細川政元や三好三人衆も入ってくるだろうし、関ヶ原以後でも福島正則がうまく立ち回れば可能性はなきにしもあらずだと思う

742 :
>>740
三好一族の中で最も天下に近かったのは三好秀次ですよ?

743 :
>>742
三好じゃなくなった後だけど天下取ってるしな

744 :
>>729
親同士の関係を考えたら案外面白い考え方かもw

745 :
経緯的には今川と後北条は姉妹みたいな国なんだっけ

746 :
早雲の姉だか妹だかの子が、今川氏親だから、そう言えるかもしれない

747 :
北条氏康と今川義元ってなんか大喧嘩してたんじゃなかった?

748 :
あんなに中が良かった今川が裏切って武田とくんで北条攻めに来たのがムカついたんだな

749 :
しかし、桶狭間の後に、武田が三国同盟を破って徳川と今川領を分け取りにすると
盟約交わしたら、それに北条は激怒したからな。

750 :
北条くんは基本的にいいやつなんだな

751 :
え?いつ今川義元が北条領攻めたの?
毎回ヒステリー起こしてるだけじゃない?

752 :
河東の乱も知らないのかよ

753 :
どうみても北条氏綱が難癖つけて、
今川領を攻めているように見えるが???

754 :
こいつwikiで調べてんな

755 :
北条アンチするのもいいけどしっかりした知識を持ってからにしてくれ。

756 :
>>755
なら今川義元が北条領を攻めたソースよろ
北条氏綱が今川義元から奪った河東を
その時点から北条領とか言うのは無しで頼むよ

757 :
>>756
は?なんで?
こいつ歴史研究家として無能すぎるだろ

758 :
>>757
俺も知りたいんだけど、どう調べればいいの?

759 :
>>758
wikiじゃなくて研究家の本読んだり普通に歴史勉強すりゃいいじゃん

760 :
なんか面白そうだな。どの本?

761 :
>>750
嘘ついてるに決まってるじゃん。そんな本無いってw

762 :
本の話じゃなくて歴史の話だろ…
義元は旧領回復を選択したが、政略結婚やなんやかんやでもともとは北条と今川家は友好的にもどってきた時にこれがあってムカついたって話だろ?
しかもこれのせいで関東諸勢力もでてきて滅亡の危機になった。
第一次から十数年以上統治が続いているんだから支配者は北条家になっているわけで、今川家の旧領であるという大義名分はあるが出兵は出兵だろ。

763 :
本や教科書の内容、色んな説を自分で考えないから無能って言われんだよタコ助。
なぁにがその瞬間から北条領になるとか言うなよ?だよ。
馬鹿が喋ってんじゃねぇ
おとなしく戦国無双でもやってろや

764 :
すまんなんか支離滅裂な文書になってるから書き直すな。
まず本は黒田基樹とかそういう研究家の書いた本のことをさしたのであって、どの本という指定はないです。
wikiは例えば俺だって編集できるわけだから便利ではありますが歴史問題なんかでは使わない方がいいですよね。
河東一乱ですが今川家の侵攻は北条に奪われた旧領の回復のために北条家の乱れを契機に山内上杉らとともに北条を攻めました。
河東の乱が起きたのは花蔵の乱から半年しか立っていないにも関わらず、恩を忘れ甲駿同盟により北条に圧力をかけたのがそもそもの原因なので、私は北条としては当然の行動だった、と思います。
当然今川家も国家なのでその行動を責められないでしょう。
河東の乱は現実にあったし、その背景や原因を知らない輩がwikiでみただけの安っぽい知識でドヤ顔をするのは気分がよくありませんよね?

765 :
>>764
つチラシ
これ、使え
後北条も今川も天下なんて取れるわけないだろw

766 :
>>765
書いてくれって頼まれてるんだから仕方ないだろ
そいつに言ってくれ。
おと北条は無理でも今川は一応あったろ

767 :
>>766
サンクス
北条と今川家が友好的にもどってきた時に裏切って、
攻め込んで北条氏が滅亡寸前て、義元は恩知らずにも程があるし。
花倉の乱から半年しか立っていないにも関わらず、恩を忘れ甲駿同盟に
より北条に圧力をかけたのも酷すぎる。
幼少時に恨みでもあったんかいな?
>>765
北条氏直は可能だったとこのスレで既出だが?

768 :
>>764>>767
めちゃくちゃだな酔っ払ってるのか?
>花蔵の乱から半年しか立っていないにも関わらず、恩を忘れ甲駿同盟により
>北条に圧力をかけたのがそもそもの原因なので、私は北条としては当然の行動だった
氏綱アホだろ。
両上杉と武田に追い込まれてるのに、被害妄想で自ら敵を増やしてるぞ?
>義元は旧領回復を選択したが、政略結婚やなんやかんやでもともとは
>北条と今川家は友好的にもどってきた時にこれがあってムカついたって話だろ?
婚姻って氏真のか?時系列ぐちゃぐちゃだな。友好的にもどってきてなんかねーよ。
敵対関係が持続して単純に今川義元が総合力で北条氏康を上回っただけだろ。

769 :
>>768
和睦の話もなんも勉強しないで、ただ人を叩くことしか目的にないみたいですね
まぁそうじゃなかったら本人が乱文って言ってて本来無視するべきところをあえて煽りに来たりしませんもんね。
そもそもの議論は義元が北条領を攻めたか攻めてないか、であって、第二次河東の乱が起きている時点で攻めていますので、お終いです。
あえていうなら氏康に瑞系院を娶らせ、花蔵の乱で仮を作っておいて直後に武田と同盟を組んでいるのは宣戦布告に等しい行為であることは言っと来ます。
私は義元、雪斎もリスペクトしているので失策だとか言うこともありません。

770 :
>>769
誤字脱字だらけ乱文の上に文章の流れも読めないんだな>>747-751
>あんなに中が良かった今川が裏切って武田とくんで北条攻めに来たのがムカついたんだな>>748
これが互いの争点の始まりだと思うが「和睦の話」とやらを踏まえての話かな?
で自信有り気に何も語らない「和睦の話」とやらは、
1.何年の
2.どの条件の話
か教えてくれるんだよな?

771 :
>>770
花蔵の乱以降までは今川、北条は友国ですけど?
まぁ半分臣従みたいにはなっていましたが。
攻めて来てはいませんが、あの行動は実質的な同盟の反故ですので、外交的な侵攻です。
和睦が始まってる時点で関係改善の努力が両国感でなされているでしょう。
だいたいそれは論点のすり替えです。
関係ないところで煽るのやめませんか?
それじゃ討論じゃないですよ。
情けない。

772 :
現在の争点を整理しておくと
そちらは
「今川義元が裏切って武田氏とくんで北条氏を攻めに来た」>>748>>764
(第一&二次河東の乱)
こちらは
「北条氏綱が被害妄想で今川義元を攻めた」
(第一次河東の乱)
こちらはそちらの意見を最初から否定し続けているわけだが、
「今川義元が裏切った」と断言する根拠(=「和睦の話」)があるのなら、
認識が変わり、そちらの意見を肯定するかもしれない。(正直もうあまり期待していないが。)

773 :
>>771
和睦交渉と領土奪還行動は現代でも同時進行が基本だな。
和睦交渉は戦闘を限定し、
限定的な領土奪還行動は和睦交渉を有利にする。
今川義元の行動は何も矛盾しないし、不義理も無い。
対して北条氏綱の行動は、どうみても戦略的では無い。
今川を滅ぼす覚悟があったかどうか。
ところで具体的な「和睦の話」無しの反論では討論にならないんだが。

774 :
>>771
だいたい結論が見えたが、続きがあるのならこちらへ
【名門】戦国今川氏を語る【花倉の乱】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1164398020/l50

775 :
ID:6nNEniMK
1 位/72 ID中  13時〜18時 10の駄レスwwwww
書き込んだスレッド一覧
織田信長は過大評価されすぎ11
北条氏康が統治した領内でなぜ餓死者続出したのか
3傑以外で天下を取れた可能性が高い武将は?
■■戦国最強十傑■■
滅亡した大名家はどの時点で詰んでいたか

776 :
>>772
だから甲駿同盟自体がすでに不義理であり裏切りであって、北条側の侵攻を責められないと最初から言っているのですから、理解してください。
あえて理解しないようにしてるみたいですね。
貴方は論点がどこか分かっていないようなので教えてあげますが「今川が北条を攻めたか」ですので第二次河東の乱の時点で起きていますので、お終いです。
何故北条が今川を第一次で攻めたか、貴方がいう「被害妄想」という普通にみると事実上の宣戦布告により、侵攻の件で北条を責めることはできません。
第二次は、今川も国家なので旧領回復のための侵攻を攻められない(まぁ目的はさまざまな説がありますが)。
これで終わってる話です。
貴方が争点としている点も説明してあげましたが、私はその後のwiki君との話から始まりましたので。
人の話をわざと曲解して話を進める方とまともな討論は出来ないのでこれ以上続ける気はありません。
貴方のことですから逃げただの雑魚だの口汚く罵るでしょうがね。

777 :
横レスだが、
今更敬語で話したところで、754とかでwiki君をいきなり挑発してるのお前じゃんw
しかも議論で負かされてるみたいだしw
だいたい属国が宗主国の同盟にケチつけて滅亡寸前とか笑えるぞw

778 :
>>777
まぁこれで負けだと思うなら負けで良いんじゃないすか?
筋が通ってない論説もアンチ北条の仲間同士なら通じるんでしょう。
属国と宗主国とか言い出してる時点で私はまともに議論する気が起きません。
俺はwikiくんに対してその時点では真面目な討論なんかじゃなく、言い争いをやってたつもりなので申し訳ありませんわ。
wikiしか見てない人としても無駄じゃないですか。

779 :
てかあれかな?
ID変えて来たのかな?

780 :
筋金入りの北条厨が居るーwww

781 :
>>780
僕は戦国関東史が好きですね
好きな家は今川、北条と古河公房とかです

782 :
>>780
お前は議論が中途半端で言訳も酷すぎる
乱文だったとか言い争いだったとか言訳して、
自分のレスに最後まで責任が持てないんだったら、
二度とここに来るな

783 :
修正>780→>781

784 :
>>782
責任持って乱文を分かるように再構築してるでしょ?
普通責任とるってそういうことですけど。
言い争いはそう言われても仕方が無いでしょうが

785 :
貴方は内容外のことで煽ったり、貴方とはまた別の人との会話の内容で煽ってきたり卑怯ですね
内容は僕の勝ちなので良いですが

786 :
>>785
お前はずっと言訳ばかりだな。
>>748と、1週間以上たった>>762、直後の>>764は、それぞれかなり内容に差があるがそこは見逃そうか。
>義元は旧領回復を選択したが、政略結婚やなんやかんやでもともとは
>北条と今川家は友好的にもどってきた時にこれがあってムカついたって話だろ?
この乱文はさっぱりわからんから、この政略結婚って何か説明してくれ。
あとせっかく誘導したのに>>774なぜこのスレに拘るんだ?
もはや完全にスレ違いの話題なのだから、
別の場所に移らないと迷惑じゃないのか?そんなことも理解できないのか?
今川スレか北条スレに移るべきじゃないのか?

787 :
>>786
和睦の条件の一つにはいっていませんでしたでしょうか?
私の記憶違いなら申し訳ありませんが。
ところでまた論点をずらしましたね。
先述した通り私の発言の揚げ足をとり終わった議論を蒸し返し煽り倒してるのは貴方です。

788 :
私はこれ以上このスレでも他のスレでも討論する気はありません。

789 :
なぜ自分のレスを説明できないのかさっぱりわからないw

790 :
伊達晴宗

791 :
大友義鑑

792 :
明確な意思表示をしていた人ということで黒田官兵衛

793 :
史実で秀吉、家康がやったように信長、秀吉の死に乗じるのが可能性がある

794 :
そもそも酸欠だって運良かったって子とじゃん

795 :
バカだなあwその運を引き寄せる事がどれだけ難しいかわからないお子ちゃまは名無しで30年ROMってろ

796 :
ひきよせるも糞も自国や自分の周りの勢力がいかに分裂したり混乱したり弱体化したり自国に
比べて小さいかってだけの問題じゃん

797 :
例えば戦術能力だけなら謙信>>>>信長、真田昌幸>>>>>>家康
なのは異論ある人あまりいないと思う
でも天下をとれるのは信長であり家康
運もあるが上級レベルの戦術能力、上級レベルの戦略能力は必須だと思う

798 :
なんで家康が信長より遥かに下なんだ?
姉川の戦いから家康>>>>信長だろ
信長は斉藤や長島一揆やら負けまくり浅井朝倉にも滅亡寸前まで追い込まれたじゃん

799 :
おいおい
カンマあるだろ
謙信>>>>信長
真田昌幸>>>>>>家康
別物だよ

800 :
>>798
家康が大苦戦していた勝頼を信長は完膚なきまでに叩き潰したからな
だいたい姉川の徳川軍大活躍はどうも見ても嘘くさいから
そもそも織田軍が採った十三段構えの布陣なんて軍事的に明らかにおかしいし

801 :
はあなんだそりゃ。そんな戦ねえよカス

802 :
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長

803 :
>>家康が大苦戦していた勝頼を信長は完膚なきまでに叩き潰したからな
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

804 :
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。

805 :
姉川の徳川活躍が嘘とか言ってるのは谷口とか堀とかアンチ徳川の史料無視の馬鹿学者くらいだよ
>>804のように根拠もあるし信長も書状で徳川が1万五千もの圧倒的大軍の朝倉勢を切り崩したと書いてる(6月28日付け細川藤孝宛て書状)
また水藤氏は朝倉はこの合戦に関する史料を残さず、逆に徳川側には豊富に存在するのも徳川の勝利をよく表していると書いてる(大日本史料第10篇之4)
また一乗谷にはたくさんの石塔・石仏に混じって「元亀元年6月28日為春捜全芳禅定門」やまたその他数種類の銘文を持つ石塔や石仏が残され
いずれも姉川の合戦で徳川と戦った朝倉勢の討ち死にした者を弔うために残された一族が造設したとされる
信長なんて謙信信玄はおろかガチンコでやりあったら景勝や勝頼以下でしょ
対景勝で織田家トップ格の柴田は9倍もの圧倒的兵力差で内乱で自壊した所を火事場泥棒したら
越中中部で2年も足止め食らって
対勝頼でもビビリまくって高天陣城や足助・熱田への進撃許されまくって
ガチンコでやったら東美濃でも上村でも岩村でも高遠でもボコボコだったし
勝頼が発狂して雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲の中突っ込んでも
9時間以上戦い続け、織田徳川にも6000の被害
勝頼の発狂がなかったら信長なんて瞬殺されてただろw

806 :

   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´
      ○
       O
        ノ´⌒ヽ,,           _.,,,,,,.....,,,
    γ⌒´      ヽ,       /::::::::::::::::::::::"ヘヽ
   // ""⌒⌒\  )     /:::::::::::::::::::::::::ノ  ヽヽ  
    i /   ⌒  ⌒ ヽ )     /::::::;;;;...-‐'""´´   |;;|   
    !゙   (・ )` ´( ・) i/     |::::::::|  ─  。 ─ |;ノ    
    |     (__人_)  |⌒ヽ/⌒ ,ヘ;;|   -・‐  ‐・- |         
  (''ヽ    `ー'  / 〉 〉 ,、 ヽ,,,,    (__人__) /⌒ヽ/⌒\         
  / /         (__ノ └‐ (''ヽ     `⌒´/  〉 〉 ,、  )       
  〈_/\________ / /          (__ノ └‐ー<         
                   〈_/\_________ノ

807 :
久しぶりにみたわ。こんな厨房の書き込み。
ランチャスターの法則の誤用がすごい。軍版ROMって出直してこい。
> 兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
> 43の2乗=1844
> 攻守三倍原則を適用するにしても
> 43÷3=14.3

808 :
ランチェスターの法則でいえば兵力の2乗が戦力比に比例するので
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

809 :
その馬場は長篠で信長に殺されたから意味ないな
武田軍自体もそれまで押しまくっていた徳川相手にやっとの状態になり秋山を見殺しにせざるを得ないほど弱体化
だがよそれが史実だ

810 :
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
どうみても馬場>>>>>>>>>>>>信長でしょ

811 :
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。

812 :
むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。勝頼も織田は手段を失い困っているから一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。籠城する織田の相手をするのもアホらしいから撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるがそもそもそこ落とされても背後は取れないし、さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからでまったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。織田は野戦の大敗が
たたって25000のうち6000討死だもんな。徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方に6000もの損害あたんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から冷静さを欠いた基地外勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想 わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ

813 :
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

814 :
馬場をはじめとする武田軍は信長によって完膚なきまでにメタメタにやられたのが史実
だいたい長篠日記は江戸時代に書かれたものだろ
なんで第三者が両軍の内情に精通しているだよ?どう考えてもおかしいわ
それより一方の当事者によって書かれた公記の方がはるかに信憑性がある
そして公記では武田軍は全くいいところなく一方的に粉砕されたと書かれているわけで
その後の武田の動向と照らし合わせても一方的にぶち殺されたの間違いなかろう

815 :
信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長

816 :
長篠日記は天正6年成立の一次資料なのに対し公記は太田が金をもらって書いてるからな。 戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では
太田に金を払って書いてもらえなかっただろうからそういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかで ぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。
これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって池田家に献上してるしw
大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw
野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。
しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり 地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?  義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、 勝頼に岩村城を奪われ織田の攻勢期は半年持たず…さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、義賢書状では、 信楽表で大勝利し感状まで出してる。
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を
細川藤孝に提出してる。義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興もすぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が 近江坂本へ義昭討伐にやってくる。8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。

817 :
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。

818 :
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは
明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。
それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり
立ち上がっただけに過ぎんのに
信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。

819 :
松永久秀

820 :
819は1宛

821 :
上の長文たぶん良いこと書いてあるんだろうけど読む気がしないのはなんで

822 :
いいことじゃないからな
漫画や小説の方がまだマシ

823 :
三好長慶

824 :
長文の人、要点だけ書けよ
語りたいだけなら個人ブログにでも書いてくれ

825 :
長文じゃなくてただのコピペ荒らし
だがという頭おかしい奴のいつもの所業

826 :
完全にスレ違いの長文

827 :
三好秀次

828 :
もし関が原で西軍が勝ってた場合その後どうなるかは興味があるな
家康は主力が遅参してるからほぼ無傷で関東で粘るかもしれない
ただ東海道沿いの豊臣恩顧は西軍に踏み潰されるだろうね
東北では最上が上杉に蹂躙されて伊達はさっさと西軍に寝返るだろう
九州で暴れてた黒田も加藤も終わりだろうし
上杉、毛利、宇喜多の3大老+石田中心の奉行衆で上手くまとまるかね?

829 :
元就の遺言がなければ輝元が天下を取ってたかもしれない

830 :
輝元って積極的に西軍決起を行うなど、西軍の首謀者として動きながら
奉行衆らの美濃口への援軍要請無視しまくってどうでもいい方向に戦力分散させまくり家康らに大敗したんだが…
元就の遺言どうこうじゃなく、輝元が馬鹿だから負けただけ。

831 :
関ヶ原の負けは伏見城、大津城が粘ったことに尽きるな
あれがあっさり開城してて立花宗茂が関が原に間に合ってたら間違いなく西軍が勝ってた

832 :
史実で畿内方面だけで18万もおり負けるはずもない状況と兵力で負けたのが西軍だからなぁ
アホ元みたいなクズが大将じゃ誰が来ても負けると思う
立花とかが来ても北陸とか伊勢湾とか関係ない方面に出兵させられて終了じゃね
東軍西上の報を受けた後ですら伊勢湾での活動やめてない上に大阪に居座ったきりで奉行衆の催促無視して
大敗する主要因作ったのがアホ毛利なんだし

833 :
福島が石田にフルボッコにされたり当初は西軍の優勢だったわけで
あそこに立花宗茂が参戦したら東軍の先鋒は崩れてたと思う
そうなると小早川でも西軍裏切ることはないだろう

834 :
>>828
西軍が勝ってたら軍功第一位は宇喜多
三成の器量じゃトップには立てないだろうから宇喜多の天下だな

835 :
福島と黒田は討ち死にするとして
九州の加藤と如水の扱いをどうするかだな
火事場泥棒した以上領地召し上げで立花と島津に加増?

836 :
>>832
家康が天下取ったのは輝元のアシストのおかげまで読んだ

837 :
>>833
宗茂を過大評価しすぎ
大津ごときに手こずってる時点で大した戦力にならん

838 :
仮に西軍が勝ったとしたら上杉と毛利は二百万石超えの大大名になったろう
そして両雄並び立たずで上杉の東軍と毛利の西軍による第二次関ヶ原が勃発
んで勝つのは・・・・どう考えても上杉だよなあ
アホの輝元が景勝に勝つイメージが浮かばないし

839 :
毛利がそんな天下とりの舞台にたてるわけがない
史実で首謀者として西軍決起おこなって石田が必至に集めた18万の大軍を
戦力分散させまくり援軍要請無視しまくり台無しにしたのがアホ元。
石田ラインで天下は収まるんじゃね

840 :
徳川が三河一国に減封なのか一気に殲滅されるのか?
生かしとくと嫌な予感がするな

841 :
徐々に追い詰められて包囲コースじゃね

842 :2013/05/08
>>838
上杉は旧領越後・川中島三郡に出羽のうち最上領で加増80万石ほどってところか
120万石はちょっと後世盛ってて本当は91万石っていう話もあるが倍近くになる
毛利はどこをもらう気だって話になるが宇喜多が関東に異動になったりしてな
でも関ヶ原で勝った後に家康をどうする気だったのかよくわからんから、
秀忠もろとも処断したとしたらかなりの土地が浮くとしか言えない
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