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2013年03月鉄道路線・車両57: 架空の車両形式・番台スレ 20次車 (560) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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架空の車両形式・番台スレ 20次車


1 :2012/09/14 〜 最終レス :2013/03/08
前スレ
架空の車両形式・番台スレ 19次車
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1324125773/
03 http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/rail/1053698667/
04 http://hobby6.2ch.net/test/read.cgi/rail/1070450520/
05 http://hobby6.2ch.net/test/read.cgi/rail/1085486041/
06 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1098371160/
07 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1113956540/
08 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1134858499/
09 http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/rail/1152714311/
10 http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/rail/1167730126/
11 http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/rail/1183636431/
12 http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/rail/1196785282/
13 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1214812592/
14 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1232279991/
15 http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/rail/1245684494/
16 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/rail/1263990861/
17 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/rail/1281612411/
18 http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1303998156/

2 :
103系1900番台
国鉄が製造した103系の電機子チョッパ制御試験車。
1000番台で主抵抗器からの発熱によるトンネル内温度上昇が問題化したため対策として電機子チョッパ制御車を試作した。
しかし製造コストが高く実用化されなかった。
後に全車電装解除されサハ103-850番台となった。

3 :
過去ログまとめ
http://wiki.2ch-library.com/index.php?%C5%B4%C6%BB%CF%A9%C0%FE%A1%A6%BC%D6%CE%BE%2F%B2%CD%B6%F5%A4%CE%BC%D6%ED%D2%B7%C1%BC%B0%A1%A6%C8%D6%C2%E6%A5%B9%A5%EC

4 :
289系
JR西日本が開発した新型振り子式特急車両。
JR北海道が開発した「ハイブリッド振り子」を採用しており、最大傾斜角度8度、本則+50km/hを実現。
走行装置は287系と同じく全車2個モーターとしている。
パンタグラフは地上側で対策済みのため屋根上に直接固定されているが、車体傾斜に対応するため大型のすり板が取り付けられている。
「くろしお」用6連の0番台と「やくも」用4連の1000番台、増結用3連の2000番台がある。

5 :
AKB48

6 :
相鉄7000/8000/9000系・台車交換・TDカルダン化(更新準備車):
相鉄の神奈川東部方面線乗り入れで、相手先のJR東日本及び東急電鉄が直角カルダンと電磁弁式直通ブレーキのメンテナンスにクレームを入れられた為、前スレの大規模リニューアルに先駆けて実施された。
但し7000系抵抗制御や旧7000系中間車はあらかじめIGBT-VVVFを搭載。
7000系VVVFでは東急9000系、
8000系では東急2000系/西武6000系/京王8000系、
9000系では東武9050系・20050系/東急1000系/京王1000系初期奇数編成/京成3700系
のようなモーター音を立てていた。
後の更新でGTO部品枯渇対策でIGBT化された為(7000:シーメンス・8000:日立・9000:東洋)、短期間で終わった。

7 :
ちなみに、ブレーキはHRDA/HRA/MBSA電気指令式になり、ワンハンドルになる。但し、下記のテストが行われるまで、縦軸2ハンドルで電気指令に改造のみ。
8000系/9000系ワンハンドル試験改造車両:
TD平行カルダン改造の際に、8000系の2編成をT型、9000系の2編成を左手操作に改造して、直通先の東急とJR東日本各1編成に貸し出して、取扱いのリサーチで、両社の利害関係を考慮。

8 :
後世世界もとい平行世界もの
◎日本国有鉄道E50形蒸気機関車
1951年朝鮮戦争末期、38度線での膠着状態の元凶中国共産党支配下満州への侵攻を目的に、マッカーサーの国連軍は、
朝鮮半島と言うよりは満州沿岸部とも言える北朝鮮支配下の咸鏡南道北部と咸鏡北道南部の両沿岸部を奇襲攻撃し占領。
中ソ国境までは至らなかった。同年停戦後は薄い北鮮を挟んで中ソに近い同地は米軍軍政下に。
翌年、韓国の初代大統領で狂気の独裁者李承晩が李承晩ラインを宣言し日本国の竹島と対馬と済州島東部を侵略した。
日韓の宗主国米国は介入し原状回復、韓国の蛮行への懲罰として米国軍政下の咸鏡道中部沿岸を韓国に返還せず、
韓国から日本への永久租借地の体裁で同地の民政を日本に委譲した。これにより日本国任那府が誕生。
地名は古代朝鮮南部にあったヤマト王権の任那日本府をもじった。
そもそも咸鏡道は満州族の領地であって中世に李氏朝鮮が征服。
任那府は、北朝鮮に囲まれ、気候は北海道並の寒冷地、地下資源が豊富で、戦前の朝鮮総督府下と同様に端川と城津を
中心に工業地帯として発展。
戦争で壊滅した旧朝鮮総督府鉄道の咸鏡線等の各路線が国鉄によって復興したが、復旧財源の制約や車両の共通化による
合理化などの理由で日本本土と同じ狭軌になった。舞鶴港等を起点に日本海を横断する鉄道連絡船も設定。
北朝鮮とは軌間が異なり直通せず国境で接続だけ。
1950年代に任那の鉱石運搬重量級貨物列車専用機としてE50形が新造投入された。
D52に動輪一つ追加の軸配置1E1、曲線通過の為にE10と同様に第三・第四動輪はフランジレス。
本土に比べ地盤と路盤が堅く元々大型の標準軌路線故に軸重制限及び最小曲線が緩いので
E10で顕在化した急曲線でのレールへの横圧過大は懸念材料にはならない。
酷寒地なので乗務員の労働条件改善に運転台は密閉キャブで自動給炭装置、さらにボイラーを全溶接構造として圧力は
国鉄SL最大の18kg/cm²で国鉄最高出力機の一つ、軸受けにローラーベアリングなどの新技術も採用。
英国鉄クラス9Fの日本版と評される。
国鉄の動力近代化計画では北任那は後回しにされ、E50は長年同地で活躍したが、1970年代半ばから急速に無煙化され、
1978年に完了、全廃された。
87年国鉄分割民営化で同地はJR任那が継承。

9 :
スレ違いかもだが
キハ100形100番台
戦争下の企業整理により一時休線となっていた善光寺白馬電鉄であったが、
戦後復興の中で国有化の上、国鉄戸隠線として列車運行・信濃四ツ谷(現白馬)までの路線延長の再開が検討されていた。
しかしこれに並行して裾花ダムの建設が決定、当時終点であった裾花口駅付近の路盤の一部が水没することとなったために
路線延伸どころか既存区間の存続すら危ぶまれる事態となった。
一時は鉄道延伸派とダム建設推進派の間で県議会、沿線自治体を巻き込んだ論争が展開されたが、
結局「技術的には可能」との判断で急こう配区間を設け、水没区間を迂回することで解決が図られた。
(このこう配区間の存在により後年キハ40系の入線が制限されることとなる。)
民営化後はJR東日本に継承され、飯山線と共通のキハ58形・52形が使用されていたが、両形式では冷房化が困難であることや
一部時間帯で輸送力が過剰であることを考慮し、新型気動車の投入によりサービスレベル向上と運用コスト削減を図ることとした。
この際投入されたのがキハ100形100番台である。
東北地方に投入された0番台車と異なり、混雑時の動線を考慮してクロスシート部が2+1列配置となった。
なお近年大人の休日倶楽部のキャンペーンやNHKの連続テレビドラマに登場したことにより戸隠線は利用者が増加傾向にあり、
繁忙期を中心にキハ110系を使用した臨時列車が運転されている。
この際、キハ100形100番台が飯山線で使用される。(ワンマン運転用機器が対応していないため車掌が乗務する)

10 :
国鉄→JR西日本 キハ73形 和田岬線専用車
1977年に鷹取工場で改造された和田岬線専用車。
新性能化で余剰となった73系を活用し、老朽化した64形客車の置き換えを意図して
改造された。
改造内容は以下の通り。
・ディーゼル機関車の制御を反対側の運転台から出来るように。
・海側ドアの全閉鎖。山側ロングシートの全撤去と海側ロングシートの延長。
・専用機DE10に、電源供給装置の搭載。キヤ10へ形式変更。
所定の改造を施された上で、車両種別は「気動車(動力集中式)」とされ改番が行
われた。所定は7両編成となり、若干輸送力が増強された。
編成は和田岬方より
キクハ73900-キサハ73900×5-キクハ73950+キヤ10901

11 :
北総鉄道7550形
10月のダイヤ改正により北総線発着のアクセス特急の登場と、成田スカイアクセス線
直通の成田空港行きアクセス特急にも増発で北総車を投入される関係で
アクセス特急用及び7250形及び9000形取り替えとして投入された北総版3050形である。
基本的には京成3050形とは変わらないが、帯色は7500形の帯色と3050形の帯を
併せた形で、ドア部分は9100形のように黄色や水色の車両もある。
また製造が今回より総合車両製作所製に変わったため、今までの日車ブロックから
京急新1000形のステンレス車型と同じとなり、ほぼE233系車体となった。
走行系は3050形を基本としながらもスカイライナー同様のディスクブレーキ式で、
駆動がスカイライナー同様のWNカルダン(京成の3050形はTDカルダン)となった点も異なる。
また車内座席のドア部分は9100形同様のセミクロスシートである。
アクセス特急用及び旧式車取り替えにより、8両編成4本が作られている。
北総鉄道車両でスカイアクセス線に入るアクセス特急は同車と7500形及び9100形に
限定される。
(3700形基本の7300形と7800形は北総線発着運用のみ)
なお運用上の関係で送り込みを兼ねた印旛日本医大発アクセス特急成田空港行きや
夕ラッシュ時には北総鉄道車使用の京成本線経由特急成田空港行きも登場する。
また北総線発着のアクセス特急は千葉ニュータウン中央からは各駅となるため、
通常京成線からのアクセス特急が停まらない印西牧の原も停車駅となる。
なお早朝から朝の5本と19時以降の下りアクセス特急は全て印西牧の原も停車駅となる。

12 :
川崎市電800形
1992年(平成4年)に登場した600形以来、30年ぶりの連接新造車。
801-840の20本、計40両が東急車輛製造(株)で新造され、
片車体長12500mm、全長25000mm、全幅2500mm、全高3900mmの2扉全金属製車体、
前面は大型の2枚窓をHゴム支持で1枚窓にしていて、前面窓上部に行先表示幕、
窓下に2灯式ヘッドライトが左右に付き、ヘッドライトの下に尾灯が付いた、
バスの前面を思わせる雰囲気で、鉄道車両らしく無いと話題になった。
客用窓は色付きの大型固定一枚窓、客用扉は川崎市電初の2枚折り戸になり、
側面の配置は1D6D3(数字:窓、D:客用扉)となり、
1段ステップ付いたの客用扉は2枚折り戸となっていて、
三菱電機CU77A集中型冷房装置の搭載した川崎市電初の新造冷房車、
内張・天井板は薄いブルー色の化粧板、ロングシートのモケットは濃いブルー、
600形以来のスタテッションポールが復活、車内に3本設置され、
床は薄いグレーとされ、涼しげな印象を与えた。

13 :
主電動機は東洋電機製造TDK-8576(62kw)×4、駆動装置は吊り掛け方式、
制御装置は間接式抵抗制御、電気指令式電磁直通ブレーキの他、
吊り掛け駆動方式では珍しく、電力回生ブレーキを装備していた。
パンタグラフは運転席側に各1基載せられ、台車はTS-260を装備した。
800形から塗装が変更され、バスと同じ上半分がスカイブルー、
下半分が白の塗りわけとなり、より一層、バスをイメージさせた。 
1992年(平成4年)環状東線に就航、成就院前車庫に所属、
環状西線に就航、塚越車庫に所属。
2000年(平成12年)更新が行われ、1段ステップの撤去、ステップ跡を塞ぎ、
客用扉の交換が行われ、バリアフリー対応工事が全車に行われ、車体側面、
車体中央の客用窓上に行先方向幕を設置した。
また同時に車内の化粧板交換、床のリノリウム交換、
客用窓の色付き熱吸収ガラスに交換などが行われた。
2006(平成18年)行先方向幕をLED表示に変更。

14 :
川崎市電1000形
2000年(平成12年)から2005年(平成17年)までに1001-1080の40本、
計80両が東急車輛製造(株)で新造された800形に続く連接新造車で、
川崎市電初の大量増備された車両でもある。
環状東線の500形、600形、環状西線の700形の老朽取り替えと目的に、
製造した連接車であり、東急300系の車体寸法を一部修正以外、
東急300系のデザインを採用、機器など機能的も同じ車両である。
片車体長12500mm、全長25000mm、全幅2500mm、全高3945mm、
バリアフリー化に対応したセミステンレス低床車体構造、
客用扉はバス型の両開きプラグドア、車いすスペースも設置された。
車外の行先方向幕や車内の旅客案内表示器はLED式が設置、つり革の形状は△で、
車内放送装置には自動放送装置を搭載、日本語/英語のみの放送となっている。

15 :
主電動機は東洋電機製造かご形三相誘導電動機TDK-6050Aの60kW×4、
駆動装置は川崎市電初のTD継手式中実軸平行カルダン駆動方式を採用、
制御装置は三菱電機製MAP-064-60V82形のIGBT-VVVFインバータ制御を採用、
回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ (HRDA-2)
台車は東急車輛製造製の改良低床形TS-333Aを装備した。
2000年(平成12年)から環状東線に就航、殿町車庫に所属、
環状西線に就航、江ヶ碕車庫に所属。
2007年(平成19年)行先方向幕をLED表示に変更。

16 :
川崎市電デト1形
1961年(昭和36年)に車体載せ替えが行われた400形412号車、
416号車の2両を救援車に改造した車輌。
デト1形1-2
救援車として1961年(昭和36年)に車体載せ替えが行われた、
東京都交通局3000形の戦災復旧車である400形412号車、416号車の車体を再利用、
両側面中央に復旧用資材・機材の積載用して片幅1500mmの両開き扉を設置、
作業員の休憩スペースも設置、休憩スペースの天井には扇風機が2列4基装備、
飲料用の水タンクと床下タンク装備のトイレも設置された。
電装品は東洋工機(株)に廃車品を集めて貰い、
412号車、416号車とも主電動機は牽引も兼ねて85kw×4、
集電装置はZ型パンタグラフを2基、両運転台側に装備、
形式変更され、412号車がデト1形1号車、416号車がデト1形2号車となった。
1号車は成就院車庫、2号車は塚腰車庫に配備された。
1983年(昭和58年)救援車としては珍しく、更新が行われ、
木製車内壁を灰色のアルミデコラ化粧板に変更が行われた。
1996年(平成8年)廃車となった500形から2基のパンタグラフを移設。
2012年(平成24年)2両とも健在

17 :
東京地下鉄(東京メトロ)05系 05-091F
東西線専用の電気・信号・軌道総合検測車である。
東西線は通過トン数が多いだけでなく、快速運転があるために軌道の破壊も高く
営業速度で検測できる車両が求められた。直通しているJR東日本からE491系を
リースすることも検討されたが、前面非貫通のために地下鉄での使用不可と判り、
既存車両に検測機器を載せて検測車に充てることにした。
折しも東京メトロは東西線の全車両をVVVF化に着手しており、05系の
05-014〜05-018Fも取り替えの対象となるため、唯一ワイドドアでVVVF車両の
05-014Fを改造種車に4両編成の検測車を作ることにした。
改造は京王重機で検測機器はE491系と同一の物を使用する。またE491系にはない
レール探傷車機能も備えた。
2編成作られたため、深川と東葉高速線の八千代緑ヶ丘に配置された。
東西線と東葉高速線で使われるが、JR東日本が直通運転をしている
総武中央各駅停車の検測に使いたいと打診があり総武線各駅停車の検測を
東京メトロが委託することになった。
他の東京メトロ各線の検測も検討されており、千代田線の検測を検討している。
なお置き換えられる15000系2次車は16000系ベースとなるため、ワイドドア以外は
ほぼ16000系車体となっている。
なお新造は4編成のみだがこれは残り1本を千代田線06系を東西線に転用するため。

18 :
東京横浜電鉄キハ1形気動車
東京急行電鉄の前身である東京横浜電鉄(東横電鉄)が1936年(昭和11年)に導入、
大胆なヨーロッパスタイルの大型流線型ボディと、戦前の私鉄気動車としては、
8両が一挙に新造されたことで知られる。
東横電鉄のワンマン経営者であった五島慶太は、コスト計算に極めてシビアな面、
将来像や発展を常に思考する人物で、1930年代中期の東横電鉄では、
利用客増加に伴って輸送力増強が急務であったが、目黒蒲田電鉄などの新車導入で、
資金不足に見舞われ、五島はこれに際し、コストダウンのため、ガソリンカー導入を検討、
地上設備増強、車両製造費用とその減価償却等々、電車増備との徹底した、
費用比較が行われた結果、ガソリンカー導入の方が若干有利であるという結論に達した。
製造は川崎車輛が担当し、1936年(昭和11年)4月からキハ1-8までの8両が順次竣工、
車体両端に運転台を備える3扉車で側窓配置は11D(1)5D(1)4(1)D11、
(D:客用扉、():戸袋窓、数字:窓)となっており、乗務員扉は設けられておらず、
乗務員も客用扉から出入りする。
車体長は17.5mで戦前の私鉄向けガソリンカーでは、滋賀県の江若鉄道が、
1931年(昭和6年)以降導入したキニ4・キニ9形の17.6mに次ぐ大型車体である。
体の両端を前後客用扉付近から緩やかに絞り、曲率が異なりしかも屋根から床面まで、
緩やかな円弧を描く固定二枚窓構成の妻面に接合した大胆な流線型で、
戦前の日本製気動車でも特に洗練された好スタイルの一つである。

19 :
また、運転席脇の車体が絞られている部分には三角窓があり、
これは通風のため外側に開き、ヘッドライトは屋根上中央に埋め込み式で1灯搭載、
腰部の標識灯も左右の腰板部に半埋め込み式で2段配置で、さらに両端の運転台部分は、
雨樋が省略、ここも欧州調の造形で、両端の客用扉下から前面にかけての運転台部分には、
短いスカートが端梁を覆い隠すように取付、流線型のシルエットの一部を構成、
電車運行路線での運用のため、多くのガソリンカーのような低いホームでの、
運用は考えず、ステップを設けられていない。
エンジンは川崎KP170で、実質的には鉄道省キハ42000形用制式エンジンである、
GMH17そのもので、変速方式は機械式で4段変速のD211、
クラッチはキハ42000形同様空気圧による遠隔制御を行い、台車はTR29、
ブレーキはSME非常弁付き直通ブレーキを手ブレーキとともに搭載、
連結器は自動連結器を装備した。
1937年(昭和12年)の日中戦争勃発に伴う燃料統制によって、
ガソリンカーの運行コストは急騰、キハ1形の運用は早期に挫折、諦められ、
以降は本来の電車増備で輸送力増強がなされることになり、
キハ1形も他社に売却されることになり、1937年(昭和12年)9月に五日市鉄道へ、
キハ3・4の2両が売却され、残り6両は1937年(昭和12年)度中に、
東京横浜電鉄の資本系列の非電化路線である神中鉄道(現・相模鉄道)に譲渡、
神中鉄道キハ1形(2代目)1-6となった。

20 :
神中鉄道キハ1形(2代目)・デハ1060形
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争に伴う燃料統制で、
ガソリン価格暴騰により、東京横浜電鉄から6両が譲渡された車輌。
キハ1形(2代目)
神中鉄道は当時、大小合計20両近くも保有する先進的な非電化鉄道で、
1939年(昭和14年)9月に東京横浜電鉄の傘下に入ると、
海軍厚木基地建設の貨物輸送便宜で、海軍から優先的にガソリン配給を受けていたが、
1941年(昭和16年)の開戦後はガソリンが兵器優先となると、配給が滞り始めたことで、
代燃ガス発生装置を装備するか、電装して電車化するかで検討され、
1942年(昭和17年)6月から現在の東急東横線からの配電で横浜-西谷間が600V電化、
同年中に厚木基地が完成することを見越して、軍部の協力の元、日本車輌萩工場から、
電装品と台車の調達を実施、同時に車体更新を星川工場で着手した。
デハ1060形
車体長17.5mの半鋼製車体、片運転台車の3扉車で側窓配置はd1D(1)3D(1)3D(1)1、
(d:乗務員扉、D:客用扉、():戸袋窓、数字:窓)となっており、
側面には大型の2段上昇式窓が並び、窓上下に補強帯(ウインドウヘッダー)が復活、
前面の両端を乗務員扉付近から緩やかに絞り、曲率が異なりしかも屋根から床面まで、
緩やかな円弧を描く固定二枚窓構成の大胆な流線型で、乗務員室は全室化、
ヘッドライトは屋根上中央に1灯搭載し、腰部の標識灯も左右の腰板部に、
半埋め込み式で2段配置、運転台部分の屋根は張上げとなっていて、
乗務員扉前に屋根から車体下まで雨樋が付けられていて、
連結妻面は切妻型とされ、下段上昇式の2段窓設置、貫通路と幌の設置が行われ、
扉間は全て木製枠のロングシートとなった。

21 :

主電動機は日本車輌萩工場で在庫してた85kwを4基搭載、
制御装置も在庫品のウェスティングハウス・エレクトリック製、
台車は住友金属工業製のKS30LAを使用、集電装置は菱型パンタグラフとなり、
運転室側に搭載された。
1942年(昭和17年)デハ1060形1061-1066で2両運行に就航。
1945年(昭和20年)終戦。
1946年(昭和21年)12月に現在の京急本線からの配電で全線が1500V化に合わせ、
デハ1060形の全車が昇圧改造工事を実施。
1957年(昭和32年)扇風機の取付。
1964年(昭和39年)全車の廃車が決定、同時に他社への売却となり、
翌年、全車が600Vに降圧工事後、上田丸子電鉄に譲渡され、
同社のモハ5280形5281-5286となり、丸子線廃止後は別所線に転じ、
750Vに昇圧工事、1983年(昭和58年)に全車が廃車され、
5281が下之郷車庫で静態保存されている。

22 :
JR貨物 M350系
M250系を更に高速化すべく、強制振り子を搭載し曲線通過速度を向上させた形式
M250系に比して、東京〜大阪間の到達時間を15分縮めることに成功した。

23 :
>8に続く平行世界もの
◎国鉄003系電車通勤形電車
1980年 標準軌 第三軌条
○高度経済成長期、大阪都市圏の通勤事情は年々悪化し大阪市交通局地下鉄の市外延伸と既存郊外路線への直通を望む
世論が益々強まったのを受け、郊外延伸には首都圏の通勤五方面作戦で実績ある国鉄も担当する事になった。
国鉄が担当するのは次の二路線:
四つ橋線の堺市延伸、国鉄堺市線、御堂筋線と阪和線の混雑緩和目的;
住之江公園駅から国鉄大阪南港貨物線に三線軌条で乗り入れ阪和線杉本町駅に至り、鳳駅まで阪和線の貼り付け線増。
千日前線の伊丹台地延伸、国鉄武庫昆陽線、千日前線有効活用と新幹線公害補償;
野田阪神駅から東海道線塚本駅まで延伸し、そこから国鉄新線として加島を経て山陽新幹線に貼り付けて甲東園まで。
どれも規格は、大阪市交中央線に対する近鉄けいはんな線と同様に、大阪市交の標準軌・DC750V第三軌条等に準拠。
直通開始後、営業最高速度は70km/hから95に向上、加減速度は従来通り。
これらの直通用にと003系が新造された。
本形式の車両形式称号は、標準軌と第三軌条という国鉄にとっての異種規格を示す為に三桁目が0にされた。
車両の意匠は、国鉄財政悪化を反映して市交の同時期の新車10系に比べて製造費低減を打ち出したものとなり、
それは、車体はオールではなくスキンだけのセミステンレス、コイルバネ台車、冷房は車内の車端に床置型、
制御装置は201/203系採用の電機子チョッパではなく、国鉄としては異例の量産車に界磁チョッパを本格採用、
その他の仕様は、車体寸法は車長19m弱等の大阪市交標準規格、全電動車台車に集電靴、先頭前面は105系新造車等にも
多く踏襲されるバンダ目、戸袋窓無しの両開き四扉など。
車種は、クハ003/002(Tc/T'c)、モハ003/002(M/M')の四種。
1981年、上記の二路線が開業し、003系は4M2Tの六両編成で西梅田〜鳳の四つ橋線直通列車や千日前線直通に就役開始。
87年に本形式と当路線はJR西日本に承継。
JR西が株式上場後コストカットと駅ナカ商売に注力してから、異端規格で保守コストが高く、自社の重要ターミナルに
直行しない当路線と本形式は冷遇される様になって近年ガムテープで補修が目立つ。

24 :
国鉄 151系郵便輸送専用車
昭和33年に運転開始したビジネス特急「こだま」の成功を受け、更に年々増加する関東〜関西間の郵便の速達性向上のため郵政省が製造した郵便車
クユ181:運転台つき郵便車で、仕分け室を持たないいわゆる「護送便」用の車輛
モユ180:パンタつき中間電動郵便車で、護送便用車輛
モユ181:パンタなし中間電動郵便車で、後増便用車輛
サユ180:中間付随郵便車で、仕分け室つき
なお、編成は「こだま」同様サユ180を中心に背中合わせに連結され、8連で運用された。
速度が向上したため、昼間運転も可能となり、朝9時5分と12時5分に汐留・梅田を相互に発車する昼間便と、23時に発車する夜間便が設定され、
こだまど同様に6時間50分で東京地区と大阪地区を結んだ。
新幹線開業後も引き続き運転され、国鉄が荷物輸送を廃止した昭和57年11月のダイヤ改正まで活躍した。

25 :
東京地下鉄(東京メトロ)3000系(2代目)
日比谷線03系の後継車両。副都心線の東横線直通開始により、これまでの
日比谷線からの東横線の乗り入れが終了することからこれを機に5ドア車両の
削減と初期の03系の取り替えに着手することになって投入された。
基本的には16000系をベースとした18m車両で5ドアはない。
急カーブが多い日比谷線に対応するため銀座線の1000系同様に操舵台車が採用された。
8両編成27本作られる予定で、初期すべてと5ドア車両のチョッパ車両すべてが
取り替えられる予定。
海外譲渡は行われず廃車となる予定だが、初期型の3ドア車両は一部地方私鉄が
譲渡に名乗りを挙げているらしい。
なお03-002編成は解体に際して遺族からの抗議を受けて中目黒事故を
風化させない車両として営業運転せず綾瀬留置となるが当面8両で残される。

26 :
キロ81
キハ80のパーラーカー。
151系と同様に超大型窓で1+1配列のシートが並んでいるが、機器室があるため個室は省略されている。

27 :
クユニ183
183系に対応する郵便荷物車である。全て0番台車の房総特急用に作られ、
1000番台で作られる予定だった「あずさ」「とき」用は計画のみで終わっている。
東京方先頭に行くよう連結され、8両作られて
9両編成と6両編成とで各4編成に連結された。
また大型ドアを設けないなど客室化改造も可能なように初めから作られている。
なお臨時「あずさ」では使わないようになっていた。
小荷物及び護送郵便輸送から夕刊新聞輸送用に用途が代わり、東京地下駅で新聞を
積み込む光景が房総特急名物となっていた。
輸送方法は次の通りであった。
内房線 さざなみ9号で東京〜千倉まで輸送(君津〜千倉普通列車)
外房線 わかしお9号で東京〜安房鴨川(勝浦〜安房鴨川間普通)
(安房鴨川〜千倉の内房線も安房鴨川まで運び、そこから普通列車に積み替えて輸送)
総武本線 しおさい11号で東京〜銚子
(成田線も佐倉まで輸送して普通列車に積み替えて輸送[時刻上あやめで輸送出来ないため])
57年改正による荷物輸送廃止後も新聞輸送は廃止に出来ないために残された。
晩年にはときやあずさからの1000番台車の編成に連結されたり、末期には
あさまから転属の189系の9両編成にも1編成だけクユニ183-8が連結された珍編成もいた。
このままの形態のままでE257系500番台登場まで使われていた。
E257系化後は東京方クハE257の全室を封鎖して積み込んで輸送している。
また総武本線の輸送は成田線の輸送と合体化されて前5両がしおさい 後5両をすいごう
で佐倉切り離しで東京〜銚子を運転し、終点銚子で再び合体して上りしおさいで
新宿に戻る運用が組まれている。

28 :
国鉄 北海道総局 クユニ711
昭和43年、函館本線滝川電化時に登場した、711系用の荷物/郵便合造車
制御付随車だが、運用に柔軟性を持たせるために両運転台となっている。
小樽〜滝川間の客車列車の置き換えで、短距離輸送として活躍したが、のちに小樽〜旭川間の急行「かむい」の一部列車に連結されて
速達輸送を行うことになった。
特に全駅無停車の急行「さちかぜ」は、さちかぜ便と呼ばれ、報道機関や大手会社の小荷物急送に重宝されていた。
昭和57年の小荷物廃止に伴い、重量増加を承知で1M化され、クモハ712として旅客改造されたうえで、函館本線岩見沢以北のローカル運用に
投入され活躍した。JR化後はワンマン改造されたうえで現在でも元気に走っている。

29 :
JR北海道 スロネ14 スロ14
平成元年、青函ブームと湾岸戦争の影響により北海道は空前の観光ブームに沸いていた。
急行はまなすも連日満席であったが、R55の簡易リクライニングシートによる夜行運用は不評であり
早急な改善の必要に迫られていた。
そこで、分割民営化時に財産分与で本州から譲渡されてきたサロネ581とサロ481を14系化することになった。
当初は運転サイドから重量が重すぎるとクレームがつけられたが、営業サイドとしては運転サイドから提案された
24系B寝台車の改造では北斗星用の予備車が枯渇する危惧があるのと、どうせならA寝台とグリーン車にして
増収したほうがいい、ということで押し切っての改造となった。
座席指定席のオハ14の3両を、スロネ14の2両とスロ14の1両に置き換え、B寝台なしのグリーン車つき夜行列車として
運行を開始した。
これに合わせて、A寝台及びグリーン車用の割引切符も発売した。
乗客からは体質改善を歓迎する声で迎えられた。
その後、北海道ブームがひと段落し、北斗星用の24系が余剰となりはじめたことと、車輛の老朽化が激しいことから
平成12年にスロネ14が廃車となり、14系と併結運転可能に改造されたオハネ24に置き換えられた。
しかしながら、グリーン車の需要は高かったため、現在でもスロ14は連結されて走っているのは周知のことであろう。

30 :
川崎市営トロリーバス1形(1-4)
開業に先立って一部完成路線で、乗務員養成用に導入した車輌。
日産自動車の90型セミキャブオーバー型ボンネットバス車体を利用して、
1950年(昭和25年)に三菱電機製の電動機、制御部品を使い、
木南車輌で4両が製作された。
全長5000、全幅2400、全高3050mm、乗車定員19名、全席ロングシート、
客用扉は車体左の前寄りに設置、扉は2枚の前折り戸、
主電動機は三菱電機製のMB-800-A形68kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も三菱電機製のMF850形AF間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

31 :
1950年(昭和25年)7月の開業前に一部開通路線で乗務員養成用に使用、
7月の開業以降は環状線で使用したが、収容力が低いことから、
日中の路線営業のみに使用され、早い時期に引退、
以降は再び乗務員養成に使用された。
1950年(昭和25年)5月に導入、7月の開業以降は日中の営業運用に入る。
1954年(昭和29年)営業路線から撤退、以降は再び乗務員養成用に使用。
1962年(昭和37年)乗務員養成は100形で行われることになり、全車が廃車、
1号車が市電公園に静態保存、2号車は川通車庫に保管、3号車と4号車は、
電装機器を取り外して、民間に屑鉄扱いで払い下げられた。

32 :
川崎市営トロリーバス100形(101-114)
1950年(昭和25年)7月の開通用に急遽用意するため、
川崎市に東日本重工業の川崎機器製作所(川崎工場)が在った由縁で、
南米向けに大型バスを製造輸出してた東日本重工業(三菱日本重工業)に依頼、
全長13400mm、全幅2500mm、全高3100mm、ホイールベース6180mm、
リアのオーバーハングが長い、フレームレスモノコック構造の超大型長尺車体、
前面はGMC TDH-5103や富士 TR014X-2(ふじ号)に似ていて、
1灯式ヘッドライトを左右に配置、運転窓両横にはアポロ式ウインカーを装備、
前面窓、後方の3分割窓の上には行先方向幕灯が設置され、
後面窓下に丸型1灯式テールランプを左右に配置、その下に乗降中は点滅する、
白色の小さな丸型1灯式乗降ランプを左右に装備した。
客用窓は上段にバス窓を装備した下段上昇式で、窓の四隅は丸く処理されていた。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
車体に対して中扉位置が少し前ぎみだったことで、より後部が長く見え、
乗車定員は86名、全席ロングシート、車内中央にはスタテッションポールが5本、
室内灯は白熱灯が中央に6個並んだ。
主電動機は三菱電機製のMB-1100-B形120kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も三菱電機製のMF1008形AF間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

33 :
当初、全国で導入したことが無い稀に見る大型車輌だったことから、
運行上で制約が発生するのではないかと危惧されたが、
主要道路の環状廻りだったことで、幸いにも制約も無く、
むしろ朝夕ラッシュ時に乗客の大量輸送に活躍、以後川崎市交通部では、
100形の車体サイズを基本とした。
1950年(昭和25年)2月に購入、順次、日本鉄道自動車製造に送り、
無軌条電車に改造、7月の開通時に14号車までの全車が就航。
朝夕ラッシュ時に威力を発揮。
1951年(昭和26年)前年から雨などの日に感電すると乗客から、
苦情が寄せられていたことで、4月1日から各車の絶縁強化を川通車庫で実施。

34 :
1958年(昭和33年)アポロウインカーが見難いとの苦情で、
前後のバンパー左右上に白色のライトを装備、乗降時は点滅して、
周囲に知らせるようにした。
1959年(昭和34年)2月8日から11日まで川崎市交通部の創立20年記念と、
建国記念日を祝い、101-104号車が電飾され、夕方に電飾を輝かせ運行。
4月10日には皇太子様御成婚記念として、111-114号車が電飾された。
1960年(昭和35年)車内更新が行われ、内装をアルミデコラに交換、
シート、スタテッションポールの交換、白熱灯から蛍光灯への交換が行われた。
1970年(昭和45年)廃車が始まり、101号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった108号車が川通車庫に保管された。
2年に一回、2月8日の川崎市電開業記念日に、108号車は運行されている

35 :

川崎市営トロリーバス200形(201-218)
環状線の増車計画で1954年(昭和29年)に川崎市交通部が日野ヂーゼル工業の、
センターアンダーフロアエンジンバスの帝国自動車工業車体をベースに、
東洋工機(株)で無軌条電車化、全長13400mm、全幅2500mm、全高3100mm、
ホイールベース6180mmで、100形と同じくリアのオーバーハングが長く、
前面はセンターアンダーフロアエンジンバスのBD形とまったく同じで、
前面窓、後方の2分割窓の上には行先方向幕灯が設置され、
1灯式ヘッドライトを左右に配置、テールライトが丸型の横並び2灯式となり、
白色の乗降ランプは左右に丸型1灯式を装備し、ウインカーは白色の砲弾式で、
前後車体の丸角に飛び出して付けられていた。
客用窓は上段にバス窓を装備した下段上昇式で、窓の四隅は丸く処理され、
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
中扉の前窓上段バス窓は埋められ、そこに行先方向幕が付き、
車体に対して中扉位置が少し前ぎみだったことで、より後部が長く見え、
乗車定員は102名、全席ロングシート、室内灯は白熱灯が中央に7個並び、
車体中央にスタテッションポールが後方に向い5本並んだ。

36 :
主電動機は東洋電機製のTDK-20SD形128kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES20形KB間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備えた。
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
100形の絶縁不足を考慮して、200形は製造時から絶縁が強化された。
1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)までに201-218号車が就航。
1959年(昭和34年)4月10日には皇太子様御成婚記念として、
211-214号車が飾り付けをされた。
1964年(昭和39年)車内更新を実施、内装をホワイトのアルミデコラに交換、
シート、スタテッションポールの交換、白熱灯から蛍光灯への交換が行われた。
1966年(昭和41年)1月1日からワンマン運行開始。
1975年(昭和50年)から廃車が始まり、201号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった217号車が川通車庫に保管された。
2年に一回、2月8日の川崎市電開業記念日に、217号車は運行されている。

37 :
川崎市営トロリーバス300形(301-308)
増車計画の10両追加分として1957年(昭和32年)に川崎市交通部が、
富士重工のR9車体を使い、東洋工機(株)に発注、無軌条電車化、
全長13500mm、全幅2490mm、全高3090mm、ホイールベース9100mmで、
前面窓は傾斜、前面窓の上、後方2分割窓に行先方向幕灯が付き、
前扉は前引き折り戸、中扉は両側2枚折り戸で扉位置が中央に付き、
全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並び、
車体中央にスタテッションポールが後方に向い5本並んだ。
ヘッドライトは丸型1灯式を左右に装備、テールライトは楕円型1灯式を、
左右に装備して、白色の乗降ランプは後面中央に丸型1灯式を装備、
ウインカーも楕円型で車体四隅に張り付いたいた。
主電動機は東洋電機製のTDK-20SD形128kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES20形KB間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備えた。
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
1957年(昭和32年)11月までに1-4号車が就航。

38 :
1957年(昭和32年)11月15日 3号車が村上外科前-中島四丁目間の交差点で、
内輪差による歩行者巻き込み事故が発生、被害者は重傷を負うことになった。
川崎市交通部の調査によると、ホイールベースの違いによる、
乗務員の内輪差認識不足が原因と判明した。
この事故後、川崎市交通部は300形の搬入を急遽中止、
既に8号車まで製造してたことから8号車までは納入、残り分はキャンセルした。
1961年(昭和36年)3月2日 4号車による再び内輪差による巻き込み事故が発生、
幸い被害者は軽傷で済んだ。
1966年(昭和41年)1月1日からワンマン運行開始。
1972年(昭和47年)トロリーバス寿命としては早く廃車が始まり、
301号車が市電公園に静態保存、他は翌年にかけて全車が廃車解体された。
300形はホイールベースが長く、運転しにくいことで乗務員に不評だった。
この不評が長く運用されなかった原因とも言える。

39 :
鶴見臨港鉄道300形
モハ110形・モハ330形・クハ350形・ モハ130形の置き換え用として1964年に3両4編成が製造。
同時期に製造されていた親会社である京浜急行電鉄の1000形をベースとした車両である。
2008年700形の登場で引退。富山地方鉄道に譲渡された。
鶴見臨港鉄道500形
モハ220形・クハ260形・モハ210形・クハ250形の置き換え用として1988年に3両2編成が製造。
同時期に製造されていた親会社である京浜急行電鉄の1500形をベースとした車両である。
鶴見臨港鉄道700形
モハ110形・モハ330形・クハ350形・ モハ130形の置き換え用として2003年に3両5編成が製造。
同時期に製造されていた親会社である京浜急行電鉄の新1000形をベースとした車両である。
この当時新1000形はシーメンス製のGTO式VVVFインバータを採用していたが、こちらは三菱電機製IGBT式VVVFインバータとなっている。

40 :



川崎市営トロリーバス500形
軌道優先法案施行後の1962年(昭和37年)、乗客数の増加による増車計画で、
川崎市交通部が日野自動車工業のRB120形をベースに金沢車体を指定、
東洋工機(株)で無軌条電車化、全長13500mm、全幅2500mm、全高3120mm、
ホイールベース6200mmで、200形と同じくリアのオーバーハングが長く、
前面は日野路線バスのRB120形とまったく同じでデザインで、
前面窓上、後方の2分割窓の上には行先方向幕灯が設置され、
1灯式ヘッドライトを左右に配置、テールライトが丸型の横並び2灯式となり、
白色の乗降ランプは楕円型1灯式をテールライトの下に装備、
ウインカーは白色の砲弾式で、前後車体の丸角に飛び出して付けられていた。
客用窓は上段にバス窓を装備した下段上昇式で、窓の四隅は丸く処理され、
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
中扉の前窓上段バス窓は埋められ、そこに行先方向幕が付き、
車体に対して中扉位置が少し前ぎみだったことで、より後部が長く見え、
乗車定員は102名、全席ロングシート、室内灯は白熱灯が中央に7個並び、
車体中央にスタテッションポールが後方に向い5本並んだ。
前から見ると日野RB形バスと大差は無かった。
主電動機は東洋電機製のTDK-28SD形140kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES20形KB間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。

41 :
500形は車輌の大型化と増車計画で製造され、300形の失敗を兼ね、
200形に近くなるように川崎市交通部が設計注文した。
1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)までに501-520号車が就航。
1966年(昭和41年)1月1日からワンマン運行開始。
1972年(昭和47年)車内更新を実施、内装をホワイトのアルミデコラに交換、
シート、スタテッションポールの交換が行われた。
1984年(昭和59年)廃車が始まり、501号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった512号車が川通車庫に保管された。
毎年2月8日の川崎市電開業記念日に、500形は運行されている。
500形は長く利用されたことで、市民に馴染みがあることなどから、
川崎市交通部が販売してるトロリーバスのステッカーやキーホルダーに描かれ、
記念碑などにも透写されている。

42 :
川崎市営トロリーバス600形
高度経済成長期の自動車増加で市営バスが慢性的な延滞に悩まされてる中、
1961年(昭和36年)1月1日の軌道優先法案施工で延滞無く運行される、
市電とともにトロリーバスの利用客増加が激しく、さらなる増車に対応するため、
1967年(昭和42年)に川崎市交通部が日野自動車工業のRB120形の金沢車体を指定、
東洋工機(株)で無軌条電車化したのが600形。
500形の追加新造分で、主電動機が東洋電機製のTDK-36SD形143kwになり、
形式が600形に変更されたのみで、車体などは500形と大差は無かった。
1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)までに601-620号車が就航。
1977年(昭和52年)シート、スタテッションポールの交換が行われた。
1980年(昭和55年)611-614号車の床下を補強して冷房装置を搭載、
車内床に点検口を設置、冷気は床下から側面のダクトを伝い、
天井から冷気を車内に送風する仕組みとなり、2年間の試験を行った。
1981年(昭和56年)601-610号の床下に冷房装置を搭載。
600形の全車冷房化完了。
1989年(平成元年)廃車が始まり、601号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった610号車が川通車庫に保管された。

43 :
川崎市営トロリーバス700形
600形から10年後の1977年(昭和52年)に川崎市交通部が日野自動車工業の、
路線バスRE140形をベースに日野車体を指定、東急車輛製造で無軌条電車化、
全長11200mm、全幅2500mm、全高3130mm、ホイールベース5670mmで、
超大型長尺車体採用では無く、700形から路線バスと同じ車体寸法を採用、
新造費用を抑える目的で、路線バスと同じ車体寸法を採用した。
前面は日野路線バスRE140形と、まったく同じでデザインで、前面窓上、
後方窓の上には行先方向幕灯が設置、ヘッドライトは2灯式ユニット、
テールライトはアンバー入り角型の2灯式、白色の乗降ランプは角型1灯式を、
後面下部に左右配置、路線バスと同じデザインとなった。
客用窓は701-712号車までが上段にバス窓を装備した下段上昇式で、
713-720号車が上段下降、下段上昇式の2枚窓に変更された。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸だが、折り戸の窓も製造差異が在り、
701-714号車までは折り戸の窓は4枚だが、715-720号車は折り戸の窓が、
上下繋がった2枚となり、中扉も前扉と同じ差異が見れた。
中扉の前窓上段は埋められ、そこに行先方向幕が付いた。
乗車定員は92名、全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並び、
スタテッションポールは装備されなかった。

44 :
主電動機は東洋電機製のTDK-33MG形120kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のES35形MJ間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)までに701-720号車が就航。
1982年(昭和57年)713-720号車に冷房装置が搭載され、
屋根前側にドームが載せられ、冷房装置が収められた。
1984年(昭和59年)701-712号車に冷房装置が搭載され、
屋根前側にドームが載せられ、冷房装置が収められた。
700形の全車冷房化達成。
1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて全車の車内更新。
2000年(平成12年)廃車が始まり、701号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった706号車が動態保存で運行が続けられ、
2012年(平成24年)現在も運行中。

45 :
川崎市営トロリーバス800形
1986年(昭和61年)に川崎市交通部が日野自動車工業の路線バス、
P-HT236BA形をベースに日野車体を指定、東急車輛製造で無軌条電車化、
全長11150mm、全幅2490mm、全高3150mm、ホイールベース5670mmで、
700形と同じ、路線バスと同じ車体寸法を採用、客用窓は上段下降、
下段上昇式の2枚窓は拡大され、リア窓も1枚窓で拡大された。
ヘッドライトは丸型2灯式ユニット、テールライトも丸型2灯式ユニットで、
白色の乗降ランプは角型の1灯式を後面下部に左右配置し、
ウインカーは車体四隅に埋め込み式を配置した。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は乗降口が拡大、両側2枚折り戸で、
中扉の前窓上段窓は埋められ、そこに行先方向幕が付き、乗車定員は92名、
全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並んだ。
全車、車体前方中央寄りの屋根に冷房装置を搭載した。
主電動機は東洋電機製のTDK-37MG形130kwを1基、駆動方式はウオームギヤー、
制御装置も東洋電機製のESC40形MJ間接自動式、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
1986年(昭和61年)から1988年(昭和63年)までに801-830号車が就航。
1996年(平成8年)から全車の車内更新。
2007年(平成19年)から廃車が始まり、801号車が市電公園に静態保存、
状態の良かった822号車が本町車庫に保管された。

46 :
川崎市営トロリーバス1000形
1998(平成10年)に川崎市交通部が日野自動車工業の路線バス、
ノンステップ型のKC-HU2PPCE形をベースに日野車体を指定、
東急車輛製造で無軌条電車化、全長10980mm、全幅2490mm、
全高3010mm、ホイールベース5570mmの路線バス寸法を採用、
ヘッドライトは角型2灯式ユニット、テールライトも角型2灯式ユニットで、
白色の乗降ランプは、角型の1灯式を後面下部に左右配置、
ウインカーは路線バスと同じ車幅灯と一体になり、
前後の行先方向幕はLED式となった。
客用窓は横幅が拡大した2枚窓で、下段は固定1枚窓となり、
上段は前後スライドの窓となった。客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、
中扉は位置が後輪前に移動して、2枚折り戸が付いた。
中扉の前窓上段窓はにはLED式行先方向幕が付いた。
乗車定員は92名、全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並んだ。
全車、車体前方中央寄りの屋根に冷房装置を搭載した。
主電動機は東洋電機製の三相誘導電動機125kwを1基、
駆動方式はウオームギヤー、制御装置は東洋電機製のVVFインバータ、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
1998年(平成10年)から2000年(平成12年)までに、
1001-1030号車が就航。
2011年(平成23年)製造初期車から車内更新。

47 :
川崎市営トロリーバス1100形
2007年(平成19年)に川崎市交通部が日野自動車工業の路線バス、
ノンステップ型のBJG-HU8JMFP形をベースに小松事業所指定、
東急車輛製造で無軌条電車化、全長10925mm、全幅2490mm、
全高3285mm、ホイールベース5200mmの路線バス寸法を採用、
ヘッドライトはウインカーと車幅灯一体型の角型2灯式ユニット、
テールライトもウインカーと一体型の縦型3灯式ユニットで、
白色の乗降ランプは、角型の1灯式を後面窓下部に左右配置、
前後の行先方向幕はLED式となった。
客用窓は横幅が拡大した2枚窓で、下段は固定1枚窓となり、
上段は前後スライドの窓で前扉と中扉の間に在る窓だけ、
1枚固定窓とされて、客用窓を屋根の間にLED式の行先方向幕が付いた。
客用扉の配置は前扉は2枚の前折り戸、中扉は1000形と同じ、
位置が後輪前に移動して2枚折り戸が付いた。
乗車定員は92名、全席ロングシート、室内灯は蛍光灯が中央に5個並んだ。
全車、車体前方中央寄りの屋根に冷房装置を搭載した。
主電動機は東洋電機製の三相誘導電動機125kwを1基、
駆動方式はウオームギヤー、制御装置は東洋電機製のVVFインバータ、
制動装置は空気制動機を主とし手用制動機、電気制動(非常用)を備え、
無架線場所でも移動出来るように補助ディーゼルエンジンを搭載、
トロリーポールは2本、スライダーシュー式を採用した。
2007年(平成19年)から2009年(平成21年)までに、
1101-1130号車が就航。
現在の川崎トロリーバス主役である

48 :
京急新1000形SUS車両改修:
先日の追浜〜田浦での土砂乗り上げ事故で、2シート軽量ステンレスの編成の外板を剥がして、車体強度確保のピラーをトラス状に挿入。
施工は総合車両と京急ファインテックで施工。
京急新700形:
600形のツイングルの失敗を省みて、デュアルシート(L/CカーやTJ同様)。
製造は日立製作所と川崎重工。A-train。
4/6/8両がある(8両:0番台・6両:50番台・4両:70番台)。
新1000形SUS安全改修工事での車両不足と、800/2000形の置き換えを目的とする。
台車は安全性でボルスタ台車だが、従来の円筒案内から、円筒ゴム支持に変更。
VVVFは京急初の日立製。

49 :
静岡鉄道静岡清水線2000系
2008年(平成20年)3月1日に1000系の初期製造分置換え用として、
営業運転を開始した静岡鉄道の通勤形電車。
全長18m、片側3扉の東急車輛製造ステンレス製車両で、前頭部は普通鋼製、
外観デザインは京急新1000形電車と同じフロントガラスは貫通扉も含めて、
左右2分割から運転席前・貫通扉・左右前照灯・種別行先表示器の5分割構成、
客室窓は一段降下式窓、扉間の窓は幅2325mm、車端部は幅1455mmとなり、
内装は白色系化粧板を使用、床材はグレー系ロンリウム材、
中央天井部は一体成形の空調ダクト・ラインフローFRP製ユニット天井、
ロングシートは緑色のモケット、室内側の窓枠はアルミ製とし、
遮光用のロールカーテンを設置、車内ドア上部には旅客へのLEDを使用した、
文字スクロール表示式のドアチャイム内蔵車内案内表示器が設置された。
主電動機は三菱電機製かご形三相誘導電動機(155Kw)のMB-5121-A形、
駆動装置はTD継手式平行カルダン、制御装置は1M方式のVVVFインバータ装置、
制動方式は応荷重装置付回生ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ、
集電装置は東洋電機製造製のPT7117-A形シングルアーム式パンタグラフを搭載、
冷房装置は三菱電機製の屋根上集中式CU-71H形(36,000kcal/h)を搭載、
台車は電動車がTH-2100A形、制御車がTH-2100B形を履いた。
新静岡向きが電動車(Mc)2000番代、新清水向きが制御車(Tc)2500番代、
2001-2501:2008年(平成20年)竣工
2002-2502:2008年(平成20年)竣工
2003-2503:2008年(平成20年)竣工
2004-2504:2008年(平成20年)竣工
2005-2505:2008年(平成20年)竣工
1000系初期車5本と入代わるで2008年(平成20年)から運用、
2013年(平成25年)にも残りの1000系7本と入代わる容で2000系7本の製造予定。

50 :
東京都交通局1-400形
平成3年登場以来これと言った更新が行われていない5300形の急速な老朽化が
進んだことと、先の京急のダイヤ改正や北総線も一部に入る成田スカイアクセス線に入る上にも
120Km/h出せる編成が最終の5327Fの1本しかおらず、スカイライナーの足を
引っ張るなど見劣りが目立ってきた事から新型車両に取り替えることとなった。
本来なら5400形となる所だが、都は今後新造される浅草線 三田の新型車両から
新宿線や大江戸線と同じようにハイフン形式を採用されることになり、浅草線が
1号線であるため頭に1を付けた1-400形と言う新形式が採用された。
車体 車内は新宿線10-300系を基本としたものであるが、走行系を今回から
京成電鉄3050形と同じ走行系を採用されることになった。
但し台車とVVVF装置はスカイライナーと同じものを使用するなど差別化が図られた。
これにより検査を馬込車両工場だけでなく京成電鉄の宗吾車両工場にも委託可能となり、
検査の合理化も図られた。
東京都はアクセス特急の運用には入ってないとは言え、130Km/h運転が出来る点では
京成電鉄の3000 3050 3700形と京急電鉄の600形及び新1000形をも凌駕しており、
東京都の威信が感じられる車両となった。
8両編成29本が新津車両製作所及び総合車両製作所で製造された。
5300形より2本多いのは1本は北総鉄道の7250形をもう1本は追浜〜京急田浦で
土砂崩れに突っ込み脱線した1500形の損傷が激しく修復不可能と判断されたために
それぞれ東京都に取り替えを肩代わりしたため。
次期京急 京成のダイヤ改正で東京都車のアクセス特急が登場する予定で、
京急の8両編成の快速特急の一部も東京都車となる。
なお捻出された5300形の内の5317〜21 5324〜27Fが京急ファインテックに入場しており、
何らかの譲渡改造されるのは有力と見られ、琴電に譲渡されるのではないかと
見られている。

51 :
東京都交通局6-500系
三田線6300系初期型を取り替える新型車両である。こちらも新宿線や大江戸線と
同じようにハイフン形式を採用され、三田線は6号線であるため頭に
6を付けた6-500系が採用された。
基本的には新宿線10-300系をホームドア等がある三田線仕様にしたもので、
新宿線同様に2種類の編成があり、完全6両新造編成と6300系の先頭だけを
取り替えた6-500R編成とに別れている。
なお6-500R編成は東急目黒線の急行運転には原則充当しない。
6-500R編成に加わる6300系も改造に際してVVVF装置等も6-500新造編成と
同じものに取り替えられる予定。

52 :
キハ47-901
キハ47の大出力エンジン試験車。
エンジンがDML30HSHに変更された。
台車がキハ66・67と同一のDT43/TR226になっている。
キハ47-902
キハ47のエンジン2基搭載試験車。
DMF15HSAを2基搭載した。
台車はDT44である。
キハ47-903
キハ47の1.5倍出力試験車。
エンジンがDMF15HZB(330PS)に変更された。
台車はDT44である。
試験の結果1.5倍出力試験車であるキハ47-903が一番コストパフォーマンスに優れていると判断されたが、結局量産化されなかった。

53 :
>>52
国鉄時代の話なら、2エンジンの時点で50番台の形式になると思うの
キハ57とか

54 :
国鉄 北海道総局 キハ56−400
昭和55年、急行運用激減を受けて余剰となっていたキハ56を札沼線通勤列車に充当するために改造された形式
車内をロングシートにし、車体中央部にドアを増設した。
ただし、床下機器の関係でステップは下げられなかったため、ステップ無しとなったうえに、キハ22からの廃車発生品のドアを使用した
半自動ドアとなっている(いわゆる「手で開けてください」式)
そうとうな仕上がりとなってしまったが、平地での2エンジン車ということで遅延しがちなラッシュアワーでも遅れ回復が容易となり(この車輛に乗る乗客以外)
好評を持って迎えられた。
JR化後、中央ドアが両開きに改造されたり、クーラー搭載やワンマン化改造などを経て、老朽化により平成17年に廃車となったが、奇しくもキハ56系としては
最後まで活躍したことは、このスレの住人にとっては周知のことであろう。

55 :
淡路交通鉄道 モハ2100型 2101号・2102号
戦災で焼失した鉄道省キハ36900形(キハ41000形)気動車の車体を、
1948年(昭和23年)に復旧、電動車化した車輌。
車体長15,500mm、車体幅2,600mm、全高3,535 mmの片運転台の半鋼製軽量車体、
窓配置1D (1) 14 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:側窓数)、
側窓は木枠による2段上昇式で戸袋窓と客用扉にも横桟があり、ドアエンジン装備、
1段ステップは廃止され、前面窓は2段上昇式の4枚窓構成から、
2段上昇式の3枚窓となり、運転席窓のみ1枚固定窓とされた。
屋根は鉄製となり、側面と屋根の境に雨樋が全体に回され、
車内は戸袋部がロングシート、ロングシート部には吊革が設けられ、
それ以外が対面式配置の背摺りの低い固定式クロスシート、定員は109名。
主電動機TDK85PS×2、制御器東洋電機製DBI-K4型直接式、台車をブリル27GEI、
集電装置は運転席側にパンタグラフ
1948年(昭和23年)中に2両が就航。
1966年(昭和41年)9月30日に全廃時に廃車、水間鉄道に譲渡する案も有ったが、
復旧車であるため素人目にも傷みや外板の凹凸が判別できるほど、
車体の劣化が酷かったことから譲渡されずに2両とも解体された。

56 :
淡路交通鉄道 クハ2110型 2111号・2112号
モハ2100型と同じく戦災焼失した鉄道省キハ36900形気動車の車体を、
1948年(昭和23年)に復旧、片運転台車、制御車化した車輌。
1948年(昭和23年)中に2両が就航。
1966年(昭和41年)9月30日に全廃時に廃車、水間鉄道に譲渡する案も有ったが、
復旧車であるため素人目にも傷みや外板の凹凸が判別できるほど、
車体の劣化が酷かったことから譲渡されずに2両とも解体された。

57 :
国鉄 キヤ80
昭和35年に特急はつかりに投入されたキハ80系だったが、初期故障によりエンジン停止して
ユニットカットした状態で長距離走行する事態が頻繁に発生し、ついにエンジンから火を吹く事態となり
国鉄当局としても、何か手を打たなくてはならなくなった。
根本的な技術的対策には時間がかかるということで、エンジンを冷ます保安停車処置が取られたが、同時に
平地においても長距離連続運転により生き残ったエンジンに負荷がかかり、さらなるエンジントラブルに見舞われる事態が
発生していたため、2次量産車のキハ80を急きょ先出ししてブースター車として運用することになり登場した形式である。
4両が仙台に配置され、状況によりキハ81の連結器カバーを外して後部に連結された。
そもそも応急処置としての形式だったので、車体の切り抜き番号はキハ80のそれぞれの番号で出場し、車体端に手書きのペンキで
キヤ80 1 というように書かれたもので、外観は貫通部分に雨水よけの板が貼られた以外はそのままであった。
技術的対策が施され、故障発生がおきなくなったことを確認したうえで、翌年2次量産車として営業復帰して形式消滅した。

58 :
>>52
キハ68
国鉄が製造したキハ47の量産型大出力エンジン仕様車。
エンジンがDML30HSHになっている。
台車はDT43/TR226になっている。
1.5倍出力試験車では1軸駆動で勾配線区での空転多発が懸念されたため2軸駆動の大出力エンジン仕様車の投入に踏み切った。
しかし製造コストが高く少数しか製造されなかった。

59 :
東武634型10番台・20番台:
634型が大好評で、350系3編成のうちの異端編成の352Fと1800系最終新造生き残りの異端編成の1819Fを改造。
352F改造編成は634-11〜14
1819F改造編成は634-21〜26
東武50090系・60090系、2連・3連・4連・6連(60090系):
634型の補完的な多客臨時観光列車。
50090系及び野田線投入の60000系を634型のようにして、50000系ワンマン用編成(但しワンマンには非対応)及び60000系をベースにしている。
5139x又は5129xを2本で浅草〜伊勢崎・赤城・西小泉・葛生へ、5149xで東武宇都宮・鬼怒川温泉へ、6169xで浅草〜伊勢崎・赤城・葛生・東武日光・鬼怒川温泉へ観光列車を運転する。

60 :
京王電鉄デハ1400形電車(帝都電鉄モハ100形)
京王電鉄井の頭線の前身である帝都電鉄が1933年(昭和8年)に、
帝都線開業に併せて製造した、大型通勤形電車のモハ100形・クハ150形、
合併後のデハ1400形・クハ1450形を記述する。
リベット組立てと溶接を併用、窓の上下にシルヘッダーと呼ばれる、
補強帯板が露出して取付、全長18500mm×全幅2800mm×全高4040mm、
18m半鋼製車体を備える。メーカーである川崎車輌が1930年代に、
各鉄道会社で手がけた標準的な作風を示し、
窓配置は全車ともにd1D(1)3D(1)3D(1)1、乗務員扉と客用扉の間に在る窓は小窓になり、
(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)で、当時としては珍しく片運車、
片隅式の運転台、前面は半流線型で窓を3枚並べ、内2枚は下段上昇式、
運転台の1枚は1段固定窓でひさし付、車体幅の全体に渡り鋳鋼製アンチクライマー装備、
幕板中央部に前照灯を、前面向かって左側の腰板下部には標識灯を、それぞれ1灯ずつ備え、
クハとの連結面に引戸式の貫通路を設置、幌は当初、装備して無かった。
定員は100名、座席定員は40名で座席はロングシートを採用、前述の通り片隅式運転台、
反対側の座席は車端部まで延長されて無く、乗務員扉の手前までしか設置されてない。
車内各扉部中央にはスタンション・ポールと呼ばれるつかみ棒が立てられていた。
本形式は当初より全車各扉共にドアエンジンを装備した自動扉車として竣工、
客用扉に「此扉は自動的に開閉致しますから御注意下さい」と注意書きが表記されていた。
塗装はチョコレート色1色を基本とし、屋根部を鉛丹仕上げとしている。

61 :
主電動機は120kw芝浦製作所SE-140Bを台車に2基ずつ吊り掛け式で装架、
制御器は東洋電機製造の電動カム軸式自動加速制御器ES-509を搭載、
ブレーキはM三動弁による元空気溜管式M自動空気ブレーキ、
台車はボールドウィンA形改良の軸距2,430mm釣り合い梁式台車を装着、
集電装置は東洋電機製造C2菱枠パンタグラフをデハの運転台寄りに搭載する。
開業時にモハ100形8両、クハ150形8両用意、モハ奇数車は渋谷向き、偶数車は吉祥寺向き、
クハ奇数車は吉祥寺向き、偶数車は渋谷向きとされていて、
帝都電鉄線の主力車として2両編成で重用された。
1936年(昭和11年)から第二次増備車としてモハ100形4両、クハ150形4両増備、
モハ12両、クハ12両の総数24両の大所帯となった。
大東急への合併で同線在籍の各車は他社形式との、車号の重複を避けて、
小田急線の各形式と同じ1000番台の枠内で整理され、以下の通り改番された。
モハ100形101-112→デハ1400形1401-1412
クハ150形151-162→クハ1450形1451-1462
1940年(昭和15年)から4両編成運用開始。
1943年(昭和18年)電力節約で2両編成運用に戻る。
1945年(昭和20年)5月25日から26日にかけてアメリカ陸軍航空隊が実施した、
戦略爆撃によって井の頭線の車両基地であった永福町車庫が被災した際、
1409・1459と1410・1460の二編成は1500形と一緒に被災、それ以外の1400形は、
富士見ヶ丘駅と久我山駅の間に1945年(昭和20年)2月に完成した留置線に居たことで、
被災は免れ、戦後の復興輸送に貢献した。
空襲後、被災した二編成は1500形とともに可能な範囲で修理・復旧工事を実施、
幸い被災程度が軽く、台枠に影響が無いことから早期に復旧した。

62 :
1948年(昭和23年)6月1日の東京急行電鉄解体→京王帝都電鉄成立時でも、
形式変更は行われず、大東急時代そのままにされた。
大東急統合後は車体の塗装がダークグリーン1色へ変更され、
更に京王帝都電鉄成立後は順次ライトグリーン1色に再変更されている。
世相が安定し始めた1950年(昭和25年)渋谷-吉祥寺間で終日4両編成運転が開始、
デハの運転台を全室式に改造、運転台ひさしの撤去や前照灯の2灯化改造が行われ、
クハ1450形は全車とも運転台と乗務員扉を撤去して中間車化、乗務員室跡にシート設置、
連結面の引戸式貫通扉を撤去、貫通路に渡り板と幌を装備して、
サハ1300形1301-1312へ改番された。
1960年(昭和35年)動物園線の開業にともない、4編成が1372mm改軌されて転属、
1963年(昭和38年)井の頭線に3000系が投入されると残った2編成は余剰となり、
朝夕ラッシュ時の増発に運用される程度で、日中は富士見ヶ丘に留置されていた。
1964年(昭和39年)余剰となっていた4編成も1372mm改軌して京王線に転用、
1967年(昭和42年)高尾線開業にともない、3編成が運用に入ることで、
残りの2編成も1372mm改軌して転属、
1968年(昭和43年)京王全線ATS稼働開始に備えてデハにATS機器の搭載工事が実施、
動物園線に3編成、競馬場線に3編成と2つの支線で、廃車されるまで運用された。
1975年(昭和50年)1400形の廃車が始まり、デハ1401が保存の為にモハ101に復元、
1067mmに改軌され永福町駅前に運ばれ、駅前に静態保存されたが、
渋谷マークシティ開発計画が発表、井の頭線の渋谷駅がマークシティ内となることで、
井の頭線渋谷駅前のランドマークとして、デハ1401を展示する計画が実行、
1996年(平成6年)に永福町駅から井の頭線渋谷駅前に移動、
建設中のビル内に車輌を搬入、1998年(平成10年)から整備が行われ、
2000年4月7日のマークシティ開業から井の頭線渋谷駅前で公開されている。
デハ1402・1403・1407・1408・1411・1412とサハ1301・1302・1303が、
伊予鉄道へ譲渡、同社のモハ130形133-138、サハ511・512・513となり、
1990年(平成2年)に全車が廃車解体された。

63 :
JR東日本E721系1000番台
青い森鉄道は、筒井新駅の開業を機に
JRのE721系をベースにした青い森721系を導入したが、
青森県は地理的に北海道に近く、仙台と同様の耐寒対策では
不十分とされた。
そのため、より耐寒性を高めたほか、旅客サービスとして
転換クロスシートを導入した。
このノウハウを本家のJR東日本もフィードバックの上、
内陸を走り、より高い耐寒性が望ましい
磐越西線及び仙山線にも1000番台として導入した。
線区特有のラッピングが施されているのが外観上最大の特徴だが、
予備車は用意していないため、検査時は同系一般車で代行する。
(検査は極力冬季を避けて実施し、冬季に1000番台がフル稼働できる体制が組まれている)

64 :
JR東日本 クモヤ241・240
近年、新系列の台頭によって、牽引車が以前ほど必要でなくなった
(新系列は編成ごとで管理する上、検査ペースも少なくなった)ことから、
クモヤ143・145が淘汰された。
しかしながら、一方で旅客会社は機関車の扱いを縮小する方針のため、
小規模の甲種・配給輸送などを極力電車免許でこなすべき
必要性もあることから、以前ほど頻度は高くないものの
牽引車を最小限用意する必要から、元横浜線の205系から改造されたものである。
鋼体は基本的に205系をそのまま使用しているが、中央部に
鋼体をくりぬいて幅広ドアをはめ込んである。
また、事業用としての使い勝手から、貫通ドアが必要なため
元の鋼体を生かした先頭車改造が行われているが、
室内の仕切りはワンマン車並みに簡易なものとなっている。
ブレーキシステムは、新旧各系列協調可能なほか、
保安装置も、JRと直通を行う他社各線区のものを併設している。
また、種者のユニット方式のまま2M0Tで改造されたため、単独走行時は無駄が発生することから、
一部のモーターをカットして走る機能も搭載している。

65 :
JR東日本E131系電車
E721系をベースに直流専用とした車両。
新潟・長野地区の115系置き換え用として新製された。
車体及び車内設備はE721系と同じく正面貫通式・3扉・セミクロス仕様で、
クモハE131-クハE130の2両編成で組成され、ワンマン設備も搭載されている。
クハE130には身障者対応便所も設置された。
2007年から上沼垂と長野に115系の置き換え用として投入され、
信越本線長野−新潟、羽越本線新津−村上、上越線、白新線、越後線、弥彦線、
篠ノ井線松本−篠ノ井で運用されている。
この車両の登場により新潟地区から115系は一掃され、115系1000番台のうち
経年の比較的新しい車両は長野と豊田に転出して115系300番台を淘汰している。

66 :
●JR東海 キハ25形200番台
JR東海がキハ40形気動車の置き換えのために製造された、キハ25形の両運転台タイプ。
外見的にも機能的にも、キハ25形を両運転台にしたもの。
この形式と、キハ25形0番台・キハ25形100番台の大増備により、JR東海の国鉄型気動車は全て駆逐された。
●ウインディトレイン(キハ11形)
キハ25形の増備に伴い、キハ11形0番台に僅かな余剰が発生した。
これを利用して、キハ11形の1両をトロッコ列車に改造する事になった。
前面・デッキ部分を除く窓ガラス、座席、空調装置が全て取り払われ、
転落防止柵・防水カーテン、デッキ仕切り、窓向きのベンチが設置された。
そして足回りと制御装置は、キハ25形との併結を果たすために、キハ25形相当のものに換装された。
その結果、紀勢線・参宮線でのデビュー時には、海風を感じようと気軽に乗った観光客の度肝を抜く、
激しい走行を魅せたという。
しかしそれは、ほんの序章に過ぎなかった。
●キハ11形1000番台・1100番台・1300番台
ウインディトレイン誕生からしばらくして、JR東海は、キハ11形の機関換装を発表した。
それはまさに、「キハ25形との併結を果たす」という名目でウインディトレインで実施された改造のそれであった。
元々軽快気動車として作られた車体にキハ25形で採用されたエンジンを搭載したら一体どうなるか、
その結果は、ウインディトレインの実績からも明らかだった。
かくしてキハ11形は、キハ25形と混ざって、今日もJR東海の非電化路線を
その車体に見合わぬ爆音を轟かせながら爆走するのであった。

67 :
サハ205-500・600番台
JR東日本でモハ205・204を電装解除した車両。
500番台がモハ205から、600番台がモハ204からの改造。
台車はDT50からモーターを取っただけのDT50Tであるが、TR235とは異なり踏面ブレーキしかないのでブレーキ力確保のためブレーキてこ比を調整している(しかしフラットが多く現場では不評らしい)。

68 :
オクテ40

69 :
クモハ110形(M'c)
111系の短編成用、伊東線のローカル用として1962年(昭和37年)に登場した制御電動車。
クハ111形と同じ車体にパンタグラフと空気圧縮機 (CP) を搭載、
3位側隅に在ったトイレを撤去、モハ111形とユニットを組む電動車で、
台車はモハ111形と同じDT21B、前面は高運転台タイプ、前照灯は大型タイプ、
全車偶数向きで、編成は伊東向きにクモハ-モハ-クハで湘南色。
1962年(昭和37年)から1963年(昭和38年)までに8両を製造、
全車がモハ111形とクハ111形の3両編成を組み、伊東線ローカルで運用、
1974年(昭和49年)以降は全車が赤穂線の播州赤穂駅-東岡山駅間で、
80系とともに運用、後に紀勢本線で運用され、1988年(昭和63年)全車に、
集約分散形AU101形を用いた冷房化改造を実施後、本四備讃線で運用、
1999年(平成11年)から2001年(平成13年)までに全車が廃車解体された。

クモハモハ112形0番代(M'c)
モハ113形またはクモハ113形とユニットを組む制御電動車で、
こちらは新規製造車のみ、パンタグラフ、MGおよび空気圧縮器 (CP) を搭載する。
1974年(昭和49年)から地方ローカル線の短編成用に新造され、
客用扉の半自動(手動で開閉)対応化、前面タイフォンへのシャッター設置など、
寒冷地対策を施し、冷房装置は搭載されなかった。
1974年(昭和49年)から1978年(昭和53年)までに32両を製造。
1990年(平成2年)から集約分散形WAU102形を用いた冷房化改造を実施された。
2009年(平成21年)から初期車輌から廃車が始まった。

70 :
DF200形1000番台
JR貨物は、北海道地区の貨物列車の輸送量増大や高速化に対し、DD51形の重連運転や
大規模な機器更新を実施して走行性能維持・向上に努めてきたが、過酷な運用や気候による老朽化が顕在化しており、
DD51形を置き換えるためDF200形電気式ディーゼル機関車を開発・投入した。
しかし、高性能ゆえに製造費がかさみ、経営基盤が貧弱なJR貨物にとって大きな負担となっていた。
そこで北海道内の幹線高速化事業を担っていた第3セクターの北海道高速鉄道開発鰍ェDF200を新製・所有し、
JR貨物にリースする方式が採られることとなり、1999年にDF200形1000番台として登場した。
システム的には同時期に製作されたDF200形50番台と同型であり、JR貨物所有機と共通運用されている。

71 :
JR貨物DD110形電気式ディーゼル機関車
DF200形では過剰な本州のDD51及びDE10を取り替えるために開発された
DF200形の短小型である。
軸配置はB1B配置の発電エンジン1基のみの電気式で、車体はDH200形の短小型
であるため、一部の中にはDD54形の再来とも言われた。
1両でDD51形並みの牽引力と軸重可変式の1軸台車があるために軸重も可変可能
で、DE10形の置き換えにも兼ねていた。
コスト面ではDH200形より安価であったことから平成11年に901号機が愛知に配置
されて試験の上で翌年より17年までに34両が作られている。
配置は愛知が16 佐倉が8(後に一部除き愛知に移動)秋田が5 東新潟が5である。
これとは別にJR東日本が平成14年に300番台10両が高崎など自社用に作られている。
高崎の2両にはお召し装備が施されており、DD51-842の取り替えとして、
2両長岡に配置されたのはDD14ら除雪用機関車の後押し支援用とみられる。
またDE15形のラッセルヘッドを装置して除雪用にも出来る400番台も2両作られている。

72 :
>>8 >>23に続く平行世界もの
◎国鉄167系1000番台電車
1977年
○1978年の紀勢本線部分電化向けの急行形電車捻出を目的に房総地区に東京駅総武横須賀線地下ホームを含む
総武トンネルと東京トンネル(錦糸町〜東京〜品川)が走行可能な167系1000番台が新造された。
走行システムは165系を踏襲するが、優等料金を徴収する列車種を特急に統一するという国鉄の長期経営戦略に基づき、
車両の想定寿命中、急行使用は短期で、急行運用消滅後に普通車は普通列車用に格下げ且つグリーン車は特急形編入の
前提で以下の通りに設計された。
車種は、クハ/クモハ/サロ167-1000(Tc/Mc/Ts)、モハ166-1000(M')。
Tsは特急形への編入前提故に車体はTs183そのもの。
Tc、M'、Mcの意匠は、417系やキハ47に類似した両開き扉を車体中央寄りに二カ所設置、集中型冷房装置、空気バネ台車、
Tcの運転台後部にATC搭載用の機器室、内装は、後年の373系の様に乗降扉デッキとの仕切壁はあるが仕切扉は無し、
全席固定クロスシートでボックスのシートピッチは1600mmと急行形では最大、戸袋窓だけが二人掛けクロス、
便所はTcとTsに集約されTcの車端に大便所と男性用小便所と洗面所各々一つ設置。
全車A-A基準仕様で編成両端に連結されたTcにATCを搭載すれば総武・東京トンネルに乗り入れ可能なはず。
労働組合の新型車拒否対策として本車両に新形式は付与されず、
ベースの165系に対しドアが異質だからという事で無理矢理167系にされた。
本来の修学旅行用0番台との異質さは、鉄道で頭が一杯で規則性に異常に拘るアスペルガー等の発達障害者
いわゆる鉄道ヲタに忌み嫌われ、車掌等の現場職員に「何で167系なの!おかしい!これは171系のはず!」
云々と詰寄って業務妨害する者も出現。
77年に新宿/両国発着の房総急行として就役したが、結局ATCは搭載されず東京駅乗り入れは無く、残存165系と混結、
しかも急行としての活躍はわずか五年程に過ぎず、
82年のダイヤ改正で房総急行全廃・全部特急格上げに伴い、Tsは183系等に編入され、普通車はTcのATC用機器室を客室化
改造の上でよそへ転属。
86年の国鉄最後の全国ダイヤ改正で全車が北近畿地域に集結し、113系800番台と一緒に普通運用に就役。
87年に普通車がJR西日本に承継後、中国地方のローカル運用に現役。Tsは既に廃車。

73 :
581・583系1000番台
昼夜兼用として製造された581・583系は座席使用時は4人掛けボックスシート、夜間は3段寝台となっており、
同時代の電車特急列車や客車寝台列車と比較すると客室設備の点で見劣りしつつあった。
また運用サイドにおいては座席と寝台の転換作業に多くの人手と時間を要することから改善が求められていた。
一方、山陽新幹線の延伸により夜行列車が削減され、581・583系に余剰が出始めていたため、
これらの車両を寝台列車専用として客室設備を改善し、電化区間の機関車けん引列車を置き換えることで
速達化と運用効率化を行うと同時に、寝台客車の新製を抑制することとした。
また各地のフリークエントサービス向上のため、当系列を近郊型電車に改造する案もあったが
改造内容が多くコストがかかりすぎるとして新型の一般形客車(後に50系と名付けられる)が製造されることとなった。
○各電動車、サハネ581形
B寝台車は寝台設備を24系25形と同様の側廊下・2段式に変更。
寒冷地で使用される車両は客用扉を引き戸タイプに変更。(全形式共通)
○クハネ581・583形
空気圧縮機をC3000形に換装、また、クハネ581形は電動発電機を210kVAタイプに換装。
寒冷地での隙間風対策として正面貫通扉を閉鎖した車両もある。
○サロネ581形
サハネ581形より改造。
オロネ24形と同様のプルマン式A寝台で、車端部に更衣室を備える。
○サロネ580形
サハネ581形より改造。
オロネ25形と同様のA寝台個室「シングルデラックス」を14室備える。
こうして改造された車両は元番号に+1000(寒冷地対策施行車は+1500)し、1000番台(同1500番台)として区分された。
走行システム的には大きな変更はなく、異常時や臨時列車などでは通常型と混成することも可能であった。
国鉄末期から民営化直後にかけてはさらなるサービス向上のため寝台設備の個室化、共用スペースの拡大が進められた。
特に民営化後は、本系列を所有していたJR東日本、西日本、九州の3社が
それぞれの線区・列車に合わせた改造を施したため、番台区分、改造内容などは多岐にわたる。

74 :
クロネ581形(JR九州)
列車の短編成化に伴いクハネ581形より改造。編成の下り寄り先頭車。
従来の寝台設備を撤去し、1人用A寝台個室「シングルデラックス」8室、
2人用A寝台個室「ツインデラックス」2室及びA寝台利用者専用のシャワー設備を配置した。
また、トイレの洋式化、シャワー用大容量水タンクの設置などの改造も行われた。
クハ581形(JR九州)
クハネ581形より改造。編成の上り寄り先頭車。
夜行バスへの対抗策として、寝台設備をすべて撤去し、ゆったりした1人用座席を3列配置した。
指定席特急券のみで利用できる「レガートシート」として人気を博した。
サハ581形・580形(国鉄・JR東日本・九州)
サシ581形より改造。シャワー設備や自動販売機などを設け、
利用者が自由に使用できる「サロンカー」「ロビーカー」として使用された。
モハネ583・582形2000・2500番台(JR西日本)
「日本海」・「北陸」向けに1人用B寝台個室「ソロ」を配置。
運用効率化のため主変圧器を交換し、モハネ581・580形から編入された車両も存在する。
クハネ581形2000番台(JR西日本)
「日本海」の函館乗り入れが決まったことから青函ATCを搭載。
サハネ581形2500番台(JR西日本)
「北陸」向けに、「ソロ」を配置。
走行時間が短く、高速バスとの競合が激しい同列車の現状を鑑み、
車体前位寄りにシャワー設備、サロンを設け、サービスのさらなる向上が図られている。
なお「北陸」編成は個室寝台車の割合が多いことで有名であった。

75 :
大分交通別大線600型ワンマン車(601-604)
1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて4輌が東洋工機で製造、
窓配置1D4D4D1の3扉2軸ボギー車で、3枚前面窓の中央部窓が横方向に広くなり、
前面窓上に拡大、大型化された行先方向幕を設置、外観上500形に比べて、
重厚で貫禄があり、大分交通の車輌でも美しい車両で人気があった。
12,920×3,894×2,300mm、自重17.2t、定員90(座席38)名、
座席は全車ロングシート、室内灯は蛍光灯となっている。
主電動機は路面電車用規格形SS-60A、制御装置は東洋電機製造ES-250A、
集電装置は菱型パンタグラフ装備、台車は東洋工機製のTK202を履いていた。
1960年(昭和35年)601号・602号車就航。
1961年(昭和36年)603号・604号車就航。
1972年(昭和47年)4月5日 全線廃止とともに広島電鉄に譲渡され、
1067mmから1435mmに対応するため台車変更、扉スイッチの変更などが行われ、
広島電鉄850形(851-854)で白島線の運行に就いたが、
1984年(昭和59年)に4両とも廃車解体となっている。

76 :
国鉄115系850番台
1975年にモハ72系の電機品を流用して造られた身延線用のモハ62形・クハ66形を
1985年に新性能化した車両。
新性能化にあたっては主電動機・主制御器を181系からの廃車発生品に交換し、
台車については電動車・制御車ともに101系のものを流用している。
ブレーキは自動空気式から電磁直通式に取り替えられ、勾配抑速発電ブレーキも取り付けられた。
空気圧縮機についても旧型車のものから101系の流用品(C-1000)2台搭載に改められ、
モハ62形の奇数番号車はモハ115形850番台になりパンタグラフは撤去された。
モハ62形の偶数番号車についてはモハ114形850番台となり、クハ66形はクハ115形850番台となった。
新性能化後は横須賀色から身延色(赤に白帯)に変更されて引き続き身延線で活躍し、
JR東海発足後の1988年から1989年にかけて、冷房改造が行われることとなったが、
国鉄時代の集中式ではなく、インバーター式の集約分散式クーラーを2台搭載する方式となった。
同時に塗装も湘南色に変更され、車番もインバーター搭載車のため5850番台に再度改番された。
JRになってからは身延線に加えて東海道本線の三島−浜松や御殿場線でも運用されるようになったが、
2000年の313系3000番台の投入により115系5850番台は真っ先に置き換えの対象となって廃車された。

77 :
JR九州819系
JR九州が投入した蓄電池併用交流近郊型電車。
817系を改造した試験車で得られたデータをもとに開発された。
編成はクモハ819形(Mc)+クハ818形(Tc)の2両編成。クハ818の床下にリチウムイオン電池が搭載されている。
電化区間での走行性能は817系に揃えられており、811系・813系・815系・817系と相互に連結して使用できる。
車内は817系2000・3000番台と共通のオールロングシート仕様となっている。また、運賃箱や整理券発行機などは準備工事のみ。
1次車(0番台)が若松線、香椎線に投入され、キハ31形・キハ40系を置き換えている。
今後は中間電動車(モハ819形)・付随車(サハ818形)を含む4両編成を関門区間に投入し415系を置き換える予定。

78 :
JR東日本253系500番台
スカイアクセス線開通に対し、JRではその対応策について
思い切って新車を導入するか、はたまた対都心高速輸送でかなわないことから
253系のリニューアルで済ませてニッチ輸送に特化するかもめていた。
その結果、前者で決定しE259系導入の運びとなったが、
一方でもめにもめた結果、E259系置き換えはスカイアクセス線開通後までもつれ込み、
253系はひとまず解体保留として管内各地に留置された。
そんな折、東日本大震災が発生し、JR東日本としても、
保険はきいたものの、例外なく経営的な損失は小さくなかった。
E259系は、一旦中断しながらも最終的に導入されることとなったが、
253系は、その性能を生かして、ダイヤ上ネックとなっていた185系の近距離特急置き換えに充当されることとなった。
(185系は波動用、もしくは妙高・くびきの置き換えに転用され、183・189系を淘汰している)
ただし、253系自体その過酷な運用から老朽化が進んでいたため、転用は最小限で行われることとなった。
転用対象は、増結時に新造された中間M車と、走行累計の比較的少ない付属編成中心となった。
(これ以外の車両は、3連2本が長野電鉄に譲渡されたほかは、部品取り用として解体された。
なお、200番台6連2本は、VVVF化を含めた大幅な改造がなされ、東武直通用に充当された)
クハ252-モハ252-モハ253-モハ252-モハ253-クロ253 6本
クモハ252-モハ253-サハ253-クハ253 9本
クハ252はクモハ252の電装解除、クハ253はクロハ253の全室普通車化でそれぞれまかなわれたが、
客室は、上記を除き荷物置き場を撤去して更地にしたほかはほぼそのままである。
そのため、従来のリクライニングシートよりも見劣りがすることから
通勤ライナーに格下げも検討されたが、18きっぷ利用客などの流入を抑えたいことから、
格安規格きっぷ発売を前提に特急のままとなった。

79 :
阪神電鉄6000系
ジェットカー(5001形・5131形・5331形)置き換え用に製造された車両。
1000系のジェットカーバージョン。
6250(Tc)-6150(M2)+6100(M1)-6000(Mc) 梅田→
(+は切り離し可能で、6150の梅田側と6100の高速神戸側には簡易運転台が装備されている)
6000系投入により、5001形・5131形・5331形は全車廃車され、ジェットカー全車VVVF化を完了した。

80 :
国鉄 クハ73 モハ76形
身延線用に72系をベースに作られたクハ62 モハ66形の大糸線型。
72系をベースにしたものとは違い、こちらは70系のモハ70 クハ76どころか
クモハ51やクハ68まで含まれている。これを115系に準じた車体にしたものである。
クハ-モハ-クハの3両編成で塗装は旧国当時と同じ青色から後に湘南色に変更された。
当初大糸線のみの予定だったが、後に全て70系を基本とした編成が新潟で作られて
これらは赤と黄色の新潟色(後に湘南色)で信越線や上越線などで使われた。
115系の量産により廃車されたが、一部は165系の発生品から新性能化されて
115系870番台に改造されている。
なお新潟地区には76形ではなく、修学旅行用の155系 159系を近郊用にした
改造車も計画されたが、作られずに終わっている。

81 :
クモハ200-0番台
JR東日本で201系を鶴見線に転用するべく先頭車化改造したもの。
クハと同一の運転台を取り付けた。
ATS-P搭載スペース確保のためMGをクハに移設している。

82 :
HB-E300形200番台
快速「リゾートビューふるさと」、「ナイトビュー姨捨」の利用が好調であることから投入された中間車。
客席は半個室となっているほか、トイレ、車内販売準備室を備える。

83 :
321系900番台
JR西日本が開発した321系のPMSM試験車。
主電動機がPMSMに変更された。

84 :
国鉄 D53形貨物用蒸気機関車
昭和25年、戦時型D52を改修する際に、牽引力増強のために3シリンダー式に改造された蒸気機関車
当初のもくろみ通り、貨物列車の牽引定数を上げることができたが、昭和30年には「もはや戦後ではない」と
経済白書が宣言し、国鉄も本格的に無煙化に着手しだすと徐々にその活動範囲は限定され、更に構造が複雑で
あったことから現場保守で嫌われ、昭和42年には全車廃車となった。
D53のトップナンバーが青梅鉄道公園で朽ち果てた姿で展示されているのは、この板の住人には周知のことであろう。

85 :
国鉄C13形タンク蒸気機関車
亜幹線及び首都圏の近郊用として開発されてC58形をタンク化したもので
昭和17年から22年までに51両が作られている。使い勝手のいいC58形がベースのために
首都圏のみならず亜幹線の普通や貨物列車用としても使われて原型のC58形をも
駆逐してしまった路線まであった。
主に房総各線や川越線や八高線などで貨客用に使われた他、東北や名古屋地区
などでも使われた。
バック運転を考慮しない設計だったが、後に入換用に改装されたものには
バック運転を考慮して石炭庫にC11形のようにした車もある。
昭和49年に二俣線で使用していた2号機が引退し、その後は新所原駅から後に
天竜二俣駅に保存され、二俣線が第三セクターの天竜浜名湖鉄道になってからも
走行可能な状態を維持して保存されていた。
2006年に天竜浜名湖鉄道は本格的に動態復元を目指すと発表し、準備が進められたが、
折しも天竜川下りの事故で計画が頓挫してしまった。
しかし動態復元への思いは天竜浜名湖鉄道から大井川鐵道へと移り、大鐵は
本格的に動態復元化に着手。
初めてのC58系機関車であったもののC58系の動態運転を手掛ける秩父鉄道から
技術要員が支援に派遣されるなど動態復元は順調に進み、2011年に復元工事を
完了し、4月29日に運転を開始した。
これまで客車5両以上の場合に補助機関車が必要だったが、C58形ベースの
この機関車は7両以上でも必要ないため、最大10両編成のド派手な
川根路号を牽引した武勇伝もある。

86 :
>>72に続く平行世界もの
◎国鉄711系2000番台電車
1978年
○1976年に長崎本線と佐世保線が交流電化されたが、旅客列車は特急以外気動車いわゆる架線下DCが顕著。
国鉄の財政悪化の影響で高価な交直流用電車の新造自体が、特急料金で償還出来る特急専用車以外は見送られたが、
会計検査院に電化の必要性を問われ、そこで交直流よりも安い交流電車で普通から急行の汎用運用可能なのを新造投入。
それは、優等料金徴収列車体系にて急行廃止・特急統合という国鉄の長期経営戦略に基づき、
車両の想定寿命中に急行運用消滅後を見据えて急行形は新造せず、後述の近郊形711系の新派生番台となった。
車種はクモハ/サハ/クハ/サロ711-2000(Mc/T/Tc/Ts)の四種。
Tsは将来の特急形への編入前提故にTs481そのもの。
車両製造と誘導障害対策の費用の抑制や新型車不信の労働組合対策により枯れた技術を採用する事となり、
0番台と異なり、サイリスタ位相制御ではなく、0系新幹線やED76と同様の低圧タップ制御とし、
1M2Tを基本ユニットとし高価な電動車の比率を下げたので、最高速度はキハ58等のDC並に割り切って
歯車比を103系等の通勤形と同じにして加速度を上げた。60Hzのみ対応。
冬期の排雪抵抗上編成中央に中間電動車を置いた0番台と異なり、編成短縮に備えクモハを用意。
TcとTsのみにトイレと洗面所を設置し且つ空気バネ台車とし、他の車種はコイルバネ。全車冷房搭載。
車両の意匠は0番台を暖地向けにしたものでユニット窓と集中式冷房装置が大きな違いで、接客設備も0番台に準じた
固定クロスシート主体で車端の乗降デッキ寄りにロングと、同時期のキハ48や50系客車とも共通項がある。
0番台とは異質過ぎるので新形式を付与すべきだが、労働組合対策で711系にされ暖地向けだから115系に倣い2000番台に。
落成後、博多と長崎・佐世保を結ぶ急行出島・弓張の一部に就役し、普通運用にも。
結局、増備されることはなく、架線下急行・普通DCは残存。
711-2000使用の急行は鉄道愛好者の一部から遜色急行と叩かれた。
82年急行の特急への吸収統合に伴い急行運用は終了し、Tsは485系に編入され、他普通列車専用に。
87年にJR九州承継後、性能上高速列車高密度路線での運用には不適切で閑散路線で専ら使用され、
後年二両編成化でTは廃車。

87 :
西日本旅客鉄道289系
特急『くろしお』に運用されていた287系だが振り子機能が搭載されないために
速度低下と所要時間が延びるなどの問題があった。
そこで『くろしお』のみならず伯備線『やくも』において使用されている381系の全車置き換えを進める目的で
283系『オーシャンアロー』以来の振り子式特急型電車として開発された、これが289系電車である。
製造担当メーカーは近車、川重、日立である。
車体は振り子式となるため283系を基調としたものとなるが素材はアルミ製である。
先頭車は287系と同じく全車貫通型となる。
走行機器は287・321・225系を基調としながらも基本編成は一両4つモーターに戻り、
6両
Mc-M-T-T-M-Tsc(基本編成0番台)
3両
Mc-M(この車両のみ2個モーター)-Tc(付属編成は100番台)
付随車や制御車においても将来電装化が容易なような構造になっている。

最高速度は130km/hである。
現在、日根野電車区と岡山電車区に配置され381系全車の置き換えと
『くろしお』に使用されている287系の福知山電車区に転出により381系と183系の置き換えを行なう。
なお283系は引き続きリニューアルを行い『くろしお』に使われる。

88 :
JR西日本283系5000番台
大阪発着の「しなの」に関してはJR東海の383系で運転を行って来たが、頻繁な
編成変えなどで大阪行きの列車に長編成が廻せない実状があった。
そこで大阪発着の「しなの」を西日本でも車両運用を担当させることにした。
当初西日本ははくたか用の683系6連を使う計画だったが、東海は383系と
同一の振り子式特急車両を求めたため、必然的にオーシャンアロー同様の
283系を導入せざるを得なくなり、しなの用は5000番台と区分けされた。
長野方先頭にクロ283を先頭とした6両で、オーシャンアローとほぼ同じ組み方となっている。
これにより大阪発着の「しなの」が西日本車両に変更された。
大阪〜長野間の停車駅も見直され、新大阪 京都 米原 岐阜 名古屋 千種
中津川 塩尻 松本 篠ノ井となり、木曽福島など木曽地方の停車駅はほぼなくなった。
6両編成4本が京都総合に配置されたが、検査時はしらさぎまたははくたか用の
683系が代走する。またはオーシャンアローの車が代走する場合もある。
なお「やくも」と「くろしお」用の381系が京都総合に廻されて来た説も噂されている。

89 :
国鉄→JR105系8900番台
国鉄が1980年代に2両一本だけ導入した105系なのだが何かが変なのである。
窓配置は103系などと同じ20m4扉配置なのだが何故か鋼製ではなくオールステンレス製コルゲート車体となっている。
前面は貫通型で高運転台なのと貫通路の上に方向幕があるのは同じだが貫通路の窓は小型になっている。
最大の注目は台車が他の105系と違いS形ミンデン式空気バネFS396・096を履いており
制御方式も抵抗制御1C4Mであることは変わりないが日立製VMCバーニア制御器となっていて
主電動機はMT55系列ではなくなぜか東洋電機製TDK-845-Bになっている。
ローカル線用としておくのは勿体無いくらい高性能である。
各種試験を行った後、日根野→神領→奈良→明石→広島→新前橋→中原→宮原などを転々とし
JR西日本に継承され現在日根野電車区和歌山派出所所属となり主に紀勢線ローカルに使用されている。

どうやら1980年頃、兵庫県の某関西私鉄系メーカーが
某関東私鉄に納入する筈だったのが注文流れになった試作ステンレス鋼体を
国鉄が次期新型通勤電車にステンレス車を導入するためのデータ取りの目的で
譲り受け鷹取工場で竣工したものであるらしい。
また鋼体を製作したメーカー関係者が漏らした言葉
「注文流れになっていて潰すのも勿体無くて始末に困っていたんだけど
まさかウチと取引のない国鉄さんが譲り受けてくれるとはねぇ・・・・・」
コイツの正体はまさかっ・・・・?!



90 :
大阪市電”札束電車”
造幣局や日銀支店横を走る大阪市電に日銀が注目して運転された現金輸送電車である。
本車両や本運転についての詳細は長年不明であったが噂は戦後ある時期からあったようである。
「写真を撮ると捕まる」などが著名な都市伝説である。
なおこの都市伝説は子供だけではなく大人の間でもあり、「上司に話すと次の日からいなくなる」「見ると運転席から警官が銃撃してきた」など地域によりバリエーションがあった。
よくある幽霊電車談等とも混合して広まったようであり、「M資金」「3億円事件」などに絡んだものも発生した。
市電全廃後は当然目撃談も無くなったはずだが、「バスになった」「地下鉄になった」など尾びれがついていったようだ。
「漫才ブームのおり、某関西芸人がネタにしたら消された」「某アナウンサーがうっかりしゃべって飛ばされた」と言われるようにもなった。
在阪テレビ局の某調査番組や某生活情報番組でもたびたび取り上げられたのだが、資料が一切無く、調査の進展はなかった。
ところが2013年交通局の書類整理に伴い資料が発見され、詳細の一部が明らかになった。
資料によると以下の通り(次スレ以降に続く)。

91 :
車両型式は20形となっており、車番は21号、22号、23号とされている。
21号は都島車庫所属、,22号は春日出車庫所属、23号は天王寺車庫所属となっている。
1949年製造。図面の日付は5月20日とあり、竣工に関する書類には9月26日とあるのでこの4ヶ月間にどこかで製造されたと思われる。
メーカーの記載はないが同時期の書類との比較や図面の文字などから近畿車輛と推察される。
製造費は日銀と大蔵省から出ており、運転費用も支払ったようである。
戦災で廃車となっていた1601形の台枠と台車、制御器を使用し、モーターは60馬力モーター2機を搭載、車体は1801型に準じたデザインで側面にはドアを含め窓のないレイアウトである。
中央のドアが現金の搬入用に1mサイズ2枚と大型化されている。
車内は運転室と荷物室内との間に壁と防弾ガラス窓のドアがある。
警備員添乗室があるが国鉄マニ30と異なり座席とテーブルのみでトイレはなく、窓もない。
屋根に通風器が通常の倍設けられ、また添乗室内に扇風機や電気ヒーターが設置されるなど窓がない分換気・室温管理には配慮していたと推測される。
色は茶色一色で目立たないようになっていたが1960年の日付が入った塗装変更案の図面が製造時図面と別にあり、当時の目撃談が同時期を境に「茶色」から「茶色とクリーム」と変化していることからも他の車両に似た2色塗装へと変更されたと推測される。
運行経路は正式な運転系統が設定されていたわけではないが、運行表が発見されており、造幣局横の桜の宮橋電停や日銀支店のある淀屋橋電停を中心に日本全国との輸送を行うため国鉄荷物扱駅に近い大阪駅前電停や湊町駅前発着の運転があった。
早朝・深夜の運転が多かった模様で、よくある幽霊電車目撃談の一因と思われる。
廃車は23号が1967年1月、残る2両は1969年3月となっている。
解体に際しては車庫内で秘密裏に行われたと思われ、解体業者との秘密を厳守する旨の覚書も発見されている。
交通局と労組との書類もあり、「乗務する運転士・車掌に特別手当」「家族も含め口外一切不可」「万一の殉職時には別途見舞金」などの交渉内容が記載されている。

92 :
D13形式 タンク機関車
戦時中に資材削減のために製造された、D51形のタンク機関車バージョン。
テンダを廃することで資材を節減し、また、貨車改造のテンダを連結することで長距離運転も可能という触れ込みだったが、
結局、テンダを付けたまま運用される事が多く、タンク機関車にした意味が全く無かった。
戦後、テンダが新造され、また他のD51形戦時型と同種の改造を受けて、D51形に編入された。

93 :
JR東日本E129系
クモヤE995形「NE Train スマート電池くん」で得られたデータをもとに製造された一般型蓄電池駆動電車。
烏山線で使用されるキハ40形を置き換えるべく投入された。
車体構造はキハE120形とほぼ共通のステンレス製拡幅車体であるが、
オールロングシートの座席配置となっているほか、走行距離が短いことからトイレは設けられていない。
蓄電池の性能向上により主要機器は全て床下に収められている。
当車両の投入に先立ち烏山線全駅に簡易Suica改札機が設置され、Suicaの利用が可能となった。
今後は八高線への投入が検討されているほか、えちごトキめき鉄道が導入に前向きな姿勢を示している。

94 :
キハE210系:
>>91のクモヤE995系改造前にキヤE991系の燃料電池車両の量産で、八高北線に導入。
先行試作車のキハE210-901/キハE211-901+キハE212-901を高崎車両センターに投入。
数年後に量産車キハE210-1〜/キハE211-1+キハE212-1〜を増備して、キハ110系を東北に転属。
キハ110系1100番台/1200番台:
キハ110系をキハE120/130同様のクリーンディーゼルにエンジン載せ替えしたもの。
1100番台(プラグドア)は、キハE200ハイブリッド車量産車投入に伴う元小海線車両を改造。
1200番台(引き戸)はキハE210燃料電池車量産車投入に伴う元八高北線車両を改造。
共に原番台+1000。

95 :
>>91じゃなくて>>93だった…。。。

96 :
国鉄11系電車0番代
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて日本国有鉄道の前身である、
鉄道省が製造した車体長17m級3扉ロングシートの旧形電車を便宜的に総称したもので、
製造当時はデハ73200形、サロ73100形、サハ73500形、クハ73600形と称し、
1928年(昭和3年)10月に施行された車両形式称号規程改正でモハ10形になり、
1930年(昭和5年)の車両形式称号規程改正で車体長17m級電車の3扉は、
形式10-19内に設定、モハ11形、サロ15形、クハ16形、サハ17形に統合され、
出生によって番代による区分が設けられ、他系列の車両と区別された。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で、クモハ11形に改められ、
1937年(昭和12年)にモハ10形、クハニ16形の形式が誕生した。
具体的にはモハ11形(001-198)、モハ13形(001-026)、サロ15形(001-008)、
クハ16形(001-084)、クハニ16形(001-004)、サハ17形(001-048)の6形式368両を指す。

97 :
モハ11形(11001-11198)
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)に鉄道省が製造した初の鋼製電車である。
本系列の基幹となる制御電動車で、1928年(昭和3年)までの4年間に198両が製造された。
落成時の形式はデハ73200形で、1928年(昭和3年)の改正でモハ10形、
1930年(昭和5年)二回の改正でモハ11形0番代となった。
前面を平妻の非貫通としたことから運転台の機器配置が余裕が有り、
側面窓配置はd1D22D22D2、屋根の構造のみ、従来の木造二重屋根だが、
ドアエンジンが全面的に採用された。パンタグラフは運転室側の屋根に搭載、
主電動機はMT15形、制御器は電磁空気カム軸式のCS5形、
台車はDT11、奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
モハ13形(13001-13026)
1932年(昭和7年)度末から1933年(昭和8年)にかけて、東京地区で使用された、
モハ11形の付属編成として13001-13026が製造され、両前面は平妻の非貫通、
窓配置はd1D22D22D1dで、全車パンタグラフは上り向き運転室側に設置されている。
サロ15形(15001-15008)
二等付随車サロ73100形で、1926年(大正15年)度に4両を製造、
および1928年(昭和3年)度に4両の計8両が京浜線用に製造された。
車端部と戸袋部がロングシートである以外は、ボックスシートとなっており、
天井には他に例のない優雅な装飾が施されていた。窓配置は2D22222D2で台車はTR21。

98 :
クハ16形(16001-16020)
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて鉄道省初の制御付随車で、
落成時の形式はクハ73600形、1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)の、
2年間に20両を製造、1928年(昭和3年)の改正でクハ16形となり、
1930年(昭和5年)の改正でクハ16形0番代になった。側面窓配置はd1D22D22D2である。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
クハ16形(16017-16084)
1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて鉄道省で製造された、
クモハ11形を1947年(昭和22年)に59両、電装解除、制御車化した。
奇数番号車は上り向き、偶数番号車は下り向きである。
後年もパンタ台は残されたままだった。
サハ17形(17001-17048)
三等付随車で、1925年(大正14年)度から1927年(昭和2年)度までの3年間に、
計48両が製造、1928年(昭和3年)改番以前の形式はサハ73500形と称した。
形態的にはデハ73200形から運転台を廃した構造で、窓配置は2D22D22D2、
台車はTR23を採用した。
1936年(昭和11年)の車両形式称号規程改正で中間電動車がモハ、
制御電動車はクモハに改称、モハ11形もクモハ11形に改称される。

99 :
モハ11形の中間電動車改造
1936年(昭和11年)3月31日に鉄道省初の中間電動車モハ50形が誕生、
同年7月5日には40系にも中間電動車が製造されたことで、
鉄道省は各路線の長編成化、存続車輌も50系や40系に倣った中間電動車改造を計画、
翌年から東京圏の京浜線と山手線、中央線の長編成化用に間に合わすため、
クモハ11形30両を中間電動車に改造、同時に全車の更新修繕工事も実施され、
二重屋根から鋼製の丸屋根化され、妻面は丸屋根に合わせた切妻型とされ、
連結面妻部に窓は設置されていなかったが、夏季の換気対策として、
貫通路の両側に開閉可能な窓を設置する改造が大井工場、大宮工場で行なわれた。
改造後は一旦クモハ11形に編入されたが、すぐに本形式モハ10形0番代になっている。
奇数向き15両、偶数向き15両が改造された。
特別修繕工事
1936年(昭和11年)から1939年(昭和14年)の4年間にかけて、
モハ10形の改造と同時に全車の更新修繕工事を実施、
二重屋根の丸屋根化と妻面の切妻工事で外観が大きく変貌した。

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