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藤原氏はなぜ長続きしたのか?


1 :2012/06/20 〜 最終レス :2013/10/22
奈良時代から明治まで

2 :
藤原是氏,近卫,鹰司,一条,二条,九条都是苗子,即分家的名称。
例如九条兼实,他的全名应该叫藤原中臣九条兼实,简称九条兼实。
再例如,如果织田信长真的是平氏的话,
他的全名应该是平织田上总介信长(上洛之前)。
据说现在的日本来源于藤原氏的人远多于其他三大贵族――源、平、橘

3 :
略称藤氏。日本古代史上的巨族大姓之一。
天智朝八年(669年),中臣镰足死,天智天皇以其参与大化改革之功,
赐姓藤原朝臣,是本姓之始。其后文武天皇诏,只准其子不比等姓藤原。
壬申之乱后,不比等参加撰修律令,营造平城京,创下政治基础。
其女光明子立为皇后,开藤原氏一族立后之端。
不比等有四子:武智麻吕(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、
麻吕(京家),是律令制下政治势力强大的四家。其后三家在争权中失
势,只北家独荣不衰。到良房时,以外戚出任摄关职,成为藤原氏专权
时代的起点。及至道长当政以后,藤原氏专权达于极盛期。此期间藤原
氏以外戚干政,为所欲为,二后并立,四女三妃。东宫立妃,幼小天皇
常住其家。摄政、关白、太政大臣、左右大臣之职为藤原氏一族独霸,
形成摄关政治特殊体制。宽治元年(1087年),院政开始,实权转入院
政,藤原氏势力稍衰,形式上摄关职仍由藤原氏一家出任。平氏兴起,
武士开始执政,藤原氏的摄关政治体制名存实亡。幕府成立后,武家干
预,藤原氏被分为五家,交替出任摄关职,称为五摄家,直至江户末期
,但摄关职已与政权无关系。明治维新后,五摄家列为华族之首获公爵
称号。藤原氏一族在政坛上活跃近一千年。

4 :
我觉得如果没有中大兄亲王(天智天皇)谋杀苏我入鹿,苏我氏同样可以长期延续至今!

5 :
誰も知らないのか

6 :

鎌倉時代以降は、単に続いただけの存在だし、どうでも良い。


7 :
天皇家も鎌倉時代以降は単に続いただけの存在だな
藤原氏は代々の天皇の母系ではあるが

8 :
>6
それがすべてだと思うよ。
有力者が取って代わりたいと思うような存在じゃなかったが、置いといても邪魔にはならなかった(使い道があった)。

9 :
>>7
やっぱり天皇と藤原氏は一心同体な存在なんだな。
一緒に国を作ったし。

10 :
大織冠ってかまたりだけだよな・・・聖徳太子より上かな

11 :
日本人の美徳!とかネトウヨが騒いでるけど、
天皇家もとうでもいい存在だったから続いただけなんだよなw

12 :
なぜ香取と鹿島が藤原の氏神なのかわからん。

13 :
>>12
教える。
神人マラキ→古代寒川大神→鹿島近辺に移る→卜部氏→中臣氏→藤原氏
マラキ→バラキ→ウバラキ→茨城
ちょっと香取はわかんないなあ
ちなみにおれのお宮は、鹿島、香取のおじいさんの神社(父だったかな

14 :
何これ?
127. 名無しさん
2012年07月03日 23:04 ID:IrWzXgrE0
霧島 鹿島 日光 霞ヶ関 アメノコヤネの正体
スカイツリーはカラクニダケ
http://oo77986455645.wordpress.com/

15 :
>>13
卜部氏は、藤原氏族と言われて居るね。
月読宮の宮を守護してきた神職一族。
不死=富士→藤の月は月読の月で、秦と交わって、藤。
草冠は、三種の神器の草薙剣=天皇家を象徴するので、天皇が卜部氏と秦氏を取り持って藤としたと言う事だろうか?

16 :
>>15
すげーわかりやすい!!
なるほどなあ、秦と結びついたから藤かあ。
いまの自民優良議員や財界はみんな藤原一族なんだってさ。
ということは秦氏はものすごい人脈的な有力一族だったのかな。秦河勝とか。
聖徳太子と秦河勝は古来の文献を集めて、大事なご本尊がある阿波国のとある薬師寺にたどりついて未来の秘め事をしたんだってさ。
大祓い祝詞もここで作ったんだって。で、このお寺はシバの女王が静まってるんだって。鳴門の渦が、悪魔霊障ばらいで、海底に
悪いものをぎゅっと封じ込んで、「持ちさすらいえ失いてむ。」
またこの渦はM32星雲とかと連動してて宇宙サイズで泡にして消し去るんだって。
泡と阿波、おもしろいね。
とにかく霊障なんかにやられがちな人は大祓い祝詞を手に入れてね。これが一番強力らしいよ。

17 :
>>12
関東は半島渡来人の開拓地
中臣も半島系

18 :
大化の改新が本当は最悪な出来事だったっていう可能性はないんですか?

19 :
ああそうか、新っていうことは旧来古来のものを抹殺したって意味もしかして?

20 :
鎌足の鹿島生まれ説ってあるが、当時の常陸は拓けてたのか?

21 :
http://kenshin.blog.ocn.ne.jp/photos/uncategorized/2011/06/01/fuhito_2.jpg

22 :
> 7
> 天皇家も鎌倉時代以降は単に続いただけの存在だな
建武の新制も知らん奴が日本史板にいるとは、思わなかった・・・

23 :
公家社会において家格が固定化したこと、朝廷の存在自体を武士たちは
否定しなかったことが、藤原氏が続いた理由だと思っていた。
どうだろうか?

24 :
それと有識故実を代々受け継いできてるのも

25 :
実力のある武士たちが藤原氏や村上源氏を朝廷から追い出して、
摂関や公卿のポストを奪い、天皇を手中に収めてしまう、
というふうにはならなかったんだよね。

26 :
>>25
天皇がそれを望んでないからねえ。
それに日本にはそこまで実力が突出した武士が現れなかったというのもあると思う。
鎌倉幕府は源氏将軍のあと、摂家将軍や親王将軍で朝廷の権威に仮託して
北条氏のもとなんとか固まっていたようなもんだし室町幕府も足利家にさほどの力はなく
なんとか足利の臣下でいてもらうために守護大名たちに恩賞はずみすぎでもろかった
江戸幕府も朝廷は幕府から給料をもらうことに代えた程度でそのまま存続
天皇を江戸に連れてきて公家は廃止、なんてことをやると
大手の外様大名たちの離反はやはりあっただろうと思う
(外様が連合すれば徳川幕府直轄領を超える)

27 :
藤原氏は天皇との重層的な縁戚関係、源氏、平氏は天皇家から別れた皇胤であることを誇りと自負を持っていたから、自らの権威と存在を保証する天皇家を抹Rることは、考えられなかったんだろう。

28 :
鎌倉幕府…藤原姓である摂家将軍を迎えるなど藤原氏を優遇した
室町幕府…義満以降代々足利将軍家の御台所を出す家だった日野家は藤原姓の公家
徳川幕府…家光以降、代々将軍御台所は藤原姓の摂家か皇族から迎えていた

29 :
>>12
宇佐国造一族の大氏が常陸那珂国造や鹿島神宮宮司に任じられる。
そして那珂国造氏は仲国造氏、仲臣氏、中臣氏などとも称したのだよ。
実際、中臣藤原氏は姓氏録などの家系図からだけでは計り知れない謎を秘めた一族なんだよね。

30 :
裏天皇ってやつか。3本足のカラスがシンボルマークの諜報機関の日本の裏ボス

31 :
藤原氏だけど質問ありますか?

32 :
>>31
春日大社で何故、氏神の4殿が並列に並んでるんですか?
開祖のアメノコヤネのミコトが一番格上に鎮座されるんじゃないんですか?

33 :
>>31
ついでに、「神宮」という名称についてだけど、当時は伊勢、鹿島、香取だけが神宮だったんだけど、これはあんたらの差し金?

34 :
っていうか、それまで伊勢神宮と石上神宮だけが神宮号を名乗ることを許されていたんだけど、
やがて鎌足の一族が奉じる鹿島、香取両神社に神宮号が付与されることになる。それと同時に石上神宮は神宮号を剥奪されて石上神社になるんだよね。
これは何を意味しているかというと、鹿島生まれの鎌足こそが実は物部氏の本宗筋の人物だったということを暗に示しているわけ。

35 :
天皇の弟が常陸宮。 伊勢が一ノ宮で鹿島が二ノ宮。
王政復古は常陸水戸家の出の慶喜による大政奉還。
うまく出来ている。

36 :
徹底的な悪政。他氏族の排斥。これに尽きる。
緑化が進まないのも藤原がらみ。

37 :
時の権力者たちはそんな藤原氏を追放しようと考えなかったわけ
信長秀吉家康、排除するなら戦国時代が絶好で唯一のチャンスだったのに潰せなかった
案の定しぶとく明治の世まで生き残り、下級武士の薩長を操ってクーデター。平安時代から約1000年ぶりに日本の表舞台に再デビューしたわけだ。

38 :
いや
南北朝でめっちゃ表舞台に出てますやん

39 :
あ、ごめん
藤原氏は微妙か

40 :
再訂正
日野、西園寺、洞院、四条…
摂関家は微妙だけど庶流は普通に活躍してたわ、藤原氏

41 :
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/405.html
長続きしたのか?もなにも長続きしてる。過去形じゃない。

42 :
日野富子の存在を見るにつけ、室町時代って藤原氏の栄光再びじゃね?

43 :
朝廷内の「家格の固定化」はなぜ起こったのだろうか。
武士の世界では下剋上のようなことが起こったのだから、朝廷でも半家クラスの
堂上家や地下官人が台頭して、摂関や公卿のポストを奪ってしまうということは
起こり得なかったことなのだろうか?

44 :
>>43
公家社会は「有識故実」
なにごとも先例が必須だからそういうことはおこらない
武ではなくて文だから
公家社会で下剋上が起こればそれこそ
一番ヤバいのは公家たちの親玉である天皇だ

45 :
優れた勢力による天下統一はありえるが、下克上はありえない。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我を暗殺したが、下克上という図式ではない。理があって優れていたんだろう。
あるいは蘇我に落ち度があったか。

46 :
藤原氏以外の氏族が殆ど朝廷から追い出された理由は

47 :
信長が日本統一してたら天皇藤原両方アウト。

48 :
織田信長の派遣した京都所司代の村井貞勝は
・見物人は殿上に登らないこと、天皇の生活を覗きこまないこと
・子供は御所の瓦に石を投げて遊ばないこと
・当番兵はさぼらずちゃんと御所を掃除すること
と書かれた禁制を京都に出している。
つまり町人にこれだけなめられていたということ。
天皇も戦国時代はもうかなりアウト状態だな。

49 :
みんな貧乏が悪いんや…orz

50 :
>>46
藤原氏は藤原氏出身の天皇を担ぎ上げてその命令を受けて
他氏を朝堂から追い払ったり流罪に追い込んだりしている
下剋上ではないよ、天皇の命令で排斥しているだけだから

51 :
例えば支那で、漢王朝が衰えたとき、曹操・孫権・劉備などが激しい覇権争いを
しているのに、漢室は安泰で、漢室の外戚も朝廷で高官を占め続けて、
そのまま19世紀ごろまで漢室も外戚も続いて、そのまま近代に入って行った、
なんてことは起こらないよね?
なぜわが国ではそんなことが起こるのかが、わが国の特質だと思うんだ。

52 :
>>51
一つ確実に言えるのは、
一回簒奪が起こると、
次からはどんどん起こりやすくなるらしい。
周→漢→唐→宋
と、どんどん神聖さが落ちてるというか。

53 :
儒教と神道の違いだろ

54 :
平安から江戸時代まで、神道の意識は低い。
仏教徒という自覚のほうが強い。

55 :
>>51
中国は異民族が侵入しやすいから、異民族はそのクニの常識など
知らずに暴力で攻めてくるからな。
日本は島国だからじゃん。イギリスもなんだかんだで今の
王室も古代のアーサー王の子孫だと主張してるだろ。
名字があるので、王朝名が変わってるだけだよ。

56 :
>>53
儒教のほうが交代しづらい。
だから江戸幕府は儒教を採用したんだろ。

57 :
仏教は「○○は行動によって○○になるのである」が基本だから
世襲なんて認めてないわな。

58 :
>>52 ちなみに周の段階で神聖さは落ちてる。夏こそすべて。
白荻のほうが理があったりする。

59 :
>>51
それらと違うのは、日本の場合、皇室・公家と武家が、常に複雑な姻戚関係にあったということ。
天皇家は、武家政権である鎌倉幕府に皇子を送り込んで4代にわたって親王将軍を担いでいたし、
江戸幕府将軍の御台所を内親王1回(他に婚約1回)、女王1回出している。
藤原氏も同様だ。ただ天皇家の外戚であるというだけではなく、
鎌倉幕府に2代にわたって将軍を送り込み、室町幕府に御台所を送り込み、
江戸幕府にも御台所を送り込んでいた。
日本は天皇家と武家が複雑な姻戚関係を結んで赤の他人ではなかったんだ。

60 :
藤原氏は世間で言われてるような悪者だと思う?

61 :
神話を汚したのだから悪人といえます

62 :
>>61
藤原氏が神話を汚したとは?

63 :
>>59
ていうか、家柄コンプレックスとケガレコンプレックスの武家が
天皇と公家を倒すことができず、血筋を崇拝してありがたく
嫁をもらったり、子孫だと僭称したりしてたからだな。

64 :
だから、神道なんだよな。
神の子孫である天皇家に対する信仰心だよ。
そういうのが武家の中にもあった。
いくら豊臣秀吉に神号を贈ったって、徳川家康に神号を贈ったって、
神号を送ることができるのは本家本元の天皇ただ一人であって、
神の尊さでは天皇を上回ることができない。
そういう意味ではローマ教皇に近い。
(ローマ教皇は修道士で生涯女を犯してはならず未婚童貞でなければならない、
当然ローマ教皇の座は世襲ではなく、継者は修道士の中から選挙で選ばれる。
それが日本の天皇家とは根本的に違うが)

65 :
だから武士にそんな信仰があったら、天皇の領地を横取りしないでしょw

66 :
>>65
武士も仏教を信仰していたが僧侶の土地を横取りし
僧侶が権力を持つことを否定してたからね
信仰と権力は別
権力は武士が握るが信仰としての天皇は奉る

67 :
>>58
天皇家長続きの原因は、
「文字を残せる時代になってから、
同格や格上の存在がいなかった」
というところか。
周辺国の例だと、
周は殷という格上がいたし、
新羅は同格が二ついた。

68 :
>>65
タテマエとして
「国土は全て天皇のもので、荘園にしろ、公有地にしろ領地にしろ土地を管理する権限を貴族や武士が天皇から頂いている」
ということになっている。
上皇は天皇でないから、私有管理地たる荘園を持てるけど天皇は国全体の持ち主だから荘園を持てない。
つまり武士も貴族も寺社も「天皇の土地」を奪っていない。
天皇の土地を管理する権利を天皇以外から横領してるけどね。

69 :
神聖さが地に落ちた時代でも、
突出した武士がいなければ簒奪は不可能だな。
先に手を出したら、周りから叩かれるだけ。
よぼよぼの老人が独裁をつづけていたりするのと同じ構図か。

70 :
畿内以外の武士など土着の農民なんだから天皇などそもそも知らない。

71 :
>>66
まるで旧日本軍部のような理屈だな。
自分たちはこれっぽっちも尊敬してないくせに自分の権力維持のため
天皇の権威を喧伝してただけじゃんw

72 :
>>70
最近の武士論では
中央の元貴族が国司などになり
地方に下ってそのまま居着いて武士になった
と見る説の方が有力。

73 :
>>54
仏教徒意識の醸成の要因。
江戸時代は寺が市役所や区役所の戸籍管理みたいなことや小学校の役割をするようになった。
上からのお達しで信仰心とは関係なくこの地域に住む人はこの寺の檀家と割り付けられた。
(引っ越すと別の宗派の寺の檀家になることもある)
仏教の宗派意識とはそんなもの。

74 :
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が天下統一の際にやったことって
他大名の叩きつぶし同様
寺社勢力の勢力を叩き潰すことだったんだよな。
寺社のひも付きの座を排除して
比叡山や石山本願寺、高野山などを叩き潰す。
経済力があって独自の流通ルートをもって
民衆蜂起勢力を影から支援したりするから
大名以上に厄介な存在。
そんでもってある程度叩き潰したら
檀家制度を持ち出して、布教活動をしなくても信徒を獲得できるかわりに
政権に従順な存在にする。
さらには、住民を寺社に把握させることによってもっと厄介なキリスト教徒の排除もさせると。

75 :
そういえば幕府創設者三人のうち源頼朝と足利尊氏の母は藤原氏出身だな。
源頼朝 母 熱田大宮司娘(藤原氏)
足利尊氏 母 上杉娘(藤原氏)

76 :
藤原氏の外戚遺伝子恐るべしだな。
皇室に送り込んだ娘は皇統維持に貢献すると同時に
実家に繁栄をもたらして兄弟間の利害を調整する。
他に嫁いでもその家に優秀な子を産み落とすと。
ただ藤原氏って自分がトップに立つとあまりパッとしない。
鎌倉将軍は二代で終わり
近衛文麿も総理としては?だし。
外戚や補佐役でトップに立たず権力を握る方が上手くいく家系。

77 :
日本の場合トップが実力者で全てを決定するというケースより
トップはトップでいてもらって、補佐的な役割を持つ人が権力を持つと
うまくいく場合が多い。
(トップが全部やって成功したこともあるけど)
摂関政治における藤原氏
鎌倉時代における北条氏
江戸時代における老中たち
殿様は殿様でいてもらって実際に政務を取り仕切るのが家老
店の旦那を補佐する実質的経営者の番頭
などなど
元々No2向きの藤原氏がうまくやっていける土壌が日本にはあったかも。

78 :
>>71
これっぽっちも尊敬していないのならば
なぜ武士の親玉・征夷大将軍はなぜ皆天皇の子孫を称した?
徳川家康なんて偽家系図まで作って
清和天皇の子孫ということにしている
徳川家康は死後、東照大権現という神様に祭り上げられたが
孫の家光があれこれ朝廷に工作して
なんとか妹婿の後水尾天皇からこの神号を賜ることに成功している
天皇より武士のほうが尊いと思っているならば
家光が勝手に独断で神号贈ればよかっただけのことだ

79 :
>>78
家柄コンプレックス

80 :
>>72
そんなのごくごく限られた守護だけじゃん。
多くの武士は農民上がり。

81 :
>>79
いや違うよ。
武士が成立した平安期から武士の多くは都下りという説が濃厚。
武士になるためには乗馬や弓の射撃などの高度な訓練が必要。
馬や武器も高価だから経済力がないと武士にはなれない。
武士論について書かれた本を読んで出直して下さい。

82 :
>>79
コンプレックスというより祭祀権を有するのは天皇のみということ。
上皇や皇太子や臣下は政務の代行や補佐はできても
祭祀の代行はできない。
>>65に対するレスから話が進んでいるんだが
同じく>>65へのレスである>>68を無視しないでくれ。
それから>>81>>80へのレス。

83 :
つーかここ確か藤原のスレだったはずだよね。

84 :
>>67
長州藩が朝鮮部落の人とすり替え済みなんじゃないの?

85 :
家康や江戸時代は天皇や藤原氏以上に文化的にも多くの遺産や素晴らしいものを日本人にもたらしてくれたじゃん
藤原氏がこの国を動かしてる時代ってろくでもない時期が多い気がするな(白村江の敗北〜平安時期の腐敗、幕末の天皇殺しと半島への関与、
世界大戦で敗戦、戦後も居座って保身のためアメリカに売国と半島と在日とずぶずぶ)

86 :
江戸二百六十年の平和は世界史的に見ても奇跡。
文化やエコも見事。
ただ文化だけで見ると、女流作家の隆盛や絵画
和歌など平安には平安の文化が遺された。
鎌倉期百人一首を残した定家も藤原氏。
後世別の百人一首を遺そうとする動きもあったけど
小倉を超えるものは出ていない。
平安末期以降の動乱は負だけどその中から軍記物が派生。
なんも無いというのは言い過ぎかな?
平安は末期を除いて全国的な戦乱は起きなかったけどとりあえず全国規模の大戦乱は400年なし。
治安が悪いのは江戸に劣るがな。

87 :
あと十円玉の裏に書かれた建物も藤原氏関連だね。
建てた動機は自己の為ぽいけどね。

88 :
>>85
長い歴史の中のある時代だけを切り取って素晴らしい時代悪い時代と
言ってのけるのはどうかな?
悪い時代を乗り越えたからこそ迎えられるいい時代というものもあるし
為政者や人々の力だけではどうすることもできない天災に見舞われる時期というものがある。
徳川時代は確かに平和で文化も素晴らしくて、太平の世で、近代につながる下地が作られた時代だけど
その時代を作る前に通った中世のグダグダ、戦乱、信長秀吉の政策なんかもあって
出来上がった江戸時代なのではないのかな?
もちろんいい時代になるはずをいい時代にするためには優れた為政者の存在も必要だから
家康や江戸幕府の実力者が有能だったのは認める。
だけど彼らだけをほめるのは違うと思う。
あと、ろくでもない時代でも、ろくでもない時代を最悪にする政治家がいたか
この程度で済んだにする政治家が存在するかで違ってくるし
ろくでもない時代に次世代のいいものが育つこともある。

89 :
>>85
徳川家がもたらした文化もまた天皇・公家文化の賜物だよ
徳川家の息女は京で培われた金箔蒔絵を施した調度品に
源氏物語を持参した
公家は自分の家に伝わる文化を基に家元制度を作った
蹴鞠・和歌・書道・琵琶・包丁・香道・笛・包丁…
それらは武家社会にも取り入れられていたよ

90 :
松殿家の没落っぷりが悲しい
家柄からいえば摂家のひとつに数えられてもおかしくないのに

91 :
藤原っていう名の響きがカッコイイだろ?
藤原って文字を書くとき、青色の文字で記したくなるだろ?
なんか日本風的で感じ良いんだよ
昔言葉で言うと「風流だね〜」ってことよ
わかった?

92 :
藤原ってカッコイイよな
家紋もカッコイイしよ
つまり人気が出たってだけ

93 :
俺 藤原よりも元カノの橘のほうが好きだな

94 :
>>91
藤原って地名だけどな…
藤原京って藤原氏から都の名前を取ったんじゃなくて
藤原京があった場所一帯の地名が藤原なの

95 :
近衛って名前のほうがかっこいいと思う。独特で珍しいし語呂もいい。近衛文麿ってかわいい名前だとおもう

96 :
藤原氏より格上で実力もある古代氏族がいくつもあったのに、なぜ藤原氏
だけが勝ち残って、朝廷で高い地位を占めることができたのか?
その後、他の氏族も賜姓源氏も藤原氏の優位を覆すことはできなかった。
これだけ長期にわたって連勝し続ける秘訣は何なのか?

97 :
>>81
>武士が成立した平安期から武士の多くは都下りという説が濃厚。
そんな説濃厚じゃない。系図捏造を信じてるだけの説だろ。

98 :
>>85
家康がもたらしたものって何?
三河の農民文化?
それ、文化的後退ってよくいわれるよね。
江戸文化って町人文化以外ないし、
江戸時代の町人文化は、安土桃山時代の町人文化よりはるかに劣る。
やっぱ贅沢禁止令とか出されてるからだろう。

99 :
弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
          回数 命中 命中率 射手数
1096年(京都) 140  11  7.9(%)  14 最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉) 240  181 75.4(%)  12

『御堂関白記』(長和元年十二月四日)
弓場始(歩射)
能射の者が伺候していないので的を射るものがいない。
それで的を打たせた。
弓で矢を的に射当てる事が出来ないので仕方なしに手で投げるようにして矢を的に打ち当てたの意。

100 :
案外、室町時代の公家は、守護の娘とか嫁にしてるよね。
公家の娘が武家に嫁いだのもあるし、公家を招いて喜んでた大内とか今川とか
そういうところもあるので、結局生き延びた。
江戸時代も、その延長で血縁関係があるのが普通になっている。
そういえば。
高貴な血筋が好きな秀吉が、天皇や公家の娘を側室にしなかったのが不思議。養子はいたけど。
適当な美人がいなかったのか?

101 :
>案外、室町時代の公家は、守護の娘とか嫁にしてるよね。
そりゃ金と武力で脅されてるからね。

102 :
>>100
公家は困窮してて大名とか将軍の娘を嫁にもらえると、
持参金をたっぷりもらえるからやってたんだよ。

103 :
藤原氏は長続きしていない。
何度も男系が断絶した後、婿養子て生きながらえている。
そういう種族は藤原氏に限った事ではないが、男系で血が濃くり過ぎると、子孫を残せなくなるという法則がある。
これは、生物全般で起こるものではないだろうか?
ということで、天皇家も藤原氏も蘇我氏や物部氏といった名門も、すべて男系の繋がりはないと言って良い。
現代社会に残る生物は等しく、混血することで新しい種を作り、生きながらえてきたのだ。

104 :
>>96
藤原氏は日本のロスチャイルドなのさ

105 :
天皇家よりも神道が現代まで残ったことのほうが嬉しいし。
例え貴族じゃない出でも家康のような日本に多大な好影響と文化遺産を残した人は
藤原氏のような日本に好影響を残してない黒いパペットマスターよりも称えられるべきである

106 :
政治 儀式塗れ
酒宴 糖尿行き1号
食事 糖尿行き2号
味覚 無関心
歌道 マイナス思考
結婚 養父に負んぶ
成長 養父に抱っこ
装束 肥満行き1号
牛車 肥満行き2号
死穢 ひきこもり
暴力 子供の喧嘩
報復 手下に丸投げ
弓射 手投げ
乗馬 転倒
武装 落馬
戦闘 童貞
性愛 肛門

107 :
これまでのレスを要約すると





江戸時代って凄い!

108 :
日本が一番韓国化(儒教化)してた江戸時代を持ち上げるやつってどういう人間?

109 :
藤原惺窩みたいな人間

110 :
つまり徳川家から金をもらってる御用学者か

111 :
>>97
あんた中世史の本読んだことないね。

112 :
>>103
近衛など個別の家なら男系統断絶があるけど
藤原氏系の家全体を見ると断絶しとらんぞ。
五摂関家を頂点として大臣家、清華家、羽林家、大臣家、名家、半家といった公家連中や武士になった家
なんか含めて藤原氏の家ってどんだけあるか知ってる?

113 :
>>105
神道と皇室は離して考えられるものではないのだが。

114 :
>>106
平安貴族の生活って確かに不健康きわまりないんだが
(その不健康生活に夜型生活と実務官僚過労死寸前も入れといてくれ)
そんな生活をしながら藤原一族には謎の長寿者がいるんだよね
藤原頼通 82歳
藤原忠実 86歳
当時40歳で初老扱いだった時代に超長生き!
(短命だった人もいますが、50,60代まで生きていた人も多い)
鎌倉時代に入ると摂関家ではないし女性なんだが(でも藤原氏の女性)
106歳まで生きた四条貞子
というもんが存在する。
ちなみに徳川将軍で一番長生きした慶喜は76歳で死去。
将軍の生活は早寝早起きの規則正しい生活
食事も健康的な素食だったと言われてるけどね。

115 :
>>96
このスレの本来の目的はそれについて語ることだったよな。
鎌足、不比等の頃って藤原は成り上がり扱いだよね。
それがなぜ登りつめたのか謎。
宮子が産んだ聖武天皇の即位、藤原バックの桓武天皇即位あたりが大きなエポックになると思うんだがどうだろうか?
それから平安京に移ってから藤原氏がますます強大になるんだが
平安京と藤原氏の関係はどんなもんだろう。

116 :
光明皇后立后も謎。
皇后は長いこと皇族の女性のみだったのに、
臣下の皇后が立つのは異例すぎ。
現皇后のご成婚どころではない大変なことだったと思う。
それを強行して納得させるだけのものって何だろうか?

117 :
>>116
臣下の立后については仁徳天皇の皇后葛城磐之媛の例を出してきてるよ。
5世紀頃はまだ皇后(大后)は皇族と決まってなかったらしい。
勿論、ときの聖武天皇は藤原氏を外戚としているから藤原氏には好意的だし。
それでも父は親王・母は内親王・正室も内親王の
皇族サラブレッド長屋王を葬る必要があったけどね。

118 :
>>108
その社畜根性とも言える思想・精神性と生真面目な土壌が江戸300年で培われたからこそ日本を列強と先進国とG8へ押し上げた。
今日ある日本はすべて徳川の世での遺産だよ。無能薩長人(百済人)のせいでその財産も使い果たして絶賛没落中だけどね
>>113
では何故大化の改新以降から家康が復興させるまで蔑ろにされてた?なぜ明治維新後から取ってつけたように天皇が神道儀式の司祭になり
それまで一度も伊勢神宮に来なかった?

119 :
&nbsp

120 :
>>118
読みにくい文章だなあ。
>何故大化の改新以降から家康が復興させるまで蔑ろにされてた?
ないがしろにされてないじゃん。
そもそも伊勢神宮は分神であって本神は
天皇が住まう皇居の中にある宮中三殿に祀られているんだが。
そして天皇は毎朝皇祖神に祈りをささげる。
伊勢斎宮の制度を整えたのは天武天皇だし、大田皇女以降、
動乱で途絶える後醍醐天皇の頃まで伊勢斎宮は継続してたよね。

121 :
>>118
>その社畜根性とも言える思想・精神性と生真面目な土壌が江戸300年で培われたからこそ……
今上天皇が今年どっかの大統領との会見で同じようなこと言ってたな。
>では何故大化の改新以降から家康が復興させるまで蔑ろにされてた?なぜ明治維新後から取ってつけたように天皇が神道儀式の司祭になり
>それまで一度も伊勢神宮に来なかった?
前近代になぜ伊勢神宮に親拝が無かったのは結構ナゾらしい。
そもそも飛鳥・奈良時代からして伊勢神宮を「望拝」するにとどまっていて、
平安時代の天皇が親拝したくても、それが先例となって果たされなかったらしい。
でも折々の神宮祭事などには勅使が遣わされているので、神道を蔑ろというのは違うだろう。

122 :
中臣氏、卜部氏などのツハヤムスビを祖先神として崇拝する家系は
ヤマト朝廷の中では、天神(ヤマト朝廷譜代の貴族)に分類されるが
タカミムスビ系(大伴氏、忌部氏嫡流など)や
カミムスビ系(元祖・賀茂氏など)に比べて、
非主流派の中級貴族の家系だった。
そのツハヤムスビ系である、藤原氏の前身の中臣氏は、
もろ神道が本職の家柄。
政治からは離れた家系になっていた。
中臣氏の宗家は、東国の鹿島神宮の宮司で飛ばされていたけど、
その傍系の一族が再び畿内に戻って政治に接近する。
それが、藤原氏の祖先。

123 :
徳川家斉のように子沢山なのも藤原氏の特徴。

124 :
そうでもないけどね。
一時期、五摂家のうち四家が天皇家からの養子だった時期がある

125 :
五摂家で男系で藤原氏系を保っているのは
いずれも九条兼実の男系子孫ばかり。
近衛家は皇別になってしまって、近衛家の男系子孫は久我氏のほうに養子に行って
そこから別の家にまた養子に行って細々と生き残っている。

126 :
しかしみんな
藤原氏のこととか宮中のこととか
どうやって調べたん?
よっぽど良書に巡り会えたんだね。
意見を主張する場合、
結局読んだ本に何が書いてあったか
それしかないんだよね主張する意味は。

127 :
>>125
いや一条家は違う。藤原師実−家忠……の系統。

128 :
皇室が永遠不変の尊貴な存在だとしても、その外戚が必ずしも藤原氏で
あり続ける必然性はなかったはずだ。
足利氏や有力守護大名、徳川氏などに外戚が変わり、藤原氏は朝廷から
追い出されてもおかしくはない。
やはり平家が失敗したのが先例となって、武家は外戚になったり、朝廷で
高位を占めたりして、藤原氏にとって代わるのを避けるようになったのか。

129 :
>>128
源頼朝も、足利尊氏も、徳川家康も、初代のみ、
娘や孫娘を天皇に入内させようと躍起になったが(頼朝と尊氏は娘死亡で果たせず)
それ以降は天皇の外戚になることに対しては無関心
初代のみ自身の血筋が天皇家に釣り合うことを内外に示すために子女の入内立后を目論むも
いったん将軍の権威が出来上がると政治権力をなくしていた天皇に入内させる必要がなかったからだろう
ちなみに歴代天皇は何も藤原氏だけを外戚にしていたわけではない
公家の源氏を外戚とする天皇もそこそこいる
ただし公家の家格が決まった鎌倉時代以降は天皇の外戚になっても
公家の家格に変動は起こらない
江戸時代以降は、側室腹の皇子が天皇になるには母方と縁を切って
父帝の正妃である中宮・女御の養子にならねばならず
天皇の実母は女官として生涯を送り死ぬ間際に女院号が宣下されるのみだった

130 :
>>129
そういえば摂関政治衰退の頃から外戚と摂関の解離が始まってるよね。
娘がいない→親戚から養女をもらい入内させる。
ケースが増える。
摂関家の実娘が母后になることがレアケースになり
院政期になると外戚に関係なく摂関になる摂関家が成立する。
正后が皇子を儲けない場合他の女性が産んだ子が正后の養子になって即位したりする。

131 :
>>125
養子とか言っても皇族や身分の高いのから貰ってくんだね

132 :
>>125
養子とか言っても結局は皇族や身分の高いのから貰ってくんだね

133 :
天智天皇が白村江の戦いで負けたので共に少数派閥になった側近の藤原氏は皇室の親戚格になり易かった

134 :
初期の藤原氏は、自分たちの家系にコンプレックスがあった。
記紀を読めば分かるけど、藤原氏の系統であるツハヤムスビ系は
微妙な一族なんだよ。
中級貴族までしか出世できてなくて、上級貴族が出ていない。
同じ天神でも大伴氏、賀茂氏、忌部氏、物部氏らに比べて、
完全に格落ち。
そういう風に見たら、記紀って意外に正直なんだなと思う。
これが編纂された時代は、藤原氏が強った時代なんだけど
でも、正直に、藤原氏の先祖たちが微妙だったことが書かれている。

135 :
近衛文麿と裕仁ってそっくりだよね

136 :
近衛文麿は後陽成天皇の男系子孫。
その他、後水尾天皇皇女・常子内親王、
霊元天皇皇女・憲子内親王、同皇孫女・董子女王と、
皇室の血と比較的近い。

137 :
>>133
壬申の乱の後不比等って立場悪くなかったっけ。
というより存在感がなかったと言うべきか?
それが持統期になぜ急速に力つけたんだろう?

138 :
藤原氏は、血のつながりの薄い子でも優秀な子なら後継として迎え、
血のつながりより能力主義、組織の維持、一族繁栄を是とした一族だったからだ。
能力主義は今では当たり前のことだが、日本人は血の繋がった実子への権力移譲を続けようとした。
そして、濃くなり過ぎた血は生殖能力の低下をもたらす。

139 :
>>138
藤原氏における実子以外の優秀な後継者って誰よ?

140 :
>>138
>>132

141 :
>>96
律令制度が始まった時、
巧く立ち回り、その実権を握る地位についたからじゃね。
大宝律令でそれまでの蘇我・物部・大伴といった豪族の領地や領民を、
一旦天皇に献上し、再分配することで豪族たちの了承を得たが、
実際は再分配せずに一人占めした極悪藤原家。
日本書紀はそんな極悪藤原家の正当性を示す為に書かれたもので、
デタラメだらけだろう。
そんな藤原家の為に書かれた書物でも、素性ははっきりしないよな。
きっと百済辺りから帰化した朝鮮系のぽっと出。

142 :
>>108
経済制度や庶民の教育見ただけでも江戸時代は世界の最先端で朝鮮と対極なんだけど、
具体的に江戸時代の韓国化ってどういう事よ?

143 :
公家社会においては、家格が固定して、藤原氏の既得権を犯す者がいなくなった。
武家社会においては、荘園や国衙領の略奪は進んだが、朝廷における藤原氏の
地位を犯す者はいなかった。
藤原氏が中世以降、地位を失うことなく続いた理由は、こうまとめてよいだろうか。

144 :
間抜けな朝鮮民族出身のポッと出にしちゃ、1300年も続く世界屈指の名家なんだな
本家の半島のほうは何度も国が滅んじゃってるのに

145 :
勧告化って、江戸時代に韓国が存在したのかよw

今の朝鮮民族と古代に朝鮮半島に住んでいた人たち(フヨ、倭、漢、エヴェンキ等)をごっちゃにしたらいけない。

146 :
>>141
藤原氏嫌いはいいが、公地公民で藤原氏は領地や領民を独占してないよ
公地公民で領地・領民を独占できたのは天皇だけ
藤原氏の私領が増えるのは荘園が発達してからで
ずっと後の事でしょ

147 :
>>137
壬申の乱のとき不比等は13歳だったので処罰を免れたんだよ
右大臣だった一族の中臣金は斬られている
不比等が持統天皇に用いられて大出世を果たしたのは
不比等の妻である蘇我娼子の縁だと言われている
蘇我娼子は持統・元明両女帝の母方の親族だと言われている

148 :
>>144
間抜けじゃないと思うが、
藤原鎌足は豊璋っていう百済の王子だろ。
やり方もまんま朝鮮式だし。

149 :
やっぱ鎌足は名門の出だったのだな。百済王家直系だものな。

150 :
鎌足が豊璋の息子って誰の説?
鎌足って豊璋が来日する以前に生まれてるよね

151 :
>>150
関祐二の説。
鎌足と豊璋が同一人物だとしたら、
鎌足が豊璋の来日前に生まれているのは不思議なことじゃないよ。

152 :
関裕二って小説家じゃん
さすが日本史板は伝説・伝承・小説・創作・空想・if
なんでもありなだけのことはある
この人は聖徳太子=蘇我入鹿だって言ってるんだよね

153 :
>>152
古代史は空想しなきゃどうしょうもないだろ。
資料第一主義者は古事記や日本書紀が正しい歴史だと思ってるの?

154 :
蘇我氏は百済豪族木ь$烽烽るな。
そう考えると、乙巳の変というのは、
百済の王家(豊璋=鎌足)が、一豪族(蘇我)を倒すことにより、
筋目を正した事象と言えるわけだ。

155 :
藤原氏全般を扱うこのスレで鎌足百済王説やるのかw
マイナーすぎるだろ
専スレ立ててやれ

156 :
>>155
マイナーな話題に、専スレ立てってバカか。
過疎るだけだ。
普通、専スレはメジャーな話題の時に立てるもんだから。

157 :
@なんで中国などと違い、天皇家は長く続いたのか
Aなんでその外戚まで長く続いたのか
の二段構えで再開しましょ

158 :
Aの方なんだけど、摂関家って途中から
外戚でなくなったのに摂関家として存続し続けたんだよね。

159 :
応神天応は、天孫系ですか?それとも、出雲系ですか?部族でいうと何氏になるのでしょうor近い部族。
河内の白鳥の近くに墳墓があるし、古墳人?仁徳天皇みたいにマナの壺みたいなポチはあるのですか?
阿波にも、応神という地名があるのは、何か関係がありますか。藤○氏が多かったみたいですが、春日の地名や神社も多い。
豊国(トヨ?)が最初、本拠で、宇佐の神社に祭られているんでしょうか?宇佐は因幡の兎とどういう関係があるのでしょうか?
相関関係がわからなくて。
善光寺を作ったのは、その末裔ですか?

160 :
藤原氏が勝手に外戚を独占し続けて天皇=藤原氏になってるなら
豪族や戦国大名だって天皇なんて名ばかりのシステムは価値がないから存続させても無意味と思うのが自然なんじゃないのか?
ましては外国の百済の血統なら尚更だ。何故未だに崇拝されてんのか解からん。日本人が単にバカで騙されやすいだけなのか

161 :
まあ日本人は九分九厘鎌足や不比等の子孫だからな。
それに外国の百済…というよりは、そこから「日本」が始まったわけで。
ルーツがどこにあるかなんて言ったら、そりゃいつかはアフリカまで遡りますし。

162 :
なんだこの自演くさい流れ・・・

163 :
孔氏は世界一の長さを誇り、
片や王朝はコロコロ変わる
ヒントになるか

164 :
>>162
なに言ってんだ。自演な訳ないだろ。
>>1から>>31まで  6/20〜9/25 三ヶ月と5日で32レス
>>32から>>161まで 9/26〜10/7 12日間で130レス
なにひとつ不自然な点はない。

165 :
天皇が藤原氏の存続を願ったからだよ。
GHQが華族を廃止にするときに、天皇は「公家華族だけは残してくれ」と
嘆願した。しかし却下。

166 :
藤原(天皇)や長州みたいな百済系の亡霊なんかGHQに潰されたほうが日本人の為だったね
こいつらが近代化〜民主化の流れで政権取ったのが近代日本の不幸の始まり。日本人のための政治をしないから駄目な国から再生すらできない

167 :
>>147
古代史に疎いから教えて欲しいんだが
蘇我娼子と石川麻呂(持統、元明外祖父)の関係ってどんなもんなの?

168 :
>>153
そりゃ記紀をそのまま真実の歴史とおもっているやつは少数派さ。
だけどいくら史料が少ないからって
一作家が想像から導き出した結論をあたかも真実のように
語るというのは違うだろ?
自分がそれを信じるのは自由だがね。
発掘調査と文献の照らし合わせで研究が進むのは亀のあゆみのもんだがね。

169 :
>>153>>158
どうせ真実はだれも知らないんだから自分の妄想を声を大きくして主張したもんの勝ちという論理の持ち主の百済信者がこのスレで暴れてるんだもんな。

170 :
古代史は空想もありなんて言ってたら
日本人起源宇宙人説や古代人はUFOに乗っていた
なんていうのも史実としてここで主張するのもありって
ことになるなw

171 :
>>167
蘇我馬子ー蘇我雄正ー蘇我山田石川麻呂ー蘇我遠智娘ー持統天皇
蘇我馬子ー蘇我雄正ー蘇我山田石川麻呂ー蘇我姪娘ー元明天皇
蘇我馬子ー蘇我雄正ー蘇我連子ー蘇我娼子
蘇我娼子は持統・元明両天皇の外祖父・蘇我山田石川麻呂の姪に当たる

172 :
>>170
そりゃ空想するにしても、
文献や発掘調査から読み説き説得力のある根拠があってじゃないとダメだろ。
宇宙人説を持ち出すのは詭弁。

173 :
>>172
じゃあその作家先生は何を元にその説主張してるんだい?

174 :
政治状況の影響で百済人が日本に来たのは事実らしいけど
日本に来た渡来人は半島人だけではない。
秦氏は秦から来たと言われてるけど秦の地域に来る前はイスラエルにいたとも言われてるし
平氏はペルシャ人だった(群書類従)説もある。
縄文以降日本には各地域から色んな民族が流れ込んで混血して今の日本人になったんだろう。
朝鮮半島に日本と共通する文化が残ってたとしても
日本と大陸を移動する通路だったんだから
民族移動の間に通路に痕跡が残るのは当然のこと。

175 :
>>170
ありがとう!
ついでに教えて頂けるとありがたいことがある。
蘇我連子は入鹿親子滅亡、石川麻呂事件、壬申の乱のときどんな立場にいたのか、
不比等と娘を結婚させる理由は何だったのかということを。

176 :
アンカーは>>171の間違いです。

177 :
>>175
蘇我連子の詳しい事績は分からない。
日本書紀では天智3年に「大紫蘇我連大臣薨」の記事があるのみ。
天智朝で大臣を務めていたことが分かることから蘇我宗家滅亡時には
中大兄皇子に近い立場で、兄の石川麻呂事件にも連座しなかったことは分かる。
尚、連子は天智天皇3年(664年)に没しており、壬申の乱のときには生きてなかった。
蘇我娼子の生年は分からないが、おそらく連子晩年の子。
娼子の第一子藤原武智麻呂が生まれたのが天武天皇9年(680年)と父連子の死から16年もたっているため、
藤原不比等と蘇我娼子の結婚はおそらく連子の死後とみられる。

178 :
>>177
色々ありがとう。
それにしても不比等が台頭した後、蘇我氏って陰薄くなるよね。
外戚なのに何でだろ?

179 :
>>173
170だけど、特定の作家の話なんてしてないけど。
まぁ、気になるのなら「その作家」の本買って読めよ。
本買うお金くらいあるだろ?
金がもったいないならググったら何かしら出てくるだろ?
とりあえず聞く前にググって見たら?

180 :
>>179
おい、俺が170だ。
勝手に成り済ますな!

181 :
>>178 藤氏が曽我を排除した。藤氏を排除せよさ。

182 :
日本語が藤氏有利に不公平にできてるから(人工比が違う)
藤さくさい藤語に敏感になり排除すればいいさ。

183 :
>>98 三河が農民とか?wお前の頭は大丈夫か?w

室町幕府 西三河の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全53家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和

184 :
しかも農民とは真逆だろがw

日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

185 :
巧みに差別用語を駆使する藤氏。藤が全てさ。
ちなみに藤姓を持つものは藤原氏ではない。

186 :
>>174 秦氏と平氏はペルシャ。源氏は中央アジアの騎馬民だったから出自はペルシャだな。
蘇我の出自はよくわからんが藤原の出自は扶余。

187 :
>>160 日本人が騙されやすく馬鹿なんではなくて、藤原にありがちな手法は言論統制や言論を支配して圧力をかける。いわゆる放送禁止用語とかも作っちゃう。
弱者や少数派を徹底的にこき下ろす。いじめとは藤原の縮図。

188 :
>>186
秦はイスラエルじゃなかったっけ?

189 :
バビロン捕囚があったからペルシャにいてた一派があったとさ。だからペルシャと混血してる。
秦の出自はイスラエル。

190 :
アケメネスの時代だな

191 :
>>161 こういうアメリカナイズされた嘘を兵器で広めるのが藤原。全人類の出自はアフリカかもしれないが、
コーカソイドはコーカサス出自。ノルディドはフェロー諸島辺りの出自。アトランティドはアトランティス出自だ。
スラブはスラブ出自。ウラリックはウラル出自。

192 :
予想はしてたけどやっぱり現れた三河厨。
このスレカオスになってきたな。

193 :
トンデモ満載。
誰か、わざとスレつぶしやっているのか?

194 :
トンデモ論は個別にスレ立ててやってほしいなぁ。
レスする気も無くなって来るよ。
本人はトンデモと思ってないから性質が悪いんだけど。

195 :
三河を農民気質とかwお前は司馬遼太郎か?w

196 :
>>178
蘇我娼子の兄で連子の嫡男であったとみられる蘇我安麻呂は天智朝に没したとみられ、他の兄弟もいたようだがあまり動向が知られない。
蘇我安麻呂の子で、娼子の甥にあたる石川石足(蘇我氏は石川氏と改姓)は、
天平元年の長屋王の変で、藤原武智麻呂らと一緒に長屋王邸に赴き罪の糾弾を行っており、
また、この直前に石足は権参議に任じられていることから、藤原四兄弟の長屋王排斥に加わっていたとみられ、
娼子の縁でその子である武智麻呂らと親しい関係にあったことが分かる。
その後も石川氏は細々と朝堂にあったが、やがては没落していったようだ。
蘇我氏は藤原氏の外戚と言っても、蘇我と藤原の婚姻は娼子一人で終わったようで、
娼子の息子たちが石川氏の正室を娶るということはなかった。
娼子自身、大宝元年(701年)までには亡くなっていたとみられ、その後、不比等は
県犬養橘三千代を後妻に選んだこと、不比等が後宮運営に乗り出す手駒となった
藤原宮子や藤原光明子は娼子の子ではなかったことなども挙げられる。

197 :
平氏に政権を明け渡してから明治維新まで1000年近く国政から離れてたブランクあるのに
明治維新後にガチガチに自分の利権を固めた藤原一族ってすごくない?

198 :
>>196
なるほどね。蘇我氏との姻戚関係が続いていたわけではなかったのか。
そういえば三千代との縁も不比等にとっては大きなもんだよな。
数代後北家の冬嗣が躍進するのも妻の縁が有効だったらしいし
妻の選び方も巧みな一族なんだな。

199 :
>>197
一応突っ込んどくが鎌倉期は国政から離れてないから。
鎌倉幕府はあくまでも有力な地方政権で
国政全般を握ってないから。
承久の乱蒙古襲来を経て段々その影響力を西国まで強めたけどあくまでも地方政権。
国政を握ってたのは朝廷だからね。

200 :
南北朝の頃は藤原氏も下克上

201 :
摂関家よりも日野や洞院といった庶流が大活躍してるね

202 :
>>183-184
それはウソだらけだが、それが全部本当だったとしても、
「三河とえいえば農民」だろ。
どこのど田舎にも名目上の領主はいる。
でも農民しか住んでない。

203 :
みなさんは愛子様とタルヒト様
どっちが次期天皇にふさわしいと思います?
俺愛子さま

204 :
>>202
お前は名古屋臭いな、気のせいか?w
万年パシリで悔しいんだろうが、その領主やら一人で戦うのかよ?w
その領主も当然三河武士で、現在まで残る名門の細川氏は代表的例だわな
三河で田畑を耕し、文武に励んで、軍事力を蓄積していた細川氏は、鎌倉末期に爆発した

尊氏が鎌倉を300人程度で出発し、三河に入る時に500人、三河を出る時には3600人に膨れ上がった話と辻褄があわんだろうが

205 :
名目上の領主とは、これの事かい?w

足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職


太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0

206 :
三河馬鹿の岡崎市民は消えろw
2ちゃんねるのいくつのスレを占領してるんだ
他人の迷惑考えろ

207 :
藤原季範って名古屋の熱田生まれで、京都にほとんど居住してるよな。
三河に居住してたことなんてあったのか?

208 :
>>201
しかしそいつらが摂関になることはなぜかない

209 :
尾張生まれの記録はどこにもないだろ、wiki情報は止めよ

大宮司になる前の分かっているのは、尊卑分脈に記載されている
・額田冠者(三河国額田郡)と呼ばれていた
・父親と三河に住んでいた

これだけ

210 :
正確には、頼朝は元大宮司の娘の子供だからな
家督を五男に譲って、数年後に自分の菩提寺内に寺を建てていると言う事は、三河に帰って、真の姿である三河武士に戻ったのかもしれん
つー事は由良御前が頼朝を生んだ時の父方の実家は、三河の屋敷と言う事になる
【1137年】神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
【1140年】夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡滝、愛知県岡崎市)内に蓮華寺建立、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷を寄進する
【1145年頃】娘:由良御前が源義朝の室になる
【1147年】娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)

211 :
>>208
鳥羽天皇が即位するとき、鳥羽天皇の伯父藤原公実が白河法皇に
新帝の外戚であることを持って摂政に任じられることを望んだが、
公実は祖父の代から大臣が出たことのない家の出あることから退けられ
藤原忠実が摂関の地位を保った。
これにより、摂関家が固定。
天皇との外戚関係に関わらず、藤原北家頼通流が摂関を世襲することになった。

212 :
そんな狭き門である摂関家なのに、なんであっさり断絶してるんだ鷹司…
養子のあてとかなかったの?

213 :
>>212
摂関家が養子を迎えることができるのは
他の摂関家からか、天皇の皇子だけだよね

214 :
>>211
でもそれで固まってしまうのが不思議

215 :
>>214
二つからくりがある。
それは「有職故実」(しきたりある種の儀式マニュアル)と「摂関家領」
この時期なぜか知らんが有職故実を知らないと政務ができないことになっていた。
有職故実は父親か近親者から習うか、
家に代々伝わる日記などを通じて男系子孫に伝えられる。
摂関には摂関の有職故実があり、摂関家(忠実の子孫)がそれを独占的に男系相続するようになっていた。
ちなみに平氏は成り上がりで有職故実を持たなかったので政治の場から除外されがちだったので
有職故実を持つ公卿と婚姻関係をむすび自分達の政策を通してもらっていた。
続く

216 :
>>215続き
もう一つは摂関家領と武士。
鳥羽院政期、上皇の所有する荘園の数が爆発的に増大した。
この荘園からの収入が上皇の院政を支える経済力となり
治天の君が権勢を振るう要因の一つになった。
白河院政終盤、摂政忠実も積極的に荘園を集め始め莫大な摂関家領というものを作り出した。
(そるまでは摂関家各個人名義で荘園を所有、規模もさほど大きくない)
その摂関家領は忠実期の摂関家経済を支えた。
その後権力を握った平氏は摂関家領付きの近衛家の後ろ楯になり
一方源頼朝は朝廷対策として九条家に接近。九条家はその後鎌倉将軍を二代出す。
武家を味方につけた近衛、九条が数代かけて「摂関家」の既成事実を作り上げた。

217 :
>>214
律令にある「蔭位の制」の影響が残っていたのも大きい
息子の官位は親父の官位によるというやつね
もともと世襲制である天皇制を壊さないために作られた法律だから
天皇だけでなく貴族も基本的には世襲を重視していた点では一緒
平安時代中期に摂関政治黄金期を作った藤原道長・頼通親子
特に姉妹が次々天皇の后になった頼通は、天皇のおじとして一人で50年も摂関の地位を独占
同様に天皇のおじに当たる頼通の弟の教通・頼宗も大臣を長期間独占したことで
他の貴族たちの官位は低下
他の家を出し抜いたことは大きい

218 :
忠通の頃摂関家交替の危機があった。
平治の乱で藤原信頼が滅んだ後、二条天皇親政派が政権をとりかけた。
その際、二条親政派の二条天皇の母方の叔父大炊御門経宗が関白の地位を狙っていた
との見方がある。
経宗は関白師実の孫、有職故実も摂関家大殿忠実から習っていた可能性があるらしい。
一方忠通の方はというと忠通の嫡子基実は信頼の妹を妻に迎えていてその妻は基通を懐妊中。
謀反人信頼縁者としてヤバい立場にいた。
そのような中、忠通は後白河上皇と平清盛に接近。
二条親政派の経宗と惟方を清盛郎等に逮捕させて流刑に追い込み
我が子の関白の地位を死守した。

219 :
>>217
父親の地位が子供に利益は同意なんだけど
藤原氏の場合父親が優遇したはずの嫡子の子孫じゃなくて
みそっかす扱いの弟の家系が勝ち組になるという不思議な現象が平安中期まであるんだよね。
基経の子
嫡子 時平
でも勝ち組は弟の忠平とその子孫
忠平の子
嫡子 実頼
でも勝ち組は弟の師輔とその子孫
師輔の子
嫡子 伊ただ
でも勝ち組は弟の兼家とその子孫
兼家の子
嫡子 道隆
でも勝ち組は弟の道長とその子孫

220 :
>>219
せいぜい兄か弟・おじか甥での争いでしょ
父親が摂関でなければ息子は摂関になる資格すらない
摂関家固定の前から摂関になれる家というのは決まっていたということ
(父親が摂関であることが最低条件)
摂関家が嫡子相続になるのはもっと後
鎌倉時代にもまだ五摂家分裂などやってて
嫡子以外が摂関になったりしてるからね

221 :
>>219
それ以前にも
不比等の子
嫡子 武智麻呂
でも勝ち組は弟の房前とその子孫
房前の子
嫡子 鳥養(鳥養早世後は次男の永手)
でも勝ち組は弟の真楯とその子孫
内麻呂の子
嫡子 真夏
でも勝ち組は弟の冬嗣とその子孫
冬嗣の子
嫡子 長良
でも勝ち組は弟の良房(養子の基経は長良の子だけど)
不比等も長男じゃないし、内麻呂も真楯の三男。
武智麻呂の嫡子豊成や宇合の嫡子広嗣も不遇。

222 :
不比等も次男だしな。

223 :
>>220
別に平安初期から嫡子相続だったと言いたいわけではない。
ただ年齢が上で弟たちより昇進が早く娘を早く入内させて外戚になるチャンスを先にゲットできる
兄の家系よりスタート時点で不利なはずの弟が何故か勝者になるケースが多かった
と言いたかっただけ。
それと摂関になる要件は忠実以前は
外戚になることということも重要だったと思う。
勿論父親の身分もあるが
逆に言えば摂関子息でないと入内させても外孫皇子を即位させることは出来なかったとも言えるのではないか?

224 :
>>223
217は当初から摂関家が成立していたとは言ってないじゃん
まずもっとも重要だったのが蔭位の制
摂関になれる家柄というのはある程度決まっていた
そのことを言っているだけ
兄は娘を先に入内させることができるスタート時点では弟より有利だが
先に年を取ってしまう分弟より不利
娘に皇子が生まれる前に没してしまったり、自分が死んだあとで外孫が
帝位を追われることも多い
道隆や伊尹はいずれも早世によって外孫を守ることができなかったことが
原因と思われる失脚

225 :
>>224
けどさ当初の蔭位の制って子供全てを高位につけるものではなかったよね。
親がパッとしない官位の人は初位あたりからスタートするけど
親が上位位階者の嫡子は五位あたりからスタートできるってこと。(庶子はもう少し下)
摂関は元々律令外の制度だし
平安に入ってからは人事権を握った摂政または関白がある程度自分に有利な任官ができたから
自分の子息を早くから高位につけたに過ぎない現象だと思う。

226 :
>>224
道隆などの主流ハズレの要因は同意。
ただ、娘が生まれて、入内して、皇子が産まれて、その皇子が即位するまで生きている
を全てパーフェクトで抑えるのは相当の強運。
あと、既に母后になっている姉妹の支援を取り付けるのも重要。
このような強運を持っているのは藤原氏は兄より弟が持っていた時期が多かったといいたかった。

227 :
>>209
そんなこと尊卑文脈には書いていない。
なんでそんな法螺を吹くんだよ三河農民。

228 :
>>225
蔭位の制は出だしもそうだけど、人生の最後になっても
出世できる度合いは概ね親の官位相当だよ。
いくら人事権を握っても家柄相当でない人事は事実上行えなかったし
平安時代の摂関は独裁政権だったわけではない

229 :
三河マルチにも相手をする人がいるのか。勉強になんなこのスレ。

230 :
>>228
そうだよ。
院政期を迎えるまでは親以上の位階につくことはまずない。
むしろ主流派から外れた家は家格が下がるだけ。
独裁じゃないも同意。だからこそ周囲の反発を浴びないような人事を行わないと摂関といえどもうまく政局を回せない。
ただ>>217以下の書き込みが家柄こそが全てでというニュアンスに感じ取られ
他の要素が無視されていたように感じられたから、色々と書いてしまった。

231 :
で一つもしもの話で検証したいんだが
一条天皇の皇子は結局彰子が産んだ皇子二人が皇位継承(三条天皇の後だけどね)するが
もし彰子が皇子を儲けず、伊周が失脚継続中で、右大臣顕光の娘が皇子を儲けてしまった場合どうなるかということ。
1 彰子が敦康を猶子として即位させ、彰子の兄弟が摂関になる
2 三条天皇に皇統がうつり小一条院が即位。道長がそっちに肩入れをする
3 顕光の外孫が即位 顕光が摂政になる
可能性としては1 2の可能性が高いと思う。
顕光ははっきりいって阿呆だから摂関になる可能性はないが
白河院が公実の摂政就任を拒否した理由の一つが「大臣経験」だから右大臣にももしかしたら資格があったかも知れない。

232 :
それと摂政期特に兼家道長期は
先例崩し、新例創設の期間なんだよね。
○女院の創設
○四后並立
○一帝二正后
○大納言の娘(女成子)皇后宣下
これらのことができたのは兼家、道隆、道長の権勢と政治力の賜物。
もし、なんかの事情で兼家流がコケて他の家が上昇していたら
他の家が摂関になった可能性が全くなかったとはいい切れないと思う。
この時点ではまだひっくり返し可能だったと思う。
後の公実の摂関志望もまだ家格逆転可能意識が残っていたからこそだと思う。

233 :
平安初期から中期にかけて重要なのは
外戚であること>>>>>摂関であること
摂関であっても外戚ではなかった頼忠は花山天皇退位→一条天皇即位
に伴ってあっさり関白を辞任
その後一条天皇外祖父兼家が摂政就任。
一条天皇母后詮子の支持を得て政界トップに立った道長は
文書内覧にはなったもののずっと左大臣のまんまで摂政関白には就任せず。
天皇の叔父(一条天皇)、天皇の中宮の父(三条天皇)、天皇の外祖父(後一条天皇)
として君臨した。
道長の時代までは摂関の地位は「帝の外戚」に付随してついてくるもので
摂関が先にありきではなく「外戚」が先にありきだった。

234 :
>>232
>大納言の娘(女成子)皇后宣下
これは道長側の意向ではなく三条天皇側の意向だったのでは?
道長にとってはあまり好ましくなかったと思う。
それにしてもこの時点で娍子の父済時が死んでいたのは道長にとって幸運だったな。
娍子は沢山の皇子皇女をすでに生んでいて無視のできない存在になっていたし
三条天皇も娍子押しだったから済時が生きていたら大臣昇進して
道長にとっては恐るべき存在と化していたかもしれない。

235 :
摂関家の家格が平安中期からかたまりつつあった
という見方には賛成。
だけど遠い昔の蔭位の制の影響などではなく
ノウハウの有無の問題だと思う。
家柄だけは高く大臣を出せる村上源氏が外戚になっても摂関として君臨するのは無理。
何故ならば、摂関として切り盛りするノウハウの蓄積がないから。
長年摂関としてのノウハウを蓄積し、門外不出の日記(ノウハウの宝庫)を家宝としてもつ摂関家だから摂関家であり得た。
逆にいうとノウハウを伝授しうる圏内(摂関の孫)あたりまでなら摂関の地位を狙えたと思う。

236 :
>>227
お前随分と態度でかいなw万年パシリの猿

額田冠者(三河国額田郡)の父親 藤原季兼

本名季風、三河国に居住し、参川四郎大夫と号すという

季範が11才の時に死んだんだが、季範をどこに住んでいたんだよ
父親は三河に住んでいたと書いてあるんだから、普通に考えて三河にいっしょに住んでいただろ

237 :
三河は尾張の4倍も面積があるのに、
石高は尾張59万石に対し三河29万石で、半分以下。
地面の豊かさでは尾張は三河の8倍。
三河の領主はきついなあ。だからこんなにコンプレックス持ってるのか。

238 :
>>235
なるほど
公家がそれぞれに家芸をもっていたように、
長年摂関の座を占めたことによって培われたノウハウが家芸の域にまで昇華されていたということですか

239 :
そもそも摂政になれるのは皇族だけだったはずだが

240 :
藤原氏の荘園が増えていった時に、荘園の警備は大体は源氏に任されたの?

241 :
なんで警備を大貴族の藤原氏がやらないといけないんだよ。
そういうのは下級の武家にやらせとけ。

242 :
>>239
そうなんだよね。
本来は皇族がなるもので臣下がなるのは相当の異例。
だからこそ 外戚地位を獲得して「天皇の身内である」ということを持ち出さないと
当初は摂政になれなかったんだと思う。
臣下が摂政就任するよりわけのわかんないものが「関白」
天皇の相談役で他の誰よりも早く重要文書をみれるから権力を保持することができた
という不思議な役職なんだよな。
なんでこんな役職が長年権力を握り続けたのかが不思議。

243 :
>>241
摂関家領が爆発的に増大した忠実期は摂関家私的家人な武士もふえていった。
その私的家人武士の中に源為義や平忠正などがいた。
彼らやその子息や家人が摂関家の警備をしたし、家人が摂関家に荘園を寄進するのを仲介したりしていた。
その摂関家私的家人の武士のほとんどは保元の乱で死亡。
(忠実が推していた頼長に従っていたから)
その後は平治の乱で勝利を収めた平清盛が接近し摂関家荘園の警備を平氏が請け負った。
平氏滅亡後は再び獲得した摂関家私的家人と鎌倉幕府御家人などが警備をしたと思われる。

244 :
>>238
そうなんだよね。摂関家に限らず公家たちはいろんなノウハウ(有職故実)を
男系子孫に伝授していたんだよね。
だから院政期にいろんな院近臣家が成り上がりだすと「成り上がり」とバカにされる。
成り上がりも三代目くらいにはそれなりの家と認知されだすが
院近臣家は浮き沈みが激しいから結局没落するケースも多い。
成り上がり→没落の最たもんが平氏一門。
源頼朝は自分はとうてい宮廷社会ではやっていけないことを認識していたから
鎌倉に地方政権を作って決して自分は宮廷政治に加わろうとはしないかわりに
宮廷内に口をきいてくれる公家を使って政治介入しようとしていた。

245 :
>>244補足
成り上がりとバカにされる理由の一つが
「有職故実の一つも知らない」ということ。
だから院近臣家は有職故実の獲得に必死になっていた。

246 :
平安中期頃からは下級官僚もつく役職が固定化してきてくるんだよな。
三善氏なんかはその典型。

247 :
>>237
名古屋が恥ずかしくてしょうがないコンプレックスの間違いだぎゃ〜だろ

こりゃ何だみぁ〜、何処の田舎モンだみぁ〜、名古屋だでかんわ

http://toppy.net/special/dubai0.html

「名古屋が元気」

こんな言葉をよく耳にします。名古屋以外の大半の日本人は、この言葉の裏に「トヨタが元気なだけで名古屋自体がなんぼのもんじゃい」という意味を込めて使っているにもかかわらず、
ほとんどの名古屋っ子は何を勘違いしているのか、名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。



>名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。

248 :
歴史語る奴は地元・出身地バイアスかかるのが当たり前

249 :
バイアスどころの騒ぎじゃないな、こいつは。

250 :
>>239
皇族が摂政に就いたのって聖徳太子だけだろ
あれは懐疑的
明治時代以降は皇室典範で天皇が国事行為を行えないときは
皇太子や皇后、親王や内親王などの皇族が摂政に就く決まりができたけどね

251 :
>>193 トンデモとか言うレッテルを貼れば相手が引くとおもっている藤氏

252 :
日本英語化なんていうのは藤原のデマ。わかるな?今頃
英国は沈んでないといけないのだ。

253 :
>>227 農民を馬鹿にする藤氏

254 :
トンデモなやつが世界を支配している。

255 :
百姓で思い出したが、これそっくりw
尾張国郡司百姓等解文
これとこれ
オッス、オラ名古屋だみゃ〜
名古屋イジメだみゃ〜、トヨタを悪者にするだみゃ〜
下請け虐めだみゃ〜、金よこせだみゃ〜
希望見えぬ「世界一」 トヨタの足元<1>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051102010405.html
>名古屋市近郊にある古びた工場
「身の丈見失うな」 トヨタの足元<2>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051202010650.html
>自動車部品の梱包(こんぽう)用段ボールなどをつくる「中央紙器工業」(愛知県春日町)の本社応接室
誰のための削減か トヨタの足元<3>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051302010937.html
>社長は創業以来の機械を今も操る=愛知県尾張地方で
町工場の事情がある トヨタの足元<4>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051402011210.html
>愛知県尾張地方の工場。トヨタの仕入れ担当者がストップウオッチ片手に乗り込んできた。
努力だけじゃ勝てぬ トヨタの足元<5>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051502011496.html
>部品メーカー「エイベックス」(名古屋市)社長の加藤明彦(61)
「つぶれても仕方ない」 トヨタの足元<6>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051602011791.html
>新川(右)の堤防が決壊し、水浸しになった住宅や工場 名古屋市西区

256 :
>>242
>関白
似たような原理で権力握った例に、江戸幕府の側用人があるね
情報を握るものが強いのは古今変わらぬ法則なんだろう
こういった着眼点の良さが藤原氏の強さの一つだと思うわ

257 :
三河馬鹿はコテハンにしろ
日本史板を荒らし過ぎ

258 :
関白といえば豊臣秀吉が関白になったんだが
その時の政治運用はどうだったんだろう?
さすがに平安期のような運用
議定→奏上を最初に聞いてから天皇と決済内容を合議
という運用方法ではなくなってると思うけど。

259 :
現代版 尾張国郡司百姓等解文(笑)

オッス、オラ名古屋だみゃ〜
名古屋イジメだみゃ〜、トヨタを悪者にするだみゃ〜
下請け虐めだみゃ〜、金よこせだみゃ〜

希望見えぬ「世界一」 トヨタの足元<1>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051102010405.html
>名古屋市近郊にある古びた工場
「身の丈見失うな」 トヨタの足元<2>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051202010650.html
>自動車部品の梱包(こんぽう)用段ボールなどをつくる「中央紙器工業」(愛知県春日町)の本社応接室
誰のための削減か トヨタの足元<3>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051302010937.html
>社長は創業以来の機械を今も操る=愛知県尾張地方で
町工場の事情がある トヨタの足元<4>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051402011210.html
>愛知県尾張地方の工場。トヨタの仕入れ担当者がストップウオッチ片手に乗り込んできた。
努力だけじゃ勝てぬ トヨタの足元<5>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051502011496.html
>部品メーカー「エイベックス」(名古屋市)社長の加藤明彦(61)
「つぶれても仕方ない」 トヨタの足元<6>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051602011791.html
>新川(右)の堤防が決壊し水浸しになった工場や住民 名古屋市西区

260 :
武智麻呂と房前は正一位太政大臣を追贈されてるのに
宇合は良継や百川が政権を握っていた頃でもそういうのがないのは何で?
種継の父親も無位無官のまま追贈が一切ないし。

261 :
>>260
武智麻呂と房前はいずれも、死後の天平宝字4年(760年)に
太政大臣を贈位されている。
当時は淳仁天皇の治世で、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)になったのと同じ年なので、
執政者であった藤原仲麻呂の政策で間違いがない。
仲麻呂の実父である武智麻呂と、仲麻呂の正室・藤原宇比良古の実父で、
仲麻呂の義父に当たる房前の2人に贈ったものだろう。
良継や百川は生前太政大臣になっておらず(死後贈位)仲麻呂ほどの権力を手にしていない。
種継も生前は中納言が極官で、父に贈位するほどの大出世をしたとは言い難い。

262 :
三河勢5千は上方勢2万に匹敵する
(甲陽軍鑑)

263 :
織田軍、案外弱し
(上杉謙信)
徳川軍、悉く弱し
(岡部元信)

264 :
で、このスレと何の関係が?
いい加減にしろよ

265 :
★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
 偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
 誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法

↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること
TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。
リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。

266 :
「平家にあらずんば人にあらず」
この句は藤原の影響力がうかがえる。ずんば言うてもうてるからね。
ズンバでGO!

267 :
>>159
応神天皇は久米系の天皇です。
母はクメノオキナガタラシヒメ(=神功皇后、実は即位して神功天皇)でやはり久米氏です。
息子のウジノワキイラツコ(=宇治天皇)も久米系です。
中臣・藤原氏はその遠祖である天種命(天児屋根命の孫)の妻が宇佐氏の娘・宇佐津媛です。
その間に出来た子が宇佐津臣で、この子孫からは母系の宇佐氏の祖霊神を祀る祠官家も出ています。
また、鹿島神宮の宮司家も輩出しています。
善光寺についてはよく分かりません。
ですが鍵になるのは麻績氏だと思います。
麻績(おみ、おおみ)氏はどうも近江国に関係の深い氏族のようです。
同国に根拠地がある久米系の息長氏や和邇氏との関係性がよく言われるようですね。
また和邇氏の本宗筋に当たる春日氏と中臣・藤原氏との関係性も大変に深いものがありますよ。

268 :
>>227
おい、パゴヤ

尊卑分脈
藤原季兼
・本名季風、三河国に居住し、参川四郎大夫と号す
藤原季範
・額田冠者(三河国額田郡)と号す

・額田冠者(三河国額田郡)と呼ばれていた
・父親と三河に住んでいた

間違っていないよな
今後は口答えをするなよ、そんな暇があるなら、パゴヤ城のシャチホコでも磨いていろ

269 :
>>221
聖武朝の永手・真楯、長良・良房のような同母兄弟でも弟に抜かれることはよくある

270 :
>>1
天皇との姻戚関係の独占

271 :
麻呂の京家は殿上からは速攻で消えたけど、公家としてはいつくらいまで残ってたの?

272 :
藤原氏の末流藤原紀香は男を使い捨て。キャリアの道具にした。
藤原の荘園のあった兵庫県神河町出身のマラソンの藤原正和、スポンサーに媚びない。
落ちぶれても名門出身の気高さが見える。

273 :
>>52
日本だと、一つの要因として
”文明化”(文字のある低のどの普及)より前に統一したということがあるかも、
弁韓なんかずっと小国で争ってたのに比べて明らかに早い。
もしかしたら過去の天皇はウィリアム征服王のように
外来からきて、素早く統一を果たしたのかもしれない。

274 :
って、思ったが、
外来種っぽい描写があるのって
ニニギと応神だけだし、
ニニギは全然統一した描写とかなし、
応神はもとからあったヤマト王権に入り婿したみたいだし、
関係ないか。

275 :
>>272
和歌山だろ紀香は。
満蒙開拓団、、藤原氏なんか?

276 :
満蒙開拓団だと藤原氏じゃないの?

277 :
看板を取っ替えひっ替えして知能が無い奴隷をコントロールしている。八藤最強。 

278 :
>>272
藤原紀香は平氏の末裔だといって
結婚式の時の十二単に平氏の紋を入れていたよ

279 :
藤原には日本を貶めた罪を償ってもらうさ。藤罪ってこと。い、さ。で。

280 :
とりあえず佐藤、伊藤、藤分の多さなんとかならないの?さ、藤罪やさ。

281 :
>>15 秦氏と藤原の出自は別なはずだが。根拠はあるのか?

282 :
>>273
藤原は外来の新しい制度を巧みに取り入れることに優れていたんだろう。
だからこの戦後史観がいつまでも続いている。ということが挙げられる。
第二次世界大戦後、すぐに連合国を攻める方向にはならず、平和。という道を選択した。

283 :
>>273 天皇は外来勢力であるが、他の勢力より速く畿内や大和、伊勢に渡来して縄文人と交わっておられる。
紀元前7世紀位の話になるだろうが。二ニギは天孫。

284 :
>>283
そういやニギハヤヒは縄文系であるナガスネヒコの妹をめとっているから、
物部氏には縄文系の血が強いな、
天皇家はこの血を引いてたっけ

285 :
自演の人、ようやく気が済んだのかな

286 :
藤原最大の国賊は、鎌足と文麿

287 :
恵美押勝が敗死したときは、藤原氏にとって大きなポイントだったと思う。
一族最大の実力者があんな滅亡のしかたをすれば、ふつうは一族にとっても
致命傷になるものじゃないの?
入鹿が殺されたときの蘇我氏以上の大打撃だったと思う。

288 :
>>287
恵美押勝の処刑によって藤原氏の力は弱まり
道鏡の台頭を許したわけだしね。
しかし、生涯未婚の称徳天皇が愛したのが子を大勢持つ貴族などではなく
僧侶だというのが幸いだったんだろう
僧侶である道鏡には妻子がなく、一代限りだからね
恵美押勝が不比等の長男系である南家だったのに対して
称徳天皇の死とともに光仁天皇を擁立して再び藤原氏を台頭させたのは
不比等の三男系の式家だけどね。

289 :
そして北家が摂関家への基礎を作った

290 :
>>289
薬子の変(平城太上天皇の変)は藤原式家VS北家の戦いだからね
嵯峨天皇についた北家の藤原冬嗣が台頭し
平城太上天皇についた式家の藤原薬子・仲成が追い落とされた

291 :
フディファラは渡来人

292 :
物部守屋・蘇我入鹿・伴善男など、一族の最有力者が滅亡・失脚すると、その後
支流が中央政界で存続するのだけど、やっぱり衰退・消滅しているね。
藤原氏の場合は、四つの家が台頭して、他がダメになっても、スペアが残るように
なっていたのが大きいように思う。
不比等の息子たちが台頭したころ、まだ氏族の族長がひとり政界で出世するのが
通常で、ひとつの一族から何人も出世するのは稀有であったのではないだろうか。
通常は武智麻呂の系統が滅亡・失脚すれば、その氏族は終わりだったと思う。
実際、南家はもちろん、式家・京家は衰退している。
北家があれほどまでに繁栄したところに、藤原氏の特徴があるように思う。

293 :
そう言えば忘れた頃浮上した藤原南家の連中がいたよな。
信西(高階にはなってたが)

順徳天皇外戚になった藤原範季。

294 :
>>288
称徳天皇と道鏡の間に子供が生まれていれば、
後継者はどうなったんだろうな。

295 :
>>292
古代には天皇の補佐役は大臣と大連ぐらいしかなく、
事実上、2つの豪族のトップによる二大豪族制だったのだろうけれども、
律令制度の導入によりポストが増えたというのは大きかったと思う
聖武天皇の伯父であることを理由に藤原四兄弟は全員参議以上の
公卿に食い込み、一豪族一ポスト制ではなくなっていた。
奈良時代の公卿の数に比べて平安時代の公卿の数は3、4倍になっている。
これは一族で一ポストではなく、兄弟が皆公卿に名を連ねることが普通になっていたからだ。
五摂家分離後はまた一家一ポスト制に戻ったんだけど。

296 :
朝鮮人の血を引く渡来系の割りに光明皇后は素晴らしい人格者だったというが

297 :
藤原氏・元皇族(源氏・平氏・清原氏)を除くと、明治維新まで残った
堂上貴族って、中臣氏・菅原氏・大江氏くらいなんだよね。
中臣氏は藤原氏の同族だし、菅原氏・大江氏は学者の家系。
人臣の出身としては、藤原氏の比重があまりにも大きい。
結局、朝廷は「皇族・元皇族・藤原氏」で大半を占めているように見える。

298 :
>>297
安倍氏、丹波氏というのも残っている
あと藤原北家に追い落とされたかに見えた
藤原南家も堂上に残ってるのな。

299 :
藤原氏と競合せず(権力や地位は無い)、
さらに特定の家業を持つ氏族

300 :
安倍氏は古いけど元皇族だろう?

301 :
>>300
公家の安倍氏は記紀編纂段階になって孝元天皇の子孫を称することになったけど
あの時代の皇別家系図は意味ないだろ

302 :2013/10/22
晋三も安倍の末裔ではないな
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