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2013年07月鉄道路線・車両236: 架空の車両形式・番台スレ 21次車 (190) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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架空の車両形式・番台スレ 21次車


1 :2013/03/15 〜 最終レス :2013/07/07
前スレ
架空の車両形式・番台スレ 20次車
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1347600766/l50
さあ、楽しく書き込もうか!

2 :
過去スレ
03 http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/rail/1053698667/
04 http://hobby6.2ch.net/test/read.cgi/rail/1070450520/
05 http://hobby6.2ch.net/test/read.cgi/rail/1085486041/
06 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1098371160/
07 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1113956540/
08 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1134858499/
09 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1152714311/
10 http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/rail/1167730126/
11 http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/rail/1183636431/
12 http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/rail/1196785282/
13 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1214812592/
14 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1232279991/
15 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1245684494/
16 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/rail/1263990861/
17 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/rail/1281612411/
18 http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1303998156/
19 http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1324125773/
過去ログまとめ
http://wiki.2ch-library.com/index.php?%C5%B4%C6%BB%CF%A9%C0%FE%A1%A6%BC%D6%CE%BE%2F%B2%CD%B6%F5%A4%CE%BC%D6%ED%D2%B7%C1%BC%B0%A1%A6%C8%D6%C2%E6%A5%B9%A5%EC

3 :
・205系1000番台(モハ204、サハ204)
225系5000番台による阪和線用通勤形の完全置き換えが決まり205系1000番台5編成も運用を外される事になった。
阪和線用の1000番台は主電動機の出力が高い事から3M3Tでの組成が可能であるが、走行性能および補助電源の相違から従来のモハ204、モハ205などは連結できない。
そこで221系の6両編成からモハ220およびサハ220を廃車し、JR東日本から余剰となったモハ205を6両購入し、
同時に元7両編成のサハ205とともに廃車した221系の足回りと205系の車体を組み合わせることにした。
こうして、CP搭載のサハ204-1000とパンタグラフとSIV搭載のモハ204-1000が中間車として造られた。
なお元々、サハ204を与えられていた6扉車はこの頃には既に全廃となっている。
外観は0番台と同じ塗装となり、最高速度100km/hでおおさか東線全通後の運行に使われる。

4 :
東急160形電車
昭和41年に登場したデハ150形を連接車にした玉川線最後の新型連接車両。
デザインはデハ150形と同じで、車体長は非パンタ側を短縮した12800mmとし、
片運転台化、片車体2扉で2両連接車にし、連結面に広幅貫通路と幌を装備した。
主電動機がデハ150形の60kWから70kWに変更、制御装置、歯車、補助電源装置、
ブレーキ装置などはデハ150形と同じで、共通化が図られていた。
製造は東急車輛で、デハ161-162、163-164、165-166の3編成が製造され、
昭和44年5月の玉川線廃止後も世田谷線に残り、昭和54年からの車体更新修繕で、
側面コルゲーション板を無塗装のステンレス板に取替え、デコラ化粧板の交換、
シート色を緑色から臙脂色に交換などが行なわれた。
平成13年2月の世田谷線ノンステップ化に伴い、ステップ部を塞ぎ、ドア交換して、
継続使用する案もあったが、車歴が古いことからデハ150形と一緒に引退が決定した。

5 :
東急クハ3660形。3663〜3664号
昭和22年に、借用車として東横線に出戻っていた旧キハ1のうち2両を
東横線に復帰・転属・制御車化したもの。
半ばヤミ的存在であるため、京浜線木造車改造名義のクハ3660形の
続き番号とされた。
不足気味の上り向きクハに充てるため、渋谷寄りは流線型運転台を残置。
横浜よりは切妻貫通型に改造されている。
主にデハ3450と組み、東横線で。後には田園都市・目蒲・池上線を
転々とした。
昭和28年頃に、デハ3200など同様ドア・窓配置を変更。
両端ドアが窓2つ分内側に寄る。
昭和45年頃に3450形同様の更新改造でアルミサッシ化。また塗色も
ライトグリーン化。遠目に見るとちょっと変わった5000系?という姿になる。
1981年。3450形大量旧車の際にひっそりと旧車→廃車。
現在は電車とバスの博物館に3663の前頭部のみが、キハ1に復元された仕様で保存。
日本唯一の機械式気動車のシミュレータとして妙な人気があるとか。
……既出だったらスマソ。

6 :
>>1
前スレラスト:
-----------------------------------------------------
565 :名無し野電車区:2013/03/10(日) 21:34:35.32 ID:L7fH2qfG0
確かMAX512KBだったはずだが。
もう50程書き込めると思うが。
-----------------------------------------------------
容量限度到達レスらしい書き込みでワロタ
1KB=1000Bとするなら、スレ容量は512KBで正しい。左下の表示は
1KB=1024Bで計算(1KB未満切り上げ)されてるので要注意。

7 :
105系700番台
JR西日本の105系の中には旧式クハ103を改造したクハ105-100番台は既になくなったものの、
サハ103-66を改造したクハ104-600やモハ102-385を改造したクハ105-551など103系からの改造車が
残っており、これらの取り替えと奈良線及び廃線区間を一部復活させる可部線向けに
105系レベルの車両を求めたところ、折しもJR東日本が日光線で使われていた107系0番台が
205系600番台に取り替えられるために余剰となった。
そこで西日本はこの107系8編成全部を購入した。なお形式の便宜上105系に編入されて700番台と名乗る。
2編成はクモハ107を方転と電装解除してクハ104-701〜702とクハ106を改造したクハ105-751〜752となった。
改造されたのはクモハ107/クハ106-2・6である。
なおクハ106改造車は冷房装置をAU13EをAU75Eに取り替えられた。(クモハ107改造車はそのまま)
そのまま使用する車は次の形式と配置になった。
クモハ105-701-クハ105-701 広島
(旧クモハ107-1-クハ106-1)
クモハ105-702-クハ105-702 奈良
(旧クモハ107-4-クハ106-4)
クモハ105-703-クハ105-703 広島
(旧クモハ107-3-クハ106-3)
クモハ105-704-クハ105-704 広島
(旧クモハ107-7-クハ106-7)
クモハ105-705-クハ105-705 広島
(旧クモハ107-8-クハ106-8)
クモハ105-706-クハ105-706 奈良
(旧クモハ107-5-クハ106-5)
冷房装置はクモハ105はAU79そのまま クハ105はAU13EからAU75に取り替えられ、補助電源は
165系用の110KVAMGから70KVAのSIV化された。
走行系が165系であるため、回生ブレーキや抑速ブレーキがある他、DT32/TR69と足回りも105系と
凌駕していた。
107系の評価が高く、高崎にある100番台車の獲得も浮上している。宇部線 小野田線狙いと思われる。
またクモハ123-1ミニエコーの強奪も水面下に浮上している。本山支線向けクモハ123形の
取り替えではないかと見られる。

8 :
阪神5231形冷房改造車
1970年代後半、5001形(2代)の投入と5261形非冷房車の冷房改造によって普通系車両の冷房化率が向上すると、
非冷房で残る5231, 5151, 5311各形式の処遇が問題となってきた。
当初の計画では5231形については冷房改造を実施せずに代替車を新造して置き換える予定であったが、
車齢が20年に満たない上に5001(初代), 5101, 5201各形式と異なり駆動装置が中空軸平行カルダン方式であることから、
本形式は冷房改造及び延命工事を実施することとなった。
但し、5151形及び5311形で施工された電機子チョッパ制御化は見送られ、
5261形1次車と同様にパンタグラフの下枠交差式への変更と制御器を抑速制動付の東芝PE-30-2Aへ換装を実施した。
5231形の冷房改造により、1983年には日本の大手私鉄では初の全営業用車両の冷房化を達成。
その後、1988年以降5001形(2代)に実施された4連固定化改造は5231, 5151, 5311各形式とも実施されることはなく、
1995年に阪神・淡路大震災で被災した5251-5252が廃車。
1997年から5500形の増備が開始されると本形式は5261形1次車とともに置き換え対象となり、
2000年に形式消滅となった。

9 :
阪神5550系(2004年度製)
5500系の増備により5231形が2000年、5261形1次車が翌2001年に全車廃車となったが、
5261形2次車及び5311形といった「ジェットカー」第二世代を中心とした冷房改造車グループは依然として残っており、
これらの代替として、当時の最新形式である9300系の思想を取り入れた新型ジェットカーを導入することとなった。
5500系と基本的な外観は変わらず車体塗装も「アレグロブルー」と「シルキーグレイ」のツートンカラーであるが、
客用扉の幅は9300系と同一の1,300mmに変更された。
主電動機は東洋電機製造TDK-6147-A(出力170kW)を採用し、5500系のTDK-6145-Aより出力が向上していることから、
ジェットカー史上初めて神戸側先頭車が制御付随車となった3M1T編成 (Mc - M1 - M2 - Tc) とされ、Mc - M1車とM2 - Tc車でユニットをそれぞれ構成する。
制御装置は高耐圧IPMにIGBT素子を組み込んだ三菱電機MAP-174-15V163Bを各電動車に搭載し、1基のインバータ装置で4個の主電動機を制御する1C4M方式となっている。
車内案内表示装置は5500系と同じくマップ式、種別・行先表示器は字幕式を引き続き採用している。
2004年7月に5551Fが落成し、5311形を代替。
2005年2月には5552Fが落成し、5261形で最後まで残っていた2次車の5271 - 5272 + 5273 - 5274が代替廃車。
これによりジェットカー第二世代の置き換えを完了するとともに、行先表示器未設置車は消滅。
普通系車両は全て4両固定編成となった。

10 :
あげ

11 :
【 しЯ束目杢 ヨ31系客車 】
・外観は戦後型旧型客車に範をとった。
・車体には牽引定数増大・塗装しやすさ・寿命延伸・美観向上のためアルミを採用。
・屋根はローンテックスに砂を混ぜたヤツで、色は黒。
・ガラベンとウィンドウシル・ヘッダーはダミー。
・冷房装置は特急「界磁」と同等品を床下に搭載、吹き出し口は窓框のしたに隠した。
・内装は難燃木材を多用、床も樹脂含浸木材。内装金具は極力真鍮。
・ブレーキは客車側に読み換え装置を内蔵した電気指令式で、牽引機関車を選ばない。
・補助電源は静粛型の汎用品で2両給電・2両ユニット間は密着自連。
・台車は115-1000体質改善車から発生したDT-21T、軸受けはRCT。
・ブレーキシリンダーは耐雪ベローズつき、基礎ブレーキは両抱き踏面。
・ドアは自動の引き戸で、戸袋窓はWCの採光を兼ねたすりガラス。1両あたり片デッキ。
・編成端の1両には擬似荷物室を設け、バリアフリードアとWC、車販準備室とした。
・車内の灯具には住宅用のものを流用したため、プロトタイプと印象が異なるのが残念。

12 :
キハ30・35形5000番台
JR東海で武豊線の輸送改善用に改造したキハ35。
エンジンをカミンズ製に交換し、東海道線の高速ダイヤに適合させるため最高速度が100km/hとなった。
内装が211系5000番台に準じたものに改装された。
1999年に廃車となった。

13 :
321系1000番台
JR西日本が製造した321系の近郊型仕様。
新快速の混雑が激化したため泣く泣く4ドア車を導入。
内装はE233系3000番台に類似したセミクロスシートとしているが、東日本とは異なり全車両がセミクロスシートになっている
4両編成と6両編成と8両編成(全てオールM)があり、クモハ320にトイレを装備。
130キロ運転にも対応。

14 :
東武鉄道(東武博物館)8101F動態展示車
東武鉄道は先に原型に近い8111Fを東武博物館所有としてイベント用として動態展示しているが、
野田線には昭和39年製のトップナンバーである8101Fがまだ残存しており、折しも新型車60000系に
置き換えられるのを機に2編成目の展示車として再生されたもの。
8101と8401を総合車両製作所に運び込み、原型と同じ運転台に戻した。
塗装は二代目であるセージクリーム一色とした。また座席も昔のベージュ色としている。
配置は川越とし、東上線で使われるが、東武ファンフェスタでは寄居より秩父鉄道での羽生経由で
搬入され、8111Fと共に展示されている。

15 :
キハ145
JR北海道でオハフ51を改造して作ったPDCで、両運転台である。
最初キハ140を名乗る予定だったがJR九州の出力増強車と被るためキハ145となった。
足回りはキハ143がベースである。
主に札沼線の末端部で使用される。

16 :
東武11203F/11204F動態保存車:
10000系の東武業平橋線系統で未更新の編成2連2本を動態保存に向けて整備。
当初は11601Fを復元予定もあったが、部品調達の問題で断念。
東武10030系動態保存車:
10030系(10050系)の未更新・業平橋線系統残留編成を6連・4連・2連各1本を動態保存に向けて整備。
東武東上線10000系秩父ATS取付:
東上線唯一の2連、11201F/11202Fの更新だが、秩父鉄道線でのBLMG入線不可に関して、SIVに交換。
それに伴い、東上線では8000系さよなら運転が行われる。
東武30000系動態保存:
アルナ工機と富士重工で最後の鉄道車両になる為、動態保存な為に整備。対象は31609Fと31406F、また、東急車両(現:総合車両)の東武向け最後の31615Fと31415Fも対象。
6連臨時が伊勢崎〜北千住、4連臨時が東武宇都宮〜北千住で運転、東武動物公園で分割併合。

17 :
キハ102-キハ103
JR東日本が羽越線 奥羽線などで普通列車に使われていた50系客車が701系による電車化により
余剰となったためにそれを気動車に活用しようと開発したPDCである。
片運転台式の2連で走行系はキハ102は2エンジン式でキハ58系から、キハ103は1エンジン式で
キハ28又はキハ23の再利用品である。
当初冷房がなかったが、後にサブエンジン式の冷房が取り付けられた。
キハ110系の登場で2両編成4組8両で打ち切られてしまい、前谷地にいて無傷だった2の編成を除いて
東日本大震災での地震と大津波に被災してしまった。(3は石巻線の女川・4は山田線の吉里吉里で地震及び大津波で被災)
1は気仙沼線の陸前横山におり、地震当時は全長3000m越す横山トンネル内にいたのと
海抜が高かったために間一髪大津波から免れているが前谷地側気仙沼側どちら側も線路が
流されたり破壊されて引き出せなくなり、客を歩いて避難脱出させた後は一時トンネル内に放置されていた。
4ヶ月後前谷地側から引き出されて陸送で郡山車両センターで修理されて残った2と共に
分断された仙石線石巻方で使われている。

18 :
の訂正です。
国鉄クモハ94300+サハ94350+クモハ94301
浜松工場にて戦災で被災した電気式ディーゼル動車キハ43000とキハ43001を
川崎車両兵庫工場でモハ43900とモハ43901に改造し電車として復旧したものである。
先頭2両が電動車であるためパンタグラフは両端2両の後方部に設置。
元キサハ43500をサハ4301に改番し組み込み三両で使用。
台車と主電動機はクモヤ93000と同じOK-4台車(DT29)とMT901を晩年まで使用。
浜松電車区に所属し80系湘南電車のデータを取るために東海道本線等で走行試験に用いられる。
試験終了後はモハ6400+サハ6400+モハ6401に改番し飯田線で使用され後に称号改訂で
クモハ94300+サハ94350+クモハ94301に改番し塗装はぶどう色→湘南色→スカ色と変遷。
昭和59年、119系との入れ替わりに廃車。
しばらく浜松工場に静態保存される。
このうちクモハ94300は登場当時の姿に復元され佐久間レールパークからリニア鉄道館に保存。
クモハ94301は川崎重工兵庫工場に保存され、サハ94350は浜松工場に残る。

19 :
京急100形電車
京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)の子会社である湘南電気鉄道の新規開業に備えて製造されたデ1形に始まり、
湘南・京浜の両社で同系車が合わせて53両製造され、戦前関東私鉄の一時代を築いた名車と評されている。
第二次世界大戦中に「大東急」への合併で、デハ5230形に整理統合、戦後京浜急行電鉄の分離独立時に、
デハ230形へ改番、1965年(昭和40年)の一斉改番でデハ100形に統合された。
湘南電気鉄道デ1形25両、京浜電気鉄道デ71形11両、京浜電気鉄道デ83形11両、湘南電気鉄道デ26形6両が該当し、
車体長16.200mm、車幅2.5m級の両運転台シルヘッダー付き半鋼製車体を備え、前面は窓寸法が揃った非貫通三枚窓、
運転台は半室式で座席は車掌台側端部は妻窓まで設置され、扉間の座席は固定式クロスシートを備えたセミクロスシート、
それ以外の扉付近はロングシートである。側窓は高さ1,052mm・幅760mm、と当時としては極めて大型の上段上昇、
下段上昇式の2段窓が使用、窓配置はd2D(1)6(1)D3で、妻面が丸妻なことから洗礼された車体となっていた。
初期には単行で運転されていたが、軍港横須賀を控える湘南電鉄の沿線事情もあり、1930年代後半以降、
徐々に輸送量が増大、やがて2両編成での運転が増加、大東急に併合後はデハ5230形に統合され、
1945年(昭和20年)4月15日の大空襲でデハ5230形の5両が焼失したが、それ以外の車両は無事だった。
空襲で被災した5両も2年後の1947年(昭和22年)から復旧工事を受け、運用に復帰した。

20 :
1948年(昭和23年)に大東急の解体で、京浜急行電鉄が誕生、同年内に形式番号が改正され、デハ200形に改番、
1963年(昭和38年)から塗装変更、前照灯のシールドビーム化、尾灯の角形化、扉の交換、片運転台化、貫通路の設置、
乗務員室の全室化などの大幅な更新修繕が行われ、デハ200形241-253の13両が改番されずに運転台を撤去、
貫通路と座席を設置して中間車化、4両固定編成6本、3両固定編成1本、2両固定編成13本となり、3両固定編成の、
品川寄り先頭車両のパンタグラフを連結面の浦賀寄りに移設、2両編成、4両固定編成の浦賀寄り全先頭車両の、
パンタグラフを品川寄りから浦賀寄りに移設が行なわれた。1965年(昭和40年)の一斉改番でデハ100形、
中間車はデハ150形となり、1966年(昭和41年)に3両固定編成、4両固定編成の浦賀寄り中間車7両、
デハ150形157-163が電装解除、パンタグラフも撤去され、付随車サハ160形161-167となった。
2両固定編成4本が金沢八景駅-逗子駅間、金沢文庫駅?浦賀駅間の普通列車に運用され、
空港線専用の3両固定編成、2両固定編成1本以外は本線で4両編成の普通列車運用にあたっていた。
1971年(昭和46年)以降は2両固定編成が4両編成で大師線運用、1974年(昭和49年)から2両固定編成の廃車が始まり、
最後まで残った3両固定編成が1978年(昭和53年)に旅客運用から外れ、形式消滅した。

21 :
編成表(一斉改番以降)
Mc101-M151-T161-Mc102
Mc103-M152-T162-Mc104
Mc105-M153-T163-Mc106
Mc107-M154-T164-Mc108
Mc109-M155-T165-Mc110
Mc111-M156-T166-Mc112
MC113-T167-Mc114
Mc115-Mc140まで2両固定編成13本。

22 :
頼むから史実との差異を書いてくれ >旧型国電や大東急系の長文の人
あと、正直面白くない。

23 :
京浜急行電鉄 600形 671〜694
昭和30年に作られた京急初の有料ロマンスカーである。背景には京成電鉄が昭和29年に登場した
有料特急である1600形開運号に触発されたものと見られる。
車体的には600形と同様だが、座席がリクライニングシートとなり、テレビも付けられた。
何よりも京成電鉄の1600形が吊掛に対してこちらはカルダン式で1編成毎に電装品は三菱にWNもしくは
東洋にTD式とに分けて作られた。
671〜694まで4両編成6本24両が作られた。
停車駅は京浜蒲田 京浜川崎 横浜 上大岡 横須賀中央 久里浜である。
しかし非貫通2ドアであるために都営浅草線・京成線3社直通運転開始時に都営と京成に乗り入れ
できず、直通特急運用には1000形を使用せざるを得なかった。
その後他の600形などと連結して運用され、昭和55年に廃止されるまで有料特急として活躍した。
しかし有料特急運転は後に2000形登場時に登場する京急ウイング号へ発展していく布石となった。
その後は3ドア化 ロングシート化 冷房取付して数を減らしながらも普通車を主体に活躍し、
晩年は大師と羽田空港線で使われていた。
1500形に置き換えられて平成元年に全廃されたが、実際上は残存した675〜678 683〜686は正月の臨時用に
使われていて共に除籍されたのが1月6日の昭和天皇崩御前日であったため、実際上昭和64年に
廃車された珍しい例となった。
現在675が京急ファインテック久里浜営業所に原形に復元して保存。逗子市内の公園に678が保存。
新町検車区に保管されていた686は京急蒲田駅立体化後に先頭部カットモデルとして京急蒲田駅
コンコース内に保存されている。
なお琴電より1300形(元600形)が京急に返還される予定で、4両編成に組成して当時を復元させるプランも進行中。

24 :
サハシ213
JR西日本でサハ213に「うどんコーナー」を設けた車両。
宇高連絡船で販売されていた讃岐うどんを快速マリンライナーの車内でも販売するべく車端部をうどんコーナーに改造した。
冷凍うどんを搭載したため調理時間が短縮された。
しかし223系への置き換えに伴いうどんコーナーが撤去されてしまいサハ213に復元された。

25 :
小田急電鉄1700形電車
1949年(昭和24年)に本格的な特急専用車両として登場した車両、特急ロマンスカーの地位を不動にした。
制御電動車のデハ1700形と付随車のサハ1750形によるMcTTMcの4両固定編成とし、側窓は眺望性に優れる幅広、
座席は転換クロスシートを採用、警笛は和音、客用扉は編成全体で片側2箇所で、4両編成×4本が製造された。
デハ1700形の車体は運輸省規格型電車の車体長17.000mm、車体幅は1800形導入で車両限界が拡大されたのを受け、
車体幅2.800mmとなり大型化され、サハ1750形が車体長20.000mm、客用扉はデハ1700形に幅1.100mmのものを片側1箇所、
サハ1750形には550mm幅の非常扉1箇所のみとした。また側窓は幅1.100mm、高さ850mmの大きなもので眺望を確保したが、
シートピッチとは合わず、座席3列に対して窓2枚となった。窓と扉の配置はデハ1700形がd9(1)D、サハ1750形が14d、
(d:乗務員扉、D:客用扉、数字:窓数、(数字) :戸袋窓数)、塗装は腰部と上部が青色、窓周りが黄色の旧特急色、
いずれも初期投資を抑えるため、サハ1750形は戦災国電の台枠を使用、復旧車扱いとした。
正面は1600形同様の緩やかな丸みをおびた貫通型で、より丸み前照灯が半埋め込み、その下に複音汽笛が装備された。
内装は壁面が桜材などにニス塗りで天井が白色の化粧板であり、座席は転換クロスシートをピッチ900mmで配置した。
室内灯は当時珍しかった蛍光灯を採用、窓には日除けとしてよろい戸が設けられた。
サハ1750形の奇数車海側と山側の小田原寄りにトイレが設けられていた。
デハ1700形の台車と主電動機は三菱電機MB-146-CF、制御器はABF、歯車比2.07と1600形と同じで、
台車はデハが住友金属工業製のKS-32-L、サハはTR23を履いていた。

26 :
第1編成は1949年(昭和24年)3月、第2編成は同年6月に箱根特急として運用を開始、利用客から好評を博し、
翌年の1950年(昭和25年)3月に第3編成、同年7月に第4編成が増備、その後も特急の利用者数は増加の一途をたどり、
同年中にはさらなる増発と増備の要望が高まったことから、新造車両は収容能力の大きい20m級車体で増備することになり、
1700形の増備は1950年(昭和25年)度をもって終了した。
1951年(昭和26年)に20m級車体を持つ特急専用車両2000形が登場、1952年(昭和27年)に4編成が揃うと、
準急「江の島」運用に入ったが、同年に新形の特急車両が登場したことで、特急運用を補完する準特急用車両となり、
翌年の1955年(昭和30年)から通勤車両へ格下げ、3扉ロングシートに改造され、サハ1750形は車体長をデハと同じ、
17.000mmに短縮、デハとともに片側3扉化、窓と扉の配置はデハ1700形がd1D(1)2D(1)2D(1)1 、
サハ1750形が2D(1)2D(1)2D(1)1と関東私鉄標準型の姿になった。格下げ改造後は4両編成で各駅停車運用、
車体色は一般色の茶1色にされたが1957年(昭和32年)に3000形SE車が登場以後、旧特急色が一般色となったことで、
黄色と青色に塗り直され、主要駅のホーム延伸が完成した1958年(昭和33年)には1600形2両を併結した6両編成で運用、
1959年(昭和34年)には8両編成、1600形2編成を併結の8両編成で運用、1965年(昭和40年)からは4000形に、
主電動機と一部機器を提供するため廃車が開始され、1968年(昭和43年)までに全車が廃車された。
廃車後、更新を受けて車体の寿命は比較的新しかったことから、国鉄入線で車両限界が拡大されるなど、
地方鉄道法の最大幅2.744mmを超過してる富士急行・岳南鉄道・大井川鉄道・伊予鉄道などの各社へ譲渡された。

27 :
京王4000系
1975年に運行開始、
京王線の車両大型化を進めるため、
グリーン車の器機を一部流用し車体のみ6000系と同等とした車両(小田急旧4000系に近い)。
このためツリカケ駆動で抵抗制御・発電制動となっており、
特急・急行を中心に運用された。
1989年に5100系ツリカケ車が全廃したため、
1991年から1994年にかけてWN駆動・界磁添加励磁制御に改造され回生制動車となった。
ちなみに1992年運行開始の旧橋本特急にも本系列のツリカケ車が運用されたこともあり、
調布〜多摩センター間の爆走が注目されていた。
2004年から9000系の増備により廃車が開始され、2009年には全廃となった。

28 :
>>25
>>26に対抗して・・・
東武1720系(史実とは異なる版)
「近鉄2250系の東武バージョン」こと5750系(史実の5700系とは異なり、近畿車輛製の軽量構造の全金属車体でシュリーレン式台車を履きKM-7型冷房装置を搭載)に次ぐ
「近鉄10100系新ビスタカーの東武バージョン」と呼ばれるデラックスロマンスカー。
事の発端は5750系投入によって大幅に対日光輸送のシェアが落ちた事にブチギレた十河国鉄総裁の鶴の一声で151系(勿論、パーラーカー組み込みのフル編成)を日光準急に投入する
事への危機感から東武が創業以来縁のある近鉄(近鉄の前身である大軌は根津財閥が深く関わっている)に協力を要請したことに始まった。
佐伯社長の了解の元に登場したばかりの近鉄10100系ニュービスタカーを狭軌化しただけの姿で作られることになった。
故に基本スペックは同一(当然、連接車)で、中間車がダブルデッカーであるのも同じ。
対する日光準急は国鉄が赤字に転落した昭和39年に急行に、そして43.10の改正時に特急に格上げされたが、それに伴って料金的な
有利さは失われてシェアを落とし、最終末期には不定期列車に格下げ(車両は「踊り子」と共通運用の185系になっていた)され、57.11
の改正時に廃止となった。
その後、1720系は「兄弟分」の近鉄10100系の引退後も活躍し続け、平成2年に再び近鉄からの技術供与による「東武版アーバンライナー」
こと100系スペーシア(史実とは異なる版)と交代して引退。

29 :
東武6050系70F〜72F座席試験編成:
足まわりの老朽化で廃車予定の6050系更新グループに、600系の転換クロス及び、4000系の回転リクライニングシートへのフィードバック試験目的。
津覇での電装と各車両メーカーの出張工事。
6170F:6170:総合車両、185系リニューアル座席相当、6270:日本車両、373系座席相当。
6171F:6171:新潟トランシス、キハ185系相当、6271:近畿車両、L/Cカー相当
6172F:6172:日本車両、313系新快速・セントラルライナー仕様相当、6272:川崎重工、225系相当。
東武600系:
快速用転換クロス車両。伊勢崎線快速・区間快速・準快速新設にも充当。
東武4000系:
快速用リクライニングシート車両。朝夕はTIライナー/TNライナーに充当。
TIライナー:浅草〜曳舟(一部停車)〜北千住(一部通過)〜春日部(下りのみ)〜(東武動物公園)〜久喜(一部停車)〜館林(〜一部葛生・東小泉方面(西小泉及び竜舞経由太田))〜足利市〜太田(〜一部伊勢崎・赤城方面)
TNライナー:浅草〜曳舟(一部停車)〜北千住(一部通過)〜春日部(下りのみ)〜東武動物公園(下りのみ)〜南栗橋〜板倉東洋大前〜栃木〜新栃木(〜東武宇都宮(一部車両のみ))

30 :
平行世界もの
国鉄109系電車
1964年登場 日比谷線直通用18m車
○1957年の営団地下鉄日比谷線建設計画決定の際、国鉄、東急、東武、京王との相互直通運転も決定。
国鉄とは、上野・尾久・東十条を線増し、東十条以北の京浜東北線と相互直通運転を行う。
それは、日比谷線上野駅から分岐して上野・尾久の列車回送線に接続、回送線を尾久から貨物支線北王子線・須賀線を
活用して東十条へ延伸し、京浜東北線につなぐ。
京王とは、恵比寿駅から井の頭線駒場東大前へ至る日比谷線の支線を介して井の頭線と相互直通運転。
1964年の日比谷線全線開業と国鉄との相互直通運転開始に備え新造されたのが109系である。
本系列は、同年に量産開始された103系を土台に以下の日比谷線仕様にしたものである。
車体は鋼製で車長18m、両開き三扉、運転台に非常用の貫通扉設置。
営団から要求される運転性能を満たす為に、103系の抵抗制御にバーニア抵抗制御を追加し、
列車編成中にクハとサハを連結せず、全車電動車、
但し先頭車は運転台側の台車は空転し易いしコスト削減で主電動機を搭載しない0.5M車。
車種は、モハ109/108(M/M')、クモハ109/108(mc/m'c)。
登場当初は実質5M1Tの6両編成。
形式称号は、本系列設計時に駅間距離の長い路線向けに103系のギア比変更の仮称105系や、
主電動機をMT54にした仮称107系も設計されていたので、109系を付与。
就役開始以後、70年に8両編成化(実質7M1T)。
1987年にJR東日本に承継。
当時の運転区間は、中目黒/駒場東大前〜日比谷線〜上野〜JR〜尾久〜王子〜東十条〜京浜東北線。
就役当初から日比谷線の通勤地獄対策にとって車両性能の悪さが顕著となり障壁の一つにさえなり、
営団は国鉄との直通運転は増発せず、東武との直通を増やした。
就役以来長年日比谷線直通に活躍していたが、90年代には車両の老朽化も深刻化し、
バブル崩壊により茅場町を最寄り駅とする金融街衰退の影響で直通通勤客が減少したのを機に、
1995年にJRと日比谷線との相互直通運転は廃止され、109系は廃車。

31 :
京王電鉄10000系
JR東日本の中央ライナーに対抗すべく投入された京王初の有料座席定員制特急「KEIOLINER」(京王ライナー)に
投入するために登場した。
基本的には9000系に準じた10両編成だが、東武鉄道より供与された座席回転機能を備え、
ロングシートとライナー仕様のクロスシートとの2Way式となっている。また都営新宿線からの
直通ライナーもあるため、都営線装備も備える。
停車駅は京王八王子行きは明大前 調布 北野 京王八王子
高尾山口行きは上記の北野までにめじろ台 高尾
橋本行きは上記の調布までの停車駅に京王永山 京王多摩センターである。
都営新宿線直通ライナーは大島発の全て橋本行きで、都営新宿線内停車駅は馬喰横山 神保町 市ヶ谷で
新宿より京王線ライナーに準ずる。
座席料金は400円で全区間共通。但し都営新宿線直通ライナーは新宿線内は乗車のみで降車は不可。
基本的に平日のみだが、休日夜も八王子行きを数本運転する。またライナーに使用するクロスシート
モードは平日昼間データイムの特急と準特急及び休日は終日特急と準特急でも使用する。
(ロングシートは普通及び急行のみ)

32 :
京急160形電車
1940年(昭和15年)に101-116の計16両が汽車製造会社で製造、京浜電鉄線内でのみ使用するために設計され、
外寸はデ71形・デ83形に準じた両運転台で、側面はd1D(1)2(1)D3(1)D2の600V専用3扉ロングシート車である。
溶接組み立ての使用範囲が拡大され車体からリベットが無くなった。
制御装置は従来車が弱め界磁付き自動加速制御器を搭載していたのに対し、本車は京浜の在来車との混用の都合や、
部品調達難から旧来のHL式制御器+SMEブレーキにグレードダウンした他、モーターの定格出力も低下するなど、
戦争の影響によると思われるいくつかの仕様変更が実施されている。
大東急に併合後は3扉であるためデハ5170形とされ、1945年(昭和20年)4月15日の大空襲で4両が焼失、
2年後の1947年(昭和22年)に復旧工事を受け、制御車として復旧、1948年(昭和23年)に大東急体制の解体により、
京浜急行電鉄が誕生、同年内に形式番号が改正されデハ260形12両、クハ280形4両となった。
このクハ280形は各種整備の上で進駐軍専用車として運行された。
1951年(昭和26年)から4両編成で運行され、1953年(昭和28年)に全車の片運転台化改造が行なわれ、
1965年(昭和40年)10月19日の一斉改番でデハ160形・クハ180形となり、1968年(昭和43年)に不足した、
300形と500形の付随車となるため、全デハの電装解除、デハ160形の10両が車体更新名目で700形(二代)に準じた、
4扉の車体に載せ替えられ、500形サハ540形に編入改番、デハ160形2両とクハ180形4両の6両が220形に準じた、
ノーシルノーヘッダーの4扉車体に載せ替えられて、300形サハ340形に編入改番、デハ160形・クハ180形は形式消滅した。

33 :
HF200
JR貨物でDF200をハイブリッド機関車に改造。
大容量リチウムイオンバッテリを搭載した。
回生ブレーキで充電が可能になったため燃費が更に向上する。

34 :
東武40050系
半蔵門線直通の31606F+31406Fと31609F+31409Fを置き換える事になり、
1編成は51069Fが新製された。
ところが、もう1編成新製した場合、51070となってしまい、
50070系と車両番号が重複してしまう。
そこで、東急が5050系の後継として4000系を登場させたのにならって登場したのが、
東武40050系である。とりあえず、51069Fと合わせて、所要数2本なので、
41051Fのみの10連1本のみである。
構造的には51069Fと全く同一で、
他の50050系と同様に半蔵門線、田園都市線直通運転で使用される。

35 :
コキ300
東日本大震災前日に成田線の久住駅で脱線横転事故で空車だったからまだしもあわや
積載していた引火爆発性と猛毒性のある液化酸化エチレンを漏洩しかねない大事故を起こすなど
走行性に問題があるコキ200型を抜本的に改良してそのものをも置き換えるために登場した。
コキ107型を基本にして車体を短くし、ISOタンクコンテナ2個積みは変わらずにして車端部と
コンテナとの間隔を少し広げている。荷重は48トンから50トンに引き上げられた。
捻出されるコキ200型はJR東日本が事業用貨車に改造された車以外はほとんど廃車となった。
チキ5400型
JR東日本がチキ6000型及びチ1000型の老朽化取り替えとしてコキ200型から16両改造された。
25mレールも積載出来るが、主に分岐用などのレールを積載する場合にチ1000型の遊車を省略するために登場した。
必ず2両一組で使用される。

36 :
南武鉄道モハ100形
1927年(昭和2年)3月9日の開業時に101-106、1928年(昭和3年)までに107-111、1929年(昭和4年)までに112-115と、
三回に渡って汽車製造東京支店で製造された。1951年(昭和26年)頃まで、南武線で使用された。
全長14,900mm、重量28t、定員90人(座席42人)の小形車で、15m級半鋼製2扉の両運転台型制御電動車で、
前面はR付の3枚窓(中央の1枚の幅が狭いもの)、屋根布押えもR付、車体はリベットの多く、窓扉配置dD12D1、
側面は1段落とし窓、車内はドア間ロングシート、運転台は左隅式で仕切り板で客室と仕切られている。
屋根上のベンチレーターはガーランド式で、当初は前照灯が幕板取付けであったが後に屋根上に移設された。
台車は汽車製造のボールドウィンタイプ、出力46kWの主電動機4台に歯車比69:18=3.83の間接非自動制御(HL)であり、
性能は定格牽引力1100kg/速度21.3km/hと比較的非力であった。
1933年(昭和8年)に101-110までの10両に片運転台化改造が行なわれ、奇数車は下り方、偶数車は上り方の運転機器、
乗務員扉を撤去、客窓と座席の設置を行い、乗務員室を開放式の全室型に改造、反対側の側面にも乗務員扉を設置が行なわれ、
2両編成運行が行なわれた。111-115の5両は両運転台のまま、開放式の全室型、乗務員扉を設置が行なわれた。

37 :
買収後は南武線でそのままの番号で使用されたが、1944年(昭和19年)に102・104、1945年(昭和20年)に106-110の偶数車が、
電装解除のうえTc車化され、クハ150形151-155に改められ、モハ109とクハ155が1945年(昭和20年)4月15日の空襲により、
矢向電車区で被災、廃車となるなどの変化があった。1946年(昭和21年)にモハ105とクハ155が流山電気鉄道へ譲渡、
同社のモハ100形101・105となり、105が同社で電装化され、形番も105から102に改番された。
同じ1946年(昭和21年)にモハ101・102、クハ151・152の4両が秩父鉄道に譲渡、同社のデハ150形151・152、
クハ70形71・72となり、後に弘南鉄道へ譲渡、同社のモハ2230形2231・2232となった後、
1963年(昭和38年)に日立電鉄に譲渡され、同社のモハ100形101・102、クハ150形151・152となった。
モハ103、クハ104、モハ111・112の4両は1951年(昭和26年)に東濃鉄道へ譲渡、同社のモハ103・104、クハ203・204となり、
4両とも1976年(昭和51年)に高松琴平電気鉄道に再譲渡、73・74(Mc)と81・82(Tc)となった。
モハ113-115が1951年(昭和26年)に熊本電気鉄道へ譲渡、同社のモハ121形121・122となった。

38 :
213系0番台JR東海仕様
国鉄が関西本線に投入した213系0番台。
2両編成である。
前面方向幕が小さくオールクロスシートで冷房がAU79であるためすぐ見分けがつく。
飯田線転用時はドアスイッチを取り付けただけで大がかりな改造は行われなかった。

39 :
国鉄763系電車
国鉄が1980年から製造した北海道向けサイリスタ式交流急行型電車。
側窓は1段上昇式だが、車端部のロングシートや吊革はなく、ボックスシートの窓際にもひじ掛けが設けられた。
車体長は21.3mに伸ばされ、普通車のシートピッチは12系客車やキハ65系気動車と同じ1580mmに拡大された。出入り口はステップ付き。
0番台はMM'ユニット方式を採用。1000番台は711系100番台と同様の1M方式。パンタグラフはモハ762-0およびモハ763-1000に搭載。
歯数比は4.21を採用している。
全車両新製冷房車で登場し、冷房装置はパンタグラフ付き中間電動車がAU72型(1983年製造分からはAU79型)、その他はAU13型6基。
車体塗色は赤色13号に窓回りクリーム色4号である。
シートモケットの色は117系と同様の茶系を採用している。
形式は、クモハ763、モハ763、モハ762、クハ763、クハ762、サハ763、サロ763、サハシ763、モハ763-1000
763系2000番台
国鉄が1985年から製造した763系の転換クロスシート版。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
転換クロスシートのシートピッチは910mmとなっている。
形式は、モハ763-2000、モハ762-2000、クハ763-2000、クハ762-2000、サハ763-2000

40 :
国鉄465系電車
国鉄が1980年から製造した457系のフルモデルチェンジ版。
車体長が21.3mに伸ばされ、普通車のシートピッチを12系客車・キハ65系気動車並みの1580mmに拡大。出入り口はステップ付き。
もちろん従来の交直流急行型電車との連結も可能。
形式は、クモハ465、モハ465、モハ464、クハ465、クハ464、サハ465
国鉄469系電車
465系の横軽協調運転対応版で465系と同じく1980年に登場。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
形式は、クモハ469、モハ469、モハ468、クハ469、クハ468、サハ469
サロ465
サロ455-1000の車体長を21.3mに伸ばした形式で、1982年から製造された。出入り口はステップ付き。
サハシ465
465系のビュッフェ車。1982年から製造された。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
サロ469
サロ465の横軽協調運転対応版で1982年から製造された。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
サハシ469
サハシ465の横軽協調運転対応版で1982年から製造された。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
国鉄477系電車
国鉄が1985年から製造した465系の転換クロスシート版。車体長は21.3mで出入り口はステップ付き。
転換クロスシートのピッチは910mmで側窓は2連窓になっている。
もちろん451・471-465・469系と連結可能。
形式は、モハ477、モハ476、クハ477、クハ476、サハ477

41 :
>>40補足
それらの形式の1500番台が1987年から製造。211系や415-1500と同じステンレス製になる。
465・469系: 歯数比4.21とMT54系主電動機は踏襲したが、主制御器は117系と同じCS43系を採用。車体長が21.3mに伸びたため。1983年製造分からは内装化粧板の色が薄茶色4号から117系と同じ白色チェック柄+木目調に変更された。
477系: CS43系主制御器と歯数比4.21は踏襲したが、主電動機が211系と同じMT61系に変更された。
465・469・477系共通: 冷房装置は先頭車とグリーン車・ビュッフェ車はAU13型6基、パンタグラフ付き中間電動車がAU75型、パンタグラフのない中間普通車がAU13型8基、これらの形式の1500番台はAU75型。
465・469・477系いずれも、シートモケットの色は117系と同様の茶系シートでHゴムはない。
急行型のステンレス車は、正面がJR北海道721系電車と同じ顔つきになっていたはずである。
(415系1500番台や213系などの近郊型のステンレス車が211系の顔つきになったのとは対照的)

42 :
>>39-41補足
465・469・477・763系いずれも、普通車のドア幅が従来車より狭くなっています。

43 :
781系1000番台
国鉄が1986年から製造した781系のマイナーチェンジ版。
車体がオールステンレス製になり、キハ183系500番台気動車やキハ185系気動車と同様のスタイルになった。車体長は21.3mで出入り口はステップ付きだが、片開き式の引き戸が片側に2か所となっている。
主電動機はMT61系に変更された。
形式は、クモハ781-1000、モハ781-1000、モハ780-1000、クハ780-1000、サハ780-1000、サロ780-1000、サシ781-1000。

44 :
国鉄487系電車
781系1000番台と同時期に国鉄が製造したオールステンレス車体・電機子チョッパ制御方式の交直両用電車。
車体長は21.3mで出入り口はステップ付きだが、781系1000番台と同様出入り口は片開き式の引き戸が片側に2か所となっている。
歯数比は1:4.21に変更され、主電動機はMT61系に変更された。
形式は、クモハ487、モハ487、モハ486、クハ486、サハ486、サロ486、サシ487。
1989年以降の増備車は、制御方式が界磁添加励磁制御に変更された。

45 :
JR北海道739系電車
フィンランド鉄道(VR)Sm4型電車の1435mm軌間&最高速度130km/hバージョンで、北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張工事(フル規格新幹線対応化)に伴い投入。
本家(フィンランド鉄道Sm4型電車)との相違点:
軌間: 本家の1524mm軌間に対する1435mm軌間
最高速度: 本家の160km/hに対する130km/h
本系列は、車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。

46 :
JR北海道771系電車
JR北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張&低床ホーム化に伴い製作される非振り子の特急型電車。
正面のスタイルは789系(基本番台)に類似するが、車体長25m&車体幅3.4mとなり、
車輪直径は910mmに、床面高さはレール面上1300mmに、ステップ高さはレール面上550mmになり、
架線電圧は新製当初より25kV(50Hz)対応となっている。
またステンレス車体側面のビードも復活。
JR北海道773系電車
771系と同時に製作される振り子式の特急型電車。
車体幅は3.2mで、ステップ高さはレール面上550mmとなっている。
両系列ともに車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。また本州以南の在来線(狭軌のまま)にはもちろん入線できない。

47 :
>>45書き直し
JR北海道739系電車
フィンランド鉄道(VR)Sm4型電車の1435mm軌間&最高速度130km/hバージョンで、北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張工事(フル規格新幹線対応化)に伴い投入。
本家(フィンランド鉄道Sm4型電車)との相違点:
軌間: 本家の1524mm軌間に対する1435mm軌間
最高速度: 本家の160km/hに対する130km/h
本系列は、車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。

48 :
>>47書き直し
JR北海道739系電車
フィンランド鉄道(VR)Sm4型電車の1435mm軌間&最高速度130km/hバージョンで、北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張工事(フル規格新幹線対応化)に伴い投入。
本家(フィンランド鉄道Sm4型電車)との相違点:
軌間: 本家の1524mm軌間に対する1435mm軌間
最高速度: 本家の160km/hに対する130km/h
本系列は、車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。

49 :
JR北海道110系客車
JR北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張&低床ホーム化に伴い新製。
車体長25m&車体幅3380mmのステンレス製車体(ビード付き)で、SA-3型連結器を標準装備している。
南稚内で1435mm軌間と1524mm軌間の台車交換も可能。
JR北海道130系客車
JR北海道110系客車の新造と同時に、米国およびカナダを走っていた旧型客車を北海道に転用。
連結器は種車の関係でAAR型連結器を装備している。
この両系列の登場によりキハ281・283系振り子式気動車を北海道から一掃し、北海道の非電化区間の主力を客車列車にする。

50 :
>>49補遺
110系客車・130系客車両系列ともに車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線不可。

51 :
JR北海道755系電車
JR北海道の在来線の1435mm化&車両限界拡張&低床ホーム化に伴い製作される一般型電車。
車体関係は>>46の771系に準じているが、正面スタイルは721系に類似し、座席は転換クロスシート(シートモケットの色は茶系)となっている。
デッキと客室との間には片開きの仕切り扉が設けられている。
内装化粧板の色は薄茶色である。
車両限界の関係で札沼線および新千歳空港駅には入線できない。

52 :
477系
国鉄が開発した457系の修学旅行仕様。
457系を基準に修学旅行用にドア幅を700oに縮小するなど仕様変更が行われた。
塗装は交直流急行型と同一であるがクリーム4号が黄色1号の修学旅行色となっている。
東北・九州地方に投入され、需要予測から3両固定編成となっている。
東北に配置された車両は1985年の東北新幹線上野開業まで修学旅行列車で使用された。
全車JR東日本とJR九州に承継されたが、ドア幅が狭いことから近郊型化改造は行われず代わりにリクライニングシート化改造されて波動用に充当された(JR東日本所属車はATS-Pも装備され首都圏に顔を出すこともあった)。

53 :
>>52
1985年のつくば科学万博開催の際には、勝田に集められ、
上野〜土浦間の臨時快速列車「エキスポライナー」に用いられた。
※科学万博終了後は、東北・九州へ戻ったのはいうまでもない。

54 :
キハ65形900番台
国鉄でキハ91をキハ65に編入改造したもの。
キハ58と連結可能なように引き通し線を変更した上でブレーキを通常の自動空気ブレーキに変更した。
屋根上のラジエーターは撤去して床下強制通風式に変更した。
冷房化改造も行われ床下に4VKが搭載された。

55 :
南武鉄道モハ200形・サハ250形
1941年(昭和16年)に帝国車輌工業でモハ201-210の10両、サハ251-255の5両が製造された、
17m級の片運転台型半鋼製3扉制御電動車と運転台無し半鋼製3扉付随車で、1951年(昭和26年)まで南武線で使用された。
車体長は18m級の18,180mm、最大幅2,800mm、最大高4,184mm、自重はモハ200形が41.8t、サハ250形が29.6t、
前面はR付の非貫通3枚窓、屋根布押えは直線、運転室は密閉式の全室型、窓の天地寸法を拡大した関東私鉄タイプの2段窓で、
乗務員扉と客扉の間に在る客窓だけ幅が狭く、鶴見臨港鉄道のモハ500形・サハ550形を3扉車にしたスタイルで、
窓配置はモハがd1D4D4D2、サハが2D4D4D2のロングシート、類似車は帝都電鉄、東横電鉄、目黒蒲田電鉄、鶴見臨港鉄道など、
同時代の関東私鉄に多数存在していたが、そのなかでも窓の大きさは適度に大きく、屋根Rが低く抑えられ、
幕板の広い落ち着いたスタイルの車両であった。窓高さは東横・目黒蒲田のモハ510の850mmより大きく、
東横モハ1000の950mm、帝都モハ100の1000mmより小さい890mmで、鶴見臨港のモハ500形の910mmと同等の大きさであった。
幕板の高さは370mmと東横モハ510の390mmより狭く、東横モハ1000や帝都モハ100と比較すると広いものであった。
台車はUD-18で、出力100kWの主電動機を4台と歯車比63:16=3.94で牽引力2920kg/速度46km/hの性能となっており、
同時期の関東私鉄車と比較すると定格牽引力が高く、定格速度もさほど低くないのが特徴であった。

56 :
運用は南武鉄道初の3両編成で運行、買収後も南武線でそのままの番号で使用、その後、他線区に転属するようになった。
1950年(昭和25年)にモハ201-サハ251-モハ202の3両が一旦、東急横浜製作所に貸出しされた後、宇部線に転属、
翌年までに残り12両全車が転属、その後さらに全車可部線に転属、1953年(昭和28年)の車両形式称号規程改正では、
モハ2001の2001-2010、サハ7021の7021-7025となった。1957年(昭和32年)にモハ2001-2004とサハ7021-7022の6両、
1958年(昭和33年)に残り9両が富山港線に転属、全車が横須賀色(スカ色)にされたと同時に更新修繕が行なわれ、
パンタグラフのPS13化、雨トイ縦管の位置を乗務員扉横、連結面端部に変更、高圧線や鍵外し線の内側への引き通しなど、
車体外装は国鉄車輌に劣らないほど綺麗にされ、富山港線の昇圧まで、主力として使用、富山港線が昇圧した、
1967年(昭和42年)に全車が廃車され、クモハ2003-2006、サハ7022・7023の6両が高松琴平電気鉄道に譲渡、
同社のモハ6001-6004、サハ6051・6052となり、1985年(昭和60年)まで使用された。
クモハ2007-2010、サハ7024・7025の6両が伊豆箱根鉄道に譲渡され、同社のモハ35-38、サハ23・24となり、
大雄山線で1987年(昭和62年)まで使用、その後6両とも伊予鉄道に再譲渡、同社のモハ210形211-214、サハ251-254となり、
2000年(平成12年)まで使用され、最後に残ったモハ214が古町車庫に保管されている。
クモハ2001・2002とサハ7021の3両は富山港線の城川原車庫から矢向電車区に里帰りをしたが、
昇圧工事をして無かったことから、そのまま留置、1972年(昭和47年)頃に解体された。

57 :
阪急電鉄1000系・1300系(新)
阪急では、創立以来のマルーンにこだわりを持ち続けているため、
近年の鉄道車両規格化の流れにも消極的であった。
そのため、日立Aトレイン規格の9000系列が導入されるも、
カスタマイズ仕様ゆえに車両置き換えのペースは遅く、いまだに昭和30年代製の車両が
多数残る状況であった。
そうした中、J−TRECから海外展開を考慮した
新型通勤車両モデル「SUSTENA」が登場した。
これはステンレスでありながら、車体表面が平滑なのが特徴で、
阪急伝統のデザインも簡単に実現できることから、
その標準軌中型版として導入が決定した。
伝統のマルーン1色の車体は車番も含めラッピングで表現されているが、
中身は阪急伝統の木目模様・間接照明となっている。
これにより、5000系列以前の車両置き換えが一気に進むこととなった。
なお、共通化をかねて大筋は同系に準拠するも、内外装を簡略化した山陽6000系も
同時にデビューし、3000系鋼製車を置き換え始めている。

58 :
小田急1800形電車
戦後に国鉄63系電車の製造割り当てを受けた車両で、小田急電鉄初となる全長20m級の大形車両となり、
収容力を生かして朝の通勤ラッシュ時の輸送に重宝され、小田急20m級車体の基礎となった。
車体長19.500mm・全長20級、車体幅2.800mm・全幅は2.930mm、前面は切妻の非貫通3枚窓で、
側面は扉の間に高さ900mm×幅700mmの中段固定、上下段上昇式の3段窓が4枚並び、このうち1箇所は戸袋窓、
側面の客用扉は1.000mm幅の片開き扉が4箇所に配置され、4枚の客用扉は車体後方に向って開き、
いずれもドアエンジンを装備した自動扉である。座席は肘掛けが木製のロングシート、内装は戦時設計のまま、
天井板はなく鉄骨がむき出しで、室内灯も裸電球がぶら下がっていた。
主電動機は国鉄制式のMT40を搭載、駆動装置は歯車比66:23=2.87の吊掛式、
制御器は戦前形の電空カム軸式であるCS5を使用、制御段数は直列5段、並列4段、弱界磁1段で、
ブレーキは自動空気ブレーキで、国鉄標準のA動作弁、運転台のブレーキ制御弁としてM23弁を搭載、
電動発電機 (MG) と電動空気圧縮機 (CP) も国鉄仕様で、集電装置は運転台寄りの屋根にPS13パンタグラフを搭載、
台車はデハ(電動車)とクハ(制御車)ともにTR35(DT13)を装着、連結器は国鉄制式の柴田式密着連結器を装備、
起動は在来車と比較して格段に大きく、発車の際のショックが大きかったため、後に弱界磁起動に改造された。
形式は小田原線と江ノ島線だけで見れば1600形の次に導入された形式であるが、当時は東急の一路線で、
小田急の子会社にあたる帝都電鉄が建設した井の頭線に導入された新形式車両が1700形であったため、
それに続く制御電動車がデハ1800形、制御車はクハ1850形と付番・導入されることになった。

59 :
1946年(昭和21年)8月から2両編成2本が入線、同年10月から運用を開始、これらの車両は小田急電鉄にとっては、
初めての20m級車両であり、車両限界などは戦時中に国鉄車両の入線が在り、改修工事が行なわれていたことから、
入線に対して問題にならず、1948年(昭和23年)12月までに他社からの譲渡などを含めた2両編成16本、計32両となった。
桜木町事故発生後の1951年(昭和26年)6月から車体の強化、2両間の貫通路を拡幅の上で幌で連結する改修が行なわれ、
翌年の1952年(昭和27年)7月には新宿駅-本厚木駅・江の島駅間の主要駅ホーム延伸が完成、1800形の4両編成化を実施、
1954年(昭和29年)には3段窓の2段窓化、天井板の設置や手すりの増設、カバー付き室内灯の新設などが行なわれた。
1958年(昭和33年)に東急車輛製造で車体の更新修繕とデハ1800形8両、クハ1850形8両の中間車改造が行なわれ、
車体は台枠を流用しているが、新造に近い全金属製のノーシル・ノーヘッダーの4扉車体で、切妻だった前面は、
国鉄の41系・51系電車と同じ丸みが付いた貫通扉付きの半流形前面となり、前面灯火類は位置を変更、埋め込み式になり、
高圧線や鍵外し線も屋根上から室内に埋め込まれ、貫通扉部には渡り板が無いことから、63形の面影を残さない前面となり、
乗務員扉と客扉の間に在る客窓は幅500mmの小窓となり、その部分の室内には座席は設置されなかった。
パンタグラフも乗務員側の屋根に搭載されたままだったことから、いわゆる前パン車として人気が高かった。
中間車化されたデハとクハ、計16両は乗務員室を撤去、前面の撤去、中間妻面の製作、座席と客窓を設置し、
完全な中間車化され、電動発電機と電動空気圧縮機の搭載された。内装も灯具は蛍光灯を採用、
内壁は薄緑色のアルミ製デコラ張りとなり、通風器の場所に扇風機が設置された。
小田原向きからMc-T-M-Tcの4両編成8本になり、制御電動車がデハ1800形の偶数車、中間電動車がデハ1800形の奇数車、
制御車がクハ1850形の奇数車、中間付随車がサハ1850形の偶数車になった。

60 :
架空か?

61 :
1968年(昭和43年)に体質改善工事を施工、前照灯はシールドビーム2灯式に変更、列車種別表示器の設置、
密着連結器に交換、OM-ATSと信号炎管の追設が行なわれ、1970年(昭和45年)塗装も青色と黄色の一般色から、
ケイプアイボリーにロイヤルブルーの帯が入る塗装に変更、1972年(昭和47年)には小田急全駅のホーム延伸が完成、
10両編成化の実施で、2000形や2500形との併結運転を開始、翌年からは新造車の5000形と併結が開始された。
ところが1973年(昭和48年)4月19日に5000形との併結運転で脱線事故が発生、翌月の5月2日にも脱線事故を発生、
5000形と2度の脱線事故を起したことで急遽、全形式の併結運転を中止、以後は1800形のみ8両編成で運用され、
日中の各停列車、新宿駅-相模大野駅、相模大野駅-小田原駅などの運用に使用されていたが、
低加速車両であることから1979年(昭和54年)3月26日のダイヤ改正から廃車が始まり、最後の4両編成も、
1981年(昭和56年)7月13日のダイヤ改正で消滅した。廃車後は秩父鉄道に制御電動車と制御車の計20両が譲渡された。

62 :
415系2000番台
1988年に登場した1500番台の最終発展型で、211系同様の添加励磁式の制御方式に変更された。
またこの番台からは形式番号も一部変更された。
1 クハ411がなくなり、偶数方はクハ414 奇数方はクハ415に変更
2 モハがパンタ付がモハ415パンタなしがモハ414と逆になる。クハやサハのMGがなくなり、モハ414に
190KVAのMG搭載に変更。
3 サハ411→サハ415に変更。
211系2000番台を基本としたものとなっており、全てオールロングシートである。
403系及び初期型415系の置き換えとして7両編成5本及び4両編成3本が勝田に配備された。
E531系投入時に3編成が10両編成に組み換えられ、この際グリーン車はサロ210と211の改造で充てた。
4両編成もサハ211を改造の上組み込んで5両編成化した。基本的に切り離しを行わない土浦及び
勝田行きを主体に使われた。
2010年にVVVF化されて5000番台に変更され、同年にはグリーン車がサロ212 213からの改造に
変更されて2階建て化している。
しかし2011年の東日本大震災で付属編成の1本が大甕駅で脱線してしまい、損傷多数で廃車された。
東北縦貫線で直通する常磐線に415系を使用しない方針となったために2014年にE233系3000番台の
交直両用版であるE533系に全て置き換えが決定。
いわき以北で使われる予定だが、一部はJR九州に譲渡が検討されている。

63 :
>>57
阪急ならステンレスでも塗装すると思う

64 :
>>30に続く平行世界もの
◎大阪市交通局40系電車
1985年登場 地下鉄本町松屋町線 国鉄阪和線直通
○1971年に近畿圏都市交通審議会にて大阪の地下鉄松屋町筋線と国鉄阪和線との相互直通運転が答申され、
紆余曲折を経て大阪市交通局が建設し、1986年に大阪市営地下鉄本町松屋町線として開業、阪和線と直通を開始した。
経路と駅は、阪和線美章園駅〜阿倍野〜松屋町〜農人橋〜本町二丁目。
建設費低減の為、近隣に並行して堺筋線と谷町線が在ることから平均駅間距離を長くして高コストな地下駅を削減。
松屋町筋自体がビジネス街等の既存の集客地から離れているので、利用客増と採算性向上の観点から、答申とは異なり、
南北の松屋町筋の農人橋駅から東西の本町通へ至り、農人橋駅は西と北方向への分岐駅として準備された。
因みに近鉄南大阪線との直通も検討されたが阿部野橋駅の近鉄百貨店に悪影響を与えるからと近鉄が断ったそうだ。
この本町松屋町線用にと大阪市交が新造投入したのが、40系であり、85年に試作車が登場。
84年に日本でのVVVFインバータ制御の第一世代として20系が量産されていたので、
40系試作車もGTO素子のVVVF制御の3M3Tの六両編成で登場し、阪和線等の国鉄線で長期試運転を実施。
が、しかし、VVVF制御の黎明期、揺籃期が故に、悪天候時には空転が多発する欠点が露呈。
そこで、製造費低減も兼ね、VVVF制御の代替として、営団地下鉄(現東京メトロ)の01系で実用化された
高周波分巻チョッパ制御(四象限チョッパ制御)を採用。
車体の意匠は20系を20m車体にしてパンタグラフを設置し様なもの。
大阪市交初のボルスタレス台車を採用。
中間電動車3両、先頭付随車2両、中間付随車1両による3M3Tの6両編成。
86年の就役以後、直通先の阪和線では専ら各駅停車であり、87年に直通先の国鉄がJR西日本になった。
2005年以後、IGBT素子VVVFインバータ制御への換装等の車両更新が竣工された。

65 :
西武6000系 L-train
西武鉄道ではこのほど、3000系ではなく直通する6000系にもL-trainを運行する事に決定した。これは、3000系が近いうちに廃車になるのが予想されている為、また副都心線・東急東横線でもライオンズをアピールする狙いがあった。
対象の編成はスマイルビジョンを取り付けした車両となり、ライオンズのラッピングがされるようになった。
また、ベイスターズトレインを抜かすシーンもところどころで見られるようになっている。たまにベイスターズトレインがL-trainを抜かすと、下克上だ。というファンがいるとかいないとか。
さらに西武車が東横線内完結の運用もあるが、この運用はライオンズファン曰く、「横浜で育成」とも揶揄されている。

66 :
京急1000形12次車:
総合車両のSUSTINA採用、川崎重工でのSUSTINA試作(+PMSM試作)。無塗装から塗装に改められた。
京急1000形13次車:
川崎重工でのA-Train試作(+SiC-VVVF/誘導電動機)。
京急1000形14次車:
総合車両製はSUSTINA/川崎重工製はSUSTINAとA-Trainが半々(SUSTINA編成はロールバーが目立つ。A-Train編成はロールバーが無い、外観は殆ど同じ)。
新逗子急行の2000形の老朽化に伴う置き換え。

67 :
京急200形電車
1942年(昭和17年)に京浜電鉄初の片運転台で、発注時は京浜デ201形・ク251形、湘南デ251形・ク270形だったが、
完成時には両社は大東急に併合、この形式は幻に終り、東急デハ5300形16両、クハ5350形8両を新製された。
車体長18.120m、車幅2.700m級のシルヘッダー付き半鋼製車、前面は窓寸法が揃った非貫通三枚窓、貫通路は広幅を装備、
この車体寸法が、その後の京急ばかりか、都営浅草線や京成グループの標準寸法の元となった。
当初は京浜電鉄側で電動車25両と制御車15両、湘南電鉄側で電動車15両と制御車10両の発注が計画されていて、
京浜分の電動車10両と制御車4両、湘南電鉄分の電動車6両が完成した時点で営業運転を開始、
1943年(昭和18年)には電気部品調達が未定となると、制御車4両を新製して残り分はキャンセルされた。
1945年(昭和20年)5月29日の空襲でデハ5303とデハ5307が焼失、後に制御車・クハとして復帰、その後電装された。
京浜急行電鉄成立後はデハ300形・クハ300形を名乗り、1951年(昭和26年)昇圧工事と4両編成運行が始まり、
1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて1000形に準じた室内更新、前面と側面二段窓のアルミサッシ化、
(運転窓一枚と二枚の二段窓も原型のままアルミサッシ化された)
主電動機も出力115kW(150馬力)から強力な三菱電機製MB-311AFR 150kW(200馬力)に変更、
デハ300形の半数8両、クハ300形の全車が中間車化改造され、編成替えで4M2Tの4両編成4本に固定編成化、
1965年(昭和40年)10月19日の一斉改番でデハ200形に統合されデハ201-218、サハ250形251-258となり、
1969年(昭和44年)に連結面寄りの屋根に列車無線アンテナ新設、前面と側面に方向幕設置など度重なる改造を実施、
主に急行・普通列車に運用されていたが末期は本線で普通運用専用となり、廃車は1983年(昭和58年)から始まり、
1984年(昭和59年)3月31日に旅客運用から外れた。
編成表(改番以降)
Mc201-M202-T251-T252-M203-Mc204
Mc205-M206-T253-T254-M207-Mc208
Mc209-M210-T255-T256-M211-Mc212
Mc213-M214-T257-T258-M215-Mc216

68 :
サロ165-900番台
国鉄が製造したサロ165のアルミ車体試験車。
サロ165は1段下降窓を採用していたが雨水侵入による腐食に悩まされており抜本的な対策として試験的にアルミ車体で製造した。
塗装されているため普通のサロ165とは一見すると見分けがつかない。
アルミであるため意外と長持ちし113系のサロに編入された後JR東日本に承継された。

69 :
キハ202
JR北海道が開発した733系の気動車バージョンで、ビードレスステンレス車体である。
キハ203
JR北海道が開発した735系の気動車バージョンでアルミ車体である。
しかし両者とも設計上の制約からエンジンが大きすぎてフルフラット床面に出来ず、しかも簡易車体傾斜装置を搭載したため車体断面や床面形状が731系と同一である。

70 :
>>64に続く平行世界もの
◎国鉄301系100番台
○1960年代半ばに都営地下鉄三田線は東武東上線と東急池上線との相互直通運転を反故され、
軌間1067mmと15kV架線集電の規格を持て余し、その後、三田線の有効活用として浦和、大宮への延伸が答申された。
一方、新幹線の騒音振動公害が社会的に見過ごすことができない問題になった1970年代、
東北上越新幹線の赤羽〜大宮区間の建設に対して沿線住民による大規模な反対運動が起きた。
これの沈静化目的に当区間での新幹線の110km/h制限、そして並行して通勤新線(現・埼京線)の整備も実施。
この埼京線と三田線を相互直通運転させる構想が浮上し、実現に至った。
両路線の接続は三田線の志村坂上駅から分岐して埼京線の浮間舟渡駅に至る三田線の支線で、
これの浮間舟渡駅は地下ホームと埼京線とは別々、荒川土手で地上に出て埼京線と合流。
1985年秋、赤羽線の編入も含む埼京線自身及び、三田線との相互直通が開業。
この直通用途に国鉄が新造投入したのが、301系100番台である。
国鉄末期の当時、国鉄は財政破綻寸前で車両投資には厳しい制約があり、
電機子チョッパ制御の203系と界磁添加励磁制御の205系が量産中であったにも拘わらず、
千代田線と違って三田線の都営側車両は抵抗制御の6000形であること、
界磁添加励磁制御は実用化したばかりの新技術であること、
都営の労働組合事情などの諸事情の制約もあって費用対効果の観点から、
103系一族で抵抗制御、空気バネ台車、アルミ車体の301系を約16年ぶりに再生産。
後述の約16年分の技術の進歩を取り入れ、100番台となる。
意匠は、203系と同様の車体、後の207系900番台と同様の運転台で、301系0番台とは大きく異なる。
ボルスタレス台車、冷房装置を搭載。
Tc、T'c、M、M'の車種四種で、4M2Tの6両編成。
85年の就役以来、大宮〜三田間の直通運用に充当。
87年にJR東日本に承継。
2000年の南北線・三田線の目黒延伸及び東急目黒線直通開業時には、新型車に置き換えられ、JR西日本に譲渡。
阪和線から大阪市営地下鉄本町松屋町線( >>64 )直通運用の増発に充当、現役。
因みに、三田線、南北線、2003年に白銀高輪から分岐しJR品川駅新幹線ホーム側の港南口に至る支線も開業し、
直通区間が品川まで延長。

71 :
>>70を以下の通りに修正する。
車両形式301系100番台を、301系1000番台に修正。
>15kV架線集電 × → 1.5kV架線集電 (小数点が抜けていた)

72 :
京急220形電車
1949年(昭和24年)京浜急行電鉄成立後に初めて製造、運輸省規格型車体を持つもので、当初はデハ420形を名乗った。
運輸省規格に合わせたため車体長は400形よりやや短く、このグループのみ車体長17.000mの片運転台車だった。
計16両が製造され、2両編成、4両編成で運用、新製当時の塗色も黄と赤のツートンであった。
1965年(昭和40年)から一斉改番に合わせ、大幅な更新修繕が実施され、規格型新製当時の粗悪鋼材によるものか、
更新修繕はデハ300形よりも徹底され、原形を残しながらも外板は全面張替えでノーシル・ノーヘッダーの全金属車体化、
前面窓の一枚化、シールドビーム化、通風装置の首振り扇風機化、先頭車には交流化された電動発電機と空気圧縮機を搭載、
半数の先頭車を中間車化、先頭車の運転台寄りに搭載されていたパンタグラフは撤去され、先頭車はパンタグラフ無しとなり、
先頭車への給電は高圧線の引き通しで給電する方法となり、先頭車と中間車の2両は永久連結となり、4両固定編成化、
中間車のパンタグラフは先頭車寄りの連結側になるように編成替えと番号入替で、デハ220形221-236に一斉変更された。
1970年(昭和45年)頃からは運転面寄りの屋根に列車無線アンテナ新設、前面と側面に方向幕設置など改造を実施、
末期は普通運用、京浜川崎-逗子海岸間の急行併結に充当されたが、1983年(昭和58年)に全車が廃車された。
編成表
Mc221-M222-M223-Mc224
Mc225-M226-M227-Mc228
Mc229-M230-M231-Mc232
Mc233-M234-M235-Mc236

73 :
211系2000番台JR東海仕様
国鉄が静岡運転所に配置した211系2000番台。
5両編成である。
そのままJR東海に承継され、東京乗り入れ運用や静岡ローカル運用で使用された。
ATS-Pを装備しており、列車番号表示機は東日本車に合わせてマグサイン式に取り替えられていた。
2012年3月ダイヤ改正で東京乗り入れ運用から撤退し、全車神領車両区に転属したが2M3Tで加速が悪いため朝ラッシュ時のみの限定運用が組まれている。

74 :
E233系2900番台
JR東日本が試作したE233系のワイドドア試験車。
2000番台をベースにドア幅が1800oに拡大された。
東京メトロ東西線乗り入れ用に投入。

75 :
京急300形電車
1947年(昭和22年)から岡山県の三井玉野造船所で、木造車両の改造扱いとして制御車16両、付随車16両が製作された。
大東急分離以前であったため東急デハ5400形・サハ5450形として竣工、デハ5400形は京浜デ201形に続く片運転台、
車体寸法や外観は前記のデハ5300形と同じで、いかにも造船会社の製作らしくリベットが目立ち、ガラス不足の為、
客用扉の窓や戸袋窓には桟が十字に入り、ヘッドライトの支持方法にも特徴のある一種独特の車体外観で、
京浜急行電鉄成立後はデハ400形(初代)・サハ450形を名乗り、新製当時の塗色は京急初の黄と赤のツートンとされた。
当初は電動車2両・付随車1両の3両編成で営業運転を開始、1950年(昭和25年)に付随車8両が製作され、
デハ400形16両・サハ450形16両の総勢32両の大所帯になり、1951年(昭和26年)から4両編成で運行された。
戦後の粗悪な部材に加え、それまで鉄道車輌製造の経験がないメーカーによるものであったためか、
早期に外板の状態が不良となったものが多く、1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて久里浜工場で、
外板の張替えが全車両に行なわれ、前面は非貫通三枚窓、シルヘッダー付きのままであったが、側面を三扉から四扉に変更、
車体窓配置はデハがd1D(1)1D(1)1D(1)1D(1)1、サハが2D(1)1D(1)1D(1)1D(1)1と京急初の四扉車となり、
デハとサハの両車端客窓は幅400mm×高さ900mmを二列配置したことで寸法を調整、1000形に準じた室内更新、
前面窓以外の側面二段窓アルミサッシ化(運転窓一枚とと二枚の二段窓は200形と違い、アルミサッシ化されなかった)
サハ450形の全車も加速力向上で電装化され、一旦はデハ440形に編入、更新車体載せ変え名義でクハ140形の10両が、
300形に準じた車体に載せ変えられサハ460形461-470に編入、4M2Tの6両固定編成5本と4両固定編成3本になった。
同時に主電動機も出力115kW(150馬力)から200形と同じ、三菱電機製MB-311AFR 150kW(200馬力)に変更、
1965年(昭和40年)10月19日の一斉改番でデハ300形301-316、デハ320形321-336、サハ340形341-350となった。

76 :
また1968年(昭和43年)には電装解除されたデハ160形6両が300形に編入され、サハ340形351-356に改番、
車体更新名目の載せ変え名義で、デハ320形に準じた4扉車体に載せ替えられ、4両編成3本に編入、6両固定編成とされた。
1970年(昭和45年)頃からは連結面寄りの屋根に列車無線アンテナ新設、前面と側面に方向幕設置など改造を実施、
特急運用から急行・普通列車に運用され、1981年(昭和56年)4月1日からはサハ350形2両を抜き、全車が大師線で運用、
編成から外されたサハ350形は同年7月31日付で廃車、1985年(昭和60年)に初期車両から廃車が始まり、
1986年(昭和61年)の7月31日に全車が廃車された。
300形が廃車されたことでパンタグラフが運転台寄りに搭載された車両が京急から消滅した。
編成表(1968年から1981年3月31日まで)
Mc301-M321-T341-T342-M322-Mc302
Mc303-M323-T343-T344-M324-Mc304
Mc305-M325-T345-T346-M326-Mc306
Mc307-M327-T347-T348-M328-Mc308
Mc309-M329-T349-T350-M330-Mc310
Mc311-M331-T351-T352-M332-Mc312
Mc313-M333-T353-T354-M334-Mc314
Mc315-M335-T355-T356-M336-Mc316

77 :
ワム980000
国鉄が開発したワム80000の高速運転試験車。
一軸台車を採用することで最高95km/h運転に対応した。
しかし量産化されず結局通常の2段リンク式に改造されてしまった。

78 :
323系
JR西日本が製造したアルミ通勤車。
321系をベースにアルミ車体に変更した。
側面衝突に耐えられるように車体にステンレス製の補強材が入っているのが特徴。
全車日立製作所製である。

79 :
クロE233
モハネE585

80 :
小田急1900形電車
大東急から分離独立後の小田急電鉄が、初の通勤型新造車両として1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)まで、
4両編成7本、計28両が日本車輌で製造され、敗戦後の混乱期に各種機器や部材の調達・生産には困難が伴う状況下、
運輸省規格型電車に準拠して設計され、小田急電鉄最後の17m級3扉車となった。
車体は1800形導入で小田急全線の車両限界が拡大されたのを受け、車体長17.500mm、最大幅2.800mmとなり、
前面は1600形と同様僅かに丸みを帯びた貫通型で、尾灯(標識灯)は正面窓上に設置した。以後、小田急の電車では、
ウインドウシル・ヘッダーの有無や張り上げ屋根の採用など多少変化しているが、5000形6両固定編成(5200形)まで、
長きに渡りこの前面デザインを受け継ぐことになり、いわゆる「小田急顔」の走りともいえる。
側面の窓寸法は高さ950mmになったが、幕板部が大きく、やや重苦しい印象を与え、国鉄40系のモハ33に似た外観に近く、
配置はデハ1900形がd1D(1)3D(1)3D(1)1、サハ1950形が2D(1)3D(1)3D(1)1と関東私鉄標準型の姿で、
各車両間の貫通路は1.100mm幅と広くしたが、これは関東地方の私鉄では初の本格導入例となり、また貫通幌は、
両側の車両を1枚で結ぶもので、これは日本の鉄道では初の本格採用例である。

81 :
基本編成はデハ1900(奇数制御電動車)-サハ1950(奇数付随車)-サハ1950(偶数付随車)-デハ1900(偶数制御電動車)の、
McTTMcによる4両編成となり、性能や電装品等は1600形とほぼ同一で、扉間にロングシートを配置した半鋼製車体であった。
1949年(昭和24年)9月に第1編成が竣工、同年11月に第2編成、翌年の1950年(昭和25年)の2月に第3編成と、
三ヶ月置き、1951年(昭和26年)3月の第7編成まで配置され、1952年(昭和27年)7月には新宿駅-本厚木駅・江の島駅間の、
ホーム延伸が完成したことで、本厚木駅以西の本線運用に重点が置かれ、本厚木以西のホーム延伸が進捗するにしたがい、
次第と江の島線の運用に集中していき、1961年(昭和36年)から更新修繕を実施、前面窓のHゴム化や側面窓の交換、
雨樋の取替え、客用扉のプレスドア化などが行われた。20m級車体が出揃ってからの1900形は江の島線の他、
昼間の乗客が格段に減る本厚木駅-小田原駅間の各駅停車に運用されていたが、20m級4扉車が揃いつつある現状、
17m級3扉車は収容力と乗降口の違いから、運用で扱いにくいことから、1700形と同じ4000形への機器提出候補となり、
1968年(昭和43年)から廃車を開始、主電動機と一部機器を4000形に提供、残った車体は1700形と同じ、
更新を受けて車体の寿命が新しかったことから、国鉄入線で車両限界が拡大され、地方鉄道法の最大幅2.744mmを超過した、
富士急行・岳南鉄道・大井川鉄道・伊予鉄道などの各社へ譲渡された。

82 :
オロ17/スロ16、スロネ17
オシ17・オシ16・オハネ17・カニ38に続く台枠&床下機器流用による改造車。
種車はスハ32系・オハ35系のみならずオハ60も使用。

オロ17/スロ16
準急以上の列車の並ロを特ロにする為に作られたもので、当初はオハ61の改造で行う予定であったが予想外に使えないものだった(窓割りなど)ので、オハネ17と同じ方式での改造となった。
車体はナロ10の設計図を使って製作し、床下機器は流用。台車はスハ43のTR47を使う予定がやりくりできず、代わりにオロ35/スロ43のTR23Eを使用。
後に冷房化されてスロ16に。
スロネ17
オロネ10の増備車も同じやり方で作られたが、台車はスハ42のTR40を使い、マロネ41用同様に空気バネ化してTR40Dにしてから履かせた。
それ以外のスペックはオロネ10と同一。
供に東日本地区・北海道地区用として作られた為、57.11の改正まで(「北海道用は58.6まで)使われた。

83 :
京急400形電車
1953年(昭和28年)に3扉・ロングシート車両として先頭電動車デハ600形、中間付随車サハ650形として新造、
赤い車体に白い帯の塗装を初めて採用し、1956年(昭和31年)からの車両は車体を700形(初代)をもとにした、
全金属製車体に変更して1958年(昭和33年)までに4両編成8本、合計32両が製造された。
車体・台車は川崎車輛および東急車輛製造、主電動機と制御装置は東洋電機製造製であった。
車体長18.200mm、車体幅2.700mmの半鋼製車体で、当時の私鉄標準だったドア間に窓3枚の窓配置を初めて採用、
窓配置はデハがd1D(1)2D(1)2D(1)1、サハが2D(1)2D(1)2D(1)1、(d:乗務員扉、D:客用扉、(1) :戸袋窓)とし、
側窓は高さ1.000mm、幅1.000mmの2段上昇窓で下段中央を横切る位置に保護棒が設置され、戸袋窓の高さ1.000mm、
幅1.000mm、窓枠を介して上下2段に分割、ドアは鋼製プレスドアとされ、側窓と同じ位置に中桟が入っていた。
前面は当時流行のいわゆる「湘南形」の正面2枚窓だが、窓は1.000mm×1.000mmの正方形でセンターピラーが太く、
雨樋が先頭部窓上にもまわされたため、国鉄80系電車などとは大きく印象が異なっていた。
1956年(昭和31年)からは全金属車体となり、戸袋窓がHゴムはめ殺し、側窓に保護棒が付くが、扉窓の中桟も廃止、
前面も700形(初代)と同じ、幅1.000mm、高さ900mmの窓が採用された。
主電動機は出力110kWの東洋電機製造:TDK-553系、駆動方式は吊り掛け式、制御器は東洋電機製造製:ES-521A、
台車は川崎車輌製、長腕形軸梁式のOK-8・8A・8B・8C 東急車輛製、TS-K、TS-KA、ブレーキはAMM(自動空気ブレーキ)で、
このブレーキに空気圧を供給するコンプレッサーは電動発電機とともにデハ600形に搭載、
集電装置はデハ600形の運転台寄りに各1基ずつ通常の菱枠形パンタグラフを搭載した。

84 :
運用開始直後から普通、急行運用に該当し、1965年(昭和40年)10月19日の一斉改番と同時に大幅な更新修繕を実施、
1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)までの初期製造車は、前面を1956年(昭和31年)以降の製造車と同じ、
幅1.000mm、高さ900mmの前面窓になり、シールドビーム化、内装や床も全面的に張り替えられ、全金属化、
屋上通風器は一部を残して撤去され、700形(2代)などと同様のFRP製狭幅モニターが屋根中央部に設けられ、
通風装置の首振り扇風機化、先頭車には交流化された電動発電機と空気圧縮機を搭載、中間のサハも全車が電装化され、
先頭車の運転台寄りに搭載されていたパンタグラフは撤去され、先頭車はパンタグラフ無し電動車となり、
パンタグラフは電装化された中間車の奇数車は浦賀寄り屋根、偶数車は品川寄りの屋根に移設され、
先頭車への給電は高圧線を車両間に引き通しで給電する方法で、先頭車と中間車の2両は永久連結となり、
1965年(昭和40年)の一斉改番でデハ400形、デハ420形に改番され、1970年(昭和45年)からは運転面寄りの屋根に、
列車無線アンテナ新設、前面と側面に方向幕設置など改造を実施、普通運用、急行併結に充当されたが、
1985年(昭和60年)から1986年(昭和61年)までに全車が廃車された。
編成表・更新後
Mc401-M421-M422-Mc402
Mc403-M423-M424-Mc404
Mc405-M425-M426-Mc406
Mc407-M427-M428-Mc408
Mc409-M429-M430-Mc410
Mc411-M431-M432-Mc412
Mc413-M433-M434-Mc414
Mc415-M435-M436-Mc416

85 :
国鉄 北海道総局 オクハ51
国鉄末期、余剰になっていた旧客が本州から大量転属することになり、さすがにアコモなどがひどいということから
50系と同等の設備に改造することを条件に出し、本社採用された
そこで、苗穂工場において50系客車と同等の車体を新製するとことなったが、どうせなら同じくヤード廃止により余剰となっている
DE10に牽引させてローカル線などの老朽気動車を駆逐しようということになり、機回し不要なようにRュ運転可能にしようとなり
オハフ51の車掌室に運転装置を取りつけたような形となった
オクハ51+オハ51+DE10 が基本となったが、中間にキハ40などをユニットカットの上挟み込むような運用も可能にしている
標津線や羽幌線、釧網本線のような長大ローカル線で威力を発揮したが、それらの長大ローカル線が廃止になると
根室本線や宗谷本線などに投入された
JR化後も継承され、ワンマン化改造、冷房化改造や一部ノロッコ号用の車輛に改造されながら平成20年まで活躍した

86 :
国鉄 北海道総局 キヤ56系
人跡未踏な日高国定公園内を突き抜ける石勝線での工事用に作られた、キハ56を改造して作られた工事用車輛
キソ56   :本形式唯一の新製操重車 レールなどを持ちあげるのに使用されるクレーン車
キヤ56−1:移動工事事務所として使用される車輛で、車内は事務机や行程管理用のホワイトボード、簡単なミーティングが出来るスペースがある。
キヤ56−2:簡易食堂車 中央に長机が長手方向に伸び、テレビや給湯設備がついている
キヤ56−3:調理室及び食糧庫がついた車輛
キヤ56−4:工事関係者のうち、現場責任者などの管理職用の宿泊設備がある車輛 1人用個室が4部屋とトイレ・シャワーがある
キヤ56−5:シャワー及び編成全体で使用する水タンクがついた車輛
キヤ56−6・7:工事関係者用の宿泊車 プルマン式寝台が並び、各ベッドの足もと上部には私物品収納棚が設けられている
キヤ56−8:編成及び近傍で使用する電源を積んだ車輛
石勝線工事完成後は、青函トンネルの線路敷設に使用され、トンネル開業後は大規模工事や災害復旧作業用に苗穂で待機することとなった
JR化後も継承され、その宿泊能力を生かして「動く宿泊学習」として小中学校の野外教室として運用されることもしばしばあった
2011年に発生した東日本大震災では、JR貨物に貸しだされ、その宿泊能力を生かして宮城野貨物駅に臨時避難所として停泊し、約3カ月に渡り
被災者の収容を行うなど、活躍している

87 :
国鉄クモハ102形(Mc')
モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機や空気圧縮機などの補助的な機器を中心に搭載する。
偶数向き専用。新造は京浜東北線専用で1965年-1968年に限られたが、運用の拡大で3両または5両を組成する必要が生じ、
1972年から前照灯をシールドビーム2灯、客室窓をユニットサッシに変更して製造、翌年には0番代と同じ、
冷房装置を標準搭載して1977年まで製造された。
尚、クモハ102形が所属する電車区ではクモハ103形の配置が少なく、本来の3両または5両を組成以外でも、
4両や6両編成の形成でも使用され、後年の常磐線には京浜東北線から転出したクモハ102形の大半が配置されていた。

88 :
国鉄85系電車
北陸線の客車列車及び気動車列車(彦根−木之本、近江今津−敦賀の)の電車化の為に80系を改造して誕生。
クハ87001〜:クハ86基本番台を改造したもの
クハ87301〜:クハ86300番台を改造したもの
クハ87401〜:クハ85を改造したもの
モハ85001〜:モハ80基本番台を改造したもの
モハ85301〜:モハ80300番台を改造したもの
サハ86001〜:サハ87を改造したもの
運用された編成
基本編成:Tc87+M85+M85+T86+M85+M85+Tc87
付属編成:Tc87400+M85
所属は金沢。
全車JR酉に引き継がれ、なんと!21世紀になった今もN40改造(同時に冷房装置を搭載)を受けて使い続けられている

89 :
西武鉄道「あの花」号
アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」とのタイアップでNRAを使用し、池袋〜西武秩父で運転された臨時特急。
同様にメインキャラクターのあだ名をつけた特急も運転されたが、なぜか某キャラのものばかり記事では使用された。

90 :
大井川鐡道10000系
老朽化した元南海ズームカーならびに元近鉄特急車の置き換えとして導入。
旧1000系のものを流用して老朽化が進む駆動系機器は、比較的浅い経年で廃車となった名鉄車のものに交換。
ワンマン化改造のため、運転席側のデッキは撤去、座席はリクライニング機構を解除した(転換は可能)。
塗装は「サザン」として登場時のものに復刻。濃淡の緑色が茶畑やSLとの並びによく合うと好評を博す。
南海旧社紋が取り付けられた位置に大井川鐡道の社紋が取り付けられている。
この置き換えの結果、大井川鐡道に所属する電車は、これと元京阪テレビカーの2種となる。

91 :
>>70-71に続く平行世界もの
◎国鉄・JR四国“本四淡路線”
○本四架橋が決定する前の1960年代半ばに国鉄単独で、神戸市鷹取から明石海峡付近、淡路島、鳴門海峡付近を経由して
四国鳴門へ至る本四淡路線が着工された。
経路は、現在名で、山陽本線鷹取〜須磨浦公園〜淡路夢舞台〜淡路大磯〜洲本〜福良〜押登岬〜里浦大磯崎〜鳴門線鳴門。
明石海峡と鳴門海峡は海底トンネルで通過。
両海峡の最狭部は海釜(かいふ)と呼ばれる水深が深い海底渓谷となっている為、海峡最狭部上に設置出来る
明石海峡大橋と大鳴門橋とは異なり、それを避けて水深が浅く平坦な海底を選びトンネルを建設したので、
明石海峡トンネルと鳴門海峡トンネルは対応する本四架橋とは離れている所に位置。
それでも関門トンネルに比べ水深が深い等地形上の制約で両トンネルは最大40‰の急勾配が連続する線形上の難所に
なってしまった。
これにより粘着性能が高い動力車が要求されることから、本四淡路線は、鳴門線と高徳線池谷・徳島区間と共に、
当時の技術水準及び費用対効果の観点から交流20KV60Hzで電化。
直流電化の山陽線との接続駅となる旧鷹取操車場前の手前に交直デッドセクション。
本四淡路線は湖西線並の高規格だが、想定需給面からの費用対効果上、両海峡トンネル以外は単線。
1980年に本四淡路線が開業し、当路線による神戸・徳島ルートで本州と四国は鉄路で直結されたが、
国鉄の財政状況の悪化で岡山と香川を結ぶ本四備讃線(瀬戸大橋線)との二重投資回避により、
鳴門から先の鳴門線、高徳線、徳島線の改良は手付かず、軌道は脆弱で、
高徳線池谷以西と徳島線は非電化のままで、高速運転が出来なかったので、
本四連絡における宇高連絡船等の鉄道連絡船の重要性は大きく低下することはなかった。
ただ、夜行は直通出来る本四淡路線ルートへシフトした。
なお阿波池田・川之江短絡線も同年開業。
87年4月の国鉄分割民営化で、本四淡路線はJR四国が承継。
折に触れて、この本四淡路線による神戸・徳島ルートを舞台とする鉄道車両を随時紹介する。

92 :
>>91に続く平行世界もの
◎国鉄ED80形交直流両用電気機関車
1979年
○1980年に神戸鷹取を起点に淡路島を経由して四国鳴門に至る本四淡路線が開業し、本州と四国は鉄路で直結。
海底地形上の制約から明石海峡と鳴門海峡の両海底トンネルは最大35‰の急勾配が連続する線形上の難所。
粘着性能が高い動力車が要求されることから、本四淡路線は、鳴門線と高徳線池谷・徳島区間と共に、
当時の技術水準及び費用対効果の観点から交流20KV60Hzで電化。詳細は >>91 参照。
この鷹取・徳島ルート専用に新造投入されたのが、ED80である。
高粘着性能要求の連続急勾配の存在で、EF81の様な交流電化の最大の利点を捨てる抵抗制御は採用せず。
当初、交流電化区間用にサイリスタ位相制御、直流区間用に電機子チョッパ制御を兼用する制御装置が検討されたが、
国鉄の財政事情悪化による製造費抑制の圧力で断念。
そこで、回生ブレーキ回路組み込みのサイリスタ連続位相制御の交流電機に、最低限の直流区間直通用抵抗制御を追加。
即ち、駅構内等のわずかな距離の直流電化区間に乗り入れ、機回しや入替えなどの構内走行のみで足りるものを追加。
交流区間の運転性能―例えば最高100km/h―に比べ直流区間での運転性能は構内走行―最高45km/h等―に特化し、
本線走行はできず、交流区間と直流区間では性能が異なり、直流区間では部分出力となる。
EF30とは逆コンセプト。
交流急勾配区間用の回生ブレーキ、重連総括制御、客車用電気暖房を搭載。
鳴門以遠の軸重制限により軸配置B-2-Bで、搭載機器の増加で車体長はF級並の18m。
車体は、耐候性高張力鋼板の出現で、EF30とEF81-300で採用のスキンステンレスは屋根以外止め、鋼製となった。
車体の意匠は、同時期量産のEF64-1000に酷似し、運転台に貫通扉。
79年に試作車が登場。
本四淡路線開業後、当ルートの貨物と旅客の牽引に就役、貨物列車牽引には重連があり、
鷹取・徳島間の50系客車使用の普通列車の運用が大半を占め、
花形運用は夜行列車の牽引や、徳島以遠へ直通するディーゼル特急の補機。
87年4月の国鉄分割民営化で、ED80はJR四国に承継。
2000年代に当ルートのローカル旅客は完全電車化され、多くが廃車、一部はJR貨物に譲渡された。

93 :
鹿島臨海鉄道7000形「ガールズパンツァー」ライナー」
7000系マリンライナーはまなすに大洗を舞台とした漫画化している「ガールズパンツァー」のラッピングを施したもの。
2両編成に大洗女子及び対戦相手の学校の戦車などが描かれている。
なお6000形には大洗女子の各チームの戦車ラッピングを施す計画。

94 :
>>92に続く平行世界もの
◎国鉄487系交直流特急形電車
1980年
○1980年、本四淡路線(神戸・鳴門ルート、海底トンネル、詳細は >>90-91 参照)の開業、
並びに当路線及び鳴門線及び高徳線池谷・徳島区間の交流電化開業に伴い、新大阪〜徳島間の電車特急が設定された。
急行を特急に統合して優等列車は特急のみとする国鉄の長期経営戦略により昼行の優等列車は特急のみ。
本四淡路線の明石海峡及び鳴門海峡それぞれの海底トンネル区間は地形上の制約で最大40‰の急勾配が連続し湿潤で、
当ルートの大半は単線との走行条件から、従来の485系電車では過負荷となって故障多発が危惧され、
従来の485系に比べ空転防止等の粘着性能の向上及び高い加減速度を要求されるので、
当路線に適合すべく新規設計された487系が投入される事になった。
本系列は、急勾配が連続する山岳路線用に設計された381系を非振り子・鋼製車体・交直流車にしたようなもので、
主電動機はMT58、主制御器はCS43それぞれの改良型、歯車比は急行形並と、381系の走行システムをベースとし、
バーニア抵抗制御を追加した。
車体は耐候性高張力鋼板による鋼製で、普通車では乗降扉が183/189系と同様に二扉。
車体の意匠は、同時期に量産中の781系に酷似。
車種は、クロ486(T'cs)、クハ487(Tc)、モハ487/486(M/M')の四種。
M'にはパンタグラフを搭載し主変圧器や主整流器などの交流区間走行用機器を集約し、広域転配想定の三電源対応。
4M2Tの六両編成が基本。
国鉄分割民営化を控えた86年度にJR四国の経営強化を目的に京阪神・徳島特急増発用に100番台が新造された。
以下の点で先述の0番台から仕様が大きく変更:
軽量ステンレス製車体、ボルスタレス台車、車体の意匠が同期のキハ185系やキハ183系500番台に類似した
貫通扉型の先頭車、TcとMに加え新車種クモハ487(Mc)とクロハ486(T'hsc)。
これにより三両編成登場。
87年4月の国鉄分割民営化で、487系はJR四国に承継。
90年代末に明石海峡大橋及び神戸淡路鳴門自動車道全線開通対策としての競争力強化及び延命を目的に、
回生ブレーキ付きの界磁添加励磁制御への換装などの大規模更新工事が施工された。
現役である。

95 :
>>89
お固い鉄ピクの表紙に「R」と書かれたHMつけたNRAが載るのかw

96 :
>>94に続く平行世界もの
◎国鉄417系500番台交直流近郊形電車、1000番台
1982年
○1980年に本四淡路線(神戸・鳴門ルート)の新規開業、並びに当路線及び鳴門線、高徳線池谷・徳島間の交流電化開業。
本四淡路線の明石海峡及び鳴門海峡各の海底トンネル区間は地形上の制約で最大40‰の急勾配が連続する難所。
詳細は、>>91-92 >>94 参照。
開業当初のローカル輸送はED80牽引の50系客車列車のみであった。
淡路島が神戸都市圏の通勤圏内になった事で当路線沿線の宅地開発に弾みがつき、今後の通勤客増加に対応すべく、
交直流近郊形電車を投入し、鷹取から東海道山陽線の神戸三宮方面灘までへの直通運転も開始することになった。
それ用にと、417系0番台を暖地向けかつ本四淡路線向けの仕様の500番台が新造された。
417系設計当初では暖地向けは想定されていなかったが、東北北陸の山岳路線での使用も想定した勾配抑速ブレーキ搭載、
最新の高性能な主制御器CS43系、絶縁性を強化し熱容量を高めた主電動機MT54Eと、本四淡路線にも適合した。
車体の意匠は、0番台と同様の乗降扉がステップと半自動機能付き両開き二扉で、雪切室の省略。
暖地向けなので製造費削減によりコイルバネ台車。
神戸大都市圏の近郊形電車なので屋根に集中式冷房装置搭載済み。
車種も0番台と同じで、McMT'cの三両編成が基本。
国鉄の財政悪化の影響で五編成しか製造されなかった。
国鉄分割民営化を控えた86年度にJR四国の経営強化目的に増備として仕様が大きく変更された1000番台が登場。
それは、車体と台車が415系1500番台とほぼ同一の軽量ステンレスとボルスタレス、ステップ無しの両開き三扉。
新車種クモハ416(M'c)と、それによるMcM'cの二両編成。
全車種の座席は415-1500と同様のオールロングシートで、トイレはM'cに。
87年4月の国鉄分割民営化で、500番台と1000番台はJR四国に承継。
バブル好況下の通勤圏拡大による通勤客増加に対応して、1000番台のサハ(T)が増備され、McTTM'cの四両編成化。
大阪神戸の通勤圏内となる本四淡路線はJR四国のドル箱路線となる。
バブル崩壊以後、追加新造せず、依然として残っていた50系客車の置き換えには、
JR東日本で余剰となった415系を購入し、勾配抑速ブレーキの追加等の改造で417系に編入した。
全車現役。

97 :
京急500形電車
1951年(昭和26年)から翌年にかけて戦後初の2扉セミクロスシート車として全電動車2両編成10本が製造、
赤い車体に窓廻り黄色の塗装を初めて採用、赤茶色の車両が多かった当時は大きな注目を集めた。
製造は1951年(昭和26年)分が川崎車輛(現・川崎重工業)、1952年(昭和27年)に東急横浜製作所で製造、
後年は車体更新による4扉ロングシート化、デハ500形の半数が中間車化された。
車体長18.200mm、車体幅2.700mmの半鋼製車体、京急電車として初めて窓の上下ウィンドウ・シルヘッダーが、
内側に埋め込まれたことで外装はノーシルノーヘッダーに似た外観となった。
前面は当時流行のいわゆる「湘南形」の正面2枚窓だが、窓は1.000mm×1.000mmの正方形でガラスに中桟が入り、
センターピラーが太く、雨樋が先頭部窓上にもまわされたため、国鉄80系電車などとは大きく印象が異なり、
前照灯は当時の標準に従い、屋根中央に1灯白熱灯を設置しており、標識灯は左右腰部に引っ掛け式を設置、
側窓は高さ1.000mm、幅1.200mmの2段上昇窓、下段に保護棒を設置され戸袋窓が高さ1.000mm、幅900mm、
ドアは鋼製プレスドアとされ、側窓と戸袋も同じ位置に中桟が入っていた。
窓配置はd1(1)D5D(1)1(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)とし、客用扉に隣接する左右両端の窓各1枚分と、
車端部を乗降を円滑にするためにロングシートとし、クロスシートは6組24席が設けられた。
中間連結部には1,000mmの広幅貫通路が設置、京急において貫通路が設置されたのは本形式が最初であった。
本形式の導入当初、北品川-八ッ山橋間に存在した急カーブ区間は、危険防止のため貫通路部分を通行禁止としていたが、
1956年(昭和31年)6月に行われた線路移設工事により急カーブは解消し、通行禁止も解除された。
車体外部は赤を基調に窓廻りが黄色に塗装され、当時京急の標準色となった。
主電動機は出力110kWの東洋電機製造:TDK-553-2CM、駆動方式は吊り掛け式、制御装置は東洋電機製造製:ES-521A、
台車は川崎車輌製のMCB、ブレーキはAMM自動空気ブレーキ、電動空気圧縮機 (CP)は電動発電機 (MG)と共に、
デハ500形の浦賀寄りに搭載、集電装置は運転台寄りに各1基ずつ通常の菱枠形パンタグラフを搭載した。

98 :
営業開始時は2両編成だったが、乗客数が年々増加、1954年(昭和29年)には4両編成で運行、
1961年(昭和36年)に4両編成化工事が行われ、中間に入るデハの運転台を撤去、運転台跡に座席、側窓を新設、
車内灯を蛍光灯化、主電動機も出力150kWの三菱電機製MB-389BFR、主制御器は東洋電機製造製ES-760Aに変更、
1965年(昭和40年)10月19日の一斉改番で先頭電動車はデハ500形、中間電動車はデハ520形に改番された。
1968年(昭和43年)10月から1969年(昭和44年)8月までの10ヶ月間にかけて全車が台枠を残して車体を解体、
旧台枠上に700形(二代)に準じた4扉車体を新造、高さ900mm×幅920mmの二段窓で、下段に保護棒付き、
側面の配置も700形(二代)に準じ、デハ500形がd1D(1)1D(1)1D(1)1D(1)、デハ520形が1D(1)1D(1)1D(1)1D(1)、
乗務員扉と客扉の間に在る窓だけ高さ900mm×幅400mmの小窓となり、シートは設置されて無く、
行先表示幕、種別表示幕、運行番号幕の設置、室内の構造も700形(二代)に準じ、奥行きが浅く座面が高い椅子を採用、
前面は600形(二代)と同じ窓寸法の横1.100mm×縦900mmの2枚窓の非貫通、前照灯のシールドビーム化、
主幹制御器(マスターコントローラー)を三菱電機製の小型のものに交換、運転士足元寸法を確保している。
また600形(二代)に準じて屋上の通風器は屋根中央部にFRP通風器が設置する改造工事が久里浜工場で行われた。
パンタグラフは先頭車から撤去され、中間車の浦賀寄り奇数車は浦賀方、品川寄り偶数車は品川方の連結面側屋根に移設、
先頭車への給電は400形(二代)と同じジャンパ線による永久連結とされ、ドア数増加による使用空気量増に対応し、
デハ500形の浦賀方に空気圧縮機を設置され、ATSを設置、先頭部連結器をNCB-6形からNCB-U形に交換し、
連結器胴受けを設置、 デハ500形・デハ520形の台車は東急車輛製TS-806に交換された。
4扉改造とともにデハ160形が10両が電装解除、車体更新名目で520形に準じた車体に載せ変えられ、
サハ540形541-550に編入、デハ520形の間に2両が連結された。

99 :
4扉化後は特急運用を始め、急行運用、普通運用にそれぞれ充当、翌1971年(昭和46年)からデハ500形に列車無線を設置、
1977年(昭和52年)には6両編成2本からサハ540形2両を抜き、4両編成で大師線の運用にも充当された。
編成から外されたサハ540形4両は休車となったが、翌年に2本が本線運用に復帰した際に戻された。
1981年(昭和56年)に屋根布の張替えや外板張り替え等の修繕工事が順次施工、1986年(昭和61年)3月29日に、
本線運用における特急・急行運用から撤退、大師線の運用に入るためにサハ540形を外し、4両編成化され、
全車が大師線運用に入った。外されたサハ540形10両は1986年(昭和61年)3月31日付けで廃車された。
4両編成化された全車も同年8月28日に一般旅客営業を終え、鉄道趣味団体によるさよなら運転が同年8月31日に行われた後、
架線試験車として久里浜工場にMc501-M521-M522-Mc502の4両編成と、個人に売却されたMc503以外は同日付で廃車となり、
京急から事業用以外の吊り掛け駆動の旅客用車両が全廃、新性能化率100%が達成された。
架線試験車の4両編成も1989年(平成元年)1月に廃車された1000形に代替されて、同年3月中に解体された。
編成表
Mc501-M521-T541-T542-M522-Mc502
Mc503-M523-T543-T544-M524-Mc504
Mc505-M525-T545-T546-M526-Mc506
Mc507-M527-T547-T548-M528-Mc508
Mc509-M529-T549-T550-M530-Mc510

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