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2013年08月軍事175: 【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5 (212)
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【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 5
- 1 :2013/01/13 〜 最終レス :2013/08/04
- モンゴル帝国が2度にわたって鎌倉日本に大敗した元寇を軍事的に考察しましょう。
前スレが512KB超えたんで、立てました。
前スレ
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 4
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1353671134/
【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】 3
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1346923005/
- 2 :
- 『太宰府市史』『鎮西御家人の研究』(吉川弘文館,瀬野精一郎,1975)を借りてきました。
見解を修正します。
・大宰府守護所の位置は、現在の太宰府市である
高麗国使が、現在の太宰府天満宮に毛冠を献上していた記録がある
・大宰府守護所と、旧来の律令機構としての大宰府は併存して別々に機能していた
前者の権限は全鎮西に及ぶが、後者は武藤氏が守護としての権限を持っていた国々に
限られる。
発給文書の比較や武藤氏による大宰府の掌握について、
詳細は『鎮西御家人の研究』を参照のこと。
・日本側は、大宰府と(港としての)博多を一体のものとして認識していた
川添昭二「鎮西談義所」で論じられていると『鎮西御家人の研究』にあるが、未見。
日本側の認識に沿って、蒙古・高麗も「博多も大宰府の一部」と理解しており、
『元史』『高麗史』のいう「太宰府」が意味する範囲に、博多を含めてもよいのではないか。
- 3 :
- 以下、『太宰府市史』中世資料編よりs。
--
『関東評定伝』文永六年状条
九月、蒙古・高麗重ねての牒状到来す、牒使金有成・高柔なり、
対馬島人答二郎・弥二郎を還す、高柔、霊夢により所持の
毛冠を安楽寺に献ず、すなわちその由を叙し詩を呈す
--
安楽寺は現在の太宰府天満宮。当時から、現在でいう太宰府市にある。
これに対する返牒を起草したのが菅原長成で、
『本朝文集』に収録されている「日本国太宰府守護所牒」である。
本文に
--
高麗国慶尚晋安東按察使来牒の事
牒す、かの按察使の牒を尋ぬるにいわく、当使□□□□□謹みて牒す、
当府守護所に着す
--
とある。
- 4 :
- 弘安の役の後、鎌倉幕府は鎮西特殊合議機関を博多に設置させている。
『太宰府市史』では、
この組織は短命に終わるものの、政治機能が博多へ移転する契機になったとする。
--(引用)
この鎮西特殊合議訴訟機関は一年に満たない極めて短期間のうちに消滅したことになるが、
この期間が博多におかれたことは重要である。
それまでは、武藤氏の大宰府守護所はもちろん、大友氏の守護所も大宰府にあって、
大宰府が九州の政治の中心だった。
しかし、新たな訴訟機関が博多におかれたことによって、政治的な機能の多くが
大宰府から博多へ移ることになった。
--(ここまで)
以下、同書所収『新編追加』(法令集。御成敗式目の追加法を扱う)より。
--(引用)
条々、急速の御沙汰あらんがため、九州の所領をもって三方に相分かつなり、博多において
尋ね沙汰すべし、頼泰法師・行宗は、肥前筑前薩摩、盛宗・教経は、
豊後・豊前・日向、経資法師・政行は、肥後・筑後・大隅、おのおのこの旨を守り奉行すべし、
社領といい、名主といい、別の子細なくんば、あるいは直にこれを返付し、あるいは
その身を安堵し、まず下知の状をを書き与うべし、御下文は追って御計いあるいべきなり
(弘安七年)九月十日 尚時判
明石民部大夫殿
--(ここまで)
『吉続記』文永八年十月二十三日条には
--(引用)
二十三日、蒙古船今津郡に着岸す。件の所太宰府より三里を相隔つと云々
--(ここまで)
着岸地点から三里の距離に、太宰府があるという。
これは博多に出先機関があったということでしょうか?
- 5 :
- 何時の間にか新スレに移行していたのか・・・
やはり元寇の経験を踏まえて対外防衛拠点を前進させたというのが正しいようですね。
- 6 :
- 『太宰府市史』通史編2より。
・鴻臚館跡の建物群は11世紀中頃前後に廃絶していることが確認されている(p.432)
・大宰府政庁も12世紀中頃に荒廃して消滅。
墨書を記した陶磁器の出土量からして、
支配機構の中心は政庁跡から東にある観世音寺地区付近に移動したと予測されるが、
発掘進行待ち。(p.433)
で、幕府は筑前岩門城と「宰府」つまり大宰府の城郭を整備させています(弘安7年)。
この辺の資料も次回引用します。
- 7 :
- >>2
>日本側は、大宰府と(港としての)博多を一体のものとして認識していた
日本側にもそのような認識があったのであれば、例の
「同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」も、単なる日付ちがいで、二十日の博多周辺の
戦いのことを言っている可能性がありますね。
- 8 :
- >>2
過去スレで何故、博多が大宰府か否かという話が続いていたのかというと、ある論者が「膺懲パフォーマンス説」というの
を唱え、文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為のパフォーマンスだったと主張したことに端を発します。
それによりますと元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからとのことですが
実際には元軍は僅か1日の戦いで継戦を断念して撤退していいますから、自説を成り立たせる為には何とかしてこれを、
「元軍が勝った事」、少なくとも「元軍は勝ったと認識していた」事にする必要が有ります。
せめて日本軍の根拠地たる大宰府で戦いこれを脅かしたのでもなければ格好が付きませんが、実際に戦われたのはいわ
ば「博多攻防戦」で元軍は大宰府には到達すら出来ていません。
要するにこの論者にとっては「博多=大宰府」でないと都合が悪いのです。
こうすれば「博多攻防戦」はたちまち「大宰府攻防戦」に化け、「大宰府を脅かした」事になりますから。
この論者が「博多=大宰府説」を唱えるのはまさにこれだけの理由であり、彼が他の論者から極めて忌み嫌われていたの
もこういった極めて恣意的な論理展開をするゆえです。
- 9 :
- 博多は大宰府の外港であり大宰府への玄関口ですから当初から大宰府と極めて密接な関係があったのは間違い
ありません。
当然博多には大宰府の窓口があったでしょうし、利便性から言っても博多で全て事が住んだ方が遥かに便利です。
実の所、平時においては博多と大宰府をあえて区別しなければならない理由も無い。
ただ、戦時においては話は別です。
高麗国使が現在の太宰府天満宮に貢物を献上していたということは、高麗は太宰府の政庁は博多ではなくもっと
内陸に置かれていたことを知っていた事になります。
であれば太宰府政庁が博多ではなく内陸に置かれているのは戦に備えるためである事や、日本と戦争する場合に
は博多ではなく政庁のある太宰府そのものを落とす必要がある事も当然の事として認識していたでしょう。
- 10 :
- 以下の一条を含む『関東評定事書』は、>>4で示した内容について、詳細を記したものです。
鎮西特殊合議訴訟機関が存在した弘安7〜8年に取り決められたもの。
--
一、城郭事、
次に岩門ならびに宰府に城郭を構うるの條、九州官軍としてその構えを得べしと云々、
早く領主らの沙汰として、その構えを致すべしと云々、
--
『太宰府市史』中世資料編では、この前後が省略されています。
全11条あるとのこと。
この一文と同じものが、正嘉3年の新御式目として収録されているブログを見つけました。
防衛の要衝であるため何回も同じ式目追加が出ていたか、あるいは……。
現時点では保留。
- 11 :
- 元軍は博多「を」太宰府と認識していた。
太宰府政庁とともに
元軍は博多「も」太宰府と認識していた。
では全然、意味合いが違う。
813の挙げた資料だと、元軍は後者の方だと思える。
- 12 :
- そうね。前スレでも言われたが、今日でも博多を太宰府に含めて認識するような用例はある。
拠点名を、外港も含めた一地域名として用いるケースがそれ。
本来の太宰府が「太宰府」と認識されなくなったということではないだろう
- 13 :
- >>11
>元軍は博多「も」太宰府と認識していた。
それでいいじゃないか。それを言い換えれば:
「元・高麗人は博多『を』太宰府と呼ぶ『ことがある』」となる。
これがなぜ重要かと言えば、それを知ることによって史料の見方が違ってくることがあるからだ。
その例を前スレで「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」で示した。
- 14 :
- 違うでしょ。元軍は博多「も」太宰府と認識していたということは
言い換えれば、博多を制圧目標としていたという主張には根拠が無い
ってことになる。
だって、博多は単なる太宰府の中心ではなく太宰府の一部でしかないのだから。
- 15 :
- >>14
>言い換えれば、博多を制圧目標としていたという主張には根拠が無いってことになる。
それはまた別の議論だ。私が>>13で言ったのは史料の見方に関することだけ。
史料は正しく読めた方がいいに決まっているではないか。
- 16 :
- >>13
根拠が薄弱すぎる。あくまでも「そう読めないことはないかも知れない」と言うレベル。
可能性と蓋然性の議論を混同してはならないし、仮定の上に仮説を積み上げてはならない
- 17 :
- >それはまた別の議論だ。私が>>13で言ったのは史料の見方に関することだけ。
史料は正しく読めた方がいいに決まっているではないか。
それを言うなら俺のレス>>11も史料の見方に関することなんて一言も言ってない。
お互い様。
- 18 :
- >>13
いいかげん恣意的な議論や資料解釈は止めたらどうだ ?
「博多=大宰府」でなければお前さんの「膺懲パフォーマンス説」に都合が悪いだけだろう。
>>2によって、大宰府守護所は太宰府にあったこと。
高麗≒元軍も大宰府政庁は博多ではなくずっと内陸にあることを認識していた事が明らかになった。
こんなの常識で考えれば明らかなんだが、具体的な証拠が無かった。
前スレ813氏の努力によってやっと明白となった。
当然、戦争になった場合は博多ではなく大宰府政庁自体を落とさなければ意味は無い。
前々スレからの議論の要はここにあり、これをもって「膺懲パフォーマンス説」視点による「博多=大宰府説」は崩壊した。
平和時の交易において大宰府外港たる博多があたかも大宰府と一体のもののごとく振舞っていたとしても、それは全然
別の話だろう。
現実には元軍は大宰府どころか博多すら落とせずに敗走しており、元寇後鎌倉幕府は政庁機能自体を逆に大宰府から
博多に移動している。
この事実を見ても「膺懲パフォーマンス説」は根本から完全崩壊しているな。
- 19 :
- 蒙古軍の作戦計画については、
『経世大典』『永楽大典』の該当部分が発見されない限り不明……という見解です。
『財津氏系譜』も閲覧してきましたが、これだけでは何とも。
戦功を認め、恩賞を与える旨の文書があればよいのですが。
『中世都市 博多を掘る』(海鳥社)も買ってきましたが未見。
当時の海岸線推定図とかある。
「日本国太宰府博多津居住」とは、中国寧波にある三石碑の碑文。
- 20 :
- >>16
>根拠が薄弱すぎる。あくまでも「そう読めないことはないかも知れない」と言うレベル。
>可能性と蓋然性の議論を混同してはならないし、仮定の上に仮説を積み上げてはならない
なるほど。「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」を
「上陸地から太宰府に向かうには、軍勢二、三万が必要でしょう」
と訳する読み方には「蓋然性」があると言うのだな?
ではそのように読める理由を、漢文解釈として一字一字解説してくれ。
日本文の「から」「に」「向かう」「必要」などはそれぞれ原文のどの字にあたるのか?
逆に原文の「等」「倶」「下岸」などはそれぞれ何を表しているのか?
- 21 :
- 自説が完全崩壊してしまった腹いせに
全く的外れな言いがかりで他者に噛み付くパフォ爺であった
- 22 :
- 813さん紹介の「中世都市博多を掘る」には当時の海岸線を示す地図がある。
この地図は壱岐軍議くんのブログの戦況地図とほぼ同じである。
これらの地図によれば博多から姪浜までの間に、博多の西方(住吉社前面)、鳥飼潟、室見川河口と、
三つの入り江が描かれている。しかし別の資料によればさらにもう一つの入り江があった。
その入り江は名柄川(古川)河口にあり、これによって姪浜半島は東西二つの小半島に分かれていた。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17775/2/p259-276.pdf
著者の推定によれば、この入り江の沿岸に、現在の姪浜町ふきんにあった唐房と、現在では内陸に
なっている下山門集落ふきんにあった今唐房と、二つのチャイナタウンがあった。
上記文献の地図に、「当方」とか「今東方」とかの現存の地名で書き込まれている。
これらの地名を見いだしたのが著者の研究である。
姪浜町を通っている東西の街道は唐津街道である。唐津街道は愛宕山の南で、二つの橋で室見川
を渡っている。元寇当時は橋はなかったとしても、街道のあるところは干潮時には徒渉可能だった
のではなかろうか。
元軍が百道原から姪浜に退却したとすれば、室見川河口の入り江を大迂回しなくても、まっすぐ
西へ行けば姪浜へ行けた。また日田がもし姪浜で負傷して百道原へ後送されて死んだとすれば、
このルートを逆にたどれば百道原は通過点であった。(ただしいずれも干潮時の話)
また、元軍が姪浜に上陸したとすれば、その目的は日本軍拠点をつぶすことと住民殺戮の他に、
チャイナタウンの利用があったと考えることができる。
また「今唐房」と生の松原は近い。姪浜上陸と言う場合、実際の上陸地点は生の松原も含めて
考える必要がある。
- 23 :
- パフォって完全に嵐だ
- 24 :
- 813氏によって「膺懲パフォーマンス説」なる説は単なる妄想にすぎなかったことが証明されたわけか。
- 25 :
- 軍板の元寇スレにおいて博多が大宰府かどうかなど本来何の意味も無い。
過去の経緯を踏まえても、かろうじて意味があるのは元寇当時、北九州の政庁は何処にあったのかと
それを元軍が認識していたかどうかだけ。
当時、北九州の政庁は博多にあったのか ? → 博多にはなかった。
では、何処にあったのか? → 大宰府にあった。
その事実を元軍は知っていたのか? → 知っていた。
これでおしまい。
軍板としてはこれ以上議論する事は無い。
まだ博多=大宰府云々の話を続けたいんなら、それは元寇の軍事史的視点とは何の関係も無い、せい
ぜい文化史的な意味合いしかないんだから、日本史板にでも専用スレを立ててやればいいだろう。
- 26 :
- 良いからコテつけろパフォ
- 27 :
- 今の時点で判別は出来るがw
一体何時まで居座るんだろう?
- 28 :
- >>19
>「日本国太宰府博多津居住」とは、中国寧波にある三石碑の碑文。
有り難う。「寧波」「三石碑」で検索したら、碑文の全文解読(試案)の資料があった。
私が墓石と書いたのは間違いで、在日華僑が寧波の寺に参道建設費用を喜捨したことの
記念碑である。
日付はいずれも乾道三年(1167年)で、元寇より100年ちょっと前のものである。
石碑Tに「日本国大宰府博多津居住弟子丁淵・・」とあり。
石碑Uに「日本国大宰府居住弟子張寧・・」とある。
「弟子」とは仏弟子のことであるが、必ずしも僧侶ではなく、商人が仏弟子の立場で寄付する
という意味だろう。
石碑Uは「博多」を省略して「大宰府」のみだが、これだけで博多と分かったことを示している。
- 29 :
- >>28
URLをつけるのを忘れた。下記。
http://www.japanology.cn/japanese/magazine/03lunji20/03lunwenji02.html
- 30 :
- >>28
碑文の大宰府は太宰府に訂正
- 31 :
- >>28-30
はいはい、わかったからもうスレと全く関係ないネタを延々と書き続けるのは止めろ。
とっとと立ち去れ。
そして二度と戻ってくるな。
- 32 :
- つまり反論は出来ませんと
- 33 :
- 誰が反論できないんだって ?
パフォがか ?
- 34 :
- 反論も何もパフォが唱えている「パフォーマンス説」の根拠の一つであった
蒙古軍は太宰府は博多と認識していたという主張が誤りで、蒙古側が内陸の
太宰府政庁の存在を認知したということが判明したのであるから、パフォの
主張は完全に崩壊したんだよね。
そのことを誤魔化すために延々と>>28のような博多も太宰府の一角と認知していた
ということを書き続けている。博多を太宰府の一角と認知していたのは、もう>>831氏
が証明された通りであり、パフォはその尻馬に乗っかって繰り返し「パフォーマンス説」
が崩壊したことを誤魔化す書き込みを続けている。これを荒しとは言わずしてなんだろう?
- 35 :
- 博多の華僑が「日本国太宰府居住・・」と刻んで寧波三石碑を建てたのが1167年、
そのちょうど半世紀後、文永の役の約半世紀前の1217年に、金史に次の記録が現れる。
「貞祐5年・興定元(1217)年 
〔『金史』15〕
12月 5日 日本国大宰府民七十二人を乗せた船が即墨(山東省)に漂着。金、食糧を供給して本国に 
還す。」
これが博多華僑の船であることはもはや明らかだ。
前スレでこれを紹介した時はすぐに次のコメントがついた。
>>759 (前スレ)
>漂着船に乗ってた人間が大宰府の方から来たと話しただけだろ。
>
そんなもの町としての博多が大宰府と同一視されていた証拠でもなんでもない。
今では、特に外国人の間で博多が太宰府とばれたことについて、異を唱える人はもういないだろう。
皆さんも大きな進歩を遂げたのだ。
- 36 :
- >>35
訂正
博多が太宰府とばれた → 博多が太宰府と呼ばれた
- 37 :
- 831が証明したことをあんたが威張ることではないだろう。
- 38 :
- >>35
博多=太宰府の一角であると元軍が認識していたのはその通り。
しかしながら、そもそもあんたがそのことにしがみ付くように
なったのは>>8のような妄想を唱えた事に端を発し、>>813氏によって
>>8のような妄想は崩壊し>>25という結論を迎えたのであるから
あんたの主張は論破され終了しているのだよ。
これ以上「博多=太宰府の一角」にしがみ付いて自論が崩壊したことを
隠すのはみっともない。
- 39 :
- >>34
>蒙古軍は太宰府は博多と認識していたという主張が誤りで
>博多を太宰府の一角と認知していたのは、もう>>831氏が証明された通りであり
「一角」までは認めたわけだな。以前から私は「太宰府広域市博多区」という形でそのことを言っている。
博多が太宰府の一角であれば「蒙古軍は博多を太宰府と認識していた」ということになるではないか。
そのような認識によって元・高麗人が博多のことを太宰府と呼び、それが史料に現れることがある。
そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識を知らないと、史料を読み誤る。
私が言っているのはそのことなのだ。
- 40 :
- >そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識を知らないと、史料を読み誤る。
私が言っているのはそのことなのだ。
なるほど。あんたは>>8のようなあんたの妄想が崩壊したので「そのときに我々が元・高麗人の太宰府認識
を知らないと、史料を読み誤る。私が言っているのはそのことなのだ」と論点を摩り替えたのだな?
- 41 :
- >>39
まず「膺懲パフォーマンス説」が誤りであったと認めろ。
話はそれからだ。
- 42 :
- >>40
それはあんたが作った妄想だ。
私はずっと史料の読み方のことしか言っていないのだから崩壊もクソもない。。
>>41
それはお前の造語だ。
私はそんな説を唱えたことはないから誤りもクソもない。
- 43 :
- 『日田記』。
冒頭に「文政六年四月財津永澄」とある。
凡例に
「此書五冊ハ永倫豊西記日田伝記郡司職次第異本郡職次第(此書二部予未見之)
西国太平記九州記等其外群書ヲ引テ誤リヲ改正シテ著述セルモノニテ氏ノ宝書ナリ」
とあり、財津永倫が『豊西記』『日田伝記』『豊後日田郡司職次第』等をもとに編纂したことが分かる。
私が閲覧したのは文献出版から刊行された『日田記』で、財津永澄によって書写された
ものが底本となっている。
文永十一年十月二十日の記事には、以下のような補注がついている。
--(引用)
郡司職次第曰蒙古人襲来手負討死交名注文別紙ニ在リ是又後世ニ不伝可惜
--(ここまで)
これは、『豊後国日田郡司職次第』にある以下の記事を指している。
--(引用)
永基
号弥次郎
文永十一年
十月二十日蒙古人襲来之時於筑前国早良郡姪浜并百路原両所軍陳一日中二ケ度
抽抜群大功手負討死交名注文在別紙
為被忠賞拝領当国安岐郷弁分弘永以下五ケ名
御下文明白也
--(ここまで)
「軍陳」は「軍陣」かもしれない。
なお、弘安八年に作成された『豊後国図田帳』に、
「弁府十町 地頭日田弥三郎永基法名法基」とある(弥次郎ではなく弥三郎)。
幕府の命令で作成された土地台帳であるから、信頼できると思う。
日田永基は、文永の役で戦死したのだろうか?
手負討死交名注文が現存していれば……
- 44 :
- つまり、弘安八年の頃に日田永基が生きていたという資料があるってこと?
- 45 :
- >>42
嘘をつくな。
そもそも、お前が【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】1あたりで元軍は博多=太宰府と認識していたすれば、
博多に軍事的圧力を掛けて示威行為を示すのが目的だったはずだと言ってたが?
残念ながら、過去スレが完全に埋没してしまってチェックできないのが残念だが。
- 46 :
- >>42
>それはお前の造語だ。
>私はそんな説を唱えたことはないから誤りもクソもない。
他の住人からは一貫して「パフォ」の呼称で呼ばれ、「膺懲パフォーマンス説」とは何かについても過去スレから何度と
なく説明されて来たのに、それについて今まで一言の反論も無かったのが、ここに来て「そんな説を唱えたことはない」
とは恐れ入ったな。
・文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為の元軍のパフォーマンスであった。
・元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからである。
これがお前の主張である事に異論は無いな ?
- 47 :
- そんなことはもうどうでもいいよ。
パフォも46も消えろよ。
813のような偏向のない客観的なレス以外いらん。
- 48 :
- 逃走の口実にするためのパフォの自演かな ?
- 49 :
- >>43
福岡県飯塚市に「弁分」という地名があるから、最初これを苗字とした弁分弘永という武士以下5名が討ち死にした
という意味かと思ったが、「弁分」「弘永」共、文永の役の戦功により日田氏が地頭職を得た土地の名前らしい。
- 50 :
- 『豊後国日田郡司職次第』は、『日田記』の作者が参考にした資料の一つです。
で、『日田記』より
--
文永十二年永基六位上に叙シ左衛門尉ニ任ス
関東ヨリ下文ヲ賜ヒ豊後国安岐郷ヲ宛行ル
--
とあり、元ネタは『豊西記』。(未見)
本人が死亡していて官位を追贈したのか、それとも生存していたのか。
また、弘安八年の記事に
--
同八年日田孫二郎永貞従四位下ニ叙シ左衛門督ニ任ス
郡司職次第曰……(省略)……
弘安八年ヲ以テ祖父ノ譲リ状ヲ得タリ
異本郡司職次第ニハ祖父法基譲状ヲ得タリトアリ
--
『豊後国日田郡司職次第』の伝本によって、
「祖父(日田永基)が永貞に所領を譲った」
「法基(日田永基の法名)が所領を譲ってもらった」
と異なっており、『日田記』は両方を併記しています。
特に後者の説は、永基の生存が前提となる話ですが、それを平然と書いている。
そもそも『日田記』『豊後国日田郡司職次第』とも、日田永基が文永の役で戦死した
とは書いていません。
『豊後国図田帳』に領主として名前が出てくることもあり、戦死したというのは疑わしいのでは?
手負討死交名注文は戦闘による負傷者・戦死者を報告するものなので、
現存していれば判断材料になったのですが。
- 51 :
- 哲学ニュースの「世界史勉強してない奴のために各国の歴史を簡単に書く」
ってまとめ記事の米欄でお前らめっちゃバカにされてるぞ。
ま、いくらここで喚いたところで所詮は珍説の一つに過ぎないからなあ。
- 52 :
- >哲学ニュースの「世界史勉強してない奴のために各国の歴史を簡単に書く」ってまとめ記事の米欄で・・
笑うところですかこれ ?
- 53 :
- >>51
すごいねえ〜
ν速VIP板とそのまとめサイトって世界的に評価されている板で、米を付けてるのは世界的に
権威を認められた人達だけだったんだあ〜
- 54 :
- 見てきたけどあまりのレベルの低さに吹いたわw
- 55 :
- 苦し紛れに持ち出してきた"権威"がν速まとめサイトの米欄ってところが爆笑モン
- 56 :
- >>46
>他の住人からは一貫して「パフォ」の呼称で呼ばれ、「膺懲パフォーマンス説」とは何かに
>ついても過去スレから
これを見ればお前が私に関する「パフォーマンス」の由来を全く知らないことがわかる。
だから「なんとかパフォーマンス」もお前の造語だと言っているのだ。
- 57 :
- >>56
「膺懲パフォーマンス説」という言葉自体はお前の見解を纏めた俺の造語だ。
だがそれについてお前は一切の反論をしなかった。
・文永の役は元に従わぬ日本を膺懲する為の元軍のパフォーマンスであった。
・元軍が撤退したのは日本に自分達の強さを見せつけ膺懲の目的を達したと判断したからである。
これがお前の見解だよな ?
早く答えろよ。
- 58 :
- >>50
いや、恐れ入る。
こんなにも、よく調べてるとはね。
確かにこれだけ、日田が生存していた証拠があると戦死に疑念を抱かざるを得ない。
対して日田が戦死したというのは怪しげな「伝説」の類が根拠になっている可能性がある。
ただ、前スレであがっていた
【日田系圖】 八代 日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名
この史料をどう解釈すれば良いのだろう?
そもそも、この系図は何に掲載されているのか教えていただきたい。
- 59 :
- 「パフォ」とは本来はこいつが日本史板で「日本軍が苦戦したのは武士の戦い方が基本的に自らの武功をアピール
するためのパフォーマンス・コンクールであり、それゆえ戦力の逐次投入しか出来なかったからだ」といった内容の
「武士は『やあやあ我こそは』の一騎打ち主体の戦法だったから集団戦法の元軍に歯が立たず蹴散らされた」って
俗説をそのまま引きずるような説を唱えていた事に由来する。
こいつが軍板で元寇は膺懲目的の威示行動だったと言い出したときに「今度は元寇自体が元軍のパフォーマンス
だったって言うのかよ」って事で「パフォ」の意味が変質して使われるようになった。
今更そんな話を持ち出すってのは、ここに到って尚「ガラパゴス武士のパフォーマンスコンクール」ネタを蒸し返す
つもりなのかね ?
- 60 :
- たとえ占領できても船の兵站が続かないんだから亜盆だろ
- 61 :
- >>60
兵站は占領地の略奪で賄うのがモンゴルの基本戦略。
- 62 :
- >>51
それを読んでみたけど蒙古襲来に関する具体的なコメントなんてどこにもないよ。
- 63 :
- 哲学ニュースnwkってまとめブログなら米161件ついて元軍の話しとるでよ?
同じスレまとめてる他のブログ見たんでね?
- 64 :
- 犬HKの偏向報道は着実に実を結んでるね(ニッコリ
http://ameblo.jp/thedeityinfo/entry-11401519505.html
- 65 :
- 一番、恐ろしいのは64のようなブログ主のようにNHKの主張を鵜呑みにして
現代日本を攻撃しだす輩だな。本人は新しい知識(嘘の知識)を仕入れて偉く
なったつもりになってるんだろうが。実際は、NHKの思惑通りに動かされている
駒にしかすぎないのだが。
そもそも、陳興道と元が戦っていた頃に日本征服計画なんて無かったのだから
陳興道のおかげで日本征服計画が頓挫したなんてことは無いのだが。
- 66 :
- さかのぼり日本史のホームページにあるこの問題なんですけど
蒙古の侵略を免れた日本。「弘安の役」がその後の日本にどのような
影響をもたらしたといえるか?
朝廷の権力が水面下で持続する結果となった
外交政策に置いての情報収集能力が高まった
神国思想が一気に高揚した
外交政策に置いての情報収集能力が高まった←これが×な理由は何でしょうか?
弘安の役の後、鎌倉幕府は間諜を大陸に派遣していたようですが、情報収集能力
が高まったからでは無いのですか?
- 67 :
- >>58
私が調べた範囲では、問題の系図は見つかりませんでした。
考えられる可能性は、
※問題の系図の方が正しかった場合
・系図作者が手負討死交名注文を確認した
(当時は存在していたものとして)
・『豊後国図田帳』にある日田弥三郎永基は、日田弥次郎永基と別人だった
※問題の系図の方が間違っていた場合
・系図作者が『豊後国日田郡司職次第』にある
「永基…(省略)…抜群大功手負討死交名注文在別紙」
という部分を見て
「日田永基が手負い討ち死にした」
と読み間違えた
結論は、手負討死交名注文が発見されない限りは出せないでしょう。
現時点では、手負討死交名注文に永基の名前がある可能性は低いと考えています。
『豊後国図田帳』に、討ち死にしたと報告したはずの人名を記載して、
幕府に提出するのもおかしな話ですから。
- 68 :
- 例えばある場所で何らかの歴史的大事件が起こり、偶々その近くにもはや由来も忘れられたような
古い社や祠があった場合、その歴史的事件と社や祠を結びつけた「伝承」などは事後的にいくらでも
作り出されます。
元寇という歴史的大事件が有り、しかもその地で日田永基が奮戦して武功を挙げたというのが記録
として残っているのだから、もしその地にそういうものがあれば、それと元寇や日田永基と結びつけた
「伝承」は簡単に作られるでしょう。
しかも日田軍の戦死者について記載された文書があり、その具体的な名前が書かれた別紙が早期
に失われていたとすれば伝承されるうちに日田永基が戦死したという話に容易に変質します。
地元の、「伝承」のある稲荷神社より遥かに有力な神社である筥崎宮が、元寇で日本軍は大敗し、
数多の武士が討ち死にしたという話を吹聴している状況下なら尚更でしょう。
- 69 :
- 蒙古軍って冬戦争のときのロシア軍みたいなもんか
使い捨て部隊
- 70 :
- >>57
>だがそれについてお前は一切の反論をしなかった。
>これがお前の見解だよな ?
>早く答えろよ
いい加減なものを他人の「見解」として押し付けて、それに「反論」しなければ認めたことにするという
汚い奴には何も答えないのが唯一の答だ。
- 71 :
- >>70
上手い言い訳をするものだね。でも、君が過去>>57で挙げられたような主張を散々していたことは
俺もはっきり記憶してるぞw
- 72 :
- >>66
一般的には「鎌倉幕府は国際情勢に対して無知だった」ということにされてるから
- 73 :
- >>63
これの過去スレって日本史板や軍板に大量にあるのだけど、
そこのコメ欄は「仮説」として持ち出された後で否定された主張ばかりなんだよ。
たとえば
>実際にはモンゴル軍も九州の内地にある程度進出したりと大混戦だった
「内地にある程度」進出って、もしかして太宰府決戦説とか言う妄説?何が根拠なのかさっぱり不明
>ちなみに元は、海を越えての侵略は日本を含め全て失敗してる。これ豆な。
服属を誓ったすえに騙し討ちで撤退したジャワと、返書すら拒否して10数万の敵を撃破した日本を同じレベルで把握する人がまた出たか
>さすがにモンゴル本隊が来てたら日本も終わりだったけどな。
>元寇の時に来たのはモンゴルに降伏した朝鮮軍であり、モンゴル軍本隊じゃない。
>モンゴルにしてみれば、日本なんて手に入ろうが入らまいがどっちでもよかった。
参考資料集にすら掲載されてる事実まで捏造した、新棄民説とも呼ぶべき珍説。
いったい何を根拠にこういう空想を繰り広げてるのか理解に苦しむ
こんな素人の思い込みサイトに批判されるのは、むしろ勲章でしかないよ
- 74 :
- >>70
>いい加減なものを他人の「見解」として押し付けて、それに「反論」しなければ認めたことにするという
こちらは、これがそちらの見解なのか ? と聞いているだけ。
違うなら違うと言って「正確な」自説を展開すればいいだけのこと。
回答拒否するならそれでいい。
「膺懲パフォーマンス説」(あるいは「膺懲威示行動説」)は完全崩壊したと宣言させてもらう。
これで「博多=大宰府」云々を議論する必要もなくなったな。
- 75 :
- 結局モンゴル側の戦場での勝利って離島の分しか無いの?
- 76 :
- 文永の対馬、壱岐に関しては勝利なんだが、
軍議が壱岐で行われたとすると、対馬南部は確保できてなかったのではという気もするな。
- 77 :
- 守備兵力がせいぜい百騎程度の離島を数万の大軍で襲った虐殺行為を「勝利」と呼ぶなどおこがましい。
- 78 :
- 日本から見たら壱岐対馬は前線の監視砦みたいなもんだから、
万単位の兵力相手に防衛は困難(例外も無いではないが)。
まあ、いったん取られても日本本体には影響が無いから、
また取り返せばいいだけのこと。
- 79 :
- いや、100騎弱とはいえ高度な技術を持つ弓箭の兵と、歩兵主体に移行している蒙古軍(実際は高麗軍?)にしてみたら、
おそらく千人隊が交替しないといけない程度の激戦なので、蒙古側の主観では「相当規模の戦闘のすえの勝利」なんだよ。
だから金方慶が−今までは連戦連勝だったのに−などと言う錯覚を起こす原因になってるのではないかな
- 80 :
- 『高麗史』でやたらと壱岐戦が詳しく書いてるのもそれが理由なんだろうな。
『元史』も具体的な戦場を挙げている洪茶丘伝なんかも、島の戦闘しか書いてないし。
対馬、壱岐の強力な日本軍を撃破したのに、博多にはもっと強力な日本軍が…。
そりゃあ、その日に逃げ出すわな。
- 81 :
- 撤退戦で、九州本土から直ちに追撃のかかった壱岐から対馬に退いて粘るという選択肢はなかったのだな。
- 82 :
- >>58 >>67
その系図なら福岡県史資料に載ってるよ。
[日田系圖]
八代
日田永基 彌次郎文永十一年蒙古襲來之時有大功遂戰死依之賜安岐郷内五箇名、
九代
日田永資 六郎左衛門尉弘安四年蒙古襲來之時有軍功依之賜筑前國三奈木莊、
- 83 :
- >>82
少し調べたところ、『筑後将士軍談』に同じ系図がありました。
序文に嘉永6年(1853)とあります。
--
日田氏
取豊西記妄誕甚多、今取其要
--
とあり、『豊西記』を元に著者(矢野一貞)が補訂したものでしょうか。
『豊西記』は未見ですが、日田永基が討ち死にしたと書いてあるのかもしれません。
参考:『筑後将士軍談』(大正15年,筑後遺籍刊行会,矢野一貞)
- 84 :
- >>69
蒙古軍が外征部隊を使い捨てにすることはあり得ない。
蒙古軍は抵抗する者に徹底的な懲罰を与える一方、侵略遠征の協力者には
略奪品や領土や奴隷などの旨味を与えることで求心力保ってるんだから。
外征部隊を使い捨てになんかしたら帝国の崩壊に直結する。
- 85 :
- そもそも冬戦争の時のロシア軍も使い捨て部隊じゃ無いだろ
- 86 :
- 何で元寇のモンゴル軍は本気じゃなかったみたいなトンデモが蔓延るんだろうね?
世界制服を国是とするモンゴル帝国から見れば、南宋征服がほぼ確実だった元寇時点で
日本以上に重要な攻撃目標なんかなかったのに。
元寇でモンゴル軍は帝国の威信をかけて日本に侵攻し、その上で圧倒的な日本軍の武力に
ボロ負けしたって事実がそんなに受け入れ難いかな?
- 87 :
- >>86
「世界中に進出したモンゴルが日本ごとき(ガチ偏見)に負けるはずがない」
↓
「そうだ!本気を出してなかったんだ」or「軍事勝利以外の目的があったんだ!」
だいたいこれ。早い話が「武士ごとき」に偉大なるモンゴルが負けたってのが嫌なだけ
日本史研究上は「武士の奮闘を評価してた戦前研究」を戦争アレルギーつきで過剰否定した反動が来てる
あと武士がモンゴル兵に劣ってるっていう解釈に使われる『八幡愚童訓』が重要視されるのは網野善彦が著書に「一番詳細な史料」って紹介したから
てか陸軍少将の竹内秀喜が「鳥飼潟で衝突できる兵力は一万が限界」って指摘してる。
お互いほぼ同数が衝突できるとすれば重装騎兵が主力の武士団と軽装歩兵主体のモンゴルじゃ前者が有利なのは当たり前
そういった当たり前の発想が出てこないくらい今の日本史研究者は軍事全般に疎いし、軽視してる。軍事は学者の触れることじゃないって感じに
- 88 :
- 元軍が装備錬度共に勝っていたと仮定したとしてもベトナム戦争の米軍みたいな例も有るしな
北ベトナム軍に対して装備も錬度も劣っていた所か圧倒的に上だったはずなのに撤退させられてるよね
ベトナムが元軍を撃退したのは実力って主張にはあんまり反論しないのにねえ
- 89 :
- と言うかベトナム戦争やアジアの独立戦争のゲリラ戦による旧宗主国の撤退に影響を受けた戦後学者が、
戦中から形成されていた神風説を強化してしまったのじゃないかと思ってる。
弘安の役でも終始積極的攻勢に出ていたのは日本軍だが、元寇防塁の役割が過度に強調されている
文永の役は日本軍が馬の足場に適した場所に陣を構えて堅実に防御するはずが、予想外に勝ってしまったんだよな。
だから敵をさんざんに蹴散らしたものの、とりあえず1日目は軍を纏めようと言うことになったのだろう
- 90 :
- 戦後学者とか完全に好き嫌いで勝ち負け決めてるからな。
モンゴル軍の第一次ベトナム侵攻なんて使者が帰国しなかったから急遽侵攻して、
ベトナム国王軍を撃破し、首都を占領破壊した上で投獄されてた使者を救出して帰還し、
その後ベトナムはモンゴルの属国化したのに何故かベトナム軍が勝ったことになってる。
一体どういう基準だよ?
- 91 :
- >>89
>弘安の役でも終始積極的攻勢に出ていたのは日本軍だが、元寇防塁の役割が過度に強調されている
それは思った。元寇防塁によって元軍の侵攻を防いだみたいなことが言われてるのが本当に謎。
日本軍は防塁で防戦したことなんて無いし、弘安の役におけるすべての戦いが日本側が攻勢なのに
全く逆の日本軍が防戦一方みたいな解釈がまかり通ってるのが謎すぎる。
- 92 :
- 日本軍が防戦一方の大ピンチ、そこに神風が吹いて一発大逆転
ってのが一般に信じられてるドラマストーリーだからな
- 93 :
- 面白いのは壱岐侵略時でも暴風雨に遭遇してる点だな
その時の元軍は大勢に影響なく九州まで侵攻してる
暴風雨で壊滅って説が誇張だと分かりそうなもの。
- 94 :
- 文永の役と弘安の役の神風についての説明ってセットで補強し合う関係なんだな。
普通なら、弘安の役で停泊中の艦隊が嵐に遭っても、兵員は陸地に避難してて無事だと
気付くじゃん。
それを避けるため、モンゴル軍は文永の役で圧倒的に勝ってたけど、夜になったら
一旦船に戻ったとか滅茶苦茶な嘘をつき続ける必要があるのか。。。
- 95 :
- 神風に守られた国であることは否定されたけど
風で勝ったって事になってる部分はそのまま残って思考停止したままなのが多いな
- 96 :
- >>90
マジで冗談じゃないよな
あと琉球やアイヌが元軍を撃退したとかぬかす嘘吐きにもうんざりする
- 97 :
- 陳朝は占領だけは免れたって感じだもんなぁ・・
属国にはなってるんだよね
まともに撃退となるとマムルーク朝と日本だけになるのかな?
- 98 :
- ハルジー朝は?
- 99 :
- Battle of Amroha
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Amroha
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