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邪馬台国は九州にあった33


1 :2013/10/03 〜 最終レス :2013/10/22
前スレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1379777817

2 :
>>1

僅差でこっちの方が先か

3 :
>>1
乙、素早いなあ

4 :
前スレより:
>もしかしたら 千餘里+四千餘里=周旋可五千餘里 なのかもしれない。
ダブルブッキングはしなかったであろう。
>対海国と一大国は含まれぬ。既に両国の大きさは方四百里、方三百里と示されている。
そのとおり、ダブルブッキングは避けたと思うね。

5 :
>>1
金印やるよ

6 :
>参問倭地、、、周旋可五千余里
おそらく以下の意味
× 倭種の棲む土地
○ 倭人の住む土地(倭地、すなわち女王共立国+狗奴国)は、周旋五千里ばかり

7 :
前スレ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
996 :大和 田 直木:2013/10/03(木) 19:07:46.04
>>991
一周して巡るなら「周匝」だ。
片道行で巡るなっら「周旋」だ。
以前に議論決着済。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こいつは進歩というものを知らない。漢典ぐらい見て調べろ。
周旋の用例として
5.环绕;盘曲。《列子·汤问》:“其山高下周旋三万里,其顶平处九千里。”《三国志·吴志·诸葛恪传》:“众议咸以 丹阳 地势险阻,
与 吴郡 、 会稽 、 新都 、 鄱阳 四郡邻接,周旋数千里,山谷万重。
とある。环绕とは
◎ 环绕 huánrào
(1) [encircle]∶沿由路程、行进和旅行所形成的圆圈运动
环绕世界一周
(2) [surround]∶在四周构成圆环;构成弯曲或圆形边界
ということだ。

8 :
>>7
これは痛いよ。

>こいつは進歩というものを知らない。漢典ぐらい見て調べろ。
周旋の用例として
5.sッ~ユ;vリ曲。《列子・ld俸》:“其山高下周旋三万里,其 平Y九千里。”《三国志・T4志・串葛恪O 》:“O彊咸以 丹3 地Rソ吠阻,
与 T4郡 、 会稽 、 新都 、 13 四郡製接,周旋数千里,山谷万重。
とある。

★これは「周旋〇〇里」の用例であって、「A周旋“可”〇〇里」の用例じゃない。肝心要の「可」の読みができていない。
★「可」=範囲を把握する
五千餘里という数値によって周旋する地(一番最後の北海道)の範囲を把握した。
ここはそう読むんだよ。

9 :
周旋の用例
5.环绕;盘曲。《三国志·吴志·诸葛恪传》:众议咸以 丹阳 地势险阻、与 吴郡、会稽、新都、鄱阳 四郡邻接,周旋数千里,山谷万重。
盘曲[pánqū]repeat
形容詞
[]くねくね曲がっている。

10 :
……或絶或連“周旋”可五千餘里。
周旋はAとBの仲立ち。
日本列島を一周する折り返し地点の北海道の規模が“可五千餘里”
ここでは、後漢時代までに把握できなかった(津軽海峡まで)新な北海道を追記したもの

11 :
周旋の用例
1.环绕:取り巻く、周りを回る
2.盘曲:くねくね曲がっている
周旋には、一周の意味もあり、またAからBまでくねくね曲がっているの意味もある

12 :
>>8 アホカッパ
>★「可」=範囲を把握する
そんな意味などね〜よ。ヴア〜カ。
おまえは害虫並みだ。

13 :
>>9, <<11
丹阳 地势险阻、与 吴郡、会稽、新都、鄱阳 四郡邻接,周旋数千里,山谷万重
この文は丹陽の地勢と地理的状況を述べたもので、周旋数千里は丹陽の広さを示すものである。
「くねくね曲がっている」のは山の多い地方の道や川など何処でもそうだ。そんなことを書いても無意味だ。
>またAからBまでくねくね曲がっているの意味もある
丹陽の何処から何処までがくねくね曲がっていると書いてあるのだ?

14 :
>>7
倭人伝の「周旋」は、>>9>>11が正しい。
>周旋の用例
>5.环绕;盘曲。《三国志&middot;吴志&middot;诸葛恪传》:众议咸以 丹阳 地势险阻、与 吴郡、会稽、新都、鄱阳 四郡邻接,周旋数千里,山谷万重。
> 盘曲[p&aacute;nqū]repeat
>形容詞
>[]くねくね曲がっている。
>周旋の用例
>1.环绕:取り巻く、周りを回る
>2.盘曲:くねくね曲がっている
>周旋には、一周の意味もあり、またAからBまでくねくね曲がっているの意味もある
「环绕」には一周することの意味は含まれない。
「环绕」は、取り巻く、周りを回るの意味であるが、A点からB点までであって、
A点を出発してA点に戻ってくる意味(用例)はない。
A点からA点の近傍のB点に戻ることは「一周」ではない。
始点がA点で終点もA点の場合は「周匝」である。
なお、三国志が書かれた時代では、熟語「周匝」は未だなかったようだ。

15 :
>>14
悪あがきはよせ。みっともない。

16 :
また結論の無いパズルスレか、
残り少ない時間を無駄に費やすなよw

17 :
>>15
「漢典」を未消化のまま鵜呑みするはもう辞めた方が良いよ。

18 :
>参問倭国、、周旋可五千余里・・・←周旋するのは「倭国」ではない
>参問倭地、、周旋可五千余里・・・←あくまで「倭地」を巡れば五千余里、ここを区別して読むべし。では倭地とはどの範囲か?

19 :
>>18
>>参問倭地、、周旋可五千余里・・・←あくまで「倭地」を巡れば五千余里、ここを区別して読むべし。
>では倭地とはどの範囲か?
倭地は、對海國から狗奴國まで。
帯方郡から狗邪韓國までは韓地。
韓地=帯方郡+方可4000里の韓三種(馬韓辰韓弁韓)居住地域+韓に南接する倭人居住地域

20 :
>>12
まだそんな幼稚なことしてるのか? 情けない。

>>17
禿同

>>18
倭地の範囲は、後漢時代までに把握された津軽海峡に、魏時になってから新に把握した北海道を加えた範囲。

21 :
@7000余里=帯方郡から狗邪韓國までの「循海岸水行」行程
A1000余里=「始度一海」の対馬西水道渡海行程
B4000余里=對海國(対馬)から女王國(不彌國)までの行程
C12000余里=帯方郡から女王國(不彌國)までの行程(@+A+B)
D5000余里=周旋可五千餘里(倭地北端から南端まで)
B4000余里=對海國(対馬)から女王國(不彌國)までの行程
E1000余里=女王國(不彌國)から倭地南端(狗奴國)までの行程(D−B)
不彌國を吉野ヶ里とすると、
その南E1000余里(80km)は、熊本平野(狗奴國)南端緑川北岸となる。

22 :
>>21
結論書き忘れた。
故に、周旋可五千餘里(倭地北端から南端まで)は、
対馬北端(對海國)から熊本平野南端(狗奴國)までとなる。

23 :
>>17
おまえは「倭人伝の「周旋」は、>>9>>11が正しい。」と言った。
「2.盘曲:くねくね曲がっている」を正しいとした。
こんな状態だから漢文を読めないと言われるのだ。おまえは未消化どころか口にも入れてない。
盘曲とは曲折盘绕 のことだ。くねくね曲がっている(蛇行)ではない。円あるいは螺旋状になることだ。

24 :
>>21, >>22
周旋の意味を取り違えているのだからタワゴトにすぎない。

25 :
>>23
>盘曲とは曲折盘绕 のことだ。円あるいは螺旋状になることだ。
円状螺旋状は始点には戻らない。A点からB点への片道進行だ。
だから、一周ではなく、出発点にに戻らないで進んでいることになる。

26 :
「周旋」の(旋)は、部分表現。
“折り返”すなどの動作の変化を表す言葉。だから意味に“あちこち”などの表現が使われる。

…河童のちょっといい漢字…

27 :
>>21
>B4000余里=對海國(対馬)から女王國(不彌國)までの行程
倭人伝によれば、ここは 1000+1000+500+100+100=2700里 じゃないのか、
なぜ4000里になるのか、積算根拠を示してくれい。

28 :
大和 田 直木氏の間違い
盘曲の盘は盤(tray, dish, plate)である。平たく丸い盆や皿である。
盘曲は盤のように曲がっていることを表す。
>「环绕」には一周することの意味は含まれない。
>「环绕」は、取り巻く、周りを回るの意味であるが、A点からB点までであって、
>A点を出発してA点に戻ってくる意味(用例)はない。
◎ 环绕 huánrào
(1) [encircle]∶沿由路程、行进和旅行所形成的圆圈运动
环绕世界一周
(2) [surround]∶在四周构成圆环;构成弯曲或圆形边界
林地环绕着村庄
円圏を形成する、四周に円杯を構成する、湾曲あるいは円形の边界(辺界 boundary)を構成するには
一周することが必要。

29 :
>>25, >>26
二人とも漢文を読めぬアホだ。自己流解釈で理屈をこね回すだけ。

30 :
>>27
>>B4000余里=對海國(対馬)から女王國(不彌國)までの行程
>倭人伝によれば、ここは 1000+1000+500+100+100=2700里 じゃないのか、
>なぜ4000里になるのか、積算根拠を示してくれい。
㋐ 800余里=對海國(対馬)半周の循海岸水行
㋑1000余里=対馬東水道の渡海
㋒ 600里=一大國(壱岐)半周の循海岸水行
㋓1000余里=壱岐水道の渡海
㋔ 500里=末蘆國(松浦川河岸中原遺跡)から伊都國(佐賀市大和町惣座遺跡)までの東南陸行
㋕ 100里=伊都國から不彌國(吉野ヶ里遺跡)までの東行
㋖4000余里=對海國(対馬)から不彌國(吉野ヶ里)までの移動([行]と[渡])㋐+㋑+㋒+㋓+㋔+㋕
追補解説
伊都國から奴國の100里は、「東南至奴國百里」と移動の動詞「行」が無いので行程に含まれない。

31 :
>>28
君は、廻り巡ることを一周にしたいだけである。

32 :
>>29
もうそんなレスは見飽きたよ。
もう少しまともなレスは出来ないのかね。
だいたいそんなレスしか書けない人に古代漢文の何がわかりそれを判断出来るのかね?
と、逆に問いたいよ。

33 :
>>30
>伊都國から奴國の100里は、「東南至奴國百里」と移動の動詞「行」が無いので行程に含まれない。
奴国への100里には動詞の行が無いので行程に含まれないとまおすか。
ならば下記の㋐㋒について糺したい。
倭人伝の原文に当たってみると、それぞれ方可四百余里、方可三百里、とあるのみで、これらにも動詞の行はないではないか。
なのに、なぜこれは行程に含まれるとまおすのじゃ??
㋐ 800余里=對海國(対馬)半周の循海岸水行
㋒ 600里=一大國(壱岐)半周の循海岸水行

34 :
>>32 :河童虫
>>29
>もうそんなレスは見飽きたよ。
>もう少しまともなレスは出来ないのかね。
君が見飽きるほど多くの人が感じていることだ。
周旋可五千餘里の可を「「可」=範囲を把握する 」と解釈する漢人はいないぞ。
可はapprove (良しとする)、may, can, -able; possiblyなどの意味があるが、上記文の可は
possiblyの意味で使われているのだ。
また周旋を「周旋する、巡り廻る」と動詞に解釈するのも誤りだ。周囲を意味する名詞的用法だ。

35 :
>>31:大和 田 直木
馬鹿につける薬は無い。勝手読みで満足していろ。

36 :
>>34
>possibly
歴史にpossiblyはないよ。
副詞として用いたいのだろうが、これは魏の歴史書だよ。
そんな曖昧な歴史なんて存在しない。

読み方が甘過ぎるよ

37 :
【可】
可=口と「 を組合せた典型的な記号文字。
口=範囲(規模や面積)
「=把握
方形面積は、二辺を知る事で把握する。

範囲を把握する=物事を把握(知る・確認)



…河童のちょっといい漢字…

38 :
>>33
Ⓐ「始度一海千餘里、至對海國」
Ⓑ「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」
Ⓒ「又渡一海千餘里、至末盧國」
上記はいずれも海を千餘里渡ったのである。
海の部分の距離が千餘里でその大きさの海を渡ったのである。
二国間の距離が千餘里であると書いていないのである。
A国とB国の二国間の距離を表す場合は、
「A渡海至B千餘里」となる。
例:「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」
ⒶⒷⒸには、對海國と一大國を占める部分の距離が含まれていないのである。
倭人在帶方東南大海之中が占める部分の大きさは、それぞれ「方可四百餘里」と「方可三百里」記載されている。
「倭人在帶方東南大海之中」であるから、狗邪韓國から末蘆國に進む方向は全体として東南方向である。
3回の渡海はいずれも南方向であるから、對海國と一大國が占める部分で東方向に進まなければならない。
魏使や郡使は船で航行しているから、對海國と一大國の外周海岸を水行(循海岸水行)することになる。
通過する外周海岸は、それぞれの島の外周の半分である「800余里」と「600里」である。
對海國の北西端から末盧國までの距離を積算する場合には、渡海距離合計2000余里と外周通過部分合計1400余里の3400里となる。

39 :
>>33
>A国とB国の二国間の距離を表す場合は、
> 「A渡海至B千餘里」となる。
> 例:「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」
例の追加
「循海岸水行・・・到其北岸狗邪韓國七千餘里」

40 :
>>36 アホガッパ
周旋可五千餘里
可は大約という意味だ。およそ五千餘里。五千餘里ほどになるだろうという推定の気持ちも入った可だ。
>>37 腐れガッパ
そんなものはここでは関係ない。

41 :
>>36:河童虫
>歴史にpossiblyはないよ。
>副詞として用いたいのだろうが、これは魏の歴史書だよ。
>そんな曖昧な歴史なんて存在しない。
周旋可五千餘里 は魏使が辿った末盧国から邪馬台国までの実見情報と倭人(邪馬台国の役人など)
から聴取した情報とから推定したものである。五千餘里は推定であるから「およそ」の意味で
可五千餘里としたのである。大約の数字を書く事が曖昧な歴史になるか?数百人や数百里などと
いう表現が中国の史書には多く見られるが、可五千餘里も似たようなものだろ。違うか?

42 :
東征も東遷もあり得ない。
これは考古学的に否定された。
可能性はまず無い。
つまり、記紀は神武東征という捏造をやったことが明らかになってしまった。
容易に分かることだが、記紀がなぜ神武東征という捏造をやったかに近畿説で
答えることは、事実上不可能。
近畿説は、すでに頓死している。
近畿説に可能性は無い。

43 :
>>33
例の追加
A国からB国へ行程の距離を表す場合は、
「A渡海千餘里至B」となる。
「東南陸行五百里、到伊都國」
末蘆國と伊都國間の距離が500里なのではなく、
末蘆國から伊都國への行程距離が500里の意味。
末蘆國の出口から伊都國の入口までの距離が500里。

44 :
>>41
>周旋可五千餘里 は魏使が辿った末盧国から邪馬台国までの実見情報と倭人(邪馬台国の役人など)
から聴取した情報とから推定したものである。五千餘里は推定であるから「およそ」の意味で

それは貴殿の推察で、魏の歴史じゃないよ
だいいち、確認の取れていない情報をとりあげ、それを魏の歴史だなんてする必要性なんてどこにもないし
聴取の事実なんて何処にも書いていない。

今から稽古があるのでレスは途切れます。

45 :
東征も東遷もあり得ない。
これらはすでに考古学的に否定されてしまっており、覆る可能性は
ほぼ無い。
つまり言い換えると、記紀は神武東征という捏造をやったことが
明らかになってしまったと言うことだ。
そして容易に分かることだが、記紀がなぜ東征という捏造をわざわざ
やったかと言う疑問に、近畿説で答えることは事実上不可能だ。
無論、不自然な理屈ならなんとでもつけられる。しかし、多くが
納得する自然な説明は絶望的だ。
△=卑弥呼の鏡、箸墓=卑弥呼の墓、どちらもネタだった。
纒向も調査がすでに十分入っており、魏志倭人伝の記述と全く合わ
ないことが確認されている。
つまり、近畿説は現時点ですでに頓死している。
纒向は恐らくはニギハヤヒの祖先が作った都市であり、神武が九州を
捨てて憧れて向かった都市なのだから、壮麗な都市であるのは当た
り前でなのであって、そんなことは邪馬台国であることの証拠に
などなりはしない。
近畿説に可能性はほぼ無い。
近畿説はもう既に死んでいる。

46 :
君たち、米軍の許可を得て、沖縄の基地内を徹底的に掘り起こす部すべし!

47 :
>>44 :河童虫
>だいいち、確認の取れていない情報をとりあげ、それを魏の歴史だなんてする必要性なんてどこにもないし
倭の地理情報が魏の歴史であるわけないだろ。どんな構造になっているんだ君の頭は?

48 :
>>44 :河童虫
>だいいち、確認の取れていない情報をとりあげ、それを魏の歴史だなんてする必要性なんてどこにもないし
>聴取の事実なんて何処にも書いていない。
河童虫は常識を知らないようだ。使節などの外交官の重要な役目として情報収集がある。特に乱世の時代にあった
魏では(蜀でも呉でも同様だが)情報の重要性は高かった。
倭については、卑弥呼が派遣した難升米らからの聴取である程度の情報を得て卑弥呼を親魏倭王とすることに決めた
が、梯儁らに詔書を持たせて卑弥呼のもとへ赴かせた折に倭の国情を調べて来るという任務も持たせたと見るのが当
然である。
梯儁らは倭人伝に記された行程上の国々を経て卑弥呼の都がある邪馬台国に至っている。この行程上の国々と邪馬台
国については実見して情報を得たが、その他の国々には行っていない。親魏倭王に任じたからには女王支配下の全て
の国の情報が望まれるので、実見していない国々については倭人から聴取した筈である。女王が支配している国々で
あるから邪馬台国の役人は各国の位置や距離(里数ではないだろうが)を把握している筈である。情報を得ることは
出来たと思える。
倭人伝に聴取の事実は書かれていないから聴取していないなどとは「論語読みの論語知らず」の言い分である。
故事や常識など記述を省略されていることは多い。それらを知らずに「書かれていない」では読めていないのである。

そうして得た女王支配下の
国々の総体としての大きさを示すものとして周旋可五千餘里としたのである。ただし、對海国と一大国については既


49 :
「難升米」とはもとのが
「那司馬」と書いて
「なしま」と読む
「那」とは「那珂川」の「那」なり
「奴」表記するのも良し。
「那司馬」と書いちゃ「司馬懿」さんのが迷惑
「邪馬懿」と書いても「司馬懿」さんのが迷惑

50 :
正解の無い世界だから気持ちよ〜く自説を披露出来る
おそらく自説が間違っていたと証明される日は永遠に訪れないからな

51 :
>>48
別に貴殿の私的な講釈が聞きたいわけじゃないよ
しかも、相手を非常識とし自分はさも常識人であるが如く組み立てる
その手法、相変わらずのワンパターン。
まだそんなことしているの?   いい加減パターンかえたら。

>倭人から聴取した筈である
「筈である」なんて、やめてよ恥ずかしいから。
私がお休みしている間ぜんぜん進歩してないじゃん。

52 :
>>48
極めてまとな意見だ。
國皆倭種、侏儒國、裸國、K齒國からも聴取したことが判るが
參問からも聴取したことが判る。
「見聞きすれば、見聞きしたところによれば」と言う意味だろう。
>梯儁らは倭人伝に記された行程上の国々を経て卑弥呼の都がある邪馬台国に至っている。
この行程上の国々と邪馬台国については実見して情報を得たが、
その他の国々には行っていない。
全くその通りだ。
しかし
それだけ判っているのなら邪馬台国の場所も判るはずだが。
水行二十日水行十日陸行一月は場所を比定するのには無関係だ。
不弥国の次にあるのが投馬國で
投馬國の次にあるのが邪馬台国なのだから。

53 :
>51
>別に貴殿の私的な講釈が聞きたいわけじゃないよ
河童の私的な講釈を聞きたい者は皆無だろう。

54 :
妄想垂れ流しスレ

55 :
河童 vs 自演

56 :
>不弥国の次にあるのが投馬國で投馬國の次にあるのが邪馬台国
放射式で書かれているのだから、そんなことは言えないな。

57 :
>>53
私の読者は君だけだよ。
私は君だけの為に書いてるのさ。

58 :
>>57
おお河童さんではないですか
お久しぶりです

59 :
>>55
げすのかんぐり

60 :
初心者です。
邪馬台国≠天皇制度でいいでしょうか?
畿内説でいくと邪馬台国=天皇制????
もしくは、畿内の邪馬台国を滅ぼした異国人が天皇????
よくわかりません・・・・・・・・
さすれば、邪馬台国は畿内以外では無いでしょうか?

61 :
>>52 白髪三千里の中国です。
   水行二十日水行十日陸行一月・・・・・は鵜呑みにすべきではないと思います

62 :
>>60>>61
「私見ですが」が抜けてるよ

63 :
河童虫 = ローガン虫 = 出かけてきます虫 = 自作自演虫

64 :
>>61
それは母をたずねて三千里です。

イタリアから南米アルゼンチンへ、出稼ぎに行った母親に会いに
少年マルコとアメディオが

65 :
>>61
白髪三千丈 里じゃなくて丈なw
>>60
畿内説は邪馬台国=大和朝廷のほぼ一種類
九州説は福岡から鹿児島まで多様でしかも東遷説と滅亡説が有る
ただし博多東遷説はフルボッコ状態

66 :
倭人伝はまちがっていると言うのは、自分の思い込みでかってなところに邪馬台国を比定する
話へとつながっていく。倭人伝には何の間違いもないと考えて読んでみな。すっきりと比定で
きる。

67 :
<文系脳>
・三千丈+三千里+三千日 = 9000日
・万二千里+20日+10日+1月 = 1万2千60日
文系脳は単位に無頓着。ま、理数ができたら文系にはいかなかったんだろうな。

68 :
畿内説は邪馬台国がヤマト王権になったとする考えがほとんどだが
現天皇家の起源についてはまちまちだろう
おそらく継体以降と考える人が多いのではないか

69 :
邪馬台国は太伯伝説、大和朝廷は天孫降臨伝説、邪馬台国=大和朝廷ではないってことだね。

70 :
河童が復帰したとなると、アンチも含めてまた賑やかになるな。

71 :
>>51
君の「奇を衒った漢字解釈」の間違いを倭人伝によって正しているのだ。君だけでなく君の妄説に惑わされる閲覧者へ
宛てたレスなのだ。おとなしく聞け。
自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳 についてふざけたことを言っていたな。
これは「女王国以北(の国)については(実見して)その戸数や道里を得て略載できるが、その他の旁國は遠く離れて
いるので詳しいことを得ることができない」ということだ。
「其餘旁國遠絶,不可得詳」は言い訳なのである。魏使梯儁らは親魏倭王たる女王卑弥呼の支配領域についてできるだ
け詳しい国情情報を収集するという任務を課せられていた。或はその任務を自覚していた。
この記事から行程関連の記事は初めて来倭した魏使梯儁らの記録によるものであると考えることが出来る。

72 :
>>61
邪馬台国があったのは山門郡。
大和朝廷の出身地は九州北岸。
(※宮崎、大分、四国も関係している)
だから
神功皇后は九州北岸で出産したり、兵を集めたりしている。
この勢力が筑紫平野の邪馬台国の勢力と倭国大乱で戦った。
四世紀以降、この勢力は
九州北岸勢力、大和朝廷に従っていなかった九州各地を支配下に収めていく。
四世紀、山門郡の邪馬台国も田油津姫の時に神功皇后に滅ぼされた。
これにより
九州北岸勢力は本拠地を筑紫平野へ移し、
外国との対外交渉権は九州北岸勢力のものとなる。
倭の五王が活躍したりした。
しかし
磐井の乱を境に大和朝廷が次第に主導権を得ていく。
磐井の乱は同じ勢力内での権力争いだ。
大和朝廷とすれば
自分たちが邪馬台国を滅ぼしたことと
最初は九州北岸勢力が主導権を握っていた事は
なんとしても秘密にしておかねばならない。
全て本当の事だ。

73 :
この前吉野ヶ里に行ってきたよ

74 :
不弥国だ。

75 :
>>71
>この記事から行程関連の記事は初めて来倭した魏使梯儁らの記録によるものであると考えることが出来る。

何を考えようが何を言おうが、貴殿の自由だから
大いに考え語り(騙りwww)たまえ。

>梯儁らの記録
皇帝が自らの手足を使い得た情報で、梯儁なんて関係ない。そんなことも理解できないようじゃ、何時まで経っても「マンガ魏志倭人伝物語」のまま
史書として扱うのは百年早い。

76 :
>>75
ほう、
梯儁の件はともかく、記事とその解釈自体は認めると言うわけか、そりゃ有り難い

77 :
何度言ったら理解できるのかな〜
「遠絶」の“遠”は時間的概念で
「今」と 対関係。

つまり「今、昔(遠)」

78 :
遠の朝廷、太宰府

79 :
>>76
認めるも認めないも、それ自体を取り上げること自体がムダという意味。
ここで認めないと言っても、ただ不毛なレスが続くだけだし
敢えて触れない優しさかな。

80 :
近距離の「遠」という事例をあげないと、説得力はないな。

81 :
>>80
近距離の遠とわかってしまっては、
「可得詳だろ、すぐ書き直せ」といわれて従うしかない、あるいは調査のやり直しになりかねない

82 :
79=80=81=カッパ

83 :
>>75
>皇帝が自らの手足を使い得た情報で、梯儁なんて関係ない。そんなことも理解できないようじゃ、
皇帝が自らの手足を使い得た情報とはどうして判るの?
梯儁はどうして関係ないの?

84 :
>>82
およよ
>76、>81はカッパではない、オレだ。 ま、どちらかといえばカッパの天敵。

85 :
>>83
皇帝は禅譲によって受け継がれるもの。
皇帝以外は皇帝の道具にしか過ぎないから、皇帝が全てのものを得、分け与えている。

>>82
見えない敵と戦ってるようだけど、疲れないかい?
無理しないで身体を労りなさい。

86 :
プラムよ、近距離の地を「遠」と表記した例を、他の漢籍でいいから挙げろよ。

87 :
>>75 :河童虫
>>71
>>梯儁らの記録
>皇帝が自らの手足を使い得た情報で、梯儁なんて関係ない。そんなことも理解できないようじゃ、何時まで経っても「マンガ魏志倭人伝物語」のまま
アホか。皇帝が自らの手足を使い得た情報だと?ヴア〜カ。
梯儁らは皇帝(と言っても齊王であった芳で元服前の少年)の臣下であるから手足の一部であったと言えるが実際には大將軍の曹爽と太尉の司馬懿が政務
を司っていたから、帯方郡大守や梯儁らには公孫氏を滅ぼした司馬懿の息がかかっていたであろう。
ともあれ、倭の女王卑弥呼のもとを最初に訪れたの魏の使者は梯儁らであるから、彼らが倭の国情に関する情報の収集に努めたと考えられるのだ。それ以
外に魏から派遣された使者は張政等しかいない。張政等の齎した情報は正始八年以降の事件だけであろう。狗奴国との争い、卑弥呼の死、男王が立った際
の混乱、壹與の擁立と懸案に追われて各国を廻り調査する暇はなかったであろう。或は梯儁らの報告で十分とされ調査の任務は負わされていなかったとも
考えられる。

88 :
>>87
考えなくていいよ。
考えるとロクな事ないから。

考えた結果が「バーカ」じゃ、よっぽどお山の大将を気取りたいんだろうから、もう少し酔いをさましてから出直しなよ。
時間が許せる範囲で書き込むから。

89 :
>>86
だから、見えない敵と戦うのは止せっていってるだろう。

プラムなんて滅多に拝めないよ。

90 :
見えないはずなのに、本人が反応してるなw

91 :
75以降スレチ。終止符スレへ行きなはれ。

92 :
なかっち 動画
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s

みんなで選ぶニコ生重大事件 2012
http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/
2012年 ニコ生MVP
http://blog.with2.net/vote/?m=va&id=103374&bm=
2012年ニコ生事件簿ベスト10
http://niconama.doorblog.jp/archives/21097592.html

生放送の配信者がFME切り忘れプライベートを晒す羽目に 放送後に取った行動とは?
http://getnews.jp/archives/227112
FME切り忘れた生主が放送終了後、驚愕の行動
http://niconama.doorblog.jp/archives/9369466.html
台湾誌
http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm

93 :
>至末盧国、、到伊都国、、至奴国、、至不弥国、、至投馬国、、至邪馬壹国女王之所都。
>自女王國以北其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳。
うえに書いた国々のほかは、(遠絶にして)見渡しても目に入らなかった、というような感じの書き方。
つまり、女王国までの道筋の国々だけ取り上げて書いた印象だ。
そう解釈すると、あとの話は簡単になり、迷いは消える。

94 :
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳
次有 斯馬國
次有 已百支國
次有 伊邪國
次有 都支國 (郡支國)
次有 彌奴國
次有 好古都國
次有 不呼國
次有 姐奴國
次有 對蘇國
次有 蘇奴國
次有 呼邑國
次有 華奴蘇奴國
次有 鬼國
次有 爲吾國
次有 鬼奴國
次有 邪馬國
次有 躬臣國
次有 巴利國
次有 支惟國
次有 烏奴國
次有 奴國
此女王境界所盡
「戸數道里」の詳細は書けないといって國國の名称を列挙
これは、現地には行っていない
しかしながら、「今使譯所通三十國」ということは、
わざわざ行かなくても酋長さんとか出張ってきてミーティングするんだ

95 :
85 :知ったかぶりの河童虫
>皇帝は禅譲によって受け継がれるもの。
そうとは限らない。漢帝国を興した劉邦は秦の皇帝から帝位を禅譲されたものではない。宋にしても元にしても
そうだ。奪い取ったものである。
>皇帝以外は皇帝の道具にしか過ぎないから、皇帝が全てのものを得、分け与えている。
それは建前のことだ。力のある皇帝でなければそのようなことは出来ない。
多くは有力な家臣の操り人形だ。

96 :
>「今使譯所通三十國」ということは、
>わざわざ行かなくても酋長さんとか出張ってきてミーティングするんだ
たぶんミーテイング会場はここだったんだろな → 到伊都国、郡使往来常所駐

97 :
>漢時有朝見者、旧百余国、今使訳所通三十国。
漢時以来、百年二百年の付き合いをしてきたわけだ。お互いけっこう事情は分かっていたであろう。
(漢から禅譲された魏朝の)使いの一度目は伊都国どまりで、二度目はやっと卑弥呼の所・・・
なんて、そんな及び腰であるはずもない。

98 :
確かに長いつきあいだが、中国側から使者が来たのは初めてだろうな。使者はもちろん
卑弥呼に会っている。伊都国どまりなんて中途半端なことはしない。

99 :
>>95
>奪い取ったものである。
それが譲り受けたものでも、奪い取ったものであっても、禅譲にかわりはない。その形や内容なんてどうでもいいんだよ。

大人なんだから駄々をこねないの
それともなにかい!
記録には奪い取ったから認めないとでも?

>操り人形
だから考えなくてもいいって言っただろ
ロクなこと考えないんだから。

100 :
>>99
これは珍しい お久しぶりで

101 :
>>95
貴殿にハッキリ言おう。
貴殿には学問は無理だ。
ただ、学問は無理でも歴史小説ならかなり面白い読物が出来そうな気がする。
それはたとえ誰も認めなくても、私は認める。
残念だが、学問は無理だ!
貴殿に足りない学問の分野は私に任せなさい。

102 :
>>100
相変わらず抜目ないね〜
さりげなくキリ番ゲットかい?

103 :
>>102
いやいや このコテを使ったのは数年ぶりじゃないかな
普段は仕事で日本にいないんですよ ときどき帰ってきたときに書き込みはしますが
本格復活ですか?

104 :
>>103
>本格復活ですか?
いやいや、そのうち突然消えますよ。
最近(まだ始めて半年だけど)、金魚とメダカ飼育に嵌まっちゃってね
今では金魚が70匹とメダカ約300匹
完全に庭を占領され、そろそろユンボ借りてきて
庭に池造らなくちゃならないような事態に
だからあまり時間がなくて

105 :
河童が魚を飼うのか、まあプラムが飼うよりいいか。

106 :
102以下スレチ。

107 :
地震の後、河童虫は食料自給自足を始めたようだな。
何故かって?
河童虫とは茨城ではタガメことだからだ。
金魚やメダカはタガメのご馳走。

108 :
やはり茨城か、牛久沼のカッパ

109 :
ともあれ佐賀平野の南方千三百里〜千五百里といえば熊本・阿蘇地方になる
女王之都はこのあたりと見てよかろう
そして卑弥呼の墓は
>以死、大作冢、系百余步、殉葬者奴婢百余人
阿蘇山とそれを取り巻くカルデラ湖を模した水壕墳墓で、これが古墳の祖形となった、
後の大倭王たちは、皇祖のふるさとを偲び、きそって濠に囲まれた前方後円墳を築造したのだろう

110 :
日数を無視してはトンデモに過ぎん。

111 :
>>101 :河童虫
>>95
>貴殿にハッキリ言おう。
>貴殿には学問は無理だ。
およよ。奇を衒った漢字解釈、詭弁を弄しての言い逃れ、デイベートに勝ちさえすれば良いとする
それが「学問」の新解釈ということか。

112 :
>>109
残念ながら、熊本阿蘇地方は周旋可五千餘里の範囲外だね。そこは狗奴国の領域。

113 :
>>110
日数は距離に換算できるものに非ず。
条件次第で変わる水行、陸行の日数で距離を示すなど愚の骨頂。
普通の読者なら不彌国から邪馬台国女王の都までは千三百里(以下)と計算できる。

114 :
易姓革命の形が禅譲か放伐かだろう
徳が衰退して天命を失った王朝はどちらかの形で別姓に王朝交替しなくてはならないとう
これは天の概念に儒教的な徳の思想が加わったもので
夏や商の事例は後付で解釈されている面もあるかもしれないが

115 :
行程記事を日数で記すことはよくあること。それを無視しようというのは
しょせんトンデモ。普通の読者はそんな読み方ははしない。

116 :
>>110
文系脳よ、三千里+三千丈+三千日 = 九千日 とまおすかww
この世では、単位が違うと足し算引き算はできないのじゃ、
里数(万二千里)と、日数(二十日、十日、一月)は、厳重に区別して考えるべし。 >>113 も申されるとおりじゃ。

117 :
「遠絶」の「遠」は「疎遠」の「遠」
関係が「疎遠」で「絶交」してる状態
だから国名は解っても官や戸数は解らなかった

118 :
>>113
三国志の中で行程記事(の距離)を日数で記した例を挙げてみな。
用例を示してから「行程記事を日数で記すことはよくあること。」と言え。出来るか?

119 :
やっと>>117のように正しく解釈できる御人が現れた。

120 :
>>117
參問倭地,絶在海中洲島之上,或絶或連,周旋可五千餘里
ここにも或絶或連と絶の字があるが、これも絶交の意味か?
其餘旁國遠絶,不可得詳 は 「其餘旁國は遠く離れていて詳しいことを得ることができない」という言い訳だ。

121 :
ただ、「だから国名は解っても官や戸数は解らなかった 」
この部分の解釈は違うけど
解らないから書かないんじゃなく、国名を記すだけですべてを把握出来るから
簡素に国名だけを記した。
国交が絶えているから「旁國」なわけ
国交が疎遠になったり絶えたという事は、以前は国交があり詳細に事情を知る事が出来たが、公孫滅亡後の新生魏朝には情報がないし、調べる事もできない。
これが倭地や倭人に対する今昔認識。
後漢朝と魏朝の間に公孫支配時代が介在したことが、後世この倭人伝を難解で複雑なものにした。

122 :
>>118:横
その >>113 は → >>115じゃないの?

123 :
>>121
今使訳所通三十国、と素直に書いてるのに深読みしすぎ。・・・というか複雑怪奇河童虫。

124 :
>>112
>残念ながら、熊本阿蘇地方は周旋可五千餘里の範囲外だね。そこは狗奴国の領域。
狗奴國も倭地だから、熊本阿蘇地方は周旋可五千餘里である倭地の範囲内だ。

125 :
>>123
ぜんぜん深読みしてない。
後漢時代と魏時代の倭に対する認識の変化を探ればいいだけだよ。
後漢時代までに知り得た国情が、魏時代には国交のある三十国と旁國分減ったが
地理的な情報は、それまでの津軽海峡に新に北海道の地理的な情報を得るに至った。

126 :
重要な点は「国」の規模についてだな
考古学的には郡程度の範囲を「クニ」として見られることが多い
このクニが一国であるならば、日本全体には千単位であることになる
それともいくつかのクニのまとまりを国と見るのか
さらにもっと広範囲に国は広がっていたのか
このあたりが論点とは言えるだろう

127 :
そうか
茨城から北は河童倭国だったな

128 :
漢時には倭国は100国を支配していた
それが倭国大乱で分裂して卑弥呼が支配してたのは30国
分裂は南北間で起こった
卑弥呼の勢力は南側の方
「狗奴国」というのは北側勢力が南側勢力に対しての呼び名
じつは「狗奴国」=卑弥呼の勢力のこと
北勢力―公孫氏(or呉)という連があったところへ、敵の敵は味方ということで卑弥呼の南勢力が魏に使者を送ったのだろう
南勢力が謀反して倭国大乱を引き起こした勢力
その勢力拡大の過程が国産み

129 :
>>126
国(國)は飽くまで概念の世界で、どんなに土地を掘り起こそうとしても
そこに国なんてありゃしない。
考古学者だってそのくらい理解してるだろ?

130 :
古代には阿蘇の溶岩で石棺を作らせ、その重量物をわざわざ畿内まで運ばせて古墳の築造に使う大王も少なくなかった
九州内では筑紫の磐井もそうだった
前方後円墳は阿蘇山を偲んで作ったものというのは、そう言う事実があったからでもある

131 :
>>130
歴史の時間軸がぐじゃぐじゃ。

132 :
>>121 知ったかぶりのアホガッパ
>国交が絶えているから「旁國」なわけ
● 旁
páng ㄆㄤˊ
 1. 左右两侧:〜边。〜侧。〜门。〜出。〜听。〜若无人。(註:「旁若无人」とは「旁若無人」である)
 2. 其他,另外:〜人。〜的话。触类〜通。责无〜贷。〜证。〜白(戏剧角色背着台上其他剧中人对观众说的话)。〜落。
 3. 广,广泛:〜征博引。
 4. 邪、偏:〜门左道。
 5. 汉字形体中常常出现的某些组成部分:偏〜。竖心〜儿。
行程経路上の国(末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国)の side にある国が旁国である。

133 :
>>130
それは阿蘇凝灰岩で、掘り出した場所は熊本県宇土市。
阿蘇ピンクとも言われる馬門石。
阿蘇ピンクといえば、宇土市の向野田古墳の棺がすごい。
ちなみに被葬者は女性。
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/photo/pro/kodai/mukounodakofun_b.jpg
(人骨有り)

134 :
今のお墓が墓石を立ててるのって支石墓の系譜だよね

135 :
>>130
>古代には阿蘇の溶岩で石棺を作らせ
溶岩は硬くて加工しにくい。凝灰岩ならば加工しやすい。
阿蘇山の噴煙が降り積もって出来た阿蘇凝灰岩は阿蘇山近辺だけでなく大分県や福岡県にもある。

136 :
熊本から筑後に点在する石人石馬も、
阿蘇凝灰岩だな。

137 :
ピンクの石のは容易に刳り貫いて船形のお棺つくれたりするんだ
元祖山門の裏山あたりからでも入手可能で
佐賀の熊本山の石棺のも同

138 :
馬門石(まかどいし)
>馬門石は、ピンク色で美しく、柔らかいため加工もしやすい岩石で、石材として様々な利用がなされたようです。
>宇土市中心部の船場橋も、馬門石で造られていることでよく知られています。
>さらに古墳時代には中国地方や近畿地方まで運ばれ、豪族を埋葬する石棺として使われたという歴史も明らかにされています。
凝灰岩はあちこちあるのに、阿蘇溶結凝灰岩が好まれ、古墳のためには近畿まで運ばれた。やはり古墳の発祥は阿蘇一帯だったからだろう。

139 :
天孫降臨神話のある宮崎県高千穂町一帯も阿蘇溶結凝灰岩だ
観光名所になっている高千穂峡は、その凝灰岩の台地を水が浸食してできたもの
天孫一族は、阿蘇の凝灰岩に格別の思い入れを持っていたのではないか

140 :
>>132
何それ?
大豆をただ茹でただけじゃん。
醤油を作りたいのか?
味噌を作りたいのか?
それとも納豆なのか?

何時までも優柔不断なレスしてないの

141 :
遠野物語でもカッパ伝説を読んだ気がする

142 :
遠野は遠い、遠絶の地、もうすぐ冬

143 :
河童の阿呆ぶりを示す迷言珍言
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>>8 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2013/10/04(金) 06:32:04.98
★これは「周旋〇〇里」の用例であって、「A周旋“可”〇〇里」の用例じゃない。肝心要の「可」の読みができていない。
★「可」=範囲を把握する
五千餘里という数値によって周旋する地(一番最後の北海道)の範囲を把握した。
37 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2013/10/04(金) 15:00:24.01
【可】
可=口と「 を組合せた典型的な記号文字。
口=範囲(規模や面積)
「=把握
方形面積は、二辺を知る事で把握する。
26 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2013/10/04(金) 12:38:07.67
「周旋」の(旋)は、部分表現。
“折り返”すなどの動作の変化を表す言葉。だから意味に“あちこち”などの表現が使われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

144 :
漢字を知らぬことが明白な河童の創作
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
77 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2013/10/05(土) 16:08:37.28
「遠絶」の“遠”は時間的概念で
「今」と 対関係。
つまり「今、昔(遠)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

145 :
河童の創作集「遠絶物語」

146 :
阿蘇凝灰岩製の石棺の分布
(多くの石棺が近畿まで運ばれている)
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/20080516%20008.jpg

147 :
未だにアンカーすら覚えられない粘着体質と言えば
世界中でたった一人しかいないよね。

よはど悔しかったとみえる

148 :
三国志の「遠」の使い方を調べてみた。
十例程の「遠」の用法は全部距離を表しており、
河童虫氏の負けとみられる。
これ以上調べるのはアホらしくて止めた。
「遠絶」ではどうなるのか、誰か検索して調べてみたら?

149 :
俺はフリーダムな心を持つ中立派だが、取り敢えず全ての例を列記してみてくれ

150 :
>>148
距離の意味で使われた十の用例を調べて
「十程の用例を調べてみたが」と言われても

「遠」が距離の意味なら、それを導き出せる「近(基準)」が必ず存在する。
それが言葉というもんだよ。
で、それはなに?
「遠」には距離的な意味に限らず、時間や関係などの意味がある。
十の用例を示し、その用例がすべて(距離)だというのもなかなかどうして
時間や関係を意味する用例がまったくなかったのかと逆に問いたい。

151 :
>>148
>三国志の「遠」の使い方を調べてみた。
三国志だけでも「遠」は700以上の用例を導き出せるよ
用例なんていうなら、せめてその半分は調べてからにしてくれよ

152 :
>>151
漢籍のなんでもいいから、「遠」を近い場所に使っている例を、
たった一例でいいから挙げろよ。皆無だろ?

153 :
>>148
何を言っているんだ?
検索して調べるまでもなかろうぞ。

154 :
>>152
なにをトンチンカンなこと言ってるんだ?・・・・・酔っ払い?
素面になってから書きこんでくれ

155 :
ま、カッパは一日二十四時間酔っぱらってるようだが

156 :
>>154
「遠」は距離でなく時間の概念だから、近い場所でも「遠」だというから、
実例挙げてよと言ってるわけだが、河童だから意味通じないの?

157 :
「遠絶」の意味する所がなんであろうが「傍国については詳しい事はよくわかりません」と言ってる事に変わりは無い
無意味で不毛な論議だよね

158 :
頭の皿は不毛、河童無視!

159 :
>>156
だから素面になってから投稿しろと何度言ったら
>近い場所でも「遠」だというから
だれが何時そんなこと言ったんだ? 夢でも見てんじゃないの?
>「遠」は距離でなく時間の概念だから、近い場所でも「遠」だというから
誰がどう見ても酔っ払いが書いたものとしかみないよ。(それともこれが素?)

>>158
一日も早くアンカー覚えようね

160 :
河童は視力も良くないんじゃないかねえ
わずか数行前、数十行前さえも見えにくいようだ。同情。

161 :
>>160
そんなことどうでもいいから、その部分を貼り付ければ済むことだろ
酔っ払いはこれだから困る。

162 :
突飛な解釈で注目を集めたい、そんな子供じみた所が河童さんの魅力

163 :
河童さん、やはりそうでしたか、
いろいろご苦労なさってるんですねえ、ご同情申し上げます。くれぐれもお大事にね。

164 :
なんだよなんだよ
ここの連中は、コピーして貼り付けるという作業もできないのかよ

165 :
結局さ、「遠」を「近い場所」の表現に使ったことなど、中国5千年の歴史で、一度もないだろ。
河童虫の脳内妄想をまき散らすのは、ここまでにしとけ。

166 :
ま、不用意に勘違いコピペなんかして、
河童さんのやさしいお心に障ってもあれですから、つつしむことにします。

167 :
>>165
だからさ〜 そんな詐欺的なことはもういいから
私が言ったとするレスをコピーし貼り付けてくれと何度言ったら理解できるんだ

>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
>>165 コピーして貼り付けろ
これが最後通告だよ。 私だって昔みたいに自由な時間それほどないし、詐欺師とレス交わす気はないから。

168 :
そうですか!
思った通り、河童さんは優しいお心の持ち主なんですねえ。

169 :
どうでもいいからアンカーぐらい覚えて、キ印から一歩前進しようよ。
それが相手に対する最低限のマナーだよ。
そしてもう詐欺師とレス交わす気ないから、レスは返さなくていい。

170 :
>>167
ばーか、自分で言ったことを張り付けてもらわないと、何言ったか覚えてないのか?
まあ、河童の脳みそじゃしょうがないか。

171 :
>169
「遠」はあの場合、時間の観念だ、と断定してるだろ。
だったら近い場所を「遠」と表現した実例を示さないと、証拠なならないわな。
その例を、漢籍から挙げてごらん。三国志である必要はないよ。
一例もないだろ?だったら、「遠」が時間の観念かどうかは、
河童の身勝手な思い込みの妄想としか言えない。

172 :
>>170-171
貼付けられないなら用事はないよ。
それに詐欺師には興味ないから、後は適当な作り話でも語って盛り上がってくれ。

173 :
河童虫殿
「遠」が「昔」を示すものなら、遠絶はどういう意味になるのかね。
昔絶交かね。さっぱり意味が通らないがね。
其餘旁国遠絶不可得詳 
これは「自女王國以北,其戸數道里可得略載」と対になっている文章なのだ。
行程上の女王国以北の国については(実地に見て確かめたから)其戸數道里可得略載だが、
其餘旁国は遠く離れているから(実地で確認していないから)詳しいことを得ることができないと
言っているのだ。
倭人から聞くだけではそれが本当であるかどうかは分からない。魏使としては自分の目で確かめね
ば報告できない。「倭人がそう言っていました」では済まぬのである。倭人に騙されて嘘の情報を
報告すれば罰を免れないからである。このようなことで、其餘旁国についての詳しい情報を報告で
きない理由として「遠絶」(遠く離れていて行けなかった)と言い訳をしているのである。
 

174 :
>>173
いまPCからの接続が出来ない(最近2ちゃんへの接続悪すぎ)から簡単に
>>河童虫殿
「遠」が「昔」を示すものなら、遠絶はどういう意味になるのかね。

それはただの遠絶?それとも…旁國遠絶…と、文章内に投げ込まれた文字の意味?
ただの遠絶なら
私にはわかりませんが、文章に投げ込まれた意味なららば、“国交が途絶えている”と解釈し、

…可得略載を“昔から変わらない情報”とし
その対が、…不可得詳を“昔と違う新しい情報”

175 :
鯖不漁の為、age

176 :
カッパの川流れ、どこへ行くやら消えるやら。

177 :
「方可四百“餘”里」
「其“餘”旁國」

方可四百餘里の「餘」=現在の対馬北部。
其餘旁國の「餘」=現在の山口県。

178 :
「南北市糴」
北=現在の福岡県
南=現在の熊本県。

179 :
「南北市糴」
壱岐と対馬の話じゃなかった?

180 :
「次有斯馬國……次有烏奴國」二十の諸国
これは現在の周防灘沿岸から響灘沿岸を経て、福岡市の手前迄。
ここが公孫統治時代に失った「其餘旁國」に対する防衛警戒ライン。

181 :
>>179
壱岐と対馬は自活することが困難なため、その糧を本土(九州島)の南北(熊本県や福岡県)にその糧を求めた。

182 :
変な解釈だなあ

183 :
壱岐は女王國以北のの中心國で
あまちゃんの國
海國=天國=一大國=一國=壹國→呼称すりかえで壱岐
↑↓
對海國=海國とペア→対馬

184 :
>>182
全然変じゃないよ。
「南北〇〇」に、対馬から南北、壱岐から南北なんて使い方はないから
あくまでも〇〇の南北。
南北アメリカなら、アメリカの南北
南北市糴なら市糴する地の南北。

まさか対馬で市糴なんて有り得ないだろ。自活出来ないんだから

185 :
>>184
南北市糴
私は壱岐対馬が、北の半島や南の九州と交易した、
と見ていますが、
あなたのように南北が福岡と熊本、と解釈している例がありますか?
鹿児島は入っていないのですか?

186 :
三十もあるのに、確定できる場所が一つもないのかよ

187 :
>>185
鹿児島は狗奴の国、余剰生産を期待出来ない追い詰められた地。
鹿児島なんて島津支配になってから何とか自立できた土地柄なんだし。

北の半島や南の九州が対象では
南北市糴にはならない。

188 :
>>180
違うよ
下関(斯馬の関)から櫛ケ浜(郡支國)、呉(呼邑)、岡山(鬼國=鬼ヶ島)、播磨(巴利國)、紀伊(支惟國)、安濃津(烏奴國)etc
瀬戸内海北岸を通って紀伊半島を回ってその先が邪馬台国

189 :
乗船南北市糴
こんな簡単な文さえ理解できないとは
漢文が読める読めないの話じゃないな
呆れた

190 :
河童は昔から適当に思いつきを言ってるだけで
レスするやつはまんまとのせられてるだけ

191 :
河童のゴミレスはクズ篭へポイ。

192 :
>>188
根拠も何も無いゴミクズ比定。ゴミ箱へポイ。

193 :
辞書をひいては、自己流に書き写すだけのお馬鹿レスしかできないのが、河童の特徴。

194 :
河童は、今朝書いたレスをもう忘れてる、
昼書いたレスももう忘れてる
さっき書いたレスさえ思い出せない

195 :
専ブラ掛けてあぼーんしない皆さんって、なんだかんだと言いながら河童さんのファンなんですね。

196 :
九州説どうしの話なんて十年一日の如しだからな

197 :
>>192
悪いね、俺は演繹法なんだ
他の仮定だと直ぐに矛盾が具現化するけど、この仮定だと恐ろしいほど巧くピースが填まっていくんよ
否定したいのなら矛盾点を指摘してくれ
演繹法ってのは矛盾があれば破綻するものだから

198 :
300年
人々惑わす
2000文字

199 :
人々を
惑わし続け
1700年

200 :
水行二十日、水行十日陸行一月
今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、
五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。
悉可以示汝國中人,使知國家哀汝 (これらの下賜品を)汝の国中の人々に示し、魏が汝を大切に思っていることを知らしめよ。
とある。魏使梯儁ら(難升米らを同道していたと考えられる)は詔書の内容を知っており、邪馬台国の卑弥呼のもとへ行く途中、要所の豪族集落を
食事や宿泊を兼ねて巡りながら魏帝が卑弥呼を親魏倭王に任じ、立派な下賜品を与え、後ろ盾となることを人々に伝えたと考えられる。中でも五万
戸と七万戸の大国である投馬国と邪馬台国ではそのために多くの日数を要したのであろう。特に邪馬台国では倭側による歓迎行事などの外交儀礼等
もあり、40日を要したのであろう。もちろん、この間に国情調査も行ったであろう。

201 :
魏ってのがまちがいなんだけどなw

202 :
>>200
歓迎行事だの外交儀礼だの行程記事どこにも書いてないのに勝手に捏造追加すれば何でもありになる
こういう捏造が問題ないと思い込んでる思考回路がもはや尋常ではない
しかもこの捏造解釈をここ数日間で何度も繰り返し書いてるってことは正真正銘の思考異常者だな

203 :
>>200
同意見だ。
水行二十日、水行十日陸行一月で千三百里しか進んでいないのだから
それ以外の解釈はない。
伊都國放射状にしても同じ。
狗邪韓國〜末盧國三千里の半分にも満たない距離で
水行十日陸行一月もの日数が進むだけに必要な訳がない。
また
其餘旁國遠絶不可得詳から
戸数道里略載した国以外には国が無かったのであるが
水行十日陸行一月が所要日数だとしたらその間に国が無いとは考えられない。
なお
其會同坐起父子男女無別人性嗜酒
は勅使を歓迎して毎日宴会が催された様子なのかもしれない。
>後ろ盾となることを人々に伝えたと考えられる。
ここまで同じとは驚くぽかり。
後ろ盾になると言うことは政情は安定していなかった事を意味する。
つまり
邪馬台国には大和朝廷のような強大な勢力はなかったのである。

なお
言うまでもないことだが
>>200氏と珍獣(ちんじゅ う)は別人である。

204 :
>>202
所要日数でないと困るのは畿内説と南九州説。

205 :
困る困らないの話じゃないだろ

206 :
>>200>>203
捏造したおかげで辻褄が合いました
どうだ凄いだろうと自慢してるのと同じ

207 :
所要日数とも所要日数で無いとも書いてないな。

208 :
>>207
頭大丈夫か

209 :
合理的な推理は捏造とは言わない。
それに
其餘旁國遠絶不可得詳は
水行陸行が所要日数ではないと言っているのと同じ。

210 :
倭人伝の距離と日数を1/6するだけで、全てのつじつまが合う。
もっとも根拠は倭人伝、隋書、周髀算経くらいしかないが。

211 :
>>205
でも、困るんだろ?

212 :
困らんわ

213 :
>>212
うそだろ?

214 :
>>209
所要日数である、ない、を繰り返しているけど、どうであれ「所要日数」にはちがいない。
問題は、それぞれどこからどこまでの所要日数(旅行日数)かだ。
郡からの「旅行所要日数」か、
それとも各国の歓迎行事で飲んで寝ていた「接待所要日数」か区別して書いてくれ。

215 :
「乘船」
文中に乗船と書いてあれば、船に乗るなんて解釈するのは小学生の作文。
大人は乗船と書いてあれば、陸でも水域でも移動可能だが、水域を選択している事を読む。
これは州胡の韓中移動も同じ解釈

216 :
>>214
>郡からの「旅行所要日数」か、
問題外。
第一
倭人在帯方東南と
東南にあると認識しているのだから
南至投馬國
南至邪馬台國は
郡からの可能性は無い。

217 :
>>216
他人の論の是非は取りざたしなくてよろしい
珍獣自身は、其々どこからどこまでの間の接待日数を言っているのかと聞いているのだ
肝心のそのことがさっぱり書いてないので、自分自身は良くわかっていても、考えの違う他人は判断しにくいのだ

218 :
水行陸行で合計2ヶ月も費やしたのだからそれなりの距離だったと考えるのが妥当
残りの1300里を所謂短里で考えているからちんたらちんたら移動したとしないと辻褄が合わないんだろうけどね

219 :
水行20日の接待か
今日は屋形船、明日は鵜飼船、明後日は牡蠣船、その次は鯛網船、身が持たぬのう

220 :
頭悪そうなスレだなw

221 :
連続式なら、水行二十日し投馬国、更に水行十日と陸行一月
投馬国の海岸の村の一つに寄って補給休息しただけで、
また出港したということだろう。

222 :
接待してたから日数がかかったとかアホのこじつけ
小学生の言い訳かよ

223 :
>>222
幼稚園児にとっては小学生の言葉は理解不能だろう。
おまえはものを知らないだけだ。

224 :
「水行二十日」は帯方郡から沿岸国の投馬國までの水行20000里。
「水行十日陸行一月」も帯方郡から内陸国の投馬國までの水行11400里陸行1000里。

225 :
>>224の書き間違い修正
「水行二十日」は帯方郡から沿岸国の投馬國までの水行20000里。
「水行十日陸行一月」も帯方郡から内陸国の邪馬壹國までの水行11400里陸行1000里。

226 :
@帯方郡〜狗邪韓國::循海岸水行で7日、7000余里
A狗邪韓國〜對海國(厳原)::渡海(海行)と循海岸水行で1日、1000里+800里
B對海國(厳原)〜一大國(原の辻)::渡海(海行)と循海岸水行で1日、1000里+600里
C一大國(原の辻)〜末蘆國::渡海(海行)と循海岸水行で1日、1000里
@+A+B+C=水行十日=11400里
(1日=24時間 日の出から日の出までの時間)

末蘆國〜邪馬壹國::陸行1月≧1000里
陸行1月=海行1月≒1000里
(1月=24時間50分 月の出から月の出までの時間)

(1)帯方郡〜一大國(原の辻)::水行で9日、10400里
(2)一大國(原の辻)〜九州西岸経由〜投馬國(有明海西岸)::水行11日、10400+11000里
(1)+(2)=水行二十日≧20400里

227 :
渡海について
〜〜〜 ↕┠────┘∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃∵韓地倭人居住区∵◎狗邪韓國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃∵∵∵∵∵∵┏━■巨済島南岸(狗邪韓國)〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃∵∵∵∵┏━┛┌@⇒⇒⇒A→┐ 始度一海千餘里〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃土末┏━┛┌↔┘〜⇖ 〜〜┏┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
珍島■ ↕△━━┛ ┌↔┘〜〜渡海⇖〜┃┃↓循海岸水行八百餘里〜〜〜〜
乍東点●↔↔↔↔┘〜〜〜〜〜〜〜⇖┃┃◎B厳原 對海國方可四百餘里〜
〜〜〜水行七千餘里〜〜〜〜〜〜〜●┗┛⇓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜(水行七日)〜〜〜〜〜〜〜 ⇑〜〜 ⇘ 南渡瀚海千餘里〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜渡海 ⇑〜〜〜C→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└⇐⇐●┏┓↓循海岸水行六百里〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜一大國方可三百里↑┃◎D原の辻〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↑┗┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜循海岸水行└←←●⇔⇔┐〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ↕〜〜 ⇕ 又渡一海千餘里〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜名護屋浦○━┓ ⇕ 〜〜┏┛∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃ ⇕〜┏┛∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗ ⇕━┛∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵E◎古松浦湖岸(末蘆國)∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵(末蘆浦=松浦)∵∵∵∵∵

228 :
>>223
畿内とか九州南部に邪馬台国を誘致したいだけだよ。
なんとしても誤魔化すつもりだから、相手にするだけ無駄。

229 :
>>227
誤:投馬國(有明海西岸)
正:投馬國(有明海東岸)

230 :
正:とんま國(九州説お彼岸)

231 :
水行二十日」「水行十日陸行一月」を距離に換算する莫迦がいる。
条件次第で変わる日数を距離表示に使うようなトンマなことを陳寿はしない。
三国志の中から距離を示すために里数でなく日数を用いた例があるなら示してみることだ。

232 :
「三国志の中から」って、そんな「遠絶」な国の話題、ほかにないし。

233 :
わざと違う場所へ誘導しようとしてるのか。
唐津末盧国に上陸して、 東南陸行五百里、佐賀平野の伊都国に達してしまうと、
畿内説も博多説も手の打ちようが無くなるからなww

234 :
外洋船は雨が降ったらどぶのように濁る川筋なんかには入ってきたりしないんだろな。

235 :
そりゃ瀬戸内を悠々と進んで、大阪湾の入り口で下船するでしょう。

236 :
>>233
邪馬台国畿内説も邪馬台国博多説もありえない。
畿内国が始めは3世紀崇神から。神武9代は田舎零細豪族。
博多は空白の3世紀。

237 :
だよな。
当時の先進地域は近江と濃尾平野
だから前方後方墳が生まれた

238 :
>>237
先進的なものは、何があるの?
おしぇ〜て

239 :
>>238
金属器渡来以前の先進的なもの=絵画土器

240 :
もう逃亡かよ、つまんねーな

241 :
>>231
だからといって水行だけで二十日プラス十日あるんだぜ
船上で延々接待してたと思う?

242 :
そんな細かい事を気にしていたら何処にも辿り着かない
多少の矛盾には目を瞑る懐の深さが必要

243 :
苦しまぎれに接待説まで考え出したんかよ
糞笑ったわ

244 :
距離の計測を間違える事はあっても日数を数え間違える事はまずない
水行陸行の日数はほぼ実数だろう

245 :
距離表記については対馬〜壱岐島を千里(約430km)としている様に全くあてにならない
錯誤か誇張としか考えられない

246 :
郡から倭の本島まで何が何でも1万里にしたい政治的理由があったんだろう。
それで海峡を3回渡っているから1回千里にしただけ。

247 :
東夷の里を知らぬ阿呆の戯れ言か

248 :
@帯方郡〜狗邪韓國::循海岸水行で7日、7000余里
A狗邪韓國〜對海國(厳原)::渡海(海行)と循海岸水行で1日、1000里+800里
B對海國(厳原)〜一大國(原の辻)::渡海(海行)と循海岸水行で1日、1000里+600里
C一大國(原の辻)〜末蘆國::渡海(海行)と循海岸水行で1日、1000里
帯方郡〜末蘆國
@+A+B+C=水行十日=11400里
(1日=24時間 日の出から日の出までの時間)

末蘆國〜邪馬壹國
陸行1月=海行1月≒1000里
(1月=24時間50分 月の出から月の出までの時間)
末蘆國〜邪馬壹國::陸行1月≧1000里
帯方郡〜邪馬壹國(不彌國の南の内陸国)
水行十日陸行1月≧11400里+1000里=12400里

(1)帯方郡〜一大國(原の辻)::水行で9日、10400里
(2)一大國(原の辻)〜九州西岸経由〜投馬國(有明海東岸)::水行11日、11000里
帯方郡〜投馬國(不彌國の南の沿岸国・有明海東岸)
(1)+(2)=水行二十日≧20400里

249 :
妄想の垂れ流しも大概にしましょう
対話する気はないのかな

250 :
渡海の往路復路
〜〜〜 ↕┠────┘∵∵∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃∵韓地倭人居住区∵◎狗邪韓國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃∵∵∵∵∵∵┏━■巨済島南岸(狗邪韓國)〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃∵∵∵∵┏━┛┌@⇒⇒⇒A→┐ 始度一海千餘里〜〜〜〜〜
〜〜〜 ↕┃土末┏━┛┌↔┘〜⇖ 〜〜┏┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
珍島■ ↕△━━┛ ┌↔┘〜〜渡海⇖〜┃┃↓循海岸水行八百餘里〜〜〜〜
乍東点●↔↔↔↔┘〜〜〜〜〜〜〜⇖┃◎B厳原 對海國方可四百餘里〜
〜〜〜水行七千餘里〜〜〜〜〜〜〜●┗┛⇓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜(水行七日)〜〜〜〜〜〜〜 ⇑〜〜 ⇘ 南渡瀚海千餘里〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜渡海 ⇑〜〜〜C→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└⇐⇐●┏┓↓循海岸水行六百里〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜一大國方可三百里↑┃◎D原の辻〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↑┗┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜循海岸水行└←←●⇔⇔┐〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ⇕ 又渡一海千餘里〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓ ⇕ 〜〜┏┛∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃ ⇕〜┏┛∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┗ ⇕━┛∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵E◎古松浦湖岸(末蘆國)∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵(末蘆浦=松浦)∵∵∵∵∵

251 :
The独り善がり

252 :
ゴン太か・・・

253 :
何を言われても全く返事せず
ひたすら驚異的な大量マルチ投稿を続けて
Yahoo掲示板の邪馬台国トピを潰した男だ

254 :
>>247
そんなもん都市伝説だよ

255 :
ゴン太は知りませんが>>250の旧ハンは九州王朝大好き氏です。

256 :
『魏志倭人伝)』の行程
魏使は対馬厳原と壱岐原の辻に寄港した。
◎. 帯方郡庁 【 基点 】
↓ . ( 七千餘里 ) 韓西岸南岸循海岸水行(水行7日)
↓ .   701km(100m/里)  船速5km/h(潮流) 140h=7days×20h/day 潮流速度の影響±0km/h
◎. 狗邪韓國 倭人居住地 巨済島南端海岸【計7,000里】 【計 水行7日】
↓ . ( 千餘里 ) 度海(渡海) (幅千餘里の海を渡る)(水行0.5日)
↓ . 77km(77m/里)  船速10km/h(順海流航行) 8h/half a day 海流速度の影響+5km/h
@. 對馬國 北西端海岸 【 計8,000里 】 【計 水行7.5日】
↓ . ( 八百餘里 ) 対馬東岸循海岸水行(水行0.5日)
↓ . 60km(75m/里) 船速7km/h(順潮流航行) 8h/half a day 潮流速度の影響+2km/h
A. 對馬國 南東海岸(厳原) 【 計8,800里 】 【計 水行8.0日】
↓ . ( 千餘里 ) 渡海 (幅千餘里の海を渡る)(水行0.5日)
↓ . 62km(62m/里)  船速8km/h(順海流航行) 8h/half a day 海流速度の影響+3km/h
B.一大國 壱岐北西端海岸【 計9,800里 】 【計 水行8.5日】
↓ . ( 六百里 ) 壱岐循海岸水行 (水行0.5日)
↓ .  33km(55m/里) 船速5km/h(潮流) 8h/half a day 潮流速度の影響±0km/h
C.一大國 壱岐南東海岸(原の辻)【 計10,400里 】 【計 水行9.0日】
↓ . ( 千餘里 ) 渡海 (幅千餘里の海を渡る) (水行1.0日)
↓ . 54km(54m/里) 船速4hm/h(潮流) 14h/a day 潮流速度の影響−1km/h
D. 末盧國 唐津古松浦湾中原遺跡【 計11,400里 】【 計 水行10日 】 

257 :
続き
D. 末盧國 唐津古松浦湾中原遺跡【 計11,400里 】【 計 水行10日 】 
↓ . ( 五百里 ) 陸行 43km(86m/里) (陸行500/1000月=陸行0.5月)
E.伊都國 佐賀大和町惣座遺跡【 計11,900里 】【 計 水行十日陸行0.5月 】 
↓ .  ⇘(百里)F. 奴國 佐賀城【計 12,000里 】 9km(90m/里)
↓ . ( 百里 ) 陸行 10km(100m/里) (陸行100/1000月=陸行0.1月)
G.不彌國 吉野ヶ里遺跡【計 12,000里 】 【 計 水行10日陸行0.6月 】  
↓ .  ⇘H. 卑弥呼の都 久留米 ( 二百里 ) 陸行 15km
↓ . ( 四百里 ) 陸行 22km(55m/里) (陸行400/1000月=陸行0.4月)
I.邪馬壹國 八女【計 12,400里】【計水行十日陸行一月(陸行千里)】 
⇘K. 狗奴國 菊池川流域 周旋五千里(対馬〜熊本平野)
D. 末盧國 唐津古松浦湾中原遺跡
↓ . ( 水行十日 ) 末蘆國→平戸瀬戸→天草灘→早崎瀬戸→島原湾→有明海→投馬國
J. 投馬國 瀬高【 計水行二十日 】⇒ K.狗奴國 菊池川流域  周旋五千里(対馬〜熊本平野)

258 :
なるふぉど、大和田直木説もなかなかいいセン行くようになった

L あと少しで邪馬壹王朝

259 :
そういえば、こういう地名もあったぞ
八女市のすぐ隣、筑後市 山ノ井(邪馬壹)

260 :
>>259
数分の所に俺の母校があるが残念ながらそこは邪馬台国ではない。
投馬國だ。

261 :
結局語呂合わせかw

262 :
ゴン太のコロニーじゃ、ここも時間の問題。

263 :
>>259
>>260
筑後市山ノ井は台地と低地の境界付近であるから、
邪馬台国と投馬國のどちらの地域だったのか推定し難い。
投馬國が水運交通の国であることから、
筑後市山ノ井は、水運交通の地域と考えるのは少し苦しいから、
邪馬台国の地域と思う。
JR羽犬塚駅の西側と山ノ井の南側は投馬國の地域だったと考えられる。
投馬國からみて「山ノ井」は「邪馬壹」の地域と考えてもおかしくない。
君の母校である八女高校の位置は、「山ノ井」が「邪馬壹」なら投馬國の地域であろう。

264 :
>>262
ゴン太のコテは誰?

265 :
邪馬台国の場所が特定出来て良かったねぇ
あとは発掘するだけですな

266 :
>>241
毎日接待はあっただろうが、それは船上に於いてではなく陸上の豪族集落に於いてだ。
魏使の一行は小人数じゃない。用心して警護の兵も引き連れているし、倭側の案内や警護の兵も従っている。
少なくとも百人は下らない。そういう大人数が倭船に分乗して集落から集落へと移動するのだ。
しかも、有明海やそれに注ぐ河川の航行には制限がある。大雨や暴風の日は航行出来ないのは言うまでもないが、
遠浅の有明海沿岸では満潮時には島となる弥生集落が多いのでこれらの集落を巡れば1日に1カ所しか行けないの
だ。干潮時には干潟となるので航行は満潮時の数時間に限られるのだ。河川も同様で、干潮時には水位が低いので
これも満潮時の数時間の航行になる。こういうことで二ヶ月を要したのだ。

267 :
どっちにしても二か月というのは接待日数か、うらやましいのう

268 :
隋の使者とか朝鮮通信使とかの日程を調べれば
だいたい納得がいくだろう。

269 :
裴世清とかね

270 :
>>267
下種の勘ぐりだが
倭では一般庶民ですら2〜3人の妻がいるほど女が多かったんだぞ。
女が溢れかえっていたんだぞ。
後は言わなくても判るな?

271 :
専業妻でなくてパートタイムの妻だろ
へえあんじだいなんかにもそおゆうのあったしね。

272 :
>>270
人口比がおかしいだろ
古代の日本は男の2、3倍女が生まれていたのか?
日本の古代は多夫多妻
一人で複数の妻を持つ男もいれば
一人で複数の夫を持つ女もいた

273 :
>>272
>一人で複数の夫を持つ女もいた
そんな訳はない。
どこからそんなアホな発想が出てくるのだ?
倭国大乱だよ倭国大乱。
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
このときですら
千余人が殺されている。

274 :
>>273
>一人で複数の夫を持つ女もいた
奈良時代の戸籍だったかな?
妻一人で夫複数とかあったみたいだよ。
倭国大乱だったら、非戦闘要員の女子供も一緒に殺されるよね。
別に男だけが千余人殺されたと書いてないじゃん。
しかも、子供は15年ほどたてば生殖できるようになるため、
倭国大乱の影響なんてごくわずか。
第二次世界大戦で日本人は310万人死んだけど、
その後長らく男が日本から存在しなくなりわずかに生き残った男に女が殺到して
一夫多妻になったとかないし。

275 :
>倭国大乱だったら、非戦闘要員の女子供も一緒に殺されるよね。
極悪人!!

276 :
戦争に負けた側の女子供は奴隷だろ
降伏した奴も奴隷

277 :
また始まったよ
こいつ何度目だ?

278 :
>>266
そういう日々を「水行二十日」などと表現すると思う?

279 :
それは合理的な範囲内じゃないかな。魏の使者としてどの程度の日数を覚悟すべきかだ。

280 :
とてもじゃないが合理的とは思えんよ

281 :
>>278
地理記述だから接待や宿泊や食事や外交儀礼などは書けないのだ。行程記事の最後の「自郡至女王国万二千豫里」
と不彌国までの各行程距離の合計1万七百余里から、邪馬台国までは不彌国から千三百里であることは容易に分か
る。この千三百里の行程手段として水行と陸行があり、日数は梯儁らの日誌から採られたものだろう。

282 :
今の中国人を見て判断する限り、
昔の中国人も経路を長く報告して出張経費水増し、余った時間に接待の強要とかは普通にやってそう

283 :
万二千里で着くのは女王国。邪馬台国ではないね。

284 :
>>282
帯方郡から狗邪韓国に到ること七千余里・・・
これだけでバレてると思うが

285 :
わずか1300里に60日かけたと考えるのかどうか、
もしそうなら、末盧國から伊都國までの五百里にも二十日ほどかかったことになる、
酒樽数百本、酌婦も数百人、
邪馬台国までにはさらに其の二倍半ほどいるので、ご馳走役は自己破産。いささか不自然。

286 :
まだ接待とか言ってるのか
こいつらにはもうあきれるわ
勝手に思い込んでろ

287 :
察するに
余ほど接待攻めに合いたいんだろうなww

288 :
>>286
ここはキ印のコロニー、早くここから退散した方がいい。

289 :
>>278
>そういう日々を「水行二十日」などと表現すると思う?
魏志倭人伝を研究している中国人学者によれば表現するらしいよ。
それだけでなく
風待ち雨待ち休息などで移動しなかった日数までも含まれるそうだ。

290 :
>>286
水行二十日、
水行十日陸行一月はどこからどこまで
何qくらいですか?

291 :
たまにいい議論があるので覗いているが
このところは酷いな
常駐してるヤツらが飽きて出て行くまで待つしかないか

292 :
>>290
東西五月行で九州から関東までだから、その半分弱だな

293 :
>>289
俺の知ってる中国人の倭人伝研究者によるとそういう表現はしないそうだよ

294 :
倭人研究者じゃ駄目だろう。中国人の表現方法だからな。

295 :
中国社会科学院日本研究所 中国北京市東城区張自忠路3号
「邪馬台国の位置めぐる諸問題  高洪 副所長」
PDF
http://ijs.cass.cn/japanese/uploadfile/2010/0119/20100119052833879.pdf

296 :
中国人もそんな表現はしまへん

297 :
1300里を60日なら、
郡から邪馬台国まで12000里は、1年半かかる勘定になる
魏王朝の誰しも、そんな超スローペースを納得するわけもない、常識外れのカキクケコ。

298 :
「東西五月行」は、對馬から大隅までの400km。
「南北三月行」は、平戸島から豊後水道までの240km。

「南海行三月」は、辺山半島から済州島までの240km。

299 :
>>292
計算あわないぞw
水行は30日しか無い、陸行一月は水行の十日分くらいだろう
>>293
十日と言ったのは
倭人で
日数は休みの日も含む、だいたい何日で着くかだからな

300 :
河童の復帰で少しはスレの中身が変わると思ったんだが

301 :
>「東西五月行」は、對馬から大隅までの400km。
方角が分かってないようだ。それに大隅で切る理由もない。その先には種子島、
屋久島がある。

302 :
>>292
じゃ邪馬台国は畿内ですか?
でも
方角は違うし伊都國から千五百里では畿内までは行けないのでは?

303 :
>>299
接待の日も含むの?

304 :
>>299
>計算あわないぞw
>水行は30日しか無い、陸行一月は水行の十日分くらいだろう
粗探しのつもりのようだがさっぱり意味がわからん

305 :
>>303
含まない
>>304
半分とした計算根拠を出してね

306 :
つうか畿内説は無視して九州内で候補地をしぼればいいのに

307 :
「東西五月行」は、對馬から大隅までの400km。
「南北三月行」は、平戸島から豊後水道までの240km。
「南海行三月」は、辺山半島から済州島までの240km。
「陸行一月」は、唐津から八女までの80km。
「万二千余里」は、帯方郡から不彌國までの1040km。

308 :
最初にまず自説ありきだから他の説にゆずるということはないだろう
博多説は博多説、佐賀説、熊本説、宇佐説、南九州説その他各々が
他説を部分以上に認めることはあるまい

309 :
>>306
水行20日でどれだけ進み
水行10日陸行1月でどれだけ進んだのかだよ。

310 :
>>301
方向がまるで分かっていないのはyouだ。
「其南海行三月 有聃牟羅國 南北千餘里 東西數百里」
  (聃牟羅國=済州島)

311 :
>>301
>それに大隅で切る理由もない。
>その先には種子島、屋久島がある。
隋書によれば、種子島、屋久島は俀國に属していない。
日本書紀でも、種子島、屋久島は薩摩、大隅に属していない。
俀國の最南端は大隅。

312 :
余裕を持って一日あたり16キロ程度。
当時は宿場が整備されているわけでもなく、明るいうちに野宿する場所を見つけて、
煮炊きする準備をするならば、一日中移動時間には使えない。
貨物トラックを随伴させた日本陸軍の一日の作戦行軍目安が25キロ
船の速度も、歩行速度程度なのと、停泊作業などで余計に時間が掛かる
可能性もあるが、歩行速度と同程度と見ている。
これを一月続ければ480キロと公里千里に近い数値である。
隋書百済伝によると、一月行は80キロ程度なので、
公里に対する短里の割合1/6と同じ。つまり短里千里である
従って、公里を1/6した短里、日数を1/6した短日という仮説が導き出せる。
この短里短日説では、水行10日+水行20日陸行1月=2月より、
日数表記部分は2千里となり、合計距離は不弥国までの10700里+2000里となり、
合計12700里である。つまり、万二千余里である。

313 :
>>312
>隋書百済伝によると、一月行は80キロ程度なので
80キロと断定した根拠は?

314 :
てか単に誇張しただけだろ

315 :
>>310 >>311
済州島は百済の南ではないと?
どの記載から種子島、屋久島は俀國に属していないと?

316 :
>>307:大和 田 直木
>「東西五月行」は、對馬から大隅までの400km。
>「南北三月行」は、平戸島から豊後水道までの240km。
>「南海行三月」は、辺山半島から済州島までの240km。
>「陸行一月」は、唐津から八女までの80km。
>「万二千余里」は、帯方郡から不彌國までの1040km。
魏志の東夷伝と隋書の東夷伝には、同じ東夷伝でも約400年の時代差がある。
400年の間には多くの国で都の位置は変わる。
国さえ変わることも少なくない。
三世紀の魏時代に九州にあった邪馬台国が、400年後の隋時代には大和に移っており、
それが「東西五月行」という記述の変化になったとしても不思議ではない、というより、むしろとうぜんであろう。
400年間を同列に扱うのはいかがなものか。

317 :
>三世紀の魏時代に九州にあった邪馬台国が、400年後の隋時代には大和に移っており
まーだこんなこと言ってるやついるのかよ
いい加減学習しろよ

318 :
>>317
十分有り得るから検討されるわけだけど。無いと言うなら論証して。

319 :
隋書が隋使が来た当時の都は倭人伝にいう邪馬台だと明記しているじゃないか。
移ってないね。

320 :
隋書は邪靡堆、魏志は邪馬臺
隋の使者は九州から東に向かったと明記、南と書いてない
これは明らかに畿内の大和朝廷
行程も数ヶ月掛かった
途中の様子も着いてからの様子も書いてある
この時の倭王は隋の使者の儀礼を拒否したが
邪馬台国の直系ならこれは無い

321 :
400年間を同列に扱うのはいかがなものか。 (笑

322 :
>隋書は邪靡堆、魏志は邪馬臺
しかし、 隋書は邪靡堆=邪馬臺と明記している。
>九州から東に向かったと明記、南と書いてない
海岸に出るまでだ。周防灘に出て船に乗ったということだろう。
> 行程も数ヶ月掛かった
そんなこと書いてあったか? 海岸に出て後十日だったと思うが。
>倭王は隋の使者の儀礼を拒否したが
そんな話あったかな?

323 :
>>319
隋書が隋使が来た当時の都は倭人伝にいう邪馬台だと明記しているじゃないか。
>>322
隋書は邪靡堆=邪馬臺と明記している。
それは表面的な読みだ
隋書東夷伝は、微妙な書き方を採用している
「邪靡堆は魏志の邪馬臺なる者也」、
この「者(シャ)」の意味は、国(国家領土・都の場所)のことでなく、権力をにぎった人間集団を指している
例えば、江戸時代における「京の公家たち」という云い方に相当する
明治維新の後、京の公家たちはどうしたか(多くは江戸=東京へ移った)
それを考えれば、「邪靡堆と邪馬臺」の関係は理解できるであろう

324 :
土地の話してるの明らかなんだけど
インチキ読みで誤魔化すしかない九州説あわれ

325 :
>>323は九州説か?
>「者(シャ)」の意味は、国(国家領土・都の場所)のことでなく、権力をにぎった人間集団を指している
いきなり人の話になるわけがないわな。
「邪靡堆は魏志にいうところの邪馬臺のことなり。」と読むんだろうな。
「者」を辞書で調べてみな。それが1番すっきりする読み方だ。

326 :
字源【者】
<金文を模写 象形:「煮」の原字。
>時代が下り主語を示す助辞となった(藤堂)。
>後に「諸」(人々)の意となる(白川)。
現代日本語は土地も人間も「もの」といって区別しない傾向にある、だから、
 邪馬臺国 = 土地 = 物 = もの = 者 = 人間集団= 邪馬臺者
となって結局、邪馬臺国 = 邪馬臺者 と両者を混合・混同してしまう、これは良いことではない。(文科省の責任重大だ)
もし隋書が土地の話をしたかったのなら「邪馬臺国也」と書いたであろう
しかし「邪馬臺者也」と書いてあるからには、明白に人間集団(人々)のことである

327 :
>>323
>この「者(シャ)」の意味は、国(国家領土・都の場所)のことでなく、権力をにぎった人間集団を指している
拠点を移った直後なら自分たちの出身を言うのは可能かもしれないが、
仮に東遷説を採用してもこの時点で300年以上経過している
無理な解釈だ
者はあくまで強調
隋の時代の発音で場所の邪靡堆=魏の時代の発音で場所の邪馬臺

328 :
>>324
詐欺、インチキ読み,誤魔化しは畿内説の専売特許だろ?

329 :
>>327
>仮に東遷説を採用してもこの時点で300年以上経過している
意味不明瞭だ、東遷して昔の名前に良く似た「邪靡堆」を名乗って300年経過してもおかしくない
畿内論者によれば、いまでも大和だ、というくらいだからな
>隋の時代の発音で場所の邪靡堆=魏の時代の発音で場所の邪馬臺
この部分は、場所の邪馬臺(場所)=邪馬臺者(者)、すなわち、場所=者(=人々)
となるので、明らかに矛盾しておる
とうぜんだが、「者」を「もの」と読むのは訓読み、漢音でシャと読めば「物」とは縁もゆかりもない

330 :
九州説は漢文読めない衆の戯れ言

331 :
>>297
>1300里を60日なら、
>郡から邪馬台国まで12000里は、1年半かかる勘定になる
>魏王朝の誰しも、そんな超スローペースを納得するわけもない、常識外れのカキクケコ。
おまえは規格外のアホだな。魏の使者になったとして考えてみろ。
郡から狗邪韓国までの道中は倭の地じゃないから接待も外交儀礼による逗留もない。出来るだけ急行する。
狗邪韓国から末盧国までの渡海は各1日航行だ。風待ちなどでの逗留はあり得るが、それほど多くの日数は
かけない。末盧国から伊都国までは伊都国滞在を含めて1週間程度だ。
不彌国から邪馬台国までの千三百里は五万戸と七万戸の大国である投馬国と邪馬台国であるから特に日数を
かけたのだ。

332 :
>>330
まあ、九州説者の中にも漢文を読めない輩はいるが、畿内説者や四国説者が漢文を読めないことは明白だな。

333 :
いつもいつでも何ひとつ
証拠を出さないのが九州説の特長

334 :
畿内説は、共同謀議による詐欺だから、他の説とは全く異質。
利権と外圧で国民を食い物にした原発推進派と、畿内説はよく似ている。

335 :
畿内説がいう証拠とやらは、まったく価値がないね。古墳が大きいとか鏡が畿内中心でばらまかれて
いるとか、どうでもいい話だ。
価値ある証拠というのは、倭人伝が書く行程と合っていること、倭人伝が書く女王国の状況とあった
風土、状況が認められることだよ。

336 :
証拠もなく詐欺!詐欺!詐欺!詐欺!とわめくのは
負け組の証明

337 :
漢文なんちゃらいう前に、漢字を読めない畿内信者
もとはといえば、小中学校の国語の先生が良くなかったんだろな、「者」はシャと読みましょうね。

338 :
漢字なら河童先生に頭下げて「教えろ下さい。」だな

339 :
>>337を読んではっきり判ることは「九州説の人はあたまが悪い」だな

340 :
前者後者の「者」も人物だと言い張りかねないね。

341 :
そうだな。古田式こじつけというやつだろう。

342 :
用例[者]
(助詞)「仁者人也」(中庸)
(強調)「王者」
人でない「物」に対して前者後者は日本製の邪道

343 :
△鏡詐欺、箸墓詐欺、年輪詐欺、桃の種詐欺、鯖の骨詐欺
これ、ぜ〜んぶ畿内説詐欺。
マスコミ・学者・商売人等がグルとなった、共同謀議詐欺。

344 :
九州信者発狂中

345 :
「者」を人と解すると、邪靡堆(土地)=邪馬臺者(人)という事になり全く意味が通らない

346 :
>333
と、低脳詐欺集団誤魔化し教のゲスが申しております。

347 :
>>315
>>310 >>311
>済州島は百済の南ではないと?
「其南海行三月 有聃牟羅國 南北千餘里 東西數百里」(聃牟羅國=済州島)
@済州島は百済の南方向で海行三月(240km)にあると書いてある。
A済州島の形は、東西距離千餘里(80km)で南北距離数百里(40km)と書かれているのだ。
  君>>315は「東西」と「南北」の意味を逆に捉えているのだよ。
「聃牟羅國 南北千餘里 東西數百里」は、
「聃牟羅國(境線長)南北千餘里 (聃牟羅國境線長)東西數百里」の意味だよ。
( )部分が省略されている。
同様に
「其國境東西五月行、南北三月行」は、
「其國境(線長)東西五月行、(其國境線長)南北三月行」の()部分の省略である。

348 :
聃牟羅國は一つの島だ。国境線はない。

349 :
国境線は領域範囲線
領域には海域を含む。
一大國の方可三百里も海域(=領域)の大きさ。

350 :
http://aomori.ramendb.supleks.jp/u/13822/review?s1=1&s2=2&order=published
ホンマでっか

351 :
旧石器捏造の記録を読んでいて妙に思ったことがあった。
藤村新一の捏造石器は、東大やその近くの学者の説を裏付けるように
出土したとなっている。ところが、それに対する反対意見が出たときに、
恫喝して抑えていたのが、京大出身の佐原眞氏とか。
あれ、東大と京大は犬猿の仲じゃなかったのか。
京大が東大を擁護するというのは、邪馬台国論争を知っていればやはり
妙な感じがする。
ひょっとしたら、馴れ合いがあるんじゃなかろうか。
東大の説が怪しくても、捏造気味でも、私たちは支持しますよ。
だから、こちらの時もよろしくお願いしますね。
なんて、恩を売ったりしていたと思うのは勘繰りすぎか。

352 :
むろんゲスのそれ

353 :
どんな手を使ってでも考古学者の口を塞がないと九州説は終わりだ
というあせりが滲み出ていますね。

354 :
>>342
日本製ではないし、邪道でもない。「中庸」から具体例を二つほど。
道也者。不可須臾離也。
道なる者は須臾も離るべからざるなり。
中也者 。天下之大本也。和也者 。天下之達道也。致中和。天地位焉。萬物育焉。
中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。
中和を致せば、天地位し、万物育す。
「者」が人ではない「道」や「中」や「和」という「概念」に用いられているのは明らか。
「国」という抽象概念に用いられるのは、ごく普通のこと。
他にも、場所を指したり、物を指したり、「者」はいろいろに使う。

355 :
『者』を人物限定で使うなんて、現代日本人限定の和製解釈ですよね。

356 :
>>354
上の方で「者」に関し、物と人を混合混同して論じているので、
初歩の初歩として、者(シャ)は人に関して用いる語である・・、と分かりやすくカキコしたわけだ。
もちろん第二のステップとして追加すれば、すでに>354でご指摘の通り、
人もしくは人々の集合体が成す抽象的な行為・概念も「者」と表わされることは云うまでもない。
云いかえれば、国家の場合には、其の組織機構というソフトに対して用いられる。
「邪馬台なる者(シャ)」とは、邪馬台国の人々が寄り集まって成した国家の組織機構を指して用いられたことは言うまでもない。
決して、国家領土の具象である山河や宮殿や道路や建築物のようなハードを指した文字ではない。
「邪馬台なる者也」の語句を以ってどこそこに国家の現物があったとは言えないのである。
仮に邪馬台国が、三世紀から引き続いて邪靡堆にあったのなら、「魏志の邪馬台国也」で用は足りるであろう。
それをわざわざ「邪馬台者也」としたことによって、過去に国ないし首都移転があったことをにおわせていると読むべきであろう。

357 :
この「者」は強調の意味で使っているんだろ
これぞまさに魏志で謂うところの邪馬臺なり
てな意味だろ

358 :
「者」は人・物・所どれにも使う。
前の句を名詞化したる、主語を強調するときに使う。
そんな漢文法の基礎も知らない無学素人が
勝手に作った自家製中国語で倭人伝を解き明かそうとする喜劇
それが九州説

359 :
邪馬台国なり、
邪馬臺なり、
この二つは意味するところが違い、
倭人伝に見る「女王国」と「女王」の使い分けに似ている。
すなわち、まさにその抽象概念を強調するため、わざわざ「・・・者也」を付けたともいえる。

360 :
「邪靡堆」には者も国も付いとらんが

361 :
あたりまえだ。
それは名詞句じゃなくて名詞そのものだから不要だもの。
「魏志いうところの邪馬台」という句だから「者」を使う。

362 :
>>360
ここを安易に「邪靡堆国」とせず、「邪靡堆」としたことで、これも抽象概念であるとの意味は十分通づる。
仮に「邪靡堆者也」とすると、つぎの「邪馬臺者也」とダブるからな。

363 :
>>362
ますます意味不明だな

364 :
無学が珍説を創る。それが九州説。

365 :
>>364
短絡した見方を得意げに語るバカ。

366 :
ここを荒しに来る畿内説者や四国説者やその他説者は皆思考能力を欠くアホだから相手をしないように!

367 :
短絡してるって証拠は?

368 :
河童さんの意見を聞きたいけど、河童さん見てたら『河童のちょっといい漢字』で
この者を解説シロ下さい。

369 :
「お前の母ちゃんでべそ」みたいなレスが多くなったな。
九州説の人は同じようなレスを返さないように。
畿内説と同じレベルと思われてしまう。

370 :
>>367
無学が珍説を創る。
これは畿内説者の特徴を見事に言い表している。しかるに、
ほんの一部の無学な九州説者の珍説を取り上げて
これが九州説。
と結論する。短絡と言わずして何と言おうぞ。

371 :
畿内説は方角(南)を無視し
距離(1200里)を無視し
風俗(南方)を無視し
つまり魏志倭人伝のほぼ全てを無視してるけど笑っちゃダメ

372 :
あ、
>距離(12,000里)だったw

373 :
>>371
視野が狭いのが九州説
倭人伝と一部中国の文献だけでしか考えることができない
視野が広いのが畿内説
記紀などの日本の文献、考古学、科学的調査の方法も含めて総合的に考えることができる

374 :
一言で言えば、史書には関係なく、邪馬台国を決めるってことだな。

375 :
>>373
畿内説は捏造考古学だけで考えているんだろう。

376 :
倭国の範囲が九州だけなのが九州説
倭国の範囲が北海道を除く日本列島全部なのが畿内説

377 :
>無学が珍説を創る。
>これは畿内説者の特徴を見事に言い表している。しかるに、
その証拠はない。

>ほんの一部の無学な九州説者の珍説を取り上げて
>これが九州説。
おまえすら認める事実。

378 :
つか九州だけで圏が閉じていることは当然ありえんだろ
弥生中期の九州の須玖式土器は西出雲、吉備、近畿、吉備、南四国などで出てるし
後期の高三潴から下大隅式土器にかけてはさらに範囲が広がって
東出雲、隠岐、越後などで出土する
これらの多くは壷型土器で、中身がこぼれにくい形状をしているため
道中の食料か交易品を入れていたものと考えられてるな
ただし倭国の範囲は九州島内だけで本州他は倭地とか東倭と考えるなら別だろうが

379 :
本州も中国と交易があったことは明らかなのに
中国人は本州の存在を知らなかったことにして、無理やり邪馬台国は九州だと強弁する
本州は倭種が住んでるらしい未知の島にしないと九州説は成り立たない

380 :
倭国の範囲が九州だけならば、今30国というのも素直に納得できる。しかし、
列島全部で30国と言われてもねえ。北九州だけで6カ国もあるんだから。

381 :
そうだよ。本州、四国は倭種の地、その先は毛人の地、畿内はおそらく毛人の地
だったろうな。隋書に書かれた時代ですら、倭に附庸する地すなわち植民地だ。

382 :
ここに畿内説論者が居ることが既に異常。

ただの寂しがり屋さん?

383 :
30国というのは卑弥呼の朝貢以来、魏と交渉をもった国という意味だろ
つまり帯方郡に使を派遣できる程度の力を持った国だな
この派遣はまとまっていった可能性が高いとは思うが
国が現在の郡程度と見れば佐賀平野だけで7つくらい
九州全土なら百近いだろ

384 :
本州の方がはるかに人口も多かったよね。
それを単に倭種の国という記述のみで納めるはずはないんじゃないかな。
楽浪郡は日本列島の情勢をかなり正確に把握していたはずだから。

385 :
このように九州さんは根拠の無いことしか言えない。

386 :
>>382
カルト信者を見かけたら、人の道に戻してあげたくなるじゃん

387 :
倭地には旧は百余国あったわけだ。しかし、魏時代には、三十国に統合され、それらは
皆魏と通交していたってことだよ。倭の地に魏と通交しない国があったわけではない。
三十国で全部。それだけだ。

388 :
>>387
統合じゃなくて、倭国大乱による分裂

389 :
>楽浪郡は日本列島の情勢をかなり正確に把握していたはずだから。
こうゆうことを言いながら、日本列島は九州を北にして南へ延びていたと思われて
いたなんて主張するのだから、笑っちゃうよ。

390 :
>>387
それはすげえトンデモというか
倭国はごく狭い範囲になるな

391 :
100-30=70
魏に70余國むりやりもぎとられたんだよ。半島のほうのも國だし。

392 :
むりやりもぎとられた70余國のもちゃんと
魏志鮮卑烏丸東夷伝に掲載されているしさ。

393 :
30国がすべて倭国だとすれば
北部九州から東部九州をのぞいて熊本あたりまでで30を超えるな
吉野ヶ里が周辺部合わせて人口五千くらいで、あれは大きいほうだ
千くらいの国もあっただろう

394 :
倭国を九州だけに限定できるのは次の場合
1.本州は広いだけでほとんど人が住んでいなかった
2.本州は文化的に劣っていて生産能力も低く取るに足らない存在だった
3.中国人が本州の大きさを過小評価していた
4.中国人は本州に住む人を倭種あるいは異民族扱いして一段低い民族とみなしていた
実際はどれでもない
中国と直接交易していたのだから、住んでいる人種や国土の広さや文化の発展度合いもわかっていたはず
よって倭国が九州だけと考えるのは九州説論者の願望にすぎない

395 :
>中国と直接交易
そんな証拠はどこにもないよ。

396 :
倭国が分裂した場合
どちらも倭国と主張すると思う
たとえば南北朝に分裂してもどちらも天皇だし日本だった
魏が接触したのは「西南倭国」なんだろう

397 :
>>395
1世紀の奴国が有るやん

398 :
(從郡)南至投馬國水行二十日 (南至は出発方向)
官曰 彌彌
副曰 彌彌那利
可五萬餘戸
五萬餘戸のは弁辰と似たサイズなるべし
一括して一國が五萬餘戸と把握するも
なかみは25國*2000戸/國=50000戸くらいのかんじ。
馬関から北東になめて能登半島あたりまでで25國
鉄器の分布から中心地は京都府京丹後あたりじゃろて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=217518434989072787959.0004d7a15506f0ac93d4a&msa=0&ll=35.366656,133.80249&spn=3.099614,4.592285

399 :
そりゃ北九州だ(通交であって交易ではないが。)。
私が書いたのは、本州が中国と交易した証拠はないということ。

400 :
九州内で納めちゃってたらおかしいよね。
出雲や大和を無視しちゃってることになる。
楽浪郡と大和は交易してたんでしょ?
当然機内の勢力についても中国人が把握していないはずはない。
それを「倭地」で済ますはずがないじゃないか。

401 :
本州からも前漢鏡は出てるし、鴨田のやつは方形周溝墓の時代に五朱銭と一緒に出てるわけで

402 :
博多湾岸に畿内系住民が多数居住していることが
判明した以上
九州説が今後
日の目を見ることは、ない。

403 :
東京に大阪人が多数移住してるから
東京は首都でない
これが畿内脳

404 :
>楽浪郡と大和は交易してたんでしょ?
そんなことも確かめないで畿内説支持かね。畿内が楽浪郡と交易していたなんて
証拠はまったくないよ。

405 :
逆だろ
九州に畿内の人間が多数派遣されてるから、畿内が首都だった可能性が高い
中国でもこの時代、制圧した土地の人間をさらに後に支配した土地の中間支配者として派遣するなんてのは普通にやってた

406 :
>今使訳通ずる所三十国
九州説のやつらにとってはこの30ヶ国が全部九州の中にあるんだとさ
本州にある国が中国と交易がなかったとどうして断言できるんだ???
ただの願望だわなw

407 :
>>405
人数の多さで言えば圧倒的に
地方→都市
都市には地方の文物が集まる
地方の土器が畿内に集まるから畿内が中心だったと主張するのに
なぜ九州に集まると逆になるんだよw

408 :
漢時?今
100国?30国
これが対応してる

409 :
>>407
都市に出稼ぎに来て、都市の物を田舎に送るってのが現在でも標準パターン

410 :
修正
都市に身一つで出稼ぎに来て、都市の物を田舎に送るってのが現在でも標準パターン

411 :
現に畿内系の人間が多数博多湾岸に住み着いちゃっているのだから
#中国が九州と『だけ』交流し、九州のこと『だけ』しか知らない
とせざるを得ない九州説は
成り立たない。

412 :
首都と地方の関係でいえば
人は地方→首都
物や文化は首都→地方
後世に遺跡として残るのはもちろん後者

413 :
つまり畿内の住人が九州に出稼ぎに来たわけですね

414 :
えっ???

415 :
九州が畿内の新しい土器を受け入れた、というだけでは
ただ、より進んだ文明を受け入れただけ、かも知れないので
九州が畿内の政治的影響下にあったとは言えませんよ。
でもね。
九州が先祖代々の供養の仕方を捨てて
畿内発の祭祀を受け入れたのだから
九州は畿内の政治的影響下のあるのです。

416 :
同じ時期に畿内にはヤマトがあり、中国地方には出雲や吉備があった
そんな状況下で九州の地方豪族を親魏倭王に任じるかよw
九州説の人は隠し通してたとでも言いたいの?

417 :
>つまり畿内の住人が九州に出稼ぎに来たわけですね
九州でなに稼げるって?

418 :
纒向遺跡は各地から進んだ土器を受け入れた

419 :
都とは、そういうもんです。

420 :
>>416
中国と使者が通じるのは30国のみ
残り70は中国にとってどうでも良かったってことだYO

421 :
>>419
あんな遺跡が都じゃないよ
縄文時代の青森の三内丸山遺跡より小さいぞ

422 :
日本では国家形成がまるで進んでないってのが九州説のよりどころか?

423 :
主に東海と近江からだろ
元々纏向には大した人口は無かったから、出稼ぎに行ったってのは有り得ない
纏向に遷都されて新興都市が建設されて、そこへ物と一緒に人が移住してきたと考えるのが常識人

424 :
>>422
畿内が九州まで統一したのは何時だよw

425 :
漢時には100国は統一されていて、九州北部も含んでた
だから漢へ使者を送ることが出来たんでないかい?

426 :
>あんな遺跡が都じゃないよ
>縄文時代の青森の三内丸山遺跡より小さいぞ

密度ってことば、知ってる?

427 :
>>425
それ出雲だろ

428 :
>畿内が九州まで統一したのは何時だよw
明治維新に決まってんじゃん。ばか?

429 :
>>427
九州は出雲に支配されてたの???

430 :
九州の一部しか支配してないお婆さんに
倭王の称号をあたえるわけがないでしょう
倭王ってのは倭人の王ってことでしょ
何が悲しくて倭人のごくごく一部しか支配してない婆さんに
そんな大それた称号をあげる必要があるんだろうか

431 :
6世紀末の敏達天皇時代ですら、ヤマトは播磨国を支配下に置いていないのだから、
3世紀に九州を支配していた、なんて笑止千万。

432 :
>>426
建物の大きさ、高さで負けてるが?
纒向遺の何の密度が高いの?

433 :
魏使が本州の存在を知らなかったなんて主張は無理がありすぎだろw
九州説のやつらも痛いところを突かれたと思ってるからこれだけ屁理屈こねくり回して言い訳してるんだろうけど

434 :
九州=倭国だからだよ。本州は問題外。たいした勢力はいなかったということさ。
卑弥呼は九州の一部を支配していたのではない。九州をほぼ統一していたんだ。

435 :
>>429
記紀によれば出雲はかつて全日本を支配していたらしい

436 :
「建物の大きさ、高さ」って何?
なんか証拠でもある?

437 :
>>433
どんだけ頭悪いんだw
本州は女王国に属さない約70国の方
九州が30国

438 :
>>436
さすが畿内説の代表ですね

439 :
纏向で卑弥呼の宮殿もみつかっちゃったのに
九州さんまだ頑張る?

440 :
おい、卑弥呼の宮殿と断言しちゃってるよー
証拠が0なのになw
さすが畿内脳は異次元だな

441 :
「九州をほぼ統一していたんだ」ってホント?
熊襲や隼人はどうしたの?
北部九州と文化圏ちがうんだけど。

442 :
一般大衆がうなずく証拠を提示し続ける畿内説
だれからも信じて貰えない言い訳を唱え続ける九州説
勝負はもう着きましたね

443 :
倭人伝にそんなこと書いてあったか? 熊襲や隼人は後世の物語。
同じ倭人だよ。

444 :
>>442
小学生は早く寝ろ
畿内説の証拠なんて0だから
纏向なんて城柵も環濠も無いから絶対に卑弥呼の宮殿では無い
こんなレベルだぞ

445 :
根本的に考古学を無視しないとやっていけない九州説に未来はない。

446 :
>纏向なんて城柵も環濠も無いから絶対に卑弥呼の宮殿では無い
>こんなレベルだぞ

九州説は倭人伝に環濠が書いてあると夢想する悲しいレベル

447 :
考古学者の斉藤忠が言ってるよ。畿内の政治支配が九州に及んでいたのならば、伊都国の地から
新型の銅鐸がでなければとね。まともな考古学者は、そう考えるんだよ。

448 :
銅鐸は九州でも出てるし、畿内の象徴である絵画土器も佐土原から出てる

449 :
>>446
城柵無いくせにw
アホだな

450 :
倭人伝で書かれている倭国とは九州+半島南部のこと

451 :
>>450
そういうアホな考え方は九州説の願望にすぎない

452 :
其(馬韓)男子時時有文身
今辰韓人皆褊頭男女近倭 亦文身
其(弁辰)瀆盧國與倭接界
從郡至倭 循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其(倭)北岸狗邪韓國
韓地にはかなりな数の倭人系の人たちが住んでいる。
(弁辰)十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ長髮
弁辰の王は種が大幅にちがっていて、さらに長髪(華人に似たり)
辰韓人は弁辰の王とはちがって倭人倭人している。
「倭接界」のは半島だし。
半島南岸のこと北岸というのはへんだし。
海峡を跨いで魏が認めた「倭」の領域が広がるわけね。

453 :
後漢書でも半島南部に有った拘邪韓国を
倭国の西北界と断言している
三国志魏書馬韓伝では韓の南は倭と接すると書いてある
明白だな
半島南部には倭人が居たけど九州出雲派なので
二つとも滅ぼした畿内勢力と敵対した
それを神功皇后が再支配した

454 :
遠絶について絶の意味が論じられてないように思う。
絶は、つながってないということ。
つまり女王の都の北は海。
これは瀬戸内海であるから邪馬台国は四国にあった。

455 :
吉野ヶ里遺跡が出た時点で、邪馬台国文化圏は九州だけだと
世界中の人が100%納得して、畿内説は完全消滅した。
ただし、畿内説詐欺師だけは、詐欺のまま残った。

456 :
吉野ヶ里遺跡の重要性は、それまで九州といえば北九州つまり玄界灘沿岸に
だけ目が向いていたのが、有明海沿岸の重要性に注目させたこと。
遺跡の規模から、玄界灘沿岸は中小企業。有明海沿岸は大企業という風に
例える人もいた。中小企業会社は小さいが社長さんは金持ちだということ。
熊本まで含めると、有明海沿岸は比較にならないほど規模が大きい。
九州の中心はむしろ有明海沿岸で、郡使もそちらに向かったのではないか、
ということになれば、邪馬台国が南という倭人伝の記述も妥当性が高くなる。

457 :
世間一般では吉野ヶ里は弥生時代の遺跡と認識されている
旅行ガイドブックにも弥生時代を再現してると書かれている
一般の人で吉野ヶ里と邪馬台国を結びつけて考える人はほとんどいない

458 :
吉野ヶ里で一番重要なのは実は銅鐸が確認された事。
早くから九州から本州西部に銅鐸文化圏が存在した事が証明されたからな。

459 :
倭は対馬からだよ。半島南部に倭はない。倭人がいたとしてもそこが倭になるわけではない。
狗邪韓国はあくまでも韓国だ。
倭の北岸は、倭の北方の半島南岸を略しただけのこと。倭と界を接すも海峡を隔てて接して
いるということ。海を隔てて接しているというのは、史書にはいくつか例もあるようだ。

460 :
>>457
邪馬台国も弥生時代。邪馬台国には古墳はない。
倭人伝には、土を盛って冢を作るが槨はないと書いてある。
>>458
吉野ヶ里の銅鐸は28cmの小型銅鐸。しかも九州で出たのはその一個だけ。
銅鐸文化圏とはいえない。むしろ、九州で発祥し、東に伝わったが、
九州ではすぐに廃れたと考えたほうが良い。

461 :
畿内説の邪馬台国は、畿内説の人の頭の中にだけある幻の邪馬台国だな。

462 :
倭国は朝鮮半島から九州南部、股がる海洋国群なのだ。
倭国王は、磐舟で日本海を往復し倭国の広い領土を行幸していた。
倭国大乱とは、領土拡大を目論んだ倭王による侵略戦争だ。
この戦いで、朝鮮諸国を属国とすると共に、瀬戸内海を制覇して倭は名実ともに大倭、つまり「大和」となったのだ。
卑弥呼の時代に都をどこにおいたかは問題ではない。
なぜなら、倭王は常に舟で行幸していたのだか。

463 :
何を下らん論争をしているのだ。このスレのテーマは九州説を深めるためのも
ので、九州説者専用だ。畿内説者は出て行け。
九州説対畿内説の論争はドン来いスレや終止符スレでやれ。畿内説のバカども、
こちらから畿内説スレに乗り込んでスレを叩きつぶしてやろうか。

464 :
銅鐸の時代は各集落が群雄していて、
強い支配関係はないんじゃないかね。
弱い関係くらいはあったとしても仲良しグループ、
ご近所グループ、みたいなもんだから、墓制も入り乱れてるし、
銅鐸も鏡も混ざってる。
そのグループの王が気に入らなければ大乱になり、
気に入ればまとまる。
祭祀の統一圧力は、銅鐸より後のことだろう。
比較的まとまって消えたらしいからね。

465 :
>>463
九州説なんて、もう世間的には通用しないような珍説を弄んで
外の人には邪魔されずにひっそりRーしたいの?

466 :
倭人伝が書く倭国の乱と銅鐸の消滅は無関係だろう。倭国の乱は九州の中のことだよ。
女王国以北の国々が一大率の検察を受けて畏憚していたというのは、以北の国々が倭国乱の
実質的敗者だからだろうな。
銅鐸の消滅は、倭人伝が書く時代よりも少し遅い時代だろう。倭国の乱で九州を統一した女王国
勢力が本州へ勢力拡大を図った、それが銅鐸を消滅させることになったとみるね。

467 :
>>431
>6世紀末の敏達天皇時代ですら、ヤマトは播磨国を支配下に置いていないのだから、
>3世紀に九州を支配していた、なんて笑止千万。
5世紀末顕宗仁賢頃には、逆にヤマトが播磨の支配下になっていた。

468 :
>5世紀末顕宗仁賢頃には、逆にヤマトが播磨の支配下になっていた。
2ch 珍説妄説 てんこ盛りw

469 :
>>463はいつもの説教ジジイだろ
荒らしがきたときはダンマリで糞の役にも立たないくせに
反対意見に対しては発言さえ封じ込めようと偉そうなこと言う最悪のジジイだよ

470 :
うん
張った虚勢が安っぽいな、余りに。

471 :
>>468
>>5世紀末顕宗仁賢頃には、逆にヤマトが播磨の支配下になっていた。
>2ch 珍説妄説 てんこ盛りw
無知満州力よ
播磨王権畿内説を知らないな!
畿内派の先輩お偉いさんのこと位すこしは学べ。

472 :
まだ年金受給組は逝かないのか?

473 :
未来の会話
「昔、邪馬台国九州説を唱えた人々がいたらしいよ」
「えっ!」
爆笑。腹を抱えて笑い転げる。

474 :
>>463の爺さんは畿内説スレをたまに荒らしてる
歴史学には物証や裏付けは不要だと言い張る
間違いを指摘されたら、小説の「国境の長いトンネルを出るとそこは雪国だった。」を引用してきて
これより名文があれば物証を提示して証明しろだとほざいた
こいつはトンチンカンなこと言ってさらに難癖つけてくるどうしようもない糞じじい
老い先短いかもしれんが小学校からやり直すべき

475 :
九州説によくいる停脳爺の典型だな。

476 :
というか、考古学は文献がないとほとんど役に立たない。
たとえば、日田から金銀錯嵌珠龍文鉄鏡という鏡が出ている。
金銀で象嵌された鉄の鏡は、魏でも皇帝クラスしか持っていないとされる。
しかし、誰が、いつ、誰からもらったものかまるでわからない。
文献の記述がないからである。
逆に、志賀島から出土した金印は、後漢書に、建武中元二年(57年)
倭奴国が朝貢してきたので、光武帝が金印を与えたという記述があり、
これだろうと考えられている。
卑弥呼がもらった銅鏡にしても同じで、倭人伝に「銅鏡百枚」の記述が
あるから、畿内説は、三角縁神獣鏡がそれだと言ったりするが、
倭人伝がなかったらこういうことは議論の対象にすらならない。
そういう意味からすれば、邪馬台国自体も文献がなかったら存在しない。

477 :
九州になにか大きな国があったと妄想する人も存在しない。

478 :
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡については文献がどうのというよりも
出土した遺跡および埋納の状況が不明だから
考古学者は口出ししないようにしているんだな
万一戦時中に中国から不法に持ち込まれたもの、
あるいはコレクターが買い付けたものなどであったりした場合
何かを論じた人は手ひどい目に遭うのであたらず触らずの扱いになる

479 :
邪馬台国は文献上の国であり、考古学的には存在しない。
集落跡の遺跡が出てきても、文献の裏づけがないとなんと言う国か
わからないからである。
にもかかわらず、考古学的に邪馬台国はここだというのは間違っている。
むしろ、考古学的には、倭人伝に書かれている「宮室・城柵・樓觀」の
痕跡が見られる吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だというほうが妥当性がある。
畿内説の場合は、文献の裏づけのない纏向を考古学的に邪馬台国だと
主張するが、客観的な根拠は何もない。

480 :
>>479
九州脳ってこんな屁理屈ばっかり
バカすぎにも程がある
限度越えてるぞ

481 :
「考古学的には存在しない」って、何それ。
考古学の権威にでもなった気でいるんだろうか。

482 :
>>481
国名自体が倭人伝にしか書かれていないわけだから、当然そうなる。
弥生後期の遺跡で国の名前が確実にわかっているのは一つしかない。
壱岐の原の辻遺跡が、一支国であること。
もちろん、倭人伝の記述からわかることで、考古学的な発掘で
出てきたわけではない。
その証拠に、考古学的な発掘が行われた遺跡で国名がわかったものは
ない。倭人伝に名前の出てこない、中国・四国地方の遺跡なんかの
国名はまるでわからない。

483 :
あのね、倭人伝出てくる「宮室・城柵・樓觀」は、明らかに豪族居館なんですよ。
環濠集落じゃありません。卑弥呼という特定個人の館です。
だから、倭人伝の時代は弥生じゃないんですよ。

484 :
教祖気取りでご託宣垂れまくるボケ老人になに言ってもムダ

485 :
>弥生後期の遺跡で国の名前が確実にわかっているのは一つしかない。
>壱岐の原の辻遺跡が、一支国であること。
それは壱岐が地理的にいってピンポイントに絞り易い
からなだけ
「国名自体が倭人伝にしか書かれていない」から
ではないね

486 :
>>476
時代は下がるが、才園古墳出土の鎏金獣帯鏡も参考文献がないから誰も語らない。

487 :
考古学は意味がないだの物証は不要だの九州説ってただのオカルトかよ
一般人には理解不能な考え方

488 :
>>482
>弥生後期の遺跡で国の名前が確実にわかっているのは一つしかない。
>壱岐の原の辻遺跡が、一支国であること。
遺跡が文献の裏付けになったからだろがよwww
文献だけでは何も確定できないってことだ

489 :
対馬だって確定できるだろ。

490 :
遺跡名までは、まだだけどね。
末廬国は松浦の中原遺跡で決まりそうだ。
伊都国は怡土郡の三雲で、まず確定。
奴国は那ノ津博多だが2万戸と広域なので個々の遺跡名と結びつけるのは不適切。
邪馬台国の都は大和巻向ですね。

491 :
畿内説のウマシカどもは昨日の読売の夕刊を嫁。橿原の寺沢氏が考古学では耶
馬台国は確定できないと書いているぞ。

492 :
行程パズルじゃないと特定出来んよね

493 :
リップサービス真に受けちゃって、かわいいこと

494 :
「橿原の寺沢氏が」だってさ(笑

495 :
>>465
畿内説は現実にしてるじゃないか。
気持ち悪い。

496 :
証拠のないことしか言えない九州説あわれ

497 :
>末廬国は松浦の中原遺跡で決まりそうだ。
末廬国は唐津松浦川河畔の中原遺跡で決まりそうだ。

>伊都国は怡土郡の三雲で、まず確定。
唐津中原遺跡の東南500里(40km)で佐賀平野で、まず確定。
惣座遺跡(肥前国庁跡付近)が濃厚。

>奴国は那ノ津博多だが2万戸と広域なので個々の遺跡名と結びつけるのは不適切。
奴國は惣座遺跡(肥前国庁跡付近)の東南だから佐賀平野で確定。
佐賀平野の低地部で微高地の奴國城柵可能地は、佐賀城跡地(城内)で、ほぼ確定。
>邪馬台国の都は大和巻向ですね。
邪馬台国は人口7万戸を養える筑紫平野です。

498 :
大和田は九州説なのか。あんまりレベル下げるなよ。

499 :
>>486
才園古墳は確か6世紀だったと思うが、鍍金獣帯鏡は3世紀の卑弥呼時代と
重なると中国の学者は言っている。もちろん、魏ではなく呉の鏡。

500 :
九州説を否定してるやつ(学者)は
畿内説や出雲説に何を望んでるの?何か根拠でもあるの?

501 :
>>483
言っている意味がわからないのだが。
豪族居館で「樓觀」が見つかっているものがあるのかな。
豪族居館(環濠居館)というと大分県日田市の小迫辻原遺跡が思いつくのだが、
環濠はあっても、樓觀はない。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n130.htm

502 :
まだ、わかんないの?
環濠集落では倭人伝の記載と合わないことが。

503 :
環濠集落である吉野ヶ里ほど描写が合うところはないはずだが。

504 :
九州説は連呼しか出来ないチエオクの収容所

505 :
>>500
こういう人って信じ切ってるから何を言っても無駄だろうな
マインドコントロールされてる人と一緒
九州説を信じてる人に共通なのは大局的視野に欠けるってこと

506 :
何かガキの畿内説が増えたような
物見櫓と推定できる柱穴列を持つ豪族居館遺跡を出してやればいいだろ

507 :
倭人伝が倭国をどのように描いているか、行程記事はどのように書かれているか、
女王国の風土等はどのように伝えられているか、考古的資料はどうなっているか、
それらを考えなければだめだってことだね。
あ、畿内説論者は、そんなことまったく考えないんだったね。

508 :
そもそも豪族居館という語をどういう意味で使っているのか疑問だな
大阪府立弥生文化博物館のジオラマのようなイメージで言ってるのだと思うが
あれはそれこそ吉野ケ里を含む多数のイメージを重ね合わせたもので
あの規模のものがもしあったとしたらそれは豪族居館ではなく都市とでもいうべき
古墳中期あたりの豪族居館には張り出し部があって
そこに物見櫓とも考えられる柱穴が見つかる例もある
しかしその手の豪族居館はもちろん吉野ケ里などの環濠集落として圧倒的に面積が小さい
しかも豪族居館でも主体住居部は竪穴式住居である例が多い
だから卑弥呼の居城が豪族居館というのはあまり適当な言葉の用い方ではないと思うね

509 :
比して

510 :
邪馬台国だった証拠が有る土地は
世界中どこにも無い
異論有る?

511 :
無い

512 :
決定的な証拠はどこにもないかも知れないね。しかし、有力な証拠としては、南九州の玉璧があるね。
中国から王侯と認められた人物がいたというまちがいない証拠だからね。
そして、南九州には多数の古墳があり、その勢力は古墳時代を通じて反映したことが認められる。これも
邪馬台国だった証拠といえるだろう。それから花弁状住居、これは倭人伝の記述に合致した住居だ。
これらは、ほかの候補地と比べると格段に有力な証拠といえるよ。

513 :
しょもなー

514 :
倭人伝の邪馬台国レポートには漁労などの海近が有る。巻向では絶対に有りえ
ない条件だ。畿内説のウマシカども、目をさませ。

515 :
あんた、倭人伝読んだこと、ないね?

516 :
親魏倭王の金印は大事な物だから
大和に攻められた時に隠したと思う
これが出てくればほぼ決まり
畿内説は金印が正倉院に残っていない事を疑問に感じろよw

517 :
卑弥呼神社跡の巨石は列べたような配置。その下にあるかも。

518 :
>>514
初心者かこいつ?

519 :
纏向でアワビの潜水漁ができる、と言いたいのが畿内説。

520 :
潜ってアワビ取りは末盧国だから
あまり関係ない

521 :
倭人の風習については役人が伊都国の大使館に滞在中に周辺を見聞して書いたもの
つまり伊都国は海に面していた場所にある
邪馬台国は陸行1月の内陸にあるが、この役人は行き方を倭人に聞いただけで自分は行っていない
だから日数でしか記録を残せなかったのだ
張政ら武官は邪馬台国まで直行したが、文官でないので詳細の記録は残していない
倭人伝で行程の記事が2つに分かれているのはソースが別々だったから

522 :
>>514 はもちろん初心者だが
倭人伝を読んだこともないまま半世紀前くらいから九州説をやっている永遠の初心者だろう。
九州説の大半はそんなレベルだ。

523 :
>>514>>519
でなければ九州説の恥部、極馬鹿が2人もいることになり
九州説の被害甚大

524 :
>>518、522
ほほう。それでは初心者ではない、漁労・鯨面文身の理由を合理的に説明して
みろ。

525 :
郡の人間は伊都国へはやって来てない。
倭国大乱中で着いた頃には情勢が変わってるかもしれないのに、
そんな危険な土地へわざわざやってくる筈がない。
この時代の情報は全て郡へやって来た使者から聞き取ったもの。
郡使往来常所駐というのは、郡へやって来た使者が駐在してるのは伊都国であった、という意味。
その使者は現地採用の人で、伊都国・末盧国のことはある程度知ってたけど、
本国(邪馬台国)のことは掛かる所用日数だけしか知らなかった。

526 :
これはすげえトンデモ読み

527 :
畿内説でも九州は倭国の一部

528 :
>>526
それでも地球は回っている

529 :
初心者が開き直ってるw
九州説のやつらよ、ちゃんと初心者を教育しとけよ

530 :
ベテランなら既存の説は全てどこかがおかしいってことは実感してるはずだけど。
どこがおかしいのかを明らかにしないと先には進めない訳だが。

531 :
先へ進めないつーことはないと思うんだよな
ここの九州説はそれぞれ持論があって邪馬台国の比定地も決まってるやつがほとんど
しかもそれを変える気は毛頭ないという感じだろ
ただしどの比定地も物的証拠を欠くために侃々諤々になってるのであって
むしろ都合の悪い事実には目をつぶって自説を変えないあたりが問題
新しい解釈をするのもいいが、それで物的証拠が出るわけでもなく
珍説を加えるのみだろう

532 :
必死すぎてワロス

533 :
伊作なんか見ればわかるとおりで細かい部分まで妄想というか独自解釈をまじえながら
あれこれと論じているが
結局伊作の結論はあれで全部なんだな
しかも自説を変える気はまったくなくてあとはいろんな媒体を使って広めるのみ
ところが畿内説はもちろん同じ九州説でも違う説の人とぶつかるために論争になってるだけだな

534 :
九州説も畿内説も結局矛盾に突き当たって、信じるか信じないかの宗教の世界になってる
俺の濃尾平野説は今のところ矛盾点は出て来てないんだよなぁ
だから俺は今はそれを最有力としてる

535 :
>>119○さん
そういうことは大いにあり得ますね(笑)
冬に荒れるのは日本海気候の影響ですね。
そういう知識は仕入れたけど、所詮、関東
人で博多から韓国へ船にいったことがあっ
ても、一観光でしかなく、実際に船に乗っ
て漕いだこととかない訳ですよ。
灘のwikiで瀬戸内は別として、他は先程の
ような感じとあるから、そういうもんだと
思ってしまう訳ですね。干潮差とかは調べ
て数字は見てるけど、ソッチで当たり前の
ことは意外と調べられない訳ですよ。
ふふふ。この苛立ち。
仮にビルがなかったら、どこまで山が見え
るかとか、全て検証したいんですがね。
まあ、人生長いんでね。いつかやりますが
ソチラは本当天国ですよ(笑)

536 :
あ〜ミスです。失礼しました(涙)

537 :
いいってことよ
119が褒めてる117は俺だしw

538 :
古代朝鮮の植民地が九州である。伊万里の腰岳の黒曜石の大陸分布を見ると良く理解出来ますよ。6千年前の輸出品。歴史学は都合が良い用に明治政府の
キリスト信者革命をはぐらかす為のネタ。大日本帝国憲法と皇室典範もプロイセンのお雇いドイツ人モールと日本をキリスト教国に替えたかった、
宮内卿の伊藤が作った物。歴史学は宗教を学ばないと理解できません

539 :
>>531 どの比定地も物証を欠く、といいますが、当方の主張する小城甘木説には卑弥呼の墓という物証が存在しますよ。

540 :
>>525
結局、あんたはものすごーーーい初心者ね。

541 :
邪馬台国でアワビとか何とか言ってる赤恥ど素人に比べたら
誰でも博士級の碩学

542 :
俺は卑弥呼は神津島にいたのではないかと思う。
日本の黒曜石市場を支配していた女王こそ卑弥呼。
出雲とは、黒曜石流通を取り仕切っていたマフィアだと思えば分かりやすい。

543 :
伊都=idu=伊豆=伊東か
日向の伊東氏とも結びつくことになる
その検討も進めてるんだが決定打が見つからない

544 :
まあ、倭人伝をかってに読み替えればどうにでもなるわな。

545 :
これだけ国土掘り返して、出てこないということは
もう無理

546 :
今まで人の住まなかったところをいくら掘り返しても何も見つからない。
昔から人の住めるところは今も人が住んでいる。
公共工事でもない限りそこを掘り返すのは無理。
我が家の敷地の下にも何かの遺跡があるが、届け出はしない。
奈良盆地でも以上の状態。
筑紫平野の人々は、遺跡の上に住んでいると言っても過言ではない。

547 :
生国魂神社(大阪市)(紀元前700年)日本の神そのものを祭る神社

548 :
<7世紀・隋書>
例の記事は、原文に沿い、下記の如く「倭國、夷人」を補って読むとわかりやすい。
これから推測するに、隋書の編者たちは魏志の謂う邪馬臺國がどこにあったか承知していたのであろう。
>倭國在、、、夷人、都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也。
倭國の、夷人は、都を邪靡堆に於くが、(彼らは)則ち魏志謂う所の邪馬臺王朝の(流れをくむ)者たち也。

549 :
歪曲改竄は不可

550 :
畿内説のレベルが知れるなあ。

551 :
>>548
しつこい

552 :
>>548=>>550だとすると、かなり痛いやつだな

553 :
>>548 は頭のおかしい九州説だろ?
だから、レベルが知れるのは九州説なはずだが。

554 :
たぶん邪馬台国アワビ男だな。

555 :
邪馬台国アワビ男はもっと低レベルじゃないかな?
隋書まで読んでなさそうだし、自分なりの解釈をするために漢文を改竄できるレベルには達してなさそうだけどな

556 :
いくら薄馬鹿でも、誰かの口真似なら出来るだろう。

557 :
1)隋書東夷伝  
「倭國在」、百濟新羅東南水陸三千里、
於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國三十餘國皆自稱王。
「夷人」、不知里數但計以日、其國境東西五月行南北三月行、各至於海、
其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
都於〜のシッポ部分だけでは不明だった雰囲気も
倭国以下の全記述を通じて読むとつかめる、ほんものになってきたかな...

558 :
552以下、スレチ。畿内説者の低能がよく現れているな。

559 :
魏時、譯通中國三十餘國皆自稱王。
三十余国には皆王がいたと明記されていますね。

560 :
邪馬台国アワビ男だったようだ

561 :
都於邪靡堆...だけでは主語に相当する字句がなく、あいまいに終わる。
しかし「夷人」を主語におくなら、
夷人、都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也、と最後まで一気に読めるな。

562 :
>>558
九州・畿内以前の話だ頓珍漢

563 :
あいまいに終わる?別にあいまいなところはないが。
入れかわり立ちかわり変なモノが涌いてくるな。

564 :
>>561
しつこいんだよお前
何度も書いても誰も賛同しないよ

565 :
変に賛同していただかなくともよろし

566 :
おまえは無益で邪魔だから出て行きなさい。

567 :
中国の正史の中、「後漢書」から「新唐書」の間に出てくる東夷伝シリーズのなかの、
「三国志」魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)として読むと、
また別の味わいもある。
其々、東夷伝の記載は、簡潔にして時代の流れを伝えている。九州抜きに邪馬台国は語れまい。

568 :
確かに行程は九州抜きにしては語れないよ。
だが邪馬台国自体は九州にはないけどな。

569 :
畿内教の御託宣

570 :
アワビ男がひとりで騒いでいるが、そいつが馬鹿なだけで
九州説が馬鹿なのではないから念のため言っておく。

571 :
>>570
よほど、そのアワビにコンプレックスを感じたらしいな。自分ではまともな反
論ができなかったか。倭人伝の南国風俗はマツロ国限定とは書いてないものな。

572 :
畿内説に、アワビって耳打ちすると、脊髄反射するんだな。
吉野ヶ里遺跡が世に知られて、日本人はみんな、
邪馬台国と吉野ヶ里は同一文化圏であると、深〜く悟った。
そのうえでアワビと言われると、畿内説の癒えない傷が疼くんだな。

573 :
鮑とか帆立って干したほうが旨みが出るんだよな

574 :
吉外アワビ男も干してやれ

575 :
<熨斗鮑>
アワビの肉を薄く削ぎ、干して琥珀色の生乾きになったところで、竹筒で押して伸ばし、
更に水洗いと乾燥、押し伸ばしを交互に何度も繰り返すことによって調製したものを熨斗鮑という。
<伊勢神宮における熨斗鮑>
伊勢神宮では、古来の製法で調製された熨斗鮑が、6月と12月の月次祭(つきなみさい)、10月の神嘗祭(かんなめさい)で奉納される。
この熨斗鮑は三重県鳥羽市国崎町の神宮御料鰒調製所にて調製される。干しアワビは古代からの貴重品だが、内陸の大和では獲れない。

576 :
奈良でアワビが取れるといったアホが居るんかね?

577 :
いいえ。
奈良でアワビが取れないから邪馬台国は畿内でない
と言い張る薄馬鹿が居ます。

578 :
九州説の恥曝しw

579 :
九州説の面汚し

580 :
アワビの潜水漁を特徴とする倭人の代表国が纏向邪馬台国だ、という
アホウな畿内説を揶揄しています。

581 :
倭人が「アワビの潜水漁を特徴とする」なんて
倭人伝のうったいドコに書いてあるやら・・・

582 :
>>581
魚と貝の潜水漁は書いてある
刺青をしている大きな魚や水鳥が嫌うからだとも
>今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。

583 :
海のが兄で
山のが弟で
うにゃうにゃしてけっか
山のが勝ちとかって

584 :
そおいえばさ
「今使譯所通三十國」のは
兄の國の組(海)と
弟の國の組(山)と
2つに分けられちゃうんだ

585 :
海組の主要な武器は航海能力と鉄製の鋭器だろし
山組の主要な武器は鏡とか珠とかを駆使する鬼道だろ

586 :
キモすぎて 稗箕狐が出ると スレ止まり

587 :
>>582 アワビ書いてねーじゃん

588 :
もう末期的だな
ただ根拠なく妄想を言い合ってるとしか思えん

589 :
>至末盧国、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。
>好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
好捕魚鰒←さかな、アワビ

590 :
だから、それ末盧国の話やん。

591 :
末盧国以外に風俗がないはずないから、倭人全体の特徴だろ。

592 :
・・・こいつ、日本語を読む能力が無えぇぇ!

593 :
いまどき九州説にしがみ付いてる奴の学力なんて、こんなもんだよ。

594 :
九州説の恥部、アワビ男

595 :
魔アワビ男

596 :
後漢書に「鰒魚」とでてくるが、これは「鰒魚」=「鰒」。
魏志の「魚鰒」は、「魚」と「鰒」の意味。
「鰒」
@小さな「石決明(アワビ)」が「鰒」、「とこぶし」
A「蛤」に似た石状の貝
B「あわび」や「とこぶし」だけではなく、「さざえ」などの巻貝類も

597 :
>>593
いまどき畿内説にしがみ付いてる奴の能力なんて、こんなもんだよ。

598 :
アワビ男はオウム返ししか出来ないチエオクのようだ

599 :
九州説は時間が経てば経つほど望みが無くなっているのだから赤っ恥をかく前にさっさとあきらめろ




早く畿内説を認めた方が傷は浅くて済むぞw

600 :
もう、かいてるし・・・

601 :
後漢書に出てくる「鰒魚」(=鰒)は、皇帝に献上するような貴重な高級食材。
魏志では、その高級食材が採れるのが末蘆國であると特記されているのだ。
倭の何処ででも採れるようなものでないとの認識があっての記述である。

602 :
何かアワビが人気みたいだけど
何があったの?

603 :
>>599
畿内説は或る日突然捏造がばれて、可能性の無い事が判り、赤っ恥をかく事に間違いなくなるだろう。

604 :
>>602
初心者未満の九州説論者がアワビ談義を始めたので、
これぞとバカり畿内説論者が九州説を叩いているのです。

605 :
身内のバカ(特別製)を晒されて九州論者が迷惑しているのです。

606 :
>>604
でも、バカなのは事実なんだ
で、どんな話だったの?

607 :
潜水漁で知られる倭人の代表国が、奈良県にあるって話だ。

608 :
奈良湖の浜辺の潮干狩りでアサリ掘り、潜ってはアワビをつかみ取り、
んで、巻向から貝塚が発見されたということらしい

609 :
奈良湖って汽水湖だったの?

610 :
九州三大バカ
・邪馬台国まで2ヶ月かかったのは接待のため
・邪馬台国まで2ヶ月かかったのは宣伝活動のため
・邪馬台国でアワビとり

611 :
邪馬台国は、奈良県の水上国家か?

612 :
奈良湖には鯨もいるんだ

613 :
宇陀の高城に、な。

614 :
元祖のがこれか?
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.557203,130.239401

615 :
宇田川原のとなりのが高来寺かあ
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E5%B8%82%E9%AB%98%E6%9D%A5%E5%AF%BA&hnear=0x3541ea48413a08f5:0x6c106e3c7f7716a1,%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E5%B8%82%E9%AB%98%E6%9D%A5%E5%AF%BA
もとのが高麗寺かも

616 :
>>614
そう思う。
「宇陀」は「宇田」に由来する地名だな。
宇田の北側の海辺(今津湾瑞梅寺川河口付近)では鯨の追い込み漁があったのだ。

617 :
>>515
かもね!

618 :
というか、間違いなく

619 :
九州三大バカ
・邪馬台国まで2ヶ月かかったのは接待のため
・邪馬台国まで2ヶ月かかったのは宣伝活動のため
・邪馬台国でアワビとり
これに加えて、帥升が邪馬台国の王だったと主張するやつが現れた
しかし三大バカに比べたら、おバカさが少し足りない
惜しいもうちょっとだな

620 :
いや、足りてる足りてる。
九州四癲脳とでも呼ぼう。 …同一人物ぽいが。

621 :
九州スレ2つあるのか
バカも2倍になってるのかww

622 :
>>621
いつもより2倍回しております
頭がクルクルと

623 :
「きゅーしゅー」スレと「クズ」スレがあるんだろう。
いや、両方クズかな。

624 :
これがやっかみか

625 :
やっかむ程の内容が皆無w

626 :
っていうか、堕落しきった九州説が心底されてる呆れられてる

627 :
スレが重複して2つあるのを自慢したいんじゃないの?
バカの考える事は理解超えてるから

628 :
九州説のバカ代表といえば紫何とかっていうのを思いつくが、最近はバラエティーに富んでるね

629 :
畿内雑兵の攻撃は、手詰まりパラパラ遠吠え状態。
大物は佐賀平野説登場であえなく討ち死のようだな。

630 :
わけのわかんない雑言を言い返すしか出来ない九州説あわれ

631 :
伊都国は佐賀平野だ。
この説にアカデミックな反論が出来ず、どうやら畿内説は終焉を迎えたようだな。

632 :
相変わらず独り善がりの九州説

633 :
そうね。畿内説は伊都国=怡土でなければどうしようもなかった。また、万二千里にしがみついた
北九州説も伊都国は怡土あたりに比定せざるを得なかった。畿内説と北九州説、いずれも怡土で妥協し
それを考え直そうとする動きがなかったわけだ。
伊都国=佐賀となって九州説は万二千里を見直す時がきたというべきだな。

634 :
意味不明な理屈

635 :
中国からの使者が糸島や博多を素通りしていくって
それ100%ないから

636 :
知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1382233495/
 ■大陸進出の軍事的要衝立証
 本書は、著者が精魂傾けて連続出版した『日本古代史 正解』(全3巻、講談社)に続くものである。
第3巻の「渡海編」では、日韓の古代史学会がその存在を否定する神功(じんぐう)皇后の新羅征伐が、
まぎれもない歴史的事実であることを突き止め、さらに倭国の朝鮮半島進出の橋頭堡(きょうとうほ)として半島南部沿海地域に手を伸ばし、
ここを任那(みまな)日本府とした事実を立証している。碑文や石碑の位置関係、
さらに歴史的文脈からこの事実を初めて証(あか)したことの意味には圧倒的なものがある。
 今回の著作は、この任那日本府という、古代日本人の大陸進出の軍事的要衝(ようしょう)が、
これも日韓の古代史学会による否定にもかかわらず、確実に存在し、その存在のありようにまで想像力を働かせた意欲的作品である。
立証の基点は、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道の、任那日本府とその周辺地域で、1980年代に相次いで発見された前方後円墳(14基)である。
これだけの数の発見は、前方後円墳が半島を経て日本に伝わったものであることの証(あかし)だとする説となって流布したものの、
古墳の造営の年代が、全土で多数発見されている日本のものより新しく、この説は受け入れられないという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131020/bks13102009290005-n1.htm

637 :
分からんかね。伊都国が佐賀ならば、その先の水行日数がどうみても万二千里には
収まらないってことよ。怡土ならば東へ行ったとか西へ行ったということで万二千里
の範囲ないで動いたってことにできたかも知れんが、佐賀から南下するとなればすぐ万
二千里は飛び出してしまうからな。
投馬国や邪馬台国への日数は、万二千里にこだわらずに考えるべきだということだね。
>中国からの使者が糸島や博多を素通りしていくって それ100%ないから
今の博多をみて考えるからそんな話になる。当時は貧しい集落と墓場の密集地、僅かな田畑だ。
王さんが住むような地域ではない。

638 :
戸数2万戸の大国だっつーの

639 :
それは筑後川の方だな。そちらが中心。糸島や博多ではない。

640 :
>>637
短里と同じように、日数相当距離を1/6すれば、
地勢も総里数も矛盾なく一致するよ。
不弥国から総行程の残り1300里。
残り二月だと、おかしいということになるが、
短里と同じように、1/6した数値と考えれば、
問題なく一致する。

641 :
6分の1にする理由が何もないから不可。

642 :
>>641
でも東にする理由もないでしょ?

643 :
ないよ。

644 :
総行程の残り、1300里。
二月と考えると二千里相当だが、
ちゃんと万二千「余」里と書かれているので、
問題なし。

645 :
倭人伝の千里は僅か80キロ、それに1月はかからない。特に普通の海、道ならば。

646 :
怡土は奴國の一部
女王國も奴國の一部
志摩のが伊都國
糸島水道の南北の岸のも伊都國

647 :
当時の船の速度は、歩行速度と変わらないか、
それより遅いくらい。
ゆっくり歩いて一日16キロ程度。
江戸時代みたいに宿場が整備されて、
一日全部を歩くのに費やすことはできないからね。
80キロだと5日程度。一月のちょうど1/6だね。

648 :
>短里と同じように、1/6した数値と考えれば
(1/6というか、6倍というか?)
ともあれ短日でも悪くないけど、邪馬台国女王之都はどのあたりに??

649 :
>>637
@帯方郡から伊都國までの行程距離は、11,900余里である。
A伊都國から不彌國までの行程距離は、100里である。
Bゆえに、帯方郡から不彌國までの行程距離は、12,000余里となる。
C帯方郡から女王國までの行程距離は12,000余里であるから、
 不彌國は女王國を構成する国々のひとつであることが判る。
D郡から来た魏使が最初に訪れる国が、女王國の入口の国である不彌國となる。
E末蘆國が唐津であり、その東南500里(約40km)を陸行した距離に伊都國にあるので、
 伊都國の場所は佐賀平野となる。「東南陸行五百里到伊都國」
(奴國は伊都國の東南100里の距離にあるのであって、「東南至奴國百里」
  東南100里の行程距離にあるのではない。「東行至不彌國百里」)

650 :
DとEのはいけない。
一大國から千餘里の船旅で到着した末盧國のは東松浦半島北端
そうでないと浅い泥まじりの海でむだに鮑探さなきゃならないことになっちゃう
登望駅のは海外渡航用の港として常用のところ。

651 :
>>648
たどっていったら人吉盆地になったよ。

652 :
>(奴國は伊都國の東南100里の距離にあるのであって、「東南至奴國百里」
> 東南100里の行程距離にあるのではない。「東行至不彌國百里」)
直前に東南陸行500里と書いたのだから、水行・海行・空行でもない限り省略する
深読みしすぎ

653 :
Cもちょっとだめっぽい
不彌國は女王國以北にあたり、副曰卑奴母離で、海側の組の國。
「女王國の入口の国である」よりも
女王國の入口のところにある國である」のがより妥当だろ。

654 :
>>652
○○里の位置の違いを考慮すべき。
@「東南陸行五百里到伊都國」
  (1)陸行の距離が五百里であって、(2)末蘆國と伊都國の距離が五百里ではない。
  (1)は末蘆國の国境いと伊都國の国境いの距離が五百里離れているの意味。
  (2)は末蘆國の津と伊都國の城柵の距離が五百里離れているの意味。
A「東南至奴國百里」
  伊都國の城柵と奴國の城柵の距離が百里離れているの意味。
B「東行至不彌國百里」
  伊都國の城柵と不彌國の城柵の行程距離が百里離れているの意味。
補足
C「循海岸水行・・・・・・到其北岸狗邪韓國七千餘里」
  帯方郡の港と狗邪韓國の海岸間の循海岸水行距離が七千餘里離れているの意味。
D「始度一海千餘里 至對海國」
  狗邪韓國の海岸と對海國の海岸間の一海の幅が千餘里であるの意味。

655 :
きょりとみちのりのくべつのつかないひとは、小学校行きなおした方がええよ

656 :
相も変わらぬあほくささ

657 :
>>650
上陸地点の末盧國の浦があったところは、古松浦湾(古松浦湖)と言うべき汽水の水域。
湾(湖)には、浅い泥混じりのところもあれば(末盧國の津付近)、
礫混じりの砂地のところもあれば(鏡の西側の浜堤)、
岩場のところもあった(現在の唐津城の付近、岩礁もある)。
「末盧」の意味は、遠く離れた端にある水域で、水草が生え水が黒く淀んでいる淵。港として最適。
韓伝「瀆廬國與倭接界」の「交易の盧(瀆廬)」は洛東江流域にある淵(港)

658 :
>>654
>伊都國の城柵と奴國の城柵の距離が百里離れているの意味。
城柵って何? 
万里の長城みたいに長いの? 白河の関の柵みたいなの? 江戸の町を取り囲んでいた柵みたいなの? 
それとも山城取り巻く石積みみたいなの? あるいは西洋の城のような城壁を木材で作ったののこと? 
それから一つの城柵域の広さはどれくらい?

659 :
>>655
「道程」と「行程距離」と「距離」の区別ができないのは君だよ。

660 :
>方可四百余里、方可三百里。
この数字は、領土の(タテヨコの)大きさを表わしている。
旅する距離(道のり)とは異なる概念だな。

661 :
もっと言えば、方四百里というのは、四百里×四百里の面積というだけであって、その国の
形が四角だということではない。形はどんな形でもかまわないのだ。
だから、仮にその島(国)の周りをまわったとしても、何里になるのかは形によって異なる。

662 :
不毛

663 :
>>658
弥生末期では日本には未だ城郭はない。
城の様に塀で囲まれた居住区がが城柵、
吉野ヶ里遺跡は壕のある城柵、城郭と言えなくもない構造規模である。
平塚川添遺跡は堀(濠?)のある城柵、
山城は山の傾斜面を利用した城柵、
安徳台も城柵であった可能性が高い、
方保田東原遺跡に塀が確認されれば城柵、
仙台郡山遺跡も平地城柵、
多賀城遺跡は城柵、
卑弥呼の居所も城柵。
3世紀、馬韓には城郭無し、辰韓には城柵が有るとある。

664 :
惣座遺跡は壕のある城柵
魏志倭人伝には倭に城郭や城柵の有無についての記述がない。
記述がないことは、3世紀シナ人の常識として城郭があるので当たり前で記述がないと判断すべき。
吉野ヶ里遺跡は城郭と見るべきか。
原の辻遺跡、惣座遺跡、卑弥呼の都する処も城柵と見るべきか。

665 :
べきではない

666 :
>>619 , >>620 , >>621 , >>622 , >>623
執念深い奴らだなあ。
紫にこてんぱんにやられた数学オンチの論理的思索能力ゼロ人間と
ガキの使いしかできない政治外交軍事オンチの阿呆と
日数を距離に換算できると思い込んでいる痴呆だな。
こいつらの辞書には進歩という文字は無いようだ。

667 :
放っておけ。弱い犬ほど良く吠える。

668 :
どっちが執念深いんだよw

669 :
あれ? 紫がコテンパンにやられて数学音痴と証明されたんじゃなかったっけ?

670 :
黒を白
   と言い張る
        畿内パカ

671 :
>>666
こいつバカ紫だろ

672 :
アワビ男でもある。

673 :
>>669, >>671
こいつらはアインシュタインの相対性理論を見ても
理解する能力がないから
アインシュタインは数学オンチだと罵るだろう。
己より優れた能力を持つ者が憎いのだろう。可哀想な奴らだ。

674 :
反論が出来なくなると偉ぶったり罵倒したりだけになるのが
脳弱アワビ男の特長

675 :
>>674
>反論が出来なくなると偉ぶったり罵倒したりだけになるのが
数学オンチや政治外交軍事オンチやガキの使いしか出来ない畿内説信者の特徴をよく表しているね。

676 :
>>652
>@「東南陸行五百里到伊都國」
>(1)陸行の距離が五百里であって、(2)末蘆國と伊都國の距離が五百里ではない
水行、渡海、東南陸行到、東南至、東行至、南至
いずれも「行・渡・至・到」 という人間の行動にかかわる文字を用いている。
古代の文書であり、さほど複雑怪奇とは思えない。一律に「道のり」の理解で良いのではないか。

677 :
>脳弱アワビ男の特長
特徴を
   特長と書く
        あわてよう

678 :
畿内説の特徴は議論を回避する事www
議論したら負けるしねえ

679 :
やっぱりアワビ男でしたね。

680 :
アワビ男=紫ババアか

681 :
そうらしい

682 :
>>678
した証拠は?

683 :
畿内説の特徴は、レッテル張り。
これはかなり昔から見られる畿内説だけの顕著な特徴。
個人攻撃、人格攻撃も非常に多い。誹謗・中傷も多い。
これらは議論などで不利になった場合に行われることが多い。
正当な議論が出来ないために、あるいは正当な議論を避けるために
行われることも多い。

684 :
紫、もういい加減にしとけ
これ以上荒らすな

685 :
>>676
>水行、渡海、東南陸行到、東南至、東行至、南至
>いずれも「行・渡・至・到」 という人間の行動にかかわる文字を用いている。
「行・渡」は、人間の行動にかかわる文字であるが、
「至・到」は、人間の行動にかかわる文字ではない。

686 :
>>683 いま紫アワビのやってることが、それ。

687 :
>>676
>古代の文書であり、さほど複雑怪奇とは思えない。一律に「道のり」の理解で良いのではないか。
「水行、渡海、東南陸行到、東行至」については、
本筋では「道程」で良いと思う。
「東南至、南至」については、
「道程」を示すものではなく、二者の「位置」関係(の距離)を示すものである。

688 :
>「至・到」は、人間の行動にかかわる文字ではない。

天子初至洛陽、幸城西故中常侍趙忠宅。
なるほど天子様は人間ではないんですな?

689 :
「到」の旁のりっとうは刀の意
刀を持って至った、つまり武力制圧したということ

690 :
>>687
到る、至るは、だれかが移動した(歩んだ)結果として到達する。
もしくは、人間が歩むべき「道」を辿れば、結果として到達するであり、始点(自)から始まり、終点(至)で終わる。
「従郡至倭」、「自郡至女王国」、ともに人間が歩むことを前提にしている。
2点間の距離なら、始点の自、終点の至(到)という考え、すなわち時間の経過は無いであろう。

691 :
>>690
>>687の追加補足説明
「水行到、渡海至、東南陸行到、東行至」については、
本筋では「道程」で良いと思う。
起点と終点の二点間の行程(道程)について述べているのである。
「東南至、南至」については、「道程」を示すものではなく、
起点と終点の二点の「位置」関係(の距離)を示すだけのものであって、
途中の行程(道程)については何も述べていない。

@「東南陸行五百里到伊都國」
  と
A「東南陸行到伊都國五百里」
の意味上の違いを考えてみよう。
この答えは>>654の@です。

692 :
問題は語順だよ。@は方角、距離、国名、Aは方角、国名、距離。どう違うかと言えば、@は東南へ陸行すること五百里にして伊都国へ到る、Aは
東南へ陸行して伊都国に到るには五百里。@は伊都国へ行ったことを述べているが、Aは伊都国までの距離を述べただけで、行ったかどうかについ
ては述べていない。ま、そうゆうニュアンスだ。

693 :
>>691
「到る」と「至る」の違いなど、いろいろ考えたこともありました。
しかし我々が学生時代の知識で考えるほど漢文は簡単ではないようです。
字数をそろえる、平仄を合わせる、韻を踏む、
このため、文章表現には多くの変化が生じ、
中国人でなければ分かりえないことも少なくないようです。
かっての至到論争のように、日本人の感覚で一字一句に妙にこだわっても、さしたる意味は無いことを知りました。

694 :
もっともだ

695 :
梁書なんか全部「至」だからなあ。
又東南陸行五百里至伊都國
魏志倭人伝は、
東南陸行五百里到伊都國
まあ、同じようなものだが、奴国はちょっと違う。
梁書は又東南行百里至奴國
倭人伝は東南至奴國百里
細かいことは気にするなと言っているみたいだな。

696 :
ま、中国語国民の目には連続式にしか読めない、ということです。

697 :
そのとおりです。
最近中国人の論評を知りましたが、至ると到るの違いなぞ、まったく意味のない議論なのだそうです。

698 :
「至」と「到」は、「至」が直線的にいたる、「到」が曲がっていたるというニュアンスがある。したがって、甲点から乙点へというときには
「至」を使い、甲点から乙点を経て丙点へというときには「到」を使うというようなことになる。「到」の方がようやくいたったという感じか
な。もちろん、どちらを使ってもまちがいというほどのことではない。
倭人伝の使い方も上記のようなことを頭に置くと理解しやすい。乍南乍東して韓国の最後である狗邪韓国に「到」、そして投馬国、一大国、末
盧国を経て伊都国で到。それぞれ、一応の区切りになっている。だから、伊都国からは進み方がちがうのかなという感覚も出てくるわけだ。
順次式の書き方ならば、最終的目的地である邪馬台国についても到を使うところだろう。しかし、倭人伝は至だ。これは奴国、不彌國、投馬国と
同じように、甲点(伊都国)から乙点(邪馬台国)へ直接に行くことを示している。奴国や不彌國、投馬国を経ないという感じがある。
したがって、至が使用されていることは放射式を示していると言われるのさ。

699 :
>>689
しかし、梁書の場合は、全て「又」でつながっている。
又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里至奴國。又東行百里、
至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日至祁馬臺國
この記述の仕方からすれば、いわゆる放射説の成立する余地はないことになる。

700 :
それは、梁書を書いた姚思廉が書き直したのさ。彼はちゃんとした史家だから、倭人伝が放射式に書かれて
いることはわかっていた。しかし、倭人伝が書かれた三世紀からは時代も経て、倭がどのあたりから始まる
かはわかってきたわけだ。してみると、会稽東冶まで南下すると大変な距離になると思ったことだろう。
それを放射式の水行10日陸行1月だけで行くことは難しいと判断した。で、本当は順次式に行ったのだと
判断して順次式に書き換えたのだろう。
彼は、ほかにもそのような書き換えを行っている。それが卑弥呼の共立を漢霊帝光和中とし、倭人伝が卑弥
呼について書く年已に長大を除いた点だ。倭人伝の住七八十年を解釈して漢霊帝光和中とし、そのころに共
立されたのならば卑弥呼が老女だったというのはまずいと考えて年已に長大を削ったということさ。
これも彼の誤訳に基づく改変だ。

701 :
トンデモは九州説の華

702 :
「到」と「至」の使い分けは、平仄を合わせるためであり、
その次に来る伊都国と奴国ほかとの平仄合わせの都合上そうなるのだそうです。
陳寿はことのほかこうした文芸性にこだわったのでしょう。
彼の書が1800年後の現在に至るも人気を博する由縁かと思われます。読み飽きない素晴らしい筆です。

703 :
>>696
>ま、中国語国民の目には連続式にしか読めない、ということです。
古代漢文と現代中文では異なる言語です。
古代漢文は、現代中国語民の目を通して読むものではありません。

704 :
>>703
日本人にあっては、なおさらでしょう。

705 :
>>698
同意。
最後の二文以外は。

706 :
>>704
日本に古来から伝わる漢文の読み方が、現代中文の読み方以上に良き参考資料となるでしょう。

707 :
>>705
いくら器用とはいえ、東京人・大阪人が九州弁をまねると違和感を感じるものです。
まして日本人が中国語を論じるときは格段に謙虚であらねばならないでしょう。
たとえそれが古代中国語であったとしても、とうてい現代中国人(漢人)にかなうものではないでしょう。

708 :
どうあがいても放射式はないな

709 :
中国の学者は放射式で読んでいるけどな。

710 :
だれ?

711 :
天津社会科学院の王金林という学者だよ。次のように言っているな。
 方向、国名、距離という書き方の中には起点はない。非常にはっきりしていることは、伊都国はこれらの国の共同的起点である。
すなわち、伊都国から始まり、その行程を中国の俗語でいう「四至法」(日本では放射式という)を取ったのである。
私の見方は、榎一雄氏の観点と一致するものである。

712 :
その人トンデモ学者なんじゃないの?

713 :
少なくともお前のような白痴ではない

714 :
1990年代の紹介だが、天津社会科学院の教授、中国日本史学会常務副会長で中国における日本研究の
第一人者と言われているな。

715 :
>>714
それで天津社会科学院の王金林先生は、
伊都国の所在はどこそこと明言した上でのことだったのかな? まさか糸島伊都国の放射説だったのでは??

716 :
普段はアカデミズムを否定する癖に都合の良い説は摘まみ食いする九州説

717 :
>>715
理論的な説明だけで、具体的な比定はしていないようだ。

718 :
順次式は無い。
放射式もない。
あるのは分岐式。
分岐点は伊都國と不彌國。
伊都國での分岐は、不彌國方面への道程と奴國方面。
不彌國での分岐は、投馬國方面と邪馬台国方面。

719 :
良かったいつものパズルに戻ってる

720 :
うん、パズルを解くのはとても大事、足元が固まるからね。
新しい分岐−分岐もいい案だねえ

721 :
そう大事だよな
九州説にはパズルと語呂合わせしかないんだから
この2つは九州説を語る上で欠かせない必須事項

722 :
周辺国の語呂合わせは出来ても、肝心のヤマトの語呂合わせはできないんだよな

723 :
七世紀ころにできた地名に合わせてもなあ。

724 :
帥升が送った生口が160人
卑弥呼の送った生口は10人
トヨが送った生口が30人

卑弥呼、台与ともに
福岡周辺を支配していたと推測される帥升に対して
はるかに少ない数である。
つまり、卑弥呼や台与が支配していた王だとすれば、
その勢力は帥升の倭奴国よりはるかに小さい国だと推測される。
もちろんそんなはずはなく、卑弥呼、台与ともに、
実質的な権力を持たない宗教的権威の取りまとめにすぎない
存在だったということだろう。

725 :
>>742
>つまり、卑弥呼や台与が支配していた王だとすれば、
>その勢力は帥升の倭奴国よりはるかに小さい国だと推測される。
生口の数は、戦った敵の勢力の大きさに比例する。
@帥升が戦った敵は福岡平野の倭奴國で、生口70人。(帥升が侵略者)
  帥升が筑紫平野から福岡平野に侵攻し勝利した。
A卑弥呼が戦った敵は女王國に侵略し敗退した狗奴國で、その捕虜の生口10人。
  菊池川流域方面から築肥山地を越えて、八女か瀬高の女王國に侵攻。
B台与のときは狗奴國の侵略規模拡大し、その捕虜の生口30人。
  菊池川流域方面から築肥山地を越えて、八女や瀬高の倭國(女王國)に侵攻。

726 :
中国では入れ墨した変なのをもらっても困ったろうな。

727 :
黒曜石の伊万里、腰岳が6千年前からの歴史がある。てあるから国もその周辺。 

728 :
佐賀の縄文遺跡の東名遺跡で、
伊万里の黒曜石が出てきていて、
縄文時代からの交易の範囲が議論されてたな。

729 :
>>725追加
@帥升が戦った敵は福岡平野の倭奴國で、生口160人。(帥升が侵略者)
  帥升が筑紫平野から福岡平野に侵攻し倭奴國を征服した。
  神武の集団は、その時の敗残者側で、武装難民となり日向経由で奈良盆地へ。
  難民漂流中に日向で生まれたのが神武。

730 :
縄文時代には伊豆諸島、新潟と既に広範囲に交易してるだろ
何を今更言ってるの?

731 :
>>730
邪馬台国しか興味ないから知らなかったんだろ
スゲー大発見じゃねみたいな
バカここに極まりって感じ

732 :
黒曜石を挙げて伊万里しか挙げないのが九州説らしい姑息さだよな
本来黒曜石って言ったら
信州、北海道、伊豆諸島、隠岐、伊万里と挙げるだろ
まぁ、渡航か徒歩か知らんが困難で畿内まで行けないって言ってる連中が
北海道や伊豆諸島まで行ってますとか言えないんだろ
困難なんじゃなかったのかって事になるからな

733 :
>>732
最近は交易じゃない贈答だって考え方もあるみたいだよ
只、近隣に配るでも、片道通行でもいいけど、
片道通行なら、例えば信州は常に新入りの住む場所となり
黒曜石が採れたら何故か移動となる(笑)
或いは、何故か知らんが常に隣に贈答する
その隣も何故か隣に贈答する(笑)
まぁあの民族の思想が絡んでるんだろうな
1000年贈答しろと
まぁ無理だけどな贈答は

734 :
>>732
九州説のじぃさんらしく
縄文時代の人は遠くまで行けたけど
邪馬台国があったとされる時代の人は歳をとって遠くまで行けなくなったんじゃねw

735 :
>>731
折角、黒曜石は九州説を補強する材料だってやろうとしたのにな
ヤブヘビでしたと
明日には綺麗さっぱり忘れていつものパズルスレになってんだろけどな

ところで、なんで遠方までは道が無くて行くの困難だって言ってるのに
九州内は住自在に動いてるの?
放射説だかなんだか知らんけどさ

736 :
>>736
ご都合主義だからだよ
他説にあわびマンを生み出す土壌があんのか?
伊達にあわびマンを生み出した訳じゃないからな
九州説くらいのご都合主義がないとあわびマンなんて誕生しないんだよ

737 :
糸魚川の翡翠のことも忘れないであげてね(ハート

738 :
>>731
そんなもんなんかね?
曲がりなりにも邪馬台国という古代史の一部をやろうとしてる人が
縄文時代の交易知らないとか
目茶苦茶有名な話だと思うけど
黒曜石とか翡翠とか知らずに今迄古代史について薀蓄たれてたんだろうか?
すげぇーピエロとしか言えない気がするけど
まぁあわびマンを誕生させるくらいだからな
そんなもんなのかもしれん

739 :
>>738
正確には、邪馬台国じゃなく、魏志倭人伝にしか興味ないって事じゃないかな?
魏志倭人伝に"邪馬台国"と出てるから気には留めたけど
あくまで、魏志倭人伝に出てる"邪馬台国"に興味があるだけで
歴史なんてどうでもいいと。故に黒曜石や翡翠の交易は知りませんと
地図や年表も見ずに先ずは書き込むのもその辺にあるんじゃないかな?
それじゃ他説と議論なんて出来る訳ないか
他説はあくまで歴史の中の邪馬台国?で
魏志倭人伝の中の邪馬台国じゃないから
そもそも考えの出発が違う

740 :
伊万里の黒曜石が朝鮮とウラジオストック周辺がら出土しておま。知らんやろ。  

741 :
まだアワビ厨がいるのか
この低脳は「畿内説」スレで嘘をバラされて泣いていた奴だ
泣くならてめえの糞スレでやれ

742 :
>>740
「歴史の中の邪馬台国」だと?
魏志以外にどこから邪馬台国を持ってくるんだ?
イワシの頭に邪馬台国とでも書いてあるのか?
馬鹿は無用。失せろ!!

743 :
>>742>>739 宛。

744 :
>>742
持ってこなくてもいいよ
だから邪馬台国の後ろに"?"を付けたろ
興奮してんの?レス番も間違えたしw
九州説の人は直ぐに興奮するね
教養低いと思われるだけだよ

745 :
こうやって「魏志倭人伝だけ読んでいれば邪馬台国はわかる」厨が繰り広げる老人たちの九州幻想物語は、つねにオレ様の世界

746 :
誤:教養低いと思われるだけだよ
正:教養低いとバレれるだけだよ

747 :
翡翠とかどうすんだろうな?
最良とされる生産地は糸魚川周辺(新潟一部富山)なのに
九州説の人はもしかして翡翠は糸魚川産の物を最良として使用してた話は知らんか
そもそも地図はゴロ合わせ位にしか見ないし
糸魚川って何処だったりして
ありえそうで怖いわ

748 :
いくら泣きわめいてもバレた詐欺は元に戻らないよ白痴くん

749 :
>>747
知ってる訳ないだろ
魏志倭人伝に書いてないんだから
魏志倭人伝に書いてある事が全てだぞ彼等は

750 :
>>745
>「魏志倭人伝だけ読んでいれば邪馬台国はわかる」厨
まさしく九州バカの典型だね
あとはせいぜい中国の文献だけ
日本の歴史も知らない、記紀さえも読まない、考古学も知らない、地理情報なんか知ったことではない
ほんとに視野が狭いというか思考回路が限定されてるというか

751 :
語呂合わせ厨的には糸魚川って伊都國と関係あることになるのかな?

752 :
>あとはせいぜい中国の文献だけ
読んだことあるやつは希れだろう
九州は孫引きの世界

753 :
キンキ説は皇国史観にたぶらかされる白痴だから哀れ。

754 :
九州説は皇国史観によって創造されたことすら知らない九州厨の無学さ

755 :
皇国史観の持ち主が畿内説になることは、あり得ないんですよ。
彼らは皇室の祖先が中国に臣従、朝貢したなんて認めませんからね。

756 :
>>751
出雲、諏訪を出すならともかく
九州なんてだしたらあわびマン2世って言われるだけだぞ

757 :
本人だったりして・・

758 :
糸井造も知らんとは困ったもんじゃのう

759 :
弥生期の鉄の出土は、非常に単純に、
九州から距離が離れるに連れて減少する。
特定の拠点において、衛星のように多く出土する
傾向は認められない。
これは意図的に鉄を畿内まで輸送するルートが
存在しないことを意味する。
それぞれの国、あるいは村同士で、独立した交易によって、
鉄が拡散しているだけである。
それからみても、少なくとも鉄を見る限りでは、
広域の意図的な支配関係は存在しない。
その政権が鉄を持っていないにもかかわらず、
鉄を必要としていない可能性もあるが。

760 :2013/10/22
黒曜石や翡翠で鬼の首でもとったように喜んでいる畿内説信者が騒いでいるな。
縄文時代から広い範囲で物資の移動があったことぐらい誰でも知っている。だから、そんなことで九州説が
どうのこうの言う奴は頭が弱いと思って誰も相手にはしない。
皆知っているのだ。弥生時代の畿内には王墓と言えるような遺跡は存在しないことを。鉄もほとんど無い。
そんなところに中国と直接の通交があったとは考えられないだろ。通交があれば文化や文明が入っている
筈だ。
いや、卑弥呼の時代は既に古墳時代になっていたのだ と年代朔上を工作する者もいるが、前方後円墳が
作られ始めた時期は確定していない。箸中山古墳を3世紀前半だと言う者が居たが考古学会では認められ
ていない。あれは4世紀の築造だ。
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