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母の泣ける話ください


1 :2008/04/07 〜 最終レス :2013/09/26
昨年暮れに母を亡くしました
当時は辛い日々をおくっていましたが
今では普通の生活に戻れました
母親の泣ける話をください、時には泣いてすっきりしたいです
コピペでも創作でも実話でもかまいません
よろしくお願いします。

2 :
2

3 :
手が震えて玉子焼きが上手く作れないコピペあったな
あのお母さんも亡くなってたような、、、

4 :
探したらあった

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。
ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、
とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。
母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。
それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。
母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。
後悔で涙がこぼれた

5 :
>>4 ゚。(p>∧<q)。゚゚

6 :
STEELHEARTっていうアメリカのHR/HMバンドがあるんだけど、彼等の2枚目のアルバムに入っている「Mama don't you cry」という曲を騙されたと思って、是非一度聴いてみてごらん。

7 :
母のことを文にするのは人生で2回目だ。
一回目は・・小学校6年生の時の参観日の『家族について』で母のことについて書いた。
今日で2回目だ。私が小さい頃から母は精神的な病気で入退院を繰り返している。
『育児ノイローゼ』だとか『精神分裂症』だとか聞かされていた。
自分のことを『私はマリーアントワネット』だ。とも言っていた。
小学生の頃、『今日からこの家に帰ってこなくていい。』と捨てられた。
でも帰る所のない私は家へ帰った。
ドアを叩いても出てくれない。小さなボロいアパートだ。中に居るのはわかる。
夜遅くになり、電気が点いた時にドアを叩くと何もなかったように中に入れてくれた。
その月に入院が決まった。
入院する直前には、家族のこともわからなくなり、敵視されていた。
『どこか知らない場所に連れて行かれてたまるもんか!!』と・・。
収拾がつかないので、救急車で母を病院に連れて行った。
暴れていた。『殺されるっっ!!』とも叫んでいた。
小さいながらにも痛々しくて、涙が出た。
もう母に会えないんではないかと・・。
救急車に運ばれて行ってからの部屋はガランとしていた。
家はとても貧乏で父が家に帰って来なかったら食費すらなかった。
週に1,2度しか帰って来ない父。食事も貧相なものだった。
でも、病気の症状が出るまでの母はとても明るく振る舞い、『今日はお母さんお腹空いてないから、あんたらいっぱい食べ!!』と笑っていた。
家にお金がある時に見よう見まねで作らせてくれた、私の料理を残さず食べてくれた。
母がいなくては生きていけないとさえ思った。
なのに・・今、あなたのことを恥じている自分がいる。
なぜ、あなたの子に生まれたのだろう?
なぜ、自慢できる母じゃないのだろう?
なぜ、あなたは病気なの?
なぜ、自分は捨てられたのだろう・・と。
もう何年、喋ってないだろう。
今は社会復帰もできない母。
私の名前を覚えているだろうか?
顔を見て『あき』と呼んでくれるだろうか?
あの一番最初にあなたのことを書いた時には、あなたが居たかどうかは覚えてません。
でも、あなたへの手紙を書いていたのに泣いて読めなくて先生に読んでもらったことは覚えている。
本当に大好きだった母。私はまだ、あなたにかける言葉が見つかりません・・。
なんて呼べばいいのかもわかりません。
あなたは私のこと、覚えてますか?

8 :
私の父は私が5歳のときに白血病で亡くなりました。
それからは母が働き、祖母が私と弟の面倒をみるようになりました。
母は、仕事を始めてからは料理はしないし、
洗濯もしないので、家事は全て祖母がやっていました。
だから私は母親の手料理の味を覚えていません。
母はそういう面では母親らしい人ではありませんでした。
でも私はそんな母が大好きでした。
身だしなみにすごく気を使っていたので友達のお母さんよりも綺麗でした。
音楽やファッションもわりと若々しく、友達のような感じでした。

そんな母が、乳癌だとわかったのは私が小学校6年生の時でした。
そのときは本当に驚いたのですが、手術をすれば大丈夫だと思っていたので
お母さんはすぐに元気になるんだ、と思っていました。
そのとおり、摘出手術をしてからは仕事にも無事復帰。
通院は続いていましたが、私は根拠のない大丈夫を信じていました。
私が中学1年生の夏ごろ、癌細胞が肝臓に転移しているのがわかりました。
私は癌に全然詳しくなかったので、また手術すればすぐに治る、と思っていました。
しかし、容態は良くなる気配を見せず、母は見る見るうちに衰えていきました。
仕事も辞め、家と病院を行き来する毎日が続きます。
抗がん剤の作用で髪が抜け落ちたり、吐き気がひどかったりすることもありました。
そして私が中学二年生の夏ごろから入院生活になりました。
それでも心のどこかでわたしのお母さんが死ぬわけない、と思っていました。
最初の頃はたくさんお見舞いも行きましたが、だんだんその回数も減っていきました。
冬のはじめのある日、母から電話がきました。
「ちゃんとおばあちゃんの言うこときいてね。お手伝いもちゃんとしなきゃだめだよ」
すごく疲れた声でした。
(つづく)

9 :
(つづき)
それから一週間後の早朝に、母は亡くなりました。
母が亡くなる前日の夜、なぜか私はすごく不安になり、しばらく眠れなかったのを
覚えています。
祖母から電話がきて、早く弟と一緒にタクシーで来てといわれ、弟とタクシーで病院へ
向かいました。
そのときは全く実感がわかなく、そして弟を不安にさせちゃいけないと思い、
すごく冷静だったと思います。
母の病室のある階につき、祖母の震えた声で私たちを呼ぶ声が聞こえた瞬間、
糸が切れたように涙がでてきました。
あぁ、本当にお母さんは死んでしまったんだ、と。

亡くなる直前の母は、モルヒネによる副作用で、幻覚がみえたりして
とてもやつれていたそうです。
だから本当はあまり私や弟にお見舞いにきてほしくなかったそうです。
髪の毛がないこともたぶんとても気にしていたと思います。
最期の最期まで、母は私の母らしい人でした。

祖母から聞いた話ですが、母は亡くなる前、
○○(弟の名前)が高校卒業するぐらいまでは生きたいな、と言っていたそうです。
その話を聞いて、また涙がでました。

お母さんに会いたいです。
会ってたくさん話したいです。
学校のこと、部活のこと、音楽のこと、たくさんたくさんきいて欲しいです。
以前より成長した今の私なら、お母さんとたくさん語れる気がするよ。
これからはおばあちゃんの手伝いをしたりして、お母さんに心配かけないようにするね。
今でもたまにお母さんの夢をみて泣いてしまうことはあるけど、私は大丈夫です。
次に会うときは、たくさんわたしの話聞いてね。
おもしろい話たくさん用意しておくね。

長文・乱文すみませんでした。
読んでいただきありがとうございました。

10 :
これは私の実話です。
ママは中国人です。
日本人である父親と結婚するために、
国の家族と離れた日本でがんばッて暮らすことにしたそうでした。
父親は結婚して、ママに日本語を懸命に教えました。
それでママも日本語が上手になッたようでした。
そんな中、うちのお姉ちゃんが日本で生まれました。
そして、中国に帰国した時、私が生まれました。
でもね、うちが物心ついた頃には…
ママは毎日、ことあるごとに父親に殴られるようになってしまってた。
そして、あからさまに、父は不倫を続けてた。
父の暴力はウチ等に向けられることも度々あった。
でも、そのたびにママがかばってくれて、ウチ等の替わりに殴られてた。
ウチ等はいっつも、そんなママの腕の中で、ただただ泣いてることしかできんかった。
お母さんは一回だって、泣いたことがなかった。
いつも笑顔で、「大丈夫」としか言ってくれんかった。
その頃のうちは小学校低学年。
だから、ママがいくら殴られても、お父さんの恐怖は感じれるのに、
笑顔で大丈夫ってゆうお母さんの辛さを、全く気付いてあげれんかった。
本当に辛くないもんだと思ってしまってた。
どんなに辛くてもママが離婚せんかったのは、
多分極度の負けず嫌いだったからだと思う。
絶対大丈夫だって大見得切って、
猛反対された日本人との結婚を成功させて…
それなのに離婚しちゃったら、中国に置いて来た家族に顔向けできないじゃんね?
そんなちょっとしたプライドのために…
あんなに傷付かんでも、良いじゃんね。
うちには絶対真似できん。
お母さんが口うるさく怒るのは、
ウチ等に立派な大人になって欲しいから。
そんなこと、小学校低学年なウチには全く理解できとらんかった。
どんなにママがウチ等を愛してくれとったんか、
全く理解できとらんかった。
じゃけぇ度々、ママなんか大ッ嫌ぃッてゆっとったし、
ママなんか死んじゃえッて、めっちゃ言いまくっとった。

11 :
・続き・
ウチが小学校3年生の頃、
お姉ちゃんは小学校6年生で、受験シーズンだった。
お父さんの暴力をいっぱい見てきたお姉ちゃんは、
暴力の重さが分からんくなっとった。
受験のストレスをめいっぱいウチにブツけてきた。
酷い暴力をいっぱい受けた。
家族で1番小さくて無力なウチは、そのストレスのブツけどころがどこにもなくて…
いっつもママに当たってしまっていた。
自由帳の丸々一ページにでっかく、「ママなんか死んじゃえ」って書いた。
ママの悪口しかかけなかった。理由は簡単。
お姉ちゃんとか父の悪口書いてバレたら、後が怖いから。
でもウチは、ママが世界で一番大好きだった。
お姉ちゃんの受験結果を発表する日がやってきた。
女学院は補欠、安田は合格、といった結果だった。
安田に受かったお祝いに、家族皆でお祝いすることになった。
その日は、ママがウチのコップを落として壊しちゃった。
ウチは泣きながら、「ママなんか大っ嫌い!死んじゃえっ!!」って言った。
ママは「ごめんね」って言って、静かにコップの破片を拾った。
ウチは不機嫌なまま、タクシーに乗ってお姉ちゃんのお祝いをする中華料理店に向かった。
その頃にはもうお母さんは笑顔で、うちも笑顔で、
「かんぱーい」って言って、ビールを飲もうとした。
その時、ママは泡を吹いて、唸りながら自分の顔を机の上に押し付けた。
ウチとお姉ちゃん、おばあちゃんは大パニックで救急車を呼んだ。
ママは病院に運ばれた。
意識不明で、重体。
ママは病気だった。
病名は、脳梗塞。
ウチはママにRって言ったことを、酷く後悔した。
ママが看護婦の人にオムツを替えてもらってた。
オムツには排泄物がついてた。
うちはそれを「汚い」って思ってしまった。
ママに家族全員で手紙を書いた。
父はママが倒れたことで、本当に反省して、手紙を書いてた。
ウチ等は家族全員で書いた手紙を泣きながら読み上げた。
お母さんの心電図が、父の手紙を読んだ時、大きく動いた。
・続く・

12 :
・続き・
もしかして、父の手紙に反応してる!?
ウチは悔しかった。
家族で一番ママを好きな自信があった。
父よりママを大切にしてる自信があった。
でも、これを読み続けたらもしかしたら…
ママが目を覚ましてくれるんじゃないかな?
そんな淡い期待を抱いて、何回も父の手紙を声に出し読み返した。
でも、ママの心電図は元に戻っちゃって…
それ以降動くことはなかった。
ママが意識不明の重体で、病院で寝込んでる。
なのにウチは、小学校に行かされた。
2日後、ウチが小学校に行ってるうちに、ママが死んじゃった。
病院にお見舞いに行く度にウチは涙を流してた。
なのに、ウチは泣けなかった。
皆泣いてた。父も泣いてた。
なのに、ウチだけ、泣けなかった。
ママが死んだことを、自分は悲しんでないのかな?
そんなことを考えちゃって、悲しくなった。
でも絶対に、涙は流れなかった。
骨を拾った。
ママの頭蓋骨の一部が、赤く染まってた。
これはママの血?ってきいたら、そうではないらしかった。
喉仏の紹介とかされた。
別にどーでも良かった。実感なんて、沸かなかった。
それが人の骨である、ということさえ、忘れていたかんじ。
通夜が終わって家に帰って自由帳を取り出した。
「ママなんか死んじゃえ」って言う文字を
「ママ、がんばって、生きぬいて」に変えてた。
もうママは死んじゃってるのに。
今更書き換えたって、ママが帰ってくるわけじゃないのにね。
無意識にした行動だった。
・続く・

13 :
・続き・
ママが居ないことが悔しくて、両親が離婚してる男友達を馬鹿にした。
そしたら、「お前の母ちゃんなんて死んでるくせに」って言われた。
なのにウチは、笑ってた。
「お前バカだろ」って言ってた。
これも無意識だった。
今、うちは中学2年生。
絶対に「R」と「R」は言えんくなった。
絶対に、暴力だけはふるえんくなった。
今でもドアのノックが聞えると、
ふと「お母さん?」って思ってしまう。
解約したママの携帯番号に、電話をかける。
まだ繋がってる気がするから。
「ママ、死んじゃった」
簡単に言えるのに。
まだママが帰ってくるって、心のどこかで信じてる自分が居る。
きっとウチはまだ、
ママが死んだことを
認めきれずにいるんだと、思う…。
認めなきゃ、いけないね。
頭は分かってるんだけど
もしかしてって…
心がついていけないの。
もっと、大事にしてればよかった。
Rなんて言わなければ良かった。
ママの笑顔、大好きです。
ママの笑顔、忘れられません。
のんは、ママが、世界で一番大好きです。
長文な上、乱文で、お目汚し失礼いたしました。
読んでくれて、ありがとうございました。
がんばって、認めたいと思います。
これに書いたことで、お母さんの死を、認められた気がします。
本当に、ありがとうございました。

14 :
良スレ発見
もっとください

15 :
お母さんの体は手術に耐えられない状況にあるって言われて、
手術もできんかったし。
結局女学院にお姉ちゃんが受かれたことも(補欠受かり)、
お母さんは知ることできんかった。
それがスゴク、今でも悔しいです…。
↑文章に入れてませんでした;;
感情のまま書き綴ったので、抜けてることに気付かず、
付け加えることになりました;;
すみません;;
本当に、ありがとうございました。

16 :
本当に大切なモノは、失ってみて初めてそれに気付かされる…悲しいことだけれど、誰もがそうなんだよな…。
こちらこそ、良文を有難う。

17 :
死んだばあちゃんが言ってた。
「特攻隊の兵隊さんたちは敵艦に突っ込む時、怖くて叫ぶんだよ。
でも、テレビみたいに天皇陛下バンザイ!何て誰も言わない。
みんな『おかあさーん!』って叫びながら死んでいくんだよ」
男が最期に帰る場所は、やっぱり母親かな・・。

18 :
「お腹を痛めて生んでくれた」っていうのはその場面を見たわけじゃないから
中々実感わかなくて、ありがたみ感じるのは難しぃけど…
一生懸命家事して、世話して、辛いの堪えて…
一生懸命自分を育ててくれた記憶はあるから…
やっぱり、お母さんは大事にしたいって思うんだよね。
男がお母さん好きってさ、皆にバカにされちゃうけど…
本当はすっごく大事ですっごく良いことなんだょね。
カッコイイね。お母さんって叫びながらRるって。
とっても良ぃ話、ありがとぉござぃます♪♪

19 :
京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

20 :
の母は病気がちで、私が小さいころから入退院を繰り返していました。
私が高校2年生だったその時も、いつものように入院。
1ヶ月ほどたったある日(曜日は火曜日)、母から
「今週の土曜日退院できるよ。
 ちらし寿司作るから、焼きノリとかんぴょう買っておいて。」
と告げられて、私は
『ちらし寿司あんまり好きじゃないのにな〜』
とか思いながらも、退院が嬉しくてすぐに買いに走りました。
でも、次の日母は病院のベッドの上で吐血し、意識がなくなり
数日後息を引き取りました。
それは、まさしく退院できると言っていた土曜日の早朝でした。
お通夜からお葬式、納骨と慌ただしく時間が過ぎ
自宅でようやく周りを見渡す余裕ができた時に目に入ったのは、
スーパーの袋に入ったままの焼きノリとかんぴょう…。
…ちらし寿司、作ってくれるって言ってたのに…
忙しさにまぎらわせていた悲しみや悔しさや怒りがすべてこみあげて
思い切り泣き続けました…。
まぁ月並みな言葉ですが、両親は大切に。
孝行のしたい時には親は無し、ですから。。。


21 :
私が吉原で体験したこと。
入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。
スポーツ新聞を読みつつ聞き耳をたてていると、全盲の息子が筆下ろしをしたいと言うので
付き添いで来たらしい。
オバサン(以下母)は色々心配事を口にしていたが、話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」
となだめていた。
暫くたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。
革靴はピカピカで結構いい服をきている。この日のために揃えてあげたのだろう。
母はソファから飛び出して姫と軽く会釈したあと、「どうだった?いいこと出来た?」
青年「うん。よかったよ。このお姉さんのおかげで」
実は姫を指差すつもりが別の方向だったので、姫が素早く指した方向に移動。
母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら「あんたよかったね〜!!」と背中を何度もさすっていた。
客も拍手したり「よかったなあ」と激励していて、今まで無口だった893風の客まで立ち上がって
青年の肩をポンポン叩きながら「あんたも一人前の男になったぞ」と祝福していた。
姫も感動して泣いていた。実に素晴らしい光景。
涙腺の弱い私は新聞で顔を隠しながら泣いた 。

22 :
仕事帰りに乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。
ある夜、駅ロータリーでいつものように客待ちをしていると血相を変えたリーマン風の男性が「〇〇病院まで急ぎで!」とタクシーに飛び乗ってきた。
男はどこかに電話をかけているようだが、相手が受け取らないようだ。
ヒーヒー言いながら男は平静を保っていた。しばらくすると男の携帯が鳴った。
男「もしもし!母ちゃんの様子は?…。
そうか、頼みがあるんだけど受話器を母ちゃんの耳にあててあげて!…。」
優しいが芯のある声で男が勇気づけるように語りだした。
男「おいおいいつまで寝てる気だよ、
朝散々人のこと叩き起こしてたくせによ。
今せっかく働いて、美味いもん食わしてやろうと毎日頑張ってんのに、」
「おれまだなんもしてねーよ!死ぬんじゃねーよ!おれが手握るまで息してろよな」と言って切った後、男は黙りこくっていた


23 :
しかし病院までの道のりはかなり遠い、男の苛立ちを背中でヒシヒシと運転手は感じ、信号を避けるため裏道など利用し最善を尽くした。
しばらく走ると再び男の携帯がなった
男「もしもし…そうか…わかった…もう着くよ」そう言い電話を切ると男は黙りこくった
そうこうしているうちに病院に着き、男は運転手にお詫びを言い病院の中に消えた

私はタクシーから降りる間際、お金を渡し、涙ぐんでこう言った「覚えていてくれたんですね。これはあの時払えなかった運賃です。ありがとうございました。」


24 :
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった
母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに
遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めての
プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは
招待券ではなく優待券だった。チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ
なければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外の
ベンチで弁当を食べて帰った。電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて
やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

25 :
[PV] FUNKY MONKEY BABYS - 旅立ち
http://jp.youtube.com/watch?v=U_U_QOrQjbA
今 旅立ちの日 君が強く
Oh oh 残してきた足跡が 闇の中の光となり
Oh oh 果てしなき道を照らす
さぁ行こう 僕らの未来へ
さぁ行こう もう迷わないで
どこに当たって転んでも 間違いだらけじゃないだろう
歩くその先に 新しい道が開けるんだ
今 旅立つ時 君が何かを 見失いかけた時は
耳をすませ あの日のように 大きな声で僕が歌うから
http://lirama.net/song/238595

26 :
少しずれるかも
俺が小五の時おかんが死んだ。
まあ病死で名前が混合性結合組織病ってやつで。
そいつはいわゆる不治の病だっだ。おかんが生きてたときは
真剣に医者になって治してやるって思ってた時期もあり(ry
おかんは何回か入院して何度も生き返ってきた。
だけど、小五の二学期始まってすぐの台風の日におばあちゃんから
電話があった。
病院にいくとおかんが死んでた。先生が必死に蘇生させてた。
俺はおかんに「俺が治すって言ったさ」ってずっと言ってた。
告別式もおかんが好きな家でやった。
葬式なんてどうせ生きてるやつの自己満足だなって感じた。
その後からずっと家族が暗かった。
おかんの姉(以下おばさん)にそれからずっと今まで励まされてた。
クリスマスも誕生日もいとこの行事も俺たち兄弟が寂しくないように
誘ってくれて、本当のお母さんみたいになってた。
時間がたって俺のおとんが再婚して引越ししなきゃいけなくなって
俺がおかんが好きな家を売るのを渋ってたら、おばさんが慰めてくれた。
そのおばさんがおととい自殺した。
俺は今でも頭がパニックしてて、こうやってちょうどいいスレを見つけて
書き込んでる。
おかんもおばさんも天国で姉妹仲良くしてるといいな。
場違いかも
泣けなくてすまない

27 :
全然場違ぃなんかじゃなぃですょ!!
スレ書くことでちょっとでも悲しみでパニックした頭整理できたなら…
嬉しぃです。
や!私が言ぅのもなんですが…;;
全然謝ることなぃと思ぃます!!

28 :
>>26
母が亡くなったこと。家族が自殺したこと。
わたしは、最近のことなのでまだ助言はできません。
共感だけ。
なぜか死ぬとは思わなかった。考えたくなかった。
だからこそ、最初は皆、後悔するみたい。
わたしの場合、今は別世界に移った感じ。
亡くなった人はもう痛みや苦しみが無い。
安らかな眠り。この言葉を実感しています。

29 :
こんなスレあったのか。
俺もつい最近めっちゃ好きだった母がなくなった。
急すぎて心の準備もなかったから最初は夢みたいな感じ。
俺には父もいないし、病院での手続きにはじまり葬儀の手続きなど
忙しく時間がすぎていくな。ふとした時に涙がでてくるわ。
泣いてたら心配されるかもしれんけどいきなり涙でるし許してな。
涙でるのは優しすぎたからかな。
悲しさもあるけど母さん一人でここまで育ててくれた事の感謝の気持ち
でいっぱいです。ありがとう母さん。

30 :
>>24
俺の母は、「サッカー靴、買えなくてゴメン」だった。
急に思い出したように言い出した。
俺は、「結果的にバスケできて良かった」と言ったが、
それでも月日が経つと、急に思い出したように言った。
母親の、子供に対する愛情の質は、俺の、母親に対する愛情
の質を、遥かに上回るってか深いわ。

31 :
おかあさん…。
戻ってきてよ。
親孝行さして。
もっかい抱きしめて。
愛してるって言って。
おやすみってほっべにチューして。
手ぇ握って。
髪触りながら一緒に寝よ。
愛をちょーだぃ。
まだ認めらんないの。
お母さんが死んだこと。
お母さんがあんなにいっぱぃ愛してくれたせいで…
お母さんが居なくなった今、愛が全然足りないの。
いっつも心に穴が空いてて、寂しいよ。
戻ってきてよ。
もうRなんて言わない。
嫌いだなんて言わないよ。
生きてて欲しい。
ホントはね、嫌いな時なんてなかった。
何があっても、世界で一番、お母さんのことが
めちゃめちゃ大好きだよ。
愛してるって言わせて
愛してるって聞かせて
大好きだよ…おかーさん。

32 :
落ちる前に見られるように関連スレのせとくね
母親の死がこんなにもつらいとは
ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1206100700/
母親との死別
ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1176427602/
母の泣ける話
ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/healing/1207538844/

33 :
あげ

34 :
15年前の話です。
今でもそうだが人付き合いの苦手なオレは、会社を辞め一人で仕事を始めた。
車に工具を積み、出張で電気製品の修理や取付の仕事。
当時まだ携帯電話は高価で 俺は仕事の電話をポケベルに転送し、留守電を聞いて
お客さんに連絡するという方法しか取れなかった。生活さえギリギリだった。
ある日 母親が九州の実家から関東の俺の家まで訪ねてきた。遠くから来た親を
いたわることもせず、無愛想な俺、ホントにバカだ。俺を心配し、掃除、洗濯 料理を
作り山ほど食糧を置いて母は帰郷した。バカ息子は見送りもしない。
仕事から帰宅した俺は母の手紙を見つけた。「仕事頑張って下さい、少しですがこれで
携帯電話でも買って声を聞かせて下さい。」手紙にはお金が同封されていた。
手紙を手に俺は、わあわあ泣いた。 
カメラやメールなんて出来ない。メモリーも50件しか入らない初期の電話。
でもこの電話にどれだけ助けられただろう。俺には最高の宝物。
母の日に電話を送った。ちゃんとお礼をいわなければ。
「おかあさん どうもありがとう」と。

35 :
四つ足になりクルクルと自分の尻を追う全裸の少女、
犬顔の鬼に虐げられる小人たちの地獄絵図、
日本刀を咥えガス室内を徘徊する見たことのない獣、
大写しになった女性器、室内の壁や床から生える無数の豚の足、
上下運動を繰りかえす無人のギロチン、
駄々広い座敷の中央に置かれた泥だらけの掘削機、
ソファーに横たわる胴が異様に長い女、
暖を取るかのように寄りそい群れるエメラルドグリーンの小さな龍たち、
どこかの国の戦争の風景、天井から吊るされた位牌、
血肉と骨でできた万華鏡、雲の上から覗き込むように顔を出す子供の姿……。

36 :
35は、
「国語辞典を開いて、初めて見る単語に逐一興奮するリアル厨房」
そのまんまなので笑ってしまう

37 :
>>35
人工的な景色は、飾りばかりが多くて、そのくせ深みがなく味気ない。
まるで、高層マンションに囲まれた街で暮らしている様。

38 :
J( 'ー`)し
    自分が多少つらくても、腰痛くても頭痛くても、子供が元気にしてくれてるのがすごく嬉しいの。
    元気そうな子供の姿見たり声聞いてるとね、本当に嬉しいの。
    別に感謝してくれたり、無理に気にかけてくれたりしなくていいの。
    苦労して育てた自分の子供が、自分の足で立って人生歩んでくれることが、何より嬉しい。
    悩んでる、行き詰ってる子供を見るのは本当につらい。
    何とかしてあげたい、どうにかしてあげたいんだけど、私じゃ何もしてあげられない。
    余計な口出ししちゃって、後悔する事もある。
    アナタにはアナタの考えがちゃんとあるのにね。
    でも、見守るだけしかできないのはつらい。苦しんでる姿見ると、心が張り裂けそうになる。
    親なのに、何でこんなにも、何もしてあげられないんだろうって、情けなくなるよ。

    今楽しいアナタへ。アナタが楽しく生きているという事実が、お母さんの生きがいです。
    今苦しいアナタへ。何もしてあげられなくてご免なさい。頼りなくて本当にごめんなさい。
    でも、つらくても生き抜いてください。
    お願いだから、自暴自棄になったり、自分を卑下したりしないでください。
    生きる場所は必ずあります。生きる道は必ずあります。
    アナタが、もがいて、もがいて。そこに辿り着くことを毎日祈っています。
    私にできることが何かあるなら、どうか言ってください。
    誇大表現でも何でもありません。アナタが強く生きてくれることが、お母さんは自分の命よりも大事です。

上のコピペ見ると泣けてくる…
かーちゃんにもらったたくさんのやさしさを誰かにあげるのが
満足に親孝行できなかった僕のせめてもの償い。
ガキの頃に悪さばかりしてかーちゃん泣かせた分、
1000倍返しにして笑ってもらおうと決めたのに…
かーちゃん、僕は元気でやってるよ、心配しないで。
貴女が一生懸命育てた息子だもん、自信持ってよ、安心してよ。
胸を張って生きていくよ、僕のかーちゃんは世界一だ、僕は世界一のかーちゃんの息子だ!って。

でも願いが一つだけ叶うならもう一度だけかーちゃんの作った料理が食べたいな。
僕が年取ってそっちに逝ったら色んな話を聞かせてやるから、のんびりしながら待ってろや!
もう一度言う、僕のかーちゃんは世界一だ!


39 :
母は 俺を待っていてくれる
10年でも 20年でも…
ttp://life9.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1206100700/564
好きな小説「愛はさだめ、さだめは死」
ttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4150107300.html

40 :
ほしゅ

41 :
>>40
sageでは保守にはならない

42 :
age

43 :
age

44 :
俺の話、書いても良いですか?
俺は2年程前にうつ病にかかりました。服薬もしたし、会社も休んだ。
でも全然良くならないんだよ。
食事も摂れないし眠れない。苦しくて苦しくて仕方が無かったんだ。
ある夜、「もう無理だ」って思って自殺をしようと決意した。
両親が寝静まってから持ってる限りの眠剤と酒、それと包丁。
眠剤飲んで、酒飲んで、首を切ってしまおうと思ったんだ。
2月の深夜3時頃だったと思う。
家族で過ごしたリビングで最後のタバコで1服して、「さぁ、やるか」と思って。
遺書と預金通帳も用意した。暗証番号のメモも置いといた。
少ないけれど貯金があるから。葬儀費用とかはこれでまかなってもらおうと。
その時、母親の勘かなぁ トイレでも無いのに母親が起きてきたんだよね。何故か。
俺の居たテーブルの前に座って。置いてある眠剤とかを一瞥して。
何も言わなかったよね。二人して。それからどれ位経ったかなぁ・・・
母親が自分の着てたハンテンを「寒いだろ」って俺に着せようとするんだよね。
「もう子供じゃないんだから」って言ったら一言。
「年がいくつになろうと、アンタはアタシの子供だよ。
        世界にひとりしか居ない、アタシだけの子供だよ・・・」
年甲斐も無く号泣したよ。
絶対うつ病、治そうと思ったよ。

45 :
赤桃黄緑青

46 :
>>41
なるわボケ

47 :
40ですぅ。結局どっち?

48 :
ttp://www.geocities.jp/tomoro0206/ka-chan.html

49 :
>>48
ありがとう 保存しました

50 :
age

51 :
age

52 :
なげだお!野球の話ぃ。。
お互いを思いやってなんちゅういい親子じゃ

53 :
あげ

54 :
age

55 :
age

56 :
リアルタイム進行中
http://ameblo.jp/mirai-ni/

57 :
長くなるけど書かせてもらいます
 
私は産まれた時から心臓がよくなくて ずっと入院していました
 
自宅に帰っても在宅酸素は欠かせず 障害者1級を持つことになりました
 
元々明るい性格でひょうきん者だった私は小、中学校 たくさんの友達に囲まれ楽しく過ごす事ができました 
 
高校の時に教室が2階になってから階段を登るのが苦しくなったりして心臓の痛みが耐えきれなくなり頻繁に休むようになりました
 
そんな時でした 友達が 『障害者』と言っていたそうです
 
耳にした時は本当に悲しくなりました
 
やっぱり自分は他の人と違うんだと
 
生きていちゃいけないんだと
 

58 :
>57
続きです
 
数ヶ月引きこもり 何回も首を吊り死ぬため『私は生きてても迷惑だよね、本当にごめんなさい』と遺書を残しました
 
でも勇気が出なかったんです
 
母が泣いてる姿が何度も何度も浮かんできたから
 
そして何とか悲しい事を忘れようとキャバに働きにでました
 
タバコを吸っては両親に心配かけ『何時に帰って来るの?』母からのメールも無視して元気なみんなに紛れ込んで障害者じゃないふりをしていました
 
それから現在仕事を辞めお母さんをしています
 
出産を終えて母を何度も恨んだ事、あの時殺してくれればよかったと思った事
 
今はそんな事思ってないよ
 
私を大切にしてくれて本当に本当にありがとう
 
本当に幸せです
 
 
出産まで詳しく書きたいけど苦情が来そうなのでここまでにします
 
挫けても頑張って生きていればいいことがあります
 
長々とすいません
 
ありがとうございました
 



59 :
>>58
それから現在仕事を辞めお母さんをしています
出産を終えて母を何度も恨んだ事、あの時殺してくれればよかったと思った事
今はそんな事思ってないよ
私を大切にしてくれて本当に本当にありがとう
本当に幸せです
↑の部分を手紙でもいいから直接伝えてあげたら?
それともお母さん逝去しちゃったの?

60 :
>>44
「@泣 」ってメルマガでそのレス読んで泣いちゃったよ〜
母親の勘って所が凄いね。

61 :
>>60さん、44を書いた者です。
私の駄文を読んでいただいてありがとうございました。
うつ病の方は良くなったり悪くなったりしてますが、以前よりはかなり良くなりました。
あの時の事を母親に聞いたんですね。
何で起きてきたんだ、って。
そうしたら夢を見たんだそうです。3歳の時の私が「痛いよ、痛いよ」と
泣き叫んでる夢を見て起きたんだそうです。
母親の勘って凄いな、と思いました。

62 :
>59
母は亡くなってないです
 
まだ伝えられません
 
まだ私は弱く勇気がないです
 
もしかしたら母を傷つけてしまうのかもしれない
 
だから秘密にしておきたいです

63 :
>>62
そうですか。
それぞれのタイミングってあると思うけど、
是非形にして伝えて上げてくださいね。行動は100の言葉よりも
雄弁ですよ。お母さんはあなたから孝行なんて望んでいないでしょうけど、
返ってきたら、きっと娘から勇気をもらったって喜ぶと思います。

64 :
自分で読み返して見て釣りっぽいなあと思ったけど一応実話。
九州の田舎に生まれた。母子家庭だった。
歯科技工士だった父は私が4歳の頃、くも膜下出血で他界。
自営業だったので厚生遺族年金も労災も下りず、仕事関係の機械や車のローンも有り
生活はかなり苦しかったwww
母は介護施設の職員で、土日祝関係なく働き、残業は当たり前。
夜勤も月8回ほど有り、休みは少なく、祖母が面倒を見てくれた。
その後激務で体を悪くした母は、独学で資格を取り、民間病院の医療事務に転職。
勤務時間は短くなり、身体的な負担も減ったが、正社員なのに手取りは11万。
頼りにしていた祖父母も立て続けに他界し、学校に秘密で青果店でアルバイトもした。
それなりに偏差値の高い公立高校に通っていた私は看護師を志願していたんだけど
寮のある県立看護学校ですら通える経済状況ではなかった。今思えば通えないことはなかった気もするが。
その時自衛隊の看護学生の募集を知った。採用されれば学生でも自衛官扱いで給料をもらえる。学費も寮費も無料。
もうこれしかないと思って必死に勉強した。倍率は60倍を超えていた。
合格したのは奇跡だったと思う。
もちろん合格できなくても、働いてお金を貯めて県立看護学校に奨学金借りてでも看護師になってたと思う。
これは後で思ったことだけど、この時落ちてたら良かった。
看護学生になったと同時に自衛官として採用され、東京にある自衛隊の全寮制看護学校に進むことになった。
新幹線に乗り九州から上京する朝、母は駅まで迎えに来てくれた。
私はまたいつでも会えるだろうと思っていたが、母は最期の別れのような顔をしていた。私はそれを笑い飛ばした。
ただただ希望で胸がいっぱいだった。

つづく

65 :

自衛隊での看護の勉強は厳しかった。採用されたからには必ず3年後の国家試験に合格しなければならない。
1限目から7限目までぎっしり授業が入っていて、沢山の課題やレポートや試験勉強に追われた。
自衛隊だけあり礼儀に厳しく、門限もあり、自由に外出もできなかった。
自衛隊中央病院での実習もハードで、同じ部屋のルームメートは2人とも辞めてしまった。
忙しくて母と連絡を取る余裕もなかったが、実家に毎日8万の送金は必ずしていた。
無事に国家試験に合格した私は2等陸曹に昇格した。
休む暇もなく自衛隊病院での勤務と幹部候補生試験の勉強に追われた。
その試験に受かって尉官になれたら故郷に帰ろうと思っていた。
毎月に一度の送金すら面倒になり、半年に1度60万送金するようになった。
陸官になれた時には、九州を出てからもう8年が経っていた。
8年と考えると長いが、勉強と仕事に追われた自分にとってはあっという間だった。
もう8年も母に会ってないんだと思うと不思議な感じがした。
あの駅で別れた母がもう8歳も歳をとったのかと思うと想像がつかなかった。
だが、東京と九州は決して短い距離ではない。
なんだかんだで結局故郷に帰れず、いつの間にか30を迎えようとしていた頃、叔父から電話が来た。
母が他界した。胸部大動脈瘤。享年63歳。
新幹線に乗り九州から上京する朝、母は最期の別れのような顔をしていた。私はその意味がようやく分かった。
10年ぶりに母と再会した。当たり前だが、母は10歳も年をとっていた。
こんなに老けたのか、と思った。私の記憶の中の母とのギャップに落胆した。
どうしていつでも会えると思っていたんだろう。どうして東京になんて出たんだろう。
10年も、母に会えなかった。最期の10年を一緒に過ごせなかった。母は一人寂しく10年を過ごした。
苦労して育てた一人娘に死ぬまで10年会えず、娘の結婚相手にも会えず、孫の顔も見れずに死んだ。10年前に戻りたいと思った。
ただ10年間お金を送金し続けただけだ。その金額は1000万を軽く超えていた。親孝行ができなかった。
時間を取り戻したいと思った。
私は退職した。実家から一番近い民間病院に就職した。母が事務をしていた病院ね。
師長に「あなたみたいな立派な経歴の人がなぜこの病院を?」と聞かれたとき
自分の10年が無駄なものだったことを再確認した。
母がよく私を話をしていたと、事務の女性から聞いた。
私を東京に出した時点で、簡単に会えなくなるだろうということは分かっていたらしい。
私に会えなくて寂しいと何度も零していたらしい。それを聞いてまた泣いた。後悔ばかりだった。
それから4年たった。私は結婚した。働き者で真面目で優しい人。
母に会わせたかった。悩みといえば義母とかなり仲が悪い事と、子宝に恵まれないことくらい。結構重大な悩みだよね。
いまだに後悔は続いているが、母のためにもこれからの人生を精一杯生きて行くことしかできないと

66 :
>>65
早く子宝を授かるといいですね。最近は不妊治療にも保険が適用されるので
行ってみてはいかがでしょう。子供を産んで、お母さんのためではなく、
自分と子供と旦那さん、家族のために生きていきましょうよ。子供にはあなたの
お母さんがしてくれたことにTURBOかけて尽くして、母親として立派にやってるよって
報告してあげるのが一番の孝行だと思います。忌の際もあなたのことを考えていたと
思います。送金以外で直接孝行できなかったことは悔やまずに。俺なんか送金すら
できずに逝かれて、もう10年になるけど引きずりっぱなしですよ。あなたは立派ですよ。

67 :
「一郎、おまえは“天は人の上に人を乗せて人を作る”ってゆー福沢諭吉先生の有名な名言を知ってるかい? 一万円札にもなった福沢諭吉先生は故郷・大分県が排出した立派な教育者なんだよ」   
──┐「僕も福沢諭吉先生みたいな立派な教育者になって、いっぱい給料と年金をもらって母ちゃんを楽にするよ」
 軽 │             
 王 │   J( ;'A`)し    
   │     (  )\( 'A`) 
   │     ||  (_ _)ヾ  
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そして10年後、母子家庭の苦しい家計の中で俺を大学に行かせてくれた母は亡くなった。
しかし、俺は教師になれなかった。貧乏な俺の家では「就職浪人」も「ニート」も許されなかったからだ。
死の床で、母ちゃんは「貧乏でごめんね」と、繰り返し謝ってくれた。
                 ('A` )
         J('A`)し    (  )
      /⌒⌒⌒⌒⌒ヽ  ||
     // ̄ ̄ ̄フ /
   / (___/ /
   (______ノ

__  先日、派遣先の会社のテレビニュースで、偶然、大分県庁の偉い公務員が逮捕されたことを知った。      
 母 |  逮捕された人は、教員採用試験の時に俺と面接した知っている顔だった。
 の |  容疑者の男は面接試験の時、不思議と俺に視線を合わそうとしない、おかしな奴だった。
 墓 |  ∴  ('A`)カーチャン..........
──┐ ∀  << )
大分県の教育 大切なことは福澤諭吉さんに教わった
http://school7.2ch.net/test/read.cgi/edu/1215695386/

68 :
http://ame-ir-can.jp/mamabk/category_20/subcategory_9/?ktr_sid=748c610d6d569d9497900655a7340c10&ktr_ref=http%3A%2F%2Fame-ir-can.jp%2Fmama&ktr_ln=2

69 :
保守

70 :
まだ高校1年生の時の話です。
私は演劇部に入ってました。
強豪校だったので、練習はきつくて、毎日のように先輩方に怒られて、先生にも
散々に言われて。
でも絶対にこの人たちの前では泣くまい、泣いて堪るもんかって思ってました。
自転車を漕ぎながら、声を殺して泣いていました。
そんな中で一度調子を崩して、3日ぐらい休んだんです。部活を。
でも本番前なんだから出なきゃいけないのにって思い詰めてしまって、逆に悪化
してしまったんです。厳しい部活だったもので。
どうしようどうしよう、先輩とか先生に何て言われるか分からない、孤立したら
どうしようって母に泣きながら聞きました。
そうしたら、母は私の手を握って言ったんです。
「大丈夫、ママはちゃんと○○(私の名前)の味方だよ」
その一言で涙腺が崩壊してしまって、夜中ずっと泣いてしまいました。
結局その後、本番はちゃんとやってから転部して、今は何とかやってます。
母の言葉って凄いですね。
今、思い返してこれを書きながら、また涙が出てきてます。

私が6歳の時離婚して以来、女手ひとつで育て上げてくれた母。
今度は「私はママの味方だからね」って言ってあげたいです。
釣りみたいだけど、実話です。

71 :
私の家は母子家庭です。物心ついた頃母は夜の仕事をしていたので大体夜は一人か
親戚の家をたらいまわし。家に帰っても一人なので帰りたくない、泣いて駄々をこねた事もあります。
あの時の迎えに来た母の切なそうな顔忘れられません。
「なぜ父親がいないのだろう?」そんな疑問もありました。

中学生の頃、反抗期に入り母との喧嘩が多くなりました。
私「テメーなんか母親じゃねー」母「あんだとクソがき」私「おめーなんかR」母「ふざけんなよ」
売り言葉に買い言葉。
ただ今思い返すと母は私を否定する言葉は何一つ言わなかった。
十代後半まで反抗期は続き、母が嫌で嫌でしょうがなかった。

数年が経った頃、ある日母と飲みに行く事になりました。
場所は家の近くにある居酒屋。
そこのマスターと母が古い知人で私も良くお世話になっていました。
マスターと話していくうちに母の苦労が見えてきました。

自分が生まれたばっかりの頃、食べていくため血反吐を吐きながら昼も夜も仕事をしていた事、
預けたくはないのに子供を預けながら仕事をしていた事、自分が母親と父親、
両方の役割を担っていかなければいけないと考えていた事。
胸が苦しくなり、こらえていた感情が涙となりました。
母は泣いている私に「○○(私の名前)がいるから頑張れたんだよ、○○からパワーもらって」
と言ってくれました。
父親の事も話してくれました。母と父は結婚はしていないらしく、父の方には
家庭があったらしいのです。母は慰謝料ももらわずにさよならしたそうです。
なぜ慰謝料もらわなかったの?と聞いたら自分一人の力で育てたかったからと言っていました。
経過はどうあれ、それでも私を産んでくれた母に今では感謝しています。



72 :
<<23
<<24
ありがとう!
とってもいい話だ!

73 :
やばい涙腺が…

74 :
……?……

75 :
……♥……

76 :
これ良い話だ。ブログ見て初めて泣いた(;_;)
http://ameblo.jp/macaroni-drop/

77 :
子供の時はお母さんをただのケチだと思ってた。
高校生になった私はウザいとしか思わなかった。
一人暮らしを始めて、三食の食事や掃除に洗濯、なんて恵まれてたかわかった。
私が挑戦したい事はとてもお金が掛かる事だった。お母さんは少しだけ悩んですぐに私を応援してくれた。
お母さんは成人した私と姉のおさがりを「お母さんはこれで十分」と、着ていた。化粧品も親戚からもらう試供品がほとんど。
でもいつも私を助けてくれるお母さん。
お母さんは自分のものは買わないでバカな私を助けてばかり。
お母さんお母さんお母さんどうして私をそこまで信じてくれるんですか。
私はもう24才なのにあなたにまだ甘えたいです。
お母さんお母さん本当にいつもありがとう。私が強気なのはあなたがいてくれるからです。
どうか神様、私のお母さんをまだまだ元気に生かして下さい。
どうか私に時間を下さい。
大好きなお母さん、お願いだからもう少し待ってて下さい。


78 :
>>76
自演乙

79 :
>>76
何かと思ったら8/18の記事か
確かに感動した

80 :
>>68
これの14編、ひどくないか?
本気で捨てたいって・・

81 :
良スレ発見! オイラも去年の10月7日に母ちゃんを亡くしました享年86でした、母ちゃんは大正10年生まれで東京の出身でした
関東震災も経験し記憶にハッキリ残っているそうでした、其の後 空襲などで福島の いわき に疎開して常磐炭鉱で働いていたそうです
炭鉱夫だったオヤジと一緒になり、4男を儲け貧乏ながら楽しく一家を支えてきました
なんと言っても貧乏な家のことで食べる物には不自由をしていたそうで、母ちゃんは一計を案じ弁当会社に就職してくれ、そこで売れ残った
オカズを弁当箱に入れて家に運んでくれるようになりました。
その日から我が家の食卓は凄まじく豊かなものとなり、4人の食べ盛りの我々兄弟の胃袋は常に満腹状態となりました、しかしながらクチサガナイ
会社の同僚たちからは「残飯整理のケチンボ」などと悪口を言われていたそうです、後でオイラが大人になってから知ることになりったのですが・・
親の心 子知らず で今となってはお礼を言いたくても言えなくなってしまいましたが
母ちゃんの恥を忍んだ弁当の御蔭で兄弟4人は健康に育つことが出来たのでした

82 :
>>24
ふざけんなバカ
電車ん中でずっと上向いちゃって変な奴に思われたじゃねーか!R

83 :
>>82
素直じゃね〜な  結局、感動したんだろ! オイラもだよ

84 :
母の・・・というか、母も私たちも泣いた話。
今年6月に、父が1年の闘病生活の末他界。
1年前に倒れてからは明瞭な意識が戻ることはなく、
特に最後の1ヶ月は意識がありませんでした。
小さいときから親の愛に恵まれなかった父は
母をものすごく束縛し、母もそれに応えて
お互いが、配偶者・友人・父親(母親)役をしあって
近所づきあいや友人との付き合いもほとんどありませんでした。
「誰にも迷惑をかけないで夫婦で生きている」というのが
父なりの美学のようでした。
しかし、あんなに親を嫌がっていた父が
お骨は自宅から遠く離れた先祖代々の墓に、とのことで
元気なときから菩提寺の和尚さんに戒名を付けてもらったり
礼服を着たときに、自分の遺影用の写真を撮り置いていたりと
準備万端整えていたようです。
当然、母はいつでもお参りできるように、
自宅のそばのお寺に墓地を買って埋葬するつもりでいたので
父の遺言に落胆していました。
父の希望通り、49日の納骨を親類縁者で終え
先祖代々のお墓で永遠の眠りにつきました。
家族みんな、日本国中バラバラに住んでいるので
100か日は、母一人で参ることになりました。
一人で旅行などしたことのない母が
家にあった時刻表(しかも3年前の)をめくると
懐かしい父の文字で「○○(母の名前)へ」と書いた封筒がはさんであったそうです。
中には、自宅からお墓のある町までの道順と時刻表が記してあり
「手間をかけるが、気をつけて来なさい」と父のメッセージが…。
最後の最後まで母のこと、心配してくれていたんだね。

85 :
>>24
いい話だ。

86 :
>>84
弘兼氏に送ってやんなよ。
黄昏流星群的なイイ話だ。

87 :
>>86 さん
読んでくださって有難うございます。
父は、母を一人で旅館などに泊まらせるのが嫌だったとみえて、
早朝発の、キツキツの日帰りの時間割が組んであったみたいですヽ(;▽;)ノ

88 :
ズルイな>>24は…

89 :
泣けるコピペメルマガです
http://mini.mag2.com/m/M0085629.html

90 :
ほしゅ

91 :
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=211046
聴くと涙でる

92 :
http://jp.youtube.com/watch?v=7GBlVsBDmWc&fmt=18
号泣した
ニコニコ版
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3122046

93 :
>>92
美智子妃の若い頃と紀子様って似てるね。

94 :
俺にとっての母の話ではないのですが、俺の息子にとっての母の愛情の
話をさせてください。
俺は10年前に離婚しました。二人の間には当時4歳の一人息子がおり、
俺は息子を引き取りたかったが、4歳の子供には父親よりも母親の愛情
のほうが必要ということで妻が引き取った。俺は養育費を送ることとな
った。妻は仕事を持っており、普通の男性サラリーマンと同じぐらいの
十分な収入があったが、俺も息子への愛情のつもりで十分な金額の養育
費を毎月送金していました。
息子が小学校4年生になったとき、元妻がやや重い病気を患い、手術す
るために入院することになった。そして元妻の入院中、俺が息子の世話
することになった。その間の生活は、子供の通学など生活環境を優先し
て、元妻が息子と暮らす家で、俺は息子と1ヶ月一緒に暮らした。

95 :
元妻の家に行って驚いたのは、とにかく家の中が散らかし放題に散らか
っており、そしてキッチンも汚れ放題汚れていたこと。さすがにゴミや
洗いものを溜めているというような状態ではなかったが、明らかに掃除
が行き届いていない様子だった。そんな家の様子を見て、そもそも離婚
した原因もこのだらしなさにあったということを思い出した。とにかく
妻のだらしなさが嫌で、家から遠ざかるようになり、そのうち外に彼女
ができてしまい、それが原因で離婚することになった。
また気になったのは、息子の着ている服がかなり着古してヨレヨレで、
破れている箇所に、今時ありえない継ぎ当てなどしてあったり、「もう
ちょっときれいな服を着させてやれよ」と思うのと同時に、「いったい
何のために養育費を送ってやっているんだ」と少し腹がたった。そうい
えば、確かに元妻は倹約家というかセコかったことも思い出した。そし
てそれもこの女との結婚生活にウンザリした要因の一つだった。

96 :
息子と一時的な同居を始めた当初、息子は「ママはすぐに部屋を散らか
す」とか「ママはご飯を作り置きするから、ご飯はいつも冷めてまずく
なっている」など、ママに対する不満を言っていた。
それを聞いて俺は、「ああ、やっぱり息子も俺と同じ意見なんだな」と
思った。そして俺は息子に喜んでもらおうと良い食材をふんだんに使っ
て料理を作ったり、散らかった部屋を少しづつ片付けたりした。息子は
「パパの作るご飯はおいしい」と言ってくれた。そして「パパはとても
きれい好きだったって、いつもママが言ってる」という話もしてくれて、
(へぇ、あいつは息子に俺の話をしたりするんだ)と変な感心をした。
また、俺は会社帰りに、子供服の専門店に立ち寄り、息子のために新し
い服を買って帰った。息子はとても喜んでくれて「パパありがとう、
明日この服着て学校にいくよ!」と言ってくれて俺はすごく満足した。
そして着古してぼろぼろになってた服は後で捨てるために袋まとめてお
いた。

97 :
息子と同居を始めて二週間目の週末、息子は、通っている学童保育のお
泊りキャンプにいった。俺はその間に汚いこの家の中を一気に片付けて
しまおうと、押入れを開けた。すると、袋にまとめて捨てたはずの、ぼ
ろぼろになって継ぎ当てだらけの息子の服がでてきた。出勤時に、たし
かにゴミ置き場に捨てていったはずなのだが、おそらく、俺がゴミ捨て
場に持っていったあと、息子がとり戻してきたのだろう。そして、俺に
見つからないように袋ごと押入れの奥に隠したのだろう。俺は無神経だ
った。息子は、ママが継ぎ当てをしてくれたお気に入りの服が大好きだ
ったのだ。悪いことをした。俺は気付かなかったふりをして、継ぎ当て
だらけの服が入った袋を戻しておいた。
そして、そのあと、俺はクローゼットの中を片付けていると、息子名義
の通帳を見つけた。息子が生まれた年に「将来、息子が一人暮らしをす
るようになったときに渡してやろう」という目的で作った息子名義の預
金通帳で、親戚にいただいたお年玉などをその口座に貯めていた。もう
俺は息子の通帳を見ちゃいけないのかな、と思いつつも、息子名義のそ
の通帳の中を見た。俺が毎月送っていた養育費と同額が毎月入金され、
一円も引き出されずに貯金されていた。残高は一千万円近くになってい
た。元妻は息子のために、全額溜めていた。あいつはセコいんじゃない。
母の愛情、それ以外に何もない。セコいとか言って馬鹿にしていた俺は
なんて了見の狭い男なんだと思い知らされた気分だった。

98 :
息子がキャンプから帰ってきた日、「あしたママのお見舞いに行こうか」
と息子を誘った。「うん!いきたい!」と、息子は、これまでの同居中、
俺には見せなかった顔いっぱいの笑顔だった。
それ以来、母の愛情の偉大さを知った俺は元妻を悪く言うことはなくな
った。その後、復縁はしていないけど、息子と元妻とは良い関係が続い
ています。

99 :
>>92
日本人みんなの2人目の母。
優しい母。
長生きして欲しいなぁ。

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