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日本が悪くなったのは全て長州藩のせい (205)
歴史上の人物の趣味・特技 (101)
壇ノ浦の戦いで平家側が退却したら (194)

邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった


1 :2012/03/12 〜 最終レス :2013/03/19
邪馬台国は当時の天体測量の結果楽浪郡の南一万二千里、すなわち宮崎の何処かにあった。会稽は帯方郡の南一万二千里にある。編者陳寿は郡を取り違えた可能性が高い。

2 :

('仄')パイパイ


3 :
後漢の頃の第二天蓋法、すなわち夏至の時の影の長さより、南北距離を求める法が開発された。邪馬台国の位置もこの法により定められたと考えられる。

4 :

宮崎行楽地
http://shogo33333.ninja-web.net/



5 :
×邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
○女王国は北緯32度付近の宮崎にあった
邪馬台国は30王国で構成される連合王国だった。
卑弥
日向
いずれもヒメと発音したと思う。

6 :
なるほど、ヒメタタライスズヒメは神武の嫁。
五十鈴川は高千穂が水源だし、何本かの小さな川を挟んで耳川(御川)、その隣が
尾鈴山(御鈴)、そして西都原古墳群は「妻」にある。
神武は外来だね。
宮崎で現地勢力と政略結婚して、この国の相続権を手に入れたんだろう。

7 :
某盆地人はリアルでも電波甚だしい
少しは自省してくれ

8 :
對馬國…対馬
一大國…壱岐
末廬國…唐津市付近
伊都國…神埼市付近か
奴國…筑後川下流域〜熊本市〜八代市付近(最盛期には烏奴國支惟國を経て博多湾岸まで)
不彌國…三井(みい)郡付近
邪馬壹國…
斯馬國…宮崎市東部〜佐土原町付近(成立当時の那珂郡) 大島・島之内・田島
已百支國…国富町木脇付近
伊邪國…西都市三宅付近
都支國…都農町付近
彌奴國…日向市美々津付近 旧名美彌
好古都國…延岡市付近 旧名県・英多(あがた)
不呼國…豊後大野市付近
姐奴國…大分市付近か
對蘇國…阿蘇外輪山を隔てて蘇奴國と対をなす大分県竹田市付近
蘇奴國…阿蘇北麓東部阿蘇市一の宮付近
呼邑國…阿蘇南麓 邑→陽 向陽つまり南麓
華奴蘇奴國…阿蘇北麓西部か
鬼國…宇佐市付近
為吾國…みやこ町行橋市付近 祓郷(はらいごう)という地名あり
鬼奴國…遠賀郡・宗像郡付近
邪馬國…中津市付近
躬臣國…玖珠郡
巴利國…現うきは市 旧生葉郡
支惟國…現筑紫野市 旧御笠郡
烏奴國…鳥栖市付近

9 :
視野が狭い。九州とみる以上、甑島や屋久島、種子島も考えないと。

10 :
宮崎ワロス

11 :
俺は今まで、まったく別の理由で邪馬台国は鹿児島県出水市だと思っていたけど
いま調べたら、北緯32度の線が市を貫いてた
>>1よ、いいこと教えてくれてありがとう

12 :
次スレ立つまでここでも使おう
875 :日本@名無史さん:2013/01/04(金) 18:48:51.86
最近の大分県佐伯市・竜神池の津波堆積物調査では、
西暦200年頃、東日本大地震クラスの巨大津波が九州東海岸を襲ったことが分かった。
およそ卑弥呼の時代である。
(下のアドレスpdfのp6〜p7、No.3の堆積物黒バンドは西暦684年の天武地震、No.4のバンドが卑弥呼時代のもの)
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/5/iin_okamura.pdf
また天照神話には、スサノオノミコトが高天原へ上がる際に、
山川が揺れ海原がとどろいたので、アマテラスはスサノオが攻めてきたと想い、弓矢を構えたという
巨大地震と大津波で皆々が疑心暗鬼になっていたことがうかがえる。

13 :
同上、ここでも使おう
991 :日本@名無史さん:2013/01/20(日) 00:41:05.96
ネット上でも公開されてる尾花A遺跡というのを見てみれ。
場所は川南町、東九州道の工事にかかる発掘調査じゃ。
竪穴住居246軒規模のAD100-400頃に集中する遺跡。
漫然と建築されたわけでなくAD250くらいに異変が見られる。
鉄器も多いしC14年代測定なんかもたくさんやってる。
考古学ファンには面白い。

992 :日本@名無史さん:2013/01/20(日) 07:37:14.82
http://goo.gl/maps/UvYrx
既に道路になっとる
調査区域は道路建設にかかった50×500m内ほどの細長い23,400u(2.34ha)
南方の一ツ瀬川近くの宮ノ東遺跡も同様でこの道路建設にかかる区域だけ
ということで図面を見ると外に続いていることが明白
広い平野の中でたったこれだけの幅でピンポイントでこんな偶然があるかという

14 :
卑弥呼の倭国は30国、江戸時代の九州諸藩は36藩
およそ良く似た状況ではなかったかと思える
宮崎は、佐土原藩、高鍋藩、それと戦国時代までは神高千穂に三田井氏もいた
321 :卑弥呼は満州にいた:2013/01/20(日) 22:46:46.69
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu_map.html
この地図を見ていると面白いことに気付く。
北部九州には藩がたくさんあるが南部九州には少ない。
とくに薩摩と大隅は鹿児島藩一藩だけだ。
しかもその鹿児島藩が七十七万石と最大である。
これはちょうど狗奴国一国で女王国諸国と対立していることに似ている。

15 :
「古代史 パンドラの箱」で検索したら、恐ろしいものを見てしまった。

16 :
『日本古代史を科学する』(中田力著)の邪馬台国宮崎平野説がひどくおもしろかった。

17 :
 弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国は分裂、卑弥呼は急死する(弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。
-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘
 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、旧奴国&隅国(隼人)と軍事同盟を結び、肥後狗奴国
(後の熊襲)を一網打尽にし、「和」国を再統一した。
 その男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の首都を筑紫・博多から、先遣隊長ニギ
ハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始。
※古事記・日本書紀が、日向長官の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。

18 :
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代
4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル征東、熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【倭の五王(讃珍済興武)→獲加多支鹵大王】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王

-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都

19 :
>>16
中田 力氏も、伊都国は佐賀平野にあった、の説かあ。
最近は佐賀平野を経由する説が多いんだね。

20 :
>>15
kwask!

21 :
日向といっても広い、宮崎といっても広い、さてそのどこにあったのかが問題だ。

22 :
普通に考えれば、
宮崎ではここが 邪馬台国女王之都 のダントツ第一候補だよな
天岩戸、天岩戸神社、高千穂神社、三田井氏伝説とその小字には神殿、その他にも神話伝承史跡にあふれかえってる
http://shogo33333.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/takachihokyou/takachihokyou.html

23 :
西都原に比べれば、宮崎市の古墳はつつましい感じなのがなんとも不思議発見・・、

24 :
>>22
高千穂はほとんど近世のこじつけだぞ

25 :
>>24
へー、あっち方面の方はそういうことをなさるんですか?
それで近世はいつ頃、江戸時代とか??

26 :
そもそも神話の高千穂って霧島だろ

27 :
ざんねーん、
霧島は鹿児島県と宮崎県の県境で、霧島連峰のひとつの活火山、まあ南高千穂だ
>>22 は神高千穂(上高千穂)で宮崎県と大分県と熊本県の三県境で、いわば北高千穂なんだよ、阿蘇山の東な

28 :
>>21
南面が開けた場所無いのか?日に向うだからな日が立つが列島の東の端
南面がひらけた場所堀まくれよ九州人。

29 :
>>28
サゼッション サンクス。真南向きは意外になくてねえ、
日向はあらかた東南向きなんでそれならいっぱいある   >>13 なんかはそうだね

30 :
>14
の旧藩絵図をみると、延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩とある。
邪馬台国の時代、宮崎には4カ国くらいあってもよさそうだ。

31 :
宮崎の山中には、五ヶ瀬・高千穂もあるなあ、合計候補は五カ国か。

32 :
4世紀代の古墳だけを見ると延岡(+富高支部)、川南・持田、西都原、生目(+檍支部、本庄支部)
の4つくらいの勢力があったようには思う。
規模を見ればそのころは生目が第一勢力だったように見えるしそう書いてる人も多いな。
西都原は規模がそんなに大きくはないが数は相当多いのだけどな。

33 :
前スレのあの遺跡は竪穴建物246、石包丁233に対し石鏃97鉄鏃50だ。
鉄製工具32鉄製漁具4他不明鉄器鉄片110程度か。
石鏃は5.3cm9.4gの人体に対して殺傷力がありそうなものもあるが大半が長2、3cmのたぶん古来からの狩猟用。
前線基地なら土器のほとんどが畿内系なり瀬戸内系なり北部九州系なりに偏らなきゃおかしいわけだがそんなこと無いしな。
畿内なりの前線基地の可能性を常に考えるが剣も矛も出てないし可能性は極少ではないかなと素人は思う。

34 :
むしろきわめて治安が良い平和が想像される
環濠とかあっても厳重なものではない
戦死遺体とかどこか一箇所でも出てたか
あの遺跡はどうか分からんけど鹿児島県や人吉盆地と共通する土器石器もあるし元々熊襲とか無かったんじゃないの

35 :
日向神話にはホオリ命(山幸)とホデリ命(海幸)の喧嘩(戦争)らしいものは描かれてるな。
滅ぼすんでなく組み込んだということになっている。
あとは婚姻で同盟的に統一していったような感じ。
高天原がどこかってことになるんだが…
在地より優れた土器文化を持った人の移入があったとして、その人々は初期にいくらか搬入する。
しかし住むなら絶対作らなきゃならないのでその場合は作ったことのある土器に偏るな。
外来側が在地側を討伐対象のような敵対対象とはせず、在地側も平和で受け入れる環境なら、
代を経るごとに在地や周辺のものが取り込まれ(弱)、逆に浸透(強)していき、特異性が弱まっていく方向になるな。
しかしそれら外来の人々の少なくとも集落の初期には周囲と違った特異な様相がなきゃならん。

36 :
そのカギは、やはり鉄製武器器具の存否ではないでしょうか、
これが一番説明しやすい特異な様相かと

37 :
土器が伝わるのって隣から順に長い年月かけて…とも限らんよな
何十日かで来れるし移住して珍しい土器作ってれば教えてくれってことになりそうだし
鉄器は材料を仕入れないとどうにもならんけど

38 :
宮崎には甕棺とか木槨墓とかほとんどの住居に主柱の無い集落とかどこから来たのって感じのがある。
甕棺とか木槨は北部九州と中国?と思うけど柱の無い住居の集落はモンゴル?
柱が無いなら壁が柱の役割もしているってことだが。

39 :
宮崎の弥生後期の集落遺跡で破鏡(前漠鏡)が6.4uの小型住居内に廃棄された状態で見つかった。
去った住人が不要と考え、住居廃棄後にこれを目にした者も欲しがらなかったと思われる。
鏡を欲しがる卑弥呼と異なるぞ。

40 :
まとまって移動したんでなければ去ったというか死んだ可能性の方が大
組織を離れ一家族一個人で生きるのは難しいつか6.4uなら個人か?
亡くなった人が大事にしていたものを盗むのは良くないと思って住居解体の後に鏡ごと竪穴を埋めでもすればすぐ分からなくなる

41 :
小型の竪穴住居では主柱が無いものもある全国的に

42 :
治安が保たれた平和が維持されるには、飢饉が起こらないか
起こってもじゅうぶん代替可能な豊かな海の幸山の幸が必要。
飢え死にしそうになって近隣の集落に蓄えがあれば誰かが絶対
「隣を襲撃して奪い取ろう背に腹は代えられない」そうだそうだと
こうなる。怨恨が生まれて連鎖増殖して大乱状態になる。
近隣でなく遠いここまで平和が脅かされれば守るために武装化する。
5世紀以後とか見れば武器馬具類で溢れて完全に武装化している。

43 :
邪馬台国でググった件数:
北九州説や筑後山門説なぞ、声の大きい一部の人間の意見らしい。
まあがんばってるのは熊本県下の人吉・阿蘇と鹿児島県えびの市、どれも山中だね。
ダントツは西都市で32万6千件もあった(驚)。高千穂も少なくない。
そのわりに西都原古墳群を紹介するHPの写真は桜や菜の花メイン、肝心の古墳群の迫力に乏しいな。
村人が働く芋畑の中の古墳をかすめ飛ぶ戦闘機の写真なんかいいと思うけどね。
"邪馬台国福岡説" 117,000 件 (朝倉 27,500、山門 15,600、八女 12,800)
"邪馬台国大分説"  88,600 件 (宇佐 41,400)
"邪馬台国宮崎説"  83,100 件 (西都326,000、高千穂 26,800)
"邪馬台国熊本説"  77,400 件 (阿蘇 32,900、人吉 31,800)
"邪馬台鹿児島説"  78,000 件 (えびの 60,200、大隅 12,400)

44 :
なぞとは引っかかる言い方だな
全国どこでも各自の自論を尊重して進めていけばいい
先鋭化したりステルスマーケティングみたいなことやってもつまらんだろ
知らんことを知れれば面白いし面白くなきゃ意味ない

45 :
世間で畿内説と九州説と言っても九州説=北部九州のことだからな
マスコミが取り上げるなり自治体がアピるなり余程しない限り泡沫
そんなんせんでいいけどたまには古墳以外の遺跡も保存してもらいたいもんだな
宮崎にそんな金の余裕があるはずもないが

46 :
主柱に頼る家屋は大きさが限られるんだよ

47 :
世間でいわれるのは「どこが好きか」というレベル。学問的な話とは無縁。

48 :
宮崎西都市は好感度No.1、立派じゃないか

49 :
新田原辺りの台地集落は保存状態良さそうだし、
川沿いたんぼの遺跡は津波かぶってて散々だろうから、
西都原古墳とセットで三か所を見学できると、お勉強コースにいいんだけどね

50 :
倭国大乱(桓霊間とすればAD146-189)の時代に軽武装で居れるものだろうか。
僻地だが大乱が冷害や旱害による食糧不足が原因だとすれば南下圧が強まりそうなものなんだけど。

51 :
それは大いに有る
しかし宮崎県には無い、発掘する金が無いのだ

52 :
>>50
異民族同士なら殺し合うだろw
南は異民族の領域か?日本の運命を決めるさあ、ファイルアンサー。

53 :
ネット上で見た都道府県別の白血球抗原?の遺伝子出現頻度を見た限りでは異民族と呼べるような差異は無い。
自分は理系ですら無いのでただ数字眺めただけで何のことやら説明できるものではないけど。
宮崎と岡山は結構近いような傾向に見えた。
10通りくらいの遺伝子の組み合わせの格数字が畿内以西のどこにもに共通するところが無いものは無いみたい。
どこかに似通った数字の県がある。
ただ一つだけ突出気味なのがあってそれは沖縄の数字に割と近いが宮崎や沖縄よりもっと高いとこがある。

54 :
尾花Aの北50mほどの竪穴住居から鏡1面が出ていたりする。

55 :
その住居は36uで特段大きいわけでもなくてそこで最大の住居は2倍以上の面積がある
そこの北500mほどに湯牟田遺跡てのもあって、放射性炭素年代測定ではAD70〜240前後
出土鉄器の中には重量765.7gの朝鮮半島製の鉄斧もあるそう

56 :
有屋室父母兄弟臥息異處は花弁状住居のことだって言う人がいるしそうかもと思ってたけど
弥生終末期にはノーマルな方形ばかりで円形もちらほらって感じになってるみたいだ
弥生後期の紀元後まで混在してるんだけど集落の中の花弁タイプの割合が小さくなってるみたいだし
だんだん廃れていったのかもしらんね
花弁状の方が高い処に寝たり棚として使ったりデザイン的にも衛生的にも優れてると思うんだけどな

57 :
ネットで湯牟田遺跡のレポート見たけど
普通の集落?で、斧とか鉄製品が普通に出てるんだねえ

58 :
武器になるようなものは弥生時代のものは鉄鏃石鏃それぞれ数本と鉄刀1本くらいか
多数なのは磨石とか石包丁で狩猟と農耕の普通の集落だと思うんだけど鉄器が結構出てるね

59 :
宮崎は弥生時代に製鉄をやっていたそうだよ。

60 :
>>56
花弁状は古墳時代まで続いているよ。

61 :
そんな貧弱な武装で済むわけがない常識的に考えて

62 :
こんだけ山で隔てられてれば攻め込もうとも思わんぞなもし

63 :
攻撃に出るんだよ。

64 :
>>59
製鉄をやってたのはどこの遺跡?

65 :
延岡祝子遺跡などが言われているね。

66 :
ありがとう

67 :
鉄器を保有する行為が北から入ってきたのは疑いがないんだが
鉄器を専ら北から何らかの方法で入手したのか、自ら製作もしていたのか

68 :
AD100年代くらいに鉄器が急速に増えてるな
紀元後100年くらいまでは鉄器は希少…だと思ってるんだが、、、
台地辺縁なんだが奥まってて緩やかに下がるから台地上からも近付かないと見えないだろう
つまり隠れ家みたいなとこの1軒から19点の鉄鏃鉄片が出ていたり(向原第一)
この住居はAD50くらいに営まれたみたいなんだがかなりイレギュラーに見える

69 :
量は少ないけど、かなり進んだ技術を有していたことは間違いないね。
南九州は、呉から技術を入れていたのではないかな。

70 :
C14年測はたくさんの試料を測定して真ん中あたりを…でおよその目安に使うのは良いんだろうが
1つや2つの測定結果を過信していいもんでもなかろう
土器編年を軽視しちゃいかんね

71 :
>69
東シナ海を直で渡っていた?
漂流してたまたま流れ着くことはあっても計画的に渡海とか考えにくいな

72 :
南島伝いに渡っていたんだろう。

73 :
奄美以南でしか採れない貝製の腕輪が九州各地から畿内までの古墳で出てるしね
つまり行き来していたということ
ずっと行けば台湾さらに呉の南部に達することまで知っていたのかどうか
少なくとも間接的には知っていたんじゃなかろうか

74 :
弥生中期から瀬戸内系の土器が多くなるし伊予や吉備との行き来があったのも確実
北部九州系の土器もあるので北部九州との往来も

75 :
鉄滓が出てもそれは素材としての鉄を入手して鉄製品に加工したものだろうな

76 :
もし吉備にも北部九州にも行っていたなら銅鐸や鏡の様子を知っていたはず。
見はしなくても話としては。

77 :
鉄滓と鉄屑の区別ができていないようだ。

78 :
弥生時代の人骨の殺傷痕は、石鏃によるものが一番多いらしい

79 :
あの時代の遺跡って殆ど台地上だね
数メートル程度の微高地もあるにはあるけど

80 :
西都など低地のインター付近も発掘調査したと思うんだけど
どんな具合だったかご存知の方いらっしゃいませんか?

81 :
西都インター周辺は
蔵向 確認調査の結果、調査不要
大辻屋敷 終了(平成10年度)
小田河原 確認調査の結果、調査不要
宮ノ前 確認
宮ノ東 確認 本掘
ってなってるみたいだよ

82 :
調査不要ということはなんも出てきそうにない?
川の氾濫とか津波とか?
ありがとう

83 :
2000年くらい前の巨大津波を経験して台地に住むようになってたのかもしれないね

84 :
宮ノ東というところは数百軒以上の竪穴建物が出ている遺跡だけど
そのあたりは入り江の最奥だったのかもしれない
ttp://flood.firetree.net/?ll=32.0773,131.4248&z=4&m=3&t=2
+3mではないのだけど土砂の堆積期間が短いので
全国的にこんな感じになっていた場所は多いと思われてる

85 :
とりあえず尾花A遺跡とか宮ノ東遺跡とかの隣接地と、
目の前にあるのにほとんどが手付かずの古墳。
掘る前から何かあるのが分かってるとこだけでも膨大だ。
予算があるんだろうかw

86 :
まあどっちにしろ数百年後…大和朝廷の統治が確定して、
薩摩や大隅を分離して律令制を広めようとしたころ、
長期に渡る戦いによって疲弊し荒れ果てていたんではないかな。
古墳規模縮小が全国的傾向に増して著しいのでは…
代わりのように地下式横穴墓が増えるけど、古墳を作る国力が無くなっていったんでは。
地下式横穴墓の副葬品にも武器は非常に多いが農具が少ないように思う。
国力人力をすり減らして行ったのかな。

87 :
やっぱり戦をしていたんだろうか
だとするといったい何百年平和が訪れなかったのだろうか
平和は大事だは

88 :
そう。日向は元々大隅薩摩を合わせて日向国。建日別。熊曾国。同族的であり戦に明け暮れていたわけではなかった。
記紀によれば何かの理由で日向(薩摩大隅日向)から東征した。
純粋な日向の系統はすぐに絶え、大和の血がだんだん濃くなりアイデンティティは無くなった。
大和に近い圧を受け易い日向(のち+薩摩)は婚姻と不戦を選び、大隅(はじめ+薩摩)は徹底抗戦を選んだ。
初めは日向勢力も大きく何度も日向から妻を迎えて例えば雄略天皇の皇后も日向女の娘である。
同時に大隅薩摩との争いが不可避となり日向豪族も戦いを余儀なくされた。
大和と隼人の間で退くに退けない状況。
争いは数百年に及び疲弊していき豪族の力は次第に弱まり人々は貧しくなり少なくなり古墳を作る力はなくなり、単なる大和の先兵と化して行った。
大和から最も遠い大隅コア部の反乱が隼人の最後の抵抗である。
全てが終わった時、日向には荒れた土地とわずかな人しか残っていなかった。

89 :
似たようなことを近現代に見たようなことがある気がする
火の鳥みたいな話を書けそうだななんか

90 :
つか火の鳥にヤマタイ国とクマソ国が出てきて棚

91 :
日向から東征軍を出したというならば、その日向の系統がすぐに絶えたなどという
事態に陥るはずはない。日向は古墳時代の唐書から古墳時代を通じて繁栄を続けて
いる、これは東征した地域からの物資が入っていたからこその繁栄だ。
大隅が徹底抗戦? 大隅に大きな古墳があることを知らんね。大隅と薩摩が戦った
なんてことはないよ。

92 :
絶えてはないけど、手研耳は誅殺されて神武天皇と畿内の妻との子が継承してるよ。

93 :
>>91
大隅と薩摩が戦ったなんてどこにも記されてない。
あえて言えば大隅と大隅だろうか。
古墳時代の大隅の南東部と北西部で同じ主義とは言いがたいな。
南東部では大きな古墳を作ってるな。

94 :
同族だから戦わないってのもよくわからんな
普通近所の連中と土地争いが戦争のもとじゃないの?

95 :
今でも殺人事件の半分以上が家族親族内らしい

96 :
家族親族だからこそ戦いになる例は数え切れない

97 :
それよりwikiの隼人の項をなんとかしたらw
地下式横穴墓の解説とか滅茶苦茶だ
出典が何十年も前のばかり1960年代とか何を考えてんだかな
別にwikiだからいいけど

98 :
荒廃した日向を素通りし隼人の乱を鎮圧して捕虜を連行していく大和の軍が去ったそのころ…
眼下の荒れ果てた田畑跡・破れた家々・打ち棄てられた構造船、傍らの草茫々の古墳を
ぼんやりと眺めながら袖にてんとう虫が止まり涙が頬を伝う我王500歳的な人は絵になる。
ほんとはその2、30年後の大和の平城京郊外で両腕を失った彫物師の我王だけど。(火の鳥)
そんな風景が広がっていたのではないかと割と思うな。
他がいちはやく戦乱から離れ開墾に没頭していた時に戦いを繰り返した結果か…と。

99 :
戦いを繰り返したとしても好き好んでやったんじゃなければ災難もいいとこだ

100 :
隼人にしろ別に悪事を働いたわけではない自衛行為だろうがそういう時代なので仕方ない。
西岸を行く大和役人一行を侮辱とか言われるが過程を無視しちゃいけない。
日向が数百年かけて得たものがかつての同胞の薩摩大隅との間の遺恨と自国の荒廃だけだったとしても
その非は自らに求めるしかない。災難は大和がもたらしたものではない。自ら呼び込んだようなものだ。
いや単にそういう時代だった。そんな大昔の真偽もどうだかってことで何も思わんだろ普通。

101 :
手塚治虫史観

102 :
手塚治虫がヤマタイ国をどこに比定していたかは知らんが
狗奴国=クマソ国としていたようだな
ネット上では根拠と共にこのへんに持って来る人も結構いるようだ
去年全国紙でも宮崎平野説が紹介されてたことがあったな

103 :
どこがギルティなんてナンセンス。
橿原市と姉妹都市の縁で今某デパートで物産展やってるそうで何か買ってきとるわ。
興味あったら行ってみたらいいですよ。

104 :
すまん今詳しく聞いたらとっくに終わってるわ物産展。

105 :
姉妹都市なら橿原市より桜井市とかなんじゃ…

106 :
証拠に基づかない妄想、空想をいくら述べたところで何の役にも立たない。
問題は、倭人伝に従って邪馬台国の所在を探求したらどこになるか、それが
記紀や考古学資料によって裏付けられるかということだ。

107 :
書物は全面的に正しいとはされないので実質考古学によってしか進展しないな。
類例が無いとかどれだけ大規模な遺構が出ても邪馬台国云々となれば可能性を
主張するための材料のひとつにしかならんけどな。
でももし、国内に有るか疑わしいが親魏倭王印とか、親晋倭王印とか、下賜品目録
が記された簡とか、何も読み取れなくてもAD240前後の簡とか、そういうものが
そんなに時差無い層から出土すれば大騒ぎだろうけどな。
印は仮に国内にあったとしても移動されてそうだけどな。

108 :
現在、連続式や伊都国糸島が通説なら、まだ進展する余地は十分あるよ
多くの人は他の可能性を知らないだけだろう。

109 :
>書物は全面的に正しいとはされないので
そんな前提はまちがっている。疑うべき理由がなければその記載は重要な資料となる。
>考古学によってしか進展しないな。
考古資料は多くの場合、補助資料にしかならない。

110 :
アピ活動やって世論誘導することで予算が来易くなるくらいはあるかもしらんね。
何処に何が比定できるか可能性の議論はやり尽くされているから百年やっても何も進まんよ。
言いたいことは分かるんだが、重要な資料となるんだが、同じことの繰り返しで進まない。
考古学しかない。

111 :
その割に花弁状住居は直視しようとしない。
本来これこそ重要な手がかりとなる遺跡だろうに。
金印レベルの遺物なら別だが、余程じゃない限り考古学で文献は否定できない。
行程を考慮しなかった場合、何をもって奴国、投馬国、狗奴国、邪馬台国を判別するのか?
本来、文献に関して言えば考古学はそれを補完するものでしかなく
補完できるか、できないか。考古学はそれだけにとどまる。

112 :
そう、考古学では国の名前とか、一つの国の領域がどこからどこまでかとか国家体制
がどうだったのかなど、まったく分からない。
今の考古学者は、すべて思い込みでかってな主張をしているだけだ。

113 :
文献は超重要だが新たに発見される可能性は皆無に近く…
話は変わるが布留系土器と言っても使われている土も違う搬入品と在地の土を使っている模倣品がある
当たり前だがこのへんの解釈ががかなり重要だろうな

114 :
南九州の議論はこれから。まだ何も始まってない。
論争に取り残されまいとする危機感はよくわかる

115 :
つまり在地系土器も作って布留系土器も作ってたということですか?

116 :
>>114
少し昔は西都原も5世紀からだとか生目の古墳もただの山、
一部に古い可能性があると指摘する人がいたくらいで、
弥生遺跡と不毛に近いくらいかわずかだったからな。
よって記紀はインチキ視だったが最近の考古学的発見で
見直され始めた。

117 :
>>115
そういうことになるんじゃないかな。
でも解釈になるとどうしても主観が入るな。

118 :
文献史料に限界のある時代は考古資料によってしか学術的進展がないのは当たり前だろう。
あと文献と考古はどの時代でもお互い補完する事はあってもどちらかの補助になるとか
そう言う扱いで歴史を語る奴はきちんとした論は立てられない。

119 :
考古学というのは、まだそんなレベルなんだよ。邪馬台国の所在をかたることなんぞ
とてもとても。

120 :
語ってほしくないだろう。
客観に徹するから信頼が置かれてる。
邪馬台国とか一文字たりとも出さないはず。
想像で多くを語る考古学者は考古学者とは思われてない。

121 :
伊都だから糸島、理由はたったこれだけ!! 伊都国はほんとうに糸島にあったのか? 
魏志倭人伝にいう末蘆国(唐津)の東南500里は、鉄道唐津線沿いに進んだ佐賀平野にあたる。
ここに伊都国・奴国・不彌国があり、南は有明海に面していたと考えると倭人伝の記述と完全に一致する。
ここまで帯方郡から1万500里〜1万700里となる。
そしてここから南へ1500里〜1300里(約100km余)に邪馬台国はあったと考えるべきであろう。( 距離的には熊本県にあたる)
その邪馬台国の中に卑弥呼の都はあったという。
今史跡を行けば、上古の火国臼杵郡知保郷に訪ねあたる。→ 上高知保(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
ここには上古より、お隠れになられた天照大神をお祀りする天岩戸神社 西の宮 がある。
また、お出ましになられた天照大神をお祀りする天岩戸神社 東の宮 もある。
さらには、日向三代の神々をお祀りする高千穂神社もある。
しかし記紀によれば高天原・日向三代は天上神話であり、建前としても現世地上に神々の御陵のあるはずはない。
そこで身代わりの現世遥拝所として、後世、宇佐に宇佐神宮、伊勢に伊勢神宮が造営されたのではないか?
じつは高知保三社の格付けは村社にとどまっており、古くからご皇室・国家の公式御参詣・御庇護を得ることはなかった。
(想像だが、むしろ公のご参拝は憚られたからではないのかと思われる)
よってやむなく村社として、火国の土豪民衆らにより、祀り護られてきたのではないかと思う。
なおこの地の南方沿岸には、投馬国とおぼしき西都市・宮崎市もあり、雄大な西都原古墳群を眺めることができる。

122 :
>末蘆国(唐津)の東南500里は、鉄道唐津線沿いに進んだ佐賀平野
同意。
>南へ1500里〜1300里(約100km余)に邪馬台国はあったと考えるべきであろう。
これは女王国があるところ。邪馬台国とは書かれていない。
邪馬台国までは水行十日陸行1月。それが1500里と一致しないことは一目瞭然。
万二千里で到達するのは女王国の入り口であって邪馬台国ではないことに気づくべきだね。

123 :
>>122
やあ、さっそくにどうもありがとう
水行十日陸行1月をどう解釈するかなんだけど、これを帯方郡からの所要時間とみて、
万二千余里の距離と併記してる考えてはどうかなあという新説で、最近流行してるみたいなんだ。
そうすると邪馬台国は熊本阿蘇高千穂一帯、女王之都は知保郷で何とか当てはまるんだ。

124 :
>>121の修正:
伊都だから糸島、理由はたったこれだけ! 伊都国はほんとうに糸島にあったのか? 
魏志倭人伝にいう末蘆国(唐津)の東南500里は、鉄道唐津線沿いに進んだ佐賀平野にあたる。
伊都国・奴国・不彌国はここにあり、南は有明海に面していたと考えると倭人伝の記述と完全に一致する。
ここまで帯方郡からの距離は1万500里〜1万700里となる。
そしてここから南へ1500里〜1300里(約100km余)で邪馬台国に至ったと考えるべきであろう。→距離的には熊本県にあたる
その邪馬台国の中に卑弥呼の都はあったという。
ここまで通算して帯方郡から末蘆港まで水行十日、そこから女王の都まで陸行一月を要したと読めば、倭人伝の記述は納得できる。

125 :
>帯方郡からの所要時間とみて、万二千余里の距離と併記してる考えてはどうかなあという新説
漢文の読み方を知らない奴が言い出したトンデモに過ぎない。
自分が文章を書くときに、そんな意味で倭人伝のような書き方をするか、良く考えてみな。
万二千里については郡からの距離であることが明記されている、それと同じように郡からの日数
ならばそのことを明記するよ。日数はあくまでも北九州からのことだ。そんなところを妙な読み
方をしてはいけない。

126 :
まあ、日数では場所は特定できないし、
倭人伝も用をなさなし、邪馬台国論争も無用無駄になるけどねえ。
それで日数は北九州のどこから数えればいいの?

127 :
連続説と放射説とがある。連続説ならば不彌國から、放射説ならば伊都国からだ。
どちらが正しいかという問題になるが、文献史学者が検討したところによれば、放射式の
方が正しいということだ。それに連続式ならば、不彌國から先は水行三十日陸行1月とい
うことになるがこれはいくら何でもかかりすぎだろう。
伊都国が佐賀付近ならばそこはもう海。目の前に海があるのに奴国、不彌國と歩く必要は
なさそうだ。となれば、放射式が正しいんだよ。伊都国=佐賀大和あたりから水行十日陸
行1月で邪馬台国だね。

128 :
了解しました。
その日数では女王之都の場所は見当つきそうにありませんね。
仮に何か出てきても甲論乙駁の水かけ論かあ。。。
文字物でも出ればだけど、天岩戸神社や高千穂神社じゃ発掘もできないし。。。

129 :
見当つかないことはないよ。まず、二十日でつく投馬国、これは有明海を南下するとなれば
熊本平野か川内平野かその先の加世田付近かということになる。五万戸の国の都ともなれば
川内平野の可能性が高い。
伊都国から水行十日はその半分だ。八代付近。そして南へ陸行となれば球磨川沿いに歩いた
ことが予想される。その先は都城盆地か宮崎平野。宮崎平野ならば途中から東へ歩いたこと
が示唆されるのではないかな。そう考えれば、都城盆地が邪馬台国ということになる。

130 :
個人的に都城邪馬台国は有りうると思う。
あそこに住んでたことがおありなんですかあ?
でも水行十日陸行一月の行く先では、他人さまがとうてい納得してくれそうにないのが。。。

131 :
納得しないってどうゆう意味?

132 :
南九州といっても対象地域が広く、いろんな人がいろんな候補地を述べる余地が大きいということね
実はオレ住んでた。
都城盆地に限ってもあのあたりは鹿児島県曾於志布志串良方面から福山霧島地域含めて結構広い。
境界になる山とかも小さいので、候補地が乱立して収拾がつかない。
それを避けるためには、女王之都はどこか指摘するのが一番と思う
とりあえず邪馬台国は都城盆地として、それで女王之都の場所はどのあたりに比定されますか??

133 :
盆地の中のどこに比定するのかは、言うは易いが証拠的には無理だろう。
これから発掘などで何か資料がでるかも知れん。しかし、古代の宮殿というのは
ある程度の期間で遷していたようだ。徹底的に発掘すれば候補地はいくつもでて
くるだろう。考古学資料で卑弥呼の宮殿所在地を確定することは無理と思うよ。
とにかく、7万戸の国だ。都城盆地に宮殿があったとしても、宮崎平野はすべて
領域に入るとか、きわめて広い範囲を考えるべきだ。

134 :
古墳規模や副葬品から見て熊本には相当強大な国があったと思われる

135 :
途中までだけどこんな感じ?
ttp://chizuz.com/map/map141983.html

136 :
>>135
とりあえず、いい感じじゃないの
ネット使ったこんなの初めて見たわ。
あとは、なんかブツにあたるともっといいんだけど、まあぼちぼちね。

137 :
帯方郡から12,000余里で邪馬台国。
伊都国までに10500里使っている。
伊都国から1500里、つまり熊本付近が邪馬台国の有力比定地かと思われる。

138 :
>帯方郡から12,000余里で邪馬台国。
これが間違い。どこにもそんなことは書いてない。

139 :
>>138
そうですかねえ??
南至邪馬壹国女王之所都
 ↓↑
自女王国以北、次有・・・21国、此女王境界所盡。
 ↓↑
自郡至女王国万二千余里。

140 :
自郡至女王国万二千余里。万二千里で女王国に至るわけだ。そこから尽きる所まで
どれだけあるのか分かってるか?

141 :
>>140
はい、良くわかってますよ。
まず、自女王国以北、次有・・・21国、此女王境界所盡と書いているので、女王に属する国はすべて女王国より北にある。
つまり女王国は一番南にある。(なおその南に女王に属さない狗奴国がある)
また、邪馬台国の中に女王之都があり、陳寿はこの国(邪馬台国)を女王国とも書いている。
故に、自郡至女王国万二千余里は、自郡至邪馬台国万二千余里と同じ意味である。

142 :
〜狗邪韓國 七千餘里
〜對海國 千餘里
〜一大國 千餘里
〜末廬國 千餘里
〜伊都國 五百里
自郡至女王國萬二千餘里
ジャスト熊本
そこから尽きるところの宮崎あたりまで邪馬台国

143 :
熊本と宮崎の境はどこを見ても相当険しく
わずかに高千穂あたりがなだらかなくらいで
同一の国だったとするのは難しい。

144 :
相当むかしは火国(日国)といって熊本+宮崎だったらしいが、それはべつとして、
上古には、今の阿蘇・高千穂・五ヶ瀬・蘇陽(今の山都町)辺り、
つまり阿蘇高原+南山岳地帯ををまとめて知保郷といい、どうやら隈本(熊本)とは別扱いだったらしい。

145 :
邪馬台国の中に女王之都があり、陳寿はこの国(邪馬台国)を女王国とも書いている。

146 :
>邪馬台国の中に女王之都があり、陳寿はこの国(邪馬台国)を女王国とも書いている。
分かってないな。 奴国が女王の尽きる所とあるのだから女王国には旁国が含まれる、邪馬台国は
旁国を含まない、当然のことだよ。女王国とあるからといって邪馬台国と同視してはいけない。

147 :
延喜式では多分高千穂あたりを智保郷と言っていたけど元は阿蘇あたりを中心とする名だったのかな

148 :
>>143
旧百余国の時代には確かに違う国だったんだろうね。しかし、南九州の勢力が北九州と
戦う時代にはどちらが熊本を味方に引き込むかという問題になるんだよ。
おそらく南九州が熊本を征服したか少なくとも手を結んだ。その結果、倭国の乱で南
が勝ったのだろう。

149 :
>>146
そのことですか
「女王国」と、此女王境界所盡の「女王」は意味が違いますよ。
ここに書いてある「女王」とは女王国のことでなく、女王の統治が及ぶ範囲の傍国という意味です。
たとえば奴国は女王の統治が及ぶ範囲(女王国の傘下)ですが、女王国ではありません。
その余の20国も同様であり、女王の統治は及びますが、女王国ではありません。
あなたの誤解です。

150 :
宮崎の場合は弥生中期後半から瀬戸内系の土器が増える
今見つかっている遺跡だけ見れば後期AD100くらいから住居が急増する
布留式も在地系も在地胎土の布留系的土器も同じ遺跡同じ住居から出土する
割合は数%以下
熊本の場合は…

151 :
>>149
>邪馬台国の中に女王之都があり
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月
一般的に、女王の都する所=邪馬台国 と訳されることが多いけど
「所」を省いて、「中にある」のニュアンスを加える理由は?

152 :
>>149
>「女王」とは女王国のことでなく、女王の統治が及ぶ範囲の傍国という意味
そんな意味で境界が尽きるなどということはないよ。女王=女王国だ。文例を調べて
ごらん。女王に統属するかどうかというのは、属とか不属とか表現しているよ。
狗奴国について不属とあるだろ。

153 :
>>151
邪馬台国が小さければ、南至女王之邪馬台国 とかで済む。
あえて邪馬台国女王之所都(邪馬台国の中の女王の都のあるところ)と書いたのには理由ありと思う、
邪馬台国は7万戸もあってだだっ広く、端から端まで五百里〜千里あるのかもしれない、
例えば今の日本、その中の天皇の都する所は東京、こんなイメージね

154 :
>>152
陳寿は少ない文字で多くを語ろうとするためと思われるが、一字違う場合は別の意味を持たせている。
仮に・・・此女王国境界所盡、とすればこれは女王国=邪馬台国の境界尽きるところと同じ意味。
此女王境界所盡は、 
× ここが女王国の境界尽きるところ
○ ここが女王に属する国々の境界尽きるところ

155 :
屁理屈こねても駄目だよ。一字違う場合は別の意味を持たせているというならば、
女王国と邪馬台国、表記がちがう以上、別の概念だろうが。
属する国かどうかならば、属、不属と書くのが魏志の書法だよ。

156 :
>>152
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
ここも不属女王国でなくて、「不属女王」 となっている。
すなわち属、不属を言うときは「女王」を使用している。 

157 :
>>155
>女王国と邪馬台国、表記がちがう以上、別の概念だろうが。
とうぜん別の概念ですよ。
邪馬台国は昔からあった。そのうち女子が王になった期間を女王国という。

158 :
>属、不属を言うときは「女王」を使用している。
統属女王国とあることを忘れているな。女王国を女王と表現することもある。
だが、女王国に属するかどうかというときに、境界云々はないね。

159 :
>>157
期間だけの問題ではない。範囲すなわち領域もちがうんだよ。

160 :
此女王境界所盡
ここは、女王(に属する国々)の境界が尽きるところ、と私は読んでいますよ。

161 :
だから、その読み方は間違いだって言ってるのさ。

162 :
>>161
私におっしゃっているのですか、もしそうなら
あなたのお考えの女王国の範囲の国々(対馬国以下〜の該当する国)を列記してください。
今まではいけんしたことがありませんので、理解しかねています。 >160

163 :
女王国というのは、邪馬台国だけではない。投馬国も旁国も含んだ概念ね。つまり、
倭国(女王国および以北の国々)、女王国(邪馬台国と投馬国、旁国)、邪馬台国
と三段階になっているんだよ。

164 :
>>163
そうすると、対馬国〜不彌国までの6カ国(と狗奴国)を除いた倭国の国々という意味ですね。
おっしゃりたいことは理解できました。 >162

165 :
そう、倭人伝はそれを女王国と称しているのだが、多くの人はそのことに気づいていない。
それに、女王国=邪馬台国と思い込んでいる人は更に間違いを犯している。
邪馬台国だとしても、>>153氏が指摘するように、邪馬台国はかなりの大国だ。万二千里は
その都までの距離ではなく、国の始まる所までの距離にすぎない。万二千里で都に到達する
と思い込んでいるのは完全な誤りだ。

166 :
古墳時代の舟形埴輪は有名だけど、弥生時代にも舟を象った土器が出てるんだよね。
遊び心で作ったのかな。

167 :
江田神社の近くに何かあったんかなあと思ったら古墳時代中期から後期の遺跡があるな。
集落や直径10mくらいの消失古墳があったらしい。
生業は農耕だろうとのことで紡錘車、玉類、鉄器、鉄滓、馬を埋葬した複数土坑なんかがあって先進的。
金メッキ銀メッキの大量の馬具も出土。
砂地で土器を作るための粘土が取れないので粘土や土器を購入していたのだろうとのこと。
粘土塊も出土。
7世紀前半には衰退し始めてる。

168 :
しかし712年あたりの時点で廃墟として残っていたかもしれん。
数十年100年も経てば埋没しきるだろうか。

169 :
現代の廃村で人の手が入らなくなった家屋は20年で倒壊し始めてる
家屋が無くなった数十cmの凹凸遺構だけなら数年で草藪に覆われて行方知れず
100年も経ったら記述と伝承のみ

170 :
しかし、そこにいた人々はどこへ移ったのかということが問題になるな。

171 :
>>170
入り江だったみたいだが
予想だが陸化して港的な役割が果たせなくなったとかか
どこ行ったんだろうな

172 :
古墳時代を通じて繁栄していた日向の人々は、みんなどこかへ行ったんだよ。
そして、急に畿内が我が国の中心として動き出したんだ。

173 :
5世紀の時点で完全に畿内が中心
墳丘長400mを超えるような古墳を作ったのは畿内だけ
仮に箸墓を4世紀としても4世紀の時点で他を圧倒している

174 :
大規模先進的な建造物を持つ勢力を絶対視すれば江戸幕府が薩長に打倒されるなど有り得ない話だ

175 :
馬がいれば海岸沿いの砂浜は良質な道路に早代わりだな
河口部は浅く狭くなってる時もあるし場合によっては繋がる

176 :
7世紀前後のドロドロ畿内は逆臣蘇我馬子が物部守屋や穴穂部皇子を殺害して、
さらに崇峻天皇を殺害という大逆をやって馬子の姪で傀儡の推古天皇を立てたころ。
聖徳太子が摂政をやっていたころ。
もうとっくに単なる畿内の出張所先兵日向の出る幕は無いさ。
出てくるのは神話のいつの事かあったのかもどうだかな神話時代だけだ。

177 :
しかしながらまだ古事記日本書紀が編纂される前のことであり、
記紀に何らかの影響を与えた可能性を完全排除しきれない。

178 :
推古天皇とか聖徳太子は架空の人物。考古学的には裏付けられない。

179 :
649年までに蘇我蝦夷・入鹿・石川麻呂は葬られたが石川麻呂は「冤罪」であり
「讒言者」蘇我日向は筑紫率(大宰帥)に「左遷」させられた。

180 :
都城が島津の出生地、果ては邪馬台国など史実を無視して唱えるのは都城人、
そして宮崎人特有の地域性。一見人がいいようで嫉妬心が強く対抗意識が強い。
宮崎に長く住んでそう思いました。九州の朝鮮、それが宮崎です。
西郷隆盛が本当は都城出身だと言う人の話を聞いた時は言葉もなかったし、
初老の女性が、宮崎県人は全国一人のいい県で、県民運動も行っていますと。
これにもぶったげました。
さて、前置きは別にして、高千穂の天孫降臨説は単なる山岳信仰だろうし
阿蘇方面からの影響もあるのでしょう。ニニギノミコトは阿多の先の笠沙の
岬でコノハナサクヤヒメと出会ったわけですから、多分、中国大陸から薩摩半島
南端へ上陸した渡来人、春秋戦国時代の呉の末裔の可能性もあります。
彼らが熊襲・隼人となった可能性も大きい。南九州の遺跡、伝承はそういうものでは
なかったのか。言語、地名などが南九州から高地、熊野、五島、出雲、加賀、津軽などへ
伝播した可能性も高い。DNAも同じ所が多いし、船での渡っていけば早い。
大隅の曽於市岩川八幡宮に奉ってある弥五郎どんは熊襲の首長又は竹内宿寝とも言われて
いる。これも先人の渡来系熊襲と大和王朝との関わり、大化の改新の裏事情だったのか。
また、最後の熊襲の乱平定、その頃、大隅の国が日向の国から分離、日本書記の編纂と
何らかの政治的意図を感じさせる。明治維新後、西南の役、その後の県図の変遷、
これも似た感じを受ける。

181 :
●呼称・名称の使い分け
『倭人伝』は、倭・倭国と女王・倭王に関して細かい使い分けをしている。
絶対的な階級制度下の社会にあって、中国人の位階や呼称の扱いは非常に厳格である。
ここでもご多分に漏れず、倭と倭国、女王と倭王、女王国と倭国、女王国と邪馬台国を明確に分別せずに語るか、
間違った理解で語る例が目につく。ひどいもんだ。
そこで続けて、
(これが正解とはいわないが)書き手の気持ちになって書き分けを読む必要を認識してもらうために、
『倭人伝』が位階や呼称をどう使い分けているのを整理する。

182 :
❶倭と倭国の呼称の使われ方
中国側の倭と倭国の認識実態を時系列でみると次のように細分できる。
・中国側に「倭国」という認識がなかった時代。(57年からの倭奴国時代)。
・後漢朝が認証した倭国・倭王の時代。(107年から190年頃までの男王たちの時代)。
・後漢朝が卑弥呼を倭王と認識・認証していなかった期間。
 (卑弥呼が女王になってから後漢朝が滅亡する220年までの約30年間)。
 後漢末の動乱期に卑弥呼が後漢朝と接触した事実はないから、後漢朝が卑弥呼を倭王と認識していた事実もない。
・魏朝が倭国と認証していなかった期間。(220年に魏が興きて卑弥呼が朝献する238年までの18年間)。
 むろんこの期間は卑弥呼を倭王とは承認していない。
・魏朝が承認した倭国・倭王の時代。(238年以降)。
▼たった一つの「倭国」という表現についても、後漢朝が認証した倭国と魏朝が承認した倭国がある。
魏朝が興きた220年から238年の朝献までは、魏朝にとって卑弥呼はただの女王もしくは倭の女王でしかない。
『倭人伝』はこうした期間ごとに呼称を使い分けている。
その『倭人伝』をみると、倭国という表現を3度使っている。
@一大率を紹介した部分で、「郡の倭国に使するに」と倭国を使っている。
これは、明らかに魏との交流が始まったあとの説明文だから倭国という表現で正しい。
A「その国本また男子をもって王となす。とどまるところ7〜80年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る」
帥升の107年から7〜80年間(後漢末の180〜190年ごろまで)は男王の代が続いた。
その倭国で、恐らくは後継者争いと思われる大乱が起きた。 陳寿はここで「倭国乱れ」と書いている。
これは卑弥呼の時代を書いているのではなく、彼女が女王になる以前の倭国の歴史的経緯である。
つまり、107年から190年ごろまでの7〜80年間は、後漢朝が倭国と認知していたことで「倭国乱れ」と書いている。
B正始元年に帯方郡から封爵使節がやってきたとき、「倭国に詣り」「倭王に拝假し」と書いている。
これも、倭国・倭王との公式認知をくだしたあとのことである。

183 :
❷女王という呼称の使われ方
『倭人伝』は卑弥呼の王号についても、倭・倭国の呼称と連動して厳格な使い分けを見せる。
 魏が倭国と公式に認知するのは、明帝が詔書の文言に「親魏倭王となす」と宣言した直後からである。
皇帝が親魏倭王と呼ぶまでは倭の女王あるいは女王で、親魏倭王と呼んだ直後から「倭王」という呼称を使っている。
※「去女王4000余里」。この文章が女王国の「国」の文字の脱落ではないとすれば、
「女王の所から去る(離れる)こと4000余里」というほどの意味だろう。
これが「去女王国4000余里」では起点の範囲が広すぎて曖昧になる。
❸女王国という呼称の使われ方
この呼称は一元的にいえない面がある。
たとえば、邪馬台国と女王に属する28ヵ国を女王国と書いていると思わせる面もある。
@伊都国に関する記録の「世有王皆統属女王国(世々王あり皆女王国に統属す)」の女王国は、
女王以前の後漢代の時間的な脈絡をいうところだから、
女王国の前身である「かつての倭国」というほどの意味で女王国としている。
ここで「皆倭国に統属す」とすれば、文章として間違いとはいえないが、
卑弥呼時代の倭国と錯誤させる表現になってしまう。
▼『通志』はこの部分について、ズバリ「皆倭国に統属す」としている。
明解なのだが、これよりは、国号の使い方という点で『倭人伝』のほうがより厳格である。
A「自郡至女王国」「女王国東渡海」「女王国以北にはとくに一大率を置き」「女王国以北はその戸数・道里を略載……」。
ここも杓子定規に断定できない部分で、こうした使い方は、女王に属する29ヵ国を女王国と書いているようである。
B邪馬台国については、厳密には王都が邪馬台で邪馬台国は首都エリアを指す。
通常は王都に国はつけないものだが、7万戸を有する首都エリアの意味で邪馬台に「国」をつけたものと私は理解している。
そう考えて文脈をよくみると、国を省いて「南至る邪馬台、女王の都する所」とした場合、ま
るで皇居に東京23区の総戸数を入れるようなもので、7万戸の巨大王宮があるのかと思わせ理屈になることが分かる。

184 :
❹狗奴国に対比させた女王国
『倭人伝』は、狗奴国については「女王に属さず」と書いている。
▼そもそも倭国とは、狗奴国を含む30ヵ国を包括した呼称であり、
やはり、女王に属さない狗奴国を除く(女王に属す)29ヵ国を女王国としているようである。
▼魏が卑弥呼を倭国王とはせず倭王としたのも、
交流が始まった時はすでに卑弥呼に属さない狗奴国の存在があったからではないかと思われる。
▼正始8年以降の記述では、卑弥呼を倭王ではなく倭の女王としている。
「倭の・女王・卑弥呼」と「狗奴国の・男王・卑弥弓呼」というわけである。
ここで倭国の女王とすれば狗奴国を含む倭国(または倭地)のことになり、「女王国の女王」とすれば余計におかしくなる。
かなり熟慮した使い分けと私はみる。
さて。私の検証整理が正しいか否かはともかく、しょくんもしょくんなりにこうした作業をやってから、
分別して「女王がどうだ。女王国はどうだ」と発信するのが大人の会話だろう。

185 :
ご多分に漏れず→→→ご他聞に漏れず

186 :
倭国中の女王国
倭国王でなく倭王
ここを含む南九州は男王国のような気がしますね

187 :
>>180
鎌倉時代に何処ぞの誰かが何処かからやって来るより前に島津駅や島津荘があっただろ
島津は延喜式に既に確認できる都城とかあのあたりの地名だ
盆地電波の肩を持つわけではないし島津氏とかどうでもいいけどこれに関しては都城を擁護せざるをえない

188 :
西郷さんとか大久保利通の有能さ、薩摩藩士の勇敢さや情の深さは尊敬するし心打たれるけど、
島津氏や組織としての薩摩藩は別
江戸中に囎唹や姶羅を移動させたり、日向大隅国境は霧島山の諸山頂向こう側(西側)少しに
あったが廃藩置県で山頂(東側)に伸ばした、力でどうにでもなるという傲慢と真摯さが阻害される
一面も知っているので批判的視点が少し加わった尊敬

189 :
どこかの掲示板で宮崎鹿児島の既婚女性同士が大喧嘩していたことがあるんだけど、
根にはいまだにそのへんの意識のズレがあるんだよね。
宮崎の小さな藩士の子孫の家だけど大昔そこのお婆さんが言ってた言葉を思い出した。
人じゃなくて集団になったときの組織やそこに属したときに出る思考なんだけど。
宮崎でも子に隼人って名前付ける人もいるのにね。
組織になると難しいものだよね。

190 :
>「去女王国4000余里」では起点の範囲が広すぎて曖昧になる。
女王国の東渡海千里とあることを忘れているのかな?

191 :
それは問題ないんじゃないの、そこは「海の幅が千里」だからね

192 :
東側ならばどこでもというわけではないよ。「去女王国4000余里」も女王国の南四千里
ということ、同じだよ。

193 :
宮崎?宮城?くらいの空気の宮崎
維新で抜群の存在感だった鹿児島とは大違い

194 :
そのような幕末以降の印象、奈良時代以降の印象で考えてしまうのが間違いのもとなんだろうね。

195 :
このところのレス読んでいて、女王と女王国の使い分けをどう読むかは、
「世有王皆統属女王国」 をどう解釈するかも関連するのではと思うようになった。
果たして、統 は何を意味するのか、
魏王朝を代表する書き手の陳寿だけに、そこいらの解釈では迫れないのではないか???

196 :
宋書以後を読んでも大和王権のことが書かれているようにしか見えんのですが

197 :
衆夷の端の南九州の酋長が僭称したのだろう
激怒した大和邪馬台国が衆夷六十六國まとめて攻撃して服属させた
面倒なので魏志の邪馬臺国だということにしておいた

198 :
・邪馬壹國は畿内でその勢力は北部九州まで及ぶ。狗奴国は南九州。
・邪馬壹國は北部九州。狗奴国は南九州
どちらかだろう
後漢書の成立は432年で倭から使者が派遣されている時代
倭に関する情報も増えてどうやら東に広がっているようだと
ならば不屬なのは東なんだろうと自己解釈で勝手に変えて
東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 としたと考えるのが自然だろう
世間の人が広く思い描いているイメージ通り

199 :
>>180
半分くらい当たってたりする
この立地じゃ外人外文化に対して歓迎する姿勢でないとますます埋没してしまうだろ
ここに存在するぞ!ってアピって外の人に来てほしくてたまらんのさ

200 :
「世有王皆統属女王国」 の 統 は何を意味するか?
ふつう大統領みたいに、統べる の意味で使うけど、
ここは つながる じゃないかと思いなおした。
皇統、王統、一統、血統、などのように系図上または血縁上のつながりを示すと考えれば分かりやすい。
伊都国には代々王がいたけれど、皆女王国に血縁でつながっている、とすれば「(今の)女王国(の中枢)」に属するでよい。
そう言えば卑弥呼を助けるのは男弟であった。
また不属の狗奴国男王は血統でないと読めばすっきりする。
この場合、国の数が足りなくなるので次有華奴蘇奴国は、以前から指摘されているように次有華奴国、次有蘇奴国の2国に分けることになるが。>195

201 :
統は一言で言えば統帥権だよ。つまり統属するはその統帥権の下に入るということ。
単に従属といった場合は、1対1の関係もあり得る、統属といえば支配下に入るという
ことが明瞭になる。 

202 :
>>201
そこのところですけど、原文のままで統帥下だと、
昔の(もう死んだかもしれない代々の)王たちが、今の女王国の卑弥呼の統帥権の下に入るということになって、
いささか具合が悪いんですよねえ。

203 :
皆を伊都国の王と読むのが間違っているんだよ。

204 :
更に言えば、皆を伊都国の王と読むのは、王すなわち人間が女王国すなわち国に
統属するというバランスの悪い読み方になるわけだ。
そうではなく、統属する相手が女王国である以上、皆も国々は皆と読むべきなんだ
よ。そう読めば、国々が女王国に統属するというごく自然な文章になるだろ。

205 :
対馬国〜伊都国までの国々は皆、女王国(邪馬台国・投馬国・傍国21)に統属?
あれ奴国、不彌国は??

206 :
明記されてないってことだろね。

207 :
場違い気味で申し訳ないけど蘇我日向の大宰帥は左遷ではないと思う。
前任は?子は?子孫は?
蘇我は右翼・左翼・蘇我氏みたいなレッテル貼りのような気がする。
後世政治に関わらせないための布石じゃないかと。
蘇我氏各々同士には血縁関係も無い他人の可能性を思い浮かべるのだけどな。

208 :
宮崎のは住居から首長層と一般人との階層差があんまり見えて来ないね。
平均の倍くらいの大きな住居ならあるけど、単に大家族も居れば独身者もいる、
そういう意味くらいにしか見えない。鉄器も鏡ですらごく小規模統な住居から出たり。
統治者の住居は他にあるんだろうか。

209 :
遺跡数は宮崎市が断トツなんやろ
んなわけないんである
宮崎市は開発される機会が多いから見かけの数を大きくしているだけであって
肝心なのは宮崎市外にある

210 :
新富町川床地区の円形・方形周溝墓195基を造営した集落はまだ見つかっていない

211 :
法則性みたいなのはもう見えてる。
台地辺縁を徹底的に洗うべし。

212 :
邪馬台国は沖縄だろ。海底遺跡と関係がある。

213 :
畿内の先兵という言葉だけど、それってどうなの?と思います。
畿内式の土器も球磨盆地の土器もあるらしいし。
住居もこの地域に特有なものがたくさんあるらしいし。
鉄器なんかも九州北部から得て、やがて自分たちで加工するようになった気がします。
平和で農耕や自由な交易やっていたんじゃないかな。

214 :
>>212
海底遺跡が沈んで本土に移動したのかもな
沖縄の海底遺跡は何世紀のものなんだ?

215 :
>>213
あんな山を越えて来ようとは思わんわ…
昔は狼も熊もおったしな
しかしそれだけに戦乱(倭国大乱)を嫌って移住して来た人々もいたろうな
甕棺は北部九州からの移住者だろう

216 :
日本最大規模の方形周溝墓群は360基はあった
そこには広大な水田遺構も出ていて相当注目されるべき遺跡
滋賀だったか

217 :
土器に関しては全国的に畿内式土器への指向性があるみたいだし実際優れた土器だが
住居に関しては花弁状から円形が崩れたものや全国的一般的な方形が多くなったのは劣化だな。

218 :
弥生時代や古墳時代の初めに宮崎で戦争の痕跡は無いの?

219 :
戦争の痕跡はないね。畿内は銅鐸が消滅したり集落が不自然になくなったりして
いるが、日向ではそのようなことはない。弥生時代から古墳時代へと文化が引き継がれ
繁栄を続けている。

220 :
そもそも日向は銅鐸が1個も出ていない(はず)
銅剣銅矛銅戈の出土例もごくわずか
それらは初期を除いて祭器に用いられたとされるが
そのような青銅器文化を経ずいきなり鉄器の所有が始まる

221 :
出雲は農道工事中に埋められてた銅鐸・銅剣にぶちあたったとかで大騒ぎだけどな
日向はそうなのか、神話でいえばスサノオのころ

222 :
出雲の銅剣が数百本出た遺跡は驚愕というかイレギュラーすぎるな

223 :
流入する鉄の威力に驚嘆して、あっさり銅器を埋めて乗り換えた感じですかねえ
そう言う意味では、国は簡単に譲るし、したたかといえばしたたか
出雲大社もいまだ健在だし

224 :
商売品じゃないかな。敵に奪われないようにまとめて埋めておいた。

225 :
国譲りと引き換えに鉄文化を受け入れた・・?
そう言えば、出雲山間部は古代から近代まで砂鉄産業が続いて繁栄したからねえ

226 :
銅鏃もきわめて少ないが無くはない
最近発掘された遺跡では鉄鏃の出土はありふれてる
銅鐸は見たこともなかったとしても銅矛は知っていたはず
銅矛は北部九州であれだけ出土し四国にも飛んで高知でも数十本出ている
日向がほとんど皆無
玉などは結構出土しているのだが青銅器の出土はきわめて少ない
鉄器は最初は墓から出土する傾向で威信財なりお守りなりとして通用している
しばらくすると住居に放置された形で出るようになる
青銅と鉄に対する姿勢の差が大きすぎる

227 :
日向神話より出雲神話の方が量が多い
畿内が出雲の影響下にあった時代があって自分たちのものとして伝わっていたものもあるからだろうな

228 :
鉄も北部九州から始まり弥生時代には北部九州が圧倒的多数。
銅鐸銅矛と違うのは南九州含めて全国に広まっていったこと。
実用品として優れたものはどの地域にも垣根なく広がっていくのだ。
鉄器に注目すれば高天原は北部九州だ。

229 :
北部九州は単に地理的に有利だったというだけだろう。古墳時代に入ってから発展を続け
たかどうかが問題だ。

230 :
北部九州に政権の中央部が存在していた時代が高天原時代、
天孫降臨〜神武東征時代が日向と考えるのが自然だろう。
北部九州は大陸からの異民族流入と出雲との戦争で疲弊し、実権を失い
親戚筋の日向に禅譲されたのではないか。
大隅半島は読んで字のごとく「クマ」であり、すなわち久米のこと。
熊襲の「ソ」は中国人が他民族をさす際に使われる慣用句。(現在の日本では「疎」の字があてられる)
つまり、天孫と一緒に降臨した久米族とは「大隈地方の人々」というほどの意味にすぎない。
恐らく、天孫の直接の先祖が筑紫から日向にやってきたのは非常に古い時代で
戦闘力の高い熊襲を恭順させたのも、実際には中央が乱れる以前の話であったろう。

231 :
たとえば、稲は朝鮮半島経由ではなくて、どうも南西諸島経由で南から
入ってきた気配がある。後のサツマイモや唐辛子にしても日本から
朝鮮半島に渡っている。このように考えると、古代の文化なども
南から入ってきた可能性があるな。
倭者、自ら太伯の子孫と称す、なんてあるくらいだから。

232 :
サツマイモの地方名:
本州では薩摩イモ、北九州では琉球イモ、南九州では唐イモという。(伝来ルートを暗示するか)

233 :
海幸山幸をその視点で読み解くと、非常に解りやすい。
二人が交換した、互いの道具は交易と支配の暗示。
恐らく、戦乱で追われた筑紫人はほとんど流民同然で日向の地に降り立ち、
携えてきた玉や鉄器で現地の海洋民と折り合いを付けたのだろう。
海幸が「兄」であることからも、当初の力関係は海洋民の圧倒的優勢であったと考えられる。
実際、農耕民は基本的に戦闘能力の高い蛮族に一時的に支配されるのが普通だ。
海幸が「なくした釣り針」とは人口増と農地の開発による海洋環境破壊の事ではないか。
宮崎平野の土壌を調べると、大淀川流域は全域にわたって深い森林であった事が解っている。
ところが、農耕民が西都、宮崎の両平野を開墾したために、
森林の持つ保水力と豊かな滋養が洪水によって失われ、結果として周辺の磯焼けがおこり、
主食である貝類や魚がいなくなった。
それに対し、海洋民が怒り、戦争の後、筑紫の民は敗亡する。
どこにいったか?「海流に乗って」「竜宮に行く」。
すなわち、黒潮に乗って、紀伊半島に向かったのだ。

234 :
出雲の国譲りには日向はまるで関係ない。
北部九州高天原からお前行けと命じられた忍穂耳は手に負えないと敵前逃亡。
他も投降したり言いくるめられたりで国譲りを成したのは伊都之尾羽張の子のタケミカヅチである。
日向神話の世界はそれより後の話しである。

235 :
紀伊半島で現地の王族の娘と懇ろになった筑紫人は、「数年を過ごした後」
鯛ののどに刺さった釣り針と姫を携えて帰還する。
つまり、紀伊勢力の海軍を借りて、日向の海洋民を追い払った。
その後、姫はお産のために日向を去る事になるが、二度と戻ってこない。
その時の子供の子孫が、つまり神武と同じ「高貴な正統」として後に現れるニギハヤヒの事だろう。

236 :
神武天皇はニギハヤヒ体制畿内の豪族ナガスネヒコに大敗し、
生駒山地を越えることが出来ず紀伊に転進(敗退)しているが、
一説には紀伊で傷が悪化して死去し、以後は紀伊豪族による
北伐譚とも言われる。

237 :
むう

238 :
釣針千本てのは鉄器を手に入れた過程でしょう。
海幸は海人=はいと=隼人。
日向西部(薩摩大隅)の鉄器は日向東部(日向)地域に比べて今のところかなり少ない。
争いらしい争いだが、婚姻による宥和によりいったん統一し強力な隼人を味方とすることに成功した。
東征した先で神武天皇崩御後、大隅系妻の子は畿内系妻の子に誅殺されてしまった。
さらに日向東部(日向)から妻を娶るくせに西部から娶らない。
激怒した隼人は長年に渡って抵抗するようになって日向も疲弊して凋落した。

239 :
5世紀以後の薩摩+大隅北西部+肥後南部と日向+大隅南東部の墓制が明らかに違うのはその現われだろうね
前者は板石を積み上げて松かさ様の外観の石室に遺体を置いて埋めた墓
&前方後円墳はほとんど作らない
後者は竪坑を掘り横坑(羨道)を掘り家形(切妻型寄棟型)ドーム形の玄室に遺体を置き、羨道は石で閉塞する
&前方後円墳を作る
副葬品は武器が多い

240 :
「海人=はいと=隼人」
精薄は必ずこういうことを言い出す

241 :
でも大学の先生でもそういうことを言う人もいるよ

242 :
>>241
だから何?

243 :
大学の先生もアホだってこと

244 :
まあ、普通に海人は呉音で「ハイト」だからな。
読み方自体は何も間違ってないよ。
隼人は太白の末裔だと自称してるし。

245 :
倭人も太伯の末裔と自称していたそうな。

246 :
どこから来たかというのは文献はもちろん遺跡遺物の共通性とか
遺伝子の傾向とかそういうものからも考察されているんだろうけど、
花弁状住居は愛媛の四国中央市でも出ているそうな。
土器の出土具合から豊後を経ない伊予との交流も考えられるらしい。

247 :
花弁状住居は宮崎や鹿児島東部に多く分布するけど熊本や大分にもある
福岡や佐賀には無いと言われていたけど佐賀から見つかった
佐賀のは弥生中期前半に建てられたもので今のところ最古になってるはず
北部九州からもたらされて日向で最も流行した可能性が出た

248 :
南至邪馬台国の行程そのものだったりする

249 :
佐賀からたった一つ出たのが最古だって? まったく信じやすい性格なんだな。
佐賀のは日向からきた者が住んでいた所だろう。それが常識。

250 :
その可能性もあるし一つだけという点で弱みもあるけどこれより古いものは今のところ無い
弥生末〜古墳前期あたりの文化は北方や南方からいろんなものが入ってきて出来上がったものだからな
弥生中期前半の日向は遺跡数が少ない時期で結構自由に人々がやって来ていたのかもしれない
遺跡が急増しだすのは中期後半から後期だよ

251 :
最古級最大級は成果をアピールするための常套句
何れにせよ最古をアピールするほど3世紀から離れる

252 :
最古というのを眉に唾して聞かないと。どうゆう理由で最古と認定したのかな?
住居址が何世紀のものかなんて難しいんだぞ。

253 :
倭国大乱から逃れてやって来た人たちも多いと思うから北部九州が由来で不思議は無いと思うけどな。
鉄器は北方から入ってきたのはほとんど絶対だしさ。
戦乱の跡が無い?んならそのころは平和で平和を求めてやって来た人が多かったろうと思う。

254 :
倭国の乱がどことどこの戦いだと思っているの?

255 :
>>254
倭国の乱がどこであった戦いだと思っているの?

256 :
ヲタ臭い。
高地性集落も西日本全域から出るし、倭の大乱は九州限定ではないし、
つまるところ邪馬台国も九州ではなく畿内。
ヲタはいい加減それを認めろ。

257 :
むしろ瀬戸内地域を中心とする混乱。
国譲りは最終段階で国譲りされたのは畿内だろうと思う。
下克上みたいなものか。
邪馬台国は知らんけど畿内なんじゃないですか?と言っておけば面倒からすぐ離れられる。

258 :
島津初代忠久は惟宗氏の出で、国内最大の荘園であった島津荘園を治めることとなり
島津姓を名乗った。都城が島津家発祥の地と勘違いされるが都城は島津の名の由来だけです。
忠久は都城に住んだことも来たこともなく鎌倉にいました。山田聖栄の文献、三国名勝図鑑
では、初代忠久は先二出水に来て2年後に都城に住んだとされてますが、この文献も源頼朝
庶子説を広めるために捏造された可能性があり、他の文献等では4代までは薩摩に赴任せず、
5代貞久以降に現川内市に守護所が置かれたのが確かのようです。
だから都城でも島津家発祥とはせずに島津発祥としています。都城の島津伝承館の専門員が
書いた本にも島津氏は出水から都城に来たと書いてあります。どの守護も領地には住まず
鎌倉に住んでいたようです。特に遠地の守護はそうであり、家来を派遣していました。
そこで、元寇の役で博多に集められた全国の守護に北条時宗はそれぞれの領地へ赴任する
よう命令します。島津も5代の貞久から領地へ赴任したのでしょう。
それと、当時の守護は江戸の大名と違い守護であっても領地は土着の豪族が支配しており、
島津も出水から南下して薩摩半島を統一するのは戦国時代です。その後、義弘の時代に大隅、
日向と一気に支配します。
島津の名の由来は都城であり、川内で完全に土着するが家来の支配から考えると出水でしょう。
出水も何も異論を言わないから。また、都城は島津の一族の北郷氏(後の都城島津氏)が島津家の
家来として都城を治めていたこともあり混乱します。都城島津氏は江戸時代に改称しますが、
島津家の家臣で都城は私領です。故に大名ではなく城も持たず領主館に住んだわけです。
佐土原島津家は分家で大名です。都城を巡っては北郷氏(都城島津)と島津家の家老の伊集院家との
庄内の乱も重要です。都城では島津発祥だけが語られ庄内の乱がほとんど語られてないです。
余計なことで長くなりましたがご参考までに。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-398.html

259 :
そりゃまあ島津宗家も北郷氏も激怒するわ
秀吉の猿知恵常套手段やわ

260 :
瀬戸内系の土器の搬入は弥生後期中ごろまでが中心で後期後半にはなくなるようだ。
九州南部では薩摩まで分布するが宮崎平野部が最も多い。大隅あたりも結構ある。
平野部で目立つのが模倣品や在地と瀬戸内の様式を組み合わせたような形のもの。
搬入品より圧倒的に多くて外来文化に対する態度が分かりそうだ。
瀬戸内への逆の流れは弱いので一方通行的なのは認めざるをえないだろうな。

261 :
纒向における東海系の土器みたいなもんか

262 :
纒向の外来土器は時期で割合が違うからそっちの方に注目すべきだよな
後に吉備とか西の方の土器の割合が減ってるのは何を意味してんのかなあと

263 :
都城の方は縄文晩期にかかるレベルの古い時代の水田跡がある。
花弁状間仕切り住居もあるだろう。
南の志布志湾方面と北東の宮崎平野と違って古墳は少ないが中間点で何か置くには良い地だ。

264 :
本州の土器が九州に入っていてその逆は少ないというのは物資の流れを示して
いるんだろうな。

265 :
>>263
住む所と古墳を造る場所とはかなり離れていたということだろう。
人々は古墳のない所に住んでいたということだな。

266 :
盆地は風も弱くて生産にも居住にも適している
西都原や平野はは台風のたびに暴風

267 :
高すぎる堤防や無理なところに道路を作るから悪いんであって
土壌改良や森の若返りには台風は必要なんだよ

268 :
堤防も無い時代は氾濫が土壌改良になっておったろうな。
灌漑も施肥も無い時代だろうし降水量が多いのも氾濫も害でもあるがむしろ恵み的に捉えられていたかもしれん。

269 :
しかし台風時の風もとりわけ強いだろう台地辺縁を好んで居住地にしている
乾燥し易い土地の方が住環境としては適した面もあるとはいえ上り下りも大変だったろうに

270 :
農産物の手掛かりはないものか
水稲だけでなく、陸稲・そば・にわとり、麻とかで、それなら田んぼと畑の行き来に便利な辺縁とか

271 :
イネ、アワ、ヒエ、キビ、ムギ、ソバ、シソ、ナス、山椒、桃、葡萄、他色々の果実種子
水は下に下りたついでに汲んできてたんだろうな
台地上でも窪んでいれば湧水がある場所もあるし

272 :
魏志倭人伝で出てくる植物の中に豫樟(くすのき)があるんだけど、
現在のクスノキの生息割合はwikiによると東海・東南海8%、四国12%、九州80%とのこと。
当然のごとく出てる。

273 :
朝鮮半島にはあるが日本には無い植物もあるとして、
使者がやって来るまでに見ればじゅうぶんとの意見が大勢だ。

274 :
具体的にはどれ

275 :
楓香がフウという植物のことで当時の日本には自生していないそうだ。
18世紀に入ってきた植物らしい。
カエデのことだと言う人も居るし現代日本語訳すら定めきれていない。

276 :
クスノキの自然林は北部九州が北限。
それより北のクスノキは人手によるものと推測されている。

277 :
フウというのは台湾、中国南部が原産地らしいけど、
朝鮮半島でも確認されてるの?

278 :
カエデは葉が5〜9裂するがフウ(楓)は3裂らしい。
トウカエデ(日本名:唐楓、中国名:三角楓)は3裂で、分布の中心は長江流域だが
遼東にも自生していて朝鮮でも育つはず。このトウカエデをフウと同一視した可能性
があるかな?葉が裂ける様子からぱっと見でカエデとも同一視したかもしれない。

279 :
それなら「使者がやって来るまでに見ればじゅうぶん」はやや早計の感あり

280 :
都城は熊襲が北上して宮崎、西都まで勢力を延ばした時に中継地点として発達したのでは。
諸県の君のような有力者もいたし。下手すると彼は応神天皇で東串良の唐仁古墳に埋葬された
人物で、神武天皇と同一人物で東串良の柏原から東征して宮崎、西都経由で美々津から再度
東征したかもしれない。東征は桜島、霧島などの火山の爆発で移住だった可能性もあり。

281 :
そのころの地域間関係は知りたいんだけど遺跡の状況から推測するしかないんだよね

282 :
・卑弥呼の時代の前、倭国大乱より前に始まった集落が、建て替えられながら
 古墳時代になっても同じ場所で継続してる。
・奈良にあるような最初期の前方後円墳が宮崎市や西都原にも作られている。
・イザナギが禊払いをしたとされる阿波岐原(檍原)の比定地のひとつの檍古墳群には、
 墳形と埋葬主体部が奈良のホケノ山と非常に良く似た古墳がある。
弥生末から古墳初頭のことだが想像される状況は一通りではないですよね。

283 :
簡単に言えば、奈良と宮崎とが同じ勢力の範囲内だったということだろ。

284 :
あんまり早すぎるが前線基地的な感じかねやっぱり

285 :
宮崎が前線?
他に攻めるところがあるんじゃないの?

286 :
宮崎も渡来系の熊襲の流れか。宮崎県から大隅・薩摩半島までのひむかの国だけが
空白地帯となっている。どうも神話に封じ込まれて歴史が捏造されている。
明治維新後も同じことが起こった。今後の遺跡発掘で新たな証拠が出ることを期待したい。

287 :
>>284
どっちを前線基地と思っているのかな?

288 :
投馬国=馬を供給する国
邪馬台国=呪術で治め、馬の形をした台にある国(でも馬はいない)
変かな?

289 :
変だよ

290 :
臺(台)は台地のことだと言う人もいる

291 :
青瓦台の台

292 :
そうそう
皇帝のおわす所みたいな意味の台だと言われることが多いけど台地のことだと言う人もいる

293 :
古墳も圧倒的に台地に多いのだが古墳と言えば盗掘痕のあるものも多い。
聞くところによると昭和になったばかりのころ何者かによってかなりが盗掘された。
持田古墳群が特に盗掘がひどいらしい。
生目古墳群の1号墳もそのころ壊されかけたらしく後円部の一部が削られてる。

294 :
ふんはどんどん壊されていく。卑弥呼の古墳はもうないかもな。

295 :
盗掘されているとしたら、盗掘品は誰かが持っているのかな

296 :
臺(台)は大倭のタイだ。

297 :
邪馬は?

298 :
>>295
県外の何処か誰か
当時の人が激怒しながら追跡調査して一部は照合されている
今までの判明分の合計で持田から出土した鏡は30数枚で画文帯が5、6枚あるらしい

299 :
それとは関係ないけど穀璧についてこういう報告書が
文政元年戌寅二月日向国那珂郡今町農佐吉所有地字王之山掘出石棺中所獲古玉鉄器三十余品之一、
蓋日向上古之遺蹟多厶所謂王之山亦必非尋常古縁也
今見ル所ノ璧面恰粒子ノ如ク凸起セルモノアリコレ呉氏ノ所謂穀璧タルモノナリ
即コレ周代子爵諸侯ノ天子享用ノ器タリシモノナラム真二希世ノ珍宝卜称スベシ
弘璧ノ大サニツイテ云ヒ穀璧ハ製作ニツイテ云即コレ宏璧ニシテ穀璧タルモノカ
明治戊申二月念二日夜稿 
文政元年戊寅二月、日向国那珂郡今町村農佐吉所有ノ字王ノ山カラ掘出シタ石棺中、
古玉、古鉄器三十余点ノ内ノ一ツデアル。
然ラハ如何ニシテ日向ノモノガ遠イ金沢ノ前田家二伝ハツタカトイフト、
彼ノ幕末ノ北地探検家トシテ有名ナ松○○○郎氏ハ、古器類アサリヲヤリ日向二来タコトモ前後四回二及ビ、
昭和三十年四月 日向遺跡調査報告書第二輯 宮崎県教育委員会 より抜

300 :
この穀璧が大和の地から出ていれば、畿内説で決まっていたものを・・・

301 :
人力で整地できるくらいの小さな古墳が畑の中に散在しているわけで。
良心で保護されてきたものをわざわざ荒らし盗みに来ることに何か覚えなかったんかね?
出土の経緯があやふやになってしまったら何割も割引かれますわな。

302 :
穀璧じゃなくて持田古墳群の方ね。
穀璧は偶然出土したものを保管していた人が譲渡なりしたんだろうと思う。
行方不明になるよりはきちんと保管してくれる名家に渡して良かったとも言える。
事実今まで失われずに保管されているし。

303 :
鉄器という点から墓の築造は弥生後期後半以降だろうとは思うけど
石棺がどういう形だったかだけでも記されていればなあ
もう少し詳しい時代が推測できたかもしれんのに

304 :
時代は穀璧自体からも推測できるよ。後漢時代、つまり卑弥呼の直前くらいだろう。

305 :
その穀璧は周代のものだとされてますけどね。
伝世品なのかなと思うが推測でしかないし何とも言えんわな。

306 :
前田家に渡って良かったというか前田家だから渡したのかもしれない。
というのは余程の富裕者でなければ売り飛ばしてどこかに行くだろうし、
かといって国やその下部組織では強いバイアスをかける可能性がある。
第三者で確かな家に渡したいだろう。

307 :
串間からは明刀銭といって燕(戦国)の刀子のような形をした刀銭も出土している
明刀銭が出土したと伝えられる地は他にもあるのだけどね広島とか沖縄とか

308 :
どこから出たのかそのへんを明らかにするための再発掘とかあるしな。
明らかにならないと穿った見方は消えんけど無いものはしかたない。

309 :
昔のそういう出土の仕方じゃ駄目だ
例えば後世の倭寇で分捕ってきたものだとかそんな可能性が排除できん

310 :
今流行りの対馬の仏像かw

311 :
まあ可能性の一つでさ
出土した状況がはっきりしていないから他にもいろんな可能性が考えられる
対馬の仏像は倭寇で略奪した根拠も無しに根拠にして返還しないとか滅茶苦茶

312 :
確かに略奪品である証拠を韓国側が出して、日本に返還を求めるってのなら筋は通ってる。
それをまず窃盗しておいて、窃盗犯側が返して欲しければ倭寇の時の略奪品ではない証拠を出せ?
頭がおかしいしさすがに怒りを禁じえないな。

313 :
愛国無罪

314 :
檍1号墳って木槨だけじゃなくてそこに続く地下墓道がある
ってとこが独創的っていうかなんて言うか珍しいね
長さ17mあるらしい
小さな地下式横穴墓も墓道を作るんだけど、その地下式
横穴墓石で閉塞させるのはイザナギがイザナミから逃げて
大石で塞ぐ話を連想させるね

315 :
ついでに岩戸隠れも連想
亡くなったことの暗喩じゃないですかね
地下式横穴墓を作ってる地域では墓道を石で塞ぐのは一般化されてた
棺直葬とは違った死生観っぽいね

316 :
玄室に羨道(墓道)を設けるのは4世紀末の北部九州が初見、
つまり朝鮮半島由来だとか各所に書いてるが違うじゃないか。
あの界隈はいったいどうなってるんだ?
檍1号墳ってその100年くらい前だろう

317 :
考古学は良いけど、考古学の成果から任意につまんできて語る文学は要注意だ。

318 :
読む側のリテラシーの問題だと思うけどな
檍って甕棺とかも出てるみたいだがいろんなとこと交流があったみたいだな

319 :
非常識といわれても
作家は、世間の常識と違ったことを書いてアッといわせ無くてはビジネスにならぬから

320 :
読む側の良識・わきまえは必要。

321 :
そうやねえ…商売目的の本なら売れること書かなきゃな表題だけでも
真面目なはずの学者先生が電波的なことを言うのもあくまでマスコミ向けでさ
円滑に予算を確保するために学者先生のマスコミ(大衆)向けのパフォーマンスも求められてんのかもな
大衆をワクワクさせて発掘しろ圧を作れば議会の妨害もかわしやすいっていう…そこまでないかw
とか田舎大衆の自分も思ったりしますわ

322 :
中心地が定められて律令制で人が土地に固定されるようになったらただの僻地だが
自由に人が行き来していた時代はだいぶ様相がちがったんだろうな。
瀬戸内系だけじゃなくって北部九州や近隣南部九州や南方や大陸との直接or間接交流の確かな証がある。
全く閉鎖環境ではないし甕棺のような少数の物もあるってことは外来者を排除せず寛容だったってことじゃないか。
食糧事情が悪化すれば必ず紛争になると思うが気候的に恵まれているからかな。

323 :
本当の意味で国が分かれていた時代には、人は自由に他国へ行き来などできなかったよ。

324 :
力無き正義は無能つってな
悪意ある来訪者を排除するための力が無ければ平和も無い
しかし倭国大乱の時期に環濠も無い集落とかなんなんだろうな
環濠があるところもあるがあれがどれだけ防御に与してたものか
僻地だから関係なかったのかw

325 :
環濠ってトイレだったんだっけ?

326 :
そういう例があるな
あとゴミ捨て場土器捨て場として
それが目的なら土坑にするだろうし不要になったからたまたまそんな使われ方をしたんだと思うけどな
あと周囲に竪穴住居の床面より低いところを作って乾燥を保つ役目もあったのかな

327 :
環濠に糞尿が溜まってれば攻めてくる方も躊躇しそう

328 :
熊本に弥生時代の鉄器として日本の出土全数(当時)を超える鉄器が出土した遺跡がある。
同時期の九州で最も高密度な鉄器出土地の熊本の西弥護免遺跡は住居218で出土鉄器は581とのことだ。
このスレでも触れられている宮崎のは住居246で出土鉄器は150余り。
西弥護免遺跡はこれでもかと四重の環濠を巡らす集落だが古墳時代へ続かないらしい。
いったいどうなったのか可能性はいくつか考えられるが、その状態が続かない/続けなくて良い状況が発生した。
一重の環濠も作らない上記宮崎の某遺跡の人々はどうしたろうか。
250年ごろに一斉に建て替えあるいは一時的に何処かへ行ったかのようにも取れる痕跡があるらしいが。
九州山地を隔てた向こう側の遠くない地域のことだ。

329 :
>>328
> 一時的に何処かへ行ったかのようにも取れる痕跡があるらしいが。
どんな痕跡?
鉄器が遺跡に残っているのは、襲撃されて使う間もなく滅ぼされたとか
滅ぼした方もそれ以上に効果のある兵器を持っていたので置き去りにしたのか
天災があったのかも

330 :
コレラ、ペスト、マラリア、天然痘、その他疫病かな
あまりの無残さに、あわてて一切すてて逃げた。

331 :
このスレで出てる遺跡名で検索して本文編の231ページの年代測定結果を見てくれ
平和裏な移動なら持って行きそうに思うが補修を諦めるくらい破損していれば捨てていくことも考えられる
再利用も確立していない時期だし使い捨てだったと考えれば不合理ではないがあまりに多すぎる気もするな

332 :
あの時代一つの集落が全滅するレベルで疫病が流行する可能性もあるな。
援軍に行ったが敵わず這這の体で逃げ帰ってコレはヤバイと意識変革が
起こったとか勝手な想像はいくらでも出来るな。

333 :
攻めて緊張線が遠くなったor攻められて滅んだor降伏して武装解除した

334 :
大隅の王子遺跡、最近出土した大集落跡もそうだが、2000年前は鹿児島湾内の
姶良カルデラ、阿多カルデラ、霧島、桜島、開聞岳の火山が活発化していたことから
阿蘇山も同様で、作物もできない、住めないことから集団避難した可能性があります。
大隅〜宮崎の日向に残る神武東征もそのような集団避難だった可能性があるのでは。

335 :
神武東遷は火山噴火などの自然災害方の大規模な非難だったという説に賛成です。
東日本大震災でも福島や宮城・岩手の沿岸部から避難民の大移動が起こった。

336 :
九州の環濠集落は、吉野ヶ里など多くが同じような時期に廃絶していると
される。何となく、理由がわかるような気がする。理由がわかれば時期も
わかるような気がする。

337 :
日向神話に、海幸彦、山幸彦の物語があり、その中に潮満玉、潮涸玉と
言うのが出てくる。この玉を使うと、潮が満ちてきて海幸彦を溺れさせる
というわけだが、これはどう見ても津波からの発想だと思う。

338 :
火山の爆発により地震も起こり津波もあったかもしれないし、
太平洋側は地殻変動による地震で大津波があった可能性はあるでしょう。

339 :
約2000年前に巨大津波があったらしいよ >>12

340 :
有明海は構造上、津波の影響は受けにくい。
湾外からの津波は入ってきにくく、
中で地震が起きても、津波にならない。

341 :
邪馬台国有明海沿岸説は、万2000里で邪馬台国へ到達できると思い込んだ連中の
考えた説だ。しかし、万2000里は女王国までで邪馬台国までではない。

342 :
>>340
200年ほど前に特殊なケースがあったけどね。
島原大変、肥後迷惑ってやつ。
雲仙の噴火で眉山ってのが崩れて、有明海に崩れ落ちた。
その影響で津波が起きて、肥後では5000人の使者が出た。

343 :
万二千余里は熊本の阿蘇や八代くらいになりそうだけどな。
あと誰か分からんのだけど日向説を書くにしても流れ無視してコピペとかは迷惑だから考えて書こうや。
日向は触れられてないか域外の狗奴国・邪馬台国の一部かなと思う。
弥生末の遺跡遺物で熊本のほうがだいぶ上だしね。

344 :
間違った流れを引きずるのは時間の無駄だ。北九州からは日数で考えろ、

345 :
そら言いたいことは分かるよ
南に水行10日陸行1月って箇所を最初の最初に考えるわな皆
伊都国からの放射や帯方郡からの計とかなんやろ
それじゃ話が進まんしそこで終わってしまう

346 :
帯方郡からの計だなんてのはトンデモだよ。そんな馬鹿な話につきあっていても
何の益もない。
北九州から放射式だ。それなら行き先はだいたい分かるだろう。
目的地が分かったら話が終わる、それで何の文句があるんだ?

347 :
放射説ではどこを起点にしても南への水行が出てこないと思うが。

348 :
意味不明だな。伊都国から南への水行だよ。
水行二十日で投馬国、水行十日+陸行1月で邪馬台国だ。

349 :
>>348
そのうえで、なおかつ万二千余里のところな。

350 :
それは違うな。どこにもそんなことは書いてない。

351 :
>>348
伊都国はどこになるわけ?

352 :
伊都国は末盧国の東南500里だ。唐津の東南40キロ付近。佐賀市大和付近
とみるのが合理的だろう。

353 :
未だに伊都国糸島の迷宮入りコースを語る人が少なくないようだな。

354 :
聞きかじったことにとらわれて、合理的思考がまったくできない連中が多いってことさ。

355 :
伊都国は佐賀市付近。魏使がそこへ行ったということは、目的地は本州では
ないということだ。

356 :
草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之
は末盧国の沿岸水行と上陸してからの伊都国への陸行で遭遇したもの。
唐津糸島間は険しく陸行の利が皆無としても諸般の事情で陸行しなければならなかった。
伊都国が博多近辺で東南陸行7、8kmで奴国。
伊都国から水行十日 または 陸行一月 で畿内の邪馬壹国。
のように考えたりするしそれが無理がないように思う。
日向説を見出すべく読んだりもするけど。

357 :
あるいは糸島市の筑前深江駅付近に上陸してそこから陸行したのかもしれんね。
末盧国の様子は東松浦半島北岸に達して以来の沿岸水行で見たもの。

358 :
>草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之は末盧国の沿岸水行と上陸してからの伊都
国への陸行で遭遇したもの。
ちがうね。末盧国の状況として書かれているんだ。末盧国から伊都国への行程が沿岸だとは言えない。
又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒。
水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
>それががないように思う。
方角がちがう。怡土ならば陸行する必要がない。南水行ができない。伊都国から先の行程がうまく
理解できない、無理だらけだろ。

359 :
>それががないように思う。 → >それが無理がないように思う。

360 :
対馬は険しい孤島、
壱岐は狭い島、
しかし荒海を渡ったさきの末蘆国は穏やかで、海には高級食材が手づかみ状態・・、
貴族といえど生涯海を見ることもなかったであろう洛陽の人々の関心をかきたてるよう、陳寿がドラマチックに描いてるのだ。

361 :
>伊都国から水行十日 または 陸行一月 で畿内の邪馬壹国。
北九州から畿内へ行くのに 船を遣わない行程は考えられないだろ。
となると、水行十日及び陸行1月だ。長野あたりに比定するほかはない。

362 :
近畿説は節操が無い。自ら身を滅ぼす道なんだけどな。

363 :
重要でないことを書いたのは使者も童心に還って見て強く印象に残っていたからかもしれんね。
陳寿も使者らの気持ちを想像して書いた。
博多が伊都国ならなぜ直で行かなかったのかということになるが、
防衛の観点から博多湾から入らせず糸島半島以西から陸路行かせたとか、
想像だがそういう背景は考えるな。

364 :
卑弥呼は魏に援軍を頼んでるくらいだから、防衛の観点から遠回りを、というはいかがなものか

365 :
魏に全幅の信頼は置けないことはじゅうぶん想像できないか。
今後関係が悪化して、あるいは気が変わって、狗奴国と謀って
邪馬台国を挟撃する際の助けになるような情報を与えるほどに
信頼することは愚かだと思うけどな。

366 :
末蘆国から邪馬台国への道は、政治軍事だけの道ではなかったとおもう
当時は半島から鉄を輸入し、鍛冶場で武器や農具を製造し始めてた、いわば古代産業革命の時代。
それにいち早く乗り出したから邪馬台国は覇権を握り、卑弥呼も女王にもなれたのだろう。
つまり鉄材や工人などが往来した産業経済の道、それが邪馬台国街道の基本的な意義だったと思う。

367 :
半島からの鉄素材等の入手経路を確保すべく北部九州を勢力下に置きたかったのは想像できる。
鉄器が大量に出ている熊本(以南)が狗奴国ならその経路を確保していたことになる。
邪馬台国が確保していたなら、対立する南九州狗奴国への経路を遮断するはず。
たたら製鉄でもやっていたなら別だけどな。

368 :
良好な関係を維持したとして、ゴマカシはあとあと確実にばれるけどね
結局は怒りを買うことになる

369 :
其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王
狗奴国と邪馬台国との実地の位置関係不明なので、具体的ではないが、
時代的背景を考えれば、その入手経路の確保を巡って、相攻伐歴年、だったのではないか
女王傘下はまあ妥協したものの、狗奴国だけTPPに参加したくないとか・・、

370 :
鹿屋市の王子遺跡。昭和55年、バイパス工事中に2000年前の大集落が発見されたが、
当時は南九州では大集落は発見されておらず、棟持造りもないと言われていたのに
棟持作りが発見され、しかも伊勢神宮の造りの基ではないかと言われた程の大発見だった。
他に、鉄の武器の出土、瀬戸内海との航海もわかった。そんな大集落が2000年前に
忽然と消えた。これも謎です。そして、最近、高速道建設で、10Km程離れた地域から
大きな横穴式古墳、大集落跡、5000年前の西日本最古の石の剣、ハート型模様の象嵌
の刀剣等が続々出土。
王子遺跡の周辺までを徹底的に調べれば当時のことが相当わかったはずだが、調査もろくに
行わずにすぐに埋め戻されてバイパス工事が行われた。もったいなかった。

371 :
>>366
熊本なんかでは、すでに製鉄が行われていた。
だいたい、中国とか朝鮮とかで製鉄が行われているのに、
日本が何百年もありがたく頂戴するだけというのはありえない。
作り方を一瞬で覚えて、すぐにもっと良いものを作り出すと
いうのが日本本来の姿。

372 :
初期は鉄材輸入でも、おっかけタタラ製鉄が始まったにちがいない
ただしタタラ製鉄には木炭が必要、
しかも高温を得るには赤松の木炭が良かったらしい
熊本以南で赤松木炭ないしそれに代わる高温木炭が得られたかどうか・・、

373 :
野焼きで土師器を焼いている時代はまだ、製鉄は無理。
最低でも須恵器などの高温窯までレベルアップしないと。
それでも、まだ、ハードルは多い。
単に温度を上げるだけではなくて、
1200度以上で、酸素を全く含まない、
一酸化炭素状態を維持しなければならない。
水分もご法度で、高温下で水分が熱分解して酸素と水素にわかれる。
水素は鉄を脆くし、酸素は鉄鉱石の還元を妨げる。
さて、どの時点でこれらのハードルを越えたかな?

374 :
古墳時代の後期くらい?
弥生末とかのは製錬滓じゃなくて全て鍛冶滓ということではなかったかな
もちろん宮崎のも

375 :
鉄素材がまあ適正価格で入手できるなら精錬から行う理由もないしな。

376 :
今のたたらを操業してる時、
鉄鉱石や木炭を投入する穴から熱気が上がってくるが、
そこに紙でも放り込むと、すぐに高温で炭化するが、
それ以上燃えないそうな。
酸素がないから。
燃えたら空気量調整の失敗だね。

377 :
製錬滓とか鍛冶滓とか分けるのは間違いのようだ。製鉄は必ずしも高温である
必要はないという。

378 :
鉄滓…製鉄のさいの残り屑
九州では、弥生時代の鍛冶遺跡から鉄滓が出ている。
ちょっと詳しい人が見ればすぐにわかるはず。

379 :
で、弥生時代の鉄さいからは、
今のところ確実と思われる製鉄跡とは判断されていない。

380 :
精錬滓の可能性を指摘されるものはある。

381 :
弥生時代の製鉄の可能性を否定してきたが、
私自身は熊本南部説なので、確実な精錬跡が福岡や熊本で確認されたのなら、
喜びの踊りを踊るだろう。
ただ、今のところ、確実ではないので、ぬか喜びをしないように、
ちょっと慎重な見解をとっている。
5世紀以降のたたら炉、高炉の跡は、かなり確実に分かっているようである。

382 :
熊本県の方保田東原遺跡からは石包丁形鉄器が出土している。
これは何を意味するかというと、石包丁というのは、稲刈りの時に使うもので
たくさんの人が使うために大量に準備される。
つまり、これが鉄でできているということは、いかに鉄が大量に普及して
いたかを示しているわけである。
方保田東原遺跡の鍛冶遺跡からも大量の鉄滓が出ている。

383 :
近くに鉄鉱石、砂鉄はないの?

384 :
熊本だったらまず間違いなく、鉄鉱石の鉱脈はあるだろうな。

385 :
熊本県の場合は、阿蘇のリモナイトだろうな。
リモナイトの製鉄は、中国や朝鮮半島では行われていないらしい。
九州の場合は、リモナイトを焼いてできるベンガラ(丹)が弥生時代から大量に
普及している。棺の中にも入れられているし、住居跡からも見つかる。
阿蘇の住居の場合は、北東方向に厚く撒かれていて、魔除けの意味があったと
考えられている。

386 :
こういうのもある。
熊本で精練鍛冶が行われていたのは間違いない。
http://e-asia.board.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121

387 :
糸島の元岡遺跡は、高炉が出た製鉄遺跡。
すぐ近くの今宿遺跡は、鍛治遺跡。
元岡の近くの砂浜には砂鉄層がある。

388 :
石包丁型鉄器が出土したのは唯一そこだけだったか
あいつら驚かしてやる的に作ってみるくらいに進取的だった
威信財の段階から進んでいる

389 :
広島大学の先生が書いた、鉄器の論文は読んでおくべきですな。
弥生終末期から古墳時代に、鉄器の生産が山陰などに変化する様子がよくわかる。

390 :
酸化第一鉄の砂鉄や磁鉄鉱と比べて、
酸化第二鉄の赤鉄鉱やリモナイトは、またちょっと製鉄が難しくなる。
前処理が必要になってくる。
今の製鉄はその酸化第二鉄が主だけど。

391 :
邪馬台国は壱岐・対馬・奴国・不彌国にヒナモリを置いてその地域を押さえている。
邪馬台国と争乱状態の狗奴国が朝鮮半島方面から鉄を入手するのは困難だろうな。

392 :
製鉄の歴史として、次のように書かれているな。
鉄は青銅の場合よりもさらに低い温度で鉄鉱石から鉄に固体のままで変えることができ、
これを鍛えれば使用できる鉄ができる。つまり鉄はその融点から想像されるよりも、遙
かにやすやすと製造できた。また銅や錫の鉱石の産地は地球上で偏在しており、広範な
交易の発達が必要であったのと比較して鉄鉱石は何処にでもあった。そのため冶金学的
には青銅に先行して鉄が用いられた可能性がある。

393 :
ソースよろしく。

394 :
海綿状鉄の話は知らないわけではないが、
実際には酸化ケイ素などの砂成分を分離できず、
また、表面数ミリ程度が、非常に長期間の焼成で
わずかに還元されるに過ぎない。
従って、実用的に用いられた例はほとんどない。

395 :
単に「製鉄の歴史」でググったら最初にでてきたよ。分かりやすい説明だ。

396 :
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
宗教哲学心理学から歴史政治経済まで話題豊富な
中杉弘先生のブログです。
ぜひご覧ください!!
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

397 :2013/03/19
お知らせ
市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました
生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています
期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください
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