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2013年08月日本史122: 日本国は倭国の別種なのか (109)
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日本国は倭国の別種なのか
1 :2013/04/21 〜 最終レス :2013/07/17 旧唐書日本伝 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。 あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。 この謎を考えてみよう。
2 : 隋書倭国伝と日本書紀を読むと、同じ国とは思えない。
3 : 倭国は「日本」に吸収された
4 : 倭国は滅びたが倭人は残った。 そして中世の倭寇につながる。
5 : 日本は倭国に附庸していた東の倭種。
6 : は?
7 : ほ?
8 : 田母神俊雄「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」 なんかおかしくない? 「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは日本だ!」ではなくて 「駅などの中国語、韓国語表示を止めろ!ここは倭国だ!」でないと 意味が通じない。 もともと「日本」と云う言葉は半島の人が最初に云い始めた言葉。 日本列島には「倭国」と云う別の国の名前がありました。 田母神俊雄氏にはこれからは「日本」では無くて 「倭国」で発言して欲しい。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド
9 : 倭国=近江王朝まで 日本=天武朝以降かなあ。 壬申の乱は実は明治維新以上の革命で、 日本書記つうのは、ほとんどその弁明のために 書かれているかも。
10 : 白村江で九州倭国は滅びた。 天智の日本が後を継いだのだろう。
11 : >>1 二番目が正解というだけの話。たいした話じゃないよ。 「倭国」から「日本」へ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD
12 : 7世紀後半から8世紀前半に国号、年号も含め、 大きな変化が起こっている。 ここで政権が変わった可能性は高い。 ちなみに、最古の木簡は太宰府の周辺で発見されている。
13 : 最後の倭王は筑紫君薩夜麻。
14 : 大倭国とはいわゆる出雲国デハ? 「日本」の語の初出は確か、、ニギハヤヒ大王(この時点では即位前でオオトシ?)が生駒信貴山系を越え奈良盆地に無血入城する際に云々。 ところで、大国主神/大己貴命の数多ある別称号に「所造天下大神」と言うのがありますが、 ここでイザナギ大神(尊)の別称号に確か、天下修理固成(あめがしたつくりかためなしし)大神 意味するところが殆ど同じなのが気になる年頃。
15 : わかりやすく言えば大和朝廷の「倭国」が、日本列島内の別の小国であった「日本国」を併合し その名前が気に入った為、大和朝廷の「倭国」が改名して「日本国」を名乗ったって事でしょ。
16 : トンキンがまた変なことを言い始めた 歴史コンプレックスは創作で補うてか
17 : 旧唐書日本伝の説明は混乱しているように見えるが、すべて正しいと言える。 九州の倭国と本州の日本(日下・天下)は本来は別の国だったが、唐初から 670年まで、日本が「倭国」を名乗って唐に遣使していた時期があった。 この時期だけで見れば、倭国が日本国と改名したという説明も正しい。 また白村江で旧倭国が滅びた後、その地を合併したという説明も正しい。 通訳がうまくいかずに断片的に伝わったため、説明が矛盾していると取られたと思われる。
18 : 隋書倭国伝と推古紀の日中通交で共通するのは以下の2点のみ。 @通交の年代はともに607〜608年 A隋使の名前は裴世清 (隋書で裴清とするのは唐の太宗李世民の名前を避けたもの) しかし@は、書紀の年代は天智紀でも疑わしい記事があることを考慮する必要がある。 Aも、裴世清が一度しか列島に来ていないという証拠は無い。 これに比べて、相違点はあまりにも多い。 @隋と唐 書紀では小野妹子は隋ではなく唐に派遣されている。 A倭王と倭皇 隋書は倭王とするが、書紀で唐帝は推古天皇を「倭皇」と呼んでいる。 B倭王の性別 隋書は倭王の字を「多利思北孤」とし、明らかに男性と見られる。 そこで推古女帝ではなく、聖徳太子や蘇我馬子を指すとする説があるが、 書紀の記事では皇太子でも大臣でもなく、推古天皇が前面に立っている。 また隋書では、倭王には太子が(別に)いたとある。 C裴世清の身分 隋書は文林郎、書紀は鴻臚寺の掌客とし、明らかに異なる。 D国書の有無 隋書の裴清は「宣諭」したのみだが、書紀の裴世清は国書を持参している。
19 : これは良スレ
20 : 倭とは朝鮮半島の南の倭系部族国家の総称じゃないかと思う。
21 : >>20 魏志倭人伝を十回嫁アホ
22 : シナ人によれば倭人っていうのはチビで背骨の曲がった人間という意味らしい 倭なんて名乗るの止めてこれからは日本人って名乗ろうぜ
23 : 九州王朝分派「倭国」(大海皇子)が、日本列島内の畿内の小国を支配し(671年)、 その名前が気に入った為、九州王朝分派畿内「倭国」が改名して「日本国」を名乗った。 その後畿内の「日本国」は、九州王朝本流「倭國」を695年から700年の 延べ7年がかりで征服支配した。
24 : >>23 の訂正 九州王朝分派「倭國」(大海皇子)が、日本列島内の畿内の小国を支配し(671年)、 その名前が気に入った為、九州王朝分派畿内「倭國」を改名して「日本國」を名乗った。 その後畿内の「日本國」は、九州王朝本流「倭國」を695年から700年の 延べ6年がかりで征服支配した。
25 : 日本、日の本(下)の国の謂われはたしか、、 曰わく、ニギハヤヒ(この時点ではオオトシ)が率いる軍団の強力無比な軍事力を背景にしたパワー外交(いきなり軍事侵攻はせず、先ずは外交官を派遣して利害得失を説いて恭順し服属するよう説いて、受け入れれば吉。もし反抗し防戦するなら完膚無きまでに殲滅する戦略)の結果、 奈良盆地の某勢力(王権)がニギハヤヒ側の折衝案を呑んで全面降伏。 それを承けて河内国から生駒信貴山系(斑鳩峰。場所不祥)を越え無血入城するさいに奈良盆地の素晴らしい光景を見て日の本の国云々と感嘆した事による。 とか、、
26 : 上下エジプト合体で倭?
27 : 旧唐書日本伝 @ 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。 A あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 B あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。 @ABはすべて合理的に同時成立する。 謎は何も無い。 「倭国の別種」とは「倭国の分種」である。・・・説明終了
28 : >>22 ねーよw 倭人がちびなんてどこにも書いてない 倭とは曲がりくねって遠いとかスゴイとかの意味がある 朝鮮人は漢字無知の低脳なので理解出来ない
29 : 大和朝廷の「倭国」が九州の小国「日本国(日の国)」を併合し その名前を気に入って自ら「日本国」と名乗ったのでは。
30 : 古い時代だと何をするにも人力になっちゃうんで、人口がほぼ国力なんですね。 だから百済とか新羅とか、いくつもの国々に分かれた状態の朝鮮から見たら、倭国は大国ってことに 広開土王碑など海外の史料に出てくる「倭」を、倭寇的なものだとか九州あたりの地方勢力とか見るのも、違うと思うんです。 高句麗の正規軍に対抗する兵力を動員できるのは、巨大古墳を継続的に造営する動員力が証明されている、ヤマトを中心とした王権と見るのが一番いい
31 : 日本中央って国が東北にあったという伝説。
32 : 今も日本国という山が山形と新潟の県境に 日本国という地名が山形の鶴岡に有るぞ
33 : 小国とは金官加羅のこと。 小国金官加羅が倭国を併合した。 ただし金官加羅が日本なのではない。 「現在日本と称している国は小さな金官加羅がもとになっている」の意。
34 : >>30 普通に考えれば そういう結論しかないんだけど いまだに九州王朝とか言う人がいるからねw
35 : >>30 国力がものを言うのはむしろ国民国家が総力戦を行う近代のこと。 古い時代においては総人口よりも戦闘技術がものを言う。 満洲族の一群が明国を倒した例を見ればわかる。 広開土王戦争のときは徒歩戦から騎馬戦に変わる変革期にあったから そのことがあてはまる。
36 : >>34 広開土王と九州王朝とは時代が異なる。 九州王朝の時代は、517年〜700年である。
37 : >>35 清が中原へ入ったのは明が滅亡した後 それくらい常識
38 : >>37 厳密に言えばそうだな。では「明国を倒した」を「中国を征服した」と 言い換えよう。 その他にもいくらでも例はある。モンゴルの征服事業だって巨大な人口によって なされたわけではない。
39 : >>38 厳密?何処が?凄く大雑把な話だよww 清は、明の復興を掲げて、明から独立した軍閥と戦った モンゴルなどの遊牧民は人口の1/3が兵士で 兵力は人口に比して巨大 モンゴル帝国の動員数は分裂していた中東諸王国や 欧州の雑魚国家群と比べ文字通り桁が違う程巨大
40 : モンゴル兵力の強力さは、その移動速度と兵站能力に負う所にある。 一千のモンゴル兵は五万の他国兵に匹敵する。 又、モンゴル兵は、武器(弓)も強力で接近戦を必要としなかった。 現代戦で言えば、砂漠の戦車と誘導ミサイルの戦い。モンゴルがミサイル。 女性子供を除く男性は全員兵士であるから人口の40%は兵士である。
41 : モンゴル帝国は中核部族や身分の高い兵士が 槍や刀を持つ重装備の突撃騎兵だったのだがw
42 : 実際、あんなでかい古墳をポコポコ作れるのって、すごい動員力
43 : 槍や刀を持ち甲冑に身を固めた重装備の突撃騎兵はヨーロッパの騎兵。 モンゴル騎兵は軽量軽装備に強力な短弓。
44 : モンゴル帝国の重騎兵は案外知られてませんね 学校教育で元寇のときに短弓を強調されるきらいがあるからかな 軽騎兵で釣って、伏兵の重騎兵で突撃するのがモンゴル帝国の戦術
45 : >>40 >モンゴルなどの遊牧民は人口の1/3が兵士で兵力は人口に比して巨大 全くその通り。モンゴルは国民皆兵制度に近かったから、人口に比して戦力が 大きかった。 戦力は人口のみによらない、という私の主張に賛成してくれて有り難う。 >>44 >軽騎兵で釣って、伏兵の重騎兵で突撃するのがモンゴル帝国の戦術 そうだね。カルカ川の戦いもそのように戦われた。 ただし最初からそうだったのではない。遠征の途中で他民族から学んで 重騎兵を取り入れた。
46 : モンゴル騎兵一名につき、兵站部には馬5〜6頭いた。 兵站部ぐるみの全部隊の移動速度は一日千里(70km)。 モンゴル騎兵は数十kmも離れた所から波状攻撃を何回も繰り返すことをしたのである。 強大な敵にたいしては、軽装騎兵の波状攻撃による敵の疲弊をまって、 彼ら自身が重装騎兵と変身し、敵の陣営に止めをさしたのである。 ここで重要なのは、波状攻撃用の代え馬と打撃エネルギーの大きな弓矢。
47 : モンゴルスレに帰れ。
48 : >>46 軽騎兵は1人3頭、重騎兵は1人5頭が定め >>45 蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよww
49 : 兵站の馬が3頭では長距離遠征は不可能。 馬3頭体制は本拠地近隣の部族(邑)との戦闘体制だ。 本拠地(遠征先放牧地域等)から千里(70km)を超える遠征では、馬3頭の兵站では無理。
50 : >>49 誰もオマエの低劣浅薄な思い込みなぞ聞いて無い 事実は事実として受け容れろ
51 : >>50 >軽騎兵は1人3頭、重騎兵は1人5頭が定め >蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよ 上記は資料の間違い解釈 近距離弱小敵に対して侵略の場合では兵站体制が馬3頭 遠距離巨大敵に対して遠征の場合では兵站体制が馬5頭
52 : × 巨大 ○ 強大
53 : >>50 重騎兵への軍令は、替え2頭を加えた5頭でそれ以外は3頭 3頭が基本で馬の損傷が激しい突撃重騎兵は2頭加えて5頭
54 : >>48 >蒙古族の重装騎兵は鮮卑以来の伝統だよww 3〜4世紀ごろの鮮卑や扶余に、人も馬も鉄札鎧で覆う重装騎兵があったが、それは12世紀のモンゴル軍 に直接つながるものではなかろう。 4〜5世紀の日本にも同じものはあったが、鎧を着て槍を持つ戦国時代の騎馬武者を古代の重装騎兵の伝統だ とは言わない。 「他民族から学んだ」については例えば: http://medieval2.heavengames.com/m2tw/history/miscellaneous_history_folder/mongol_weapons/index.shtml 「モンゴルの重騎兵はペルシャ征服の後に特に重装甲するようになった。」 http://books.google.co.jp/books/about/Genghis_Khan_s_Greatest_General.html?id=XXWFca82UvYC&redir_esc=y 「金属札鎧や鎖帷子は、シナ人や西方との戦争の後にはじめてモンゴル軍に取り入れられた」 (上記URLで書籍"Genghis Khan's Greatest General: Subotai the Valiant"の紹介ページを出した後、 書籍内検索の欄に"metal-scale armour"を入れて検索すると上記文章が出る)
55 : >>54 >http://medieval2.heavengames.com/m2tw/history/miscellaneous_history_folder/mongol_weapons/index.shtml は、よく見たらなにか戦争ゲーム関係の資料だったね。 中身は極めてまじめで、なにかの学術書から持って来てると思うが、信頼度については判断にまかせる。
56 : 信頼度は0だよwww 遥か以前の柔然時代に騎兵は鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施している これへと繋がったのは鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施していた 4世紀の鮮卑であり、後のモンゴルへと直接繋がっている
57 : >>56 もうひとつの資料はスルーか? わざわざ出し方まで書いておいたが、読んでないだろうから さわりの原文を引用しておこう。 "Metal-scale armour and chain mail were introduced to the Mongol armies only after their war with the Chinese and the West." >遥か以前の柔然時代に騎兵は鋼鉄製小札鎧を着て馬には馬鎧を施している 柔然は5〜6世紀だ。「遙か以前」には違いない。 同じ地域に存在したというだけの理由で、600年も後のモンゴルに「直結」したというのは 無理があるな。 中国の大学副教授が書いた次の論文: http://www.wretch.cc/blog/guyman5408/8192052 によれば、柔然の重騎兵が突厥の軽騎兵に敗れ、隋の甲騎が唐の軽騎兵に敗れたことに よって重騎兵は衰微し、軽騎兵の時代が訪れた。恐らくここに断絶がある。
58 : いや、無い。 唐の軍制でも重騎兵と軽騎兵は混在していたし 突厥も重装騎兵による突撃を得意としていた しかも、そのブログにも書かれている通り 一般的に鉄騎は軍戸の負担が重い為に減ったと知られている しかも唐も統制を回復し生産力が増すに連れ重騎兵が増えた 柔然は蒙古族で、匈奴以降清朝蒙旗に至るまで その兵制や武具防具は連綿として継続している
59 : >>58 >唐の軍制でも重騎兵と軽騎兵は混在していたし どこの軍隊にも軽騎兵と重騎兵はいる。高句麗壁画にも両方が描かれている。 偵察・遊撃用の兵種と打撃用の兵種は両方必要なのだから当たり前だ。 >その兵制や武具防具は連綿として継続している 私はモンゴル西征軍の重騎兵の装甲が当初からのものではなく、ペルシャなどから取り入れた ものである(二つ目の資料では『西方」)という資料を示した。 それが鮮卑、柔然以来連綿として続く形式のものであるというのなら、お題目だけでなく、そのように 述べている資料を示さなきゃね。 なお、私が示した中国語の資料によれば、古代の重騎兵の人馬合わせた装甲が最大130kgにも 達し(人間の体重は入っていない)、あまりの重さに馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか 突撃できなかった、とある。 こんなものがカルカ川やリーグニッツで突撃したとは到底思えないね。
60 : いや、何所にもそんな事は書かれていない 息を吐く様に捏造する、それが厚顔無知な在チョンという生物。 しかもそのブログが引用してる教授は完全に異端扱いされてる色物 其処に書かれているのは、宋の時代に中国で重装騎兵が廃れたのは 年々防御力を加重した為に重量が60〜80`に達してしまった為 としか書かれていない、しかも実際には宋、西夏、遼は鉄甲騎兵を盛んに利用した様子が 史書に記されている、また宋の歩兵率が高いのは馬産地を失った為でしかない その電波教授ですら唐初に重騎兵が減ったとしか結論付けていない 盛唐には重騎兵が増加している現実があるのだから当然だがねw モンゴル西征軍の重騎兵は遼や西夏と同じ様に 元から重装備で鋼鉄製の鎧を纏い敵陣へ突撃していたのが現実 この事は、翠微先生北征録7巻、遼史34巻、宋史486巻に載っている 電波ブログと史書及び学者の趨勢、どちらが真実かは誰でも理解出来るね
61 : >>60 >いや、何所にもそんな事は書かれていない 中国語が読めないようなので、該当部分の引用と訳を載せておこう。 「据考古發現,一件完整的鐵具裝,約重40至50公斤,特製的重鎧可達100公斤。又据《宋史》卷一九七《兵志十一》載, 南宋初年,一領鐵甲的重量是45至50斤(約,26。86―29。84公斤)。可見,戰馬馱載的人甲和馬具裝的重量至少有60―80 公斤,最重者可達130公斤。重鎧揄チ了戰馬的負擔,使其難以持久戰斗,只有高大健壯而又穩重的馬匹才能充當甲騎 具裝的坐騎,即使是這樣的高頭大馬也只能以小跑、慢跑沖鋒。」 考古学の発見によれば、一件の完全な鉄製具装は40ないし50kgの重さがあり、特製の重鎧は100kgにも達した。 また宋史巻197兵志11記載によれば、南宋初年に一領の鉄鎧の重量は45ないし50斤(約27ないし30kg)であった。 これから見て戦馬が載せる人の鎧と馬の具装の重量は少なくとも60-80kg、最大130kgにも達した。重量の増加は 戦馬の負担を増加し、持久戦闘を困難にするので、大型で壮健かつ温順な馬のみが甲騎を載せることができた。 このような大型馬でも小走りかだらだら走りでしか突撃できなかった。 註:「具装」と言っているのが馬鎧のことと思われるが、あれだけの面積を覆うのに人の1.5~3倍でいいの? とも思える。北方民族の本格的な馬鎧は100kgよりも重かったのでないか? 第一次大戦のタンクのように、しずしずとしか突撃できなかっただろうね。
62 : 仕方無いな、歴史用語も中国語駄目な人の為に訂正してあげよう。 発見された考古物によれば、一揃いの鋼鉄馬甲は 40〜50kgの重さがあり、特注の重馬甲は100kgに近い。 又、宋史巻197兵志11にある所によれば 南宋初期の、一揃えの鋼鉄具足の重量は27〜30kg。 戦馬が駄載する具足と馬甲の重量は、最小60kg多くは80`最重は130kgに近い。 重馬甲の増加は戦馬の負担を増加させた。戦闘に持久使用する事は難しく 大型で壮健かつ沈着な馬だけが鉄甲騎の騎馬として充当する事が出来た。 此の様な大型馬も速歩でのみ突撃出来たのではないだろうか。 >>61 の誤訳が無能力の故か悪意の故か、どちらだろうね。 鮮卑の時代から続く遊牧民族の重装騎兵が着た馬甲は 超重武装の宋よりは軽装で40〜50斤より稍軽い程度だったよ。
63 : 古代中国の斤て223gじゃないのか?
64 : 宋代だと約600c
65 : >>62 つっこみどころ満載だが発散を避けて要点のみ。 ・人甲馬甲の合計重量130kg(最大) なんだかんだ言いながら結局これが原文中にあることを認めたな。 >>60 では「重量が60〜80`に達してしまった為としか書かれていない」と印象操作 したのだから原文で議論した意味はあった。 ・重量の数字のまとめ 馬甲:40~50kg、最大100kg 人甲:27~30kg 人甲馬甲の合計:少なくとも(至少)60~80kg、最大130kg ・馬の走り方 小跑:英語でトロット、繋駕レースの走り方。 慢跑:英語でキャンター、流鏑馬(やぶさめ)の走り方。 「只能」(それしかできない)とはつまるところ、騎兵突撃の華であるギャロップ(普通の 競馬の走り方)ができない、と言っているのだ。
66 : >>62 >鮮卑の時代から続く遊牧民族の重装騎兵が着た馬甲は >超重武装の宋よりは軽装で40〜50斤より稍軽い程度だったよ。 これがわからない。重装騎兵が馬甲を着る? 40~50斤(24~30kg)とは人甲、馬甲のどちらのことを言っているのか?
67 : >>65 まちがい→つっこみどころ満載だが発散を避けて要点のみ 正解→突っ込み所が無いけど悔しいので無理繰り些細な反抗をさせて頂きました つっこみどころ満載だが発散を避けて要点を書くと この教授の感想は他の学者からは無視されている。 あと、中国語が読め無い様なので訂正しておくと 具足と馬甲の合わせた重さを電波教授は、少なくとも60〜80kgではなく 最小60`平均80`最大は130`に近いと見ているし 指摘されて修正したようだが、電波教授も小走りやだらだら走りwではなく速足としてる 馬甲とは日本語の馬甲を指し馬が着る甲 宋・明の馬甲は飛び抜けて重武装で他の時代や遊牧民のそれと比べ重い
68 : >>67 >少なくとも60〜80kgではなく最小60`平均80`最大は130`に近いと 「至少」を辞書で引いて見ろ。ちゃんと「少なくとも」と出ている。この至少は60~80公斤ぜんたいにかかっている。 「人甲和馬具裝的重量至少有60―80公斤,最重者可達130公斤」 最小だの平均だのという言葉はどこにもない。存在しない言葉を訳してはいけない。 >小走りやだらだら走りwではなく速足としてる 小跑は一般に「小走り」、馬術用語で「トロット」だ。速歩はトロットだからそれでいいが、もうひとつの慢跑を無視 してはいけないね。慢跑は「やぶさめ走り」なのだ。とととん、とととん、と三拍子に聞こえる、あの走り方だ。 全速力ではないからわかりやすく「だらだら走り」と書いたのだ。実際、一般には慢跑はジョギングの訳語だしね。 (註:ジョギングの訳語はもうひとつ、跑歩がある) >馬甲とは日本語の馬甲を指し馬が着る甲 ほほう、北方民族の馬甲は40~50斤、すなわち24~30kgなのか。それでは人甲なみではないか。 それでどうやって馬の身体を覆うのか? ちなみに北方民族の馬甲は馬の前面だけでなく胴体全部をすっぽり覆うのが特徴だ。 人間用なみの重さの鎧でどうやって馬をすっぽり覆うのか教えてくれ。
69 : >>68 馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40`で 一般の南北朝期の馬甲は精々25〜30`の物。 具足が30`にもなる全身装甲に為ったのは宋代以降 魏晋時代は脚部の防護も無く、南北朝を経て初唐に至っても 各部の隙間まで覆う具足は普及していない。 そもそも馬甲は将官の乗馬にのみ施されていたが 遊牧民が中原へ流入した後、馬甲を纏った重装騎兵部隊が発達した つまり鮮卑族など蒙古系民族の突撃重騎兵という思想が産み出した産物 至少で最小。トロットは小走りじゃなく速足、小跑慢跑でトロットを指す 「だらだら走り」という馬術用語も慣用句も存在しない、俺様用語は困るよ
70 : 倭と日本が別種ってのは「統治者の血族が変わった」ってことなんじゃないの で、その交代のときに「倭じゃなくて日本にしようぜ」ってなり、 旧血族の土地も全部併合し終えた、と
71 : 古代中国の別種って、同民族別部族くらいの間隔でしょ
72 : >>69 >つまり鮮卑族など蒙古系民族の突撃重騎兵という思想が産み出した産物 宋代の中国の話はほんの参考で、その鮮卑など古代の北方民族の重装騎兵が本題だった のだが、古代の北方民族においても馬甲は25~30kgだったと言いたいのか? >至少で最小 「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。もちろん「少なくとも」しか書いてない。 http://cjjc.weblio.jp/content/%E8%87%B3%E5%B0%91 それはそうと「平均」はどうなった? 「平均」は原文のどの字にあたるの? >小跑慢跑でトロットを指す 「慢跑」の訳語がないと言われて思いついたの? だが残念ながら原文では 小跑と慢跑の間にコンマが打ってある。つまり二つの走り方は列挙だ。 こうなると本当に原文を自分で読んで訳したのか疑問になって来るな。 あと、慢跑はキャンターすなわち「やぶさめ走り」で、この方がトロットより速いのだ。 「トロットあるいはキャンターでしか走れなかった」のほうが君の説に合うんじゃないか?
73 : >>71 >古代中国の別種って、同民族別部族くらいの間隔でしょ 『唐会要』百済伝. 百濟者、本扶餘之別種 (百済はもと扶余の別種なり) この場合は別種は王統の分れのことだな。 中国の概念では国とは民族より王統のことなんじゃないか?
74 : >>72 おいおい、恍けるな。もう一度書いいてやるからよく読め 馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40` 一般の南北朝期北朝の馬甲は精々25〜30`の物。 「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。最大小的限度即ち「最小」と書いてる http://baike.baidu.com/view/1201192.htm そもそも、少なくともなのだから即ち最小であると、日本人には解る。 >>59 では、馬は並足か精々速足とあったが、自ら速足で駆け駆足で突撃すると修正したようだ 何にせよ見解が事実に近づいた事は喜ばしく思う 百済の件は例外で大半は王統ではなく民族や部族に対して使われている
75 : >>74 >馮素弗の墓から見つかった特注の馬甲ですら40` 私が聞いているのは40kgではなくて25~30kgのほうだ。 古代北方民族の馬甲が25~30kg、すなわち人間用なみだったという説の根拠はなにか? 資料で示してね。 >「至少」の意味は下記URLにあるから読んでね。最大小的限度即ち「最小」と書いてる その同じ資料で英訳を見れば "at (the) least; at lowest; to the least extent; anyhow; at any rate; in any case" すなわち「少なくとも」と書いてある。中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる。 まあ「少なくとも」と「最小」は通底するが、それをもって「少なくとも」を誤訳として 斥ける理由にはならない。 いわんや君の場合は「最小〜平均〜最大」という「誤訳」にもとづいているのだからね。 >何にせよ見解が事実に近づいた事は喜ばしく思う ということは「慢跑=キャンター」と、訳文中の慢跑の欠落を認めたということだな? 「小跑慢跑=トロット」なる珍解釈は引っ込めるのか? >百済の件は例外で大半は王統ではなく民族や部族に対して使われている 「大半」と統計がとれるほど資料があるのならまずそれを示せ。
76 : 面白いのを見つけた。グーグルの飜訳サービスだ。 中英 http://translate.google.co.jp/#zh-CN/en/ 英中 http://translate.google.co.jp/#en/zh-CN/ 英中でcanterと入れると慢跑と出る。 同じくtrotと入れると小跑と出る。 英中でat leastと入れると至少と出る。 同じくleastと入れると最小と出る。 逆もやってごらん。第二義以下が小さい字で出ることもあるから注意してね。
77 : >>75 上古至五代軍事工程技術史は、周りに相手されない電波教授とは 比較にならない程信憑性に富む書籍だ 意味不明な言い逃れをしない様にw 中国語を説明するのに「中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる」とは 詭弁と言わずして何と言おうか、諦めて訂正と謝罪をしなさい まず君は>>59 で筆を曲げ自分に都合よく曲解した >あまりの重さに馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか突撃できなかった という妄言を訂正しなければ駄目だよ。あと小跑慢跑とはトロットの事 ほら大半だ 高句麗,在遼東之東千里,南与朝鮮、ワイ貊,東与沃沮,北与夫余接。東夷相伝以為夫余別種,故言語法則多同,而跪拜曳一脚,行歩皆走。 先零別種テン零与鐘羌諸種大為寇掠,断隴道。 自索虜破慕容,蛮馬二万余人攻囲義陽,据有中国。ゼイゼイ一号大檀,又号檀檀,亦匈奴別種。 滑国者,車師之別種也。 テイ者,西夷之別種,号曰白馬。 エフタル国,大月氏之種類也,亦曰高車之別種,其原出于塞北。 薛干部,常屯聚于三城之間。〜而率屯山鮮卑別種破多蘭部世伝主R。 尉遅迥字薄居羅,代人也。其先,魏之別種,号尉遅部,因而姓焉。 突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。 赤土国,扶南之別種也。 ケ至国,居西凉州界,羌別種也。 奚,本曰庫莫奚,其先東部胡宇文之別種也。 尚可孤,東部鮮卑宇文之別種也,代居松、漠之間。 突騎施烏質勒者,西突厥之別種也。 東女国,西羌之別種,以西海中復有女国,故称東女焉。 リョウ者,蓋南蛮之別種,自漢中達于?、?,川洞這間,所在皆有。種類甚多,散居山谷,略无氏族之別。 乾元元年,復為燕州。旧領県一,无?土戸。所領戸出粟皆靺鞨別種,戸五百。天宝,戸二千四十五,口一万一千六百三。両京道里,与幽州同。 党項羌,在古析支之地,漢西羌之別種也。 室韋,契丹別種,東胡之北辺,蓋丁零苗裔也。 南詔,本哀牢夷后,烏蛮別種也。 日本語と中国語が苦手なのはよく解った、日本語教育をあまり受けなかったのかな
78 : モンゴル馬は小型である。 鉄甲重装騎兵の馬としては体力不足である。 モンゴル馬は、長距離走行の耐久性はあるが重量物は運べない。 モンゴル騎兵が重装騎兵となりうるのは、 ペルシャで大型のアラビア馬を手に入れてからとなる。 ペルシャ戦以前の重装騎兵は短弓に長剣か槍の装備が精々である。
79 : とうとう何の資料も無しに妄想を騙るようになったかw
80 : >>78 そんなあなたにはこれ ttp://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-883.html
81 : モンゴル軽騎兵の伝統は今でも残っている。 モンゴル競馬だ。 数十kmの距離の競馬だ。 モンゴル馬は千里馬なのである。 一日に千里(70〜80km)を駆け続けられる馬、それがモンゴル騎兵の馬なのである。
82 : >>77 >上古至五代軍事工程技術史は、周りに相手されない電波教授とは比較にならない程信憑性に 富む書籍だ 宣伝文句はいいから、「25~30kgの馬甲」に関する文章を引用してくれ。 >中国語を説明するのに「中国語はある意味不正確だから英語の方があてになる」とは詭弁 あほらし。「中国語の意味を中国語で説明するのは不正確だ」ということを言ったのだ。 現に「至少」の意味を説明する「最大小的限度」という中国語は君を誤解させたではないか。 >馬は並足か、せいぜいだく足(トロット)でしか突撃できなかったという妄言を訂正しなければ これはうろ覚えで書いたから「並足」は間違いだった。しかし「だく足(トロット)」は正しいし、 ちゃんとソースを提示しているからこそ君が反論できたことを認識すべきである。 >あと小跑慢跑とはトロットの事 原文の「コンマ」は無視するのか? 原文を飜訳してくれた人に、「コンマ」をどう解釈するのか 聞いて見たらどうか? >ほら大半だ このなかにも王統らしいのはいくつもある。まあ両方あるらしいことはわかったよ。
83 : >>78 >ペルシャ戦以前の重装騎兵は短弓に長剣か槍の装備が精々である。 その意見に基本的に賛成だ。 征服事業が始まったときのモンゴル騎兵は軽騎兵オンリーであって、そのなかに 作戦上の要求から遊撃用の弓騎兵と、打撃用の槍騎兵とが生じた。 つまり軽騎兵と重騎兵と言うよりは弓騎兵と槍騎兵があった。槍騎兵の武装は 弓騎兵とたいして変わらなかったが、この槍騎兵がペルシャ征服戦の過程で 装甲(あるいは専用の馬も)を取り入れて重騎兵になった、というのが今のところの 私の考え方だ。 ただしこのモンゴル重騎兵が馬まで装甲したかどうかは保留。その理由は、騎士が 鉄札鎧をつけて馬は無装甲、という昔のイラストがあるからだ。 なお、鎌倉時代の大鎧も重いものは27kgぐらいあったというから、鎌倉武士も立派な 重騎兵だ。ただし主武器は弓だけどね。
84 : >>82 頁480至483参照、見つかった鉄片から類推して30`前後と推定している 中国語の意味は中国語で説明するのが最も端的 至少が最小を意味する現実を受け容れたく無くからと屁理屈捏ねるのは止めたまへ >>61 では更に筆を曲げ字句と文意を改竄した、>>59 以上に訂正と謝罪を要する >>75 で自分が何を書いたか思い出そう。小跑慢跑=トロットなる珍解釈とある 而し、小跑慢跑はトロットを指す、複数の話を混ぜて誤誘導しては駄目だよ 別種が王統ではなく部族や民族を指すソースを提示しているのだから 君は具体的な文言を挙げて反論しなければならない >>83 下らない自演も根拠無い妄言も無意味だから止めようね
85 : >>84 >頁480至483参照、見つかった鉄片から類推して30`前後と推定している それはどこの出土品か? 馮素弗墓馬甲の40`との関係は? 小さい方の25kgのソースは? それから前にも言ったが文章で引用してくれ。 >中国語の意味は中国語で説明するのが最も端的/至少が最小を意味する現実を受け容れたく無く 君が>>74 で: >そもそも、少なくともなのだから即ち最小であると、日本人には解る。 すなわち「日本語では『少なくとも』と『最小』は同じ意味だ」と言っているのを見逃していた。 馬鹿の壁はここにあった。これを放置したままでは議論は無意味だ。 そこで、「少なくとも」と「最小」の違いを改めて考えて見よう。 ここに重さがそれぞれ1、2、3、4、5キロの物体A、B、C、D、Eがある。 「重さが最小の物体を選んで下さい」と言われれば君はもちろん重さ1キロのAを選ぶ。 一方、「重さが少なくとも1キロの物体を選んで下さい」と言われたらどうか? この場合、A、B、C、D、Eのどれを選んでも正解なのだ。 「少なくとも」と「最小」は一見似ているが、実際にあてはめるとこれだけの差がある。 似たようなものだ、とは言っていられないのだ。
86 : 君に頼まれた翻訳者は中国語の「至少」の意味を知らず、字面から「最小」の意味だと思った。 そこで「至少有60〜80公斤、最重者可達130公斤」の三つの数字のうち、60公斤を 「最小」とした。最大はもちろん130公斤だ。ここで真ん中の80公斤が浮いてしまった。 しかたなく翻訳者は80公斤に「多くは」と、原文にないことをくっつけたのだ。 君が「平均」と言っているのはこれだ。 実は60〜80公斤は、「少なくとも」の下限を、点でなく範囲で示したものだったのだ。 上記のように「少なくとも」は範囲を示す言葉だから、下限が範囲で示されても不都合はない。 原文は60〜80を下限とし、130を上限とする範囲を「少なくとも」で示しているわけだ。 依頼者の君はそんなこととは知らず、翻訳者がくれた訳文を金科玉条と押し頂いた。 そしてあろうことか、その訳文を根拠にして、正しく訳した私の訳文を「誤訳」と決めつけた のだ。 その後の議論で君が>>62 の訳文から一歩も出ず、原文に戻って考えることをしない理由は上記 の事情による。当たっているだろう?
87 : >小跑慢跑はトロットを指す、複数の話を混ぜて誤誘導しては駄目だよ なんども言ったが君はこの解釈についても原文に戻らない。原文を改めて示せば: "即使是這樣的高頭大馬也只能以小跑、慢跑沖鋒。" ごらんの通り、小跑と慢跑の間にはコンマが打ってある。「小跑慢跑」という四字言葉は 「少なくとも」この原文についてはあり得ないのだ。 >別種が王統ではなく部族や民族を指すソースを提示しているのだから >君は具体的な文言を挙げて反論しなければならない ご希望により一例を挙げれば ”突厥者,蓋匈奴之別種,姓阿史那氏。” 突厥は蓋し匈奴の別種なり,姓は阿史那氏。 突厥が民族名なら「姓」や「氏」があるわけがなかろう。これは王統だ。 ちなみに匈奴も国家、すなわち王統の呼び名だ。 漢との外交交渉の結果として美女王昭君が匈奴王に贈られた話は京劇にもなっている。
88 : 蒙古馬の様な小型馬では、いずれにせよ重騎兵は無理だよ。 蒙古軍の強さは、その機動速度と小型で強力な弓にある。 長距離高速移動ができる馬、弩のように強力で飛距離のある短弓。
89 : >>85-87 具合が悪くなると無意味な長文で論点を曖昧にするのは 逃げを謀る無知の典型的行動 内容の無い長文をダラダラ書いても何の意味も無い 苦しくなると意味も無く不要な要求を繰り返し逃げを謀るのは 愚昧な老害の典型行動 キミは電波ブログを持ち出したが出土品の具体例など書いて無い。 上古至五代軍事工程技術史頁480至483に 朝陽十二台郷、 長安草廠坡1号墓、敦煌285窟出土とある 鉄甲片重量估算、一套鉄馬鎧、大約重30余公斤。皮革の物は当然更に軽い 至小は中国語で最小を意味する、以下を読み勉強する事 ttp://baike.baidu.com/view/1201192.htm 至小有、「有」には一般的に或いは多くはという字義もある。 最重者可達130公斤、最も重いのは130`に近い。 自らの愚かな書き込みを省みてみよう>>75 >「小跑慢跑=トロット」なる珍解釈 とあるが、小跑慢跑はトロットを指す。自らの浅墓さを恨み諦めよう 無知蒙昧が歴史を知らずに知った蒙りをするから珍解釈を生む。 突厥の起源を記述するのに興隆後の突厥を持ってくる馬鹿は居ない、これは突厥部の事。 突厥とは彼等の自称であり民族名でもある。帝国となった突厥可汗の姓が阿史那 そもそも突厥が氏族名なら氏姓が阿史那とはなり様が無い、少しは考えてから書く事。 後漢書南匈奴列伝、姓虚連題。為政者の呼称は単于、姓は虚連題又は挛鞮
90 : モンゴルの優位は武装の優位ではないよw 短弓(笑)
91 : 短弓もってウホウホやってたのは、北ユーラシアに腐るほどいたわけで、 そのなかでチンギスハンが優位に立てたのは、強運と重軽織り交ぜた釣り戦術
92 : >>89 >小跑慢跑はトロットを指す 「小跑慢跑」って、原文の「小跑、慢跑」のこと? 中国語で「小跑慢跑」と「小跑、慢跑」は同じなの?
93 : 議論は結構だがスレタイも読めない奴らの言に説得力は無いな
94 : >>90-91 モンゴル軍が強力であったのは、 @騎馬軍団を支えた兵站能力(長距離高速移動) 基地(放牧地)から戦闘地まで数百km 敵の探索外の遠方からモンゴル軍の攻撃が始まる。 ある日突然モンゴル軍が現れて攻めてくること。 A常に敵より飛距離の遠い破壊力の大きな短弓 敵の攻撃を受けることがない距離から攻撃し敵に打撃を与えられる
95 : >>89 >突厥とは彼等の自称であり民族名でもある。帝国となった突厥可汗の姓が阿史那 >そもそも突厥が氏族名なら氏姓が阿史那とはなり様が無い、少しは考えてから書く事。 違うな。 阿史那氏が係累を率いて移住し、移住先で自らの集団を突厥と号した。 部族国家の成立であり、阿史那氏はその首長氏族。 部族国家が発展して可汗国家となると阿史那氏は可汗氏族となった。 はじめに阿史那氏ありきなのだ。
96 : その通り、突厥は国号。
97 : 天智系が倭で、天武系が日本で、壬申の乱が易姓革命という風に認識されて混乱がおきたのではないだろうか?
98 : それだと >あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと を説明できない。
99 : 日本(旧小国)=やまと 倭国の地=近江宮の支配が及ぶ範囲
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