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2013年08月歴史ゲーム65: 信長の野望・創造 13作目 (972)
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信長の野望・創造 13作目
- 1 :2013/08/02 〜 最終レス :2013/08/08
- ◆信長の野望 創造 公式HP
ttp://www.gamecity.ne.jp/souzou/
対応機種:プレイステーション3/Windows
発売日:2013年予定
価格:未定
■前スレ
信長の野望・創造 12作目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1375220084/
◆お約束
●織田sage禁止
●羽柴sage禁止
●北条sage禁止
●北条age禁止
●徳川age禁止
●武田age禁止
●上杉age禁止
●里見age禁止
※武将や大名の史実能力談義や過大過小ネタは別スレで
※長文は禁止
※sage進行(メール欄に半角小文字で sage を入れる)
※守れない人は書き込まない
●次スレはお約束を守っている>>950が建てる 立てられない場合はレス番を指定
- 2 :
- ■関連スレ
・妄想的な要望
【改善】信長の野望・妄想スレ【要望】
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1371106443/
・能力評価
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/
信長の野望、過大過小武将スレ 移転のお知らせ
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1348090906/
・荒らし専用隔離スレ
信長の野望・創造 12作目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1375188250/
- 3 :
- ■創造公式facebook
ttps://www.facebook.com/nobunagasouzou
■創造公式Twitter
ttps://twitter.com/nobunaga_souzou
ttp://news.dengeki.com/elem/000/000/637/637980/c20130514_nobunaga_03_cs1w1_1216x684.jpg
ttp://news.dengeki.com/elem/000/000/637/637981/c20130514_nobunaga_04_cs1w1_1216x684.jpg
ttp://news.dengeki.com/elem/000/000/637/637982/c20130514_nobunaga_05_cs1w1_1280x720.jpg
ttp://news.dengeki.com/elem/000/000/637/637983/c20130514_nobunaga_06_cs1w1_1280x720.jpg
ttp://www.4gamer.net/games/215/G021583/20130514027/TN/006.jpg
ttp://www.4gamer.net/games/215/G021583/20130514027/TN/007.jpg
ttp://www.gamecity.ne.jp/souzou/images/main-illust.jpg
最新作 『信長の野望・創造』 発表会映像 2013/5/14
ttp://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=GNqkebOCC_4
「信長の野望・創造」最新スクリーンショットが到着。シリーズ初の「フリークエストシステム」とは 2013/08/02 18:17
ttp://www.4gamer.net/games/215/G021583/20130802066/
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- 4 :
- テンプレ以上
- 5 :
- 登場する城の一覧は出た?
- 6 :
- 長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。
天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。
9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康をRことにそれほど悩んでいたようにも思えない。
- 7 :
- 天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
- 8 :
- 永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
- 9 :
- 信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
- 10 :
- 謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。
御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて
織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから
毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊し
その影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)
明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし
(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)
再度崩壊するから織田は詰むよ。
- 11 :
- あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
- 12 :
- 上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
- 13 :
- 長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。
天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。
9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康をRことにそれほど悩んでいたようにも思えない。
- 14 :
- 玄より遥かに劣る勝頼でも、信長よりは遥かに戦上手。
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
- 15 :
- 甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
- 16 :
- これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田
- 17 :
- こいつが規制食らわずに、いったいどんだけえげつないコピペなら規制になるんだろ。
- 18 :
- 最初こいつはネトウヨみたいなタイプかと思ったんだが違うな
こいつのテリトリーを侵してヒステリー起こすなら分かるが、わざわざついて来やがるw
基地外とか病気以前に犯罪だろ
- 19 :
- >>1乙
荒らしって要するに反原発デモやってる連中とか反捕鯨のシーシェパードの連中と同じって事だよ
安全な場所で目立ちたい脳だから無視が一番さ
- 20 :
- じじいの家康は強くてもいいと思うが若いころの家康が強いのは勘弁してほしい
- 21 :
- 私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである
- 22 :
- このスレ、キチガイしかいねぇwwwwwwwww
- 23 :
- 武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
- 24 :
- 信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
- 25 :
- 兵科がどれだけあるのかが気になる。
有名どころの大名家の固有兵科のほかに
諸勢力を支配下に置くと特殊兵科が編成できるようにならないかな。
- 26 :
- 濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
- 27 :
- このキチガイなんとかしろよ
- 28 :
- >>25
足軽鉄砲騎馬だけっぽくね
- 29 :
- >>28
終盤の切り札になる砲兵が欲しいなあ
- 30 :
- なんも悪いことしてない俺のスマホは延々規制なのに
気狂いは放置
- 31 :
- 関ヶ原・大坂の陣シナリオで砲兵追加はありだな
他のシナリオでは大友家の固有兵科にしてさ
- 32 :
- ゲーム情報サイトに久々に情報載ったから来たけど
コーエーになにがあった?
- 33 :
- 確かに。
比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのかが非常に不可思議。
そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw
まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな
光秀に殺されて死んだのが信長
結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが
- 34 :
- >>32
無能を切ってまともなPを起用した。
- 35 :
- 信長嫌いの嵐消えろ
- 36 :
- 武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし
家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw
- 37 :
- >>33
ダントツ=断然トップ
ダントツトップ=ダントツトップトップ
- 38 :
- そこらじゅうにコピペ貼ってる奴って同一人物なん?
邪魔で仕方ない。
レポートにまとめてそっち系の学会かなんかに発表してきなよ。
- 39 :
- >>しかも信長が出てくるや本格的な衝突すらできずに挙句信長の息子にすらビビッて重臣秋山を見殺しw
信長が勝頼との衝突恐れまくって家康への援軍ださなかったり明智城攻防でも見殺し、東美濃も見殺しにして分捕られただけじゃん
しかも信忠は数万の大軍で数千そこそこで後詰なしの岩村に全く歯がたたず半年かかっても全く自力では落とせず騙まし討ちにするのがやっとw
>>冷静に考えて今川氏真や諏訪頼重みたいな弱小勢力しか潰せなかった信玄が
8万の大軍を8000で大破できる北条氏康に勝った。三増峠で北条の大軍撃破して駿河奪取
織田を瞬殺した謙信にも負けず信濃や上野きり取った。自国の2倍もある信濃を長尾や両上杉が援軍派遣してくる状況で切り取った
山之内上杉の大軍を数千で大破した。信長から東美濃攻防や上村合戦で大勝して東美濃きり取った
信長より遥かに戦上手の家康+織田家で最も大身の佐久間と武闘派滝川や平手林水野など総勢20000はいるであろう織田徳川連合を瞬殺した
一方の織田は幼君で分裂・混乱状態の斉藤に負けまくり内訌で分裂の北畠にまけまくり自国の20分の1くらいであろう浅井に押されまくり
餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちかけて一門10以上殺される雑魚w
火事場泥棒で領土広げたはいいが、所詮実力ではないので光秀に簡単に滅ぼされましたとさw
>>斎藤龍興 →美濃60万石
美濃54万石だし幼君で分裂状態で大して抗戦もせず降っただけだから実質15万石くらいじゃね
頑強に排除されていた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ
何せ国内でクーデターが起きるくらい極度に弱体化してたし東美濃でも西美濃三人衆でも抗戦せずに降ったしむしろ
その前には蹴散らされまくってるし
>>朝倉義景 →越前60万石
越前は54万石くらいじゃん。しかも信玄在世中は250万石もありながら浅井朝倉連合に押されまくり滅亡寸前の大ピンチwwww
結局信玄死んで朝倉方からボロボロ寝返りが出て勝てただけだしそうでなきゃ一生近江戦線で立ち往生してたのが信長。
>>三好義継 →阿波讃岐摂津に約50万石
分裂して統制が取れずバラバラ。しかも摂津阿波讃岐全土を安定して持ってたわけじゃなく浅井朝倉和賀甲賀衆などがこぞって参陣した
完全にお膳立ての上洛戦に敗れて後は残党が決起してただけ
>>北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
木造の内訌で分裂してたし神戸家長野家などの内訌につけこんで信長が信雄信孝信包など送り込んで火事場泥棒しただけ。
しかも寡兵の北畠に対し大河内城攻めで大敗し将がこぞって戦死の大敗www
>>六角義賢(+浅井長政) →足して近江ほぼ全域60万石
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化。浅井の参戦を受けて一目散に逃げただけ
>>武田勝頼 →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石
甲江和与反故の騙まし討ちと運悪くおきた浅間山噴火と対北条徳川戦の疲弊と新府築城の失政自爆で
寝返りだらけになっただけ。火事場泥棒みたいなもん
- 40 :
- 長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
- 41 :
- むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。勝頼も織田は手段を失い困っているから一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。籠城する織田の相手をするのもアホらしいから撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるがそもそもそこ落とされても背後は取れないし、さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからでまったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。織田は野戦の大敗が
たたって25000のうち6000討死だもんな。徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方に6000もの損害あたんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から冷静さを欠いた基地外勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想 わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
- 42 :
- 勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
- 43 :
- 三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
- 44 :
- 武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
- 45 :
- 長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
- 46 :
- むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。勝頼も織田は手段を失い困っているから一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。籠城する織田の相手をするのもアホらしいから撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるがそもそもそこ落とされても背後は取れないし、さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからでまったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。織田は野戦の大敗が
たたって25000のうち6000討死だもんな。徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方に6000もの損害あたんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる
これらの事実から冷静さを欠いた基地外勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく
家臣の連中がどうだったとかどうとかはただの妄想 わかるのは譜代衆は皆命を賭して戦ったという事だけ
- 47 :
- 信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
- 48 :
- 最大石高なんて自国の周辺国が弱体化・分裂してたり自国の国力に比べて弱小かどうかってだけの話じゃん
なんで比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのか意味不明
そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw
まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな
領土の広さってそれ程関係ないんだよ
カナダやカザフスタンは日本より広いけどどっちも大したことない
戦国時代も同じで例えば毛利輝元や大友宗麟や大内義隆や豊臣秀吉や織田信長や北条氏康は広かったけど弱かった
相馬なんか伊達の5分の1程度の領土で半世紀も互角に戦ったし
田村清顕なんて周辺諸大名がこぞって敵対する状況ですら敢闘して撃退してる。
織田や北条や豊臣や毛利は領土広くても将が無能だから里見や信雄や宇喜多や浅井朝倉武田などに翻弄されたし
信長なんか北畠に大河内城で撃退されたり一揆勢相手に餓死寸前のところを数万の大軍で騙まし討ちにして一門10人以上殺されたりしたわけ。
織田みたいな光秀ごときに滅ぼされた雑魚大名と自国の2倍もある信濃を切り取ったり
大国北条今川連合に打ち勝って駿河とったり織田徳川連合に打ち勝って東美濃三河遠州を多く奪った
徳川時代軍学でも最強とされた大名を比較する事自体が間違い。
織田と比べるなら大友宗麟・伊達政宗・北条氏康・長宗我部元親あたりがちょうどいい。
それでも戦闘でいえばダントツで信長が最下位だろうけど
光秀に殺されて死んだ信長w
最貧国甲斐から上杉北条織田徳川など国力に勝る相手に領土切り取りまくり150万石まで広げた信玄w
結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが
- 49 :
- お前はあたかも長篠後に岩村城攻めを開始したように書いてるが実際は岩村城がいつから攻められてるのか不明。
勝頼も支戦を前に美濃での本戦に備えて遠藤らに下見をさせてるくらい。
また謙信は東美濃なんてヘボいところではなく、山崎を使者に信濃攻めを要求してる。岩村なんてザコ城はすぐ攻略出来ると謙信は認識しとるんだろ。
勝頼は岩村は秋山が籠城してるから当分は大丈夫と判断し、徳川攻撃に出撃中。つうかそもそもそっち方面は木曾氏担当戦線だし。
結局、秋山を講話話で騙して落としただけ。さらに約束破りに激怒した謙信は以後、信長無視して書状往来拒絶。
だから信長は村上なんざに旧領を回復するチャンスですよって意味不明の書状を出さざるを負えなかった。
謙信はかなり激怒したらしく天正4年に入るや山崎を加賀一向宗に派遣し本願寺と和睦し織田と絶縁してるわけだから勝頼の岩村遅滞作戦は成功し上杉と織田の中を破綻させ、
逆に信長は謙信を恐れて勝頼に和睦を提案したが勝頼に拒絶され何時の間にか足利将軍の大包囲が完成してしまう始末
勝頼は長篠の戦いにおいて信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり
(書けない?)朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだがそれすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取りその勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
- 50 :
- 岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で
新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり
延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
- 51 :
- 元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
さて、じゃあ推移を説明しようか。
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
- 52 :
- 甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
- 53 :
- 「備」がある意味諸兵科連合みたいな感じだからな。西洋と軍制違うよね。
- 54 :
- 信長の野望・創造 12作目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1375188250/
なんで自分の立てたスレがあるのにそこでやらないんだ
- 55 :
- 人いないから
または
スレ潰し
- 56 :
- 4亀きてたのー!?
画像良く見たら津島や熱田と思われる集落あるな
どういう位置づけなのかしらん
- 57 :
- ちょ長文がすごい(汗)
- 58 :
- たとえ嘘でも、大きな声で言い続ければ、本当になると思ってる人達がいる
- 59 :
- 非常に細かい戦略もできそうな感じ
http://www.4gamer.net/games/215/G021583/20130802066/SS/017.jpg
- 60 :
- でもまだ安心はできんな
鉄砲がマシンガンだったり
兵士が蒸発する仕様だったり
魔法合戦だったりするかもしれんからな
- 61 :
- 前スレが書き込み出来なくなってる
もうこれは長文荒らしを容量埋めで通報できるな
- 62 :
- スレの半分近くあぼーんだわ
- 63 :
- なんか情報出たらしいから来て見たら数ヶ月前からずっとこの状況だったのか
見なくて良かったわw
- 64 :
- 10年も荒らしてるって蒼天録が出てからずっとやってんのかコイツ
- 65 :
- 前作、前々作はゆゆうのスルーだったが今回は
ちょっとというかかなり気になるなw
城の数がどうなるのか・・・・
- 66 :
- 烈風伝以来14年ぶり発売日に購入するか
- 67 :
- シナリオが気になる。
蒼天録なみの古いシナリオがあって武将数が多ければ買う。
できれば、太田道灌が登場する年代の応仁の乱まで希望。
- 68 :
- おはようさん。
創造の戦闘はゴチャキャラバトルなのかね?
今日のNG
ID:rnBztJoO ttp://hissi.org/read.php/gamehis/20130803/cm5CenRKb08.html
ID:vxiSBWlo ttp://hissi.org/read.php/gamehis/20130803/dnhpU0JXbG8.html
ID:o3oMNYn5 ttp://hissi.org/read.php/gamehis/20130803/bzNvTU5ZbjU.html
ID:JFfWOU6k ttp://hissi.org/read.php/gamehis/20130803/SkZmV09VNms.html
ID:eAeUxLL0 ttp://hissi.org/read.php/gamehis/20130803/ZUFlVXhMTDA.html
- 69 :
- フリークエストってのは最近のパラドゲーにある
ディシジョンシステムみたいな感じなのかね
ユーザー側でMOD感覚でいじられるようになってるといいんだけど
- 70 :
- ちょっと期待しちゃうぞ
- 71 :
- 城数300以上か
佐渡に羽茂城とか対馬に金石城とかあって渡海作戦できるレベル?
- 72 :
- ちょ、誰か通報の仕方教えてくれ。まじで俺も通報するわ。ありえんわ此奴
- 73 :
- 【単独スレ】スクリプト・コピペ報告スレッド255【全板共通】
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1373467456/
じゃあないの?
- 74 :
- >>73
誠に有り難うございます(*u_u*)ペコ
- 75 :
- >>58
何が嘘なんだよw
実際に織田や豊臣は戦に負け続けて光秀や家康に滅ぼされただろうがボケェwwwwwww
- 76 :
- 信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしな
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
- 77 :
- 信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
- 78 :
- 順調に開発進んでる感じだな
でも相変わらず、2013年発売か・・・・・
多少延期しても良いから発売日発表はよ!
- 79 :
- 信長は最終的に光秀に殺されて負けたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
秀吉も織田家を一時火事場ドロして勢力広げたけど結局徳川に大敗して滅ぼされたし
- 80 :
- 武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし
家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw
- 81 :
- 弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw
これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる
はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
- 82 :
- 軍と軍が対峙したら
すぐに戦闘じゃなくて睨み合う場面を作って欲しい
あとぶつかり合うまで相手の陣形、兵構成はわからないようにしてくれ
- 83 :
- ゲーム版にこんなこと書いても相手にされないよ。
信長の野望はゲームであって、ユーザーはそれを知っててやってるんだから。
何を主張したいのか知らないけど、日本人の歴史認識を変えたいなら、歴史学者に喧嘩でも売ればいい。
多分、主張が主観的すぎて相手にされないと思うけど
- 84 :
- >>82
テンポ悪くなるから繰り返すうちにストレスたまる原因になるだけ
後者はまあいいかもしれんが
- 85 :
- 【小笠原P】各媒体で公開された情報について、わかりにくい点などありましたら、可能な範囲で補足したいと思いますので、
ツイートしてお知らせいただければと思います。
信玄公礼賛コピペ中毒がウザいこのスレより、公式で応えてくれる
可能性があるのだから、創造に期待するなら、みんな、ツイートしてみたら?
発売前に13作目の板なんて...コピペ中毒がなければ半分以下でしょ。
- 86 :
- >>82
HOIシリーズとかのいわゆる戦場の霧が近いんだろうけど
導入はされなそう
- 87 :
- 信長や秀吉より戦下手な武将ってなかなかいないだろうな
信長は餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺され
秀吉は大友や宇喜多に蹴散らされまくった雑魚毛利に上月防衛を目的として行われた
熊見川合戦でガチンコ大敗し3000人殺され135000の大軍でわずか16000〜17000の雑魚信雄に1万人殺されるアホっぷり
この二人に勝てる武将なんてそうそういないわ
- 88 :
- 史実では信長は斉藤戦に8回くらい負けまくり6回も7回も落城しまくった岐阜城に苦戦したり
滋賀の陣や長島討伐や大河内城攻めで規格外の大軍でハナクソみたいな国力の相手に家臣をぶち殺されまくったからな
一時 斉藤北畠六角足利三好など周辺国が弱りきってた所を棚ボタ的に勢力広げたけど結局光秀に殺されて滅んだだけだし
- 89 :
- 信玄公礼賛コピペ中毒に強く言いたい。
発売後にこのスレにゲームに関係ない長文礼賛文を書き込むことは、今以上の反感
を買うぞ。
ゲームの交流・情報交換をしたくてみんなここに来るんだ。お前が無意味に書き込むと
スレが消費されて、交流が阻害される。
- 90 :
- 信長の斉藤攻略とか長島侵攻戦とか滋賀の陣とか大河内城攻めとか秀吉の熊見川とか小牧長久手とか小田原征伐とか
惨めな敗戦もちゃんとゲームで再現されるといいなぁ
そのためには信長や秀吉や豊臣家臣団の能力を大幅下げしないとな
- 91 :
- >>90
確かにな
信玄120
勝頼100
信長は上のコピペみればわかるけど勝頼や家康より遥かに弱いし秀吉は直接対決で雑魚輝元や信雄に蹴散らされたから
さらに大きく下げるべきだな
信長60
信雄20
秀吉12
こんなもんかな
- 92 :
- 信長や秀吉が現代で異常に過大評価されるのは司馬小説と徳川時代の講談の影響だろ
一時弱体化しきった六角やバラバラの三好や足利将軍家などがら空き状態だった畿内を棚ボタ的に火事場ドロしただけなのに
アホみたいに持ち上げまくるから現代での適正な評価を妨げてるというだけ
- 93 :
- >>92
確かにな
結果で見りゃ信長は光秀に負けて殺されただけだし秀吉も徳川や信雄に大敗して滅ぼされただけなのに
一時動乱の影響で疲弊しきった畿内を先代からの異常な遺産で棚ボタ的に奪っただけでアホみたいに過大評価されてるからね
- 94 :
- 織田家は先代から朝廷とのつきあいがかなり凄くて献金額はダントツトップだったくらいだしね
足利義昭が信長を頼ってきたのも半ば必然といえるし、斉藤が幼君でクーデター騒ぎまで起きる始末で
ろくに抗戦する者もいなく降伏ばかりだった上に浅井や和田ら甲賀衆が斉藤攻めに援軍覇権してくるし
美濃制圧後の上洛でも浅井や徳川に加えて近江衆山城衆や丹波・丹後・大和の諸将まで織田方で参陣するほど
信長の上洛はお膳立てされてできた棚ボタだったし、その後も信玄・謙信・直正ら名将が次々に病死し、武田・上杉・毛利を始とする大名家は
国内での内乱や内紛、離反、他の敵との対戦などで悩まされ対織田戦どころじゃなかったし
逆に信玄生きてる間は浅井朝倉などに滅亡寸前まで追い込まれてるし
この辺をどううまくゲームにできるかだね
- 95 :
- 公式情報が来なくて話すことが何も無かった時ならともかく
新情報が来て皆楽しみに盛り上がって話したいときぐらいマジ空気読めと思う。
その精神障害を哀れに思う気持ちよりも心底邪魔で憎いとしか思われてないよ今は。
てか早く規制されてくれこいつ。
- 96 :
- >>84
そうじゃないですよ
睨み合いは城攻めで言えば包囲と一緒
士気の低下がきつい
「罵声」や「矢掛け」などの相手の士気低下を誘う戦略を充実させればおk
それと突撃命令はする側の方が危険なんです
伏兵がいるかもしれないし守備陣形にハマれば囲まれて頓死
一番典型的なのは「空城の計」てやつですが
ハマれば一気に総崩れになります
逆に伏兵や計略の準備をしてても
相手が突撃してこなければ焦らされて
士気は大幅に下がります
その辺の駆け引きがあってもいいんじゃないかなと思ったんです
- 97 :
- そう言うのって魔法だなんだ言われて叩かれそう
- 98 :
- >>96
意見を否定するわけじゃないが、あなたの話は戦略じゃなくて戦術というんだと思う。
- 99 :
- 町並みのズームアップが中途半端なのが怪しいな
天下創世のように川のせせらぎが聞こえたり釣り人に話しかけたり城を増築してる連中に
話しかけたりできないとつまらないな
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